人 間 科 学 (VI)

人
間
科 学
(V
I
)
筒 井 健 雄
信州大学教育学部紀要第 2
7号
1972年 3月
4 咋1
間
14
人
筒 井
出A
(
V
I
)
f
健 雄
(
5
) 行動の感情的側面
凶感情的側面の記号的表示
自我の形成において感情の占める役割は極めて大きい。心理治療においてはクライエント
(来談者)が感情的に変化しなければ本当に変化したとはいえないのである。つまり,セラ
ピスト〈治療者〉との関係において,クライエントが感情的に向上することがないならば,
その治療は成功しないのである。
G
e
n
d
l
i
n,
E
.T
.(
19
2
6ー))は複雑多岐に発達した
アメリカの臨床心理学者ジエンドリン (
概念、の諸形式が感情の過程と相互に作用し合うような組織的な方法を発展させることが重要
だとのべている。彼は次のようにもいっている。
1もし我々がこれに失敗するならば,今日
自由と見えることも,後世の人々にとっては,単に崩壊と無秩序の一時期ということになっ
てしまいましょう。」と。
しかし,感情というものは,その意味がつかみにくいものである。感情について書かれた
論文を読んでみると,その現象を既に自明のものとして取り上げているが,説明された内容
には喰い足りなさを感じさせられ,もどかしさを覚えさせられるのである。感情は理性や認
識に較べてあいまいであり,つかみにくいものとされてしる。事実,児童心理学や教育心理
学の教科書においても感情の項は認識の項よりも比較的軽く扱かわれている。また,新しく
編集された教科書の中には感・情についての項目が全く見当らないものもあるのである。
考えてみるのに,従来の心理学においては行動の知的側面と感情的側面とを経験的に区分
しただけで、あって,その両者の関連を説明し切れなかったところに問題があると思われる。
1
9
6
8
年に編集された心理学 Eの感情の項においても知覚や思考との関連は充分に論じられて
いなし、。同書の情緒の項においては,次のように,その弱点を明らさまに告白している。「情
e
m
o
t
i
o
n
) は,われわれの日常経験に照らしてもなまなましい事実であり,
緒あるいは情動 (
また個体の生活にとっても重大な意義をもっている O それにもかかわらず,情緒は心理学に
おいてもっとも研究のおくれている部門の一つであって,いまなお系統的に記述することが
きわめて困難な段階にとどまっている」と O
行動の知的側面と感情的側面の関係について,ある程度綿密な考察をした学者の 1人にピ
anP
i
a
g
e
t(
1
8
9
6-))がし、る。彼はピエール・ジャネーやクラパレード,さらに
アジェ(Je
レグィンの立場を批判的に考察した上で,次のような立場を表明している。
ルギ一的側面と,構造的側面とをもってし、る。前者は,
1
行為は,エネ
感情であり,後者は認識であるの」
と
。
ピァジュは次のように,感情についてもう少し詳しく説明している O
1
2
信州!大学教育学部紀姿
N
o
.2
7
『感情は次にのべる 2つの種類から成っている。一つは,有機体内のエネルギーの統制活
動であり,これをジャネーは,
I
基本的感情活動」とよびクラパレードは
I
興味」とよん
だ。もう一つは,外的環境とのエネルギーの交易をコントロールする活動であって,あらゆ
, クルト・レヴィンのいわゆる「全体場面」に特有な「要
想像的「価値J
る種類の現実的,
求水準J
,E.S. ラッセルの「のぞましさの程 (
v
a
l
e
n
c
e
s
) などから,個人間の価値, 社会的
な諸価値にまでおよぶものが,それである』と。
ピァジェはこの立場の根底に,レヴィンなどのゲシュタルト心理学との決定的な相違点を
もっている。それは「感情活動にせよ,認識活動にせよ,決して現在の『場』だけに依存し
ているものではなく,活動する主体の前歴全部がそれに係わっているのだ。」と L寸 見 方 を
もっているところである O そして,この見方は行動の知的側面・感情的側面の発達を説明す
る上で重要な観点なのである。
しかし,これから説明しようとする我々の立場からみれば,ピァジェの観点もまだ不充分
な観点といわざるを得ない。第 1に,ピァジェの立場は認識には構造を,感情にはエネルギー
を対置させているので,構造という概念をあいまいなものにすると同時に認識におけるエネ
ルギー的要因を欠落させるという誤りを冒しているのである。第 2に開放系 (opensystem)
との関係を把握していないために感情の本質をとらえそこなっているといわざるを得ないの
である。しかし,第 2の点に関しては次のような配慮をしなければならない。つまりピァジ
ェにとって行動の感情的側面を研究することは主要なテーマではなかった。彼は認識的側面
の研究に,より精力を注いだのである。そして認識的側面においては「生活体の環境への適
a
s
s
i
m
i
l
a
t
i
o
n
) と調節 (accommodation) という概念を提唱
応」ということを重視し,同化 (
しているのである。したがって,彼が開放系としての人聞を意識しなかったとは到底考えら
れないのである。むしろ,認識への関心の方が感情への関心よりも強かったために,上述し
たような不充分な点をかかえこんでいると考えた方がよさそうである。
次に,我々の立場を説明しよう。説明の順序として,まず行動から考えてゆくことにしよ
う。そして,次に,行動の知的側面と感情的側面を説明することにしよう。
行動には広い意味の行動(広義の行動〉と狭い意味の行動(狭義の行動〕とが区別される。
0 @を boとおけば, @ と @
この区別を,図によって,明確に示すことにしよう。(第 1図)
