没落予定なので、鍛治職人を目指す CK タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ 没落予定なので、鍛治職人を目指す ︻Nコード︼ N7940CN ︻作者名︼ CK ︻あらすじ︼ 前世でプレイしていたゲームのキャラに生まれ変わった主人公。 そのキャラとは悪役令嬢とともに没落し、晩年を夫婦として一緒に 暮らすクルリ・ヘランという男だった。 ゲームで詳細は描かれておらず、なぜ悪役令嬢と一緒になったのは わからないサブキャラ。しかし、そんなことはどうでもいい。 誰と一緒になろうとも貧しい農民として生きていくのは嫌なので、 手に職を持つことにする。とりあえずもともと才があった鍛治職人 1 を目指します。 2 1話 あの時止めておけば⋮。 りんごが食べたくてもぽっちゃりが木なんて登るもんじゃない。 そう思っても時はすでに遅く、俺は木の上から地面に落ちた。 しかも頭からだ。 痛いと感じるまでもなく意識は失われ、俺は使用人達によって家の 中に運び込まれた。 目覚めたのはちょうど1日後。 ﹁大丈夫かい?クルリ﹂ 心配そうに俺を覗き込むのは、母親のアイス・ヘラン。 頭から落ちたのが相当心配だったのだろう。どうやら看病してくれ たらしい。 が、今はそれどころじゃない。 頭を強く打った衝撃からか、俺は今前世の記憶を取り戻している。 前世では学生をしていたが、交通事故に遭ってそこから記憶が消え ている。 ああ、俺はあの事故で死んだのだろう。そしてこのクルリ・ヘラン が俺の今世の人物だ。 12歳、貴族の家の坊ちゃんで、まぁ甘やかされてきたから身体は 綺麗なぽっちゃり体型だ。 幸い顔立ちはいいから痩せればどうとでもなりそうだ。 裕福な家庭、恵まれたポテンシャル。まぁラッキーな生まれ変わり だと思ったのだが、﹁クルリ・ヘラン﹂俺はこの名前を前世の頃か 3 ら知っている。 ﹁幻想学園﹂俺が前世ではまりまくってたシミュレーションRPG だ。 主人公の女が恋愛をしながら、王族や有力貴族と仲を深め合う。 そんな主人公を疎ましく思うライバルが邪魔をするというのが主な ストーリーだ。バトルや育成なんかもあったので男の俺もめちゃく ちゃにはまっていた。 平民の主人公のいわゆるサクセスストーリーを描いたものなのだが、 どんな結末を迎えようとエンディングで絶対に出てくるのが、俺こ と﹁クルリ・ヘラン﹂なのだ。 エンディングは決まって主人公とライバル令嬢のその後の人生が描 かれる。 大抵は、主人公の幸せそうな将来が出た後に、貧しい農民として働 くライバルとクルリ・ヘラン夫婦が描かれる。 しかもこのクルリ・ヘランという人物。ゲーム中には一回しか出て こない。 食堂で豚みたいにご飯をかきこむ姿をライバル令嬢に﹁キモっ﹂と 言われるワンシーンだけだ。 これしか描かれてないのに、なぜか悪役令嬢とともに没落させられ ている。 詳しいことは何も描かれてないのにだ!! スタッフのいじめとしか言いようがないあのクルリ・ヘランの雑な 使い方。 なんども見たかわいそうなクルリ・ヘラン。 鏡の前に立つ俺の顔は間違いなく﹁幻想学園﹂のクルリ・ヘランだ った。 ﹁なんてこった﹂ 4 貴族の家に生まれたのに原因不明の没落ルートしかないなんて。 5 2話 原作では描かれなかった我がヘラン家は、いわゆる貴族の家系だ。 建国から王家に仕える由緒正しき家系なのだが、何代も傑出した者 が出ておらず衰退をたどる一方だ。 父親のトラル・ヘランも人柄こそ温厚で領民にも親しまれているが、 頭は悪く、魔法や剣も使えない。貴族の世界では王家に寄生する豚 と陰口を叩かれる始末だ。 母親もそんな父親を叱咤激励する様子もなく、夫婦二人でのほほん と過ごしている。 ﹁平和だ!!﹂ 実に平和な一家だ。 徐々に衰退しているとは言え、俺の代で破綻するほどでもない。な のになぜ俺クルリ・ヘランはあの悪役令嬢とともに没落したのかわ からない。 とは言え、俺は何度もあの悲壮感漂うエンディングを見ている。 ああはなりたくない。 貴族の世界で甘い汁を吸ってきたんだ、今更農民の生活なんて耐え れるわけないだろ。 俺は額に感じる脂汗を拭い、決心をした。 徐々に改善していこうと。 何が原因で悪役令嬢と一緒になるのかわからないし、もしかしたら 没落後一緒になった可能性だってある。 没落はもちろん避けたいが、没落してもいいように手に職をつけよ 6 うと思う。 手に職さへあれば生活はできるだろう。贅沢はできなくてもあのエ ンディングよりかはマシだ。 いや、どうせなら上を目指してやろう。その世界で頂点に立てば結 構いい生活が送れるはずだ。 なんなら没落後の悪役令嬢だって、喜んで迎え入れてあげようじゃ ないか。 確か顔は相当美人だったはずだし⋮。 そうと決まれば早速何を勉強するか決める必要がある。 俺たち貴族が通う学園は15歳から入学になる。18まで勉強して、 卒業後はそれぞれの道へと羽ばたく。 その3年間で﹁幻想学園﹂のストーリーが繰り広げられる訳だ。 俺は今12歳だから入学まで3年間ある。 何かをじっくりやるにはちょうどいい時間だ。 早速、親に相談したが﹁貴族が手に職をつける必要はないよ﹂と当 然の返答をもらった。 しかし母のアイスが﹁昔からあなたは剣や盾の造りにやたら詳しか ったじゃない。鍛冶職人のもとで学んでみたら?﹂ ﹁母さん、クルリに変なことを吹き込むな﹂ ﹁あら、子供が自分から何かをやりたいって言ってるのは素晴らし いじゃない。どうせ家で過ごすだけならいろいろ経験させてあげて もいいじゃない﹂ ﹁⋮、うんそれもそうか﹂ 両親が了承してくれたので、俺は母親が勧めてくれた鍛冶の仕事を 学んでみようと思う。 ゲーム中でも武器精製などはあった。ショップで売ってない武器な どを精製したりしていたなぁ。 そうと決まれば善は急げ、領内の鍛冶屋を探し回り、領民から腕が 7 一番立つと言われている鍛冶屋を訪ねた。 ﹁すみませーん﹂ 鍛冶屋の前にたち声を出したがドアは開かない。勝手に入っていい のだろうか。 店の看板には﹃ドンガ武器屋﹄とかかれているので間違いないはず だ。 恐る恐るドアを開けてみた。 建物に入ると、店の既製品が並べてあるスペースの奥から、リズム のいい金属と金属がぶつかる音がする。 ﹁ドンガさんいますか?﹂ ちょっとだけ大きな声を出した。 しばらくすると店の奥からドワーフ体型のおっさんが出てきた。 ﹁なんだ﹂ガラガラの声がなんとも威圧的だ。 ﹁あのー、弟子とかとってませんか?﹂ ﹁いきなりじゃな﹂ ﹁いきなりですみません﹂ ﹁筋のいい奴がいたら考えるが、お前さんは論外じゃ﹂ ﹁なんでですか?﹂ ﹁お前さん領主のバカ息子じゃろ。その小綺麗な服と贅沢な脂肪で すぐにわかる﹂ ﹁鍛冶職人は血筋を選ぶのですか?﹂俺は少しだけ挑発的に言った。 ドンガはちょっとだけ笑い﹁その高級な肉を落としたらはなしは聞 いてやる﹂ ﹁わかりました。また来ます﹂ 俺は素直に店を出て、家に戻った。 8 鏡の前にたち改めて自分を見つめなおす。 うん、ぽっちゃりだ。 12歳の美少年のぽっちゃり、自分で見てて癒し系だと思った。 この癒し系を捨てるのはちょっとだけもったいないが、痩せよう。 早速明日から運動でもするか。 9 3話 痩せるには、食事制限・・・否!運動でしょ! ランニングから始めて体が動くようになったら様々なスポーツに取 り組んでみようか。 そうと決まれば、まずは柔軟運動だ。 体作りは運動の基本の基本だからね。 早速体を伸ばしてみると、この体柔らかい、柔らかい。 なんとスムーズに体が伸びることか。 よっ、よっ、っと、うん、自分の思った通りに体がスムーズについ てくる。 素晴らしい体じゃないか。 こんなポテンシャルを持っておいて運動しないなんて、なんともっ たいないことか。 膝を痛めたくないので初日はウォーキングから始めたのだが、やは り体はすごく調子がいい。 1時間ばかり歩いたところで休憩をとったのだが、気分は高揚し体 はまだまだ動きたがっている様子だ。 けど、今日はここまで。 運動後の柔軟体操でクールダウンを済ませ、さっぱりとシャワーを 浴びた。 ﹁やぁ、父さま﹂ すれ違った父親に清々しい挨拶を送った。 父親の顔はぽかーんとしていた。 そういえば昼頃にこんなに爽やかなことなどなかった。 10 前の俺は今頃、ベッドの上で甘いものを貪っている最中だ。 運動したら喉が乾く。 いつもなら迷わず、自家製ハチミツたっぷりのレモネードをいただ くのだが、今日は天然の地下水を汲んで来て飲み干した。 ぷはー!ひんやりしていて爽快だ。 混じり気のない純水はやはりうまい。こんな恵まれた自然があるの にいままで俺はこれを活用してこなかったとは、なんともったいな い。 ﹁坊っちゃま、水汲みは我々に言っていただければいつでも新鮮な 水をお汲みいたします﹂ メイドのマリーが水汲みしている俺を見つけて声をかけて来た。 ﹁いや、これくらいのこと自分でできる。いつも迷惑をかけている から自分のことくらい自分でやらせてくれ﹂ ﹁そんな、迷惑だなんて﹂ メイドのマリーも冷や水を浴びたような顔をした。 そういえばメイドたちを気遣ったことも初めてな気がする。 我がヘラン領は自然が綺麗で有名だ。 草木が生い茂る豊かな大地であり、天然の花園など領内に10数個 ある。 建国の父、初代国王が﹁死ぬならこの地で﹂と愛してやまない土地 だった。 が、今の時代自然を愛でる豊かな心を持った人々は減ってきている。 領内への旅行者は年々減っており、更に特産品のようなものもない。 領民は貧しくなれば他領へと移り住んでいく。 うちの領内はこうして徐々にではあるが衰退しているのだ。 国王から恩賞をもらえたらいいのだが、あいにく我が一家はそうい った事には縁がない。 まぁそこらへんは少しずつ糸口を見つけて解決していこう。 11 まずは自分のことだな。 運動したあとは、暇になってしまった。いつもなら⋮何してたっけ? とりあえず昼寝かな。 しかし、これが全く眠れない。 頭が冴えてしょうがないのだ。 仕方なく我が家の書庫に行った。 そういえば書庫もはじめましてだ。 書庫と呼ぶには、遠慮がちすぎるほどに書庫は巨大だった。 3階建ての建物に1フロアずつびっしりと書棚に本が並んでいる。 フロアも相当広くかくれんぼには最適⋮、いや素晴らしい書庫だ! ﹁おやおや、坊っちゃん。ようこそ書庫へ﹂ 2階からひょこっと顔出したのは、モダン爺だ。ここの管理人、顔 と名前は知っていたがどんな人物かは知らない。 ﹁今日は如何様で?﹂ ﹁やぁ、モダン爺。頭が冴えてしょうがないのだ。何か面白い本は ないか?﹂ ﹁ええと、そうは言われましても、何か興味がある分野はございま すか?あと私はモランと申します﹂ ﹁ああ、すまないモラン爺。﹂モランだったか、名前も知らなかっ たようだ。 ﹁んー、じゃあ魔法書とか読んでみようかな﹂ ﹁魔法書ですか。15歳から学院で学ぶものですが、基礎くらいは つけておいても損はなさそうですな。﹂ そう言うとモラン爺は書庫の奥へと消え、しばらくしてまたひょこ っと顔を出した。 ﹁これこれ、これがすごくわかりやすい本でございます。入門から 初級の内容が主ですが、非常にわかりやすく書かれております。基 12 礎を固めるのは最適の本でしょう。最後の方に応用もありますので 興味があれば﹂言い終わるとモラン爺は本を2階から投げて来た。 入門﹄著 クリス・ヘラン なんとかキャッチしたが、見た目の割に大胆な爺さんだ。 ﹃魔法書1 あれ?著者ヘランって書いてる。もしかして御先祖様? 本の内容はモラン爺が言うとおりすごくわかりやすい内容だった。 初日の3時間で魔力を練り出すところまでできるようになった。 明日はこの魔力の性質変化について学ぼう。 夕方、食卓に並べられた夕食がいつもよりも輝いて見える。今、俺 は初めてお腹が減ったという気分になっていた。 いままでは常に食べていたからな。 肉や野菜やら、どれも領内で取れた新鮮なものたちだ。バランスよ くどれも美味しくいただいた。 ﹁あなた今日少しおかしかったけど、やっぱりいつものクルリちゃ んね﹂ 母親が安心した顔をした。 ﹁ごちそうさま。美味しかったよ﹂メイドに伝えると、いつもの砂 糖入りアップルジュースではなく、天然水をごくりと飲み干した。 ﹁やっぱりまだ頭を打った影響があるのかしら﹂母親は水を飲んだ 俺を見てやはり心配になった。 花園を覗きこむ綺麗な風呂にはいり、体に不釣り合いな大きなベッ ドに入った。 贅沢ないい生活だ。 俺は満足感とともに眠りについた。 13 4話 運動を開始してから一週間、顔に若干のスマートさが現れ、走れる だけの体力もついて来た。 魔法の方も火と水の性質変化に成功し至って順調だ。魔力量も順調 に増えていっている。両親とは違いクルリには魔法の才能があった ようだ。 早起きして、領内を駆け回る。領民が朝から働いているのが感心だ。 ここ一週間で近くの領民には顔を覚えてもらった。いままでも出不 精で顔を見せたことなんてなかったからなぁ。 走り出しても苦しさはなかった。それよりもテンションが上がりも っともっと速く走りたい気分になる。 やはりクルリの体はポテンシャルが高い。やった分はしっかりと成 果になって帰ってくる。動けば動くほどに体は軽くなって行った。 それでもあまり無理はしたくない。成長期に無理は禁物だ。 ほどほどに済ませると、いつもの書庫へと向かった。 実は基本の性質変化、雷につまづいていた。水と火は簡単だったの だが、雷はなかなか発動しなかった。 ﹁モラン爺、うまくいかないよー﹂ ﹁ほっほほ、何事も繰り返しが大事です。続ければできるようにな ります﹂ 流石はジジイの言葉、重みが違う気がした。 まぁ結局今日もうまくはいかなかったのだが。 14 夕食後、風呂上がりに自分の体を鏡で確認してみた。 うーん、顔だけでなく体にもいい変化がある。いい傾向だ。 運動、魔法の毎日をおよそ3ヶ月続け、クルリ・ヘランこと俺の体 は見違えた。 体はスマートに引き締まっており、顔はやはり美少年だった。 魔法の方も基本の性質変化は全てマスターしたし、魔力量なんかは ちょっとやばいくらい増えた。 体が軽い。ジャンプしたら飛んでいきそうだ。逆立ちも、一回転ジ ャンプも思いのままだ。もうぽっちゃり癒し系クルリとは誰にも言 わせない。 早速ドンガのおっさんのもとへ行こう。 馬を一頭連れて、飛び乗った。 さぁ駆けろ! 馬が走り出すと同時に俺は宙を舞った。 調子に乗りすぎた。乗馬がこれほど難しいとは。痩せてなんでもで きるようになったと錯覚してしまっていた。 ﹁クルリ様!大丈夫ですか!?﹂馬番が飛んできた。 ﹁乗馬を教えて欲しい﹂ ﹁は、はい﹂ 泥まみれの俺を馬番が立ち上がらせてくれた。 乗馬はなんといっても脚の力が必要になってくる。腿でしっかりと 馬の腹を締めなくては落ちてしまう。 最初の日は下馬とともに崩れ落ちた。まともに自分で立てないくら いに脚が疲れはてていた。 15 ﹁初めは誰でもこうですよ﹂馬番が優しく慰めてくれた。馬番いい やつだな。 それでもまぁクルリのポテンシャルの前には馬もひれ伏す。 あっという間に一週間が経ち、俺は乗馬ができるようになった。 ﹁ちょっと駆けてくる﹂といった具合に得意げだ。 これでいよいよドンガのおっさんの元へ行ける。 ﹁すみませーん﹂俺は﹃ドンガ武器屋﹄の入り口に立ち声を上げた。 やはり出てこないので勝手に入らせてもらう。 ﹁ドンガさーん!!﹂ ﹁なんじゃ!うるさい! ん?領主のバカ息子?﹂ ﹁あっはい、3ヶ月前にきたクルリです﹂ ﹁ほー痩せたのー。見違えたわい﹂ ﹁加冶職を習いに来ました﹂ ﹁ああ、そういう話じゃったの。まぁ入れ、使えんかったら追い出 しちゃるけえの﹂ ﹁よろしくお願いします!﹂ ドンガのおじさんんは見た目や言葉遣いとは裏腹に仕事は丁寧に教 えてくれた。 魔法が使えることを知ってからは、火つけの仕事は俺に回ってきた。 鍛冶場に入って雑用を1カ月ほど続けたあと、ようやく鍛冶職を教 えてもらえることとなった。 ﹁ここにきて1ヶ月じゃな。環境にも慣れたし、鉄打ってみるか﹂ ﹁お願いします!﹂煤で汚れた顔をタオルで拭きながら答えた。 16 ﹁鉄を叩くのは、鉄の不純物を取り除き、純度を上げるためじゃ。 それ以外にもバランスを整えたり、種類の違う鉄を混ぜ合わせたり するために叩く。 まぁなにはともあれ鉄を打ってなんぼの世界。打って打って打ちま くるのが何よりもの上達手段じゃ﹂ ﹁おっす﹂ ドンガのおじさんが言う通りに毎日を鉄を打った。 雑用や気付いたら接客、仕入れも俺の仕事になっていたので、ほと んど住み込み状態だ。 両親にはちゃんと報告しているのだが、﹁あの子、どうしちゃった のかしらと心配される毎日だ﹂ そんな生活が1年が続き、﹁すっかりお前も鍛冶場の男って感じだ な﹂とドンガの師匠からお墨付きをもらった。 細い体とは裏腹に俺の手はめちゃめちゃたくましくなっていた。 火傷のあと、まめ、傷口など無数にあった。 うーん、一年ってなかなかすごいな。 そんなある日、師匠から呼び出しをくらった。 ﹁これはお前が打った剣か?﹂ 師匠が持っていたのは昨晩俺が打った剣だった。 ﹁ええ、そうですが﹂ 師匠は絶句していた。 ﹁純度が高く、バランスはほぼ完璧なくらいに均等じゃ。わしがこ の領域に達したのはおそらく30代後半・・・﹂ 師匠がブツブツ呟いている。 確かにあれは出来が良かったが、最近はあのレベルなら安定して打 てる。師匠が気づいていなかっただけだ。 17 ﹁素晴らしい。クルリよ、お前に教えることはもうなにもない。こ こから先はもはや己と戦い。探求する者の世界になる﹂ ﹁えっ!?﹂ ﹁お前の技術がもうほとんど熟練のそれと変わらん。ここから先は 他人に教わることはできない。ひたすら己と向き合う世界になる﹂ ﹁はぁ、あのー今のレベルで飯が食えるって言うことでよろしいの ですか?﹂ ﹁ああ、試しにこの剣を店において置こう。きっとすぐに売れるじ ゃろう﹂ おお!! やった。手に職ゲットじゃないですか?! ﹁教えることは無くなったが、鉄は毎日を打っておけ、休むと腕が 鈍るからのぉ﹂ ﹁はい、ありがとうございました師匠!﹂ ﹁恐ろしい才能よのう。領主の息子なんぞに生まれてきたのがもっ たいない﹂ いやいや、それは普通ラッキーと捉えますよ。 家に久々に戻り、専用の鍛冶場を作ってもらった。 クルリちゃんが戻ってきたわーと家中大騒ぎだ。両親は特に嬉しか ったようで鍛冶場は必要以上に豪勢に作られた。 これからは、鍛冶場としばらく遠ざかっていた書庫を往復する生活 になるだろう。 剣を打てる、どうせなら剣を習ってみてもいい。うん、今度両親に 頼んでみよう。きっと反対されるだろうけど。 18 5話 領民がまた減った。 使用人は定期報告を終えそそくさと帰る。 ﹁平穏無事で何よりじゃ﹂父親がのんきなことを言っている。 ﹁そうですわね﹂母も同調する。 青ざめているのは俺一人だ。 先月、ダメ元でもう少し開拓農地を増やさないかと切り出したが、 あっけなく却下された。 やはりヘラン領は美しさが命、それを絶ってしまってはヘラン領の アイデンティティそのものを失ってしまう。 いまのままでは領民は減っていく一方だ。 モラン爺にも相談してみたが、﹁うーん、昔は観光客が多かったの がこの領地の強みだったのですが﹂というなんの解決にもならない 返答が帰ってくる。 ﹁ところで、魔法書1は読破されたのですか?﹂ ﹁ああ、基本の性質変化はもちろん、応用の物質変化、植物の生成 にも成功したぞ﹂ ﹁では次は魔法書2をどうぞ﹂ 著者はやはりクリス・ヘランだった。一体何者だろうか。 剣の教師にも最近から我が家に来てもらっている。両親には3日か けて説得して得た教師だ。剣の特訓中は余計なことは忘れて集中し た。 19 やはりというべきか、クルリは剣の上達も早い。うーん、この体で なぜ原作ではあそこまで太れたのか不思議だ。 ﹁最近、領内で地面から謎の音が聞こえる﹂ 領民から寄せられた悩み相談だった。父親のトラル・ヘランは特に 何も対応はしないつもりだ。 俺もなんとなくしか聞いていなかったが、ほんの気まぐれで様子を 見に行くことにした。 問題の場所へ行くと確かに地面からブクブクと音がする。 若干の振動があるのもまた領民を不安にさせている原因だろう。 ﹁1年くらい前から突然このような状態になりまして。幸い村から は離れていますので、被害は今の所はありません﹂ 領民の不満不安を取り除くのは大事な仕事だ。それが将来の没落回 避にもつながりかねない。 領民と調査すること1、2時間。 ふと俺の頭に明かりがついた。 待てよ、これ温泉じゃね? 源泉がこの下を流れているのだろう。領内に数カ所あると聞いた。 もしかしたら源泉が流れてどこも音がしているのではないか。 早速両親から金を巻き上げて働き手を30人ほど用意した。 俺自身もスコップ片手に作業に入る。 領主の息子の手前サボるわけにもいかず皆の仕事は効率よく進んだ。 ﹁わっあっつ﹂ 作業中、一人の声が皆の注目を受けた。地面から吹き出したお湯が 20 体にかかったみたいだ。 途端地面が大きく揺れ、ブクブクの音がより大きくなった。 ﹁みんな逃げろー!!﹂ 俺の声に皆が一斉に逃げ出した。 間一髪、源泉が溢れ出し、天然の巨大噴水が巻き上がった。 やはり温泉だった。 皆驚き固まったが、すぐにお祭りムードだ。噴水がおさまると巨大 な天然温泉が出来上がっており、辺りの花園が水にうたれて輝いて いた。 温泉につかりながら花園を見るのは至福のひと時だった。 帰って報告を受けたのだが、ツボを刺激したのだろう。領内の源泉 全てが吹き出し、一気に数十個の温泉ができたとのことだ。 これだ。 これだよ。 これこそが、ヘラン領復権の鍵になる! ﹁父上!我が領の温泉を売りに旅行客を増やすときが来ました。す ぐにでも温泉を客をむか入れられるよう整備しましょう!﹂ ﹁温泉か。湧き上がったらしいの。温泉ごときが売りになるのかい ?クルリ﹂ ﹁入ってみて思ったんです。花園を臨むあの景色、きっとうけます !!﹂ ﹁えー、しかし温泉か。 ラザン領は宝石が取れるし、国王軍の優秀な兵士はほとんどタリス マ領出身。我が領もそんなかっこいい売り文句が欲しいの﹂ ﹁温泉、最高じゃないですか! いいですか父上。来月の第一王子の誕生パーティーで我が領の温泉 21 をしっかりアピールしてくださいよ。貴族どもをこの地に呼ぶので す!!﹂ ﹁うーーん、わっわかったからこの話は終わりじゃ﹂ ﹁まずは整備の金をください﹂ ﹁わかった、わかったからそう父に迫るな。呼吸が苦しくなるわい﹂ ﹁ああ、すみません。無意識に父親にめちゃめちゃ迫っていたよう だ﹂ こうして温泉施設の整備は俺に一任された。 父親のあの様子だとあまり期待はできんな。 よし、俺もパーティーに行き宣伝するぞ! ⋮そういえばそういったパーティーは行った事がない。うーん溶け こめるかな。 しかも、第一王子って同い年のアーク・クダンか。 ﹁幻想学園﹂ヒロインの攻略対象の象徴的人物か。関わって大丈夫 かな? ちょっとだけ不安だ。 ﹁集中が途切れていますよ﹂ 剣の教師、リール先生に叱られた。 ﹁すみません﹂ ﹁何かあるなら打ち明けてください。その方が切り替えができてい いと思いますよ﹂流石は女性の先生だ。優しさが違う。 ﹁来月、第一王子の誕生パーティーに行くのですが、あいつ結構ク ールぶって嫌な感じだった気がするんですよ﹂ ﹁あいつとは第一王子のことですか?﹂ ﹁うん、なんか好きになれないタイプっていうか﹂ ﹁随分と親しげじゃないですか。クルリ様が少しお譲りになれば友 達になれると思いますよ﹂ 22 ﹁そうかな。不安だ﹂ ﹁ではプレゼントなどあげてみては?﹂ ﹁ああ、それいいね﹂ 剣の特訓が終わり、俺はすぐさま鍛冶場に入った。プレゼントでデ カイ剣もなんだし、作るなら護身用の短刀かな。 早速製作に入った。 師匠のところを出ても毎日打っていたからな。 出来上がった短刀は素晴らしい出来だった。 ﹁うん、自分で持ちたいレベルだな、これは﹂ 23 6話 王都についてからは両親とともに忙しい挨拶回りが待っていた。 有力貴族やら国に仕えるお偉いさんやら、パーティーが始まる前に もうクタクタだ。 夜になり、ようやく会場へと案内された。 当然だが皆正装だ。 俺はこういう場は初めてなので背広を新調してもらっている。 以前の可愛らしい体型とは違い、今は身長も伸びて正装が似合う好 青年になっている。 鏡を見ては自己満足し、また鏡をみつけて自己満足の繰り返しだ。 ﹁お集まりいただきました皆様方。 クダン王国第一王子、アーク・クダン様のご登場です﹂ 不意に司会からの一声があり、皆の視線を集めた。 視線の先から王子がこれまた煌びやかな佇まいであらわれた。 皆が拍手で迎える。 会場の前に居る女性陣の王子に向けられたステキ光線が気にはなる ものの、今日の主役登場で会場は一気に華やいだ。 ﹁皆様、今日は私のためにお集まりいただきましてありがとうござ います。領民の皆様のおかげで無事14歳まで健康に育ちました。 心より感謝致しております。 堅苦しい挨拶は以上にして、皆様会場の食事、音楽を存分にお楽し みください﹂ 王子は挨拶を終えると、舞台から降り、早速囲まれてしまった。 24 本来なら有力どころへ自分から挨拶しようと思っていたのだろうが、 下心満載の連中に捕まってしまっている。 嫌そうな顔一つせず対応している。うん、偉いなー。 両親は両親で他の領主たちとの会話を楽しんでいた。 あれっ!?そういえば会場中、既にグループみたいなのが形成され ている。 こういうのは徐々に作るものかと思っていたが、皆毎回顔を出して いるから知り合いがいるのは当然か! やばい!完全に取り残された。 パーティーの時間は刻一刻と過ぎる。誰にも挨拶できていないし、 なんか一人でいるのが恥ずかしくなってきた。 意を決して王子に挨拶に行こうと決めたが⋮ 王子を囲む集団に圧倒されてしまった。 いや、諦めるか! 俺は集団のやや外からひっそりと、王子を眺めた。 視線があえば、視線があえば﹁あっ王子、おめでとう!﹂っていう 感じで行ける!! じーと見続けたが、視線は合わない。 付き人で王子の親友のレイルとは奇跡的に目があったが、なんだ? あいつみたいな顔をされて終わった。 やばい、多分これ今日は無理だ。 ていうか、皆のプレゼントがすごすぎる。宝石をジャラジャラさせ ている間から、短刀をあげるのは恥ずかしい。 短刀を忍ばせて王子を遠くから眺めている俺、一歩間違えたら暗殺 者だこれ。 25 流石に諦めがつき、会場中知っている人物がいるか探してみた。 だれかー、だれかー。 ん?あれは? ふと見知った顔がいた。 あれって、第二王子のラーサー・クダンだよね。 年は2つ下で、現在は12歳か。 第一王子とは違い一人寂しく、音楽鑑賞をしている。 第一王子と第二王子でこうまで違うのか。 まぁ俺も第一王子の方に用があってきたしな。 とりあえず暇なので近づいてみた。 指で背中を一つつき、えいっ! ﹁えっえっ、な、なんですか?﹂ ﹁クルリ・ヘランと言います﹂ ﹁え、ああ、はじめまして、ラーサー・クダンです﹂ ﹁ヘラン領⋮知ってる?﹂ ﹁はい、トラル・ヘランさんが領主の﹂ ﹁温泉⋮あるけどくる?﹂ ﹁温泉?私なんかがお邪魔してもいいんですか?﹂ ﹁もちろんです! ヘラン領は綺麗で、最近湧き出た温泉もあります。きっといい旅行 になりますよ!﹂ ﹁ではお言葉にあまえます。準備が出来次第向かいますね﹂ やっった!一人勧誘成功! ﹁では、お近づきの印にこの短刀をあげます﹂忍ばせておいた短刀 を渡した。これで晴れて暗殺者卒業だ。 26 ﹁いい造りですね。ヘラン領にはいい職人もいるようですね﹂ ﹁いや実は俺の手作りです﹂ ﹁えっこれを!?すごい!是非つくっているところも見せて下さい﹂ ﹁いいよ﹂ 周りはグループとかできてて話しかけづらかったけど、第二王子と は仲良くなれた。温泉来てくれるらしいし、手ごたえありのパーテ ィーだったな。 父親の方はダメだったらしい。 何してんだよ。詰問しておいた。 領内に戻り、数日後、ラーサーより手紙が届いた。 一週間以内にきますっていう内容だったが、手紙を出すなんて律儀 なやつだ。 領内では既に噂が広まっており、歓迎ムード一色だ。 王族が来るのは建国以来ではないのか、領民たちがそんな話をして いるのを聞いた。 こんな穏やかな雰囲気とは裏腹に後日、俺と父親は胃をキュッとさ れる想いをする。 ﹁ラーサー様がおいでです﹂ 早馬に乗った伝令が王子の到着をいち早く知らせた。 間も無く着くとのことだ。 領民が屋敷までの道に行列をつくっている。 屋敷の準備も完璧だ。 あとは王子が来るのを待つだけ。 外から領民が騒ぐのが聞こえる。どうやら着いたようだ。 27 我が家の総出で迎えに出る。 やけに馬車が豪勢で、大人数なのが気にはなるが、ムードに乗って 騒いでみた。 ﹁トラル・ヘラン殿ですな﹂ ﹁はい﹂ 馬車の先導から一人が父親に向けて言った。 ﹁王妃のご到着です。失礼のないように﹂ ﹁﹁ええっ﹂﹂やばい、父親と全く同じ反応をしてしまった。 事実、続く馬車から出てきたのは、本物の王妃とラーサーだった。 急いで皆が頭を下げた。 ﹁顔をかげて上げて下さい﹂ 王妃の優しい声で顔を上げた。 綺麗な人だなー、純粋な感情が出てくるほどに美しい。 ラーサーが側で手を振ってるのが茶目っ気あってなんだか可愛い。 ﹁よよよよようこそおいで下さいました、ハーティ様﹂ 父親もこういうのは慣れてないらしい。朝食を吐き出しそうな顔を している。 ﹁あまり外へ出たがらないラーサーが自分からヘラン領へ旅行に行 くと聞いて、嬉しくて着いてきました。あまりかしこまらずに、い つも通りで大丈夫ですよ。温泉楽しみにしております﹂ 王妃は花園も見てまわりたいとのことで、一応ある観光ルートを父 が案内することになった。 俺とラーサーは観光ルートを逆からまわる。 28 乗馬ができるようなので、こちらは乗馬でまわることにした。 流石は第二王子。パーティーでは一人だったが、外ではおつきのも のが3人常についている。 ﹁お招きありがとうございます、クルリさん。母も久々の旅行で楽 しんでいます﹂ ﹁いえ、まさか本当に来ていただけるなんて﹂ おつきのものの視線が怖くて、なんか気軽に話せない。 ﹁クルリさん、乗馬は得意ですか?﹂ ﹁まぁほどほどに﹂ ﹁私のおつきのものたちは鎧やら武器で重装備です。駆けて彼らを 振り切りませんか?﹂ 意外と悪いやつだなーと思った。誘いには乗ったけど。 馬の質の違いもあったのだろう。あっという間に振り切り、二人で ルートを逸した。 ﹁旅行は自由にまわるのが醍醐味ですからね﹂綺麗ない笑顔だが、 イタズラ小僧のそれにも似ていた。 ﹁うん、その通りです﹂ ルートからは逸れたが俺のよく知る地だ。穴場スポットをこれでも かと教えてあげた。 何よりも水のうまさが気に入ってくれたようだ。 俺の指示のもと整備した温泉施設も自慢した。ラーサーは嬉しそう に聞いてくれている。うーん、ありがたい、ありがたい。 ﹁クルリさん気をつけて、どうやら森に近づきすぎたみたいです﹂ ラーサーの視線の先に狼型の魔物がいる。 幸い群れではなく、老いた一匹のようだ。 ﹁クルリさん、私に任せて下さい。私ひ弱ですが、魔法は得意なん 29 ですよ。 発火せよ!ファイア!﹂ ラーサーの放った魔力が火となり、魔物をとらえた。 背中から火が魔物の体を覆うが、魔物は逆上しこちらの突進してき た。 ﹁そんな!?﹂ ﹁焼き尽くせ!ファイア!﹂ 今度は俺の魔力が火となり狼をとらえた。動きを抑え、そのまま焼 き尽くした。 あたりには異様な匂いが充満した。 ﹁すごい!これほどの魔法を使えるなんて﹂ ﹁いやぁ、まぁね﹂炎魔法はよく使うしね。 ﹁鍛冶の仕事もレベルが高く、領民を統治する器もある。おまけに この魔力。ああ、アニキと呼ばせて下さい!!﹂ ﹁えっと、いいよ﹂ つい調子に乗ってしまったが、いいのか?まぁいいか。 我が家に戻ると王妃様も戻っていた。おつきのものがカンカンでは あるが。 ﹁おお、クルリ。ではハーティ様、温泉の方は息子が詳しいので案 内させます﹂ 逃げたなあの父親。 ﹁花園に囲まれた温泉があると聞いています。楽しみですわ﹂ ﹁ええ、宿もできたばかりで、王妃様とラーサー様が一番客になり ます﹂ ﹁それはラッキーね、ラーサー﹂ ﹁はい、母上﹂ 30 ﹁まぁ綺麗﹂ 温泉に着き、王妃様は感嘆した。 湯けむりが花園に降りかかり、幻想的な空間を作り出している。 温泉に入ればあたりに見えるのは煌びやかな花たち。空は青く、手 元には透き通る温泉しかない。領内最高の温泉がここだ。 ﹁ところで、この温泉にはどのような効能がおありで?﹂ 知らぬ!! ﹁温泉自体の効能は呼吸器系の異常緩和。ただしここの温泉は特別 でして、花園に囲まれているゆえ、花の成分が温泉に溶け出してい ます。これが肌の美白、美容に効果絶大でございます﹂適当に言っ ちゃった。 ﹁まぁ、本当に素晴らしい温泉ですわね。一刻も早く入りたいです わ﹂ ﹁花の養分が溶けだ出して温泉の香りは素晴らしいものになってい ます。上がった頃には気づかれる思いますが、体にも花のいい香り が残りますよ﹂ ﹁素晴らしい、もう私待ちきれません!﹂ うわっ、めっちゃ食いついた。 案内を済ませ俺とラーサーは男湯に入った。 女の風呂は長い。体が冷めた頃ようやく王妃が出てきた。 聞かずともその恍惚とした顔から満足感が伝わってきた。 香りが特に気に入ったようで、結局2日滞在の予定が、この人7日 も滞在していった。 王妃が広めたのか、王妃が来たことが広まったのか、次月我が領の 旅行者は50倍も増えた。 ほとんどが美を求める奥様方であり、彼女らは美のためなら金を惜 31 しまず、領内に金をじゃんじゃんおとしてくれた。 クルリ・ヘラン、わずか14歳にして、美の恐ろしいまでの魔力を 知る。 ﹁父さん、母上って美容にどれくらいお金使ってるの?﹂ ﹁ふふ、クルリが知るにはまだまだ早い﹂ 父親の顔に若干の悲壮感があったのでそれ以上は聞かなかった。 32 7話 マリア・クダン。 国王の長女で、弟のアークは次期国王。 つまり、私=最強の女と言い換えてもよし! この度、お忍びでヘラン領へ来ております。 お忍びというのは、ヘラン領の温泉が美肌に効くとかで是非入りた かったのですが、一国の姫がおいそれと流行りに乗るのはどうかと 思いまして。 結局我慢できずに来たわけですが。 来て正解でした。 肌がすべすべして、香りで癒されます。 なんと素晴らしい温泉なのでしょうか。 お忍びですが、一応この温泉を整備したクルリさんにはお礼を申し 上げておきますか。 母と弟がお世話になっていますし、当然ですわね。 うーん、聞いた通り温泉から上がっても香りが体にも残っています。 これなら帰りの旅路も楽しくすみそうですね。 ﹁ヘラン殿のお屋敷へ。お礼を申し上げたら王都へ戻ります﹂ ﹁はっ﹂ 従者が応え馬車はヘラン邸へと向かった。 33 ﹁ひひひひひ姫様!?﹂ 領主が出迎えてくれたが、とても驚いていますわね。 まぁ私は最強の女ですから当然の反応ですけど。 ﹁クルリ・ヘランさんに温泉のお礼と、先日母と弟がお世話になっ たお礼を申し上げにきましたわ﹂ ﹁えーと、クルリは今、夏の避暑地の開発にでロンシュ滝へ行って いるところです。 わざわざお越しいただいたのに本当に申し訳ございません姫様﹂ ﹁いいえ、かまいわせんわ。 では、クルリさんへの挨拶はまた後日改めさせてもらいます﹂ ﹁恐れ多いことです。ですが、来られるのならいつでも歓迎いたし ます﹂ ﹁ところで、夏の避暑地の開発とは具体的に何を行っているのでし ょう?﹂ ﹁申し訳ありません。 お恥ずかしながら、私には息子のやっていることはよくわかってい なくてですね。 えーと、確か、滝がパワースポーツ、いやパワーアップ、いや、そ うだパワースポットだとかなんとか言って出て行きました﹂ ﹁パパパパ、パワースポット!?﹂ おっと危うく動揺を隠しきれないところでした。 ﹁そっそれはなんですの?﹂ ﹁すみません。私もよくわからないのですが、神秘だの運勢が良く なるだのとクルリが言っていた気がします﹂ 神秘!?運勢!? 34 ﹁⋮我が国の領地を確認するのも王族の大事な役目でございますわ。 私、領地を見て回るついでに、滝でクルリさんに挨拶してまいりま す﹂ ﹁えっしかし、今は街道などなくあまり通りやすい道ではないので すが﹂ ﹁構いません。領民の生活を知るいい機会ですわ﹂ ﹁はぁ、では案内のものをつけさせます﹂ ﹁よろしくお願いしますわ﹂ ﹁クルリ様!!﹂﹁クルリ様!!﹂﹁クールーリー様!!﹂ ロンシュ滝はとてつもなくでかい滝だ。 早馬でやってきた使いのものが、大声をあげて数回呼んでやっとそ の存在に気づいた。 ﹁どうした!!﹂ ﹁王都より来客です!!﹂ ﹁だれだ!!﹂ 真横で話しているのにお互い本気で叫んでいる。 ﹁だれとは聞いていませんが!!髪がくるっくるの来客です!! なんでもお忍びで来ているようでして!!領主様がクルリ様に知ら せるようにと!!﹂ ん?髪がくるくる?だれだ? ﹁クルリ様!!王都の有名な音楽家ではないでしょうか!!おそら く温泉のお礼とかでしょう!!﹂ 開発作業のため連れている50人の働き手の一人が声をかけてきた。 彼もやはり叫んでいる。 35 ﹁なんで音楽家!!?﹂ ﹁音楽家に限らず!!王都では芸術に携わるものの間で髪をくるく るにするのが流行っているらしいです!!﹂ ﹁へえーそうなんだ。ところで君は何者!!?﹂ ﹁名前はロツォンです!!普段は農地を耕していますが、こういっ た臨時の仕事があれば受けています!!ちなみに温泉発掘のときも いました!!﹂ ﹁ああ、いた気がする!!めっちゃ良く働いてた人だ!!﹂ ﹁いえ、そんな﹂ ﹁なに!!?よく聞こえない!!﹂ ﹁いえ!!特に何も!!﹂ ﹁有名な音楽家ならきっと父上が対応しているだろうし、問題ない か﹂ ﹁なんですかクルリ様!!?よく聞こえないです!!﹂ ﹁いや!!なんでもない!! ここの調査は済んだしみんなー!!次の目的地へ行くよー!!﹂ 滝の音で聞こえているか心配だったが、伝言でちゃんと後ろまで届 いたようだ。 ﹁間も無く滝につくようです﹂ 従者が案内の説明を伝えてくれた。 パワースポットがいかなるものか、この目で確認しなくては。 ロンシュ滝。 いざ近づいてみるとものすごく大きい。 音が大きすぎて、周りの音が全て消される。 36 水しぶきが細かく飛んできて、すごく呼吸がしやすい。 これがパワースポット? 何かが起きるのではないのかしら? それとももう起きているのかしら? でも、なんだかここに立っていると力がわき上がる気がするわ。 これがもしかしたらパワー!? しばらく目を閉じて感じておこうか。 ﹁姫様!!﹂ ﹁姫様!!﹂ ﹁姫様!!﹂ 従者が数回大声で呼んでいたらしいが、全く気づかなかった。 きっとこのパワースポットが私の意志を支配していたのね! パワースポット素晴らしいわ。 ﹁近くの村人が言うには!!どうやらクルリ様は既にここを立って !!次の開発地に向かわれたようです!! 追いますか!!?﹂ ﹁いえ、私はもう少しこの地にいます﹂ ﹁え!!?なんです!!?﹂ ﹁もう少しこの地にいます!!! ところでクルリさん達はどちらへ!!﹂ ﹁キリ湖に向かったとのことです!! 精霊の水がどうたらこうたらと!!集団で話しながら向かっていた そうです!!﹂ ﹁せせせせせ精霊の水!?﹂ ﹁なんです!!?﹂ 37 おっと危うく動揺がばれてしまうところでした。 ﹁そっその精霊の水とは何でしょう!!?﹂ ﹁えーと!!普通水が綺麗すぎると魚は生きていけないのですが! !どうやらその湖は水がどこよりも透き通って綺麗なのに多種多様 の魚が住んでいる秘境だとか!!﹂ 秘境!? ﹁その水の秘密がわかれば国益になるやも知れません!!すぐに向 かいます!!﹂ ﹁はっ!!﹂ ﹁クルリ様、何やら村人が報告したいことがあるようで﹂ 湖の調査中、ロツォンが声をかけてきた。 後ろには村人が控えている。 ﹁どうした!!?﹂ ﹁えっ!?﹂ おっとつい滝同様叫んでしまった。 ﹁どうしました?﹂紳士的に聞いてみた。 ﹁クルリ様たちが先ほど調査していた滝ですが、何やら思いつめた 表情で女性が立ち尽くしておりました。もしやあれは身投げでは⋮﹂ ﹁えっ身投げ!? 困るよ。あそこは観光ルートの目玉なのに。 変な噂が立つとまずいなー。 わざわざ知らせてくれてありがとう。 38 はい、これお礼﹂ ﹁ありがとうございます﹂ こういった情報がありがたい。 礼は惜しまない方が後々いいだろう。 銀貨1枚を情報料として村人に支払った。 ﹁クルリ様﹂ロツォンさんが話しかけてきた。 ﹁あの滝はむき出しの自然が何よりもの魅力です。ですが、音が大 きすぎて恐怖を感じる方も多いのでは? 柵などを作っておけば事故も起きづらいし、それで安心して観光を 楽しめる方も多いと思います。管理人などをおけば身投げしようと するものも近づかないのでは?﹂ ﹁うん、いいね。じゃあ柵は後日張りに行こう。 ロツォンさん、なんかすごいね。 昔、何か学んでたりしたの?﹂ ﹁いえ、自分は農作業だけの男です。管理人ですが、私の弟でよろ しければ明日からでも向かわせます﹂ ﹁じゃあ弟さんに頼むよ。みんな次行くよー!﹂ ﹁うーい!﹂ ﹁間も無くキリ湖でございます﹂ ﹁はい﹂ パワースポットの次は精霊の水か。 どこまで私を楽しませてくれるのかしら。 ﹁ぐへへへへ﹂ おっと、はしたない。 39 キリ湖、綺麗な場所ですわね。 湖を囲む木々はあれど、日差しがいいためすごく安心する。 湖は波一つ立たず、穏やかな水面が広がっている。 とても広い湖だけど起伏がないため奥までよく見える。 さて精霊の水はどう活用したらよろしいのかしら。 やはり飲むのかしら。 早速一口手に取り、飲んでみた。 ﹁うまい!気がする!﹂ こんな水で泳いでいる魚はどんな味なのかしら﹂ 後ろをみると従者の姿はなかった。 クルリたちがいないのを見て、また聞き込みに行ったらしい。 ふん。従者などいずとも、私は最強の女。 魚くらい己の手で捕まえますわ!! 水分をおもいっきりすいそうな服だけ脱いで、軽く体操する。 そりゃ!! 潜水開始! 魚を視認! 息つぎのため浮上! もう一度潜水! 無機物にように魚に近づき、エラめがけて手刀を一撃! すぐさま浮上! ﹁ふん、たわいもないわ!﹂ ﹁お嬢様ーーー!一体、一体、なーにをしておられるのですか!?﹂ ちょうどもどった従者があわてふためいている。 ﹁魚を少しばかりね。この魚さばいてくださる?﹂ 40 ﹁ええ、構いませんが。 しかし!姫様!このようなことはおやめ下さい。もしものことがあ っては遅いのですよ!﹂ ﹁今後は気をつけますわ﹂ ﹁はぁ、わかりました。 それとクルリ様たちの情報を得てきました。 どうやら別荘を建てる地を見つけたようで、トータペイルの丘へ向 かったとのことです﹂ ﹁わかりましたわ! ところでその別荘地は何か特別な逸話なんかあったりしてー﹂ ﹁・・・昔、病にかかった子供がその丘で一晩過ごしたのち病が治 ったという逸話はあるようですが。 所詮噂レベルです。到底信じられませぬな﹂ ﹁わかったわ。 すぐに追います﹂ ﹁おっお嬢様、もうしかして信じていらっしゃるのでは? ﹁まさか﹂ ﹁クルリ様、また村人がきました﹂ ﹁なんだろう﹂ ロツォンさんが何かを知らせたいという村人を連れてきた。 ﹁クルリ様たちが先ほど調査していた湖ですが、子供達が溺れてい る女性がいたと騒いでおりまして、あまり人がおぼれるとか言った 話のある湖ではないのですが。くれぐれもお気をつけください﹂ ﹁えっまた!? 41 なんか今日ついてないなぁ。 報告ありがとう。これお礼ね﹂ ﹁ありがとうございます﹂ ﹁困ったなぁあそこは海水浴場として活用しようと考えていたのに﹂ ﹁クルリ様、私に別の案があります﹂ ﹁ん、言ってみてよロツォンさん﹂ ﹁あの湖は綺麗で泳ぎやすいことは確かです。しかし、実のところ 深いところは水深30mにもなります。十分に事故が起こる可能性 のある深さです。 それにあの湖周辺は夏でも朝方は冷えます。 