Title Author(s) Citation Issue Date URL 周樹人の役人生活 - 通俗敎育研究會との關係 - 竹内, 實 東方學報 (1987), 59: 217-321 1987-03-31 http://dx.doi.org/10.14989/66668 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 一 小 周 冒 樹 通 俗 教 育 研 究 食 と の 関 係- 竹 内 賓 二五二貢 二九二五 禁止庭分 ・推薦された小詮- -・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ -・ ・ ・ ・ ---・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ -二六七頁 二七六貫 分科合 の審議と周樹人 七 六 五 四 周 樹 人 の 役 人 生 活 - 人と通俗教育研究合 コ T T 真 裏 蛮 周樹 人 の役 人生 活 通俗教育研究骨 における活動があ る。 と いう立場 であ った のであ る。中華民国 の中央官廉 に勤務Lt教育行政 の 1端を責務的 にも授賞した' そ の公務 の 1つに'. 一九 二 一 年 二月 に教育部 に就職' 一九 二六年 八月 に辞職、あしかけ十 五年間'かれ は日本 におきなおせば文部省 の役 人 では依然とし て周樹 人 であ った。肩書 は教育部牡骨教育 司第 一科長 であ る。 社食批評的な小説や随想などを登表' そのさ いの筆名 の 1つ 「魯迅」が世間 で通用す るよう にな ったも のであ るが'部内 文学者とし て知られる 「魯迅」 の本名 は周樹 人 であ って'かれは長 い期間 にわた って教育部 に勤務し ていた。 この間 に' 小 通俗教育研究合 の成立 磨 蓋世凱 ・湯化龍 ・張 1 三 二 東 方 学 報 三 八 通俗教育 研究骨 は教育部 の外郭 圏鰭 で'教育部 に戯 策Lt教育部 が これを賓施す ると いう 関係 にあ ったが,官 員はじ っ ( -) さ いは教育 部 の部 員が多 か った。本 稿は こ の骨 の活動 と 周樹 人がど のよう に これ に閲興 したかを みようとす るも のであ る。 通俗教育 研究 骨 は 二度'拳 足し て いる。第 1次 は 1九 三 年 '第 二次 は 1九 1五年 であ る。 第 1次 は成立後 三, 四年 で 有名 無茸 と化し'第 二次 は 1九 二三年ご ろま で'あ しか け九年 にわた って存在 し たO とく にめだ った成 果を あげ た のは 1 九 1五 ⊥ 七年 の三年 間 で 1 こ の間 に世 間 に出版 され流布 し ている小 璽 ハ百 三十 線篇 の小 説' および数十 種類 の新聞 警 ・相 ( e ・・ ) を 審査した。 まだ上演中 の演劇' お よび脚本 に つい ても 審査'改編を お こな った。 小 説も演劇も' これを享受す る民衆から いえば娯楽 であ ったが'教育部 と いう役所から いえば 敢脅教育 の 一環 であ った。 教育部 のねら いは配合教育 の普 及 にあ ったが' た ん に普 及す ると いう より は' 民間 の活勤を統 制 し 干渉す ると いう 一面 があ った。 と- に第 二次 は こ の傾向 が いち ぢ るし い。 周樹 人は' こ の第 二次 の通俗 教育 研究 骨と関係 が密接 であ った。 た ん に官 員であ った にとど まらず' 一九 1五年 九月 の 成立 嘗初から小説分科骨 ( 原文 は 「小説 股」) の主任 であ り' これ は翌年 二月 に解 任す るま で績 いた。 この間'約 年年 で ( -) あ る。 同年十 月 には改 め て同分 科骨 の小 説審査幹事 に任命 された。 こ の小説審査幹事 に任命 され る のと前後 し て'教育 部 は小 説 の優良 なも のの推薦を 公表す るよう にな り' これ は約 1年 っつ いた。 推薦 は六 同 にわ た るが'第 六回を除き'第 一同から第 五同ま で'す べて周樹 人が開興し ていたと想 像され る。 ど の程度 の閲輿 であ ったか' これを考 察す る のが本 稿 の 1つの意園 であ る。 推薦 にあ た って公表 され た' 通俗 教育 研究骨 の小 説審査 の報告書 (いわ ゆる批語) のあ るも のは'周樹 人が直接執筆 したと考 えられ る. これら の報告書 は現在 ま での ﹃魯 迅全集﹄ には収録 され ていな いが'慎 重 に考 慮し て数 篇 は収録 さ れ る べきも のであ ろ ぅ。あ る いは嘗時' かれが おかれ ていた立場 から考 え ると'さ ら に多- のも の ( ただし'第六 回 は除外す る)が'か れ の 賢陀 州 的 扱 州 約 混 姻 射 矧 紺 紺 捌 艶 約 m m 悶 剛 瀞 文章 であ った可能性 があ る。 このよう に考 え る に至 った のは'本 稿執筆 の過程 でしだ いに熟したも のであ って' これ は筆 者 のささ やかな 収穫 であ った。 ただしへ本稿 より以前 に'報 告書 ( 批 語) のあ るも のを 「魯 迅」執筆 とLt また ほと んど ( 1 J V 全部を 「魯 迅」執筆と いわんば かり に凝 った中 国 の研究者 は存在す る。 このこと は明記し ておかな ければ ならな い. す でに の べた よう に' 周樹 人 の役 人とし て の生活 はあ しかけ十 五年 にわた る。 い- つか の筆名をも って文筆活動を お こ な う のは' そ の後牛 であ る。 はじめ て魯 迅と いう筆名を使 った のは 三十六歳 のとき で' 1九 1八年' 民国七年 ( 大 正七年) であ っ た 。 か- て小説 や雑文 の筆者'「魯 迅」 の顔と' 教育部 の役 人' 周樹 人 の顔 と 二 つの顔をも つこと にな ったわけ で B l y < E ある 。 通俗 教育 研究合 の活動 に開興したとき' 周樹 人はまだ周樹 人 であ った。 この周樹 人と のち の 「魯 迅」 ( も しく は 二 つの 顔をも つ周樹 人)と は関係があ る のか'な いのか。 わたし は' この合 に開興 した こと は' 周樹 人 にと ってはt のち の 「魯 迅」 に奨身'あ る いは奨貌す る 1つのき っかけ にな った のではな いかtと いう預感があ って'本稿も これを確認す るため の手がか りとし て執筆を開始したも のであ る。 しかし'雷 の周樹 人本 人は闘興したとき ( 開興 せざ るを えなか ったとき) お そらく そ のよう には'橡感しなか った であ ろう。 一 周樹人と通俗教育研究昏 ( ) 第 一次 の通俗教育 研究合 は' 1 . 九二一 年 四月 、南京 にお いて成立 した. ・これ は教育部 の外郭囲健と みられ るが'教育部 と の制 度上 の関係 はあ きらか でな い。 臨時 政府 の北京移韓 にともな い'合 の事務所を 上海 に移し'北京 の教育部 に通信虞 を 設けた。 周樹 人 の役 人生 活 東 方 畢 報 二二〇 骨 の名 稀 の 「通俗 」 は敢骨とか啓蒙的 と か の意味 であ る。 葺 行 の方針 とし て提起 した のは、 衛生'生 活・ 公衆道 徳, 国 家 観念 の四 つを 重んじ る 「四′ つの主義」 であ る。 ( ゥ ・ ) 理事 のひとり'伍 達は禽員を ふやす のにす こぶる熱 心だ った。 かれ は教育部 配合教育 司 の第 三科 の科 長 であ った。 この 科が管掌す る のが' ほかなら ぬ 「通俗教 育」 で' 公衆道徳 の普 及' 囲書館 ・巡同文 庫 の運営 ' 展示 ・講演合 の開催と い っ た ことが眉 にかか ってく る。 か れ は自分 の科が配合的 に活動す るため にも ' こ のような外郭 園健が存在す る のは便 利 であ った であ ろう。 教育部 が臨 時教育 骨議とか' 讃音統 一骨と かを 開催 し て'部 外 の参加者 が多 -集 まる機骨を 利 用し て人骨を勧誘 した。部 内 にた いし ては' いう ま でもな い。 周樹 人は これ に入脅した。 一九 二 一 年 八月六 日 の日記 に つぎ のよう にみえ る。 きた はなは だつ と こ ば ゆる 雨。 伍博 純 来り' 通俗教育 研究 骨 に人ら ん ことを勤 め ' 甚 力 む。 却 むも 得ず。 速 に允す 。∩下略∪ あざな 博 純 は伍 達 の 字 であ る。 これ よりさき 日記 には 「午前 ' 上海 通俗教育 骨 の手紙な らび に通俗教育 研究録 一筋を 得」 とあ る ( 七月 八日)から' い く らか好 奇心もあ った のだ ろう。 晩 かれは七月 三十 日 に こ の骨 に顔を だし ている。 そ の日 の日記 に いう0 たそ がれ ようやく カ に 乃 散 ず。 この合 は即ち教育部 に地を憤 り て設けら る。 中 国を 棉 ∩前略∪午後'中 国通俗教育 研究合 に赴 -。 傍 ち ろ くなこ とが あろ うか い えど すなわ 難 も '賓 は 乃 英 人 の為す 所' 郡 有 好 事! ︹ 下略∪ すと 「呉 人 の為す 所」 と いう のは'教育部 内 にお いて推進し ている のが江蘇省武 進 の人間'伝 達 であ るから であ ろう。 伍 は 呉とも音 が 通じ る。 日記 で伍 達を 罵 った のかも しれな い。 伍 達と同郷 の江蘇省 人が多 く 人骨 した のでもあ ろう。 合長 の唐文治は字 は蔚芝'茄経'江蘇省太倉 の人 で'すなわちかれも 「呉人」 であ る。清朝 の進士。南部右侍部まで昇 あ ぎな 進し 退職。 上海 で賛 美教育 に従事す るうち辛亥革命が勃撃 江蘇省 の猫立を援助したと いう。 伍廷芳と連名'清帝 の退位 ( 3 ) を奏請した のも このとき のこと であ ったろう。 四十七歳。 も う ひとり の理事'責炎韓も江蘇省川砂願人 であ る。 字 は任之。清末 の翠人。 同盟骨官 員で'辛亥革命 のあと江蘇省教 ( ・ ・ ) 育 司長 に任命され ていた。臨時政府がおかれた地元 の省 の教育塘富者 であ る。 1枚かんでもらわなければならな い. つ い でにいえば、 のち中華 人民共和国成立 のあと'副総理 であ った。 三十 三歳。 そ のほか の理事 に ついては'未詳 であ る。 と にかく'顔をだした のが ひ っかか って'入合せざ るをえなか った のであ ろう。 人骨を承知したあと'伍達 に手紙を出 ( 5 ) し ている ( 八月 二十九日) 。年末 には ﹃通俗教育研究録﹄が迭付され てきた ( 第 三期 )。 翌年 三月 にも これが迭付され てき た ( 第六期) 。 そし て'通俗教育研究骨と の交渉は これをも って'たち消え にな る のであ る。 第 二次 の通俗教育研究骨は' 一九 一五年 に草足し ている。 この研究合 の重要な活動を にな った のは小説分科骨 で'す で にのべたよう に'主任は周樹 人であ った。 か れが日記 に' この研究骨 に ついて'ど のよう に記し ているか' みてみよう。 Ⅶ y < i : 教育部が教育部 の職員 にた いLt この研究合 の官 員を乗職す るよう尊命した のは八月 三日 であ ったが' この日 の日記 に はな んら の記事もな い。 三年前' やはり この通俗教育研究骨 にし っ っこ- 人骨を勧誘し てかれを困惑させた伍達は、 そ の翌年 に死去した。 わが 二二1 も の顔 にふるま って'かれ に反感を抱かせ る 「異人」も'今岡は いな い。 しかし'上から の命令 による加入 であ る。以前 周樹 人 の役 人生 活 東 方 畢 報 と同様な腹立ちが'あ った のか、なか った のか。 最初 に日記 に記事が登場す る のは'教育部 秘書虞が準備合議を召集した 日 であ る ( 八月十九 日)0 午後 通俗教育研究骨 に在 り。 っいで小説分科骨主任 に任命された ことはまた記さず'成立大倉が挙行された日 に'「 午後 通俗教育 研究骨 に往く」 ( 九 月六 日)と記す。 ど れからあとは' 日記 に'出席したと いう記事がみられ るよう にな る。すなわち'九月 は つづ いて十 五、 二十 二' 二十 九日'十月は六'十 三㌧十九' 二十七' 二十 八日、十 一月 は十七' 二十 四日。 いずれも' 午後 通俗研究骨 に赴く。 と いう よう に簡 単 に記すだけ であ るが' ほぼ記載もれ はな い。毎 週 一同 の分科合 の定例合議 に必ず出席し ていた のであ る。 ま と る。合を 額ず。 つ 主任とし て議長を つとめる のであれば、鉄席も できな いであ ろう。十月 二十 八日は第 二同大骨な ので' 二十七日 に つづ い てすぐ開かれた。十 1月 三日は開催されず'十 日は記載がな いが出席し ている。 止 とど 十 二月 は 1日 に合議があ って出席 したが記され ていず' 日記 には 「晴。無事」とあ るだけ であ る。 そし て'中旬 に' ぎ のよう に記す。 二十 二日 晴。午後 通俗研究骨を開-'集 る者 四人 に 二十 七日 には第 三同大骨が ひらかれ'小説分科禽主任とし て報告を お こな った にも かかわらず' 日記 には記載がな い。 この大骨 ではtと- に琴 冗壇が招 かれ て講演を お こな った. それは通俗教育'すなわち配合教育が いか に重要 であ るか, 3 I :, 西欧諸国 における見聞を まじえ て'力説したも のであ った。 周樹 人 の日記はほとんど外界 のうどきを記さな いから' このことを記さな いと いう のは ( 大骨 に ついても記さな いのを 含 め)' さし て異例とす るに足りな いであ ろうが' 大骨 に出席し'分科骨主任とし て報告し、前線長 の講演を聞 いたと い う事賓は'かれと通俗教育 研究脅之 の関係遼考えるさ い'見逃し てほならな いであ ろう。 壷3 1九 1六年 1月十 三日 の日記 把は'「 午後'・通俗教育曹長新年茶話合開かれ'撮景し て散ずJ ,と みえる。 一「 撮 景」と いう のは'記念富貴をとる こと で虜 っ怒ろう. 十 乱日 の合議 には出席し ている にもかかわらず7 日記 に記載がな い. かれは二月十 四日付 で小説分科骨主任を 免職 にな っている。 かれが願 いでたと いう こと にな っているC この免職 のことも' この間 Q経緯もt Lこのあと の出席も 日記 には記載がな いが' 三月 二十 二日'七月 五日 の合議 には出 席し ている。 ) F E E この年 の十月'周樹 人を小説分科骨 の審査幹事 に任ず ると いう辞令が でたが、 これも記され ていず'審査幹事とし て活 動 した模様をうかがう に足 る'なんら の痕跡も 日記 にはな い。 要する に 7九 1六年 の日記 には' 1月十 三日 の新年茶話合 のことだけしかみあたらな いと いう こと であ る. 翌' 1九 一七年庵同心- 1僕だけ であ る. 二月 四日に' やはり茶話骨があ って'書童 の展観も お こなわれ た. そ こ で 「通俗教育研究禽茶話骨 に往き'列す ると ころ の膏蓋を観る」 。 ヱ弟は教育部 の講堂 でひらかれ'六朝 いら いの有名な人物 の書童百 五十飴 鮎を展示し'さら に古楽を演奏した催し であ った。 この日は日曜日であ ったD 以後' 通俗教育研究骨 の記事 は沿 える のであ る? 二二 三 凄 約す T Qと' 通俗教育研究膚 ( 第 二功 の)が日記 に招じめ て登場す る のは 1九 1五年 八月十 五日 で' この年 は頻繁 に出 周樹 人 の役 人生 活 凍 方 学 報 現するが ' こ ハ年以降 は各年 1保だ万'最後 に記された のは 1九 1七年 二月 四日 であ るo 二二四 これはかれ の熱意 の程度を 反映し ている のかもしれな い。もし' そう であれば 一九 一六年 の秋からみられる'審査 の結 果 の公表 に ついて'かれは無 関係 だと いう こと にな る。 し かし' はたし てそのよう に断寵 でき るであ ろうか。 {第 四回︼ ︻ 第 三周︼ ︻ 第 二回︼ ︻ 欝 一同︼ 六月 二十 五日 7九 1七年三月 二十 」日 間 九月 二十 二日 1九 1六年九月 二十 三日 推薦 の教育部令 は都合六回 にわた って尊命され ている。すなわち- ︻ 第 五回︼ 十 二月 二十 一日 十 1月二十 1日 ︻ 第六同︼ 少なくとも第 二同以降 は'審査幹事 とし ての職責を はたさなければならなか った はず であ る。中華民国政府教育部 の婁 令を'余事 にし て科長 であ る人間が'雲煙 過限覗 でき るわけがな い士おもわれ る。 そし て' この任命 はお そら-かれ の手 腕と賓唐を みたうえ で教令された のであ るから'欝 一同から闘興し ていた のであ ろう。 研究骨内 の役職はとも かく、教育 部 内 にお いてかれは敢骨教育 司第 1科 の科長とし て嘗然' これ に無関係 ではありえな いのであ る。 第六同 の推薦 はかなり傾向が異な ってき ているが'教育部 の覆審はやはり周樹 人が塘嘗した であ ろうと思われ る。 二 通俗教育研究菅 の成立 通俗教育 祈究骨を 新しぐ設立す る ことを 思 い ついた のは'とき の教育 線長'湯化龍 であ った。 かれ は意見書を蓑世 凱大 漁続 のも と に呈Lt蓑世 凱 はただ ち にこれを裁 可した。 意見書 の提出が 1九 1五年七月十 六 日' 一日を お いて十 八日 には ( -) 裁 可か 下ると いケ早さ であ る。 しかも蓑 は、 1寓 五千 四百元の経費を支出した のであ る。 ハジ 湯 北龍 の意見書 は'肇校教育 のほか に敢骨教育 が必要 であ る ことを力説したも のであ った。す なわち' つぎ のよう に の ( 2) べて いた。 ︰-⋮学校 ヨ-外'尤 モ政令教育 ア ルヲ借 り以 テ ソノ逮 バザ ルヲ補 フ。 -- コノ国基 甫 メテ定 マ-民習未ダ純 ナ ラザ ア タ ァラ ク ダ ルノ時 二値 リ' コ′項 ノ教育 ヲ積極提 唱 スル/ lI非 ザ ラシム レバ' 徒 二人民 ノ徳 慧開 カズ敢合 ハ賂 二日 二下 二趨 カ ント スルノミナ ラズ' シカ モ童董 タ ル者 ハ頓 ク' 適宜 ノ訓 二乏 シ。 化龍尤 モ志菊 ヲ走 メテ趨向 ヲ正 スナキ ヲ以 テ ソノ国家 オソ ノ前 途 二関係 スル甚ダ且キ ヲ 倶 ル. 故 二通俗教育 ハ宴 二現今 ′刻ト シテ容綬 スベカ ラザ ルノ圏 卜鵠 ス。 --現 二食 卓 ス ミ ヤ ヒ ヲ選集 シテ期 ヲ定 メテ開合 セ ント擬 シ' --壷 カ ニ・ ・ ・ -安善 ナ ル耕 法 ヲ謀 り'以 テ懲俗 ヲ挽 キ人心 ヲ正 サ ント ス。 ( 3 ) 裁 可があ った のと同時 に' 湯北龍 は (つまり教育部 は )脅 則' 「 通俗教育 研究官 軍程」を 公布した。 これ は研究骨 の趣 旨 は' 「配合 ヲ改良 シ教育 ヲ普 及 スル」 にあ るとうた っていた。 合 の名 稀 の 「通俗」 と いう のは' 一般向き であ る こと' 大 衆的 であ る こと で. これは つまり'配合教育を立案 し普 及す る囲鱒 であ ると名 乗 ったわ け であ る。 具鰻的 には小説t ,演劇'講演 の三分科骨を 設け' それ ぞれ全国 ( 主とし ては北京) で出版され 上演され る各種 の小 説' ㌧ ' 二二五 春 希、新聞'魂 誌 ・ 演劇、 唱本' 詐害' {詞曲、映 蓋 フィルム' 幻燈'蓋報'掛 囲'年 書' 講演資料など の調査'審査 '福 風 樹 人 の役 人 生 活 東 方 学 報 集'改良 の作業 に従事す るとうたわれ ていた。 二二六 審査と いう のは' 審査 の結果'禁止す る ( 出版禁止'販責禁止'上演禁止) ことを含 ん でいた。 改良 は' 「 忠孝節義 ノ 精義 ヲ宣揚 スル」ため に囲書を出版し、歌曲 や給童を制作す る ことも含 ん でいた。とく に小説分科骨 には 「編詳」 ( 編著、 翻辞し て出版す る こと) の任務もあたえられ ていた。 また'曹長 には教育部次長が就任す ると定め てあ った。 っいで教育部 によ って、教育部 の職員 二十九名が骨員 に任命された。教育部員 のまま'研究骨員を 「乗職」した のであ ( 4 ) ( . A ) る ( 八月 三日)。 それからしばら-し て' これら の乗職曾員を教育部秘書魔が召集'研究設立 のため の準備を打合わせ た ( 十 九日) 0 ( 6 ) さら に'分科禽主任が任命された ( 九月 一日) 0 教育部余事 で敢合教育 司第 一科長 であ る周樹 人は'兼職脅員 に任命され'さら に小説分科骨主任 に任命された のであ る。 昔 時' 三十 四歳。 演劇分科合 の主任 に任命された のは' これも教育部 の余事 で ( 所属 の司'科は未詳)' 講演分科合主任 は京師撃務局通俗教育科長 であ った。 小説分科合 には 二十 四名 の脅員 の所属す る こと になり' そ のなかから調査幹事 三'審査幹事 三'編 謬幹事 三tが任命さ で = E れた。 成立絶食が ひらかれた のは、九月六 日 のこと であ る。 骨場 は教育部 の管轄 下 にあ る通俗 囲書館 で宣武門内路西 にあ った。 以後'各分科骨も ここで合議を ひら いている ( やが て教育部 内 でひらく よう にな った) 0 初代 の曹長は教育部次長 の梁善帝 で'かれは練合 で訓示を お こな った。 翌日' 三分科曾主任 の合議が ひらかれ'分科骨 の開催 日などがき ま った。小説分科骨 は毎週水 曜日午後 にひらかれる こ と にな った。 各 分 科 骨 は そ の主 任 によ って主 宰 さ れ るが ' 骨 の線番 幹 事 ' 庶 務 幹 事 ' 合 計 幹 事 も 列 席 す る こと と さ れ た。 総務 幹 事 は社 食 教 育 司 司長 の高 歩 濠 ' 庶 務 幹 事 は敢 脅 教 育 司第 三科余 事 の徐 協 貞 ' 合 計 幹 事 は教 育 部 主 事 の王 蚕 業 であ 3 E fl E った。 ほか に交 際 幹 事 と いう のがあ った。 小 説 分 科 骨 は まず 分 科 骨 と し て の合 則 ( 細 則 ) を 定 め た。 これ は つぎ のよう な も のであ った。 ( 9) 小 説 分 科 骨 事 務 虞 理細 則 綱 本 分 科 脅 ハ脅 則第 四健 二規 定 セ ル モ ノ以 外 ハコノ細 則 ニヨ-執 行 ス 線 第 一保 本 分 科 脅 ハ骨 則第 九 保 ノ規 定 ニヨ-調査 ' 審 査 ' 編 詳 ノ幹 事 各 三人 ヲ設 ケ ソ レゾ レ本 分 科 合 ノ事 務 ヲ虞 理 ス 第 一節 第 二候 本 分 科 脅 員 ガ 提 案 ス ル事 項 ア ルトキ議 案 ヲ具 申 シ分 科 脅 ニテ議 決 セ ル ノチ本 分 科 脅 主 任 二手 交 シ大 骨 二提 出 本 分 科 曹 ハ合 外 ノ各 機 関 ア ルヒ ハ囲 健 二連 絡 スベキ事 項 ア ルトキ ハ本 分 科 禽 ヨ-渉 外 幹 事 卜協 議 シ テ庭 理 ス ス ルモ ノー ス 第 三篠 第 四保 査 ル モ ノト ス 前 項 ノ連 絡事 項 ハ報 告 書 ヲ作 成 シ本 分 科 禽 主 任 ヨ-分 科 骨 二報 告 ス ルモ ノト ス 調 国 内 国外 タ ルト新 奮 ノ小 説 タ ルト ヲ問 ハズ本 分 科 禽 ハ方 法 ヲ設 ケ調査 ス ルモ ノト ス 第 二節 第 五保 前 保 ノ調 査 スベキ 小 説 ハソ ノ種 鞍 ' 販 真 数 ' 表 紙 ' 挿 蓋 ナ ド賓 地 二調 査 スベキ モ ノト シ事 案 上 ノ便 利 ノタ メ 二二七 調 査 員 ハ調査 二従 事 セ ルノチ調査 目録 ヲ作 成 シ意 見 書 ヲ漆 へ本 分 科 禽 主 任 二手 交 シ主 任 ヨ-分 科 禽 二報 告 ス ニ ハ委 托 シ テ調 査 ス ル コト ヲ得 第六備 第 七保 周樹 人 の役 人生 活 東 方 聾 審 報 査 ル モノ ト ス 第 三節 本 分 科 脅 ハ調 査 員 ノ報 告 ヲ得 タ ル ノチ 調 査 月 録 二照 ラ シ亨 ソ レゾ レ捜 集 シ審 査 員 二手 交 シ テ審 査 ス ル モ ノ ト ス 審 査 員 二手 交 シ テ審 査 ス ル小 説 ハ マズ 分 配 シ テ閲 讃 セ シ ム ベ シ' 審 査 員 ハ論 評 及 ビ 意 見 書 ヲ添 へ本 分 科 脅 主 等 任 二手 交 シ主 任 ヨ- 分 科 禽 ヲ経 由 シ テ大 骨 二報 告 ス 編 二 本 分 科 骨 ノ文 書 ヲ編 集 ス ル 小 説 ノ歴 史 及 ビ小 説 家 ノ侍 記 ヲ選 評 _ スル 五 則 前 健 二列 セ ル編 謬 ノ各 項 ハ随 時 本 分 科 骨 主 任 二手 交 シ主 任 ヨ- 分 科 骨 ヲ経 テ大 骨 二報 告 ス 審 査 ノ論 評 及 ビ 意 見 書 ヲ編 集 ス ル 四 .調 査 目 録 及 ビ 意 見 書 ヲ編 集 ス ル 三 一 小 説 ノ論 評 ヲ選 評 ス ル 本 分 科 禽 ノ編 謬 員 が 執 行 ス ベキ 事 務 ハ左 ノ如 シ 第 四節 第 八篠 第 九傑 第十 篠 第十 1保 附 本 細 則 ハ教 育 部 ニ ヨリ 批 准 サ ル タ ル日 ヨ-賓 行 ス' モ シ事 宜 ヲ轟 サザ ル ア ラ バ本 分 科 禽 ニ ヨ- 改 訂 シ教 育 選 ピ コノ細 則 ニヨ- 虎 理 ス ベキ モ ノ ト ス 前 三筋 二列 セ ル各 項 ノ事 簡 ハ指 定 サ レ ク ル幹 事 ガ ソ レゾ レ虞 理 ス ルホ カ 本 分 科 骨 員 ガ 7項 ア ルヒ ハ数 項 ヲ 欝 五節 第十 二保 第十 三億 ) ) 部 二請 フテ確 定 ス ルヲ得 外 国 の小 説、 評論 ' 文 学 者 の停 記 な ど を 斬 罪す るO ( 第 十 保 1は 「小 説 ノ論 評」 と な って いるが ' 以 後 の討 議 そ のさ い表 紙 ( お そら く 表 紙 の囲案 ) 挿 蓋 に つい ても 審 査 す る。 小 説 を 審 査 す る。 要 す る に' つぎ の 二項 目 の作 業を お こな う と いう こと であ る。 ( I 二 ( のな か では小 説 の細 評も 議論 さ れ て いる 。 ) と ころ で' 審 査 を お こな う た め には基 準 が な け ればな ら な い。 そ こ で' つぎ のよう な 基準 が 作 成 さ れ た。 これ は' 小 説 を 八種 楽 に分 類 し ' 分 類 別 に基準 を 定 め たも のであ る。 こ の基 準 に てら し て' 小 説 は 上等 、 中 等 ' 下等 の 政 事 三関 ス ル モ ノ √ 二二九 判 定 を う け る。 そし て' 上 等 は 推 薦 L t 中 等 は放 任 Lt 下等 は禁 止 す る と いう 措 置 が と ら れ る のであ る。 小 説 審 査 ノ基 軸 小 説 ノ種 類 ハ資 質 上 ヨ- コレヲ言 へバ分 ケ テ八 ト ナ スベ シ 二 哲 撃 及 ビ宗 教 に閲 ス ル車 ノ 一 教 育 二闘 ス ルモ ノ 三 四 歴 史 地 理 二閲 ス ルモ ノ 配 合 情 況 二開 ス ルモ ノ 五 資 質的 科 挙 二開 ス ル モ ノ 六 . 周 樹 人 の 役・ 人隼 活 寧 寓 言 及 ビ詩 語 方 七 雑記 東 八 報 教 育 二閲 ス ル小 説 ハ理 論 適 切 ニシ テ吾 国 ノ国 情 二合 ス ル モ ノ ヲ上 等 ト シ' 詞 義 平 穏 ナ ル モ ノ ヲ中 等 ト シ' 思 想 偏 僻 或 ハ竃 モ意 義 ナ キ モ ノ ヲ 下等 ト ス オB T 政 事 二開 ス ル小 説 ハ宗 旨 純 正 ' 叙 述 詳 明 ' 国 民 ノ常 識 二有 益 ナ ル モ ノ ヲ上 等 ト シ' 未 ダ 精 美 ナ ラザ ル モ流 弊 ナ キ モ ノ ヲ中 等 ト シ' 立 意 偏 激 或 ハ鍍 述 ノ誤 多 キ モ ノ ヲ 下 等 ト ス 哲 学 及 ビ宗 教 二開 ス ル小 説 ハ理 想 ハ高 尚 純 潔 'ー 以 テ道 徳 教 育 及 ビ 国 民 教 育 ノ 逮 バ ザ ル ヲ補 助 ス ル モ ノ ヲ上 等 ト シ' アマ リ 中 正 通 達 ナ ル モ ノ ヲ中 等 - シ' 意 ノ荒 瀞 或 ハ迷 信 二捗 り 太 二過 グ ル モ ノ ヲ下 等 ト ス 靴 - 丁ヤ マ ナ キ モ ノ ヲ中 等 ト シ' 学 術 研 究 歴 史 地 理 二開 ス ル小 説 ハ取 材 精 番 、 観 感 二資 ス ル ニ足 ル モ ノ ヲ上 等 - シ' 事 賓 ノ謬 ラザ ル モ ノ ヲ中 等 ト シ' 疏 誤 太 り ニ多 ク或 ハ. 語 数 襲 二渉 ル モ ノ ヲ下 等 ト ス 資 質 科 挙 に閲 ス ル小 串 ハ真 選 ヲ開 明 シ テ畢 識 二稗 ス ル モ ノ ヲ上 等 ト シ' 叙 述 二 ナズ ノ名 ヲ借 - テ文 節 離 奇 ' 頗 ル流 弊 二 滋 ム モ ノ ヲ下 等 J:ス h 敢 禽 情 況 二閲 ス ル小 説 ハ敢 脅 ヲ改 良 ス ルヲ以 テ宗 旨 ト シ' 詞 卜意 卜 倶 二精 美 ナ ル モ ノ ヲ上 等 ト シ' 記 載 物 資 ' 見 聞 ヲ旗 ム ル ニ足 ル モ ノ ヲ中等 ト シ、 措 寓 ハ猿 墳 ニシ テ道 徳 及 ビ 風俗 一 芸 ロア ル モ ノ ヲ下 等 - ス 寓 言 及 ビ詩 語 ノ小 説 ハ言 ハ近 キ モ指 スト コ ロ ハ速 ク 人 ヲ シ テ探 省 ヲ輩 セ シ メ ル モ ノ ヲ上 等 - シ' 精 意 ハナ ケ レド モ ナホ 鯖 起 妄少 キ モ ノ ヲ中 等 l L シ' 軽 薄 僕 達' 風化 ヲ傷 ツク ル モ ノ ヲ下 等 ト ス 注 ノ 雑 記 ノ 一類 ハ内 容 最 モ薙 ' ソ ノ最 .モ重 要 ナ部 分 ヲ揮 ブ ニ ハナ ホ以 上 ノ七 項 ノ基 準 ヲ以 テ審 査 ス ベ シ 附 上等 ノ小 説 ハ方 法 ヲ設 ケ テ奨 励 シ' 中 等 ナ ルモ ノ ハ放 置 ス ルガ ヨク' 下等 ナ ル モノ ハ方 法 ヲ設 ケ テ制 限 シ或 ハ禁 止 ス 各 種 ノ小 説 ノ表 紙 及 ビ線 査 ノ挿 蓋 ナ ド ハ' イズ レ モ上列 ノ基 準 ヲ参 考 ト シ' ソ レゾ レ審 査 スベ シ と ころ で' 小 説分 科 骨 は基 準 を 定 め、亘 れ にも と ず く 措 置 を 定 め た が ' 「 小 説 審 査 ノ基準 」 は小 説 分 科 食 の申 し 合 せ の よ う な も の で' 現賓 に これを 賛 施 す る力 は分 科 骨 にはな い. それ で教 育 部 を つう ℃ ' 教 育 部 か ら 警 察 や書 店 組 合 に 通告 し。 ても ら わ な け れば な ら な い。 そ のた め には まず 教 育 部 に上 申 し な け れば な ら な い の であ る。 上申 は分 科 合 で決 議 す る こと に始 るが ' 決 議 す る には分 科 骨 に提 出 す る議 案 を 準 備 し な け れ ば な ら な い。 議案 ( 原 案 ) は主 任 の指 名 し た 含 員 によ って起 草 さ れ て いる。 こ のよ う にし て' まず ' つぎ の議 案 が 採 揮 さ れ た。 へ ‖) 小 説 ノ善 導 改良 及 ビ禁 止 非 法 議 案 小 説分 科 骨 議 決 ナホ 小 説 ヲ改 良 ス ル ニ専 ラ禁 止. r (ルヲ事 ト ス ル ハ' 併 恐 ラク本 ヲ正 シ源 ヲ清 ク ス ルノ法 二非 ズ。 1面 ニ ハ公文 書 ヲ モ ッ テ自 ラ取締 - ヲ行 ハシ メ テ ソノ本 源 ヲ理 シ' 禁 止 ノ時 ニ ハア ハセ テ各 開 幸 二通知 シ' 寅 鋤 二捜 検 シ' 以 テ ソ ノ衆路 ヲ 纏 チ' マタ暮 雪 ノ販 棄 ハ書 ノ内容 ヲ問 ハズ ' 禁 止 ノ時 ハ禁 止 ノ書 目 ヲ各 商 人 二通 知 シ自 ラ戒 慎 セ シ ム ベ シ。 今 非 法 ヲ 左 ノ如 ク定 ム。 二 部 二請 ヒ テ書 業組 合 二通知 シ' 並 ど こ各 省 巡按 使 二通 達 シ組 合 二命 ジ テ出 版 敢 二樽 達 セ シ メ' 今 後 自 ラ取 締 ヲ行 ヒ、 社 食 二有 害 ナ ル小 説 ヲ復 夕印 刷 費 行 セザ ラ シ ム 周 樹 人 の役 人 生 活 兼 ・方 学 報 二三二 一' 新 聞 社 ガ 附載 ス ル小 撃 盲 テ毎 二甚 ダ 風俗 ヲ妨 害 ス ルア ルモ ノ ハ'部 二請 ヒ テ内務 部 並 ど こ各 省 巡按 使 1 芸 文 ヲ尊 シ'各 新 聞社 二韓 達 セ シ メ' 注 意 セ シ ム 二 部 二請 七 テ禁 止 ノ書 籍 目録 ヲ順次 財 政部 及 ビ税務 虞 二公文 ヲ登 シ各 開 千 枚 局 二蒋 達'書 目 二照 シ テ捜 検虎 置 セ シム 7 ′ '部 二請 ヒ テ禁 止 ノ書 籍 目録 ヲ順次 書 業組 今 壷 知 シ'井 セ テ各 省 巡按 使 二通 達 シ'各 組 合 二命 ジ テ書 舗 二蒋 知 シ' 自 ラ取締 - ヲ行 ヒ' 販責 ヲ停止 セ シ ム ( 12) これを教 育 部 に上申 す る にさ いし ては上申 書 が添 付 さ れ'教 育 部 は これを 裁 可 し たが '裁 可 には 批語 が 記さ れ て いる。 上申 スル ニ本 禽 二於 テ議 決 セ ル小 説 ノ教 導 改良 及 ビ禁 止 非 法 議案 謹 、 、 、テ監 核施 行 ヲ請 フ事 ヒ ソ カ 窃 二推 フ ニ小 説 ヲ改 良 ス ル ハ必 ズ勘 導 卜査 禁 ヲ乗 ネ施 シ並 ビ進 メ テ ソノ致 乃 チ彰 カ ナ-. 撃 t 本 脅 ノ議決 ヲ経 テ小 説 ノ改良 勧 導 及 ビ査 禁 ノ非 法 四燐 ヲ清 単 二理合 抄 シ、 止申㌢ ア大 部 ガ 覧 核施 行 セ ン コト ヲ請 ヒ'琴 、 、テ教 育 親長 二上 申ス 教 育 部 批。 上申 二振 り 己 二悉 ス。 議 ス ルト コ ロノ小 説 ノ改良 ノ勤 導 及 ビ査 禁 ノ非法 ハ葡 ホ行 フ可 キ ニ属 ス。 惟 ダ 第 三項 ハ先 ヅ北 京 税 局 二由 り試射 セ シ ム ベク' 察 知 ヲ侯 チ井 ど こ窒 碍無 ク ンバ' 再 ビ各 省 二推 及 シ テ可 ナ-。血 二批 ス。 - し か し' まえ にも の べた よう に' 禁 止す るば か り ではな く ' 「 優良 ナ ル小 説」 を 推薦す る方 法 も 詩 心 た のであ った。 ( は .) 優良 ナ ル小 説 ノ目録 ヲ公布 ス ル議 案 小 説分 科 骨 議 決 - 基準 二照 シテ下等 二編 入 セ ル小説 ハ法 ヲ設 ケ テ制 限或 ハ禁止 ス。 スレバ則 チ上等 ノ小説 モ亦'法 眉設 ケテ提 唱 ス・ : .( γ。 今法 ヲ擬 スル コト左 ノ如 シ. 