とで形成される存在は b+1 である。
bo-
一一①ー①
、一一一一~一一一一一J
l
e
+
l
b
叶 S+1
r
1
+
,
1
l
1
+
1
~
o
b
j
l
1
+,1 1
n
(広義の行動〕
ム
{
h
nl, s
e
n
s
e
意識
1
+,1 1
n
, muscle……狭義の行動
第 1図
人聞の行動は対象との関係を前提としたものである。もしも対象が何もなくて,肢体だけ
を動かしている者がし、れば,その者は無駄に空気をかきまわしているだけであって,これは
筒井:人間科学
(
V
I
)
1
3
ゼ「ロ
普通 iIあがいている1/ともいわれる行動である。これは対象が O とし、う状態の特殊な行動と
規定しでもよい。言語が発達して観念的思考ができるようになった人が観念の中だけで、対象
と関係して,手足を意識的あるいは無意識的に動かす場合がある。この時,第 3者からみれ
ば,その人は無駄に手足を動かしているように見えるであろう。しかし彼は主体的には対象
とかかわって行動しているのである。同様のことは,夢を見ている人の身体の動きや,電話
をかけている人の身伝などについてもいうことができるのである。
+,1 n
z と記号化
行動は機能に属するものであり, しかも人を中心としたものであって ,1
することができる。これは広義の行動であって,ワトソン (Watson,]
.B
.(
1878-1958))
が提唱したような狭義の行動とは異なる。彼の主張したような狭義の行動は人 1,n
z,muscle
と記号化することができる。
このような記号化について,もう少し詳しく説明しよう。
さて,人間は動物である。動物とは動きまわるもの,つまり,運動器官を具えて,動きま
わる存在である。しかも,その存在の仕方は環境から白己の必要とするものを摂り入れて,
要素とし,自己の不要とするものを環虫へ排出すると Lづ形をとっている。この活動が停止
すれば,その人は存在しなくなるのである O つまり死ぬのである。このような存在のことを
開放系 (opens
y
s
t
e
m
) とし、う。開放系と対照的な存在は閉鎖系 (
c
l
o
s
e
ds
y
s
t
e
m
) である。
物質の離合集散は既に化学変化の段階においてもみられ,その度に新しい質を持った物質が
生成したり消滅したりしているのである。これらの化合力は開放系を成立させる力である。
乎ぶことはできない。開放系は一定の仕組に従って,
しかし,これらの物質はまだ開放系と l
自己と類似のものを作り出す存在である。
さて,動物は開放系としての存在を維持しつつ,運動しなければならない。そのためには
開放系としてのあり方が維持され,ますます発展するような形で、運動が行なわれる。そのよ
うに運動するために,外界を把握するための器官(外部感覚器官〉が備わり,また自己の姿
勢や内的な状態を把握するための器官(内部感覚器官〉が備わっている。さらに外部からの,
また,内部からの情報を総合して判断を下すための中枢器官(背髄,脳などの神経系統〉が
具わっている。中枢器官からの指令を受けて動く運動探官(筋肉など〉も備わっている。感
覚器官,中枢器官,運動器官の三者が,高度に分化しつつ統合されているところに人間の行
+
1で
動は成り立っているのである。これらを備えた人聞が対象との聞に形成する機能が 1
ある。この 1
+
1には人聞を中心とするものと,対象を中心とするものとがある。前者は 1
+
1
'
m で表わし,後者は 1
+
1,o
b
j で、表わす。 (mは man(人)の O
I
i
1,o
b
jば o
b
j
e
c
t(対象〉の 111告
である。) I
広義の行動」ば,この場合,1
+
1
'1
Jl で表わされる。
この「広義の行動 J C
f
+
1
>
m) を,感覚器官を中心にして考察すれば意識(人1> m, s
e
n
s
e
) が定義され,
'
1
'心にして考察すれば「狭義の行動J (
/
+
1,m,musde) が定義される
運動器官を
O
人間の精神機能が発達して感覚器官を直接的に使用しない観念作用が生じている場合にも,
その発達過程を考慮するならば,意識を
λ1, 111, sense と表わすことは全く問題がないの
である。このことは生ぎた人間だけにあてはまるものではない。いま仮に,感覚器官ド紙
器官,運動器官の 3者が統合されたロボットが製作されたとして,そのロボシトが環境との
1
4
信州大学教育学部紀要
No. 27
聞で人間的な行動を行なうならば,このロボソトは明らかに人間と同様の意識を持つことに
なるのである。
さて,次に「広義の行動 JCf+1, m) を別の角度から捉え直してみよう。
例えば,ここに一人の人がし、て,一匹の犬と向い合っているとする。その時,その人を中
心として起る行動 (1+,
1 m) は「この犬は白い犬だな」とか
却をもった犬だな」とし、う方向に属するものと
「鋭い t
Iこれは小さな犬だな」とか
Iこれはきれいな犬だな」とか「こ
れは可愛い犬だな」とか「これはおっかない犬だな j とL寸方向に属するものとに分けるこ
とができる。前者は対象に向うもの,あるいは対象に属するものであり,後者は人に向うも
の,あるいは人に属するものである。前者は「行動の知的側面Jであり,後者は「行動の感
情的側面」である。そこで,前者を 1+1,m,
o
b
j と表わし,後者を f+b m
.,n.
1 と表わす
ことにしよう。
bo --一一一一①ー①
一
/
、
一
一
一
一
、一
r
i
r
1
+
1,o
b
j
b
+1 S
+
1
l
/
+
1
l/+" m
(広義の行動〉
!L1m o
b
j
1
+
1,7
,
.
