柑橘(カンキツ) - syamashita.net

柑橘栽培の歴史
柑橘品種群と栽培年代史
2016 年 10 月 10 日 編集中
山下重良編
項目・年紀
・(注)本文の出典は[ ]内に示し、幾つかの出典・史料を併記しているのは、人名や地名・文意を考証したものである。また、古文書の原典は殆
・時代
ど漢文や万葉仮名であるが、文意を意訳している。引用文献・参考資料は別ページに一括して示しました[編者]。
柑橘類の属・種・ ・柑橘類は芸香科(Rutaceae)の柑橘亜科に属す植物群で、柑橘亜科に属すものを 8 群に類別す。その中の 1 つに柑橘群があり、柑橘群を分
品種
類すると、①ヘスペリチューザ属・②シトロプセス属・③枳穀属・④柑橘属、⑤金柑属の 4 種 5 属となる。園芸學上、柑橘類と称すのは枳穀属
枳穀属
(Poncirus)・柑橘属(Citrus)・金柑属(Fortunella)の 3 属である[果樹園芸學上巻 33]。
柑橘属
(A)枳穀属、葉は三出の羽状複葉、樹は落葉性、花は白色単生、子房は多毛にして果汁は有脂[33]。枳穀の落葉性は遺伝子による先天性で、
金柑属
亜熱帯以南の地でも必ず落葉し一定期間休眠するを常とする。この性質は枳穀と他の常緑柑橘の雑種である Citrange(シトレンジ)・柚殻等でも
同じでである。然し Citrangequat(シトレンジカット)は通常は常緑性であり、寒気厳しい場合に限り落葉する[果樹園芸学下巻 104]。
(B)柑橘属、田中長三郎は、 2 亜属・ 8 区・ 2 亜区に分類した。【第 1 亜属(初生柑橘)】第 1 区(バベダ区)=最も熱帯性。スワンギ(印度の馬来)・
カブヤオ(印度の馬来)。第 2 区(ライム区)=熱帯性。ライム。第 3 区(シトロン区)=果実に乳頭あり肉は黄色、酸又は淡味、砂じょう頗る長し。葉翼
なきは特長なるも稀に有り。シトロン(印度)・レモン(印度)・広東レモン(印度)・甘果レモン(印度)・ルミー(欧州栽培)・ベルガモット(欧州栽培)。第 4
区(文旦区)=果実に乳頭なく肉は黄白色、時に紫紅色。葉翼一般に大。亜熱帯性。文旦(台湾栽)・山蜜柑(日本栽)・虎頭柑(台湾栽)・絹皮蜜柑
(日本栽)・グレープフルーツ(西印度栽)。第 5 区(代々区)=果実に乳頭なく肉は橙色、多酸のものあるも、多甘微酸のもの多し。葉翼大小の差あ
り亜熱帯性。代々(印度)・甘代々(印度)・桶柑(台湾栽)・南庄橙(台湾)・夏橙(日本栽)・鳴門蜜柑(日本栽)。【第 2 亜属(後生柑橘)】第 1 区(柚区)=
葉翼発達し、時には葉面と略同大。温帯性にして耐寒性強し。ユズ(華中)・宣昌橘(華中)・宣昌レモン(華中)。第 2 区(蜜柑区)=果実一般に扁円
形にして濃色、外皮緩く剥皮容易。温帯性又は亜熱帯性。これを 3 亜区に類別す。[第 1 亜区:眞正蜜柑亜区]=果実概して大、両端部凹入、
外皮に放射状溝なし。果肉多甘微酸。九年母(印度支那)・温州蜜柑(日本栽)・八代蜜柑(日本栽)。[第 2 亜区:紀州蜜柑亜区]=果実圓形乃至
ゲン
扁円形、放射條溝有るを普通。橙色、時には淡色、甘味強きは風通性。(a)大果品:椪柑(印度栽(栽培、以下同)・地中海マンダリン(欧州栽)・元
シヨウ
霄 柑(台湾栽)・赤蜜柑(印度)・小紅蜜柑(華中栽)・天臺山橘(中国栽)・槾橘(中国栽)。(b)小果品:紀州蜜柑(中国・日本栽)・椪橘(中国栽)・酸橘
(中国栽)・シークワーシャ(琉球・台湾)。[第 3 亜区:唐金柑亜属]=花は小、新梢の頂部に生じること多し。小果圓形、両端部凹入、放射條溝な
し。外皮に甘味あり、肉は強酸、金柑類似の風味あり。葉は小、葉翼狭小。唐金柑一名四季橘、又は月桔(中国栽)。(C)金柑属、スイングル氏は
金柑属を 2 亜属に分類した。【第 1 亜属(眞正金柑亜属)】果樹園芸上、金柑と称するものを一括したもので、中国原産に属す。花は小、白色、
単生または叢生、果実は圓、楕円、又は卵形。果皮に甘味あり、肉に酸味あり。葉は小で厚く先端尖り、葉翼狭小。丸金柑・長金柑・寧波金柑、
又は明和金柑・長寿金柑・一名福州金柑・長葉金柑(中国栽)。【第 2 亜属(金豆亜属)】花は小、単生又は叢生、果実は柑橘中の最小、葉に翼
あり矮性灌木、我が国では盆栽にして鑑賞す。金豆、一名金豆柑とも[果樹園芸學上巻,33]。
と う しよ
原生及び原生分 ・柑橘類の原産、または原生的分布は、殆どアジア大陸の南東部に集中し、僅かに太平洋東南部の島嶼にみられ、アフリカ・欧州・西部アジア・
布
南北米大陸には原生地を認めぬ(中略)。我が国の原生種として橘(タチバナ)があり、台湾にも原生がある。中井猛之進博士は最近、我が国に
於けるユズの原生地を発見された[天然記念物調査報告/植物之部第十九輯(昭和 17 年)]。山口県阿武郡川上村字遠谷金山の森林地帯、及
び同村字大谷の絶壁上に群生していると云う。昭和十六(1941)年十二月、天然記念物に指定された。南欧一帯の地中海沿岸地方は柑橘の古
い歴史を有するが、柑橘の原生品が全然ない。柑橘栽培の沿革は、渡来伝搬に始まっている。アレキサンダー大王の東征によって始めて欧州
人に知られた栽培植物は少なく、柑橘もその一つである。 THEOPHRASTUS(?-BC278)がこの方面の記録を残している。ペルシャ國(イランの旧
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柑橘栽培の歴史
称)の Media 地方で栽培されている柑橘に Malus media 即ちメディアのリンゴと命名している。紀元前にはギリシャでは柑橘栽培はみられない。
A.DE CANDOLLE によれば、伊太利(イタリア)にシトロンが栽培されたのは
4-5 世紀の頃と云う。印度原産で温帯南部より亜熱帯及び熱帯に亙
ぶつ し ゆ かん
って栽培される。我が国、及び中国にて古くから栽培されている佛手柑はシトロンの一変種で挿木によって容易に発根する。シトロンに次いで
欧州に渡来した柑橘はレモンで、 G.Gallesio によれば、アラビア人によってパレスチナ及びエジプトにレモンが渡来したのは 10 世紀頃と云う。
印度原産でシトロン同様、耐寒性の最も弱き柑橘である。欧州にては伊太利(イタリア)のシシリー島・コルシカ島は有名産地である。レモンの代
表的品種にユーレカ・リスボン・ジェノア・ビラフランカがあり、ビラフランカは最も耐寒性強く、かつ豊産である。従来、レモンと混同されていた広
東レモンも印度原産で、広東・海南地方にて栽培されている。乳頭なく尖端微尖で米国のオタハイトオレンジも該種に属す。ライムは、印度原産
で専ら熱帯及び亜熱帯地方に栽培され、耐寒性最も弱い品種で明治時代に小笠原島に栽培され、相当長い間、疑問の柑橘とされていた。ベ
ルガモットは、南欧地方で栽培され、果実は圓形、尖端微尖、油の原料として果実が利用される。レモン・代々・甘代々の順に欧州に渡来した。
ラン
文旦は一般に文旦類又は欒類と呼ばれ、中国で古来、柚と称するものは該種である。我が国には徳川時代初期に既に栽培され、四国・九州
ラン
南部、特に長崎・熊本・鹿児島の3県に多く栽培される。大正六(1917)年、黒上泰治博士は長崎県に於ける欒類を調査し、卵円形品種 11 、円
形品種 15 、扁円形品種さ 8ん しよう
、合計 34 品種を記載する[果樹園芸學上巻 33]。
・ミカン科サンショウ属の山椒(学名: Zanthoxylum piperitum )は落葉低木。別名はハジカミ。日本列島の北海道から屋久島までと、朝鮮半島の
南部に分布する[佐竹義輔/原寛ら編 『日本の野生植物:木本 I 』 平凡社.1989 年]。・ヘンルーダ(オランダ語: wijnruit [ˈʋɛ inrœyt])はミカン科
の常緑小低木。日本語の「ヘンルーダ」はオランダ語に由来する。「ルー」(rue)あるいは「コモンルー」(common rue)とも呼ばれる。学名は Ruta
graveolens 。地中海沿岸地方の原産。樹高は 50cm から 1m 位。葉は、青灰色を帯びたものと黄色みの強いもの、斑入り葉のものなどがあるが、
対生し、二回羽状複葉でサンショウを少し甘くしたような香りがある。丸みを帯びたなめらかな葉がレース状に茂り「優雅なハーブ」と呼ばれる
[Wikipedia/ヘンルーダ]。
重要種類と品種 【シトロン】印度原産。温帯南部より亜熱帯、及び熱帯に亙って栽培される。欧州ではギリシャ・ローマ時代から栽培され、最も古い沿革を有す
る。我が国及び中国で古くより栽培している佛手柑は、シトロンの一変種である。【レモン】印度原産で、シトロン同様に耐寒性の最も弱い柑橘で
ある。【ライム】印度原産で、熱帯・亜熱帯途方で栽培され、耐寒性最も弱い種類である。明治時代に小笠原島にて栽培されていた。【ベルガモ
らん
ット】南欧地方で栽培され、果実は圓形、先端微尖、ベルガモッット油の原料として利用されている。【文旦】一般に文旦類、又は欒類と呼ばれ、
中国にては古来柚と称したものは該種である。我が国ではザボン・ボンタン・ブンタン・ウチムラサキ等の呼び名がある。印度、馬来地方の原産
で、樹性喬木、葉も大にして葉翼の発育著しく、果実は柑橘中最大の部類に属す。渡来品種もあるが、大部分は在来品で、優良品種に白肉の
平戸文旦(長崎)・紅肉系の江上文旦・八代文旦(熊本)等である。我が国では徳川時代初期に既に栽培され、四国・九州の南方温帯地方、特に
長崎・熊本・鹿児島に多く栽培された[果樹園芸學上巻,33]。田中諭一郎は、その著作「日本柑橘図譜」で、文旦類 27 品種を記載し優良品種と
して、白肉系では麻荳文旦(台湾)・麻荳白柚(台湾)・晩白柚(台湾)・カオパン文旦(シャム)、紅肉系では斗柚・石頭柚(台湾)・麻荳紅柚(台湾)・蜜
柚(台湾)、等とし、カオパンは、盤谷文旦・盤谷無核文旦の異名があり、品質は文旦類の首位を占めるとしている[111]。【グレープフルーツ】西
どん よ う
印度諸島で栽培されていたもので、起原は不明である。樹は発育旺盛で半喬木性、新梢及び嫩葉(若葉)は無毛である点は文旦と異なる。【代
々類(酸橙類)】印度原産で東亜諸国、及び欧州で古くから栽培され、柑橘類ではユズに次いで耐寒性がある。日本では代々の果実は新年の
飾りにする程度であるが、従来はカナダに大量輸出があり、彼の地では専らマーマレードの原料として利用されていた。中国や欧州では古来薬
用として重要視されていた。【甘代々類(甜橙類)】印度原産で華南地方に古くから栽培され、優良品種は少なくない。欧米諸国では現在柑橘産
業の主体をなす。欧州に導入されたのは 15 世紀以降であるが、南欧地方に急激に広まり、米国には 17 世紀になって初めて導入され、加州・
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柑橘栽培の歴史
フロリダ州で一大産業を形成している。ヒュームは、甘代々の品種を便宜上次の 4 群に分類している。[スペイン系]肉質稍粗硬なるも大果で品
質一般に優良で中熟性のものが多い。[地中海系]果実は圓、扁圓、又は卵形で果肉緻密で品質優良。成熟期は晩生又は中生、大果豊産で、
け つじよう
Jaffa ・ Paper ・ Rind ・ Valencia 等がある。[血瓤系 Blood Oranges]南欧原産の品種群で、果実は概して小または中である。完熟したものは、果
肉に濃紅色の色素を斑出、果皮に於いても同様、比較的早熟で品質優良。枳穀砧の樹は特に色素の出現が完全と云う。[重嚢系(ネーブル
じゆう の う
へそ
系)]重嚢とは、心皮形成が二重又は三重になるものを云い、外見上ネーブル(臍)オレンジと云う。主な品種は、 Australian ・ Bahia(Washinton
Navel ・ Riverside Navele)・ Double(Imperial)・ Egyptian ・ Melitensis ・ Parson ・ Surprise ・ Sustain 。この中でワシントンネーブルは品質、経済的
価値においても代表的品種である。欧州にはフランスのニース産のオレンジ Double ・その実生品種として Navel Algerine が代表的で、ワシント
ンネーブルは普及していない。ワシントンネーブルは、南米ブラジルのバイア原産で、バイア地方のポルトガル移民によって甜橙類が本国から
じゆう の う
輸入され、その中の Laranja Selecta が在った。 1820(文政 3 年)年、この品種の枝変わりとして現れた重嚢品種を芽接ぎで繁殖し Laranja
Selecta de Umbigo(navel)と命名して増殖、 1835(天保 6)年、米国に輸入されたが普及せず。 1870(明治 3)年に米国農務省によって輸入され、
1874(明治 7)年、加州リバーサイドに栽植、 1879(明治 12)年、リバーサイド(カリフォルニア州)柑橘品評会に出品して価値を認められて以来、急
ワシントンネーブ 激に増殖され加州柑橘業の主要品種となった。ワシントンネーブルが日本に輸入された沿革は、明治 23-24 年頃、玉利喜造博士によって米国
ル
から輸入され[福羽逸人著,果樹栽培全書/33]。明治 21(1888)年、静岡県小笠郡大池村の高島甚三郎氏は、義弟/安田七郎氏の斡旋で苗木 10
本を取り寄せたが到着の際に既に枯死していた。翌年更に 5 本を輸入し、明治 24-25 年に静岡・和歌山・兵庫・愛知の諸県に配布したと云う。
・また、明治 24(1891)年 3 月、和歌山県那賀郡「開進組」の千田三次郎氏は、在米の和歌山県人/堂本譽之進より苗木 2 本を譲り受けて持ち帰
り、 1 本を同郡の堀内仙右衛門氏に、他の 1 本を同郡の堂本秀之進氏に分かちたり。堀内氏は翌年 20 本を嫁接ぎして 11 本活着。明治 26
(1893)年には堂本氏の苗木が枯死したので、堀内氏は
2 本を分譲、追年繁殖して増殖を計れり[北神貢著/最新柑橘栽培書,明治 36 年刊/33]。
なつだいだい
・【夏橙及び類縁種】[夏 橙 ]別名/夏蜜柑(夏代)は山口県原産であるが北神貢氏によると、寛政 4(1792)年に山口県青海島の三輪吉五郎氏が
初めて栽培したと云う。三輪吉五郎氏が青海島の海岸で一種の蜜柑を拾い、種子を蒔いたと云い、もう一つは文化年(1804-1817)間の初め頃、
山口県萩江村の樽崎十郎兵衛氏が大津郡大日比郷の知人より一種の蜜柑を得て種を播いたのが夏橙になったと云う。大日比郷には夏橙の
親と云うものは古くから在ったとされ、何れにしても 19 世紀初頭に山口県に現れたとみられる[果樹園芸学上巻 33]。
年代・年紀
BC67 年
甲寅
さ
ぬ
柑橘品種と栽培を巡る我が国内外の記録・伝承
・神武天皇(狭野命)、大分県(豊国)の皇登山(水晶山)に登らせたまひ、土民がみかんを献上する[大分みかんの歴史/日本果物史年表 123]。
・(注)この年、磐余彦尊(幼名/狭野命/後の初代/神武天皇)、冬十月丁巳の朔辛酉(5 日)に親ら諸皇子を率いて西の宮(筑紫日向)より発ちて船
師東を征たまふ。是年、太歳甲寅。 11 月 5 日、筑紫國の岡水門(遠賀川下流、現/北九州の八幡~遠賀郡の周辺)に至りたまふ。 12 月 27 日
に安藝國に至り埃宮に居ます[旧事本紀・神武即位前紀]。
み やけのむらじ
た じ ま も り
ときじくのかぐのこのみ
崇神-垂仁天皇
・垂仁天皇九十年の春二月、三
宅 連 等の祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣わして非
時 香 菓を求めしたまひき。・天皇崩りまして明年
や ま たい こ く
ひ
た じ ま も り
かげ や かげ ほ こ や ほ こ
邪馬台国女王卑
(251 年)春三月十二日、多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採り縵八縵・矛八矛を以て将ち来たりし間に、天皇すでに崩りましき。
み こ
かげ よ かげ ほ こ よ ほ こ
とこ よ
ときじくのかぐのこのみ
弥呼の時代
ここに多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を捧げて叫び哭びて曰さく、「常世の国の非
時
香 菓を持ちて
さぶら
し らぎの く に
あめの
(2-3 世紀)
参上りて
侍
ふ」とまおして、遂に叫び哭び(泣い)て死にき。その非時香菓は、これ今の橘なり[垂仁天皇記
1]。・(注)三宅連は、新
羅
国王子/
天
ぴ ぼこ
日杵命の後也[新選姓氏録 50]。
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柑橘栽培の歴史
はじかみ
たちばな
さんしよう
みようが
じ
み
・倭国(古代/中国は和国を見下げて呼んだ国名。当時の日本はヤマトと訓じた)には
薑 (ショウガ)・ 橘 ・山椒・茗荷があるが(住民は)滋味を知
さる くろきじ
らず。猿・黒雉がある[三国志/魏志/倭人条 28 ・ 68]・[国語大事典 21]・[古代日本原記]。
AD250 年(庚午) ・七月一日、垂仁天皇、崩。 71 歳。墓誌「伊久米入日子命
庚午七月一日 年七十一」[宝来山古墳陵前,柳本/伊佐知命宮,61,67]。
ま き むくのみや
垂仁天皇 39 年 ・(垂仁天皇)九十九年秋七月一日、天皇、纏
向 宮に崩りましぬ。時に年百四十歳。冬十二月十日、菅原伏見陵に葬りまつる[垂仁紀,2]。
あ
かえりいた
もてまうでいた
と き じくの か く の み
や ほ こ や かげ
(纏向時代)
・【田道間守伝説】明くる(251)年、春三月十二日、田道間守、常世國より
至
れり。即ち、
齎
る物は非時香菓、八竿八縵なり。田道間守、是
いさ
な げ
まう
おほみこと
み か ど
うけたまは
はるかなるくに
まか
と ほ く なみ
ほ
よはのみず
ひ じり
かくれたるくに
いた
田道間守伝説
に泣ち悲嘆きて曰さく、「 命 を天朝に 受 りて絶 域に往る。萬里浪を蹈みて遙に
弱
水を渡る。是の常世國は神仙の秘
區、俗の臻らむ所
あに お も
に非ず。是を以て往来ふ間に、自ずからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて更本土に向むといふことを。然るに聖帝の神霊に頼り
まう
みささぎ
まゐ
て僅かに還り来たること得たり。今天皇、既に崩りましぬ。復命すること得ず。臣、生けりと雖も、亦何の益あらむ」と曰す。乃ち天皇の
陵
に向り
な
まか
これ
し らぎの く に
あめの ひ ぼ こ
て叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是三宅連の始祖なり[垂仁紀
2]。・三宅連は新
羅
国王子/
天 日杵命の後也[新
と き じくの か く の み
撰姓氏録,50]。・(注)田道間守の持ち帰った非時
香菓は、田中長三郎氏の考証によれば、これを「ダイダイ」(橙)とする[柑橘の研究
87,1933/田
たちばな
中長三郎著]。・ 橘 は、今の茨城県以南の太平洋沿岸から紀伊半島南部・四国・九州に亘る南岸地帯に自生する。今の三重県御浜町尾呂志
・熊野市大泊地帯に原生しているのを筆者(本多舜二氏)は発見している[和歌山のかんきつ 122]。
・(紀伊国海部郡の柑橘起原は更に古く)殆ど縣下に於ける柑橘の始祖にして、垂仁天皇九十年(39
年[古墳墓碑 61/67])、田道間守が常世の國
と き じくの か く の み
に渡り、齎し帰りし非 時 香菓、植えたるものにして、賀茂村の橘本の名は之に因せしものなりと称せり[前山虎之助著/蜜柑帳/和歌山縣誌第二
巻]。其の真偽、俄に判すへからされと、徳川時代に於いて盛んに栽植せられたるは、[蜜柑傳来記]始め、諸書に見ゆる處なり。・持ち帰った橘
きつ も と
の苗木八本のうち六本を、紀州海草(当時は紀伊国海部)郡加茂村橘本に植えられ六本木の地名あり。ここに橘本神社がある[同社伝/和歌山縣
の果樹 27]。・(注)田道間守が持ち帰ったのは非時香菓の着いた枝八本とあり苗木ではない[編者]。
・熊本県八代市にも「田道間守伝説」がある。経緯は和歌山と同じであるが、「田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、その皇子/景行天皇に、苦労
して手に入れた橘を献上しようと、当時、都から御征西中の天皇を、はるばる肥後国(現/熊本県)まで訪ね、高田(八代市こうだ)付近でようやく巡
り会って、橘を献上後自決した。景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた橘を植えられた。この橘が後
年、紀伊国在田郡糸我荘(現/有田市糸我町)の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん」(小ミカン)である」[熊本県八代蜜柑伝来伝説/熊本
県庁]・[紀州有田柑橘発達史/大正十五年十二月刊/有田郡田殿村/中西英雄著]と云う。・(注)垂仁天皇の崩御は、墓誌によれば「伊久米入日
かのえ う ま
かのえ う ま
子命 庚 午七月一日 年七十一」とある。 庚 午年は AD250 年と比定されている[古墳墓碑 61/宝来山古墳陵前、柳本/伊佐知命宮]。[書紀]によ
れば、景行天皇の筑紫征討は、同天皇十二(262)年とする。田道間守が帰国して 12 年後には橘の木が生きて居たとすれば成木になっている。
この説話は怪しい[編者]。・果物と菓子の神として田道間守を祀る神社は全国に十余ヵ所あるといわれ、代表的な神社は兵庫県豊岡市の中島
きつもと
神社、紀伊国屋文左衛船出の伝説の地でもある和歌山県下津町の橘本神社、佐賀県の伊萬里神社など。佐賀県伊万里市立花町の伊萬里神
こ う きつ
社(もと香橘神社)には、田道間守がタチバナを携えて伊万里浦に上陸し、これを植えたという伝説があり、タチバナの古木があったが既に枯死
たちばなの も ろ え
した。橘嶋田麿がこの地に 橘 諸兄の霊を祀り香橘宮と称し、古来から蜜柑・菓子の神として崇敬されている[社伝/日本の果物受容史
110]。
てん じ ゆ
おと え
神亀 3(726)年
・十一月十日、中務省丞従六位上/佐味朝臣虫麻呂、典鋳(大蔵省典鋳司の長官)正六位上/播磨直弟兄に従五位下を授く。弟兄は初めて甘子
(聖武天皇 3 年) (柑子)をもちて唐国より来れり。虫麻呂、先ずその種を殖えて子(實)を結べり。故にこの綬あり[續日本紀
70]。・(注)佐味朝臣は、崇神天皇の皇
おおたらし ひ こ を し ろ わ け
(奈良時代)
子/豊城入彦命の後裔、上毛野朝臣同祖なり[新選姓氏録 50]。・大 足 彦忍代別(景行)天皇、五十河媛を妃として神櫛皇子・稲背入彦皇子を生
めり。弟/稲背入彦皇子は是播磨別の始祖なり[景行紀,2]。・[先代旧事本紀
4]に、「妃/五十河媛、神櫛皇子、次に稲背入彦皇子を生めり」とみ
お み も ろ わ け
あ そ たける
え、「播磨直は景行天皇皇子/稲背入彦命の後裔。兄弟に男御諸別命・阿曽 武 命(針間国造の祖)。是、佐伯直・播磨直の祖也」[新選姓氏録
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柑橘栽培の歴史
おと え
50]。・弘法大師空海も同祖。播磨直/弟兄は柑子導入の祖。佐味朝臣虫麻呂は柑子栽培の開祖。・(注)甘子は九年母とする[貝原益軒著/大和
本草]。
天平 8(736)年
・この年、「冬十一月、左大辨/葛城王等賜姓、橘氏之時、(聖武天皇)御製歌一首」[万葉集巻第六
1009]に、「橘は 実さへ花さへ その葉さへ
とこ は
枝に霜降れど
いや常葉の樹」と詠まれている。・(注)天平 8(736)年当時、「橘」が在ったことを裏付けている[編者]。
とよの く に
天平 12(740)年 ・大分県( 豊 國)における蜜柑栽培発祥の地は、北海部郡津久見大字上青江字尾崎(現/津久見市)である[大分県流通園芸課]。[津久見柑橘
小蜜柑
史]によると、「神武天皇(在世 BC107 ~ 45 年)が津久見にて泊されしおりにミカンを献上したと伝えられ、天平十二(720)年に青江の松川にて柑
橘の研究栽培を行う。その後、又四郎なる者が保元二(1157)年に松川より青江の尾崎にミカンを移植する。このミカンは「小ミカン」であり、ここの
ミカンはその後 800 年余り生育、年々大量に実を付け、後世、「小蜜柑の元祖木」とされ、昭和十二年六月十五日に文部大臣/安井英二より、史
跡名勝天然記念物保存法による「天然記念物」に指定された。「温州みかん」の創始については、享保十(1725)年に青江の大庄屋/西郷六左衛
門が村人に栽培を奨励したのが始まりとされる。その温州みかんは肥後八代よりの移入であり、津久見では温州みかんを「八代みかん」と呼ん
だ。文化元(1804)年には津久見村の蜜柑畑十四町歩との記録あり[津久見柑橘史]。・(注)明治十三(1880)年には大阪に販売、明治十八年に津
久見青江に蜜柑問屋が開業されており、明治初期には小蜜柑に加えて温州みかんが広く栽培されだしたようである。なお、明治二十五年頃、
青江地区において、従来木の枝変わりの早生品種が発見された。これは普通温州より1ヶ月早熟で、「我が国初の早生品種の発生」である。こ
れは「青江早生」として全国に広まっていく[同史/有田みかんデータベース
106]。
と う せん
みぎり きのえ と ら
・神武東征(史実は東遷)の 砌 ( 甲 寅 BC67 年)、津久見浜(現/大分県津久見市の浜)に於いて蜜柑を献上したと伝えられる。天平十二(740)年、
仁藤仁左エ門が青江の松川(現/津久見市上青江松川)にて柑橘の栽培を研究し、その後保元二(1157)年、又四郎が当地に松川より移植したの
が現在の(小蜜柑)元祖木で樹齢八百年、面積百三十五坪 (約 45 ㎡)に伸び、平年作で七百五十貫(約 2.8 ㌧)を生産す。昭和十二(1937)年六
月、文部大臣から天然記念樹に指定せられ、現在(昭和 41(1966)年)、川野覚氏が管理している[東京青果株式会社所蔵文書/和歌山の柑橘]・
[古代日本原記]。・(注)元祖木の樹齢
800 年は、ほぼ整合しているが、小蜜柑は 800 年も生存するかは疑問[編者]。
うるう
いむ
天 平 感 宝 元 ・閏五月二十三日、大伴家持の詠「橘は
花にも実にも見つれども
いや時じくに
なほし見が欲し」[万葉集巻第十八]。・また日付がないが、忌
べ おびとえい
ぼ う しつ
(749)年
部 首 詠(詠む)數種物歌一首 [名忘失也]。「枳 蕀原苅除曽氣 倉将立 屎遠麻礼 櫛造刀自」、現在仮名に直すと「からたち
うばらかりのそけ
うばら
くら
く そ とほ
く し つくる
と じ
と じ
くらたてむ くそとほくまれ
くしつくるとじ」となる。これを現在文に直すと、「からたちと 茨 を刈り除け倉建てむ屎遠くまれ 櫛 造 る刀自」。刀自は
からたち
主婦とみられる。・(注)枳殻は万葉時代からあったことが知れる[編者]。
うるう
いつ と う
し しよう
天平宝字 6(762) ・「閏十二月十一日、収納小 樀 子 壹蚪(蚪は豆篇に斗)肆升、干柿子拾弐貫 各長四尺」[正倉院文書/大日本古文書]とみえる。・(注)「樀 」は
み
「橘」と同字であり、「小」は小さい意、「子」は実を指す。つまり小さい 樀(橘)の実を一斗四升収納したと読める。どこから送られ何に用いたかは
不明である[編者]。
十九日
し き り に けい し
ふ
いん せき
ゆの み
宝亀 3(772)年
・六月戊辰、往々京師(みやこ)に隕る石(隕石)あり。其の大きさ柚子の如し。数日にして止む[続日本紀/宝亀三年条]。・(注)「柚子」と「柚」は同
一とすれば、この時代には「柚」があったとみられる[編者]。
く う かい
おと く に でら
弘仁 2(811)年
・この年十一月九日、僧/空海、乙訓寺(現/京都府長岡京市)の別当となる[同寺縁起]。その後、同寺境内から採った柑子を嵯峨天皇に献上す
へう
やましろの お と く に で ら
き
空 海 、 柑 子 を天 る。・「柑子を献ずる表、沙門/空海、言上する。小住の山み城 乙訓寺に数株の柑橘の樹がある。献上の恒例に従い、よい実をいろいろ撰び取っ
皇に献上
て来させた。数を申し上げれば千以上となる。その色を看ると黄金のようである。黄金は変わることのないものである。千と千年に一人現れる聖
きよう し ゆ
つたな
ことば
天子のことである。また、この果物は、もともと西域から出たものである。ちらと見ただけでも興趣がある。そこで、私の 拙 い 詞 をそえて、あえて
年(奈良時代)
-5-
柑橘栽培の歴史
じん じ
しよう たい
昌 泰 ( 898- 901)
年間
か む し
加牟志
延喜 5 年-延長 5
年(905-927 年)
(平安時代)
花橘子 橘 柑子
接木
永観 2(984)年
(平安時代)
永久 4(1116)年
元永元(1118)年
こう
じ
康 治 元 (1142)年
(平安時代)
けが
奉献する次第である。伏して願うところは、陛下の仁慈をもって、まげてご一覧あらんことを。軽々しく奉献して陛下の御眼を黷すことを、ひれ伏
おそ
しや も ん
おそ
して深く悚れお詫び申し上げるところである。沙門/空海、心から惶れ、心から恐れて謹んで申し上げる」。
詩 「桃李は珍しいけれども寒さに弱く 蜜柑が霜にあっていよいよ美しいのに及ばない。星や玉に似て、そのもちまえは黄金である。そのかぐ
せい お う ぼ
もと
わしい味は供え物の籠一ぱいに充ちてる。このような例えようもない珍味は、いずこよりもたらされたのか。きっと天女・西王母の故(故郷)であろ
のぼ
と
う。千年に一度、聖人が世に出ること表わし、この木に攀って実を摘り、わが聖上陛下に献上する。小さな蜜柑を小箱六つ、大きな蜜柑を小箱
がんえん
四つ。以上、乙訓寺から採れたものを恒例にしたがって献上し奉る。謹んで乙訓寺の寺主である願演を遣わして、この状とともに奉納いたさせ
る。謹んで進上する」[弘法大師空海全集第六巻・遍照発揮性霊集/巻第四/訓読・たしまもり研究所森本純平]。
から なし
しい
くぬぎ
か む し
昌泰年間に成立の「新撰字鏡」の木部五十七に、榛・李・唐梨(カリンの古名)・梨・椎(ナラノキ)・枇杷・ 櫟 ・科木(シナノキ)・加牟志(柑橘)が記載
あり[日本果物史年表 123]。・(注)新撰字鏡は、漢字約二万一千三百を偏・旁などによって分類・排列し、字音・意義・和訓を記したもの。現存す
る日本最古の漢和辞書[国語大事典]。
あ け び
・延喜式三十二巻・大膳下、諸国献進菓子(果物)「山城國:郁子(ムベ)、通草(アケビ)、覆盆子(イチゴ)、楊梅(ヤマモモ)、平栗」。「大和國:通草
(アケビ)、、楊梅、榛(ハシバミ)」。「河内國:通草、覆盆子(イチゴ)、椎、花橘子、木蓮子(イタビカズラの古名)」。「攝津國:通草(アケビ)、覆盆子
よ う ばい
(木イチゴ)、楊梅(ヤマモモ)、花橘子(マンリョウの実か)」。「河内國:通草(アケビ)、覆盆子(木イチゴ)、楊梅、椎、花橘子、柑子、木蓮子(イタ
ビ)」。「遠江國:甘蔓、柑子」。「駿河國:甘蔓、柑子」、「相模國:橘、柑子」、「近江國:郁子」「遠江國:甘蔓、柑子」。「越前國:甘蔓、薯蕷(ヤマノ
しい
ひし
イモ)、零余子(ムカゴ)、椎」。「丹波國:甘蔓、甘栗、搗栗(カチグリ)、椎、菱」。「但馬國:搗栗、甘蔓」。「美作國:搗栗、甘蔓」。「因幡國:甘蔓、
平栗、椎、梨子、柑子、干棗」。「播磨國:、「阿波國:柑子、甘蔓」、「太宰府:甘蔓、木蓮子」。相模國:橘子、甘子」。延喜式/巻三十三大膳下諸
と う にん
き がわ か ら たち み
きようにん
国貢進菓子「甲斐國:青梨子」。同式巻三十七、典薬寮の諸国貢進年料雑薬:「桃仁/十一カ国。橘皮・枳殻実・杏仁/四十カ国」。同式巻三十
九「正親・内膳供奉雑菜「栗子三升・桃子四升・柚子十顆・柿子二升・枇杷十房・覆盆子二升。園地三十九町五反二百歩、雑菓樹四百六十
むべ
株、続梨百株、柑四十株、柿百株、橘二十株、大棗三十株、郁三十株、覆盆子(木イチゴ)園二反」とみえ、また「接木」と記され、接木が行われ
ていたとみられる[大野史朗著/農業事物起原集成/日本果物史年表
123]。(注)続梨とは継ぎ梨で、接木した梨樹のこと[編者]。
いしんぼう
ほ し なつめ
・この年、我が国最古の医書「医心方」が撰上され、巻第十三/五菓部に、「橘・柑子・柚・乾
棗 ・生棗・李・杏実・桃実・梅実・栗子・ない(赤林檎
ざ く ろ
む べ
あ け び
かや
の古名)・石榴・枇杷・こくわ(猿梨の古名)・郁子・通草・山桜桃(ヤマモモ=楊梅に同じ)・木蓮子(イタビ蔓の古名)・椎子・櫟実(クヌギの実)・榧実・
ぐ み
覆盆子(木いちご)・茱萸・海老蔓(エビヅル)・桑実」が記載されている[菊池秋雄著・明治前日本農業技術史/日本果物史年表 123]。・(注)医心