二 上等 ノ小説 ハ審核 ノトキ評語 ヲ加 へテ配合 ノ参考 二供 スベシ 1' 上等 ノ小 説 ノ日録 及 ビ評語 ハ湊 合 ノ議事録 二登載 スル外 二教育 公報 及 ビ各 種 ノ新聞雑誌 二途 - テ掲載 スベシ ( 14) 右 の 「公布 スル議案」 の上申書と教育部 の批語 は つぎ のと おり であ った。 本 脅 ノ議決 セ ル優良 ナ ル小 説 ノ目録 ヲ公布 スル議案 ヲ上申 シ謹 ミ テ核定 ヲ請 フ事 窃 二維 フ ニ小説 ヲ改良 スルノ道 ハ滑極 卜積慮 ノ両端 ヲ並重 シ制 限 卜禁止 ノ耕法 ア-以 テ ソノ不良 ヲ犀斥 セシ ム。 ス コ ヒ ネガハ ク レバ則 チ亦必 ズ乗筆シテ コレヲ提唱鼓励 シ方 二風馨 ヲ樹 テ以 テ正鵠 ヲ懸 ケ ン。 庶 バ善書競 ヒ出 デ風化 日 二 良キ ニ チ カカラ 幾 ン。 玄 二本合 ノ議決 ヲ経 テ優良 ナ ル小 説 ノ月録 ヲ公布 スル案 一件 ア-' 理合抄録 シテ大部 二上申 迭致 シ疾走施 行 ヲ 請 ヒ'護 、 、 、テ教育 線長 二上申 ス。 教育 部 批O 上申 二操 り己 二悉 ス。 議 セ ルト コ ロノ優良 ナ ル小説 ヲ公布 スルノ 1案 ハ筒 ホ合 ハザ ル ハ無 ク'仰ダ ニ印 チ議 セ ルト コ ロ ニ遵照 シテ安慎 二桝 理 セ ヨ。 此 二批 ス。 い る 。 以 上 のような事務 虞理上 の規則を制定し ても'な お薫 際 上 の進行 に支障があ った のだ ろうか' 通俗教育 研究骨 は'さら ) 耶E に 「小 説奨励規則草案」'「小説分科禽進行手旗案」を制 定し て 前者 は草案 であ るが、教育部 は' さら に褒状'す なわち表彰 状 の形式 などを定 め て上申 せ よ、と いう傑件を つけ て承認 し ている。 したが って'右 の規則 の表 題 の下 の 「草案」 の二字 は創 っても よ いのであ る。 二三三 壱 れ によれば 、 「上等」と判定された小説 には'さら に甲種' 乙種'丙 種 のどれか の表彰状が授輿され るが、 甲種 は創 周樹 人 の役 人生 活 東 方 学 報 ・ 作 にかぎ ら れ' 動 静 は 乙種 であ る. 随 筆 ' 筆 記 の類 は丙 種 であ るo 二三四 凡 ソ新著 新 謬 ノ小学 こ テ本 骨 ノ審査 基準 二依 接 シ テ士等 卜認 メ ラ レク ルモノ ハ分 別 シ テ左 二列 ス ル褒 状 ヲ 小 説 奨 励規 則草 案 第 一傑 授典 ス 甲種 褒 状 乙種 褒 状 第 二保 外 国 人 ノ昔 著 ア ルヒ ハ新撰 ノ著 名 小 説 ヲ連 詩 セ ルモ ノ ニシ テ本 禽 ノ審 査 ヲ経 テ我 国 人 ノ道 徳智 識 ヲ補 助 スベ 自撰 ノ小 軍 手 テ本 骨 ノ審査 ヲ轡 ア人 心 風俗 ヲ神 島 スルア- I.5 ,2メ ラ レク ルモ ノ ハ甲 種 褒 状 ヲ受 領 スルヲ得 丙 種 褒状 第 三保 シト認 メ ラ レク ルモ ノ ハ乙 種褒 状 ヲ受 領 ス ルヲ得 前 項 ノ小 説 ハ本 骨 ニヨ-原書 ヲ調 取 シ ソノ詳 セ ル- コ ロノ嘗 否 ヲ審査 スベシ 古 今 中 外 ノ雑事 墳 聞 ヲ采輯 シ テ乗 メ テ 「書 - ナ シ劉 記 二類 ス ルア- テ本 脅 ノ審査 ヲ轡 丁敵 軍 着 金 卜認 メ ラ 褒 状 ハ著 作 人 こヨ- コレヲ受 債 ス 第 四保 第 五保 凡 ソ褒 状 ヲ受有 シタ ル書 ハ木 骨 ニヨ- 登報 シ テ コレヲ表 彰 スルヲ得 レク ルモノ ハ丙 種褒 状 ヲ受 儀 ス ルヲ得 第 六候 寡) には' か な り積 極 的 な姿 勢 が う かが わ れ る。 す な わ ち (四) 乙 の 「現今 配 合 二於 っぎ の 「小 説分 科 骨 進 行手 旗」 ( ヶ ル某 種 ノ事 項 風俗 二封 シ勤 懲 ス ル・ 1コ ロ有 ラ ント欲 ・H と いう ような 箇 所 であ る。 審査 す る小 説 に つ示 ても , 壷 行本 , 雑誌小説 ∩(1)乙.原文 「小説報」 の 「報」はこんにち では新聞を いうが、 嘗時 は雑誌 にも 用 いた︺' 新聞小説と いうよ 小 説分 科 合議 決 う に'出版型態ともあわせ て考 慮 にいれ ている。 小 説 分 科 骨 進行 手 績案 選, , .,t T按 ズ ル ニ小 説 ハ木 骨 ノ研 究 ノ 一部 ニシ テ小 説 分 科 含 ノ 1切 ノ規 則細 則 ハスデ ニ具 備 セ-' 玄 二時 二進 行 事 績 二 就 キ テ 一草 案 ヲ具 シ敬 シク公決 ヲ請 フ (一)小説 ノ種類 甲 小説 新聞 二附載 ノ小説 乙 雑誌小説 丙 ( 二)審査基準 己土 規 定 ア- 骨 内 モ ア白 ラ購 備 ヲ行 フ ( ≡)徴 取 甲 丙 私 人 ノ投 贈 書 信 ヲ モ ッテ各 書 坊 ガ 巳 二出 版 及 ビ緯 イ テ出 版 ノ小 説 ヲ木 骨 三 部 贈 迭 セ シ メ ル 乙 通俗 国 書 鱒 二所 有 ス ルモ ノ ヲ借 ル 丁 ( 四)編 詳 周 樹 人 の役 人 生 活 東 甲 方 貴 報 小 説 ノ単 行 本 雑 誌 ノ関 係 及 ビ要 旨 ヲ撰 叙 シ以 テ編 謬 ノ基 準 - ナ ス 木 骨 ハ某 種 ノ髄 裁 ノ小 説 ハ最 モ配 合 ヲ欲 動 シ易 シ ト認 定 ス' コレ ヲ書 坊 卜商 シ照 ラ シ テ撰 ス 本 ヅ キ 照 ラ シ テ撲 擬 ス 乙 本 含 ハ現 今 敢 亨 -於 ケ ル某 種 ノ事 項 風俗 二封 シ勤 懲 ス ルト コ ロ有 ラ ント欲 ス' コレ ヲ書 坊 卜商 シ コノ方 針 二 丙 丁 以 上 ノ二項 二限 定 セズ 祇ダ 世 道 人 心 二有 益 ナ ル範 囲 内 二於 テ撰 擬 ヲ勘 合 セ シ ム ( 五)奨励 甲種 褒状 乙種 褒状 丙種褒状 細 則 ハ別 ニコレヲ訂 ス 部 二上 申 シ テ雛 理 ス ( 六 )禁 止 甲 、 乙 書 信 ヲ商 骨 二致 シ テ協 助 雛 理 ス 以 上 の 二 つの規 則 は 1九 1六 年 三月 十 五 日 に教 育 部 によ り 承 認 さ れ て い るo・ U の年 は 1月 一日 よ 豊 泉世 凱 が 帝 政 を 責 現 し た ので' 目付 け は 「洪 憲 元年 」 と 記 さ れ て いる。 周樹 人 は こ の年 の 二月 十 四 日 に小 説 分 科 骨 主 任 を 辞 め て いる の で' こ の 二 つの規 則 にど の程 度 関 係 し た か わ か ら な い。 た だ し 社 食 教 育 司第 . 1科 長 と し ては' 無 関係 ではあ り えな か った であ ろ う。 小 説分 科合 切こう し た細 則と 基準 は' ほ ぼ はか の分 科骨 にも 共 通す るも のであ ろうが '演 劇 ' 講演 分 科合 の細 則 はわ か ら な い。 し かし演 劇 分科 骨 の審査 の基準 と それが 意 圃す る措置 は ﹃教育 雑誌 ﹄ に紹介 さ れ て いる 「演 劇 改良 議案 」 によ っ て知 る こと が でき る。 3 F = E E 「演 劇 改良 議 案 」 は つぎ のようなも のであ る。 演 劇 改良 議案 演劇 分 科禽 議決 演 劇 ノ道 ハ至 ッテ風化 二闘 シ良 ケ レバ忠 ヲ教 へ孝 ヲ敦 へ良 カ ラザ レバ盗 ヲ霧 へ樫 ヲ詩 フ. 吾 国撃 -演劇 ア-' ソ ノ 編 製 ノ初 卜写 t勧善 懲意 ノ苦 心 ア-'以 テ風 ヲ移 シ' 俗 ヲ易 フ ル ニ足 ルモノ固 ヨ-所在 スル多 ク有 り。 然 レド モ有 意 本 ヨリ自 ラ正 シカ ラズ' 或 ハ後 来演 唱善 ナ ラズ本 意 ヲ失 フヲ致 シ' 以 テ誘 ヲ啓 キ性 ヲ意 ク ス ル 二足 ルモノ亦 少 ナカ ラ ズ, 浸 樫濡染' 人心 風俗 二影響 ス ルモノ スデ ニ深 シ。 故 二今 日 二在 - テ社食 ヲ改良 セ ン-欲 セ バ演劇 ヲ改良 スル ニ非 レバ功 ヲ馬 サズ。 演 劇 ヲ改良 セ ント欲 セバ' 亦 苛細 二流 ルル ハ宜 ,)ヵ ラズ. 此 ノ議 案 ノ主 張 ハ先 ニテー ハソノ太 二甚 シ キ モノヲ去 ラ ント ス ル ニ在 ルノミ。 非法 ヲ擬 シ具 ス。 一' 全部禁 止 ( 甲)基準 凡 ソ全部 情 詞 淫邪' 風化 ヲ傷 フア- テ匡 正 ヲ施 ス能 ハザ ルモノ ハ宜 シク全部 禁 止 り加 へ根 株 ヲ縛 チ配 合 二流毒 セ シ ム ル無 ヰ ヤ ウ務 ム ベシ ( 乙)非 法。 約 シ テ二種 二分 ツ 周 樹 人 の役 人生 活 東 方 .学 報 二三八 二 各 種 ノ劇 目 ヲ調 集 シ' 本 分 科 脅 員 が先 ズ 北 京 ノ各 劇 園 二常 演 ノ演 劇 ' 皮 責 ' 秦 膝 等 ノ如 キ査 明 シ テ分 別 二 記 シ出 デ' 以 テ審 核 ′預 備 卜為 ス。 ソ ノ戯 目詳 悉 ス ル能 ハザ ル モ ノ ハ則 チ本 分 科 脅 ノ委 員 臨 時 二之 ヲ調査 ス 二㌧ 各 脅 員 及 ビ調 査 員 ノ演 劇 禁 止 三関 ス ル報 告 ハ須 ラク本 分 科 脅 ノ議 決 ヲ経 テ後 ' 随 時 二演 目 ヲ開 列 シ' 部 二 詳 シ テ内務 部 二者 行 シ警 察 廉 二輪 筋 シ テ禁 止 ヲ茸 行 ス 二' 部 分 剰 改 ( 甲)基準 凡 ソ 一二 ノ過場 或 ハ 二 一ノ語 樫 邪 二渉 及 シ風 化 ヲ傷 フア ル' 及 ビ情 節 離 奇 ニシ テ観 聴 者 ヲ靖 乳 ス ル モ ノ ハ宜 シ ク酌 線 シ テ剰 除 ス ルカ 或 ハ更 易 ス ベ,・> ( 乙)非法 約 シ テ 三種 二分 ツ 一' 各 種 ノ脚本 ヲ捜 集 ス。 捜 集 ノ方 法 ハ分 チ テ三項 ト ス 一' 清 宮 南 府 二向 ヒ テ借 紗 ス 二㌧ 正楽 育 化 骨 及 ピ ソ ノ他 ノ涜 唱 機 関 二向 ヒ テ徴 集 ス 三、 本 分 科 禽 員 ニヨサ斉 地 ニ L 調査 ス 二' 本 骨 が 蒐 集 セ ル脚 本 ハ本 分 科 合 ノ主 任 ヨ-若 干 員 ヲ指 定 シ テ審 核 二従 事 ' 酌 シ テ潮 改 ヲ加 へシ ム。 但 シ深 文 ヲ用 ヒズ能 ク演 劇 ノ健 裁 二合 ス ルモ ノ ヲ以 テ主 卜為 ス 三' 剰 改 ノ完 竣 セ ル後 ' 木 骨 ノ脅 員 ニ・ ヨ- 私 人 ノ資 格 ヲ必 テ演 劇 申 ノ人 工聯 潜 シ ソ ノ遵推 ヲ勧 ム. 如 シ算 数 無 ク ン バ則 チ本 合 ヨ-部 二詳 シ テ内務 部 二奉 行 シ警 察 廉 二輯 筋 ス ルカ 或 ハ直 接 二警 察 磨 二画 知 シ テ論 令 シ テ暫 ク該 劇 ヲ演 唱 停 止 セ シ ム, 以上 のいく つか の文書 は' こんノ にち でいう 「法令」 に類した性格 のも のであ る. 「小説審査 ノ基準」 は分科脅内 の申し 合 せ のようなも のであ るが、しかし これも具礎的措置を定め ている。 通俗教育研究合は'主とし ては検閲を お こなう官製 だ し ' これが醸 鳶も お こな った こと に留意しなければならな いO の囲健 であ ったと いえよう。 た 三 衰世凱 ・湯化龍 ・張 一摩 成立 の経緯.骨員.立案された法令。 その強制力。経費 の出所.どれをと ってみても 通俗教育 研究骨が官製 の囲健 であ った こと は'疑う べ-もな いo そし て' これ の襲足を命じた のは'中華 民国大親統'蓑世凱 であ った. 周樹 人t のち の魯迅は'くりかえし ていえば' この官製囲健 の脅員 でありtか つ分科骨 の主任'審査幹事 であ った。 かれは' この裏世凱 による官製 の通俗教育研究骨 にど のような感想を抱 いた のだろう。 ぬ す 病 み'帝 政を復活し ようとした. そし て 一 般的な こん にち の 1般的な みかたとし ては'蓑世凱 は 「恵玉」 であ る。 国を 評債とし て'魯 迅は 「善 玉」 であ るo中 国 の近代、 現代 の暗黒なる側面に'断乎とし て抵抗した.したが ってt のち に文 豪'魯 迅とな る周樹 人が'通俗教育研究骨 に所属Ltと にもか- にも賓際的な活動を お こな った のは'かれ にふさわしく な い. じ つは'かれは抵抗し反摸し ていた のだ。蜜剤 にた いし ては抵抗があ るも のな のであ る。 二三九 このよケな囲式 で両 者 の阻係をとらえ、 この圃式から通俗教育研究骨を評債す る ことは可能 であ ろう . じ ′ じ つ' つぎ の 周樹 人 の役 人 生 活 東 方 学 報 ( -) 孫 瑛 の 「文 はそ のような 圏式を前提と し て書 かれ ている。 二四〇 -辛亥革命が失敗し て のち'蓑世 凱 は国家 の政 権を 盗 みと った。衰 滅 の猫裁支 配 に反封す るため'孫 中山 ら は 「第 二 革命」を沓動 し たが' まも な-蓑 賊 に鏡 塵され て失敗した。 蓑世 凱 は ひと つひと つ散を つぶし てい ったあ と'皇帝 に な ろうと いうたく ら みを茸 現す べく準備をすす めた。 かれ は 一方 では手 下を そそ のかし て 「等安 食」を 成立させ' 公 然と 「ニセの共 和を去 って異 の君憲を お こなう」'「民主を 廃し て君主を立 てる」 ことを 要求す ると宣言'帝制 復群 の ため の反革命世論 を で っちあげ た。 また 1万 では フ ァシズ ム特務 機関とし て 「軍政執法虞」を 足が かり に'帝制 に反 封す る革命 分子を逮 捕し殺 害し た。 と れととも に'も と の 「通俗 教育 研究脅」をわ がも のにLt改組す る こと によ って' 思想 文化を統 制 し、世 論 に訴 え る宣侍 の機関 に襲 えようと企 てた. 1九 1五年七月'衰世 凱 は教育 錬長湯 北龍を し て改組 の準備 工作を お こな わし め' 八月 三日 に湯 北龍 は命令 を登し て魯 迅を含 む教育部 の二十 九名 の部員を 通俗 研究 骨 に加 入せしめた。 しかし、 はたし てこ のよう に断定 でき る であ ろう か。 衰世 凱と周樹 人は直接的 に封しあ っていた のではな-、 そ の間 には教育部 と いうも のが介在 し た。教育 殖長'あ る いは 次長が' ど のような政 治的 態度を と った かを ' まず みな ければ ならな い。 そ のため には' まず衰世 凱が' 常時 ど のよう に 動 いていたかを' 概観す る必要があ ろう。 も とも と'衰世 凱 は帝政を茸施 し よう'皇帝 にな ろうとす る野望を抱 いていた。 と- に 一九 一五年 の後年' これが露 骨 にあ らわれ るよう にな り' 具健的な方策'措置 ( むし ろ策略 '陰 謀と でも いう べきも の)が表 面化した。 それが潰 えた の は' 翌年 の三月 であ る。 ( 2 ) 通俗教育研究合が沓足したとき' 蓑はす でに文官官秩令を公布し て 「官」と 「職」を分離Lt 「 官」 を九等 に分け てい だ. それ ぞれ 三級をも つ 「卿」'「 大夫」'「 士」と い った楓嚢は' そ の最高位 に 「皇帝」があ る べき であ った。皇帝 の御璽 V rv 凸 に相嘗す るも のとし て国璽を用 いる ことを定めた. 1九 l四年十 二月 二十 三日'冬 至 の日に天壇 で天を祭 る儀式を お こな ( 4) ( 5 ) つた. 翌年 二月 には孔子を 肥 った. とひとびとは蓑が君主制を復活し て皇帝 になろうとし ている のだと感じたが' かれは平然と これを 否定した。 しかしまもな-、蓑 の政治顧問'グ ッドナウ博士が政治機構 に ついての論文を書き'中 国 のような国 では大 総統 の継承 に困難が生じ るから' 君主制 の設立を提案す べき であり'継承が法律 によ って明確 に規定され るなら君主制 に樽換す べき だtと のべた。 そ のすぐあと' 筆安倉 の最初 の宣言が北京 の各新聞 に捉載された. それ には'「アメ-カ合衆国は世界 で 1番古 い共和 国 であ る。 しかし' アメ-カ の政治理論 における偉大なる専門家グ ッドナウ博士は'政治健制とし ては君主制 の方が共和 3 p I E 制 よりよ いも のであり'中 国は君主制 の方を探 る べきだと宣言した」とあ った ( 八月十 四日) 0 t欝安合 は 1九 1五年 八月'湖南 の政治家'検度が ほか の五人を誘 って組織した。 ほか の五人と いう のは胡瑛'孫硫埼' 3 H = E 李奨和、 厳復'劉師壇 であ る. Z等安食 はさら に、各省 の将軍や長官 ( 巡披 侯)' 各国鱒 に電報を打ち' 国髄 の問題を討論す るため に代表を北京 に遮る よう要請した。しかし'代表が揃う のを待ちきれず、八月 二十 三日 に正式 に合 の成立を宣言した。さら に北京 に住む各省 の人間 にそれ ぞれ 「公民圃」なるも のを組織させ'九月 一日 の参政院 の開合を待 って請願書を提出した。山東、江蘇'甘 二四 1 粛'雲南'贋西'湖南、新車'緩速など の各省 の民意は、国鱒を愛東す る こと ( すなわち蓑が皇帝 に即位す る こと)を望 ( 8 ) ん でいるtと いう形式をとと のえたわけ であ る。 周樹 人 の役 人生 活 東 、方 - 畢 報 二四二 衰世 凱 」液 に屠す る梁士弘 t lhは全 国請 願連合 骨を組 織' これをも って参政院 にた いLt いわ ゆ る国債襲 更 の練請 願を お こ ( -) な った.小 梁 はさら に同官 の代表 を と おし て'参 政院 が多数 の国民 の公意を集 め る機構を 設け るよう に請 願させ た。 参 政院 は この請 願をう け いれ' 「国民代表 大骨組 織法」を 公布 し た。 これ にも とず いて各省 で国展代表 が 選挙 され'各 省 に成立 した代表 大骨 は' 国債 に ついて投 票を お こな い'十 一月二十 日' 全国的 に投 票が終 了し た。 全 国 の合 計'千 九百 3 耶E 九十 三票がす べて立憲 君主 に賛 成 し' 反射 票'白 票は l票も な か った のであ る。 . . 各 省 の代表大骨 はさら に' 「護 、 、 、テ国民 ノ公意 ヲ以 テ恭 シク今大 雄統衰世 凱 ヲ戴 キ テ中 華帝 国皇帝 卜為 シ並 ど こ国家最 ( ‖) 上完全主 権 ヲ以 テ皇帝 二奉 ジ天 ヲ承 ケ テ極 ヲ廼 テ コレヲ常世 二侍 フ」 と いう推戴書を 饗した ( す べて同文 であ った)0 十 二月初旬 '参 政院 は各省 の国民代表 大骨 の委 託を う け て纏推戴書を蓑 に上 皇した。蓑 は これを う け いれず'参 政院 は さら に第 二次 の推戴書を蓑 のも と に上里した。 蓑 は翌'十 二日 これを うけ いれ ると の孝 明を婆表 した。 この第 二次 の推戴 書 は'参政院 で養護があ ってから案 文が 提 出き れ' 審議 ののち探探され たも のであ るが' こ の間、 わず か十 五分しかた っ ( 12) ていなか った。 衰世 凱 は帝 位 に即- ことを受 諾し たあ と ( 正式 の即位 の式典 はまだ お こな って いな いから)' 大 総統 でも あれば 皇帝 で. も あ ると いう奇妙 な状 態 にな った。 公文書 に 「臣」 と自 科し たり' 改行し て頭を他 の行 より高く し て 「奏請皇帝 陛 下聖 堂」 と書 くも のであ った。 政府 公報 は 「大 錬統 命令」 ではな- 「政事 堂奉 策令」 ( 政事 堂 は策令 を奉 じ )と記し' そ のな V 慨E か でかれ は絶 家 「本大 練統」 と い って いた のを 「予」 と自 稀す るよう にな った。 「朕」 にかな り 近 い 口ぶり であ る。 衰世 凱 は、 は や-も十 二月十 二日'㌢ 懐仁 堂 にお いて文武 官吏 ( 簡 任以 上) 二百飴 人 の朝 賀を う けたが' 二十 五日 には明 ( E) 年 を 洪憲 元年 と改 元す る こと' 元 旦から頒統府を 新華 宵と改 構す る ことなどを 定めた。 反 封を やわらげ るため'あ れ は長老格 の政 治家 には 「臣」を自 稀す る ことを 免除す る案を た て' 人選もす ませ た. さ ら に四名 には コ芯山 四友」 の稀故と宮中 での特 種'年金 などをあ たえ る こととした。宙位を 設け百 二十 八人を封じ たO 宮中 V 澗n で叔官官を や め女官を 用 いるとも定めた。 ー衰世凱 は これよりさき、九月 に'す でに即位式 の準 備を お こな う大典等備 優を登足させ ていた。 これ は外部 にはかた- これは国内 にた いし て のみ であ ( 17 ) った. 秘密が守られ'十 二月中旬 にな って' よう やく 公然た N P も庖とな った. 即位 ( 登極)と祭天 の儀式 のため宮 殿 の瓦 の色を ( ほ) 赤 色 に奨え るなど のほか'御座 や龍1T a L ] 、 冠' 玉車など'あ わせ て二千絵苗 元 の費用が み こまれ た. 1九 1六年 の元日から は'中華帝 国 の閣鶴と渋憲 の新元班を 用 いたO ただし 衰世 凱 の鼠上 のようなうごまを 民衆 や政界が甘 んじ てうけ いれ ていたわ け ではな いO 。 衷憧 凱 の野望があらわ にな るに つれ' 国内国外 の反射も 強ま った。 かれが T歩 々々' 皇帝 の位 に近づ- こと ばへ同時 に 1段 また 7段と 反対が猛 烈 にな る こと でもあ った ∵裏 が参 政院 の請 願希 うけ いれ るとす ぐ'徐世 昌 ( 国務 卿'蓑 の義 兄弟) は病 気 にな り' 引 退' そ の職務 は陸教群 にひき ( -; ; ) つがれたO 段棋瑞'鵜 国韓も とも に 「病 褒」と篭 ったO 梁啓超 は﹀「異な る哉' いわ ゆる図億問題」を教義'楊皮 や肇安骨 の方 向 に反射した。 梁 の論 文 の出版を やめさせた表 は' 厳復 に反論 を依凝 したが 断られた。 梁 は未練 の日本 観界 で蕃 し ていて' アメ-カ にゆ-と 解し て旅券を申 請し て蓑をあざ V 澗F : むき'上海 へゆき'鵜 圃樺と 反帝政 運動 に ついて協議し た. ( 20) か つて雲南 の都 督 であ った黍 鍔も 雲南省 の昆明 にゆき' この省を支配し ていた唐纏尭らと食談 した。十 二月 二十 三日' かれら は真髄 凱 にた いLt帝 政 の廃止と ( 鎗皮 ら)十 三人 の有名 な帝政推 進者を魔 刑す る ことを求 めた最後 通牒を畿した0 雲南 は猫立を宣 言し た。 周 樹 人 の役 人生 活 東 方 撃 報 二四四 黍 鍔 は 三千名 の軍隊を率 いて四川 に入 った。 四川 に いた蓑 の腹 心は 五個師園をも ってへ これを 迎えう った。裏 は 三滴師 圏を援 軍とし て迭 った. 内戦が はじ まり' はじ め は勝 っていた黍 は撤 収せざ るを えな -な ったo 蓑 の軍 隊が鹿 西省 には い った ので' 虞西は反衰 の旗織を鮮 明 にLt 滴立を 宣言し'衰 の軍隊を 全員武 装解除 した。 贋束も 濁立を 宣 言し ようとし て いたO衰 軍 にた いす る反撃 が はじ ま ったO 5 I甜凸 徐世 昌が天津から衰 に手 紙遼 法り三 富南 と安協を すす めた. 豪 が信頼し てきた構 図輝 は'表 面 では廉 を支持し ているよう にみせか け ていたが'有 力な 四名 の軍閥 と連名 で電報をう き た 3控 爪 。 ち'帝制 を廃止す るよう要請し ようと ひそか に姦策 し て いたo 密筈 によ ってこ のことを 知 った裏 は'す っかり落 賭し て、 ( 2) 「終 った。す べては経 った」と ロは し った。 康有 為からはへ痛 烈な文 面 で引 退 の勧告 が 国外 から の帝政反射 の魔 力も 強 まるば かり で、十 月中旬 '北京 の日本代 理大使 は イギ リ ス' ロ . シ ア公使 ととも に外交部 を たず ね'帝 政青鬼 の延期 を申 し 入れた。十 t月 には いると' フラ ン ス' イタ- アが 三国 の反封 に同詞した. 裏 が帝 政責 ( 21) 施 の請 願をう け いれ ると' これら の国 はまたも や抗議し たo 大 正天皇が即位 した のにた いLt 衰世 凱 膚特使遷 派遣 し て大 親族 と 同格 の大 勧位を 贈 呈す るtと 日本 に申 入れ'親 王 の 待遇 で特 使を歓 迎す ると いう 内諾を え てあ ったo いよ いよ特使 が出夜す る にあ た って'北京 の日本 公使館 は塵 別 の宴 ま で 設 けた。 と ころが 翌 々日、 日本 は突 如'特使 のうけ いれを 拒 否し てき た。 秘密 のうち に並行し ていた特使 浜渡 の親 密文書 が漏洩Lt 日本 は東 と取引きし て帝 政を 承認す る のではな いかと の疑惑 の撃が' 欧米各 国 に起 ったから であ るO かれ は国 ) 覗凸 際的 にも ま ったく 孤立し た。 三月 二十 二日、表せ 凱 は'帝 枚を みとめた十 二月十 7日 の公文書へ各 省 の推戴書をす べて破棄 し、準 備 の活動 を 停止す ( 粥 ) るtと菱表した。十 二月十 一 , 白から この日ま で' 八十 三日間 の皇帝 であ ったO 表せ 胤は賓際 に 「皇帝」だ った のだろうか。 帝位 に郎く ことを 承知した嘗初は、 「 臣」 を自稀す る部 下を い戒心め ては いたが'す でにのべたよう に 一九 二ハ年元旦から'かれは国内 では中華帝 国 の構紙、洪憲 の年鑑 ( 紀 元)を用 いていた。 さ ら に上海租界内 の新聞 ( 中国紙) に洪憲 の年境を 強制 した。 しかし'封外袴 には'な お中華民国'民国綾統を 稀し' 1 月 二十 日 には外交部を つうじ、登極 の日程は属方 の戟 学が終 るま では決定しな いと通告した。自分を中心上した狭 い範 囲 八 即 ) では、皇帝だ った のであ ろう。 っ た 3覗 凸 。 慶政院 は帝位 承認を取り潤すと いう慶 の捉藻を採捧したO 三月 二十 五日のこと であ るO十 二月十 J l日と同じ-'滞場 一 激だ 帝制が取治され ても'国内は平静 にもどらなか った。山東省' 四川省'湖南省がさら に猫立を宣言し'虞東省 には軍事 政権が樹立された。 3褒健凱は段棋瑞を首相 に任命Lt政府 の全責任を ゆだねた。嚢が引 退すれば'副大継続 の琴 冗浜 の昇格 とな るが' 1九 一二年 の臨時約法と 一九 1四年 の憲法 では規定を異 にLt段横幕は いすわりを績ける ことを欲し ていた ので'南京 の蒔固 B l服 E : 韓が第 三勢力とし て浮上した。表せ凱 に忠誠を誓う のは'安徽省 の保 嗣沖と准河地方 の韻動だけだ った。 病 気が進行し っつあ った衷世凱は六月六 日 に死去した。あL ≒一 カ月と数 日で'浦 五十七歳 になるはずだ った。 孝 礼にも のべたよう に'藩 閥棒ら 五名 の面従腹背 の査策を知 ったとき'かれは 「 す べては終 った」とくちばし った ので あ ったが' それ に つづいて' 「 昨夜大きな星お 落ち る のを みた. これは二皮目 で' 1度目 にみたとき は文忠公 ( 李 鴻牽 9 知 二凹五 こと)が死んだO こんどは自分が死ぬかも れな い」と い って歎息した のだ ったO `そし て'先 組代 々' 五十九歳以前 に死 3 弧 E ん でいるから、す でに五十 八歳 にな っている以上' 五十九歳を 準 そ @ことはできな いかも知れな い、と い ったOこれは欽 周 樹 人 の役 人生 活 東 方 寧 報 え年 でい った のであ るO かれ は百分が 恐れたと おり の死を 迎えたと いえよう。 遡 上 のようなませ凱 の動 きを みると' かれ のも戊 にあ った各 部 の鵜 島'す な わち各 省大 臣 がま ったくか れ に服碓し てい たと考 える こと は できな いO か り に服推し て いたとし ても '息儀 に政 治的 には別 の活路を さがす よう にな った であ ろう。 あ る いは' 服従 は、じ つは面従腹背 であ ったO 通俗教育 研究 骨を 饗 足させた、教育 鵜島'湯 北龍 はどう だ った ろうか. 湯 北龍。 字 は済武. 湖北省薪 水 の人o 常時 四十 1歳o す でにみた よう に'蕩 北龍 は' たしか にこ の骨 の改親 ( ほと んど 新し-組 織した)を 推 進し たO敏 育 部 員 に命令 を 覆し て'骨 に加 入させ'兼職させ たO衰世 軌 に協力し たと いえ よう0 しかし'衰世凱 庖帝政資施 への野望が露 骨 にな ると'教育 港長を解 職し ている ( 十月 五日付)O 軒 職 した のは本 意 でなく 責 によ って罷 免されたとと る ことも でき るが、 罷 免され たとす れば ' い っそう喪 と の矛盾 は 深 いも のがあ ったとしな ければ ならな い。 清 末 にす でに湖北 省熟議 局長 であ ったか れが義 にた いし て能義 が明確 でなも はじめ に協 力し、. ついで纏交し たと考 え 八 凱) 諸 のは困難 であ る。辞 職 し たあ と、 北京 を去 って天津' さ ら には上海 に赴 き、 反衰 運動 を 展開 し ている。 ・ 民 国初期 の教育 線長 のうち、教 育 にた いし て自 己 の見解を表 明し た のは'琴 冗壇 '湯 北龍'蒋 藤津 の三人 であ ったと い 八 ㍍) われ る。 ノ 湯 化龍 の澄渡 とす る教育 は 「国民教育」 であ った。世 界 にた いし て国民固有 の特 性を 登揚す るととも に'世 界 の農 学牝 伍す る こと のでき る'生活能力を養成す ると いうも のであ る. かれ によれば' 国民固有 の特性 の模範的 人物 は孔 子 であ っ 。 た 衰世 凱 の見解も また 「国民教育」 の重商 にあ り'湯 と蓑 は見解を 一にす るか のよう であ ったが'表 は国民固有 の特性 は' 大 仁'大智、大 勇 にあ り' これをIm揮す る基礎 は忠' 章' 節'義 にあ ると主 張したo大 男をかかげ る のは'か つて清朝 の た め に西洋式 の軍隊を養成' 訓練した絶倫からき ている のかもしれな い。 通俗 教育研究 骨 のこと に着手す るよりさき'湯 は国家 漁算 のなか に教育 費 の占め る割合 があ まり にも 少な いのに憤慨 、 建白書を提出し ているQ 表 が通俗教育 研究 合 にた いし' 一貰 五千 四百 元 の寒費 の支出を みとめた のは'湯 の憤慨を なだめ る意圏もあ った であ ろう。 だが、ただ それだ け でな 顔 った のも学資 であ 茂 澄 は いよ いよ帝 政を賓 現し ようとし て いた。湯 にた いし て要求す ると ころがあ ったろうと おも わ れ る のであ る。帝政 の 世論 づく り であ るo LかLt湯化龍 は自 説を曲げなか ったO湯 と乗艦を Tにす る次 長、 初代曹長 の梁善務 は成立練合 にお いて' つぎ のよう ︼ 駆爪 に訓示した。 o 湯 鵜島 はあ いにく病索 のため休 まれ'出席 できませ ん。 諸 君 にた いLtとく に都人 に本膏 の宗旨を 概略 つぎ のよう に告げ よと申 され まし た 配合を 改良す る のは、 こん にち最も 緊急 の任務 であ る。 -- こん にち敢脅 はま こと に腐放し ており、 -- ここに本 合 は成立を みた のであ るから'配合改良 の責任 は他 に鱒嫁す る こと は でき な い。 本食 の今 後 の日時 は 二 つあ る のみo lつは国儀 の自費性を 番数させ る こと' 1つは国民 の愛 国心を登挿させ る こと' これ であ る0 -・ ・ ・ 自重姓も愛 国心も -: ・ ・ 多- の教育 家が種 々の方法をも ってこれを育成しな ければならな い・ ・ ・ ・ ・ ・ o そ の方法が 1に白く小説' 二に日-演劇' 三 に日-講演な のであ ります。 二四七 -⋮外 国 の演劇 は つね に冒険 尚武 の精画を含 ん でおります。 --嘗吐合 の習慣を利用し て新穂骨 の知識を 輸入す る 濁樹 人 の役 人生 活 東 方 軍 報 なら' そ の数采 は必ず や大 であ ります。 この訓節 のよう に通俗 教育 研究 骨が 進む のは'衰世 凱 は不満 であ ったと いう。 そ こで教育 線長を 更迭す る決定を 下し た。 後 任 は政事 堂機要 局長 の張 一馨 であ った。 張 7摩。 字は伸 仁。 江蘇省 呉薪 の人o 常時 五十 歳。 かれ はも とも と'表せ 凱 が直隷 線督 であ ったとき'幕僚 とし て文書 の起草 にあ 卑 って いた。 衰 が 軍穐大 臣と し て北京 入 りす るさ い' これ に随行'表 の元 め に詔令 '起 草したo 表 が大総統 にな ると秘書官 とな り' 国務院 が政事 堂 に改組 され る と' その機要 局長とな ったも のであ るO 教育 凝長 に任じられた張が'天 遮統 に貌 見し' 重要な指 示を満 た えられた こと は、 張 の登廉第 7日 の訓示 にみえ ているO た 。 それ によ ると' 濠 は 「社食教育 は普 通教 育と 並 ん で重要 であ る」 と い ったと いう。 張 は嚢 のこ の指 示を 樽 逢したあ と' 5 1E G i ._ E : 「通俗教育 研究 骨 の各 曾 貝、 息た よ- こ の意を仰ぎ 健得し て' 骨務 の進行 にそ のカを 義さ れた い」と つけ加 え 張 はさら に次 長 の梁尊 酒 の免職を 上申 ' 梁 は罷 免され る ( 十 月十 九 日付)。 つぎ の次 長 の衰希 漆が着 任す る や否 や' こ れを待 って いたか のよう に通俗教育 研究 骨 の第 二同組合を ひらく ( 十 月 二十 八日)0 成立畿骨 でも あ った第 1同線膏 から 二カ月 たたな いうち に、教育 総長'次長 が いれかわ ると いう'あ わただし さ であ り、 しかも こ のあわ ただし い人事異蘭 は通俗教育研究 骨 に関係す る性 質 のも のであ ったo E I 鎚i : 張 7蜜 は練合 で つぎ のよう に郡示し た. これ' ま こと にわが社食 の特 長 で遜 る。世 界を 中 国 の敢合 は遊牧時 代 かト 皇 不法時代 には い った. そし て宗法 配合 は中 国社食 の精 紳とな り'家 族 は家 長 の命 に従 い' 孝悌 貞節が美 徳となり' 人 心 にあ らわれ普 及し て風俗 にま でな った。 みわ たし ても 通じ るも ので' わ が 国が 長じ ると ころは保存 しな ければ ならな い。 さ ら に ' つぎ のよう に の べた. 積極 面 にお いては忠孝 の意を 寓したきわめ て興趣あ る小説を編纂 Lt しかも文 詞情 節 は人を ひき つけ'穀倉 でひろ く 讃まれ るよう にす る。 薗 北龍 は'敢魯改良 のため にへ 国民 の白夜性 '愛 国心を 養成す る こと が、 通俗教育 研究骨 の任務 であ る'と した。 