1
ln..
行問的側面
…
…
行
'
!
E
!
;
の
感
↑I
J的側面
約 2凶
第 1 図と5f~
2図を比較すれば明らかになることであるが,行動の知的側面にも感情的側面
にも意識面と行動(狭義の〉面が入り込んできている。つまり,行動(広義の〉の知的側面
も感情的側面も,意識であると共に行動(狭義の〉でもある。例えば,人聞は知的活動にお
いて,感覚し,知覚し,判断すると共に,行動(狭義の〉するのである。具体的な例をあげ
るなら,知能検査の迷路問題を解く時,人は迷路を眼で感覚し,手を動かして解く。この時,
感覚も行動〔狭義の〕も共に知的活動とみなされるのである。感情においても同様である。
嬉しい時,人は快感を覚え,笑ったり,とびはねたりする。また,いらだたしい時,不快感
を覚え,地団太踏んだりする。感覚も行動(狭義の〉もともに行動(広義の〉の感情的側Tfli
を構成するものなのである。
心理学者の中には感覚的感情と L、ぅ概念を唱えて,感情活動を感覚の働きに還元しようと
試みる人々がし、る。しかし,このような立場は学界において否定されつつある立場である。
本論の立場は,感情は意識面と行動面(狭義の〉を含むものと考えているので,やはり感覚
的感情と L、う概念は否定するのである。
(
B
) 感情的側面の主観性・個別性
1 m,o
b
j)か,主体指向的 (1+,
1 m,m)
知的側面と感情的側面の違いは対象指向的 (1+,
か,という点にある。このような性格の違いから,知的側面はより客観的・普遍的となり,
感情的側面はより主観的・個別的となり易い。
例えば,次のような図(第 3図〉をもとにして説明してみよう。
筒井:人間科学
1
5
(VI)
とか
これは大きい犬だ 11 等の,対象である犬に属する
1
1
の
θ
@1①;@
一匹の犬を何人かの人が見ている場合,“これは白い犬だ 11
面 (/+1> m, o
t
、j)は,それらの人々の聞で一致し易い。
殊に
H
この犬はあっちの犬より大き ,
¥11 というように比較
するものを提示する場合は,さらに一致が得られ易し、。し
かし,主体であるところの@に属する面 (/+1> m,m)は
一致が得られ難し、。時に
第 3図
これは可愛い犬だ 11 と皆がー
1
1
致する場合もあるが,大ていは一致しない場合が多い。例
えば,ある人は,その犬を可愛がるかと思えば,ある人は,同じ犬をこわがるとか,人によ
って様々な反応を示すのである。このように行動の知的側面 (f
山
m, o
b
j)は客観性,普ー
遍性を持ち易いが,感情的側面 (/+1> m,m) は主観性,個別性を持ち易いのである。
自分の気持を人前で表明することを恐れる人の場合,他の人からの承認の得られ易い事柄
のみ発言しようとする傾向がある。そのような人は知的側面
(
λ1
>
m, o
bj)のみを述べて
感情的側面 (/+1> m, m) については口を閉ざす傾向がある。一定の集団において,成員
の自由な気持の表明を抑圧する傾向のある場合は,成員の感情面の発達が遅滞する(こだわ
る
。
〉
個人の感じ方は未熟なもの,いけないもの,口に出すことをはばかるものと見なされ
て,抑圧されるのである。このような場合,その個人は自分の感じ方に対する自信を失な
い,その結果として,対象に向かう方向の行動 U+1
> m, o
b
j)も積極的な,向っていく姿
勢(白発的な態度〉を失なってしまう。つまり,彼の持つ知的側面 U+1
,m,o
b
j)は与え
られたもの,押しつけられたものになってしまうのである。このような場合には与えられた
知識もよそよそしいものと感じられる。しかも,そのような知識の量が増せば増すほど重苦
しい不快感を増すことになるのである。
このようにして,感情的側面 (/+1> m,m) の発達を伴なわない場合は知的側面 (
/
+
1,
m,o
b
j)も次第に発達がそこなわれてゆくことになるのである。
(
ω
気分
。
.第 3図の場合とは逆に,第 4図においては 1人の人が多数の対象に向い合う場合を考えて
みよう。
1 人の人が対象に向う時の行動の仕方 (j~1>
m, ob
j
)
を全て調べれば,その人の知的側面の達成度を測定するこ
⑪ー①ー⑪
とができる。しかし現実には全ての対象について検討する
⑪
それを処理する程度と方法を調べることによって,知的側
第 4図
ことは不可能である。そのため,一定量の課題を設定し,
面を測定しているのである。
他方,多数の対象に向う時のその人の主体的な行動の仕
方 (/+1> m, m) を抽象すれば,その人がそれらの対象に対して感じている一般的な感情
が浮び上ってくるのである。その対象の範囲が広く,持続時間も長ければ,それは気分と呼
ばれる。快活な気分の時には,植物のような感情を持たないものに対しても f(
花も〉笑って
1
6
信州大学教育学部紀要
No. 2
7
いる」ように感じ,悲しい気分の時には「星も泣いている」ように見えるのである。
倒開放系と感情的側面
行動の感情的側面については開放系としての人聞のあり方が深い関連を持つことは先にも
述べた。
開放系が維持され,発展する方向の刺激(対象〉はその系(個体〉の活動を順調にし,ま
すます活発にするのである。このような刺激(対象〉の方へ,その系(個体〉はますます近
づこうとする。また,このような刺激(対象〉に対して,その個体は快と L、う感覚を持つの
である。
他方,開放系の活動を不活発にし,破壊する方向の刺激(対象)もある。そのような刺激
(対象〉から開放系(個体〉は遠去かろうとする。この時,そのような刺激(対象〉に対し
て,その個体は不快という感覚を持つのである。もしも,そのような刺激(対象〉の力が圧