方は、丹波康頼撰述。永観二年完成。「外台秘要」「病源候論」など、隋、唐の医書八十余種から引用、編纂したもの。長らく朝廷の秘書となっ
ていたが、万延元(1860)年、江戸幕府の手で刊行された[国語大事典]。
こ う らい
えい そ う
・(朝鮮半島)高麗国王/睿宗十一(1116)年二月二日、日本国、柑子を進む[武田幸男編訳/高麗史日本伝]。・(注)日本から高麗国王に柑子を贈
ったか。日本の朝廷は、幼少の鳥羽天皇(14 歳)十年(摂政/藤原忠実)、白河法皇の院政時代[古代日本原記]。
・九月七日、白河法皇、(紀伊国牟婁郡)熊野に詣る。供奉の人八百十四人、伝馬百八十五匹、一日の粮料十六石二斗八升。熊野三山領は紀
もと
伊・阿波・讃岐・伊予・土佐五カ国に各十烟(世帯)の封戸五十烟ある[中右記・百錬抄・紀伊續風土記三]。白河法皇、詠「橘の本に/一夜の旅
寝して/入佐の山の/月を見るかな」と。・(注)熊野詣で途上には当時に橘が自生していたとみられる[編者]。
たいらの さ ね つ な
・十二月十二日、「藤原摂関家(京都法成寺)領/紀伊国那賀郡吉仲荘の下司/ 平 實綱が藤原氏の熊野参詣にあたり菓子等を送り届ける」[兵範
記/平安遺文 2490 号]。・(注)この季節からみて菓子はミカン類や柿とみられ、ミカン類は柑子だった可能性が高い。平實綱は平安末期に京都
ど い
ど
から吉仲荘の荘官として派遣され、吉仲荘調月村(現/桃山町調月字山人平の一角に)に豪邸を構え、「土居の殿様」と呼ばれてていた。今も土
-6-
柑橘栽培の歴史
い やぶ
承安 2(1172)年
(平安時代)
12 ~ 13 世紀
八代小ミカン
応 永 8( 1401) 年
頃
菓子と食合わせ
永享年中
(1429-1440 年)
(室町時代)
文明 13(1481)年
以前
文 明 ( 1 4 6 91487)年間
天文 6(1537)年
居薮と呼ばれる大きな薮が著者宅の上にある[桃山町史 8 ・伝承・伝聞]。
かやの み
ざ く ろ
ほ しなつめ
・一月、摂政家臨時客献立「干菓子:松の実を煎りて皮を剥きて盛る。 柏 実:煎りて盛る。石榴:皮剥きて盛る。干 棗 :熟したる棗を皮剥きて蒸し
て乾かす(中略)。棗無き時は串柿を盛る。五つ目に勝栗(搗栗)を加える時あり。或いは時菓子(季節の菓子)を用ゐる。木蓮子(イタビカズラの古
名)、栗、橘、杏、李、椎子、桃、せんこう桃(不明)、柿」[櫻井秀/足立勇著:日本食物史(上)/日本果物史年表 123]。・(注)平安時代末期には、菓
子(果物)の種類が豊富になってきたようにみえる[編者]。
・熊本県のみかんの起源/「八代小ミカン」の発祥の地。我が国のみかん栽培史では、一つの地域で”ある規模で栽培”され始めたのは熊本県八
代郡高田村(現/八代市高田)であり、その品種は中国漸江省から伝来した「小ミカン」である。起源は 12 ~ 13 世紀頃と推測されているが、ある
程度の量産体制にあった様子にもかかわらず、「小ミカン」を特産品として(江戸時代に)藩外まで販売した形跡は見当たらない。「温州みかん」
の栽培は、発祥地の鹿児島県東町が近いため、速やかな伝来があったと思うが、やはり、小ミカンと違う「種無し」が敬遠され、商業的栽培は明
治二(1869)年に高田・宮地区で始まっている[果物百年史/果樹王国熊本・有田みかんデータベース
106]。
てい き ん お う ら い
よ う ばい
り ん ごの み
なしの み
し い はしばみのみ ざ く
・室町前期成立という僧/玄恵法印の作「庭訓往来」に主な菓樹・菓子「梅・桃・李・楊梅(ヤマモモ)・林檎子・枇杷・杏・栗・
梨 子・椎・ 榛 子・石
ろ
なつめ
き ざわし
こ ねり
ゆ こ う
こう じ
たちばな
う じ ゆ きつ
が しよく き ん
榴・ 棗 ・木 淡 (甘柿)・木練(甘柿)・柚柑・柑子・
橘 ・雲州橘・金柑・柚」。また、合 食 禁(食い合わせ)の菓子として、「緬と枇杷、酒と柿、雀と銀
き じ
杏、李と雀肉・雉子・蜜・白求(不明)・牛肝(牛の肝臓)」[菊池秋雄:明治前日本農業技術史第三果樹園芸・樋口清之:日本食物史/日本果物史
ゆ こ う
年表 123]。・(注)林檎子は初出という[小林章:文化と果物/日本果物史年表 123]。・(注)柚柑はミカン科の常緑小高木。本州中国地方と四国で
栽植され、果実はユズに似て大きく香りが高い。クエン酸製造の材料。「ゆかん」ともいう[国語大事典]。
れんちゆうしよう
さ も も
・この頃の「簾 中 抄」に、多く食ふまじきもの「棗・柑子・李・柚・生梅・杏など」、月々食わぬもの「五月桃・李など核ならぬ菓子」[櫻井秀/足立勇
著:日本食物史上/日本果物史年表 123]。・(注)核ならぬ菓子とは未熟なものを云うか[編者]。
・永享年中、(紀州)有田郡糸我荘中番村(現/有田市糸我町中番)楯岩の麓、神田の峰に柑一樹自然に生じ、年々實を結ぶ。天正年中(1466 年)
に此の種を山田に植え、大永年中(1521-1527 年)に接木して近郷に植え、天正年中(1573-1591 年)に糸我・宮原の二庄(現/有田市糸我町・宮
原町)に分かち植えしより、漸々諸荘に栽植すると云う(後略)[紀伊続風土記第三輯六]。・(注)紀伊続風土記及び紀州蜜柑傳来記の記録から、
紀州の柑橘栽培は安土桃山時代(1576-1600 年)の終わり頃、僅かに産業の端緒を現したことが分かる。然し(この頃は)肥後八代・山城・駿河・
遠江・相模地方が先進地であったことが以上の記録で分かる。紀州に於ける蜜柑は、[紀伊続風土記]には乳柑、一名眞柑となっているが、これ
やつ
は本草学の品物名に捉はれた名称(呼び方)である。最初は単に蜜柑と呼び、紀州は有名産地になってから「紀州蜜柑」の名を得たもので、八
しろ
代地方から移入したのは小蜜柑(C.kinokuni)である。それ以前に栽培されたものは、九年母(香橙)・柑子蜜柑が主なものであったと云う[果樹園
芸學上巻 33]。
せき そ お う らい
・文明十三年以前の成立とみられる「尺素往来」に、「庭に植えるべき花木花草として、庭梅・海棠・蜜柑」とあり、これらは、この頃までに渡来し
なす い ち ご いわ な し
なつめ
りん ご
から なし
ていたとみられる。・菓子に「青梅・黄梅・枇杷・楊梅・瓜・茄・木苺・岩梨・桃・杏・
棗
・李・林檎・石榴・梨・唐梨・柿・干柿・栗・椎・金柑・蜜柑・橙
ら い ち
く る み
はしばみ
ご どう
かちぐり
橘・鬼橘(柚の異名)・柑子・鬼柑子・雲州橘」、茶子の料(茶請け)に、「茘枝・竜眼・胡桃・椎実・
榛
・栗・梧桐(青桐の実)・串柿・搗栗」[上野益三
せき そ お う ら い
:日本博物学史・菊池秋雄:明治前日本農業技術史/日本果物史年表 123]。・(注)尺素往来は、一条兼良の著。文明十三年以前の成立。往復
書簡の形式の中に、年中行事・各種事物の話題を盛り、消息文の書き方や百科的教養を習得するのに便利にしたもの[国語大事典]。
あしかがよしたね
・美濃國の瑞林寺(現/岐阜県美濃加茂市蜂屋町)の住職が「蜂屋」の枝柿を足利義稙公(室町幕府第
10 代将軍)に献じ、後に太閤秀吉にも献
そ まい
じ課役を免じられた。柿百個を以て租米(年貢米)一石二斗に代する[長野県果樹発達史/日本果物史年表
123]。
あ きの く に
・広島県みかんの発祥は、天文年間(1532 年)に安芸国の住人/木村道禎が讃州(現/香川県)から小ミカンの苗木を求め、安芸郡蒲刈島の向村
-7-
柑橘栽培の歴史
(戦国時代)
広島県みかん
天文 15(1546)年
(戦国時代)
天文 21(1552)年
(戦国時代)
蜜柑接木
弘治元(1555)年
杏栽培始まる
天正 2(1574)年
(安土/桃山時代)
紀州蜜柑傳来記
に殖栽。その後、永禄年間(1558 ~ 1569 年)に安芸郡下蒲刈村(現/下蒲刈町)へ増殖したのが始まりとされる。香川県から小ミカンを入手とな
っているが、香川県では小ミカン伝来の歴史に関する記録なく、入手の検証は出来ない。また、安芸と(紀州)有田を比較すると、小ミカンの安芸
への伝来が事実とすれば、八代から有田への伊藤孫右衛門による小ミカン伝来は天正二(1574)年とされ、広島県への小ミカン伝来は有田より
げん な
あさ
37
年ばかり早いといえる。しかし、安芸の国にては、天文年間以降の小ミカン栽培の広がりはなく、元和五(1619)年に紀州藩から移封された浅
の お さ あきら
野長 晟 が紀州から「紀州みかん」を取り寄せ増殖を勧めている。このことは、紀州有田への小ミカン導入が安芸より遅かったにしろ、元/紀州藩
主の浅野公が安芸藩の農家の活性化のために、紀州みかんを導入したことは、その時代には「紀州蜜柑」が大変優れていたことの証明となろ
う。つまり、伊藤孫右衛門や有田の人たちの品種改良が九州や四国より進んでいたことの証でもある。広島県における温州みかんの本格的栽
培は、明治二十七(1894)年頃からである。導入の最初は文政元(1818)年、豊田郡大長村の秋光彦左衛門が栽培したとなっている。広島におい
ては、小ミカンの伝来が有田とあまり時間ズレがなく、また、九州に近い地の利から、温州みかんも江戸時代末期には伝来があったと思われる
が、江戸時代には産地的生産にまで至らず、自家用としての栽培に留まっている。広島でのみかん栽培が盛んになるのは、明治三十六年の
「青江早生」(大分県北海部郡青江で発見された普通温州の枝変わりで、わが国最初の早熟みかん)の導入からである[広島県農業発達史第二
巻/有田みかんデータベース 106]。
・十二月付け高野山検校納分支出雑記「(紀伊国)高野寺領那賀郡神野荘(美里町)から季節の納め物として蜜柑[高野山文書六]が記されてい
なが と こ しゆう
さい じ き
る。江戸時代初期の元和二(1616)年三月付け天野丹生明神社/山王院長床
衆
州雑記「十月の斉食(仏家で午前中にとる食事。午後は食事しな
とき じき
いと戒律で定めている=斉食)の蜜柑を高野寺領那賀郡細野荘から上納があった[高野山勧学院文書・金剛峯寺文書一]。また、明暦二(1656)
年の高野寺領那賀郡杉原村に於ける蜜柑の価格は、「上々蜜柑百個で大豆三升四才余(銭)一匁一分[粉河町杉原/山本家文書]で、明暦元
(1655)年の米価は、米一升0・三八匁~0・四匁であった[山川日本史小事典]。
・天文二十一年、紀伊国有田郡で柑橘の初穂(初収穫の産物)を、(糸我荘の)糸鹿社(糸我社)に供えた記録がある。橘か柑子かは定かでない。
こ こ
えいきよう
たて いわ
糸我社由緒書に云う、「糸我社御供え蜜柑出所の地、今此処(が)池となり、俗に神田池、また宮田池とも申し候。永享(1429-1441)年中、楯岩の
みつ
麓、神田の峯に橘一本、自然に生じ年々実を結ぶ。其の味蜜の如し。依りて蜜柑と号す。文正(1466-1467 年)の頃、山田に植え、近郷へも移す
と申し候。大永(1351-1528)年中に接木始まり、天文二十一(1552)年、糸我社に供う」と。・(注)この頃、自然の橘が数多く存在したことが立証され
ているので特に美味しい橘を見付け、蜜柑と称し、他へも移し行ったと解すべきか[和歌山縣の果樹 27]。・糸我社由緒書は文化七(1810)年)、
当時の神官/林周防が、寺社奉行に報告したものと云う[有田市産業振興課史料]。
・弘治元年、紀伊国有田郡で柑橘の初穂(初収穫した産物を感謝の意をこめて、まず神に供える習わしがあった)を伊勢神宮に供えた記録があ
る。橘か柑子かは定かでない[和歌山縣の果樹,27]。
・天文二十一年から弘治元年の頃、信濃國の森村(現/長野県水内郡栄村)で杏栽培が始まる。・弘治-永禄(1555-1570)年間に信濃國の安茂里
村(上水内郡安茂里村)の杏栽培が始まる[長野県果樹発達史/日本果物史年表
123]。
きのえいぬ
い と が のしよう
ひ ごの く に やつ し ろ
・「天正二年こ甲ぎ戌年中、有田郡宮原組糸我庄中番村(現/有田市糸我町中番)の伊藤孫右衛門と申す者、肥後國八代(現/熊本県八代市)と申す
う え つぎ
所より蜜柑小木(苗木)を求め来たり。初めて宮原/糸我の庄内(現/有田郡有田市宮原町/糸我町)に植継候所、蜜柑土地に応じ(適応)、風味
ひるいなく
う え ひろ
もうしそうろう
無比類、色香、菓の形、他国に勝れ候に付、次第に村々へ植廣げ申
候
。百三十年以前、慶長の始め(1596
年)には保田の庄(現/有田市保田)
いの く ち
おいたち
それ
かご す う
その こ ろ
・田殿の庄(現/有田川町井口)へも、一か村に五十本、七十本程つつと生立候由、夫より年々相増え、籠数も出候に付、其比、大阪・堺・伏見等
つみ お く
そうら え ど も
か く べつ
たか ね
へ小船にて積送り申候。右の所へも山城の國より蜜柑出
候
得共、有田の蜜柑格別勝れ申候に付、値段高値に売れ申し候由。其後百年以前、
たき
はら
かご す う
あ い したため
寛永十一戌(1634)年、初めて瀧が原村(現/有田市宮原町滝ヶ原)藤兵衛と申す者、蜜柑籠數四百籠ばかり荷物に相 認 、江戸廻しの船を頼
-8-
柑橘栽培の歴史
ほかの に も つ
串 柿 ・紀 州 蜜 柑
の国外出荷
天正 3(1575)年
(安土/桃山時代)
蜜柑接木
永禄 7(1564)年
(安土/桃山時代)
天 正 時 代 (1573)
-(1592 年)
九年母
う け あい
お みず が
み、
外 荷物と積合いに致し、始めて江戸廻し(送り)致し、右、藤兵衛、江戸表へ到着致し、所々承合、京橋(の)新山屋仁左衛門と申す御水菓
し や
きつ る い
なか がい ど も
うり
い ず
する が
み かわ か ず さ
そうら え ど も
子屋を問屋に頼み、橘類取扱致し候仲買共を集め、蜜柑賣候所、江戸表へは伊豆・駿河・三河・上総の国々より蜜柑出
候 得共、有田の蜜柑
に より もうさず
る ふ
す
かね
にくらべ候ては、中々似寄不申候に付、江戸にて流布致候はば、紀州蜜柑の風味は甘露(甘く美味しい味)に酸き味(酸味)を兼、黄金の色に紅
くぁ
ある べ か ら ず
き せん
しよう がん
きん す
を交へ、菓の形は地方圓の圖を備へ、異国に越したる和國の珍菓不可有、此上と貴賤挙げて(身分に別なく)賞翫(褒め称え)致し、金子一両を
う り はらい
もち
とも
以て蜜柑一籠半の値段に賣
拂
、帰国致候由。右の様子、蜜柑持(作り)の百姓共承り、其翌年は右の藤兵衛を(に)頼み、一所(一緒)に江戸廻し
いたし く れ そうろう
もうす
およそ
かご
うりはらいまかりのぼ
それ
(送り) 致 呉 候 様にと
申
に付、自他の蜜柑
凡
二千籠ばかり集め積送り、前年通りの場所にて一籠に付金子二分程づつに賣拂
罷
登り候由、夫
き
う え ひろ
あ ま
かご す う
で もう
より次第に蜜柑の木多く植廣け、有田郡川筋の村々、海士郡へも行渡り、慶長の末(1614 年)には籠数も餘程出申し候由(後略)」[紀州蜜柑傳来
じ きつ
記/中井甚兵衛著/享保 19(1734)年刊/果樹園芸学上巻 33]。・(注)紀州蜜柑(小蜜柑)は、中国浙江省黄巌縣の蒔橘、一名/金銭橘と同物なりと
云う。古い時代に華中・華南地方より、渡来したとみられている。学名は Citrus Kinokuni HORT.。英名は Kinokuni Orange である[果樹園芸学
上巻 33]。・(注)紀州蜜柑に付けられた英名/Kinokuni Orange は間違いで、 Orange ではなく Mandarinやつだから「
Kinokuni mandarin 」とすべきだ
しろ
った。なお、[和歌山の柑橘]は、「天正二(1574)年、伊藤孫右衛門が紀州公(徳川頼宣)の命を受けて八代に使いし、蜜柑小木を持ち還り云々」
げん な
としているが、紀州公/徳川頼宣の紀州入国は、元和五(1619)年[和歌山県誌上・同県史近世史料一]。生誕は天正七(1579)年、まだ生まれて居
じゆんしよく
ないから後世の 潤 色である[編者]。
かみ かた
・豊臣(安土桃山)時代に(紀州)伊都郡の串柿・有田のみかんが、上方(大坂・堺・伏見)に積み出され、県(国)外出荷の始まりとみられる[和歌山
の柑橘 120]。
・伊藤孫右衛門は、(紀州)有田郡糸我村字番村の人、家世々農を業とす。天正三年、肥後國八代より蜜柑樹を郷里に移植し、苦心惨憺其の繁
はか
もと
り せい
殖を謀り、遂に國中第一の産物たらしむるの本を開けり。當時、孫右衛門は其の村の里正(里の長)を勤め、役務に依りて時々若山(和歌山)の
たま たま
上司に勤任せるが、偶々肥後國八代に使いするの命を受けしかは、予て同地に蜜柑といへる果樹ありて、其の収益甚だ多きに彼の國制、他國
その き
う り わた
まさ
なにがし
その き
ほ う べん
人に該樹を賣渡すを禁じ、以て他の地に繁殖するを防ぐと聞き、将に途に上らんとし、上司 某 に懇請して該樹を求め来るべき方便を得たり。
かくて盆栽の料なりと称して僅か二株を得て帰国し、一株は和歌山の上司某の庭園に植ゑ、他の一株は自ら其の村地に植ゑしに、遠路を持ち
すい い
あい ご ぶ い く
そ せい
来たりし事とて樹勢衰萎(衰弱)して殆ど枯死しかと、寝食を忘れて愛護撫育したる結果、漸く蘇生するに至れり。上司に贈りし一株は遂に枯死
はか
ま ん えん
せりと云ふ。依って之れが繁殖を謀り、先ず接木を試みしに好成績を得しかは、是より次第に蔓延するに至れり。幸いに此の地は蜜柑の培養に
たちま
お おぎ ま ち
ぼつ
適せし爲、 忽 ちにして有数の國産となるに至れり。移植の年代は、或いは単に正親町天皇の御代(1557-1585 年)ともあり。寛永五(1628)年歿
す、年八十六(過去帳)。天正二年は其の(孫右衛門)三十二歳の時に當る[和歌山縣誌第三巻/人物誌]。
・伊予国宇和島の松浦宗案、我が国最古の農書「親民鑑月集」を出し、菓樹栽培法を記載、「種子採り物:栗・柿・梨・椎・榧・棗・櫟・柚。蔓類:
あ け び
茘枝・葡萄・通草。木類の栽培:胡桃・栗・柿・栃・榧。種採り時期:杏・梅・桃・楊梅・李・枇杷・青梨・秋梨。柑橘類:柑子・九年母・蜜柑・柚子・橙
・かぶす・花柚・実柚。此の外種類多し」と。・(注)これらより、梅・桃・梨・柑橘等は実生繁殖し接木も行われていたとみられる。柑橘は多数あり、
実生によって地方品種が増えている[菊池秋雄:明治前日本農業技術史第三編果樹園芸/日本果物史年表 123]。・(注)親民鑑月集は、永禄七
年として書かれるには記載内容に矛盾があると指摘され、江戸時代に入ってから書かれた物と推測されている[Wikipedia/親民鑑月集]。
・西洋(?)から九年母が来伝する[日本園芸中央会編:日本園芸発達史/日本果物史年表 123]。・(注)九年母はインドシナ原産で、古く中国を経
て渡来し、日本でも栽培される[国語大事典]。・九年母はインドシナ半島原産で中国南部、沖縄を経て日本本土に伝わり広まったものと考えら
れている。現在は、ほとんど消失しているが、九州南部から沖縄にかけては今なお点在する[宮崎安貞著:農業全書/1697 年]。[大和本草]はこ
れを柑と記し、『和漢三才図絵』は乳柑として記している。・「クネンボ」という名称は、ヒンドスタット語の柑橘を示す「ニブ」が、沖縄(琉球)で「クニ
-9-
柑橘栽培の歴史
天正 19(1591)年
慶 長 の 初 め
(1596 年)
(安土桃山時代)
慶長 8(1603)年
(江戸時代)
佐賀県のみかん
ブ」・「フニブ」となり、薩摩(鹿児島)で「クネブ」となり、転じて「クネンボ」となったものであるという。ウンシュウミカンとよく似た 180 g内外の橙色の
果実で、果皮にテルピン油に似た独特の香りがあり、成熟期は1月以降、自家不和合性である[田中長三郎氏考証]。
こ の わた な ま こ
・冬、徳川家康が会津の大名/蒲生氏郷に特産品の海鼠腸(海鼠のはらわたの塩辛)と蜜柑を贈り物とする。・特産物の贈答品利用[荒井魏:英
雄たちの自由時間/日本果物史年表 123]。
やすだのしよう
た どののしよう
いつ か そん
よし
・紀州蜜柑伝来記に、「慶長の初め、(紀州有田郡)保田荘・田
殿
荘内へも(蜜柑)一箇村五十本、七十本づつ生い立ちの由、夫れより年々相増
かごすう
ところ
やま し ろ
し籠數も出候に付き、其の頃、大坂・堺・伏見へ小船にて積み送り申し候。右の 處 へも山城の國(現/京都府中南部)より蜜柑出て候え供、(紀州)
有田の蜜柑、格別勝れ申すに付き値段高値に売れ申し候由」とあり、之によれば上方(京阪地方)への出荷の創始は慶長年間である[和歌山縣
の果樹 27]・(注)この頃の有田蜜柑の品種は「紀州蜜柑」とみられる[編者]。
・慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開幕、江戸時代となる。慶応三(1867)年、徳川慶喜の大政奉還(慶応 3 年 10 月)までの約 260 年間をいう。
徳川時代とも[国語大事典
21]。
ひ ぜんの く に
ひ ご
・佐賀県(肥 前 国の東半部)のみかんの起源は江戸初期に肥後(国)天草郡西仲島(現/鹿児島県出水郡東町)から「ナカシマ蜜柑」が伝わり、旧
玉島村(現/東松浦郡浜玉町)が最初に栽培したという。その後、同地から近隣に広まった模様である。しかし、江戸時代においては商業化され
ず、本格的に栽培されだしたのは明治の中頃からであり、その後急速に広まってゆく[佐賀の園芸]。
・紀州蜜柑、(紀州有田郡)糸我・宮原・保田・藤並荘から、大坂・堺・伏見へ小船にて初めて積み出す[和歌山縣の果樹 27]。
慶長年間(15961615 年)
元和 2(1616)年 ・十月、高野山学侶方領(紀州那賀郡高野山領)細野荘(現/紀の川市桃山町細野)から伊都郡天野村丹生神社へ蜜柑、芋、栗、柿を納める[勧
学院文書/金剛峯寺文書一]。
かん えい
かご
寛永 11(1634)年 ・徳川時代における紀州(有田)蜜柑の江戸出荷の(年当り)数量「寛永十一(1634)年四百籠(籠は三ツ籠、或いは四4ツ籠と称し三貫から四貫入
めい れき
じようきよう
げん ろ く
じ らい
(江戸時代)
り)。同十二(1635)年二千籠。明暦二(1656)年五万籠。貞
享四(1687)年約十万籠。元禄十一(1698)年約二十五万籠。爾来十年間、年々約二十
しよう と く
じ ご
きよう ほ う
紀州蜜柑の江戸 五万、乃至三十二、三万籠。正徳二(1712)年約三十五万籠。爾後数年間約三十四、五万、乃至五十万籠。享保十九(1734)年約十六、七万、
これ
かん ほ う
てん ぽ う
出荷
乃至二十七、八万籠(之は他方への出荷が増加したため減少の由)。寛保二(1742)年十三万籠(この年は大凶作のための由)。天保三(1832)年
約三十四、五万籠(後略)」[和歌山縣の果樹
27]。
み かん かた
寛永 12(1635)年 ・(紀州に於ける蜜柑共同出荷組織)「蜜柑方」組織の起原については諸説あって定かでないが、彼の「蜜柑藤(滝ヶ原村の藤兵衛を云う)」が江
蜜柑方組織
戸送りを寛永十一年に創始して翌年(寛永十二年)、「一所(一緒)に江戸廻し致し呉れ候様申すによって二千籠をまとめた」のが蜜柑方とは云え
めい れ き
ないまでも、共同出荷の創始と断ずべきで(ある)、また江戸出荷の創始から短日月の間に組織化されたであろうことは、(中略)「明暦二(1656)申
く み かぶ
あい たち
か ご す う おおよそ
(丙申)年、組株、十組相立、蜜柑籠數 凡 五万籠ほど年内、云々」とあるよころからみて、(江戸送り)創始から二十二年目には明らかに十組合を
みている(後略)[和歌山縣の果樹
27]。・(注)蜜柑方は今で云うミカン出荷組合である[編者]。
か き おき
ひとつ
そうら え ど も
正保 4(1647)年 ・三月二日付け「書置の事。(前略)、
一
、山林半分(と)蜜柑畑は与兵衛へ渡し申すべく旨に
候 得共、其の方家を継ぎ候間、少しも残らず永代
そ なた
なり
麻生津村に蜜柑 共に其方へ譲り申し候事、実正也。(中略)。正保四年三月二日。西 宗西。西庄左衛門へ」[(和歌山県)那賀郡麻生津村/西家文書/和歌山の柑
畑
橘」。・(注)紀州那賀郡麻生津村では、すでに江戸時代初頭から蜜柑が作られていたことを証す史料である。栽培品種は何かは不詳[編者]。
正保 5(1648)年 ・現/長崎県西彼杵郡大原村(元/釜本村)の萬助園に、今(1948 年)より約 300 年前(正保 5(1648)年)に温州蜜柑が在ったと云う。また、現/鹿児島
(江戸時代)
県出水郡東長島村鷹巣の山崎司氏の園に約 300 年と推定される老木ありと云う。この他、福岡県・大分県にも樹齢 200 年以上の温州蜜柑あり
温州蜜柑原生地 と云う[田中長三郎氏記/果樹園芸学上巻 33]。したがって、温州蜜柑は少なくとも 300 年以前に九州地方にて栽培されたものである[果樹園芸
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柑橘栽培の歴史
学上巻 33]。・(注)後出のように、昭和十一(1936)年に鹿児島県果樹試験場技師/岡田康雄氏が、(鹿児島県)出水郡東長島村鷹巣(現/長島町)
の山崎司氏の畑地で、樹齢 300 年以上と推定される温州みかんの古木を発見した[果樹農業発達史 14]。・この発見で、「温州みかん」は今(平
成 28 年)を去ること 368 年前にすでに実在したことがわかる[編者]。
・柑橘栽培の創始について「紀州那賀郡にては麻生津/龍門村最も古くして、正保五(四)年の奮記に、蜜柑畑云々の文字(文書)あり。其の他郡
てん じ く
内至る所に古木多し。伊都郡も徳川時代より盛んに栽培せり、其の傳来明らかならず、一つに弘法大師の天竺(唐国)より傳ふる處と、或いはい
ふ大師以前にありと。郡内最も古くより栽培せる見好村大字三谷の森岡甚右衛門の栽培しつつある柑子は、元禄年間、同家の祖先の栽培せし
ものなりと、樹幹の太さ五尺三寸(約 1.6 ㍍)、高さ一丈七尺(5.15 ㍍)餘、(一本の樹で)年々百五十貫(563 ㎏)餘の収穫あり」[和歌山縣誌第二巻
42]。 する がの く に
明 暦 年 間 ( 1655 ・静岡(駿河國)のみかん産地は引佐郡三ヶ日町(元/西浜名村)である。みかん栽培の歴史は、明暦年間(1655-1657 年)から万治年間(1658~ 1657 年)
1660 年)にかけて庵原郡富士川町岩淵の常盤小左衛門が、紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の
静岡のみかん
発祥とされている。このことは明治四十五年四月、和歌山県農曾発行の[蜜柑の紀州]にも紹介されている。また、寛政年間(1789-1800 年)以前
に引佐郡三ヶ日町の鈴木忠八が「紀州みかん」の苗木を持ち帰るとも言われているが、これは口伝で確証はない[静岡県柑橘史・三ヶ日町史]
によると、三ヶ日町平山の人、山田弥右衛門(通称/弥太夫)が享保(1716-1735 年)の頃に、紀州那智(山)に参詣の折り、「紀州みかん」の苗木を
持ち帰ったのが三ヶ日みかんの最初とある。また、弥太夫については、大正十(1921)年刊行の[引佐郡誌]にも、産業の振興に力を入れた人で
あり、蜜柑栽培による収益拡大を進め、「紀州みかん」の苗木を広く頒布した、とある。同氏によって永い年月にわたって穂木が分与され、三ヶ
日みかんの礎が築かれた。文政・天保(1818-1843 年)の頃には三ヶ日平山村を中心に大福寺村まで栽培が広まる。・(注)平山町には三ヶ日蜜
柑の祖/山田弥太夫の墓が残っている。三ヶ日町の「温州みかん」伝来は、寛政年間(1789-1800 年)に紀州から藤枝市に導入された[和歌山の
かんきつ]とある。[静岡県引佐郡誌]には、「山田弥右衛門(通称/弥太夫)が西浜名村(現/三ヶ日町)における「紀州みかん」栽培の始祖であり、
加藤権兵衛が「温州みかん」の元祖である」と記している。加藤は天保年間(1830-1843 年)に三河国吉良地方(現/愛知県幡豆郡吉良町、三河
湾に面している)より苗木を購入し栽培する。これが「温州みかん」の最初とされている。三ヶ日町平山の加藤家には「温州みかん発祥地」として
の標示板があり、三ヶ日稲葉山には「紀州みかん」導入の山田弥右衛門、「温州みかん」導入の加藤権兵衛、また、大正時代に現/三ヶ日みか
んの栽培技術を普及した中川宗太郎ら三人の「謝恩柑橘頒徳碑」が建立されている。・藤枝市(江戸時代は東海道五十三次の宿場町)へのみ
かん伝来は、藤枝市役所農林課によれば、「寛政年間(1789-1800 年)に「温州みかん」苗木が紀州から伝来。導入したのは現/藤枝市東北部に
領地を持つ旗本/石川又四郎であり、また続いて、同地方の田中城主/本多氏が紀州から苗木を取り寄せ、領民に奨励した模様であるが栽培技
術が伴わず、同地方においては江戸時代には販売体制には至らず、農作物は米・茶が主産品であった。藤枝市のみかん栽培が本格化するの
は、明治十五(1882)年前後からで、先進地の紀州から「温州みかん」の改良種を適宜購入しながら増殖している。この時期、熱心だったのは子
持坂村の杉山力蔵氏であった。同氏はみかん増殖につとめるとともに「夏みかん」を取り寄せる。また明治二十五(1892)年には、和歌山県那賀
郡から「ネーブルオレンジ」を導入し、藤枝市のネーブル栽培の端緒を開いた[静岡県柑橘史]。・明治二十(1887)年代に入ると「温州みかん」の
栽培が全市に広がり、焼津港から東京方面に出荷され、明治中期には同地方は「静岡みかん」の先進地となる[有田みかんデータベース 106]。
明暦 2(1656)年 ・明暦二年、(紀州那賀郡安楽川荘)杉原村に於ける上々蜜柑百個で大豆三升四才余一匁一分[粉河町杉原/山本家文書/金剛峯寺文書]。・
(注)当時の安楽川荘杉原村で栽培した蜜柑の品種は、「紀州蜜柑」とみられる[著者]。
よ う しゆう
天和 4(1684)年 ・この年、発刊の雍州府志(黒川道祐著)に、「京都に柚及び橘を古い時代から栽培した」とあり、橘については「倭俗総て柑類と称す。蜜柑・柑
ことごと
(江戸時代)
子・白柑子・雲州橘・九年母・橙、等の雑品、 悉 く京師に在り」と述べている。この頃には俗間で、柑は柑橘類の代表語、学問上では橘は柑橘
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柑橘栽培の歴史
よ う しゆう
元禄 8(1695)年
(江戸時代)
元禄 9(1696)年
(江戸時代)
げん ろ く
元禄年間
(1688-1704)年
宝永 3(1706)年
柑橘
宝永 5(1708)年
(江戸時代)
宝永 7(1710)年
(江戸時代)
正徳 2(1712)年
(江戸時代)
類の代表名であったと思われる[果樹園芸學上巻,33]。・(注)雍州府志は、山城国(現/京都府南部)に関する初の総合的・体系的な地誌。全 10
巻。歴史家の黒川道祐によって天和 2(1682)年から貞享 3(1686)に記されもの[Wikipedia]。
・この年発刊の「本朝食鑑(人見元徳/著)」に、「橘を蜜柑、宇樹橘は臭橙なり。柑子はカムシと訓じ、現在のコウジ蜜柑である。その大果品として
遠州白和村の「白和柑子」をあげ、京師にて橘と称すものは柑子に似て金柑大の果実なり」と。これは現在の「タチバナ」を指したものである。九
年母は現在品と同じ、柚はユズ、橙はダイダイ、或いはカムスと訓じている。この頃から「橙」に「代々」を充てることが一般に普及し、正月の装飾
用に使用するようになった」としている[果樹園芸學上巻 33]。
ホウキツ
く えん
・この年、宮崎安貞が「農業全書」を著し、柑類として柑(クネンボ=九年母)・柚(ユ)・包橘(コウジ=柑子)・枸櫞(ブッシュカン)・金橘(キンカン=金柑)
・ジャガタラ・ジャンボ・スイ柑子(スイコウジ)・夏橘(ナツミカン)・蜜橘(ミカン)の名をあげているが、夏橘は現在の夏橙(ナツミカン)ではない。また、
橘にミカンと仮名付し、柑橘にもミカンと仮名を付している。砧木には枳穀を使用すべしとしている[果樹園芸學上巻,33]。
・和歌山特産の三宝柑は、徳川時代の元禄年間から和歌山城内に只 1 本あり、門外不出とされていた。例年、三方に載せて城主に献上した慣
例があって、三方が三宝となったと云う[和歌山の果樹 27]。
・この年、本草学者/井田昌胖、「柑橘伝」を著わし、初めて柑と橘を結合した「柑橘」という言葉を使用し、ミカン類 20 種について名称・味・産地
などを記す[国立国会図書館白井文庫所蔵/写本]。
・この年、貝原益軒(寛永 7(1630)-正徳 4(1714)年)、「大和本草」を著わし、和・漢・蛮産
1,362 種の形状・効用などを記述した。巻之十「木之上」
まるめろ
くさ
の「菓木類」に、橘・金橘・柑・柚・橙・佛手柑・柿・梨・榲桲・桃など、 44 種をあげる。林檎については記述なし。また、巻之八,「艸之四」の「?