これ 綻た いLt張 1馨 は'家長 の 命 に堆 い'孝悌貞節 の美徳を保存 し、さら には忠孝を中 心 にお いた小説を普 及す る こと であ るt ととな えた のであ るo これは衰世凱 に近 い見解 であ って' 孫瑛 は' 「 新しく任命された教育 練長張 1馨 は大 骨 にお い ( 試) て大 いに封建主義を鼓吹し、 公然と貿 圃奴衰世 軌 の牽制復辞 のため に ラ ッパを吹 いた」と い っている0 と は いえ'張 l楽 は豊年 の春 に'軒 職す る 二 九 l六年 四月 二十 三日)。 か れはも とも と'帝 政 にあ まり熱 心 に協力し なか ったとも いわれ' 「衰 ノ帝政 運動 二不同意 ヲ唱 へテ ∩機要 局長をU餅 シ」 たと記す 人物 事典 さ えあ る. 「 衰世 凱 の帝制 復辞 のため に ラ ッパを吹 いた」 と断定す る のは無理 ではない だ ろうか。 ( 節 ) 陶菊障は つぎ のよう にt の べている。 慶 が帝 政をすす めた こと は'全国 人民 の切歯 唾馬を う けたo 親戚親友' お よびか れ にしが み ついて立身出世 を はか る政治鎗 寄生 轟 のな か にも'蓑 と のあ いだ に矛盾があ るため'異な る程度 の非協力箪 態度が みられたO 趨爾 巽は蕃安 合 の宣言を みるや'床 になげす て' それ っき り清見館 に出勤しなか ったO 徐世 昌は辞 職が准許され る のを またず'官 邸を でて蛸 蝶胡 同 に移 った。 教育 線長湯北龍'練検察長篠文幹、義 政熊希轡 りも つぎ つき に辞職'あ る いは休 暇を申請し て北京を離れ た。政界 の人物 が辞 職Lt休 暇 に申 請す る こと は'新し い皇帝が即位す るまえ' ひろま っていた 風潮 であ った のであ る。 二四九 政事 堂概要 局長張 一審 は帝剖 運動 に熱 心 でな か ったため'裏 によ って表 面は発蒋'賓 際 は降 箆と い った手 段 で教育 周船 人 の故 人生 活 東 方 学 っ 報 。 て考 え ると'張 一筆 の教育 棟長就 任 は徐世 昌が軒 織 した直後 であ り'辞 任 したと は い っても'東 が帝 纏長 に摘出 させ られた し かし ひるが え 制を と り消したあと であ る. それ ほど裏 にた いし て強 い拒絹を 示したとは思えな い。 長 い期 間 にわた って秘書を つと めた つなが りは、急 には拍 つ ことが できな か った のかも し れな い。 f 得 意満 面、な がながT U訓餅 を たれたとも考 えられ る。 長年 にわ た っ 纏 骨 におけ る訓酢 は' 衰世 凱 のためと いう よりは' かれ の中京 の思想を 開陳 し たと いう 面も宰 分 にあ った のかも しれず' あ る いは裏 の策略 にひ Tかか っセ 「発韓」 だと信じ て、 かれ は秘書チ それも 文書 の麗 筆と いう裏方 であ ったからへ突 如' はな やかな舞 毒 にひ っ な り ださ れ て、 こ のとき裾 か りは責 のため に協力す る つも りがあ った のかも しれな い。 。 O か れは教育 纏長を離 めたあと' 副聴続 構 図韓 の秘書 長 に返り咲きへ端 の大 槻続就 任 にとも な って纏統 府 秘書 長'徐世 昌 か が大 衆銃 にな ると顧 問とな ったO 民国初期 の官 界を 囲藩 に歩 いた人物 と いえよう ( 鍋) では'教育 部次 長 はど う であ った ろう 褒 希薄{ {字 は観潮O ・江森寮 費山 の人。 清朝 のとき の撃 人 で' 上海 賦方 言館教 員 にはじま って教育 畑を少き'教育 部 入りを し てから はまず普 通教育 司司長 であ った。 張 一聾が離 職す ると' かれも これ に同調す るが'浩 源凍 総長 のも と でふたた び次 長'以 後' 聴長代 理を つと め る こ と 二回 であ ったO 「入物 温良、吏 こぶる人 の困 窮を助 け'青年 の教育 のため に私財を 分 つことを悼 まなか ったLo 常時 四十 五歳。 通俗教育 研究 骨 の三 つの分科骨を統 轄Lt小 説分科骨 にも 毎 同出席し た轟審幹事 の高歩液 はど のような 人物 であ ったかO 高歩液。 字 は閲仙.京 兆覇 願 の人. 常時 四十 二歳。 撃部 に入り ( 主事)、 中華民国成立後' 教育部余 事' 1九 1 . 五年七月から敢禽教育 司長 で. あ ったや昇 適したば かり の司長とし て' 通俗教育 研究 骨 ではかな り熱 心 に推 進役を つとめ ている。 か れ の司長在 任 は' 一九 二七年七月 ま で つづ-。 絶品 や次 長'あ る いは奪事'他 の司長が よ-交番した のに比 べると' 瞥時 の中 国 の政治家 は'むし ろ政客 と でも いう べき であ った ろう。 国務親理 ( 国務 卿)は、衰世 凱大鹿銃 のも と で、唐 驚 練炭 は'寮 元磯'滑 源溌'劉冠雄'陳振発 ' -董 鴻醸 、狂犬獲 '巌修'溶 化嚢 、張 !摩 り張陶冶 と いれ かわ っている0 紹儀'陸徴 韓'赴菜釣'段租覇、熊希齢 '孫貸碕'徐世 呂tと いれかわ って いるo 敦 し かし'家長 にな ると、煎 源凍' 董鴻産'梁善 済'衰希 藩'李 囲珍'と いう よう にやや安定 し ている. 政客 とし て政 界 を 遊,,#す ると いう ことが比較給 に少 なか . った であ ろうと患歯 され る のであ るO この階層が結び ついた のはせ いぜ い兼長 ま I, J・. ・ .: .T. 花. ∵リ ・ ・. . .: 一 : ・ L・ ︰・ .∴ 、.= ・ ・ : I . ・・., .: ・. .=[ ', .A ( ・ い1 . ・ べ. ・_ eJ .. . .=︰ ∵ . ・ ・ .・ ] い・ , + ニ ー ';; ' 1 '・ J. ・ ・・ 1. /・ ∵ ∵∵ノ 通俗歌麿 研究 骨 の骨品が教育次 最 であ る こと は尊 兄にも の べたと おり であ る. 次長は線長 のおも わ-を たえず考 慮し た 家 長 の上下関係 は比戟袴 に穿定し て いたから' それだ望 兵営 凱 の意園 の上意下達は順調 であ ったと考 えられ る。 し かし'表せ 凱をと りまく政界 のうどき は、す で にみたよう に'必ずしも裏 にと って満 足す べきも のではなか った 。 し たが って' 通俗教育 研究骨が ' !見'も っぱら裏 の帝 制汽 現 に奉 仕したか のよう であ ったとし ても'固定的 に考 え る こと は できな いo 周樹 人 の役 人生 活 東 方 学 四 報 分科禽 の審 議 と周樹 入 周樹 人が主任とし て主宰した、小 説分科骨 の合議 は'あわせ て十 二同 であ った。 かれは毎回 の合議 の議長を つとめたが、 ど のよう に討論を まとめた のだ ろうか。 分科合 は記録係を お いて議事功 進行を 記録し ていたO 要約筆記 であ るが'討議 の模様を うかがう ことが でき る.す なわ ち' ﹃通俗教育 研究脅報告書﹄政 録 の 「分科脅脅議録」 であ るO また' この 「合議錬」をもと. に'分科合 における周樹 人 の活動を再構成した労作'孫瑛 ﹃教育部 における魯迅﹄があり' 参考とす る に足り るO 必要なばあ いには' これを 「合議録」 と瀞渡し よう0 ただし書名 にみられ るよう に' これ は周樹 人 ( ) を .「魯迅」とし て扱 っている。 まず、欝 1同'第 二同 の禽議 は、軍務虞理 の 「細 則」作 成 にあ てられた0第 1同 の禽議 で、起草者 三名 が'主任 であ る 周樹 人 によ って指名 され ているが、 「 細 則」 にな にをもり こむか'討論された様 子はな いO 「細別」が定めた小説分科合 のなす べき作業 に ついては' この分科骨が範足したとき に'す でにわか っていた のであ る。 おそら-'教育部が召集した 漁傭合議 で'す でに小説 の審査竃お こなうと いう大網 は決定し ていた のである0第 二回 の脅議 で起草者 の原案をも と に' 若干 の字句を修 正' 「 細 則」 は採持された。 そ の内容 は'す でにかかげ七とおり であ るo 主任とし ては周樹 人は' このホ説 の審査を お こなうと いう大綱 に疑問を 呈し ていな い. 第 三同から第 六同ま では'採樺された 「 細 則」 にもと づ いて'分科膏をど のよう に運営す るかが議論されたo小説を審 査す るとし ても'世 上 に定 濫す る小説はあ まり にも多 い? まず 調査し て'審査す べき射象を決 めなければ ならな いのでは な いか。 そ こで'第 三同 の骨議 にお いて'主任 であ る周樹 人は'小説分科骨 のなす べき作業は'福詳'調査'審査t の三頃日 で あ るが'福語 に ついては問題はな いとし て'討議 の封凍外 におき'調査と審査と いずれがさきか討論 した いtと提起した。 これをうけ て'庶務幹事、徐協点が 三項目 の作 業に軽重を つけ菓 いが'手渡q) かちすれば 調査がさき であ ろうが、 その必 要がな ければ審査 にかか. ってよ い'と撃 言.JたO ∼ このあと'周樹 人は'審査を脊施 したあと、 つぎ のよう に分類 でき ようtと琴 盲し ている。すなわち 1 滴 封 に禁止す るも の 二 禁止も推薦も しな いも の ( 雁薦め原文 は 「轟 唱」 ) 三 紅膏 に有 益なも のO推薦し てよ い 宗旨が純 正でな いも の'配合 風俗 に有害 であ るも のは悪止す べき であ ろう。推薦 に ついては '肯小説は禎催すざ る これ に輩成した のが、線審幹事 の高少藩 で' つぎ のよう にの べた。 - から調査困難 だが、新か説 のなか に賓際 に敢禽 風俗 に有 益なも のは'方法を講じ て推薦す べき であ るO そ こで討論 はへ では審査 にあた って基準を まず示す べき であ るが'教育部 にそのような基準があ る のか勺と いう こと に でな い美配 な った。 また、新嘗 の小説は数千を下らな い。 これを調査し て表 に作成 でき る のか、と いう展開も でた。各人が表を作成 も でも もよS ar それを集 め て練濃を作成す る庭 いう提案があり'まず糞止す べき庵 のは 盲 庵単-奈止せ笑 わぎわい の 殊 を うけ ると いう琴 盲もあ ったo L 合が 一日 ・徐協貞が'数 人を推薦し て基準を作成す る泰へ それとも客 人が それ ぞれ意見書巻 提出し、 これを討論す るかへと壁 書。 二五三 高歩濠が教育部 にあ る基準はきわめ て簡 単な ので'起草者を指名し てあらため て作成す る のが よい、と提案。 これ にた い 周船 人 の役 人生 活 東 方 撃 報 二五E I jJ 起 草したも のを さら に討議し て完 全魔も の常す るt か つ主 任 はか 説 の審査 にす こぶる経験が儀 るか ら、協 議 で潰 よう と いう尊言があ り ( 範言者 は畢悪康)' 閲樹 人が起 草者 二名を指名 し て' 解散 した。 この節 三岡 の討議からうかがわれ る のは、教育 部 では この通俗 教育 研究合 の鞭足以前 に、す で に小 説を 審査 し て いたと いう こと であ るO 七かも討議 Qなか で周樹 人は これ に経験 があ るとし て名前 があげ られ て いる0 周樹 人はす で に'小説 の 審査を 携嘗し ていた のであ る。 小 説分科合意任 に任命 された のも ' これと関係 があ ろう。 このあ たり のこと は' いまま で知ちれ てい尭 か ったO 教育部 にす で打小説審査 の基準 があ った こと」 周樹 人が教育 部 に あ ってホ 説 の審査 懲推察 した こと は、分科膏 の議事録 から知られ る新し い事賓 であ る0 ただ し' 目下 のと U. ろ' こ の教育部 にあ った小 説審査 の基準 に ついては'わ からな い.周樹 人がわざ わざ 三種 濫分寮す る ことを提案し ている こと から推測す ると' 基準 はただ禁止す るも のの範 闇を走 めた にす ぎず、 審査 は禁止す るため のも のであ った ろう。 そ こで周樹 人は審査 の結 果 「推薦 」す るも のがあ ってよ いt と提案 した のであ ろう。 た だ禁止す るため の審査 に' かね て不備を抱 いて いた のではな いかと想像 され る0 しかし'す べて の小 説が禁 止 され るか'さ7 0な ければ 推薦され そ と いう こと はあ りえな いO 禁止も されず 推薦も さ れ ずti Jいう郭楽もあ りう るわ け で' こうし て三 つの分類 ( 三段階 の評贋)が提案 され たと考 えられ る. ・ 周樹 人 のこ の凍寒 は'教育 部 の外郭 囲贋 の事 務鹿 理上 の ( 審査も 草履 虞理と考 え るなら) 1つの思 い つきt とし て' 周 樹 人 であ った魯 迅 の樽記 に つけ加 え る ことが でき よう。 し かし' それ ま で禁止す る ことが嘩 1の捨置 であ った のに封時 し て' 推薦と いうも う !っの捨置を 贋し- 設定し たと みるなら、 やや誇 張しノ て' これ は文化 政策 の新し い方 向 であ ると許償 でき る であ ろう。 もち ろんt ではど のようなホ説が推薦されたかtが問題 であ るO また'推薦 の 1万 で禁止措置は依然とし て存在した とも 忘れ てはならな い。 欝 四へ 五、六回 の骨譲は、審査 の基準をめぐ って討議が進行す る. こ 欝 EI L団には'起草者が、 「小説審査 ノ基準」を報告、小説はあ まりに繁多な ので、 まず これを分類したと のべ'分糞し た名 稀をめぐ って討論がお こなわれ'原案 に若干 の修 正が加えられた0 政治小説 に ついては、起草者から' これ に含まれる無政府主義'配合主義 は'わが国は共 和国であ るとし ても' やはり 制 限を加 える べき である、と説明があ った。 O 高歩濠 はさら に、上'中' 下 の三等 に分け'上等は推薦Lt中等 は放任Lt 下等 は禁止し'区別す るなか にも褒庇 の意 を寓もたらよ いtと提案 討論 ののち' これら の意見を いれ て修 正す る こと にな り、修 正加筆者を指名'第 五同を修 正案が提出され達保審議した。 ,こうし て、す でに前述した'「 小説審査 ノ基準」が採揮された のであ ったO 二二九頁参照。 いよ いよ ' この 「基準」 にもと づいて'小説 の審査 にとりかかろうとしたとき'研究骨 の第 二回大骨が開催されるO 教育部 の級長'次長が更迭し、新任 の練長が訓辞を のべ、 そ こでへ孝悌貞節'忠孝と い った封建祷徳 目、 イデオ ロギ ー が注 入された。 二四八頁参照。 と想像す る ことは容易 であ る0 そし て孫瑛 は このような想像 に出登し て'大骨以後 の小説分科合を再現し ている0 新任 の赦長'張 一麿が このような強堅給な態度をと った以上' これは周樹 人 の反感と 抵抗を招 かず には いな いであ ろう ! 二五五 まず' 第七回 の出席者が平素 の出席十 四' 玉名を越えへ 十九名 にた っした のをとらえ' 「 あきらか に事前 に手がうたれ E IE' I E ていた」と いうOあ るいは' そう であ ったかも しれな い. しかし新棟長が大骨を召集し、 訓軒を お こな った直後 の分科禽 周 樹 人 の役 人 生 活 凍 方 牽 報 であ る。 訓辞 のき き め はまだ 頚 つて いて、 出席 者 が多 か った とも と れ る。 ま た' 出 席 者 が 増加 し た ことと 関 連 し て線番 、 庶務 、 合 計 の三名 の幹 事 がす べて出席 し た と指 摘す るが、 じ つは かれ ら は第 一回 か ら ほと んど毎 同' う ち 揃 って出 席 し て いる のであ るO 孫漠 は'魯 迅 の筆名 を 用 いる以前 の周樹 人も 「魯 迅」 と 呼 ん で いる。 そ こで' こ の小 説 分 科 骨 にお け る周樹 人を 、 「 魯 迅」 的 に措 く従 来 の 「魯 迅」 像 を な ぞ る こと にな った のではな いかO こ のよう に出席 者 数 や 三幹 事 の出 席 と い った ことを 意 味 あ りげ に指 摘す る のは' これを あ る樺 の陰 謀 と し て印 象 づけ' これ に抵抗す る 「魯 迅」 を 強調 し た か ?た のであ ろう.- も ち ろ ん'陰 謀 はあ り えな い こそ ではな い. し かし ' 周樹 人 はす で に主 任 と し て忠 資 に職 務 を 遼 行 し て い る Q で あ るO 「事前 に手 を う」 つほど' 敵 対的 な 存 在 であ った ろう かo わざ が ' す な お に議 題を 討論 せず ' いき な り自 説を 主 張 し た t と孫 喋 は いう のであ る。 開 食を 宣し たあ と、 周樹 人 が . ( 孫 薬 は'魯 迅が、 とす る)編 欝 の基準 を 議 題 塗 し て告 げ た。 す ると' 線審 幹 事わざ 出席 し たと孫瑛 は い って いる- 開 合 の のち、 分 科 骨 主 任魯 迅が合 議 の内容 は編 謬 の基準 の問 題 であ るiJ 宣 告 し て いる 常も か か わ ちず 、 「線番 幹事 」 高 歩蔵 は曹 長衰 希 薄 が 「す で に これ に言 及し て いる」 と い った 旗 じ るL を か かげ 、 あ ら た め て討論 す べき 内容 を 強調 す ると とも に' いか にも 性 急 に' でき るかぎ り 「女 子 供 にも わ か る」 小 説を 福 謬し て' 「も って普 及」 を 期 す べき, で ( 3) あ る' と 提 起 し た。 これ は' 「骨素 線 」 の つぎ のよう な 1段 に照度し ていようO はじ め に主 任 周樹 入 君が 開合 を 蓋 し 'あ わ せ て小儀 を 編 謬す る基準 に つい て提 起 'も し本 分 科食 が こ の小 数 の轟 評 に着 手す るとす るな ら'先 き に基準 を 定 め る べき か 否か' また そ の基準 はど のよう であ る べき か' 討 論 を 願 いた い、 と の べた。 高 歩惑 君 は'本 日曹 長も また これ に言 及Lt わが 国 の小 説 のやや佳 な るも のは いず れも 深奥 であ るからへ 本 合 が編 謬 に従事 す るとす れば 女 子供 にも わか るも のを 轟 謬し て普 及を 期す べき であ る。 し か し、 編 評 の基準 ' お よび段 取 り ( ∼) ︹原文 「規 程」U に ついても発 き に規定 し な ければ な ら な いt と の べた. 「脅議録 」 からす れば ' 高 の撃 言は それ ほどと っぴなも のとも おも われ な い. 自 説を 主 張す る のに' やや性 急 であ った 孫 によれば '魯 迅 にLJって - ' 鼻も ち な らな いも のであ ったと想 定 Lt 合 議 のやりと りを つぎ のよう と は認 めら れ るが、 そ の撃 言の末 尾 にお いては、 議 長 の提 案 に同 意し て いるO し かしな が ら' 孫 瑛 は' こ の高 の豪 一 言は周 - 樹 人 にと って 「編 講をす る には' まず 参考 書 を捕 えな く ては着手 できな い0 本 合 に参 考 に供す べき書 籍 が あ るか否かも 問題 であ E ( F n る」 と の べ' そ こで' まず 審査をす す め る べき ことを 主 張し た。 し' か れ のこう い った挙動 に'魯 迅 はかな り の反感を あ ら わ し た. かれ はまず 登 言 のな か で高 歩濠 にかな り太 い釘を さ に再構 成す る。 ・ であ るrJまず 審査す る に如く はな い。 それ で本 員 はまず 通俗 岡書館 の小 説 から着 手L t第 1鮎 から始 め' 順を 迫 って ( S) 審査す べき ことを 主 張す る、 と の べた。 周樹 大 君は' 編 評を す る には参考 書 を備 えなく ては着 手 できな い0 本 合 に参 考 に供す べき書 番 があ るか 否かも 問題 これ は' 「合議録 」 の つぎ の 一段 に封盤 し て いよう。 - 周樹 人 の議 事 のと り さば き は、 や や意外 であ る。 窮 評 の基準 を 定 め る べき か 否か' また そ の基準 はど のよう であ る べき か' 自 分 が議長 と し て こ の議 題を 提 起 し た のであ るQ編 罪 の仕 事 そ のも のを 推 進せ よt と 高歩濠 が主 張 し たとし ても へ げ 二五七 っき ょく まず 基準 があ る べき だと い って' 周樹 人 に賛 成し た のであ る。 こ こでは' はじ め の自 分 の提 案 に即 し て基準 を 定 周樹 人 の役 人生 活 発 方 轡 報 め る ことを 確 認し、 基準 の制 定 に議事を 運 ぶ べき と ころ であ ろう。 亘 れを そうせず に'覇 評 に ついて議論す る こと自 髄を うちき ってし ま った. そ の準 言からす れば '福 課 の仕事 そ のも の を嫁 逢せよと いう高 の主張 にこだわ って'高 が自分 に賛成 した こと は'耳 には いらなか った よう であ る. あ る いはt .耳 に は いらなか った よう にふる患 っているO 孫漢 が描 いてみせた よう に' 周樹 人は反摸したとと る こと は' でき るかも しれな い。 周樹 人が 反療 したとす れば' それ は高 の琴 言がとく 覧 展希 薄骨炭 の意を 健し たと ころ にあ った のかも し れな い. 高 が蓉 言した よう に'濠 が 「す でにこれを 言 及し」た のだとす ればへ 周縁 人が福 浮 の基準 のそ の基準 に重きを お いたとし ても' と にも かく にも編 語を議題とし て提起 した のは、 やはり裏 の 「言 及」を う け て の こと だ った のではな いか。 しかし' それ は菊 のす す まぬ議 題 であ った。 高 にた いす る反槙 は同時 に本 音 の吐露とも な った のであ ろうO 周樹 人 には編 静 の仕事 そ のも のが急がれ て いる こと は' わか って いた。 同じ教育 部 に いる のであ る. そし て' それ に反 射 ではな か ったO だ が'編 欝 にも基 準 があ る べきだ と考 え、小 説 の審査 になら って' まず 「基準」を 作成し ようとした。 1麿 に由 来し て いよう. 通俗教育 研究 骨 の大 骨 におけ る訓辞 はす でにみたと おり で これ にた いし て'高が' かれ の芋 鳩を無 視し た撃 言を し たO これ は周椅 人 にと って' 7種 の墜カ とし てう けとられたと お も われ る。 たしか に' それ は歴カ であ っ寵. こうし た墜カ は嘗然'教育 騰落 の張 大 絶続 に 「勤 見」し たとき' 「一般 の学校 と 同様'配合教育を 重開す べき であ る」と お言葉を 賜 わ ったt と の べた。 さら に つづけ て' 通俗 研究 合食 員 は大 継続 の意を 鰹し て骨務 に轟力さ れた い、 と の べた。 か く て'憂世 親犬 線紋 の意賓 は張 一薯教 育 親 長を つうじ て教 育部 員' と- に乗磯 の通俗 教育 研究 脅 脅 員 に樽 達さ れ たO お そら- さ ら に'教 育 部 次 長 にし て通俗教 育 研究 骨 の骨 品 であ る哀希 薄を つうじ' かさ ね て通俗 教育 研究 骨 の賛 際 の運営 に ついて指示 があ った のではな いか。 大 倉 で訓廓 のあ った 翌 日、 周樹 人 の日記 に つぎ のような 一行 が みられ る のは' 注 目す べき ではな いだ ろう かO ( -) 午 後張 凍長 召見すol , 周樹 人だ けを 「召見 」 し た のか'教 育 部 全員を 「召見」 し た のか' わ から な いが、 こ の書き ぶり では' か れ 個 人が 呼 び つけら れ た よう であ るO 大 食 の翌 日 の こと であ るから '小 説分科禽 の主 任を と - に呼 ん で'勉 励し た のではな いだ ろうか. 穀 倉教育 司長 であ る高歩薩 は'部 下 であ る第 1科 長 周樹人が親 長 の 「召見」を う け た ことを 知 って いたo 知 って いたど ころか' か れを 経由し て呼び だ Lが あ った にち が いな い のであ るo それ で周樹 人が議 題を 提 起す ると、も っと鎮 極的 に推 進 せ よと ' 孤 軍言し た のであ ろう。 周樹 人が これ にた いLt自 分 の提 案を ひ るが えし ' 小 説 の審査 から まず着 手す るよう主 張し た こと は'す で にみたと お り であ る。 、 ⋮ 、 それ か ら の討論 の模様 を '孫 瑛 は つぎ のよう に描 いて いる。 だが つづけ て' 「審査す ると い っても き わ め て難 し い」 と の べ' 一同 に審査 にか け る時 間 の長短 の問題を 討 論 し て も ら いた いと の べた。 高歩濠 は多 数 の禽 員 が魯 迅 の意見 に賛 成 し て いる のを み て' やむ な- 大 勢 に順渡 し て賛 意を 示 し たo Lか Lt でき 「これ の期 限 るかぎ り審査 にか け る時 間 を 短 縮 し て' いわ ゆ る 「忠 孝 節義 」を 宣 揚す るし ろも のを 「でき るか ぎ り 早- 寂 静」す る 二五九 こと が でき る よ う にた く ら ん だ の であ る。 魯 迅 は これ にた いし 断 固 と し て譲 歩 せ ず ' 正 面 か ら 封 決 し て 周樹 人 の役 人生 活 東 方 撃 報 . 二六〇 ( ・ ・ ) は規定す る のが難 し い」と い った。 そ の結果' この層 の昏議 は 「審査 ノ時 間 ハ暫 ク規定 セズ」を決議 し て終 了した。 このような再 構 成 からう ける印象 は、 意 義 の高歩減 にた いLt 善 玉 の魯 迅が 丁 々登 止と斬 りむず ぶ壮 絶な チ ャンパ ラ劇 であ る? だが' 「脅議録」 によれば、主任 は 1つ 1つ問題を 整理し ている にす ぎな い。 審査 にかげ る日数 にし ても '以 下 にみるよう に周樹 人は期 限を 定め る のは困難 だと いいながらも 概略 の日数 を決 め よう とし ているO 高 にた いす る妥協と いえ る。 これ にた いLt孫 牡' 王家 釣が 反対し ( 周樹 人 にも 反射し)'「暫ら- 規定しな い」 に落着く のであ るO もし高が 「事 前 に手を う」 っていたとす れば、 ここで孤立しな か った はず であ るO 高汐療 君も ' まず 囲書館 の小説 から審査 し、 これを 審査 し給 ってから'他 所 の小 説 の審査 にと りか か る ことを 主張 。 は囲書館から と ってき て登録 ず み の小説 に ついて審査す る 本 員 に わたし し た。 徐 協貞 君が いう には、 聞古緒 内 の小 説 に雅 正を映くも のがあれば '木 骨 で害査 し て のち 閲歴を 停止す る のが よ いt と 主任 が いう には、審査 の方法もき わめ て難 し いO と とも に、 圏書館 で購 入し たば かり で未整 理 の小 説 に ついて審査 し' 両者を 並進させ るなら如来をあげ る のが 早 いと おも われ る。 こ の方法 に ついて異議 はあ り ませ んかt と。 1同賛成し て採揮。 周樹 入君が また いう には 「各 審査 員が審査す る期 限 の長短 に ついて討論 はあ り ませ んか'とO 高歩濠 君が つづけ ていう には' こ の期 限は明確 に定 め てお- のが望 まし い。 厳格 に制 限す る こと は でき な いにせ よ' これ の期 限 は規定す る のがき わめ て難し い. 何 日間か け て ︹ 小数︺ 1部を審査す るt と 概略 だ いた いの規定があ った ほうが よ い。 結 局どうす るか は' 衆議 によ って決 定し ていただき た いt と。 周樹 人君が いう には、 のと ころ で決 め ておけば よ いt と。 孫壮 君が いう には' 現在 の新嘗 の小 説 は肪数 が同じ でなく'多 いも のもあ れば少 な いのもあ るO 蓋 1的 に規定す る のは難 し いと おも われ るtと. 王家 騎君が いう には'本合 の合点 の年ば は兼任 であ るから期 限を定 め て束縛す ると' 賓 際 上は不便が多 いだ ろうt と。 討論 の結果' 審査 の期 限は斬らく 規定せず、 ただ事貨 上 は敏 速 であ るよう努 力す る も のとす る' に 一同賛成'濃決 し て採揮。 ついで孫牡 君が、各書津が邪淫小説を 販責す る のを禁止す る議案を提出し た いと希望. 高歩豪 君が衣 同 の分科合 に ハ 争) 正式 の議案 とし て提出し てから審議す るよう委 嘱。時刻 はす でに四時 であ ったから主 任が散骨を 宣告O - りかえし ていえば'右 の 「合議錬」 から 正面き って' 1から十 ま で高歩液 に反対す る 「魯 迅」 の姿を描- ことは困難 であ る。 かれ は高抄濠 に反射しな いのではな いが、 それ はた だかれ 1人が 反射し ている のではな いo 高 はとき 竺 尚塵鎗 で す る か ' 具 憎的な方策 に ついて議論 が お こなわれたO あ るとし ても'議長 であ る 「 魯 迅」 に 一から十 ま で整力を加 え' 討議を左右し ている のではな い。 と にかく ここでは'討論 が お こなわれ ている のであ るO 第 八同以後'第十 二回ま での合議 は'ど のよう にし て禁止 この方策 は 1種 の法令を制定す るも ので' 分科骨 の審議 は'したが って法令 の文案を めぐ ってお こなわれ る こと にな るO そ の法令 は 二件あ った. 1つは 「小説 ノ善 導改良 及 ビ禁止案」 であ る。 二三 1頁参 照o いま 一つは 「優良小 説 ノ目録 ヲ 公布 スル案」 であ る. 二三二頁参 照O いず れも第十 1同合議 のあ と ひらかれた第 三同大骨 で採揮さ れたO こ の間 の岡樹 人 の立 場 は'孫瑛 によれば 巧妙 な る方法を も って'市 制 を貨施 し ようとす る 1浜 の人間 と た たか った と い うと ころ にあ るO 孫漠 の見解 は'す でにみた よう に、教育総長'次 長が衰世 軌 の意囲'指 示 に沿 って活動したと いう前提 にた っている。 二六 1 たしか に上記 二 つの法令 は' 運用 のしかた によ っ ては牽制賓藷 にも役立 つことが でき るよう におもう。も ち ろん' 周樹 を審議した のでな いこと は いう ま でもな い. きた'葦際 にも、法令 は 人が市制賛施 に手を借 そうと考 え て' これら の法令 周樹 人 の役 人生 活 東 方 寧 報 二六二 帝朝賓漁 の潤滑油 の役割を はたさな か ったO とす れば' 周樹 人以 外 の入関も 、 ペ つに義 に協 力す る敦 圏はな か った のでは な いかtと疑 ってみる ことが でき るよう におも わ れ る。 「骨議録」、によ って、分 科食 の進行 のぐあ いをぎ っと眺 め てみよう0 まず'第 八回 の脅議 であ る。 ここでは ( 審査幹事 )孫牡 の提 出し た 「小数 ヲ査 禁 スル ー ス 宜 ク預 メ通知 スベシ ′案」盲 審議し た. 書店 で販寮す る の を禁止す るばあ い'書店組 合 があ るなら教育部 から 正式 に通告し てはど うかと いう意見が でて・ 上海 '天津 には書店組 合 があ る ことが確 認さ れ' こ の秦 に 1同 は賛 成し た。 部 分的 削除 によ る許 可は認められな いと いう こと) の小 数 は新聞 掲載 のも のに多 い, 新聞が 裸鰻 と ころが' 全部禁止 ( 重を 附録 に つけ て板東 し ているtと- に 口語新聞 に低級なも のが多 い、 と報告され、 そ こで周樹 人は新聞 掲載 の小説が多 い以上、新聞を焚止 の封象 とす べき であ ると提案、 これ に孫敗 が賛成 した。 そし て新聞を 取締 る のは警察 廟 の管韓 であ る つは新聞 に掲載す る こと の禁止' ︰も う 1つは書店 が出版 から'禁止す るな ら事前 に警察 廓 に連絡しな ければ ならな い、 と つけ加 えたO そ こで周樹 人 は'禁 止 には 二種類あ る べきだ' と提案 し た二 し販賛す る こと の禁止O 禁止す るさ い各省 の長官 ( 巡按使 )を 経由す るか 否かが問題 にされ' 公文書 が韓 々とす ると効 果が おく れ るから,書店 組 合があ ると ころは' 直接 通告す る方 が寮施 す るう え で僚 軍 であ ろうと高汐濠 が の べた。 さ ら に つけ加 え'組 合以外 にも 内務部、財政部 '警察 廉、 税務 慮怒 ど にも 連絡を と る のが よ い、 と の べたO (この議論 は'教 育部 に小説禁止' ひ いては新聞雑誌 の板東楽止 ( 出版兼止 ) の棟 限があ る ことを自 明 の前提 とし てお こなわ れ て いる。 しかし' いまは こ の問題 にたち いらな い こと にす る0 ) つぎ に'第 九回 の合議 であ る-0 前 岡 の修 正案 が法令 の名 稀も 「小 説 ノ勧 導改良 及 ビ禁止案」 と改められ て提出さ れ' 途帳審議字句 が修 正された。 ・,つづ いて' 「優良小説 ノ目録 ヲ公布 スル件」 が提 出されr 高歩濠 が 「優良 ナ ル」を 「上等」 と改めよと主張'修 正され 氏. その二件 は いずれも議決とされ'大食開催を待 って提出さ れる こと にな ったO これ には庶務幹事 の徐協点が反封'す で に議決した のだから討論 の必要 はな い'むし ろ小説を 第十 回 は準備された議案 はな-、 周樹 人は、 近日中 に大食が開催され るから、大骨提出 の二件 に ついて' さら に意見が あ れば討論 した いと提案。 審査 す る ことが重要な ので' そ の進行状態 に ついて報 告された いと撃 富。 周樹 人 は' 現在 のと ころ成果 なしtと答 えた。 ∴す ると徐 は'愛蔵 の含員が多 いのだから' 打開策を講ぜ よと主張'討論 ののち'審査幹事 だけ ではなく'分科合 員がす べて審査 に従事す る こと にな った。 