魚が多い湖ですので、いっそボート専用にし、釣りを楽しんでもら っては? ちなみに私の妹は水泳が得意でして、湖を管理させればおぼれる人 もいなくなるでしょう。 よろしければ明日からでも妹を向かわせることができますが﹂ ﹁うん、ロツォンさんやっぱりすごいよね。それ採用!キリ湖は妹 さんに管理してもらおうか﹂ ﹁ありがとうございます﹂ ﹁もうロツォンさんここの別荘地の管理人になってもらってもいい かな?﹂ ﹁ありがとうございます。謹んでお受けします﹂ ﹁よろしく。 じゃあ帰ろっか。 みんなー今日はこれで終了です。 賃金を受け取ったら各自解散で﹂ ﹁うーい!﹂ ﹁今日はいろいろあって疲れたけど、ロツォンさんがいてくれて助 42 かったよ﹂ ﹁いえ、こちらこそ弟と妹と私に仕事を任せてもらって、大変感謝 しています﹂ ﹁いやいや、これで避暑地計画もうまくいきそうな気がするよ﹂ ﹁あっ、クルリ様目の前に﹂ ﹁あっ!髪くるっくるだ﹂ 帰り道に馬車に乗った芸術家っぽい男を見かけた。ロツォンさんの 言う通り髪はくるくるだった。 馬車も豪勢で、きっと王都から来たお客人はあの人に違いない。 ﹁ちょっとあいさつしてくるよ﹂ ﹁いや、あれは温泉上がりでリラックスしている御様子。クルリ様 が声をかければ向こうもある程度かしこまるはずです。ここは素直 に見送った方があちらも心地よくかえれるかと﹂ ﹁それもそうだね。流石だよロツォンさん﹂ ﹁いえ、私なんか褒めるには値しません﹂ 家につき、1日よく働いたからすぐに休みたかったが、父親が飛ん できた。 ﹁クルリ、王都からな﹁ああ、さっき会ったよ。向こうも帰り路だ ったのであえて止めず一礼だけして見送りました﹂ ﹁おっそうか。それは良い判断だったかもな。いやー、父さんにと って嵐のような1日だったよ﹂ ﹁いやいや、こっちも結構たいへんだったよ﹂ ﹁そういえば、トータペイルの丘に素手でクマをなぎ倒した野蛮人 が出たそうだが、お前は大丈夫だったか?﹂ ﹁うん、会わなかったな。すごい人もいるもんだ。 43 明日、ロンシュ滝に柵張りにいくから、資金よろしく﹂ ﹁ほっほ、お前の温泉でがっぽりかせいどるからの。よいぞ﹂ 44 8話 ﹁やぁやぁ、久々においでくださいましたね、坊っちゃん﹂ ﹁やぁモラン爺﹂ ﹁ほっほっ、最近は精力的に活動しているようですな。姿もたくま しい青年のそれになってきている。まるで子供の頃とは別人のよう じゃ﹂ 流石は歳食ってるだけあって人をよく見ている。 ﹁まぁね。モラン爺の若い頃のように、この地にも結構な活気が戻 ってきたんじゃない?﹂ ﹁私は若いときこの地にはいませんでしたが、たしかこんなに活気 はなかったように思います。 まさに今がこのヘラン領が最も栄えている最中ですよ﹂ ﹁へぇー、今が一番か﹂ うん、うん、油断はダメだがいい流れなのは間違いない。あとは大 きく踏みはずさなければ問題ないのでは? いまはまだ出会っていない将来の嫁を俺が御すことができれば⋮ それはまた来春に考えるとしようか。 ﹁久々にね、書庫で魔法書を読もうと思って。ここがやっぱり一番 集中できるから﹂ ﹁そうですか。私がいる間は最高の勉強空間を提供いたしましょう﹂ ﹁どうも﹂ ﹁魔法書2は内容も難しくなっておりますが、いかかがですかな? 坊っちゃん﹂ ﹁難しいね。でも4回5回と読み通しているうちにわかるようにな ってきてるよ﹂ 45 ﹁それは良いことです。学ぶということの基本を知ったようですな﹂ ﹁モラン爺ってさ、どこで学識を積んだの?﹂ ﹁私は独学でただ本を読みあさり、学識をつけているだけの老人で す。高齢にして書庫番という仕事を得たラッキーな人物ではありま すがね﹂モラン爺は笑っていた。 ﹁ぱっと俺にこのシリーズの魔法書を手渡すあたり、モラン爺には 相当な学識があると思っていたよ。まさか独学とはね。 まぁいまの話を全ては信じてはいないけどね﹂ ﹁ほっほっほ、あまり老人をからかわないで下さい﹂ 会話を少しばかり楽しんで、俺もモラン爺も自分の作業に戻った。 モラン爺は一日中本を読み漁っている。書庫の本は全て読み終え、 何がどこにあるかも把握している。与えられた予算で新書を入手し、 読み漁るのが今の彼の仕事であり、楽しみでもある。 老人に幸せがある国はいい国だと聞いたことがある。 それで言うとヘラン領はいい領地ということになるな。 魔法書2の内容は、魔力を本体から切り離した後の維持に主眼が置 かれている。 性質変化で生み出した炎も、物質変化で生み出した植物も、魔力が 手元から離れてはその形態を長時間は維持できない。 あくまで現状の俺の力ではだ。 魔力が本体から切り離されてなおその姿を維持し続ける。これをマ スターすれば魔法書2も完了だ。 内容は理解したし、物質変化で出した植物も独立した物質として維 持することに成功した。 今日書庫にきて集中してやりたかったのは、応用編の魔道具政策だ。 46 主体となる道具に、例えば物質変化であれば鉄から花を咲かせるこ とが可能だし、性質変化であれば年中冷たい鉄なんてものも製作可 能だ。 まぁ理論上であって、まだ俺が成功したわけではない。 そこで今日は主体となる道具、リンゴを持ってきた。 加えるのは水の性質変化。 水と言っても、魔力をハチミツに限りなく近い状態に性質変化させ、 それをリンゴへと留める。 魔力で作ったハチミツのためリンゴには自然と吸収された。 見た目は普通のリンゴだ。 割ってみるとリンゴから魔力が溢れ出てしまう。 まだまだ上手くいかないようだ。 これが上手くいけばめっちゃ美味いリンゴができると考えているの だが。 モラン爺の教えの通り、これも繰り返しだな。 モラン爺は読書に没頭している。 俺はリンゴに魔力を込め続けた。 ﹁坊っちゃん、一体何をされているのかな?﹂ ﹁ああモラン爺﹂どうやら彼の意識が現実世界に戻ってきたようだ。 ﹁応用編のね、魔道具製作を行っている最中だよ﹂ ﹁リンゴにですか?﹂ ﹁うん。とんでもなく甘いリンゴを食べてみたくてね﹂ ﹁ほっほっ、変わったことをやりなさる。 普通、魔道具製作とは指輪や剣、防具などに対して行うものです。 魔道具となった指輪を装備して戦うという使い方、剣に性質変化を 起こさせて使うやり方などが一般ですね。 47 食べものを魔道具にしようというのは初めて聞きました﹂ ﹁そうなの!?そんな使い方もったいないじゃない﹂ ﹁ほっほっ、人の考え方はそれぞれ。 ちなみに今回の件に関しては坊っちゃんがイレギュラーですな﹂ ﹁モラン爺も試したことないの?﹂ ﹁ないですな。自分で出した魔力を自分で取り込む。ありそうで、 なかなか試そうとは思いません。 そもそも魔法を外部に維持できる使い手がそう多くありません。坊 っちゃんは既になかなかの使い手ということです﹂ ﹁へぇ、純粋な魔法による戦闘だと俺はどれくらい強いかな﹂ ﹁んー、外部に維持できなくとも強力な性質変化、物質変化だけを 追い求める方たちもおられます。 戦闘面においてはまだまだですかな。ほっほっほ﹂ こういった話は他では聞けない。流石のモラン爺といったところか。 ﹁ふーん﹂ ﹁リンゴできたけどモラン爺もいる?﹂ 夕方頃、2階で読書に勤しむモラン爺の下の一階で俺の製作は完了 した。 ほぼ完璧に魔力をリンゴに留めておくことができるようになった。 ﹁遠慮しておきます。老人ですので体をいたわらなければ﹂ ﹁それ、ちょっと失礼だよモラン爺﹂ ﹁ほっほっ、じゃあ次は3巻をどうぞ﹂ モラン爺め、本を投げてくるとスルスルと書庫の奥へと逃げて行っ た。 とは言ってもいざ食べるとなると、途端に俺も怖くなってきた。 ﹁よし、食べよう﹂ 48 と何度宣言したことか。 しょうがない。こうなったらあの手だ。 毒味にちょうど最適な人物がいる。 ﹁父さん﹂ ﹁なんだいクルリ﹂ 暖炉の前でくつろぐ父親を見つけた。 ﹁リンゴをとってきたんだ。とっても甘いよ。 父さんは領主の仕事でいろいろかかえこんでいるだろうしさ、体調 崩さないようにしっかり栄養つけてもらいたいんだよね﹂ ﹁あぁ、クルリよ。お前は本当に親孝行な息子だ。 思えば3年前にリンゴをとるため木に登って、落ちて以来お前は少 し変わった。 あれから私はね、りんごを見るたびに﹁まぁいいから、たべてよ﹂ ﹁おっおう、わかった﹂ リンゴを手渡すと、父親は丸被りするのに少し抵抗があったのだろ う。 ちらちらとこちらをうかがったが、あきらめてかぶりついた。 ﹁ん!!!うまい!! なんという強い旨み成分!リンゴはまだ幼くその実の堅さと酸味を 残しつつ、完璧までとも言えるほどの甘みを有している。しかもこ れがまた不思議とさっぱりした味だ!甘みはいくつもの甘みが混ざ っているかのような豊潤さをもっており、口の中に溶け出す果汁は まさに至高の天然スープ!先ほどつまみ食いをしており正直腹は膨 49 れていたが、そんなこともお構いなくこのリンゴはダイレクトに胃 へ侵入してくる!もう一つ、もう一つと口が勝手に騒ぐ!もはやこ の旨みを口で語るには言葉があまりにも枯竭しているーーーー!! !﹂ ﹁・・・﹂ なんだこいつ。腹パンしたい気持ちを抑え、俺は部屋を出た。 そんなにうまいのか。 結局父親がもっとせがんできて、父が騒ぎ終えるまで作ってあげた。 夜になり、風呂を終え自分の部屋に入った。 目の前には今日魔力を込めたリンゴが一つ。 夕食を食べたので正直気は進まなかったが、父親があれだけ饒舌に 語るのだ。 一口だけ。 ﹁うまい!!口の中に広がる深い甘みが・・・﹂ おっと危うく父親の二の舞を踏むところだった。 さて寝ようか。明日もやりたいことはたくさんある。 父親が食べ終わった後にすごく疲労が抜けるような感じがしたと言 っていたが、俺は現状そんなことはない。制作段階での違いがでた のか? まぁ深くは考えないようにしよう。目がさえてしまう。 ・・・おかしい。 体が熱い。ランニングした後のように体が熱く、頭は興奮する。 なぜだ!? 一つしかない。リンゴだ!! ベッドから飛び出し、叫びだしたくなる気持ちを抑え冷静に自分を 50 観察した。 魔力があふれ出している。 体の中から膨大な魔力が洪水を起こしているみたいだ。 自分の魔力を込めた真道具を自分で食べたらこうなってしまうのだ ろうか?合理的に考えればそれしかない。 魔力だけではない。なんだか俺は今、ベッドを持ち上げられる気が する。そんな気がするのだ!! ﹁よっと﹂本当に持ち上がった。 また叫びたくなる気持ちを抑え、ベッドをゆっくりおろした。 俺は今無敵だ!そんな気分にさせられる。 もう今日は眠れっこない。どうせのついでだ。この状態、スーパー モードと名付けよう、を領民のために役立てよう。 領地に観光客が増えだしてから領民は豊かになってきている。領民 の移住がここ最近は激増している。 人が増えて困るのは食料問題といつも相場は決まっている。 こんど居住区になる土地のめどはついている。地下水が通っている ことも知っている。 ならば井戸だけでも今晩掘っておこう。 ﹁うおおおおお!!﹂やってやるぜーー!! ﹁弟よ、なぜ有名な盗賊﹃黒い影﹄の我々がこんな田舎のヘラン領 に来たと思う?﹂ 黒いマントで体を覆った怪しげな男が口を開いた。 51 ﹁さぁ﹂ こちらも黒いマントに体を包んだ、体躯の大きな男が答えた。 ﹁では、今回の仕事を説明しよう﹂ ﹁ああ、たのむよ﹂ 如何にも物騒な会話をしている二人なのだが、場所は酒場。ふたり の話に聞き耳を立てているような人物はいない。 ﹁このヘラン領はな、歴史上唯一記録が途絶えている土地なのだ。 理由はわからない。しかし、途切れる前の記録はどれもこの地を不 毛の地として記している﹂ ﹁この花咲き乱れる地が、不毛の地か﹂ ﹁そうだ、歴史上と全く違く姿が現在のヘラン領にはある﹂ ﹁続けてくれ﹂ ﹁初代国王、マーレー・クダンがこの地を大層好んでいたのは知っ ているな﹂ ﹁もちろんだ﹂ ﹁その気持ちは熱く、この地で死ぬことを望んでいたほどだ。 本題に入る。今回のターゲットはその、初代国王の隠し財宝だ﹂ ﹁未だ見つからない初代国王の財宝か。それがこの地にあると?﹂ ﹁歴史から消された記録然り、モランという国王直属の歴史家がわ ざわざこの地に移住したのもあやしい。極めつけは、領主の息子ク ルリ・ヘランの動向だ﹂ ﹁ああ、確か温泉を掘り当てた領主の息子か﹂ ﹁その通り。やつめ人を雇ってはこのヘラン領を調査しているよう だ。先日は自分で地面を奥深く掘り進めていたという情報もある﹂ ﹁やつは既に場所の目途がたっているのか?﹂ ﹁それはないだろう。行動に法則性がなさすぎる。おそらくモラン から情報を聞き出したか、モランの手先かだろう﹂ ﹁兄者は場所の検討がついているのか?﹂ ﹁もちろん。確実ではないが、まぁ失敗すればまた他をあたればよ い﹂ 52 ﹁どこなんだ。はやく言ってくれ﹂ ﹁灯台元暮らし。宝はヘラン邸だ!!﹂ ﹁兄者、あれがヘラン邸のようです﹂ 夜中のヘラン邸外、二人の男が忍びこんでいた。 ﹁警備もいないか。正にいなかの領主様って感じだな﹂ ﹁どこから忍び込む?﹂ ﹁財宝がたんまりとだぜ?地下に決まっているだろ。地下へと続く 扉をみつけろ﹂ ﹁わかった﹂ ﹁兄者の言う通りだ﹂ ﹁地下への入り口が邸の外にあったとはな﹂ 二人の捜索にそれほどの時間はかからなった。この辺りは流石プロ の仕事だ。 カギを兄が破り二人は地下への階段を下りた。 夜目もきくだろう、二人に明かりはいらなかった。 ﹁物置のようですね﹂ ﹁そのようだ、隠し扉があるはずだ﹂ これまた捜索に時間はかからなかった。 二人の仕事には無駄が一切ない。 ﹁あったが、量がおかしいな﹂隠し扉の奥にあったのは広い空間に 似つかわしくない小さな木箱が一つ。 ﹁どういうことだ兄者!!﹂ ﹁ここじゃないってことだ。ただそれだけのこと。失敗をいちいち 53 気にするな。 まぁこれはいただいていこうか﹂ ﹁本?﹂弟の体躯の大きなほうが言った。 二人の前に木箱から現れたのはたった一冊の本だけだった。 ﹁くそっ、帰るぞ弟よ﹂ ﹁ああ﹂ 二人の引き際も早かった。 長居は無用。ここら辺が彼らがいままで仕事をしくじったことのな い理由の一つであった。 ﹁ちょっと待った!﹂ 今日の彼らはついていない。宝がなかったどころか、地下より這い 出たとたん人に見つかってしまった。 ﹁ちっ、みつかったか﹂ ﹁鍛冶の仕事後はどうも五感がさえわたる。やっぱりあの単純作業 が頭にいい影響を与えているのか、それともあの軽快な金属がぶつ かり合う音がいいのか﹂ ﹁こいつ何を言っている・・・ん? こいつはクリル・ヘランじゃないか?﹂ ﹁物音がして来てみればネズミが2匹、このクリル・ヘランが召し 取ってくれよう!﹂ ﹁兄貴、こいつ少しテンションがおかしくないですか?﹂ ﹁そうさ!!今日試しに魔リンゴをもう一度食べたらこの通りさ! 眠れないので相手をしてやる!﹂ ﹁兄貴、ここは俺が片づける。先に逃げてくれ﹂ ﹁そうは、いかない!水魔法!水沼!!﹂ クルリの声と共に男二人の足元に沼が現れた。 ﹁水魔法で足元に沼を作ってやった。これで逃げられまい。底なし 沼だから、命にかかわるぞ!! 54 警備兵を呼んできてやるから、おとなしくしていれば刑務所行き、 あばれればあの世行だ!﹂ ﹁ちくしょう﹂ ああ、やばい。こそ泥二人相手に大量に魔力を使ったが、まだまだ 魔力があふれてくるな。 こそ泥二人が盗んだのは本一冊だけだったみたいだ。 それもすぐに渡してきたから、本当に欲しかったわけでもなさそう だった。 ﹃魔法書5﹄ おお!これモラン爺が貸してくれるシリーズのやつだ。 ほら、著者クリス・ヘランだし。 とりあえず、自分の部屋に置いておこう。 さて、こんな騒ぎでも眠りが覚めない親が心配だが、こそ泥も警備 兵に渡したし、また井戸でも掘りに行こうか。 しかし、しばらく魔リンゴは食べるべきではないな。次の日の疲労 感がとんでもない。 次の日の酒場。 ﹁聞いたか、昨日クルリ様が﹃黒い影﹄の二人を捕まえったってよ﹂ 一人の男が言った。 ﹁ああ、今朝情報屋が流してたな。どうやら王都より報奨金がでる 55 ようだ﹂右隣の男が酒を飲み終わると答えた。 ﹁最近はいいニュースばかりで街があかるい。いいことだな﹂左の 男も続く。 ﹁クルリ様は、あれはいい領主になる。この地もクルリ様がいらっ しゃる間は安泰だな﹂ ﹁そうだな。ところで、少しばかり気になることがあるのだが﹂ 真ん中の男の疑問にふたりが反応した。 ﹁なんだ?﹂ ﹁黒い影の二人組だが、情報屋によればほとんど何も盗らずして帰 ろうとしたところをクルリ様に捕まったらしい﹂ ﹁あの大物盗賊が何も盗らずに!?﹂ ・・・。 ﹁もしかしてよ、領主様の家には金目のものがないのか?﹂ ﹁確かに贅沢な話は一切聞かないな﹂ ﹁俺領主様のズボンのまたが破れているのを見たことがある。本人 は平気な顔して履いてたぜ﹂ ﹁んーそれは少しまた別な話な気がする。それは領主様の資質の問 題だろう﹂ ﹁これはどうだ?クルリ様は昔まるまる太っていたらしい、それが 今じゃあんなに痩せている﹂ ﹁おいおい、さすがに食料には困っていないだろう?領主様の一家 だぞ!?﹂ ﹁それもそうか。しかし俺は一度クルリ様と一緒に働いたことがあ るのだが。 そのとき見た手はものすごくゴツゴツしていたな。上半身についた 筋肉も一朝一夕で着くようなもんじゃない。あれは毎日力作業をし ている男の体だったぜ﹂ ﹁おいおい、それまじかよ。でも温泉のおかげで民衆が潤っている。 56 その分税収も上がっているのではないか?﹂ ﹁実は税金は一切上がっていない。それにクルリ様は最近土地の開 発にどんどんお金をつぎ込んでいる。もしかしたら、俺らの想像も していないところで領主様たちはとんでもない苦労をしているのか もな﹂ ﹁くっそ、俺たちばかりが春を謳歌していたなんてな。今度商会長 にでも話してみっか﹂ ﹁そうだな。クルリ様には恩返しをしてやらねーとな!﹂ ﹁そうだぜ!それがヘランの男気ってもんだぜ!﹂ はっくしょん!! ﹁うー、夜な夜なの作業で風邪ひいたかも﹂ ﹁はっは、クルリは自己管理ができていないな。お父さんは仕事を バリバリこなしているが、この通り元気じゃよ﹂ ﹁あー流石だね、父さん。そういえばさっき母さんが怒り気味で探 していたよ﹂ ﹁えっ!?じゃあ、ちょっと行ってくるよ﹂ ﹁あなた!!領内は観光客が増え、領民が潤っているというのに領 主の我が家に入るお金はどうしてあまり増えていないのかしら!?﹂ ﹁そっそれは、いまから増えるはずさ﹂ ﹁あなた!ちゃんと税金の管理はなされているの!?﹂ ﹁やっ、やっているに決まっているじゃないか。・・・決まってい るじゃないか!﹂ 57 ﹁そう、ならいいですけど﹂ ﹁・・・。 さてと、温泉でも行こうかな﹂ 58 9話 ﹁このミカンという果実は本当に美味しいですね﹂ 冬になりラーサーがやってきた。 寒いので二人で暖炉の前でミカンを食べている。 ﹁冬の収穫時期に間に合ってよかったよ。市場にも出回ることがで きたし﹂ ﹁このミカンはどうやって作り出したのですか?﹂ ﹁魔法で種を作ったんだ。後は土に埋めて通常の作物たち同様に育 てただけだよ﹂ ﹁魔法で種を⋮流石ですね、アニキ﹂ ラーサーはミカンを食べながら興奮気味だ。 俺はミカンを一粒一粒食べるのだが、ラーサーは丸ごと1個食べる。 口が膨れて愛らしい顔になるのだが、見ているぶんには楽しいから 指摘しないでおこう。 ﹁アニキも間も無く、エレノワール学園に入学されますね﹂ ﹁んー、とうとう来てしまう﹂ ﹁嫌なのですか?﹂ ﹁嫌というか、怖いというか、よくわからないなぁ﹂ ﹁アニキなら上手くやっていけますよ。 実は僕の実の兄アークも入学するんですよ﹂ ﹁うん﹂知ってた。 ﹁それに宰相の娘エリザさんも入学されます﹂ 59 ﹁うん﹂やっぱり知ってた。 将来の嫁だもん、その人。 ﹁しかも、平民から10年ぶりに合格者が出ました。我々は家柄パ スですが、平民の編入試験は最難関の試験らしいです。すごい優秀 な人だとか。確か合格者の名前は⋮﹂ ﹁アイリス・パララ﹂ ﹁そう、アイリスさんです。アニキ知ってたんですね﹂ ﹁うん、だいぶ前からね∼﹂ ﹁他にも有力どころのご子息が入学されるそうで、一部では黄金世 代なんて既に呼ばれていますよ﹂ ﹁それより領地を離れるのが不安だ。父さんに任せて大丈夫だろう か﹂ ﹁大丈夫ですよきっと。ヘラン領の人たちは逞しいですから、きっ とトラルさんを支えてくれるでしょう﹂ ﹁そうだといいけど﹂ ロツォンさんにたまに様子を見てもらおうかな。 ﹁アニキ、いろいろ考えすぎですよ。アニキの才能があればきっと エレノワール学園での生活も充実したものになるでしょう﹂ ラーサーは素直にこういうことを自然と言ってくれたりする。 本当の弟にしてやりたい気分だよ。 ﹁それもそうだな。 ミカンがなくなったし、外に摘みに行ってくる﹂ ﹁あっ、僕も行きます﹂ ﹁うー寒いな﹂﹁はい、寒いです﹂ ﹁夏になったらヘランへ来るといい。スイカというものを食わせて やる﹂ 60 ﹁はい!楽しみにしています﹂ 二人で身を寄せ合いながらミカンを摘み取った、寒い冬のごくあり ふれた平凡な日常だ。 雪が溶け出し、ヘランの土地が呼吸をしだした頃。 入学まで後1ヶ月といった時期に、俺はヘラン領を出発することに した。 ここから学園までは馬車で4∼5日くらいかかる。 学業に専念できるよう辺境の地にあるからだ。 入学一週間前の実力試験までにつけばいいのだが、ギリギリだと毎 年学園付近で大名行列ができるらしい。その行列を待つのは嫌だし、 早く行って環境に慣れておくのがいいだろうという考えのもとの早 めの出発だ。 ﹁クルリちゃん、立派になって﹂ 母が息子の旅立ちで涙を流している。 ﹁クルリよ、存分に勉強してくるがよい。領のことはすべて父に任 せておけ﹂ 父が胸を張って見せたが不安この上ない。 ﹁じゃあ、行ってくるよ﹂ 俺は最低限の挨拶を済ませ、馬車に乗り込んだ。 従者に声をかけ、馬は駆け出した。 学園では寮生活になる。 61 学費も食費も国からお金が出るため、自分で負担するようなものは ほとんどない。 それでも貴族故に皆プライドのため結構な額を持ってくるらしいが。 俺も一応結構持ってきた。 こんなに持ってくるつもりはなかったが、最初はもしものときのた めのお金を準備した。 次に、やはり欲しいものがあれば買いたいし、友人との付き合いで 金も必要になるだろうと思い金を積んだ。 夏季休暇と冬季休暇には帰ってこれるのでそこで補充もできる。 それ故あまり大金は積まなかったのだ。 しかし、出発の朝領民たちが﹁最近儲けすぎているから﹂と俺のた めにお金を持ってきてくれた。額がまた半端じゃない。 断ろうとしたが、父親がもらっておきなさいと一声かけてきた。な んだか父親がいつもより大きく見えた気がしたが、気のせいだろう。 領民にお礼を言い、そして両親たちと別れの挨拶を済ませて、現在 に至る。 そういえば、ラーサーも見送りたいと言ってたが、第一王子より優 先されては困ると断っておいた。 流石にその度胸はないからな。 4,5日の旅になるが、退屈しないように書物はたくさん積んでお いた。 それ以外にも有名な観光地は下調べしておいたので、近場を通れば それも見ていきたいと思っている。 それと意外だったのだが、うちの父親は結構なグルメだといことが 旅の前に発覚した。 旅の地図にポイントポイントで目印を付け、おいしい料理屋がある 62 場所を記したものをくれたのだ。 ﹁それで退屈な旅もすこしはいいものになるだろう﹂とのことだ。 初めて父親が父親らしかった瞬間でもあった。 なにはともあれ、旅というのは悪くない気分だ。 従者と会話をすることはほとんどないが、窓の外をぼんやり眺めて いるだけで、目の前には次々と知らない景色が飛び込んでくるのだ。 全てが新鮮。この言葉に尽きる。 4、5日程度何事もなくとも、これなら飽きはしないだろう。 家を出発して5時間くらいたっただろうか。 外は日が真上まで昇り、空気がカラッと乾燥し心地のよい風が吹い ている。 そんな中、従者が声をかけてきた。 ﹁クルリ様﹂ ん?そういえばもうすぐ、父親が記してくれた最初の料理屋がある はずだ。 もう着いたのだろうか。 ﹁どうした﹂ ﹁この先に大きなバッグを背負った女性がいるようですが﹂ なんの変哲もない光景な気もしたが、窓から頭を出してみてみた。 確かに少しまだ距離はあるが、木陰で座り込んでいる女性がいた。 日に当たって、体調でも悪くしたのだろうか。 馬車が近づくにつれ、その姿はだんだんと鮮明になった。 そして、それに比例するように俺の心臓の鼓動は早まる。 間違いない。 あの黒くきれいな髪、どこか見ていて安心する整った顔立ち、いか 63 にも平民そうな装い! 間違いようがないほどに、そこにはアイルス・パララが座り込んで いた。 なぜか俺は馬車の中に隠れてしまっていた。 こんなところでサブキャラの俺がメインヒロインに出会ってしまっ てよいものだろうか。 いや、ダメでしょ! ﹁どうなさいますか、クルリ様﹂従者がせかしてくる。 もしかしたら、本当に体調を悪くして休んでいるのかもしれない。 そんな、か弱き女性を見捨てていいのか? それもダメでしょ! 俺は意を決して返答した。 ﹁俺が声をかけてみる﹂ ﹁はい、わかりました﹂ 従者は馬車のスピードを徐々に緩め、アイリスの前で止めた。 ﹁どうなされました?﹂なるべく警戒心を与えないように優しく聞 いてみた。 ﹁少しばかり歩き疲れて休んでいました。どうかお気になさらない で下さい﹂ そうか、では!!とはいかないよな、これから同級生になるし。 ﹁もしや、エレノワール学園に向かっているのでは?﹂ ﹁ええ、よくわかりましたね﹂ ﹁なんとなく勘が働きまして、私もエレノワール学園に向かってい る最中ですので、よろしければ同乗していきませんか?﹂ ﹁いえ、お構いなく、私は歩いて向かいますので。そのために早め に出発もしていますので。 わざわざ、お気遣いありがとうございます﹂ 64 歩いてか。半月はかかるぞ。 商人の馬車に乗せてもらうなどの方法もあっただろうに。 そういえば、原作でもアイリスは結構貧しい家の出だったな。ます ます、見逃せないよ。 ﹁そんなこと言わないで、旅は道連れって言うじゃないですか。私 の名前はクルリ・ヘラン。ヘラン領の領主の一家の人間です﹂とり あえず、自分は怪しいものではないことをアピールしてみた。 あれっ、黙ったまま返事が帰って来ない。 ﹁・・・・、ヘラン領って、あの温泉があるヘラン領ですよね!?﹂ アイリスが身を乗り出して聞いてきた。 ﹁そっそうですよ。来られたことがおありですか?﹂ ﹁いえ、でも花園に囲まれた温泉の話は情報誌で穴が開くほど読み ました!! 私の夢なんです、ヘランの温泉に入るのが!!﹂ 温泉の話をもっとしてあげよう。と言ったら、すんなりと馬車に乗 り込んでくれた。 学園は寮に住み込みになるから、荷物はどうしても多くなってしま う。 それはアイルスも同様で、おっきなバッグはパンパンに膨れていた。 こんな大きな荷物を背負って、半月か。体力に自信がある男でもき ついのではないだろうか。 やはり、乗せて大正解だったよ。あのまま通り過ぎていたら心が痛 んでしょうがなかったはずだ。 無事乗せれて、よかったー。 馬車は軽快に進む、アイリスも乗り込んでくれたし、旅は順調であ 65 る。 ﹁私、将来はお金をいっぱい稼いで、弟たち妹たち、そして両親を 連れてヘランの花園に囲まれた温泉に入るのが夢なんです﹂ アイリスは目をキラキラさせながら話している。 ﹁それは光栄だな。将来と言わず同級生ならいつでも招待するけど ね﹂ ﹁それは悪いです。それに夢は自分で叶えるものですしね﹂ ﹁それもそうだ﹂ ﹁クルリさんも今年入学なんですね。確か温泉を掘りだした人物だ と情報誌で読んだことがあります。 そんなすごい領主様と同級生だなんて光栄です﹂ ﹁いやいや、そんな大げさなものなんかじゃないよ﹂ それよりも将来王子と結婚するかもしれないあなたのほうが俺には とんでもなく偉大な人物に見えます。 ﹁わざわざ平民の私を馬車に乗せてもらってありがとうございます。 この恩はいつかお返ししますので﹂ ﹁気にしないで、4日間一人で退屈な旅をせずに済みそうで逆に助 かったよ﹂ 恩はぜひとも没落時に返していただきたい。 ﹁私、貴族の学校の人たちってどんな人たちだろうと不安でしたが、 クルリさんを見る限りもっと前向きに考えてもよさそうな気がして きました﹂ ﹁それはいいことをしたようだ。 それじゃあ、うちの温泉の話でもしようか﹂ ﹁うん、お願いします!﹂ 相変わらず目がキラキラしている。話がいが出てくるじゃないか。 66 やはり、近くで顔を見るととてもきれいな顔立ちをしている。 以前王妃様を見たが、若い分アイルスのほうが美しさが上だ。 これじゃ、王子たちが取り合ってもおかしくはないな。 ﹁もう情報誌で読んでいるかもしれないけど、ヘランの温泉はなん といっても美肌、美白に抜群の効果があるんだ﹂ ﹁うんうん﹂アイルスは興味深々だ。 ﹁花の成分がそうさせるんだけどね、さらに最近すごいことが判明 したんだ。うちの優秀な領民のロツォンさんが見つけたんだけど、 実は温泉のお湯は飲んでも体にいいことが判明したんだ﹂ ﹁ほんと!?そんなの初めて聞いた!﹂ ﹁だろ?これが今徐々に流行りだしていて、もうすぐ国中にもこの 情報が広まるだろう。 そしたらまた観光客が増える増える!我が領は儲かる儲かる!﹂ ﹁すごーい!私、聞かなきゃよかったかも、もう行きたくてしょう っがないよ﹂ ﹁来たかったらいつでも来たらいい。最高のおもてなしをするから さ﹂ ﹁うん。ありがとう!﹂ 二人で興奮さめやらぬまま、温泉の話を延々とした。 つい調子に乗って、領内の自慢などもしてしまったが、それも全部 聞いてくれた。 やっぱり、王子が惚れる女はスゲーよ、器が違うぜ! ﹁クルリ様、トラル様が記していた店が間もなく見えてまいります﹂ 従者の声で会話は中断した。 ﹁ああ、もう着いたか﹂ 67 アイルスとの会話でしばらく時間がたつのを忘れてしまっていた。 本当に旅は道連れがいるのがいいことを体感した。 ﹁アイリス、馬車からおりて昼食にしよう。父さんおすすめの美味 しい料理屋がこの先にある﹂ ﹁いえ、私お金をあまりもっていないので。それに学園までの旅路 の保存食も持ち合わせていますから﹂ ﹁もちろん、ごちそうさせてもらうよ。 さぁさぁ美味しい料理を食べながら、ヘラン領の自慢話でも聞いて よ。それが飯代ってことで﹂ ﹁いえ、本当にいいんです﹂ アイリスは首を横に振っている。 ﹁馬車に乗せてもらっただけでも大変ありがたいことなのに、さら にご飯をごちそうしてもらうなんて。 そんなにいっぱいじゃ、恩が大きすぎてとても返しきれません!﹂ これには少し笑ってしまった。こういった価値観が王子たちをメロ メロにしてしまうのか。 俺も好きな女の子ができたら参考にさせてもらおう。 ﹁行こう﹂ ﹁本当にいいです﹂しばらく腕の引っ張り合いをしたが決着はつか ない。 こうなったら話してしまおうかな。 話していいのかな? ていうか、こんな出会い方自体がイレギュラーだし、もう好きにや らせてもらおう!! ﹁しょうがない。アイリスに大事な話がある。本当にここだけの話 68 だから他言無用でお願いしたい﹂ ﹁なに?急にどうしたの?﹂ 俺がかしこまったから、アイルスは少し不安そうな顔をした。 ﹁学園での君の生活はあまり楽しいものにはならないかもしれない。 あくまで、かもしれないだ。 でも、きっと君は平民だからいろんな不当な差別を受けるだろう﹂ ﹁うん、なんとなくそこら辺は想像つく。でも私そういうのにも負 けずに頑張るって決めたから。 将来いい職見つけて家族を養っていくのが私の最終的な目標だから﹂ 偉い!!いい子だよこの子!! ﹁そっその、君を差別する人物なんだけど・・・。目の青い魔女が 主犯になる、と思う・・・。﹂ ﹁と、思う?﹂ ﹁いやいや、まぁそいつは平民への差別がすさまじいからきっと君 への接し方も嫌なものになると思うんだ。そして、そいつが実は・・ ・﹂ ﹁実は?﹂ ﹁俺とは切っても切れない縁の人間でして・・・。 つまりは、そいつが迷惑をかけるだろうから、その分俺が償います ってこと! 身内のものが迷惑をかけたらあ身内が処理するのは当たり前だろ!? そういうことだよ。今のうちのいっぱい償いをさせてくれ!﹂ ﹁んー、あいまいな話でよくわからなかったです﹂ ﹁まぁ、もういいや。とにかく昼食に行くぞ!!﹂ ﹁いかないです。これ以上は私申し訳なくてクルリさんに今後顔向 けできません!﹂ 69 ﹁できるから!﹂俺は一生懸命アイリスの手を引いた。 ﹁できません!﹂アイリスは必死に抵抗した。 ﹁俺一人だけおいしもの食べてアイリスは保存食って、そんなの楽 しい旅にはならないだろ?﹂ ﹁私のことはいいんです。もう十分助かってますから!﹂ ﹁お二人とも、さっさと行きますよ﹂従者の冷静な一声で俺たち二 人の引っ張り合いは終わった。 ﹁ほらっ、いくよ﹂ アイリスはようやく観念して来てくれた。 ﹁本当においしいよ!父さん!﹂ ちょっとだけ疑っててすみませんでした、父上! 70 10話 同乗したばかりのときは、遠慮や警戒があったのだろう。ほとんど 自分の家のことなどをくわしく語らなかったアイリスだったが、4 日も一緒にいると不思議なもので相手も自然と警戒心を解いて身の 上話をしてくれた。 アイルスの家は父親が鍛冶職人だったらしいが、病気でアイリスが 12歳の時にこの世を去っているらしい。 それからは母親と3人の妹、2人の弟と共に家の畑を耕して生計を 立てている。 だが、それもぎりぎりの生活らしく、贅沢とは一切無縁な生活だ。 アイルスは何度も妹たちや弟たちがしっかりやっていけているかど うか心配だと言った。 本当にそのことで頭がいっぱいのようだ。 うちの領内でも農業だけで生計をたてている一家は多い。 しかし、何かの災害がなければどこもある程度の金銭的余裕は出来 ている。 アイリスが言うには、領内の税金が重く、それが生活を圧迫してい るとのことだ。 ﹁じゃあヘラン領へきたらいい。うちの税金はそんなに高くはない し、領地もだんだんと栄えている。きっといい生活ができるはずだ﹂ ﹁ありがたいけど、そんな簡単には故郷を捨てられないよ﹂ 一蹴されてしまった。 確かに、簡単に決めるようなことじゃない。 71 世の中には悪い領主もいたもんだ。うちの父親が輝いて見えるよ。 アイリスは子供のころから勉学に秀でていたため、母親からこの学 園を受験するように説得されたそうだ。 はじめは断ったが、母親の熱心な説得と、将来家族を養っている自 分を想像して、思い切って受験してみることにしたらしい。 畑仕事の合間に、基礎教養、魔法、剣術の3つの試験科目を独学で 学んだらしい。 素晴らしい、忍耐と、素質だと思った。 ﹁それでね。受かったときは本当にうれしかったんだけど、いざ家 を出発するときにすごくさみしくなって、今でも本当に私が選んだ 道は正しかったのかなって﹂ ﹁俺も領地を離れる際は心配だったよ。 父親が平和の使者みたいな人だから騙されたりしないかなーとかさ。 でも、きっとうまくやっているよ。アイリスの弟や妹もアイリスが 思っている以上にきっとしっかりしているはずだと思うよ﹂ ﹁んーそうだといいな﹂ ﹁きっとそうさ﹂ ﹁・・・うん!﹂ 少しだけ元気を取り戻してくれたらしい。 運よく外は快晴だ。 このまま暗い話ばかりではもったいない。 どうせなら我が父親の武勇伝でも聞かせて元気づけてあげなきゃ。 ﹁なにか外で騒いでいるよう﹂ 話しかけた俺を遮り、アイリスが先に話し出した。 ﹁トラブルのようです﹂ 従者が渋い顔して報告してくれた。 72 二人で馬車をおり、あたりの状況を確認した。 道の先に商人が使う馬車が止まっている。 乗組員と思われる人物たちが総出している。 ﹁すまない。道を開けていただけないだろうか﹂ 立ち止まる男たちに声をかけた。 ﹁いやー、すみません。すぐに馬車を移動させますので﹂ 少し小太りの男が慌てて部下に指示を出している。 荷物が多く馬車は通常より大きい。 狭い街道故に退くの少し手間取っている様子だ。 ﹁いかがいたしましたか?﹂興味本心でつい聞いてしまった。 ﹁それが、王家への貢ぎ物を配達していたのですが、王城入場の許 可証を先ほどのトラブルで盗られたようでして﹂ ﹁トラブルとは?﹂ ﹁魔物が急に襲いかかってきました。 幸いけが人はなく、高価なものの破損などもなかったのですが、不 運にも入場許可証をとられてしまいました﹂ ﹁それは不運でしたね﹂ 聞いては見たが、あまり興味の出る話ではなかった。 さっさと退いてくれ。 ﹁高価な剣をつけられているようですが、もしかして魔物の退治な どをされるのですか?﹂ ﹁いえ、これは外出時に護身用としてつけているだけです﹂ 鞘も剣も手作りだ。それを高価と判断したあなたの目は正しい。い い商人に違いない。 73 ﹁はぁ、そうでしたか。魔物を狩ってくれれば金貨1枚を支払おう と思っていたのですが﹂ 失礼な奴だ。俺は一応貴族だぞ。金貨一枚ごときで心は揺れん!! ﹁本当ですか!?﹂ 予想外にもアイリスはめちゃめちゃ食いついた。 ﹁本当に金貨一枚を支払ってくれるのですか?﹂ ﹁もちろんです!二人で行ってくださるなら、金貨2枚をお支払い します﹂ アイリスが泣き入りそうなうるんだ目でこちらを見つめている。 断れないよなーこれじゃぁ。 ﹁やろうか﹂ ﹁はい!﹂ ﹁魔物は狼型、2頭で我々を襲撃してきました。 巣はここから森に入って500mほど進んだ場所にみつけておりま す。我々は戦闘できないためそこまでしか助力はできません﹂ ﹁わかりました﹂ 簡単な説明だけを受け、自分の馬車へと向かった。 ﹁アイリス、魔法の実力は?﹂ ﹁エレノワール学園の試験には合格しましたけど、実戦は初めてで す。 あっ!でも生活のために普段から毎日魔法を活用していますので、 ちょっとはいけるかも・・・﹂ うーん、アイリスって確か、剣術も魔法もぴか一のセンスを有して いたはず。 初実戦とはいえ、弱小の魔物だし問題ないかな? 最悪の場合フォローをすればいい。 74 ﹁武器は持っているかい?﹂ ﹁はい、剣術の授業用に剣を一本持って来ています﹂ ﹁じゃあそれを装備して、出発だ﹂ 商人の言う通り森を南下して500mくらいで、狼型の魔物2匹を 視認した。 匂いでばれないように結構距離を取っている。 正直、俺一人ならこの距離でも仕留めることは可能だ。 危険性も少なく、できればそれで済ませたい。 だが、俺一人で事を済ませた後に問題が生じる。 きっと、アイリスは報酬を断るだろう。 自分は何もしていないのにお金はもらえません!とか言うに決まっ ている。 ﹁アイリス、この位置から魔法を当てられるかい?﹂ ﹁えーと、たぶん無理かな。距離がありすぎるよ﹂ やっぱりダメか。 よしっ、それなら作戦は一つしかない。 ﹁アイリス、俺がこの位置から魔物を一匹仕留める。もう一匹は俺 たちに気づいて襲ってくるだろうから、そいつの迎撃を頼めるかな﹂ ﹁うん、いけると思う﹂ ﹁よし!﹂ 魔力を練りだし、水の性質変化の応用で氷の性質変化を加える。 手のひらに作り出したのは、氷の矢だ。 初めて作り出したがいい感じだ。 これを、さらに練りだした魔力で爆発的な突風を発生させ、氷の矢 を飛ばした。 75 空気を割く音を立てながら、矢はまっすぐ魔物を貫く。 悲鳴も上がらずに絶命した。 ﹁上出来!﹂ ﹁すごい!﹂ ﹁さぁ、もう一頭がくるよ﹂ 仲間を殺されたもう一頭が逆上し、こちらへ突進してくる。 アイリスも魔力を出し、炎に変え、魔物の足元へ放った。 仕留める威力はないが、そもそも狙いは突進の勢いを殺すことにあ った。 狙い通り、突進の威力はなくなり、ひるんだ魔物にアイリスの剣筋 が立った。 すごい身のこなしだ。 綺麗に魔物の首が飛んでいく。 滑らか、かつすばやい。が、変な音がした気もする。 ﹁やったなアイリス﹂ ﹁・・・﹂ ﹁どうした?﹂ アイリスはうつむいている。なぜか、全く喜びを見せない。 ﹁剣が、げんが、あぁ、折れっちゃった﹂ ﹁ははっ、一撃で折れるとは不良品をつかまされちゃったみたいだ ね﹂ ﹁お母さんが、おがさんがむりして買ってくれた剣がああああああ あ、うあああああんんん﹂ えっ!? 76 ガチ泣きですよ!! ﹁剣なら俺の新しいのをあげるから、ほら泣くなよ﹂ ﹁おがあさんが、あがあさんがいっしょうけんめためたおがねでか ってくれだのに、うあああああん﹂ ああ、そういうことか。 ようやくアイリスの心情が分かった。 ﹁それも安心しろ! その剣はまだ治るから。学園に着いたら俺が治してあげるから﹂ ﹁ほんど?ほんとうになおるの?﹂ ﹁本当に本当。むしろ今までよりかっこよく、丈夫にしてあげるよ﹂ ﹁うんうん、いままでどおりでいい﹂ ﹁ああ、わかった。許可証をとったら街道にもどろうか﹂ ﹁ゔん﹂ 許可証は革製でできていた。それで魔物に獲られたわけだ。 許可証を回収し、アイリスの様子をうかがった。 ガチなきで瞼が赤くなっている。 別に俺が魔物を退治しようと言い出したわけではない、俺が剣を折 ったわけでもない。 それなのになんでこんなに心が痛むんだ!? 俺は悪くないよね? 遠い地にいるラーサーの優しい笑顔に問いかけてみた。 もちろんですよ、そんなラーサーの返答を俺が作り出した。 ﹁本当にありがとうございました。これは約束の金貨2枚でござい ます﹂ 許可証と引き換えに、報酬をいただいた。 77 一枚をアイリスに渡すと、途端にキャッキャと騒いでいる。 剣も治ることがわかり安心しているのだろう。 ﹁私の名前はファミールです。主に歴史的価値のある商品を行商し ております。 この御恩は忘れません。いつか恩返できればと思います。 よろしければ名前を教えていただけないでしょうか﹂ ﹁クルリ・ヘラン。あっちはアイリス・パララ。 貴族の私からあなたに商売のアドバイスをするのは失礼に値するだ ろうけど、一つアドバイスすると後ろの彼女の名前と顔は一生忘れ ないほうがいいですよ﹂ ﹁はい、商人はどんなアドバイスもありがたくいただきます。ただ ですので。 クルリ・ヘラン様。アイリス・パララ様。二人との出会いが今後の 利益につながることを期待しています﹂ ﹁そんなこと相手の目の前で言うんだ﹂ ﹁はい、商人とはそういう生き物です。では、またいつか会いまし ょう﹂ 無機質な挨拶を済ませ商人は立ち去った。 商人たちが道を開けてくれたので、馬車がようやく通ることができ る。 アイリスといえば、さきほどの金貨をほほに擦りつけている。 ﹁その金貨は何に使うんだい?﹂ まぁ決まっているだろうけどね。 ﹁家族に送ります。きっとこれでしばらくいいものが食べられるで しょうから﹂ 78 やっぱりそうか。 本当は俺の金貨もあげたいけど、絶対に受け取ってはくれないだろ うな。 ﹁でも、やっぱりこの金貨はクルリさんにあげます。 ここまでお世話になったし、私の大事な剣を治してくれるとおっし ゃってくれましたし。 これでゼロになるとは思いませんが、この4日間のせめてもの支払 いをさせてください﹂ そう来たか。 ﹁もちろん受け取らないよ。それはアイリスが稼いだお金だからね﹂ ﹁でも、私本当に他に何も返せないので。せめてこれだけでも﹂ ﹁その金貨を、俺に送りたい?それとも家族に送りたい?君の本心 はどっちかな?﹂ ﹁・・・、家族に送りたいです﹂ ﹁じゃあそうしたらいい。そのほうがみんな幸せだ。 君は俺が金貨一枚で喜ぶと思うのか? ヘランの一番高価な温泉宿は、温泉、食事、その他もろもろのサー ビスがついて、一泊金貨50枚もとるんだぞ﹂ ﹁金貨50枚も!?そんなぁ、それじゃあ私いつまで経ってもヘラ ンの温泉に入れない気がするよ﹂ ﹁まぁ、それは最高級のサービスだからね。安い宿だっていっぱい あるさ﹂ ﹁あぁ、よかった。 ・・・、クルリさん。この金貨は家族に送ります﹂ ﹁そのほうがいいに決まっている﹂ ﹁でも、私絶対にこの恩は忘れません!!将来絶対に大きなお返し をさせてもらいますから! 79 わたし、自分の言葉には責任を持つ女ですから、信じて楽しみにし ていてください﹂ ﹁絶対に?﹂ ﹁絶対にです!!