類」に、覆盆子(くさいちご)・苺・甜瓜など 9 種をあげる。橘について、「タチハナト訓ス、ミカンナリ。甘花ヲ花タチハナト古歌ニヨメリ、…」と。御所
こ ねり
柿について、「大和ノ御所ノ邑ヨリ多出ツ、故ニ御処柿ト云ウ。是亦木練ノ佳品也」と記す。「橘はタチバナと訓ず。ミカンなり。その花を花タチバ
いうところ
ナと古歌に読めり。タチバナと云う物、カウシに似て小也、金橘より微か大也、是本草所謂油橘か未詳、皮薄く味ス(酸)し、上少くくぼめり。橘類
の最下品なり。タチバナは橘の本名なるを、此の果に名付けるは、あやまりなり。橘は本邦原産のタチバナにあらず。又、田道間守の橘はミカン
は りまのあたひ お と え
さ みの むし ま ろ
なり。・柑、俗に九年母と云う。播
磨
直
弟兄が唐より持ち還り、佐味虫麻呂の栽培した(続日本紀/神亀
3(726)年
11 月 10 日条)ものは九年母な
シユ ラ ン
ク エン
コ ウ エン
や ま と ほん ざ う
り。橙を代々、柚をユズ、朱欒はザボン、佛手柑は枸櫞、又は香櫞」としている[果樹園芸學上巻,33]。・(注)「大和本草」は、江戸中期の本草書。
一六巻、付録二巻、諸品図一巻。貝原益軒著。宝永五年成立。「本草綱目」所載のものを基礎に、中国・日本・西洋産を加え、計千三百六十二
種の本草を集成、分類し各品種の名称・特質などを解説する[国語大事典 21]。
・大和絵師/土佐光成(1647-1710 年)が描いたと伝えられる紙本著色「和歌の橘図巻」。二巻(紀伊国屋文左衛門の一代記を描いたと思われる絵
巻〈上巻:縦 28.5 ㎝×横 718.5 ㎝,下巻: 23.5 ㎝× 722.5 ㎝〉)あり(制作年不明)。ミカンの収穫風景・荷積み・輸送・店頭風景などが緑青、金
泥、金砂子を多用し、あざやかに描かれており、当時の紀州ミカン事情を知る上で貴重な文化財[サントリー美術館所蔵]。平成 5(1993)年 8 月
31 日-10 月 3 日、「三百年祭記念西鶴展」に部分展示された[塚本学:日本の果物受容史 110]。
・紀州有田郡内の蜜柑組、新たに3組の結成が認められる。有田ミカンの江戸送りの籠数はおよそ 35 万籠から 50 万籠に及ぶ。
・寺島良安、わが国最初の図説百科事典[和漢三才図会」百五巻(全文漢文)を著わし、八十六-九十一巻で果物を六つに分類して紹介。「五果
なつめ
類:李・杏・桃・栗・ 棗 を五果という」。桃の産地として「山城伏見・備前岡山・備後・紀州」を紹介。「山果類:梨・まるめろ・林檎・柿・石榴・橘・橙・
にたり か き
柚・仏柑・枇杷・桜桃・くるみ等。「夷果類:(茘枝・竜眼肉)」。「味果類:山椒。?(ら)果類:甜瓜・西瓜・葡萄」。「水果類:柿の項では五所柿・
似柿
す き とおり
き ねり
つるし が き
こ ろ がき
あわせ が き
・伽羅柿一名透徹柿・円座柿・樹練柿・田舎柿・つつみ柿・ 白 柿・胡盧柿一名豆柿・串柿, 醂 柿・柿の蒂(しゃっくりを治す)・柿の皮等」を取り上
みん
おう き
げる。・(注)「和漢三才図会」は図入り事典。全一〇五部。江戸中期の漢方医/寺島良安著。正徳二年成立。明(中国)の王圻撰「三才図会」にな
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柑橘栽培の歴史
らう図鑑で、和漢古今の万物を、天・地・人の三才に分け、絵図を付し漢文で解説したもの[国語大事典
21]。
も り かわ き よ り く
ほととぎす
・この年亡くなった俳人/森川許六(1656-1715 年)が紀陽柑園の景勝を憧憬して詠んだ句に、「紀の国の/蜜柑に鳴くや/時 鳥」とある。・紀州ミカン
は正徳年間に領内から江戸へ三十五-五十万篭が移出されるまでに成長、ミカン畑の開墾進み、畑の石垣積みに尾張(現/愛知県西部)から工
人(石垣職人)が來藩し、彼らは「オワリ」と呼ばれた[塚本学:日本の果物受容史 110]。
・八月十三日、紀州藩主/徳川吉宗(1684-1751 年)が、江戸幕府八代将軍に就任[国語大事典]。・この頃、将軍や大奥の貴人が口にする果物
は、ナシ・カキ・ミカンの類で、スイカ・ウリ・モモ・リンゴ・スモモの類は見るだけとされ、食べることはタブー(忌事)となっていたという。しかし、吉宗
の生母/浄円寺は、これを無視し自分の好きなものを食し、特に熟した真桑瓜を好んだという[塚本学:日本の果物受容史 110]。
享保 4(1719)年 ・徳川吉宗の将軍職襲位を賀す朝鮮通信使の製述官として随行した申維翰の「海游録」に、日本のミカンを称賛しており、この頃、相模(現/神
(江戸時代)
奈川県)・尾張(愛知県の西半分)・備後(広島県の東部)にミカンが栽培され、一般庶民の果物としてかなり出回っていたことが伺える。・十月十七
るい るい
朝鮮通信使
日、藤沢から小田原への道、「村里の左右に見る橘・柚・柑の諸樹は、江戸に向けて行った時は実が枝いっぱいに累々として青く、食うに堪え
い きよう い く い く
さわ
わ
み かん
なかった。今は色が黄色い真っ盛りで、異香郁々として人の裾を侵す。その味の爽やかにして甘い物は、倭では蜜柑と号す。樹陰を過ぎるごと
か
きようちゆう
か
かつ
のど
に倭人が数十顆がつらなる枝を折って轎 中 に投じてくれた。ただちに皮を披いて嚼むと、香ぐわしい果汁が、渇した喉をうるおし、とみに五官
がやわらぎ、安期生(昔、長生した仙人)の火棗もまた羨ましくないほどである」。・十月二十四日「赤坂(現/愛知県東部、音羽町の地名。東海道
や はぎ
し し
五十三次の宿駅)で昼食をとり、夕刻に岡崎(現/愛知県中央部、矢作川に沿う地名。旧城下町。東海道の宿駅)に着いた。路傍や市肆(まちの
かん
たけ かご
たす
店)で蜜柑を売る者、山丘の如し。文人や詩僧も来たりて歓を接する者は、必ず蜜柑を貯えた(入れた)竹籠をもって坐上に置く。そして飲を佐
ぐ
こうさく
いつきよう
(助)ける具となす。青葉を交錯(蜜柑の青葉を入り交え)したのは、愛すべきである。余はこれを食べると、あるときは一
筐を尽くしてしまう。いわば
かわ
詩が蜜柑を多く食べさせるのかも知れない」。・十月二十五日、名護屋(名古屋)にて「余もまた、ときに渇きを覚え、蜜柑をむいては酒盃を佐け
ら ん じゆく
た」。・十一月十八日「鞆浦(現/広島県福山市鞆の浦)にいたる。過ぐるところの風物は以前と変らぬが、橘・柚・柑がところどころに爛
熟 (よく熟
き
む
れ)し、香気はなはだ美しい。蜜柑は季節が遅れているとのことで、やや稀である。大柑で九年母と名づくるもの、またもっとも奇(珍しい)、皮を剥
につ く
いで口に入れると芳鮮なること、歯に溢れる。日供(毎日神前に捧げるそなえ物)として給せられるほかに、倭人が余が柑をはなはだ嗜むのを知
はこ
せん
って、しばしば筐を携えてきてこれを饋して(贈って)くれるものものがある」[海游録:姜在彦訳/塚本学:日本の果物受容史 110]。 い が ら し
享保 19(1734)年 ・(四月二十四日、元禄期の商人)/紀国屋文左衛門死す[和歌山縣の果樹
27 ・和歌山縣誌第三巻]。・(注)文左衛門は、元姓は五十嵐氏。名は
き ぶん
(江戸時代)
文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ「紀文大尽」とも言われ、紀州蜜柑を江戸送りした紀州湯浅(現/和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文
し お ざけ
紀国屋文左衛門 左衛門二十代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀に住み、幕府の側用人/柳沢吉保や勘定奉行
没
の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て、幕府御用達の材木商人となる
も、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業したとされる。晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。
「千山」の俳号を名乗った。享保十九年に死去したとされ、享年六十六。紀伊國屋は二代目/文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退し
てしまった。和歌山県有田郡湯浅町には、松下幸之助が建てた「紀伊國屋文左衛門生誕の碑」がある[Wikipedia 紀国屋文左衛門]。・和歌山
県海南市下津町の国道の傍に、みかんを積んだ船出の港として「紀伊国屋文左衛門船出の碑」が建っている[編者]。
紀州蜜柑伝来記 ・十月、紀州有田郡中井原村(現/和歌山県有田郡有田川町中井原)の中井甚兵衛が「紀州蜜柑伝来記」を著わし、「紀州蜜柑は天正年間に肥
に おくり
後国八代から導入した」と記す。紀州蜜柑の由記・蜜柑組株と問屋株・蜜柑税の税率・蜜柑組株と問屋株の増減・蜜柑の荷送 などについて。蜜
柑問屋の変遷については、天明八(1788)年、西村屋小市が書き足したものとされる。本書は江戸紀州藩御会所への報告書となっている[原文
及び解説/現代語訳原田政美校注/執筆:日本農書全集 46 巻所収,底本/和歌山県立図書館所蔵,写本]/[紀州蜜柑組由記/天理大学付属天理
正徳 5(1715)年
(江戸時代)
紀州の階段畑
正徳 6(1716)年
(江戸時代)
- 13 -
柑橘栽培の歴史
図書館所蔵文書]。
・この年、幕令をうけて丹羽正伯を中心に諸国物産調査が開始される。安田健氏の調査によると、諸国産物帳(四十二ヵ所)のうち、柑橘類の記
みちのく
載がないのは陸奥南部藩/出羽庄内領・出羽米沢領・信州高遠領・飛騨など十例。残り三十二例のうち二十六ヵ所で蜜柑・みかん・みつかん、
ひた ち
の産が報じられている。この中には常陸水戸藩(茨城県)・越中(富山県)・能登・加賀・越前福井領も含まれ、加賀では「たねなしみつかん」をはじ
お き
め、五品種が記録されている。以下、伊豆・遠江懸河領(静岡県掛川市)・美濃・尾張・和泉岸和田・紀伊・隠岐・出雲・備前・備中・周防・長門・
い き
も ろ あがた
伊予越智島・対馬・壱岐・筑前福岡領・肥前基□養父両郡・豊後と肥後の熊本領・肥後米良山領・日向諸 県 郡である[塚本学/日本の果物受容
史 110]。 ぶ ん じ
元文 3(1738)年 ・この年、「文字金銀」に改鋳されて通用することになったので、有田蜜柑について下記の通り、毎年上納することとなる。「江戸送り一籠につき
(江戸時代)
七厘五毛ずつ。近国送り一籠につき六厘ずつ」[日本の果物受容史 110]。
寛保 2(1742)年 ・幕府は、魚・鳥・野菜・果物の初物の売出時期を制限。ビワ五月から、リンゴ七月から、ナシ八月から、ミカン九月からとなる[110]。
宝暦 4(1754)年 ・この年刊行の平瀬徹齋作「日本山海名物図会」に、大和御所柿・京木練柿・大和?・渋柿・美濃釣柿・紀伊国蜜柑・江戸四日市(現/東京都中
(江戸時代)
央区日本橋に近い旧魚河岸卸売市場の一部)の蜜柑市を挿絵(長谷川光信画)で紹介。本書は大坂で版行され、近畿周辺にくわしく、江戸で
の販売の情景を得がたいので江戸四日市の蜜柑市の挿絵のみ。・大和御所柿「和州御所村より出す柿の極品なり。余国にも此種ひろまりて多
し。御所より出る物名物なる故に御所柿という」。・京木練柿「山城の国より出、これ柿の上品なり。其外諸国にも木練・近江・美濃・甲斐・信濃等
におおし。九州の地柿の熟すること上方よりも早し。澁柿に上品あり。さわし柿となして甚だよき風味なり」。・大和?渋柿「小柿なり。臼にてつき
か き しぶ
て柿澁を取て紙ざいくに用ゆ」。・美濃釣柿「しぶ柿のいまだ熟せぬうちに取って、皮をむき糸を附て竿にかけ、日にほす也(中略)。ほし上げて
でる
こしら
三寸ばかりの長さなる柿あり。其生(なま)の時の大さ思いやるべし。くし柿・ころ柿も皆しぶ柿を以て拵ゆる也。串柿は丹波よりおおく出。ころ柿
は山城宇治(現/京都府宇治市)名物也」。・紀伊国蜜柑「紀州・駿河・肥後八代よりでるみかん皆名物なり。中にも紀州はすぐれたり。皮あつくし
かご
て其味よし。京/大坂の市中に売るもの多くは紀州(産)なり。山より出すに籠に入て風のあたらぬように認(したた)めて来る也。一籠百入・二百・三
ある
百あり。籠の大きさは何れも同じこと也。みかんの大きなるは数すくなし。其外、余国にも少々は有。加賀・越前等の雪国にはみかんの木なし」。
うる
でる
かご い り
・江戸四日市の蜜柑市「江戸の市中に売はおおく駿河より出。紀州みかんも大坂より舟廻しにて下る也。江戸四日市の広小路に籠入のみかん
う り かい
あきん ど
山のごとくに高くつみて毎日毎日売買の 商 人群集す。江戸は日本第一の都会にて繁昌の津なれば、京(京都)大坂にまさりて賑わえり」[日本山
海名産名物図会/国会図書館デジタルコレクション/110]。
なます
宝暦 14(1764)年 ・博望子著「料理珍味集」に、蜜柑 鱠 (蜜柑の袋を裏返しにして 15 , 6 個を皿に盛り砂糖をふりかける)、源氏柿(こねり柿を2つに切り、うどん粉
(江戸時代)
の衣をつけ油で揚げた柿のてんぷら)、琉球蜜柑(ゆでたサツマイモを摺りつぶしミカンの形に丸め、青ノリをまぶし軸にはミカンの葉をつける)を
集録[日本の果物受容史 110]。
明和 2(1765)年 ・七月三日、畿内及び諸国に大風雨、本国(紀州)の被害多。七月三日、畿内・近江・伊勢・紀伊・播磨・其余諸国に大風雨[続年代皇略記/和歌
諸国に大風雨
山河川国道事務所資料]。
宝暦-明和の頃 ・鳴門蜜柑は、宝暦-明和の頃、淡路島洲本に、陶山興一右衛門長之と云う人で蜂須賀家の家臣として現/洲本町に住み、唐柑(九年母と云う)
(1751-1771 年) の種子を蒔いて得た実生が起原である。陶山長之の母は備中の士/水谷太郞左衛門の娘で、水谷氏は陶山氏の実生の一枝を得て自己の庭
鳴門蜜柑
前に在った回青橙に高接ぎしたのは第 2 世原木と云う。鳴門蜜柑は、備中より渡来せりとの誤解は、この事に起因する。鳴門蜜柑の名称は、文
政(1818-1829 年)の末頃、蜂須賀家
14 代/齋昌侯によって命名された[淡路,鳴門蜜柑栽培録/果樹園芸学上巻 33]。
しや
明和 9(1772)年 ・中国福建の人/謝文旦、鹿児島の阿久根に文旦をもたらす。この年の晩秋、1隻の清国の船が暴風雨を避けるために薩摩藩の阿久津港に入
- 14 -
柑橘栽培の歴史
(江戸時代)
港した。この時、番所の通詞(通訳)が親切に対応した。これに感謝して船長の謝文旦が南国の果物を贈った。贈られた果物の名前分からなか
ったので、船長の名をとって「ぶんたん」と名付けた。実はこれはザボンであった[年表でたどる日本の果物受容史]。
すみし げ
に し その ぎ
安永 10(1781)年 ・大村藩主/大村純鎮が、西彼杵郡伊木力村(現/長崎県諌早市、旧多良見町)の田中右衛門・田中村右衛門・中道継右衛門に温州ミカンの苗
(江戸時代)
木を与え、自家用として栽培させる。伊木力ミカンの始まりと伝えられる。その後、安政年間(1854-1860 年)から本格的に栽培される[日本の果物
受容史 110]。
天明 2(1782)年 ・この頃、小天(おあま)ミカン産地/現熊本県玉名市(旧/天水町小天)に、温州ミカンが植えられたと伝えられる[110]。
(江戸時代)
天明 6(1786)年 ・林香寺(東光寺)の住職/厳城(紀州出身)が、駿河國庵原郡由比(現/静岡県庵原郡由比町)に紀州ミカンの苗木 500 本を導入。当産地の始まり
(江戸時代)
と伝えられる。厳城は、徳川家康にサンショウを献上したことでも知られる。慶長 14(1609)年、駿府に隠居していた家康公が、由比山での鷹狩の
帰途、この林香寺に立ち寄り冷水を所望したところ、当時の住職であった天倫和尚が湯呑の冷水に山椒を浮かべて出したという。その香りに喜
んだ家康公は、和尚に山椒の献上を命じ、十三石余の知行と寺中山林・竹林の諸役御免の朱印状を与えたといわれている。それ以降、明治
三(1870)年まで山椒の実は駿府と江戸に献上され続け、林香寺は大いに栄えて近隣の名刹となったという[同寺伝]。
天明 9(1789)年 ・この年、三百諸候がその采地の名品を選んで将軍に献上した物に、カキ・ミカン・ナシなどがみられる。【名古屋藩】甘干柿・美濃柿(9.10 月 3
(江戸時代)
度)・水菓子(10 月)、枝柿(12 月)。【和歌山藩】大和柿・水菓子・蜜柑(10 月)。【水戸藩】水菓子(10
月)。【松江藩】眞梨子,大庭梨子(8 月)。【川
文 字 不 明
越藩】熟瓜(マクワウリ,7 月)・梨子(8 月)・栗(9 月)・枝柿(12 月)。【会津藩】□□□・松尾梨子・胡桃(10 月)。【鹿児島藩】櫻島蜜柑(寒中)。【熊本
藩】銀杏(2 月)・八代蜜柑(11 月)。【広島藩】串柿(12 月)。【久留米藩】筑後蜜柑・九年母(寒中)。【豊後臼杵藩】蜜柑(寒中)。【浜松藩】枝柿(2 月)
・白輪柑子(11 月)[寛政元年版、大成武鑑/110]。・(注)水菓子が柿・蜜柑と並んで出ているのは梨をさしているのかもしれない。
・徳島県のみかんの起源は、[徳島の園芸/昭和 41 年 11 月発行]によると、現/徳島県勝浦郡勝浦町坂本字岩本の宮田辰次が寛政年間(1789
年~ 1800 年)に柑子の苗木を植え付けたのに始まり、その後同氏は、文政十一(1828)年、紀州より温州みかんの接ぎ穂を取得し、自家の柑子
に接木して繁殖す。村人これを倣って漸次普及したのが徳島県のみかん栽培のはじまりとなる。徳島産温州みかんが、市場流通目指して本格
的に栽培されるようになったのは明治二十八年頃から大正十年頃にかけてである。勝浦・園瀬・阿南・徳島・小松島・那賀・諸川沿岸地域が産
地である[徳島の果樹]。・天明 9 年 1 月 25 日、寛政元(1789)年に改元。
・長崎県のみかん起源・伊木力温州の発祥地。「八代小ミカン」の商業的栽培記録は見当たらない。「温州ミカン」については、天明年間(1780
かの ぎ ぐ ん
年頃)に大村藩主/大村純鎮が、薩摩の長島ミカン(東町の温州みかん)を彼杵郡伊木力村(現/彼杵郡多良見町)の田中唯右衛門、田中林衛
門、中道継衛門の三氏に栽培させたのが始まりとなっている。この伊木力地方から良質の温州みかんが育成されたことにより、苗木が全国に出
伊木力系温州
荷されるようになり、これが「伊木力系温州」と言われている。明治九(1876)年には城下町ではミカンが売られていた。また、明治二十(1887)年頃
には伊木力村ではミカンを植えていない農家はないと言う程に産地が拡大し、現在も同地方は長崎県における主産地である[長崎県農林部農
産園芸課、長崎の柑橘]。
なつだいだい
寛政 4(1792)年 ・現/山口県青海島の三輪吉五郎氏が海岸で一種の蜜柑を拾い、その種子を蒔いて栽植したのが夏 橙 (夏蜜柑・夏代)と云われる[北神貢著,
(江戸時代)
最新柑橘栽培書,明治 36 年刊]。もう一つは文化年(1804-1817)間の初め頃、山口県萩江村の樽崎十郎兵衛氏が大津郡大日比郷の知人より一
なつだいだい
種の蜜柑を得て種を播いたのが夏 橙 になったと云う。大日比郷には夏橙の親と云うものは古くから在ったとされ、何れにしても 19 世紀初頭に
山口県に現れたとみられる[果樹園芸学上巻 33]。
寛政 5(1793)年 ・温州ミカンが土佐(高知)から伊予国宇和郡立間村(現/宇和島市,旧吉田町)に導入される。愛媛ミカン栽培の発祥地[愛媛県果樹園芸史]。・
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柑橘栽培の歴史
(注)吉田町の(平成 5 年の)ミカン生産量は 3 万 3,800 トン(全国の 3.3 %)で、同県八幡浜市・静岡県三ヶ日町に次いで全国第 3 位を誇る。平成
六(1994)年の愛媛県の生産量は 19 万トン(全国の 15.2 %)で、府県では日本一[農林統計]。
寛政 9(1797)年 ・寛政九年、木村桂庵が「橘品種考」を著わす。同年夏、「橘品」、冬「素封論」、寛政十年正月には「橘品類考後論」と相次いで京大坂で出版さ
する が き み きつ
(江戸時代)
れるに至ってその極に達し、当時の事情をよく今日に伝えている。「橘品類考」の駿河黄實橘の説明に、「スルガハ葉至テウスク、葉色モウスク
ち り めん は
べに み ち り めん きつ
み
シテウス茶色ナリ。又紅實アリ、縮緬葉アリ」と、「紅實縮緬橘」は、實ハ紅ニシテ葉チヂミタリ、又数品アリ、白生入テリ」と記す[同品種考/110]。
寛政 10(1798)年 ・この年完成した本居宣長の著作「古事記伝」二十五に、昔の橘は今の蜜柑説と、昔の橘、即今の橘で、蜜柑は後来説との二説について考察
(江戸時代)
を加え、いずれとも決めがたいとしている[同古事記伝]。・(注)古事記伝は、古事記の注釈書。四八巻。本居宣長著。寛政
10 年完成。寛政 2-文
なおびのみたま
政 5 年刊。巻一に古道を述べた「直 毘 霊」などの総論、巻二に序文の注釈と系図、巻三~四十四に本文の注釈、巻四十五以下に索引を収め
る[国語大事典 21]。
寛政 13(1801)年 ・紀州藩伊勢松坂の国学者/本居宣長(1730-1801 年=享保 15-享和 1)が寛政 5(1793)年に起稿し、享和元(1801)年に没するまで書き続けた『玉
(江戸時代)
勝間』(知的な随筆)に、「古よりも後世のまされること、万の物にも事にもおほ(多)し。其一つをいはむに、いにしへは橘をならびなき物にしてめで
つるを、近き世には、「みかん」といふ物ありて此の「みかん」にくらぶれば橘は数にもあらずけおされた。その外、かうじ(柑子)・ゆ(柚)・くねんぼ
(九年母)・だいだい(橙)などのたぐひおほき中に、蜜柑ぞ味ことにすぐれて、中にも橘よく似てことなくまされる物なり。此一つにておしはかるべ
し」。徳島の特産スダチについて、阿波国(徳島)大麻比古神社社家の古文書に、「大麻山の見える処でないと生育しない」と。「一、すだち、柚
た た ず
に似て柚よりちいさき者にて御座候,大麻山の見ゆる処ならでハ生ヒ立不申趣古老申伝御座候」[本居宣長著/玉勝間 14 巻 59]。
・(紀州より)寛政年間に温州みかん苗木を静岡(駿河)藤枝に移出する[和歌山縣の果樹 27]。
享和 3(1803)年 ・本草学者/小野蘭山(1729-1810)は、日本本草学の集大成たる「本草綱目啓蒙」四十八巻を著わし[享和はち3 や年刊]、二十五-三十巻で果物をとり
ぎ おん ぼ う
(江戸時代)
あげる。当時、最も多く食べられていたカキについて、「品類多シ。和産二百余種アリ」と記し、大和ガキ・蜂谷ガキ・祇園坊など主要な品種につ
か
ご めん
本草綱目啓蒙
いて解説。また、ナシの項で、越後新潟産の牛面ナシ(形が大きいため名付ける)・丹後田辺の一升ナシ(一顆に水一升あり)・斤九ナシ(顆の重さ
一斤九両)など、珍しいナシも紹介。橘に、「カクハ(書紀)・ムカシグサ(和名抄)にカウジの和名を付し、今タチバナと呼て庭際に栽え、或いは春
盤に用いるものは、別に一種にして、古呼ぶ所のタチバナに非ず」。当時、「タチバナと呼んで観賞用に栽培したのは金柑より少し大果なり」、と
しているから原生品のタチバナである[果樹園芸学上巻 33]。
・「柑 ミカン一名/洞庭長者・平蔕・穣侯・金嚢・瑞金奴・瑞聖奴・金輪藏・洞庭霜・甘心氏・木密・水晶毬・金苞青華・朱実・楚梅。柑ハミカン類ノ
総名ナリ。品類多シ。ミナ暖地ノ産ニシテ寒国ニハ育シガタシ。紀州ノ産ヲ上品トス。ソノ献上ノ柑ハ有田ノ産ナリ。京師ニテハ好柑ヲ何レニテモ
いつはり
まこと
あ じ あまく
たね
皆紀伊国ミカント 偽 ヨベドモ、 真 ノ紀伊国ミカンハ有田ノ産ノミニシテ、即、集解ノ乳柑ナリ(中略)。味 甘 シテ酸味少シ。核少ク全ク核ナキモノ
モアリ。凡ソ上品ノ柑橘ハ核ナシ。核多キモノハ下品ナリ」。紀州ミカンの評価は定着していたようである。本書は約1万語にのぼる方言を収集し
ており方言研究の上でも貴重な資料となっている[日本の果物受容史 110]。
・橙にはクネンボの和名と香橙の漢名を付し、「橙に香橙、臭橙、回青橙の分あり、本條は香橙をさす」とし、現在の臭橙・回青橙を一括してダイ
ダイとする。柚には、ユ(和名抄)・ユ、ユズ(筑前=福岡・雲州=出雲)、イズ(雲州=出雲)、ホンユ(阿州=徳島)、モイユ(阿州=徳島)、カウトウ(清=中
国)と、それぞれの地方での呼び名をあげている。
文化年間
・長州(現/山口県)萩江村の樽崎十郎兵衛氏が、大津郡大日比郷(現/長門市仙崎町大日比)の知人から一種の蜜柑を得て、その種を蒔いたの
なつだいだい
(1804-1817 年) が夏 橙 になったと云う。大日比郷には夏橙の親とも云われる木が古くから在ったと云う[北神貢著,最新柑橘栽培書,明治 36 年刊/果樹園芸学
(江戸時代)
上巻 33]。
(江戸時代)
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柑橘栽培の歴史
はじかみ
・和歌山県に於ける「金柑」は、文化年間に海部郡 椒 村(現/有田市初島町)の仲国某が、攝津國池田(荘)(現/大阪府池田市)から苗木を導入し
たのが最初で、これから森本金蔵によって日高郡印南町に苗木四十本伝えられ、この地方の金柑は明治十(1877)年頃一万三千本、栽培者三
百余名に達したという[和歌山の柑橘 120]。
文化 15(1818)年 ・紀州の人/小原桃洞の門下生らが、紀州産の柑橘類五十餘種を集めて、その名称を和漢対照して門人に示したものを、村瀬敬之が、これを圖
カ ム シ
あ ま づ み
いまの な
(江戸時代)
説して「南海包譜(文化 15 年編)」として 3 巻に纏めた。上巻に、[柑]和名/加牟之・阿萬豆実・ 今 名/蜜柑。[乳柑]一名/眞柑・御柑・俗称/左田蜜
柑・又/紀州蜜柑。[無核柑]俗称/無核蜜柑。[朱柑]一名/支柑・猪柑・俗称/紅蜜柑。[木柑]一名/乾柑・俗称/量蜜柑(ハカリミカン)。[饅頭柑]俗称/
ゴ ダイカン
朝鮮蜜柑・又は徳利蜜柑。[金柑]一名/金橘。[山橘]俗称/亦云う金柑。[牛奶柑]一名/牛奶金柑・金棗・俗称/長金柑・又は棗金柑・又は唐金柑。
[山金柑]一名/山金橘・金豆・羊矢橘・俗称/金豆柑・又は粒金柑。[生枝柑]俗称/唐柚。[海紅柑]俗称/
獅頭柚]俗称/唐
九年甫。[佛手柑]一名/佛指香櫞・佛爪香圓・佛手香櫞。[枸櫞]一名/香櫞・鉤櫞子・香圓・香圓橘・圓佛手柑。[柚柑](ユコウ)漢名不詳。[交跡蜜
柑](カウチミカン)・疑是臺湾府志所載番柑・直云う此の説非ず。中巻に、[橘]和名/太知波奈(タチハナ)・俗称/加宇之。[黄橘]俗称/白輸柑子・
又は白柑子。[早黄橘]一名/早紅橘・俗称/早生柑子・又は金柑子。[凍橘]俗称/晩柑子。[穿心橘]一名/歓條穿橘・女児橘・穿橘・匾橘・俗称/太
平柑子。[沙橘]一名/塗橘・俗称/闋。[饅頭橘]本無比名用饅頭橘之例、仮名。[朱橘]一名染血・鱔血塘南・俗称/紅柑子・又は赤柑子。[大柑子]
朱橘の一種、漢名未考。[廬橘]一名/櫨橘・壺橘・夏橘・給客橘・俗称/夏蜜柑・又は春蜜柑・雲州橘。[包橘]今春盤所備之柑子(コウジ)。[茘枝
橘]俗称/痂柑子(カサコウジ)。[猴橘]一名/橘花・和名/太知波奈・多知孛。[枸橘]一名/臭橘・和名/加良多知(カラタチ)・加良立花。[唐蜜柑]一名
/高麗橘・漢名未考・王世懋果疏朱橘の一種、紅有りて大者恐是也。[李夫人橘]一名/雲州蜜柑・實不恵蜜柑・金九年母・漢名未考。[温州橘]漢
名未考。[宇樹橘]漢名未考。下巻[香橙]一名/金橙・橙子・和名/阿部多知波奈・俗称/九年母。[回青橙]俗称/代々。[臭橙]一名/蠏橙・和名/加
布知・俗称/加布須。[水橙]俗称/長九年甫。[柚]一名/香柑・和名/柚。[雷柚]一名/鐳柚・俗称/
邏柚]俗称/花柚。[饅頭
柚]此亦用饅頭柑之例仮名・俗称/巾着柚。[朝鮮柚]漢名未考。本草圖経書所謂襄唐問柚、色青黄而小實者恐是也。[大福]一名/大福柚、漢
名未考。[朱欒]一名/櫰椵・臭柚・和名/柚橘・俗称/左無須(サムス)・又は赤座凡無(アカザボン)。[紅欒]俗称/座孛無(ザボン)・又は座無孛(ザン
ボ)・座無孛宇(ザンボウ)。[文旦]一名/文弾・文蚤・京橘・俗称/唐九年甫・内紫。[蜜禫]一名/蜜禫・俗称/琉球九年甫・又は阿蘭陀九年母。[宣母
子]一名/黎檬子・宣檬子・里木子・宣母果・薬果・宣濛子・俗称/里萬牟(リマン)・須陀知(スダチ)。[黄淡子]俗称/唐枳穀。[枳實]和漢通名。[直
云]。以上の外、南海包譜の後に本州より出るもの。[緣橘]俗称/青蜜柑。[福橘]一名/貢橘・漢蜜柑・福州蜜柑。[無核橘]俗称/核無柑子。[小懼
橘]一名/黄塘南・俗称/鈴生(スズナリ)。[匾柑]俗称/大平蜜柑。[琉球琳]漢名未考。[菊蜜柑]漢名未考。無核香橙等あり、詳に予が南海包譜補
この よ
なお
遺に辨す。此餘暖地の諸州を探索せば猶多かるべし[南海包譜,33]。・(注)紀州にはこの時代に、これだけの柑橘が在ったことを物語る。
ひろ し げ
文化 8(1811)年 ・この年発刊の「紀伊国名所図絵」に、「蜜柑山畑之図」あり。この絵をもとに、三代目広重が(明治 101877)発刊の「大日本物産図会」に、「蜜柑
(江戸時代)
山畑之図」を描いている[116]。
文化 13(1816)年 ・文化十三-明治五年成立の地誌[阿淡産志]に、スダチのことが「宜母子」の名で紹介される[116]。