さら に'中等 に属す る小 説を中 上と中 下 に分 け・ た いと いう提案 があ った のにた いLt 高歩濠 が'中 下は下等 にいれ'禁止 しな い扱 いにす れば よ いt と琴 冨O 次同 に審査 の批語を騰留版印刷 にし て配布 し' そ れ にも と づ いて等級を 決定す る こと にな ったo LかLt そ の次 回'第 十 1同は参加者が 年数 にた っせず流脅とな ったo 3 弧 E : こ のあと、第 三同大膏が開催され' ここで周樹 人は小説分科曹主任とし て' つぎ のような報告を お こな っている. 小 説分科 骨が議決したも のに二件あ りt Tつは 「小 説勧 導改良 及 ビ禁止排法案」' 1つは 「樫良小 説 ノ目録 ヲ公布 スル案」 であり ます。 いず れも本分科骨 にお いて討論 した のは いう ま でもあり ま せんが' 一分 科骨 のわず かな 人間 の 意見 にす ぎま せんO ここに大 合が開催され' 三分 科脅員が出席 し ておら れ るO 諸 君が この二 つの案 にな んらか の異論 を有す るか'修 正す べき個所があ るなら'さら に討論 し て いただき'完 全を期 した いのであり ます. これ にたいし討論 はな-' 探揮O 周樹 人は このあと' つぎ のよう にの べた。 二六三 小 説 の審査 に ついて申 します と' 現在'本分科骨 です で に審査を終 ったも のが数十 鮒 にた っし ており ます。 概略、 濁 樹 人 の役 人 生 活 東 方 学 報 二六四 多 くは中等 と判定 され ており ます. 諸 君が この件 にはな はだ注 目され ておら れる ので' つけ加 え て報 告す る次欝 であ り ます。 o 周樹 人は'分科倉 ではまだ議論 し て いな い等級判 定を 報告 し た のであ る0 第十 同 では'次 回 に批語 にも と づ いて等級を 定 め ると決 め たも のの'第 十 1回は流 骨 にな っている と ころ で' い った ん探揮 された この法令 が'第十 二同 の合議 でまた審議され る。「合議線」 は 「小 説 ノ勧 導 及 ビ禁 止案」 は曹長が この案 は考 慮 の飴 地あ りとLt大骨 に鼠 出さ れな か ったと記し ている。 しかも 、 このよう に周樹 人が開骨 にあ た 到着' よう やく審議 が始 った。 す でにみた よう に'大倉 で' こ の 「小 説 ノ勧 導 及 ビ禁止案」 は指控 され て いる のであ る。 あさ らか に'蓑希 薄 が横車を 推し たと考 えられ る。 周樹 人が'大 骨 で採揮さ れた法 令を'大骨 に提出さ れなか ったと撃 言した のは表 面を と り つく ろ っ た のだ ろうか。 「滑極 面」 と いう のは'日 本 語 に適 評がな いO 要す る に禁止す るば か り で' 奨励' 宣接がな いt と いう のであ る. 腰車を 推し た裏 の見解 は'要旨 つぎ のようなも のであ ったO ( ‖) これを 鮎槍す ると'多 く は滑極 面から着手 し ている。 この 栄 行が困難な 規定 であ る. イ デ オ ロギーを 旗繊鮮 明 にかかげ よへと い っている のであ る。 しかも '各 傑 項とも、 つぎ のような敏 鮎があ るtと いう の 第 1篠∼ わが 国 の磯カ が 及 ぶと ころはとも かく'租界 内 では賓施 でき な いO l 第 二礁 - 第 三凍 ! 賓施 が難 し いO 阿片' 密 輸 入品' 各 種 の危 険物 でさ え検査 が困難 であ るか らへ書 籍 は いう ま でも な い。 か つ検査 を葦 施 す る のは警察 であ るが' そ の程鮭 た る に首都 はな お文 明的 で'捜 査 ' 検査 のさ いな んな の事 件 は畢生 空文 をも って禁止す るな ら無 益 であ るば か りか有 害 であ ろう。 慎 重 にす べき であ って' な お詳 し- 討論 し な いだ ろうと し ても、 各省 にお い ては紛 挙が 資産 し な いと は いえな い0 El取 れ 第 四簾を 願 いた いO これ にた いし、 闇樹 人 は' 曹 長 の恵見 に従 えば '第 1瞳'第 二帽 は討論 の必要はない。帯 三傑 は削除す べき であ ろう。 第 四嬢 はな お討論 の必 要があ る、 と提案 し た。 徐 協 貞 が七 第 三傑 は残す 必要があ り'第 四僕 の目録 を 配布 しな ければ ' 警 察 が禁止 し よう には依 接 す るも のが な いt と の べた. 目録 の配布 を 主張す る馨 は' ほか にも あ ったが' 責 は ふたたび 撃 言' こ の種 の小 説 は秘か に販賓 さ れ るか ら'禁 止 し ても 面従 腹 背' 厳重 に禁止す れば す る ほど 巧妙 に逃 れ '流準 は いう べから ざ るも のが あ ろうt と の べた. 高 歩 癌 は利 が多 -寮 が少 な ければ 茸施 す べき であ る' 徐 協 虞 は資力 を も って賓施 す れば 効果 がな いと いう こと はな いt と それ ぞれ 重 言。 これ にた いし衰希 薄 は'第 三候 は 運途中 に検査 す る のは可能 であ るが' 零細 な書店 ま で検査す るとな ると 面倒 であ ろう、 と の べた。 長時 間 の討論 の結 果 '欝 三傑 は若 干修 正を 加 え るが '第 一'第 二'第 四 の各 保 は修 正せず 原案 ど おりとす る' とな ったO ( 柑) 四時 散 骨 ( 曹 長 が分科 骨 に出 席 し た のは 二時 十 五分 であ った)0 合議 のやりと りを たど ると'表 が こ の法令 のあ ら さが Lを し た のにた いLt 高歩 轟 と徐 協 責 が 抵抗 し て いると感 じ られ る。 この封立 は' 高 や栓 が 絶 島'次 長 の走 り使 いではな か った こ と を 示し ては いな いであ ろう か。 周 樹 人 の役 人生 活 東 方 撃 報 二六 六 公平 にみ て'衰 希 清 の指摘 は笛 って いると おも われ るo L かLt骨を かさ ね て審議 し てき た 人間 にと っては' はな はだ 不満 であ った ろう。 この第 十 二回 の骨議 では' 周樹 人と高歩感 、徐 協貞は 同 1の立場 にた って いる。 お そら-' この日 の脅 議 は相方 にと って不愉快なも のであ った。 このあ と'小 説分科合 は合 議が ひらかれ ていな いo そし て' 翌月 (1九 二 ハ年 二月)'周樹 人は主 任を辞 したO ころ'第 1七 同 (1九 二 ハ年 三月 二十 二日)' 第 二 1同 ( 七月 五日) の合議 には出席 し、 意見を の べた ことが わか . このあと、 周樹 人は小 説分科骨 に出席しな-な った よう であ るがtL かLt ま ったく出席 しな いと いう のではな いO い ま のと っている。 第 1七 同 には、小 説 の上等 と 認定さ れたも のに、 甲種'乙種'丙種' 三種類 の表彰 状を授 堪す る に案 ついてLk言' それ ぞれ の異 った色 の用紙を 用 いるよう に主 張したO また'分科骨が審査 した小 説を さら に覆審 ( 原文 は 「韓朽」)す る手 樽卓 に ついても、 討論 し た。 第 二 一同 では'小 説、 薙誌類を禁止す る件 が議論 されたO かれ は、 禁止す べき であ ると 認定 され た小 説 に ついては'す でに褐坂 にな ったと 否とを 問わず'す べて 1律 に公表す べき であ るとし ても '各 人 の見 解 は同じくなく' 同じ小説 でも ' 禁止す べき であ ると いう意見'禁止す べき でな いT Uいう意見があ るだ ろう'さら には表 彰せ よと いう認定も あ りう る'し たが って討論 のうえ慎 重 に虞 理す べき で、拙 速 であ ってほな らな いと主張したo また'あ る雑誌 が、とき に良 好な る小 説' を みて禁止す るか 否かを定め るよう主張した(‖)O とき に惑 い小説を 教義 し て いるぼ あ いには' そ の雑誌 の主 た る傾向 ・五 禁 止された小説 ・表彰状 を授興 された小 説 いま'小説分科骨 のホ読審肇 の欺祝を各年度別 にかかげ ると' つぎ のよう にな るO そ撃 っち年墓とあ るのは' 正月 ( 香 通俗教育研究脅 設 立 正月 であ るのは いうま でもな いが) に要りだされる飾り童 で各家庭が これを室内 の壁 に貼 ってた のしむ。参考蘭書は講演 B EE にさ いし てのも ので、 おそらく講演分科骨 の選定 であ るが、便宜上あわせ てかかげ る。 一九 1五年 一九 一六年 添説 二百六十 五篇を審査 1九 山七年 小説 三百九十 五常を審査 慶考願藩九十 四鮎を公布 年蓋四十八鼓を審査 一九 一八年 か説百八十 二審を審査 参考国書十 二鮎を 公布 各出版鮭 に激怒藩を郵没 一九 一九年 ホ読百十 三第を審査 1九 二〇年 か説百 二十七篇を審査 一九 二 一年 小説百 二蘭を審査 周 樹人 の 役 人 生 活 東 方 撃 報 一九二 二 年 小説六十 請を 審査 以 上 のような審査 の姶 果'ど のよう に上等'中等 ' 下等 に分類 した であ ろうか。 これを 示す 一髪表 は作成 されな か った らしく ' ほと んど手が かりも な い, 0 しかし'審査 はす でにみた よう に'禁止 ( 開発禁止 ' 販頁禁止'出版禁 止)を 主 た る日給 とす るも のであ った。 この面 でいうと'着 の 1九 一八年 の項 にあ る'各 出版 社 に勧告書を 郵迭したと いう勧 管 は'編集者 にた いし て' 黒幕 小数と い っ ( -) たも のの出版を やめ'助菅 の美 徳を提 唱す る こと に麗 鮎を おけ、と いう趣 旨 のも のであ った。 黒幕 小説と いう のはへ穀倉 の裏 面を描落したも のであ る。 また' 1九 二 二年 七月 には' 通俗 教育 研究 合 の直接 の活動 ではな いが' そ の趣旨を うけ いれ た脊 行固健とし て 「若 菜 正 心国」が 上海 の書籍組合 に誕生 し て いる。 これ はも っぱ ら 人心 風俗 に危害をあ た え る淫詞小説を 調査 し、 か つこれを破棄 す る ことを 目的 とし、 まず ぎ裏 切書 から着手へ紙型 三十 六麗 ' 畢行本 雑誌 四寓 六千 三百九十 六 筋を 破棄 し たと いわれ る〇 九月 には通俗教育 研究 食 は'北京 の書籍 業界 にた いLt 同様 の 「正心圏」を組 織す るよう に勧 告を お こな った のであ る. さら に教育 部 にた いLt 二 つの上申書を きしだした〇 一つは教育部 が 内務部を 経由し て警察廃 にた いし、書籍 業 の商 人を 召集、上海 の書籍組 合 になら って理香を破棄 す るよう勧 告し命令 し ても ら いた いと い. うも のであ った。 いま 一つは でたら V 2 1 m めな ど ラを 取締 っても ら いた いと いうも のであ った。 ここに いう淫 詞小説 が いかな るも のであ った か はわからな いが' 四甚六千絵 肘と いう磨大な 胎教 から推し て' かな り俗 裏なも のであ った ろうと想 像 でき る。 1九 1九年 1月'北京 で創刊された雑誌 ﹃新潮﹄ の創 刊琉 に の った 1文 は' つぎ のよう に' 昔時 の禁止捨 置を賞讃 し て い ( . I) る。 民国 五 年 ︹7 九 1六年 ︺ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 教育 部 は内務 部 と 協議 し て こう い った種類 ︹黒幕 小 説U の雑誌 小 説数 十 鮎を 禁止 し た。 わ たし は現在 の嘗 局者も 留 意す べき だと 希 望す る0--青年 に害を あ た え る こう い っ ′ た書 籍 にた いし --教 育 部 は速 やか に取締 る ことが でき な いも のか。 こ のような讃辞 と教育 部 にた いす る要望を み ると' 常時 の 「禁 止」 措 置 は'歓 迎さ れ た のであ る。 こん にち の常 識 から 判 断 し て' これ は 一種 の 「検 閲」 であ った' し たが って'山 脈 の白由 を制 限す るも のであ ったt と性 急 に結論 づけ る こと ( ・ , , ) は でき ない。 い っぽう推薦 の制 度 があ ったO これも す で にみたと お り で' 周樹 人 の創 意 か ら出 拳 し て いる0 審査 によ って 「上等 」 と だ し '甲 博を授 興 さ れ る のは創作 小説 にかぎ ら れ、 部 課 はす べて乙種 とな って いる。 判 定 さ れ ると' 「慶長 ナ ル小 説」 とし て推薦 さ れ、 さ ら にそ のな か の若 干 は甲種、 乙種 いず れ か の表 彰 状を 授興 さ れ た。 ( 6) た 審査 は必ず しも 出版 の年 度 別'も し - は月 別 によ って貴液 し て いるよう ではな い〇 二㌧年 前 の出 版 でも ' と りあ げ て い る。 これ は制 度 が始 ま ったと き とし てt やむを えな いこと であ ろう。 国書 を 推薦す る教育 部令 は ﹃教育 公報 ﹄ に掲載 さ れ た から' ﹃教育 公報 ﹄ を - わ し- み る こと によ って' 知 る ことが で き る0 し かし'部 令 ははじ め のころは推薦す る小 説 の書名 ( 篇名 でも あ るが )を か かげ る のみ で' 部 課小 説 は語者 の開 心 を ひ こう と し て書 名 に工夫を 凝らし ているから ' 原書 の見 雷を つけ る ことが難 し く、 嘗惑す る ことが多 いo さ いわ い' ﹃教 育 公報 ﹄ には教育部 令 のほか に' 通俗教育 研究 膏 の審査 報告 が 掲載 さ れ' 小義 の概略 が 紹介 さ れ' ど の E ( = E よう な 鮎が推薦 に鹿 す るかが 記 さ れ て いる。 精 粗 1定 しな いが、 原作を 尋ね る手 が か り にな る. 二六九 こうし た推薦制 皮 が ど れ ほど興 菜 があ ったか は' わ から な い. 教育 部 は' さ ら に命令 や苔 文を 童 Lt 各 省 ・苗 ・匠 の撃 周樹 人 の役 人生 活 東 方 軍 報 二七〇 校 や圏書館 が これら の国書を購 入す るよう、 そし てひろ-葡まれるよう周知徹底す る ことを求 めたと いうから、 い-ち か は 讃者を ふやしたかもしれな いo E IF E E : 推薦 は 1九 二 ハ' 1七 の二年間 のあ いだ に'六 同 にわた ってお こなわれ ている.書名 の番嚢は筆者 による。 翻茅 のばあ ) ﹃孤雑感過記﹄ 創作。作者 は包天笑 ﹃塊 肉飴生 述﹄ 。 上海商務印書館。 創作O 作者 は包天芙o 上海商務 印書館o ﹃埋石棄 石記﹄ ︻ 帯 一同︼ いは' 詳書名 の つぎ に原作者、原作をかかげた O ( ) ) 一 ( 二 ≡ ( デ ィケ ンズ ﹃デ ィヴ ィ ッド ・コッパー フィー ルド﹄ の勅許. 評者 は林野O ﹃泳 雲因 縁 ﹄ 勤評。 原作者'原作名未詳。 ﹃義 黒 ﹄ 横井時敬 ﹃模範 町村﹄ 。唐 人傑'徐風音詳述。 民国四年 五月O商務印書館。 ( 四) ﹃模範 町村﹄ ( 五) ( 六) デ ィケ ンズ ﹃ド ンビー父子﹄ 。 林好評。 商務印書館。 ︻ 第 二回︼ (こ ( 二 (三 ) ) ( 四) ﹃馨鬼就 筆記﹄ 創 作。 天粟生潜。 商務印率館O ﹃火山報仇鋒﹄ 二筋 イギ - ス' ハガ ード ・ ﹃モンテズ マの娘﹄。林野'貌易共 諾。 出版 は商務印書館O ﹃稽者 樽﹄ 原作者 は フラ ン ス' マルシ ャン. 原作名 は未 詳. 講者 は栄樹 人. 出版 は文 明書 局. ﹃冶 工鉄 率﹄ . 原作者、原作 は未詳。 評者 は朱樹 人O 出版 は文 明書 局O ﹃孝女耐兄樽﹄ デ ィ ッケ ンズ ﹃骨董 屋﹄ 林貯'魂 易共 謀。 商務印書館。 ジ ュー ル ・ヴ ェルヌ ﹃皇帝 の密使﹄ O 天笑生 弄。 小説林出版。 ︻ 第 三同︼ .:.. : 川. ・ .I . ・ ・・ ,・ ;I '' 二七 7 フラ ン ス'プ リ エノ ﹃二人 の子供 による フラ ンス 一周 族行﹄ 林野'李世中共 謬o 商務印書館出版。 ﹃愛 国 二重 手樽﹄ アメ-カ' ス-ウ夫 人 冒 ンク ル ・ト ム ス ・ケビ ン﹄ 。 林野'貌 易共静O 文 明尊 属出版0 ( 五) ﹃黒奴徹天録 ﹄ ) (六 ) ( 七 ) ( A) ﹃秘密使 者﹄ (: 周 樹 人 の役 人生 活 ( 二 ( 東 方・ 撃 報 晶 魯演凝漂流 記﹄ 原作者'原作未詳O甘永龍'朱柄動共評O ﹃二義 同囚録﹄ 二年十月 三版) 二七二 」 ゥ■ - アム ・. ア-デ ン ﹃ジ ミー ・ブ ラウ ンの ヨー ロッパ親探し のし 放﹄ 。 林野 ' 骨采 撃共 静。 商務印書館 遠 国 ) ≡) ﹄ ダ ニエル ・デ フォI ﹃ロビ ンソン ・ク ルー ソ-﹄ 。 林押、骨宗輩共 謀。 商務印書館 ( 民国 三年十 1月) . ( 四) ﹃大荒 鋸客記 ジ ュー ル ・ヴ ェルヌ ﹃征服者 ロビ ュー ル﹄o集束育'越尊獄共 謬O 商務印書館 (民国五年六月)o ︻第 四回︼ シャルロッテ ・メ-1 ・ヤ ング ﹃鷹 の巣 のなか の鳩﹄ 。 林野'陳家麟共謬 ( 属国五年 五月) O ( 五) ﹃府税小豪傑﹄ ) ) ﹃棄 見正茂儲﹄ エクト ル ・マロ ﹃家なき見﹄ 。 包公毅 ∩包天笑∪ 謹。 商務印書鰭 ( 民国四年 三月) ﹃苦見流 浪 記﹄ チ ェホ フの短篇集.陳家麟'陳凍鐙共 欝。中華審 局 ( 民国五年十 一月) O こ . ﹃風俗聞評﹄ ( (二 ( ≡ 原作未詳。常 襲'小媒共 謬O 天虚我生潤色rJ中華菩局 ( 民国六年 1月) ︻ 雰 五岡︼ ) 挙的 ( 二 ( ≡) (四) 尾 輪薫痛録 正績轟﹄ 三筋 ・ ハウ の行動﹄ 。 林野、貌 易共 茅。 商務印書館 ( 民国四年十月 三坂 ) 原作未 詳。 畢郷女史 諾。 天虚我生潤色。中 華書 局 ( 民団六年六月) IL : ・.・・ : ・・ .・ _ : ・・ ・ . I コナ ン ・ドイ ル ﹃ラ ップルズ 晶 警 篇小 説叢 刊m l 哀 歓米作家 四十 六 人 の短篇集。 周痩醜 謹。 中華書 局 ( 民図六年 三月 ) ﹃縞 磯 司刺虎記﹄ 二筋 創 作。薯士恒 著。商務印 書館 ( 民国六年七 月) ﹃和紙浜﹄ 創 存 . 李 定夷著。 国華書 局 ( 民国 三年 八月 ) ﹃郷里善 人﹄ 二甜 原作未詳O鯛 君復'樺 繊軽 罪。 商務印書館 ( 民 国六年七月) 小 説 叢 刊﹄ ( 三甜) は四十六人 の作家 による四十 九霜を 収め る。 二七三 以 上 のうち'﹃風俗聞許﹄ ( 二筋)卯 は チ ェホ フの短篇 二十 1鷺を 収め、 ﹃政美名 家短 篇 創作 と斬 罪と にわけ て統計をと ると' 上表 のよう にな るQ ( ≡) 二 ( ) 民国 四年十 月)O へン-1 ・ハガ ード ﹃ジ ェス﹄o 林野、陳 家麟共 茅。 商務印書館 ( ︻第六 回︼ ﹃秦 泥流義﹄ 四朋 周樹 人 の役 人生 活 教 育 部 の 推 薦 内 穿 1 i 1 9 1 6 東 ガ 軍 報 ( 二) 二七四 オ-ヴ ァ- ・ . ゴ ー ルド スミ ス 「粉 ひき 屋 ( 九) チ ャー ルズ ( 七) ガ スカ ー ル夫 人 ( 四) サー ・ウ ォ ルター ・ス コ ッJ・「クビ スト-1 のな か の ダ ニエル ・デ フォー 「フ ェル夫 人 の幽褒」 ( ⋮ 川 ) 前 者 はしば らく おく こととし、後 者 の内容を つぎ にかかげ よう。 こ ( ジ ェー ム ス ・ホ ッグ 「紳 秘な花嫁」 ( 六) ジ ョン ・ブ ラウ ン 「ラビと そ の友 だち」 ( 八) ウ ィ- アム ・メイ クピー ス ・サ ッカ レー 「デ ニス ・ハガ チI の妻」 ( 五) チ ャー ルズ ・ラ ム 「故 郷」 ( ≡) ︻イギ - ス︼ のワ ン」 部 屋」 「セ ルト ンの英雄 」 ( 二 七)同 「死 の快 輿」 ) 二 ) ス ト-夫 人 「頂 上 の歴史 エ エド ワード ・エヴ 三三 ) ( 」 ( 五) ブ レ ット ・ハー 三 語 」 ( 三〇) ナサ ニエル ・ホー ソン 「白 い老慮女」 ( 二八) ( 二五) アレク サ ンド ル ・デ ュー マ ジ ェル ・メ- ヌ ・ド ・スクー ル夫 二) (二 ( 二四)同 「忠賓な兵士」 オ ノレ ・ド ・バ ルザ ック 「エル ・ヴ ェルデ ユーゴ」 ( 二〇) 二 八) マ-1 ・コレ-1 「薯式 な義 務」 ) デ ィケ ンズ 「あ る子供 の星 の夢 」 (一 〇 チ ャー ルズ ・- 1ド 「役 に立 った 冗談」 ( 二 - マス ・ハ- デ ィ 「行き暮れた 旅行」 〓1) ルイ-ズ ・ド ・ラ-・ラミー 「甜心い」 (二 二) ロバI - ・ルイ ス ・ステ ィーヴ ン ソン 11四) サI ・ライダー ・ハガード 「青 いカ ー テ ン」 (1五) コナ ン ・ドイ ル 「棲 人」 「マルテ ロイト の扉」 二 ( 呂像、あ る いは入間 の知慧」 二 九) ヴ ォ ルテー ル 「 (二 ハ) 同 「黒 い舘 の主 人」 ︻フラ ン ス︼ 人 「コリ ンヌ」 ( 三二 (三 四) マーク ・トウ ェイ ン 「カ- フォ ル エア物 エドガ- ・アラ ン ・ボI 「告白す る心」 ( 二七) ギ ・ド ・モ- パ ッサ ン 「雨傘」 ( 二三) ア ルフォン ス ・ド- デ 「おを び さん」 ( 二六) フラ ンソワ ・コペ 「銃 鰐 の穴」 (ペー ル)「ソランジ ェ」 ミ∼ ル ・ゾ ラ 「洪水」 ) ︻アメ-カ︼ ( 二九) ヮ シ ント ン ・71ヴ ィンダ 「村 の誇 り」 ボ ー ル ・ブー ルジ ェ 「いら- さ の地 面」 ( 三1 レ ット ・ヘイ ル 「国 のな い男」 ェ (三 七) レフ ︰ 1コラ ユ ( 三九) レオ ニード : Lコテ ( 四 八) アンナ ・コ- ペ ルー 「わ ( 四 こ ハイ ンワ ッヒ ・チ mッケ 八 三八) マク シム ・F' コ1-キー 「裏 切り者 の母」 イ ワ ン ・セ ルゲIヴ ィチ ・ツルゲ-ネ フ 「ロシ ア人はど のよう に死 ぬか」 ト 「慣蕗 のな い男」 ︻ロシ ア︼ ダ ィチ ・ト ル ストイ 「長 い流 刑」 エヴ ィチ ・ア ンド シー エフ 「赤 い笑 い」 ︻ドイ ツ︼ ( 四〇) ヨ ハン ・ヴ ォルフガ ング ・フォン ・ゲー テ 「あ る物 語」 ( 四四) ア ル マンド ・パ ラチオ ・パ ルデ ス 「海適 の梗」 ( 四 三) モー ル ・ヨーカ イ 「兄弟 の決 闘」 ( 四 二) サ ルバド- レ ・フ ァ- ナ 「別離」 「マック ス ・スト ルプ レー」 ︻イ タ- ア︼ ︻ハンガ - ア︼ ︻スペィ ン︼ ( 四六) ハン ス ・ク- スチ ャン ・アンデ ルセ ン 「古 い墓碑」 ( 四五) ゴ ット ・7--ー ・ケ ラー 「葬式 」 ︻デ ン マー ク︼ ( 四七) ヨ ハン ・アウダ スト ・スト- ンド ベ ルイ 「不死鳥」 ︻スイ ス︼ ︻ス エー デ ン︼ ( 五〇) ユハ エ ・アホ 「開拓者」 ( 四九) ド ラク- ッチ 「復讐」 れわれ の最 初 の大晦 日」 ︻セ ルビ ア︼ ︻フィンランド︼ 都合 にかかげ られた書名 は' あ わせ て二十 九 鮎 であ る。 そ のうち'﹃風俗 間許﹄と ﹃敏美名家短 篇小説叢 刊﹄ は選集 で あ るから' それ ぞれ収録 の 1着を 1鮎とし て数 えると'す べて九十 七 鮎が教育 部 によ って表 彰状を うけた こと にな るo 周 樹 人 の役 人生 活 東 方 学 報 二七六 書名とし てかかげられた 二十九鮎 のうち'創作は五鮎'他は卸謹書 であ る。 これだけ の作品が' 7九 二 ハt T七 の二年 間 に推薦された のである。 周樹 人 の開輿 き これら の作品が、ど のような観鮎から推薦されたかと いう のは'きわめ て興味あ る問題 であ る。 その趣旨は'小説審査 へ ‖) の報告書を逐 1'読む こと によ って知ることが で る。 六 推薦 にな った小説をざ っと眺めるなら' そこになんらか の傾向がある ことが感じられよう。 さら に、 通俗教育研究骨 に よる小説審査報告 ( 批語)を諌むなら、 それは端的 になぜ これを評憤するかが のべられ ているから、 より明白 に' そ こに ( ) あ る傾向を著みとる ことができる。 周樹 人は、ど こまで窺極時 に号 っした推薦 に開興した のだろうかO す でにみたよう に'かれは小説分科倉 の審査幹事 に任命され ている0任命 は第 1回 の推薦公表 ( 教育部令第八十八競) のあま'第 二回 の推薦公表 ( 同欝 二百 二十五貌) のまえ' 1九 二ハ年十月 であ るとは いえ'欝 l同 に ついてま った-無関 係 であ ったとする ことはできな いとおもわれる〇 二 1At 二二三' 二五 Et 京参照。Y とはいえ、推薦された小説す べてに周樹 人が開興し ていたと断定す る ことも'困難 であろうO まず 「創作」からみてみよう。 この分野 でめだ つのは、包天美 であ る。 推薦となり、か つ甲種褒状をうけた五着 のうち'包天笑 の作が 三富を占める。すなわち第 1同 の ﹃軽石棄右記﹄'﹃孤雛 感 遇記﹄'第 二回 の ﹃馨晃就撃記﹄ であるO 包天笑は辛亥革命以前 に、す でに上海 のジ ャーナ-ズ ムにあ って有名 であ った。 い- つも の文革雑誌 に関係Lt自らも ﹃小数大観﹄と いう大坂 の季刊文療雑誌を刊行し、創作もした.執筆した随筆、論説'小説'酪欝 は多数 にのぼる。あた ( 2) かも '中 国 の菊地寛とも呼 ぶ べき入物 であ ったo ( 垂 ) 一種 の彩案 で透 ったO かれは 1八七 五年 に蘇 州 の城内 で生 まれ' 一九七 三年'九十 八歳 の天寿を全うし て死去したが' 1九四九年'七十 四歳 E E a : 花 のとき' それま での半生を 同願し て ﹃釦影樟 同情錬﹄を執筆した. このなか で、常時'教育部から受賞した こと'また受 賞された作 品 の執筆 の動機など に ついて語 っている。 馨 晃就学記﹄t は純粋な創作 ではなく かれ の同意 によると 1﹃埋右葉右記﹄'﹃ ﹃淫石棄右記﹄はある 日本 の作家 の教育小説 にもとず-も のであ るへと いうO誰 であ ったかは忘れたが'有名な作家 で はなか った。 i , -守 スの ﹃クオ レ﹄ にもとず-O包天笑は アミトチ スの名も、 ﹃クオ レ﹄ の ∵ ﹃老 兄就準記﹄は、 イタ畑 アの作家、 ア, 名もあげな いが、.のち に夏巧 尊が都辞し た ﹃愛 の教育﹄ は同 1の原作 によると い っているO ただし これも 日本語から であ ( J^ ) ると いう. おそらく'杉谷代水 罪 の ﹃学童日誌﹄S Jあ ろうO杉谷語もまた翻案 であ ったO 3 E T < E ﹃孤雛感遇記﹄ に ついては言及がな いが、 これも 内地 'Cから推し てやはり翻案 であ ったろう。 包大笑は創作ばかり でなく'勅諸 でも推薦され ている。﹃ 苦砲流浪記﹄ であ る. 同想 のなか では、 これと ﹃馨 見就撃記﹄ ' ﹃埋右葉右記﹄人まちかえ て ﹃棄石盤右記﹄とし ている) 空 二筋をあげ ているO﹃ 菰雑感遇記﹄) は失念した のであ ろうO この三筋が教育部 によ って推薦され'褒状ま で授興された のは、 r旬天笑 の同想 によ れば'かれと衰希薄と の交遊が原因 人 の役 人生 活 二七七 「 息棲」 と名 づけられた) によ であ ったろうと いう。包天美が上海 の新聞 ﹃時報﹄牡 に勤務し ていたとき' 牡 の休憩室 ( 周樹 東 方 畢 報 ( -) -訪 ね てき た のが衰希清 であ った。 民国成立 以後 のあ る年 、教 育部 は突然私 に三枚 の寮 歌を 遮 ってよ こした。 それ は私 の三部 の教育 小説を 奨励し たも のであ った. ど こから この意外 な馨れがき た のか' ま るで天 から 飛ん でき た よう であ った. 商務 印書館 に問 いあ わせ て、以前時報 敦 の息樺 の常 連 であ った衰 観潮 ( 希 薄)先 生が教育部次 長 の栄職 に任じら れ' かれが特 別 にめを か け て ( 8 ) 下さ った のだとわか った。 そ のとき の兼長が詮 であ ったか'も はや忘 れた。 右 はかれ の同想 記 の 一節 であ るo 同憩 によ れば' こ の三筋 のうち でも っと も よく覚 れた のが ﹃馨 鬼就 畢 記﹄ で、 戦 争中 にも かれ の知らな い海 威版 が で ており' お そらく数十 蕃部 でただ ろうと いう。 つぎ が ﹃苦 海流 浪記﹄ で' 1藩 除を だLt ﹃唾石棄 右記﹄ は再版 され たかどうかも知 らな い ( 商務印書館 の初版 は ふ つう 三千部 であ った) 0 主 人公 の名を馨 晃とし た のは' 包天笑夫妻 に可馨 と いう男 の晃が いた のにちな んだ のであ る。 夫妻 には それ ま でに何 人 か子供を生 ん でいたが' いず れも 天折 し ていた。 しかし' そ の可馨も本 書 の執筆 中' 三歳 に満 たず に死去 した。 ﹃馨 見就 学記﹄ は まえ にも の べた よう に 1種 の部案 であ って'原作 の日記健 は そ のま ま頚し たが' 日記 の目付 けは 陰暦 に改 めた ( 常時 はまだ太 陽暦を 採用し ていな い). できご と はす べて中 国化Lt 自分 の家庭 のできご とを 記した敷 節を つ け加 え る ことも したo この部 分 蘭 「ま った- 私 の創作 であ った」 と誇 らしげ に同盤 LJ ついでに清 明節 の墓参を 記した数 ( ) 段落 を 引用し ても いる。 ー 包 天笑 の分析 によれば '﹃馨 晃就 拳記﹄が こ のよう に多 く出版 された のは' つぎ のい- つか の原 因があ ると いうO まず第 1に' 初版 が でた のが辛 亥革命 の前年 ( す なわち 1九 1 0年 ) で、中 国 では全国的 に小撃投が増加 したとき であ った。 .第 二 に、 常時'商務印書館 は各 省'各大 都市 に分館を 設け' かれらが出版す る教 科書を さか ん に貿 り こん で いた。 と- に国 語 に力 を いれ て いた。 第 三に' 文 章 も 筋 立 ても とも に興味 を ひき ' 内容 は中 国 の こと であ り' 従 来 の遺 徳 を う た って いた か ら ' 十 二 二歳 の よう やく 知 識 欲 にめざ め た 晃童 にぴ った り であ ったO そし て' さ ら に のち に多 く の小 学 枚 では' 卒 業 のさ い の賞 品 に採 用 し た の で' 1校 で数 百 射 購 入 し た。 定 債 が 1筋 三角 ( 10) 五分 であ った のも よか った。 見衰 諸 物 でも 辛 亥 革 命 の直前 に全 国的 に小 撃 校 が 増 設 さ れ た と い う右 の指 摘 は' 示 唆 す ると ころが 多 い。 「教 育 小 説 」 ( あ る) が求 め ら れ る牡 骨 的 雰 国 衆 があ った の であ る 0 これ は また ' 教 育 部 が 通俗 教 育 研 究 合 を つう じ て' 積 極 的 に小 説 を 審 査 ・推 薦 し よ う と し た 理 由 でも あ った にち が いな いO . いず れ にせ よ、 包 天 笑 の 「創 作 」 小 説 を 横 越 的 に推 薦 し た のは、 旬 が いう よう に衰 希 薄 であ った と おも わ れ る。 周樹 人 はおそら - 積 極 的 でな - t のち に の べる よ う に' 軌 講 に積 庫 的 な 賞 揚を - わ え て いる のを み ると ' 創 作 ( じ つは勧 案 であ るが ) よ り は細 評を t と いう 菊持 が 強か った かも し れ な いo か れ は こ の小 説 の審査 ・推 薦 に開 輿 し た が ' し かし 推 薦 にな った 小 説 はす べてか れ の自 尊 的 な 輩 議 ' 緩 極 的 な 推 進 にも とず く と は 断定 でき な いであ ろ う。 これ らを 謹 んだ はず であ るo 讃 ん だ あ と 、 報 告 書 と つき あ わ せ ' 推 薦 ' 授 賞 の可 否を 考 え た はず であ る. 衣 し か し 、 それ にし ても へ か れ の机 上 に教 育 部 と し て の公文 書 ' あ る いは小 説 分 科 骨 の報 告 書 は ま わ ってき た はず であ る そし てか れ は 長 の衰 希 薄 の意 響 が は たら い て い る のも 知 って いた はず であ る。 そし て' か れ は 承 認 を あ た え て いる。 これ ら の推 薦 に つい て' か れ が ど の程 度 の賛 成 であ った か' そし てど の程 度 ' 包 天 笑 を 評 褒 し た か 、 そ の内 心 は わ か ら な いが 、 上海 の多 作 の文 筆 家 包 天 笑 と は教 育 部 の執 務 机 のう え でt であ った わ け であ った。 ∩覆 批U の文 は か れ が 筆 を と って認 め たも の であ ろ う。 周 樹 人 の役 人 生 活 東 方 車 載 動静か説 に ついては、 ど のような光景 が みられ る であ ろうか。 す でに の べた よう に'推 薦さ れた小 説 のほと んど が審 欝 であ る0 そし てこれもす でに の べた よう に' 潮 辞されたも のの書名 から原作を 恩 いうか べる こと は困難 であ る. 三 ハ九 貢参 照O しかしな がら' 薄着が 林野 のば あ い'林野 にた いす る関 心が'本 稿執筆 の lr 二年 前か ら中国 にお いてたか ま った こと ( 〓) もあ って' そ の研究を つうじ て' 原作者' 原作を探す こと は'容 易 にな った。 林野以外 の評者 のば あ い' 原作者 'あ る いは原作を 確定 できな いも のが数 簾あ るO な お'今 後 の探 索 にまち た い。 ざ っと、 そ の原作 者名 を みわたしたばあ い' 常時 の中 国 の勧 評者が ' デ ィケ ンズ、 ヴ ェルヌ、 と い r 一 た作者 を選持し て 葡 謬し ている のぼ'常時 の水準 の高さを おも わせ'感 服させら れ る。 