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硫黄島で慰霊 式 典 や 戦 跡 巡 り
慰霊碑に水をかける遺族
終戦を迎へたといふ。
帰りの機内では、輸送機
の大きな振動と轟音のな
かでも目を閉ぢてまどろ
戦争の体験を語る秋草氏㊤、訪島後の意見交換会㊦
の平和は三百万人の人柱
む参加者の姿が多く見ら
秋 草 氏 は 最 後 に 、「 今
が担保になってやっと作
れた。
の平和を満喫する。これ
気に一日も長く生き、今
加者は六班に分かれ、「訪
で意見交換会を開催。参
館に移動し、夕食を挟ん
に到着した一行は市民会
午後六時頃、入間基地
った平和です」と述べつ
土防衛のため決死の覚悟 が戦争の犠牲者に対する
島前後の『国を想ふ気持
つ 、「 皆 さ ん が 健 康 で 元
を持って硫黄島を守らう 一番の御恩返しです」と
豊かな社会を生き、この を開催。遺族やその他の
とが、先人が築いた今の
いて意見を述べ合った
に必要なこと」などにつ
歴史を風化させないため
ち 』 の 変 化 」「 こ の 国 の
後、各班の代表者が発表
国の未来を作り上げる私 参 加 者 ら が 親 交 を 深 め
都内の工業高等専門学
通信兵として硫黄島の戦 少年は近現代史に興味が 所を実際に自分の目で見 ハイビスカスが植わって など、当時の遺物が残さ
発 表 の な か で は 、「 訪
訪島前勉強会では、海軍 校に通ふといふ十五歳の そ、かつて戦場だった場 基地内にはガジュマルや て朽ちた水筒や飯盒、桶 した。
引き続きおこなはれた
たちの使命だ」
と述べた。 た。
勉強会の後には懇親会
とした人々の志を学ぶこ 語った。
日本文化興隆財団・日本青年会議所関東地区協議会
一般財団法人日本文化興隆財団(田中恆清
理事長)と公益社団法人日本青年会議所関東
地区協議会(佐藤友彦会長)が主催する「硫
黄島訪島事業」が八月二十五・二十六の両日
に開催され、参加した遺族や青少年など五十
五人が大東亜戦争の激戦地となった東京・小
笠原村の硫黄島を訪れ、慰霊式典や研修をお
こなった。
題して講演。自身が十七 が 手 に 入 る 今 だ か ら こ を語った。
分にすれ違へるほど通路 てゐることを身に染みて
三台に分乗して「硫黄島 ど、比較的環境が良いと 代に訪島していただき、
をとった後、一行はバス 用の縦穴が設けられるな 「今後も引き続き若い世
基地内の厚生館で昼食 の幅や高さが広く、通気 感じた」といふ感想や、
とが窺へた。
医務科壕は、大人が充 上にこの世界が成り立っ
ひに参加した秋草鶴次氏 あ る と い ひ 、「 イ ン タ ー て、当時の人達の思ひを をり、硫黄島が確かに亜 れた壕内部を見学した。 島を通じ、先人の犠牲の
史と向き合ひ、英霊に対 従事してゐたが、戦局の
歳の時に体験した硫黄島
が「十七歳の硫黄島」と ネットなどで簡単に情報 感じたい」と参加の理由 熱帯の気候に含まれるこ
して赤誠の心を捧げ、戦 悪化に伴ひその多くが本
での凄惨な戦闘の様子な
戦 没 者 の 碑 」( 天 山 慰 霊 される。しかし、二、三 硫黄島の歴史を次世代に
翌二十六日の早朝、航 かい風に乗ってかすかに 碑)に移動。慰霊碑前に 十 も進むと地熱によっ 伝へていってほしい」と
慰霊式典後、戦跡巡り研修
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跡 の 巡 拝 を お こ な ふ 中 土に疎開した。島民のう
百 に位置し、南西部の
最も近い海岸から約二
どを滔々と語った。
かな国家観を備へた人材 ふ。
鉢山(標高百六十九 ) 空自衛隊入間基地をC1 に硫黄の匂ひが鼻を突い 御酒、菓子、煙草などを てサウナの中にゐるやう いふ遺族の感想のほか、
の上陸を監視する任務に 二時間三十分後の午前十
がよく見える陣地で米軍 30輸送機で出発し、約 た。
当日の気温は三十度ほ た。式典では、両主催団 より先へ進むのに抵抗を を体験するなど教科書だ
供へ、慰霊式典を実施し な息苦しさを覚え、それ 青少年から「壕の中の熱
目的に実施。同協議会が 撃するB29爆撃機の中
けでは伝はらない経験を
硫黄島での遺骨収集活 することで、歴史の風化