倒的になればその開放系(個体〉は閉鎖系となってしまうのである。つまり,死んでしまう
のである。
開放系にとっての刺激(対象〉の関係によって,快から不快に到る様々の感覚と反応の分
化が生じるのである。したがって,快と不快の中間にあって,快でも不快でもないような感
覚と反応があり得るのである。この感情を無記感情あるいは中性感情と呼んでいる。しかし,
感情を快と不快にはっきり分けようとする観点からすれば,無記感情(中性感情〉の存在を
疑問視する向きもあるのである。
(
E
) 感情的側面の発達
感情的側面はどのように発達してゆくものであろうか。本論においては精神機能の発達と
1
)無条件反射的感情, (
2
)条件反射的感情, (
3
)人間的レベル 0)
関連させて考察するために, (
的感情, (
4
)人間的レベル (
I
I
)的感情, (
5
)人間的レベノレ (
l
l
D的感情,という区分を予め設定し
て,それを説明する。そして更にどのような過程を延って感情的に発達してゆくかを考察し
ようと思う。
(
a
) 感情の区分
まず,第 1の無条件反射的感情というのは従来,感覚的感情と呼ばれてきたものと似てい
るのである。新生児が,何かまずいものを口にすると顔をしかめる。これは無条件反射的感
情である。蚊や蚤まで含めて,全ての動物にこの感情は存在すると考えられる。植物には,
この感情すら存在しないと,ここでは考えておく。
第 2の条件反射的感情は無条件反射的感情を基礎として成立してくる感情であって,空腹
で泣いていた乳児が母親の姿を見たり,その足音がしただけで泣き止んだり,にこにこし出
すような段階である。これは犬や猫においても成立する段階の感情である。
第 3 の段階は 2 才 ~4 才頃の第 1 自我形成期において特徴的な感情である。この時期は通
常第 1反抗期と呼ばれる。何故第 1反抗期と呼ばれるかといえば,子どもが自分の欲求を表
現する意欲を持ち始めると,親と対立するようになるからである。親の立場からみれば,こ
れは反抗と見えるのである。この時期は人が言語を獲得し,動物の段階と決定的な別れを告
げる時期である。それまで鳩のようにつぶらな瞳をしていた子どもたちは,人間の子どもら
筒井:人間科学
(
V
I
)
1
7
しい感情を備え始める。この時期はまた自我感情の覚醒する時期ともいわれている。
この段階までの子ども達の感情は泣く(悲しみ),笑う(喜び),恐がる(恐怖),怒る(怒
り
)
,
など心理的及び身体的変化を顕著に示すのを特徴とする。この特徴は情動または情緒
ともいわれる。
情動または情緒は,平凡社の心理学事典によれば「自己の身体的または心理的な存在(諸
欲求・体面・面白・自尊心〉がおびやかされたと感じたとき(ある場合には,促進されたと
感じたとき〉に急激に起る心理的及び身体的な激動,混乱状態をし、う。
したがって情動は, 1
) 環境刺激の知覚(不明瞭で瞬間的な知覚であることもある),おそ
れに伴なう強い不快感,または快感,
うとかする運動傾向,
3
) 刺激を避けて逃げようとか,努力して刺激と戦お
4
) 心臓や血管・呼吸・消化機能・内分泌腺など全身の激しい生理的
変化の 4要因をふくむ。」とある。
幼児は,ここに示されたような情動〔情緒〉の爆発を日常的に行なっているものであるが,
次第に親などの駿により,過度の表出をしなくなる。つまり小学生ぐらいになれば,次第に
大人しくなってゆくのである。これを大脳生理学的にいえば
統制されるようになる。」のである。このようにして,
1
間脳・中脳が大脳によって
感情の興奮が起っても,我慢して,
行動にでることを抑制して,その場をすませることもあれば,義慣を感じて立つ場合もでて
くるのである。
I
T
) 的感情へと変化するのである。この段
こうなると第 4の段階,つまり人間的レベル C
階へ変化する過渡期は 12才 ~14才頃の第 2 自我形成期(第 2 反抗期〉である。第 2 自我形成
期において,人は自己の内面的な世界を周囲の環境と異なる独自なものとして意識し始める。
これを自我意識の覚醒と L、ぅ。人はこの時期から,意識的な自尊心を持ち,また劣等感,優
越感を意識するようになるのである。青年の感情は不安定で動揺し易く,過敏で,過激化し
易い傾向を持つといわれる。つまり青年は些細なことにも,すぐにカッとなり易く,怒った
り悲しんだり悩んだりし易いのである。論理が飛躍し易く,行動が過激化し易く,ロマシチ
ックな愛情に憧れ,自分が相手にどう思われているかについて千々に心を砕くのである。
この不安定な時期が安定化することによって,社会的に承認された形における感情表出を
するようになる。これは職業生活を始めることによって,社会的に責任を持ち,また,経済
的に依存から独立へと変化することによって起るのである。しかし,一般に,この安定は人格
の表層部において起っているものであって,深層部においては各個人に独自な不安定さを宿
している。この問題を掘り起し,解決することによコて,人は第 5の段階へと高まるのである。
青年期における自己への沈潜と,真理を追求し,人間性の真のあり方に徹しようとする努
力が続けられると,深層部における不安定さを意識化する段階が現われる。これが第 5の人
間的レベノレ
c
m
)的感情の段階の始まりである。これには感情状態の不安定な過渡期と安定
期とがある。過渡期は自己の罪深さ,業の深さに慎悩する段階である。ある宗教に帰依して
信仰に精を出しでも
一向に救われなし、 11 11自分が潔くならな ¥
,
,
1
/ と感ずる時期である。
μ
自
1
1
分が汚し、/
1 と感ずるばかりでなく,存在のあり方そのものが,牢獄のように厭わしく感ずる
時期である。この不安定な過渡期の後で安定期は激的な変化と共に現われるのである。この