しかし' ひるが え って考 え ると、 この感 服は'む し ろわ たし の無 知が前 提 にな ってい るとも いえ よう。 中 国 近代 に つい ても っぱ ら政治史的 側面 から考 え ると、 辛亥 革命以前 は暗 黒' 革命 によ って光 明' しかし 軍閥 支 配 のも と でふたた び暗 黒 . ( さら に いえば ' こ の暗 黒 によ る 「魯 迅」 の緯望 と寂 実と い った紋 切り 型)と い った 圏式 に支 配され やす い。 常時 の中 国 の知 識界 の旺盛な外 国文化 吸収欲 は' かれ ら にす れば 嘗然 であ った のであ り' それを l々感 服す る のは'む し ろ侮辱 であ るとう汐と られ るかも し れな いO (これ は シ ャー ロック ・ホー ムズも のであ ろう)を 選揮す る傾向 そ のも のは、物 語性を 喜 ぶ' 埜化 のあ る前を喜 ぶと い だが、 さら に考 え ると' 常時 の小 説 は娯楽 の 1つであ った. デ ィケ ンズ' ヴ ェルヌ、 ハガ ー ド、あ る いは コナ ン ・ドイ ル ったも ので' いわば大 衆文学 とし て' 娯楽性が求 めら れ ている のにはかな らな い。 ( た だし'大 衆文 学だか ら' 堰薬 だか ら' 程度 が低 いと わたし は いおうとし ている のではな い。 ) さ ら に 、 そこ でも う 1 :つ、 考 える べき は' 日本 におけ る瀞謬文 撃 の影響 であ ろう。 包天 笑 の 「創作」 と 「勲 謬」が だ い た いは日本 語罪をも ととし ている のは' お そらく唯 一の事例 ではな いと おも われ る。 かれ ら の勧請はまず娯楽性を 追求したが'し かし娯楽性 のみを 追求したと考 え る ことも 誤り であ ろう。 たとえば、﹃ア ンク ル ・ト ム ス ・ケビ ン﹄ が 謬された のは、 太 平洋 の彼方 の アメ-カ にた いす る関 心 のあらわれ であ ろ 3 那己 ラ. 横井時敬 が謬された のは、 1産 の 「新しき村」 建 設 の菊 運が' 中 国 の青年 のな か にひろがり つつあ った ことを 反映し て いよう 。一 も し' このような 関心がたしか にあ ったとす れば、 これはす でに 「五 四」 運動を準備す るも のであ った。 そ のよう にみ てく ると'﹃愛 国 二重 ナ博﹄と いう課題をも つ書物 が詳出され ている のは興味 深 い。 こ の原作 に ついて'筆者 ははじめ フラ ンスの中 国学者'ポ ー ル ・パデ ィ教授 から教示を う打た. それま で'原著者名も ( ㍑) 原書名も ま ったく見常が つかなか った のであ る。 二八 一 ついで' ∼そ の教示 にも と づ いて、さら に同僚 の宇佐兼務 助 教 授 に教 示 を 乞 う た と ころ' つぎ のような簡 潔な メ 肴がか え ( ‖) ってきたた。 原題 ・ ・二人 の子供 による フラン ス 1周旋行 副題 ・ ・ 義務 と敵国 小撃校 の嚢本 とし て使 われた 「賓物教育」 のため の挿給 二百葉 著 者 ︰G ・ブ- ユノ アカ デミー ・フラ ンセ-ズ賞受 賞 ﹃フランシネ﹄ の著者 周樹 人 の役 人生 活 東 方 撃 報 出 版 ︰ウ-ジ ェ- ヌ ・ブ ラ ン古 典 書 汚 ' 1八 七 七 ' パ- 計 敏 行部 撃 二 八 七 七 年 の初 版 以 後 十 年 間 望 一 百 商 事 、 そ の後 ' 毎 年 二十 甫 部 ず つが 1九〇 7年 ま で覚 れ つづ け た ( 六 百 甫 部 )。 7九 1四年 ま で に七 四〇〇部 、 1九 七 六 年 現 在 ' 八 百 四十 商 事 。 つま り 1八 七 七- 1九 七 六 の百 年 間 に、 卒均 し て年 八寓 部 が 責 れ た こと にな るO 葦 際 の葉巻 は これ よ り は る か に多 いと おも わ れ る。 物 苧 ・ロレ- ヌ州 フ ァル スブ ー ル市 に住 む ア ンド レへ ジ ュ- ア ンと いう 二人 の子 供 が フラ ン ス 1周 旋 行 を す る・ 地 理 や歴 史 や各 地 方 の琴 らし を ' 賛 際 の眼 で見 ' 確 か め ' 撃 ぶo フラ ン スと いう 国を 知 り ' フラ ン ス国 民 と し て の 白 鷺を も つに いた る〟O l九〇〇年 代 初 頭 ま で の フラ ン ス敢 禽 ( 急激 な 産 業 化 の波 が お し よせ る 尊 兄の) を いき いき と 延 え ら せ る。 ⋮ 言・ ・ ・ ︰J ・ノ= : .・ ∴L ・ . (ン・ : ・ ・・- ∴ ・ ・ ・. ・ ・∴ , I .・ ・J ・- I :: ・ 、・ : ・・: : ,・・- I(・ ・・ ・ ・I ・. ・・・ ] ・: . ・ ・] ・ = ; -J T, . ] ・ . ・=︰ ・> ブ レ ッド ・フ ィ エの夫 人0 番 姓 お よ び 洗 碑 名 は オーギ ェステ ィ- ヌ ・テ エイ ル-I. 哲 聾 者 ジ ャ ン- マリ ・ギ ュィ ヨー の母。 他 に ﹃フラ ン シネ﹄ (一八 六 九 ) と いう著 書 が あ るO と ころ で'本 書 に つい ては 通俗 教 育 研 究 脅 によ る審 査 報 告 には' つぎ のよ う に' 内 容 が 紹 介 さ れ ' か つ評 債 さ れ て いる E l蘭) の であ るO 愛 国 二重 手 樽 二筋 ' 燐 国 のブ サ ユノ の原 著 ' 林 野 ' 挙 世 率 の共 薄O 記 す と ころ は普 沸 戦 争 の後 、 僻 が ア ルザ スお よ び ロ ー レ ンの半 を 劃 き て晋 に輿 う. 時 に俳 の フ ァル スブ ー ルに孤 見 あ り' 父 が 垂 祝 せ る時 ' 聴 さ ず 。 二子 、 す な わ ち こ の 命 を 受 く 。 必 ず 挿 図 に返 ゆる り て俳 人と な れ t と O し か る に潜 入 は禁 令 し て、 凡 そ 孤 見 にし て護 育 者 た る 人 な き は 蹄 図 を 棟 慨 敬 香 し ' 関 を 琴 凡て逃 逢 し 、 出 で てそ の事 父を 求 む。 至 ると ころ は み な 身 を 動 か し 力 作 し て自 ら 瞭 るO 卒 に能 く 白宜し'季 父を求め得 てあ い借 に原図すo 書 の愛 国 二重 手樽 の名 あ る所以 は これをも ってな りO 全書 の大旨を続 載す に れば 'す なわち そ の注意す る凄 ころは、じ つ 二子 の勤苦自業、志 行 の産 廃な るを欝 通し、も って登卒 の立志を 奨励 す るにあ り。 ゆえ に全書'す べて 山車とし て美徳 に非ざ るはなしO すなわち 二童子以外 の諸 人はみな 敦篤 の君子 にし て'薬 み て人 に善をなす者' そ の訓範 の意探しO そ の書中 の結構 ははなはだ僚質をなし'原書 はも と幼 撃 のため に作 れ る に駿 たりO 謬文も亦明暢'誠 に最後 の青年 の讃物な り。 まさ に上等 に列し 入る べし。 ︹覆批︺本書を 葦桟す る に内L J, t l は原評 に具さ に詳し。 審査 す る に奨励小 説華程第 三棒 に合す。 まさ に乙博褒状を掩輿 す べき に似たり。 この二 つの内容紹介 はおど ろ- ほどt かけちが って いる0 これが同 1の書物 かと おも う ほど、異な る印象をあ たえるO あ る いは'審査幹事が'な んらか の意圏をも って' 芳香 のあ る部 分だけをと りあげ たとも考 えられ るが、 審査報告 は公表 のであ る. 林野 欝は'す でに知られ ているよう に'原文 に忠賓 ではな いO 林好 評はまず外 国語 に通じた 人間 に讃ませ され る のであ るから' お そらく 講書 のL Lおり紹介 した のであ ろうr jとす れば'勅 評者が意固的 に このような潮 譜を お こな った そ の謬出 ( お そらく 口頭 であ ろう) にも とず いて謬文を書くと いう翻 弄 であ ったO 林野 はお そらくへ ア ルザ ス ・ロー レンと い った フラ ンスの領土問題 にも端を 登した物 語 であ る こと に興味を いだき、も っぱ ら ここに力 鮎を お いて潤色した のであ る。 勤 評書 の現物を みな いで断定す る のは避 ける べき であ るが、 フラ ン スの風 土'産 業と い った 「近代文 明」 はあ まり評者 の関心を ひかなか った のであ ろう。 こうし た力 鮎 のおき かたは'第 1次世 界 大 戦 にさ いし て' 日本 が青島を攻略 (一九 一四年十 一月)' そ のまま占領を つづけ ていた ことと無 関係 ではな いであ ろう O これ の報告書 二八三 ( 批語)と それ にた いす る預批と は文章 の と は いえ、嘗時 の細 評界が時 局問題と の関連だけ で'動 静を お こな っていたと断定す る ことも できな い. チ ェホ フの短着集が推薦 にな った こと が注目され る のであ るO 周 樹 人 の役 人 生 活 東 方 拳 一報 二八四 Ⅶ 脈爪 調 子 が 一貫 し てお り ' お そら - 一人 二役 で執 筆 さ れ たも の であ り' そ の執 筆 者 は 周樹 人 であ った ろ う0 つぎ に、 報 告 書 の全 文 を か か げ る。 本 書 は敢 膏 の各 種 の現 状 を 叙 す るが ' ど れ も これ も 珍 ら し いO と り わ け 妙 な る は' 褒 定を 露 骨 にせ ず ' 語 は多 く 筒 永 であ り' 人を 思 索 せ し め る にあ る. これ ま た 掌 録 の楽 に附 せ し め てよ いo 推 薦 す べき であ る〇 六 覆 批U 本 書 を 覆 審 す る に' 札 記 健 であ って' 述 べる と ころ は多 く ロシ ア の寮 であ る. し か し著 は何 人 によ る か ' 何 の著 か ら 採 った か 不 詳 であ る. 按 ず る に札 記 小 説 は唐 代 に盛 ん で' 常 時 の作 者 は斐 然 と し て観 る べく ' 降 って近世 に 至 れ ば ' 樽 承す ると ころ のも のは 堺 衡 志 異 ' 閲 倣 草 堂 五種 と な る。 請 書 は お お む ね 孤鬼 に綴 託 し ' 味 は 都 近な の でへ そ の後 作 者 は事. - な り' 質 が 低 下し た と諌 ら れ る よ う にな った。 蓋 し ' こう い った 苗 は、 手 あ た り し だ い に材 料 を 拾 」 叙 述も 明 潔 、 冗談 を の ペても 雅を 償 わず 、 腕 にし て謁多 く ' 速く 唐 人 の達 響 を 尉 ぐ に足 って書 物 に つ- り やす い。 近時 の雑 誌 では、 いろ いろ霧 載 す るが ' 陳 腐 でな け れば 濫 意 であ る。J 本 書 は外 国書 か ら 静 も た が へ 用 語 はき わ め て雅 こぶ る 僅 見 す る のみ であ る. よ ろし く 推 薦 を 輿 え て模 範 とす べL と 考 え る. る。 近く は泰 西 の襲 った 風俗 を み る こと が でき る。 評者 は蓋 し ' 敢 骨 を 善 導 す る の意 を 寓 し た の であ って' 近時 には す こ の報 告書 ( 批 語 ) を 周 樹 人 の執 筆 であ ると 断 定 し て いる のほ、 沈 幾 年 であ る。 沈 鵬 年 によ れ ば ' 周樹 人 が のち に普 迅 の筆 名 で発 表 す る中 国小 貌 史 に つい て の論 考 に みら れ る 観 鮎 と ' こ の批 温和の観 鮎 さ ら に それ は 、 狐 や亡 盛 に償 託 し て白 己 の見 解 を の べたも の であ る が 1致す ると いう。 す な わ ち ' 〓 )唐 代 にお い て小 説 が 意 同時 に創 作 さ れ る よ う にな った ことo (二)そ のあ と を う け て 聯 ﹃ 薄志 異 ﹄ ﹃ 開 放 草 堂 筆 記 五種 ﹄ が 拍 現 し た こと。 ( . ;) こと であ る 。 沈 胞 年 は そ のよう に両者 を つき あ わ せ た だ け でな - 、 批 語 にみら れ る 「陳 腐 でな け れば 濫 恵 であ る」 と いう表 現 に注 目 も て つぎ のよう にい っているO 5 1働 m 魯迅先生 は ここで各種 の雑誌 に掲載された 「陳腐鑑裏」な鴬満城 蝶浜 の流れ の小説を こ っぴどくや っつけ ている. ・色れは周癌 人とし て執筆されたも のであ るが'沈鵬年が これを 「 魯 迅先生」 の文章とし て引周す る ことは'あながち に 杏め る ことは できな いO このとき の周樹 人は' )のち に T魯 迅」とし て同様 の趣旨を のべる人間 でもあ った のであ る。 だがしかし' ここではチ ーホ フの短篇を 「札 記健」 ( 常時 の字感 では 「劉記健」) の延長 でとらえ ている。 「札記健」を酎書的 にの べるとす れば' つぎ のような こと であろうか。 (札記︺文健 の名. 筆書し て思 い ついた こと'悟 った こと'見聞した こと'折 にふれ てメモした ことが蓄積され て 1 ン菜 の文章とな ったも のを いう. たとえば'清 の虞文 昭 には ﹃龍城私記﹄﹃鐘山私記﹄があり'避翼 には ﹃廿 二史劉記﹄ E l個F : があ るrJ チ ェホ フの短篇を'右 の ﹃ 龍城札記﹄あ る いは ﹃廿 二史別記﹄をなら べて理解す る ことは' おそら- こんにち のわれわ れ には不可髄 であ る。唐代 の小数はとも.か-とし て ﹃聯粛志異﹄ の延長 にお いてチ ェホ フをとら える のは' チ ェホ フにた いす る胃署 であ る ( と考える) 0 こ の講書に乙種 の表彰状を授輿し ているとし ても' この理解 のしかたは'完全 に承服できな い。 通 俗教育 研究合 の甲、 乙' 丙 の表彰状 では' 札記健は丙種 の表彰状 であ る ( それだ疫 甲、 乙、丙 に差を設け ているわ け であ る )。 ILかLt 漬者 の水準を考 慮した のかもし れな い。 。 ′あ る いは'小説史 研究 にうち こんでいた周樹 人があたま のなか で考え ていた分紫 に'たまたまひきずられた のかもしれ い な 二八五 批判し ている、. 常時 の水準 の低 い ( と周樹 人が考 えた)作品と比較す るため、 同 1の類型 にあ てはめた にすぎな いのか 周樹 人 の役 人生 活 発 もしれな い。 J 方 撃 報 .この時期 にチ ェホ フが細 評紹介 され た意味 は大き い。 讃書名 が 「風俗 にた いす る軽 い批評」 とな って いる のは、あ る い は チ ェホラ 理解 の程度を疑 わせ かと いう 反論 を招 - かも しれな いが'文学を 深刻なも のに考 え る ことがな か った この時 代 にあ って' このような 紹介 のし か たは' 黄者 にと・ って手 にとり やす か ったo 寓者 のあ る部 分 は' それな らわたしも筆 をと ろう かと'自分 のまわ り の 「風俗 」を みまわし な のではな いだ ろうかo数 年 のち に'中 国 にお い て' 近代文 撃 の概念 でい こ の短鴬巣も 影響力があ った のであ ろう。 う 「小説」 の試 みが'俄然'堰を き った よう にし てはじ ま るが' そ のような 乗 運をも たらした のは'斬 罪が さかん であ っ た こと によるも ので' お そら-'な か でも そし てこの菊運 に つき うご かされ た 人間 のな か に、 周樹 人も含 まれ る であ ろう。 も と よ り' こ の短 篇集 によ って' 周樹 人が はじ め てチ ェホ フを 知 ったと は いえず ' この短篇集 によ ってのみ、 チ ェホ フのみ に影響さ れ たと いう こと は、 いえな い。 だが、す でにチ ェホ フの敬啓 が ( 中 国語 による蘭者 が)存在す ると いう軍資 は、 チ ェホ フ的な作 品を 試 みようとす る ' ︼種 の安 心感を 周樹 人を含 めた若 干 の試作者 に'あ たえた であ ろう〇 さ い 四十六 人 の作 家 ( 十 四カ国 にわた る) によ る四十 九篇 の作 品を 収めた' ヨー ロッパ' アメ-カ短 篇集 ' ﹃欧美名 家短 篇 小数叢 刊﹄ に ついても 同様 のことが' いえ よう0 ここに収められた作 家 は、 デ. フォーはじめ デ ィケ ンズ' ハ- デイ' コナ ンへ ドイ ル' ヴ ォ ルテー ル' バ ルザ ック' デ 品 -マ、 ドIデ、 ゾ ラ' モーパ ッサ ン' ホー ソン、 ポー、 マーク ・- ウ ェイ ン' ツ ルゲ-ネ フ' ト ル ストイ、 ゴーリキIt アンド レ- エフ、 ゲ ー テ'等 々' いやし -も文 学好きをも って自 任す るな ら' ひとと おり は眼を と おし ているはず の作家 が 並 ん で いる。 さら に' アンデ ルセ ン' ス-- ンド ベ ルイなど北 欧 の作家' ま た' ハンガ - ア、 セ ルビ ア' フィンラ ンド など の地ま でも 包括 し て いる。 これ に ついて'常時、 周樹 入ととも に紹興脅舘 で暮 し ていた周符 人は、 のち に つぎ のよう に記し ているO (これを便宜 5 1紺E 上周作 人文 の甲と名 づけ る) 魯 迅と周痩 綿 の こと は以前 にだれだ ったか'新聞紙上 で言 及し ていたO 周 君が翻 謬した ﹃欧美小説 謬叢﹄ 三筋 は出 版 牡から教育部 に遮 って登録したさ い'批覆し てはな はだ賞著 された のであ るが' そ のとき魯 迅 は配合教育 司 にあ っ て科長 であ って、 このことはかれが執 行し た のであ るO 批語 は そ のとき に讃 んだと は いえ、も はやは っきりしな い。 周君が イギ - ス' アメ-カ以外 の大陸 の作 家を 選 ん で謬出した こと に ついて、も っとも許贋Lへ惜 しむらく は多 くな いこと だ、 と い っていたとおも う。 それ はだ いた い民国六年 夏 のこと であ ったo ﹃域 外小説集﹄ はず っと以前 に失敗した にも かかわらず'意外 にも 似た ような傾向を これ に尊兄し て'空谷 に足音 を 聞くと い った感があ った のであ ろう. ひき つづき 詳出し て新文撃 に力を つけ加 え る ことを魯 迅 は望 んで いたO どう いう理由があ った のか、 そ の後、周 君 の動 静はみかけな-な った。 よう や-文学 研究食が ﹃小説月報﹄ の編集を ひきう け' ヨー ロ ッパ大陸 の'とりわけ弱小 民族 の作 品を凝 滞す る東 風が' ここに勃 興した のであ るO た- さ ん の名著 が中 国 に紹介された。 しかし それ は五、六年あ と のこと であ る。 と ころ で' 周作 人 の別 の耳 草は'酋時 の状況をさら に詳し- の べているo ( 便 宜上' 周作 人文 の乙L」 名 、つけ る) これ は 一九 1七年 に出版 され'中華書 局から教育部 に呈され て審査'登録を うけた。手旗を へて魯 迅 の手 に届けら 二八七 れ ると'かれは 1見し ておお いに驚 き'「茎谷 の足音」と考 え' 含館 にもち 舞 ってきた. 私ととも に稀費 の評語を合 拝 し. '部 の名義 をも って拳表 した。 ( 鮎) 同時醜 は のち に'間作 人 の この二 つの文章 を 引 用し て魯 迅を 追想 し ているo 周 樹 人 の役 人 生 活 東 方 軍 報 二八八 その引用 によれば 周作 人文 の甲は' 一九 五〇年'上海 の ﹃亦報﹄ に掴猷され'筆者 は 「現生」と 署 名し ていたと いう。 表題は 「 魯 迅と固唾醜」 であ った。 1九 五〇年常時'周作 人は匿名 に近 い筆名 でこのような文章を 禅表、 のち に自著 にい れた のであ る。 周作 人文 の乙は、 まえ の 一文 に つづ いて尊表されたと いい、掲載紙名を記さな いが'お そらく これも ﹃亦報﹄ であ った ろう. 筆者 は 「飴蒼」 で'表題 は 「魯 迅 の周痩縞 謬作 にた いす る賞鎗」と題され ていた。 これも のち に自著 に収められた 断片 であ る0 周作 人文 の甲はかれ の著書'萄魯 迅 の故家﹄ に収録され ている。 ここに引用した のは' この ﹃ 故家﹄から であ るが' 周 経線 は ﹃亦報﹄濁戟 のまま引鳳し ている。 いま照合す ると、﹃ 教家﹄ で 「 ﹃政美小説謬叢﹄」 とな っている箇所 は周疫綿 の 文章 では 「 ﹃欧美名家短篇小説叢刊﹄」と改 められ、「民圃六年」は 「一九 一七年」 と改められ ている。 周癒娘 による加筆 訂正 であ ろう。 周作 人文 の乙は ﹃魯迅 の青少年時代﹄ に収められ ているO いま周痩鴎 の文章 に引用 され ているも のと照合す ると'若干 文章 が異な っている。 つまり'晋、 周作 人は つぎ のよう に書 いていた のである。 もともと魯迅は常時'教育部 の穀倉教育 司 で余事科長 であ って' この部門 の事 ∩動 静 の推薦 のことUを主管し てい て'中華が審査をうけるた虜 に遮 ってきた原稿を紹興脅館 にもちかえり'自ら問責した。先生 はもともと細評 の菊風 を提 唱す る考えをも っていた ので'本書 の批鑑 附に特別 に賞揚 の言葉を加 えたo そし て'さら に つぎ のよう に つづけ ている。 中華尊属が常時 の批語 の原文を探しだす ことが でき るなら' これは魯迅発生 の手撃 であ る ことを確認す ることが で き るであ ろう。 抗 戦前 夜 ' 上海 の文 化 工作 者 は嘗時 の国情 を 麗 萌し て積極的 に禦 侮を よびか け' 連合 戦線 を 展開 したO 新 聞 紙上 に、 っ た 。 郭沫若'魯 迅' 固唾鵠 ら数 十 人 の連合 軍 古を 葦表 し た のであ る。 周先 生 にた いす る魯 迅 の評債は' 1貫し て高 いも の が あ 周作 人 の こ のような 琴 言によれば '少 な- とも ﹃欧美名 家 短 篇小 説叢 刊﹄ の原 批 ・覆 雛 は いず れも 周樹 人 の執 筆 であ る こと は' まず疑 いな いO また' 周作 人 の謹言が なく とも ' これ だ け の時 力を も って周塵紙 の諾業を 肯定す る力 口 害 せも った批語 の筆者 は、 周樹 人 以 外 に考 えら れな い. 小 説分 科骨 に' ほか に人物 は見屠ら な い. 。 これ は魯 迅 の侠 文 とし て' 嘗然 か れ の全集 に収め ら れ てし か る べきも のであ るO 批語 は つぎ のよう に記さ れ て いる 凡 そ敏美 四十 七家 の著 作' 国別 にし て計十 有 四。 そ のな か の恵' 酉' 瑞典 '荷 蘭 '塞 爾繰 出 は申 開 にあ ってはみな 創 見 に廃す . 選す ると ころも 佳作多 し。 ま た毎 一篇 に著 者 の名 氏を 著し 'な らび に小象 略 侍を 附す. 心を 用 いる'す こぶる懇撃 ' 志 は俗 人 の耳 目を 娯験 せ しむ る のみ にあ らず. 近来 の詳事 の光 となす に足 るo た だ諸 篇 は陸 唐と 雑誌 に 登載 せ る により' 蔑 例 は いまだ統 1す る能 わず t、 借 題 の造語も 本 国 の成 語を 用う。 原 本 はも と より か つて これ あ らず。 誠 な ら ざ るを F g l . れず。 書 中 に版む ると ころ英 国 の小 説をも って最多 となすO た だ短 篇小 説 の英 文学 にお け る'も し 」も と佳 製 は少 な し。 ゴ ー ルド スミ ス' お よび ラムの文 は雑著 の性 質 にか かわ り' 小 説 にお いては索 せず と なすo 欧陸 の 著 作 はた いて いは 入手 し やす からず。 ゆ え に いまだ相 雷 の紹介 を なす 能 わず。 また いわ ん や国を も って分類 し'諸 国 は種 族をも って次 欝 せざ る は、 またか 矢 となす. 然 れども ' 淫供 の文 字 訪韓 に充 塞す る時 にあ た り て' こ の 1番 を 得 二八九 た り。 薯者を し て' いわ ゆ る哀 情 惨幣 のほか' な お純 潔 の作あ るを 知 らしむ るはへも と より また博夜 の微 光 、難 群 の 周樹 人 の役 人生 活 東 方 鳴 鶴 な り。 撃 報 ∩覆 批U 本 書 を 覆 核 す る にヾ 捜 討 の勤 な る、 選 樺 の蕃 な る、 ま こと に原 評 の いう と ころ の如 く 、 近 来 の謬 事 の光 と な す 。 宜 し く 葵 を 給 L t も って模 範 を 示 す ペし。 こ の批 語 にみら れ る熱 情 ( 静 か な 熱 情 ) に は睦 目さ せ ら れ るO E l駆瓦 沈 鵬 年 は こ の枇 語も 「魯 迅」 の執 筆 であ ると い って いるO 包 天 笑 が ﹃家 な き 晃﹄ を 浮 し て いる のも 注 目さ れ るo これ を ﹃苦 晃流 浪 記 ﹄ と 題 し た こと は' す で に の べた と お り であ る。 包 天 笑 と 教 育 部 次 長 ' 衰 希 清の関係 に つい ては、 句 末 笑 白 身 が 記 し て いる。 二七 七- 八 束。 霧 農 を しん へん 下す . 罪 し た が って、 この謬書 が 推 薦 にな った のは、 他 の創 作 小 論 と 同じ - 、 も っぱ ら責 の饗案 であ った ろ う が へ これ の審 査 報 E l 利F : 管 ( 原 批 ) は、 そ し てま た 覆 批も 、 周 樹 人 に執 筆 を 威 喝 し た の では な いか と考 え ら れ る。 本 書 は 敢 骨 にた いし 頻 立 し て生 活 す る こと を 提 唱 し ' 寄 生 鎗 生 活 者 ( 原 文 「依 頼 者」) にた いし て 筆 も 常 永 ' 賛 愛 す べ一 - ' 上 等 に列 し て表 彰 す べき も のと 考 え るO ∩覆 批∪ 本 書 は 興 趣 ゆ た か で' カ ミと 終 始 と も に いる のは犬 のカ ビ であ るO 流 浪 時 の孤 渇 が わ か ると いう も の であ る0 本 書 を 箸 むも のは' 人 間 は自 分 で自 分 を 助 けな け れ ば な ら な い こと を 知 る であ ろう. ま た 西 人 の敢 骨 が 慈 善 を 好 む こ のち に牽 衣 帝 が 辞 し て ﹃苦 見努 力 記 ﹄ と 越 し 、 徐 蔚商 が 謬 し て ﹃孤 零 少 と を み る であ ろ う。 原 許 に賛 成 し 上 等 に列 し て表 彰 す べき であ ると 認 め るo マ ロの こ の小 説 は 中 国 では好 意れ た ら し 二 年 ﹄ と 題 し て いるが ' いず れも 庖 天 笑 欝 にお- れ る こと 十 年 であ った。 し か し ' フ ラ ン ス語 か ら の欝 であ った ろう O ヴ ェルヌ の作 品が 二回 にわ た って推 薦 にな って いる のも 注 目 さ れ よ う ( 第 二同' 第 三同)。 周 樹 人 が 日本 留 牽 時 代 に' 二篇も 謬出 し て いる のを考 え ると'あ る いはかれ の聾案 によ って推薦 にな った のかも しれず ' そう だとす れば ' 審査 報 告 香 ( 原 批)も 、 また 覆 姓も、 かれ が執筆 し た のかも し れな い。 ﹃秘 密的 使 者﹄ は、 日本 では ﹃皇帝 の密使 ﹄ と 詳さ れ ているQ 原作 の題 は ﹃, t ,シ ェル ・スト ロゴ フ﹄' す な わち主 人公 3 矧凸 の名 であ る。 3 槻皿 批 語 は つぎ のよう に記さ れ て いる。 本 書 は ロシ アのシ ベ- ア地 理を 熟 知 し て いる。 スト nゴ フが使 命を奉じて教範困苦、 百折 不按 であ る のは、 も っと も 健 遺 人心 に有 益 であ るo 上等 に列す べき であ るO (覆 批U こ の種 の小 説 は著 めば 敷 金あ って、第 1に小 説を 借 り て地 理 上 の知 識を 注 入 でき る。 夢 二 に借 り て民族 の状 ・況を 周知 でき るO 第 三 に スト ロゴ フの冒険 の 1節 は' 人を し て胃険 心' 責 任 心 に富 ましめ る0 第 四 に スト ロゴ フ母 子 の慈 愛 と 孝養 の心 は ナ-ジ ャが常 里親を 尋 ね る のとあ わせ て' 天 性 の刻 薄 な る入間を し て自 ら塊 じ し め る。 欝 瓦 に ス ト ロゴ フと ナ-ジ ャが患 難 のな か に出 食 いも 互 い に敷 けあ い、義 をも って自ら持す のは' 人をし て情 を 正し く 用 いる こと を 知 らし め る。 原 評 のご とく 上等 に列 Lt 乙種 の表 彰 状を授 輿す べき であ る。 つぎ は ﹃大 荒 轟客 記﹄' 日本 語辞 では ﹃征 服者 ロビ ニー ル﹄ の独 語 であ る。 本 書 は フラ ン スの飛行船 の腎険を の ペる。 さ ら に アメ-カ の探 険 家 と であ い、 ついに北極を さ ぐ って擁選す る。 軍 人の勇敢 '婦 人 の愛 国、 書中 に強調さ れ て いる0 上等 に列し た いo (覆 批) 本 書を 覆審す る に フラ ン スの杜 退中尉 が あ る女性 を つれ て遊び年 分 に飛行船 に乗船 し たと ころ' 盛 者 のた め に繋 留索 を 切 断さ れ た。 飛行船 は上昇 し' 空中 にあ って風 におし流 さ れ'海 岸 で降 下' 1隻 の北極探 険 船 にであ った。 二九 1 船 長燕士 が 飛行 船 に のり こみとも に北 極探 険 に出 遮す るo つい に北極 に いた り' さ まざ まな 歴史 を Jm見す る. 尉遠に 周樹 人 の役 人生 活 凍 方 軍 報 二九二 さ いし ても 穀難 にであうが率 いにも 救出さ れ るO 規律 に服従す る中 尉 の勇徳、 愛 国 の熱情 あ ふれ る女 性 の胃酸 心'拍 簡森 が撃問好き で恩慮深 いこと が記され、青年 が これを 蔑 めば ' ま こと に志 菊を激登す る に足 る。 この載静は登場 人物 に ついても 潤色 があ るよう であ る。 ころを救助 された だけ であ フラン スの杜 退 ( 無理 に宛 てるなら' ド ゥ-トイ)中尉 は原作 では ロピ エー ルで' じ つは中 尉 か否かも わ からな い謎 の 男 であ る。 船 長燕士 と いう のはジ ャネ ット故 の 一等航海士 のこと であ ろうが'かれら は難破し ていると る。探 険し た のは'南寧球 では ア- ユー シ ャン' カ ナダあ たり で、極 地とし ては南極 ( 南極 鮎) へい った のであ る。好 撃 心 の つよ い殆 徳森 はとく にだれとも いえな い。 語 右 の批 語 の原紅は短 い。 覆 批ぼ それを補 うか のよう にて いね いな 説明をくわ え て いる。 覆批 に ついては,周樹 人以外、〟 考 えられな い。 七 結 辛亥 革命 より隻 糾' 中 国 では新し い文 化汚な色 彩が加 わ り つつあ った。 デ ュマ (フィ ス) の ﹃椿姫﹄ を 林野が 謬し て っか け に、林野 が科 挙 の受 験を 断念し、細 評を自分 の仕事 ととし て選 んだ こと は'時 代 の稀換を も巴袈茶花女達寧﹄ と題し て出版 し' た い へんな 評期を えた のがへ義 和圏が世 間を さわがせ はじめた 1八九九年 であ る。 こ の年、 これ の成功をき 告げ るも のであ ったO ・東 経 の漸謬 は、む し る潤 色 とも いう べきも のであ った が、 か れは時代 の潮流 にす す ん で身を投 じ, 奨法維 新を主 張し た から' そ の濁色 はかえ って讃者 に喜ば れた のであ る。 かれ に つぐジ ャー ナ- スト'包天笑も 潤色 による翻 弄をすす めた。 1歩すす めれば '審案し て創作す る こと にな る0 推薦 にな った包 天笑 の創作 が'じ つはす べ 包 はさら に重罪を 厭わず' 日本 語 に謬された西洋文筆 にも とず いて謬出したが、 そ の日本 語評が、 じ つは潤色 謬と いう べ こと を さら に きも のであ った。 潤色し て謬す て翻案 であ った こと はす でにみたとおり であ る0 を は た し た 。 通俗教 育 研究 食 の小 説分 科 骨主 任を 途中 で辞 任 はす るが' 周樹 人は つぶさ に、 このような勲評と創作 にたちあ った のであ る。 かれ は教育部 の役 人とし て' 凡帳 面 にその磯煮 かれ はやはり無 関 心 にはなれなか ったと おもうO 推薦 になり'表彰状をう けた小説 はす べて'周樹 人 の息がかか っていると考 えられ るO 一九 一六年 二月 に小 義分科脅主 任を辞 め ているが'しかし 三月、七月 には禽議 に出席 し て意見を の TJfでおり、十 月 には審査幹事 に任命 され て いる。 衆 目 のみると ころ'かれ は小説 の審査 に不可敏 の人物 であ ったし、さら にそれを 監督'再審査す る教育郵政脅教育 司第 1科 の 科長 であ った。 民寧 初期 の文塾界 にす こぶる権威 があ った のであ る. ただし' そ の健威 は行政的 なも のであ ったO だが' そ の行政 には、 こめ て' かれ は殊 巌を ふる った と いえよう。簡 朝 末期 か ら 民 国初期 に、 き わ め て流 行し た 黒幕 小 説 の輝 壁 批評時な色彩もあ った のであ る。 その批評性も にも' かれが ま ったく力を貸さなか ったと は いえな い. かれ の審査'す なわち検閲 の能力 は'衆 目 のみると ころ' 1致 し て高 か ったo これを配合主義 鰭制 におき かえ ると'かれ の占 めた地位、演 じた役割 は'現在 の中 国共 産裳中央 宣停部 の部 二九三 長 の役割 に遭 いO だがかれが時 の横力と は 1線を 姦した こと は念 頭 におく べき であ るう. 小 説分科食 の密議を- りかえし' 周 樹 人 の 投 入生 活 東 方 撃 報 審査 の基準、手 練な どを 一歩 々々 つく りあげ たあ たり は'むし ろ安藤 家 であ る。 かれ は'したが って、 そ の職務 ( 教育部 の科 長、小 説分科食主 任、 のち は審査幹事 )を 熱 意をも って途行したと いえ, 模範的 な官吏 であ った のであ る。 