﹂ いっよしっ!!!! でかい保険会社に入ったような気分だ。 ﹁さぁ学園はもうすぐだ。楽しみんで行こう!﹂ ﹁そうですね。どんな感じなんでしょうね﹂ それは俺もずっと気になって、うきうきとしている。 その日の夕暮れに馬車は学園に着いた。 それは学園というにはあまりに大きく、一つの街がそこに存在して いるかのような壮大さを持っていた。 ﹁でかいなぁ﹂﹁大きい﹂ そんな言葉しか見つからない。 80 81 11話 今俺とアイリスがたっているのが、学校の南方面で正門だ。 学生証を見せると学園内に通りしてもらった。 中に入って改めて周りを見るとやはり広大だ。 巨大な池やら、噴水、花壇が入口より校舎へと続いている。 ﹁1年生の寮は西へ向かうとあります﹂ 門で軽く説明を受け、馬車から荷物をすべて運び出した。 ここからは学園内を徒歩での移動になる。 西へ、つまり校舎に付き合たって左へと進んだ。 ちょっと広すぎるな。 建物は見えていたが、10分くらいは歩いた気がする。 ついてみるとこの建物がまたとんでもなく大きい。 一体何人の生徒を収容できるだろうか。 寮の前にある管理人室へ近づいた。 ﹁今日から入寮ですか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁男子寮は手前の建物、女子寮は奥の建物になります。 その左に並ぶ建物が食堂です。 部屋は早い者勝ち、二人とも男子寮女子寮の一番乗りなので好きな 部屋を選んでいいよ﹂ ﹁じゃあ私は2階をもらおうっと、じゃあまた後で会おうね﹂ アイリスはさっさと決め、自分の荷物を運び入れに行った。 82 ﹁じゃあ﹂ 俺も2階がいいかな。 ﹁ちなみに、1階は人気がないので他階より部屋のスペースが倍あ ります﹂ ﹁それなら1階にするよ﹂ ﹁はい、それじゃあ1−1のカギをお渡ししますね﹂ ﹁ありがとう﹂ 俺もさっさと荷物を運び入れた。 引っ越し作業というのは疲れる。なるべく後伸びしないように初日 から気合を入れて整理しますか。 部屋は個室が4つ。 一つを寝室に、一つはリビング、一つは鍛冶作業ができる部屋に、 もう一つは物置部屋かな。 段取りを考えて、早速作業に入る。 部屋が広すぎる気もするが、あまり狭いと文句も言われるのだろう からな。 部屋4つもいらなかったかも。 作業は順調に進み、昼には大体片付いていた。 家具は一式そろっていたし、収納スペースが充実していたのが何よ りも素晴らしい。 ひと段落着いたので、寮の隣にある食堂へと足を運んだ。 アイリスはまだ来ていないようだ。 食事はビュッフェスタイルのようだ。 こういうのは少し取りすぎてしまうのが定石なので、とりあえずは 少なめにとっておいた。 83 疲労からだろうか、その少量でお腹いっぱいになってしまった。 部屋に戻り、次は鍛冶場スペースを作ることにした。 材料は馬車に積んできたし、作る手順も知っているのでこれも夕方 には終了した。 夕食時には生徒が何人かちらほらと見え始めていたが、特に話しか けることもなく一人で食べ、地下の共同浴場で体を流した。 ﹁やっぱり環境に慣れるまではしばらく疲労がすごそうだ﹂ ちょっとだけ愚痴をこぼしてその日は眠りについた。 朝起きて朝食前に少し、学園の下見がてらランニングをしてきた。 何もかも規模がでかい。 校舎も、なぞの植物園も、2、3年生の寮もどれも巨大建築物だ。 こんなの精神的疲労がでかいよ。 都会に住んでいる人たちはまた違う印象を抱くのだろうか。 朝食後、アイリスに会いに行こうかと考えたが、男子が女子寮へ軽 々しく行くのもどうかと思いやめておいた。 まずはアイリスの剣の修復でもするか。 不良品だから一から作りなおしたほうがはやい。 見た目だけ似せておけばバレはしないだろう。 そうと決まれば、鍛冶場スペースに愛用道具と剣を準備して、鉄を 熱した。 そのときドアからノック音がした。 84 トントンというには少し大きすぎる音だ。 作業を中断し、来客のためにドアを開けた。 ・・・巨人がいる。 ドアぶちに顔が収まりきっていない男が立っていた。 ﹁隣に入った者だ﹂ 顔が見えていないが、低く重たい声だった。 同級生ではない、きっと違うに決まっている。 ﹁ああ、1−1のクルリ・ヘランです。同級生なのですか?﹂ ﹁1−2に入った、王国騎士長の息子、ヴァイン・ロットと申しま す﹂ 今度は声が小さく聞き取りづらかった。 しかし、こんなに体が大きいと圧迫感があり、恐喝されている気分 になるな。 ぃっ・・・ ﹁ああ、私はヘラン領の者です。どうぞ今後ともよろしくお願いい たします﹂ ﹁こちらこそ。ヘランの温泉の話は聞いています。ぃっ ・﹂ えっ!?最後なんて!? 体が大きいわりに声はぼそぼそとして小さすぎる。 これじゃあ会話がなりたたない! ﹁これから同じ学園に通うものどおし一緒に頑張りましょう、ヴァ インさん﹂ ・・・。 85 返事がない。 会話のキャッチボールで言うと次はそっちが投げる番なんだけど。 顔も未だ見えていないし、不気味この上ないな。 ﹁よっ用事がなければ今日はこれで。また後日学校でお会いしまし ょう﹂ ﹁はい﹂ 男は一歩下がり、ドアに手を添えて、豪快に閉めていった。 轟音と、風が俺と正面衝突した。 ﹁すまない!自分不器用でして﹂ ﹁気にしないでください﹂ドア越しに答えた。 うん、ドア越しのほうが安心して話せるよ。 さてと、作業に戻るか。 少し邪魔が入ったが、集中集中! そう考えた直後、またもトントンとは程遠い豪快なノック音がした。 ﹁すまぬ、また来た﹂ ・・・また巨人がいた。 ﹁なっなんでしょう﹂ ﹁先ほどは会話に夢中になってしまい、これを渡し忘れた﹂ 男の手にはきれいにラッピングされたものがあった。 ていうか、さっき夢中になるほど会話したかな? ﹁母が持たせてくれた。これを渡すと喜ばれるだろうと﹂ プレゼント?優しき巨人? 86 ﹁ありがとう。こちらもお返しをしたいのだが、すぐに渡せるもの と言えば・・・ 短剣くらいしかない。それでもいいかな?﹂ ﹁もらおう﹂ ヴァインさんに短剣を渡し、さっさと帰ってもらった。 ドアを閉める勢いは相変わらずすさまじい。 ﹁すまない!2度も﹂ ﹁いえ、気にしてませんので﹂ さてと、今度こそ作業に戻るか。 ゴン!!ゴン!! またかよ! 勢い強すぎてドアを破りにかかってるんじゃないかと思うくらいだ。 ﹁どうしました?﹂ なるべく感情を出さないように聞いてみた。 ﹁自分、幼少時よりひたすら強さを求め剣の腕を磨いてきた。 父から他のことも学んで、人物としての厚みをつけろと言われこの 学園に来た。 しかし、いざ来てみても何をしていいのかわからない﹂ なんだろ、この悲しき野獣みたいな生物は。 ﹁とりあえず、入りますか?﹂ ﹁いいのか?﹂ ﹁どうぞ﹂ ドアをくぐる際にようやくそのお顔を拝見することができた。 悲しき野獣はイメージと違い、結構甘いマスクをしている。 流石は王都の出なのだろう、よく見ると服装もおしゃれだ。目鼻が 87 くっきりとしていて、さわやかな印象を与える顔だ。 髪が少しカールしているのがまた上品に見える。 黙っていれば身長も体格もある。顔もかっこいい。 一定層の女性に爆発的人気を誇りそうだ。 なぜ、入れてしまったのか? ヴァインさんが、入ってきて5分としない間に激しい後悔に襲われ た。 入れたのはいいが、ヴァインさん全く話をしない。 自分を語らない、他人を詮索しない。 関係を気づく段階での最悪なパターンだよ。 かと言って俺からも何を切り出せばいいのかわからない。 やっぱりこの人、人間の皮をかぶった魔獣でしょ。 ﹁好きなところに腰をかけてください。 私は剣をしばらく打っていますので、なにかあればいつでも声をか けてください﹂ 仕方ないので、俺は鍛冶作業を再開させた。 そのうち声をかけてくるだろう。 しかし、声はかからない。 しかも、ヴァインさんなぜか俺の真後ろに座っている。 普通こういう場合、話しやすいように横とかに座らないかな? なんで真後ろなんだろ。 不気味なんですけど。 88 戦闘において死角に入るのは正しいけど、このコミュニケーション においては最悪の一手ですよそれ!! 正騎士長様は一体何を教えていたんだ!! 剣を打っていてこんなに汗をかいたのは初めてな気がする。 ﹁なぜ剣を打っているのか﹂ ようやく会話がきた!! でもなに?その質問!? 死角からの、俺の行動を否定するとも取れる一声。 なに?俺、試されているわけ?! ここで間違った答えをすると斬られるの? 将来の正騎士長様に斬られ、ゴミ屑のように捨てられるの? ﹁あの、隣に来て話しませんか。そのほうがお互い話しやすいです し﹂ 恐る恐る振り返り、聞いてみた。 ﹁ああ!すまない。自分はそういうことに少し鈍くて。他にも無礼 なことがあったらどんどん言って欲しい﹂ ﹁わかった﹂ あれ?やっぱりただの心優しき巨人なのかな? ﹁知り合いの剣を修理している途中でね。 どうせなら前よりもいい状態で返してあげたいと思って﹂ ﹁そうか。クルリさんは優しい人のようだ﹂ ﹁呼び捨てで構いません。同級生ですし﹂ ﹁では、クルリと呼びます﹂ ﹁私もヴァインと呼びます﹂ ﹁はい、それで構いません﹂ 89 ・・・。 ﹁ご趣味は?﹂ ﹁とくにはない﹂ ・・・。 ﹁好きな食べ物とかあります?﹂ ﹁食べ物を好き嫌いで判断したことはない﹂ ・・・。 もう帰ってくれ!! いい人だとはわかったけど、会話が続かないんだもん! この人と打ち解けるには時間が必要だよ。 今日、明日じゃ無理です! 剣を打ち終わり、なけなしの会話をしたがまだ帰ってはくれない。 たぶん、この人言われるまで帰らない。 かと言って、帰れとも言えないし。 ﹁腹が減ったな﹂ それだ! ﹁飯にしようか。食堂へ行き、食べたら今日はもう休もう﹂ ﹁そうだな。明日も来ていいか﹂ ﹁・・・。もちろん!﹂ 90 さてと、この野獣にどうやって常識を叩き込もうか。 91 12話 朝日が昇るとほぼ同時に我が部屋のドアは野獣に襲われた。 ﹁お早いですね、ヴァインさん﹂ ﹁ええ﹂ この男、日が昇ると同時に約束通りやってきた。 いや、時間の指定はなかったため、やはりここは非常識な時間に来 たと表現しておこう。 身なりを見るとしっかりと整っている。 髪型も寝癖ひとつない。 日が昇ると同時にやってきたというよりかは、日が昇るのを待って やってきたという感じだな。 彼なりのセーフライン、アウトラインの境がここなのかな? ﹁どうぞ中へ﹂ ﹁すまない﹂ ようやくベッドから起きたところに身なりの整った紳士が入ってく る。 なんだか、自分のほうが非常識なんじゃないかと、そんな気分にな る。 ﹁すぐに着替えますので﹂ ﹁別に急がなくても構わない﹂ 92 そう言ってもらえたので、ゆっくりと着替え顔を洗った。 ﹁コーヒーを煎れますので﹂ ﹁すまない﹂ コーヒー豆を挽くのは好きだ。 香りや、挽くときの地味な作業が癒しを与えてくれる。 ﹁どうぞ﹂ ﹁ありがとう﹂ 丁寧にいれた一杯をゆっくりと楽しんでもらった。 ﹁飲み終わったら朝食にしますか﹂ ﹁昨日は一日付き合ってもらった。 今日は礼をしたいので付いてきて欲しい場所がある。そこで朝食も 御馳走しよう﹂ ﹁それはいいですね。楽しみにお腹を空かせておきます﹂ 意外と友好的な人だなぁ、と思った。 何をごちそうしてくれるのだろうか?王都の美味しいものとかを期 待してもいいのかな。 ドアがまたノックされた。ヴァインのとは違う常識的なノックだ。 開けるとそこにはアイリスがいた。 ﹁おはよう、来ちゃった﹂ ﹁おはよう、どうぞ中へ﹂ こういった常識的な来客は心に余裕を与えてくれる。 ﹁ありがとう﹂アイリスは部屋に入りながら話し始めた。 ﹁男子寮に入っていいのかなーなんて心配しちゃったけど、まだ学 校始まってないし思い切ってきたの。 うわっ!?﹂ 93 アイリスはヴァインを見て驚愕している。 そりゃびっくりするよな。巨人だもの。 まぁ噛みつかないから、危害はない。 ﹁ヴァイン・ロットです﹂ ﹁えっはい、アイリス・パララです。よろしく﹂ ﹁ああ﹂ ﹁二人とも紹介は終わったようだね。 アイリス、今日ヴァインがどこかに連れて行ってくれるらしいけど、 よかったら一緒にどうだい?﹂ 君がいると会話に困らない!! ﹁うんうん、校舎にね図書館があるの。一万冊もの書物が好きなだ け読み放題で、私それが楽しみで早速行ってみようと思うの﹂ ﹁そうか、それは残念だ﹂ 本当に残念だよ! 野獣と二人きりか。 ﹁そういえば、アイリスの剣の修復がおわってるよ﹂ 机の上に置いておいた剣をアイリスに渡した。 ﹁ありがとう。本当に、感謝してる! 金貨も家に送ったの。それもクルリさんのおかげ﹂ ﹁クルリでいいよ。これからは同級生だし。 図書館で良書に出会えるといいね﹂ 暗い雰囲気になりそうだったので話題を切り替えた。 ﹁うん!﹂ やっぱり図書館の話になると相当嬉しそうにしている。 94 ﹁アイリスとクルリはどのような関係だ?﹂ ヴァインが会話に参加してきた。 二人の時にもっとそういう積極性がほしいものだな! ﹁学園に来る際に、旅をともにした仲だよ﹂ ﹁そうか。 それにしてもアイリスは美しいな﹂ ﹁﹁えっ!?﹂﹂ この人そういうこと平気で言っちゃうんだ。 相当なやり手ですな。 流石だよ、ヴァインさん!! ﹁美しいなんて初めて言われちゃった﹂ アイリスが頬を染めていた。 ええっ!?そういう感じになっちゃうんだ。 ヴァインさん、あなた恋人候補にいましたっけ?? ﹁さぁクルリ、俺たちも出発しよう﹂ こっちは意にも留めていない。 思ったことを素直に述べただけのようだ。 この男、天然のモテ男だ!! 確実に!! ﹁ああ行こうか﹂ ﹁じゃあ私は図書館に行くから﹂ ﹁うん﹂ 家を出てアイリスとはわかれた。 95 ﹁学園で馬を借りることができる﹂ ヴァインの情報通り馬を借りることができた。 貸し出し用の馬は結構多く、種類も毛色も豊富だ。 やっぱり栗毛の馬は映えるので、迷わず栗毛を選んだ。 ﹁なかなかに馬を乗りこなす﹂ やった。道中、戦士様に褒められた。 ヴァインが案内してくれたのは緑が広がる草原だった。学園から少 しばかりの距離にある。 馬などにとっては天国のような環境だろう。 空気もいい、牧草だって食べ放題だ。 実際に草原に着いてからの走りは軽かった。 ヴァインのすぐ後ろを追走した。 風が気持ちいい。 地平線に、昇りかけの太陽、少し冷えた空気がどこまでも駆けたく なるような気持ちにさせる。 このまま走り続けたい。 そう思わせてくれる。 ﹁集落が見えてきた。 少し寄ってくる。待っていてくれ﹂ ﹁わかった﹂ 朝焼けの空を眺めた。 96 馬がリラックスしている。 乗馬で眠気も飛び、ほどくよく汗もかいた。 これだけで、もう満足している自分がいる。 誘ってくれたヴァインに礼を申し上げねばな。 ﹁待たせた﹂ 空を眺めていた後ろからヴァインが声をかけてきた。 そこには先ほどの爽快な気持ちを吹き飛ばす光景があった。 ヴァインの馬に、四肢をロープで縛り上げられた羊が提げられてい る。 不思議と羊は物凄く大人しい。澄んだ瞳でこちらを眺めるのだ。 自分の運命を受け入れているのだろうか。 ﹁その羊は?﹂ 当然の質問だ。 ﹁クルリにご馳走しようと思ってな。 集落の者に売ってもらった﹂ それでか。 朝食がいらないと俺を連れ出したのはこのためか。 家にいた頃に羊の丸焼きなどを食べたことはない。 生きた家畜を殺すところも見たことがない。 生の肉は流石に見たことはあるが、いつも料理になったものが食卓 に既に並んでいたな。 いつもなら羊の丸焼きなど好まないだろう。しかし、この大草原の もとでならそれもいいかもしれない。 97 今日は本当にいい経験ができそうだ。 ﹁北の作物が育たない地域ではな、﹂ 目的地に向かうと言ったヴァインの後を追いながら、その間少し語 ってくれた話を聞いた。 ﹁人々はあまり野菜を摂れないのだ﹂ そうだろうな。 そんな地があると聞いたことがある。 ﹁そこで人々がつけた知恵というのが生食だ﹂ えっ?何の話? ﹁生の肉を食すことにより、野菜から取る必要のある栄養素も摂取 することが可能だ。 そうやって北の大地に住む人たちは生きている﹂ ・・・はい。 ﹁実際彼等は滅多に大病しなし、長寿でも知られている﹂ あれっ、話の先が見えてきたけど・・・。 ﹁クルリにも是非味わって欲しくてな﹂ ・・・もう帰らせてくれないかな!! 既にすごくいい気持ちですので!! ﹁さぁついたぞ﹂ 98 ヴァインが連れてくれた場所は、本当に綺麗な場所だった。 草原の端まできたのだろう、崖があり、そこから先を見ると海が見 えた。 ﹁綺麗な場所だ﹂ そんな言葉が自然と溢れる。 これから起こるであろう悲劇がなければ、俺はこの景色に涙してい たかもしれない。 美しい自然だ。 心が癒され、美しい故郷を思い出させる。 ﹁いい羊だ。食べ甲斐がある﹂ 景色に見とれている俺の横ではヴァインが着々と朝食の支度をして いる。 羊は馬から降ろされても相変わらず暴れたりはしない。 なぜそんなに澄んだ瞳でこちらを見るのか。 俺に君を救う力なんてないのだよ。 途端、ヴァインの短剣が羊の首をはねた。 首は綺麗にはねとび、俺の前へと飛んできた。 ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!! 声にならない叫びがでた。 ﹁あっ﹂ 羊の首と目があった。 メデューサに睨まれたがごとく体が動かない。 99 澄んだ優しい瞳だった。 ﹁どうした﹂ ﹁いや・・・﹂ ﹁目が・・・合ったのか?﹂ ﹁目が・・・合いました﹂ ﹁・・・﹂ 何か言って!! その意味深な反応はなんだ! 目が合ったら憑かれるんでしょ!? そうなんでしょ!? ﹁目が合ったら何かあるのか?﹂ 恐る恐る聞いてみた。 ﹁いや、特には﹂ 嘘でしょ。それ嘘って知ってる! 優しい嘘ならいらない!欲しいのは事実! ﹁何か逸話とかあるのか?教えてくれ﹂ ﹁本当に大した話じゃないんだ。 ただ、俺は家畜を殺す際に目を見たことはない。同情してしまうか らな﹂ ﹁それだけ?﹂ それだけならいいんですが・・・。 ﹁ただ、﹂ ほら!やっぱりあるんでしょ!? 100 ﹁叔父がな、家畜を殺す際に目を見ると食べるときに家畜の顔が脳 裏に出てくると言っていた﹂ ちくしょー!! 俺はこれから羊を食べるたび、あの潤んだ優しい瞳が脳裏に出てく るのか!? あんなの出てきたら食べれる訳ないじゃないか!! ﹁まぁ人それぞれだ。気にするな﹂ ﹁はは、そだね﹂ なんだか綺麗な景色がどうでもよくなってきた。 俺が衝撃を受けている間にも、ヴァインの作業は淡々と進んでいた。 不器用とは程遠い、手つきが滑らかで美しくもある。 慣れているのだろう、素人が見てもわかるほどうまい。 首をはねた後は毛を綺麗に剃っている。 腹を開き、綺麗に内臓を取り出す。 おえっ 内臓を取り出した後は、各部位の肉を解体して、食べれるよう切り 分けている。 おえっ ﹁さぁいただくぞ﹂ 無理無理無理無理無理!! 101 なんていえないよな。 せっかく買って、ここまで準備してくれたんだ。 ﹁塩が必要だったか?﹂ そういう次元の話じゃない。 ﹁い、いただこうか﹂ 意を決した。 血の滴るもも肉を手に取り、口元へ運ぶ。 手が震えたが、がんばって進める。 やっぱ、無理無理無理無理無理!! ﹁肝臓が特に美味だ。お前にやる﹂ ありがた迷惑だ。 しかしだ、この好意を無下にするのか? 肝臓を譲ってくれているのだぞ。 肝臓だぞ! がんばって手で掴み、口元へ運ぶ。 やっぱ、無理無理無理無理無理!! はぁはぁ、なんかだんだんと息が乱れてきた。 ﹁肝臓の脂が苦手か?﹂ 102 ﹁いや、そうではない﹂ おれ!食うんだ!! 友の好意を受け取れ!! 想像しろ、想像するのだ。 例えば、例えばの話しだ。 ラーサーがお金を支払っていちご狩りに誘ってくれたとしよう。 素晴らしい畑に招待してくれ、いちごを取り、わざわざヘタを取っ たものを俺に差し出す。しかも一番甘いやつをだ。 俺はそれを断るのか? 断らないだろ!! 断ってはいけないだろ!! この状況と想像の状況、何が違う!! 羊の肝臓と一番甘いいちご、何が違う!! これを食べなければ俺は人じゃなくなる! 少なくともヴァインの友と名乗ることは許されない。 肝臓を口に入れた。 まろやかだ。 おえっ 美味しくはないが不味くもない。 ﹁泣くほど美味しいか﹂ ﹁うん、うん、うん﹂ 涙が止まらない。 103 ﹁こんなに喜んでもらったのは初めてだ﹂ ヴァインが初めて笑顔を見せた気がする。 食べてよかったよ。本当に。 おえっ ﹁今まで友ができたことはない。 クルリ、お前とは友になれそうだ﹂ ﹁ああ、同じ羊の中の内臓を食った仲だからな﹂ 104 13話︳閑話 隣人がやばい! 新入学生達もほとんどが学園に入り、それぞれが寮での生活を始め た頃、この僕もようやく寮に入った。 寮に入る前、女学生の﹁一階の住民少しおかしくない?﹂という噂 話を聞いた。 たいして気にはしなかった。 上流階級の僕が他人の噂話ごとき気にするまでもない。 なんといっても僕は、かの宝石がとれることで有名なラザン領の跡 取り息子なのだから。 そんな噂話よりも新しく始まる学園生活が楽しみでしょうがない。 ﹁一階は他の階より広さがある﹂という管理人の一声ですぐに部屋 を決めた。 僕に狭い部屋は似つかわしくない。 1−3、これから僕が3年間過ごす部屋になる。 学生の間は勉学に専念するつもりだが、友と呼べる人物たちとも出 会いたい。 僕と同じ上流階級の考えができる人間限定だけどね。 寮の隣人が条件に合う方だといいけど。 部屋の中は申し分ない。 105 広さ、基本設備、窓から見えるけしき、日差し、何もかもが満足の いく内容だった。 僕の実家の部屋には遠く及びはしないがな。 ま、広い一階を選択したのは正しかったようだ。 寮に入れたのは夕暮れ時だ。 荷物などの整理に時間がかかるだろう。 今日中に全ての作業を終わらせておきたい。 隣人へのあいさつは、明日でいいだろう。 明日への期待があると体に力が湧き出し、元気が出る。作業は非常 に効率よく進んだ。 食堂での食事も、とても美味しく満足できた。 風呂は共同風呂に若干の違和感があったが、仕方のないことだ。こ れもすぐに慣れるだろう。 部屋に戻り、片付いた自分の新居を眺めた。 ﹁うーん、素晴らしく整った部屋だ﹂ 一階には特別に庭も付いている。 窓を出て庭を眺めた。 隣の庭とは柵がはられ区切られている。 芝が青々しく生えた綺麗な庭だった。 3年もあるのだ。 何か植物を育ててもいい。 木か、花か、果物か、想像は膨らむばかりだ。 僕に似合うバラ園を作るのがいいだろう。きっとそれが一番僕とい う人物を引き立ててくれる。 106 ﹁ふっん!ふっん!ふっん!﹂ 他人の声が庭に響いた。 左の部屋の住民が庭で何かをしているようだ。1−2の方か。 柵の隙間からこっそりとのぞき込むと、そこには大剣を素振りして いる大柄の男がいた。 上半身裸で、誰に強制されるわけでもなく、ただただ無心に剣を振 っている。 正直かかわりたくないと思った。 あんな下品な男と関わるなど、想像もつかない。 僕の人生に汚点を残すことになるだろう。 隣人は彼だけではない。右を見れば1−4の生徒もいる。 明日は1−4の生徒に挨拶してこようか。 部屋に戻り、いつも睡眠前に飲んでいる紅茶を煎れた。 優しい香りが部屋に広がる。 その中に若干の雑味を感じたがあまり気にはしなかった。 お茶を口に含むと同時に眠気を感じた。 やはり、動きっぱなしだった今日の疲れがでたのだろうか。 飲み終わったらベッドに入ろう。 しかし、あまりに強い睡魔だった。 耐えられず、その場に伏し、気づけば眠りについていた。 どれくらい眠っていたのか自分ではわからない。 次の朝、強烈な衝突音で目を覚ました。 107 ドアの方から音がする。 誰かが、ドアを激しく叩きつけているようだ。 外を見るとまだ日が昇ったばかりだ。 こんな時間からなんの用があるのか。 非常識この上ない! それとも強盗か何かなのか!? 怖い!不覚にも、その感情しか出てこない。 体が動かなかった。 ただただその恐怖が過ぎ去るのを待った。 音がしなくなってからもしばらくは怖くて動けないでいた。 何が起きたのかいまだに理解できていない自分がいる。 そういえば、昨晩のこともよく思い出せない。 紅茶を飲んだあたりまでは思いだせるのだが、なぜ床で寝ていたの だろうか。 思い出せないものを無理に思い出すこともない。 とりあえず、今朝の出来事は誰かに相談しておこう。 朝食を済ませ、気を取り直して1−4を訪ねた。 ﹁はい﹂ 出てきたのは、フードをかぶり、マスクをした小汚い男だった。 部屋から強烈な薬草匂がする。 思わず鼻をふさぎたかったが、何とか耐えきることができた。 男の身長は低く、体の線は細い。目のクマを見ると、あまり寝てい ないのかひどく黒くなっている。 ﹁えーと、隣に越してきたルインだ﹂ 108 もう挨拶もしたくなかった。 彼とは友にはなれない。 輝かしく華のある僕とは全く違う人間だ。 一刻も早くこの場を立ち去りたい。 ﹁トト・ギャップだ。 ところで昨日はよく眠れたかな?﹂ ﹁ええ、まぁね。なぜか昨日のことをよく思い出せないが、よく眠 れたことには違いない。 では、僕はこれで失礼するよ﹂ ﹁そうか、うまくいったようだ﹂ ﹁なんだい?﹂ ﹁独り言だ﹂ ﹁あ、ああ、では僕は行くとしよう﹂ 残念ながら、僕は隣人に恵まれなかったようだ。 左には蛮人。 右には変人。 なーに、へこむことはない。 学園の授業が始まれば無数の生徒と出会うことができる。 僕の華やかさがあればきっと人の輪に恵まれることだろう。 両隣はダメだった。 でも1−1も近くだ。 どうせなら声をかけてみるのもいい。 1−1、ドアの前に立つと、少し鋭い金属音が部屋の中から聞こえ てきた。 なんだか、聞いたことのある音だ。 109 鍛冶屋で聞いた音と似ている。 鉄を叩いているのか? 貴族が?なんのために? あらゆる疑問がわいてきたが、声をかけないという選択によって悩 みは吹き飛んだ。 部屋に戻り、大好きな紅茶をいただき心を落ち着かせる。 焦る必要はない。 周囲に変人が固まったが、友など焦らなくてもできる。 そう、僕は特別な人間なのだから。 何もしない日中というのも贅沢でいいのだが、今日は読書をして過 ごすことに決めた。 愛読書を何冊も持って来ている。 読み直すにはいい機会だ。 異変に気付いたのはすぐだった。 おかしい。 昼時にも関わらず、強い睡魔が襲ってきた。 ﹁べ、ベッドへ行かなくては﹂ ふらふらの足取りでベッドへ向かうが、力尽きてその場に伏して寝 てしまった。 どれくらい眠ったかはわからない。 次の朝、強烈な衝突音で目を覚ました。 ドアの方から音がする。 昨日のやつだ! 110 とっさに理解した。 またも昨日の人物がドアを壊そうとしている。 外を見るとまたも日の出の時間だ。 一体僕の部屋になんの用があるというのか?! またも恐怖しかなかった。 ﹁お母様﹂つい、母親を呼んでしまった。 この僕がなんでこんな屈辱的な目に遭わなければならないのだ。 悔しさと、恐怖で涙が出てきた。 今日も、時間が過ぎるとドアの衝突音はやんだ。 あきらめたのだろうか。 朝食を済ませたら、管理人さんに相談してみよう。 でなければ、僕はもうここでの生活に耐えられないかもしれない。 気分を落ち着かせるために紅茶を飲んでいるとき、またもドアから 音がした。 今度はノックされただけのようだ。 ドアを開けると、昨日の1−4の住民がいた。 彼の体から強烈な薬草のにおいがする。部屋のにおいが服に染みつ いているだろう。 不潔極まりないな。 名前はもう忘れたが、彼と友になるつもりはない。 親しくされても困るので、できればすぐに追い返しておこう。 ﹁どうしました。今少し忙しいのですが﹂ ﹁すみせん少しだけ。昨日の夜ずっと明かりが点いていないようで 111 したが、どうなさいました?﹂ ﹁ああ、そういえば今朝は床でおきて、あれ?なんで床で寝たのか な? んーよく思い出せない﹂ ﹁二日連続成功か﹂ ﹁ん?﹂ ﹁独り言だ。体にお気をつけて、では﹂ ﹁ああ、それでは﹂ すぐにドアを閉めた。 一応僕の心配をしていてくれたようだ。 上流階級の僕と仲良くなりたいのはわかるが、やさしさ以前に満た すものがあるだろ? あの様子だと家柄だって僕と釣り合うかどうかわからない。 全く、変な部屋を選んでしまった。 今にして思えばあの女学生の噂話を少しでも頭の片隅においておけ ばよかったと思っている。 しかし、数日食堂に通うと僕は自然と友達ができた。 これだけの学園だ。僕と家柄がつり合い、上品な人物は多くいた。 やはり、僕の周りには華やかな人物たちがいるのがふさわしい。 1−2の巨人、1−4の薬草男、1−1の鉄男、彼らは僕にはふさ わしくない。 今年は平民からの入学者もいると聞いている。初めて聞いた時はぞ っとしたけど、どうせすぐに居場所などなくなるだろうから僕には 大して関係のない話だ。 そして、管理人さんに相談した日から、毎朝の轟音は止んだ。 管理人さんが見回りなどをしてくれているらしい。 112 スタートこそ最悪なものだったが、やはり僕の順風満帆な学園生活 は軌道に乗り出した。 僕はそういう星のもとに生まれてきているのだ。 ﹁紅茶は美味しいな﹂ 部屋で友人を呼び、紅茶を飲む、至高の贅沢だ。 皆も喜んでいる。華やかな、僕たちにふさわしい光景だ。 ﹁うええ﹂途端、一人の友人が吐いた。 朝食、先ほどの紅茶、胃袋の中身をすべてだ。 ﹁おいおい、紅茶に何を入れているんだ?﹂ 他の友人たちの疑いの目は当然僕に向けられた。 ﹁ぼっ僕は変なものなんて・・・うええ﹂ 僕も吐いてしまった。 それからつられるように僕の部屋にいた全員が吐いた。 ﹁なんだよ。お前の部屋﹂ 僕の友人たちが皆憤りを覚え、帰っていった。 ﹁くそっ!﹂ なぜだ、紅茶にへんなものなど入ってはいないのに。 仕方なく、僕は汚物まみれになった部屋の片づけをし、翌日友人た ちに詫びをいれた。 紅茶は本当にちゃんと煎れたのだ。そのことを皆に一生懸命伝える ことで、何とか許してもらうことができた。 ふう、危うく僕の学園生活に暗雲がかかるところだった。 それにしても、昨日紅茶を飲んでいる際にかすかに薬草のにおいが したが?・・・まぁ気のせいだろう。 ﹁昨日は友人たちと随分と騒いでいたようですが、どうなさいまし 113 た?﹂ 今日も1−4のフード男がやってきた。 めんどくさい男だ。 ﹁いや、まあ軽く食あたりがあっただけだ。今後は騒がないので、 特に僕を気に掛ける必要はない﹂ もう来ないでくれと間接的に伝えてみた。 ﹁ふふ、僕は天才だ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁独り言だ。では﹂ ﹁ああ、それでは﹂ 次来てもドアは開けないでおこう。 彼は僕に似つかわしくない。 午後に、友人たちが外で運動しないかと誘ってくれた。 あまり気分は乗らなかったが、昨日のこともある。 仲直りにはいい機会だ。 皆を連れて僕が先頭を歩いた。 なにをしようかと皆で盛り上がっているが、どうも連日の悪いこと で僕の機嫌はよくはならなかった。 そんなときに、前からきた男と正面衝突した。 二人ともよそ見をしていたため、激しく転倒した。 ﹁いっつ!﹂ ぶつかった男を見ると、1−1の鉄男だった。 一度訪ねようとしたが、やめた部屋の住民だ。 あれからなんどか部屋から出てくる姿を見たことがある。 服装や仕草からすぐに僕とは程遠い、レベルの低い貴族だと理解し た。 本当に、こいつの部屋にあいさつに行かなくてよかったと思ってい 114 る。 今ぶつかったのは、間違いなくその鉄男だった。 ﹁すまない、よそ見をしていて気づかなかった﹂ 男から謝罪の言葉が出てきて、倒れた僕に手を差し伸べた。 その手を強くはたいた。 ﹁触れないでくれ!﹂ 僕は今相当に機嫌が悪い。 そのうえ、鉄を打つような奴の手を借りるなどありえない。 ﹁汚い手で触るな! 君のような、三流の貴族が僕に触るなどありえないのだ!隅っこを 歩いていればいいものを﹂ ﹁・・・ん、すまない。では、僕は行くとするよ﹂ 過ぎ去る男の背中から追い打ちの言葉を投げかけた。 ﹁次からは前をしっかり見て歩くことだ。そのほうがこの学園での 生活も、将来の生活もいいものになるだうからな!﹂ 男は何も言い返すことなく、過ぎ去った。 しょうもない男だ。言い返すこともできない。 ﹁おい!今のはまずいって﹂友人の一人が勢いよく迫ってきた。 ﹁べつにいいだろ。あんな小物一人くらい﹂何をそんなに焦ってい るのか分からない。 ﹁よくないだろ!あいつ、クルリ・ヘランだぞ!?知らないのか! ?﹂ ﹁し、知らないな﹂ 誰だ?クルリ・ヘランとは。 詰め寄ってきた友人の顔からみるみると血の気がひいている。 115 他の友人たちを見ても、みんなすごく不安そうな顔をいていた。 なんだかものすごく、嫌な予感がする。 ﹁ヘラン領は今、この国で一番の好景気の領だぜ?あいつはそこの 次期領主だ。 王妃様と、第2王子のラーサー様ともつながりのあるやつだぞ!﹂ ﹁つながりって言ったて、そんなに強いつながりはないだろ?そん な話は一切聞いたことがない﹂ 不安をかき消すために、自己弁護の材料を話した。 ﹁いや、最近になってからだが、ラーサー様とはかなり仲がいいと いう噂だ。 下手に機嫌を損ねると王家からの制裁が飛んでくる可能性は十分に あり得るぞ﹂ 思わず、口の中の唾を飲み込んだ。 ﹁う、うーん﹂ 言葉にならない。 ﹁それにだ。俺知ってるんだ﹂ 友人がまだ情報を持っているらしい。 もう耳を塞ぎたい気分だった。 ﹁あいつ、かなりの魔法の使い手らしい。魔物を魔法のみの力で、 たった一撃で仕留める力があると聞いたぞ﹂ ﹁俺も聞いたことがある﹂ 他の友人も同調した。 魔物を魔法で一撃!?そんなの学生に可能なのか? それこそ全く聞いたことのない話だ。 不安にはなったが、まだまだ信じられないような話ばかりだ。 ﹁あのさ、今だから言えるけど﹂ 116 まだ何かあるらしい。 ﹁俺が寮に着いたばかりのころの話だ。 クルリ・ヘランのやつ、手と口元を血で染めて帰ってきたことがあ るんだ。 怖くて詮索はしなかったが、今思うとあれは・・・﹂ 全員が唾を飲み込んだようだ。その音が聞こえるほどに静まり返っ ていた。 あたりは一気に静けさに包まれた。 だれが言うともなく、僕たちは解散した。 ああ、なんてことだ。 僕の輝かしい学園生活はどこへ向かってしまうのか。 我が隣人はやばい連中ばかりのようだ。 頭が軽く混乱してきた。 隣人がやばい!! これだけは頭に入れておいておこう。 そうしたら学園での生活も少しはいい方に傾くかもしれない。 117 14話 ﹁結局、1−3の住民と友になれなかった﹂ 朝早くからやってきヴァインが悲壮感漂う顔で言った。 ﹁まぁ誰とでも友達になるなんてことはできないから、気にしない 方がいいと思うよ﹂ ﹁そうか、同じ人類なのにな﹂ きっと彼は言葉にしない分だけ頭の中でいろいろと考えているのだ ろう。 出会って2週間ほどだが、彼という人物がだんだんとわかりだして きた。 ﹁人は愛し合うことも、憎しみ合うこともできる。その違いはなん なのか﹂ ﹁うん、日常で考えることじゃないね﹂ ﹁・・・﹂ それ結論なんて出ないからやめといた方がいいよ、と遠回しに伝え たつもりだがヴァインは目をつむったまま考え出したようだ。 彼はこういった途方もないことにも真剣に向き合う生真面目さがあ る。 そういう俺は、いまだに彼と正面から対峙すると額に汗が流れてく るので鍛冶作業に集中している。 何かをしながら会話をするというのは、意外とコミュニケーション を円滑にしたりするものだ。 しばらく作業音だけがする快適な空間が続いた。 118 ﹁明日の実力試験の準備はしなくてもいいのか?﹂ 沈黙をヴァインが破った。 入学一週間前に行われるクラス編成のための試験のことだ。 入学案内に詳細が記されていたのでもちろん準備はしている。 ﹁筆記は問題ないかな。毎日起きて数時間は勉強している。 体力テストについても特には心配していない。これでも子供の時か ら鍛えているから﹂ ﹁そうか。自分も体力テストには自信はあるのだが、筆記がな・・・ 。 まぁ少しでも上にいけるよう全力は尽くす﹂ 何から何までイメージ通り過ぎて驚きは皆無だった。 ﹁上位40名がAクラスだったよね?﹂ ﹁特別な限りでない場合はそうだ﹂ アイリスをはじめ、主要キャラクターはそのほとんどがAクラスだ。 エリザの暴走を封じるためにも俺のAクラス入りは至上命題である。 そう考えると鉄を打っている場合ではないのでは?となるが、まぁ 本番前に焦ってもねぇ、結果は劇的には動かないだろう。 好きなことをやって本番を迎えるのが一番いい。 ていうかヴァイン、心配なら勉強しろよ。 なぜ勉強せずに、俺の部屋で人類永遠のテーマを思案しているのだ? ﹁たのもー!!﹂ ﹁ドアの方からだな﹂ ヴァインとの会話中に外から大きな声が響いてきた。 119 声の高さから女性のものだと思われる。 決闘を挑まんばかりの勢いだ。恋人でも盗られたか? ﹁この部屋の外ではないか?﹂ 人の恋人を盗った覚えも、決闘を挑まれる覚えもない。 ﹁違うと思うが﹂ ﹁たのもーー!!﹂ より一層勢いがついた。 ﹁やはりこの部屋の前だ、見てくる﹂ ヴァインが椅子から立ち上がり玄関へと向かった。 ﹁あっ﹂まぁいいか。 いかにも面倒そうな客だ。 本当によその部屋の前で叫んでいるならそれもよし。 大した用事がなければヴァインの容姿に驚いて去っていくだろう。 ﹁なんだ﹂ 玄関からヴァインの優しさのかけらもない声が聞こえてきた。 ちなみに、彼に悪気はない。 ﹁こちら、クルリ・ヘラン殿のへやああああああああああああああ あああ﹂ とてつもない悲鳴だ。 天と地がひっくりかえっても俺はそんなに絶叫しない自信がある。 来客の女性が2、3回咳ばらいをし、冷静に話を戻した。 ﹁顔が見えませんが、クルリ・ヘラン殿とお見受けいたします。こ の度はお願いがあってまいりました﹂ そうか、ヴァインの顔はドアぶちに収まらいんだ。 120 彼が腰を折るという気づかいができるとは思えない。 二人の現在の状況が手に取るように分かった。 ﹁クルリではない﹂ ﹁えっ、違うのですか?クルリ殿の部屋は1−1と聞いたのですが﹂ ﹁そうだ。でも違う﹂ ﹁えっ!?ごっ御友人の方でしょうか。それでしたらクルリ殿を呼 んでいただきたい﹂ ﹁それはできない、帰れ﹂ なんで!? この返事には俺が一番驚いた。なんで勝手に追い返すの? ﹁貴様!もしや、よからぬことをしにクルリ殿の部屋に来ているの か?﹂ ﹁だったらどうする﹂ ﹁貴様に出て行ってもらうまでだ!﹂ 二人が険悪なムードになってきたので、慌てて玄関に駆け付けた。 ﹁なんでふたりとも敵意むき出しなの。会って一分未満だよ?﹂ ﹁いや、失礼なやつだったのでな﹂ あっ、叫ばれたこと気にしてるんだ。 ﹁ここは俺が対応するから、ヴァインは部屋で待っててよ﹂ ﹁ああ﹂ しぶしぶの了承といった感じだ。 ﹁どうも、クルリ・ヘランです。初めまして、ですよね?﹂ 目の前の女性に挨拶をした。 ヴァイン同様彼女も服装をきれいに整えており、金髪の髪は後ろで 一本に束ねられている。 一本の筋が通っているかのようなきれいな立ち姿でそこに立ってお り、大きな瞳がこちらをうかがっている。一言で言うなら、美しい 121 女性がいた。評価するならA+だ。ちなみに基準はない。 ﹁はい!クロッシ・アッミラーレと申します。お会いできて光栄で す。 想像どおりの顔でホッとしました﹂ ﹁え、ああ、それはどうも。で、どのような用件ですか?﹂ ﹁私、クロッシ・アッミラーレ、クルリ・ヘラン殿に弟子入りに参 りました!﹂ ﹁へ?﹂ 間抜けな声が出てしまった。 ﹁剣も魔法も相当な腕とお聞きしています。私も強くなりたいので す。是非、是非、その強さを私に伝授していただけないでしょうか﹂ ﹁へ?ああ、・・・とりあえず入る?﹂ ﹁はい!﹂ いかんな。 最近厄介ごとが起こるたびに考えることを先延ばしにし、結果我が 部屋に招き入れている気がする。 弟子入りなんて困るに決まっている。書物を読め、と追い返してし まおう。 ﹁クルリ殿の部屋に入れてもらえるなんて光栄です﹂ ﹁用が済んだらとっとと帰れ﹂毒を吐きかけたのはヴァインである。 ﹁なにを!?﹂ ヴァインと目線をバチバチと戦わせている。 やめときなさい。勝てやしないよ! 彼巨人だから!食べられるから! 椅子に腰かけてもらったクロッシさんに聞いてみた。 ﹁クロッシさんは同級生だよね?﹂ 122 ﹁はい!そうです﹂ ﹁なんで弟子入りなんて考えたの?﹂ ﹁私・・・強くならなきゃいけないんです。それで強い人を探して て、クルリ殿の噂を聞きました﹂ なんだろ、その噂。ちょっと怖いので聞かないでおこう。 それにしても、強くなりたいのか。なにか事情があるようなので深 くは聞かないでおこう。 ﹁女がそんなに強くなってどうする﹂ 横やりを投げてきたのはヴァインである。 ﹁女が強くなって何が悪い!﹂ 第二ラウンド、ファイ! そうとはいかず、すかさず間に入った。 ﹁それに私は、女ではない!私は男だ!﹂ ﹁へ?﹂またも間抜けな声が漏れた。 これにはヴァインも驚きの顔を隠しきれない。 声も、容姿も、髪からただよういい香りも、どれをとっても女性の それだ。 それなのに男? もう一度よく観察してみた。 うん、女だ。 それも結構いい女だ。 でも、男。 女なのに、男。 ・・・あれっ!?男ってなんだ? なんだか軽く混乱してきた。 ﹁とっとにかく、私は強くならねばならぬ!是非師匠として私に強 123 さを伝授していただきたい﹂ ﹁強さって言ってもなー。俺が学んできたことをそのまま伝えるだ けなら可能だけど、それでいいなら﹂ ﹁もちろんです!それが知りたくて来ましたから!﹂ ﹁じゃ、じゃあ、弟子入りOKってことで﹂ ﹁ありがたき幸せ!この身の限界を超えてもなお精進し、師匠の技 を体得することを誓います!﹂ いや、そんなの重いからやめて! プレッシャーかかるから! 強さ、という言葉に惹かれたのだろう。 クロッシとの会話が終わるとヴァインが口を開いた。 ﹁強くなりたいなら、まずは体を作れ。お前の体はは細すぎる。そ れでは魔法は使えても、剣術は厳しいだろう﹂ ﹁だまれ!貴様の指図は受けない!私はクルリ師匠の弟子だ!﹂ 二人の視線がまたも強く絡みあう。 ラーーウンドスリーーー!ファイッ!! ﹁まぁまぁ二人とも落ち着いて﹂ ﹁はっ、師匠がそうおっしゃるのであれば。 ところで、早速修行に入りたいのですが﹂ 言われて思い悩む。 何をさせよう。 ﹁・・・か、体をつくれ、まずはそれからだ﹂ ヴァインの視線が痛い。 でもこれは基本ですよね!ヴァインさん、あなたが言わなくても俺 言ってたから!! ほんとだよ!本当に言ってたんだから!! 124 ﹁はい、わかりました。具体的には何をすればいいのでしょうか?﹂ ﹁何をするにしても体の柔らかさと、基礎体力は必要だ。まずは間 接と筋肉を伸ばせ﹂ ヴァインのセリフである。 クロッシは横目でヴァインを睨みつけている。 ﹁何をするにしても体の柔らかさと、基礎体力は必要だ。まずは間 接と筋肉を伸ばせ﹂ 俺のセリフであるが、俺の言葉ではない。 ﹁はい!﹂ 頼むからふたり仲良くしてくれよ! そしたら中間の俺いらないじゃい!! ﹁もっと膝を伸ばせ!﹂ ヴァインの厳しい指導が入る。 ﹁・・・﹂ クロッシは無視だ。 ﹁もっと膝を伸ばしたらどうだ?﹂ ﹁はい!﹂ くっそ! こんなことになるのなら俺が玄関に向かえばよかった。 そしたらこんな面倒くさいことにはなっていなかっただろうに。 ﹁しっかりと時間をかけて基礎を作る。 一週間続けた後、走って体力をつける段階に入る。それまではひた すら柔軟性を養う﹂ ﹁・・・﹂ 125 ﹁彼の言葉を俺の言葉だと思うように!﹂ すかさず付け加えた。 ﹁はい!﹂ あ、意外と簡単に受け入れてもらった。 ﹁もっと大きく足を開け﹂ ヴァインの厳しいチェックが入る。彼はどうやら鍛える系になると 燃えるものがあるようだ。 ﹁くっ、乙女の内腿を触るな!﹂ 足をもっと開かせるようにサポートしたヴァインの手が気になるら しい。 ﹁お前は男だろうが﹂ ﹁そうだ!でも触るな!﹂ ﹁うるさい。いいからもっと開け!﹂ ﹁だからそこは触るな!﹂ ええ、仲がよろしいようで。 ヴァインは面倒見がいいらしい。口調は厳しいが指導そのものは丁 寧で細かい。 二人がぎゃーぎゃーうるさいがどうやら仲良くやっていけそうだ。 俺は鍛冶作業に戻った。 ﹁この柔軟性を見てみろ。足が頭まで軽々上がる。そのレベルに達 するまで次の段階にはいかせん﹂ ﹁貴様の自慢などどうでもいい。あいたたたたたた、強く押しすぎ だ!痛い!﹂ ﹁痛いのは貴様の今までの生活がだらけていたからだ﹂ ﹁だまれ貴様、私を愚弄するか!﹂ ﹁いいから黙ってやれ。我慢の先にこそ強さはある﹂ 126 ﹁言われずともわかっている!﹂ ええ、やっぱり仲がよろしいようで。 もう、自分たちの部屋でやってくれません? 127 15話 試験当日。 初日の試験は体力テストである。 新一年生、全432名が学校の校庭に集合している。 動きやすい格好で来るようにとのことだったが、早朝ということも あり皆結構服を着こんでいた。 かくいう俺も上下長袖で体温を奪われないように気をつけている。 集合時間から5分ほどたったころ、校庭の正面より教官と思われる 人物が現れた。 ﹁えー、みなさん初めまして。教官のミッチェル・ウーです。 今日の試験は体力テスト、学校の外周約十キロを走ってもらいます。 タイムがそのまま点につながりますのでしっかり励むように。 各人それぞれに番号を振ったゼッケンを作ってありますので、前に きてお取りください。 では、1時間後、正門よりスタートですので各自準備を怠らないよ うに!以上!﹂ 10キロマラソンか、体力には自信があるし簡潔な種目でよかった。 俺のゼッケンは44番。 こんな番号普通はあまり良い気持ちにはならない。 でも特段モチベーションを落とすこともなく準備運動に入った。 その隣で同じく運動しているのが、早朝より我が部屋に来た二人だ。 ﹁今日の試験でお前の基礎体力を確認しておく﹂ 128 入念に体を伸ばしながら話すのがヴァインだ。 ﹁上から目線で話すな、この木偶の坊!そんな話し方を許したのは クルリ殿だけだ!﹂ クロッシも昨日のヴァインの指示通り入念に柔軟運動をしている。 ﹁いたいいたいいたい、そんなに強く押すな!﹂ 気づくとヴァインはクロッシの柔軟運動のサポートに入っていた。 悪口を言われた彼なりの仕返しなのだろう。 ﹁貴様、昨日も言ったがあまり私の肌に触れるな!変態野郎が!﹂ ﹁触れなくてはサポートもままならん。すぐに慣れるさ﹂ ﹁慣れてたまるか!﹂ 昨日と同じようなやり取りをしている。 自称ヴァインの一番の理解者のつもりでいたが、もうこの二人の方 がはるかに仲がよさそうだ。 さてと、この二人がイチャイチャしている間にあたりを見回した。 おー、見知った顔がちらほらと。 アイリスも見つけた。 こちらも入念に運動をしている。 何が何でも勝ってやるって目をしていた。 おかげで気軽に挨拶するのがはばかられる。 そういえばこの学園、男女への配慮とかそういったものがないよう だ。 純粋な体力勝負で男女ともにハンデなしか。 まぁそれだけ優秀な女性陣が多いのだろう。 ・・・アイリスに負けたりしないよね? 129 ちょっと不安になってきた。 他にも見渡すと・・・、いた!! 第一王子のアークと親友のレイルだ。 二人の華やかさも目立つことながら、何より女性たちに囲まれてい るのが非常に目立つ原因だ。 アークはパーティーで見せたような丁寧な対応はしていなかった。 あれは、さっさと去れ!、と視線で訴えている顔だ。 親友のレイルがまぁまぁと御機嫌をうかがっているのが見える。 やっぱり王子って大変だよな。 更にあたりを見渡すと・・・、またまた大物発見! エリザ・ドーヴィル。 宰相の娘にして、学年一の美女。 学業優秀、スポーツ万能。 青い瞳を持ち、きれいに伸びた髪の毛は腰の位置まで来ている。 腕組みをしながら、軽く瞼を閉じて直立しているが、またその立ち 姿が美しい! 流石は我が将来の嫁である。 正直めちゃめちゃタイプですよ。 それなのになぜ性格が悪い! 慎ましくいれば完璧なじゃないですか。 もったいない。 現に今も取り巻きの四天王がエリザの後ろに常駐している。 その四天王の視線で皆威圧されて近づこうともしない。 挨拶する価値がある男なら自分からする。 それ以外はすべて排除せよ!とでも任務を与えられているのであろ 130 うか。 そうに違いない。 そういえば原作ではエリザって、たしかAクラスに当たり前のよう に存在していたな。 ということは、このマラソンでも上位に食い込むということか。 ・・・っぷ。 エリザの必死に走っている顔を考えるとなんだか笑えてきた。 あんなにクールぶっているのに・・・。 なんだか勝手な想像でエリザに親近感がわいてきた。 ヴァインとクロッシは仲良くやっているようなので、興味本位でエ リザのもとへ近づいた。 ﹁やぁ、おはよう。私はっ﹂ 言い終わる前に、四天王が一人と思われる女性に胸を突き飛ばされ た。 それ暴力ですよ!! ﹁下がれ、下郎!!﹂ ﹁げろう!?﹂ 下郎ってなんぞ!?初めて言われたからわからない。 ﹁いや、エリザさんに挨拶しようとしただけで﹂ 俺はだいぶ戸惑い気味に伝えた。 ﹁エリザ様は今忙しい、見てわからぬか!下郎!!﹂ 胸を突き飛ばしてきた四天王が答えた。 ﹁げろう!? いや、でも立ってるだけだし﹂ 131 ﹁しつこいぞ、下郎!!﹂ ﹁げろう!?﹂ ﹁おやめなさい、メイリメさん﹂ まさかの本丸登場である。 エリザがメイリメと呼ばれた女性を制し、俺の前に来た。 完璧とまで言える、美しい所作で一礼してきた。 危うく、きれい、とかピュアな感想が出そうになった。 ﹁クルリ・ヘランさんですね。私、エリザ・ドーヴィルと申します。 先ほどは、お供の者が失礼を致して申しわけございませんでした﹂ ﹁いや、別にいいよ。気にしてないから。 それよりも、これからよろしくね、エリザさん﹂ ﹁ええ、至らぬことも多いですがよろしくお願いいたします﹂ ﹁それにしてもエリザさん、さっきの礼といい、その容姿といい、 全てがものすごく美しいですね﹂ 簡素な言葉で申し訳ないくらいにその容姿は美しかった。 ﹁ふふ、クルリさんはどうやら女性の扱いに長けていらっしゃるよ うで﹂ ﹁いや、ただの本心だよ﹂ ﹁そうですか。ではありがたく頂戴いたします。 では、準備もございますので、この辺で失礼いたします﹂ ﹁ああ、お互い頑張ろう﹂ ﹁はい﹂ これまた完璧な一礼を済ませ、エリザはさっさと戻っていった。 四天王が一人、メイリメも謝罪のつもりか一礼してきた。 132 そんなことより、さっき言った げろう エリザの印象はすごくいいものだった。 とかいうのを取り消せ!! あんな子がアイリスをいじめるなんて想像もつかない。 うーん、でもやるんだよな。 そこが女の怖さだよね。表向きじゃ何も見えてこやしない。 美しさに騙されることなく彼女を止めねば。 それが俺がこの学園にいる最大の理由でもあるのだから。 準備運動を済ませ、軽く体に負荷もかけた。 開始10分前にはすでに辺りも皆準備を終えている。 流石はエリートが集まる学校だ。 運動の心得は当然として持ち合わせている。 ﹁少し緊張しますね、師匠﹂ 開始直前クロッシがそんなことを言っていた。 ﹁ああ、緊張する﹂ 緊張するときは喋ったほうが言い。持論である。 ﹁みんな、準備はいいか?﹂ ウー教官の声に反応する者はいなかった。 それが全員大丈夫だというサインでもある。 ﹁スタート!﹂教官の声と共に号砲が鳴り響く。 スタートしてすぐに、先頭集団、中集団、下位集団の3つの大きな 塊ができた。 皆それぞれ自分の体力を客観的に判断してあらかじめどの位置に着 133 くか決めていたのだろう。 俺はもちろん先頭集団に食らいついた。 あまり余計なことは考えたくない。 あたりに誰がいるかは見なかった。 学校の外壁を左手に見て走っているので、最初の曲がり角で左に曲 がった。 全部でこの角が4つ、後3つ曲がれば最終の直線である。 最初の曲がり角で先頭集団には50人ほどがいた。 徐々に集団がばらけてきだし、走りやすくはなっている。 そのまま徐々に集団は間延びしていった。 2つ目の曲がり角を曲がるころには、30名ほどまで減っていた。 あ、ヴァインがいる。 彼は大きいから気づいてしまった。 いかん、いかん、集中をきらせたら俺も集団から落ちてしまう。 2つ目の角を曲がった後の直線は長い。 直線というコースは走っても走っても距離が縮まったように思えな いのだ。 この精神的苦痛に耐えかねて、気づけば集団は10名ほどになって いる。 先頭を引っ張るのは第一王子のアークだった。 マジで!?ってなったが、いかん!集中だ! 134 3つ目の角を曲がり、ようやく最長の直線を終えた。 先頭は、アーク、レイル、ヴァイン、バネの効いた走りをする男、 そして俺が残った。 ここまで来てペースを上げる王子に少し驚いたが、何とか全員が食 らいついた。 しかし、最終の角を曲がり、ヴァインと、バネのいい男が沈む。 3人での最終決戦だ。 アークがラストスパートをかけた。 引き離されないように食らいついて、すぐに気づいた。 俺にはもう一段ギアがあると。 でも、一位は譲るとしよう。 あまり目立ちたくもないし、王子に勝っても後々いいことにはなり そうにない。 徐々にペースを落とし、アークから引き離された。 一時引き離したレイルに追いつかれる。 彼も相当疲れた様子で、無理に俺を追い抜こうとはしない。 並走という形で進み、ゴールが見えた。 アークは既にゴールして、休憩中のようだ。 ﹁君はまだ余裕があるようだね﹂ふいに隣のレイルに笑顔でそんな ことを言われた。 妙に不気味な笑顔だった。 135 ふわっと力が抜けてしまい、2位はレイルが、3位は俺がもらった。 レース後アークとレイルはお互いの健闘をたたえ合っている。 直後、ヴァインとバネの男が接戦の末、ヴァインがコンマ1秒の差 で勝った。 ﹁いよっし!﹂ 珍しく聞く彼の大声だ。 ﹁クルリは思った以上にやるな﹂ 給水を終えたヴァインが話しかけてきた。 ﹁ヴァインもその大きな体でよく走るもんだ﹂ 俺もヴァインを称えた。 運動の後というのはどうしてこうも気持ちがさわやかなのだろう。 その後も体を鍛えた男どもが次々ゴールに流れ込んできた。 流石に女性にはきつかったみたいで、女性のゴール者はまだいない。 ﹁次が9位か﹂ 最後の一桁順位だ。 ヴァインを見ると視線をコースの方に向けていた。 きっと、なんだかんだでクロッシが心配なのだろう。 それと同時に上位で来てくれと願っているのも知れない。 9位の人物はすぐに見えてきた。 女性だ! クロッシではなかったのため、ヴァインがすぐに興味を失った。 目を凝らすと、アイルスと、エリザがデットヒートを繰り広げてい 136 るのが見える。 次に先に入ってきた者が、9位。 最後の一桁順位であり、そしてあの二人にとっては女性1位をかけ た戦いでもあった。 二人とも美人の顔が台無しになるくらい必死だ。 アイリス。 勝っちゃだめだ!! 俺は心の中で必死に叫んだ。 声にしたいが、そんなことは出来ない。 エリザのプライドがずたずたになる。 たのむ!! アイリス、君のために、俺のために、世界のために、負けてくれ!! ﹁がんばれ!最後だ、踏ん張れアイリス!!﹂ 隣で人の気も知らずにヴァインがさわやかに応援していた。 バカヤロー!! ﹁エリザー!!踏ん張れ!﹂ 思わず声に出してしまった。 ﹁アイリス!!﹂ヴァインが叫ぶ。 ﹁エリザ!!﹂俺も負けじと叫ぶ。 ﹁アイリス!!﹂ ﹁エリザ!!﹂ ﹁アイリスーー!!﹂ ﹁エリザーーー!!﹂ 137 二人はゴールが見えて、最後の加速に入る。 二人ほぼ同時にゴールに駆け込んだ。 どっちだ!? ﹁エリザが若干前だな﹂ ウー教官が答えた。 ﹁やったーーーー!!﹂ つい叫んでしまった。 エリザが、なんであなたが喜ぶの?といった表情だ。 ﹁お疲れさま。エリザさん・・・ですよね?いい勝負でした﹂ アイリスがエリザのもとへ駆け寄り、手を差し伸べた。 スポーツ後の良き景色ですな。 ﹁ふんっ﹂エリザは軽く鼻であしらい、無視して給水に行った。 アイリスが悲しそうにこちらへ来る。 ﹁嫌われちゃったみたい。いい勝負だったのになぁ﹂ ﹁お疲れ。いい勝負。そして、いい結果だったよ﹂ アイリスに水を手渡し、俺は満面の笑みを向けた。 138 16話 学園の木々にようやく花が咲き、色鮮やかな色を染め始めたころ、 生徒の顔は対称的に疲労色で染まっていた。疲労色、俺のイメージ では茶だ。 体力試験、学力試験が彼らの体力を奪い去ったのだろう。 更に考えられるのは、長旅に慣れていないものや、新しい環境に慣 れないものなどはさらに疲労の色が濃いだろう。 それも彼らの実力として受け入れるほかない。 今日の試験結果発表日を入れて、入学式までには5日ほどある。 それまでに疲労を回復させる時間はある。 後はそれぞれの裁量次第で、学園の勉強に乗り遅れるか、最高のス タートを切るかが変わってくる。 校舎の入り口に﹃新入生学力テスト成績﹄と大きく書かれた紙の下 に、今回の学力テストの成績と名前が書かれていた。 学力試験は体力試験の後日行われた。 一日がかりで受けたが、次の日にはもう結果が貼りだされていた。 教師陣の苦労がうかがえる。 1位、アーク・クダン 500点 1位、アイリス・パララ 500点 3位、エリザ・ドーヴィル 499点 4位、レイル・レイン 498点 5位、クルリ・ヘラン 497点 6位、トーマス・エソジン 496点 ・ 139 ・ ・ ・ 67位、ヴァイン・ロット 379点 ・ ・ ・ ・ 114位、クロッシ・アッミラーレ 311点 アイリス、エリザに勝っちゃたかー。 まぁこればかりは仕方がない気もする。 彼女は平民でありながらにこの学校に入学してきた逸材だ。 一般知識や、算術、会計学、簡易な魔法学、歴史学が問われた今回 の試験で点を落とすはずもなかったか。 本当にマラソンではエリザが勝ててよかった。それが唯一の救いだ。 それにしても、王子は流石というか。 きっちり満点を取ってくるんだな、と感心している。 ずるしてないよね?と一瞬魔がさしたのは俺だけじゃないはずだ。 3位がレイルか。 これまた順当。 彼は原作でもいつも一歩引いたところに立っているからな、たまに はトップを取ってほしいものである。 4位が俺。 モラン爺からいろいろと教わっておいてよかった。 140 ただ、一般知識で2問落としたのは痛かった。 一問はイージーミスだったし、ビタミンCの正式名称を答えよとい う問いは答えを知らなった。 ビタミンCの正式名称は一般知識なのか?という若干の不満はあれ ど、回答できている者がいる時点で自分の知識不足を認めるほかな い。 一緒に試験結果を見に来たヴァインとクロッシは対称的な反応を示 していた。 ヴァインは思いの他出来が良かったのだろう。 嬉しそうな顔をしている。体力テストの結果がいいだけにAクラス 入りだろう。 クロッシは今にも泣きだしそうだ。 ﹁師匠、すみません!私ダメな子で!﹂ クロッシは体力テストでも、122位と微妙な成績だった。 どう声をかけていいのやら。 おそらくCクラス入りになるだろう。 クロッシとは別クラスか。 できれば一緒がよかった。 それは本人も一緒みたいで、ついには泣き出してしまった。 見た目がきれいな女性なので、隣で泣かれるのはなんだかやるせな い。 声をかけずにはいられなかった。 ﹁そんなに泣くな。次頑張ればいい﹂なけなしの励ましだ。 ﹁はい、っんぐ、はい次は頑張りばず。師匠にがんばっでおいづぎ ます﹂ 141 必死に涙をぬぐっている。 そんなに気にすることもない気もするが、本人は強くなりたいと言 ったりしているし、基本的に頑張り屋さんなのだろう。 それとも他の理由があるかもしれない。 ﹁男が簡単に泣くな。勉強ならクルリに教わればいい。体は俺が鍛 えてやる﹂ ヴァインが口を開いた。彼はクロッシのことになると饒舌になる。 ﹁男、男、言うな!このケダモノ!﹂ こちらも先ほどまでは過呼吸気味だったが、ケダモノははっきりと 言えた。 ﹁男は日々精進だ。クルリの部屋まで走って帰るぞ、ついて来い﹂ ﹁私に命令するな!﹂ そう言いながらも、走り去るヴァインにクロッシはついていく。 あれ? 今俺の部屋って言った? ﹁勉学の方では本気を出し切ったのかい?﹂ 二人を目で追っていたが、不意に耳元で声がした。 振り向けば、そこにはレイルが立っている。 またも不気味な笑顔を向けてくる。 なんだか考えを見透かされている様で、少し怖い。 ﹁まぁ、ね﹂ ﹁そう、じゃあ勉学は実力でクルリ君に勝てたみたいだ﹂ ニコニコしながら少し立ち位置をずらす。 なんだか、観察されているようだ。 ﹁体力テストも実力さ。俺の名前よく知ってたね﹂ 142 ﹁クルリ君は有名だからね﹂ え?! 目立たないように配慮していたつもりだったのに。 ﹁そういうあなたは、レイルさんでよろしかったですよね?﹂ もちろん知っているが、あくまで知らないふりだ。 すぐに返事はなく、少し間が空いた。 レイルが横目でこちらを見透かしてくる。 やっぱり俺の考え読んでるの!? もう、この人怖い!! ﹁・・・そうですよ。よろしく、クルリ君﹂ ﹁あっ、はい﹂ 差し出された手をつかんだ。 やたらと強く握られて、握手は済んだ。 ﹁じゃあね、クルリ君。次はもっとお話ししよう﹂ そういい終わると彼は第一王子アークのもとへと帰っていった。 優しい笑顔なのに、なんだか怖い人だと思った。 彼は確か、農民出身者だ。 それを公に公開することはないのだが、今後アイリスとだけはその 秘密を共有する。 確か、小さいころに両親を亡くしている。 祖父の家で暮らしている頃に偶然第一王子と知り合うのだが、その 友好的な性格と、要領の良さを王子に気に入られ、それ以来親友の ままだ。 143 祖父の死後、王子の正式な付き人兼、友人として王都に入っている。 まるで貴族のようなきれいな顔立ちと、つやのある髪の毛。さらに 彼は物覚えも非常によく、礼儀やしきたりなどの決まり事にも精通 している。 誰一人として、彼が農民出身だなんて思わないだろうな。 ごめんな、アイリスと共有して仲良くなる情報を俺が知っていて。 本当にすまない。 誰にも言わないから、あの人を見透かしたような視線はやめてほし い。 物思いにふけっていると、手のひらを開いてこちらに近づくアイリ スが視線に入った。 顔は随分と嬉しそうだ。 ﹁やあ﹂ ﹁やあ、一位とったよ﹂ 満面の笑みだった。誰かに褒めてもらいたいのだろう。 マラソンではエリザの応援に専念してしまった罪悪感もあった。 ここは素直にほめてあげよう。 ﹁流石だ。これは将来どえらいお礼を期待できそうだ﹂ ﹁まっかせといて﹂ 綺麗に並んだ白い歯がむき出しになる。 しばらくアイリスと話し、彼女は図書館に向かった。 ヴァインと、クロッシに家を荒らされる前に俺もさっさと帰りたか った。 が、一人見逃せない人物がいる。 144 もちろん、エリザだ。 目をつむり、腕を組むデフォルトのポーズで成績表の前を動こうと しない。 他の生徒が成績を見たがっているのに、怖がって近づけない始末だ。 みんなが困っているでしょ!どきなさい、エリザ! とお母さんのように叱ることができればよいのだが、あいにく俺も 彼女に少しばかりビビっているのでそんな夢のようなことは出来な い。 それでも、俺しか言える人はいないだろう。 なんだか使命感に似た感情で俺の体は動きだした。 近づくとすぐに取り巻きの四天王が俺の前に立つ。 下郎、と言葉を投げかけてきた娘の代わりに別の子がいた。 ローテーションでも組んでいるのか?少しばかり組織図が気になる。 俺の前に立った女性の目だが、3秒以内に立ち去れ下郎!、という 目をしている。 いや、本当に。 言われていないが、本当にそんな目をしている。 だが俺も引き下がれない。 一歩一歩エリザのもとへ近づく。 先日俺を突き飛ばした、メイリメとかいう女性が注意されたせいだ ろう、彼女たちはむやみに俺に手出しはしなかった。 ﹁やあ、エリザ。落ち込んでいるようだね﹂ ここはストレートに言った方が、向こうも愚痴をこぼしやすいだろ 145 う。 少し間が空いたが、返事はかえって来なかった。 ﹁ま、まぁ、すごいじゃないか。499点なんてほとんど満点と変 わらないさ﹂ 辺りの空気がピリピリしだしたのを感じる。 ﹁・・・しらないわよ﹂ エリザが小声で何かを呟いていた。 ﹁なんだい?﹂よく聞こえなかったので聞き返した。 ﹁ビタミンCの正式名称なんて知らないわよ!!﹂ エリザは誰に言うともなく、大声を出した。 あたりは彼女の矛先が来ないように目を背けている。 それらを気にすることなく、エリザは立ち去った。 四天王も続く。 エリザもそこ間違えたんだ。 やっぱ、知らないですよね。 ビタミンCの正式名称がアスコルビン酸だなんて・・・。 146 147 17話︳閑話 早朝5時、体が自然と目覚める。 子供頃からの習慣だ、過ごす環境が変わろうが体はいつも通りに目 が覚めた。 いつも軽く運動をし、食堂へ行く。 皿に大量に料理を乗せていく。 食堂のおばちゃんは優しい人ばかりだ。 俺が大量にご飯を取るといつも笑顔で﹁もっと大きくなるんだよ﹂ と声をかけてくれた。 朝食は苦しくなるくらい食べるのが我が家の教えだ。 母は毎日父と、俺と、二人の弟のために料理を大量に作ってくれて いた。 実家から離れることなんてどうってことないと思っていた。 しかし、一か月ほどで母の料理を恋しく思う自分がいた。 自分はもう大人だと思っていたが、実家を離れて初めて自分の幼さ に気づく。 父がこの学園に自分を送り出した意味が少しずつわかってきた気が している。 家を出るとき、父も弟たちもあまり俺を気にはかけてくれなかった。 俺もたった3年とばかり思い、大げさな出発にはしたくなかった。 母だけが目を涙で満たし、俺を見送ってくれた。 友達に困らないようにと、贈り物を持たせてくれた。 148 母に対してお礼を言うこともなく、家を発ったのが一か月前だ。 今にして思えば、少し後悔している。 せめて一言母にお礼を伝えておけばと今は思っている。 これまではそんなことは考えたこともなかった。 でも、今ははっきりと思っている。 これが成長というものなのかもしれない。 母が持たせてくれた贈り物が役にたったかどうかはわからない。 それでも、結果友は出来た。 友はできなければそれでいい、と思っていた。 これまでの人生においても友と呼べる人物などいなかった。 3年かけて何か一つでも見つけることができれば、俺が外に出た価 値はある。 学園に来る道中でずっと考えていたことだ。 しかし、今はすこし考えが変わっている。 何か人生における大きなテーマをこの学園で見つけることができれ ばそれが最も望ましい。 でも、今はそれ以外に、純粋に学園での生活を楽しみたいと考え出 している自分がいる。 クルリという友ができたのだ。 いつも剣を打っている変人だが、心優しき人物でもある。 彼といると新しい感情との出会いが多かった。 羊を振舞ってやったときは、涙を流して喜んでいた。 149 育ち盛りの弟たちでさへあんなにガツガツとは食べたりしない。 本当にごちそうしてよかったと思っている。 彼はよく書物を読む。 一見すると頼りない貴族の息子、という印象が彼にはあるのだが、 その実は全く違っている。 毎日剣を振っている俺の手の皮と同じくらいに彼の手も分厚い。 上半身、下半身ともにバランスよく鍛えらているし、魔法も使える ようだ。 子供のころに第一王子のアークとあったことがある。 本気で戦えば負けるかもしれないと思ったのはアークが初めてだっ た。 クルリにもアークから感じたものと同じようなものを感じた。 戦えば非常に手ごわい相手になるだろう。 友にそんな感情を抱くのは失礼かもしれないという思いもあるので、 あまり考えないようにはしている。 1−3の住人とは未だに会えてすらいない。 そう考えると、やはりクルリと友になれたのは非常に幸運だと思う。 ここの料理は少し味付けが濃いな。 朝食を食べながらふとそんなことを考えた。 家ではたくさん食べられるようにと、母が味を薄く作ってくれてい たからだ。 おっと、またも母のことを思い出してしまった。 150 そもそも、こんなことになっているのはあいつが悪いのだ。 我が友、クルリの部屋に毎日来るあいつが。 急にクルリに弟子入りしたいだの、強くなりたいだのと詰め寄った あの男がすべて悪い。 体は小さく、線は細く、声も高い。 女のそれと変わらんような姿で、クルリほど強くなりたいと言う。 第一印象が悪いだけに、あまり近づきたくはなかったが、ふと魔が さして面倒を見てやることにした。 それからだ、あいつの顔をよく見ると母の顔に似ていることに気づ いた。 弟たちは母親似だから、もう一人弟が増えた気分になる。 あいつのせいで、最近はよく母のことを思い出す。 食事を終え、食堂から出る俺におばちゃんたちがまた声をかける。 ﹁お昼もいっぱい食べるんだよ﹂ いつも、返事はしない。 感謝はしているし、おばちゃんたちのことも好きではあるが、あま り他人に口を開くのは得意じゃない。 外に出ると日が昇りかけていた。 入学式まではあと数日ある。 今日も、クルリの部屋へと行こう。 ﹁おはよう。今日もはやいねヴァイン﹂ 1−1の部屋へ行く途中、ちょうど扉から出てきたクルリとあった。 151 ﹁めずらしいな。もう起きてるとは﹂ ﹁いやー、昨日徹夜で剣を打っててさ。すごいのができたんだ! 過去最高の一本だよ﹂ 顔には眠気があった。 でもそれ以上に、興奮が上回っている。 声の調子からもそれらが読み取れた。 ﹁どこかへ行くのか?﹂ ﹁そうそう、いいものができたし試し斬り行こうと思って﹂ そう言ってクルリが抜いた剣は確かに逸品だった。 これまであまり剣自体に興味を持ったことはないが、それでも美し いその剣に魅了されてしまった。 羨ましいとさえ思ったかもしれない。 ﹁魔物でも狩るのか?﹂ ﹁ああ、西の森には小型の魔物が少数いるらしい。危険も少ないし、 そこで試そうと思っている﹂ 語るたびに顔が明るくなる。 はやく試してみたくてしょうがないのが伝わってくる。 ﹁ヴァインも来るかい?﹂ ﹁いや、俺はあいつの特訓があるのでな﹂ ﹁そうだったね、押し付ける形になっちゃってごめんね﹂ ﹁別にいい﹂ 少しばかりの会話を終え、クルリはすぐに行った。 あいつはいつも、俺がクルリの部屋に入って10分後くらいにやっ てくる。 扉の前で、座して待つことにした。 152 ﹁家のカギでもなくしたか?﹂ 目をつむっていたので、声をかけられるまで気づかなかった。 あいつは歩みを進めながらこちらに近づいてきている。 ﹁お前のようにドジではない。早速だが訓練に入るぞ﹂ ﹁ああ、わかった﹂ クロッシはすぐさまクルリの扉に手をかけた。 ﹁あれっ、クルリ殿はまだ起きていないのか。それで外で待ってい たのか?﹂ 顔をちらりとこちらに向けてくる。 やはり、母に似ていると思った。 ﹁違う。クルリは用事ですでに出発している。今日は俺の部屋で訓 練だ﹂ 言い終わると、クロッシは後ずさりした。 眉間にしわが寄っているのが見える。 ﹁貴様と二人きりだと!?そんな危ないとこに行けるか!﹂ ﹁朝から叫ぶな。部屋の構造はクルリの部屋と一緒だ。危険などな い﹂ ﹁そういう話じゃない!貴様!私を部屋に連れて変なことをするつ もりじゃないだろうな!!﹂ やけに言葉に力が入っている。 何を警戒しているのやら。厳しく指導しては来たが、それだけだ。 ﹁変なことなど起きない。さっさと入れ﹂ ﹁貴様、変なことをしないと誓え!﹂ ﹁誓う。やるのは訓練だ﹂ クロッシは黙った。まだ信用できないのか、こちらを遠目で見てい る。 ﹁・・・変なことをしたら、お前を殺して私も死ぬ﹂ ﹁お前が俺を殺せるはずがない﹂ 153 ﹁黙れ!!私が本気を出したらな、﹂ ぶつぶつと悪態をつきながらもようやく入ってきた。 ﹁何もない部屋だな﹂ それがこの部屋の良さだと、自分では思っている。 これでやっと訓練ができる。 いつものように、全身を伸ばした。 こいつは運動神経は悪くない。 それに体はすぐに伸びるようになった。 あまり柔軟運動などしていない人間は一週間くらいはかかると思っ ていたが、こいつはなかなか優れた体を持っているようだ。 最終の確認のために、体を押したり、体をそらせてみたりさせた。 ﹁おい!あまり触るな!﹂ ﹁いいから、俺に体を預けろ﹂ ﹁なっ!﹂ 少し抵抗されたが、確認したいところはすべて確認できた。 ﹁思った以上に早く、ベースができた。これから本格的に体作りに 入れそうだ﹂ ﹁本当か!?よろしく頼むよ﹂ クロッシは嬉しそうにしていた。 訓練が好きなのだと思った。 思えば、俺も初めて父に剣を握ることを許されたときはうれしかっ た。 こいつも同じ気持ちなのだろうか。 154 そうならば、父とやったあの日の稽古をこいつにもつけてやるか。 ﹁次の段階はランニングで体力をつける﹂ ﹁ああ﹂ ﹁だが、思った以上に予定が速く進んでいる。 今日は少しばかり特別な稽古をつけてやろう﹂ ﹁うん、なんだ﹂ 楽しみにしているクロッシに、手荷物の木刀を渡した。 ﹁今日は無心でこれを振る。ロット家伝統の特訓だ﹂ ﹁それで強くなるのか?﹂ ﹁焦るな。継続すれば強くなる。今は俺の指示に従え﹂ ﹁・・・うん、わかった﹂ ﹁さぁ、庭に出て剣を振るぞ﹂ 俺は自分の剣を握りしめ、庭に出た。 一階には庭があると聞いてすぐにこの部屋に決めた。 やはり、1階にしてよかったと思う。 庭に出て、上半身の衣服を脱いだ。 こうして汗をかきながら剣を振るのだ。 父とのいい思い出だ。 ﹁なっ、何をしている!?貴様!!﹂ クロッシが後ろで叫んだ。 ﹁お前も服を脱げ。これから二人で剣を振るぞ﹂ ﹁脱げるか!!﹂ 言うが先か、剣が先か、クロッシの木刀が頭めがけて直進してきた。 さらりと自分の剣でそれを払う。 なかなかいい剣筋だと思った。 155 ﹁変なことはしないと誓っただろ!﹂ ﹁変なことではない。お前とはいい出会い方ではなかったが、こう してともに汗を流すことでお互い感じることもあるだろう。男同士 裸の付き合いというやつだな﹂ ﹁そ、そうか。でも、私は服を着たままでいい!﹂ ﹁・・・﹂ ﹁不満そうだな﹂ 不満というほどでもなかった。 が、クルリとは大好きな羊を分け合うことで友になれた。 こいつとも、いい思い出をつくることで友になれると思ったのだが。 やはり、クルリの言ったとおり全ての人間と仲良くなることなんて 不可能なことかもしれない。 ﹁服は脱げない!でも、お前が満足するまで私は剣を振り続けよう。 それが面倒を見てくれているお前へのお返しでもある﹂ クロッシは必死に言葉をひねりだしたようであった。 昔、母に言われたことがある。 我が家は男三人兄弟で、皆仏頂面で、考えるのはいつも剣のことば かりだ。 それ故、みんな特に仲良くもなく、仲悪くもない。 同じ家に生まれ、同じ剣の道を歩む者たちの世界だ。 ﹁世の中にはあなたたちとは違う考え方をする人がいっぱいいるの よ。 ちなみに、お母さんもその一人﹂ なんてことのない母の言葉だった。 それが今頃になって胸に響く。 やはり、こいつの顔のせいだろう。 156 そして、こいつは母の言う、違う考え方をする人間なのかもしれな いと思った。 いや、きっとそうなのだろう。 同じものを楽しむことや、喜ぶことができなくても友になることは 出来るかもしれない。 クロッシの一生懸命な顔を見ていると、そんな感情がわいてきた。 ﹁よし。付き合ってもらおう﹂ ﹁ああ、任せておけ﹂ ﹁それじゃあ、振りを見せてみろ。悪い点があったら指摘する﹂ ﹁わかった﹂ クロッシは剣を振る。 その動作のすべてに注視したが、特に問題はない。 素人故に癖もなかった。 指摘する点はなかったが、やはり体の細さが気になる。 脚を見てもやはりほそい。 これでは肝心なときに踏ん張れないではないか。 最低限の筋力はつけてやりたい。 腿をつかんだ。自分の腕くらいしかないように思える。 ﹁だから、貴様は人の内腿を触るな!そこはデリケートなんだ﹂ ﹁あと20キロウエイトをつけろ﹂ この体格から計算してはじき出した、最高の数値である。 ﹁できるか!﹂ ﹁大丈夫だ。俺の考える食事を摂れば、半年ですぐに付く。 ところで今の体重は?﹂ ﹁体重の話を気安くするな!﹂ 157 158 18話 いい剣が打てた。 一日寝ていないが、そんなこと全く気にする必要がないくらい気分 が高揚して体調がいい。 学園から西に80kmほど進んだ先に森があると聞いた。 先日と同じ栗毛の馬を借りて駆けさせた。 久々に駆けたのだろう。 馬の動きは鋭くはないが、楽しそうに走っているぶん乗り手として も気分がよかった。 西の森には小型の魔物がいる、と聞いた。 小型の魔物は毒を有することが多いのだが、幸いその森にはそうい った種はいないらしい。 群れもしないことから、あまり危険視された場所ではない。 試し斬りにはもってこいの場所だと思った。 ﹁さぁ、もっと駆けてみろ﹂ 馬に伝わるようにしっかりと脚で腹を絞めた。 それに応えてくれるように馬は加速した。 昼頃にようやく着いただろうか、森が視界に入った。 馬が止まる。 止まるように指示した覚えはない。 159 ﹁こらっ﹂ 叱る意味を込めて、腹を軽く蹴ったが言うことを聞いてはくれない。 前回も、今日も素直ないい仔だったのにどうしたのものか。 馬は機嫌を損ねると一気に気難しくなると聞いたことがあるが、顔 にはそういった表情はなかった。 それよりも、なんとなく怯えた表情に見える。 何かいるのか? ふとそんなことを考えた。 森の方を眺めた。 微かに何かが動いているのが見える。 しばらく、その場で見ていたがようやく何かが近づいてくるのがわ かった。 ﹁グールだ﹂ 腐敗死体型の魔物だ。 馬はあれに怯えていたのか。この距離で勘づくとは、野生の勘とい うのはすごいものだ。 グールか。俺も引き返すべきなのだと思う。 モラン爺から聞かされている。 グールに会ったら逃げろと。 個体の強さもさることながら、何よりも毒をもっていることで有名 だ。 解毒薬のない今、遭遇するのは非常に危険であることを認めるほか ない。 160 でも、あいつで試し斬りしたくなった。 だって、会ってしまったのだから。 幸いにして動きは非常に鈍そうである。 どこかで追った負傷なのか、片足を引きずっているようにも見えた。 やろう!意を決した。 ちょうど試してみたい魔法もあったのだ。 モラン爺からもらった﹃魔法書3﹄の魔法を試すいい機会でもある。 魔法書3の内容は、1の性質変化、2の魔力外部維持より更に高度 な魔法であり、国から上級魔法認定もされている。 魔法書3のテーマは魔法生物の精製である。 魔力で対象物に一時的な生命を吹き込むのだ。 これがとてつもなく難しい。 まだ完全な成功はないが、練習では形にはなりだしていた。 実戦で役に立つかどうかは今日の結果で判断できるだろう。 馬上から、辺り一帯の雑草に魔力を注いだ。 ﹁現れよ、目に見えぬものども﹂ 魔力が雑草に吸収されるように消えていった。 大地から、ロープをバチバチと千切るような音がする。 土が盛り上がり、奴らは這い出た。 100匹ほどいるだろうか、頭に草を生えさせ、体は大根に手足を つけたような生物だ。 161 体の正面と思われる方に、顔がある。 堀の深いオジサン顔だ。 体はそのほとんどを顔に侵食されており、非常なアンバランスさだ。 あっ、これ失敗だ。 こんな生物を作りだしたのは俺の意志ではない。決して! 帰れ!ととっさに思った。 全員がしばらくその場に立っていたが、創造主の俺に気づき、一匹 が叫びだすとともに全員が嬉しそうに跳ねてきた。 ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ うわっ、きも!! 俺のもとに着くと、馬の周りで皆が嬉しそうに跳ねまわっている。 なんなんだこいつら。 あまりにもおっさん顔の謎生物たちが騒ぐので、なんだかイライラ してきた。 馬上から降りて、目の前にいたこいつらの一匹の尻と思われるあた りに蹴りを入れてやった。 162 ﹁ウィッ!?﹂ 蹴られたそいつは尻と思われるあたりを手で押さえ、目をカッと見 開いてこちらを振り向いた。 顔には凄まじい驚きと、悲しみが刻まれている。 うわっ、なんかごめんなさい! ほんの出来心だったんです!悪意はなかったんです! ﹁ウィ?﹂﹁ウィ?﹂﹁ウィ?﹂﹁ウィ?﹂ 仲間が数匹集まり、どうした?何があった?痛いのか?などと声を かけているようにみえる。 ﹁ウィ、ウィッ、ウィー﹂ 被害者の彼が必死に仲間に説明している。 彼が真実を述べているのか、話を盛っているのかは俺にはわからな い。 俺は加害者なのだ、ただ黙って判決を待つしかない。 ﹁ウィ!?﹂ 話を聞いた一匹の顔から怒りが漏れ出している。 ﹁ウィッ!!!!﹂ 仲間を呼び集めているようだ。 呼びかけを受けた全員が俺に向かって突っ込んでくる。 ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ ﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂﹁ウィ!!﹂ 163 うわっ、、きも!! でもちょっとやばいかも。 ﹁すっすまない。ほんの出来心だったんだ。悪意はない。 ちょっと蹴ったくらいでそう怒るな﹂ ﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウ ィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ! !!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂ ﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウ ィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ! !!﹂﹁ウィ!!!﹂﹁ウィ!!!﹂ やばい、火に油を注いだようだ。 ﹁ごめんなさい。許して下さい、俺が悪かったです﹂ ﹁ウィ?﹂許す?みたいなニュアンスに聞こえる。 ﹁ウィ﹂ そのウィがどっちのウィなのか俺にはわからない。 しかし、被害者の彼が手を差し出してきて、さっきのウィの意味が わかった。 俺も手を差し出し、彼と握手を交わした。 ﹁ウィ﹂ ﹁ああ、仲直りだ﹂ 俺たちの仲直りでまたも皆んなが喜びだした。 ﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂ ﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂ 164 ﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂ ﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂ ﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂﹁ウィー﹂ うわっ、、、きもっ!! 途端に蹴りたくなる衝動に襲われたが堪えた。 ﹁さぁそろそろ創造主の命令を聞いてもらおうか﹂ 皆が一斉に落ち着いた。 全員が話を聞こうと顔を向けてくる。 うわっ、こわっ。 こっち見んな! ﹁え、ええと﹂ グールに目をやるとだいぶ近くまで来ている。 ﹁目の前のあれを拘束せよ!﹂ ﹁﹁﹁﹁﹁﹁ウィー!!﹂﹂﹂﹂﹂ 一斉にその短い脚で駆けていった。 全員が命令に忠実なようだ。 グールに届くと同時に全員が飛びついた。 なんの工夫もない数に頼った力任せの羽交い締めだ。 ﹁グォォォ﹂ グールも数の前には無力化されるしかなく、その場に立ち尽くした。 ﹁やるね﹂ あのウィ軍団、失敗だと思ったが結果よく働いている。 成功と言ってもいいかもしれない。 165 馬に飛び乗り、グールへの距離を詰めた。 グールは口からも何か吐き出すと聞いたことがある。 用心をきして後ろに回り込むのがいいだろう。 馬上から降り、剣を抜いた。 今一度、剣に目をやる。 バランス、耐久性、美しさ、全ての点において過去最高の逸品だ。 もしかしたら鍛冶を教えてくれた師匠でさえこんな剣は造れないか もしれない。 それほどに力強さのある剣だ。 ﹁きれいだ﹂感嘆の声が漏れた。 空気をぶち壊したのは奴らだ。 ﹁ウィー!!﹂﹁ウィー!!﹂﹁ウィー!!﹂﹁ウィー!!﹂ はやくやれ!とでも言いたいのだろうか、その顔には切羽詰まった ものがある。 あまりだらだらとやって、グールの縛りが解けては面倒くさい。 癪だが、奴らの言う通り早く済ませたほうがいいだろう。 剣をかまえ、グールの首筋に目をやる。 ﹁ウィー!!﹂首筋に飛びついたやつが、俺ごとやれ!といった感 じの気合の入った顔をしている。 もちろん言われなくても斬るがな。 ﹁じゃあな﹂ 剣をふるった。 166 グールの首がきれいに跳ね飛ぶ。 ほとんど、斬ったという感触がない。 本当にすごい切れ味だ。 もしかしたら、首にあてて後は押すだけで首が飛ぶかもしれない。 普通に振った今がプリンを斬ったような感触なのだ。きっと可能に 違いない。 グールは個体の堅さもあると聞くのだから、一撃で首をはねたこの 剣はすごいと言うほかないだろう。 ウィ軍団がグールの拘束を解いた。 グールと共に、俺に斬られた仲間のもとへ全員が集う。 また迫られるのか!?と思ったが、その様子はない。 全員が死んだ仲間を称えるように囲んだ。 彼は忠義の中に死んだのだ。 泣くな!笑って彼を送ろう! 勝手な想像で、非常に申し訳ない気分になった。 剣を収め、馬に乗った。 彼らを土に返したら、学園に戻ろう。 ふいに何かが動く気配がし、倒れたグールに目をやると、頭から切 り離された体が動いていた。 !? ぞっとして、全身に汗が噴き出した。 167 グールというのはこの程度では死なないようだ。 安心して近づかなくてよかった。 馬を駆けさせ、グールとの間に距離を取る。 ﹁燃え散れ﹂ 魔力が業火と化し、グールをとらえる。 痛みはないのだろう。 もがき苦しむこともなく、ただただその体は焼け崩れた。 馬を反転させると、後ろにはウィ軍団がいた。 いつの間にか彼らも避難していたようだ。 ﹁それじゃあお前たちともお別れだ﹂ ﹁ウィ﹂ その顔には悲し気な色を浮かべている。 ﹁ウィ?﹂本当に僕たちを土に返すの?とでも言いたげだ。 もちろん連れ帰るつもりなどない。 ﹁土に帰られよ!目に見えぬ者どもよ﹂ ウィ軍団は、現れたときとは逆に土に潜っていった。 残ったのは地上に見える、雑草の葉の部分だけだ。 しばらく、ひたすら馬を駆けさせた。 昼からだいぶ時間が経っていた。 ・・・なんだか悪いことをした気がする。 最後にあの悲しい顔を見たからだろう。 帰りに馬の背でそんなことを考えていた。 168 失敗作なはずなのに、嫌に心に残る。 きちんと仕事をしてくれたのだ。 もう少しこの世で遊ばせてやってもよかったかもしれない。 馬が目配せをしてくる。 俺が馬上で考え込んでいるのが気にくわないのだろう。 ﹁すまない﹂ それでも、また目配せをしてくる。 ﹁ん?﹂ 馬で駆けている小道の左側方向に女性がいたのだ。 ﹁アイリス!!﹂ その後ろ姿は間違いなくアイリスだった。 ﹁クルリ!?なんでこんなところに?﹂ 手に何かを持っている様子のアイリスが俺同様に驚いていた。 ﹁それはこっちのセリフさ﹂ ﹁それもそうだね。今日は山菜を取りに来たの。食堂のご飯は美味 しんだけど、なんだか家で食べていたものが恋しくなってね﹂ ﹁ああ、そういうことか。なんとなくだけど、俺にもそんな気持ち はあるよ﹂ ﹁うん。ところでクルリは馬に乗ってどうしてたの?﹂ ﹁ちょっとね。いい剣ができたからそれを試しに行ってた。 もし今から帰りなら、一緒に乗っていくかい?﹂ 学園まではまだ数キロある。 一人にしておくのもなんだか不安だ。 ﹁そうだね。よろしく﹂ ﹁ウィ!﹂ ﹁うぃ?