が献花をおこなった。
する、東西約八 、南北 日本軍は総延長十八 に
訪島前日には勉強会を開催
式典後にはそれぞれが といふ遺族の男性は、「医 ではないか」などといふ
引き続き解団式がおこ
憲常任相談役が挨拶。慰
その後、一行は島を見 霊式典の最中に会場を爽
語ってゐた。
「硫黄ヶ丘」や、栗林中 が上陸した南海岸を廻り と に 触 れ 、「 英 霊 に 喜 ん
を示す道標などを巡りな て硫黄島を出発。約四時 が継続して実施されるこ
「兵団司令部壕」の場所 路と同じ輸送機に搭乗し か」と語りつつ、同事業
ただければ何よりである。
て理解を深め、満足してお帰りい
歴史や文化、民族性や風習に触れ
にとっ て 切 実 な 問 題 だ と い は れ
ま り 意 識 し な い が 、 旅 行 中 はW
i―Fi に頼るしかな い 外 国 人
などで気軽に接続できる我々はあ
ともあるさうだ。携帯電話の機能
が少なく、また外国語を話せる人
も多いのは、外国語表記の看板等
きるWi―Fi の整備を始める
も無料でインターネットに接続で
かういった声を参考に、神宮で
をおこなったことが大きく寄与し
外国人参拝者の皆さんに神宮への
る英語表記の域内地図とともに、
展覧会
山形県鶴岡市・荘内神
社(石原純一宮司)の近
くに建つ致道博物館では
「出羽庄内藩酒井家の遺
宝」と題する展覧会が九
月二十八日まで開催され
てゐる。
酒井家の初代は、徳川
家康公の叔父にあたり、
のちに「徳川四天王」の
筆頭と称された酒井忠次
公。元和八年
(一六二二)
、
三代・忠勝公が出羽庄内
十三万八千石に入部し、
以後二百五十年に亙り歴
代藩主による善政がおこ
なはれた。同神社では忠
次公をはじめ酒井家四柱
を祀ってゐる。
同展では酒井家代々が
家宝として守ってきた名
品を展示。国宝の太刀
「銘
真光附糸巻太刀拵」をは
じめ、忠次公所用の甲冑
「朱塗黒糸威二枚胴具
足 」、 忠 勝 公 時 代 伝 来 の
短 刀 「 銘 吉 光 」、 徳 川 公
をもてなす食器として使
用された「金梨子地桐葵
紋散懸盤」など数々の名
品が展示されてゐる。
常設展も含め、酒井家
十八代当主である酒井忠
久館長が務める同館で
は、藩政時代からの文化
や教育・殖産・治世に関
はり、庄内の奥深い文化
を広く紹介してゐる。
同展詳細は次の通り。
場所 致道博物館(山形
県鶴岡市家中新町一〇―
一八)
会期 九月二十八日まで
ギャラリートーク 九月
十二日午後二時から
開館時間 午前九時から
午後五時(入館は四時三
十分)まで
入館料 一般七百円、学
生三百八十円、小・中学
生二百八十円
問合せ 公益財団法人致
道博物館( 〇二三五―
二二―一一九九)まで
致道博物館
「出羽庄内藩酒井家の遺宝」
#
約四 の離島。昭和十九 も及ぶ地下壕を掘って抗
その後、島で最も多く
慰めた。
硫 黄 が 噴 出 す る と い ふ 渡せる 鉢山頂上、米軍 やかな風が吹き抜けたこ
将 が 指 揮 を 執 っ て ゐ た 自衛隊基地に帰着し、往 でいただけたのではない
の道を選ばざるを得なか
がら、北部にある「海軍 間といふ限られた訪島時 とを願った。
さて、かういった外国人が日本
が少な い と い ふ 言 葉 の 問 題 で あ
こととなり、まづは内宮の宇治橋、
てゐると思はれるが、来春には伊
勢志摩サミットが、五年後には東
京オリ ン ピ ッ ク が 開 催 さ れ る な
かつてはクレジットカードを使
理解を深め、満足して帰っていた
医務科壕」に移動。 び 間の密な日程のためか、
った経緯や、同神社の祭 照明弾が常に上がり昼か
秋草氏ら八人は北部の司
その後、一行は埼玉県 令部壕へ移動。途中、海
亙って語った。
入間市に移動し、市民会 上からの艦砲射撃に曝さ
館で結団式を開催した。 れながらも、秋草氏はな
まづ、同協議会国民主権 んとか地下壕に駆け込ん
確立委員会の新井文人委 だ。しかし、この時に負
員長が事業の趣旨を説明 った重傷のため三月二十
したのち、主催者を代表 六日の総攻撃には参加で
を訪れた際に寄せられる不満で最
して佐藤会長が挨拶。「本 きず、米軍の捕虜となり
一昨年の平成二十五年に初めて
一千万 人 を 超 え た 訪 日 外 国 人 数
