内容はこちら - 神奈川歴史研究会 【神歴研】

 伊勢原の日向薬師の近くには日向神社がある。 いる。
日向薬師の守護神として今日に至る。
若光は元正天皇の霊亀元年(715)日向山に
この神社の御神体は白髭明神と呼ばれる神で、 来た行基が日向薬師の薬師三尊像を彫ろうとし
長いあごひげをたくわえ、異国の冠をつけた木造
て、良材がなく困っていたところ、それを見た若
の姿で祀られている。天智 7 年(668)朝鮮
光が数尺の香木を与えて協力し、日向薬師開山に
半島の北部にあった高句麗は唐に滅ぼされ、高麗
貢献したと言われている。日向薬師の守護神とし
王の若光に率いられた一団は、海を渡って日本に
てその功績を賞し、若光を祭神としてその功績を
亡命、大磯の浜に上陸し、
唐ヶ原
(大磯町と平塚市) 賞し、若光を祭神として祭る一方、併せて熊野権
に居住した。当時渡来した人々は高い文化を持ち、 現を勧請し、参道入り口に日向神社を創建したの
多くのことを知っていたので、この辺りは早くか
が始まりという。社殿は本殿、拝殿、三棟一宇、
ら高度な大陸文化がひらけることとなった。この
流れ造りである。
高麗若光こそが白髭明神である(続日本紀)
。こ
厚木歴史研究会では講演会で五年前から若光と
の若光は伊勢原の日向から新たに設けられた武蔵 日向神社、日向薬師の歴史を講演する一方、史跡
国高麗郡の大領に任じられて移り住み、そこで没
した。今では埼玉県日高市の高麗神社に祀られて
ウオークを行っている。
足尾銅山と闘った義人田中正造の足跡を訪ね、5月22日佐野市を見学した。大学時代の40年前
に行ったことがあったが、佐野の風景は大分変っていた。先ず「佐野市郷土博物館」を見学したが、
ここには田中の展示室がある。田中は足尾銅山と闘い、明治天皇にも直訴したが、不発であった。田
中は死んだ時の遺品は小石三個と言われているが、
文字通り渡良瀬川の鉱毒と闘った。田中は生前「真
の文明は、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」と訴えていたが、山を荒廃さ
せ、渡良瀬川を死の川とした足尾鉱毒
に「これが文明か」と怒りをぶっつけた。自然を
守って其の後共生出来る世の中を造るのが「真の文明」であるという思想の持主でもあった。縄文時
代を研究すると、自然と人間が共生する時代であったが、昨今は自然を破壊する事が余りにも大きい。
現代人はもう一度、明治時代足尾銅山と闘った義人田中について学ぶ必要があると痛感した。厚木歴
史研究会では5年前から田中についての講演会を開催し、田中の偉大性について学んでいる。会員の皆
様もどうか佐野を訪れて下さい。