﹂ 169 ﹁あ、いや何でもないんだ。さぁ、乗って﹂ 二人乗りは初めてだったが、この栗毛のいい馬にも助けられ軽快に 走らせることができた。 本当に素直でいい馬だ。 あいつらも今思えば、結構素直な奴だった。 若干落ちかけている夕日を見て、そんな切ない思いが立ち上ってき た。 ﹁今日ね、いい出会いがあったの﹂ アイリスが俯きがちに話し始めた。 ﹁へぇ?どんな人?﹂ ﹁どんな人か、まだあまりよく知らない。でもいい人だったよ﹂ ﹁それはおかしな話だ。あまりよく知らないのにいい人だなんて﹂ ﹁確かにね。でも、なんだかとっても穏やかな人なの。一緒に居て 落ち着くっていうか。不思議でしょ?﹂ 俺にはそれが誰だか見当はついていた。 ﹁そうだね。でもアイリスが認めたならきっといい人に違いない。 その縁は大事にしたほうがいい﹂ ﹁うん。大事にする﹂ アイリスも沈む夕日に目をやり、気持ちを落ち着かせていた。 駆けるスピードが速いので、風が強く感じる。 若干の温かさをはらんだその風は気持ちのいいものだった。 ﹁俺も、いい出会いがあったんだ﹂ ﹁すごい!二人ともいい日だったんだね﹂ ﹁ああ﹂ ﹁ん?でも、クルリなんだか寂しそうだね﹂ ﹁そう見えるかい?﹂ 170 ﹁うん﹂ ﹁じゃあそうなのかもしれない﹂ ﹁話してよ、そしたら気持ちに整理がつくかもしれない﹂ ﹁話すほどのことでもないさ。ただ、もうちょっと優しくしてやれ ばなと思って﹂ ﹁けんかしたの?﹂ ﹁そんなとこ﹂ しばらく静かな時間が続いた。 馬の足音だけがリズムよく聞こえる。 ﹁喧嘩したなら仲直りしなくちゃね﹂ ﹁・・・うん﹂ アイリスが気を遣ってくれているのが分かった。 ﹁アイリス、この馬の速さはこんなものじゃない。もっともっと、 早く駆けることができるんだ。 味わってみたいだろ?﹂ ﹁うん、とばして﹂ ﹁じゃあいくぞー!﹂ ﹁いけー!﹂ 風を感じてアイリスも気分が高揚しているようだ。 馬の腹を蹴り、もっと加速するように指示した。 馬は駆ける。 もっともっと、加速しようと回転をあげる。 いい気持ちだ。 アイリスも楽しんでいる。 夕日がきれいだ。 171 こんな時はこう言うのが一番いいかもしれない。 ﹁ウィー!﹂ 172 19話︳閑話 今日は会えると朝から思っていたんだ。 山へ馬を飛ばし、いつも使う弓より一回り大きい、対猛獣用の弓を 背中に背負って駆けた。 春先にかけて集落の近くの山では毎年多くの熊が出現する。 今年も出るだろうと、予想していたのだが未だに出会えていない。 熊はいい金になる。 狩りも楽しめ、金にもなる。 俺にとっては絶好の獲物だ。 朝の直感が事実になったのを見て、体から喜びがあふれ出した。 本当に今日はいい一日になりそうだ。 山に入ってすぐ、例年でもなかなか見かけない大きさの熊を見つけ た。 こちらにはまだ気づいていないようだ。 しかも、山菜を取りにきたであろう女性付きだった。 こんな時期に山に入るなんて、バカな女だ。 武器すら装備していない。 熊は女性と目が合い、今にも襲いかからんばかりの勢いだ。 弓をかまえる。 2年前にようやく引くことのできるようになった、強大な弓だ。 集落では俺以外にこの弓を引くことのできる者はいない。 自分で言うが、俺は弓の名手と言っていいほどの腕だ。 173 矢を一本取り出し、絃を引き絞った。 この矢も相当な重みを有している。 動くクマの位置を凝視し、矢を放った。 空気を割き、鋭い音を上げた矢は熊を射抜いた。 両目のちょうど真ん中。 狙い通りだった。 これで今年も熊の恩恵にあずかれる。 女性の命も助けた形になった。 お命を助けていただきありがとうございます、どうぞこれを。とい った展開を期待しているだが、さてさて何をいただけるのやら。 ﹁大丈夫か、女﹂ ﹁ええ、助かりました。ありがとうございます﹂ 近づいてみると、同い年くらいの女性だった。 ・・・かわいいな。 熊に集中してて女の方はよく見ていなかった。 こんなにかわいいと知っていれば、もうちょっと優しい接し方もで きたのに。 ﹁こんな時期に山に入るなんて、お前の父親は何を教えてたんだ?﹂ ﹁・・・父は、もういなくて﹂ ﹁うっ﹂ しまった。 そんなつもりはなかったのに、嫌な気持ちにさせただろうか。 まぁいい、かわいい女だがお礼を貰ったらさっさとおさらばしよう。 174 ﹁この時期は周辺の山で熊が出るんだ。ちょっとくらいは聞いたこ とがあるだろ?﹂ ﹁いいえ、最近越してきたばかりでして﹂ なるほど。 ﹁もしかして、エレノワール学園の生徒か?﹂ ﹁はい、アイリス・パララと申します﹂ なんだ、あの貴族学園のお嬢ちゃんだったか。 助けなきゃよかった。 でも、助けたからにはそれなりの物をいただこう。 確か5年前にもエレノワール学園の生徒を一人助けた。 あの時は確か金貨5枚もらった。 この女はかわいい分だけ、助けた価値も大きい、金貨10枚ってと こかな。 ﹁ほれ、助けてやったんだ。金貨10枚でいいよ﹂ ﹁えっ!?そんな、法外な金額払えません﹂ ﹁払えないなら、ほかの物でもいいぜ。宝石とかあるんだろ?とっ とと出しな﹂ ﹁宝石なんて持ってません﹂ ﹁じゃあ、金目の物なら何でもいい﹂ 少し戸惑ったような顔をしていたが、スッと差し出されたのは手に もっていた山菜だった。 ﹁金目のものって言ったんだけど・・・﹂ ﹁山菜くらいしか渡すものがなくて﹂ 女をよく見ると、服装は庶民のそれと何ら変わらないものだった。 体も痩せているように見える。 高価なものも何も持っていない。 175 それに、貴族が山に山菜取り!? ﹁なんなんだ、お前﹂ ﹁アイリス・パララです﹂ ﹁それは聞いた﹂ ﹁何が聞きたいんですか?山菜がいらないなら、もう行ってもいい ですか?﹂ ﹁なんで山菜なんか取ってんの?貴族様がそんなもの食べるのかよ﹂ ﹁私は貴族じゃありません。実家でよく食べていた山菜が恋しくな って採りにきただけです﹂ ﹁でもさっきエレノワール学園の生徒って﹂ ﹁平民でも入学できます﹂ えっ!?そうなの? いやー、本当に知らなかった。 この女が平民だと知った途端に、なぜだか嫌な気持ちがスーと消え ていった。 もう一度改まって顔を見た。 やっぱりきれいな顔だ。 ﹁貴族様の学校に平民がね。ご苦労なこった﹂ ﹁そう?結構いいとこだよ﹂ ﹁本当か?俺なんか想像しただけで吐き気がしてくる﹂ ﹁まぁ嫌なことはあるけど、いいこともいっぱいあるよ﹂ ﹁ふーん、そんなもんなのか﹂ 会話がひと段落したところで、自分の腹のすき具合に気が付いた。 馬に今朝射止めた野鳥を2羽括りつけている。 あれを焼いて、食べることにしよう。 176 ﹁今から野鳥を焼いて食べるけど、いるか?﹂ 貴族の学園は毎日豪勢な食事がたらふく食えると聞いたことがある。 どうせこいつも毎日それを食っている。 野鳥なんか食わないか。 聞くんじゃなかった。 ﹁・・・い、いらない﹂ ほらな。 背を向けて立ち去ろうとしたが、不意に見てしまった。 ・・・こいつの顔、めちゃめちゃ食べたそうにしている! この女の顔は、野鳥の直火焼の美味しさを知っている顔だ! ﹁本当に?﹂ ﹁ほ、本当に﹂ ﹁この時期の野鳥は脂が乗っててうまいぞ﹂ ﹁・・・﹂ 女は返答しなかったが、よだれを飲み込む音が聞こえた。 ﹁食ってけよ、顔が食いたそうにしてるぜ﹂ ﹁えっ、そんな顔してるの!?私﹂ ﹁ああ。野鳥の直火焼きの美味しさを知ってるんだろ?2羽いるか ら一羽食っていけ﹂ ﹁いいの?私なんかにあげちゃって﹂ ﹁お前が貴族なら論外だったが、そんな痩せた体じゃ食わせてやり たくもなる。さぁ、火を起こすから手伝え﹂ ﹁う、うん!﹂ 二人で手際よく火をおこし、鳥を焼いた。 香ばしい匂いが立ち上ってくる。 177 塩を持っていないのが唯一の心残りではあるが、それは仕方がない。 ﹁学園の食事は塩分が効きすぎてて、私の舌にはあわないの﹂ ﹁贅沢な悩みだな﹂ ﹁ふふ、そうだね。はじめのころは、なんて贅沢なんだろう!って 感激してたんだけど、すぐに家の質素な食事が恋しくなっちゃった﹂ ﹁それで山菜か﹂ ﹁うん、それにまさか野鳥が食べられるだなんて。ちっちゃい頃に お父さんがとって食べさせてくれて以来だよ﹂ うっ、お父さんの話はまずい。 ﹁そういえば、名前まだ聞いてないね﹂ ﹁エイベル。家名はない。両親がいなくて、集落の人たちに拾われ たんだ﹂ ﹁エイベル、ステキな名前ね﹂ アイリスもまた、まずいっていう顔をしている。 別に悲しくもなんともないのにな。 鳥が焼きあがったので、一羽をアイリスに渡した。 二人で同時にかぶりついた。 やっぱ、うまー! ﹁おいしー!!﹂ アイリスがこぶしを握り締めて、突き上げた。 ﹁いける口だな﹂ ﹁うん、この味は忘れられない!﹂ 二人であっという間に平らげた。 178 ﹁あの熊はどうするの?﹂ 倒れた熊を気にして、アイリスが聞いた。 ﹁あとで集落のみんなと運ぶ。一人じゃ厳しい大きさだし﹂ ﹁そう、エイベルは逞しいね﹂ ﹁だろ?逞しくて自由な男、それが俺さ﹂ ﹁うん、ステキだと思う﹂ おっ、素直に褒められて少しだけ戸惑ってしまった。 美人に褒められるなんてめったにないし、仕方がないのかもしれな い。 ﹁アイリスはあんな貴族学校にいて幸せなのか?﹂ ﹁うん、将来を考えると頑張らないとなって思えてくるよ﹂ ﹁その言い方だと、今は楽しくなさそうだな﹂ ﹁そ、そんなことないよ﹂ アイリスの返答には嘘めいたものがあった。 やっぱり貴族の学園で、平民が生きていくのは大変なのだろう。 ﹁貴族様達のなかにポツンと平民が一人。格好の差別の的になりそ うだな﹂ ﹁・・・だね﹂ ﹁なにかあったのか?﹂ 話さないならそれでもいいと思ったが、話してすっきりすることも ある。 何かあるなら聞いてやりたいと思った。 ﹁寮の隣の子がね、最初は仲良くしてくれてたの。 ・・・でも、私が平民だと知った瞬間から全く話してくれなくなっ 179 て。 それから他の子たちも私を避けるようになって﹂ アイリスの言葉は詰まり気味だった。 聞くんじゃなかったという気にもなったが、聞いてよかった気もす る。 やっぱり貴族連中なんてそんなもんだ。 くそっ、なんだか腹が立ってきた。 ﹁そんなとこ辞めればいい﹂ ﹁そうはいかないよ。故郷で待ってる家族を思ったら、たとえ一人 きりでも頑張らないと﹂ 自分は差別なんて味わったことがない。 アイリスもいままでなかったのだろう。 きっと今は相当心を痛めているに違いない。 貴族の連中がますます嫌いになっていく。 ﹁でもね、みんながみんなそんな人達じゃないんだよ﹂ ﹁どういうことだ?﹂ ﹁世の中には変な人もいて、いや変な人って言ったら悪いな﹂ ﹁ん?﹂ ﹁友達かもって呼べる人はいるの。ちょっと変わってるけど優しい 人よ﹂ ﹁ふーん、どんなやつ?﹂ ﹁男の人。ヘラン領の次期領主様なの。なんだか学園の人たちとは 雰囲気が違うの﹂ ﹁下心があるんじゃないのか?﹂ アイリスは美人だ。 下心で近づく男なんていくらでもいるだろう。 180 ﹁そういう人はいるかもしれないね。 でも、クルリはそんな人じゃないと思う。 クルリの周りに集まる人たちもクルリと似た感じの人たちだし、き っと貴族にしては少しおかしい人なんだと思う﹂ ﹁それ褒めてるのか?﹂ ﹁もちろん!﹂ アイリスが初めに言ってた、いい事もあるというのはそれなのかも しれない。 変な貴族か・・・。 ﹁そういえば、おかしな貴族と言えば俺の集落にも来たぞ。 大きな男だった。羊を一頭丸ごと買っていったな﹂ ﹁あ!それヴァインだと思う。クルリも一緒じゃなかった?﹂ ﹁いや、一人しか見てないな﹂ ﹁二人で楽しそうに羊を食べたって言ってたの。私もついていけば よかったなー﹂ ﹁羊が食べたいなら、俺の集落に来たらいい。いつでも食わせてや れるぜ﹂ ﹁それは申し訳ないよ。それよりもまた野鳥を御馳走してくれたら 嬉しいな﹂ ﹁相当あれが気に入ったみたいだな。よかったら取り方を教えるよ﹂ ﹁本当に?﹂ ﹁ああ﹂ 持って来ていた、もう一つの小さい弓をアイリスに貸した。 はじめは絃を引くのに手間取っていたが、絃が引けてからの上達ぶ りはすごかった。 181 動かない的はすぐに射ることができたし、昼過ぎには野鳥を仕留め ることができていた。 ﹁すごい才能だ。俺以来の天才じゃないか?﹂ ﹁ふふ、でしょ?﹂ こずる賢そうにこちらをみて、にっこりと笑った。 ﹁よかったらその弓やるよ﹂ ﹁ううん、それは悪いよ﹂ ﹁じゃあ、作り方を教える﹂ ﹁それなら﹂ 木をナイフで削り、弓の形にしていく。 アイリスには手順しか教えていないが、手先がすごく起用だった。 本当に才能ある人間だと思う。 一生懸命作業する姿は、なんだか人を惹きつける。 気をつけないと心が吸い込まれそうになる。 夕暮れ前、立派な弓ができた。 後は絃が必要だ。 そこの部分は俺が集落で仕上げる。 次に会うととき渡す約束をした。 アイリスがすごく喜んでくれた。 ﹁それじゃあ、そろそろ帰らなくちゃ﹂ ﹁一人で帰れるか?﹂ ﹁うん﹂ アイリスは採った山菜を手に、背中を向け歩いてく。 今日の朝の予感通り、いい一日だった。 アイリスの背中を見ていると少し寂しい気分にもなった。 182 ﹁アイリス!!学園が嫌になったらいつでも来い!!﹂ ﹁うん!また来る!!﹂ アイリスの笑顔が頭に焼き付く。 夕日が一段ときれいに見えた。 183 20話︳閑話 ﹁姉さん、なぜここに!?﹂ 久々に会うや否やラーサーは驚愕の表情を示し、大声をあげた。 ﹁なぜって、ここは王都の王城で私の家でもあるのだからいるのは 当然でしょ?﹂ ﹁しかし、兄さんもアニキも2.3週前にはすでに出発しています。 間もなく学園が始まるこの時期になぜマリア姉さんは家にいるので す?﹂ 兄さんもアニキも?変なことを言うようになったわね、この子も。 何か変なものでも見えてるのかしら。 ﹁商人に依頼していたものがなかなか届かなくてね。ようやく今日 届いたところだから、やっと学園に戻れるわ﹂ ﹁商人に依頼?﹂ 弟の疑問に答えるべく、それを差し出した。 ﹁これよ﹂ ﹁ペンダントですか?この石は宝石には見えませんが﹂ ﹁そうよ、宝石ではないわ。でも、これは曰くつきの石なの﹂ ﹁またですか!?マリア姉さんはそういった怪しいものに手を出し すぎです﹂ ﹁怪しくなんかありません!﹂ ﹁姉さんは物覚えがよく何でもできてしまうのに、こういった面だ け騙されやすい﹂ ﹁そんなことはありません﹂ 184 我が弟ながら見識の狭いことだ。 ﹁で、今度のはなんの効果があるのですか?﹂ ラーサーがやれやれと言った表情をしている。 ﹁これはね、身に着けていると奇妙な出来事に遭遇することができ る石なの﹂ ﹁奇妙って、それ危なくないんですか?﹂ ﹁大丈夫よ。私は最強だから﹂ ﹁はぁ、そんなもののために学園に遅れるのですか。 早めに出発したアニキを見習ってくださいよ﹂ ﹁ふん、甘いわねラーサー﹂ ﹁何がです?﹂ ﹁入学式まであと3日あるのよ。私の騎乗技術があれば余裕で間に 合うわ﹂ ﹁馬車で1週間かかる距離ですよ。そんな無茶な﹂ ﹁大丈夫、執事に頼んで普段から馬の調教はばっちりよ﹂ ﹁僕が心配しているのは馬ではありません。マリア姉さんが心配な のです﹂ ﹁あら﹂ ラーサーの頭をなでなでして、ウィンクした。 ﹁最強の姉に不可能はないわ﹂ ﹁はー、もう今後はこんなことしないで下さいよ。 でも、姉さんのそういったところはすごいとも思います。 ひねくれ者の兄さんや、臆病者の僕なんかよりずっと一国の王に向 いていますよ﹂ ﹁じゃあ私がなろうかしら﹂ ラーサーはドン引きな顔をした。 冗談のつもりだったのだけれど、かわいい弟は本気にしたらしい。 ﹁じゃあ、私も行くわね。お母様にはくれぐれも言わないように﹂ ﹁わかりました。従者を何人かつけさせます・・・あれっ!?姉さ 185 ん!?どこです!?﹂ 従者なんてつけられてなるものですか。 彼ら遅いんですもの。 愛馬のホワイトちゃんに騎乗し、疾駆した。 バッグには最低限の食料とお金だけ入れている。 前回は3日で学園までついた。 今回は2日半を狙ってみようかしら。 朝方の出発なため街道にはほかに移動している人物は見当たらなか った。 快調、快調! この分なら新記録も達成できそうね。 ﹁頑張ってホワイトちゃん﹂ 久々に乗ってもらってホワイトちゃんも嬉しそうだ。 ﹁旅のお方!少し待っていただけないでしょうか﹂ しばらく走った後、不意に街道沿いから声をかけられた。 馬を止め見てみると、7.8歳くらいの男の子が立っていた。 ﹁何かしら?今、急いでいるのだけれど﹂ ﹁すみません、急に呼び止めてしまって﹂ 少年は泣き入りそうな声だった。 ﹁旅のお方、無理なお願いだとは存じますが、その馬がどうしても 186 必要なのです。お貸しいただけないでしょうか﹂ ﹁無理な相談ね﹂ ﹁お願いします。お金はあまりありませんが、何かお礼を必ず致し ますので﹂ うーん、どうしようか。 ﹁訳ありの様ね。話してみなさい﹂ ﹁おばあちゃんがもうすぐ亡くなりそうなんです。最後に大好物だ った砂糖餅を食べてほしくて、村まで買いに行ったのですが、急い で帰っていたところ足をひねってしまいました。このままじゃ、こ のままじゃ、おばあちゃんに、ひっく﹂ 少年は言い終わることなく涙を堪えきれなくなっていた。 今ので大体の事情は分かった。 さて、馬を譲ったら確実に遅刻だ。どうしたものかしら。 ﹁馬を貸すだなんて、無理な相談ね﹂ ﹁そうですか。いえ、いいんです。わざわざ足を止めていただいた だけでもありがたい事です。 どうぞ旅を急がれて下さい﹂ ﹁でも、後ろに乗せて連れていくことは出来ます。それで良ければ﹂ 少年の顔がにこやかに晴れた。 答えはもちろんそれでいいだった。 さてと、これで新記録はお預けか。またの機会にでもチャレンジし よう。 ﹁おばあちゃん!砂糖餅を買ってきたよ﹂ 187 ﹁おやおや、ありがとうね。わざわざ大変な道乗りだったじゃろ﹂ ﹁そんなことないよ。おばあちゃんのためだもん﹂ ﹁私は幸せ者だよ。本当にいい人生だった﹂ ぐすっ、うん、流れで家に入って来たけれど、助けてよかったわ。 いい孫をお持ちで、おばあちゃん安らかに。 ﹁どうも息子がお世話になりました。最期に母に砂糖餅を食べさせ てやることができてよかったです。これはほんのお礼です、大層な ものではございませんがお受け取り下さい﹂ 少年の母から、感謝の言葉とお礼の物を貰った。 手渡されたのはガラスの腕輪だ。 安物には違いないが、庶民にとってはそこそこ値の張るものだ。 断るのは悪いので貰っておいた。 ﹁では、私先を急ぎますので﹂ ﹁はい、この御恩は一生忘れません﹂ ﹁さぁ駆けるのよホワイトちゃん﹂ ぎりぎりだ。 意外と時間を食ってしまった。 でも間に合うだろう。去年よりも騎乗技術は上がっているのだから。 ﹁あいや、旅のお方待たれよ!﹂ 街道沿いに走っているとまたもや呼び止められた。 ﹁何かしら?結構急いでいるのだけど﹂ ﹁ああ、すまない。大したことじゃないんだが﹂ 188 なら、止めないで下さる?とか思ってしまった。 ﹁その手に持っているガラスの腕輪を見せていただけないだろうか﹂ これ?どこにでも売ってそうなものだけれど。 右手に着けていたガラスの腕輪を差し出した。 ﹁ああ、やっぱりそうだ。これは昔妻に送った腕輪と同じものだ。 なんだかすごく懐かしい気分だ﹂ 奥さんには先に旅立たれたのだろうか? ここは深く聞かないでおこう。 ﹁なんだか、あの頃の気持ちが蘇ってくるようだ。金はなかったが、 愛はあった。二人の熱い気持ちだけで他には何もいらないあの日々。 お腹もすいてたし、ひもじい思いもいっぱいした。でも、幸せだっ たなー﹂ ﹁ステキな奥さんだったのね﹂ ﹁ああ、でも今はもういない。二人の思いは冷めてしまった別れた んだ。妻は今日、船で異国の地に行くと聞いている。金輪際会うこ ともないだろう﹂ ﹁そう﹂ なんだか、悲しいお話ね。 聞かなきゃよかったわ。 ﹁もう一度会いたいな。昔の気持ちを思い出した今なら・・・。 メーデイアともう一度会いたい。しかし、船はもう出発か。私の足 では到底追いつけはしまい。 メーデイアよ、いろいろ迷惑をかけたな。異国の地では元気で過ご すんだぞ﹂ オジサンの目から一粒の涙が垂れたのが見えた。 なんで見ちゃったのかしら私。 189 んーー、遅刻か。 もう、いいわ!! ﹁乗りなさいオジサン!港までとばすわよ!﹂ ﹁お嬢さん﹂ ﹁さぁ﹂ ﹁はい!﹂ ﹁メーデイア、君に伝えなければならないことがある!﹂ ﹁いまさら何よ。あなたと私はもう終わった仲なのよ﹂ ﹁そんなことはない。今日、昔お前に送った腕輪を見た。その瞬間 昔の気持ちをすべて思い出したんだ﹂ ﹁そんな、今から私異国の地に行くのよ﹂ ﹁頼むメーデイア、行かないでくれ。 昔は何も持っていないかった。でも君がいたから僕は幸せだった。 頑張ってお金を貯めて君に腕輪を送ったあの頃の純粋な気持ちを思 い出したんだ。お願いだ、行かないでくれメーデイア﹂ ﹁・・・、あなたこれを見て﹂ ﹁これは!!あの時僕が送った腕輪じゃないか。まだ持っていたの か!?﹂ ﹁これだけはどうしても捨てられなくて。持ってきちゃったの﹂ ﹁メーデイア﹂ ﹁あなた﹂ ぐすっ、夫婦の愛が戻ったのね。オジサンを連れてきたよかったわ。 190 夫婦末永くお幸せに!! ﹁旅のお方ありがとうございました。これからは夫と二人で頑張っ ていきます。 これは異国の地で生活費に変えようと思っていた銀の鍵です。お礼 にお受け取りください﹂ 手渡されたのは銀でできた謎の鍵だ。 こんな高価なものを貰ってよいのだろうか。 まぁ、夫婦が幸せそうなのでいいかしら。 ﹁では、先を急ぐ身ですので﹂ ﹁ありがとうございます﹂ ﹁さぁ、駆けるのよホワイトちゃん﹂ 遅刻は確定した。 後はどれだけ傷口を浅くするかどうかね。 迷惑をかけるわ、ホワイトちゃん。 ﹁もし!旅のお方!﹂ 無視無視。 ﹁またれよー!﹂ 何かしら、本当に急いでいるだけれど。 馬を止めた。ホワイトちゃんもいらだっているように思う。 ﹁何かしら!!﹂ ﹁えっ、い、いや﹂ 191 ﹁はやく!﹂ ﹁ああ、その手に持っているものを少し見せてもらえないだろうか﹂ 手に持っていた銀の鍵を差し出した。 ﹁やっぱりだ。これはかつて人々に恐怖を与えた吸血王を封じ込め るための銀の鍵。 曾祖父の代より探し求めて、100余年。ようやく見つかったか﹂ ﹁あげるわ﹂ ﹁いいのか?なんという幸運か﹂ 男は鍵を受け取ると、その場に膝をつけ泣き崩れた。 ﹁はは、祖父様よ、父様よ、歴代先祖様よ、私をお笑いください。 念願の封印の鍵を見つけたというのに、私は封印の時に間に合わな いようです。明日の日が昇るまでに古の洞窟まで徒歩で行くだなん て無理な話だ。俺はいつも肝心なところで抜けているんだ。なんて 愚かな男なんだ﹂ 男は頭も地面につけて、こぶしを振り下ろしている。 ﹁先祖に顔向けできぬ﹂ なぜ聞いてしまったのか私!! ﹁・・・乗ればいいじゃない﹂ ﹁えっ?﹂ ﹁っ乗ればいいじゃない!!﹂ 192 ﹃お前はかつて我の身を封じたあの伯爵一族のものか。またしても あの一族に封じられるとはな﹄ ﹁ああ、そしてこれが最後の封印の鍵だ。お前はこれで永久に封印 される﹂ ﹃我が野望がああああああああ﹄ ﹁先祖様、我が一族の悲願がここにかないました。これで私もよう やく解放されます﹂ 泣けないわね。 助けなきゃよかったわ。 ﹁旅の方、この伝説の剣はもう俺には必要ない。どうか受け取って はくれないか﹂ これは本当にいらないわね。 男の顔を見るとすがすがしい晴れやかな顔だった。 一生かけた役目が終わったのだ。ここは受け取っておくべきなのだ ろう。 ﹁では、先を急ぐ身ですので﹂ ﹁ああ、旅の者よ、そなたはこの国の恩人だ﹂ ﹁さぁ、駆けるわよホワイトちゃん﹂ もう声をかけられても止まるもんですか。 絶対に止まらない!! ﹁旅の方!﹂ しかし、条件反射で止まってしまった。 まずいわね、体が覚えだしてきているわ。 193 ﹁その腰につけた剣は、かつて賢者とよばれし﹂ ﹁乗るんでしょ!?どうせ乗るんでしょ!?さっさと乗りなさい! !﹂ ﹁は、はい﹂ ﹁目的地はどちら!!﹂ ﹁え、エレノワール学園﹂ ﹁・・・、あらステキ﹂ 194 2章︳1話︵前書き︶ 2章、はじまります。 学園生活が始まる本編です。お楽しみください。 195 2章︳1話 本日より俺の学園生活が始まる。 いつもより早起きし、制服を着た。 制服は白を基調としたシンプルなデザインだ。所々につけられた高 価な装飾が一層際立つ。貴族の学校にふさわしい装いである。 痩せて身長も伸びた。筋肉だってついている。今の俺なら着こなせ るはずだ。 鏡の前に立ち、自分の姿を今一度確認する。 ﹁うん、決まってる﹂ クルリ・ヘラン。 本日より運命を左右する3年間の始まりである。 ドアをくぐると、いつもの二人が待っていた。 二人とも同じく制服を着こなしている。 ﹁さぁ行こうか﹂ ﹁ああ﹂﹁はい!﹂ 我が校の校舎は俯瞰で見ると、カタカナのロになっているらしい。 校舎で囲まれた中には広大な庭があると聞いている。 昼や放課後などはここで自由に過ごして良いそうだ。 なんと贅沢な土地の使い方か! ロの東側が生徒が普段滞在する教室部分である。 AからJまでクラスわけされた基本クラスで必修科目を勉強するの 196 だ。 ロの北側が、選択科目で実技が必要な教室が揃っている。 教室で薬草を栽培しているところなんかもあると聞いている。 でかい校舎だ、何があってもおかしくはない。 ちなみに南に図書館があるらしい、これはアイリスから聞いた。 西は生徒が自主的に使う部屋が多いと聞いたことがある。 まぁ学園生活をしていくうちに知っていくだろう。 広大な校舎の北側には運動場とイベントなどで使う集会場がある。 土地が広いこと! 校舎に着くと、入り口にクラス名簿が載っていた。 俺とヴァインは予想通りAクラスだった。 クロッシはCクラスである。 早々に分かれることになり寂しそうである。 この学校は一年が3階、3年が一階という階わけになっている。 3階に着くと、手前からAクラス。 奥が一番最下位のJクラスとなっている。 教室に入ると、既に何人か生徒がいた。 アイリスとエリザはまだいないみたいだ。 席は決められているみたいで、俺は左隅の一番後ろ。ヴァインは右 隅の一番後ろである。 ヴァインのは意図的な席割りだな、と思わずにはいられない。 あんなでかいのが前にいたんじゃ勉強にならない。 ぞろぞろと生徒が増え出して、始業時間までには全員が揃った。 197 エリザは右から3列目の前から2番目の席だ。 遠いな。 まぁ授業中は彼女も悪さはしないか。 生徒が揃い、その後に担任と思われる人物が入ってきた。 ﹁あ﹂ 体力テストの時にいたウー教官だ。 ﹁皆さん、1年間担任を務めますミッチェル・ウーです。 よろしく。優秀なAクラスの君らを預かれて光栄に思う﹂ ウー教官は髪はポニーテール、顔はやや男前で体はすらっと細長い。 前に見た時もそうだったが、いつも運動着を着ているようだ。 ウー教官の話が始まり、今日のスケジュールを知らされた。 ﹁まずは入学式だ。君たちを祝うものだから存分に楽しめ。 その後は教室に戻り、学園の授業システムについて説明する﹂ 話が終わると、ウー教官に導かれて校舎の北側にある集会場へと向 かった。 一年生はAクラスを先頭に最後尾にJクラスの面々が続いた。 入学式はイベントで使われる集会場で行われる。 集会場は空の建物で、体育館のような場所だ。 それ故に自由に飾り付けもできる。 貴族が通う学校の一番めでたい日と言っても過言ではない。 盛大な歓迎を期待してもよいだろう。 198 集会場に着くと入り口に立つ二人の屈強な男が門を開いた。 ﹁入学おめでとう!﹂ 開かれた門から歓声があふれ出してくる。 上級生たちの盛大な歓迎だ。 中に入ると、天井や壁に飾り付けられた装飾がキラキラとまぶしい。 一年生が通る道には花が敷き詰められ、華やかな世界観が広がって いる。 なんてきれいなんだ。 期待を上回るもてなしに心が躍った。 それは俺だけではなく、ほかの一年生たちも同じような顔をしてい る。 ﹁うわぁ﹂ 首を回し、あたりを見渡した。 こんなに純粋に喜んだのはいつ以来だろう。 花の道を進んだ先に一年生用の椅子が用意され全員が座った。 ﹁諸君、よく入学された﹂ 舞台の上で話し始めたのは、結構な年を食ったオジサンだ。 ﹁学園長のエイダン・モーリスじゃ。皆の入学を心より祝福する。 恵まれた温かい人生に胡坐をかくことなく、3年間必死に勉学に励 むように。 さぁ、長い話はなしじゃ、上級生たちからの催しがあるからそれを 楽しんでくれたまえ﹂ ﹁おお!﹂ 歓喜の声をあげたのは一年生諸君たちだ。 199 俺もうきうきが止まらない。 ﹁さぁ楽しんで行こう!﹂ 舞台袖より、学園長と入れ替わりで飛び出した青年が声をあげた。 顔のメイクからして、何かサーカスでも見せてくれるようだ。 歌、劇、演奏、それからあらゆる催しが行われ、入学式は大満足の なか終わった。 ああ、いい体験ができた。 こうして一年生の学園生活が始まるのか。 いい伝統だ。来年は俺たちもこんな素晴らしいものを作ろう。 教室に戻ってからもみんなが入学式の話をし続けた。 それほどに感慨深いものだったのだ。 ﹁あのー﹂ 声がして首を右に向けた。隣の女性が話しかけてきたようだ。 ﹁クルリ・ヘランさんですよね?﹂ ﹁はい﹂ 女性は両腕で自分を抱きしめ、目をきらめかせた。 ﹁やっぱり!私、クルリさんのファンなんです﹂ ファン!?なんの!? アイドル活動なんてした覚えはない。 ﹁ああ、そうなんだ。ところであなたのお名前は?﹂ ﹁ハート・ヴァレンタインです﹂ 200 ハートと名乗ったその女性の大きな目がうっとりしている。 若干強調された胸元と、たれ目が特徴的な女の子だ。 ﹁クルリさんの噂は聞いています。入学実力試験は総合3位の秀才 ですし、魔法にも精通してらっしゃるんですよね﹂ ﹁まぁ﹂ そんな褒められると照れる。頭をポリポリかいてごまかした。 ﹁しかもあのヘラン領の次期領主様だなんて、やっぱり凄すぎます﹂ ﹁いやー、ハートさんだってAクラスにいる秀才じゃないか﹂ ﹁私なんか﹂ 彼女は慌てたように両手を振った。 ﹁今一年生の間では既に、クルリさん、アーク王子、レイルさん、 エリザさんの4人をミラクルフォーだなんて呼んでるんですよ。私 なんかとは次元が違います﹂ 何それ!やめて!恥ずかしいから! ﹁どこからそんな話が出てるの?﹂ ﹁出元はわからないですが、アーク王子に至っては既にファンクラ ブもできていますよ。負けていられませんね﹂ ﹁そんなとこで張り合いたくないよ﹂ ﹁そんなぁ﹂ 若干ハートが悲しそうにしている。 ﹁そんなに落ち込むことじゃない。学生は学業にこそ力を入れるべ きだろう﹂ ﹁・・・はい﹂ ﹁さぁみんな席に着け!﹂ いいタイミングでウー教官が入って来た。 くらいムードにならなくてよかった。 201 ﹁入学式は楽しんだな。じゃあ勉学に励もうか。 授業システムの説明を始めるぞ﹂ 話はだらだらと長かったが、結局は用紙を貰えたのでそれで全て内 容が分かった。 必須授業科目が4科目。 高度な算術 魔法学 剣術 歴史学 この4つはAクラスの面々と受ける、絶対に履修しなければならな い科目だ。 次に選択科目を15項目から4つ選ぶ。 会計学、化学 心理学、地質学 天体学、建築学 畜産学、医学 薬草学、帝王学 外道学、武術 哲学、法学、生物学 こちらは他のクラスと合同で受ける。 2週間以内に決めればいいとのことだ。 今のところ、薬草学には興味がある。 後は金になりそうな畜産とかがいいと思う。 202 ﹁渡した書類にはしっかりと目を通しておいてくれ。選択科目を今 のうちに考えておくのもいいだろう。 今日はこれで終了だ。まだ昼だから学校を探索してみるのもいいだ ろう。以上解散﹂ ウー教官は勢いよく教室を去る。 サバサバとした人だ。 ﹁あのークルリさん﹂ ウー教官の話が終わると同時に、ハートが声をかけてきた。 ﹁どうした?﹂ ﹁部活動はどうなさるおつもりですか?﹂ ﹁ああ、そんなのあるんだ﹂ ﹁ええ、ということは決まっていないのですね﹂ ﹁うん﹂ 部活なんてあるの知らなかった。 何をするんだろう。サッカーとかしてもいいのか? ﹁部活を作りませんか?もちろん部長はクルリさんです﹂ ﹁そんな簡単に作れるの?﹂ ﹁はい、人数さへ集まれば﹂ ﹁何やるかも決まってないし、そんな簡単に集まるかな?﹂ ﹁はい、集まります。クルリさんの名前を使えば。少し待っててく ださい﹂ ハートは太いペンを取り出し、きれいな白紙に文字を書きだした。 キュッキュッとリズミカルないい音がする。 ﹃大志ある者どもよ!クルリ・ヘランのもとへ集え!! 入部希望者中庭集合!16時締切!!﹄ 203 ﹁・・・ちょっと気合入りすぎじゃない?﹂ ﹁そのくらいがちょうどいいんです﹂ ﹁何やるかも決まってないし﹂ ﹁それは集まってから決めましょう﹂ ﹁・・・うん、そうだね﹂ ﹁はい!﹂ 気合入ってんなー。 ハートが張り紙を廊下に貼り付け、二人で先に中庭に移動した。 中庭は芝が生い茂り、中心に噴水がある。 晴れた日に弁当を食べたい場所だ。 ﹁いっぱい集まるといいですね﹂ 芝に腰かけハートが言った。 俺も腰かけ返事をする。 ﹁いい芝ですね﹂ そう言われつい寝そべった。 チクチクする芝の感覚が気持ちいい。眠ってしまいそうになる。 ﹁クルリ・ヘランさんの部はこちらで?﹂ 寝そべっている横から、さえない顔した男が来た。 ﹁ああ﹂ 意外とすぐに一人目が来て少し驚いた。 来てくれるもんなんだね。 その後もぞろぞろと人は集まり、予定の16時を過ぎた。 ハートが点呼を取っている。 1、2、3、・・・47、48! 204 ﹁クルリさん、私を含め部員48名集まりました﹂ 俺を入れて49人。 多すぎるね。 こんなの御しきれない! ヴァインとクロッシは見当たらない。今日も二人で特訓なのか? ハートが全員の目の前に立ち、大きく息を吸い込んだ。 ﹁我らクルリ・ヘランのもとに集いし48名。クルリ・ヘラン率い るこの部に絶対の忠誠を誓いますか!﹂ ﹁﹁﹁﹁おう!!﹂﹂﹂﹂ ﹁部を、クルリ・ヘランを裏切った際には、それ相応の罰を受ける 覚悟はありますか!﹂ ﹁﹁﹁﹁おう!!﹂﹂﹂﹂ ﹁全員クルリ・ヘラン殿に一礼を!﹂ さっと、みんなが頭を下げた。 全然イメージと違う!! 数人でのんびり部活動をする未来を想像していたのに、あらぬ方向 に飛んできたよ! 部活の概念が全然違うじゃないか! みんな気合入りすぎだろ! 近づいて顔にビンタしたら、﹁押忍!﹂とか言い出しそうだよ。 ﹁クルリさん、これで部が出来上がりました。クルリさんから何か いただけると、部の象徴的なものになるのですが﹂ それなら、大量に作った剣がある。 ちょうどいい在庫処分だ。 ﹁一人に一本自作の剣を与えようか﹂ ﹁ありがとうございます。では、次は教師に部の資金を請求しに行 205 きましょう﹂ ﹁そんなこと可能なの?﹂ ﹁可能です。出陣の号令を﹂ 出陣!? 教師攻め落とすの? ﹁・・・しゅ、出陣﹂ ﹁﹁﹁﹁おおう!﹂﹂﹂﹂ あ、これ悪くないかも。 206 2章︳2話 中庭から校舎に入り、校舎南側にある職員室へと向かった。 先頭を俺が歩き、後ろにピラミッド状に広がり48人がついてきた。 全員の顔がやけに険しい気がする。 この状況、なんかの巨塔で見たな。 まさか自分が体験しようとは。人数が多い分こちらの方が質が悪い 気もする。 全員が真面目にきっちり付いてくるので、ちょっとした好奇心で止 まってみた。 全員が乱れることなく止まった。 これいいね! 廊下に響き渡る規律の整った足音がなんとも心地よい。 幸い広い廊下なため端を歩けば他の生徒は通れる。 堂々と真ん中を歩いても道はふさがない。 けれど、すれ違う生徒の俺を見る顔がやけに怯えているように見え る。 目をあまり合わせようとしてくれないのだ。 廊下を進み、途中で廊下の真ん中に立って、話し込んでいる二人が いた。 こちらには気がついていないようだ。 ﹁そこをどけ、クルリさんのお通りだ﹂ 207 すぐ後ろの誰かが声を出した。 それに反応して道を塞いでいた二人は隅による。 ひっそりと﹁すみませんでした﹂と口が動いていたのが見えた。 いえいえ、こちらこそすみません!! これやばいよ!質悪すぎだよ! どうすんの!?この人たち学園制圧すんの!? ﹁あの、ちょっといいかな﹂ 足を止め、後ろを振り向いた。 うわっ!! 振り向いてようやく、そこにいる48人の圧迫感に気がついた。 リーダーである俺がビビってるんだから、生徒はこんな集団が近づ いて来たらそりゃ道を譲るしかない。 ﹁みんなちょっと気合入りすぎかな。言っておくけど他の生徒に危 害を加えるとか絶対にダメだから﹂ ﹁﹁﹁はい﹂﹂﹂ おお、流石に聞き分けはいいようだ。 始まったばかりの部活故、忠誠心は強いようだ。 俺のダメな面を露呈して、彼らを失望させたらどうなるのだろうか。 やっぱり刺される? しかし、今のところは後ろから刺されることはないかな? それほど長くはなかったが、体感ではものすごく歩いた気がする。 ようやく職員室前についた。 扉を開け、中に入る。 208 もちろん全員がついてくる。 この集団は教師でも遮る者はいなく、するすると敵陣内に侵入した。 ﹁ウー教官﹂ 声をかけたのは担任のウー教官だ。 この人が担任だし相談は適任だろう、ていうかこの人以外知らない。 ﹁部をつくりました。それで、部活の資金をいただきたいのですが﹂ ﹁もう作ったのか。それもこんな大人数。創部時点での過去最高じ ゃないのか?﹂ ﹁部長は忙しいのです。ウー教官余計な話はせず、手続きを早く﹂ 急かしたのはハートだ。 別に忙しくないからね! ﹁じゃあこの書類に部員の名前を記入してくれ。活動資金は本日中 に渡せるだろう。結構な額になるため悪いことに使ってくれるなよ、 クルリ君﹂ 結構な額!?耳がついピクリと反応した。 ﹁本日中にもらえるのですね。そんなに早いのですか?﹂ ﹁ああ、当学園は生徒の自主性を重んじているため、部活動などの 予算が多いのだ﹂ ﹁場所なども借りることは出来ますか?﹂ ﹁もちろんだ、基本校舎西側の部屋を貸すことになるが、運動場、 集会場なども他の部と時間差をつければ占有してもらっても構わな い﹂ 素晴らしい学校じゃないか。 ついつい感心してしまった。 ﹁ところで、何をするかはまだ決まっていないのですが﹂ 209 ﹁それも構わない。人が集まるとそれだけで大きな力になる。将来 人々をまとめる立場になる君等にはそういったことも学んで欲しい のだ﹂ ﹁なるほど。でも、いきなり何するかわからない組織に大金を渡す のは危なくないですか?ましてや俺たちはまだ10代の多感な時期 ですし﹂ ﹁それだよ、クルリ君。君は今大きな力と権力を手にしようとして いるが、同時に大きな責任を背負ったことにもなる。これより先は 言わなくてもわかるね?﹂ ・・・ですよね。 世の中そんなに甘い話なんてない。まだ15歳の身だが、それくら いわかってるさ! ﹁ウー教官、今後もわからないことがあったら相談に乗ってくださ い﹂ ﹁ああ、いつでもいいとも。君には私も期待をしているからね﹂ ﹁はい、じゃあみんな行こうか﹂ 俺の合図で全員が職員室を後にした。 さてと、この集団の良さを何に生かすべきか。 ﹁部長、一度中庭に戻り今後の方向性を決めませんか?それから部 室が必要であれば申請もしましょう﹂ ハートの提案に首を縦に振り、再び中庭に戻った。 ﹁みんな、これからこの部の方向性について話す。その前に少し俺 の言うことに耳を傾けてほしい﹂ 全員がうなずいた。 それを確認して話を始める。 ﹁まだやることは決まっていないが、志だけは決めておきたい。 210 我らは、心優しきライオンを目指す!﹂ 全員が首を傾げた。 ﹁つまりはだ、この部に在籍している者は常に文武両道であり、他 者より優れた存在でなければならない。授業をしかっりと受け、復 習も怠るな!我らでAクラスを占拠するくらいの勢いで精進するよ うに﹂ 気合が乗ってきて真面目な顔を見せる者や、志が気に入って笑顔を 見せるものもいた。 ﹁でも、それだけじゃダメだ。我らは将来、人の上に立つ人間にな る。求められる能力は高いものになる。それは個々の努力次第でど うにでもなるだろう。しかし、本当に大切なことは弱者の位置に立 って物事を見ることができるかどうか。それこそが上に立つ者とし て本当に必要な器だ!そしてそれこそが、心優しきライオンだ!﹂ ﹁﹁﹁おおおお﹂﹂﹂﹂皆々から賛同の声が上がった。 最初のスピーチは成功したようだ。 祭り上げられたような部長就任だったが、集まった部員の顔を見る と悪くない気もしてきた。 ﹁よし、それじゃこれから部の方向性について話し合おう。やりた いことがある人は挙手を﹂ ・・・。 誰も手をあげない。 気合入ってるわりに消極的だな!! ﹁あのぉ、部の方向性とは少し違うのですが﹂ 手をあげたのは眼鏡をかけた、サラサラヘアの男だ。 ﹁君は確か、学力テストで成績上位だったトーマス君だね﹂ 211 ﹁はい、知ってもらっていて光栄です﹂ Aクラスからの面々はちらほらいたが、上位成績者もいたとは。 この部ってなかなか優秀な人材が揃っているのかもしれない。 ﹁この部の拠点なのですが、部室を借りる予定ですか?﹂ ﹁そのつもりだよ﹂ 現状やることは決まっていない。話し合いの場にはやはり場所が必 要だ。 それにやることが決まってからも本拠地があるのはいい。 ﹁部室は校舎西側の部屋を借りれるのですが、どこも多くて60人 程度しか収容できません。この部の将来的な成長を考えると狭いも のになると思います。ですので、私たちの城を作りませんか?﹂ 城!? 学園に城を構えるの!? 本格的に学園を制圧するつもりなのだろうか。 ﹁それは少しやりすぎじゃないかな。それに土地や、建設費だって すごいものになるだろうし﹂ ﹁それについては問題ありません。学園内、塀で囲まれた中では西 北の隅に広大な空きスペースがあります。一年生の寮の北に位置す る場所です。教師に使用の許可は既にいただいています。建設費に ついては私の領が建設を生業としているため、格安の費用で材料、 人員を確保することが可能です。部費の半分ほどで事足りると考え ています﹂ ﹁・・・そうか﹂ トーマス君、彼は学業だけでなく非常に頭の回る人間なようだ。 なんというか、夢がでかいね。生きていくことしか考えていない自 分があまりに小さく思えてしまう。 212 ﹁よし!我らの城を造ろう!!部の方向性はその後だ。トーマス君、 指揮を頼む﹂ ﹁はい、私たちだけの城を造りましょう!﹂トーマス君は興奮気味 だ。 ﹁城はこの学園から独立した治外法権にしましょう!﹂ハートも興 奮気味に話す。 治外法権か、彼女も野望がでかい。 ちなみにそれ、大使館レベルですよ!ハートさん! ﹁学園でスコップやら、測定器具などを借りることが可能です。そ れら必要なものを集めるため人員を貸していただいてもいいですか ?﹂ ﹁もちろんだ。好きなようにやってくれ、トーマス君﹂ トーマス君は非常に手際よく何人か集め、校舎へと急いだ。 俺たちは城が立つ場所へ移動する。 トーマス君の言う通り広大な空き地だ。 城一つ建ってもまだ余裕がある。 しばらくしてトーマス君たちも遅れてやってきた。 手にはスコップやら、測量器具、見たことのないものまである。 今後の流れを説明する、とトーマス君が話し始めた。 ﹁専門的なことは私の領の職人に任せます。職人たちへの手配は先 ほど出しましたので、2、3日中にはこちらに着くでしょう。着く までは、出来るところは部員の力を借りて進めておきます。職人が ついてからは部員は基本資材運びなどの要員などになってもらいま す。使える部員などがいれば専門的な仕事も任せようとも思ってい ます。それで構わないですか?﹂ 213 ﹁すごいよ、トーマス君。異論はない、存分にやってくれ。それで、 まずは何から始めるんだい?﹂ ﹁まずは測量をします。大体の目安はついていますので、すぐに終 わります。その後は地盤固めの基礎工事をします﹂ ﹁優秀な部員がいてくれて光栄に思うよ。