1
8
信州大学教育学部紀要
N
o
.2
7
変化には人間の死の問題が係わっているのである。そして,この変化の瞬間には吉本伊信氏
も述べているように
w
そうだ。今救われたんだ.ノもう,いつ死んでもいい,満足だ。目的
は果せた。この世に生まれた最終・最大の目的を果たすことができたノ』と L、う感じが伴う
ものなのである。そして,それ以後は時に応じて,自由な感情を持つことができるのである。
泣いてもよし,笑ってもよし,苦しむのがよし,悩むのがよし,ありのままのものがそのま
ま全てよしという感情状態なのである。これが安定期の感情状態である。
(
T
) 感情の発達過程
無条件反射的感情から条件反射的感情への変化については日常の生活経験が強力な役割を
果すのである。乳児は親から食事と排惜の世話をされ,生活する中で次第に身体の各器官が
整備される,それと共に無条件反射的感情の種類が増えてゆくが,同時に条件反射的感情へ
と高まってもゆくのである。
G
①/
例えば,第 5図のようなQ;)(乳児),
で構成された存在が成立すると,この存在が次第に乳児の
中に内面化してゆくのである。乳児は最初,口の中にミル
\~ ( 7G-?1ff)
第 5図
ミルク,光や音,
クが入れられるまで泣き止もうとしない。そこには無条件
反射的感情があるのである。そして乳首を口に含ませられ
て,はじめて口を閉じ,乳を吸い始める。真赤な顔をして
眼をつむり身体中を緊張させて泣いていたのが,たちまち身体が柔らかくなり,眼を聞き,
顔色が平静に戻るのである。このような経験が何回か重なる中に,乳児はミルクと関係した
光や音を認知すると,
ミルクが口に入らない中から、泣き止むようになってくる。例えば母親
の声や足音の近づくのをきき,眼をあけてミルクピン(あるいは乳房〉を見るにつれて,そ
れはミルクが口に入り,お腹に入った状態と重なるのである。口に唾液が湧き,胃に胃液が
あふれ,
ミルクが入らない前から入ったと同じ状態になる。そのようにして乳児はミルクを
口にしない時から,感情状態の変化を経験するのである。最初内臓感覚とだけ関係していた
感情状態は,視覚や聴覚との関連のもとに働く状態へと変化するのである。つまり,行動の
感情的側面 (
/
+
1
,
m, m) に関係していたのは感覚では最初内臓感覚や深部感覚だけであ
ったものが,個体が生活経験を通して関係の深い対象を内固化するに従い,視覚や聴覚も感
情的側面を形成するものとして参加するのである。
この段階では,条件反射が人間関係(主として親との〉に支えられて発達し,同時に乳児の
対人的な反応がより大きな役割を占めるようになってゆくのである。乳児は,始め,親の働
きかけに対して情動的な意味での関心を示さなし、。その段階では親は一方的に子どもに関心
を向けているのである。ところが生後 2か月目になると親が子どもをあやすと,それに応じ
て笑うようになる
f
込して親の動きを眼で、追うようになる。親から語りかけられることを喜
び,親に見ていてもらうことを求める。生後 6カ月頃になると,家族と家族以外の人々とを
区別するようになる。これが「人見知り」といわれる現象である。この「人見知り」が起る
理由を「人間関係の網の目が出来始めた」という点に見出している人もある。乳児はその頃
になると,自分の家族が自分にとっての重要な意味をもっていることを体得するというので
筒井:人間科学 (
VI)
1
9
ある。その重要な人間関係の網の目は見知らぬ人が近づいてくることによって均衡を乱され
る。そのために乳児は緊張し,その人を避けようとすることによって均衡をとり戻そうとす
るのだというのである。この頃になると,乳を求めるために泣くことを使うようになる。つ
まり人間関係を意識した感1
'
育の段階へと移ってゆくのである。
このようにして人間関係の基礎の上に言語が発達してゆくのである。第 6図はその段階の
感情を考察するための図で、ある。この感情段階は第 3の人間的レベル
CI)的感情の段階で
ある。この図において@は幼児,@は親とする。幼児は人
間の音声が行動の場の中で一定の役割を持っていることを
体得するようになる。第 6図 的 存 在 が @ (幼児〉の中に確
立すると,この音声は彼にとって言語となるのである。幼
児は川、い子だね1/と言葉によって賛められると喜び,ヘ、
けません1/と言って叱られるとしょんぼりしたり泣き喚い
て怒ったりするようになるのである。
第 6図
言葉によって生活空間や時聞が広がり,それに応じた感
情が現われるのである。例えば"田舎のおじいちゃんの所
に行こう1/というと喜んではしゃいでまわる。また"お誕生日にこの玩具買ってあげるから
ねH というと,慣れた子はそれまで待てるようになる。
言葉がこのような感情を引き起すようになるには親子の聞の信頼関係が成立していなけれ
ばならなし、。既に乳児の時からお腹が空いて泣けば,母親のあやす言葉の後で,着実にお乳
が与えられるとしづ関係が積み重ねられて,子どもは親を信頼するようになってくる。この
信頼関係がない場合には,言葉でもって約束されることは""iた,だまされるぞ"という感
情を引き起すことになる。そのような場合にはヘ、ますぐでなければ,
,¥ 、やだ"といって駄
々をこねるとか, うらめしそうな顔をして黙り込むとかするのである。
信頼関係がある場合には,子どもの心は広がるのであるが,それがない場合には子どもの
心は不満に満ちあふれ,親によって代表される社会(外界〉に対して緊張関係をもつのであ
る。しかし,そうかといって子どもの欲求が全て満されていればよいということにはならな
L、。自分の欲求が満されないということは,世の中には当然のこととして,しばしば起るの