(江戸時代)
つね ま さ
そ う も く そだて ぐ さ
文化 15(1818)年 ・岩崎灌園(本名/常正)(1786-1842 ,天明 6 ~天保 13 )、この年発刊の「草木 育 種」に、現在の接ぎ木法とほとんど変わらない技術が挿絵つき
文政元(1818)年 で紹介。また、ナシについて「甲斐・相模・下総等」にて多作、砂まぢりたる真土よし」と、記述するなど産地状況を紹介[116]。
文政 3(1820)年 ・「日向夏」は文政三(1820)年に現/宮崎市の真方安太郎の邸内で偶発実生として自生しているのが発見された。発見時には酸味が強く、食べ
日向夏
られることはなかったが、その後に広く栽培され始めた[Wikipedia]。・日向夏蜜柑は、文政年間に現/宮崎県宮崎郡赤江町字曾井の眞方安太
郎氏の宅地で偶発実生として発見された。この原木は枯死したが、同村の高妻仙平氏が原木の枝を接木したものが九十年以上の樹齢を保ち、
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柑橘栽培の歴史
文政 5(1822)年
(江戸時代)
文政 6(1823)年
(江戸時代)
第二世原木として昭和十一(1936)年に天然記念物に指定された。現在普及している日向夏蜜柑は、第二世原木から分かれたものである[果樹
園芸学上巻 33]。
・この年、中国の商船が、駿府(現/静岡県)海岸に漂着し、「寧波金柑」を伝える[116]。
いえ も ち
・一月十三日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達「神奈川・長崎・箱館の三港を近々に開港するに付き、この場所へ出稼ぎ、または移住して勝手に
商売致してよいから、希望する者はその港の役人へ引き合わすように致すこと」[幕府法令下]。
・シーボルト再度来日、安政 6(1859)年にはオランダ商事会社の顧問として再度来日。鳴滝塾を開いて診療と医学の教授にあたり、伊東玄朴・
高良斎・高野長英らを育てた。また、日本の動植物を研究。著に「日本」「日本動物志」「日本植物志」がある(1796-1866
年)[国語大事典 21 。
と お とうみのくに
しん こ く
文政 9(1826)年 ・遠 江 国 (静岡県西部=遠州)三保村の名主/柴田権左衛門が、漂着した清国寧波の船/得泰号の船長/楊嗣元から、数粒の珍しいキンカンの実
(江戸時代)
をもらう。この種をまいて育成したのがネイハキンカン(寧波金柑)と云う。現在、日本で主に栽培されているのは、このネイハキンカンとナガキンカ
ン(長金柑)の 2 品種である。
文政 10(1827)年 ・この年亡くなった小林一茶(1763-1827 年)の、ミカンの句に「上々の/みかん一山/五文かな」。・(注)一文は一貫の千分の一[国語大事典]。一山
5 文は今の何円かは知らず[編者]。
天保 5(1834)年 ・武蔵国埼玉郡千疋の郷(現/埼玉県越谷市千疋)で、槍術の指南をしていたという侍が江戸日本橋近くの葺屋町(現/中央区日本橋人形町3丁
(江戸時代)
目)に「水菓子安うり処」の看板を掲げ、果物と蔬菜類を商う店舗を構える。出身地の名前をとって千疋屋弁蔵と名乗る。高級果物専門店「千疋
屋」の始まり。元治元(1864)年、 2 代目/文三が店を継ぐ[110]。
あ わの く に けん ぶん き
この くに
天保 6(1835)年 ・国学者で神官の永井精古による「阿波国見聞記」に、「此国に、酢だちという果あり、他の国にあるなし。吾大麻神の山見ゆる所ならではおい
(江戸時代)
ざるよしいひ伝えたり。されど讃岐などにも希にあるなり」と。(注)永井精古は、代々大麻比古神社(現/徳島県鳴門市大麻町)に奉仕する神官の
家に生まれ、京都・伊勢内宮等で学び、長じて家業を継ぐ[110]。
み かん ぎん ね ひかえ
ね
くに
天保 8(1837)年 ・十月、蜜柑銀直
扣
(控)「書き付けを以てお願い申し上げ候。一、当年、上方表(京阪地方)の金相場、下げ直にて御迷惑なされ候趣き、御国
もと
じようぎん そ う ね
(江戸時代)
許より申し来たり候に付き、当地蜜柑代、定銀相直候よう、度々御談これあり、依りて私共仲間一同が寄り合い、談合仕り候ところ、去年中より諸
かな
ぼう て ぶり
銭相場下落
国の米価が高値、殊に新銭が出来候故哉、銭相場は追々下落仕り、売り先は棒手振(行商)に至るまで必至と難渋仕り居候間、何分、行き届き
お と り なし
きも いり
なお ま た
兼ね候に付き、この段貴殿方の御執成を以て荷主代/御肝煎中様え再応(再度)お願い下され候ところ、お聞き済み無く御座候に付き、尚亦、私
く たつ
お きもいり
共まかり出で、その段、口達(口頭)を以てお願い申し上げ候得ば、御肝煎中様方、聞き仰せなされば、先だってより申す談通り、当年、上方表
ね さが
さ げ ふだ
の金相場は只今までに思わぬ値下りにて、国元より申し来たり候下札、当時六十匁乃至に罷り在り候。差候ては国元の難渋は如何ばかりに候
しよう ふ く つかまつ
哉の旨、種々ご理解の趣き御尤もと承知候えども、兎に角、昨年より疲労故、一同承伏
仕 らず候。尤も、当地の銭相場は当時の安値にても御
とて
すえ お
と り なし
座無く、上方の金相場迚も御同様の義に御座候間、各別の思し召しを以て当年のところ、これまで通り居置き下され候よう御執成願い上げ奉り
候。尚亦、来たる年秋に至り、引き続き金相場下げ値に御座候はば、その節、違背無く定銀相値に申し候べく。何分この段、お聞き済みなさり
ひとえ
とり な
下され候よう 偏 にお執成し願い上げ候、以上。天保八年酉十月、(上方)蜜柑仲買年番/鈴屋組」[金屋町吉原/高垣八三氏所蔵文書/県史近世
史料三]。
おお す も う
天保 11(1840)年 ・天保十一年の「諸国産物大数望」の果物と産地に、駿河のミカン・飛騨の搗栗・安芸の西条柿・紀伊のミカン・美濃つるし柿・丹波のクリ・山城
(江戸時代)
宇治のころ柿・豊後のウメ、など全国に銘産品として知られる[同書/110]。
・早生温州の青江早生は、大分県北海郡青江村に在った。同村の川野氏の所有で、明治二十六-二十七年頃から枝を分譲して繁殖を計った。
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柑橘栽培の歴史
田中長三郎博士の調査発表(1932 年)によれば、同村にはこの他に 90 年以上の樹齢(天保 11 年以前)の早生温州がありと云う。青江早生の原
木は、大分県北海郡青江町倉冨にあり、俗称/導師早生と云う。即ち青江早生なり[果樹園芸学上巻
33]。
はつ も の
天保 12(1841)年 ・この年出た幕府通達「初物その他無益の売物、相仕込みの儀、相ならず」と禁令出す[幕府法令集]。
(江戸時代)
てらす
天保 13(1842)年 ・平戸藩主/松浦 曜 が、長崎に赴いた折、ブンタンを献上される。この種子から生じた偶発実生が「平戸文旦」といわれる[日本の果物受容史
(江戸時代)
110]。
と う けい
・天保十三年に発行された[南海包譜]は、紀州の本草学者/小原桃泂の門生/山中謙斉等が紀州に関する柑橘五十余種を集めて南龍公(初代
紀州藩主/徳川頼宣)に仕えた医師/板坂十斉の堂に陳列、観覧に供したものを村背敬三が図解して説明を加えたものである。原書は和中金助
氏が所蔵している[和歌山の柑橘]。・(注)その中に、「温州蜜柑」の名が記され、弘化五(1848)年の岡村尚兼氏の「桂園橘譜」に紹介されている
[弘化五年/桂園橘譜参照]。
て いじようざ つ き
天保 14(1843)年 ・この年刊行された伊勢貞丈(1717-84 ,享保 2-天明 4)著「貞丈雑記」に、「菓子の事は、いにしへ菓子といふは、今のむし菓子・干菓子の類を
コ ネ リ ガキ
(江戸時代)
いふにあらず。多くは、くだ物を菓子と云也。栗・柿・梨子・橘・柑子・じゆくし(熟柿)・木練柿などの類」と記す。・(注)本書は、貞丈が子孫のため
に、宝暦十三(1763)年から死に至る天明四(1784)年まで書き続けた雑記を編集したもので、没後 60 年を経て刊行された[110]。
天保 15(1844)年 ・この年初春、大蔵永常、「広益国産論」を著わし、国の特産品になりうる品々として果物ではミカン・ブドウ・カキ・ナシをあげ、台木や接木方法
あきな
(江戸時代)
を図解して解説。「みかんハ紀州ニて多く作りて三都(江戸・京都・大坂)に出して 商 ふ事一ヶ年ニ百五十万籠といへり。是は暖国の産物也」。
「ぶどうハ甲州より作りて多く江戸へ出して商ふ事おびたゞし。わづかの屋敷内ニつくりても相応に益となるものなり」。「かきハよく作り出せバ其
所の名産ともなる也。烏柿(ひかき=渋柿の皮をむいて干したもの=干し柿)にあらざれバ利を得るには至らず」。「ナシは美濃の国にて作り出し
しも
て諸国にひさぐ事おびたゞし。多く作れバ所の名産ともなる也。近来江戸在にて作りいだし利を得る事少なからず」。「いつの頃よりか此苗を下
うさの く に
しようがん
総 国(千葉県と一部茨城県南部)古河(現/茨城県古河市)に植広め、作りて江戸へ出せしより古河梨とて賞翫(珍重)せしを、寛政前後に品川河
ミズクァ シ
崎の在に植広め、所の益となる事又夥し。かやうなる水菓子ハ、都会に近き所にあらざれハ売口すくなくして、大益とハなるべからず」と[日本の
果物受容史 110]。
弘化 5(1848)年 ・この年、岡村尚兼の著作[挂園橘譜]は二巻で着色圖譜。上巻に、[橘]カウシ(早黄橘・一名/早紅橘)・白輸柑子(黄橘)一種カウシ(包橘)・紅カウ
(江戸時代)
シ一名/アカカウシ・テルコウ(紅蜜柑)・唐蜜柑(朱橘の一種、和名/ベニミカン)・夏蜜柑(廬橙、一名/夏橘)・茘枝橘・青蜜柑(青橘、一名/緑橘)・温
州橘・紀伊国蜜柑(大柑子、乳柑の一種)・八代蜜柑(沙橘)・一種蜜柑(饅頭橘)・一種蜜柑(木柑の類)・アヘタチバナ(橙、九年母)・ダイダイ(一種
の橙子)・ユ(柚、柚子)、ユの中に花ユ及びトコユ。冒頭の橘は圖及び説明からみると、我が国原生のタチバナで、雲州橘は今の温州蜜柑であ
り ふ じん
る。筑後柳川(現/福岡市柳川)に温州橘のあること、土地の人は之を李夫人と呼ぶとしている。下巻に、
(一名/ザボン・ザンボ、即ち
柚の別種)・唐九年母
カフチ(枸櫞、圓佛手柑)・佛手柑(一名/佛指香櫞、佛爪香櫞)・柚柑・金柑(ヒメタチバナ)・カラタチ(枳
實)・一種カラタチ。とある。唐九年母は文旦の一種で、当時九州地方には文旦の実生多く、果肉に紫・白の別あることを記している。 4 種の金
柑を図説しているが、単に金柑とするものは、丸金柑で、金橘は金豆、牛奶金柑は長金柑、大實金柑としているのは金柑と異なる雑柑で、黄色
の夏橙大の大果品である[岡村尚兼著/挂園橘譜/果樹園芸学上巻 33]。
弘化 3(1846)年 ・九月二十二日、紀州家は紀州藩産のミカン荷揚場として、江戸神田川稲荷河岸に八十四坪の地所を拝借[東京都中央区年表]。
(江戸時代)
・現/愛知県知多郡南知多町内海の大岩金十郎、紀州から温州ミカンの苗木を導入、内海ミカンの基礎を築く。庄屋を務める金十郎は、貧しい
み かんくるい
農村を救うべくミカン栽培に取り組むが、村人からは蜜柑 狂 庄屋と嘲笑され、迫害を受けながら栽培に専念。金十郎の苦闘の取り組みは澤田
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柑橘栽培の歴史
弘化 5(1848)年
嘉永元年
(江戸時代)
嘉永 3(1850)年
嘉永 6(1853)年
(江戸時代)
嘉永 7(1854)年
(江戸時代)
安政 5(1858)年
ふじ子によって小説化された[蜜柑庄屋・金十郎/日本の果物受容史
110]。
けい えん きつ ふ
り ふ じん きつ
・この年刊行の岡本尚謙(遜桂園)著「桂園橘譜」に、温州ミカンが温州橘(一名/李夫人橘)の名で図解される。これまでは正確な記録がなかっ
ちようせんの じ ん
た。温州蜜柑の条に「筑後柳川に橘あり、即ち温州橘。伝えて往昔/豊太閤(秀吉)、
朝 鮮 陣の時、持帰りし種の由云えり、実に然るか否かを知
はん え ん
り ふ じ ん きつ
らずと誰も今処々に繁衍(繁殖)して実を結ぶ。大さ九年母の如し、其味美なること蜜柑よりも優れり。土人或は之を李夫人橘とも云へり」とある[写
本/国会図書館蔵]。
・香川県のみかんの起源は、嘉永三(1850)年に現/香川県大野原町五郷の佐伯国冶助が和泉国池田(大阪府)より小ミカン(紀州みかん)の苗を
持ち帰り植えたのが最初である。その後、安政四(1857)年には同地の藤川寅吉が伊勢参りのおり、「種なしみかん」(温州みかん)の苗木二本を
持ち帰り、自畑に植え付ける。万延元(1860)年、同地の篠原秀作が藤川氏より穂木を譲り受けて大量に栽培したのが果樹園としての始まりであ
る。香川県での他の郡部のみかん栽培は温州みかんが農家の収益に良いという評判が広まった明治十六(1883)年頃からである[大野原町五郷
みかん史]。
も り さだ まん こ う
・この年、喜多川守貞(1810-?年)が「守貞漫稿」を著わす。「後集巻一 食類」の菓子の項に、「古ハ桃・柿・梨・栗・柑子・橘ノ類ノ、凡テ菓實ヲ菓
子ト云コト勿論也。今世ハ右ノ菓實ノ類ヲ京坂(京都・大坂)ニテ和訓ヲ以テクダモノト云。江戸ニテハ水グワシト云也。是干菓子・蒸菓子等ノ製ア
び
リテ、此類ヲ唯ニ菓子トノミ云コトニナリシヨリ、對之テ菓實ノ類ハミヅ菓子ト云也」。京坂では果物、江戸では水菓子と呼んでいると記す。また枇
わ よう とう う り
び わ
杷葉湯売の挿絵が解説付きで掲載されている。枇杷の葉を煎じて作った飲料は薬用として重宝がられたとみられる。
も り さだ まん こ う
・「守貞漫稿」は、江戸後期の風俗誌で喜田川守貞の著で嘉永六年成る。全三十三編。江戸時代の風俗に関する考証随筆であると同時に、近
世風俗の百科事典的意味を持つ大著。喜田川守貞は、江戸後期の風俗史家。本姓/石原。別姓/尾張部。通称/季荘。大坂の人。江戸に移り北
川家を継ぐ。その著「守貞漫稿」は当時の風俗習慣を記録したもので、明治になって「類聚近世風俗志」と題して刊行された[国語大辞典 21]。
・十月十五日、和歌山藩の御仕入方が、江戸でのミカン販売を直接支配しようとしたが、有田郡下の生産者の反対にあい失敗に終わる[110]。
はぜ
うるし
みつ ま た
・二月二十日、幕府(将軍徳川家定)が、交易のため、手余りの荒地・原野に、櫨・漆・コウド・三椏・茶を植えて国産物を増産せよと指示[幕府法
令下]。
いんの し ま
安政年間
・安政年間に、広島の 因 島(現/因島市)で、ブンタンとカボスの交雑したものとみられる「安政柑」が、偶発実生として発見される(文旦の珠心胚
い くち
(1854-1859 年) 実生か)。果実は球形で1果重 600 g内外と大型。果面・果肉ともに黄色で食味良好。 2 ~ 3 月に因島・隣の生口島(現/尾道市,旧瀬戸田町)で
(江戸時代)
収穫期の安政柑をみることができる。平成 5 年 2 月下旬、1個 200 ~ 500 円[110]。
・安政年間に、大村藩西彼杵郡伊木力村(現/長崎県諌早市、旧多良見町)で、温州ミカンの栽培が本格化する。後に「伊木力ミカン」と呼ばれる
ようになる。
万延元(1860)年 ・広島の因島(現因島市田熊町)の恵日山淨土寺の住職/恵徳上人が、境内に古くからあった実生樹の偶然実生としてハッサクを発見。淨土寺
(江戸時代)
の境内に「八朔発祥の地」の石碑がある。旧暦の八朔(8 月 1 日頃)から食べられるということから、発見者の上人によって「八朔」の名が与えられ
八朔
た。上人はこの珍しい果物を八朔の日に檀家に配って賞味したという。ところが、実際の食べ頃は 2 月から 4 月までであるので、なぜこのような
名前がつけられたかわかっていない。因島では平成 3 年現在 230 ㌶栽培されており、
3,100 ㌧生産されている。因島市ではハッサクを市の木
わ こう
として街路樹に用いている。ハッサクは、かつて瀬戸内海を根城としていた倭寇が、南海から持ち帰った珍果の種から生まれたのではないかと
も云われている[110]。・八朔は、広島県御調郡能村の浄土寺に在ったものを、万延(1860)年間に価値を認められ、八朔(旧暦八月一日)の頃に
食し得るを以て、この名を得たり。文旦の雑種と推定される[果樹園芸学上巻 33]。
- 20 -
柑橘栽培の歴史
文久元(1861)年 ・「愛媛県の温州ミカンは、文久初(1861)年、(伊豫国)北宇和郡立間村で加賀山平治郎が植え付けたのが始めである。(中略)、立間村の加賀山
かい こ く じゆんれい
あしゆう
愛 媛県 の温州 ミ 平治郎と云う人、四国廻国( 巡 礼)をなし、阿州の撫養(現/徳島県鳴門市撫養町)から四国往来の要津、紀州の加太浦に渡りて高野山参拝の道
みず た
ここ
カン
で有田を過ぎ、蜜柑栽培の盛んなるを見て収益の多い事を聞き、郷国(伊豫国)立間の山畑多く水田に乏しき事を思い合わせ、茲に蜜柑の栽
う ん しゆう み かん
培を企て、帰国の後、温 州 蜜柑の苗八本を得て白井谷に植付けさせ、又三年後、五十本を得て、その子/作治、及び薬師寺三九郎・同庄七と
云う人などに植付けさせ、明治六年の頃には一般に広がり、その数五百本に及び、同八、九年の頃よりは年々八、九百本ずつ植付け(後略)」
[安倍熊之輔著/日本の蜜柑/愛媛県果樹園芸史 118]。
元治元(1864)年 ・四月八日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達「田地へ桑を植えてはならぬ。五穀を廃し蚕を専らに致してはならぬ」[幕府法令下]。
つかまつ
きん す
に せんりよう
有田郡蜜柑方
・十一月付け「(有田郡蜜柑方)拝借 仕 る金子(金の貨幣)の事、一、金弐千両也。右は当小江戸送り蜜柑売り代金ご勝手方お役所御下し金の
内、御替えに成し下され、即本行の通り当月十五日、金子受け取り、返納の義は来たる十二月九日限り江戸詰め荷主代/西沢佐右衞門より、赤
ご きん ぞ う
きつ と
より
な
くだんのごとし
坂御金蔵(江戸幕府の御用金を納める蔵)へ急度、返納仕るべく候、仍て後日拝借証文と為す如 件(前記の如し)。元治元年子十一月。(有田
郡蜜柑方)元締三人(印)。有田御代官所(宛)」[有田市糸我/生馬駿氏所蔵文書/県史近世史料三]。
きのと う し
ひとつ
かい せん ど ん や
き
く に や きゆう べ え
たん がん
慶応元(1865)年 ・丑(ひとつ
乙 丑=慶応元年)二月付け「御答え申し上げ奉り候口上。
一
、江戸表廻船問屋/紀ノ国屋
久
兵衛より歎願に付き、左に御返答申し上げ
かいせん や
(江戸時代)
候。 一
、御国(紀伊国)産蜜柑の積船は、江戸表の廻船屋が従古来、長嶋屋亀十郎・日高屋幸蔵・紀ノ国屋久兵衛、右、三軒、蜜柑向け船宿
これ あ り
ならび
にて之有、先年は日高屋にて船持ち多く、右三軒のうち紀久(紀ノ国屋久兵衛)、
并 に幸蔵、右両人方へ多分に廻船宿をいたし御座候。近頃、
あい
たんしゆう
蜜柑船不自由
日高郡に船持ち数無く相なり、蜜柑船大いに不自由に相なり候に付き、淡
州 (淡路)并びに若山(和歌山)の大川等へ蜜柑加入金と申し、船々え
きん す
金子貸渡し、右に付いては年々蜜柑旬合に至り候はば、故無く障り夫れぞれ積方に廻り候ところ、近年残らず紀久(紀ノ国屋久兵衛)方へ船宿
しよがか
致し有る。近頃、船宿の諸懸り多分に仕出し船手(船頭)の者どもより甚だ迷惑の趣きを申し出候者もこれあり、以前は前件申し上げ候通り三軒
いつけん
しめくくり
にて宿致し候ところ、近年は紀久(紀ノ国屋久兵衛)壱軒にて括締、ほかの船宿へ付け候こと出来まじく哉、蜜柑方差し障りに相成り申さず儀に
もつと
いち ばん し たて
候へば、外の船宿へ着け仕りたく段、願い出候者もあり、至極 尤 もにも存じられ、中出に任せ昨冬の蜜柑壱番仕立より日高幸蔵方へ差し向け
つみふね
つみふね
候よう指図取り計らい候儀にて御座候。右は前段申しあげ候通り、日高郡に積船は数無き付いては蜜柑積船に大いに迷惑仕り、右三カ所小船
持ちにて江戸廻船は出来難く、夫れに付き、ミかん方より加入金を貸渡し、則江戸廻船に造り換えさせ候に付いては蜜柑方の手船同様の事に
なんじゆう
か き つけ
御座候。然る処この度、紀久方より船宿を差替えに相なり候ては難
渋 の趣き、書付を以て御願い申し上げ候段、(中略)。右の段、厚く御照察下
さとし
よろ し く
きのと う し
され、紀久(紀ノ国屋久兵衛)へ御申し諭の程、宜敷御取計らいなされ下さるよう仕りたく、依ってこの段御受け奉り申し上げ候、以上。( 乙 )丑(慶
応元年)二月、蜜柑方元締め/碕山幸右衞門・同/榎本嘉十郎・同/松原惣兵衛。神保直之助殿」[有田市糸我/生馬駿氏所蔵文書/県史近世史料
き の く に や ぶん ざ え も ん
三]。・(注)紀国屋文左衛門と云われたのは江戸前期の商人。姓/五十嵐。幼名は文吉。俳号/千山。紀伊(紀州湯浅)の人。紀州みかんを海路江
ぜい た く
き ぶん だい じ ん
戸へ運んで巨富を築き、のち材木問屋を開いて幕府の御用商人となる。贅沢な生活にふけり、紀文大尽と称されたのは二代目とも云われ、そ
き
く に や きゆう べ え
のために零落(~ 1734 年)[国語大事典]。・(注)この文書に登場する紀ノ国屋 久 兵衛は、その三代めかとみられる[編者]。
・この年、「海南包譜,山中信古著/慶応元年刊」が増訂され、以下の柑橘 77 品種が掲載される。「乳柑・黄柑・尻輸蜜柑・コガネ葉蜜柑・無核蜜
柑・木柑・大平蜜柑・圓蜜柑・直カウ蜜柑・饅頭蜜柑・菊蜜柑・保春柑・黄塘南・駿河蜜柑・黄橘(シラワカウジ)・筑前柑子・包橘(カウジ)・ワセカウ
ジ・凍橘(オクテカウジ)・無核橘・小柑子・八代蜜柑・朱柑・唐蜜柑・男蜜柑・交趾蜜柑・獅頭柑・海紅柑・金柑・山蜜柑・牛奶柑・唐金柑・・佛手柑
・枸櫞・猴橘(タチバナ)・朱橘・福橘・穿心橘・紅橘(大柑子)・乳橘・茘枝橘・塌橘(大福カウジ)・廬橘(ナツミカン)・大福蜜柑・李夫人橘・宇樹橘・
香橙・無核香橙・長九年母・大名橘・回青橙・臭橙・欝金橘・唐代々・甘代々・菊代々・柚・邏柚・朝鮮柑・巾着柚・鐳柑・唐柑・大福・朱欒・香欒・
ウチムラサキ・蜜筩(コザボン)・宣母子(スタチ)・マルコ・蜜禫(木編に覃)・枳・黄淡子・無名・枸橘[海南包譜/山中信古著]・[日本柑橘圖譜 116]。
- 21 -
柑橘栽培の歴史
う ん しゆう み かん
乳柑から駿河蜜柑まで 14 品種は、いずれも小蜜柑の品種、黄橘から小柑子まで 7 品種は柑子で、乳橘は温 州 蜜柑である、甘代々は甜橙、
鐳柑はシシユズである」[日本柑橘圖譜 116]。・(注)李夫人橘も温州蜜柑の別名である[編者]。
・伊予国宇和郡立間村(現/愛媛県吉田町立間)に、兵庫(播磨國)?から温州ミカンが導入される[日本の果物受容史 110]。
慶応 2(1866)年 ・七月十三日付け高野山惣分役人/妙観坊回文「高野山寺領村々の地士・庄屋宛て:時節柄、村々に於いては男女が集まり、踊り興業などは決
して致してはならぬ。各人が慎み、酒宴・会合などを致してはならぬ」[橋本市清水萱野家文書/県史近世史料四]。
慶応 4(1868)年 ・慶応四年九月八日、「明治」に改元[国語大事典 21]。
明治 2(1869)年 ・一月、金札と銭札の交換「金 1 朱を銭 600 文と交換し、金 1 歩を銭 2 貫 400 文と交換、金 1 両を銭 9 貫 600 文と交換する[那賀郡誌 12-上
貨幣改革
/桃山町史年表 34]。(貨幣改革)。
明治 3(1870)年 ・この年、ドイツの医学者/博物学者のシーボルト(Siebold, Philipp Franz Balthazar von, 1796-1866)が、「日本植物志」を完成させて発刊[国語大
事典 21]。その中で、「長島蜜柑とあるのは「温州蜜柑」のことである」[日本柑橘圖譜 116]。
・この年、伊予国宇和島藩野村の三角勘六、兵庫県川辺郡東野村よりミカン苗木を持ち帰る[愛媛県果樹園芸史]。
明治 4(1871)年 ・七月十四日、明治政府が藩を廃止して地方の統治を中央集権下の府と県に一元化(廃藩置県)
[国語大事典 21]。
え た
ひ にん
・八月二十八日付け太政官布告「穢多・非人の呼称は廃止とするから今後は身分職業とも平民同様とすること」[法令全書 448 号/那賀郡誌 12田畑勝手作許可 上]。
令
・九月七日、政府から「田畑勝手作許可令」が出され、(水田で)米穀以外の作物を自由に作れるようになる[法令全書,大蔵省 47 号]。
・十月三日、宗旨人別帳が廃止される[法令全書・ 34]。
明治 5(1872)年 ・十一月九日、政府は太陽暦の採用を布告。しかし農村では旧暦の正月が近づくと、村々では歳の市で賑わい、新旧 2 回の正月がきた[那賀
太陽暦
郡誌 12-下/58]。
・神奈川県足柄下郡小竹(現/小田原市小竹)の小沢富右衛門が、武州安行(現/埼玉県川口市)よりミカン苗木を購入し、栽培を始める[神奈川県
柑橘史]。
明治 6(1873)年 ・七月二十八日、政府は地租改正条例を公布。地租改正の概要、「(1)地券を交付し、農民保有地に対する私的所有権を承認。(2)課税基準を
収穫量から地価に改め、税率は地価の 3 %(改正反対の農民一揆が各地に頻発し、明治 10 年に 2.5 %に低減)。(3)物納を廃止し金納とし、納
税者は耕作者から地主に改める」。
・岡山県小田郡今井村(現/笠岡市広浜)の渡辺淳一郎(1858-94 ,安政 5-明治 27 )は、徒歩上京し、三田勧業寮から配布された樽屋桃の苗木 6
-9 本を持ち帰り、モモの栽培をはじめる。岡山県モモ栽培の始祖。その後、カキ・ナシ・リンゴ・ブドウ・夏カン・オリーブなどを栽培。・(注)渡辺淳
一郎は、岡山県で傾斜地を利用した大規模果樹経営(明治 16 年 17 町歩)の最初の成功者といわれる[116]。
・三寶柑は、明治 6 年頃、和歌山市東徒町の林角左衛門氏の邸内にあったものが親木で、その由来は不明である[33]。
・米国のワシントンネーブルは、 19 世紀初めにブラジルのバイア州でセレクタオレンジの枝変わりとして発生し、これをワシントンのアメリカ農務
省に送り「ワシントンネーブル」と命名され、 1873(明治 6)年カリフォルニア州に送られ、オレンジ産業隆盛の基礎となったとされる。
・この年、愛媛県北宇和郡立間村の加賀山金平、ミカン栽培に着手す[愛媛県果樹園芸史 118]。
明治 7(1874)年 ・一月九日、内務省に勧業寮を設置。五-六月、内務卿大久保利通は、殖産興業に対する考え方をこの頃、起草された「殖産興業に関する建
白書」で明らかにする。海外からの果樹品種の導入もこの政策の一環として強力に推進されたと思われる。*これによれば、「大凡国ノ強弱ハ
人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ依ル。而シテ物産ノ多寡ハ勉励スルト否サルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ未嘗テ政府ノ誘
- 22 -
柑橘栽培の歴史
明治 8(1875)年
導奨励ノ力ニ依ラサルナシ」と主張。殖産興業の必要性を強調した[110]。
・五月、ウィーンの万国博覧会から帰朝した津田仙〈 36 〉(1837.8.6 ~ 1908)は、オランダの園芸家ホイブレンクの口述した「 Method of
Cultivation , Explained by Three Different Processes 」を訳述し、「農業三事」(上下 2 巻)と名づけて刊行。木版刷、和装幀,上巻 23 頁,下巻
23 頁[110]。
・六月二十三日、北海道に屯田兵制度を設ける。屯田兵は北海道の警備・開拓のために設けられた農業経営の兵士[国語大事典]。
・七月、岡山県は、岡山区門田屋敷(現/岡山市)の丹波、石津、一森三氏の屋敷二反歩を借入れ、蔬菜果樹の試験場として順致園を設け、勧
業寮から払下げのモモ・ブドウ・イチジクなどを試植[110]。
・八月十八日、医制(医療・医学)が公布され、食品衛生の事項も定められる。
・八月、内務省勧業寮は、東京三田四国町の元島津氏邸跡地約4万坪を買収し、内藤新宿勧業寮出張所付属試験地(後の三田育種場〈明治
10 年 9 月 30 日開業〉)とする[110]。
・十月、内務省勧業寮が、果樹苗木 11 種を試作依頼する旨、各府県に通達する。・十一月二十七日付け岩手県令(県の長官)/島惟精、内務省
勧業寮にモモ・ナシ・ブドウ・桜桃、など 11 種の苗木配布を申請する[110]。
・青森県弘前の東奥義塾の教師アメリカ人ジョン・イング(1840 ~ 1920.6.4)、リンゴの苗木をアメリカより移植。・(注)リンゴ品種「印度」は、ジョン・
イングの名前がなまったとも、あるいはアメリカのインジアナ州から送られてきた種子にちなんで命名されたともいわれる[110]。
・勧業寮は、旧長野県へモモ・リンゴなど 11 種 30 本。筑摩県(明治四年、信濃国に置かれた伊奈・松本・飯田・高遠・高島の五県と飛騨国に置
かれた高山県とを合わせて設置された県)へモモ・リンゴなど 11 種 33 本を配布。・長野県更級郡真島村(現/長野市)で、洋種リンゴを試作。・開