よし、俺にもスコップを 一本くれ﹂ ﹁そんな、部長は座って休んでいてください﹂ ﹁組織のリーダーっていうのは一番よく働き、一番報酬が少ない。 それが俺の理想とするリーダー像だ﹂ ﹁部長!﹂トーマス君が少し感動している。 うん、いいこと言った。それに、退屈は嫌いだ。 ﹁さぁ、トーマス君、指示を頼む!﹂ ﹁はい!﹂ 3階建ての城を造るらしく、そのためには基礎となる地盤を作る必 要があるらしい。 まずは、穴を掘れとのことだ。 温泉も、井戸も掘ったこの俺に最適な仕事じゃないか! ﹁すごいです、部長。一回の掘る土の量が多いです!﹂名前の知ら ない部員からの褒め言葉だ。 ﹁まぁね、堀り慣れてるから﹂ ﹁やっぱり、部長すごいですね。スコップを土にさしてから、土を 掘るまでの動きに無駄が一切ないです!﹂これまた名前の知らない 女性部員からの賛辞だ。 ﹁まぁね、場数が違う﹂ ﹁部長のとこだけ堀が速いですね。僕も頑張らないと﹂またまた知 らない子からの褒め言葉。 ﹁まぁね、スピードには自信がある﹂ 214 ﹁部長のスコップ少し曲がってるのに、問題なく使いこなせるなん てすごいです﹂ もういいから!! 土掘る作業だけそんなに褒めないで!! クルリ君には他にもいいとこいっぱいあるから!!俺のそんなとこ ろもちゃんと見て!! ﹁クルリ・ヘラン、資金を届けに来たぞ﹂ 作業場に来たウー教官の声で、いったん作業を中断した。 なんだか背中に担いだ袋がやけに仰々しい。 ﹁資金はその大きな袋の中ですか?﹂ ﹁そうだ、確かに渡したぞ。中身の詳細がまとめられた書類も一緒 に入っている、額はそれで確認したらいい。では、さらばだ﹂ ドッと、その場におかれた資金は嫌に重量感がある。 襲る襲る袋を開け中を覗き込んだ。 !? 中にはとんでもない量の金貨が入っていた。 手で数えるには少ししんどい枚数だ。 まずい、左手の震えが止まらない。何枚か盗ってしてしまおうか。 後ろをちらりと見た。 皆がトーマス君の指示のもと真面目に働いている。 この袋の中身を知っているのは俺だけだ。 やるか!? ・・・否!!後ろから刺されたくはない。 真面目に働いているみんなにも申し訳が立たない。 そっと、震える左手で袋を絞めた。 215 ﹁みんな、資金が入ったぞ。俺たちの城ができるまでの道がはっき りとしてきた﹂ ﹁はい﹂﹁やった﹂﹁がんばろう﹂ 全員の喜んだ顔を見た。盗らなくてよかった。 ﹁トーマス君、俺に一番きつい仕事をくれ﹂ ﹁流石にそれはできませんよ、部長﹂ ﹁いいんだ。心の弱い俺を、ダメな俺を、戒めてくれ!!﹂ ﹁戒め!?﹂ ﹁さぁ、指示を頼む﹂ ﹁は、はい、そこまで言うなら﹂ トーマス君から作業用の道具を受け取る。 そして、今一度働いている部員の姿を見た。みんな俺のため、部の ために働いてくれているのか。 大きな権力には、大きな義務が付いてまわるらしい。 俺も成長しなくちゃな。 216 2章︳3話 ﹁あー疲れた﹂ 昨日の作業で背中に大分疲労が残ってしまった。 張り切りすぎて穴を掘りすぎたな。 今日から学園の本格的な授業が始まる。 初めの一週間は選択科目を自由に受けて来てよいとのことだ。 一限目に重たい体を引きずって訪れたのは、薬草学の授業だ。 選択科目で一番最初に興味が沸いた科目だったので迷わずに来た。 時間になるとおおよそ30名ほどの生徒が薬草学の教室に集まった。 若干女性が多めな気がする。 担当教官も女性だ。 ﹁皆さんよく来てくれました。薬草学の授業を担当するアマリと申 します﹂ チャイムが鳴り終わったのを待ち、話し始めたのがアマリと自己紹 介した女性だ。年は30代だろうか、丸いメガネのフレームが優し そうな顔を際立てていた。 ﹁薬草学というのは、非常に実学的な側面を持った学問です。今日 習ったことが明日には役立つ、なんて人も出てくるでしょうね﹂ そう、それこそ俺がこの科目を選んだ理由だ。 理論的な学になど興味はない。 言ってみれば、金になる知識が欲しいのだ。 いい薬草は高値で商人が取引をしてくれる。この授業で得られるだ けの知識は得るつもりだ。 217 ﹁薬草は一般庶民が手を出すには少し値段の張るものです。私の目 標は誰もが簡単に育てることのできる品種を開発することあります。 私が主催しているゼミなどもありますので、興味がある方は参加し てみてくださいね﹂ アマリ教官が優しく微笑んだ。 ここにも心の素晴らしい人物がいたか。 ﹁とはいっても、今日は初めての授業ですので自由に薬草の見学な どを行ってください。そして興味が出て、正式に授業を履修してく れたら嬉しいです﹂ 教官はまたも微笑んだ。うん、癒される笑顔だ。 ﹁あっ、口が寂しいからと言って薬草をかじってはいけませんよ。 危ないものもあるので﹂ 教官の指示のもと全員が自由に薬草を見て回った。 薬草学の教室は、校舎北側にあり、一階の教室を使っている。 教室内は室内栽培に適した植物がおいてあり、外で栽培した方がい いものはちゃんと教室の外にあった。 ちなみにこの教室だけ、壁をぶち破って外と直通になっている。 壁や天井にも薬草がつるされ、外に栽培されている薬草も種類も、 数も豊富だ。 広大な土地を十分に利用している。この一時間では到底見ることの できない量があるのだ。 遠くを眺めているとビニールハウスのようなものもあった。 一体どれほどの薬草を栽培しているのだろうと考えると少しワクワ クした。 ﹁あのさぁ、あんたクルリ・ヘランでしょ?﹂ 薬草を眺めていた俺に、フードを被った少年が声をかけてきた。 218 身長は低めで、顔色が少し悪い。 ていうか、くっさ!! 彼から強烈な薬草臭がする。 ﹁そ、そうだけど﹂できるだけ鼻で息をしないように答えた。 ﹁僕はトト・ギャップ。あんたに興味があるんだ﹂ ﹁へ、へえー﹂ やばい、会話が頭に入らない。 あ、もうくっさー! ﹁ああ、匂いが気になるのか。ちょっと待って、この上着を脱ぐか ら﹂ そう言って、トトはフードを外し、上着を脱いで教室隅に置いた。 彼が近づいてきて、俺は恐る恐る鼻で呼吸をしてみた。 臭くない! スー。 臭くない! ﹁あれは人除けに着てるんだ。あの匂いで嫌な奴はたいていどこか へ行くからね﹂ 人除け!?初めて聞いた単語だ。 ﹁ところで何か用かい?﹂ ﹁ああ、あんたが薬草に興味があってよかったよ。是非俺の開発し た品種を見てもらいたいんだ﹂ ﹁開発?君が作った薬草があるのか?﹂ ﹁そうだよ。僕は天才だからね。さ、こっちこっち﹂ 彼に案内されたのはビニールハウスが多く並んだ一体だった。 219 その一つに通してもらい、中を見た。 こちらも天井につるされた薬草、地面に植えられた薬草がびっしり としている。 手のひらサイズのものや、等身大のものまである。 どれも見たことのない変わった薬草たちだった。 ﹁どうだい?全部僕が作りあげた薬草たちだ﹂ ﹁全部?ここは薬草学の教室じゃないのか?﹂ ﹁ああ、でもアマリ教官のゼミに所属しているから一つビニールハ ウスを借りてるのさ﹂ ﹁へー、すごいな﹂ ビニールハウス内を少し歩いてみた。 どれも初めて見る薬草たちだが、何個かはすごくきれいな薬草もあ った。 あまりにきれいなので、少しだけ手で触ってみた。 葉がすべすべしている。 ﹁それ触ってもいいけど、嗅がないでね。明日まで寝ることになる し、しばらく記憶が飛ぶから。臨床実験も済ませてあるから効き目 は確かだよ﹂ 臨床実験とは恐ろしいことを言う。 それ誰が受けたの?聞いていいの!? そーと、手を横にずらし他の薬草にも触れてみた。 ﹁ああ、それも触っていいけど、食べないでね。内臓内の食べ物全 て吐き出すから。ちなみにそれも臨床実験は済ませているよ﹂ だから誰に!? 220 ﹁逆に安全な薬草はないのか?﹂ ﹁それならこれだね。匂いを嗅げば天国へ飛べるぜ。一日丸ごと自 由自在の妄想世界へ連れて行ってくれる﹂ ダメなやつだ、それ! トトから渡された薬草を突き返した。 彼とはちょっとばかり価値観が違うようだ。 ﹁違う違う、もっとこう、人の役に立つ、例えば病気を治す薬草だ とかはないのか﹂ ﹁もちろんあるぜ﹂ ちょっと待ってろ、と言い残しビニールハウスの奥へと行った。 何やら地面を掘っているようだ。 ﹁手伝おうか﹂ ﹁いやいい﹂ しばらく待ち、手を土で汚したトトがこちらに戻ってきた。 手には何やら歪な形をした根のようなものがある。 ﹁これを食べれば、全身から力がみなぎる。手術とかで一時的に体 力が必要な患者とかには役立つだろう﹂ ﹁あるじゃないか。もっとこういったものを見せてくれ﹂ ﹁いや、こういうのはあまり多くない。これも本当は失敗作でな。 本当は食べれば筋肉が膨張するような薬草を作りたかったんだ。ま ぁ、これは未完成ってとこかな﹂ ・・・彼は何を目指しているのだろうか。 ちょっとだけ聞いてみたい。 ﹁惚れ草なんてのもあるんだぜ。あれはいい値段で売れると思うん だ﹂ 221 ﹁へぇ﹂ ・・・ちょっと欲しいかも。 ﹁僕の自己紹介はこのくらいにしておいて、本題に入ろうか﹂ ﹁どうぞ﹂ ﹁クルリに声をかけたのは、君の部活に興味があるからだ。部員が 50名近くいるんだろう?何人か定期的に僕の薬草の実験台になっ てほしい。もちろん報酬は払うよ﹂ そういうことか。 ﹁もちろん、却下だ。危険すぎる。今までの臨床実験の相手に続け てもらうのじゃダメなのか?﹂ ﹁一人しかいないんだ。それじゃデータが不足することもあるから﹂ ﹁でも、うちの部員は貸せないな。俺は一応責任ある部長だし﹂ ﹁ちぇっ、あんたならわかってくれると思ったんだがな﹂ トトはうつむき加減に、舌打ちした。 結構残念そうな顔をしている。なんだか申し訳ないな。 ﹁なんでそんなに薬草開発に必死なんだ?﹂ ﹁・・・﹂トトはうつむいたまま答えてくれない。 ﹁まぁ言いたくないならいいや﹂ ﹁・・・、金だよ。俺は貴族だけど、小さな領の分家の、しかも4 男坊だからな。将来は自分で稼いでいく必要がる。あんたも貴族な のに鍛冶なんてやってるから俺と同じ目的だと思ったのに、とんだ 思い違いだ﹂ ・・・、いえ、思い違いではありません!なんて本音を彼に伝える 訳にはいかない。 俺も将来困らないように鉄を打ってるんです! 俺たち実は同志なんだよ! 222 ﹁ふっ、そういうことか﹂ ﹁僕を鼻で笑うか。だから甘ったれた貴族の坊ちゃんは嫌いなんだ﹂ トトの機嫌は最高潮に悪そうだ。 ﹁で、大きく稼げそうな薬草はあるのか?﹂ ﹁は!?﹂ ﹁稼げる薬草はあるのかと聞いている﹂ ﹁いや、まだ売ったことがないからわからない。さっきの惚れ草な んかは売れると思うけど﹂ ﹁うーん、人の思いをコントロールするほど危ないことはない。あ れはやめておこう﹂ ﹁それじゃあ、全身の毛穴が開く薬草とかは?﹂ なんだそれ。 思わず突っ込みそうになった。 ﹁開発が極端だな﹂ ﹁うん、僕は基本思い付きで行動するから﹂ ﹁とりあえず、売れそうな薬草の一覧を作ってくれ。お前の薬草売 りを手伝ってやる﹂ ﹁本当か!?なんで?﹂ ﹁まぁ、それはまたいつか話そう﹂ ﹁わかった、じゃあいつから売る?明日からでもいいよ﹂ ﹁学園で売るのはまずいだろ。それに整理もできていない。 売るのは3か月後、夏季休暇、我がヘラン領にて売る。それまでに 必要になる薬草を開発していく。俺も放課後に手伝うから、頑張ろ う﹂ ﹁ありがとう。開発は僕に任せろ、クルリ!﹂ トトが顔色の悪いながらも今日一番の笑顔を見せた。 223 ﹁俺の領は温泉が有名だ﹂ ﹁知ってるさ、有名だからな﹂ ﹁美を求める奥様方が多く来られるのだ。どうだ?金の匂いがする だろう?﹂ ﹁ああ、する!ぷんぷんする!﹂ ﹁美を与える薬草、それこそが今必要なのだよ、トト君!!﹂ ﹁美を、美を与える薬草・・・﹂ ﹁そうだ、それこそが金になる薬草だ。しかも、いくら使っても副 作用がない薬草が必要になる﹂ ﹁副作用がないだと?そんなの無理だ﹂ ﹁無理でもやるんだ。奥様方の欲を甘く見るな!﹂ ﹁・・・ちっ﹂ 見ると、トトが爪をガリガリと噛んでいた。彼の中では既に思考が 駆け巡っているようだ。 ﹁わかったよ。やってみる。とりあえずクルリもアイデアがあった らどんどん言ってくれ。参考にするから﹂ ﹁わかった。じゃあ週に数回はここを訪ねるようにしよう。目標は 3か月後の夏季休暇までに一つ、美の薬草を完成させる﹂ ﹁わかった﹂ 俺と、トトは今日一番のいやらしい顔をしているだろう。 なぜ人は金のことを考えると、こういういやらしい顔になってしま うのだろうか。 224 225 2章︳4話 自分の学園生活がものすごく激しい流れの中で進んでいることに気 がつき、ひと時の安らぎを求めて俺は学園の噴水を見に来ている。 校舎の南側、正門とのちょうど間に巨大な噴水があるのだ。 遠くからは何度か見ていたが、近くで見るとまた違った印象を得た。 水が高く吹き上がり、ここら辺一帯だけ少し気温が低い気がする。 ﹁うひょー﹂ 水の頂点を目で追いかけながら、少しばかり頭を振った。 ﹁あら?﹂ 噴水が一時的におさまり、対角線上に現れた女性を見つけた。 ・・・泣いている。 ブシューと上がった噴水がまたも彼女の姿を隠した。 今のは確か、エリザのもとにいた取り巻き四天王が一人、メイリメ とかいう女性だったと思う。 俺に﹁ゲロウ﹂と言い放った女だ。あまりいい印象はないな。 噴水がまた収まり、彼女の姿がまたも現れた。 やっぱり泣いているようだ。 ・・・見てはいけないものを見てしまったな。 噴水がまたも上がり彼女の姿を隠す。 このまま見なかったことにして、去ろうか。 うん、それがいい。 226 自分のことを嫌っている人物と関わるなんてろくなことがない。ま してや相手は涙している女性だ。 きっと面倒くさい話が待ち受けているに違いない。 噴水が収まり、彼女の姿がまたも現れる。 ﹁あ﹂﹁あ﹂ お互いに目があってしまった。 しばらく黙ったまま見つめ合い、噴水が俺たちの視線を遮った。 見ちゃったよ、声も出した、これで黙って逃げる訳にはいかなくな った。 噴水に沿って対角線上にいるメイリメのもとへと向かった。 ﹁やぁ﹂なるべく笑顔で声をかける。あたかも、何も知らない純情 少年を装わなくては。 ﹁・・・ぐすっ﹂ 鼻をすすっただけで、返事はない。 いや、もしかしたら鼻をすすったのが返事なのかもしれない。 彼女の目の周りが涙で赤くなっていた。相当な間泣いていたようだ。 ﹁なにかあったのか?﹂話しながら、なるべく自然と隣に座ってみ た。 ﹁・・・ぐすっ、隣に座るな﹂ ばれたか。 ﹁エリザと何かあったのか?﹂ なんとなくした質問だったが、図星の様だった。明らかに体がぴく ついているのを確認した。 ﹁あなたには関係のないことです﹂ 227 そうですか、では俺はこれで。 と、行きたい!でも行けない! ﹁そう言うなよ。エリザとは知らない仲じゃないんだ。もし何かあ るのなら俺からエリザに言っておこう﹂ ﹁あなたにエリザ様の何がわかるのですか!出しゃばらないでくだ さい!﹂ うるんだ目を擦って、激しい口調で言葉を投げかけてきた。 エリザは簡単に言えば、性格のきつい女だ。それはよくよく知って いるが、まさか側近までこんなに性格がきついとは知らなかったな。 世の中にはバランスというものが必要だということを知らないのか ね! ﹁エリザってさ、いつも腕を組み、目を閉じて怖い顔をしているだ ろ?でも、本当は頭の中で夕ご飯のことを考えてたりするときもあ るんだよ﹂ ﹁そ、そんな人じゃありません!﹂ ﹁しかも、好きな食べ物はシフォンケーキと公称しているけど、本 当はじゃがバターが一番好きだったりするし﹂ ﹁そ、そんなんことも・・・いや、確かにそれはあるかも﹂ ﹁さらに言えば﹂ ﹁も、もういい!エリザ様をそれ以上貶めるな!﹂ ﹁貶めてなどいない、俺の知っている知識を振舞っただけのことだ﹂ メイリメはなんだか悔しそうな顔をしている。 俺のエリザ知識はまだまだあるのに、彼女にはこれ以上は耐えられ そうにもなさそうだ。 ﹁エリザも所詮は俺たちと同じ人間、エリザだけ特別扱いして、そ 228 んなに重く悩む必要なんてないさ﹂ ﹁あなたにエリザ様の崇高さなどわかるはずもありません﹂ ﹁まぁそう言わず、何かあるなら言ってみてよ。時間はあるから﹂ ﹁・・・私はあなたを罵倒したことがあるのに、あなたは私に優し くしてくれるのですね﹂ ﹁それくらいの器の大きさは持っているよ﹂ やっぱり、﹁ゲロウ﹂は悪口だったのか。 ﹁もしかして私のことが好きなのか?﹂ ﹁違う!!﹂ 泣いている割に頭はお花畑のようだ。 ﹁・・・エリザ様の側近を外されたのだ﹂ それでか、以前見た四天王にメイリメがいなかったわけだ。 ﹁どうしてだ?﹂ ﹁私が、エリザ様にお仕えするほどの能力がないと判断されたから だ﹂ ﹁なんだそれ﹂ ﹁・・・私は入学実力試験でEクラスに振り分けられたのだ。他の 3名は無事Aクラス入りしたので側近を続けている。私の代わりの 人物もAクラスの人間だ﹂ ・・・Eクラスか。 なんて反応すればいいのか。 ﹁Eは厳しいな﹂ ﹁あなたまで私を侮辱するのですね!そうですよ、私はどうせEで すよ。Eの女ですよ!﹂ ﹁そんな怒るな。これから上がればいいだけの話だろ。精進せい! っていうエリザからの通達と受け止めればいいんじゃないかな?﹂ 229 ﹁そんなわけがないでしょ!あなたに話したのが間違いでした!﹂ 彼女の大声が終わると、顔を横に向けた。 相当怒らせたようだ。 再び泣き始めていた。なんとも申しわけない気持ちになってしまう。 俺だって怒らせる気はなかったのだ。 気まずい雰囲気になり、嫌に噴水の音だけがよく聞こえた。 今日一番高くまで上がったんじゃないだろうか。 ﹁・・・エリザの側近してた時は楽しかったか?﹂ ﹁・・・楽しいとか楽しくないとか、そんなことはどうでもいい﹂ ﹁そうじゃないだろ。楽しくなければ一緒に居ない方が幸せだ﹂ ﹁みんながみんな、あなたのように自分の気持ちだけで生きていけ る訳ではありません﹂ ﹁でも、大事なことだろ。楽しくなかったなら側近を外れた今の方 が君は幸せなはずだ﹂ ﹁・・・幸せじゃないわ。エリザ様といたときも・・・楽しくはな かったけど、それが私の生きがいだったし、アイデンティティでも あったから﹂ ﹁それなら他の生きがいを見つけたらいい﹂ ﹁そんなものありはしない!﹂ ようやくこちらに振り向いた彼女の顔は真剣なものだった。 俺はそっと立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。 ﹁俺の部活に入りなよ。やることは決まっていないけど、今は部の 建物を作っているんだ。これが意外と楽しくてな。君もそれでもや もやした気持ちを昇華したらいい﹂ 230 ﹁行きません!そんなものには何の興味もありません!﹂ ﹁そう言うな。一度見に来たらいい。女性部員もいるし、みんなで 同じ物をを作るっていうのは本当にやりがいのあるものだ﹂ ﹁・・・いきません﹂ 彼女が俯いたのを見て、俺はゆっくりと歩きだし、背中越しに言葉 を投げかけた。 ﹁一年生寮の北側で建設中だから、いつでも来たらいい﹂ ﹁・・・いかない﹂ ﹁待ってる﹂ ﹁・・・﹂ 背中から何かぼそぼそと小さな声が聞こえた。 何かは聞き取れなかった、でも言えることが一つある。 きっと、これは来るな!! 231 2章︳5話 さて、選択科目は何にしようか。 放課後、部室づくりの作業中にそんなことを考えていた。 薬草学は決定として、後は・・・ 畜産学は子豚がかわいかったな。あれを食べるのは心が痛いが、有 力候補ではある。 もっとなでなでしていいお肉にしたい。 武術はないな。 むさ苦しいことこの上なかった。 俺より体格を一回り大きい女を見た時は流石に体が固まった。 投げ飛ばされて、履修しないことを決意した。なんなんだよあの女。 女じゃないだろ。 明日は医学、法学あたりでも受けて来ようかな。 ﹁部長﹂ ﹁ん?﹂ ﹁考え事しながら作業してると怪我しますよ﹂ ﹁ああ、それもそうだな﹂ 部員からのありがたい忠告があり、考えることをやめて作業に集中 した。 それにしても誰だこいつ。 ハートに頼んで名簿を作ってもらわないと困るな。呼ぶときに、﹁ あのぉ﹂って毎回声をかけるのは流石にそろそろよろしくない。 232 部室の建設は今のところ超順調である。 全員のモチベーションが高く、トーマス君の領からやってきた職人 たちがまた腕利きであった。 そういえば、メイリメも思惑通り部にやってきた。 来てまだ二日しか経たないが、既に輪に溶け込んでいる様子がある。 外見は美人と言っていい容姿なので、男子諸君にもいい刺激になっ ている。 ていうか、下心で男性諸君が浮かれているだけである。 でも、連れて来てよかったと思っている。 誰も不幸になっていない。それこそが大事だと思う。 そんな自分の些細な手柄を考えていると、目の前から全力で部員の 一人が駆けてきた。 名前は知らないが、顔は知っている。部員で間違いない。 ﹁部長!!﹂ うすうす感じていたが、顔を見る限りいい話ではなさそうだ。 ﹁深呼吸して、落ち着いて話してくれ﹂ ていうか、俺の心の準備がまだ。 頼むから、些細な話であってくれ! ﹁ふー、話していいですか?﹂ ﹁もう一回深呼吸して﹂ ﹁はい﹂ 律儀にもう一回やってくれた。 ﹁ふー。その、エリザ・ドーヴィルが凄まじく不機嫌な顔して、こ ちらにやって来ています。側近の4人もただならぬ顔しています﹂ 233 あの日でしょ?違うの?違うよね! 誰だよ、怒れる女神さまを呼び寄せたのは!! 話を聞いていた部員達も作業を中断して青い顔している。 さも、羊の群れに狼がやってくるがごとく皆固まりだした。 さて、誰が犠牲になるか。 ・・・もちろん、俺ですよね。 そうこうしている間に、視線の先にエリザが見えた。 確かに、いつもの冷たい雰囲気に若干の熱気が感じられる。 それにしても、美人だ。いや、今はどうでもいいことなのだが。 そのままUターンして帰ってくれ!無駄な願いだとは知っているが 一応祈ってみた。 もちろん無駄だった。 死をまつ羊というのはこんな気分なのだろうか。 逃げるものはいないが、逃げても誰からも責められないのなら皆逃 げ出すだろう。 それほどに、エリザの雰囲気は怖い。 ああ、哀れ羊の群れよ。 ﹁部長﹂不安げに声をかけてきたのは、ハートだ。 視線から自分が頼られていることを感じた。 はぁ、何が嫌でエリザは怒っているのだ。 原因を作った奴には後で折檻だ! 234 ﹁ごきげんよう、クルリ様﹂ 着いてすぐ、先に話し始めようとした側近の一人を制して、エリザ 本人が口を開いた。 真正面にエリザが立つ。 ・・・綺麗だ。でも、こわー。俺はこれから食べられるのだろうか。 食べられるのなら丸のみがいい。痛みが少なさそうだから。 ﹁やぁ、エリザ。随分と怖い顔してどうしたんだい?お腹の調子で も悪いのかな?﹂ ﹁クルリ様、つまらない冗談はおやめください﹂ キリッ!擬音で例えると絶対これだ。鋭い目つきが、俺の両目を貫 いた。 ﹁はは、ごめんなさい﹂まずい、普通に謝ってしまった。 ﹁メイリメさんはいますね﹂ ﹁メイリメ?﹂ ああ、元四天王でクビになった彼女ならここに・・・。 ﹁彼女に何か用でも?﹂ ﹁用も何も。彼女は私の側近。今は役を外れているとは言え、この 私になんの断りもなく他に所属するなど私に失礼この上ないでしょ う?﹂ ﹁あ、はい﹂ 怒れる女神を呼んだの、俺でした!! ごめんなさい!!折檻しないでください!! ﹁メイリメさん﹂ 優しく呼び寄せるその声は、凄まじく底冷えしていた。 ﹁はい﹂ 235 消え入りそうな声でメイリメが答え、とぼとぼとエリザのもとへ駆 け寄った。 ﹁さぁ、行きましょうか﹂ ﹁はい﹂ メイリメは今にも泣きだしそうだ。 俺も今にも泣きだしそうだ。エリザさん怖すぎです。 ﹁部長!﹂﹁部長!﹁クルリさん!﹂﹁部長!﹂ 部員の何人かが声を出して俺の名前を呼んだ。 群れから連れ去られる若い雌の羊をそのまま狼にやるにはいかない。 その気持ちはわかる。痛いほどわかるが、エリザにこれほどの迫力 があるとは知らなかった。 先祖は狼なんじゃないだろうか。 ・・・ふー。 右手のこぶしをきゅっと握りしめて、口を開いた。 ﹁待てエリザ、メイリメを連れて行って何をするんだ?﹂ エリザは言葉に顔だけを振り向けたが、その目からは﹁あなたに言 う必要はない﹂という意味が込められている気がした。 それでも突然やってきた向こうなりの礼なのだろう、歩を止め、再 び俺の目の前に立った。 うっ。思わずのけぞった。 ﹁もちろん、仕置きをしますわ。飼い犬に手を噛まれたら躾けるの は当然でしょう。あなただって部下を持つ身ならそれくらいわかり なさい﹂ ﹁仕置きとは具体的には、何をするんだ﹂ ﹁あなたには関係ありません。これはあくまで身内の問題ですので﹂ 236 ﹁いや、メイリメは今俺の部の部員だ。勝手に連れて行ってもらっ ては困る﹂ ﹁は?何を勘違いしているのかしら、クルリ様﹂ エリザは今日一の鋭い目つきをした。胃袋をつかまれた気分だ。美 味しい料理で虜になったわけではない。 ﹁なら、メイリメさんに答えてもらいましょう﹂ ﹁え!?﹂メイリメはもう耐えられずに涙が流れていた。 ﹁さぁ、メイリメさん。あなたはどちらに所属しているのかしら? 私の下に?それともクルリ様の下に?さぁ、答えなさいメイリメさ ん﹂ 優しい声には確実に力強い意味が込められていた。 メイリメは既に限界らしく、足元から震えあがり涙は止まることを 忘れていた。 ﹁も、ひっく、もちろん・・・もちろん、エリザ様に仕えています﹂ ﹁そう、それでいいのよメイリメさん。これでお分かりでしょう? クルリ様﹂ 俺の返事を待つことなく、一行はもと来た道を歩き始めた。 嵐は去った。若い羊を一頭犠牲にして。 ﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁クルリさん!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁部 長!﹂﹁クルリ殿!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂ ﹁婦長!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂﹁部長!﹂ 部員たちが、ようやく仲間が連れ去られた現実に気が付き熱くなっ ている。 237 全員の顔を見た。 皆、熱くまっすぐな顔をしている。 ・・・わかっている。 俺だって、おなじ気持ちだ。 わかっているさ。 ・・・だれだ、婦長って言ったの。 ﹁まて、エリザ!!﹂ 確実に聞こえるように大声を出した。これで黙って去るわけにもい かないだろう。 エリザは立ち止まる。 背中からもその不機嫌さが伝わってきた。 側近と、メイリメをその場に残しエリザだけが再び俺のもとに来る。 もう怖いとか言ってられない。 羊にだって角はあるのだから。 ﹁エリザ、もう少し人の痛みを知る人間になれよ﹂ ﹁は?何を訳の分からないことを。最後にもう一度伝えます。これ は私の身内の問題ですので、口を出さないでいただけないでしょう か。いえ、あなたには関係のないことです、黙りなさいクルリ・ヘ ラン﹂ ﹁いーや、黙らないね。メイリメはうちの部員だ。返してもらおう か﹂ ﹁いい加減にその口を閉じなさい﹂ ﹁閉じない。お前のためにも俺は言うぞ。俺とお前は将来一緒に慎 ましく生きることになるかもしれない。だから今のうちに人を思い 238 やることも知っておけよ、エリザ﹂ ﹁初めて会ったときから、おかしな人だと思っていましたが、まさ かこれほどまでとは。あなたと真面目に話していた私がバカでした わ﹂ ぐぬぬぬ! お前のためを思っているんだぞ! ﹁はぁ、まあいいや。とりあえず、メイリメは返せ﹂ ﹁ふん﹂ とうとう鼻であしらわれた。 エリザよ、その綺麗な容姿。素晴らしい家の出。多彩な才能。すべ てに恵まれすぎた君は弱者の気持ちがわからなくなってしまったか。 それが故にアイリスもいじめてしまう。 そんなことじゃ、誰も幸せになんてやれやしない。 今俺にできることをやろう。 最大最高にして、俺が今唯一できる仕返し。 必殺!お友達デコピン! お友達デコピンとは、親指に中指をひっかけはじく暴力的なデコピ ンではなく、人先指の爪を軽くデコに充てるだけの優しさにあふれ た一撃だ。 えいっ! 不意の一撃はエリザのデコの直撃した。 ﹁あまり人をいじめるな、そんなの本当の君じゃない﹂ ?? 239 ・・・すぐに怒涛の反撃が来ると思ったが、エリザは俯いたまま言 葉を発しない。 ﹁・・・いたい﹂ 微かな声を出し、顔をあげたエリザの目元は涙で潤んでいた。 えっ!?泣いてる!? ・・・かわいい。 いや、違う!違う!そんなことを考えている場合じゃない! エリザは両手でおでこを覆い、﹁あう・・・﹂と声をだした。 ﹁あう?﹂ なにこれ、かわいい!! いや、そうじゃない!そうじゃない! やってしまった。とんでもないことやってしまったかも! ﹁お父様にも叩かれたことないのに・・・﹂ ﹁ひゃっ﹂ ﹁初めて叩かれた。お父様に言いつけてやる、絶対に許さないから ー!!﹂ 最期は涙を流し、おでこを抑えながら走り去っていった。 ホッとする後ろ姿だ。 やっぱり、かわいい。 ﹁覚えておきなさい!!﹂ 側近の誰かが言った。 それ敗者の常套文句ですよ、てことはこちらの勝ちでいいのか? 240 勝ちってなに? ﹁﹁﹁﹁﹁﹁﹁部長!!﹂﹂﹂﹂﹂﹂ 部員たちが駆け寄ってきた。 あつい、暑苦しい、離れろ! とうとう捕まり、胴上げされてしまった。 10回ほど宙を舞い、降ろされた。目の前にメイリメがいる。 ﹁やぁ、おかえり﹂ ﹁はい﹂ メイリメは既に大泣きしていたが、またも泣き出した。 今度は悪い涙じゃなさそうだ。 部員たちは大いに喜んでいる。 俺の行動は正しかったのだろう。 しかし、これで良かったのだろうか?みんなが喜んでいる傍で俺は 一人不安になっていた。 骨を断って肉を切ったみたいな感じ? エリザからの仕返しが怖いです! 241 2章︳6話 今日の一限目は選択科目の医学の授業に来ている。 流石に、いつの時代も必要とされる知識だけあって履修者は多い。 で、俺はというと現在爽やかな笑顔を浮かべている男に捕まってい る。 ﹁ねえ、クルリ君。聞いたよ、エリザを怒らせたんだって?﹂ ﹁授業中なので静かにしてくれませんか﹂ 俺はレイルの言葉を聞いていないふりをして、授業道具を見やって いた。 一通りの医療器具が一人分ずつ支給されている。 教室には八角形のテーブルが並び、そこに4人ずつが立ち教官の話 を聞いていた。 ﹁エリザを怒らせるなんて流石だよね。王子のアークだってエリザ にはきつく言わないし。もちろん僕だってエリザは苦手だなー﹂ ﹁教官の話が耳に入らないから静かにしてください﹂ 教官の話を聞きたいのではなく、エリザの話を聞きたくない。 お腹が痛くなりそうだ。 注意が効いたのか、レイルの方からしばらく声が聞こえなくなった。 あきらめてくれたのか? そーと、横目で左隣のレイルを見た。 えっ!? 何故か笑顔でこちらを黙ってみている。笑顔なのになぜか笑ってい 242 るように見えない。 やっぱり、この人は不気味過ぎる! 教官の話が終わり、一人一人に実験用モルモットの死体が渡された。 今日はこれの解体をするらしい。 それぞれのやり方でいいらしいが、一応手順を記した医学書もある のでそれを参考にしてもよい。 実習が始まると同時に、レイルが自分の場所からするりとこちらに ズレて来た。 ﹁教官の話は済んだし、これでゆっくり話ができるね﹂ ﹁何を話すんですか?エリザの話は勘弁﹂ ﹁なんだ、残念。僕の中で最もしたい話なのに﹂ ﹁あの、手元が狂うといけないので出来れば一人で作業をしたいの ですが﹂ ﹁まぁまぁ、いいじゃない。僕、解体なんて初めてだから不安だし、 一緒にやろうよ。ね?﹂ ピカッとしたウインクが飛んできた。 俺だって初めてだ。 確かに、不安はある。周りもそうなのか、結構グループを作り作業 をしている。教官もそれを認めているかの、グループごとにアドバ イスをしている。 ﹁いいよ。じゃあ、おなじ手順で進もうか﹂ ﹁そうだね。まずはお腹を切り開くところからか。いきなりへヴィ ーだねー﹂ 二人でスーと医療用ナイフで腹を開いた。 243 ﹁うわっ﹂ 少し血が飛び、レイルは顔がひきつっていた。俺はあまり抵抗がな い。羊を経験したことのある男だ。 それに、内臓の仕組みが気になり、どちらかというとイケイケなテ ンションだ。 ﹁ここが心臓か﹂指で少し心臓を突っついてみた。 ﹁うわっ、クルリ君やめてよ。いきなり触るとか度胸ありすぎでし ょ。流石はエリザを怒らせた人だ﹂ エリザの話につなげるのやめて! 仕返しに内臓を一つ取り出し、レイルの顔にべちゃりと当てた。 ﹁うわっ、ひどいなぁもう﹂ 粘液が付いた顔を拭いながらも、その顔からは笑顔が消えない。M なのかもしれない。 ﹁クルリ君はどうして医学の授業に来たの?自分の領地があるのに、 医者にでもなるつもりかい?﹂ ﹁金になりそうだから﹂ ﹁お金?ははっ、やっぱりクルリ君は変わってるよね。興味が尽き ないよ。エリザ﹂ 言い終わる前に、内臓をもう一度顔に当てた。 わっぶっ、とか言いながらレイルはのけ反っていた。 ﹁僕は将来医者になりたいと思っているよ。クルリ君とは目的が違 うけど、一緒にこの授業履修しようよ。もっと話したいし﹂ 俺は話したくない。なんかこの人が苦手だ。 ﹁履修はしようと思ってる。話したいなら別に授業中じゃなくても 244 いいのでは?﹂ ﹁いつもはアークと一緒に居るから。彼、僕以外とはあまり仲良く したがらないから。わがままだよねー﹂ わがままって言っちゃった! 第一王子のこと、わがままって言っちゃった! 俺の顔を見て気づいたのか、﹁内緒ね﹂と一言呟いた。 ﹁そういえば、うちのわがまま王子だけどね、最近面白いことあっ たんだよ﹂ ﹁あんまり我がまま、我がまま言ってると、本人の前で出るんじゃ ないか?﹂ ﹁ああ、いつも言ってるから大丈夫﹂ 言ってるんかい!思わず突っ込みそうになってしまった。 ﹁クルリ君、アイリスって娘知ってるでしょ?﹂ ﹁うん、友達だ﹂ ﹁うちの王子様がどうやら彼女に興味があるみたいでさ。最近では 話をしたいがために一緒の選択科目をとってるらしいよ。王子様純 情すぎるよ﹂ そうか、そろそろだとは思っていたが順調そうでなによりだ。 ﹁今はまだ気になる程度の気持ちなんだろうけど、好きになったら 面倒くさそうだよね﹂ やれやれと言わんばかりに、手をあげている。 ﹁レイルは二人の会話には入らないのか?﹂ レイルだってアイリスの恋人候補の一人だ、全く傍観しているのも おかしな話だ。 ﹁だって、僕は今どちらかというとエリザとクルリ君の秘密の関係 245 が気になるのだから。王子なんて、もう10年一緒に居るんだよ? いまさら恋の一つや二つ、どうせいつものように最後は僕が尻拭い をするんだから、一人になれる今のうちに楽しんでおかなきゃ﹂ 彼も相当に苦労しているようだ。 だが、それと俺の傷口をえぐるのはまた別な話だ。 くらえ、内臓アタック!! ﹁クルリ君は容赦ないな。まぁそう言うところも好きなんだけどね﹂ ﹁えっ!?﹂ ﹁いや、そう言う意味ではないから﹂ ちゃんと俺の考えたことを理解してくれたようだ。 間違っても俺は男を好きにはならない。 ﹁クルリ君って見てると面白いんだよね。なんだか周りと全然違う んだもん。体つきとか貴族のそれじゃないよね﹂ ﹁バカにしてる?﹂ ﹁そうじゃないよ。僕は純粋に君が気になるんだ。だから、おっと この先はやめておこう。君の傷が癒えたらまた話すとしようか﹂ どうやらまたもエリザの話をしようとしたらしい。 やめたのは、賢明な判断だ。 ﹁さぁ、解体を済ませようか﹂ ﹁そうだね﹂俺の呼びかけにレイルが応えた。 二人でしばらく解体作業に集中した。 レイルは若干苦手そうな顔をしていたが、手際はよく綺麗に内臓を 全て取り出した。 ﹁レイルは医者の才能あるよ﹂ 246 動機が俺と違って、純粋な医者を目指しているだけはある。 ﹁そうかな。僕はどちらかというと、抵抗なく行えていたクルリ君 の方が才能あると思うけどな﹂ ﹁こんなのは慣れだ。やっぱり向いているのはレイルの方だと思う﹂ ﹁そうかもしれないね。でも、僕には一つだけ全くダメな部分があ るんだ。命を助けるために医学を学んでいるのに、僕たちはこうし て違う命を奪っている。なんだか、矛盾したことをしている気がし て上手く飲み込めないんだ﹂ ﹁そんなことを言ったらキリがない。家畜を食べている時点で人間 はあらゆる生物を犠牲にしている﹂ ﹁そうなんだけど、でも食べることは僕の中では納得できるんだ。 ありがたく命をいただいている気がして、そこは問題ないんだ。で も、今回のような解体なんかは、この子たちはこの後は廃棄だろう ?ちょっとそれは可哀そうだなって﹂ ﹁それもしょうがないと思うが﹂ ﹁そこなんだよ、それを割り切れる人間は医者に向いていて、割り 切れない人間は医者に向いていない、と僕は思う﹂ ﹁ふーん、そういうものなのか?﹂ なんだか、レイルが重く受け止めているので俺も少しだけ考えてみ た。 やはり、あまり彼が言うほどには深くは考えられなかった。 ﹁僕は致命的な欠陥があるんだよ。医者になりたいとは思うが﹂ ﹁徐々に慣らしていけばいい。そのうち割り切れるようになるさ、 それに医者にだって様々な種類があるし﹂ ﹁それもそうだね﹂ ﹁そうさ﹂ ﹁クルリ君の言う通りなのかもしれない。真面目に話を聞いてくれ 247 てありがとう。今朝まで、エリザとのことを茶化そうと思っていた 自分が愚かしいよ﹂ やっぱり茶化していただけだったか。 この借りはいつか返す! ﹁さぁ内臓を収めて、縫合をして授業を終えようか﹂ ﹁そうだね﹂ レイルはひきつった顔で、頑張って最後の作業に取り組んだ。 終わったあとに、ふーと大きく息を吐き出したあたり相当力んでや っていたようだ。 ﹁それにしても、今の医療器具は使いづらいね。斬るのも力がいる し、縫合だって楽じゃなかった。もっと、いい器具ができるのはま だまだ先の時代になるのだろうか﹂ ﹁それなら、俺が造ろうか?﹂ 大体の医療器具の作りは知っている。 実際俺も使いづらいと思っていたし、ちょうどいい機会だ。今度自 前の医療器具でも造ろう。 ﹁そんなことできるのかい?やっぱり変わってるよね﹂ ﹁どうも、じゃあ今度俺の部屋に来るといい。要望もあったら聞く から﹂ ﹁それは楽しみだね﹂ 二人で片づけを済ませ、ちょうどそのあたりで授業が終わりを迎え た。 生徒たちがぞろぞろ次の授業へ向かうなか、レイルは教官のもとへ 向かった。 248 ﹁この子を貰ってもいいですか?﹂ ﹁そんなものどうする﹂ レイルが手にしたのは先ほど解体して縫合を済ませたモルモットの 死体だ。 ﹁いえ、せっかく命を貰ったのですから、僕の手で埋めてあげよう と思っただけです﹂ ﹁好きにするといいよ﹂ レイルが教官の許可を得て、麻袋に死体を詰め込んだ。 ﹁俺に変な人とか言っていたが、レイルも十分変人だな﹂レイルに 近づき、その変わった行動に対して口をはさんだ。 ﹁そうかい?﹂ ﹁まぁ乗りかかった船だし、穴を掘るの手伝うよ﹂ ﹁それは助かる﹂ 放課後、二人で校門外まで来た。 広大な土地が広がっている。どこに埋めようとかまわないだろう。 二人ともそれぞれにスコップを持ち、いつでも作業に入れる体制だ。 人通りが少なく、日が良く差す場所を選び穴を掘り始めた。 ﹁割り切れるようになるまでは、僕はずっとこんなことを続けるか もしれない﹂ 穴を掘りながら、レイルがそんなことを言った。 ﹁それでもいいと思う﹂ ﹁・・・そうだね﹂ ザック、ザックとスコップが土を掘り起こす音だけがする。 ﹁そのたびに手伝ってくれるかい?﹂ 249 レイルが聞いてきた。 ﹁ああ、いいとも﹂ ふふ、とレイルが笑った。 麻袋に入ったモルモットを穴に埋め、作業を終えた。 ﹁じゃあ帰ろうか﹂レイルが言って、その場を去ろうとする。 ﹁いや、ちょっと待ってくれ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁少しやりたいことがある﹂ 魔法書3の応用編。新たなる生命の誕生を使おうと思ったのだ。 魔力を土に落とし入れ、﹁目を開けよ﹂そっと言葉を添えた。 土がゆっくりと盛り上がり、出てきたのは青々とした花の苗だった。 なんの花かはわからないが、確かに新しい命は誕生してくれた。 ﹁ステキな魔法だね﹂ レイルが優しく微笑んだ。 250 2章︳7話 ﹁師匠、選択科目は決まりそうですか?﹂ 本日は週末で学園が休日であり、それ故というのもおかしな話だが クロッシが部屋に来ていた。 ﹁んー、薬草学、医学は決定として、あと2科目は決めかねている﹂ ﹁そうですか。私も武術、帝王学は決めたのですが、他がまだ決め かねていて﹂ なぜそれを選んだというちょっと気になる選択科目があったが、突 っ込まないでおこう。 それよりも今は他に気になることがある。鉄を打ちながら、肩越し に聞いてみた。 ﹁それよりも、今日はヴァインとは一緒じゃないのか?﹂ ﹁ええ、今日は一週間に一度の休日だとかで、体を休ませるように 言われています。それにしても、あいつめ私を置いてこっそりどこ へ行ったのやら、許さん!﹂ ﹁ヴァインだってプライベートがあるし、許してあげてよ﹂ ﹁師匠が言うならしょうがないですね﹂ ぷーっと顔を膨らませたあたり、許していないことがうかがえる。 随分と仲がよさそうで結構なことだ。 ﹁それにしても暇ですね、なにします?師匠﹂ いえ、俺は暇ではありません。 選択科目の資料にも目を通したいし、魔法書3を読破したので魔法 書4にも目を通したい。 それに、俺にだってプライベートはあるはずだ!決して暇ではない。 251 ﹁俺は暇ではないのだが、そうだなこっそりどこかへ行ったという ヴァインでも探しに行くか?﹂ ﹁あ!いいですね!行きましょう、師匠!﹂ やけに目が輝いているな。実に仲が良くてほほえましい。 ヴァインにはちょっと悪い気もするが、大事な弟子が暇をしている のだ。 餌になってくれ。それに俺も少しだけ、好奇心が沸いていた。あの ヴァインがこっそりとどこかへ?これは気になる! 暇を持て余すと人間ろくなことをしないと言うが、俺たちもまたそ の類の連中らしい。 ﹁じゃあ行くか﹂ ﹁はい!﹂ 人探しは、まずは聞き込みからだ。まずは酒場と相場は決まってい るが、そんなところはない。代わりに食堂だな。ヴァインの場合体 が大きいから目立つだろう。 きっと何人かは見ているはずだ。 食堂へ趣、二人組の女性を見つけて声をかけた。 ﹁すみません、ヴァインという人を見ていませんか?﹂ ﹁ヴァインってあの大きな人ですよね?寮から出てどこかへ行った のは見たのですが、その後は・・・﹂ ﹁そうですか。ありがとうございました﹂ 二人にお礼を言い、食堂を後にした。 ﹁寮からは出ていることは確実だな。さて、次はどこをあたろう﹂ ﹁あいつは基本体を鍛えることしか考えていませんからね、もしか したら運動場にいるのではないでしょうか﹂ 252 ﹁よし、行こうか﹂ 運動場に行くと、運動している団体が何組かあった。 まだ準備運動している女性を一人捕まえて、ヴァインについて聞い てみた。 ﹁ああ、今朝いましたよ。何か邪念を払え!だの言って走ってた気 がしますが﹂ ﹁それで、その後はどちらに?﹂ ﹁うーん、わからないですけど。シャワーを浴びていたのは見たの ですが、その後のことはわかりません﹂ ﹁ありがとう。これから運動するんだろう?頑張って﹂ ﹁はい、クルリさんも﹂ 女性に挨拶を済ませ、運動場を後にした。 ﹁既に来た後でしたか﹂ クロッシが顎のあたりに手を当て、次の探し場所を検討しているの がうかがえる。 ﹁もしかしたら、学園の外に行ったのかもしれないな﹂ ﹁学園の外へ行くとしたら普通徒歩じゃ行きませんから、馬小屋に 貸し出し記録があるかどうか確認しませんか?﹂ ﹁そうだね﹂ それで記録があったらどうするんだ?追うのか?という気持ちはあ ったが、なんだか楽しくなってきたので余計なことを考えるのはや めにした。 ﹁ヴァインね。ちょっと待ってよ。