である。その不満に耐えてゆく力を養うことは人格形成上重要な事柄である。ただ,子ども
が耐え難いのは,親や先生から差別されることである。子ども同土の聞を親が差別して一方
を偏愛していると感じた場合に子どもの心は傷つくのである。このことを拡大して考察する
ならば,一国の経済水準が他国に較べて総体的に低いということは,そのこと自体が何も国
民の不幸や不満の種とはならないのである。むしろ,国民の聞に所得の隔差が生じ,待遇の
差が生ずる場合に人々の不幸や不満は増大するのである。身近な話去して,別荘の管理人の
子どもに非行が多発する傾向があるといわれるのは,その理由がこのような所にあるのであ
る
。
次に,第 4の人間的レベル(]I)的感情に向つての成長において,どのような形をとって
感情が発達し,変化してゆくかを考察することにしよう。
2
0
信州大学教育学部紀要
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7
最初に,感情の発達を伴なわなし・で知識のみが増大してゆく場合を考察してみよう。つま
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. のいうのと逆に「概念の諸形式が感情の過程と相互に作用し合わないよ
うな場合」を考察することにしよう。
これには受験勉強をとり上げてみるのが一番よい方法である。受験勉強においては,自分
の興味や関心とは無関係に試験に合格するためという目的が優先される。試験に合格するた
めには興味の湧かなし、嫌 L、な教科に対しても際限のない努力を注がなければならない。自分
の興味を満たすために飽きるまで一つのことをやり続けるということは拒否されるのである。
生徒は時間と場所と事柄とを外からきめられて,それに従がわざるを得ないのである。一定
の教科に対して興味が湧き始めたと感じた時にはそれを停止させられて,次の教科へと入っ
てゆかなくてはならぬのである。小学校時代のように各教科の差がまだ未分化であり,子ど
もの興味もそれほど特殊化していない時期においては比較的問題がないが,仁ド学・高校のよ
うに教科が分化し,子どもの興味が特殊化する時期においては今日行なわれているような教
科別学習や受験による強制は感情の発達に対して大いに問題を持つのである。つまり,対象
との関係が内面化し,血肉化してゆくのではなくて,単なる知識として記憶されるにすぎな
いのである。そしてそれらの知識は感情的には嫌々ながら摂り入れられるにすぎないのであ
る
。
しかも受験は選別であり,協同作業ではなくて,孤独な競争である。感情の発達は人間関
係を前提としており,個の主張と他者との協同を通じてなされるものである。受験勉強はこ
のような感情の発達条件を全く充足していないのである。
これに反して,感情過程と相互に作用し合いながら認識を高めてゆく方法が我国において
開発されつつある。それは仮説実験授業と呼ばれる方法である。
その方法を簡単:こ紹介すると次のようである。まず,この方法においては通常の教科書は
使用されない。各時間毎に授業書と呼ばれる一枚の印刷された紙が生徒に手渡される。それ
には一定の図と説明と選択肢とが載せられている。例えば,小学校 4年生を対象として「も
のと重さ」としづ題で,次のような授業書が書かれている。
図としては,体重計の上に
(イ)両足で立った子ども
(め片足で立った子ども
で踏んばった子ども,が描かれている。そして選択肢としては
い
付が一番重い
げ)が一番重い
付しゃがん
(ロ)が一帯市
付皆同じ重さである。などが記されている。子ども達はこれを与えられ
て,各自が最も正しいと思うものを一つ選択するのである。教師はその数を調べて黒板に明
記し,次に子ども達に討論させる。子ども達は夢中になってそれぞれの自説を主張し,他説
を支持する者を説得しようと試みるのである。子ども達はそれぞれあらん限りの知識を傾け
て討論し合うのである。支持者の多い説に立つ者は多数派としての安心感に支えられて,自
説を主張し,他説に釈明を求めるのである。小数派は不安におののきながらも自己の正しい
と信ずるところを主張する。この議論に子ども達は夢中になって延々 2時間にも及ぶような
討論を繰り展げるというのである。かくて,教師は頃あいを見計って,それぞれの説の変更
者があるかないかを確かめる。変更者がある場合,それの数を確かめて,表を書き直すので
ある。この討論の問中,発言したくないものは発言しないでいることを許される。一人で多
筒井:人間科学 (
V
I
)
21
くの発言をすることも勿論許されるのである。手をあげたいのに教師から指名されて嫌々な
がら立上るということはしなくて済むのである。また発言したくて堪らないのに手を上げる
勇気のない者はそのまま取り残されると L、う感情を味わうのである。けれども,発言しない
者も,その教室の雰囲気の中で,討論の展開に参加し,気持を集中させているのである。
最後の表が確認された後で実際に実験が行なわれる。子ども達が固唾をのんで見守る中で
実験は行なわれ,自説の通った側は喚呼の声を上げる。敗れた側は無念の涙をのみながらも
実験と L、う厳粛な事実を受け入れるのである。
さて,この授業過程を感情の側面から考察してみよう。
まず,それぞれの子どもは自分の認識段階に応じて,与えられた仮説の中から,一番確か
と思うものを選択する。その選択においてはかなり自信のある者もあり,他の子の方をチラ
チラ見ながら決定する者もあるであろう。しかし,とにかく自分の判断によって選択を行な
うのである。
次に討論を行なうのであるが,自分の選択について完全な自信を持っている者は少ない。
一つの仮説(予想〉を選んだ者が自分一人だとわかった時は心細くなってしまうのである。