かれが そ の前 年、 分科脅主 任を やめ るま で'も っぱ ら 上部 の要請 に抵抗Lt 審査を ひき のば したと いう説 ほう け いれ難 い。 手綾 上、 それだけ の時 間が必要 であ った のであ り' 審査 の拙 速を 避けたと み る べき であ ろう0 かれ は衰世 凱 に迎合し な か ったが'政府 の役 人とし てなす べき こと はなし た のであ るから'あ る意味 では 「 協力」し た のであ るO これを 「協力」 と 呼 ぶ のを ためらうあ まり' 抵抗し た のだ' ひき のば した のだと蒋解 ( 周樹 人は韓 解 し ていな いにも かかわ らず)し たと ころ で'あ まり意味 はな いo 民国初期 の中央 政府 は' そ の部 分 では建 設的 で'積極的 で、健康 で、常 識的 だ った のであ るO これを 全面時 な暗 農と みようとす るから、無 理が生 じ る のであ るO す でにかれ は政府機 関 に勧め る役 人な のであ る。 科 長な のであ る。 官製商 用圏鰻 の主 任 であ り、幹 事な のであ る。 1か ら十 ま で'政府 の方針、 上部 の指令 に反射す る入関とし て周樹 人を 捕 こうとす るから、 奇妙 な こと にな る。 周樹 人 には で きな いこともあ る のだO それを 「 魯 迅」 と呼 ぶから、 無 理な 数が いち おうな りた つにす ぎな い。 しかし、衰世 軌 の棟力 は強か ったから、 周樹 人が表 の死 によ って解放 感を お ぼえたと いう こと はあ ろうO し たが って, l九 1六年 六月以降、 小説 の審査 にと- に積極的 にな ったと いう説 はな りた つo そし て' かれが積極的 にな った成果'成 ( ・ ,・・ ) 績 は'推薦 にな った小 説数十 篤を 眺 めわ たし て確 認 でき よう。 かれ は こ のよう に小説 の審萱 にあ け-れ た。 一九 一八年 五月、「狂 人日記」 を 准誌 ﹃新青年﹄ に教義 し た のはへ はたし て過然 であ ろうか。 細 評が潤色 辞 であ り' 創 作小説が翻案 であ ると いう それ ま で の時流 を考 えあ わせ ると'「狂 人日記」 3 3fB I E も 翻案 の部 寮 には いる であ ろうO これ には モデ ルがあ ったと、 周作 人は いうが'周樹 人を と り まく 敢食的 環境 は無 税 でき な いとし ても 、 か れが それ ま で の約 二年 間' 磯務 と し て多 数 の小 説を 開 講し たと いう事賓 は、 き わ め て大 き な意味を も っ て いると考 えら れ る。 かれ は九十 飴 簾 の小 説 の推薦 に閲輿 し たが '推 薦作 を のみ蔑 んだ のではな いはず であ る。 も と より、 悪 しき作 品' 低劣 俗 意 な作 品 はな な め にぎ っと 眼を走 ら せ るだ け でよか った ろうO L かLt た んな る小 説好 き の讃者 とし て 聖 講書 ではな か ったO 「狂 人日記」 巻表 にさ いし て'か れ は はじめ て魯 迅 と いう 襲名 を 考案 し たo こ の作 品と筆名 は'深賓 が熟す る よう に生 まれ た のであ ろう が' そ の土壌 は'教育 部 の役 人とし て の生 活 であ った。 魯 迅 とし てではなく ' 周樹 人とし て役 所 に勤務 し た' そ の役 所 の仕事 が' じ つはか れを みち び いて、 包天 笑' 林野 ' 周痩鵜 の仕 事 ぶり に接 親さ せ た のであ るO か れ ら にた いす る浦 足と不浦 足が' かれ にこ の小 説創 作 の筆を と らせ た。 し かし、 周樹 人 のそ の筆 は それ ま で の潤色 翻 案 の流 れと つづ-も のであ って' ま ったく無 紋 の地 鮎から山 薬し た のではな い. 引用する。また、この節は' つぎの ( 三)の ﹃ 魯迅生年史料派編﹄ に も収録。 ( 二)孫襲 ﹃ 魯迅在教育部﹄天津人民出版社、 7九七九年八月oと くに 「 通俗教育研究食」の節。四五-四七買.この節は沈論文を多く この問題については'す でに先行する つぎの論文、著作、資料集があ る。 本書は全文九六頁 の小唐子であるが、教育部 における屠樹人の活動 をほとんど網羅し、概括している0 二九五 梯人、婆 瀬田、碑文 群、静綴之。主編目欝綴之O都嘉鏑-降立群O編 本書は、編集委員 --鐘敏文、丁景唐'翠演義、呉宏聴、侃墨炎、李 ( ≡) ﹃ 魯迅生卒史料碇編﹄孝 二韓、天津人民出版敢' 7九八三年 腎月o 以下、孫興と記す のは本書のことである。 (1) 沈鵬年 「 魯迅在 ﹃五四﹄以前封文壇逆流的闘争⊥開於他和通俗 通俗教育研究食 そのも のと周樹人のこの合 における活動にも っとも 兼七八 教育研究禽関係的 1段史賓」 ﹃ 拳術月刊﹄ 1九六三年六月競 ( 莱)二四-三九貢。 ある。 早-着眼し、か つも っとも徹底的に資料を渉猟したのがへこの論文で 以下'沈論文と記す。 周樹 人 の役 人生 活 ( 且 ( 4 ) 東 方 撃 報 コ 以下'﹃ 生卒史料﹄と略覇す る。と- に第三稗と断らな い。 紫委員禽顧問 -挙何林、唐薮、曳寮棟。蟹 二稗は 「 魯迅在北京」、「 魯 迅在西安」を収録。編著者は前者が韓立群'発太之 '背克銭'資兆初。 後者が革演義 O孫薬 の重要な部分は本書 に収録され ている。 この段落 の記述 に ついてはへさら に つ蜜 の節 周樹人と通俗教育 (こ によるO 統計は沈論文二七貢Oおそらく這接 ﹃ 教育公報﹄などを閲質し て抽 研究合」 にお いて遊 べる0資料は新注 ( 1)にあげた た結果'表彰状を投輿したのが二十六第 、 「 上等」と秤贋し推薦 にし 出、計算した のであ る。沈論究 によれば'小詮六百 三十飴袋を審査し たのが七十篇 '出版禁止'版責禁止としたのが三二第'このほか にも 数百瓢が 「下等」として制限を加えられた。新聞 にも敬行停止を命じ たも のがある ( 「 上等」、「 下等」 の朔定 に ついては、本文 にのべる)O 浜劇 については具健的数字は未詳O活動 の状況も未詳o なお、筆者は右 の表彰状 ( 原文 「 褒状」 ) を授興された 小論 につい ては'その小数審査報菅 の原文 の寓厳を入手することができ'す べて 本稿 にも引用したO ﹃ 敦育公報﹄が揖載した教育 部都合 の 1部も同様 に引用した.この寡兵入手 に ついて毒力たまわ った中国社倉科華族世 界歴史研究所だ何条先生 に感謝する。壷 た厳所蔵者 であ る機関 の好意 にも感謝するO ただし ﹃ 教育公報﹄をす べて窟鼻撮影する ことは不可能 であるOま た「 上等」と評債された小説七十第がど のような作品であるか、す べ てにわた って讃むこし 」 は目下 のL Jころ不可能 であるD また'第二次通俗教育研究食 の存在を 一九 二三年ごろまでと推定し た のは' 1九 二三年 には 「 部数敏畿'経済困難' 1切事務 ' 歎 於 進 行」と いう状態 であ ったからであ る。 これは沈論文から の孫引き。三 !箕 。ただし決はな にから の引用 であるか'記さな い。 論分科合 の主任 であ ったとするo汝が引用する l九 1七年十 i月三日 前お の沈論文はこの三年間'周樹人 ( 沈論文 では魯迅)が 一貫し て小 二九六 付 '教育部が簡した 「 欝五四壊委任令」 ( ﹃ 教育公報﹄第四 年 第 十 六 期)は つぎ のとおり であ る。 「 玄薮歳事戴茎 譲接充通俗教育研究 脅小詮股主任' 仰即 遵 鷹o 此 令」 魯迅先生的 「 小寵股主任」 1職夜道嫁的被解除了O 右 につづいて'比は' つぎ のよう に記す rJ すなわち、 1九 7七年十 1月まで'周樹人は小詮分科 曾 ( 原文は 筋 知 (こ 事 '本部余事周樹人静発表通俗教育食小詮股主任乗職、 しかしながら、 つぎ のような公文書が存在するのであ る0 「 ホ設股」 ) の主任であ って、載克譲が そのあとをひき ついだとす るの であるO 霧 盛 ( ) 二 暴清軍O査木骨牽程第十 山僕内嚢へ斡事由食長於禽農車推 庭師照准。改液編客員萱草結廉充通俗教育研究倉小紋股主任O此 筋O (1九 二ハ・二 ・1四) 義 遇詳論教育港長検定等因'菟由本合推定合員周樹人張宗群馬小詮 股審核幹事 '理合琴 革呈講堂核施行。謹呈教育線長。 (一九 二ハ・一 〇) 教育部指令。披 轟推定周樹人張宗酵盛小数股審核幹事等因、厳 魔細照准o此命。 右 の公文書 の庶編我 は ﹃通俗教育研究合報告書﹄ ( 以後'﹃ 報告書﹄ そら- ﹃ 生卒史料﹄ の編者 によるO と呼 ぶ) O ここでは ﹃ 生卒史料﹄から引用。 1七酉-玉東O日付 ほお 沈論文は ﹃ 報告書﹄からも引用し ている0着 の (〓 ( 二)をみおと したのほ不思議 であ るO本文 の記蓮は'右 の (〓 ( 二) にもとずく. ( 二)杏 沈論文は、 1九 i五- 7七年 の通俗教育研究食 の成果 のうち魯廠的 に評債 でき るも のを魯迅と結び つけるがへこれは右 の (こ 知らな いこととも関連し ていよう0 ( 5 ) なお右の (こ いO ( 二)の公文書は'もとは標穀符親は鮒されていな この中国の研究者とは沈鶴年 である。 ただし前注 ( 4)に引用の教育部 の公文書 ( 二)にみられるように' ただし'沈論文も第六関の報告書は除外する. 輩宗群も小説分科食 の審査幹事 に任命されているO報告者 の 山都は張 宗群も執筆したと考えるべきであろう。 ( 6) 「二 つの顔」云云は左 の拙文にす でにのべた。 ) ﹃五四運動の研究﹄第三両回。同朋舎' 1九 「周樹人の役人生活-五四と魯迅 ・その 一側蘭」 ( 兼務大草人文科 ハ エ)糞憲泉 ・刀美挙 ﹃ 分省 ・中国人物誌-論人物之地理分怖﹄波 中国文化界人物親鑑﹄中華法令轟印館、 i九三〇年' (こ 橋川時雄﹃ ︹ 名著普及倉、一 九八二年覆刻︺ 文書居、 一九七八年影印 ︹ 原本出版社未詳、 一九三 一年坂︺。ただし、 あ る。橋川のこの項の記述は'園田に負うようで'文章が 1 致する。 これは園田 7飽 ﹃ 新中図分省人物誌﹄を寮 ・刀が率国語静したも ので ただし園田には壁卒年 の記載がないO ( 4) 黄炎培は上海'南洋公撃を卒業'日本に留撃、教育撃を専攻。辛亥革 とな ったoさらに'江蘇省教育含副食長、江蘇省議合議員 にもな った。 命 にさいして陳其桑の下にいり江森都督府教帝科長'江森省敷曹司最 叫九 1四年 に省教育司司長を静聴o f九 l七年'アメ-カを視察'鋸 国して上海 に中華蔵業教育社を創立'理事長 になるO 学研究所共同研究報告 八五年 1月。 本稿は右の拙文の 「 附記」 にのべた'執筆橡定している四季 のうち ずO抗日戦車は国民参政舎常務委員' 1九EI 〇年 に中国民王政圏爾盟 ( 6) 倉島を任命した通達は つぎのとおりであ った. ﹃ 生卒史料﹄ 7五四- 月三十 1日。 ( 5) 日記 一九 山二年十二月三日O つぎの迭付 の記事は'日記 1九 一三年三 日死去。 国委員合副主席'中国民主建国禽主任委員o l九六五年十二月二十 一 二義部部長'全国人民代表大骨常務委員含副委員長'政治協商合議全 治協商合議に臨カO 建国後は、中央人民政府委員、政務院別線理桑軽 九四六年︺を著わす0回年'中国民主建国骨を馨起。 1九四八年 の政 を蓉起.四五年 に建窯を訪問'﹃延安線束﹄︹ 日本語帝 ﹃延安報告﹄ 1 山九二 1、二二年丁二度 にわた って教育瀬島 に任命されたが鹿任せ の 1肇とし て購忽したが七分巌がこれほど多-なろうとは意外 であ っ た。 f 周封入と通俗教育研究倉 二五頁O ( 1) 欝 山次通俗教育研究食 に ついては、沈論文の記蓮 によるO前出 二四- ( また孫咲四五-四七菜O これは枕絵文を多く引用するo孫瑛 のこの 部分は ﹃ 生卒史料﹄ にも収 録。J 二 三六-三七真O 2) 伝達は江蘇省武蓬の人O字は 博純。生年未詳' 1九 1三年死去o魯逮 日記の注樺 によるO ( 3) 唐文治はこのあと、政治活動にはいる.章柄麟'張警らと中華民国連 五貢O慮我は ﹃ 報告書﹄。 界をほなれ'上海 の南洋工業専門学校長を多年 つとめたOのち無錫固 合食、 ついで共和賞を組織'北京 にい って活躍した。しかしやがて政 研究以策連行、除禽長鯨理本禽事務、療由本部攻長森窪外、義時依 薦筋知事'現在通俗教育研究食草程業饗准公布'憂慮遠涙含貞開合 二九七 鷹合葦欝七僕欝 一項、指定本部蔵員車窓康、部文理'劃文柄'陳任 率、霜歩癖、巣鷹容へ王家駒、改選'濁樹人'徐協威'発車幾'沈 撃専修舘を創立'館長とな った.のちに固拳尊慮撃枚と改構。 i八六 五年生まれO江蘇太倉 の人. 樽記 については つぎを参照したO 周 樹 人 の役 人 生 活 東 方 軍 報 彩年、嬬承鈎'童繰鷹、許丹、梯大磯、季在英 、群寵厚'三重轟へ 二九八 の使命をおぴ、 「 番 メテ家 喚声暁 ヲ期 シ人人 ヲシテソノ天盈 ヲ激 ハ ラ 敬 セシメ」 「 以 テ群感 ヲ轄ヒ」専制運動 のため に道路を平ら にし ようとした。 胡家風'英文顔'孫宮津'常国憲'題夢宴 、郭延欝、李基鴻'季窯 発 '宋遇へ張駿馬本食管 貝O馬鹿通厳施行、仲野連騰斬理o此審O ここの引用は、「 教育部 量凝提倍忠孝節義施行方法」からであ るO ( 7) 素元培 の講演 の内容は ﹃教育雑誌﹄九重 二親' 一九 i七年 三月十 五日 研究食 の愈刺がはたし てここまで明確 にうた っていたかは疑問 であ るOうた っていたとすれば沈論文は嘗然それを引用した であ ろう0し かし' 「 改良」 に ついて'このような イデオ ロギーを考え ていたと い ( 4 ) ) 秘書虞 の通知は つぎ のとおり であ る。 魯魚 に任命した通達 の原文は本構 「こ の注 ハ 6) に引用した。 う のも否定 で・ F u な いであ ろう。 5 8) 本稿 「小引」 の注 ( 4)参腰O ( 替行、「 専件」 の琴 丁 五菜 に争 見るO「 事鶴卿先生在通俗敵背研究 含浸数詞」。沈論文も孫葵も この講演 に ついてふれな い. ( こ 通俗教育研究骨の成立 月十九日下草 二時開預傭愈討論 1切等園 '特此通知0 啓者O奉鵜島嘱'通俗教育研究舎壷符等が '本部所夜食員 '患於本 ( 1) この経緯は沈論文 による〇二七頁 O ( 2) 湯北龍 の意見書、 「最大轟統擬設通俗教育研究魯文」 の全文は未見O ﹃ 通俗教育研究食報告番﹄ に所収 のはず であ る。 着は八月十八日に敬せられた。 別指定、以資進行。玄沢落合魯魚周樹人馬小紋股主任、案中塵潟戯 番飾知事 へ通俗教育研究愈 現燈雛織裁緒、所有各股主任白魔鷹牽分 ( 6) 周樹人らを主任 に任命した通達 の原文は つぎ のとおり である。 ・ - 療 絞而外、尤鰭有数愈教育以補英断不遜。--偲此園義博 九頁 O 本文 に引用したのは'沈論文 に引用され ているも のの孫引 01一 原文は つぎ のとおり. 定、民習未純之時、使非於此項数育積鹿提唱、不徒人民之徳慧不 着は九月 一日に蚤せられたo 商卒戟胡同山魯邑舘 小詮投主任 周樹人 後才 新江施薬 本部愈事 順治門外永光寺中街 商 戯曲投主任 黄率磯 正常 湖北江駿 太部 歳事 「 蘭 琉璃廠西門路南 駅家朝岡 南 7二五三 ﹄ 二二 二七」とあるのは電話番磯とおもわれるO 合 点 の氏名 は ﹃通俗教育研究禽職員録﹄が残 ってい 究 合第 一次報告書﹄酎録、とし て ﹃生年史料 7四 るO ﹃通俗教育 研 通俗教 育研究合 の 着の 講演没主任 耽椿年 蔭庭 京兆宛卒 去師撃務局通俗教育科長 二二二七 ﹃ 通俗教育研究禽職員録﹄ には' つぎ のようにみえる。 曲股主任'耽春年馬講演股 主任o此鮪0 ) 開'社食落 日趨於下'而歯嚢者頓'乏適宜之訓、化龍尤慎無以定 ( 7 志乗而正趨向、其於国家前途関係甚亘。故通俗教育費薦 現今刻不 容緩之樹0--葦擬選集禽農愛新関食 '-・ ・ ・ 丞謀- ・ ・ 豪尊耕法、 以挽布俗而正人心O ( 3) 「通俗教育研究曾 葦程」は未見 。 養文 の説明は沈論文 による.二七貫。ただし沈論文は、この「 車 種」 の内容を紀関するにあた って殊文を引用せず、 「 教育部 皐擬綻侶忠孝 節義施行方法」から の引用をも ってあ てている.また、二代目の舎長' 韻 1感 の訓辞も引摺し ている0 「 改良」 に ついて'沈論文ほ っぎ のようにのべているO 「 改良」 にあた って'かれらはさら に 「 忠孝節義 ノ精義 ヲ開蕩 シ'尊書 ヲ成 スヲ勘合 シ歌曲 ヲ縞選 シ及ビ国墓 ヲ制作 スル」など 七 -五四貢 。 姓名と所属 は つぎ のとおり であ る。 教育部 夜学 京師警察頗科員 北京通俗教育食像鼠 調査幹事 劉宗炎 孫 伯恒 王家騎 北京高等師範学校枚長 原文は ﹃ 教育公報﹄第 三年第 四第 「 附線」 一-二貰 。 「 批通俗教育研究禽奨飽水記章 程倫屠妥協准即凝離」第三百 これを批准し た教育部令 は、それ ぞれ つぎ の表題 '競 '目付 け であ るO 五 十 三雛へ洪怒元年 三月十 五日 ( 1 ) 「 批通俗教育研究食小説股進行解法准原潜」第 三百 五十 四競' 教育部愈寮 審査幹事 陳賛泉 教育都 南撃 生卒史料﹄ 1三七-三八菜 。 孫襲 '前出 '四七頁 。﹃ 衰世凱 ・湯化龍 ・張 一層 の0分科食 で議決 の月 日は未詳 〇二月初旬∼中旬と推定されるO 「演劇放漫液簾」 は ﹃ 教育雑誌﹄第 八巻 三験 ( 出版年月記載なし O民 原文は ﹃ 教育公報﹄第 三年第 四第 「 公債」八 二J l l 頁O 洪 窓元年 三月十 五日O 陳慾治 数背部 駁撃 ) 張葦贈 国五年 三月十 五日と推定され る) の 「記事」頁 「 撃事 1束」欄'二〇 ( 編聯幹寧 許 丹 教育部余事 - 二 山ページ、見出し 「▲通俗教驚改良之 新標準」 にかかげられたも 二 掲承釣 教育部 義挙 ( 16) 果文潔 孫供 による。四七 -四九業 。﹃ 生年史料﹄ l三八京 o ( 8) 八月十九日の 準 備 の合議から成立練合 'その翌日の主任合議 の経緯紘 ( であ る。原文は ﹃ 生年史料﹄ 〓ハ八 I l七〇京 oもとは ﹃通俗教育 研 9) か詮分科合 の 「細則」は原文 では 「通俗教育研究合小詮股桝事細則」 究合報告書﹄折攻 。 覇者店 山九五七年 、二七 -二八某 に記述があ る0 北洋 軍閥統治時期史話﹄欝 二筋'≡ 文官官秩令 に ついては、陶菊陽 ﹃ (10) f小紋審査 ノ基準」は原文 では 「 審核小紋棟漁こo原文 は ﹃ 生年史料﹄ ( ll) 「小数ノ巻噂改良及 ビ禁止排鎮護薬」 は原文 では 「勘等改良 及査察小 人 、いずれも清朝 のとき に練督 、あ るいは簡書 に任じられた大官僚0 藤」 にし て 「 上熟街」を加 えるのは'過密巽へ李経義 、染敏彦、 の≡ 嚢 によ って 「 上顛」を授舜 された のは徐世昌 ただe) とりであ るO 「中 それ によると'文官官秩令 は 1九 1四年七月 二十 八日 に公布された0 忠新法議案」O 原文は ﹃ 生卒史料﹄ f七 一- 1七 二頁 Oもとは ﹃通俗 1七〇- 1七 1頁 0日付 は、「1九 一五 二 二」とす る0 教育研究魯報告書﹄。日付 は 「二 九 1五) 」とす る. 「優良 ナ ル小況 ノ目録 ヲ公布 スル議案」 は原文 では 「 公布良好ホ祝日 超 、楊度r孫統竃ら。避乗鈎 には上郷が、宋敦仁 には中舟がそれ ぞれ 衡」を加えるのは牽宗群へ濠化蔑ら。 「少卿」は登康、荘窺寛、梁藤 熊希齢 、周樹模'琵大挙 り、嘗官僚や立憲君主喪O 「少癖」 で 「 中細 「 率卿」は梯土樽'鏡髄劉'孫牽帝 へ発容鈴、周白餅 、張番'梁士静' これ の原文は ﹃生平史料﹄ 一七 三貢 。もとは ﹃ 報告書﹄所収 ? 鏡議案Lo原文は ﹃ 生年史料﹄ 一七三京 。もとは ﹃ 報告書﹄釈放 O (12) これ の原文は ﹃ 生卒史料﹄ 一七 二頁 。もとは ﹃ 報告書﹄所収 O ( 1 3) ) 14 ( に表は大正天皇 の即位 にた いし醗資と胎動 の特雇とし て農商牌長周自 迫賂されたO題 は嚢 によ って寒牽 '栄 は暗殺された人物 であ るO のち 二九九 寮を派遼す ることを定めるがYと- に周を 「 上却衛」を加えたO 15) 原題はそれぞれ つぎ のとおり であ る。 ( ( 二) 「 小説駿進行桝法案」 (1) 「奨勘小詮章程草案」 濁樹 人 の役 人 生 活 ) ) ( ( 3 ) 4 ( 東 方 聾 報 以下 、 ﹃ 北洋軍閥統治時期史話﹄は ﹃ 史話﹄と略科する。 ﹃ 史括﹄二八菜O ﹃ 史話﹄同京Oなお衰世凱の祭天式はジ ェロー ム ・チ ェン ﹃ 衰世凱と 近代中国﹄守川正道静、岩汲書店' 1九八〇年 八 月'二二九-三〇頁 にも描かれているO ( 5 l九 l五年のこの紀孔典樽は'チ ェンの同書二三0京.拙稿 「 魯迅と 孔子様」﹃ 世界﹄ 1九八二年 1月畿'二四 7-五五頁O 6) 醤軍曹の軍古書は、 チ ェン同上杏 二三九頁o TP J話﹄ 二 二- 二二 京o ( 7) 等安合の五人は'チ ェン同上書二三七某O﹃ 史話﹄ 1 〇七- 111頁. ) チ ュンは 「 遠 い省からの代表がた った九日間で北京 に来ることがで きたというのは'驚- べきことであ った」と記すが'じ つさいは北京 在住者が集 ったのであるO ﹃史話﹄ 二 四賞O 黒土払HHのうごさについて は、チ ュン同上苫二四三讃。 r史話j l二三 某O 投票数については'チ ェン同上書二四五貢。﹃ 史話﹄ 7二六京o r 史話j 一二六頁O ﹃ 史常﹄ 二 一 八頁O ﹃ 史話﹄ 1二九-三〇貢o ﹃ 史話﹄ 二三0' 一三四貢 。 ﹃ 史衛﹄ 1三三-三四巽 o ﹃ 史話﹄ 1三四頁O チ ェン同上書 二四七頁。 ﹃ 史話﹄ 1凹五頁rJ ﹃ 史話 ﹄ 一三二頁O チ ェン同上書二四六、二五三某. ( 19 ) (2 ) 三〇〇 梁瀞勉の論文は、 「 奇妙な国健問題」とも辞す ことがで垂る。原文紘 「 巣哉所謂瞬健問題」。チ ェン岡上番二四 1京。 ﹃ 史話﹄ 山四八菜。梁 のうどきについては、同じく二五五貢O 以下地方の軍閥のうどきについてはへチ ェン同上書二五五∼二六二真o ﹃ 史話﹄ 1五 山東以下。 ら のうどきは'チ ェン同上書二六二頁。 ( 21) 徐世昌 うに記している。 ﹄ 国外からの帝政反射は'チ ェン同上書二四九 -二五 一頁。 ﹃ 史話﹄ 1 四二1四四菜O 山三八- 1四 一案。 廉有馬についてはチ ェン'二六二-三貴 三五〇貢。 。 自蕉 ﹃素懐凱輿率準属国 (22) ﹃ 史話﹄ 1八二真Qチ ェンは橘が這接'抗議文を蓑におく ってきたよ∼ ) (盟) (加 ( 25) 日本にたいする特使汲達とそれが拒否されたことは、チ ェン同上書こ 四九、二五 1-五二頁O﹃ 史話﹄ 1四二-四三頁。 史話﹄ 1八四-八六貰. チ 淀ン同上番 二六四京O﹃ 凝統とき 帝の使いわけについては、﹃ 史衝﹄ 1四六京、法 ︹ 6UO チ ェン同上書二六四貢o﹃ 史話﹄ 1八六頁。 チ ェン同上蕃 二六七-二七〇貢o﹃ 史宗﹄ 一八八-二二 1頁O ﹃ 史話﹄ ∵八二百。 以下、溶化寵について補足してお-o かれは北京進士館の官費留学生として日本に留学'法政大学に学ん だo湖北論議居島として辛亥革命 にあ い'琴 雅致都督のもとで民政線 長とな ったO新政府成立後は湖北選出金縁農へきちに開院副族長に推 された0 1九 t四年五月 l日から教育轟長O 最 た る入物 は五、六同交代した。しかし教育 にたいし て主張を抱 いて (32) 陵青之 ﹃ 中国教育史﹄ ( 大挙叢書)下筋'商務印書館 1九三五年四 月'六五四菜 につぎのような記盆 がみえるO ! 本期 ︹ 中華民国成立後の七年間を指す︺ の七、八年間に教育療 31 30 292 8 27 26 ( 8) 八月二十三日'九月 一日のことは'チ ェン同上書二三八頁。 ﹃ 史話﹄ 11三I l四頁。 ( 9 16 151 41 31 2 ll 10 ( ′ヽ 18 17 ヽ _ ■ ′ヽ . . ノ 研究禽報督書﹄から引用している。 ︹ 民国四年十 l月十五日敏行︺九二京 「 撃啓 一果」欄の 「 強練最の教 (誕) 新任 の張 一層が このよう にのべたことは ﹃ 教育准誌﹄第七番第十 1戟 いたのは三人だ珍であ ったo lは素元培'二は湯化龍 二 二は汚澄渡 で あ る。黍民は漸江 の人で'教育哲学者 であ ったOかれが就任したばか 育政策」'および 「 通俗教育研究食詰聞」 の記事 にみえるo これは張 りのとき に替表したその教育上 の主張は五 つの教育上 の主義を含んで いたO軍国民教育'賓利教育、公民道徳教育'美感教育'および世界 の談話を 二項目 に分けて記したも のとおもわれるO 〇京 。 陶が いうように、かれらは葦 軌 に非協力 であ ったoLかLtそれ ﹃ 史話﹄ 1三五真 O 徐世良がそうである。 がど の程度 であ ったかは'また別 の問題 であろうO 辛亥革命 のとき'清朝 の協理大臣 であ ったかれは衰世親の起用を主 徐は二十四歳 のとき'四歳年少 の衰世凱と知りあ って義兄弟 のちぎ りを結んだ。それからは蓑と策謀をねる仲とな った. 東が帝制を推進すると'かれは政局に大きな汲潤が生じるとみて、 張し、 裏は責任内閣を敗績'軍'政 の大横を掌握したO 密な人間をす べてまき こむと'寓が 1、瀕詞 にゆかなくな ったとき' 「 大事を奉げると昏'少しは返却す る飴地を残しておく べき で'親 辞職したO うとす る 「国民教育」を提唱したのが'表せ凱であ ったO,*北龍 の主 薦外賓 の資格で磯漁をはかる入関が いな-なる。い使節磯するのは由 (節) ( 3) 孫葵 のこの記述は、﹃ 魯迅在教育部﹄五三貢.﹃ 生卒史料﹄所収、 1四 は﹃ 通俗教育研究食報告番﹄から引用o ( 3) 張 1麿 の藤倉 にお汐る訓示は'沈論文からの孫引き。三〇貢 。沈論文 旨を のべたと いうO 前者 の項 では、張はまず教員 の検定を賓施す べき である、と いう趣 観教育 である。前 の三 つは常時 の教育界 の人士が i般 に求めていたも ので'あとの二 つだけがかれの個人的主張 である。 濠氏は湖北 の人で、政治家であ った。しかし教育 については断乎た る主張をも っていて、民国三'四年 二 九 1四、五年︺ にわた って' 上は大赦続 にたいLt下は各省 の教育行政機関および学校 にたいLt 蒋氏は湖南 の人で、教育賓頗家であ った。練逮 で才略が蔽 った。数 しばしばその 「 国民教育」 の意見を説 いた。 青線長を歴任し、極力 「軍国民教育」主義を提唱したo 陳常之 は着 のよう にのべたあと、この期 の数驚思想は二 )軍隊民教 育'( 二)国民教育、( 三) 棄用主義教育 であ って、これらをめぐ って全 の代表は蕩化龍 であるが、拳 冗培濁白 の美感教育と世界観教育 の二 つ 二) 国的 な級論が展開潰れたと いうOそし て、二 )の代表は渇源渡'( の主我はこれ に附和す るも のがなか ったので、常時 の教育思潮と認め ることはできな いと いう〇六五四頁o この種民教育義弟 に ついては七大継続 である豪世凱'教育纏長 であ る湯化龍がそれぞれ主張し'また'民間 にも この馨があ ったと いう。 張 は褒世軌と異な っていた。それは'国民固有 の特性を蓉揚して世界 分 のため ではな い」 民間 の馨 は'義務教育を提唱したも ので'全国民を 1つの型にはめよ に誇ろうとするととも に'生活能力 の養成 に つとめ世界 の競争 におく 衰世凱は帝政を施したがうまくゆかず' 1九 l六年 三月 に帝政を廃 徐慨昌は衆 にこうい って静めたと いわれる。常時六十歳 であ った。 れをとらな いよう にすると いう二 つの側面をも っていたO国民の特性 は道徳を根本とし、孔子を模範と仰ぐ こと によ って樹立されるO六 五 三〇 一 止、中華民国の年窮を復活潰せ'徐を擁務卿をむかえたO徐ははたし 七 -六六〇貢O 通俗 ( 33) 染着酒 のこの訓示は、沈論究から の孫引き。三〇第 O沈論究は ﹃ 周樹 人 の役 人生 活 凍 方 轡 報 で嚢のために義カしたが、時勢 の難聴は挽同Lがた- 1カ月 で鮮任せ ざるをえ怒か った。 以下'衰希清'高歩濠 の樽記は' つぎ の資料など によるO ( 二)橋川時雄 ﹃ 中国文化界人物液鑑﹄。前出o注 の 一 ( 3)容鷹。 (1)外務省情報部纏 ﹃ 改訂現代支部人名鑑﹄ 1九二八年 三月 分科倉の審議と周樹人 (3 ) 四 ( 14 ) 三〇 二 孫瑛'五九煮 。 ﹃生卒史料﹄所収 五九貢O および魯迅博物 館魯 迅研究 !九八 1年九月、三層六' ﹃ 年譜﹄はそれ ぞれ 「 小数股第十七衣合議紀事」'「小訟股第二十 7 室編 ﹃ 魯迅 年 譜 ﹄ 欝 一食'人民文拳出版社 三四九頁 。 攻禽液紀額」と出所を記すが、愈漆 の模様などは記され ていな いO なお、 ﹃ 年譜﹄ によれば、第 二七同 の合幕 において'かねて周樹人 を小説審査幹事 に推薦し ていた件が'教育部 によ って裁可されたこと が報告され ている。出所は 「 小説股第 二十七攻食談紀事」。三五 一煮 。 ただし、周樹人が この同 の倉俵 に出席し ていたか否かはわからな い. 五 禁止された小 説 ・表彰状を授興された小 説 右 の第十七へこ 7同以外 に出席し ていたとし ても 、 「 合議紀事」 に 名前が記され ていな いと いう ことはありうる。 孫襲'五四貢 O﹃ 生卒史料﹄所収 1四 l某 . の l部 は童静塵 ﹃ 中 国出版史料﹄靖編中華書局' 一九 五七年 同着'三二京上段 の記述による。 五月 にも収録され ている。 「 滞末長初封於民衆薫物編者之経過- 1九 〇六 - 一九 二三年 」 lEI 五-四八召 rJ お、これ -四四京 O年度別 の数字は三 一東 下段 -三二頁上段 の記蓮による。な 雑誌﹄欝 二十五幾筋七競'商務印書館' 1九三五年七月十日敬行。 一 中央封編審教科困苦之検討」 ﹃ 教育 ( 1) 以下にかかげる統計 は'鄭鶴牽 「 所牧、 一四 1京。 料 ﹄ ﹃新潮﹄ の創刊観 にの った i文と いうのは、志希 「 今 日の中国 の小説 界」。﹃新潮﹄欝 7番解 山鯛。 i九 一九年 1月出版. 1〇六- 1七東。 本文の引用は 1〇七-八真 .本文 の引用は沈論文 の引用をそのまま 同着、同文 O 究愈第三次大食上小紋股主任報告情況紀要」 によるOこれ には 「周君 「これら の捜蘭と行動はか つて葉子 の遊歩的知識分子と青年 の賛同番 踏襲したO汝はこの箇所を引用す るにあた って'こう i っている.- ﹃ 生卒史料﹄ 〓ハ三頁。 ﹃ 生準史料﹄ 1六七業。 ﹃ 生卒史料﹄ 〓ハ七貫 。 ﹃ 生卒史料﹄ 一六七 -八貢 O え たo l九 1九年 7月 '北京大挙 の進歩的畢生は ﹃新親﹄誌上 に、 つ ぎ のよう に記した」O沈論文 二七貢Q その全文を帯出したが'原文は引用符 にいれて引用されていな いo ここでの周樹人の報告、および補 足の撃 首は、いずれも 「 通俗敵背研 孫瑛r五四頁 O﹃ 生卒史 1九八 山年版 ﹃ 魯 迅全集﹄十四慮 1八五京 。 魯迅日記 1九 1五年 十月 二十九日の棟 に 「 下平破線長招見」とみえる0 ﹃ 生卒史料﹄ 〓ハニー三貫。 孫襲 、五四貫O﹃ 生卒史料﹄所収 山田 t茨 O ﹃ 生卒史料﹄ i六 二頁。 孫襲'五四頁 。﹃ 生卒史料﹄ l四 一貫 。 揃環. Q著 については' す でにふれた。江 の小引 ( -) の ( 二)a 以下の本文 の記述は'これをもと に要約したも のであるO 貫 O褒題は 「 か紀股在魯迅五経下妻開始十 二衣食濃紀鎗」o 記録は億 にし て要を得 ており、しかも合議 の雰囲気をうかがわせるo ( 1) 「分科食食談銀」は ﹃ 生率史料﹄ に放線され ている。 1五六- 1六八 7 6 5 43 2 1 31 2l l ) ) 小説にたいして上下関係を示してはいない0 1籍 の小説選評といえる 上申)されるも のであるからへ 「 巌批」 であるとはい っても'露骨に しかしながら'報告は通俗教育研究合から教育部 に提出 ( あるいは 志希の論文は、﹃ 中国黒幕大鶴﹄などとい った黒幕小詮、﹃玉梨魂﹄ などの四六駅凝健の文筆、香艶の詩詩を極力排撃し ている。沈 の引用 性質 のも のでもある。 令 の目付けへさらにそれの端裁さ礼 はその排撃の口詞の激しい箇所を綴りあわせたも のであるO ( と題する湖に抱載されているが'同じ親の 「 報告」と題する欄に'通 た﹃ 教育公報﹄ の渡数、霧載頁は つぎのとおりである。部令は「 公債」 8) 大同にわたる教育部令の春歌'磯 「 検閲」である0そし て、このとき歓迎されたためにtr 検閲」はよい 俗教育合が上申した報告書 ( 「 通俗教育研究含審核小説報告」 と題す ﹃ 教育公報﹄ ﹃ 敵背公報﹄解三年 「 報告」 1四-七貢。 九月二十三日 んにちの常識からみて出版 にたいする滞歴であるにもか かわらず、 槍 ︻ 欝 一同︼ . 五 年 る)を掲載しているので'あわせて 「 報馨し欄の掲載業もかかげるO 部令 欝八十八硫 民国 第十 1期 「 公債」五四貢 ︻ 第二回︼ 部令 第二百二十五棄 民図五年十 1月二十 1日 欝四年欝 一期 「 公膳」 山〇七∼八賞。 「 報告し 〓ハ-二〇東O ︻ 第三同︼ 報告書は審査頚告とたたわれているから、通俗教育研究合'すなわ ここで'報告書 の文章としての性格にふれておきたいO 表彰状 の授輿 については 「 敬給褒状傑例」三珠が制定されているO全 文未見Q 関する側もされる側も、さほど泉 にしないという現象を生じることに な ったのかもしれない。 も のであるという通念をうえ つ抄ることになり、これがこののち'こ ことはできないにせよ'しかしながらなお考えるなら'これはやはり ( 5) 「検閲」は出版の白由を制限するも のであ った、と性急 に緒論づける ( 6 ( 7 部令 常習九十 三焼 民圃六年三月こ0 1日 ち賓際 にはその小説分科食 に所廃する食農 の執筆によるも のであるうO 教育部はたんに教育部令によ って推薦を公布するばかりでな-、その 報告」六-九貢。 年七期 「 公腰」六九∼七〇頁O 「 ︻ 第四岡︼ ﹃ 数宵公報﹄欝四 推薦の根湊を公表しているわけである。この報尊者 の末尾には、 「 覆 都合 第四百三十六戟 民国六年六月二十五日 審するに-・ ・ ・ 」とい った書きだLで'教育部 の接富者の判定がさらに 記潰れている ( 記されていないも のもある) 。 通俗数欝研究食が 上申 ﹃ 教育公報﹄ ﹃ 教育公報﹄第 になるOこの教育部 による測定の文聾は、いわゆる 「 批示」 であ って、 し、教育部が批准したという手続きが' 「 報告」 に示されていること ︹ 戊鰐六年︺九月二 十二日 公債」八 t-二頁O 「 報告」二九-三 1烹O 第 四年第十五期 「 ︻ 第六同︼ 都合 第六雷等二験 四年欝 十 t期 「 公儀」五七京B 「 載告」二八-九某o ︻ 第五回︼ 「 批示」は教育部が通俗数常食 にたいしてお こなうものであるから、 中国の官僚機境 に侍銃的な批准 であるo うとr通俗教育食 のもともとの報告の部分はtか紀にたいし ては 「 庶 帝五年第二期 「 公腰」四二∼三貫。 