講義資料 - 名城大学

有機化学Ⅰ 講義資料
第1回「共有結合と電子配置」
第1回「共有結合と電子配置」
0. はじめに:有機化学を学ぶための準備
有機化学とは、炭素を含む化合物(有機化合物)の化学である。有機化合物は極めて
多様である。私たちの体の大部分は有機化合物でできているし、プラスチックや合成繊
維など人工的に作られた有機化合物もたくさんある。燃料として広く使われている石油
や天然ガスも有機化合物である。これまで知られている有機化合物の正確な数は誰にも
わからないが、少なくとも数千万種類に及ぶことは間違いない。
このように多様な有機化合物の性質を理解するには、どうすればよいのだろうか。か
つての有機化学は、雑多な化合物を経験的に分類し、反応をパターン化して理解するこ
とが目標だった。しかし現在では、量子力学という強力な物理学の手法を用いて、物質
内の電子の動きを記述することによって、多くの有機化学反応が合理的に説明できるよ
うになった。
この講義でも、できる限り分子内の電子の動きに注目して、有機化合物の性質や反応
を理解することを目標にする。単に「○○という化合物は
実を述べるだけではなく、
「○○という化合物は
という性質を持つ」と事
という性質を持つ、なぜならば△△
の位置に電子が偏っているため□□の位置と反発し合うからである」というように物質
の性質を電子の動きと関連付けるように心がけよう。電子の動きに注目することによっ
て、有機化学をより深く理解できるようになる。また、電子の動きは無機化合物におい
ても共通する部分が多いため、化学の広い分野に及ぶ応用力を身につけることができる
だろう。
第1回は、分子の中の電子がどのような状態で存在しているのかを学び、それが分子
の性質にどのように関連するかを見て行く。
1. 炭素原子中の電子
分子を論じる前に、まず原子の中で電子がどのように存在しているかを理解しなくて
はならない。有機化合物で最も重要な原子は「炭素」なので、炭素原子について見てみ
よう。
K殻
炭素原子は、中心に+6 の電荷を持つ原子核があり、その周
りに6個の電子が存在している。量子力学以前は、これを右
図のように表した(ボーアの模型)。みなさんも高校ではこの
+6
L殻
ように教わったはずである。
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第1回「共有結合と電子配置」
このモデルを使えば、元素の化学的性質(たとえば周期律)などを、ある程度は説明
することができる。しかし、有機化学が取り扱う化学反応をよく理解するためには、こ
のモデルでは不十分である。物質の中の電子の振る舞いを、もう少し精密に記述する理
論が必要になる。
その理論とは、量子力学 quantum mechanics である。量子力学は、電子や原子のよ
うな非常に小さい物体の振る舞いを記述するための理論である。量子力学における物体
の振る舞いは、私たちが通常目にする物体の振る舞いとは大きく異なっている。いくつ
かの重要な特徴を挙げると、次のようになる。
(1) 物体は、粒子としての性質と、波としての性質を合わせ持っている。
(2) 物体の位置は確率分布として表される。つまり、ある物体の位置を特定すること
は不可能で、「この位置に存在する確率は○○」という風にしか記述できない。
上の(1), (2)は、電子・原子核・原子などあらゆる物体について成り立つ。しかしなが
ら、物体が大きくなる(より正確には「質量が大きくなる」)につれて、
「波」や「確率
分布」の性質は目立たなくなり、私たちが通常目にする物体と同じような性質を持つよ
うになる。量子力学が重要になるのは、「小さい」物体の場合である。有機化学で取り
扱う現象の範囲では、「電子のみが量子力学的な振る舞いをする」と考えて構わない。
炭素原子中の電子を量子力学的に考えると、どうなるだろうか。量子力学では、原子
中の電子は、
「電子が空間内のどの位置にどのような確率で存在しているか(確率分布)」、
および「その位置で波としてどのように振動しているか(位相)」によって記述される。
電子の確率分布と位相を合わせたものを、その電子の「状態」と呼ぶ。量子力学の理論
によれば、電子の状態は原子核の位置によって決まる。なぜなら、電子は原子核から電
気的な引力を受けているからである。(より一般的に言えば、電子の状態は、その電子
が他からどのような力を受けているかによって、決定される。)
電子の「状態」について重要なことは、
「電子の状態が決まるとエネルギーが決まる」
ということである。ここで言う「エネルギー」とは、電子の持つ運動エネルギーと(電