しかし,この仮説実験授業を何回かやった子ども達は自分の考えを主張してゆく勇気を持つ
ようになるのである。
I
あの人と仲良しだから,あの人の意見にあわせちゃえ.ノ」というこ
とは絶対ないというのである。
第 3図について説明する時に考察した如く
I自分の気持を人前で表明するのを恐れる人
の場合,感情面の発達が遅滞する」のである。感情の発達にとって重要な第 1の原則は特定
の事物に対する各自の感情を自由に表明できるということである。集団の中にそれを許す雰
囲気があり,しかも奨励する雰囲気のあることが重要で、ある。
仮説実験授業においても,討論をする段階では子ども達は自分の選択した仮説を主張して
様々な意見をのベる。その意見はその課題に対する自分の意見である。つまり行動の知的側
面である。自分の意見を相手に対して述べる場合はその知的側面が感情的側面に変化するの
である。この関係を第 7図によって説明しよう。
第 7図において,@も@も対象である課題に対してある
方法(ある仮説を選ぶこと〉でかかわるのである。その時,
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@も@も行動の知的側面 (
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るのである。しかしながら,その@と@が討論し合う場合
には,課題の仮説 1を 選 ん だ @ (@')が,仮説 2を選ん
だ @(@')と関係するわけである。@'にとって@'は対象
である。@'にとっても@'は対象である。@'にとって自説
λ ,1 m,m) と
を主張することは,行動の感情的側面 (
なるのである。この場合 m は@'で、ある。
このように見てくれば,仮説実験授業が感情的側面の発
第 7図
る
。
達を充分にとり入れた授業であることがよくわかるのであ
2
2
信州大学教育学部紀要
N
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7
感情的側面の発達の第 2の原則は自分の感情や他人の感情の統合をはかる,ということで
ある。例えば,一匹の犬に対して,これを恐がる人もいれば,これを可愛がる人もいる。恐
がる人にしても,可愛がる人にしても,それぞれ他の人の感じ方を知り,それを統合するな
らば感情的に豊かな人格を形成することができるのである。
仮説実験授業においては,他の人の意見をきき合うということが,重要である。それを通
して,子ども達は他の子の認識の仕方や感情を知るのである。
勿論,仮説実験授業は感情を発達させるためにやる授業ではない。それは認識を高めるた
めに工夫されたものである。その故に実験の占める位置は大きく,それが子どもの上に果す
役割は重要である。実験によって仮説の支持された子どもは喚声をあげて喜び,はずれた子
どもは口惜しがりつつも,両者ともに実験による事実を認めて自然界についての認識を高め
るのである。感情的側面が加わることによって授業が生き生きとして,理科への興味と関心
を増し,もっとやりたいという意欲を高めるのである。
仮説実験授業は子どもの性格を大きく変えるといわれている。
Iこの授業を実施するよう
になってから,子どもたちは,クラスの友だちの話をよくきくようになり,ふだんできの悪
い子どもをばかにしたりしなくなった。そして自分の考えをどんどんホーム・ルームの時間
や算数・国語・社会の時間などにも積極的に発言するようになり,クラスがまとまってき
た」という。
感情の発達は自我の成長と深 L、かかわりをもっている。自我の成長は人間性の広がりであ
る。人間性の広がりは狭い自我を主張し,他の狭い自我に耳を傾け,より広い自我へと成長
することである。仮説実験授業はこの特徴をもっているのである。
一般に感情や人間性を成長させる方法としては絵画や音楽など,芸術が考えられる。芸術
の世界は創造の世界であって,このようにやらなければならないという型は存在しなし、。各
人が好きなように芸術の世界を形成すればよいのである。その創造活動において第ーの基準
となるのは彼が何を創造しようと欲するかということである。自分の能力に対する不信感を
もったままで,他人を模倣しようとすることは創造者としての資格を欠くのである。自分の
実感に対して忠実であり,自分の気持で動くということ,これが基本的な第 1条件である。
しかも芸術の世界においては,優れた作品があり,また優れた創造者がし、る。それらと触れ
ることが自分の感じ方を成長させ,表現能力を高めてゆくことになるのである。つまり先人
の実感との対決と統合である。これが第 2の条件である。
仮説実験授業は,芸術における創造能力の発達と似た形を備えている。まず,自分の実感
に忠実で、あろうとする気持を養うことである。第 2にどんな考え方,感じ方も馬鹿にしない
でよく聴こうとする気持を養うことである。第 3に先人の達成した成果をとり入れて対象を
把握しようとすることである。仮説実験授業ならば実験を受け入れることであり,芸術なら
ば先人の作品に触れその思想や技法を学びとることである。
I
I
)的感情(第 4感情と略)から第 5の人間的レベル(皿〉的感情
第 4の人間的レベル C
(
第 5感情と略〉へどのような過程を延って成長するかを次に考察してみよう。
第 4感情においては,人は自己の成長への楽天的な自信に満ちあふれでおり,滅亡する者
2
3
筒井:人間科学(羽)
としての自己を基本的に受け入れていない。ところが第 5感情においては滅亡する自己を基
本的に受け入れており,それ故に
こだわりのない感情状態"にあるのである。
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1