拓使は、札幌本庁構内の
5 万 8,500 余坪を果樹園とし、東京から内外国種の梅・桜桃・スモモ・アンズ・リンゴなどを移植させる。・開拓使の土木
すい ば ら
請負人/札幌の水原寅蔵(1818.2.5-99)は、後の中島遊園地付近に北海道における民間第一号の果樹園を造成し、米国から輸入したリンゴ・ナ
シ・その他の果樹を栽植。特にリンゴは美味で「水原リンゴ」として好評を博した。明治 20 年刊行の『札幌繁栄図録』に、「水原林檎園」の図が掲
載されている[110]。
・四月、サンフランシスコ駐在領事/高木三郎(1841-1909 ,わが国生糸直輸出の先覚者, 1872.2-80.5 駐米)は、オレンジ・レモン・イチゴ・ホップ
等の種苗を勧業寮に送付する[果樹農業発達史 14 ・日本柑橘圖譜 116]。
・明治 7 年から同 8 年にかけて田中諭一郎氏は、元台北帝国大学果樹園に栽培された柑橘の潰瘍病の被害を調査したところ、(1)被害大なる
もの(枝・葉・果実を侵す): Swangi ・ Lime ・ Kao pan ・ Marsh(レモン)・ Duncan(レモン)・枳穀・ Rusk Citrange 。(2)被害中庸のもの(枝・葉を侵し、
時には果実にも被害): Villa Franca(レモン)・アマミマルブッシュカン・紅皮文旦・アマザボン・麻豆白柚・唐久文旦・宇和ポメロ・ Pink Marsh(グレ
ープフルーツ)・ Standard Sour ・南庄橙・ Eustis Limequat ・ Sampson Tangelo 。(3)被害少ないもの(葉を侵し枝條・果実を侵すこと稀なもの):田
中ベルガモット・ Eureka(レモン)・ Everblooming ・ Genoa(レモン)・ Lisbon(レモン)・ Sicily(レモン)・佛手柑・ Limettier ordinaire ・ EI Kantara ・
Rough Lemon(レモン)・晩柚・潮州文旦・江上文旦・平戸文旦・喜界島文旦・晩白柚・鳥葉柚・麻豆紅文旦・蜜柚・白柚・砂田柚・早柚・虎頭柑・
Imperial ・ Bouquet des Fleurs ・夏橙・金柑子・広東オレンジ・金九年母・ Maltese Blood ・ Surprise ・ Navalencia ・小笠原オレンジ・ Pineapple ・
Thomson Navel ・ Valencia ・八朔蜜柑・土佐旭柑。(4)被害稀なもの(稀に葉を侵し枝條・果実侵すこと殆どなし): Orenge fleshed ・ lemn ・ Sweet
lime ・ Tahiti limon ・ Kusaie limon ・ Otaheite orange ・ヒメレモン・ Ponderosa ・本田文旦・ Cuban shaddock ・石頭柚・田中文旦・谷川文旦・スヰ
ザモン・絹皮蜜柑・山蜜柑・海紅柑・菊代々・臭橙・座代々・鳴門蜜柑・瓢柑・ Ovate Blood ・福原オレンジ・ Lue Gong Nugget ・ Joffa ・
Mediterranean Sweet ・田中ネーブル・ Parson Brown ・ Ruby Blood ・ Washington Navel ・三寶柑・宇樹橘・大唐蜜柑・大身甘橙・旭柑・シレンボ
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柑橘栽培の歴史
ー・光春蜜柑・弓削瓢柑・山吹蜜柑・伊豫蜜柑・木酢・獅子柚・九年母・八代蜜柑・温州蜜柑・元霄柑・柑子・酸桔・大紅蜜柑・大柑子・椪柑・小
紅蜜柑・柚皮桔姫橘・四季桔・長實金柑・
homasvill Citrangquat
。(5)被害なきもの(全然侵されたるを見ず):柚・二度成蜜柑・紀州蜜柑・シークワ
け ら じ
き ん づ かん ちようじ ゆ
ねい は
ーシャー・四會柑・タチバナ・花良治・金豆柑・長 壽金柑・寧波金柑・丸金柑。以上によれば、 Swangi ・ Lime ・グレープフルーツ等は本病に弱
く、柚・タチバナ・金柑等は甚だ抵抗力強い。総括的に云えば、ザボン・レモンは弱く、寛皮柑橘の大部分は通常抵抗力強し[田中諭一郎著/日
本柑橘圖譜上巻,116]。
石油乳剤
・明治八年、石油乳剤が米国で創製される[和歌山縣の果樹 27]。・(注)石油乳剤は灯油、または軽油を石けんなどの乳化剤で水中に分散させ
た殺虫剤の一種。他の殺虫剤を加えて用いられた[国語大事典 21]。
菓樹穀菜試験場 ・明治八年、和歌山小区長/松山管吾等が、植物試験場を設け、内外各種の菓樹・穀菜の類を栽培し、土地の適否、種類の良否を試み、官民
に実例を示し、勧農の一端となさんことを請ふ。縣、之を許し和歌山区一番丁の士族邸地二千七百余坪を買入れ試験地となし、博く内外植物
を蒐集し、栽培試作して従来の植物と其の優劣を判せしむ。次て、栽培所月報を発行し、試験上著しき成績を得たるものを発表し、管内に普及
を計らしむ。即ち(明治)十年にクルシャプラント綿・菊芋・青黛草・亜麻仁(亜麻の種子)・ソソラ小麦・オベゴン小麦・赤小麦等を良種なりとして、
其の植付を勧めたる如きこれなり。(後略)[和歌山縣誌第二巻 42]。
みかん一貫三十 この年、和歌山県のみかん一箱(二貫と推定)七十八銭。本県柑橘生産量二百五万四千六百五十六貫(7,724 ㌧)、この価格八万九十二円五十
九銭
五銭。米一石の値段七円二十八銭[和歌山の柑橘
120]。
ひや く じ
と う どり
明治 9(1876)年 ・(和歌山県では)、明治九年、百事殆ど一新せさるへからさるもの機に際しけれは、其の方法を改正し、頭取・世話役等は縣より嘱任となれり。
たいせん
なお
せきじつ
即ち頭取は蜜柑方元締、世話役は荷親なるものなり。其の他、艜船・荷主代等に関する方法は猶、昔日(以前通り)の如し。然れども問屋・仲買
ようや
等は組株の制廃れ、職業の自由なりしより、 漸 く蜜柑方を分離して輸送販売せんとするもの出て、新蜜柑問屋を東京に起こし之に輸送する荷
主あるに至り、或は改良組/電信組と称え、蜜柑方に依頼せずして輸送する荷主(が)逐年輩出したりしも、其の方法(は)完全ならざりしより、往往
損失を蒙るものあり。郡の有志者、之を歎き、数派の組を統一し、従来の弊を矯正せんとし、明治十四年九月、荷主総代會議を開き、改正の手
蜜柑方會議
続きを議し、新會則を編制して其の筋の認可を得て、同年十月、議員を選挙し會議を開きたり。之を「蜜柑方會議」と称せり。此の會議により、
販売・輸送の方法を定むることとなせり[和歌山縣誌第二巻 42]。 さ つ ま
・この年から以降、温州ミカンの苗木がアメリカへ輸出される。・(注)薩摩(鹿児島)から輸出されたため、「サツマ」と呼ばれるようになる。その後、
愛知県から輸出されるようになり、「オワリ」、または「オワリサツマ」の名を得たと云う[日本柑橘圖譜 116]。
・この年、愛媛県庁に勧業課を新設[愛媛県果樹園芸史 14]。
なつだいだい
・和歌山県有田郡鳥屋城村(現/有田川町旧金屋)の片畑源左衛門が、明治九年、県勧業係の林英吉の斡旋により、山口県萩より「夏 橙 」の苗
木を購入し、上山宗十郎外、同志に配布、試作したところ成績良好であった。次いで明治二十(1887)年、有田郡田殿村の矢船傳が、兵庫県川
邊郡の久保武兵衛より、(夏橙の)苗木
1,000 本を購入して以来、(夏橙の栽培が)急に増加した。(中略)次第に日高郡に栽培が増加し、有田郡
りよう が
を凌駕した[和歌山縣の果樹 27]。
明治 10(1877)年 ・三月一日付け「朝野新聞」に、静岡県下「駿州庵原郡あたりはミカンの産地として有名だが、山原村(現/静岡市清水区山原)の一村は古来より
氷川神社の大禁物なれば、ミカンの木を1本でも植えれば熱病を発すると伝えられていた。しかし近頃、ある人が思い切って植えたところ、何の
祟りもなく良くできるので、村民が我も我もと植えはじめ、この頃では村中に大利益をもたらしている」と報じた[日本の果物受容史 110]。
・三月、内務省勧業寮御用掛の前田正名(1850-1921)が、フランスから果樹・蔬菜類・草木・良材などの種子・苗木をたずさえて 7 年ぶりに帰国。
・九月三十日、東京三田四国町の旧薩摩藩邸跡(5 万 4 千余坪)に、三田育種場(場長/前田正名)を開場し、前田正名がフランスから持ち帰った
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柑橘栽培の歴史
明治 11(1878)年
明治 12(1879)年
明治 13(1880)年
農業試作人の制
三宝柑
果樹・蔬菜類などの種子・苗木を植え付ける[明治前期 勸農事蹟輯録]。
・十一月、勧業寮は、洋種果樹苗木の有償払下げを開始[110]。
・神奈川県小田原の杉本正左衛門が十字町(現/小田原市十字)の御鐘台付近に数反歩の温州ミカン栽培を始める[神奈川柑橘史/果樹農業発
達史 14]。
・この頃から、愛媛県北宇和郡立間村(現/宇和島市,旧吉田町立間)を中心に温州ミカンの栽培が増加する[愛媛県果樹園芸連史]。
・(和歌山県那賀郡)麻生津村の坂上氏・川原村の藤田氏・田中村の堂本氏・段村の堀内仙右衛門氏らが主唱しこの年、紀之川沿岸の伊都/那
なん よ う しや
賀郡内の温州蜜柑の販売同業者団体「南陽社」を結成、船舶運賃契約のため販売総代として千田三次郎氏を東京に派遣[那賀郡誌 12-上]。
・一月二十四日、東京駒場に内務省勧業局の農学校/駒場農学校(東大農学部の前身)が開校する[東大農学部の歴史/駒場農学校]。
おやとい
・御雇外人で札幌農学校教師の米人 W . P .ブルックス(Brooks,1851-1938 )、北海道開拓使の諮問に対して(印刷されたものではないが)答申
した文書(邦文)で、初めて「剪定」という用語を用いる[青森県りんご発達史第二巻]。
・千葉県の房州ビワは、東京湾内汽船の発達により栽培面積がふえ、明治四十二(1909)年から毎年、天皇/皇后両陛下に献上されている。房州
ビワは、甲州ブドウ・紀州ミカンとともに「日本三州の名果」といわれた[110]。
・三月、(愛媛県)温泉郡持田村に勧業試験場を設置する[愛媛県果樹園芸史]。
・この年、春ごろからコレラが全国的に大流行し、年末までの患者総数は 17 万人、死者 10 万人を超える惨状きわめる。六月二十七日、「虎列
刺病予防仮規則」、七月十四日「海港虎列刺病伝染予防規則」が定められる。この年、各府県に衛生課が設置され、食品衛生担当を明示、町
村の衛生事務取扱いの組織が定められる[110]。
・六月、園芸学者/田中芳男(40 歳 1838 年 9 月 27 日-1916 年 6 月 22 日)が、長崎からビワの種子を持ち帰り、東京本郷の自宅の庭に播種。八
年後の明治二十(1887)年に結実、この中から「田中ビワ」生まれる。その後、田中ビワは千葉県の特産となる[110]。
・この年、愛媛県宇和島に夏ミカンが愛媛で初めて導入される。その後、明治十六(1883)年に西宇和郡三崎町、松山地方に導入され、特に南
予を中心に産地化される。
ま る み かん
・十二月、福羽逸人氏が紀州有田郡下に出張して踏査し、「紀州柑橘録」を著す。本書には、圓蜜柑以下、三十三品種を載せる。うち大政橘・
大名橘を除けば、何れも江戸時代から知られた品種である[日本柑橘圖譜 116]。
・七月、東京銀座3丁目の中川幸吉が、リンゴ水を売り出す。1瓶 25 銭。この他、レモン水・ミカン水・イチゴ水なども販売。・(注)果物ジュース販
売の先駆。
・九月、和歌山縣會は、農業試作人の制を決議、此の制を定め各郡区に試作人を置き、米麦其の他緊要植物の実験種子の精選法及び土壌と
の適否等を試み、其の成績を報告せしむ。試作人費五百六十円を支出し農事に老熟熱心なる農業者五十八名を選び、試作人となし費用を給
し、其の所持地に試験場を設け試作に従事せしめ、同時に種子交換会を開き互に良種を交換せしむ[和歌山縣誌第二巻
42]。
た す かわ
・和歌山県特産の「三宝柑」が、有田郡田栖川村(現/湯浅町栖原)に導入される。三宝柑の名は江戸時代、和歌山城内に1本の原木があり、毎
だ る ま か ん つぼかん
年、三宝(三方)に果物をのせて紀州候に献上したことに由来するといわれる。果物の形状から達磨柑・壺柑とも呼ばれる。当時、サンポウカンは
(紀州)藩から持出禁止のおふれが出されていたことから、通称「お止めミカン」とも呼ばれていたという。和歌山県におけるサンポウカン栽培は、
有田郡田殿村(現/有田川町田殿)の大江城平が、接穂を得て栽培し、明治十三年、有田郡田栖川村の千川安松に分譲したのが「田栖川三宝」
の起原である[和歌山縣の果樹 27]。一説には、徳川時代に海草郡(海部郡)今福村(現/和歌山市今福)の野中英方にあり、後に和歌山市新堀
の林角右衞門に移り、その後、(名草郡)東山東村木枕(現/和歌山市木枕)の上野寬一方に栽植されたという。大正時代には、海草郡は三宝の
- 25 -
柑橘栽培の歴史
明治 14(1881)年
温州ミカン神田
市場に初入荷
明治 15(1882)年
明治 16(1883)年
明治 17(1884)年
明治 18(1885)年
有名産地であったが次第に減反し、現在(昭和 41 年)は有田郡湯浅町田栖川地区が集団産地を形成している。他に田辺市周辺にも産地があ
る。他県に競合産地がなく有利な面もあるが、栽培には適地範囲がせまく、今後、特定地域以外は増植されないであろう[和歌山の柑橘 120]。
・和歌山縣有田郡で「蜜柑方」會議が設立[和歌山縣の果樹
27]。・(注)蜜柑方は、当時の蜜柑出荷組合であった[著者]。
か ん だ た ちよう
・この年、種なしミカン(温州ミカン)が、東京神田多 町 市場(秋葉原の青果市場の前身)に初入荷し、業者たちは種がないことに驚く。タネがない
ので縁起が悪いという人と、食べやすという人の二派に分かれたという。それまでは、発祥の地/九州を中心に消費されていた。神田多町市場
は、慶長年間頃に名主の河津五郎大夫が野菜市を始めたのが起源で、昭和三(1870)年まで続き、以後秋葉原駅西側に移った。・(注)現在も千
代田区に町名が残り、神田多町二丁目の東北端に、「神田青果市場開場」の地碑が建っている[日本の果物受容史
110]。
はく らい か じゆ も く ろ く
・五月、農商務省農務局育種場編「舶来果樹目録」(52 頁)、「舶来果樹.穀菜目録及繁殖・略表」(4 頁)、「舶来果樹目録付録」が有隣堂から発
刊される[110]。
きぬ が さ ご う こ く
・十一月、福羽逸人著,衣笠豪谷訂「紀州柑橘録」(127 頁,図版 40 枚)、有隣堂発刊。(注)衣笠豪谷(1850-97)は、岡山県倉敷出身の勧農局技
師。清国視察の際、天津・上海からモモの穂木を持ち帰り、岡山などの勧業試験場で栽培されたという[日本の果実受容史 110]。
・福羽逸人/著[紀州柑橘録明治 15 年刊]は、本邦在来の柑橘を詳細に調査・写生画にした。明治十二年、和歌山県に出張して実地踏査、明
センシユウ ミ カ ン
マル ミ カ ン
オホ ヒ ラ ミ カン
ナツミカン
治十五年に「紀州柑橘録」として出版されたもの。圓蜜柑(10 匁)・大平蜜柑(16 匁 ユ3 カ分)・泉
州
蜜柑(16
匁)・廬橘(果重なし、現在の夏蜜柑に非
ウ
ず)・八代蜜柑(25 匁)・福州蜜柑(17 匁)・温州蜜柑(42 匁 5 分)・紅蜜柑(22 匁)・柚柑(なし)・海紅柑(ジャガタラミカン、大果品なり)・佛手柑(115
匁)・金橘(マルキンカン 1 匁 5 分)・牛奶柑(ナガキンカン 2 匁 8 分)・唐金柑(21 匁、金柑類に非ず)・香橙(クネンボ)・回青橙(ダイダイ 60 匁)・臭
橙(カブス)・甘橙(アマダイダイ)・唐橙(タウダイダイ)・菊橙(キクダイダイ)・文旦(ウチムラサキ果径 5 寸 5 分)・柚(ユウ・ユズ)・邏柚(ハナユウ)・包橘
(マルカウジ)・平柑子(ヒラカウジ)・大柑子(ダイカウジ)・宇樹橘(ウジュキツ)・大政橘(ダイジョウキツ 125 匁)・大嚢蜜柑(オホフクロミカン 20 匁)・枸
櫞(マルブッシュカン 48 匁)・蔕高蜜柑(ホゾダカミカン 16 匁 8 分)・千年壽柑(70 匁)・大名橘(50 匁)。以上 33 種。温州蜜柑(42 匁 5 分=159.4
㌘)。・(注)色は濃黄とあるので現在の温州蜜柑と一致せぬ[果樹園芸学上巻
33]。不作年の果実か。
ずい むし
いも むし
み の む し
すすびよう
・「紀州柑橘録」にみる柑橘病害虫には、「髄虫」(天牛=カミキリ)・「烏虫」(アゲハ幼虫)・「避債虫」・「煤 病 」の四つが記されてあるのみである[同
書/和歌山縣の果樹 27]。
・明治十五年版「舶来果樹目録,農務局育種場編」にみられる輸入柑橘は、[甜橙](オレンジ=Orange,Sweet Orange(米国)・[黎檬](レモン)Lemon,
Comon Lemon(米国)・[シトロン](Citron, Bengal Citron)である[果樹園芸学上巻 33]。
・愛媛県に栽培の多い「伊豫柑」、一名「穴門蜜柑」は、明治十六年に山口県から移入されたと云う[果樹園芸学上巻
33]。
不明
・二月、武内久□稿「温州蜜柑解説 第五回農産品評会出品解説〈論説〉」[大日本農会報告]。
・八月、竹中卓郎著『舶来果樹要覧』(144 頁) 大日本農会三田育種場出版、定価 50 銭(平成 4 年 12 月、古書価格は 3 万 5 千円)。欧米より輸
入せるコモンレモン・スヰートオレンジ・シトロン等が結実したことを報ず[三田育種場刊/果樹農業発達史
14 ・日本柑橘圖譜 116]。・掲載果樹は
しようか
ぶ どう
い ち じ く
【漿果類】・葡萄
100 種、無花果 4 種、ラスプベルリー(懸鈎子〈きいちご〉の類)1
種、くろいちご 1 種、すぐり
2 種、ふさすぐり 2 種、おらんだいち
じ ん か
ざ く ろ
まるめろ
レ モン
ご 7 種。・【仁果類】苹果(をほりんご)108
種、梨
126
種、榲
3
種、メドラー
1
種、甜橙(オレンジ)1
種、黎檬
1
種、シトロン(黎檬の類)2
種、石榴
1
かつか
ゆ とう
かん か
はしばみ
く る み
種。・【核果類】櫻桃(みざくら)31
種、桃 17 種、油桃 6 種、杏(あんず)19 種、プラム(洋李)、阿利襪(オリーブ)1 種。・【乾果類】 榛 2 種、胡桃 1
へん と う
種、扁桃(アーモンド゙)[110]。
・柑橘害虫「ルビロームシ」が明治十七、八(1884-1885)年頃に長崎縣に既に発生していた模様である[和歌山縣の果樹 27]。
・蜜柑の北米輸出創始には三つの説がある。①明治十八年十一月、静岡県の業者(保田七兵衛氏)が(温州)ミカン五百箱[静岡県柑橘史では
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柑橘栽培の歴史
たけ かご
温州みかん北米 三百箱]を(北米)サンフランシスコに送ったが腐敗した。しかし容器の竹篭が珍重されて高値に売れたと云う。②和歌山県有田郡の上山英一郎
やなぎ ご う り
輸出
氏が明治二十年、除虫菊種子の交換として蜜柑の輸出を試みた。容器は 柳 行李で、容器のほうが蜜柑より高く売れたという。③明治二十二
年、(和歌山県)那賀郡の堂本秀之進・藤井孫八・藤田愛之助・堀内仙右衛門の諸氏で二千箱を輸出し、十一月、藤井孫八・千田三次郎両氏
が渡米、翌年一月帰国した。明治二十三年以来、毎年数量を増しつつ輸出したとの記録や口碑がある[和歌山縣の果樹 27 ・和歌山の柑橘
120 ・日本の果物受容史 110]。
・明治十八年、合衆国向け蜜柑輸出、全国合計 2,070 箱[北米輸出蜜柑数量表/和歌山縣の果樹 27]。・(注)みかん輸出の始まりである。
・明治二十三年、(和歌山県)伊都郡の木村錠之助・那賀郡の堂本秀之進ら三十余人を以て、伊都/那賀両郡の柑橘同業者団体[南陽社:明治
10(1877)年設立、段村の堀内爲左衛門社長]が温州みかんの北米輸出を始め、日本最初の輸出となる[桃山町史 8]。明治二十二(1889)年二千
箱、同二十三年一万六千箱を輸出した[桃山町誌 7/桃山町史 8/和歌山縣の果樹 27]。
・十二月二十二日、政府は太政官制を廃止して内閣制を採用、第一次伊藤博文内閣成立。初代農商務大臣は土佐(現/高知県)出身の谷干城
(1837-1911 年)であった[日本の果物受容史 110]。
・この頃、ミカンの液(果汁)に酒石酸の酸味を加えた「ミカン水」が新聞広告にみえる。ミカン水は洋酒と同じ扱いをうけ、値段も高価で一般に普
及するのは日清戦争後の明治 27-8 年頃であった[日本の果物受容史 110]。
・この年、柴田承桂訳『百科全書果園篇』が、東京有隣堂から発刊。・またこの頃、凶作のため各地で野草・木の芽・松葉のだんごを食用し、囚
人の食糧であった麦の搗殻を食べる者がふえ、麦の搗殻一升八厘に高騰した[前同]。
石灰ボルドー液 ・この年、フランスのボルドー大学教授/ピエール・ミラルデによって、石灰乳に硫酸銅液を加えた乳剤が葡萄の病害駆除薬として発見され、以
来、農業用殺菌剤「石灰ボルドー液」として世界各地で使用されるようになる[国語大事典 21]。
明治 19(1886)年 ・伊豫カンは明治十九年に山口県阿武郡東分村の中村正路方に発見されたが起原は不明であり偶発実生らしい[日本柑橘圖譜下巻]。・大正
伊豫カン
十(1921)年に伊予果物同業組合が道後動物園の東隅に伊予カンの導入者/三好保徳翁の頌徳碑を建てた。その碑文に「夏蜜柑は萩(現/山口
県萩市)から明治十六年に携えて帰り、(中略)さらに同二十二年再び、萩の「穴門蜜柑の穂木を求め、嫁接して苗木を育成して之を領布す。今
の伊予柑これなり」とある[愛媛県果樹園芸史 118]。
イセリヤ介殻虫 ・この年、米国南加州で「イセリヤ介殻虫」の駆除に「松脂合剤」(松脂苛性曹達合剤)が初めて用いられ、また明治四十一(1908)年、台湾でイセ
松脂合剤
リヤ介殻虫の駆除に試みられて以来、各地で応用された[和歌山縣の果樹 27]。
やなぎ ご う り
こ り
明治 20(1887)年 ・この年、(和歌山縣)有田郡の上山榮一郎氏が、除虫菊種子の交換として米国サンフランシスコへ蜜柑の輸出を試みた。容器は 柳 行李(行李
やなぎ
こう り
柳 の若枝の皮を剥ぎ乾燥させて麻糸で編んで作った行李:バスケット)で、容器のほうが蜜柑より高く売れたという[和歌山縣の果樹 27]。
し な
明治 21(1888)年 ・ヤノネ介殻虫は支那(中国)原産で、長崎縣伊木力村(現/諫早市多良見町)で初めて本虫に気付いたのが明治二十一.二年頃と云われ、明治
やの ね かい が ら む し
ま ん えん
ヤノネ介殻虫
四十年、桑名博士によって「矢根介殻虫」と命名された。その後、苗木・穂木などによって各地に伝播蔓延した。和歌山縣に於いては、大正十
二(1923)年二月、海草郡仁義村(現/海南市下津町の東部)で発見された。その伝播経路は詳でないが、穂木によって香川県から入ったとする
説と、愛知県から購入した苗木によって伝播したという説がある(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
明治 22(1889)年 ・静岡県小笠郡大池村(現/掛川市大池)の高島甚三郎氏は、明治二十一(1888)年に、義弟/安田七郎氏の斡旋で、ネーブル苗木十本を(カリフ
ネ ー ブ ル オ レ ン ォルニアから)取り寄せたが到着の際に既に枯死していた。翌(明治 22)年、更に五本を輸入し、明治 24-25 年に静岡・和歌山・兵庫・愛知の諸
ジ
県に配布したと云う[北神貢著/最新柑橘栽培書/明治 36 年刊/果樹園芸学上巻 33]。
明治 23(1890)年 ・明治 23 年、和歌山県那賀郡(安楽川村壇)の堀内仙右衛門(1844-1933 ,現/紀の川市桃山町段)、堂本秀之進(1864-1940)、藤井孫八、藤田
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柑橘栽培の歴史
明治 24(1891)年
石油乳剤
明治 25(1892)年
頃
青江早生
明治 27(1894)年
日清戦争
明治 29(1896)年
海草郡発足
蜜柑水
明治 30(1897)年
前後
石灰ボルドー液
繁之助ら温州ミカンを米国カルフォルニア州に輸出するも、彼地産のネーブルオレンジに圧倒される。このためネーブル苗 2 本を導入。彼等が
中心になってミカン直輸出会社/南陽社を設立、ミカン輸出は順調に伸びなかったが有田地方より品質劣る紀北地方のミカン農家にとって海外
市場はきわめて重要であったといわれる[村上節太郎著/柑橘栽培地域の研究(1967 年)]。
・この年(明治 23 年 47)、和歌山県那賀郡安楽川村段の堀内仙右衛門(爲左衛門 47)氏らが米国からワシントンネーブルの苗木二本を輸入、繁
殖して百合山で栽培始める。日本のネーブル栽培の先駆けとなる[和歌山縣の果樹 27]。・(注)米国のワシントンネーブルは 19 世紀初めにブラ
ジルのバイア州で「セレクタオレンジ」の枝変わりとして発生し、これをワシントンのアメリカ農務省に送り、「ワシントンネーブル」と命名され、 1873
(明治 6)年カリフォルニア州に送られ、オレンジ産業の隆盛の基礎となった[園芸植物大辞典 103]と云うから、その 17 年後にワシントンネーブル
が和歌山縣那賀郡安楽川村に入ったことになる[編者]。
たま り き ぞ う
・明治 23-24 年頃、農科大学(後の東大)教授/玉利喜造(1856-1931 年)がワシントンネーブルオレンジ(ブラジルのバイア地方原産)を日本に初め
て導入される[福羽逸人著,果樹栽培全書]。・また、明治 24 年 3 月、和歌山県那賀郡開進組の千田三次郎氏は、在米の和歌山県人/堂本譽之
進氏よりワシントンネーブル苗木 2 本を譲り受けて持ち帰り、 1 本を同郡の堀内仙右衛門氏に、他の 1 本を同郡の堂本秀之進氏に分かちたり。
堀内氏は、翌年 20 本を嫁接ぎして 11 本活着。明治 26(1893)年には堂本氏の苗木が枯死したので、堀内氏は 2 本を分譲、追年繁殖して増殖
を計れり[北神貢著,最新柑橘栽培書,明治 36 年刊]と云う。従って、我が国のワシントンネーブルは、明治 22-24 年の間に数人の手によって輸
入されたことが分かる[果樹園芸学上巻 33]。
・本邦で明治二十四年示(紹介)された石油乳剤が、以来、柑橘のイセリヤ介殻虫の駆除の駆除に用いられた[和歌山縣の果樹 27]。
・大分県津久見市青江(当時は青江村)の川野仲次氏園の普通温州の一枝が変異を起こした。それが早生温州(青江早生)の始まりである。明
治三十年十月には、宮崎勝蔵氏園で初めてキコク台木に接いだミカンが結果。宮崎氏は、この品種の有望性を村内の人に説いたが、ミカンの
研究に耳を傾ける者はおらず、下村衛十郎氏だけが賛成、「早生」と命名した。
・朝鮮進出を図る日本は、朝鮮の宗主権を主張する清国(中国)と対立、東学党の乱で清国が出兵したとき、天津条約に基づいて対抗出兵、明
治二七年七月、豊島沖海戦で戦争が開始された。日本軍は平壌・大連・旅順などで勝利を続け、翌(28)年三月までに日本陸軍は遼東半島を
完全に制圧し休戦成立。四月に講和条約(下関条約)が締結された。(日清戦争)[国語大事典 21]
・明治二十七年、(和歌山県那賀郡)安楽川村段の堀内爲左衛門氏、庭先の(ミカン)老樹にネーブルを高接し、同二十九年、初めて九果の結実
すこぶ
をみる。美果で味 頗 る佳なり[安楽川村誌 47]。
ひ かた
・四月一日、郡制の施行のため、和歌山縣名草郡・海部郡の区域をもって海草郡が発足。郡役所を宮村に設置。日方村が町制施行して日方
町となる(1 町 41 村)[角川日本地名大辞典 30 和歌山県]。
・和歌山県有田郡広村の名古屋伝八が、日清戦争(明治 27-28 年)後、温州みかんを搾汁して、「蜜柑水」と称して瓶詰工場を設立したが、殺菌
/和歌山の柑橘 120]。
・石灰ボルドー液の最初の実用は明治三十年、茨城県牛久の葡萄園で、明治三十九年頃より静岡県の温州みかんに応用され、明治四十一年
より一般に広く使用されるようになった[小島銀吉著,農用薬剤学/内田邦太・野口徳三共著/大正 14 年 1 月刊/果樹農業発達史 14]。
・この年以降、(和歌山縣那賀郡)安楽川村段の堀内爲左衛門氏ら、ネーブル苗木を年々三十万本、果実二万五千箱を収穫して各地に輸出、
世に爲左衛門氏をネーブル王と呼ぶ[昭和 8 年刊,安楽川村誌 47]。
・本邦で初めて石灰ボルドー液が用いられ、明治四十年、初めて用いられた石灰硫黄合剤は、今日(昭和 29 年現在)、なお柑橘栽培に欠くこと
の出来ないものであり、明治末期に相当量使用されたことは、[本場の柑橘/明治 45 年刊]でも窺われる[和歌山縣の果樹 27]。
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柑橘栽培の歴史
明治 32(1899)年
病害虫の輸入
明治
34(1901)年
かい よ う びよう
潰瘍 病
除虫菊乳剤
明治 35(1902)年
カイガラムシ
イセリア介殻虫
和歌山縣農會農
事試験場
明治 37(1904)年
日露戦争
・紀州人は、(温州みかんの輸出を)大陸に求め、明治 30 年頃から朝鮮・(中国)広東州に向けて輸出したと伝えられる。その数量は明らかでない
