7月23日㈯ 自然豊かな武石地 域を歩いて魅力を発 見する「武 石 魅 力発 見ウォーク」が美ヶ原 高原で行われ、市内 外から約40人が参加 しました。天 候 に 恵 れ、初夏のさわやかな美ヶ原高原の景色を楽しみながら、美 しの塔や牛伏山などを2時間ほど歩きました。 青少年健全育成事業とし て魚のつかみどりが行われ ました。川で のルールを教 わったあと、武石川には「ほ ら、そこにいるよ」 「そっちへ 行ったよ」との声が飛 び 交 い、子どもたちは懸命にニジ マスを探してつかまえていま した。水 遊 びも楽しみなが ら、友だちや家 族と自然を 満喫できた一日でした。 7月24日㈰ 武石公民館長杯ゲートボール大会 夏山登山 ~蓼科山へ~ 武石の義民 小山久介 別 展 の 一 環 と し て、小 山 隆 平 家 ともしび博物館では、真田の特 の 徳 を 頌 し、恩 に 報 い た」と い う 談 りて『久介講』という講中を結び、そ 郷 人 は、毎 秋 収 穫 を 終 れ ば、あ い 寄 と し て、「幕 末 に 至 る ま で は 余 里 の 〜年貢引き上げの撤回を藩主に直訴〜 (片 羽)文 書 を 展 示 し て い ま す。こ 話を記しています。 しょう の文書は、真田信之が小山久介に きゅうすけ 武石郷を治めた功績として、代官 に代わって上田藩主となった仙石 元 和 8 年 (1 6 2 2 年) 、 真田氏 の土地を与えた朱印状です。 でも久介の徳をたたえる何らかの 入・下本入・小沢根をはじめ、他地区 記 録 は 余 里 の 例 の み で す が、上 本 のために行動しました。残っている に 任 命 し 二 貫 文(約 2 5 0 0 坪) 久介は、一身を犠牲にして武石郷 氏 は、 年 貢の引き上げ 政 策 を 進め 直 し ま し た。 そ の 結 果、 武石郷で を 行って、 田 畑 ごとの 生 産 高 を 見 寺 社 領の没 収、 新 開 地の測 量 な ど からは、 領 内の年 貢 割 付の変 更や が、新たな歴史の発見につながるこ て い る か も し れ ま せ ん。こ の 記 事 介にまつわる言い伝えなどが眠っ 皆 さ ん の 身 近 な と こ ろ に 小 山 久 れてきたかもしれません。 まつった祠が密かに建てられ守ら ほこら ま し た が、 慶 安4 年 (1 6 5 1 年) 講や祭事が行われていたり、久介を 新 開 地が、 年 貢 を 課せられる 本 田 とを期待しています。 2-474 は、 上本入・下本入・小沢根・余里の 畑に 加 えら れ、 年貢が大 幅に引き 【問】ともしび博物館 ℡ 85 小山久介殿 元和5年5月5日 真田信之印 (武 石 の 代 官 小 山 久 介 は) 年貢の徴 収をよく や っ た と、 家来の出 浦 半平から報告があった の で、 代 官の土地とし て、 荒れた田畑のうち、 二貫文を与える。 これからも念を入れ て年貢を納めさせるよ う厳重に申し付ける。 真田信之が小山久介に宛てた朱印状の複製 上げられる事態になりました。 久 介 は、郷 民 の 窮 状 を 心 配 し、 負担軽減を役人に請願しました か条の訴状に が聞いてもらえず、死を覚悟して 新制度の改廃を 万作さん・佐藤文左衛門さんの話 ん が 著 し た『小 県 郡 史』に は、伏 見 が、 大正期に堀之内の小山真夫さ 確 か な 資 料 は 残 っ て い ま せ ん (1653年)に処刑されました。 訴の罪は免れず、久介は承応2 年 上げなどは撤回されましたが、直 して藩主に訴えました。年貢引き 17 大河原峠から入山し、正午近くに山頂に到着。あいにくのくも り空で大パノラマは望めなかったものの、全員無事にすずら ん峠へ下山できました。 優 勝 片羽チーム 準優勝 上本入チーム 第3位 七ヶチーム 大会 結果 武石屋内ゲートボー ル場で第29回武 石公 民館長杯ゲートボール 大 会(上 田 市 合 併10 周年記念事業)が開催 されました。ゲートボー ル愛好者の皆さんは、 日頃の練習の成果を 発揮しながら、楽しく 交流していました。 武石魅力発見!美ヶ原トレッキング 7月31日㈰ 魚のつかみどり 今 年 は、私 たち の身近な存在であ り、その秀麗な姿 から富士山にもた とえられる日本百 名 山 のひとつ「蓼 科 山」へ 登 りまし た。一 般 募 集の方 を含む約50人は、 7月26日㈫ 武石公民館 ℡85-2030 問 No.56 武石公民館だより 6
© Copyright 2024 ExpyDoc