第 4感情においては人は進取の気性にあふれ,何らかの意味での自信を持ち,攻撃的であ
る。その逆に,自信を喪失し,被害的な気持を持ち,世をすね,世を果なみ,自閉的になる
ことがある。
自分は大したものだ 1/ とL、う気持(感情〉と,その逆の
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自分ほど駄目な奴
はな ~,I/ とし、う気持(感情〉がこの段階の特徴である。つまり自我意識との関連における感
情の段階である。
この感情は他者との相対的な比較を基準としており,現実的な側面と同時に不安定さを持
っている。つまり,現実の中で確かめられて,得意になることや失望落胆することがあるし
能力と知性の発達と共にますます自己の限界を知り不安定さを増してゆくと L、う性質をもっ
ているのである。
ど、んなに能力の優れた者も限界を持ち,それを意識せざるを得ないのである。つまり,そ
うL、う可能性を内在させているのである。例えば,能力が高ければ比較的狭い地域では第一
人者となることもできるであろう。しかし,彼の活動能力の高さがより広い領域に進出する
時,彼は自分よりさらに能力の高い者を見出すのである。しかも生物のあり方として,彼の
能力は次第に峠を越えて衰えてゆく。そして,自分の後から来たものが,自分を乗り越えて
ゆくのである o このような現実的な限界の自覚と共に,彼の知的能力が高ければ,彼は極め
て広大な見通しを持つのである。それと共に彼はますます自己の小ささを認識せざるを得な
いのである。しかも,知的能力によって自己の死を先取りすることにより,決定的な敗北を
味わうのである。その上,信仰の深さによって救われようとしても,彼はまだ第 4感情の段
階にあるので信仰の程度自体を他者と競うことになってしまう。これは信仰の相対化であり,
知的能力の高い者は,そのような信仰をする自分の堕落を自覚せざるを得ないのである。
第 5感情の段階は自己の死を実感的に把握すると共に,他者のあり方を自分のあり方の如
く捉え直した者の持つ感情段階である。キリスト教において,十字架が象徴とされるのは,
自己の死を日毎 jこ自覚せよということであり,復活して他者と共に生きよということである。
他者は他者であって,他者ではないのである。それを把握するためには自己において死んで
いなければならないのである。
キリストはパリサイ人や律法学者を非難している。それは彼らが信仰の深さをもって人の
上に立とうとしていたからである。彼らは自己に死んでいなかったからである。そのことが
彼ら自身を苦しめ,他の人をも苦しめて来たので、あった。
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あなたがた律法学者は,わさ わ
ε
いである。知識のかぎを取りあげて,自分がはいらないばかりか,はいろうとする人たちを
1,5
2
) ノ之リサイ人や律法学者はまだ第 4感情の段階にあったのであ
妨げてきた。 J(ノレカ 1
る
。
内観法においても,吉本伊信氏がそれを科学的に改革される前は「今,死んだら魂はどこ
へ行くのか?と真剣に無常を取りつめて身・命・財の 3つを投げ捨てる思いで反省してくだ
さい。」 といわれ「身調ぺ」をしたらしい。内観法にはこのような地獄・極楽思想が基本に
あるけれども,死と対決する姿勢のあることは確かである。内観法もやはり,第 4感情の段
信州大学教育学部紀要
2
4
No. 2
7
階から第 5感情の段階へと橋渡しをする一つの方法であるということができる。ただし,そ
の背景となる思想によって,キリスト教的な人格と内観法的な人格とには違いがあるようで
ある。
人間科学においては,来世とか死後の世界は否定している。したがって,神や仏が外在的
に存在するとも考えない。それゆえ,キリストを神の子として崇めることもしなければ,親
鷺を仏の子として敬うこともしない。しかし,第 4感情の段階から第 5感情の段階へと成長
する人間の姿を身をもって示した者として,キリストや親繁から学ばなければならないと考
えるのである。彼らの姿にみられるこの成長は人間の質的変化であり,一種の変身である。
この変身を遂げることが,今日ほど全ての人々にとって緊急の課題となっている時代はない
とも考えられるのである。この変身を遂げる方法を理論的・実践的に開発することが人間科
学の重要な課題である。
参考文献および註
(
1
) ユージン・ジエンドリン著村瀬孝雄訳体験過程と心理療法牧書庖
(
2
) 八木更編心理学 E 培風館
(
3
) I
司上
1
9
6
6 (日本版への序文〉
1
9
6
8
83ページ
(
'
1
) ジ ャ ン ・ ピ ア ジ ェ 著 話 会 野 放 訳 知 能 の 心 耳 伴 み す ず 書 房 師 約 1崩
I
j 1969 第 4昂
I
j
(
5
) 同上
1
5ベージ
(
6
) 向上
1
4ベージ
(
7
) (
2
)と同じ
(
8
) 吉 本 伊 信 内 観40年 春 秋 社
(
9
) エリコニン著駒林邦男訳
1
9
6
5,9
9ページ
ソビ‘エト児童心理学明治図書
(l(~板倉聖宣著未来の科学教育国土社
叫向上
2
3
1ページ
同向上
1
9
7ページ
1966
初版,
1
9
6
9,90-91ベージ
1969 再版
8
)と同じ 55ページ
帥 (
(昭和47年 6月30日受理〉
筒井:人間科学 (
V
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)
25
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