気的)位置エネルギーの和である。多くのエネルギーを持つ、つまり「エネルギーが高
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第1回「共有結合と電子配置」
い」電子は、化学反応に関与しやすい。ある化学反応が起きやすいか起きにくいか(反
応速度が速いか遅いか、あるいは平衡が左右のどちらに偏るか)は、原子(分子)が持
つ電子のエネルギーが高いか低いかによって、大きく左右される。
2. 炭素原子の原子軌道と電子配置
さて、炭素原子中の6個の電子は、どのような状態にあるだろうか。電子はなるべく
低いエネルギーの状態をとりたがるので、「最も低いエネルギーの状態」にすべての電
子が集中するのではないか、と予想できる。
しかし、実際にはこうはならない。量子力学の驚くべき結果の一つに、「2つ以上の
電子が同じ状態をとることはできない」というルールがある(パウリの排他律)。さら
に、もう一つの驚くべき結果として、「原子(や分子)中の電子のエネルギーは連続的
ではなく、飛び飛びの値しか許されない」ことがわかっている。
炭素原子の電子の状態を図で表してみる。状態を図で表すには、電子の三次元空間内
での存在確率を「等高面」で、位相を「等高面の色」で示すのが普通である。この表記
法によると、「最も低いエネルギーの電子の状態」は、下のようになる。原子核のすぐ
近くに電子が存在しているので、強い引力を受けて、エネルギーの低い状態になってい
る。
z
1s 軌道
x
y
この状態は電子にとって「居心地のよい」ものなのだが、パウリの排他律によれば、
この状態をとることができる電子は最大2個である。電子には「スピン」という量子力
学的性質があって、
「上向き」
「下向き」の2つの状態をとることができる。スピンが違
えば量子力学的には「別の状態」となるので、同じ空間的状態でも2個までは入ること
ができる。しかし、3個目の電子が同じ空間的状態に入ることはできない。
電子がとり得る空間的状態のことを「軌道」と呼ぶ。上の軌道には名前がついていて、
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「1s 軌道」と呼ばれる。
注2:原子中の電子の軌道のことを「原子軌道」、分子中の電子の軌道のことを「分子軌道」と
呼ぶ。電子の軌道なのに「原子軌道」「分子軌道」と呼ぶのは紛らわしいが、広く使われている
言葉なので、本講義でも使うことにする。
「軌道」という言葉を使うと、パウリの排他律は次のように書ける:「1つの軌道に
は最大2個の電子しか入れない。2個入る場合は、スピンが逆向きでなければならない」。
この規則によれば、3個目以降の電子は、別の軌道に入らなければならない。
炭素原子の「2番目にエネルギーの低い軌道」は下のようになる。
z
y
x
2s 軌道
これは「2s 軌道」という名前を持つ。1s 軌道と形は似ているが、原子核から電子が
離れているため、引力が弱く、それだけエネルギーが高くなっている。この軌道にも、
2個の電子が入ることができる。
残りの電子は2個である。これらは、どんな軌道に入るのだろうか。3番目にエネル
ギーの低い軌道は、次のように3つある。これらは「2p 軌道」と呼ばれる。
z
z
z
2p 軌道
y x
x
2px 軌道
2py 軌道
y x
y
2pz 軌道
色が分けてあることに注意。この色分けは、軌道の「位相」の違いを示している。位
相とは、その位置にある電子を「波」として考えた場合に、振動するタイミングの違い
を表す。色のついた部分と白い部分では、タイミングが 180° 分ずれている。
「位相」は、
化学反応を軌道の相互作用として考える場合に、重要な意味を持つ。これについては後
で学ぶ。
さて、上の図で見た通り、2p 軌道には同じエネルギーのものが3つある。ここに2
個の電子が入る場合、スピンも考慮すると、次の三通りの可能性がある。
(1) 3つの軌道のうちの1つに、2個の電子がスピンを逆向きにして入る。
(2) 3つの軌道のうちの2つに、2個の電子がスピンを逆向きにして1個ずつ入る。
(3) 3つの軌道のうちの2つに、2個の電子がスピンを同じ向きにして1個ずつ入る。
どの入り方でも同じエネルギーになりそうだが、実際には(3)のように入った場合に
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第1回「共有結合と電子配置」
エネルギーが少しだけ下がることがわかっている。従って、同じエネルギーの軌道が複