そ しやく ち
が、朝倉金彦著「蜜柑の紀州」によれば、「満州方面の輸出は、明治 38 年、大連が我が国租 借 地(相手国の合意におって他国の領土の一部
を、一定の期間を限って借りること)とななりし時、紀州那賀郡・伊都郡の輸出業者により開始せられ、現今に及び、多き年は 270 万箱以上に達
し、少なくとも 100 万(箱)を下らず。朝鮮方面は満州より尚早く、満州輸出開始の時は、既に盛ん輸出され居り、(中略)その数量は 100 万箱に達
せんとする盛況なり。」と。(後略)[和歌山の柑橘 120]。
・明治初年から欧米文化の輸入と共に果樹園芸も次第に発達したが、(柑橘の病害虫も)古くから存在したものもあるが、苗木・種子に附着して、
かい よ う びよう
明治中世(中期)に「ヤノネカイガラムシ」・「ルビロームシ」・「イセリヤカイガラムシ」・「潰瘍
病 」などの悪性病害虫が輸入せられ、各地に伝播して
しようけつ
猖獗(勢い盛んで荒れ狂う)を見た。即ち、(柑橘)潰瘍病は、明治三十二年、外国より輸入したネーブルオレンジ・グレープフルーツに発見せら
れ、ネーブルオレンジ栽培に大恐慌を来した。本(和歌山)県には、明治三十四年、那賀郡安楽川村でネーブルオレンジの苗木や枳穀に発生
をみたのが最初で、明治三十五年には有田郡に於いてもネーブルオレンジの果実に病斑をみている(後略)[和歌山縣の果樹
27]。
き こ く
かい よ う びよう
・明治三十四年、和歌山縣那賀郡安楽川村に於いてネーブルオレンジの苗木や枳穀に「柑橘潰瘍
病 」の発生を認めたのが最初で、同三十五
じ らい
年には有田郡にも果実に病斑をみている。爾来、ネーブルオレンジの栽培が盛んになるに伴い、縣下各所でネーブルオレンジや夏橙に(潰瘍
じ よ ちゆう ぎ く
病の)発生が認められるようになった。また、明治三十四年、初めて「除 虫 菊乳剤」(六液)が作られた[和歌山縣の果樹 27]。・(注)除虫菊は明治
十八年、和歌山県(有田郡)で初めて栽培され、その後全国に広まった。除虫菊の頭花を採り、乾燥したものを「除虫菊花」といい、粉末のまま殺
虫剤としても用いられた[国語大事典 21]。有機合成農薬が普及するまで虫除けの「蚊取り線香」やスプレー式の「フマキラー」・「キンチョール」
の原料でもあった。・昭和十四(1939)年十月、大阪衛生試験所の薬用植物栽培試験場を和歌山県日高郡矢田村に設置した[薬用植物資源研
究センターの歴史]。
・六月、静岡県庵原郡興津町(現/静岡市清水区)に農商務省農事試験場園芸部(園芸試験場の前身)が創られた[NARO 農研機構果樹試験場
沿革]。 カ イ ガ ラ ム シ
・イセリア介殻虫は豪州(オーストラリア)原産で明治三十五年頃、豪州から台湾へ入り、明治四十四(1911)年、九州へ、また明治四十一(1908)
年、静岡県(庵原郡)奥津町(農商務省園芸試験場)へ北米より、オレンジ・レモンの苗木に附着して輸入され、明治四十四(1911)年頃に被害が
大となった。和歌山縣では大正三(1914)年四月、有田郡田殿村船坂(現/有田川町船坂)に初めて発生をみた。また海草郡下津町小原(現/海南
市下津町小原)の柑橘園にも発生がみられた[和歌山縣の果樹 27]。
・(和歌山)縣農會設置せらるるに及び、其の施設事業の一つとして、(明治)三十五年より農事試験場を設置し、米麦菓樹蔬菜等に関する各種
の試験を施行して一般当事者の参考に供することとなせり。又海草・那賀・有田の三郡に柑橘肥料に関する試験地を置き、熱心なる当業者に
試験を委託し、柑橘肥料の改良を促すこととせり。然るに(明治)四十一年度より、縣事業としてこれが試験をなすに至りしを以て各種試験の全部
を廃して縣に移せり[和歌山縣誌第二巻 42]。
ずい むし
う ん か
めいれい
は ま き むし
つばき
・三十七年一月、(和歌山縣は)害虫駆除予防施行細則を定めて、(中略)害虫の種類を、一螟虫、二浮塵子、三螟蛉(青ムシ)、四葉巻虫、五
椿
ぞ う むし
てんぎゆう
かい が ら む し
せん せき
象虫、六天 牛 (カミキリムシ)、七介殻虫、八蛅蜥(イラムシ?)の八種となし、其の駆除予防法を示し、四十四年七月、病虫駆除予防督励員を設
置し、縣/郡の官吏及び農事試験場技術員を以て之に任じ、又警察官吏の応援は病虫駆除予防上、効果の大なるを認め、警部補を監督員と
なし、協力して作物病虫害駆除予防及び、海外輸出蜜柑検査の指導督励をなさしめたり[和歌山縣誌第二巻 42]。
・日本とロシアが、満州・朝鮮の支配権をめぐって戦争起こり、明治三十七年二月、宣戦布告。日本は旅順攻撃、奉天会戦、日本海海戦などで
勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも相続く敗退や国内の革命勃発などによって戦争終結を望むようになり、同三八年九月、
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柑橘栽培の歴史
紀州有田柑橘同
業組合
明治 38(1905)年
大陸輸出蜜柑
明治 39(1906)年
噴霧機
輸 出 蜜 柑 /硫 酸
紙個装
機械油乳剤
明治 40(1907)年
柑橘奨励保護
病害虫實地講習
/噴 霧 器 購 入 助
成
石灰ボルドー液
そ う か びよう
瘡痂 病
アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結[国語大事典]。(日露戦争)
・(和歌山県有田郡では)、郡長・有志相計り、(明治)三十七年以来、重要物産同業組合法に依り、「柑橘同業組合」を組織せんとせしが、議容
易に成らず、(同)三十八年七月に至り、栽培者四千餘人の一致を得て、初めて「紀州有田柑橘同業組合」を組織するに至たれり[和歌山縣誌第
二巻 42]。
・「紀州有田柑橘発達史」(中西英雄著/大正 15 年刊)には、「日露戦争(明治 37 年 2 月-同 38 年 9 月)以前に、(現/和歌山県)有田郡の上山英
ご けん
一氏が、安東県(朝鮮半島南部)・大連(
中国、遼東半島の南端の港湾都市)・ウラジオストック(ロシヤの極東都市)に広大な支店を建築して、五間
だい
にち ろ
大(11 ㍍)の看板を掲げて異国人の眼をひき、露国人(ロシヤ人)・支那人(清国人)は、「上山みかん」と呼んだ」とある。更に、「上山氏は、日露戦
争(明治 37-8 年)中、戒厳令下のシベリヤを(蜜柑売り込みの)旅行して捕らわれの身となるなどの危険を冒して販路開拓に腐心した」と記されて
いる[和歌山の柑橘 120]。
ウ ラ ジオ
・明治三十八年大陸輸出蜜柑数量表(全国)「浦塩(ロシヤ)向 29 万 5 千 902 貫、中華民国向 42 万 3 百 9 貫、朝鮮向 50 万 5 千 40 貫」[和歌山
縣の果樹 27]。
そ しやく ち
・明治三十八年、大連(現/中国/遼東半島の南端に近い港湾都市)が我が国の祖 借 地(他国の領土の一部を一定期間を限って借りた土地)とな
ったのを契機として、(和歌山県)那賀・伊都の輸出業者によって大陸各地への輸出が始められ、(中略)大陸進出に伴い漸次増加した。その数
量は全国生産量の 20-25 %に及び、本(和歌山)県はその 70 %以上を占めた。それは本県生産量の 50 %に当たるものであった。この大きな
市場を大戦(太平洋戦争)末期に失い、今日(昭和 41 年)なお再開の見込みがない[和歌山の柑橘 120]。
・この年、和歌山縣有田郡保田村山田原の上山英之助氏が(蜜柑園の防除に)、日本で初めて米国製サクセス型噴霧器を使用して農薬散布し
た。・(また)東兄弟商会は、輸出蜜柑(包装)に硫酸紙を使用した[和歌山縣の果樹 27]。・(注)輸出蜜柑は、その後硫酸紙で個装して箱詰めし
た。これは、何日もかかった海上輸送の途上での腐敗の伝播を防ぐためであった[著者]。
・「機械油乳剤」が明治三十九年、北米フロリダの介殻虫駆除に使用したのが始めで、本邦では大正五(1916)年に試みられた後、大正十四年、
石井博士によって奨められて以来、重要な介殻虫駆除剤として、石油乳剤に代わって廣く用いられてきた。機械油乳剤が和歌山縣で一般的に
柑橘園に用いられ始めたのは昭和に入ってからである[和歌山縣の果樹 27]。
・この年発刊の「 The Fruit Culture in Japan/池田伴親著」に掲載されたかンきつ品種「温州(サツマ/核無/李夫人/中島蜜柑)・平蜜柑・九年母・小
蜜柑・唐蜜柑・柑子蜜柑(ドロ柑子/金柑子)・紀州蜜柑(紀ノ国蜜柑)・シラワ・柚柑・八代蜜柑・エタミカン・ウスカワミカン・紅蜜柑・絹皮蜜柑・ダイト
ウ蜜柑・山蜜柑・フクレ蜜柑・桜島蜜柑・椪柑・桶柑・スイ柑・橘・ビターオレンジ(旭柑/鳴門柑/夏橙/天狗蜜柑(シゲトシ/金九年母)/伊豫蜜柑)・文
旦[山吹蜜柑(宇樹橘),文旦(ボンタン),ザボン(ジャボン,ザンポ),ジャガタラ,内紫]・金柑[丸実金柑,長実金柑]・スイートオレンジ[金九年母(朝鮮
橙),サツマオレンジ)]・その他[スダチ・柚・日向夏蜜柑]」[同書/果樹農業発達史 14]。
・(和歌山縣は)近時、農事試験場・縣農會・同業組合を監督保護して、柑橘の奨励保護をなせり。即ち縣農會に於いては技術員を派して、柑橘
に関する講習講話を開設し、栽培法の改善・病虫害の防除等を指導し、殊に(明治)四十年度より、病害虫駆除予防實地講習會を各郡に開きて
駆除予防を督励し、四十一年度より噴霧器を購入したる者に対し奨励金を交付し、以て益々病虫害の防除を奨励しつつあり。縣立農事試験場
にては、農商務省の委託を受けて、瘡痂病予防試験、介殻虫駆除試験、苗木害虫燻殺試験、定植樹害虫燻殺試験及び蜜柑輸出荷造試験を
施行し、(中略)品種試験及び肥料試験を行ひ、又苗木養成者若しは販売者、又は移植せんとする者の希望に応じ、薬品の実費及び運賃を負
担せしめて青酸瓦斯の燻蒸を行ひ、害虫の撲滅を図り、其の他技術員を各地に派して斯業の改良発展に努めつあり[和歌山縣誌第二巻 42]。
・明治四十年に和歌山縣有田郡の柑橘園で「石灰ボルドー液」が使用され、明治四十三年、海草郡下津町鰈川の高石憲治氏の柑橘園に有田
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柑橘栽培の歴史
そ う か びよう
石灰硫黄合剤
明治 41(1908)年
噴霧器購入補助
金
明治 43(1910)年
郡柑橘同業組合
和歌山縣柑橘同
業組合連合会
柑橘技術員
満鮮輸出
和歌山県有田郡
農会園芸試験場
設立
み か ん 手 取 り貫
当り一四銭-二
十銭
明治 44(1911)年
郡宮原村から石灰ボルドー液の調整・散布指導を受けて「瘡痂 病 」防除を実施したという。(また)・明治八年、米国で創製された石灰硫黄合剤
が、本邦では明治四十年、初めて用いられた[和歌山縣の果樹 27]。 しよう し ご う ざい
く ん じよう
ひようちゆう
・(和歌山縣では)明治四十一年、イセリヤア介殻虫が発見されるや、松脂合剤・青酸ガス燻蒸が実施され、また、天敵ベタリヤ 瓢 虫 (テントウム
シ)の利用が始まったのもこの時代である[和歌山縣の果樹]。
・明治四十一年、(和歌山)縣農会は、柑橘病害虫予防奨励の法を設け、柑橘を害する介殻虫及び瘡痂病等を防除するか爲に、噴霧器を購入
したる者に対し、補助金を交付しつつあり、柑橘病虫の駆除予防は著しく進歩せり。明治四十一年、縣立農事試験場を開設することとなし、海
か く りゆう と う
草郡和歌浦町鶴立島に面積四町二反七畝歩の地を相して本場を設置し、三町五反歩を以て試験地となし、専ら果樹及び園芸植物の試験を
施行せり。別に種藝部を海草郡宮村太田に置き、縣農會の試験地たりし水田九反歩を以て之に充つ。同四十四年十月、種藝部を日高郡御坊
町に移し、面積二町三畝歩を以て、普通農事に関する試験を施行せり(後略)[和歌山縣誌第二巻 42]。
・和歌山縣は、大いに同業組合設立の奨励に努めたる結果、海草・那賀・伊都の各郡にも、(柑橘同業)組合の設立を見たるを以て、更に之を結
つと
合して聯合會を組織せしむるの必要にして、(中略)勧奨斡旋に力め、明治四十三年十二月二十六日を以て(和歌山縣柑橘同業組合聯合会を)
設立せしむ[和歌山縣誌第二巻 42]。
・明治四十三年、重要農物産同業組合法の公布によって、(和歌山縣は)全国にさきがけ、伊都・那賀・海草・有田の紀北四郡に(柑橘同業)組合
が結成され、各郡自主的に運営してきたが資金もなく、事務所をもつなどは夢であって間借りするもの、組合長の自宅を事務所に充てる等で会
合等は主産地の寺院等を臨時に借りて開く有様であった。縣連合会の必要を痛感、四郡相寄り(和歌山縣柑橘同業組合)連合会を結成し、和
歌山市に事務所を設けた。大正中期から益々生産量も多くなり、その品質も向上するに従い、(和歌山縣)連合会並びに各郡同業組合は技術
ひ えき
ま ん せん
員を設置する様になり、生産者に裨益するところ大であった。此の時期迄は伊都郡・那賀郡のみが北米や満鮮(満州・朝鮮)へ輸出していたが、
いよ いよ
海草・有田(郡)も加わり輸出するようしなったので、愈々事業も活発になりその基礎をかためた。一方、縣農会との協定も出来、各郡組合には、
縣費支弁技手(設置の)恩恵を受け、愈々活発な生産指導に乗り出した。(中略)新しい病害虫も漸次増してきたが、縣立試験場の指導と相俟っ
きも い
て優品を多量に産する様になった。(中略)全国的なつながりの必要を感じ、奥津(農商務省)園芸試験場長/恩田鉄世(彌)博士の膽入りで日本
柑橘中央会連合会(組織化を)静岡・神奈川・愛媛・広島の柑橘同業組合と相謀り結成。初代会長に恩田博士を推し政治的活躍を始め、現在の
だいれん
日本園芸農業協同組合連合会・日本果樹園芸研究青年同志会(設立)の基礎的役割をなした。同業組合(和歌山)縣連合会は大連(中国、遼東
半島の南端に近い港湾都市)に販売斡旋所を設け駐在員を常駐し、その利便を組合員から感謝されたことは特筆すべきである(後略)。昭和初
期まで(温州みかんの)満鮮輸出は殆ど本縣の獨占であったが、年々生産量増加に伴ひ、日本柑橘満州國輸出組合の組織を中央大会に提出
決議して全国的統制連絡をとることに成功した(後略)。・この年、(和歌山県)有田郡農会は園芸試験場設立を決議、同四十三年、有田郡田殿
村井ノ口一三〇に、(有田郡農会)園芸試験場事務所を建設、同四十五年、(試験)圃場が開墾された[和歌山縣の果樹 27]。・(注)和歌山県果
樹園芸試験場の前身。
・(和歌山県の)みかん一箱(二貫五百匁、荷造り費含む)荷主手取りが東京・横浜送り三十五銭から四十銭。同/名古屋送り二十四銭から二十八
銭。東京への汽船(定期航海)運賃一箱当り二銭五厘-三銭。東京へ百五十万箱、名古屋へ十五万箱送る。有田郡の柑橘(生産量)五百五十七
万八千四百四十四貫。この価格六十一万八千二百八十円。米の生産額九十四万四千百六十八円。米一石の値段十三円二十七銭[和歌山の
柑橘 120]。・和歌山県に於ける「日向夏」は、明治四十三年、(有田郡農会)園芸試験場設置当時、朝倉金彦場長により高知県(長岡郡)新改村
利親(現/土佐山田町新改)より苗木二百本を導入したのが始まりである[和歌山の柑橘 120]。
(和歌山縣柑橘同業組合聯合会は)、爾来、著著事業の進捗を企て各同業組合の事業を統一し、肥料・栽培の改良・剪定法の普及・販路の拡
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柑橘栽培の歴史
輸出柑橘検査
じ ゆ し びよう
樹脂 病
明治 45(1912)年
全国柑橘大会
すす びよう
と ら ふ びよう
煤 病 ・ 虎すそぐされびよう
斑病・
落葉病・裾
腐病
みの む し
天 牛 ・ 蓑 あぶらむし
虫・柑
穿
葉虫・蚜 虫・
あか だ に
赤壁蝨
大正元(1912)年
大正 2(1913)年
張・販売法の改善・其の他各般の事業を執行し、明治四十四年度よりは本縣指定の条件に基づき、海外輸出柑橘の検査を励行するに至れり。
其の方法は、米国輸出品に在りては、山(園地)検査・選果(場)検査・及び荷造り検査の三種に分かち施行し、之に合格せざるもの輸出を禁じ、
う ら じお
満鮮・浦鹽(浦塩斯徳=ウラジオストック、ロシア連邦シベリア南東部の日本海に面した港湾都市)方面の輸出品は當方荷造り検査のみを施行
し、爾来之が検査を続行し、益々品質の改良と販路拡張を図りつつあり。縣は(明治)四十五年度より、金一千円を支給して本検査及び病虫害
の防除を励行せしめつつあり[和歌山縣誌第二巻 42]。
・この年、田中長三郎氏の「日本柑橘圖譜」、稿成るも未出版。その中に記載された品種名を列挙すると、「カブス・ザグイダイ・キクカブス・キク
ダイダイ・イマカブス・シマダイダイ・ Bouquet des Flcurs ・カントウ・スイカム・ Jaffa ・ Homosassa ・ Mediterranetan Sweet ・ St. Michael ・ Valencia
Late ・ Washington Navel ・ Thompson Navele ・ Maltese Blood ・ Ruby Blood ・金柑子・穴門・鳴門・唐橙・三寶・夏橙・絹皮・虎頭柑・瓢柑・天狗・
山蜜柑・夏朱欒・ジャガタラ・生葉印文旦・文旦一品・早生柚子・晩生柚子・ユズ・ハナユ・日向夏蜜柑・宇樹橘・川端・オホユ・小蜜柑(大平・肥
後・蔕高)・温州蜜柑(早生・尾張・池田・菊)・八代・地蜜柑・九年母・大紅(赤蜜柑・赤ツラ・長崎)・小紅・大柑子(澤野紅蜜柑・立花伯朱橘)・桶柑・
柑子(平柑子・丸柑子)・川筋・喜界蜜柑・椪柑・夏蜜柑・寧波金柑・唐金柑・手佛手柑・レモン一品」[田中長三郎稿/日本柑橘圖譜/田中諭一郎
氏所有 116]。
じ ゆ し びよう
ご む びよう
・柑橘の樹脂 病 は、柑橘(樹)の一部から樹脂を分泌する病害を護謨 病 と呼んでいたが、これが発生は明治四十四年大分県で、また大正十五
年愛媛県(で発生した)という。和歌山縣に於ける発見は不詳であるが、大正末期から昭和初期には各地で被害がみられ、昭和六(1931)年、縣
下百余町歩に(発生)、殊に伊都・那賀郡に多く、海草・有田郡にも稀にみる激甚な被害を蒙った[和歌山縣の果樹 27]。 ほ う ぎ よ
・この年、和歌山県に於いて全国柑橘中央會第一回大會が開催された[和歌山縣の果樹 27]。・七月三十日、明治天皇崩御。「大正」に改元[国
語大事典]。
そ う か びよう
すすびよう
と ら ふ びよう
すそぐされびよう
・この年刊行された「本場の柑橘」には、(柑橘の)病害として「瘡痂
病
」・「煤
病
」・「虎斑
病
」・「落葉病」(仮名)・「裾
腐 病」(仮名)を挙げ、「虎斑
あぶらむし
そ う か びよう
病」・「落葉病」の両病原因不明、「煤病」は介殻虫及び蚜 虫の駆除によって救い、「瘡痂 病 」には三-四斗式ボルドー液を開花十日前一回、落
花後、果の小豆粒の大きさの時、一回散布すること、又その他石灰硫黄合剤十五倍液を使用するものありと記し、害虫としては介殻虫(イセリヤ
みの むし
あぶらむし
あか だ に
かいがらむし
は幸いにして未だ発見せられず)、「天牛」・「蓑虫」・「柑穿葉虫」(エカキムシのことならん、筆者注)・「蚜
虫」・「赤壁蝨」を挙げ、「介殻虫」には青
く ん じよう ほ う
あか だ に
そ ー だ い お う ご う ざい
さい らん
ほ さ つ げい
酸ガス燻蒸法・石油乳剤(冬五-七倍、春夏秋十-十五倍)・赤壁蝨には石油乳剤・曹達硫黄合剤(六十-七十倍)・天牛は採卵及び成虫捕殺・鯨
ゆ
油乳剤(三十倍液を虫孔に灌注するものあり)など、駆除予防法を示している「同書/和歌山縣の果樹 27]。
・明治時代の肥料「明治 20 年頃までの肥料は、厩肥・堆肥・人糞尿・草肥などの他、販売肥料として魚肥・油粕・米糠、などが使用された。明治
30 年頃から大豆粕・硫安・燐鉱石等の輸入が激増するとともに、国内でも人造肥料の製造が盛んになり、明治末には魚粕などの使用が減少し
た[明治園芸史第 8 編/果樹農業発達史 14]。
・大正元年、和歌山縣(有田郡田殿村)の園芸試験場で青酸ガス燻蒸試験を実施した。・この年、和歌山縣有田郡農会園芸試験場は縣に移管
され、和歌山縣農事試験場園芸部となり、朝倉金彦技師が部長となる[和歌山縣の果樹 27]。
・大正元年生産種別(柑橘抜粋)「普通蜜柑三百三十万九十八貫、温州蜜柑八百二十三万二千八百七十九貫、夏橙百六十九万五千二百五十
二貫、八ツ代柑百七十一万八千九百三貫、柑子四十八万一千六十五貫、金柑三十二万八千四百五十三貫、ネーブルオレンジ二十九万九千
七百六十四貫、其他ノ柑橘十六万六千七百十六貫」[和歌山縣誌第二巻 42]。・(注)普通蜜柑は、紀州蜜柑のことか。
・大正二年、米国フロリダで潰瘍病が研究された結果、日本より輸入されたものであるとして、大正六(1917)年、米国では(日本から)果実の輸入
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柑橘栽培の歴史
大正 3(1914)年
青酸ガス燻蒸
イセリヤ介殻虫
天敵/ベタリヤ瓢
虫利用
索道架設
大正 5(1916)年
機械油乳剤
大正 6(1917)年
大 正 7- 8( 19181919)年頃
手押噴霧器
大正 9(1920)年
大正 10(1921)年
硫酸ニコチン
松脂合剤
大正 12(1923)年
ヤノネ介殻虫
大正 13(1924)年
落葉性病害
過肥障害
を禁止し、現在(昭和 29 年)に及んでいる。昭和二十八(1953)年十二月、(米国の)フルトン博士が輸入再開の下準備のため日本の温州みかん
の潰瘍病調査に来朝した[和歌山縣の果樹 27]。
かいがらむし
・大正三(1914)年、(和歌山縣有田郡)田殿村船坂でイセリヤ介殻虫が発生、柑橘(樹)の伐採・焼却、青酸ガス燻蒸が行われた。イセリヤ介殻虫
ひようちゆう
は米国加洲で発生したとき駆除研究に力を尽くし、明治三十一年頃、昆虫学者/ケーベル氏を豪州に派遣し天敵/ベタリヤ瓢 虫(テントウムシ)を
発見、この利用によってイセリヤ介殻虫の駆除に著しい効果をあげた。本邦でも、台湾でイセリヤが発生したとき、素木博士によってベタリヤ瓢
虫を輸入して成功した。静岡・和歌山でもこれが応用され、田殿(有田郡田殿村)の園芸試験場では、大正四(1915)年、ベタリヤ瓢虫の飼育・配
布を開始した[和歌山縣の果樹 27]。
・この年、(和歌山県那賀郡)奥安楽川村善田の増田長三郎氏らが奥安楽川索道株式会社を設立、黒川-善田-竹房-打田の約 16 ㎞に索道を架設、
農産物、肥料、食糧の輸送始める[桃山町誌 7]。
しよう し ご う ざい しよう し か せいそー だ
・静岡県の井上侯爵の柑橘園でルビロームシの駆除に、松脂合剤(松脂苛性曹達合剤)が試みられて以来、各地で応用せられ、和歌山縣では
ろ う むし
大正十(1921)年から使用され始めたと考えられ、今日(昭和 29 年)、なお介殻虫、殊にルビー蠟虫の駆除に必要欠くべからざるものとなってい
る。大正時代は自家調合品であったが、今日のような市販品は昭和八(1933)年頃からである[和歌山縣の果樹 27]。
・本邦で(柑橘害虫の防除に)機械油乳剤が大正五年に試みられた後、大正十四年、石井博士によって奨められて以来、重要な介殻虫駆除剤
として石油乳剤に代わって廣く用いられてきた。機械油乳剤が本(和歌山)縣で一般的に柑橘園に用いられ始めたのは昭和に入ってからであ
る。・機械油乳剤は明治三十九(1906)年、北米フロリダの介殻虫駆除に使用したのが始めである[和歌山縣の果樹 27]。
・この年、静岡県よ清水市の多喜六次郎氏によって石灰硫黄合剤を高圧釜で処理する新製法が発明される
[果樹農業発達史 14]。
の う づ
・大分県南海郡米水津村(現/佐伯市米水津)の小林春夫氏が、栽培者三人共同で牛田式の手押噴霧器を購入し、松脂合剤・硫黄合剤をみか
ん園に散布し始めた。ホースが短く能率は低かったが病害虫被害が少なくなり、付近の栽培者に急速に普及した[水津村柑橘研究会長/小林一
八氏談/果樹農業発達史 14]。
・和歌山県那賀郡内でこの年の温州蜜柑作付け面積は「川原村 248 町 8 反、麻生津村 244 町 8 反、奥安楽川村 229 町、上名手村 192 町、
龍門村 125 町 2 反、粉河町 99 町 5 反、田中村 69 町、安楽川村 23 町など」[那賀郡誌上 12]。
・四月、農商務省農事試験場園芸部が農林省園芸試験場として独立[NARO 農研機構果樹試験場沿革]。
・「硫酸ニコチン」が本邦に大正十年頃に輸入され、静岡県で梨に使用したのが最初といい、今(昭和 29 年)、なお「ブラックリーフ 40 」は、エカ
キムシ駆除剤として柑橘苗木養成に欠くことのできない薬剤となっている。「松脂合剤」は、和歌山縣では大正十(1921)年頃から使用され始めた
と考えられ、今日(昭和 29 年)尚介殻虫、殊に「ルビー蠟虫」の駆除に必要欠くべからざるものとなっている。大正時代は自家調整品であった
が、市販品は昭和八(1933)年頃からである[和歌山縣の果樹
27]。
じん ぎ
・三月、柑橘の「ヤノネ介殻虫」が(和歌山縣)海草郡仁義村(現/海南市下津町の東部)で発見された。その伝播経路は詳らかでないが、穂木に
よって香川県から入ったとする説と、愛知県から購入した苗木によって伝播したという説があるという。・(注)ヤノネ介殻虫は支那の原産で長崎縣
伊木力村で初めて本虫に気付いたのが明治二十一、二年頃といわれる[和歌山縣の果樹 27]。
・この頃から(和歌山縣)有田郡箕島町の一部柑橘園に原因不明の落葉性病害が発生した。原因不明のまま、ヴァイラス(ウイルス)の名が付せら
れた。小林源次氏(キング除虫菊株式会社研究室主任)が、種々の原因対策を講じられた。病徴は老幼木を問わず発生し、九、十月頃、葉の表
面に褐色の小点を生じ、遂には全葉が褐色に変じて落葉する。当時、縣下に被害が多かったようであるが、堆厩肥の施用・石灰施用・燐酸加
里の補給などによって、被害も漸次回復した。今からすれば、加里欠乏に近いものであったかも知れない[和歌山縣の果樹 27]。・この年、日本
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柑橘栽培の歴史
柑橘輸出商組合、日本柑橘北米輸出同業組合設立[和歌山縣の果樹 27]。・(和歌山)みかん一箱売価一円五十銭。和歌山県柑橘栽培面積五
千五百五十二 ha 。みかん生産量千二百九十八万六千四百九十五貫(48,699 ㌧)。全柑橘千六二七万貫。有田郡箕島(駅)-東京汐留(貨物駅)
貨車運賃 10 ㌧ 76 円。米一石の値段 38 円 33 銭。静岡みかん生産量千八十七万一千二百八十六貫。愛媛みかん生産量二百八十四万六千
二百四十三貫(生産量いずれも大正 12 年)[和歌山の柑橘 120]。
・この年(和歌山県)那賀郡果物組合設立、那賀郡安楽川村段新田の薬師寺境内に事務所を置く[安楽川の桃 22]。
大正 14(1925)年 ・この年、(和歌山縣)有田郡箕島町・(同郡)宮原村の柑橘園で、「ルビロームシ」が発生した。石井博士によって機械油乳剤の散布が奨められ
ルビロームシ
た。・(注)「ルビロームシ」は、明治十七、八(1884-1885)年頃に長崎縣に既に発生していた模様で、本(和歌山)縣では大正十三年、海草郡初島
はじかみむ ら
町字里(当時は 椒 村)の國中太一氏の金柑園に発生して「アヅキムシ」と称され、立入禁止の札が掲げられて注目された。ルビロームシは大正
カイガラムシ
十一年、兵庫県から伝播発生し、この後カンキツ介殻虫の重要害虫として産地に万延する[和歌山縣の果樹 27]。
大正 15(1926)年 ・大正十五年年頃、愛媛県北宇和郡高光村高串の今城辰雄氏所有の園で村松春太郎が早生温州を選抜、「南柑早生 20 号」・「愛媛 20 号」と
南柑 20 号
呼ばれていたが、その後は「南柑 20 号」の名に統一された[愛媛県果樹園芸史 118]。・(注)・村松春太郎氏(後に愛媛県南予柑橘分場の初代
分場長)が大正十三(1924)年以来、数度にわたり愛媛県南部において温州みかんの優良系統探索を行ったところ、大正十五(1926)年に現/宇
和島市の今城辰男氏の園地で発見された系統を優秀であるとして、南予柑橘分場にちなみ、「南柑 20 号」と命名した[愛媛県庁 HP]。
昭和初期
・昭和二-三年頃、静岡県奥津中町の農水(林)省園芸試験場に海外から輸入されたビーン動力噴霧機とドイツのカールプラッツ動力噴霧機二
台が導入された[愛媛県果樹園芸史 118/果樹農業発達史 14]。
じ ゆ し びよう
樹脂 病
・大正末期から昭和初期にかけ局部的に分布していた柑橘の病害虫は、その万延激しく今日(昭和
29 年)の悪性病害虫が和歌山縣下至る所
じ ゆ し びよう
ご む びよう
に見られるようになった。(樹の)一部から樹脂を分泌する「樹脂 病 」は、「護謨 病 」と呼んでいたが、これが発生は明治四十四(1911)年、大分県
で、また大正十五年には愛媛県で発生という。和歌山縣での発見は不詳であるが、大正末期から昭和初期には各地で被害がみられ、昭和六
年縣下、殊に伊都・那賀郡に多く、海草・有田郡にも広がり、稀に見る激甚被害を蒙った[和歌山縣の果樹
27]。
すそぐされびよう