は、昨年に千三百万人を超え、さ
らに本年は千八百万人に達する予
り、これは長年に亙って一位を占
神楽殿、参集殿付近で使用できる
想だといふ。
「ビジット・ジャパン・キャン
める定番である。そして近年にな
る。
ペーン」や「クールジャパン政策」
って増えてゐるのは、携帯電話等
やう準備を進めてゐる。一日あた
など、国が積極的に訪日促進活動
のインターネット接続が無料で可
りの接続回数と接続時間に制限は
へない場所が多いことが言葉の壁
だく一助になれば幸ひである。
あるものの、以前から作成してゐ
に次いでゐたが、近年はこれを逆
(総務部・井面健)
転し、調査によってはW i ― F
i の不備が不満の一位と な る こ
遅れだといふ。
能 なW i ― F i 環 境 の 整 備 の
ど、国際的に注目される催しが続
味を持ってわ
の外国人が興
される。多く
は増加が予想
くことから、今後も訪日外国人数
神神神神神宮
宮宮宮宮宮
神神神神神神神神神
宮宮宮宮宮宮宮宮宮
神
だだだだだだだだだだよよよよよよよよよよりりりりりりりりりり
が国を訪れ、
!
shimpo @ jinja. co.
ます。
稿の返却はいたしかね
す。不掲載の連絡、原
ただくことがありま
い範囲で編輯させてい
▽原稿は趣旨を変へな
をお送りします。
)
jp。 掲 載 分 に は 薄 謝
(
での受付もいたします
ください。電子メール
「投稿係」までお送り
番号を明記の上、本紙
名、年齢、職業、電話
▽郵便番号、住所、氏
なども歓迎します。
内で。イラストや漫画
の投稿は三首・三句以
▽「和歌・俳句・川柳」
八百字以内。
▽その他の随想投稿は
字数は四百字以内で。
などは「言霊」欄へ。
事・掲載論文への感想
▽意見、提言並びに記
投稿される方へ
神について、約三十分に 夜かも分からないなか、
米軍上陸から九日後、
宜が講話をおこなひ、自 が戦争なのか」と当時の
&
動に何度か参加してゐる を避けることができるの
が押し寄せ、海岸線の色
持ち寄った水を慰霊碑に 務科壕は戦跡巡り用の施 意見が寄せられた。
確保などを目的に硫黄島 て激戦がくり広げられ、 万人、米軍は約七千人に は、その様子を「人の帯 滑走路に降り立つと生暖 の暑さではなかったが、 が拝礼。続いて、参列者
懐。戦闘が始まると、米
かけ、当時、真水の確保 設だよ」と表現し、その
硫黄島は、東京から南 に進攻した。これに対し、 日本軍の戦死者数は約二 上ったといふ。
軍の激しい攻撃を受けた
に苦労した英霊の御霊を 他の壕の環境の苛酷さを なはれ、同財団の森田文
なんで、なんで……これ
京・ 國神社( 川康久 恨もないのに撃ち合ふ、
%
宮司)に参集。坂明夫
'
存自衛のため日本が戦争 思ひを静かに語った。
$
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! が変はっていった」と述
陣地から鉄兜や腕が飛ぶ
&
"
"
方約千二百五十 に位置 栗林忠道陸軍中将率ゐる
年には千人を超える島民 戦。昭和二十年二月十九
二十五日の午後一時、 参加者のうち希望者が東 光景が見えたといひ、「怨
外国人旅行者へのおもてなし
""
鉢山から望む、米軍が上陸した南海岸
海軍医務科壕の内部
が暮らし、ハーブや砂糖 日から一カ月以上に亙っ
て同財団が共催した。
平成十九年からおこなっ 継点確保や、爆撃機に随
#
就いてゐたといふ秋草氏 一時頃に硫黄島に到着。 どと、覚悟してゐたほど 体と遺族、青少年の代表 感じるほどだった。
米軍は、日本本土を爆
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誇れる歴史観を養ひ、確 属 と し て 残 留 し た と い
で、日本人として自国を ち成年男子百人以上は軍
こ の 事 業 は 、「 国 の 歴 黍、 摩芋の栽培などに
"
てゐる事業に、今回初め 伴する護衛戦闘機の基地
育成をおこなふ」ことを
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(第三種郵便物認可)
平成27年9月7日
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