数あるとき、電子はまずスピンを同じ向きにして1個ずつ別々の軌道に入る。これを「フ
ントの規則」と呼ぶ。
ここまで説明したことを、1つの図にまとめて示そう。電子は矢印で示し、上向き・
下向きはスピンの向きを表している。
z
x
z
y
z
2p
y
y x
x
z
x
z
x
2s
y
1s
y
このように、「原子(分子)内のどの軌道にどのように電子が入っているか」を示し
たものを「電子配置」と言う。電子配置は、下のような図で表すことが多い。
2p
2s
エネルギー
1s
この図で、短い水平線は、軌道を表している。縦軸はエネルギーである。この場合も、
電子は矢印で表し、上向き・下向きはスピンの向きである。
どの電子がどの軌道に入り、どのようなエネルギーを持っているかで、化学反応の挙
動は決定される。従って、物質の化学的性質を理解するためには、電子配置を予測する
ことが重要である。すでに見た通り、軌道のエネルギーが決まれば、電子配置は以下の
ルールによって決定できる。これらは重要なので、記憶しておこう。
(1) 構成原理 (aufbau principle)。電子はエネルギーの低い軌道から順に入る。
(2) パウリの排他律 (Pauli exclusion principle)。1つの軌道には最大2個の電子しか
つい
入れない。2個入る時は、電子のスピンは逆向きになる(「対を作る」とも言う)。 (3) フントの規則 (Hund’s rule)。同じエネルギーの軌道が複数ある時は、まずそれぞ
れの軌道に1つずつ同じ向きのスピンの電子が入り、その後2つ目が逆向きスピ
ンで入る。 –5–
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第1回「共有結合と電子配置」
電子が2つ入った軌道を「被占軌道」 (occupied orbital)、電子が1つだけ入った軌
道を「半占軌道」(singly occupied orbital)、電子が入っていない軌道を「空軌道」
(unoccupied orbital, empty orbital)と呼ぶ。また、半占軌道に入っている電子のことを
「不対電子」 unpaired electron と呼ぶ。
本講義では、軌道を表示する時に、被占軌道は青色・半占軌道は緑色・空軌道は赤色
で表すことにする。これは本講義のローカルルールなので、他のところに持ち込まない
ように。
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問:酸素原子の電子配置を図示しなさい。
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3. 一般的な原子軌道と電子配置
炭素以外の原子の軌道はどうなっているだ
z
z
z
ろうか。実は、どの原子でも、軌道の種類・
形はほぼ同じである。前ページと同じように
y x
x
y
4p
(N殻)
(5種類、図は省略) 3d
エネルギーの順に書くと、右のようになる。
z
3s 軌道・4s 軌道は、1s 軌道・2s 軌道と似た
形をしているが、軌道の広がりが大きく、エ
z
z
y x
x
4s
y
x
ネルギーが高い。3p 軌道・4p 軌道についても
同様である。
y x
z
y x
y
3p (M殻)
z
高等学校で学んだ通り、原子の化学的な性
z
3s
y
x
質を決定するのは、
「価電子」である。価電子
z
z
は、最もエネルギーの高い軌道に入っている
x
y x
律が成り立つのは、
「同じ形の軌道に同じ数の
y x
y
2p
z
ため、化学反応に関与しやすい。元素の周期
x
y
2s
y
1s
(L殻)
z
電子が入っている」原子が、互いに似た化学
x
的性質を示すためである。
(K殻)
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
問:臭素原子の不対電子はどの軌道にあるか。
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第1回「共有結合と電子配置」
4. 共有結合
すでに高等学校で学んだ通り、共有結合とは「2つの原子が2個の電子を共有するこ
とによってできる結合」である。しかし、「2個の電子を共有する」とはどういうこと
なのか、共有された電子はどこにあるのか、共有することによってなぜ結合ができるの
か、この説明だけでは理解することができない。ここでは、量子力学の考え方を使って
共有結合を説明しよう。
最も簡単な分子である水素分子について考える。水素原子は電子を1つだけ持ち、そ