今日の記録を見てみるから﹂ 馬小屋に着き、俺たちの出した要求をすぐさま係員が実行に移して くれた。 貸し出し名簿を取り出し、今日の日付のページを開いている。 指でなぞり、一つ一つ丁寧に見ているようだ。 253 ﹁ヴァインという生徒は来ていないな。でも、ヴァインって言った らあの大きな子だろう?さっき見た気もするな﹂ ﹁本当ですか?どちらに行きましたか?﹂ ﹁確か、噴水がどうたら言ってたが、なんだか迷っている様子だっ たね﹂ ﹁そうですか。ありがとうございます﹂ 係りの人に頭を下げ、二人で歩きだした。 ﹁ここもいまいち情報はありませんでしたね﹂クロッシが残念そう につぶやく。 ﹁いいや、この学園で噴水と言うと一つしかない。場所を知ってい るから、行ってみようか﹂ クロッシの背中を軽くポンと叩いた。 ﹁流石です、師匠﹂ そう言って、張り切って歩き出したのだが・・・。 以前行った筈の噴水だったが、どうも学園の土地が広くいまいち道 を思い出せない。 クロッシに褒められた手前、実は道が・・・なんてのは恥ずかしす ぎる。 気づくと謎のバラ園についていた。 自分たちが今学校のどこにいるのかもあまりわからなくなってきた。 ﹁師匠・・・﹂ ﹁・・・﹂ 後ろにいるクロッシの顔が見れない。 どうしよう。 254 ﹁クルリ?﹂ 不意に咲き乱れるバラの向こうから聞き覚えのある声がした。 目の前に咲き乱れるバラをよけるように右から周り、視界が開けた ところでアイリスに出会った。 ﹁アイリス、よかったーここがどこだかわからなくなって困ってた んだ﹂ ﹁そう、じゃあ一緒にわかる道まで案内しようか?﹂ ﹁助かるよ・・・﹂ 言葉を遮られたのは、鋭い視線に気が付いたからだ。 アイリスの隣に不機嫌そうに立つ男からの視線。第一王子のアーク だった。 二人での楽しい時間に、邪魔者が入りご立腹と言ったところだろう か。 嫌なタイミングで遭遇してしまった。 ﹁でも、二人でバラを見ていたんだろう?悪いから、自分たちで道 を探すよ﹂ ﹁いいの、バラなんていつでも見れるのだから。クルリが困ってい るのにほおってなんか置けないよ﹂ ﹁いや、でもほらっ﹂アイリスだけに見えるように、後ろにいるア ークをさし示した。 ﹁ああ、別にいいのよ。なんでもない、ただの散歩中だから﹂ アイリスの言葉を全て聞いていたのだろう。 アークがガクリとうなだれたのが見えた。 おそらく、﹁なんでもない﹂の辺りが効いたのだろう。 それと同時に俺の方を鋭くにらみつけるのを確認した。 ﹁・・・じゃ、じゃあお願いしようかな﹂ 255 ﹁うん﹂ 先導するアイリスに俺とクロッシが続く。その後ろを王子のアーク がついてきている。 クロッシはアークのことが気になるのか、嫌に俺にべったりとくっ ついている。離れたら食べらると言わんばかりの勢いだ。 アイリスが、クロッシを呼び二人で何をしていたの?と聞いた。 クロッシが隣に行き、なんとなーくヴァインのことを話しながらも 追跡していることを悟られない程度に上手に情報を小出しした。 二人の会話に聞き耳立てていたせいか、後ろからやってくる存在に 全く気が付かなかった。 気が付いたのは、﹁お前がクルリだったか。顔を覚えたぞ﹂という ホラー映画並みの怖いセリフを聞いた後だった。 王子が横に並び、じっとこっちを見てくる。 アイリスとはどういう関係だ?と聞きたいのだろう。顔に全て出て いる。 俺だって王子と敵対はしたくないが、今は何を言っても疑われる気 がする。 ここはあえて何も気づいていないふりをしよう。 ﹁ヴァインだったら、さっき案内したばっかりだよ。噴水を探して いるだとかで﹂ ﹁ええ!?ヴァインがここに来たのですか?﹂ ﹁うん。案内してあげて、バラ園に戻ったら今度はクルリ達に出会 ったの﹂ ﹁アイリスさん、噴水はどちらに?﹂ ﹁案内するから、ついてきて﹂ 256 アイリスの案内通りに進み、あとはここをまっすぐ進めば着くから、 という説明を受けクロッシと共に噴水に向かった。 アイリスは最後まで案内すると言っていたが、断っておいた。 エリザに続き、今度は王子の怒りを買うなんて日が来たら、我が領 も我が人生も終わりな気がする。 彼女と彼にはなるべく関わらないのがいいというのが、最近の結論 である。 ﹁噴水が見えてきました﹂ しばらく歩き、クロッシが伝えてきた。 先日見た巨大な噴水が、目の前にはあった。 ﹁師匠、隠れてください﹂ クロッシの言葉に素直に従い、二人で茂みに身を隠した。 どういうことだ、と言う前に俺にも状況が理解できた。 視線の先に、水を高く吹き上げる噴水が一つ。 熱く見つめ合う、男女が一組。 ﹁し、師匠これって﹂ ﹁ああ、間違いない﹂ 間違いなく、告白だ! 学園が始まってまだ一週間だというのに、もう恋愛だなんて最近の 若者は盛んですな!! なんておっさん臭いことを考えていると、女性の方が話し始めた。 ﹁ヴァインさん﹂ 女性の声は若干震えていた。 顔を見ると結構な美人だった。ヴァインの方はいたって平常な顔を している。 257 ﹁あの娘、私と同じC組の人ですよ﹂ クロッシから小声で言われて、気が付いた。 確かに見たことのある顔だった。 ﹁今日はわざわざ来ていただいてありがとうございました﹂ 女性は一歩前に歩き出し、ヴァインと目を合わせた。 ﹁し、師匠。私なんだか顔が熱くなってきました﹂ ﹁俺もだ、クロッシ﹂ 俺が乙女なら、キャーとか叫びだしそうだ。 ﹁要件を簡潔に言え﹂ ヴァインの雑な言葉が相手の女性に投げつけられた。 もうちょっと他に言葉はないのか!見るとクロッシも同じようなこ とを思っているのだろう。若干苛立っていた。 ﹁師匠、あいつバカですけど、大丈夫ですかね﹂ ﹁わからん。とりあえず様子を見よう﹂ 二人とも若干興奮気味で声が少し大きくなっていた。 茂みがなんだか、すごく邪魔に思える。 退いてくれ、よく見えないだろ!茂み!! ﹁あ、あの、私・・・﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁その、一目見た時から・・・ヴァインさんのことが﹂ ﹁俺のことがどうした﹂ 女性は唇が震えてなかなか声が出てこない様子だ。 そう急かすな!言えるものも言えなくなる! 258 いつも間にか女性の肩を持っている自分に気が付いた。 ﹁が、頑張れ!﹂隣でクロッシも顔を赤くしながら応援している。 これ以上声が大きくなるとまずいな。 ﹁私、一目見た時からヴァインさんのこと好きになりました!﹂ 勇気を振り絞り、声を張り上げて女性が放った告白の言葉だ。 クロッシが卒倒しそうになっている。 やばい、俺も血管がドクンドクンしている。音が漏れ出しそうだ。 ﹁・・・そうか﹂ 表情を変えずに、ヴァインが応えた。 女性を含め、俺もクロッシも、次の言葉を待ったが何もなかった。 言えよ!もっと何か言えよ! ﹁その、付き合っていただけませんか?﹂焦れたように女性が次の 言葉を発した。 ﹁ダメだ﹂ 勇気を振り出した女性をヴァインが冷たく切り捨てた。 ﹁私じゃダメでしょうか﹂ ﹁ああ、全然ダメだな﹂ もっと優しい言葉はないのか!?と突っ込みたくなるような棒読み だ。それに、全然ダメってことはないだろ!結構な美人だ。 ﹁師匠、あいつぶん殴ってきていいでしょうか?﹂ ﹁いい!俺が許す!でも、今は待て相手の女性がまだいる﹂ ﹁理由を聞かせてください。でないと、私あきらめきれません﹂ 259 ﹁理由か﹂ ヴァインが一つうなずいて、話し始めた。 ﹁友がいる。そいつらのおかげで学園生活が楽しくてな。今はそれ だけで手一杯なんだ﹂ ﹁・・・わかりました。今日は来てくれてありがとうございました﹂ 女性は消え入りそうな声で、別れを告げ、足早にその場を去った。 ﹁師匠、友達とは我々のことでしょうか﹂ ﹁たぶんな﹂ ﹁じゃあ、殴るの勘弁してあげましょうか﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁師匠、あいつバカですね﹂ ﹁ああ、そうだな﹂ 260 261 2章︳8話 今日は運動場で魔法学の授業が行われるので、朝からヴァインと二 人で運動場にやって来ている。 といっても、授業にはまだ時間があり、要するに朝のトレーニング に付き合ってくれとのことだ。 平日の朝はクロッシに構ってやる時間はあまりとれないのだろう、 それで俺を捕まえてはこうやって二人で運動している。 まずは背中を合わせて、両手を頭の上でつなぎ、相手を引っ張り伸 びをする。 ﹁うううっ﹂ 全身が伸びて気持ちいい。朝の眠気も吹き飛びそうだ。朝日が目に 入るこの角度もいい。 ﹁うううっ﹂ 今度はヴァインを乗せる番だ。でかい、重い、腰が折れそうだ。 ﹁昨日の夜、実家から持って来ている魔法書を読んだんだけど全く 意味が分からなかった﹂ ストレッチを続けながら背中越しのヴァインと話した。 ﹁そうか。クルリは勉強熱心だな﹂ ﹁ヴァインは何してた?﹂ ﹁ふん!﹂体が伸びて息が漏れたヴァインだったが、話を続けた。 ﹁昨日か、剣を振ってたな﹂ ﹁剣か、そっちこそ真面目だな﹂ 俺の返答が済むと、ヴァインは動きを止め話すこともなくただその 場に立ち尽くした。 262 次は俺が伸びる番だったので、少し不満げにヴァインの方に首を向 けた。 ﹁あっ﹂ 俺から見て左側。ヴァインから見て右側。 ・・・猫がいた。 人間サイズの猫だ。 ライオン!?いや、猫だ。ヴァインが固まったのはこれのせいか。 顔はふてぶてしいタイプの猫ではなく、目がくりくりしたかわいい タイプの猫だ。 どこか子猫の雰囲気もある。 子猫なのに、でかい。猫なのに、人サイズ。巨大毛玉だ。 ﹁おはようニャ﹂ しかも喋る。 うける∼。 ﹁でさ、今週末クロッシと三人でどこか行かない?﹂ ﹁おい、無視するニャ﹂ ﹁ああ、いいと思う﹂ ﹁お前も無視するニャ、でかいの﹂ でかいのはお前・・・言いたかったがなんか言ってはいけない気が した。 夢!? ﹁ヴァイン俺をつねってくれ﹂ ﹁夢じゃないニャ﹂ 俺とヴァインは手を放し、お互いに向かい合い目の前の現実を直視 した。 263 ﹁あの、だれですか?﹂ いや、なにですか? ﹁魔法学の教師ニャ﹂ ﹁そうですか・・・、なぜ猫なのですか?﹂ ヴァインが、おい!それいきなり聞くのか!?という目線を投げか けてくる。 ﹁アタイからしたら、なぜお前たちは人間なのですか?ニャ﹂ ヴァインの耳元により、小さい声で訴えた。 ﹁やばいだろあれ﹂ ﹁ああやばい﹂返事も小声で帰ってきた。 ﹁やばくないニャ。アタイはただの教師ニャ﹂ 平然としたかわいい顔で言うので、なんだか本当なのか?という気 持ちが少し湧いてきた。 ﹁先生の名前は何でしょうか?﹂ 恐る恐る聞いてみた。 ﹁猫に名前はないニャ。常識にゃ。お前何人にゃ?﹂ あ、なんかすんません。 ﹁せ、せんせい﹂ 今度はヴァインが勇気を振り絞って手をあげた。 ﹁なにニャ﹂ ﹁先生はオスなのでしょうか、メスなのでしょうか﹂ ﹁女ニャ、失礼なやつだニャ﹂ あ、なんかすんません。と、ヴァインは思ったに違いない。 264 ﹁それにしても、でかい方!お前はダメニャ。体はでかいのに、魔 力はちょろちょろ漏れる程度しかないニャ﹂ やれやれとため息をつき、今度は俺に向きかえって肩に手を乗せて きた。 肉球やわらけー! ﹁それに比べてこっちのはいいニャ!体は細いが、魔力がドッピュ ドッピュあふれてくるニャ。すごいニャ﹂ 褒められたのは嬉しいが、その表現やめて! ﹁お前みたいな優秀な生徒は久しぶりニャ。名前はなにニャ﹂ ﹁クルリです﹂ ﹁クルリ坊やニャ。覚えたニャ。でかいのは?﹂ ﹁ヴァインです﹂ ﹁ヴァイン坊やニャ。覚えたニャ﹂ ヴァインも肩に手を置かれて、一瞬ゾッとしていた。 なんだ!?この生物と思っているに違いない。いや、俺が思ってい る! ﹁ね、猫先生!﹂ ﹁何にゃ、クルリ坊や﹂ ﹁猫先生は魔法学の先生ですよね!?魔法は使えるのでしょうか?﹂ ﹁当たり前ニャ﹂ 言い終わると同時に、猫先生は土魔法を発動して、土で自分の像を 一つ作り上げた。 若干足が長く、目が鋭いが、気にしないでおこう。 ﹁どうニャ?﹂ ヴァインの耳元に近づき、小声で話した。 ﹁本物?﹂ 265 ﹁みたいだ﹂ ﹁最初から言ってるニャ﹂ ﹁質問!猫先生は一日どれくらい寝るのでしょうか?﹂ ﹁14時間ニャ﹂ あ、やっぱ猫だ。 ﹁あれ、猫だよ﹂小声でヴァインに話した。 ﹁でもでかいぞ﹂ ﹁もういいニャ。授業にはまだ早いからお前たちの魔法を先に見て やるにゃ。センスあるなら研究会に入れて魔法伝授するニャ﹂ ほれほれと、急かされるまままずはヴァインが魔法を使った。 魔力を出し、性質変化を加えて炎をその手のひらで燃え上がらせた。 ﹁ダメニャ、普通ニャ。次はクルリ坊やニャ﹂ 猫にダメ出しされたヴァインはガクリとうなだれて座り込んだ。 ドンマイ。 俺の番が来て、何をしようかと考えたがいいものも思いつかなかっ たので、猫先生の実際の同寸の像を作り上げた。これは物質変化と、 形態維持の応用で作ることが可能だ。 以前にマスターしている。 ﹁うん、芸術センスはいまいちニャ。美が足りないニャ。でも魔法 は一級品ニャ。合格ニャ﹂ ﹁どうも﹂ ﹁とりあえず作り直しニャ﹂ 266 この後手取り足取り指示されて、理想の猫先生の像を作り上げた。 足が短いニャ、何を見ているのかとか言われた。 ﹁猫先生、一体何の魔法を教えてくださるのですか?﹂ ﹁ヒミツにゃ。今は部外者のヴァイン坊やがいるニャ﹂ ヴァインは別に興味ないと言った表情をしているが、これはもしや 期待してもいいのか? 我が家にあったクリス・ヘラン著の魔法書は魔法の全てを記したわ けではない。 独自の魔法もあるし、世に出回っている特異な魔法は当然載ってい ない。 ﹁期待していいニャ﹂ 俺の考えを読んだかのように猫先生が答えた。 ﹁研究会は不定期ニャ。アタイは気まぐれニャ﹂ ねこじゃん! ﹁差し入れは、肉系がいいニャ。塩はダメニャ﹂ ねこじゃん!! ﹁アタイを触るのはダメニャ。セクハラニャ。触ってもいいのは顎 下だけニャ﹂ 女・・・ねこじゃん! 猫先生とヴァインとグダグダやっていると、他の生徒もぞろぞろ来 だした。 みんな、猫!でかい!とか反応している。 もうやったから!!それ一通りやったから!! 267 生徒が全員集まり、ようやく落ち着きが戻って授業は始まった。 ﹁魔力を出すニャ。今日は性質変化の練習ニャ。イメージしやすい 性質に変化させるニャ﹂ 俺は炎をボッと手のひらに出す。 このくらいは簡単だ。 後はどれくらいの量を出せるか試してみよう。 難無く魔法を出せるのはクラスで全体の3分の1といったところだ ろうか。Aクラスでこれなのだ。他クラスは苦労するだろうな。 辺りを見ると、王子や、レイルは難無く発動していた。 ヴァインは相変わらず量が少ないとかで、猫先生から﹁それじゃあ ちょろちょろ漏れ出しているみたいニャ﹂とダメ出しをくらってい る。 ﹁君は筋がいいニャ。君もニャ﹂ 猫先生が足を止めたのは、エリザとアイリスの前だった。 エリザとはあの件以来、会うと睨まれていたが今日は不思議と機嫌 が良かった。 鋭い氷を地面に発生させていた。 アイリスの性質変化も上々で、きれいな水を出していた。 最近は王子との関係がちらほら聞こえ出してきているが、まだまだ 発展するのは先だろう。 エリザという巨大な障害を乗り越えて二人の愛は高まるのだが、あ いにくエリザは現在俺の前に立ちふさがっている。 エリザよ、ちゃんと自分の仕事をしないか。 いや、やっぱりしなくて良い!俺にカモーン! 268 ﹁よう、クルリ﹂ ふてぶてしく、近づいてきたのは第一王子のアークだった。 先日のデート邪魔したお返しに来たのか。 小さい男め! ﹁お前も魔法が得意なようだな。でも、俺の方が上だぜ?何なら今 度対決したっていい﹂ ﹁やめなよアーク。クルリ君が困っているじゃないか。ごめんねう ちの王子が変なことを言って﹂ 第一王子はレイルに引っ張られて、元の位置に戻った。 ヒュー! なんか、かっこつけてみた。 猫先生は一人ひとりにアドバイスを送って回っている。 見た目とは違い意外と親身で真面目な先生だ。 ﹁ダメニャ、もっと腰に力を入れるニャ﹂ ﹁ムラムラが足りないニャ。そんなんじゃ出ないニャ﹂ ﹁何歳ニャ!?枯れるには早いニャ!﹂ ・・・真面目な先生だと思う。きっと。 269 270 2章︳9話 教室の扉を開くと、裸の女性がそこに寝ていた。 窓の外から指す日を体に浴びて、つやのある体が輝いていた。 大きく魅力的な瞳を閉じて、すやすやと寝息を立てている。 丸々としたお尻をつきだし、大事な部分も全てさらけ出していた。 ・・・まぁ、猫先生だけど。 ﹁先生、来ましたよ﹂ 寝転がっている猫先生を揺さぶる。おふっ、もっと、とか寝ながら 言ってる。 なんなんだ、呼んでおいてこれはない。 ﹁先生、起きてください。クルリ・ヘランです﹂ ﹁・・・んあ、ああ、クルリ坊やニャ。よく来たニャ﹂ ﹁呼ばれたので来ましたよ。何か用ですか?﹂ ﹁魔法研究の件ニャ。もう一人呼んでいるから待つニャ﹂ ﹁もう一人?﹂ ﹁そうニャ。アーク坊やニャ。二人は出来がいいから特別に研究に 誘ったニャ﹂ うっ。ナンバーワン関わりたくない人物と一緒か。 よりにもよって、第一王子と一緒になるとは。 彼にかかわるとろくなことがなさそうで、怖いな。 まぁ、でも魔法を教えてもらえるし、差し引きゼロってとこかな。 ﹁待ってる間に腰をもむニャ。なんだか腰に疲れがたまってるニャ﹂ ﹁仕方ありませんね﹂ 271 猫先生の隣に座り、腰に手を当てしっかりと揉んだ。 ﹁あ、あはん﹂ ﹁・・・やめてもらえます?その声﹂ ﹁気にしないで欲しいニャ。ささ、続けてニャ﹂ その後もあは、うふ、などいやらしい声を出していた。 ﹁来たぞ。猫﹂ ふてぶてしくドアを開けたのは第一王子のアークだった。 相変わらず俺を若干敵対視している。けれど来てくれて良かったよ。 これ以上猫先生と同じ空間に二人でいたくない。 ﹁ほう、お前もいたかクルリ﹂ ﹁やぁ、王子﹂笑顔で、あくまで俺は気にしていないそぶりだ。 それにしても、王子は近くで見ていると顔が整っていて見る分には 不快ではない。 でも、彼の機嫌を損ねると俺の人生に響くと思うと、考えなしに顔 を見ているわけにもいかない。 ﹁二人とも揃ったから始めるニャ﹂ ﹁お願いします﹂ ﹁アタイの独自の魔法、﹃変身﹄を教えるニャ。これが使えれば自 由自在に他の生物に変身できるニャ。便利だニャ。毎年4,5人捕 まえて教えてるけど、まだ誰も会得できていないニャ﹂ ﹁先生はそれで猫の姿なのですか?﹂ ﹁違うニャ。アタイはもともとこれニャ﹂ あ、そうですか。 ﹁まずは魔力で体を覆って、着ぐるみを着ているような感覚を味わ うニャ﹂ 言われるままに素直に先生の真似をしてみた。 272 魔力で体を覆い、ぬいぐるみの中に入るイメージをする。 おっ、なんだか体があったかい気がする。 ﹁いいニャ、クルリ坊やは筋がいいニャ﹂ 一方で王子は苦戦しているようだ。 ﹁違うニャ。アタイの真似をするニャ﹂ ﹁くそっ、あいつにできて俺にできない訳がない﹂ やけに俺を意識している。困るな。 ﹁もっと出すニャ。足りないニャ。若いからどんどん出しても問題 ないニャ﹂ 猫先生の適切?な指示でアークも要領をつかめたようだ。 最初から素直に真似してればよかったものを。変に自分の色を出す から苦労するのだ。 ﹁ふー、追いついたぞクルリ﹂ そうはいかない、俺だって黙って待ってたわけじゃない。 何度も一から繰り返して、王子よりもさらに要領をつかんでいる。 ﹁じゃあ次は手だけを変化させるニャ。包んでいる魔力をそのまま 使うニャ。二人とも物質変化、魔力維持ができるからできるはずニ ャ。変化させるものはなんでもいいニャ。イメージしづらいならア タイの手をイメージするニャ﹂ まずは猫先生がお手本を見せてくれた。 猫先生の手が瞬く間に人間のそれになった。 王子と二人して﹁﹁おお﹂﹂なんて言ってしまった。 ﹁ちょっと難しくなるから無理しなくていいニャ。この腕は美しく 273 ないから戻るニャ﹂ 猫先生の手が今度はスルスルと元の毛玉に戻った。肉球はかわいい けど、美しくはなくね?猫先生の美意識はよくわからない。 猫先生のやり方をしっかり確認し、真似てみた。 なんとなーく、手が変わるがすぐにもとに戻ってしまう。 確かにこれは難しい。 ﹁クルリ坊やは魔力が出すぎニャ。君は集中してるとその傾向があ るニャ。若いからいっぱい出るのはしょうがないけど、あまり興奮 するニャ﹂ ﹁・・・そうですか﹂いやらしく聞こえるのは俺に邪念があるから だろうか。 できないことは繰り返しだ。 夜までやっていいとのことなので、地道に繰り返した。 王子も集中している。 日が暮れ始めたころだろうか。 ﹁おおっ!﹂ちょっと前までに、既にはっきりと変化させることは 出来ていたが、自然と力を抜いても元の人間の手には戻らない。成 功か!? ﹁猫先生﹂自分の成果を見せるように手をあげた。 ﹁すごいニャ。もうできるなんてクルリ坊やは天才ニャ﹂ 体のほとんどを夕日に当たりながら、ごろ寝状態で猫先生が答えた。 ﹁はは、やった成功なのですね?﹂ ﹁成功ニャ。次の段階はまた今度ニャ。帰ってシコシコ寝るニャ﹂ ﹁ありがとうございます!!﹂ えっ、シコシコ寝る? 274 魔法を解いて元の手に戻した。なんだか不思議な感覚だ。 ﹁お疲れさまでした、猫先生﹂ ﹁お疲れニャ﹂ ﹁まて!﹂ 帰ろうとしたとき、大きな声が教室に響き、王子のアークが鋭くこ っちを睨んでいた。 めんどくさいのに捕まってしまった。 ﹁なに?﹂ ﹁おい、・・・コツを教えろ﹂ なるほど。俺が先にできたのも悔しいらしいが、それよりはできな いことの方が悔しいらしい。 どうしようかなー。なんて。 ﹁いいよ﹂ 猫先生はもうだらけているので、俺が教えてあげよう。 とりあえず猫先生の指示通りと、俺の感覚を伝えてみた。 ﹁わからん!﹂ そんなこと言われても困る。 ﹁根気よく行こう﹂笑顔で返した。 結局夜まで付き合わされたが、王子はできなかった。 ﹁悪くないニャ。でも、良くもないニャ。王子のくせに普通だニャ﹂ という猫先生からの最後の言葉で王子は余計に落ち込んだ。 ﹁ちょっと飯に付き合え﹂ そんな流れで王子に捕まり、今は二人で食堂に来ている。八つ当た りでも食らうのだろうか。 ﹁お前の方が現時点では優れているが、最後は俺が追い抜く﹂ 275 ﹁はいはい、そうですね﹂ もう疲れていちいち相手するのがめんどくさい。 ﹁ところで、アイリスとはどういう関係だ?﹂ 今それ聞くか。それが原因でできなかったんじゃないか?と思って しまう。 どうしようか。教えようか、それとも意地悪してやろうか。 ﹁まぁ友達ではあります﹂ ﹁なんだ、それだけか?﹂ ﹁さあ。向こうがどう思ってるかは知りませんけど﹂ ﹁なんだと!?おい、どういうことだ!﹂ あまりに必死な形相で詰め寄ってくるので、飲みかけの水をちょっ とだけ吹いてしまった。 ﹁冗談、冗談ですよ﹂ ﹁本当か?﹂ ﹁本当にただの友達﹂一緒に5日間ほど寝泊まりしたがな!これは 言わないでおこう。 逆鱗には触れたくない。 ﹁たっく、レイルのやつがお前のこと褒めてるからどんな奴かと思 っていたが、普通だ!お前なんか普通だ!!﹂ もう、めんどくさい。 王子ってこんなめんどくさいやつだったっけ? アイリスをエリザの毒牙からかっこよく守る白馬の王子様的イメー ジが強いだけに、なんか今の王子はダサい。 ラーサーはあんなにもいいやつなのに。 ﹁普通で結構﹂ 小声で少しだけ反撃して、食事を済ませた。 276 ﹁では王子、私はもう部屋に帰ります﹂軽く挨拶を済ませ、背を向 けた。 バスッと肩に、力強い手が乗った。 振り向きたくないが、一応振り向いた。 ﹁まて、すぐには寝ないのだろう?特訓に付き合え﹂ ﹁嫌ですよ。私にだってやりたいことがあります﹂ ﹁やりたいこと?なんだそれは﹂ ﹁鍛冶作業でまだやり途中の物があります。今日中に済ませたいの で﹂これは嘘だ。一刻も早くここから抜け出したいだけの言い訳だ。 ﹁何を造っている﹂ ﹁剣を打っています。と言う訳なので、これで﹂ ﹁待て、王都にある俺の名剣コレクションを一本やるから付き合え !﹂ 名剣コレクション!? ・・・おいくら?? ﹁それは本当に名剣なのでしょうか。見ていない私には信用できる 話ではないですね﹂ ﹁どれも天才と呼ばる鍛冶師達が造りあげた名剣だ。市場に出回れ ば最低でも庶民が一生遊んで暮らせるような額で売れるだろう﹂ ﹁しょうがないですね。剣はそれほど興味ないですけど、王子にこ こまで頼まれて断るわけにもいきませんから﹂ 是非、やらせてください!!お願い申し上げます! ﹁おっ話の分かる奴じゃないか、クルリ・ヘラン。じゃあ早速お前 の部屋に行くぞ﹂ ﹁いいですよ﹂ えっ、なんで俺の部屋? 二人で食堂を後にして、部屋へ向かう道すがら聞いてみた。 277 ﹁ところで、どの剣を、いつ貰えるのでしょうか。言っておきます けど、貰ったものは返しませんよ?所有権は私に移りますから。誓 約書なども欲しいですね。ちなみに、それらの剣はどれくらい保存 が効くのでしょうか?できれば値の下がらない物をいただきたいの ですが﹂ ﹁おい、急に饒舌になったな。さっき興味ないとか言ってただろ﹂ ﹁いえ、約束は守ってもらいますよっていう話です﹂ ﹁わかったわかった。そのうちラーサーにでも届けさせるさ。あい つと仲いいんだろ?﹂ ﹁ラーサー様は素晴らしい人物です。彼が国王になることを私は望 んでいます﹂ ﹁おい﹂ 若干機嫌の悪さを感じ取ったので、これ以上からかうのは止めにし た。 さっさと魔法を仕込んで、休みたいものだ。 部屋に戻ると、ヴァインとクロッシが筋トレをしていた。 ﹁体幹を鍛えるのはきついが、動きのバランスが良くなる。辛いが、 もう一セット俺について来れるか?﹂ ﹁私が貴様に遅れをとるはずもない!あと3セットは行ける!﹂ ﹁よし、じゃああと3セットだ﹂ ﹁ヒイイイイイィ﹂ なんだか楽しそうだな。自分たちの部屋でやれば? ﹁おい、ここはお前の部屋じゃないのか?﹂ ﹁まぁ気にしないで。ちょっと雑音があったほうが集中できるしさ﹂ ﹁いや、蒸してるぞこの部屋。何時間いるんだ?あの二人﹂ それを俺に聞かれても困る。俺が聞きたいことなのだから。 278 ﹁じゃあ、もう一度猫先生のやり方と、俺の感覚を伝えるから。よ く聞いててくださいよ﹂ ﹁わかった、さぁこい!﹂ 結局今日は深夜までやり続けた。 もう駄目だろ。とか、何回思っただろうか。でも帰らないんだよこ の人。 ヴァイン達もなんだか熱くなってきて、じゃあ俺たちも魔力を高め る練習でもするか、と入り浸っている。 俺だけがこの空気に乗り遅れていた。 そんな時ドアが少し荒くノックされた。 誰だ、こんな時間に。非常識なやつだ。 ドアを開けると、全く知らない男が目の前に立っていた。 ﹁あんたの部屋うるさいんだよ!何時だと思ってんだ、非常識だろ !﹂ うっ、確かに!非常識なのこっちでした! ﹁それにな、今日だけじゃないんだよ。俺あんたの上の部屋だけど さ、いつもカンカンうるさいし、男と女が庭で叫んでたりもするだ ろ。迷惑なんだよ!!﹂ すみません!ただ、男と女が叫んでいるのは俺ではありません! ﹁どうした?何かあったか?﹂ ちょっと揉めている間に、王子のアークが近くまで来ていた。 ﹁王子!?なんでこんなとこに﹂ 文句を言いに来た生徒は完全に困惑していた。 279 ﹁なんでって、お前に関係あるのかよ﹂ ﹁いえ、ありません﹂ ﹁だったら帰れ。それとも他に用でも?﹂ ﹁い、いいえ。よい眠りを、では﹂ 申しわけねーーーー!!!! 100歩譲ってもこっちが悪いのに、権力でねじ伏せたよ!後日手 土産でも持っていくとしよう。 ﹁たっく、じゃあ仕切りなおすか﹂ そう言って始めた王子だが、ものの見事に再開一発目で成功した。 ﹁﹁おおっ﹂﹂二階の住民に感謝です!! ﹁できたじゃないですか!﹂ ﹁できた!できたぞ!﹂気づけば二人で抱き合って喜んでいた。 興奮が収まると、手を放し冷静にスーと離れた。 ﹁じゃあもう一度うまくいたら今日は終わりにしよう﹂ いや、もう帰れや!! 280 281 2章︳10話 ﹁クルリ﹂ 放課後、薬草学の教室に行く際にかわいらしい声で呼び止められた。 振り向けば、アイリスが立っており、手を振っている。 ﹁どこ行くの?﹂ ﹁ああ、薬草学の教室に﹂ ﹁へー、私薬草学はとってないから少し興味あるな。ついて行って もいい?﹂ ﹁もちろん、行こうか﹂ ﹁うん﹂ 道中アイリスが後ろをチラッチラ見るので、少し気になり聞いてみ た。 ﹁何か気にしている様子だけど﹂ ﹁うんうん、何でもないの﹂ もしや、第一王子を気にしているのではなかろうか。 レイルの話によると、結構付きまとっているようだし。 純情ボーイは両想いならステキな相手だが、片思いだとストーカー 気質があっていかん。 もしかしたらアイリスは逃げるために俺についてきたのかもしれな い。 やっぱり障害がないと恋愛はうまくいかないものなのだろうか。 ・・・うまくいかなければ、それでもいい気もするが。 ﹁選択科目は決まった?﹂ 考え込んでいるとアイリスからの問いかけがきた。 ﹁薬草学、医学、畜産学、会計学に決めた。正式な届けだしも済ま 282 せてある﹂ ﹁流石だね、男の子は決断力があって羨ましいよ。私は法学、地質 学、生物学は決まったのだけど、あと一科目がどうも決め手に欠け て。締め切り近いから悩むなー﹂ 慈愛学なんてものがあるのなら、選択してほしいものだ。アイリス には優しい人になってほしい。俺のためにも。まぁそんなものはな いが。 ﹁着いたよ、ここが目的地のビニールハウス﹂ ビニールハウスの入り口を開け、専用の殺菌スペースで消毒を済ま せ、中に入った。 中でブツブツ呟きながら作業している人物が一人、トトだ。 ﹁いらっしゃい。ところで、招かれざる客がいるね﹂ トトがこちらに気が付き挨拶をしてくれたが、どうやらアイリスの 存在が気に入らないらしい。 と言うよりも彼は基本人嫌いだ。 気が付けば、人除けと呼ばれるコートを着なおしていた。 ﹁まぁまぁ、そんな邪険にしなくても。こちらはアイリス。そんな に警戒しなくても、いい人だから﹂ ﹁それは僕が判断する﹂ トトはこちらと距離をとったままだ。 ﹁あいつはトト。変わった奴だけど気にしないで﹂ ﹁私来ちゃまずかったかな﹂ ﹁気にしなくていい。俺はトトと作業があるから、アイリスは好き に見て回るといい。危ない薬草もあるから気軽に触らないように。 気になることがあったら知らせて﹂ ﹁うん、わかった﹂ 283 人除けのコートを脱いでもらい、早速トトからの進行状況を聞いた。 ﹁君から要求された﹃美﹄に関する薬草だが、いろいろ試して現在 一番うまく言っているのがこれだな﹂ 指で刺した先にあるのは、葉が4枚あり霜がかかったかのように白 い薬草だった。 ﹁この前君からいろいろ要望を聞いただろ。肌がすべすべだの。美 白だの。アンチエイジングだの。どれも僕には必要とは思えないが、 お前が言うから信じて作ってみた。で、これが美白に効果がある薬 草だ﹂ ﹁ほー、副作用はないんだろうな﹂ ﹁ない、ただ現段階では効き目が強すぎる。これを飲んだら真っ白 になるぞ﹂ ﹁試したのか?﹂ ﹁ああ、自分の体ではないが﹂ ・・・これ以上立ち入るのは止めよう。 ﹁それはやりすぎだな。これは飲む以外に使いようはないのか?例 えば温泉に溶け込ませるとか﹂ ﹁んー、現段階ではできないな。それに匂いがきつい﹂ ﹁そうか、じゃあ引き続き改良を頼む﹂ ﹁わかった。それと、これは俺独自の考えで作ってみたんだが﹂ ﹁クルリー!﹂ トトとの会話をアイリスの大声が遮った。トトは若干不機嫌になっ ている。 ﹁だから言ったんだ、招かれざる客だと﹂ ﹁そう言わずに。なんだい!アイリス!﹂ 少し離れている場所にいるアイリスに届くように声を張り上げた。 284 ﹁ここ!すごく大きなマタタビがある!こんなサイズ見たことない よ!﹂ マタタビ?なんでそんなものが? ﹁おいトト、なんでそんなものが?﹂ ﹁あれは猫先生からの依頼だ。別に作りたくはないが、あの人は金 払いがいいからな。小さいサイズじゃ物足りないニャ。巨大なのを 作るニャと頼まれて。ちなみにマタタビハイパーと名付けた﹂ 猫先生・・・それでいいのか!? アイリスが嬉しそうにこちらに駆け寄る。 ﹁ねえ、どうしてあんなにも大きく育つの!?すごい!!﹂その目 は輝き、窓越しのブランドバッグを見る乙女のようだ。 ﹁ああ、あれか。別に何もすごくない。大きく育てるなんて僕が行 っている品種改良に比べれば、はるかに簡単だ﹂ ﹁うんうん、品種改良なんかよりも大きくすることこそが一番大事 だよ!﹂ なんか二人の間で価値観が対立しているようだ。 でも、お互いに争う心はないらしい。 褒められたトトも嫌そうではなし、アイリスは純粋に大きくなる秘 訣を知りたいらしい。 ﹁ねえ、あれは例えば野菜なんかにも応用は聞くのかな?﹂ ﹁もちろんさ、僕に不可能はない﹂ ﹁あの、そのやり方を教えてくれませんか?﹂ アイリスはぐいぐいとトトに近づいて、ほとんど顔を覗き込んでい た。 トトが助けてくれと、目線を投げかけてくる。 285 ﹁アイリス、とりあえず落ち着いて。トト、教えてあげてよ﹂ ﹁僕は構わないが、野菜を大きくするのはやったことがない。もち ろん可能だが、研究にすこし時間はかかる。僕たちのプランが少し 先延ばしになるがいいのか?﹂ ﹁ああ、構わないよ﹂ 少なくともアイリスよりかは待てる。彼女の目は輝きが収まらない 様子だからな。 知りたくてしょうがないのだろう。 ﹁ふー、天才はつらいね﹂ なんてトトが格好をつけていた。 とりあえずアイリスのことはもう嫌っていないみたいで安心した。 それにどうせだし俺もついでに習っておこうと思う。 ﹁じゃあ今日から始めるから、僕の研究結果が出次第またクルリと 来るといい。その時に全てを教えるから﹂ ﹁うん!ありがとう!﹂ アイリスはトトの両手を握り、軽く拝んでいた。 トトはまたも助けてくれと目線を投げてくる。 ﹁アイリス落ち着いて、とりあえず今日はできることがないから薬 草を見て回りなよ﹂ ﹁うん。ところで、トトも薬草学の授業をとってるの?﹂ ﹁もちろんだ﹂ ﹁じゃあ私も薬草学を履修する!﹂ 今日一番の明るい声でアイリスが話し、スキップしながら薬草たち を見に行った。 ﹁なんなんだあの女は﹂ ﹁まぁ悪い娘じゃないから﹂ 286 アイリスのあの目の輝き・・・恋じゃないよね!? 恋だとややこしいことになるが、きっと違うだろう。 あれは家族を思っているのだと思う。 ﹁話が逸れたが、さっき言いかけた僕が独自に考えて作った薬草が 一つある﹂ ﹁ああ、そんなことを言っていたな﹂ ﹁ちょっと来てくれ﹂ 連れられたのは広いビニールハウスの中でもさらに隔離されたスペ ース。 中に入ると高温多湿な空間だった。魔法で特殊な環境を維持してい るのだとか。 ﹁これだ﹂ トトがさした薬草は、何層にも葉が平べったく重なった薬草だった。 葉は顔ほどの大きさで、それが10枚ほど重なっているだろうか。 葉が重いため茎の部分もしっかりしていた。 これも初めて見る。似たようなものも見たことがない。完全なオリ ジナルなのだろう。 ﹁この葉を一枚とっていう顔に乗せるんだ。そのまま一晩過ごせば あらゆる肌のトラブルを治してくれる。この葉は生きている間はあ らゆる細胞を修復、活性させる作用があるんだ。葉はちぎってから 10時間ほどは生存するため、睡眠時中にぴったりだと思う﹂ 顔パック!?天然の顔パックなの? 天才だよ!!! ﹁凄い!!売れる、これは売れる!!﹂ 287 ﹁だろ、やっぱりそうだと思ったんだ﹂ ﹁よし、これを主軸に据えよう!夏の帰省はこいつで勝負する!﹂ ﹁ああ、まだまだ未完成だが、間に合わせてみせるさ﹂ ﹁ところで、効果は確認済みか?欲を言えば、起きて肌がプルプル になってるとかもあればいいのだが﹂ ﹁問題ない。隣のやつで実験済みだ。最近ストレスでニキビができ ていたが、一晩で痕もなく治っていたぞ﹂ 隣の奴って言っちゃた。 被害者言っちゃた!! でもすごい。これは本当に儲かる代物だ。 ﹁プルプル効果はこれからの改良に期待してくれ。間に合わせるさ。 それと香りづけをして癒し効果も付けたいのだが、どう思う?﹂ アロマテラピーですか!?香りで癒し!? 思うも何も、天才かよ!! ﹁いい!凄くいい!!﹂ ﹁だろ?だよな!!﹂ これは夢が広がる商品ができそうだ。 ニヤニヤが止まらない。 そこへアイリスがやって来て、きもい顔を見られてしまった。 ﹁た、楽しそうだね﹂ ﹁・・・楽しいです﹂ ﹁二人で何を楽しそうにしてるの?興奮した声が外まで聞こえてき たよ。私はのけ者になの?﹂ ﹁そういう訳じゃないよ﹂ ﹁二人で美に関する薬草を開発してるんだ﹂答えたのはトトだ。 288 アイリスが、えっ、と声を漏らし体を引いていた。 そっち系の人じゃないから。 ﹁勘違いしているようだから訂正するけど、ヘラン領で売るために 作ってるんだ﹂ ﹁ああ、そういうこと﹂ 誤解が解けたようで何よりだ。 ﹁すごいね。二人でそんなことやってたんだ。流石は貴族様って感 じだよ﹂ これには俺もトトも返事をしなかった。そんなに高貴な考えなどな い。 自分たちの魂胆を知ったらアイリスはなんというだろうか。 ﹁これはトトが開発した天然の顔パックだ。肌のあらゆるトラブル を修復してくれる﹂ 例の植物をさして説明した。 ﹁すごい!そんなものがあるんだね﹂ ﹁アイリスは肌が綺麗だから必要がなさそうだね﹂ ﹁そんなことないよ、私もいいなーって思ったし。女の子はいつだ って美を気にしてるんだから﹂ そうは思えない。さっきの巨大マタタビを見た時とは目の輝きが違 う。せいぜいあったらいいけど、なければそれでも構わない程度に しか思っていないだろう。 でも、アイリスみたいな娘のほうが嫁にはいいな。なんだかそう思 える。 289 290 2章︳11話 ﹁やっぱりクルリ君はすごいよね﹂ 医学の授業になると毎回ニコニコ顔の男がスルスルとこちらに来る。 八角形のテーブルには4人ずつが配置され十分なスペースが与えら れているというのに、この男、レイルがこちらに近づいてくるため に一気にスペースに困ることになる。先生も共同作業を薦めている ため、当然注意もしない。 ﹁また何か噂でも聞きましたか?﹂ うっとおしく付きまとうこの男に向け、少し邪険にした態度で聞い てみた。 ﹁聞いたよ。うちのマガママ王子を手懐けたって?二人は相性悪い と思っていたけど﹂ 俺の態度に全く影響されることなく、今日もレイルは笑顔満開だ。 それが本当に笑っているかどうかは相変わらずわからないが。 ﹁まぁ嫌われてたみたいだけど、共同作業?がよかったのかもしれ ない。それに手懐けたわけではない、一方的に押し込まれただけだ﹂ ﹁猫先生からの呼び出しで一緒になったんだよね。いいなぁ、僕も クルリ君と二人っきりで授業をしてみたいよ﹂ 言い終わると視線を外さずに一歩だけこちらに近づいてきた。ほと んど寄り添っている状態だ。 全身に寒気が走るのを感じる。これでお尻でも触られようものなら、 ﹁キャッ﹂とか言い出してしまいそうだ。 なんなんだ、この人は!相変わらず不気味だ。 ﹁あの、ちょっと離れてくれます?﹂ 291 ﹁いいよ﹂その返答も相変わらず笑顔だった。 今日もテーブルの上には一人一人の課題が置かれている。 手順書や、参考書などもあるため教師の講義を聞けばある程度は問 題なさそうだ。 さっさと作業に入りたいのだが、この男の動向が気になってしょう がない。 顔をパチンパチンと叩き、自分に集中を命じる。 よっし、やるか! ﹁クルリ君、前に誘ってくれたよね?﹂ ・・・狙ったかのようなタイミングで話しかけてくる。 それでいて自分は作業を中断していないようだ。少し、いや、かな り憎たらしい。 ﹁医療器具の制作のこと?﹂ ﹁そうだよ。先に約束したのは僕なのに、アークを先に連れていく んだもん。ひどいよねー﹂ なんだろう、この含みのある言い方は。 彼は俺の彼女なのだろうか。いや、彼だから彼氏なのだろうか。 ﹁いつでも来ていいさ﹂ ﹁呼ばれてもいないのに行かないよ、普通﹂レイルは、わかってな いなーとつぶやきながら首を振っている。 そういえば、我が部屋に来る連中はどいつもこいつも勝手な連中ば かりで、招き入れるという精神をしばらく忘れていた気がする。だ っていつも部屋に二人常駐しているのだから。 確かにこれは俺が悪いかもしれない。 そうだよ、レイルは不気味そうに見るが、話しの通じる常識人でも 292 ある。やはり、具体的に誘わなかった俺が悪いな。 ﹁よし、今日の授業が終わったら俺の部屋に来なよ。特に用事はな いから夜までいてくれていい﹂ ﹁夜まで?何もしないよね?﹂ だから彼女か!! 俺の睨みに気づき、レイルがごめんごめんと謝ってくれた。 彼は終始笑顔なため、その考えがわかりづらいが、冗談だと信じて おこう。 最悪の場合ヴァインとクロッシもいるから、逃げ切れるだろう。 初めての相手が男とか絶対嫌だ。初めてじゃなくても嫌だ! 目の前の爬虫類に向き直り、授業に集中することにした。 実は今日も解剖なのだ。切って切って切りまくれが、この担当教官 のモットーらしい。人間で失敗する前にあらゆる失敗をしておけと のことだ。 いつもの使いづらい医療器具を手に取り、作業にはいる。あらゆる 生物の解剖が体験できるのはいいが、やはり体力的にも精神的にも なかなか疲れる作業である。 今日もレイルは笑顔を崩さないが苦戦している様子だ。 まぁがんばれ。埋めるときは手伝うから。 ﹁さぁ、入って﹂ ﹁本当に何もしない?﹂ ﹁いいから、さっさとしてくれ﹂ 放課後、部屋に来たレイルを押し込むように無理やりいれた。 くだらないことばかりを言う男なので少し強引に扱ってもいいだろ 293 う。 少々のことは気にしない。どうせ中に入れば失礼されたことも忘れ るだろう。 ﹁あれ?﹂ 部屋に入ると、いつもの熱気と喧騒がなかった。 若干の余韻はあるが、広い部屋の中には明らかに人はいない。 どうやら今日の特訓は外で行っているらしい。 頼みの綱が2本とも出払ってしまった。 後ろを振り向くと、相変わらずニコニコとしたレイルの顔がある。 ・・・な、何もしないよね? ﹁今日も花を咲かせてくれてありがとう。授業の度に心が痛むけど、 あの花たちを見ると心が休まるんだ。この前も朝に水をあげに行っ たんだよ、僕はあの花達が好きになったみたいだ﹂ ﹁そうか。喜んでもらえて結構﹂ 魔法で咲かせた花たちはその後も元気に育っている。普通の花たち 同様、太陽に当たり、栄養ある土で水をもらえれば健やかに育つよ うだ。 それと、魔法で作りあげた花たちは不思議な魅力があった。 ずっと見ていたくなるような・・・気づけば吸い込まれそうになる 感覚にも何度か襲われた。 やはり魔法で作り上げた花故にどこか普通とは違うのだろうか。 人があまり近づかないところなので、誰かに迷惑をかけることはな いだろうけど、少しだけ気にかかる花達ではあった。 ﹁じゃあ、先にシャワー浴びるから﹂ 294 レイルはそう言って手荷物を置き、部屋にある簡易の浴室に入った。 先にシャワー・・・逃げるなら今のうちか。 一応のため窓の鍵は開けておいた。 いつもの鍛冶場に火を灯し、材料や、作業道具などを準備した。 ちょうど準備が終わり、作業に取り掛かれる状態になった頃、レイ ルも作業場に来た。 シャワーで汗を流し随分と気持ちがよさそうだ。 水も滴るいい男がそこにはいた。 ﹁ふー、気分爽快。さぁ、始めようかクルリ君﹂ ﹁ああ﹂ まずは基本の道具となる医療用カッターの作成だ。 ﹁今のは刃が鋭くないって言うのもあるけど、刃がまっすぐすぎて 使いづらい。あの形状じゃどうしても強引に引き裂くしかないよね﹂ レイルのこの意見にはかなりの部分で同感だ。あまりに作りがカク カクしている。 そこで、刃の部分を曲線状にしてみることを提案した。 これにはレイルも同意し、早速作業に入る。 いつも作る剣とはサイズが違う。短剣も作るが、それよりも小さい。 片手で、一本の指で支えることのできるサイズに仕上げる必要があ る。 作業には最善の注意を払い、少しずつ丁寧に鉄を打った。 