(9月16日号)(PDF:873KB)

7月23日㈯
自然豊かな武石地
域を歩いて魅力を発
見する「武 石 魅 力発
見ウォーク」が美ヶ原
高原で行われ、市内
外から約40人が参加
しました。天 候 に 恵
れ、初夏のさわやかな美ヶ原高原の景色を楽しみながら、美
しの塔や牛伏山などを2時間ほど歩きました。
青少年健全育成事業とし
て魚のつかみどりが行われ
ました。川で のルールを教
わったあと、武石川には「ほ
ら、そこにいるよ」
「そっちへ
行ったよ」との声が飛 び 交
い、子どもたちは懸命にニジ
マスを探してつかまえていま
した。水 遊 びも楽しみなが
ら、友だちや家 族と自然を
満喫できた一日でした。
7月24日㈰
武石公民館長杯ゲートボール大会 夏山登山 ~蓼科山へ~
武石の義民 小山久介
別 展 の 一 環 と し て、小 山 隆 平 家
ともしび博物館では、真田の特
の 徳 を 頌 し、恩 に 報 い た」と い う 談
りて『久介講』という講中を結び、そ
郷 人 は、毎 秋 収 穫 を 終 れ ば、あ い 寄
と し て、「幕 末 に 至 る ま で は 余 里 の
〜年貢引き上げの撤回を藩主に直訴〜
(片 羽)文 書 を 展 示 し て い ま す。こ
話を記しています。
しょう
の文書は、真田信之が小山久介に
きゅうすけ
武石郷を治めた功績として、代官
に代わって上田藩主となった仙石
元 和 8 年
(1 6 2 2 年)
、
真田氏
の土地を与えた朱印状です。
でも久介の徳をたたえる何らかの
入・下本入・小沢根をはじめ、他地区
記 録 は 余 里 の 例 の み で す が、上 本
のために行動しました。残っている
に 任 命 し 二 貫 文(約 2 5 0 0 坪) 久介は、一身を犠牲にして武石郷
氏 は、
年 貢の引き上げ 政 策 を 進め
直 し ま し た。
そ の 結 果、
武石郷で
を 行って、
田 畑 ごとの 生 産 高 を 見
寺 社 領の没 収、
新 開 地の測 量 な ど
からは、
領 内の年 貢 割 付の変 更や
が、新たな歴史の発見につながるこ
て い る か も し れ ま せ ん。こ の 記 事
介にまつわる言い伝えなどが眠っ
皆 さ ん の 身 近 な と こ ろ に 小 山 久
れてきたかもしれません。
まつった祠が密かに建てられ守ら
ほこら
ま し た が、
慶 安4 年
(1 6 5 1 年) 講や祭事が行われていたり、久介を
新 開 地が、
年 貢 を 課せられる 本 田
とを期待しています。
2-474
は、
上本入・下本入・小沢根・余里の
畑に 加 えら れ、
年貢が大 幅に引き
【問】ともしび博物館
℡
85
小山久介殿
元和5年5月5日
真田信之印
(武 石 の 代 官 小 山 久 介
は)
年貢の徴 収をよく
や っ た と、
家来の出 浦
半平から報告があった
の で、
代 官の土地とし
て、
荒れた田畑のうち、
二貫文を与える。
これからも念を入れ
て年貢を納めさせるよ
う厳重に申し付ける。
真田信之が小山久介に宛てた朱印状の複製
上げられる事態になりました。
久 介 は、郷 民 の 窮 状 を 心 配 し、
負担軽減を役人に請願しました
か条の訴状に
が聞いてもらえず、死を覚悟して
新制度の改廃を
万作さん・佐藤文左衛門さんの話
ん が 著 し た『小 県 郡 史』に は、伏 見
が、
大正期に堀之内の小山真夫さ
確 か な 資 料 は 残 っ て い ま せ ん
(1653年)に処刑されました。
訴の罪は免れず、久介は承応2 年
上げなどは撤回されましたが、直
して藩主に訴えました。年貢引き
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大河原峠から入山し、正午近くに山頂に到着。あいにくのくも
り空で大パノラマは望めなかったものの、全員無事にすずら
ん峠へ下山できました。
優 勝 片羽チーム
準優勝 上本入チーム
第3位 七ヶチーム
大会
結果
武石屋内ゲートボー
ル場で第29回武 石公
民館長杯ゲートボール
大 会(上 田 市 合 併10
周年記念事業)が開催
されました。ゲートボー
ル愛好者の皆さんは、
日頃の練習の成果を
発揮しながら、楽しく
交流していました。
武石魅力発見!美ヶ原トレッキング
7月31日㈰
魚のつかみどり
今 年 は、私 たち
の身近な存在であ
り、その秀麗な姿
から富士山にもた
とえられる日本百
名 山 のひとつ「蓼
科 山」へ 登 りまし
た。一 般 募 集の方
を含む約50人は、
7月26日㈫
武石公民館 ℡85-2030
問
No.56
武石公民館だより
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