れは 1s 軌道に入っている。2個の水素原子がそれぞれ 1s 軌道に電子を1つずつ持って
いる状態を考えよう。2つの原子が十分に離れていれば、それらは互いに何の影響も及
ぼさず、電子はそれぞれの 1s 軌道にそのまま収まっている。
1s軌道
1s軌道
ところが、2つの水素原子が近づくと、2つの 1s 軌道は互いに混ざり合い、新しい
軌道を作る。このとき大切なのは、2つの軌道が混ざり合うと、必ず2つの新しい軌道
ができることである。2つの水素原子が近づいた場合は、下のような新しい軌道ができ
る。一方の軌道は元の 1s 軌道よりもエネルギーが低く、もう一方の軌道はエネルギー
が高い。エネルギーの低い方を「結合性軌道」、高い方を「反結合性軌道」と呼ぶ。
反結合性軌道
結合性軌道
水素の原子核
これらの軌道は、分子の中の電子の状態を表すものなので、分子軌道と呼ぶ。分子軌
道に電子が入るときも、上に示した「3つの原理」が適用される。水素分子の場合、2
個の電子が、エネルギーが低い「結合性軌道」に対を作って入る。
結合性軌道のエネルギーは元の 1s 軌道よりも低いため、2個の電子が結合性軌道に
入ることで全体のエネルギーは低くなる。「エネルギーが低い」とは「安定である」と
同じ意味なので、水素分子は安定に存在することができる。これが、量子力学に基づい
た共有結合の説明である。
s 軌道でなくても、2つの原子がそれぞれ半占軌道を1つずつ持っていれば、それら
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第1回「共有結合と電子配置」
を混ぜ合わせることで、共有結合が形成できる。たとえば、F 原子は、不対電子を1つ
持つ 2p 軌道があり、これが半占軌道である。2つの F 原子の 2p 軌道を混ぜ合わせて
新しい軌道を作ると、下のようになる。これが F2 分子の F–F 共有結合である。
反結合性軌道
F 2px
結合性軌道
F 2px
結合性軌道・反結合性軌道の形が H2 の場合と異なるのは、2p 軌道が位相の異なる2
つの部分からできているためである。結合性軌道は、2つの原子軌道の同じ位相の部分
同士が強めあって大きくなることによって形成されている。
5. 極性を持つ共有結合
次に、HCl 分子について考えよう。H­Cl 結合には、どの原子軌道が使われるのだろ
うか。H 原子は、当然 1s 軌道である。一方、Cl 原子の7個の価電子は 3s 軌道と 3p
軌道に入っている。3つの 3p 軌道のうちの1つが半占軌道となり、これが結合に使わ
れる。
半占軌道
3p
3s
エネルギー
2p
2s
1s
(8個)
塩素原子の電子配置
(2個)
注3:原子番号が大きな原子の電子配置を示す時は、完全に埋まっている軌道について、上のよ
うに電子の数だけを示してもよい。 ただし、p 軌道が一部空いている時は、同じ殻の s 軌道の
電子も明記する。これはあとで「混成軌道」を考える時に重要になる。
H の 1s 軌道と Cl の 3p 軌道が混ざりあって、結合性軌道と反結合性軌道を作る。
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第1回「共有結合と電子配置」
反結合性軌道
H 1s
結合性軌道
Cl 3px
HCl の共有結合は、前節で見た H2 や F2 の共有結合にはない重要な性質がある。そ
れは、H–Cl 結合が分極していることである。分極とは、共有結合の電子がどちらか一
方の原子に偏って分布することをいう。HCl の場合、結合電子は Cl の方に少し偏って
いる。これは、Cl の方が電気陰性度が高いためである。電気陰性度が高い原子は、電
子をより強く引きつける。このため、HCl の分子では、Cl の付近は電子が少し多めに
あるためマイナスの電荷を帯び、H の付近は逆にプラスの電荷を帯びる。これを、δ­、
δ+という記号を使って、下のように表す。
(δ=デルタは、数学で使うのと同様に「微
小な」という意味である。)
!+ !–
H Cl
分極した共有結合の分子軌道は、どのような特徴を持っているだろうか。H–Cl の結
合性軌道は H の 1s 軌道と Cl の 3p 軌道が混じり合ってできているが、2つの軌道が同
じ割合で混じり合っているわけではない。Cl の方が電気陰性度が高いため、電子をよ
り強く引きつける。このため、結合性軌道を作る時に Cl の 3p 軌道の割合が大きくなる。
そのかわり、反結合性軌道では H の 1s 軌道の割合の方が大きくなる。
反結合性軌道
‒0.80 (H 1s) + 0.60 (Cl 3p)
結合性軌道