・愛媛県に於ける柑橘の「裾 腐 病」(=樹脂病)の発生は、[伊予の園芸/大正 4(1915)年]によれば、温泉郡・西宇和郡にみられている[愛媛県果
樹園芸史 118]。
昭和 2(1927)年 ・昭和二年、和歌山市日前宮境内(現/和歌山市秋月)に兵庫県から移入した庭園樹に「ルビロームシ」が寄生がみられたという。昭和時代に入
やの ね かい が ら むし
ろ う むし わた
かいがらむし こ な かい が らむ し
り、矢根介殻虫・ルビー蠟虫・綿(イセリヤ)介殻虫・粉介殻虫といったものが蔓延し、之が駆除に効果の高い青酸ガス燻蒸が広く普及した[和歌
山縣の果樹 27]。
昭和 3(1928)年 ・昭和三年、国産の動憤第 1 号機(宿谷式)が作られた[現在農業/佐藤清稿/果樹農業発達史 14]。・この年、和歌山縣農事試験場園芸部を園
国産動力噴霧機 芸分場と改称す[和歌山縣の果樹 27]。
・(和歌山縣)海草郡下津町の小川房一氏らは、昭和三-四年から青酸ガス燻蒸を励行して大いに実績を挙げられたが、全国柑橘園の介殻虫類
被害は年々その激しさを増すばかりとなった[和歌山縣の果樹
27]。
ひ さ ん せつかい
ど う おう
昭和
5(1930)年
・昭和五年、本邦で砒酸石灰が製造され、銅製剤/クボイドが製造されたのは昭和八年、銅製剤/銅王が昭和九年である。柑橘栽培で病害虫防
ひ さ ん せつかい
砒酸石灰
除技術が最も普及し、且つ病菌/害虫の研究も最も進歩した時代である[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和五年、和歌山縣購買販賣組合聯合会が組織され、農業生産資材並びに農村生活必需品の購買事業を主に、農林産物の販売事業を兼
ねて経営していたが、昭和初期に中央で全購連会長を中心に産青連と呼応して猛烈な産組イデオロギーに依る産組拡充運動起こり、本縣に
が す く ん じよう
一斉瓦斯燻蒸
おいても、(中略)昭和十一年果実の販売を試みる事となり、(海草郡)賀茂村出身の岡持貞輔氏が専務理事となり、(那賀郡)上名手村出身/平山
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柑橘栽培の歴史
温州みかん満州
輸出
昭和 6(1931)年
昭和 7(1932)年
昭和 8(1933)年
果實生産者手取
昭和 9(1934)年
昭和 10(1935)年
昭和 11(1936)年
温州みかん協定
品種
温州みかん古木
発 見 /樹 齢 300
年以上
静馬氏が其の販売主任となって内地は勿論、北海道、満鮮に手を延ばし外地に駐在員を派遣する等、同組合や縣農会と同種の事業をするよ
そうこく
うになった。この爲、両者の事業面の相剋(争い)は、当時産組で此の率下に入り多量販売したのは伊都郡見好村・那賀郡麻生津村・上名手村
・龍門村、海草郡(では)賀茂村・東野上町等であった。(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
・(和歌山縣における温州みかん)満州輸出は、昭和五年頃から(同)十六年頃までは、(和歌山縣柑橘)同業組合の全盛期と云うべく、会長/吉益
ただ ま さ
や
匡賢(那賀郡)・副会長/成川善太郎(箕島町)・木村寬一郎氏(笠田町)等の業界指導も亦目覚ましきものであった。中でも昭和十二(1937)年、矢
ね かい が ら むし
が す く ん じよう
の根介殻虫の発生著しくなるや(和歌山縣柑橘同業組合から)縣に陳情、当時七十万円の補助を得て、県令に依る(柑橘園の)一斉瓦斯燻蒸を
し こう
施行したのは大事業であった。昭和十一(1936)年より産業組合は資金にものをいはせ、「購買と販売は一体なり」とし、果実の販売を企て、産組
(産業組合)に依る共撰共販の旗印のもと、内地は勿論、満鮮(輸出)にも手を広げ、縣農会の指導する出荷組合(と)、(柑橘)同業組合の満鮮輸
たま たま
出と正面衝突するようになり、偶々(柑橘)同業組合で起こった北米輸出権の生産者獲得運動起こるや、揉みに揉んで産組(柑橘同業組合)の割
り込みとなり、産組法に依る日本柑橘販売組合連合会を組織し、ここで手を握り、会長に千石興太郎、専務理事に成川善太郎(本縣出身)が当
選して支障なく運営されるに至った。斯くして三十五年間に幾多の功績を残し昭和十九(1944)年、農業会に吸収された[和歌山縣の果樹 27]。
・日本柑橘中華民国輸出組合設立、和歌山市に事務所置く[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和七年末の青森県下の動力噴霧機台数は三十九台で、米国式よりも島式等の国産の方が多く、昭和十二年末では九千九百四十六台とな
った[京都園芸二十輯/果樹農業発達史 14]。
・昭和八年(和歌山縣)果實生産者手取(貫当り?)「那賀/温州 251 円・日高/温州 290 円・日高/夏柑 170 円・那賀/ネーブル 431 円・日高/ネーブ
ル 610 円・日高/三寶 260 円・日高/紀州蜜柑 210 円・日高/レモン 650 円・日高/バレンシヤ 900 円・那賀/富有柿 565 円。註)那賀は一組合の總
平均、日高は一組合の大体最上のものを以て調査、いずれも農家の正味手取である」[和歌山縣の果樹 27]。
・和歌山縣に於ける蜜柑生産量と全輸出量「昭和 8 年 21,083.127 」
・この年、全国柑橘栽培面積(反)「温州蜜柑 31,629.2(3.09%)・早生温州 1,239.9(2.87%)・ネーブルオレンジ 2,80.9(4.81%)・夏橙 4,534.8(10.47%)
・協定外種類品種 999.6(2.31%)・その他 2,791.3(6.45%)・總計 43,275.7(100%)。協定外種類品種は、紀州蜜柑・八代・日向夏蜜柑・文旦・金柑・
鳴門・伊豫・柚等であった」[果樹園芸学上巻 33]。
・静岡県より、ソビエト/ロシヤへ温州みかん四万箱輸出[和歌山縣の果樹 27]。
・愛媛県では七月二十八、九日、県農会主催の技術員研究会が開かれ、(中略)、本県の主要農作物の種類・品種について提案され、果樹の
種類・品種について、(中略)、本県の気候・風土からみて、これらは良いというものに協定する必要があるとなった。その後、研究討議を重ね、次
のような品種を選抜・協定した。「◇早生温州:系統により各種の事情を異にするも、宮川、最も認められ、井関これに次ぎ、松本、鈴木等、着眼
さる。◇温州:尾張系中で更に良系を選ぶを要す。◇夏橙:豊産・栽培容易・生産費少なし。◇伊予柑:耐寒性弱きも豊産なり。色沢良好且つ
しよう え き
奬液(果汁)多きものの生産に勉むべし。◇レモン:リスボン・ビラフランカ両種の成績あがりつつあり。耐寒性極めて弱きものなれば、冬季温暖地
を選び栽培すべし」[愛媛県果樹園芸史 118]。
・昭和十一年に鹿児島県果樹試験場技師/岡田康雄氏が鹿児島出水郡東長島村鷹巣(現/長島町)の山崎司氏の畑地で、樹齢 300 年以上と推
定される温州みかんの古木を発見した。その樹は接木しているので岡田氏は、先代があったと思われるとの記録を残している[果樹農業発達史
14]。・(注)樹齢 300 年以上とみると、寛永 13(1636)年以前の植付けとみられる[編者]。・また、岡田氏は出水郡下で樹齢 100 年、 120 年、 150
年の古木も同時に発見し、それらと対比して樹齢 300 年と推定している。その木は幹周 180 ㌢、樹高 7 ㍍の巨木であったが、原木は惜しくも太
平洋戦争で枯死した。しかし、その側に原木から接木した 3 代目(岡田氏発見の古木は 2 代目)が育っている[和歌山のミカン/昭和 43 年 3 月
- 35 -
柑橘栽培の歴史
毎日新聞社発行]という。・(注)3 代目の樹は、最近農林水産省果樹試験場カンキツ部で DNA 鑑定の結果、遺伝子が「九年母」に似ているとい
う[同試験場研究成果情報]。
あ ぜ
たま たま
あ えん い お う ご う ざい
やの ね か い が ら むし
・昭和十一年、(和歌山縣)有田郡田栖川村の阿瀬亀太郎氏は、偶々石灰硫黄合剤に硫酸亜鉛を加用した「亜鉛硫黄合剤」が矢根介殻虫に効
やの ね か い が ら むし
果のあることを発見し、昭和四十年頃から一般に広く用いられた。矢根介殻虫のふ化幼虫の殺滅と寄生防止の効果顕著で、樹勢を強化する作
やの ね か いが ら むし
用もあって、今日(昭和 29 年)は重宝な矢根介殻虫駆除剤として使用が続けられている[和歌山縣の果樹
27]。
う く もり
昭和 12(1937)年 ・この年、愛媛県松山市太山寺町の鵜久森丑太郎氏が普通温州(尾張温州)の枝変わりを発見、園内で高接ぎして青江早生・井関早生・宮川
松山早生
早生と比較検討していた。(愛媛県)果樹試験場で特性を調査した結果、優秀性が認められたので園主にすすめて、昭和 26(1951)年農林省に
(品種登録を)申請し、昭和 28 年 6 月 4 日付けで種苗登録された。登録番号第 57 号。種類名:かんきつ。登録品種名:松山早生[農林省告示
370 号/愛媛県果樹園芸史]。
昭和 13(1938)年 ・三月、青森県南津軽郡藤崎町に農林省園芸試験場東北支場設置=>1961 年 12 月盛岡市へ移転、盛岡支場と改称[NARO 農研機構果樹試
験場沿革]。
・この年の柑橘生産量「【蜜柑類】全国 93,238,840 貫,32,891,318 円。うち静岡県 18,204,216 貫・和歌山県 15,910,961 貫・神奈川県 9,791,976 貫
・愛媛県 8,493,011 貫・広島県 5,917,696 貫・大阪府 5,245,849 貫・大分県 3,836,636 貫・熊本県 3,720,107 貫・鹿児島県 2,887,097 貫・山口県
2,363,726 貫。【ネーブルオレンジ】全国 5,532,580 貫・和歌山県 1,974,693 貫・広島県 853,023 貫・愛媛県 579,154 貫・静岡県 42,201 貫・福岡
県 228,745 貫。【夏橙】全国 22,797,985 貫・愛媛県 5,769,963 貫・和歌山県 4,538,491 貫・山口県 3,525,077 貫・静岡県 1,837,611 貫・三重県
797,750 貫・福岡県 699,496 貫・大分県 640,108 貫・鹿児島県 637,066 貫。【柑橘類總計】 128,021,505 貫,40,591,865 円。【全国柑橘輸出】生果
(単位 100 斤=60 ㎏)668,827 、 4,390,890 円・缶詰 386,720 、 7,163,832 円。生果の輸出先は 70%が中国、 30%は米国及びカナダ。缶詰は温州
蜜柑で 60%以上は英国、その他は米国及びカナダ。他に代々類はマーマレード原料としてカナダ地方に輸出されている」[昭和 13 年農林統
計/果樹園芸学上巻 33]。
・二月、本会(和歌山縣産業組合連合会)は和歌山市中之島に醤油醸造工場と
を併設、本縣果実加工の草分けとなり、幾多の功
績を残して昭和十九(1944)年四月、農業会に合併して終幕した[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和十三年、県令を以て三年計画によるヤノネ介殻虫防除の青酸ガス燻蒸が一斉に行われた。百一市町村(延べ)五千七百五十町歩にわた
って一万二千七百九十張の天幕を使用して(大部分ポット法、一部ホドジャン法(青酸石灰)一斉(ガス)燻蒸を施行した[和歌山縣の果樹
27]。
かんづめ
も ほう
かに かんづめ
昭和 14(1939)年 ・我が国の
み かんかんづめ
どくとく
かつ ぽ
つとしてなかった。(しかし)
へい そ く
につ し ん せん そ う
和歌山縣に於いては、日清戦争(明治 27-8 年)後、有田郡廣村(現
さ く じゆう
/有田郡広川町広)の名古尾傳八氏が蜜柑を搾 汁 して蜜柑水と称し、びん詰となす工場を設立した(之は大坂に出荷したが殺菌不十分で夏季
にびんの破裂が生じ遂に事業を中止したと言われる)。昭和十四(1939
かん よ ん ダース
1945 年)後は、(有田郡)湯浅(町)の有田食品株式会社・(伊都郡)笠田町の紀州食品株式
み かんかんづめ
・和歌山縣経済農業協同組合聯合会中之島工場
輸出によって支えられているのを特色とす
しよう ゆ じよう ぞ う
る。(中略)、縣下随一(規模)の中之島工場は、和経連の前身たる縣産業組合連合会の当時、(中略)昭和十二(1937)年八月、(醤油)醸造工場建
1938)年一月七日竣工、同十五日より操業開始し
はこ
たけのこ は く と う
亜鉛硫黄合剤
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柑橘栽培の歴史
昭和 15(1940)年
米穀強制出荷令
昭和 16(1941)年
昭和 17(1942)年
昭和 18(1943)年
果樹園転作令
昭和 19(1944)年
農業会法
公定価格
こ う はい
果樹園荒廃
昭和 20(1945)年
日本果実協會
昭和 22(1947)年
動力噴霧機
果樹振興策
天牛の捕殺
天幕購入
無病地帯設定
電化施設
(東京/
/京阪神市場)[和歌山縣の果樹 27]。・(注)和歌山縣経済
農業協同組合加工場は、昭和 49(1974)年 11 月、那賀郡桃山町の農村地域工業導入計画の一環として桃山町調月に桃山食品工場を誘致に
呼応し、同連合会は「
JOIN ジュース」工場を竣工、(温州ミカンのジュース工場)操業を開始した[桃山町誌/桃山 50 年の歩み 46]。
よ な い みつ ま さ
・四月十日、米内光政内閣が米穀強制出荷令を発動、農家に米穀増産を要求する。よって、果樹園は稲作/麦作に転換させられ、蜜柑・桑・柿
・桃等の樹園地も可能な限り麦作に転換させられる[日本史年表 103]。
・(佐賀県)東松浦郡玉島村平原(現/浜玉町平原)で、佐賀県内で初めて動力噴霧機を導入し、みかんの病害虫防除を楽にした[玉島蜜柑発達
史/果樹農業発達史 14]。
・この年、和歌山縣農事試験場園芸分場(有田郡田殿村)は和歌山縣柑橘試験場として独立する。同試験場長に安藤千代蔵技師着任[和歌山
縣の果樹 27]。
か く う ね ばつかぶ
・農林省で果樹園整理計画がたてられ、予備費を以て追加予算計上。果樹園整理は 4,000 町歩(反当補助金 190 円)、隔畦抜株 7,000 町歩(反
当 95 円)、合計補助金 14,250,000 千円となり、これにより府県は町村を通じて果樹農家に食糧増産のため「果樹園転作令」が出された[農林省特
産課 25 周年誌/果樹農業発達史 14]。
・昭和十九年、農業会法施行に伴い、(和歌山)縣農会・産業組合聯合会・全中央会支部・畜産聯合会・養蚕組合聯合会・柑橘同業組合聯合会
は、法の定める所に依って解体して、(和歌山)縣農業会を設立、各郡に散在する各種農業団体は縣農業会の支部として発足した。町村の団体
も、これに同調して町村農業会を組織し、出資並びに負担を受け、事務系統を一つに戦時体制を確立、貯金、米麦・甘藷、青果物の統制の各
こ ん せい
法に従い協力した。この時、東隆一氏(那賀郡麻生津村)は、会長/二澤永信氏の懇請を受け青果部長に就任、全青果物の集荷統制販売に当
もんめ
たると共に、和歌山・海南・田邊・新宮の四市の青果物市場を縣農業会に吸収し、青果物の公定価格(当時は温州(蜜柑)百 匁 十二銭五厘~十
四銭)に依る配給販売を円滑に遂行して四市の台所をまかなふと共に、生産者の利便をはかって昭和二十三(1948)年、農協の設立するまで事
かつ
いつぽん や り
いつかんめ
いちもんめ
業を続けた。曾て日本一を誇った(和歌山縣の)果樹栽培面積も戦前の約七割に減少し、米麦作一本槍の農政は、果樹に一
〆の肥料、一
匁
こ う はい
の農薬すら配給なく、労力は殆ど米麦作に集中され、果樹(園)は荒廃するのみであった[和歌山縣の果樹
27]。
かつ
・(和歌山縣)農業会青果部長/東隆一氏は静岡・青森の曾て同志と會し、三縣の代表が発起となり、全国果樹産地に呼びかけ、十五府県の賛
同を得て、「日本果実協會」を創り、昭和二十一年、本縣に於いても主産地町村農業会長等が発起となって、縣農業会の反対を押し切り、(和
ふつきゆう
歌山)縣果實協会を創立した。各郡も亦同様組織し、戦争中の荒廃を復 奮 する事となった。事務所を和歌山市一番町三に置き、役員に会長/
さん か
東隆一(那賀郡麻生津村)。(副会長以下、略)氏等就任し、本縣にも蜜柑とその外の果樹と始(初)めて一体となり、全国団体の傘下に入り果樹業
界の一翼を担うこととなった。・この年和歌山縣柑橘試験場は、(再び)和歌山縣農事試験場園芸分場おなる[和歌山縣の果樹 27]。
・八月、農薬取締法が制定される[和歌山県の果樹 27]。
・十一月十九日、農業協同組合法を施行[21]。・農産種苗法が成立、種苗名称登録制度が発足した[昭和農業技術発達史 15]。
・熊本県宇土郡浦村の枝森一新氏が、羽田式2サイクルエンジン付き動力噴霧機を導入し、みかん園四十㌃で使用した。またみかん園四十㌃
に約百二十㍍の真鍮管による定置配管施設を取り付けた[枝森一新氏談/果樹農業発達史 14]。
・この年、和歌山縣の果樹振興策として実施された病害虫関係では、「抽籤付き買上げによる天牛の捕殺」・「介殻虫類駆除奨励のための(青酸
ガス燻蒸)天幕購入助成」・「防除施設の改善整備補助」・「(輸出ミカン)無病地帯の設定(助成)」などである。天牛は昭和二十三年~二十五年
よ はり
で二百七十八万余匹を捕殺し、天幕は昭和二十四年~二十六年で八千余張に対し三百五十万円の助成をなし、防除施設の改善整備として
海草郡下津町・同大崎町、有田郡糸我村、那賀郡麻生津村・龍門村・上名手村・川原村、伊都郡見好村、など一千二百町歩の電化施設の完
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柑橘栽培の歴史
昭和 23(1948)年
農業協同組合
農薬取締法
DDT ・ BHC
TEPP 剤
昭和 24(1949)年
昭和 25(1950)年
全国果樹園芸研
究大会
成をみた。昭和二十六~二十七年、無病地帯の設定では柑橘潰瘍病撲滅地帯を縣下六カ所(大崎・粉河・仁義・上名手・見好・田殿)に七十五
たん そ びよう
町歩、柿炭疸 病 六カ所(岩田・稲原・西山東・西貴志・橋本・津木)に八十町歩、梅黒星病五カ所(上南部・南部・上芳養・中芳養・新庄)に四十
町歩で、防除薬剤・動力噴霧機の購入補助に三百六十八万円を助成した。昭和二十九年度には青酸ガス燻蒸用カルチット散粉機購入に対し
三十万円を助成している。亦昭和二十二年、(日本果實協会は)待望の(温州蜜柑)カナダ輸出を再開して、外貨獲得、食糧補給の面から政府
並びに国民からの応援のもとに目的を達成した。昭和二十三年、(果樹)生産者の悩み続けた青果物統制規則並びに価格統制規則の撤廃運
動をして成功したのも、日本果實協会の大事業である(後略)[和歌山縣の果樹 27]。
・十二月、農林省園芸試験場本場は(静岡県)興津町から神奈川県中郡大野町(現/平塚市中原)へ移転、興津は東海支場と改称[NARO 果樹
試験場沿革]。・(注)農林省園芸試験場は機構改革により農林省農業技術研究所園芸部(部長/梶浦實博士)となる。
・和歌山縣の果樹栽培面積は、戦前一万千四百四十町歩を占めていたが、食糧不足と共に遂年主食への転換を余儀なくせられ、終戦直後の
昭和二十二年に於いては約五千六百三十町歩に減反した。中でも柑橘は昭和十九年には九千五百七十五町歩であったものが、終戦後漸増
したとは云え、昭和二十七年で約五千七百町歩に過ぎない面積である。・この年、和歌山縣農事試験場園芸分場(有田郡田殿村井ノ口)は、和
歌山縣果樹園芸試験場として独立する。・米国マンダリンオレンジ会社よりベネット来朝、北米(温州みかん)輸出再開す[和歌山縣の果樹 27]。
・昭和二十三年、農業協同組合法の公布によって農業会は解散し農業協同組合が設立され、連合して縣販売農業協同組合聯合会(販連)を結
成、農林産物の販売を一手に扱ふ事になった。(果樹産地は)早速、果樹農業協同組合を設立すべく準備万端を整えたが、本縣の農業協同組
じ ん ぜん
合聯合会の設立方針は、指導連・信連・購連・販連の四農協連を原則とし、他の農協を認めないとの行政的圧力があって、荏苒,(物事がのび
のびになるさま)時を過ごし事業に沈滞を来たした。(中略)、果樹産地農村はこれにては治まらず、縣(行政)と折衝を重ね、主産地町村農協によ
せつぱん
かつ
って和歌山縣果樹農業協同組合聯合会を組織し、(中略)、本縣の果樹生産・販売事業を折半し販売連としのぎを削り、曾てなく紛糾の歴史を
つくったが、縣の斡旋により機熟して発展的解消、昭和二十六年八月(和歌山縣)果実連に事業を引継ぎ(販連は)解散した。・(和歌山縣では)
DDT ・ BHC が使用されるようになり国産製造され、ドイツのシュラーダー氏合成になる有機燐剤/TEPP 剤(ニッカリン T)は、昭和二十六年に国
産化され、当時柑橘園に異常発生したアブラムシ駆除に用いられた[和歌山縣の果樹 27]。
・この年、農薬取締法が制定され、殺虫剤として砒酸鉛・砒酸石灰・砒酸鉄・除虫菊・デリス・硫酸ニコチン・マシン油・ソーダ合剤・松脂合剤・う
んか駆除油剤・青酸クロルピクリン・ DDT ・珪酸化ナトリウム。殺菌剤として硫黄亜鉛・無機銅・有機水銀・石灰硫黄合剤・硫黄・過酸化水素・ホ
ルムアデヒドが登録される。これらは戦前からの農薬であった[果樹農業発達史 14]。
・全国販売農業協同組合連合会設立。和歌山縣果樹農業協同組合連合会設立。 EPN が柑橘ダニ防除薬として輸入され広く用いられる。ルビ
ーアカヤドリコバチの飼育・配布が、那賀郡龍門村荒見の井関助三郎氏によって始められる。[和歌山縣の果樹 27]。
・三月十六日、愛媛県松山市太山寺町の鵜久森恵氏の園で発見された「鵜久森ネーブル」が品種登録される。ワシントンネーブルの枝変わり
である[農林省告示第 60 号/愛媛県果樹園芸史]。
・農薬取締法で殺虫剤に、クロールデン・メトキシクロール・ TEP ・ PDD-D ・臭化メチル、除草剤に 24-PA(24-D)が登録される[果樹農業発達史
14]。
・愛媛県における動力噴霧機の急速な普及は、昭和二十五年頃からで、メーカが互いに競い合って性能の向上、クレームの少ない機種に力を
入れ、国営検査制度とともに、農家のミカン園機械化の熱意に負うところも少なくなかった[愛媛県果樹園芸史 118/果樹農業発達史 14]。
・和歌山縣果樹園芸研究会創立。同時に、機関誌「和歌山の園芸誌」創刊。この年、柑橘園の電化施設が千二百町歩に完成した。第十二回
全国果樹園芸研究大会が和歌山縣海草郡下津町に於いて開催される[和歌山縣の果樹 27]。
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柑橘栽培の歴史
昭和 26(1951)年
定置配管式防除
共同防除
和歌山果実連発
足
かんきつ潰瘍病
無病地帯
EPN 登場
青果物容器規格
条例
夏 み か ん のジ ュ
ース・ストレート
昭和 27(1952)年
・この年、日本果実販売農業協同組合連合会が日本農産物株式会社の柑橘輸出事業一切を移譲され、貿易部を設立する[和歌山の柑橘
120]。
・昭和二十五年、ワシントンネーブルの結果不良に対応して、愛媛県松山市の「鵜久森ネーブル」が種苗登録され、各地に導入されている。ま
た、和歌山県粉河町(荒見)の「福本ネーブル」も美果優品を産する点で注目されたが、増植はあまり進んでいない[和歌山の柑橘 120]。
・昭和二十五年、大分県津久見市で選抜された「川野夏橙」が農林省で種苗登録され、酸が少なく早熟系であることから甘夏と呼ばれた。川野
夏橙はその後、熊本県田浦町を中心に集団栽培され、昭和三十五(1960)年頃には一般消費地の好評により、その増加が急速に進んだ[和歌
山の柑橘 120]。
・五月、長野県更級郡共和村麻久保(現/長野市)の果樹園に、配管式協同防除が完成し散布を始めた。これは、協同防除の全国最初のもので
ある。次いで昭和 27 年に 2 カ所が開設され、協同防除に関する各種の調査研究が開始されるようになった[農業及び園芸 2 巻 9 号,飯森三男
著果樹園に於ける病害虫協同防除の事例/果樹農業発達史 14]。
・六月二十六日、みかんの輸出検疫は大正 6 年から開始され、以来諸外国の要求の推移と我が国のかんきつ病害虫の発生状況に応じて検疫
方針も逐次改善された。昭和二十六年時点で植物防疫上の理由から、我が国のみかん輸入を禁止しているのは米国ほか七カ国で、輸入が解
禁されているのはカナダはじめ 18 カ国である。みかん輸出の検疫を整一円滑に実施するため、輸出みかん検疫要綱[26 農政局第 1051 号,昭
和 26 年 6 月 26 日付け農政局長通達]が出され、諸国への輸出みかんについては栽培地検査及び輸出検査を受けなければならないこととな
る[植物防疫関係法規/果樹農業発達史 14]。
・昭和二十六年九月二十六日、和歌山県果実農業協同組合連合会の設立総会、同年十月一日、発足した。県下の果樹界は戦後の混乱・荒
廃から未だ立ち直らず、旧果樹連・経済連の対立抗争の直後のこと、新生果実連の前途は容易ならざるものがあった(後略)[和歌山の柑橘
120]。
・昭和二十六年から 3 ヶ年継続事業として、柑橘生産主要 6 県(神奈川・静岡・和歌山・広島・徳島・愛媛)を対象に「かんきつ潰瘍病無病地帯
設置事業」を実施し、それを条件として輸入解禁の対米交渉を開始し、同 42 年の輸入解禁の実現まで絶えず(交渉を)続けた[植物防疫年鑑昭
和 30 年版/果樹農業発達史 14]。
・この年、農薬取締法で殺虫剤に、 EPNさつだ
・ルビーアカヤドリコバチ(みかん害虫ルビロー虫の天敵)、除草剤として塩素酸塩が登録される[果樹農
に ざい
業発達史 14]。 DN 乳剤が国産化され、殺蜱剤として広く用いられ、銅水銀剤が製造市販される[和歌山縣の果樹 27]。
・熊本県飽託郡河内村(現/河内芳野村)、玉名郡小天村(現/天水町)で、定置配管式防除が行われるようになった[熊本県資料/果樹農業発達史
14]。
・昭和二十六年、和歌山縣は青果物容器規格条例を制定、温州みかん用木箱・夏みかん用木箱・柿(富有柿)用木箱の容器規格を制定した。
(詳細略)[和歌山縣の果樹 27]。・(注)この頃は木箱出荷が通常で、まだ段ボール箱は普及していなかった[著者]。
こう し
・昭和 26 年夏、高砂香料株式会社日高工場で、夏みかんのジュース・ストレートの製造に成功、夏みかんジュースの嚆矢(最初)とされている。
更に同工場は、コンセントレート(濃縮物)の製造研究をすすめ、昭和 27 年 1 月にほぼ完成、同 29 年、日高郡川辺町(現/日高川町)に和歌山
県加工農業協同組合連合会(のちに南海果工農協連と改称)、同時に、高砂香料株式会社との合併により、夏みかん・温州みかんの濃縮ジュ
ース加工を行うため、南海果工株式会社を設立し今日(昭和 41 年)に至っている[和歌山の柑橘 120]。
・六月、和歌山縣は果樹振興の予算原資として縣独自の果実税制度を創設、果樹振興五ヶ年計画を策定、各種奨励事業を開始した。果実税
は(出荷団体の)出荷数量に一定額を割当て、昭和二十七年:二千百十六万六千円、同二十八年:九百五十四万六千円、同二十九年:一千七
- 39 -
柑橘栽培の歴史
百三万三千百円を徴収、一般財源と合わせて各種事業を推進した。新産地育成には(中略)優良母樹の選抜・再生母樹園の設置等をはかり、
むかいやま
う え ばやし
おき た
温州みかん母樹 温州みかんの 向 山系・上 林 系・林系・奥太系の四系統を始め、母樹園を設置して穂木の供給を行う。現在縣下に四町歩の母樹園を設置、う
園
ち二町歩は縣果樹苗木組合、二町歩は縣果実農業協同組合聯合会の管理下に経営せしめ、(中略)昭和二十七年三十万円、昭和二十九年
十五万円の助成をしている。・昭和二十七年パラチオン剤(ホリゾール)の使用(始まり)、新殺虫剤/DN 剤・ EPN ・ K-六四五一(サッピラン・オボト
合成有機農薬時 ラン・ダニラン・カーマイト)・有機硫黄殺菌剤・銅水銀剤、等々有機合成剤の輸入製造化となり、病害虫防除に一紀元を画すに至った。(中略)、
代 パ ラ チ オ ン 正に合成有機農薬の時代と云えよう[和歌山縣の果樹 27]。・(注)これら新農薬は画期的な効果を示すとともに、この後、散布者の農薬中毒や農
剤
薬事故も多く発生するようになる[著者]。
濃縮ジュース
・和歌山縣果実連合会は香港・シンガポール・マニラ・沖縄向けに梅・柑橘・梨の輸出を始める。・十一月一日、我が国最初の(柑橘)濃縮ジュー
東南アジア向け ス製造会社/南海果工工業株式会社が、日高郡矢田村の高砂香料工業株式会社日高工場を買収して設立された[和歌山縣の果樹 27]。
柑橘・梨輸出
・この年、和歌山県果実農業協同組合聯合会、東南アジア向け柑橘・梨の輸出を開始[和歌山の柑橘 120]。
昭和 28(1953)年 ・三月、熊本県宇土郡網田村(現/宇土市網田)の益谷信爾氏が、ネーブル園 70-80 ㌃に 10 ㎜パイプのみ(定置配管)約 250 ㍍設置した[果樹農
定置配管