「 報告」 1-二貢o 部令 弟八百四十八畿 属国六年十二月二十 i日 雨着 の間 には上下の関係があることになる。 「覆批」としてこれを扱 雛」を施したということになるOすなわち'通俗教育研究倉へじ つは 三〇三 なお'部命の文健をうかがうために'推薦欝 i同のさいの都合を つ ﹃ 教育公報﹄ ホ祝分科合 の報告は'小紋にたいして 「 批示」を加えたわけで、この 上者 の関係もまた'上下の関係にあるとみることができようO 周樹 人 の役 人生 活 ( 9 ) 楽 方 轡 戦 以上 関穫皆 滞遠藤 姶予 乙種 褒状 塊肉飴生遥 J 模範町村 義黒 水琴図線 以上二種督著作廠 給予甲種褒状 埋石秦 右記 孤雛感 追記 計開 合 一再 馨 核 合開清単連同原青畳本合審核報告墨請核准施行謹呈教育聴長 之 道徳智 識輿 木曾 新建築 静尊 複筋 二三榛相符溶 給 予甲 乙種 褒状 理 部 妖准在 弊衣経本愈査得小 説中 衛 模範 町村等 大様賓 足補助我 国人 露 呈請等 稀査 本食前議 決奨 励水琴 革穂並 裁定褒状 園棟均湛辞奉 釣 附尿量 各報告均 凝允協廠准給 予褒状 涙 管饗 遜報 督及滑革存 此令 允協漁准給予褒状文禁 肘講 評 櫨 量及審核報告等簡均悉査模索町村等 六種小 散発雲 指 令 通俗教 育 研究禽綾 皐遼審媛模範 町村等 六簿小 股叡 尊均腐 ぎ にかかげるQ r 短 篇 ら 風帖間 許﹄ に収録 され た チ ェホフの は つぎのとおり であ るrJ英 文 の題名 は この内容をかかげ た資料か のも のである。 上射 (I ) 「適格之 防満」 Overdoing Zt ( 二) 「 律師之訓子」 Hom e州 ≡ ( ) 「 可棄」 No tWa n t e d 四 ( ) 「 肥畦」 Ea tandThi n 五 ( ) 「 益馬」 TheHor s e・ St ealer 六 ( ) 「 鎮 螺 旋 審 判」 A Ma lefactor 七 ( ) 「 乞 人」 The Be粥ge r 三 〇四 ou me ve si r J dc a s H )ea u aty な 」 H St l e . s y Ar b l e s o Vit o r ( A )「想甚」 T ( 九 )コ 療致死」r thof Go mmentC rk ( 十 )「並若柁」Ag a 八 三 )「密盈」 ︹記載 し︺ 曽 両 「花長頭王統事 Te hy a d a ner or 替 完 「不許大馨」 h e Ra nka 「 書記」 I v a nMa t v e yi t c h Wi t houta t i t l e e ( 十 四 )「 不掩」︹ 記 載 な︺ し 下榊 ( 蛋) 「山荘」Inth vin ( 芸) 「小介 寄」Va ( 義) 「夢噂」 Dra e mS ( 穴 ) 「如法」 A Story ( 完 ) 「美衝家」 Tatent ( 寺 ) 7九二九年三月止﹄真善美書店 nd ハ 葦t) コ 欄紳士的朋友」A Gentl e ma n. sFri e 目1 なおこれをかかげた資料は'蒲梢 ﹃ 漠等東西洋文畢作品編 1九二九年、韻静座輯産 ﹃ 中国現代出版史料 甲編﹄所収、二七 一1 三二三頁。 の英文綴り ( あるいは芙蓉の綴り)を記しているので'以下の本文の ( 1) 薄着 の周痩鴇は'各貨 のまえに伴者紹介をおこない'作者名'原作蛋 ような 1贋表を作成することが可能であ った。しかし、作品の内容と 鷹合したわけではないので'おそらく誤りもあろうO 中華書局はす べての出版物を現在も所威しており' この周疫轟の解 敦も原本から輩鴬した資料を入手することがで重た。 奥付は本文のと おりの尊名 であるがへ表紙は 「 叢刊」が 「 叢刻」とな っている。周痩 この資料 の筆霧 についても江南栄先生を質わした。 蕪辞蓮O中華書局 1九 1七年三月敬行. ︹ 覆批︺ の見出しは筆者が加えたも のであるO ( ll) z s S 下 に推薦された小説に ついての審査報告をかかげるO ( 三) ﹃ 塊肉飴生成﹄ 潜 わ 詳述し ており、覆審を挙り譲んで戚談 に附すQ され'ほとんど下膿 の仲間 におち ぶれると ころであ った。母 の伯 母 によ って庇推され'謹まれた生活 になり、 ついに文豪 にな った これはあら慈し、逮腹 の子 の再婚 のあと鍵父から漆凌ぎ濠摩砕 これはある小軍政教師の六'七年間 の撃枚と家慶 における軍資 ィケンズ ︹ 郷而恩逸渡司︺はこれ に波 潤をもち こみ六十四牽、二 と いう筋 である。本筋はきわめて簡翠 であるが'チ ャ∼ ルズ ・デ ︻ 節 一同︼ を記す.卒見な言行は銘記す るに足り'讃めば我を忘れる0文筆 十四寓言とした。富めるかな言たる平。林畏塵先生が これを辞さ (〓 ﹃理で 爪 秦 右記﹄ べく、職 に轟す の心を起す 錦 す と もまた俗ならずo上等 に列す べし。 か ︹ 覆匪︺ これを讃めば虚柴 の念を れたるとき'伶者 の最高 の心血 の番 であると歎じたのも、も っとー か つこれを愛護し激厳し'しかも不十分 であるのを恐れたo雄兄 お糸を吐くようなも ので'もうひとりは濁り鞠 ぶ孤雁 のよう に遠 フィー ルドと同病だ ったから である0ひとりは春 の蚕が死し てな 女を産みたがり、男を産む のを厭が ったのは、ミ ス ・コッパー ついに破局はや ってき て'その老ミ ス ・ト ロットウ ッドを殺す。 造巣息子 に欺かれ てこれを恨んだからであ るO も っぱら金銭を入手しようとするにありtLばら-愛情を媒介と したのであ る0惜し いこと に少婦は無知 で、かれ の衝中 に堕ちた. は男女は妄り に愛情を用 いてはならな いと いう のにある。たとえ ば' マ-ド ストンがt, [ fス ・コッパー フィー ル. z lを要 った目的 は 厭かざるを覚えた。藩中 の優艶はきわめ て多 いOそ の主たる考え 績 ペLO近日の小紋に多-得 ペからざ るの作なり。捉す るに腰紋 の も であるO余はこれを讃む こと前後凡そ三次'岨噂 に味あり盲 ( 二) ﹃孤雑感過記﹄ 如くし、列して上等となすo 寝か に教育 の原理をも って教授管理を考えると精辞を重んじて 形式を藍んじな い。寛質科挙は資験を佃んで姦淡を機ばな いQ教 育ホ詮は通俗教育 の 1つであるから'自らとも にこの趣旨を健♭t 墜校数常 の逮ばざるを補う べ喪 であ る。い濠孤雑感温紀を縄醸し てます ます信じるにいた ったO金士室が雄晃 に遇う ことを のべて はこれによ って歓暮し鼓舞され心に合得す ると ころがあ ったo射 は道徳および寒国民教育をも って自 強の嵐とす るよう得 々と驚きt 互 に親愛と和気嶺 々たる美感があり、まこと に 深く教育 の輩碑香 く へ離れたO結果がやや異なるにすぎな いO うなも ので、 ついに街 の女をなり、最後 には秋の虜 のよう に棄 て かれは小ち ゃな エミリーが スティー丁フ寸- スに誘惑されたよ 簸たも のであ る.またよく山林鹿鳥をも って動植物 の研究をなし、 啓善、審美 の精碑を饗しまこと に賓験 の致用を得たも のである. 窟生と霜虞をも って美術と光挙 の練習とし、も って博物 の智議を ひこ はえ ストラン博士が ア ニーを要 ったのは'枯桟 に 稀 を生じようと られた。これは家柄がちがうから であ ったO ったO教育 の原理を深く明らかにしたのでなければ、できな いこ かく て雄兄を人材として育成Lt粛然として品粥撃砕 の域 にいた ディヴィッドとド-ラは夙溝 に結ばれ、鵜緒し てかえ って思い いう年齢 になり'結婚しよう にも相手が いなくなり ( 串は本番 に みえる)、年齢がかけはなれるから であ ったO と であ る。これは教育小説の模範 である。 ︹ 覆鍵︺孤 雑感追記 1倍.呉麻包天孝著。上海商務印書館彊版。 三〇五 木骨 の審議を へて上等 に列せられたOこれ の煙塵は演静がす でに 周樹 人 の役 人生 活 報 三 〇 六 ハムは尊をなす に男親があり、怨み に報 いる に徳をも ってした。 拳 ペゴティーは幼 い主人を助 けるのにカを轟した。彼女 は教育をう 方 が つの ったのであ った。それが結婚してプ ッチI に合うと笑うよ けたことはなか ったが、人格は高額 で心づか いが厚 いOこれはス 東 り泣く ことが多くな った。趣味が ⋮致しな いから であるO演者が フォー スらは穫儀知らず で野獣 であ る。 テ ィアフォー ス、 ユリアら の及 ぶと ころではなか った。 ステ ィア 察しな いかとばかり'作者 はさら に事例をあげる。 たとえばディヴ ィットと アグネ ス', Hコ-バーとその萎'チ ュ チンよ---1'ペゴテ ィーと バク スター老人、-ラド ルズと ソ ︹ 覆批︺ これは木骨 の審査 の基準 にてらLt上等 に列す べき であ る.名言警論 '美はあ ふれんばかりで'す こぶる敢合を匡正す る フィ、園清和合 しているか、死ぬ濠で愛鱗が漁らな いか、である。 それも ここに由来Ltお互 いの地位'職業、年齢'趣味 はほとん に足りるO ・原審者 の評語 にた いし てはきわめ て同意を表わす O を月 に小本 に印し'牛億をも って敬啓Ltこの書も またその 1に 光渚戊申年韻 讐 廃寮毅と著す o塞しその出版 の斯なり。その民 国四年初版と いうは'商務印書館が ここに至り'その各種 の洛詮 館初版徽行。念頭 に小序 一袋あり'潮静 の大旨を略述す 。食兼 に 傑昭文'徐鳳書 の共同詳述.九十 二節。民国四年 五月'商務印書 ︹ 覆批︺模範町村 l 射.日本農業博士'横井時敬著。大倉 の唐人、 正であるばかりでな-敏速は辞明 で'その社食 に功あると ころは、 も っとも少なからず、まさ に上等 に列す べき である。 ( 四) ﹃ 模範町村﹄ 模範町村小詮は 政治と社食 の二者 の閏 に介在Ltただ趣旨が純 ど同じでな いのであるO これからすれば'男女 の愛憐は妄りに用 いてよいであ ろうか。 近来'欧風東漸し、吾国の男女 に自由結婚す るも のが多 い。大 都市 には マ-ド ストー ンのような男がざら にみうけられる0婦人 が これに注意するよう願うも のであ る。 書中へサ ロン、嬰校 の腐敗が言及され ているO校長は授濃をお ろそかにし て歴力ばかり加え'貧し い畢生 にたいし ては鞭打 つが、 無税漠 の自重 強盗'質屋 の不正'妓館や酒姪が羽摂りのいい客 富豪 の子弟 には婚びる。か-て教育界 の暗黒は形容も できな いO これはわが国 の以前 の私塾とほとんど変らな いO をも てなす様子'妨護士 の葦文 の偽造などは'とく にわが国の現 よるなり。前 に本食 の審核を綴、列し て上等となす。庶秤 にいう。 「 模範町村小詮は政治と社食 の二者 の間 に介在し、 ただ趣旨純正' 在 の敢禽状況 に符節を食わせたよう であ る。 叙逮詳明なるのみならず 'その社食 に功あるところ'も っとも少 これを濠むも のは'改革 の志をもたなくてはならな いO持 三百 第 は開眼を巻頭 におき、かたわら鄭、衛 に及 ぶOま こと に夫婦を なからず、まさ に上等 に列す べLLと。 間 の弊害ある習慣も'これ につれて出現Lt親刺 の意味もある. さな いよう、戒めたoLかし、 ロンドンか牛ば開化した時代 の民 いし ては'趣旨を鮮明 にLtまず男女がやたらと愛情をとりかわ 校校長) 富林釣太 ( 執袴 の子Oのも に積野村長 に に 化 せ ら ( 春雄 の母) お箱 ( 春雄 の叔母) 綻野村 ( 撃拳士) 故淑 蔑 ( 病院長'暦撃博士) 畑豊作 ( 練作填技師) 山原 ( 農学 士tのち に花子と結婚せし者) 小田最荒 ( 春雄 の父) 隆子 碍野村長 ( 登坂村村長) 花子 ( 村長 の娘) 水田春雄 ( 嘗学 いま覆査 l退す るに'まず市中 の主要人物を左 に刺すr ・ も って人倫の源としているOしかる に風俗は尊慮なると惑化せる 余は、ヤモス 1家を鼓した個所をとく に愛津す るも ので、老漁夫 と に分れたOそれ で'チ ャー ルズ ∴アィケンズが これを著す に凄 が慈愛 にみち率直 であ るのは'蕃 鴎か これと遊ぶにふさわし いO 小田春雄 は東京 に暮す こと十験年 であ ったがへある日郷墨 に蹄 気が つくと同時 に、大 いに其文明聞流な のに感服した」などと い ば、欝EI 節に 「 春雄 は此時 '茶を出さぬのを、何となく物 足りな -思 ったが'此村 のことだから'其も廃したのであろうと、覇と 春雄が村長 に敬服Lt ついに父母と考えを輿 にLt救後 には父 っているのは'卒譲すれば笑う べき であるのを免れない。 る) 小泉誠 ( 小学校校長) この事 の内容は つぎ のとおり であ る。 ったo相野村長がその村をよく治めているのに感服Lt ついに村 に住み ついて、村を離れなか った。春雄 の父母は磯勢を求め て歯 ここに啓物も終 っている。 ただ者中 にのべる風俗浮偽 の弊はへ資利をおろをか にし て庶幾 母を悟らせ'村長 の娘と結婚する願 いをとげると いう話は'近時 の常年 の頭 のなか にあるも のから脱出していな いようであるが、 弊害は小さ い。 たが、のち にまた数化され' ついにその手を村長 の娘と結婚させ、 全書みな重野村長 の治績を表彰し ているから'これは人を主健 慨歎し、重農 主義をも ってこれを救おうと欲したのである。これ か の日本人はす でに早くからこれ に留意しているが'わが国人 を競うにあり'わが国の近日の情形と比較すれば'蓋し甚し いも のがある。 とLt作者はこれを記したことになるO蓋し'都督 の浮燐 の辞に には絶食を敏渡し て、人々が自給 で尊へしかも i切 の公共 の軍楽 も欧米文明 の軌を いたす にある。蓋し'純乎たる理恵 の作 である0 形 であ る.と ころが'これは簾極的理想とし て将来 の希望をかけ にし てこれを知るも のは少な い。また'わが国人の水没を作 るも 深く小説の作法を得ているO書 の佳なると ころは'原評がす でに 轟し ている0ただ全音を線度するに、議す べ奮と ころがいく つか けていて'これは借りて鏡とす べき であろう0今 日'これを零し てわが国に移す のは'まこと に原静にいう 「その社食 に敷呆ある 番率 に軍資を敷 べると ころは、みな人の問答 の詞をも って番藷へ ある0天下 のことは、理想 にばかり観ることはできな い。第三節 に「 碍野村長が三十幾年 一身を犠牲 に供し て鋭意経営したおかげ るが、正を幾らな い。その思横は'頑固'怯情と いえども感動し な いではいられな いO終りの薮節は兄童 によ っての教訓であり' 歴 し て ついに安全を獲得することを述 べる。鯖節は至 って奇であ これはあ る業種 の女奴が幼 い主人を守 って発を腺Lt寓険を経 ( 五) ﹃ 義黒﹄ 月再版へ二六四-三六四賀︺ 全集列行合'大正十 三年 [1九 二四年︺十 二月初版 '昭和二年六 ︹ なお原著は ﹃ 横井博士全集﹄第五巷'大日本農禽編纂、蔵井 のは' たいていが滑極主義をとり'述 べると ころはみな過去 の情 で'今 日のような撲然たる 一箇富有 の村とはな ったのである」と いうが、ど のような ことを賓施したのか'書中 にはあらましは記 と ころ少なからず」と い うも のである。謹みて原議 に附し'上等 に列する。 されているが'詳しくな いOもし誰かが これ にいわれ ていること をす べて糞施したとし て、はたし て十分 な成果をあげられるか、 疑わし いOこれが、その議す べき ことの 1つである。 都合は繁 華 の地 で'その縫撲はもとより薙里 に及 ばな いoしか し人材 の集ると ころで'撃簿と政治はここに出る。以前、率轡地 理教科書 の編者 が、わが国望 見師を首 悪 の区とし ていて'これは この事は義を持し て極端 に走 っており'その意圏 は世間が審桃浮 偏 った議論 で畢生 に示し てほならな いし J 批押したことがあ ったr J と- に教育原理L J も含する。評本 の小紋にあ ってす・ '・ /れた書 であ 三〇七 i挿しようというのにあるOたとえ 薄 であるのを指摘し'これを 周 樹 人 の役 人生 活 方 翠 報 三〇八 経験を経たあと の気分が全盛 に及び、あ たかもわが国の小設の枚 東 ある。上等 に列す べき であるO ーシー ・ルイザがジ ョン ・ルーシーに殺毒された ことを記し、全 予 のようなも のであ る。欝 二聾から欝 玉章まで。トー マスの母 ル 三、四賓はトー マスがジ ョンを得 てのち に失うことを のべるO欝 ー マスがリ-1に懲した ことを のべ、 第三九率 に鷹臆させる。欝 雄 の額端とするoこのあと の各章は、ここから始 まる0また'ト ︹ 家紋︺寛窓はす でに終り、凝批 にてらし て塵理す るO これは文筆家 ディ ッケンズが著したも ので、ドンビーと いう富 I( 六) ﹃ 氷雪因縁﹄ める商人を述 べる。俗物 でY.つね にその富を終り」息子を可愛が "娘は フロー レンスと い った。T って娘 には冷淡 であ ったO 五葦はトー マスの父がジ ョンが殺害した庶民を のべる0文情 の変 スペイ ンにい って暮す。放 にでて'仇敵 にであ った療初であ る。 幻 である。舞六費から第十奉 までoト∼ マスは復讐する決心をLも のち に妻も息子も死 に、高慢な婦人を後妻とす るが'彼女は娘 口す る人間も いたため'後車と娘を追 いだした.やがて落慶 は不 を可愛が ったoそこでド ンビーはますます その娘 に立腹し、告げ 凍 におち いり'貧し い生活を逸るよう になり'前章を後悔したO であうが死なな いO仇敵 にであ った二定め。第十 三章を b第十七 聾までOトー マスはメキ シコで、村岡となく死ぬほど のめ にあ い、 第十 1'十 二章。トー マスは スペインを去 るO途中 で危険なめ に 慰めた。全容 の文寒は使、静姿も また典 雅であ って'載せると こ 碑とし てあがめられ て' メキ シコの王女、オト, Jに燈されるO メ す でに結婚していた フロ∼ レンスは父親を迎えて養 い'やさしく ろの亭賓 は世間を敦花す るに足る.いささか表彰す べき であろ う O ようとす るが'その仇敵ジ ョンが火山 の憤火 口に死 ぬのを目撃' 第三十七牽Oトー マスはデ ィアシに再脅し て危険を腹し復啓し 轟き' スペイ ン軍 に投降するO オト, , , ととも にわずか に残 った メキ シコの蔑土を守り、 ついに力 ま で。トー マスはジ ョンに捕われ 、侮辱をうけるが ついに娩出へ これが のも に命拾 いす る伏線となる。第 二十七奉から第三十六費 度め である。欝 二十四孝 Oトー マスはデ ィアシにあうが殺さな いo スペイ ンと封時す るoジ ョンは スペイン軍にいるO仇敵とあう三 遇す るが ついに寸-、 .I , と結婚す るDメキ シ コの大格 に任せられ、 メキ シコ滅亡 の様子を のべるOその間'トー マスは死 の危険 に遭 キシ コの珍らし い土俗を のべる。第十八章から第 二十七章まで。 ﹃ 馨見放撃紀﹄ ︹ 覆批︺ 覆査を終りへ前艶 にてらし盛理する。 ︻ 第 二回︼ (〓 これ の作者は幼年時代 の学級 にお いてt l年間 に起きた事箕を Z 同想している。車扱 の様子と敢骨 の就況を こまごまと記し、親し み深-味わ いがあ る0号の趣賢 は畢枚と敢食を激励し'正し い軌 道 にのせようと いう こと にはかならな いOゆきとど いた配慮は文 章 にあ ふれへ用筆 の妙 は撃生が自ら語る口調をと ったと ころにあ る。少年が讃むと感動する にちが いな い。濠ことに巻本 である. ( 二) ﹃ 英孝子火山報仇鐘﹄ 全書 は結末をむかえる0第三十八牽。オ・ 1ミの死を のべ'第十三 ︹ 覆批︺覆査す る花'原雛 にてらし、上等 に列す。 英国の ハガード原著O林野、貌易共静O巻首 に序、静飴潜語を Ltリリーに帯食、第二章と首尾馬鹿す る。第四十. 革は徐波 で、 寒以後 にのべたこと の轟給とするO解 三十九肇。トー マスは師団 第 一章 の邸宅を復興'も って全書 のしめくくりとす る. かかげる。番は凡そ四十肇Oみな英 の孝子'トー マス ・オ ンピー けられる。第 1. 革.トー マスが執筆 の時代と状況を語るO人生 の が自ら語る文健をと っている。全鱒はいく つかの大きな段落 に分 章だ ては厳密 であると いえよう。 ローマ数法律 の厳格'メキシ は、そのはじめは多く の人が凝 っていたが'成功し てみると利益 功しな いことを のべるOこれが第三.ポールが企塞経営した経過 ことがわかるoこれが第四.小紋奨励第三備 により乙穫表彰状を も大きく'品薄は改良され加ェ業も葡属した.農聾が必要である コ土俗の残忍、 スペイン軍橡の横暴は'蓋しもとず-と ころがあ って'でたらめ に書 いたのではな いO, L ・ - マスが九死 に 7生をえ ︹ 覆批︺ これを覆審するに、趣旨は卒正で'農業 の各方面を詳し 授輿す べき であ る。 て、 ついに復讐 の日時を達成す るのはわが国の小設 ﹃西遊記﹄が 玄英 の取経を のべるのと'す こぶる似 ている。ただ ﹃西遊記﹄は にあると ころを のべている。したが って配合教育 にす こぶる禅基 く のペるわけではな いが、田園の長所は志向高潔、麟凝格勤する 怪物をまじえるが、こちらは人間だけで、理 に近 い0第三十九章 で、韓国したJ ・ - マスがリリーに再脅し て'友人のふりをす るの して推薦し'農学を提唱する l助とす べき である. す る。最近 の小説には農業 に言及す るも のは少な い0度批 ほてら は'わが国の劇場 で演じられる'久し-別れ ていて再合する夫婦 の情景 に類似し ている。ただ、ト∼ マスはオトミのことがあ って、 フランスの 1郷鏡 の自治 の情況を のべるoポー ルが鍛冶職人で ( 四) ﹃ 冶工較挙﹄ 内心にためら いがあり'率竜 に告白しないoわが国の演劇 で演じ がうことかOこの事は'も って国民を感動させ'学者 の智義を増 られる、秋潤と聯軍費 の物語 に比 べてへその心づか いはいか にも ありながら政治知激をも っているのをみれば'敵背が普及し てい ポールは自分 の危険を忘れ てセ ス-ヌの娘を火車から救出し' 報復しようとはしなか ったO は重要な施策を賓施し、決意したことは貿行したが'セス- ヌに 行不 一致 の政客は蓋ず べきであ る。ポー ルは寮長 に就任してから ハイ ルヒンらがセス- ヌを排斥したのは'公的な見地 に嶺し て おり'いささかも私憤をまじえてはいな いのであ って、常世 の言 ることがわかる.ポー ルが老父 の訓戒と友人たち の忠告を守り' 進す るに足るも のがある。謬者は小数界 に盛名があり、 この番を 敢骨 に身を投じたのをみれば '愛国の舷がわかる。 るも のは奨験を授興される0この書 はまこと に適嘗す るに足るO 辞した意固はその序文や静索欝語 にす でに轟され ている。本合 の 定める小紋奨励牽樫によれば'本食 の審査 ののち上等 に列せられ ︹ 覆れ︺覆審 の意見は庶批 に同じである。 この音は フランスの 一少年が都市 に仕む のを弛まず'身を田園 ( ≡) ﹃ 穂者停﹄ におき勤苦力作' ついに家を起 こし、さら にその手が これを継ぎ' をの父と同様 に働 いて、尊んだ ことを廃寮 に施用'ます壊す敬廃 い。上等 に列Lt乙蓬 の表彰を授輿す べき であろうO セス- ヌが悔恨したことからすれば'道徳は人を感動させるも の であることがわかるO著者 の苦心'静者 の眼光もなみなみではな したことを のべるQ叙述された事案を綜観すると'蓮俗書 の債摘 めるも のである。単行を挽き'農家 の親しみを語り'人が都市 に ︹ 覆紅︺本書を覆審するに'す でに木曾 の審査 により上等 に列せ 葬 って遊民となり、社食を日まL に堕落することがな いよう'農 られ ている。内容の長所は威評が列挙している。香車 に叙ぶると 三〇九 ころは軍国の大事 に言及せず、 1農村 のことを いうO小説の本旨 にかな っているO評者 の文筆は雅潔で'篇首 に餅言があ っていう。 村生活に安んぜしめるも のであるOこれが欝 l。いかな る凝寛 で 失政を のペ'中途 で廃業したり'細 心でなく経験 のな いも のは成 あれ'勤苦思案してのち成功するも のであることを のべ'蚤業を 紳 整硯す る観念を啓敬する0これが第 二.バ ロンと フィ- ップ の 周樹 人 の役 人生 活 学 報 三1 0 するは侭だ自強にあるを知らしむるにありO常濠も っとも深遠を 方 「 近日の課復横目は国民教育を小畢校 の緊急課程としている。 なす.浮華の曲折深透なるに至りては'能く人をし て挙 りしめ' 東 趣旨は美しいか'成果は期し難い.兄童に名分を数えるには,袷 能-人をし て悲しましめ小説家の能事を極むo誠に佳本なり.普 さに上等 の列す べLrJ 著作 の意圏を語 ったも ので、 者 が ) ﹃ 愛国二童子樽﹄ 本番は英国'チャー ルズ ∴アィケンズの著わすところにし て林 ( 七) ﹃孝子耐見得﹄ 審 査報資は本文率 に引用。 二八二-三文。 原文を つ蜜 にかかげる8 0 0 0 0 愛国二童子樽二放法国締那原著林野挙世中岡静折記馬書法戦争後 .1 { } r . I r J 法剖由洛沙室及羅享乃之牛輿普時法石薄城有孤子父重複時受遺命 0 0 0 O 必返法規馬法人而常人条令凡孤子無人護育者不凍韓国二子乃憤激 O O O o o o 奮蓉聞関逃遅出求其季父所萱皆勤身力作以白糖卒能自立求得季文 ○ ヽ ¢ ○ 相鱒蹄国書之所以有愛室 1 童子博之名著以此硫観全書大旨則其折 r , ヽ r J EA, r' 法要寅在於欝蓮二子之勤昔日発意行起卓以奨励青年立憲政会書所 0 0 0 0 有蔑撫 一軍非業懐無 這 柑 非番 官印二童子以外之諸人亦僚教篤君子 rJ (1 r } r ) 巣輿人為書巻其訓範之意深長其書中結構則甚馬僚質以原書本番幼 け E3 o O 撃而作静文亦明暢議 7最良之青年讃物也廠列入上等 O o o 覆援兵尊内容鼻欝庶許嫁輿奨励小紋牽後節三傑柏倉似渡絶後乙種 輔恥 ( 六 ︹ 寛批︺泰番を覆審 するに、濠さに上等 に列するととも に奨励す べし。 を正して語 っても'おぼ つかない記憶力 で言葉 のはしばしを撃 見 て語るのがよい.漂着は運動を組織する様子をみて、意義を身近 ると いうのでは無益であるOむしろ'額薯らしくお請を こしらえ く感じ、国民として轟す べき義務を守るようになるであろう」と。 また' つぎ のようにいう。 「 先人の著述は忠義勃僚'捨身殉国のことを多く記す.国民の なかでも傑出 の人物 である0本書が遊 べるのは'たいていが尋常 の国民であ って、義務を果し豪合 にあ って能力を額輝する人間は' みな良 い拷属とし て悌じない。図が強くなるのは民にある。良 い 国民が多 いほど、国は強い.蒸暑 の出版 によ って国家のために良 ことに至 言である。これは著 い国民を槍加させることができれば、区々たる出費は償われるL L JrJ ま の概略を鮒したのも、諌者 に有益である。わが国の共和政磯は成 朱君 はと-に欝出した。その真意は深 いO篇末にフランスの政治 といえ'虞 の国民の良薬である。蓮みて意議 に附し上等と定める. 立まもなく'自治は芽隼 見たばかりである.本音は新刊 ではない 原書は政治的な意味を含むが、表紙 には 「 教育小数」とかかげる. 重税しているのは国威教育な のであるO覆審の意見は戚鉱と同じ である。 ( 五) ﹃ 黒奴敬天録﹄ ネ ッーはやの小影なり。キ ッ・ 1が母に撃 っるは、ネ ルが外 貌父 に 革うるに同じoキ ッ-絃身 に杏寛を受汐、固園に慮るといえども' 琴南'捧叔二先生 の辞すところ.原書は宋章の結束を除く外はす べて七十二重'通じてネ ル 1人をも って主人公とす。し こうして まに施され'惨とし て天日なし0人をし て卒譲を忍ばざらしむ . に遭い、行路 の難垂を慮るといえども、かの外敵父にたいす る展 その母を念う心は'いまだか つて須輿も忘れず。ネ ルは家の不道 本番は米洲の奴禁がいまだ髄まざる以前 に白人が黒奴を虐待し 旺しい た惨状を緒窟すO展樽とし て坂東し、泰子は離析Lt鞭肇は棟ま どもその異族 に待する'じ つに人道 の言うべきなく'種族を保存 評者 の意は国民の自覚心を喚現し'白人は文明を競すと奥も然れ 「 勅去安瑛」︺ '階上 の紅英頚め謝 す るも のOその鎗菜は微か に同 すなわち仙去 るの エンジ ェル ︹ ここは原文が解読 できないO原文' はすなわち敦を承くるの 乗手、堂前 の白髪なお新たにしてへ iは ク ィルプ に遥らるO凡そこれはみな正比例親となす ペし.ただ 1 悦はいまだか つて少しも衰えず。キ ットはあざむかれネ ルもまた 美し い習俗 であ る。不幸にも鼻 にあた ったとし ても'姉 の夫たる きではな いのであるO米を いれた靴を新郎新婦 に投げ て喜 ぶのは と ころ'換 って姉 の夫 の鼻を傷けたO少年 のいたずらを貴めるべ は少年 である0姉 の結婚を祝 って靴 に米を いれて車 に投げ こんだ かれ の郁恵 の歌を敏速し て、著者 の同情をかき起す。そし てジ, , , はらそうと虐待するOその陰険な ことは悼む べき であるO本書は も のは許す べきな のだOそれを自分 の家 に預ると'むかし の怨を とし て孝を敬うるにあり。蓋し極めて償櫨あるの小詮なり.まざ Iが いじめられ て憤慨し家を出 て二 つの大陸 にわた って親を探す。 からざるあるはすなわち文章 の善く髪ずるなりO本書 の宗旨は純 に上等 に列して興を給す べLo ( 二) ﹃二義同囚録﹄ じ ︹ 巻数︺覆審 の意見 は庶批と同 であるO 人心を感動させ、世 に碑益あり'まこと に貴重 である0 ると感じるであろうO本番は水溶な小龍 で、篇幅は多-な いが' が読めば'誰 でも師とし て尊 ぶも のをも っている、学 ぶべき であ であ るから、常年が讃めは自立心を長ぜしめることができ、成人 1代 の名作 であるが'成人の話 であるOこれは純粋 に少年 の物語 蓋 し依絶心の掻い枇饗から脱却させるOか の ロビンソン漂流記は 諌めば'情夫を立たしめ'頑夫 途中 の蚊抄はしばしば挫折するが、 ついに目的を遵す るCこれを た だ し を 廉 くせしめるO進取 の精錦を槍 O ︹ 覆批︺覆査する紅涙批 に同じ。 ( A) ﹃秘密使者﹄ 批欝の謬文は本文 二九 叫菜O つぎ に原文をかかげる。 . J ' J ' J 此書於俄属西伯 0利虚地理 0頗熱雷蘇朗萄奉使命難難困苦百折不同尤 有急於世道人心徹列上等 r , r r. J 覆核此種小詮讃之有数金 一倍以輸入地理上之知識二倍以周知民族 O o o 之状況三森蘇新教之険弟 一番機人嘗於腎険, a資任心因藤森朗衝母 0 0 o o 子之慈孝輿番貞之寓塁尋親鐘天性涼薄着憧焦自娩五蘇朗萄郡貞相 O O O O O O 遇患難之申 命以義自給使人知摺情之 荘厳如度静列入上等給 ' J玄怨 桐 予乙津褒状 本番 はイタ- アの愛国者ガリパルディが赤 シャツ千人陳を率い' ︻ 第 三同︼ たも のである0歴史を記す のに小詮の健親を用いては いるが'史 -ア国をと ったあと、ヴ ォルト ゥルノの戦 いによ ってイタリアの 賓と合致す ると ころは多 いOガ-パ ルディが千人をも って南 シチ 両 シチリア国を攻放し てイタリアの統 一をなしとげたことを記し の少年ジ ミIは父母が敦桝に居住するため姉 の夫 の家 (〓 ﹃ 兼照査手篭塵尋親記﹄ ア メ - カ に預けられたO姉 の夫が虐待するため、耐えられなくな って家出 し'敦寓里を施し て親を探した。 フランスの都 にいた って' つい 能な ことはな いの であ る。成功し ても功績を誇らな いのは忠 の手 統 7は完成したOこれ によ っても愛国心をも つ毅勇 の士 には不可 ま ことに社食 に有益な小詮であるo 本 であり' フランクが勇を奮 って親を尋ねるのは孝 の手本であるO に父母をとある旅館 に尋ねあ てた。審中 には少年が姉 の夫 に'い かに伸たが いしたか'姉 の夫が いか に苛刻 であ ったかを措 いてい 三二 記すると ころのことは' 兵橡や武器を援助した ことは、 義人 ファ- る0親を探す少年 の族はあらゆる苦難を嘗め'冒険あり'忍耐あ り'百折不羨'親を探す目的を連す るまでやめなか ったOジ ミー 周 樹 人 の役 人生 活 東 方 軍 報 は沓 亭 bのこと のはかは'賓際 にあ ったことであるO書中 の人物 -ナ蓑 即絹編 がガ-. . (ルディに化けて帝 シテ-アを奪 ったとき' 雨 シテ-アの王は'じ つは フランス人であ ったO本書 にのせるのE 紘-アンナ、 フランクら数人のほか'いずれも賓在した。年月日 もだいたい正しい.浮華 のと-にすぐれた鮎 は地名'人名 に注梓 ラサ ップはスエズ運河を開通した レセ ップ のことで、有名人であ を加えていることであるが、 二 二疏略'誤りがある。たとえば、 三 一二 O O O 此容赦 1法囲飛艇温険復興桑園探険家相遇遮探北痩而磯軍人之勇 0 ' J O O 敢婦女之愛国書中営三注意駕擬列上等 C O O 覆緩此書叙法国 7中尉名敢退者僧 1女題辞登飛艇忽薦好入婿繁雑 O o o O O 剰鍬艇途上升姦単発風務頗宣布演下降遇 i採極船船主戴士約乗飛 O O o O O 艇共採北極卒底其地僚見探纏之種穫歴史蹄時編歴歎険率而獲済番 O rJ O 中幕中尉服役競律乏勇徳女郎愛国乏 熱誠冒険之性質把徳森之好学 O O O 深慮青年讃之賓足以激教志気 本書はク- スチ-ナの父が盗減とな ったが'娘は伯父伯母の教 ( 五) ﹃ 鷹梯ホ豪傑﹄ る。 パプ アはナポ-の北 にあるのに、南だと注しているOディク J ・ -トルは ( 第二㍍百七十貢 にみえる。 「 纏制」と欝す べきであ ︹ 覆批︺本書を覆審するに'前 に本合 の審査を経て上等 に列せら は雅馴で感銘を残すO上等 に列したいO 一家がまとま ったO本書の意濁す ると ころを考えると、家慶教育 を重んじ、数えると ころは孝弟節義 のことにはかならない。文筆 子を数えて家風は堕落しなか ったo ついにその夫とめぐりあい' えをうけ'すぐれた女 にな った。数えられたこと にもとずき、盗 膚 の老伯爵とその子女を感化したOそののちも道を踏み誤らず' る)理解が誤 っており'晋は辞し意味は謬していな い.最近の覇 聯潜 の通弊である。また静潜は地名 について配慮が不足している。 ︹ 覆雛︺覆審の意見は原雛と同じであるO ネプ ルスほ固有の地名 では 「ナポ-」 であり' マシ 烹 ソス詣 鰐は 通行 の 「マルセイ ユ」 に欝す べき である.第二版 のとき にはこれ を修正し てもら いたい。 ( ≡) ﹃ 甑魯演孫療流記﹄ 本書は五線とも荒島 の窺情を記し'情節は奇轟であるO ロビン れ ているO本番 の稜廃は原評がす でに姦しているQい濠全書を測 ってその猿立の生活をなし とげた.情を立たしめ頑を化するに足 ソンは胎生を牽 孔患い'そこで宗教 に蹄威し'泰衡を稀釈Ltも のことではない。これを賓現するには政府 の贋俵 に観るのではな 贋すると、作者の意は'民治が野蟹から文明に入るのは 一朝 一夕 ク- ステーナがかよわ い女性 でありながら'多- の不良を感化Lt -、婦人少年の精誠も これを導く力があるtという ことである。 り、じ つに社食 に功あるの作であるO上等 に列す べきであるO ︹ 復改︺泰番を覆査するに、尊 兄に木骨 の審核を鷹て上等 に列せ に胎英Lt往往 にし て撃奴 の貸本に採用されているO 辞本の首尾 皇室 に忠ならしめ'宗教 に掃厳させた.至誠に零したのではなく られ ているO本書 の原著を按ずるに、欧西にあ ってす こぶる人 口 し、推薦に頻 るべき であるのは疑 いな いことである。 この批語は本文中 に引用。二八四頁。 (7) ﹃風俗間許﹄ ︻ 第四同︼ て'どうしてこのよう に感化 できたであろうか。本書が上等 に列 も完全であり'辞筆もまた勝連償潔であるOその自注 によれば数 門 の簿の煩わしいも のは朝潮したとあり、評者の審嬢をうかがわ せるO融合 に有益と原評にいう のは殆んど虚馨 ではな い? ( 四) ﹃ 太荒鐸客記﹄ 聯文は本文二九 7京。凝文を つぎ にかかげるO 本文中 にのべたよう に、これは周繊人の執筆と推定される o つ 密 に原文をかかげるO O O O O O 盈番薮敢僚各穫現状無衛不有尤妙荘不欝寮監語多儀永耐人思索此 O 亦紺掌鐘之糞塊騰姶薬 0 0 0 0 0 歴検足寄馬割記憶折述多俄国之辱而不許著自何人採自何番按別記 rJ ロ r J () r ) 〇 小説盛於唐代昔時作者斐然可観降至近世折序詞者薦静粛志異閲微 0 0 0 0 草堂 五種結審大抵仮託狐鬼敬意凡近嗣後作者金策均 不兎自部以下 O O O O O O O 之議蓋此類之書随手詑拾成書至易近時雑誌附載各種詐陳腐軒濫恵 0 0 0 0 此書評白外簿而吐属纏雅鼓吹明顔纏不傷雅娩而多瓢遠 足嗣唐人遺 0 0 0 0 0 響近可鬼 0泰西殊俗薄暑蓋醸寓勤等敢禽之意近時頗稗蔑見似宜給奨 以示模範 ( 二) ﹃ 管見流浪記﹄ これ の批語は本文中 に引用。二九〇貢。 つぎ に原文をかかげるO O O O O o 此番線偶触食鞠立生活足偽依粗密痛下戚舵瀞輩亦欽奇簡 水蜜可牽 I) 0 愛東列上等給奨 , J r J r p] rJ 後援盈番飴有趣味金容顔可民相始終者惟糖比 山犬以鬼流浪時之零 , ) r J r J r r, 丁 0孤苦讃其書者可知 0人之宜自助亦能見西人敢禽之巣喜好施賛同庶 静数馬宜列上等給梁 竺 ) 誕 晃縦鮪﹄ 本書 の正療 二第 は棄 て兄 のジ ョフ ︰ ニ ーランの ことを のべる. の貰情小龍がも っぱら私語を つつり、社食小説の徒が浮環を革と 人を褒めるときも誇大視せず、人を皮しても清を過ぎな い.近時 て勢利を軽くLt任侠を何ん で遊惰を いやしめる。みな国民の倍 す るのとは、自ら遥庭す るO書中 の諸人を観るに'友誼を重んじ いが'晴節は奇幻で、しかも販路は呼渡し'小説の能事を轟せり 鏡とす るに足る。書 は凡そ七十八草、主要人物 は十数人にすぎな ︹ 覆雛︺覆審 の意見 は原評と同じ. と いえる。上等 に列Lt乙感 の表彰を授輿す べき であるO ︻ 第五同︼ 一舟人の少より敗 にいたるを赦す O綴るところの歴史は老教師 (1) ﹃黄海録正続編﹄ に遇い、盗薫 に遇い、豪放 の舟長'清番 の小友 に遇い、両たび富 商 に遇う。みな誠賓慈番' 1はその孤露を憐れみこれを収蒸し' 錐も、これを謹めば自ら能く人をし て深-悟らしむOその鮎揺す その後さら に女をも ってこれ に癒す. 一はその整定を重んじ財産 をも ってこれ に始る。香車 に鍍するところ'みな申下流赦食 の僧 形 にし て各人の性質娃美恵同じからず 、塀境また互 いにあらわる も'その大賢は革を奨め恵を鹿らしむるに在り。因果費 貰わずと ︹ 覆教︺本書 の内容を覆審するに本合が拾奨せる棄兄 の 一書とす る虚 に至 ってはも っとも趣味多し.輿を給せんと擬すo こぶる相難す る虞あり0ノ 西国の小紋は多く孤鬼を腹背することを の性質を養成す るにあ って、意なき に非ざるなり。本番中 の主人 っ 寡言すO蓋し' 1はも て童立 の精錦を奨進し' Tはも って慈善 て出ずるに滑稽をも ってし、も って讃者の興趣を引起するに足る。 をジ ャコブとなす.全書みな本人の自適 の詞となす.西国の小説 は多く この魔裁ありOその活人の面目性情を拳槍す る、往徒 にし もし この鯉裁を用 いるに非ざれば'もとより言 の親切 にし て味を 全寮 はジ ョブが自ら語 った語 にな っているOジ ョフ は孤児院を で 有す ることかく のfJuとき能わざるなり。庶評に香車 の叙ぶるとこ てから、さまざまなめ にあ い、 ついに父親と帯 食す る.話 の稗換 は想像も つかず'しかも情理に魯敦す る.と ころど ころ滑稽がま 三仙 三 じるのも興味深 い。蓋し作者は用筆 の法を深 -知 っているので' 周樹 人 の役 人生 活 東 方 軍 報 ろはみなや'下流敢食 の橋形と謂うは'まさ にも ってこの番 の滴 り顕在を臭うるをあらわすも のOわが国の膏時 の詮部 はたいてい は風雅を漁掛する に非れば富貴を錦張し、その思想 と これとは' もとより同日にし て語るべからずoそのなか にただジ ャnブがト ンベー ルの遺産を得し こと'および サラと結婚せし ことを述 べる て首尾の拳法呼渡せるはほとんど醍なくし て揺る ペし。静輩は琉 は'なお西南 の小説 に 習鬼す る情節 にし て'黛末 に本旨を賠現し らし て上等 に列し奨を給す べし。 利謁蓮、時 に逸趣を具え'まこと に桂膳と構すOまさに原液 に照 一科尊家が竃をも って造金す るの術を敬明し'その富は匹ぶる ( 二) ﹃ 電影嬢轟﹄ て憎 さんことを慮り' 1教士および真裏師 に託し調査 の強 に任ず . なしO ついで電をも って人を済わんとす るも'また人の汚むあり れ で' つぎ に原文をかかげるO 三 1四 , J r , rJ 凡欧弟 四十七家著作国別計十有四巽中意西鶴典荷蘭塞爾総意衣中 0 0 0 o 国昏鹿部見所選亦多佳作 又毎 1篇 署著者名氏井附小象賭博用心戯 0 0 o 馬怒撃不僅志在娯焼俗人之 耳目足烏近来帯事之光惟諸窯似顔陸綾 C , 0 O O O 登載錐誌敏感例未能統 1命題造語又係用木国成語原本固未嘗有此 r J 1.J , J rJ 未 兎不誠香車所収以英 国小股露最多唯短篇小説在英文学中腰少佳 O o o o c ) 製音爾斯密及蘭栂之文係雑著性質於小絵馬不索敵陸著作則大抵以 O r J 、 し D 富者 の家を行窺Ltよ って痛となるOその妹は未婚夫と約を解き、 1英人 のドイ ツ国に流寓L t二姪女を数え養うを鼓す 。ジ ェスは ( 四) ﹃ 磯司刺虎記﹄ 不易入 0手故梅未能鳥相嘗之紹介 又 0況以国分 0類而諸国不以種族次第 亦水先熱雷此淫侠文字充塞坊砕時得此 i蕃俸諌者知所謂哀情惨情 O O o o 之 外簡有更純潔之 搾 則囲亦昏夜之微 光錐畢之鳴鶴 桑 O O O O o 覆疾是音線 0討之勤遥拝之書信如原許所云足呉近来辞事乏光似宜給 奨以示模範 盲人の意思に迎合し これを姫と訂すOその事す でにみな敦露す O その長女なり0英 大尉ありて、また職を棄 ててこれ につき て縁を これを行う こと数日'森師は嚢を洩 って率を寮とせず。その父は せず、と。富者すなわち黄金の崇をなし'も って人を紋らしむる 牧 師また来りて首 っO村人の助を受-る者'みな惰して挙を車と を託し て施行L t情人をも って妹 に譲 るOその後'英とドイ ツと んどその情を移さんとす oしかれども 'ジ ェスその妹を愛し .言 尊び'次女 に鍾博す O ついで濠た長女 の己を愛す るを知り'ほと ︹ 覆批︺静本 の小説 の習見す るは探険、言情'填実 の諸種 にはか に足るを知り、また竜をも ってその財産を椴ち て死す るを赦す。 ならずOこの番は健は賓 富に近く、初めてこれを讃めばその設憩 と数月、瀕死 のときに二人は互 いに愛情を言い、また嬉約を訂す。 しかれども' ついに死なず。とき に大尉 に晴敵 モローあり'大尉 開戦Lへ大尉は免を冒し てジ ェスをむかえへ困園 のなか にあるこ て わが国人を鈎すれば、も っとも封症 の薬石とならん。覆核 一過 す こぶる 奇なるを覚ゆoLか庵なかに空理を含み'逢辞し ても っ がその次女を奪うを恨み'兵を引 いて次女 の親 に逼り'強いて次 ( ≡) ﹃ 政美名 家短篇小詮叢刊﹄ るOこの書 '径庭はなはだ多き は序中 にす でにこれを言えりO鼓 幕率 に入り モ ローを刺すO己もまた夢頓す ること遥甚、山中 に渡 女を 己に嫁せしむ O凌さ に危急 のと湊、ジ ェスす でに返り'夜 に これ の報告は'本文中 に引用した077 <九真 0 す ると ころの各人の性質は、下は定率巣奴に至ると いえども'ま す るに原野の定めて上等 に列し葵を姶すとなす に深く同意を表す るも のなりO 本文中 にのべたよう に' これは周樹人の執筆と推定される 。そ た 1の雷同者なしOまこと に名著なり。上等 に列し て葵を給せん と擬すO 潰せるのに優 で、またす こぶる有益 であるO 筆はきわめ て簡単卒這、小学生 にこれを讃 ませれば'史賓を記憶 ッシ-は ついに美満 の結果を獲'危険 の境、悲惨 の事はすなわち 烈'生と精と並び轟し て、埜管解しく下るの妙あり。その後' ベ にし て 1は轟、 一は自然 にし て 1は矯作' 1る和平 にして 1は激 をのベッシーとジ ェス二人の性情 は iは暦 にし て 一ほ惨、 1は底 な いO今 日'このような歴史小説を編蒸し てわが国人の歴史観念 れば、三国演義 の功はむしろ陳毒 の三国志以 上 であることは疑 い が三国の事速 に及 べば婦符も多く これを語ることが できるOとす のは'じ つに歴史小紋が敬連し ていな いこと によるO然るに談話 纂 にも っとも築 い.わが国の普通の人民の歴史観念が薄弱 である だ小紋は虚を爵むに鍵からず、薯 に教するに薄 い.歴史小紋は編 ︹ 覆批︺本書を覆審する に得失は原許に詳し-'異議はな いOた みなジ ュスの 一身 に集る.作者 のここにおける'蓋し微旨を具し' を蕗蓉す るにあた って、作者はここに宏頗を のべてこの書を著し ︹ 覆雛︺本書を覆審するに、主要人物 はジ ョンと ベッシーとなす。 ベ ッシIのモローを転籍して侃侃とし て擁げざる、ジ ェスの妹を を励ます べきである0 べれば、これ以上 のも のがある.宜しく褒葵を給し ても って来者 た。その償億は三国演義 に及ばな いとはいえ、二十 二史演嚢 に比 愛するが故 についに自らその情愛を割-るはも っとも作者 の特筆 なりO宜しく原評に照らし て上等 に列し奨を給す べし。 ︻ 第六同︼ 剰陽の寮士、陳次強の寮を叙述す る。畢亥 の役 に次強は輩を投 じて後軍' ・ 故郷 では動乱が起きる。妻は姑および子供を携えて避 ( 二) ﹃ 湘嫉涙﹄ 本書 の佳虞は序文、および凡例 にあますところなく歴拳され て いるが'はじめは溢美 ではな い。引用の書籍は史、漠、通鑑を除 く はか'まま偽書を採るが' いずれも出盛を注記し ているO最も 難す るが、その陶管は名伏しがたいO途中 '藤は死亡し、子もま (こ ﹃ 豪渓演義﹄ 諌著 に有益な のは尊重 の持薬 で、あ るいは音節より等渚Ltある 四度 であ ったO危難 のなかに隣家の女 にあ い、形影あ い依り、飢 た天薪したQ妻は賊 のため にかどわかされ、危難 に藩面すること 渇を免れたO民国が成立したが'夫もまた殺害されたO妻は姶' いは新意より出 で'そのも っとも雅なるも のを揮び、編者が慎重 基し て遅速す るも のがあるにしても、い-らかは悪者す ると ころ でき、文筆は雅債 で烈婦林嬢横を述 べて人を感動させる.凄たる 夫、子を葬 って自分も殉死した。本番 は烈女樽とし て讃む ことが であ るのをうかがわせる。ただ騰史小紋は牽鰭 に板汝をお-O整 があ って着手しやす い。とはいえ'濠た難し いと ころがある。渡 これは事を記した小説の上乗なるも のである。宜し-上等 に列し、 こと波布のどとく慈孝は人に過ぎるOもとより貴 い人格であるo し'書物とす るにさ いLt努裁しな抄れば興味は索然'人をし て 勝ちんと欲せしめる。これがその級数 の 一である0辱寮を虚構し の晴節は悲劇 に類す る。停記とし てその事を観れば'世を系す る ︹ 覆批︺本書 に記すと ころを覆審す るに'まさに事案 であり'そ 甲種 の褒状を給す べき であるO て筆 にまかせて叙述すれば、神仙妖鬼が登場し、でたらめばかり になる。欽鮎 の二であるO萄時 の貌部 は'ただ列国演義、三園演 に足り'小説とし て観れば'乱離悲惨 の事をも っぱら記すO偽書 義がも っとも有名 である が'本書は秦漢四十飴年 の歴史を首尾 f い記遠は 1字もな いoこれは三国演義よりも勝 っているOその文 三 一五 貫し ている0列国志 に比 べて魯物 にLやす いとはいえ'根接 のな 周樹 人 の役 人生 活 方 学 報 三 二ハ ﹃愛国二重手樽﹄、﹃ 馨兄就撃紀﹄などO 東 と顔樫鶴帝す るを簸れば'庶評の列し て上等とし梁を姶す るに深 第 三顛 O婦人空 局線な人格と勇敢な精神を措 いたも の。三鮎 o 〓 ( ≡) ﹃ 藤里善人﹄ 取 の精綿を括霧し 授興されたも のである。 このほか にも、上等 に列せられるだけで賞状 なお'本論文 においてとりあげた小詮は'推薦 になりtか つ賞状を より以前 に'潮評者が濃挿し ておりへその選狸がよか っ 、 たと いう こと であ るO なと ころに落着く のではな いだろうかOすなわち、推薦者が選樺する 十九世紀 の小数からすぐれたも のを遥拝すれば'しぜんと このよう て'沈論文 の上記 の四分澱は役立 つ。 この前線は存在 したのだと考 えられるOその存在を発明す るも のとし ばならな いtと いう前提 にたてぽ このようなと ころに落着く であ ろう0 数化しよう、あるいは'小数は駄骨人心の教化 に役立 つも のでなけれ いう心構えはあ った であろう。すなわち'小紋 によ って'敢食人心を の正義感、倫理感へ磯極的精神 のうたわれているも のを選浄しようと 推薦 にしようと いう意圏があ ったかどうか'疑わしいoただし' 1種 迫者、 「 下唇社食」 や鬼童、青少年 の正造無比 の人格を描 いた作品を が意識され ていたかどうかは疑わし いoすなわち、はじめから、夜鷹 しかしながら、小詮 の審査 にあた って'はじめから このような分鵜 て威圧を下す」を引用す ると いうぐあ いであるO 批評 の 「 敢食 にた いし禰宜し て生活す ることを提唱し依穐者 にた いし いす る批語 l部を引用し ているOたとえば' エクト ル ・マロ ﹃すン ファ、 、 、 -ユ ( 家なき鬼) ﹄を原作とす る ﹃ 苦兄流浪記﹄ に ついては' 沈論文は'それ ぞれ の小紋を示す にあた って'せれぞれ の小数 にた ほか に歴史か詮とし て ﹃二義同園記﹄ o した生活をも って怯傑な人間を教化す るも のとし て ﹃ 魯潰遜漂流記﹄a とし て、﹃電影模塞﹄、使命を全うす るも のとし て ﹃ 秘密使 者﹄、 禰蕊 第四載。その他は六鮎 。二三. I.i-セン-O資本主義を攻撃したも の パーセントO ﹃ 凍雪掲線﹄'﹃ 大荒蹄客記﹄'﹃磯司刺虎記﹄。 く同意を表わす。 本書はチ ュチ ュルーダが賢明 で、至, I. ざるなきを栽述しているO エンナにたいし ても '助力を求められ て頑徒を征服し て智と いう その小 ロトにたいしても感化主義を用 い'仁と いう べき であ る0 ペ薮 である。- ップを放 ったことは大 いに剛強不屈の気概があ っ て'いわゆる巾樹 にし て嚢眉 なる署 であり、これは勇 である0こ の三者があり、女 のなか の師となす に足る。も っとも奇れ ている のは鬼女を教導するは家庭教育 の常 であ るとはいえ、活瀞な る柄 紳'整奔なる態度、精勤 の志索' いずれも轡校数膏 の及ぶべから ざるも のであるOそこで、りす ネー ルの家が模範的な学校とされ るのは、ま ことに重 言ではな いO全書 に統観するに宗 旨は正大、 意義は粍静、詞裸も 濠たはなはだ嬢紛'濠 こと に牡食教育 に功あ るの作 である。上等 に列し て葵を姶す べし。 ︹ 覆批︺覆審 の意見 、腐幹 の如しO 周樹人の胴輿 沈論文は小詮 の推薦 には っきりした傾向性を指摘し、これと周樹人の 関連を認めようとし' 1九 一六年 に推薦 にな った二十六瓢 のホ説に つ これらは四条 に分類 でき る0 いて' つぎ のよう に分析す るO沈論文三三1三四煮 O - 第1 戴O被塵追考'たとえば勢凝着'農民'黒人奴隷など.いわゆ る 「下厨敢禽」 の生活と蹄事を措 いたも の。.五鮎 〇二〇パー セント0 進 養親﹄ ﹃巣炊飯天錬幣 ﹃ 冶工鉄率﹄、﹃ 椿潜樽﹄、﹃模範町村﹄、﹃ 第 二顛O兄童'青少年 の正竃無比 の 人格'勇敢 たも の.十 二お'四六 パーセント0 ﹃ 棄兄﹄'﹃ 苦見流浪記﹄'﹃ 美洲童 子濁巣等親記﹄、﹃ 英孝子火山報仇銀﹄ 、﹃ 塊肉鎗壁蓮﹄、﹃ 孝女蘭兇樽﹄ 、 ( 2 ) 絃授興されない小説があ ったが、それがど のような小説であ ったかに ついては' ﹃ 教育公報﹄にいちいち貰 って調 べること のできな い現在 では'あきらめざるをえなか ったO上記のl〓ハ 艶 のほかに、 「 上等水 詮」が七〇鮎あるのであるO沈論文三三貢。 やがて南京 の高等草堂で学んだあと'上海 の金葉蘭静香虚 に勤めて そのかたわら'上海の ﹃ 時報﹄ 二 九〇四年創刊)に機筆や小説を 轟欝に後事したOそれから山東省青州に赴き'中学堂に勤めたO 社員とな った。 てた濠たま ﹃ 時報﹄敵を訪ね、論敦や小数を執筆することを燐件 に' 投稿、しばしば採用されたo l九〇六年 ( 光緒三十二年) に上海にで た雑誌 で、骨孟漢は ﹃ 築港花﹄を同誌上 に連載中 であ った. 女 撃 校 その 「 上等小龍」として'沈論文は つぎのようにあげているO ﹃ 旬奴奇士録﹄- 八 女予覚菜撃校'城兼女撃絞)で教えるほか、い- つかの究療雑誌 ( 4 ) 掻載金駿をかかげる. に 7九七 1年六月。自序は 一九七 昔時'かれは商務印書館敬行の雑誌 「 教育雑誌﹄ の編集 にも後事し ていたOそのため同誌 に小説を寄稿しなければならなか った。以下に 専師百親念と 1敦するも のがあ った、と同想しているO 育について見解を のべたと ころが多く、師弟 の関係に ついては中国の ﹃ 埋右葉右記﹄については'これのもとにな った日本の小詮は'教 っているo同番 三八五-八八煮o 本文の記速は同書 の 「 在商務印書館」と題した章に記された同忍 によ l年 二月'香港 で執筆。このとき九十六歳O ( 3) ﹃剣影痩岡憶銀﹄香港 ・大草出坂敢 ﹃ 文確報﹄、﹃ 新晩報﹄に寄稿'同地で 1九七三年 に死去O l九四七年'上海から壷潜 にゆき、 ついで香港 にゆき同 地 の 香 港 記﹄で'いずれも ﹃ 教育発語﹄にまず掬戟されたO かれは濠た、緒壇の塘敦 の 一つ、南牡 にも藤加したo そのころ執筆したのが' ﹃ 管見流浪紀﹄、﹃ 聾兇就轡記﹄ 、﹃規石褒右 も関係 ( 編集'出版)し、さらに商務印書館にも勤務したO かれはまた ﹃ ホ貌林﹄ の編集も抄き う抄た。これは曾孟蹄が創刊し ﹃ 撤克遜劫後英雄略﹄I イギリス、スコッチ' フランス'デ ュー マ (ペール) ハンガ-ア'カ マールの作 ﹃ 威史﹄ 、﹃ 紅繁藤樽﹄- イギ-ス'ヂッケンズ、 Lイt ロシア'トルスp ﹃ 蟹遷郡主樽﹄- ﹃心獄﹄など。 さらに周作人のつぎのような同憩を引屑している。 「︹ 魯迅先生が日本に田撃したとき︺認んで感服したのは スコットの ﹃ 撒克遜劫後英雄略﹄であ ったo・ ・ ・ ・ ・ ・ サクソンの遺民とノルマン人が 版牡、七八貫) 教抗した情況に暗示的な意味を溌みと ったと弧⋮ったのであるOそれで 椿 に真束したのであ った」 ( 周容明 ﹃ 魯迅的青少年時代﹄中国青年出 そして、沈 論文は' つぎのように結論づける。 「 とすれば同番が上等 に列せられたのも原因のないことではない」 沈論文三四貢。 沈論文のようにみてくると'こうした推薦には周樹人がかなり積極 的に漏輿しているという ことになるO 以下へ人物額輿的な紀明を補足する。 巌 孫'楽は天笑O筆名は笑、鎗 (こ ﹃ 馨見裁聾記﹄第 1年第 1期 ( 窒統元年正月二十五日敏行) 包天笑oはじめ本名は包公毅O字は 翁'秋星閣'且棲.江森省呉殊の人0 1八七五年生まれ、 一九七三年 死去。亨年九十八歳。 () 二 ﹃孤雛感遇記﹄第二年欝 i期 l 三 七 ( ま統二年正月十日)- 同年 - 同年第十二期 ( 同年十 一月二十五日) 十七歳のとき父が亡くなり、生計をたてるため蘇州 の自宅で塾をひ ら いたoまもなく富豪の家庭教師に腐れた。 周樹 人 の役 人生 活 ( 5 ) 東 方 轡 報 節十二湖 ( 同年 十二月十日) 宣緯三年 i月十日)- 同年十 ( ≡)r 軽石棄右記 ﹄筋三年 l期 ( 二湖 ( 民国元年 三月十日) ( 四)﹃ 苦兄流浪記」帯田巻第五的 ( 民国元年八月十日)- 第六 寒帯十二蛾 ( 民国三年十二月十五日) ただし'途中で休載があるO 杉谷代水評については前田晃によるご 別m軽罪 ブ 女 レ﹄ 岩 波 審 店 I ) e八) 1九五五年九月jr おし」 がき」 011 <三1円 ( I p泣少年文醇 1r 欝。 同上啓三八六-八七京O 同上審三八七京。 静浮之 ・韻俊才 ﹃ 林野研究資料警 雅趣入鹿出版敢 機番を好んだ。蔑士にたびたび溶解。二十親のと湊から教師、鼠十歳 で北京の金蔓書院などで教えた0 1八九七年、フランスから韓国した 王子に ( 椛漕主人)がバリでデ ュー マ父子が小説家として有名で'枯 7八五二年、蒔建省鑓啄 ( 今の両州)に生まれた。子供のと垂から ∧ 車圃現代文尊厳資料液編 ハ 乙凍) ) 太車を藩姶された酵登 の令息'静雲骨発生に感謝するO 同書 の巻頭に'曾患輝の 「 林野樽」がかか誓 われている。嵐下はそ の要約である. 林野O字は琴南'鱗は畏嘩 冷紅隻 晩年は療琴 轡 早療o清光賭 八年壬年の科拳に合格 黍 人) 0 1九八一 二空 ハ月0 息嬢と衷希薄については ﹃ 戯影梯同機線﹄三二九京。 同上書三八八百。 ( 6) ﹃ 孤雛感遇記﹄は ﹃ 教育雑誌﹄によ ってみることができる。物語は∼ 凝建細という風光明姻な土地にや やで重た金土釜率財が'父を敬啓で 発 った孤兄、孫雄晃を知り、これに轡資を援助するというところから 始まるO ll 10 9 8 7 三 1八 巴饗茶花女遼寧紘 姫が秤動にな っている音をしたOそ こ で王と基静、﹃ と名づけて l八九九年、両州で出版 'たちまち ペストセラ∼にな ったa 厳榎が 「 可憐なり 1金の茶花女、断ち姦す支部落手の過」とうた った ほどである、 し 常時'日清敬啓 に敗北して知歌人は歴液絡新をとなえていたd厳後∼ 夏曾佑 「 本館附群小設線番」 、 梁巻起 「 帯印政漁小鼓序」など'小蕊 の敢食的後刻を強調する主張があらわれたO林静屯 「 鞠だ水敦の 山遷 山九〇三年から、菜種誓 居を主等しへ友人落風津が在汲する商務 のみは簡お人を感ぜしむる紅足る膚傘 っ」とのべたことが あ る ( ﹃ 英 畏奴散天象﹄を 孝子火山報乱線﹄序) O﹃ 巴教茶花女逸事﹄のあと' ﹃ 零したのもち有益な書を撞供して愛国心をよびさまそうという考えに た ったからで'県人奴藤に素魚人棒の遅命をか溶ね、悲憤 にた見なか ったというO 印書館を つうじてP . 1 威したOかれは腰文に通じなか ったので、誤りも 多く'程度の低い作品を選んだこともあ って終生の遺憾率としたが' 口頭で零してゆくのを聞いて外国文撃の流薮の直別が つくようにな っ たO ﹃ 敢克遜劫後英雄略﹄ '﹃ 孝女耐虎樽﹄はよく原文の風格をおとき ず、 ユーモアの峠を つたえた箇所もあqJ ﹃ 迦荷小樽﹄は世界文筆良 に地位はないが'林野辞によ って光彩を槍したo教十年にわた って百 七十飴数 ( 二百七十 1筋)を寿出したQ かれは ﹃ 金晩秋﹄などの最盛か数も創作したOをれ絃餅革を経とLI 愛情を線とするものであ った。 ﹃ 天妃麟樽奪﹄など、敢禽汚事件を題 才能を額捧し' 山東に必らず 7童句を題したO 愛国的感情も強-、 「 馬開帳約」には上音して寒帯の割譲に-反. 対し たO維新運動に寒いしても徹史蚤 に三たび赴き、上沓したo上番が却 下されると憤慨して嘗局を非難した詩を つ- ったO辛亥革命 ののちは 保守に傾き'五四時期の思想、文学革命が理解できず、とりわけ口語 拡花集 ﹄上海文花也 ( 2) 周東鶴の追想とは'かれの コ 野心着弾魯迅 」。﹃ 版敢 l九八三年六月。三二∼三四貢Q これによれば ﹃ 散発名家短篇小牧叢刊﹄は 山九 i七年 二月に出版連 文 の享 t jにおかれた文革 に 山九六〇年十 7月のことが記され'本番の 自序は 1九六二年八月とな っている。 「心市」というのは、蹄のまえで香を焚ノ \ように、誠忠を表すとい 文 に反射した。蜜 帝博戯の結婚式 には敢糞の献品をし、それ に返穂が きたさ い地に伏して頓首、泣 いたo l九二四年+月'北京 で死去r '三 うことOこの 1文ほおそら- 1九六 1'二年ごろに書かれたoこの 1 - 一〇頁O 1九五九年 ( 12) 横井時敬O河出孝雄編 ﹃日本歴史大辞典﹄河出書房新改 1八六〇I l九二七 明治 ・大正期 における農撃 ・ れ ておりへ 1九 1八年というのは再版 の年 であるというO嘗時二千二 よこいときよし 農政界 の指導鎗入物の熊本株士族の出身で'熊本洋轡蚊 ・東京教場頗 十 一月、滞 1九患二 一頁 には つぎ のように記されている。1- 九四 ( 明治二七)年厳科大挙助軟投'九九年幾撃博士とな ってドイツ 学校を卒業o福岡解立農学校数詠のとき牽水避寒法を考案したo l八 i九 三 一九 六歳で父を喪 いO母 に育てられたや民立中学卒業。 ﹃ 小詮月報﹄に敬 表の 「 愛之花」 で知られるようにな ったrJのち、脚本を苔 いたが、親 名は国賓O筆名は紫液蘭愈義人B江森省発願の人。 山八八二年生れ。 たOわたしは i度も績んだことがないのである。おそらく嘗初は率草 書局にあ ったのであろうが 、事は三十飴年を へだて'人間もいれかわ 二しいるから、托してもみち からなくな っているであろう」三四頁。 濁痩鵜の停記は、あらまし つぎのとおりであるo 北京魯迅著作編集室の王士育同志がや ってきて、魯迅先生の批語がわ たしのと ころにないか'質問した。借用し て使いたいtとのことだ っ 査し批を寧 冬bれたQこれも解放後 にな って知 ったのである。 l昨年' おりへしばら-た って賞状が樽逢されてきた。中華書局が本書を教育 部 に遮 ったことは'はじめ知らなか った9本膏 の批静を務が香 いたか も'知らな か った。 「 昔時'魯迅先生は教育部 に在職し ていて自ら審 教背部が推薦したとき'かれはすでに率準番局番やめて二年た って チ ェッコ' ハンガ努-、 ルー マニ ア'ブ ルガ-アなど の汚点も収めたo 年'大東書居から ﹃ 世界名家短篇ホ詮全集﹄四筋を出版しているqtf 十八力闘の八十第を収め'ソ連が十第を長め'ほかにもポーランドへ 本番のあと、かれが細評の撃を棄 てたということはなく、 i九三六 歳であ ったかれは絵婚費用を準備するために本番を締辞したのである。 包天笑の序言もあ った。 に留学し、蹄国後教授に昇遺したO老農 ( 篤農)らの経験主義 による 農事改漁が蒐んぜられた時期 に、科尊的な鹿轡 の普及懇意に努力し、 近代農撃確立の開拓者とな ったQ晩年辻農業教員養成所主事'東京農 発大軍轡濃殻兼ね'鷹発散欝振興にカを適したO「 健水選魔法」「 宿作 改長論」 「 農業経済畢」など多くの著書があり、全集 紅集録されてい るO ( 三橋 時雄) ( 1) ポー ル ・パディ Pa ul Ba dy. エコー ル ・ノルマ- ル ・ス-ペジオー ル教授。砕国文驚 とく に澄食にくわしいoかれの教示をうけたの溺 1九八四年十二月十四日骨私信O記して感謝するO 同着O三六貢O ﹃ 鮮海﹄ (]九七九年版)上海辞書出版社 司 周 樹 人 の役 人 生 活 五 忠年九月' 〓ハ 四頁や序文は l九五二年二月二十九日。上海発誌公 i九五二年十 7月初版。 ここの引用は周遜轟 ︹ 濁搾人︺ ﹃ 魯迅時政家﹄人民文撃出版敢 1九八〇年八月'蘇印本O この寮査報告 ( 批語 )の原文は、前節五の江 ( n) にかかけた. 沈論文r J三上 ハ頁Q この審報報告 ( 批語 ) の原文は二 附節 玉の杜 ( n)にかかげたo 感謝するr J ( 1) 宇佐美賓 のメモヵこれをうけたのは」九八五年 一月三十 1日0記して 61 5 1 17 8 1 19 20 東 方 轡 報 (1八七二年 三二〇 (24) ﹃ 皇 帝の密使﹄新庄粛牽辞'集英敢' 7九六七年十 1月。 ( ジム -〟 ・ヴ ユルヌ全集)全十二雀のうちの第四食b ( 2) この批語の原文は、玉の注 ( n) にかかげたO 客はタ かった。 1九 二 年八月二十四日、上海 坤 ﹃ 報﹄ ら 四月三十日) 紅 「 自由紋」欄が創設され'も っぱ 鴛嚢繍膜蕨 の作品 を のせたが'この掬の編集はかれであ ったo l九三二年十二月'鋸南 ( 62) ﹃ 征服者 ロど ぶ- ル﹄手塚殖 l静。集英敢' 1九六七年十月O ( ジュ 語 九世紀欧米各国の進歩的作家作品の再度の集中的紹介 であ ったO ( 2) 「 狂人日記」は ﹃新青年﹄四巻玉東 二 九 一八年五月列)に鴇鼓され たO 要﹄寮注 1則」﹃ 歴史痩案﹄ 1九八 一年 二月嚢。四三-四四京O 止める ( 三) 「 綱要」と牽制は別個のも のであるから、区別して扱うt とい った三 つのうちどれをとるか、部内に問うたo周樹人 の 回 答 紘 (二 であ った。中国欝二歴史機寮館 「 魯迅主張厳止蔑世凱 ﹃ 教育綱 あげられる0 7九 1六年八月三日へ教育部参事重は 「 教育層雲」をど のよう に取扱うか (〓 全面的腰止' ハ 二)賓施したも のを取治す に 華軌が翻定し施行し っつあ った 「 教育綱要」 の塵止を主張したことが ( 1) 裳健凱の死 によ って周樹人が活毅にな った 山つの例とし て'かれが豪 七 結 批語の原文は五の注 ( 1)にかかげたO ー ル ・ヴ ェルヌ全集)欝三食。 が刷新され編集は裂烈文 に代 った0 1九 1四年六月六日 ﹃ 線奔六﹄週 刊が創刊O王銘板とともに編集'かれの小紋、随筆'凝滞はたいてい がこれに抱戟されたo l九二 1年九月 ﹃ 年月﹄が創刊され、編集長と な った. 一九二二年夏 ﹃ 紫蘭蘭花片﹄月刊を創刊o l九六九年 に死去o 一九七七年 かれは鴛栗城威薮の作家で'多数 の著作がある。翻静 にすぐれ、ゴ ー-辛-の小紋を最初に解欝したのもかれであるOしかし作品も情味 にあふれ感銘をあたえるO著作に 「秋海業」'「菓海溝」'「新秋海業Lt 「 我網的騰侶」'「 滑頭世界」、「 奇談大観」など0 着は挙立明 ﹃ 中国現代六百作家小樽﹄香港 ・政文番屋 十月tによる l九七-九八某O (22) 沈論文は つぎ のようにい っているQ沈論文三五頁O 文化の逆流が全国に禰漫したさいにあ って'この浮木 ( ﹃ 欧米 名 ﹃ 域外小紋集﹄が出版されて八年 のち'墓 は中国において十 たOしたが って魯迅発生 のこれ にた いする評贋はとりわけ高 いも の 一瞥- 八月十二日、社食科挙研究合 の講演」 1九八 1年版 ﹃ 魯迅 のち に濁樹人はこのころの中国文壇の事情 にふれている。 「 上海文教 全集﹄四 金所収'二九 1-三〇七頁。これははじめ ﹃二心集﹄所収。 副題の日付は誤 っており'講演をおこな ったのは 一九三 1年七月二十 日rJ こでは'かれはいうまでもなく 「 魯透」として講演し ているO こ このなかで'かれは林野の ﹃ 迦薗小樽﹄ にふれ'また雑誌 ﹃眉語﹄ それらは'上海を中心にするものであり、 つづいて上海に出現した 創造牡もその気風をうげ っぎ'しかも古 い上海をしのぐ ことができな 僚列や簿嚢雌蝶液文撃 にふれ ているO二九四京O - ) 家短篇小詮叢刊﹄のこと︺はあきらかに格別 に貴重なも のであ っ ( 3 のがあ って' 「 昏夜の徴発'発群 の鳴鶴」 に準 えているO魯迅先 生は昔時'この辞書を肯定的 に評償するととも に'賓革求是をも って涙管 の得失と静文の不足を指摘したOたとえば評者が原題の " Ma xS t o l pri an"を 「 破蓮見第 1遭」と辞し . L Co r i nne "を 「 無可 奈何花落去」と辞したことについて'魯迅先生は厳粛 に 「 命題の 造語も東 国 ︹ 申開︺ の成語を用う。原本はもとよりか つてこれあ らずO誠ならざるを兎れず 」と指摘し ているOこれは濠さ に魯迅 先生が講者 にたいし てきわめ て強く責任を負う ところである0 (23) この報告書 の原文は、五の泣 ( ll) にかかげた。 ( この記述は周樹人が民国刑期 の上 海文境をL, P のよう にみていたかを また審査幹事、そして教育部 の科長という立場におけるホ祝審査 のた ためは、か つて蔑んだ外囲の小詮雷飴意と撃挙上の若手 の知識である と いっているoこの 「 百缶詰」 のなかには'適指数背研究唐 の主任' か った'ともい っているO二九大京 O う かがわせるO林野'﹃ 眉欝﹄'鴛鴛城鮭漁文撃にたいする口裾は事蘇 めに讃んだ小論が含まれていると考えられる0 「 我念仏倣起小設楽」 ( わたしはど のようにして小説を書きはじめたか) 1l九三三年三月五 小説菜的人物﹄ iOI 〓 H の 「比人道誰」 ( 狂人は誰か ) 。 なお、 「正人日記」 にはモデルがあ ったO周墾 漸 ︹ 周作人︺ ﹃ 魯逮 - 1五京。 ﹃ 腔北常葉﹄所収〇 一 九八 l年版 ﹃ 魯迅全集﹄四患五 二 日貌輩Q 南 である。 ﹃ 全集﹄編者 による箆棒は'この派に展する発語をいく つか あげ'なかでも ﹃ 蔑秤六﹄が影響力が あ ったといいすこれによ った揮 家として包天箕、陳蝶曲、徐放塵、周痩腐'張蟹水の名をあげている0 魯迅は筆名を天意我生ともい った陳麟助が ﹃眉語﹄を創刊したとい っ ているが、注評はこれは誤りで'高剣華の編集で あると いう。三〇五 第。 4) のち に 「狂人日記」執筆嘗時 のことにふれ' 「狂人日記」を生みだし 周 樹 人 の役 人 生 活
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