0.60 (H 1s) + 0.80 (Cl 3p)
注4:H2 のように分極していない結合では、2つの原子軌道の寄与はどちらも 0.707 (=1/ 2) で
ある。
極性を持つ共有結合は、電子が偏っているため、化学反応を起こしやすい。δ+の部
分は、電子が不足しているので、他の分子の電子豊富な場所と反応しやすい。逆に、δ
­の部分は、電子が過剰なので、他の分子の電子不足の場所と反応しやすい。このよう
に、電子豊富な原子や分子と電子不足の原子や分子の間で起こる反応を極性反応 polar
reaction と呼ぶ。有機化学反応の大部分は極性反応であるため、本講義ではこれから多
くの極性反応を学ぶことになる。
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第1回「共有結合と電子配置」
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問:次の分子の共有結合は分極しているか。分極している場合は、δ+、δ–の記号を
使って分極の向きを示しなさい。(1) AlH3, (2) Cl2, (3) BrF。
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6. メタンの結合:sp3 混成軌道
最も基本的な有機化合物であるメタン CH4 の結合を考えてみよう。2. で学んだ通り、
炭素原子の電子配置は、1s 軌道に2個・2s 軌道に2個・3つの 2p 軌道のうち2つに
1個ずつ、となっている。ところが、これを元に CH4 の結合を考えようと思っても、
どうもうまくいかない。そもそも、半占軌道が2つしかないので、2本しか結合を作る
ことができないことになってしまう。
この困難は、混成軌道という考え方を導入することで解決できる。混成軌道とは、1
つの原子上の原子軌道を混ぜ合わせてできる軌道のことである。2s 軌道と 2p 軌道はエ
ネルギーが近いので、1つの s 軌道と3つの p 軌道を混ぜ合わせて、4つの新しい軌道
を作ることができる(下の左図)。これを sp3 混成軌道と呼ぶ。同様に、sp2 混成軌道、
sp 混成軌道というものもある。これらは後の章で学ぶ。
sp3 混成軌道は、下の右図のような形をしている。先の F2 の結合性軌道の場合と同様
に、軌道が混ざりあうとき、同じ位相の部分同士は強めあってより大きく広がり、違う
位相の部分同士は互いに弱めあって小さくなる。p 軌道の符号を変えて混ぜ合わせるこ
とで、空間分布の異なる軌道が4種類できていることがわかるだろう。
2p
1s
2
1s
+
+
2s
1p
2 y
1p
2 x
1s
2
1p
2 x
1s
2
–
1p
2 y
–
1p
2 z
+
1
– py
2
1
– px
2
+
+
=
+
+
+
1p
2 z
=
1p
2 z
+
(左下奥)
=
sp3
(右上奥)
1s
2
1s
(左上手前)
1p
2 y
1
– px
2
+
+
1
– pz
2
+
=
(右下手前)
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第1回「共有結合と電子配置」
実は、この4本の sp3 混成軌道の方向は、正四面体の中心から
4つの頂点に向かう方向になっている。これは、メタンの分子構
109.5°
造(右図)と完全に合致している。
炭素原子の 2s, 2p 軌道にあった合計4個の電子は、これら4
個の sp3 混成軌道に1つずつ割り当てられる。メタンの4本の結
合は、これらの4つの sp3 混成軌道がそれぞれ水素原子の 1s 軌道と混ざり合って結合
性軌道を作り、そこに2個ずつ電子が入ることによって、形成される。2個の電子のう
ち1個は sp3 混成軌道から、もう1個は水素原子の 1s 軌道から供給される。
結合性軌道
H 1s + C sp3
反結合性軌道
メタンの炭素原子が sp3 混成軌道を使って結合を作るのは、炭素原子が4つの原子と
結合を作っているためである。sp3 混成軌道を使えば、都合良く4つの異なる方向に結
合性軌道を作ることができるので、安定な分子を形成することができる。一方、エチレ
ン、アセチレンのように、二重結合・三重結合がある場合は、炭素原子が結合を作って
いる原子の数が減るため、「sp2 混成軌道」や 「sp 混成軌道」を使って結合を作る。詳
しくは、アルケン・アルキンの章で学ぶ。
H
H
H
C
H
H
H
C
H
H
C
C
C
H
H
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問:CH3F の C–F 結合は、どんな軌道から形成されているか。