業発達史 14]。
・和歌山縣は、果樹園芸試験場紀北分場を那賀郡粉河町中ノ才に新設、本多舜二技師が初代分場長となる。・和歌山縣下各所の早生温州・
バ イ ラ ス 性 萎 縮 及び普通温州園に「バイラス性萎縮病」の発生が確認される。・米国より、フルトン博士が本(和歌山)縣の温州みかんの潰瘍病調査に来朝した。
し んちゆう
病
・柑橘園(の防除配管)に従来の真 鍮 パイプの他に、エボナイト製、ビニール製のパイプが布設されるようになる。・(和歌山縣で)七月十八日の水
害による果樹園の流失が一〇〇町歩に達した。・十月、第一回(和歌山縣)果樹振興大会が和歌山市で開催された[和歌山縣の果樹 27]。
昭和 29(1954)年 ・三月、農林省農業技術研究所園芸部果樹科は、同研究所気象研究室と合同で桃園にて初めてスプリンクラ散水による凍霜害防止試験を実
塩化ビニル管
施。・(注)果樹園でのスプリンクラ利用は初めてである[編者]。
共同防除施設
・熊本県で、みかん病害虫防除の配管資材に塩化ビニル管が利用され始めた[熊本県農業改良普及事業 20 年の歩み/果樹農業発達史 14]。
・青森県南津軽郡浅瀬石村の農協区域内で、りんご園に定置配管防除施設を設置し、共同防除体制を確立した[青森県りんご発達史 9 巻・果
樹農業発達史 14]。
・佐賀県小城郡小城町古田の十㌶みかん園に、県内で初めてビニールパイプ埋設による共同防除施設が完成、品質向上・防除省力化に大き
な役割を果たした[小城町古田・山崎儀談/果樹農業発達史 14]。
昭和 30(1955)年 ・昭和三十年以降、(愛媛県では)成長作目としての温州ミカン園の開墾造成は実に顕著となった。(中略)、その原因の一つは、従前の手開墾か
ブルドーザ開墾 ら高能率のブルドーザの出現である。愛媛県では昭和三十五年、県農林水産開発機械公社を創設して以来、各地各方面の要請に応じて山林
原野の開墾、畑地・水田の耕起に、道路布設にと、(中略)果樹園としての開墾面積は、昭和 35 年から同 40 年までに 665.22 ㌶、うち 40 年分は
116.23 ㌶に達している[愛媛県果樹園芸史]。
昭和 32(1957)年 6 月、(和歌山県)那賀郡那賀町北涌地区に 23.7ha 、農家数 52 戸の定置配管共同防除施設が建設され、現在(昭和 41 年)30ha に達した。防
共同防除施設
除効果は、(中略)いうまでもなく、集団防除の効果、防除に要する経費が節減された[和歌山の柑橘 120]。・(注)共同防除の推進/運営には、当
時の麻生津農協の中川営農指導員が活躍した[編者]。
みかん消費宣伝 ・(和歌山県)有田柑橘農業協同組合(通称/有柑)が、(みかん消費宣伝に)初めて「みかん娘」を(出荷先市場の主要都市に派遣)実施。翌(33)年
/みかん娘
から本会(和歌山県果実農業協同組合連合会)事業として拡充実施した。京浜・阪神地方にも派遣、静岡・愛媛などの「みかん娘」・「いちご娘」
けん
と妍(優美)を競い、(童謡)「まりと殿様」・(民謡)「串本節」などの踊りが、好評を博した[和歌山の柑橘 120]。
- 40 -
柑橘栽培の歴史
和歌山県夏橙試 11 月、和歌山県は、夏橙及び晩柑類の振興を図る目的で、(日高郡)川辺町和佐に夏橙試験地を開設した。(試験)圃場は 1ha で、(昭和 41 年)
験地
現在、実施されている調査研究は、夏みかん 5 系統の現地適応性と甘夏柑の 6 系統についての選抜試験・肥培管理による果実品質改善試験
・台木試験・凍害果防止・水腐病防止試験である。また、和歌山県の夏みかん「サニー」についての 2.4.5-TE 、あるいは RP7846 などの散布に
よる減酸処理法試験も実施している[和歌山の柑橘 120]。
たち ま わ せ
昭和 33(1958)年 ・六月三十一日付けで愛媛県北宇和郡吉田町大字立間の松本喜作氏の育成した「立間早生」が品種登録される。立間早生は、当時樹齢 45 、
立間早生
6 年生の尾張温州の一枝から発生した変異種(枝変り)である。宮川早生・松山早生より果実大きく果形扁平で玉揃い良く糖分高く濃厚な風味を
もち、着色は宮川(早生)より一週間以上早く、松山早生と同程度である。ただ、本種は若干「先祖戻り」の傾向がある[農水省告示 380 号/愛媛県
果樹園芸史 118]。
潮風害防止対策 ・昭和 33 年 7 月、(和歌山県)有田市千田東で 44ha 、 55 戸を対象に、工事費 2 千 9 百 47 万円投じ、(柑橘園で初めて)潮風害の防止対策
スプリンクラ法式 に、スプリンクラ法式による共同灌水施設(全額融資事業)が設置され、同 39 年、 2ha を追加して 47ha となる(後略)[和歌山縣の果樹 27/和歌山
の柑橘 120]。・(注)当該地区は海岸線に近く、台風襲来時には度々、柑橘園に潮風害を受けてきた[編者]。
昭和 34(1959)年 ・和歌山県は全国にさきがけ、「みかん専用列車」を設定、東京に向けて「紀文号」、北海道に向けて「紀州号」を走らせる。十二月最盛期に毎
みかん専用列車 年連続して「みかん列車」が走る。その後、四国・九州にも専用列車が、みかん輸送の大動脈となっている。昭和 34 年ころから(県下の柑橘園
異常落葉
で)早春に異常落葉が集団的あるいは散在的に発生、収穫皆無に近いものが年々増加し(中略)、昭和 35 年、果樹振興対策の一環として、(中
略)柑橘栽培改善試作園を有田市(旧保田村と旧宮原村の 2 カ所)に設置し、(中略)土壌改良・地力増進対策を実施したところ成果は極めて顕
著にみられた[和歌山の柑橘 120]。・(注)この異常落葉はウイルス原因説を称える研究者も居たが、肥料研究者により化学肥料多用による過肥
障害と判明、少肥栽培で回復することが実証された。昭和三十年代はミカンの売れ行き良く、科学肥料が安く出回り、 10a 当り施肥量がチッ素
成分で 20-40 ㎏にも達しているミカン園が多かった[編者]。
構造改善事業
・和歌山県那賀郡粉河町龍門地区が農林省の構造改善事業パイロット地区として昭和三十三年に指定を受け、同三十八年度かけて、傾斜地
ミカン園約 2 百㌶の畑地潅漑施設・農道の新設整備 3 万 6 千 6 百 70 ㍍・柑橘総合選果場の整備・ハッサク低温貯蔵庫新設六棟(貯蔵量 798
朝日農業賞
㌧)・ 153 ㌶の水田カンキツ園転換等の整備事業を実施した。その成果が評価され昭和三十九年、朝日農業賞を受けた[和歌山の柑橘 120]。
・(注)この事業計画は、粉河町産業課と龍門地区担当であった那賀東部農業普及所が当り、粉河町から遠賀産業課長・産業課山本主任・普及
所の山下改良普及員が計画事務局員として連日連夜、龍門農協二階に事務所を構え事業原案を策定した。大型共同の低温貯蔵庫建設は初
めてのことで他府県の事例等を視察に出かけて参考にした。低温貯蔵庫は道路事情と選果場に近い所に一カ所に纏めて建設する計画をたて
たものの各部落から異論が出て、結局 6 カ所に各 1 棟を分散設置することとなった。事業が概ね完成すると、新聞やテレビで報道されたことか
ら、全国各地のミカン農家や関係機関・報道機関等の見学視察者が龍門地区に押しかけ、その案内に追われる毎日となった[編者]。
昭和 35(1960)年 ・この年、和歌山県果樹園芸研究会の機関誌「和歌山の園芸」を「和歌山の果樹」と改称、読者も増え、現在(昭和 41 年)、発行部数 6,000 部、
読者は県内のみならず、三重・兵庫・大阪・岐阜県をはじめとして 20 府県に及んでいる[和歌山の柑橘 120]。
昭和 36(1961)年 ・六月十二日、「農業基本法」が制定公布され、農業生産・農産物などの価格および流通、農業構造の改善、農業行政機関および農業団体、
畜 産 三 倍 ・ 果 樹 農政審議会などについて規定する[Wikipedia]。・(注)農林省は農業構造改善事業の推進にあたり、農家に対して「選択的拡大」を要請、「畜産
二倍
三倍・果樹二倍」のスローガンを提示した。依って蜜柑産地では、柑橘園の造成・水田の蜜柑園転換による温州ミカンの増反が急速に進んだ
[編者]。
・九月十六日日、台風 18 号が室戸岬に上陸、大阪湾岸に大きな被害を出した。第二室戸台風と呼ばれ[Wikipedia]、紀伊半島一円に大きな被
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柑橘栽培の歴史
夏みかん減酸処 害をもたらした。和歌山県の柑橘・柿等、果樹園にも落果・枝折れ等、被害が甚大となった[編者]。第二室戸台風と昭和三十八年の極東寒波に
理
よって壊滅的な被害を受けた夏みかんは、ブームから一転して悲観ムードの中に突き落とされた。その矢先、(夏みかん果実の)減酸処理問題
が議論の中心となり、昭和 38 年以来、慎重な討議を重ねた。(和歌山県における温州みかんの)水田転換による増植は、昭和三十三年は僅か
70ha(中略)、昭和 36 年を境に一躍上位に、昭和 38 年には全増植面積中 56 %に当たる 652ha を示し、(中略)、昭和 39 年、 40 年にはやや落
ち着きをみせているものの、相変わらず高い水準にある[和歌山の柑橘 120]。
丹下系ネーブル ・昭和三十六年、ネーブルの新系統として、広島県向島町の「丹下系」・昭和三十七年、静岡県三ヶ日町から「鈴木系ネーブル」が相次いで種
鈴木系ネーブル 苗登録された[和歌山の柑橘 120]。
昭和 37(1962)年 ・和歌山県有田郡の平坦地区で、水田のみかん園転換 50.4ha の集団事業が昭和三十七年度に着工、農道整備 1,503 ㍍・排水路 380 ㍍の工
水田のみかん園 事を合わせ実施しした。全園 15 ㎝の客土、植栽品種は向山系温州である。有田全郡にわたる水田転換は、有田みかんの様相を一変させしめ
転換
るものとなった。また、伊都郡かつらぎ町御所で、温州みかんを基幹とした 19 戸の完全協業形態が昭和 37 年着手された。温州みかん園 12ha
・かき 8.4ha ・うめ 2.3ha ・水田 3.0ha を出資し、新たに 27.5ha の温州みかんを新植、(中略)参加農家は月 23 日の日給月給制とし、男は 18,000
~ 20,000 円、女は 13,000 ~ 15,000 円支給される(後略)[和歌山の柑橘]。
・熊本県田浦町(現/芦北町) の山崎寅次氏の園地で、「新甘夏」がで発見される[ ]。
・佐賀県で「背負い式草刈機」が導入される[果樹農業発達史 14]。
昭和 38(1963)年 ・八月二十五日、愛媛県宇和郡吉田町立間地区で、村ぐるみで 41 社の農業法人が一斉に発足する。立間方式と呼ばれたこの法人の特長は、
立間方式農業法 ①農地法上も合法的な法人であること。②(農家の)共同化法人であり農協が中心となって村ぐるみの法人であること。③農業経営合理化を主た
人
る目標としていることであった。これまで一戸一法人で税金対策としてきた法人問題は、共同化法人による構造対策として発展し、ここに農業法
人問題の一時期を画すに至った。(後略)[愛媛県果樹園芸史 118]。
・十一月二日、和歌山県果樹園芸試験場(紀北分場)技師を命じられた編者/山下重良、柿栽培の技術改善・新しく登場した果樹園除草剤の適
低温貯蔵八朔の 応性試験等に従事、かたわら低温貯蔵八朔の「こはん症」発生環境と防止研究を実施。こはん症は果実出庫時の急激な品温上昇と環境湿度
こはん症
の低下により、発生が増え、出庫前の果実温度予措や果実のワックス処理によって軽減されることを明らかにした[園芸学会雑誌 36 巻 2 号]。
計画密植栽培
・この頃、愛媛県果樹試験場の薬師寺清司氏らが温州みかんの「計画的密植栽培」を提唱し、従来の栽植本数の数倍、つまり
10 ㌃当り 200しゆくばつ かんばつ
300 本を当初に植え付け、収穫をあげながら樹の生長に応じて順次 縮 伐・間伐していくのが経済的とする考えが広く普及してきた[愛媛県果樹
園芸史 118/編者]。
・和歌山県における昭和 38 年度果樹園経営規模別農家数割合「温州みかん農家数 18,554 戸、 50 ㌃未満 18.5 %、 50 ㌃~ 1ha45.1 %、 1
~ 2ha4.3 %、 2ha 以上 2.0 %。夏みかん農家数 12,141 戸、 50 ㌃未満 17.6 %、 50 ㌃~ 1ha46.7 %、 1 ~ 2ha34.8 %、 2ha 以上 0.9 %。果樹
全体 32,785 戸、 50 ㌃未満 63.0 %、 50 ㌃~ 1ha28.0 %、 1 ~ 2ha9.0 %。主要県別/温州みかん品種別/栽培面積割合、全国平均:早生種 18
%、普通種 82 %。和歌山県:早生種 21 %、普通種 79 %。静岡県:早生種 10 %、普通種 90 %。愛媛県:早生種 15 %、普通種 85 %。広島
県:早生種 26 %、普通種 74 %。熊本県:早生種 22 %、普通種 78 %。佐賀県:早生種 27 %、普通種 73 %。長崎県:早生種 13 %、普通種
87 %」[果樹基本統計調査/和歌山の柑橘 120]。
昭和 39(1964)年 ・四月、農林省果樹試験場は、長崎県南高来郡口之津町に口之津試験地開設=>1973 年 1 月口之津支場として発足[NARO 果樹試験場沿
革]。・(注)口之津試験地は、果樹試験場の晩生カンキツの研究拠点となる[編者]。
昭和 39 年度主産県の温州みかん生産量・生産費・労働時間・ 1 日当り家族労働報酬[39 年度農林統計/和歌山の柑橘 120]。
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柑橘栽培の歴史
昭和 40(1965)年
台風 23 号/潮風
害
昭和
41(1966)年
みや う ち い よ かん
宮内伊予柑
昭和 40(1965)年
みかん課
和歌山の夏みか
ん「サニー」
昭和 41(1966)年
昭和 42(1967)年
宮本早生発見
昭和 43(1968)年
県別
生産量(㎏/10 ㌃) 粗収益(円/10 ㌃) 第 2 次生産費(円/10 ㌃) 労働時間(10 ㌃) 家族労働報酬(円/1 日)
備考
和歌山
3,425
175,107
101,697
310.7
3,096
生産費に占める肥料
静岡
3,336
164,184
98,282
364.6
2,707
費・防除費・成園費・
愛媛
3,419
158,066
86,390
349.3
3,168
農具費は、産地間に
広島
3,106
183,418
112,632
429.9
2,776
大差はない
・ 9 月 10 日、台風 23 号が来襲、(和歌山県)有田地方では最大瞬間風速 45 ㍍を記録した。海岸線に近い柑橘園は、未曾有の潮風害を蒙っ
た。海岸線から 1 ㎞程度の幼木では枯死するものが多かった。三宝柑の集団産地(湯浅町)栖原では栽培面積 110ha のうち、落葉率 3 割以上
の被害園は 30 %、幼木園で枯死するもの多く、日高途方の夏みかんでも落果・落葉被害著しく、幼木園で枯死に至るものが続出した。被害が
甚大であった原因は、雨を伴わない台風であったため(中略)潮風害が強くでた。潮風害に比較的強いのは、普通温州と早生温州、ポンカン、
柚などであった。潮風に最も弱い品種は、夏みかん・文旦類・八朔である[和歌山の柑橘 120]。
・和歌山県における果樹園共同防除施設(主に定置配管)は温州みかん・かき・夏みかんで 16 地区、合計 323.5ha 、対象農家数 725 戸、事業
額 66,785 千円となる。一部スピードスプレヤ(橋本市市脇/かき)・スワース防除移動機(吉備町長田/温州みかん・那智勝浦町狗子ノ川/温州みか
ん)[昭和 40 年現在県みかん課調べ/和歌山の柑橘 120]。
・昭和四十一年二月、和歌山県では、(中略)、県内の関係諸機関に勤務する技術者を以て、情報及び資料交換・研究・研修会の実施・リクレー
ションの実施等を目的に、「和歌山県果樹技術者協会」を設立。初代会長/石谷敏夫(果樹園芸試験場場長)・副会長/本多舜二(県果実連顧
問)、同/宇田 擴(県みかん課長)。会員数 165 名[和歌山の柑橘 120]。 みや う ち い よ かん
・十一月十七日、愛媛県松山市平田町の宮内義正氏が発見、育成した「宮内伊予柑」が農林省に品種登録される。本品種は伊予柑の枝変わ
りである。枝変わりの時期は昭和 25(1950)年頃と推定される。果実の大きさは伊予柑に比べ、 10 ~ 40 ㌫大きく 270 ㌘内外、果皮が薄く果肉歩
合が高い。果形はやや扁平で着色は 2 週間以上早い。また紅が濃い[農林省告示第 1447 号/愛媛県果樹園芸史 118]。
・和歌山県は、昭和四十年、果樹行政を一元的に推進するため、農林部に「みかん課」を新設した。(中略)新し(夏みかんの)減酸処理方針を定
め、酸度検定を経た出荷品の愛称を、和歌山の夏みかん「サニー」と決定、昭和四十一年新春早々サニー旋風を巻き起こした。愛称の「サニ
ー」は、作家/曽野綾子先生の命名であった[和歌山の柑橘 120]。・当時、愛媛県では砒酸鉛散布によって夏みかんの減酸処理したものを「ネ
オ夏」と称して出荷していた。和歌山では砒素の人体毒性や樹に与える影響を考え、これに代わる減酸剤を県果樹園芸試験場が探索試験し、
植物ホルモン剤「 2.4.5-TE 」の減酸効果を確認し、酸度検定の合格品出荷を、和歌山の夏みかん「サニー」とし、消費市場から賞賛を浴びた
[和歌山の柑橘 120]。・新任のみかん課長は、夏みかんの販売戦略として、作家/曽野綾子氏に命名を依頼し自ら田園調布の自宅を尋ね、提
示された四つのうち、「サニー」を商標に決め、またサニーの出荷段ボール箱も、曽野さん紹介のデザイナーに新しく設計してもらった[島本淺
夫著/紀州みかんスターへの道]。・(注)2.4.5-TE は、 2.4.5 トリクロルフェノキシ酢酸イソプロピルエステルを 3.6 %含有する製剤の略称[編者]。
・この年、和歌山県那賀郡桃山町農協は総合選果場を建設[桃山町町誌 7]、各地区の小選果場を廃して一元的に集荷、選果を始める[58]。
・昭和 42(1967)年、和歌山県下津町(現/海南市下津町)の宮本喜次氏によって温州みかんの枝変わりとして「宮本早生」が発見され、昭和 56
(1981)年に品種登録された。果実扁平で樹勢は強くないが、収量性に優れ、宮川早生よりも 2-3 週間程早く成熟する。・(注)極早生品種の先駆
けであった[編者]。
・四月、農林省園芸試験場は、広島県豊田郡安芸津町に安芸津支場設置[NARO 果樹試験場沿革]。・(注)安芸津支場はカキ・ブドウ等の研究
拠点となる[編者]。
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柑橘栽培の歴史
昭和 45(1970)年 ・三月、和歌山県営桃山開拓パイロット事業完成[桃山 50 年の歩み 46]。調月里子谷に完成した調月パイロット団地 25 ㌶では、主にミカン類を
大気汚染公害
植栽[58]。
・八月二十九日、和歌山県果樹園芸試験場に、全国で初めて果樹公害研究室が新設され、果樹地帯に設置したモニタートラップ「デポジットゲ
ージ」による大気中の硫酸化合物濃度とミカン葉の SO2 含有濃度・温州ミカン落葉率は、高い相関関係のあることを指摘した[昭和 45 年度和
歌山県果樹園芸試験場試験研究成績]。・(注)当時、海南市の丸善製油所や有田市初島の東亜燃料工場に近い海草郡下津町・有田市の蜜
柑園で落葉や蜜柑の葉に褐色斑点を生じる障害が発生、大気汚染公害として問題化していた。和歌山県は、大気汚染の作物公害に詳しい名
古屋大学・三重大学の研究者に依託して原因究明をすすめていた[編者]。
昭和 48(1973)年 ・一月、農林省園芸試験場から、そ菜・花き部門を分離し果樹試験場として発足[NARO 果樹試験場沿革]。
昭和 49(1974)年 ・十一月、和歌山県那賀郡桃山町は、農村地域工業導入計画の一環として桃山町調月に和歌山県経済農協連合会桃山食品工場を誘致、竣
JOIN ジュース
工、操業開始する[桃山町誌/桃山 50 年の歩み]。・(注)同食品工場は、温州みかんのジュース加工で「 JOIN ジュース」を製造し、県下の温州み
かん産地から、格外果実を加工原料として集荷、温州みかん農家の収益向上に貢献[同食品工場資料]。
昭和 52(1977)年 ・十二月、農林省果樹試験場本場を茨城県筑波郡谷田部町(現/つくば市)筑波研究学園都市へ移転[NARO 果樹試験場沿革]。
昭和
54(1979)年 ・ 6 月 29 日、農林省果樹試験場奥津支場が、昭和 24(1949)年に宮川早生にトロビタオレンジを交雑して得られた個体の中から「カンキツ興津
きよ み
きよ み
清見登録
21 号」を選抜、「タンゴール農林 1 号」として登録。国内の主要柑橘関係試験場にて系統適応試験の結果、優れた成績を得たので「清見」と命
タンゴール 1 号 名された[果樹試験場報告 B 第 10 号]。・(注)その後、「清見」を育種親等とする品種が多数出る。・昭和 47(1972)年、長崎県南高来郡口之津
町(現/南島原市)の農林水産省果樹試験場口之津支場で、「清見」タンゴールと中野
3 号「ポンカン」を交配して誕生した「シラヌヒ」(熊本の商
せい ほ う
なん ぷ う
つ の か
標デコポン)-「清見」×「ポンカン」・「清峰」-「清見」×「ミネオラ」・「南風」-「清見」×「フェアチャイルド」・「津之香」-「清見」×「興津早生」・
しゆん ぽ う
あま く さ
きよ
か
「 春 峰」-「清見」×「水晶文旦」・「キヨマー」-「清見」×「マーコット」・「天草」-「清見」×「興津早生」×「ページ」・「清の香」-「清見」×「キノ
ようこう
ー」・「陽香」-「清見」×「中野3号ポンカン」(「シラヌヒ」と比較して、果実の形が扁平であること、果皮が濃橙色であること,果面が滑らかである
あけ み
こと等で区別性が認められる)。・「佐藤の香」-「清見」×「マーコット」・「朱見」-「清見」×「セミノール」・「はるみ」-「清見」×「ポンカン
にし の か
F-2432 」・「あまか」-「清見」×「アンコール」・「西之香」-「清見」×「トロビタオレンジ」・「師恩の恵」-「清見」×「ミネオラ」(「清見」と比較すると
翼葉の形が楔形であること、成熟期が早いことで区別性が認められ、「清峰」と比較して、翼葉の形が楔形であること、皮がむき易いこと等で区
別性が認められる)。・「せとか」-「清見」×「アンコール」×「マーコット」・「せとみ」-「清見」×「吉浦ポンカン」(「シラヌヒ」と比較すると、果梗部
が切平面であることや果皮が濃橙色であること等で区別性が認められる)。・「はれひめ」-「清見」×「オセオラ」×「宮川早生」・「広島果研
11
れい こ う
号」-「清見」×「サザンレッド」・「麗紅」-「清見」×「アンコール」×「マーコット」(「せとか」や「マーコット」と比較すると、果心が大きいこと、成熟
期が早いこと等で区別性が認められる)。・「たまみ」-「清見」×「ウイルキング」・「かんきつ中間母本農 8 号」-「清見」×「 H ・ FD-1 」・「あまぽ
ん」-「清見」×「早香」・「媛小春」-「清見」×「黄金柑」・「果のしずく」-「清見」×「早香」・「みえ紀南 4 号」-「清見」×「春光柑」[吉田俊雄/
高品質・単胚性カンキツ品種「清見」の育成/育種学研究 5 巻 3 号]・[金沢市中央卸売市場公式ウェブサイト「清見オレンジ」][Wikipedia]。・(注)
タンゴール((tangor) は、柑橘類の雑種の呼称。主に「ミカン」(マンダリン、タンジェリン)と「オレンジ」の交雑種を指す。語源はタンジェリンの英
名 tangerine とオレンジの orange の「 tang 」と「 or 」を組み合わせた合成語。日本では「清見」、「せとか」などが代表的なタンゴールである。ま
た、「ミカン」と「ブンタン」 (pummelo) との交雑種は「タンゼロ」 (tangelo) という[Wikipedia/タンゴール]。
昭和 59(1984)年 ・和歌山県は、柑橘・桃・李・枇杷の出荷規格を策定、施行[和歌山県青果物標準出荷規格実施要領]。
昭和 61(1986)年 ・昭和 61 年、我が国における果樹の樹種別品種保存数「リンゴ 1,615 、オウトウ 142 、小果樹 96 、クルミ 42 、イヨウナシ 125 、ニホンナシ 384 、
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柑橘栽培の歴史
昭和 63(1988)年
平成 2(1990)年
スウィーティー
果汁輸入自由化
平成 4(1992)年
光センサ選菓機
平成 5(1993)年
青果物選別包装
技術研究組合
デコポン
平成 6(1994)年
平成 8(1996)年
平成 11(1999)年
柑橘遺伝特性
平成 13(2001)年
平成 15(2003)年
クリ 243 、モモ 634 、スモモ 230 、アンズ 158 、メ 120 、カンキツ 1,673 、オリーブ 34 、ビワ 39 、ブドウ 738 、カキ 359 、キュウイフルーツ 61 、イ
チジク 40 、ザクロ 15 、その他 117 、合計 6,900 」[1986 年農林省果樹試験場調べ/垣内典男]。
・和歌山県果樹園芸試験場は、ミカン・柿・桃の非破壊品質選別法の研究開発に着手、近赤外線電磁波利用で見通し得る[昭和 63 年度県果樹園
芸試験場研究成果]。
・ 3 月、イスラエル産の「スウィーティー」の輸入が解禁される[日園連 50 年の歩み/日本果物史年表 123]。・(注)「スイーテイ」は、グレープフル
ーツ とブンタンの交配種。正式な品種名は「オロブランコ」 (oroblanco)。「スウィーティー」と「オロブランコ」は同種で、イスラエル産のものを「ス
ウィーティー」、アメリカ産のものは「オロブランコ」と呼ぶ。果色がグリーンで珍しく、酸味少なく消費者に人気がでる「著者」。
・ 4 月、「パイナップル」・「リンゴ」・「ブドウ」・「ベルガモット」等の果汁が輸入自由化される「北川博敏編/園芸の時代/日本果物史年表 123 」。
・和歌山県果樹園芸試験場はミカン・桃・柿の非破壊で糖酸選別手法を確立、雜賀技術研究所(和歌山市)が、ミカンの光センサー選菓機を製
品化、 1 号機を長崎県西海農協選果場に納入設置。以来、全国主要ミカン産地選果場に普及[編者]。
・ 4 月 1 日付けで山下重良(前/和歌山果樹園芸試験場長)、推されて研究法人青果物選別包装技術研究組合理事長に就任。理事/株式会社
マキ製作所堀居哲士社長・理事/白柳式撰果機株式会社鈴木栄一社長・理事/富士通株式会社社長、幹事/元和歌山県果樹園芸試験場長石
崎政彦氏。青果物の選別包装機器・施設の改良開発を推進[同研究組合議事録]。
・「清見」と「中野 3 号ポンカン」を交雑育成した農林省果樹試験場は、果形が悪いとして系統適応試験を中止し廃棄する方針となったが、熊本
県果実農業協同組合連合会が、皮が剥けやすく味の良さと食べやすさに着目、品質基準を設け、平成 5 年、「デコポン」の名称で商標登録。・
(注)その後、静岡では「フジポン」、愛媛では「ヒメポン」、広島は「キヨポン」、徳島は「ポンダリン」などと呼ばれる[報道]。
・ 9 月 4 日、関西国際空港が開港[報道・桃山 50 年の歩み 46]。
・十月、農林省果樹試験場興津・口之津両支場を統合し、カンキツ部として発足。興津総務分室及び口之津総務分室を置く。盛岡支場をリンゴ
支場、安芸津支場をカキ・ブドウ支場に改称[NARO 果樹試験場沿革]。
・各種果樹の諸形質の遺伝様式についてこれまでの研究成果が整理され、柑橘の遺伝特性は以下の通り[果樹園芸大事典 117]。
遺伝形質
遺伝の様式
葉形
カラタチの 3 葉は普通葉に対し優性。
常緑性
カンキツの常緑性はカラタチの落葉性に対し優性。
多胚性
珠心胚の形成は無形成に対し優性。
果肉色
普通の黄色は、赤みを帯びた果肉色に対し優性。
酸味
酸含量の特に低いものを親にすると、子に早くから酸の少ないものが多い。
・四月、農業技術研究 12 の国立研究機関(農業研究センター・果樹試験場・野菜茶業試験場・家畜衛生試験場・畜産試験場・草地試験場・北
海道農業試験場・東北農業試験場・北陸農業試験場・中国農業試験場・四国農業試験場・九州農業試験場)を統合・再編した「農業技術研究
機構」が設立される[NARO 農研機構沿革]。・四月、独立行政法人化に伴い、(農林水産省果樹試験場は)農業技術研究機構果樹研究所とし
て再編、企画連絡室を企画調整部に、育種部を遺伝育種部に、栽培部を生理機能部に、保護部を生産環境部に、カンキツ部をカンキツ研究
部に、リンゴ支場をリンゴ研究部に、カキ・ブドウ支場をブドウ・カキ研究部にそれぞれ改称、盛岡総務分室及び安芸津総務分室を置く[NARO
果樹試験場沿革]。
・十月、独立行政法人農業技術研究機構と生物系特定産業技術研究推進機構とが統合され、新たに独立行政法人農業・生物系特定産業技
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柑橘栽培の歴史
術研究機構果樹研究所として発足[NARO 果樹試験場沿革]。
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