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7. ローンペア(非共有電子対)
今度は、NH3 の電子配置を考えてみよう。窒素原子は K 殻に2個、L 殻に5個の電
子を持つ。L 殻の電子のうち3個は水素原子と共有結合を作るのに使われる。残りの2
個は、窒素原子上で対を作っていると考えられる。このように、最外殻にあって、共有
結合に関与せずに1つの原子上で対を作っている2個の電子をローンペア(lone pair、
非共有電子対)と呼ぶ。
ローンペアはどんな形をしているのだろうか。NH3 は三角錐型
の分子なので、正四面体の「下半分」に近い形だと考えると、3
本の N–H 結合は N の sp3 混成軌道を使って作られていると推測
される。
H 1s + N sp3
結合性軌道
反結合性軌道
sp3 混成軌道はもう1つあるので、そこに電子が2つ入る。これがローンペアである。
(ローンペア)
注5:N の電子配置を書くと、2s 軌道に2個、3つの 2p 軌道に1個ずつ電子が入っているこ
とがわかる。これを見ると、
「2s 軌道の2個の電子がローンペアで、3つの 2p 軌道が1つずつ H
と結合を作る」と考えてはいけないのか、という疑問が湧く。この疑問に答えることは実は難し
く、VSEPR(電子対反発)理論の助けを借りなくてはならない。本講義ではこの点には深入り
せず、「3つの原子と結合している(アンモニアのように)N は sp3 混成、2つの原子・1つの
原子と結合している N はそれぞれ sp2 混成、sp 混成をとる」と取り扱うことにする。
ローンペアの電子は、原子核との結びつきが弱い。これは、結合性軌道の電子が2つ
の原子核から引力を受けるのに対して、ローンペアは1つの原子核からしか引力を受け
られないためである。このため、ローンペアは電子が過剰な部分とみなすことができ、
極性反応を起こしやすい。ローンペアが関与する極性反応の例も、これからたくさん出
てくる。
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問:水分子 (H2O) にはローンペアが何個あるか。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
7. まとめ
・ 原子や分子中の電子は、量子力学の原理に従ってある状態をとる。状態とは、空間
内の確率分布と、電子を波と考えた時の位相を合わせたものである。
・ 原子内・分子内で電子のとり得る状態のことを、原子軌道・分子軌道と呼ぶ。
・ それぞれの軌道は決まったエネルギーを持っている。
・ 炭素原子は 1s, 2s, 2p 軌道を持つ。2p 軌道は3つあり、互いに直交する方向を向い
ている。水素原子は 1s 軌道を持つ。
・ 軌道に電子が入る時は、3つの原理に従う。(1) 構成原理:電子はなるべくエネルギ
ーの低い軌道に入る。(2) パウリの排他律:1つの軌道には最大2個の電子しか入れ
ない。2個入る時は、電子のスピンが逆向きになる(対をつくる)。(3) フントの規則:
同じエネルギーの軌道が複数ある時は、まずそれぞれの軌道に1つずつ同じ向きのス
ピンの電子が入り、その後2つ目が逆向きスピンで入る。
・ 電子が2つ入った軌道を被占軌道、電子が1つだけ入った軌道を半占軌道、電子が
入っていない軌道を空軌道と呼ぶ。
・ 2つの原子が近づくと、原子軌道が混ざり合って、結合性軌道と反結合性軌道が形
成される。結合性軌道に2つの電子が入って安定化した状態が共有結合である。
・ 電気陰性度の異なる2つの原子が結合すると、結合電子の偏りが生じる。このよう
な結合は「分極している」または「極性を持つ」と呼ばれる。極性を持つ結合は、反
応に関与しやすい。
・ 極性を持つ物質の電子不足な部分と電子豊富な部分が互いに引き合って反応を起こ
すとき、この反応を極性反応と呼ぶ。
・ s 軌道と3つの p 軌道が混ざり合うと、正四面体型に配置される4つの軌道が形成
される。これを sp3 混成軌道と呼ぶ。メタンの C–H 結合は、炭素の sp3 混成軌道と
水素の 1s 軌道からできたものである。
・ 共有結合を作らずに同一原子上で対を作っている最外殻電子をローンペア(非共有
電子対)と呼ぶ。ローンペアは電子豊富な部分であり、極性反応に関与しやすい。
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名城大学理工学部応用化学科