細かいところは刷るようにして削り、最後に刃の鋭さを磨き上げた。 出来上がった医療用カッターは光が反射して輝いていた。 ﹁すごいよ、クルリ君。授業中とは集中力が違いすぎて、ちょっか いを出せなかったよ!なんて言うか、迫力?なんだか、職人さんの 295 魂が入ってたよ!﹂ 作業が終わると、興奮した様子のレイルが話しかけてきた。 ﹁それはどうも。授業中もちょっかいを出さないでいてくれるとも っと嬉しい﹂ ﹁それはできないよ。僕の楽しみだから﹂ そうなんだ!その楽しみやめて! 出来上がったものをレイルに渡した。 レイルはそれを手に取り、眺める。 珍しく真剣な顔つきだ。 ﹁うん。まだこれの切れ味はわからないけど、すごくいいと思うよ。 間違いなく、医療器具の最先端を行ってる。素晴らしい逸品だ!早 く試してみたいよ﹂ ﹁そう思ってくれるなら頑張った甲斐がある。さぁ残りの医療器具 も全部作ってしまおう﹂ ﹁ああ、頼むよ。クルリ君の腕は素晴らしい。期待して待たせても らうよ﹂ それからも二人の試行錯誤を繰り返しながら、考えがまとまると俺 がそれを形にした。 そして、全部の医療器具を二人分作り上げ終えたときには、既に深 夜の朝方になっていた。 二人して疲れ果て床に寝転がる。二人とも汗びっしょりだ。 ﹁ふー、これで全部か?﹂ ﹁うん、そうだね﹂ 俺の問いかけいレイルが笑顔で答えた。その顔には満足感が漂って いた。 俺の顔にも似たような満足感が漂っていることだろう。そう思う。 床には今日作り上げたピカピカの医療道具が並べてある。横目にそ 296 れを見て、少し自分が誇らしく思えた。 ﹁最高だよ。クルリ君と知り合ってから、僕はいいことだらけだ﹂ ﹁そうでもないだろ﹂ ﹁いや、本当にそうなんだよ。医者の夢も日々近づいて行ってる気 がするし、アークの雰囲気も昔と比べて柔らかくなったし、僕は今 が楽しくてしょうがないよ﹂ ﹁アークは俺とは関係ない。あれはアイリスのおかげだ﹂ ﹁はは、そうだね。そういえば、アークの選択科目知ってる?﹂ 突然、レイルが悪戯小僧のような顔でこちらを覗き込んだ。 ﹁・・・法学、地質学、生物学に薬草学かな﹂ これはアイリスの選択科目だ。レイルの話によるとついて回ってい るらしいから、こんなところだろう。 この回答にレイルは少し大げさ声をあげて笑った。 ﹁はは、おかしいだろう?4つ目は薬草学じゃなくて、帝王学なん だけどね。もう、わかりやすすぎだよね?﹂ 眠気もあるのだろう、いつもよりテンションが高いレイルだが、い つもと違って本当に笑っているようにも見える。 ﹁すごいよ、やっぱりすごいよ﹂ レイルが一番最初に作り上げた医療用カッターを手に取り、まじま じと見つめていた。 俺も一本手に取り、それを観察する。 数年鍛えた腕だけあって、いい仕事ができた。 日々の鍛錬を怠らなくて良かったと思わせてくれる出来だ。 ﹁これさぁ、名前を刻まない?﹂ ﹁名前?﹂ 297 ﹁そう、よく剣とかにある。ほら、端っこに作者の名前が彫ってあ るやつ。あれをこれにも彫ろうよ。クルリ君の名前を残そう!﹂ ﹁ええ!?いやーそれは恥ずかしいな﹂ これは純粋に恥ずかしい。夜中で変なテンションだが、こればかり は冷静に恥ずかしく思えた。 ﹁いや、残すべきだよ。これだけの腕があるんだから。これは僕か らのお願いでもある。彫ってくれよ、クルリ君﹂ ねっ?といつものピカッと光るウインクが飛んできた。 ・・・そこまで言われてはしょうがない。 早速、ちょちょいと名前を彫ってみた。﹃クルリ・ヘラン﹄、どれ も隅っこに控えめに彫ってみた。 ﹁いいね。大事にするよ﹂ レイルが嬉しそうに目を輝かせた。 そこまで喜んでもらえると、やはり作り手としては嬉しい。 ﹁それにしても疲れたね。いざ、終わったって思うと一気に疲れが 飛んできたよ﹂ ﹁そうだな。俺も疲れて倒れそうだ。早く寝ることにしよう﹂ ﹁うん、そうだね。じゃあ先にシャワーを貰うから﹂ 先にシャワー?確かに汗はかいたが・・・。 ﹁いや、自分の部屋で入れよ﹂ ﹁今日はもう泊まっていくから。自分の部屋に帰る体力もなさそう だ﹂ ﹁でも、ベッド一つしかないし・・・﹂ ﹁僕は構わないけど﹂ ﹁・・・そ、そうですか﹂ ・・・掘ってくれよってそういうこと!? 298 299 2章︳12話 今日は手土産に魚の干物を持ってきた。 猫先生から特別に魔法を教えてもらっているので、なにか差し入れ をしようと考えたのだ。 魚の干物は、実はヴァインからの贈り物だ。 川で大量に旬の魚が釣れたみたいで、それを干物にしてくれたのだ。 はじめは大量に贈られた干物を見て、愕然とした。 捨てることになったらどうしよう、と心配したのだが、これが食べ てみると存外旨いではないか。 旬の魚と言うだけあって、干物にしてもその脂身が美味しく感じら れた。 それに燻製にしただけだと聞いたが、しっかりと味が付いており、 食べだしたら止まらない美味しさなのだ。口の中に広がる香りと言 い、歯ごたえある身の弾力と言い、ヴァインのこの一品はたまらな い旨さが詰め込められていた。 と言う訳で、これを猫先生にも御裾分けしようと思い持ってきたの である。 手に2匹の干物をぶら下げ、教室の前まで来た。 猫先生が指定した部屋だ。 一応ノックをして、中に入る。 猫先生がいるのと思ったその部屋だが、どこにも見当たらない。 代わりに、広い教室に一つだけある椅子に腰かけている美女が一人。 椅子のひじ掛けに肘を乗せ、その手は頬に添えられている。 300 俺が入って来たというのに、その人は微動だにしなかった。 目が合う。 第一印象で気づいてはいたが、かなりの美人だ。 出るところは出ているし、引っ込むところはひっこんでいる。体型 までもが美人のそれだ。 スラッと伸びた手足が美しく、素肌がさらけ出されている。女性は その美しい脚を組んで、ただこちらを眺めていた。 なんだか急に恥ずかしくなって目をそらした。 胸の鼓動が速くなるのを感じた。 俺は今、ドキドキしているのだろうか? ﹁いらっしゃい﹂ 女性の美しい声が、静まり返った教室に響いた。空が若干の赤みを 帯びて部屋も少し暗い。 なんだか少しエロティックな雰囲気に思えた。 ﹁ええ、こんにちは﹂ ﹁あら、そんなにかしこまらないで?こっちまでかしこまってしま うわ﹂ ﹁すみません。なんだか胸が高鳴ってしまって﹂ ﹁んふふ、若いのね﹂ 女性が唇に手を乗せ、そっと微笑んだ姿がなんとも優美に見えた。 それと同時に大人の色気も感じる。 自分の心臓がさらに高鳴るのを感じた。 初めて出会うタイプの女性だった。 まさしくこれこそが大人の女性の魅力だと言わんばかりの人だ。 ﹁手にもっているそれは何かしら?﹂ 301 女性の問いかけに、手に持っている干物を素早く後ろに隠した。 ﹁いえ、なんでもありません﹂ なんだか干物を持っている自分が恥ずかしく思えたのだ。 ﹁そう?いつまでも入り口に立っていないで、こちらへ来たら?ク ルリ﹂ ﹁えっ!?俺を知っているのですか?﹂ 名前を呼ばれた瞬間、心臓がドッ震えた。 でも、少し間をおいてなんだか自分を知ってくれていることにすご く喜びを感じた。 ﹁もちろんですよ。あなたは私が誰だかわからないのですか?﹂ ﹁すみません。こんな美人を忘れるはずはないのですが、どうも思 い出せないみたいで﹂ ﹁んふふ、ひどいわ。私がわからないだなんて、お仕置きしてあげ ましょうか﹂ ﹁からかわないでください。それで、あなたはどちら様なのでしょ うか?﹂ 俺の問いかけに、女性は頭を斜めにした。少し考えるそぶりを見せ、 うなずいて話し始めた。 ﹁本当にわからないの?私ですよ?﹂ ﹁いえ、それが本当にわからなくて﹂ 本当に頭を絞って思い出そうとしているのだが、全く記憶にない。 こんな美人を忘れるなんてことありえないのに! ﹁そうですか。これは予想外です。やれやれ本当にわからないとは・ ・・アタイだニャ﹂ ﹁・・・﹂ 302 魔力が解かれ、ボンッと現れたのは巨大な毛玉の猫先生だった。 鏡を見なくとも俺にはわかる。今俺の顔からは、喜びとか、悲しみ とか、怒り、真の心などはスーと抜け落ちているだろう。心同様、 顔も無になっているはずだ。 何も思うまい。何も考えまい。心を無にするのだ。そうすれば太平 の世が訪れるはずだ。 俺は記憶が飛ぶことを切に願った。 ﹁来たぞ、猫。あれ?なんでお前死んだような顔してるんだ?﹂ 遅れてやってきたアークに話しかけられたが、残念ながら俺は右耳 から左耳状態だ。 ﹁さて、本日の魔法研究に入るニャ。アーク坊やにも見せてあげよ うと思っていたけど、クルリ坊やが全然気づかないから、変身魔法 は解いたニャ。今日はもう疲れたからできないニャ。また今度見せ るニャ﹂ ﹁お前、何を見たんだ?﹂ ﹁・・・なにも﹂ ﹁今日はこの前の続きニャ。前は片手だけの変身だったニャ。今日 は両手を試してみるといいニャ。毎年ここで何人かは脱落するニャ。 難易度上がるから頑張るニャ﹂ ﹁・・・わかりました﹂ なんとか気力だけで返事をした。 アークはすぐさま練習に入った。前回同様苦戦中みたいだ。 ふー、俺はしばらく座り心を落ち着かせてから練習に入った。 やる前から大分疲れてしまったな。今日はだめかもしれない。 303 ﹁そうだ忘れないうちに、これ﹂ 手に持っていた干物を猫先生に手渡した。 ﹁干物ニャ?嫌いじゃないけど、レディにあげる物じゃないニャ﹂ ・・・はい、俺が悪いです。猫扱いしてごめんなさい。 猫先生はそれを受け取ると、教室の夕日が当たる部分でごろ寝をう った。 さて、練習に入るか。 前回同様繰り返しが必要になるだろう。まずはおさらいとして、片 手だけ猫先生の手をイメージして変身させてみた。前回何度もやっ たおかげで難無くできた。できなくなってたらどうしようという不 安が解け、少しリラックスできた。 ﹁ニャニャニャ!?うまいニャ!これ旨いニャ!﹂ 興奮した声の先を見ると、ごろ寝しながら魚の干物に噛り付く猫先 生がいた。 ﹁これクルリ坊やが作ったニャ?﹂ ﹁いえ、ヴァインから貰ったものです。ヴァインが釣って、一から 作ったものです﹂ ﹁へー、ヴァイン坊やが作ったニャ?やるニャー﹂ ようし、集中して両手変身に挑もう。猫先生も難易度が上がるって 言ってたし、ここは集中しないと。 ﹁あのヴァイン坊やにこんな特技があったニャ?魔力はちょろちょ ろなのに、すごい特技持ちニャ﹂ いざやってみようと思うが、確かに魔力をまとったまま、複数の部 304 位で魔力変化を起こさせるのは難易度が高い気がした。あっちに集 中したらこっちの集中が切れると言った感じだ。 ﹁うまいニャー。止まらないニャ、歯ごたえもいいニャ。香りも素 晴らしいニャ。あと味もいいニャー﹂ でもできない感じはしなかった。集中する部分が増えるが、今日中 に出来上がる気もする。不思議と自信はあった。 ﹁ニャニャニャ、これはいいニャ。また貰いに行くニャ。絶対行く ニャ﹂ 静かにしてくれないかな!!! 干物を持ってくるんじゃなかったよ。どんだけ気に入ったんだ。 アークは特に気になっていないみたいなので、俺だけが気になって いるのか? いやいや、とにかく集中しないと。 思いっきり息を吐き出し、イメージしたとおりに魔力を操作した。 左手と、右手が同時に猫先生同様に毛むくじゃらの猫の手になって いく。 あれっ!?これ上手く行ったんじゃないかな? ﹁猫先生・・・﹂ ﹁すごいニャ。もうできたニャ?やっぱりクルリ坊やは天才ニャ﹂ やっぱり成功みたいだ。不思議と特に難しい感じはなかった。何な らこれから何度でもできそうな気さえする。 305 ﹁じゃあ次は、尻尾をはやすニャ。端部分から徐々に中心部分に寄 って変身していくのが一番楽ニャ﹂ ﹁やってみます﹂ 今度は猫先生の尻尾をイメージする。 お尻の辺りに魔力を集め、両手の魔力が解けないように集中した。 スポっ、きれいに尻尾もできた。 ﹁すごいニャ、すごいニャ。そのままどんどんつづけるニャ﹂ 今度は足、それもうまくいき、膝から腿、肘から肩もうまくいった。 胴体も徐々にうまくいき。 最期に、頭まで上手く変身できた。 自分でも恐ろしいほどの出来だ。 なぜこうも上手くいったのだろうか?自分でも全く説明がつかない。 ﹁猫先生、うまくいったニャ!!﹂あれ!? ﹁すごいニャ。アタイ以外で初めてできたニャ。それにものすごく 早いニャ﹂ ﹁ありがとうございますニャ!﹂ あれ!?語尾が・・・。 ﹁先生、俺の語尾がおかしいニャ﹂ ﹁おかしくないニャ。普通だニャ﹂ ﹁・・・そうですかニャ﹂ なんだか、ちょっとだけ気分が沈んだ。 ﹁そのまま魔力を圧縮してみるニャ﹂ ﹁圧縮?やってみますニャ﹂ 言われたとおりに魔力を圧縮してみる。 すると体がみるみる小さくなっていく。 306 ちょうど体が半分ほど小さくなって、少し躊躇したら縮小がおさま った。 ﹁そうやって小さくなることも可能ニャ。どうニャ?すごいニャ?﹂ ﹁すごいですニャ!﹂ ちょっと興奮して大声で返事したら、魔力が途端に切れて、元の人 間の姿に戻った。﹁あ﹂ サイズも戻っていて少しほっとした。 ﹁まだまだ維持はレベルが低いニャ。1,2時間継続できるように 練習するニャ﹂ ﹁はい﹂ よかった、語尾も治ってる。 これを見ていた王子のアークは納得しない。 もちろんすぐに捕まり、コツを言えだの、秘密を言えだのと詰め寄 られた。 猫先生は相変わらずすぐにだれるので、俺が手取り足取り教える。 夜まで続いたのだが、結局は両手までしか変身はできなかった。 ﹁悪くないニャ。でも、良くもないニャ。王子のくせに今日も普通 だニャ﹂といういつもの猫先生節で魔法研究会はお開きとなった。 王子が今日も部屋に来るとか言い出したら、と不安に思っていたが 決定的な差を見せつけられて落ち込んだのだろうか。今日は来なか った。 それにしてもなぜ俺だけこんなにも早くできたのだろうか? もしかしたら猫先生と通じる物でもあるのか? 307 ・・・それだけは嫌だ。 もう寝よう。部屋に戻りベッドに入った。 そして、今日の夜は定石通りに悪夢をみた。 ﹁うわっ、美女が猫先生で、猫先生が美女で、うわわああああ﹂ 308 2章︳13話 本日学園の休日であり、俺の待ちに待った日でもある。 先日猫先生より伝授していただいた変身魔法の試運転を行おうと思 っているのである。 いつものごとく俺の部屋に二人ほどいるので、外で静かな場所を見 つけて集中することにした。 手順は教えらてた通りに順序良く行い、体が徐々に猫のそれになっ ていく。 最期に魔力を圧縮して、体のサイズも縮めた。 ﹁おお﹂ 視線が低くなり、体がものすごく軽い。 猫ってこんな状態だったんだ。 跳ねるように4本脚で歩を進めた。 身軽だ。 あまりの軽さに踊りだしそうな気分になる。 ニャンニャンと鼻で歌いながら、リズムよく歩く。 芝の上に来たら、寝転がり全身で太陽の日を浴びる。 あー、気持ちいい。 通りかかった生徒に見つかったが、猫なので特に何も起きない。 それはそうだと納得して、さらに学校の敷地を散策した。 なんだか本当に猫になったかのような気分だ。 309 どこかいいとこでも見つけて、昼寝でもしてみようか。 どれだけの時間、変身していられるかも試しておきたい。 シャー! 気持ちよく散歩しているときに、目の前に天敵現る! 顔に傷を負ったオス猫がいるのだ。目つきの鋭さ、体の大きさ。堂 々と道の真ん中を歩くあたり、歴戦のつわものであることに疑いの 余地はなさそうだ。 そして、あきらかに敵意むき出しでこちらを威嚇している。 猫にも縄張りとかがあるのだろうか。詳しくはわからないが、俺が 彼の機嫌を損ねたのは事実だ。 ﹁ニャー﹂こんにちは、と言ったつもりだ。 シャー! ﹁ニャー﹂お腹でも空きましたか?、と言ったつもりだ。 シャー! ﹁ニャー﹂よかったら一緒にどうです?、と言ったつもりだ。 シャー! だめだ、彼の機嫌がさらに悪くなった気がする。 仕方がない、ここは腹をくくって一戦交えることにしよう。 俺も彼の方へ徐々に近づいていった。 その意図を理解した相手も臨戦態勢に入る。 っと、その前に、ちょっとだけ魔力の圧縮を解除して体のサイズを 大きくしておく。 ニャ!? 310 驚きの声をあげたのは相手の猫だ。 さっきまで絶対優位の大勢から一気に相手が自分の倍サイズになっ たのだ。 これはまずいと思ったのか、瞬く間に背を向けて逃げ去った。 口ほどにもない。 クルリ・ヘラン。一戦一勝なり。 体を元の大きさに戻し、自由な散歩に戻った。 と、今度は目の前にピョンピョン跳ねるバッタが一匹。 特に何かをするつもりはないはずだったのに、気が付けば目で追い かけていた。 あーなんだろ、キャッチしたい。 両手でスッとキャッチしたい。 バッタが着地して、跳ねだす瞬間、俺は飛びつき両手で挟んだ。 が、逃げられた。間一髪バッタの動きの方が速かった。 それっ、それっ、と2、3度繰り返すが、捕まらない。 それならばと、口でキャッチ! パクっ。あ、うまく捕まえれた。 やったぜ! ・・・うえええええ。バッタを咥えてしまった事実に気が付き、す ぐに放した。 ああ、なんか口に味がまだ。うえ、おえ。 心まで猫になってしまっていた。危ない危ない。 この魔法ちょっと危険かもしれない。 311 気を取り直して、学校の散策に戻る。 なんどか通ったことのある道も、猫の視線からだと全く違う道に見 える。 新鮮だ。何もかもが新しく、好奇心をくすぐる。 猫先生の言う通り便利な魔法だ。 とことこと歩いていくと、休日の朝からイチャイチャしているカッ プルを見つけた。 どちらも見覚えのある顔だ。二人のいる場所や、様子からして隠れ て付き合っているようだ。 へー、いいもの見た。 猫だから当然向こうも警戒などはしない。 こういう使い方もあるのか、となんだか悪い知恵がついた気がする。 さっきから好奇心をくすぐられるこの変身体験なのだが、変身した ものが悪いのか、ずっとどこか眠気がある。 はやく日当りのいい人気のない場所を見つけて眠りたい、そんな気 分になるのだ。 そんなことを考えて、人気の少なそうな校舎隅に来た。 あれは? そこには見知った顔がいた。 花壇の傍で一人読書をするアイリスがそこにはいたのだ。 休日に一人読書か。真面目でよろしい。 けど、素直にそう思えない自分もいた。 312 アイリスはやはりこの学園において特殊な存在であり、どうしても いじめの標的になりやすいのだ。 まだ最大の障害であるエリザに火はついていないものの、王子と仲 良くしている件や、勉強の成績がいい件などで妬み買っていた。 アイリスを良く思わない連中から徐々に嫌がらせを受けているなど の話を、最近耳にするようになったのだ。 それに庶民を軽蔑する選民意識の高い先輩方も何か動き出している との噂も聞く。 そんな状態なのだ、アイリスに女の友達ができるはずもない。 きっとアイリスは寮でも浮いているのだろう。 ちゃんと確かめたことはないが、なんだか容易に想像できるあたり、 きっとそうなのだと思う。 アイリスは俺といるときはいつも明るいから、そんなことを考えて やれなかった。 でも、こうして一人で休日を過ごしている姿を見ると、やはり学園 であまり居場所がないのだろう。 俺はアイリスから見えない場所に移動して、魔法を解いた。 ちゃんと両手を見て、人間の姿に戻っていることを確認した。 ﹁やぁ、偶然だね。アイリス﹂アイリスのいる場所に出て、挨拶を した。 あくまで偶然、今来た風を装わなければ。 ﹁クルリ、こんなところで何してるの?﹂ ﹁それはこっちのセリフ。校舎の隅で一人読書なんて真面目だね﹂ ﹁ここは落ち着くの。誰も来なくて集中して読めるから。でも、ク ルリが来ちゃったね﹂ 話すとやはりいつもの明るいアイリスがそこにいる。 313 ﹁アイリスはいつも元気で明るく振舞う。俺は鈍感だからアイリス の気持ちはわからない。だから、もし辛いことがあるのならちゃん と言葉で言って欲しい﹂ ﹁急にどうしたの?﹂ アイリスは笑いだしてしまった。 ﹁まぁ俺はアイリスの味方だから、いつでも愚痴を聞きますよって こと﹂ ﹁それは、どうもありがとうございます。大貴族のクルリ殿にお聞 きいただけるなんて光栄に思います﹂ははーとアイリスは頭を下げ た。 冗談を言えるあたり、まだまだ本当に元気なのだろう。思ったより も大丈夫そうだ。 ﹁嫌がらせ・・・、もし受けてるなら俺に言えばいい。何とかする から﹂ ﹁大丈夫、私結構強い女だから﹂アイリスはニコッと笑った。 なんだか大丈夫そうに見えない。こういうところが守ってやりたく なる理由なのだろうか。 なんだか、アイリスのモテる秘密を垣間見た気がした。 ﹁ふー、心配して損したかな。アイリスがもっとセンチメンタリッ クでピュアな女の子なら俺が正義のヒーローになれたのに﹂ ﹁んふ、クルリはヒーローになりたいの?﹂ ﹁なりたいさ、男はみんなヒーローになりたい生き物だ﹂ 俺もアイリスに笑顔を向けた。 しばらく二人で話し込み、最後にいつでも俺の部屋に来ていい事は 教えてあげた。 ﹁朝でも、夜でも、クロッシと、ヴァインはいつも勝手に来るから。 314 そのくらいの気持ちでアイリスも来ていい﹂ ﹁それは流石にできない﹂とだけ返事をもらった。 やっぱりそれが普通の感覚だよね?あの二人おかしいよね? アイリスに元気をもらい、猫散歩の続きに戻った。 魔法を発動すると、体はさっきよりも軽かった。 楽しい会話ができたおかげで、魔力の方も安定してきたみたいだ。 ニャンニャンと足を進める。 ちょうどいい日向を見つけた。 日も強すぎず、あたりに花もある心地のいい場所だった。風も程よ く吹いている。 これは寝るしかない。 横になり、体の力を全て抜いた。 あー、気持ちいい。なんだかいつもの倍くらいリラックスできてい る気がする。 毛玉どもめ、あいつらはいつもこんなに幸せな気分を味わっている のか。 ずるいぞ。 とはいいつつ、自分も今は毛玉なので最大限にまったりとした。 気が付けば眠りについており、深い眠りに落ちた。 ・・・、おきて。 ﹁起きてネコさん﹂ 誰かの声がする。意識が戻りかけた時にそんなことを考えていた。 315 まだ目を開けていないので、誰がいるかはわからない。 なんだか顎下をくすぐられているみたいだ。 ああ、気持ちいいから続けてくれ。 あ、そこそこ。 この撫でている人物は猫慣れしているみたいだ。 ツボをピンポイントに刺激してくる。 あー、たまらん。 ﹁にゃん、にゃん、みゃん﹂ リズムよく声も出して撫でてくれる。なんだかそれが子守歌となっ て、もう一睡できそうだ。たまらん。 ﹁にゃー、また寝るにゃ?そろそろおきてもいいよー﹂ 今度は肉球をマッサージしてくれているようだ。むにゅむにゅ。 何度も言うが、あーたまらん。 それにしても、なんだか聞き覚えのある声だ。 でも、思い浮かべた人物とはイメージが違いすぎる。多分似た声の 別人物だろう。 しばらく、気持ちのいいマッサージを受けて、ボーとした頭が回復 した辺りで目を開けた。 ギョッ!! 今の俺の気持ちを伝えるとすれば、﹃ギョッ﹄だ。 ギョッとして全身の毛が逆立ったのがわかる。あまりに衝撃的過ぎ て声も出ない。 ﹁なーに?驚いちゃって。ずっといたのにニャー﹂ かわいらしく語尾にニャーとかつけていたのは、エリザだった。 316 かつて見たことのない優しい顔で、現在猫中の俺の顎をさすってい た。 ﹁ふふ、ほらまだ寝転がってていいのよ。まだまだあなたといたの﹂ そ、それならお言葉にあまえて・・・。 結構気持ちいいのでやられるままに、撫でてもらった。 それにしても、エリザにこんなかわいい一面があっただなんて。 この秘密は墓までもっていこう。なんかそうした方がいい気がする。 あー、そこいいわー。 ﹁ネコさん、ネコさん。猫さんは自由そうでいいですねー﹂ なんだろう、この含みのある言い方は。続きがありそうだな。 続けたまえよ。 ﹁私は不自由な鳥かごの中の飼い鳥。私もあなたのように自由に生 きたいわ﹂ ・・・んー、なんだか聞いてはいけないものを聞いてしまった気が する。 でも、将来の嫁だし、聞いておくべきなのか? ﹁私は友達がいないのよ。だからあなたが私の友達になってくれる ?﹂ ・・・ニャー、と鳴いておいた。 ﹁あら、なってくれるの?優しい子ね﹂ そう言ってまたも気持ちのいい、なでなでをしてくれる。ちょっと、 耳の隣もお願いします。 エリザも友達いないのか。四天王は?あれは友達ではないのかな? この情報も墓までもっていこう。そのほうが絶対にいい気がする。 317 と、そろそろ逃げた方がいい気がする。 しばらく寝ていたから、いつ魔法が解けるか分かったものじゃない。 エリザの手を振りほどいて、タッタと歩き出す。 ﹁あら、お待ちになって﹂ そう言って、エリザに抱き上げられてしまった。 胸元に抱き寄せられ、目を覗き込まれた。 ﹁もうちょっとだけ、いいじゃない?ねっ﹂ あ、まずい。興奮してきた。 ・・・本当にまずい。魔力が今にも解き放たれそうだ。 がんばって腕の中でもがいてみた。ダメだ、放してくれそうにはな い。 耐えるしかない。今元の姿に戻ったら、確実な死が待っている。 耐えるんだ!クルリ・ヘラン!! ﹁ふふ、あなたはオスなのね。タマタマが見えてるわよ。エイッ﹂ あー、もうダメ。 タマタマを突っつかれて、とうとう魔力が解けた。なんでたまたま 突っつくの!! 魔力が解けて、ボンっ!とエリザの目の前に現れる。 ﹁やぁ、元気かい?﹂不意打ちのさわやかな挨拶だ。これで許して くれ。 ﹁・・・﹂ そうして、俺はエリザに追いかけまわされることになった。 318 どこから持ってきたかわからない鎌を手に、鬼の形相で追いかけて きているのだ。 捕まれば、確実な死が待っている。ためらいもなく首を落とされる だろう。 クルリ・ヘラン、人生で最も死ぬ気で走った一日として、その人生 の歴史の一ページに記憶を残す。 319 2章︳14話 エリザから逃げ切って、しばらく隠れた後、部屋に戻った。 逃げる際に人が多く集まる場所に逃げたのがよかった。エリザも体 裁を気にしてしつこくは追って来なかったのだ。間一髪、やれやれ。 そして今現在、一日経って、朝を迎えたが無事に生きている。 今こうして部屋にいてもエリザが襲撃してこないということは、時 間が経ちエリザの怒りの沸騰もだいぶ冷めたのだろう。 許してくれたとは考えられない。先日の一件に、さらに昨日の出来 事も重なってエリザとの関係は最悪だ。 改善したいが、今は触れない方がいいだろう。どう考えても火傷を するのが目に見えている。 そんな折、部屋のドアに着けられているポストに、一通の手紙が届 いた。 可愛らしい封筒に、鋭く﹃エリザ・ドーヴィル﹄の名前が書いてあ った。 名前を見た瞬間、ゾッとして全身鳥肌がたった。 ﹁こう来たか﹂ この手紙の中に二文字、殺す、とだけ書いてあっても驚きはしない。 いや、むしろそっちの方が予想通りで落ち着くほどだ。 恐る恐る封筒を開け、中の便せんを取り出す。 これまたかわいらしい便せんだ。 もしかしたら、そんなに悪い内容でもないのかもしれない。 320 さてさて、鬼が出るか蛇が出るか、それとも虎が出てくるか。 ﹃クルリ・ヘラン殿 いかがお過ごしでしょうか。次第に外も暑くなってきており、体調 などを崩されておりませんでしょうか。ええ、きっとあなたは体調 も崩さずのうのうと生きているのでしょうね! 私はと言いますと、あなたのことを考えると眠りが浅くなり、睡眠 不足の毎日を過ごしています。 ここで一旦手紙を閉じた。 そっと優しくそれをテーブルに置く。 なんだか手紙からただならぬ雰囲気を感じてしまい、緊張して喉が 渇いた。 お茶を一杯飲み干し、深呼吸して続きを読み直した。それにしても、 なぜ内容まで手紙風なのだろうか。 昨日も眠れずにいたのですよ?可笑しいですよね。可笑しいでしょ ?そうは思いませんか! それはそうと、クルリ・ヘラン殿は私の父をお知りですか?この国 の︻宰相︼をしている自慢の父でございます。その父は私を大層か わいがってくれており、小さい時より私の気に入らないものを排除 してくれておりました。 またも一旦手紙を閉じた。 明らかに筆圧が濃くなっているのだ。書きなぐる、いや殴りながら 書いているような文字だ。 321 勇気を振り絞り、何とか続きを読んでみる。 この度はあなたとの間に色々とありました。非常に悲しい出来事で す。 この出来事が世に広まることを私は良しとしません。そうでしょ? そう思いますよね! ですので、今回のことはなかったことにしましょう。そのほうがお 互いのためです。 私の名誉は守られ、あなたの命も助かる。両者に得のある話ではあ りませんか。 そう思いますよね。いや、あなたは思うはずです。 そういうことですので、よろしくお願い申し上げます。 では、体調にお気をつけてお過ごしください。 エリザ・ドーヴィ ル﹄ なんかすごく手紙っぽい内容での、脅迫文書が来た。 要するに、喋ったら殺す、との言う意味なのだろう。なんで手紙風 なんだろうという疑問は尽きないが、条件を付けてくれたあたり、 無条件に殺されるよりはありがたい話だ。 さてさて、脅迫文書を頂いたわけだが、あくまで向こうは手紙とし てこれを送ってきている。 では、紳士としてこちらも手紙を返すべきだろう。 机の引き出しよりペンを取り出し、適当な紙に筆を走らせた。 ﹃エリザ・ドーヴィル様 322 いかがお過ごしでしょうか。 私は心配しなくとも元気です。最近は外が暑くなってきており、か 弱いあなた様の体調に影響しないか心配して、日々を過ごしており ます。 そういえば昨日は私も一睡もできませんでした、奇遇ですね。 エリザ様の父上が宰相だということはもちろん存じ上げております。 この国の政治を担うお偉い方です、一貴族として日々感謝して生き ております。 そんな忙しい方が、家では娘思いの優しい父親だなんて、ステキな 話ですね。 ところで、色々あったとのことですが、私には何のことかよくわか りません。 特に、昨日の出来事は全く覚えていないようでございます。 言いたくとも内容を知らないのでは、言いようもございません。 エリザ様は心配なさらずに、健やかに夜をお過ごしください。 どうしても、眠れないというのでありましたら私がいいものを差し 入れましょう。 そういうことですので、ご心配には及びません。 では、いつまでもその美しさを損なわぬよう、体にお気をつけてお 過ごしください クルリ・ヘラン﹄ よし、こちらも手紙風に書いてみた。 エリザを持ち上げつつ、私は言いませんよ、と言うことをアピール する内容になったと思う。 さっそく、部屋から出て、女子寮に入る。 たまたまそこにいた女性を捕まえて、エリザの部屋はどこかと聞く。 頬を赤らめ、キャッ、とか言ってたが、そういう系の話ではない。 恋文と言うよりは、どちらかというと果たし状を届けに行くのだ。 323 教えられた部屋の前に来て、ドアについているポストに手紙を入れ た。 これでしばらくは大丈夫だろう。 解決とまではいかないが、向こうは条件を突き付けて来て、こちら はそれを飲んだのだ。 和平は結ばれた、と考えるのが妥当だろう。 部屋に戻りゆっくりと紅茶を頂く。 実家から持ってきた高級な紅茶だけあって、香りがいい。 しばらくゆったりした時間を過ごすことができた。 しかしそれも、ポストに何か入る音がして、すぐに幸せな気分は飛 んでいってしまったが。 ポストを開け中を見ると、またもエリザからの手紙だった。 ﹃クルリ・ヘラン殿 手紙の内容確認しました。あなたは昨日のことを覚えていないので すね。 流石は片田舎の領主の息子と言ったところです。大層貧弱な記憶力 なようで。 ここで、大好きな紅茶を少し口に含め心を静める。 なんだこの内容は! 324 そちらに配慮して忘れたことにしたのに、いきなりの暴言が返って きたよ! 何とか怒れる心を押し沈めて、続きを読んだ。 いや、それでもあなたがふと思い出して、誰かに漏らさないとも限 りません。 私はあなたのような軽い男の話をおいそれと信じるほど馬鹿ではあ りません。 男なら形あるもので証明なさってはいかがでしょうか。 紅茶を楽しんでいる最中ですので、この辺で書き終えておきます。 エリザ・ドーヴィル なるほど、信用できないから何か確信を持てる証拠が欲しいという ことか。 んー、何がいいだろうか。こちらも秘密を差し出すとかがいいかな? それとも何か担保となるものを渡すとか・・・、ん?手紙にはまだ 続きがあるようだ。 P.S. か弱い、美しさ、と書かれていましたが、私に向けた本心でござい ましょうか。 いえ、あなたのような軽い男が本心でそんなことを言うはずもござ いませんね。 確認しようとした私が愚かでした。蛇足でしたね。失礼します。﹄ ・・・、うわっ、ダメもとで持ち上げたつもりが効果てきめんでし 325 た! この持ち上げ、費用対効果良すぎだろ。 え、エリザって、純情な乙女なの!? よし、ならばこうしよう。 ペンを取り出し、すぐさま返事を書いた。 ﹃エリザ・ドーヴィル様 手紙読みました。実は私も紅茶を飲んでいます。領で有名な紅茶で すので、良ければ今度御裾分けいたしましょうか。 エリザ様の、男なら形あるもので証明しろとの言葉、感銘いたしま した。 無い知恵を振り絞り、私が考え付いた形ある証明が一つあります。 私のヒミツをエリザ様と共有しようと思います。それで差し引きゼ ロになるとは思いませんが、どうかご容赦ください。 実は私、昔はまるまると太っていたんです。恥ずかしくて誰にも言 えない過去です。内緒にしてくださいね。 では、私も紅茶を楽しんでいる最中ですので、以上とさせてくださ い。 クルリ・ヘラン P.S. か弱い、美しい、と言うのはもちろん本心です。 この言葉も形あるもので証明します。エリザ様をイメージして魔法 で作った花をはさんでおきます。 その花を見て私の本心を信じてもらえるとありがたいです﹄ 326 手紙を書き終え、それを封筒に入れた。 魔力を出し、物質変化の魔法を発動する。 エリザをイメージした花、花の中央は黄色、花弁は薄い藍、形は少 し大きめの楕円で、シンプルに3枚。 茎も花弁と同じ色にし、線を細くし、花から離れた位置に小さな緑 色の葉っぱを2枚つけておいた。 それを手紙と一緒に入れて、これをエリザの部屋のポストに届けた。 さて、これで許してくれるといいのだが、また変な要求でも来たら どうしよう。 返事の手紙を待つ間、紅茶を煎れなおし、熱々をもう一杯楽しんだ。 すると、またもポストに音が。今回は随分と返事が速い。 ﹃クルリ・ヘラン殿 大変ステキな花をありがとうございます。 この花に名前はありますか? 私をイメージして魔法で作ったのですよね?随分ときれいな花のよ うです。 この世にたった一つの花。私だけの花。是非、名前があれば教えて いただけないでしょうか。 エリザ・ドーヴィル P.S. あなたの秘密、確かに握りしめさせてもらいました。﹄ 327 P.S.と本題が逆になってる! 花プレゼントが超効果てきめんではないか。 これは昨日のことを許してくれたと解釈してもいいのだろうか? いや、いいはずだ。 だって、今朝の手紙は文字が血走っていたが、今は心躍る文字に見 える。 スラッスラ書いたのだろう、なんだか呼んでてこちらまで気持ちが 晴れるような文字だ。 早速返事を書いた。 ﹃エリザ・ドーヴィル様 喜んでもらえて何よりです。 花の名前は、エインヴィ。花の形から私が想像してつけた名前です。 ちなみに花言葉は、︻淡い幸福のひととき︼です。 大切にしていただけると、嬉しいです。 P.S. わかりました﹄ ﹃そうですね。全て水に流しましょう。 では、また授業でお会いできるのを楽しみにしておりますわ﹄ まさかの大逆転勝訴だ。 負け確実の裁判から、無罪放免。 328 329 2章︳15話 ﹁んー﹂昨晩は良く眠ることができ、目覚めがすごくよかった。 両手を突き上げ、体を引き延ばして全身に血液を循環させる。朝に 味わえる数少ない気持ちのいい出来事だ。 窓の外を見るときれいに晴れ渡っており、雲一つない晴天が広がっ ていた。我が部屋は日の入りが良く、外の晴天の恩恵を存分に受け ている。なんだか目覚めからポカポカするのもそのおかげのようだ。 いつも授業開始時間までにはゆとりと持って起きているため、今朝 も少しばかり外の景色を楽しんだ。 目が冴えて、体も動きだしたくなっている。そろそろ起きるとしよ う。 服を着替えて、朝の紅茶を楽しんだ。なんだかこれも不思議といつ もより美味しく感じる。 今日はいい一日になる。そんな気持ちにさせてくれる朝だった。 そんなことを考えていると、お腹から幸せな音が聞こえてきた。グ ー。 どうやら食事を欲しているらしい。食堂へ行くとしよう。 食堂へ向かうため玄関へ行くと、ドアがちょうどノックされた。 こんな早朝からやってくるのはヴァイン辺りしかいないのだが、ノ ックの音がやけに優しい。 ちょっと不安になりつつも、ドアを開ける。 ﹁来たニャ﹂ ﹁呼んでません﹂そっとドアを閉じた。 330 ﹁オッと、待つニャ﹂ドアが完全に閉まらず、最後の部分で抵抗感 があった。上、下と見て、ドアの隙間に猫先生の足が挟まれている ことに気が付いた。 すぐさまこんな行動がとれるあたり、慣れた仕事だと思われる。 ただ物じゃない、いや、姿からそうなのだけれど・・・。 ﹁何しに来たんですか、こんな朝早くから﹂ ﹁まぁとりあえず入らせてもらうニャ﹂ ちょっとだけ玄関で押し問答があり、結局押し切られた。決まり手 は寄り切り。くっ、なかなか強い! ﹁変身魔法の方はどうニャ?活用してるかニャ?﹂ ﹁ええ、役に立っていますよ。この間も使ってみました﹂ ん?役に立っているのか?危なく殺されかけたけど・・・。 ﹁そうかニャ、それは良かったニャ。で、話があるニャ﹂ なんだか猫先生の雰囲気がガラッとからり、よからぬ話が飛び出す のは目に見えた。 聞く前に逃げようか、でもドア方面は猫先生が陣取っており、振り きる必要がある。はたして逃げ切れるだろうか。 ﹁逃がさないニャ﹂ 読まれたか。 ﹁アタイの変身魔法をクルリ坊やに教えたニャ。あれは秘伝の大切 な魔法ニャ。おいそれと教えることのできる魔法ではないニャ﹂と ても恩着せがましい言い方だ。何かを突き付けられるな。 ﹁それはとても感謝しています﹂ ﹁でも、ただで教えてもらえるほど、世の中そんなに甘くないニャ﹂ ﹁・・・﹂ 331 猫先生の目が鋭くなり、ちょっとだけ怖い。もう黙って聞くしかな い。小指をとられるのだろうか。 ﹁クルリ坊やには魔法を伝授したニャ、その恩を今返してもらうニ ャ﹂ ﹁何をすればいいんですか?﹂ ﹁アタイに変身して授業を代わりに行うニャ﹂ ﹁俺がですか?無理ですよ!﹂ ﹁大丈夫ニャ。今日は座学ニャ。黙ってみんなに書物を読ませてい ればいいニャ。授業なんて適当ニャ﹂ ・・・それでいいのか、猫先生! ﹁でも、大丈夫ですかね﹂ ﹁大丈夫ニャ。アタイみたいに上品に振舞うのは無理だと思うけど、 きっとそれも違和感くらいで終わるニャ﹂ 俺に品がないとでも? ﹁んー、大丈夫かな?そういえばその間、猫先生はどちらへ?﹂ ﹁春が来たニャ、外が温かいニャ。生物が暮らすには一番いい季節 ニャ。体力が余るニャ﹂ なんだか何を言っているのかわからない。 ﹁いや、だからどちらへ?﹂ ﹁わからない子だニャ。温かくなってムラムラするニャ﹂ ﹁・・・はい﹂ それ以上は聞かないことにした。興味がない訳じゃない、むしろめ ちゃめちゃ興味深い。 でも感情を押し殺した。それが無難だと悟ったのだ。 ﹁今回だけですよ﹂ ﹁わかったニャ。感謝するニャ、それにちゃんとお土産は持って帰 332 るニャ﹂ ﹁はいはい、期待して待ってます﹂ いい一日になるはずが、すごく大変な一日になった。 ばれたらどうなるのだろうか。と言うより、俺が授業に出れないで はないか。 ﹁授業は出てることにしとくニャ﹂という不正の恩恵にあずかるこ とになったので、そこは解決した。 一応隣のヴァインの部屋に行き、﹁今日は体調が悪いので朝の授業 は休む﹂とだけ伝えておいた。 授業の開始チャイムがなり、C組の教室に生徒が全員集まった。 俺は教室にいるのだが、変身魔法で猫先生の姿になっている。誰も ツッコまないので問題のない格好なのだろう。 授業が始まっているので、全員の顔がこちらを向いていた。まずい、 授業の開始時って何を言うんだっけ? ﹁じゅ、授業を始めるニャ﹂ 猫先生ってこんな感じだろうか。 教室がやけに静かな気がする、・・・みんな真面目に話を聞いてい るだけか。ちょっと冷静にならないとな。いちいち気にしていたら 心がもたない気がする。 ﹁教科書を開くニャ。今日は性質変化魔法の理論について学ぶニャ。 とりあえず自分で読んでみるニャ﹂ 俺の指示通り、全員が教科書を開いて読み始めた。 よかった、今はまだ怪しまれていないみたいだ。みんな集中して読 333 んでいるので、これでしばらくは大丈夫な気がする。 それからしばらくして、ずっと教壇にいるのもおかしいかなと思い、 教室を周ることにした。この方が何かあると生徒も質問しやすいだ ろう。 早速ウロウロしていると、机の角に腿を思いっ切りぶつけた。 ﹁おふっ﹂ガッと、鈍い音がして、同時に変な声が出てしまった。 猫先生の体は幅があるので、いつも通りに歩くとぶつかってしまう。 これは予想外の出来事だ。一瞬あまりの激痛に魔法が解けかけた。 ﹁大丈夫ですか?﹂ ぶつかった机の女生徒が心配そうに声を変えてくれた。 ﹁大丈夫ニャ。邪魔をしてすまないニャ﹂ ﹁でもすごい声出てましたよ。男の声みたい﹂ ﹁ちょっと失礼よ﹂と隣の子が注意し、なんとか事なきを得た。し かし、危なかった。非常にあぶなかった。 ぶつかった直後もそのまま歩を進めた。 今度はぶつからないように注意して歩く。・・・まずい、思った以 上に自分の歩き方がたどたどしい。 違和感丸出しだ。ぶつかった時点ですぐに教壇に引き返すべきだっ たな。 ﹁先生﹂こんな時に限り、声はかかってくる。 ﹁どうしたニャ?﹂ ﹁ここの部分がよくわかりません﹂ 腰を折って指さしている部分を見た。ああ、これか。 すぐにわかる内容だったので答えてあげた。 ﹁ああ、そういうことなのですね。すごくわかりやすいです﹂ 334 それを見ていた隣の生徒が、じゃあ私も、と声をかけてきた。 またも初級的な質問だ。 これもちゃちゃっと答える。 これ以降一気にダムが崩壊したように質問ラッシュが来た。A組の 理論授業は静かなものだが、C組はそうもいかないらしい。これは これでいい気もするが。 ﹁すみません﹂そんなとき聞きなれた声を聴いた。 クロッシだった。ああ、そういえばC組だったな。 ﹁ここよくわからないのですが﹂ 指された場所を確認する。ああ、これか。 ﹁これはこう解釈すればいい。ちょっとページを戻ってみて﹂ ﹁先生、言葉が・・・﹂ ﹁・・・﹂ やってしまった。慣れたクロッシ相手だったので、ついリラックス して素が出てしまった。 これは非常にまずい。毛の奥の素肌から汗がスーと垂れるのを感じ た。どうしよう。 ﹁・・・愛嬌ニャ﹂苦し紛れのいいわけだ。 ﹁愛嬌?あれがですか?﹂ ﹁あ!!もうこんな時間ニャ。みんなそろそろ授業を終えるニャ!﹂ ドカドカと机にぶつかりながら、教壇に戻った。すごく痛い。 ﹁じゃあ解散ニャ。ページ134−241は良く復習するニャ﹂ それだけ言い残し、すぐに教室を出た。 335 さっさと帰ろう。まだバレた訳じゃない。逃げ切ったら勝ちだ。 ﹁先生!﹂ 逃げたように教室を出たわけだが、一人の生徒が追ってきたようだ。 この声は間違いなくクロッシだ。恐る恐る振り返る。 やはりバレてしまっただろうか。 ﹁先生、腿の部分が剥げています﹂ 指さされて、腿の部分を確認すると、小さな一部分だけ人間の素肌 に戻っていた。 ﹁・・・じゅ、十円禿ニャ﹂ ﹁十円禿!?先生ストレスでも溜まっているのですか?﹂ ﹁そうだニャ。教師は大変だニャ﹂ ﹁がんばってください。今度専用のクリームをあげますね﹂ ﹁ありがとうニャ﹂ 優しい子だ。 でもね、猫先生はストレスは溜まっていないよ。むしろ発散させに 行ってるから。 ストレスが溜まっているのは俺の方です。 336 337 2章︳16話 学園生活が平和に過ぎていき、夏季休暇の迫る学期終わりが来た頃、 朝一にトトから試作品完成の報を受けた。 ﹁全体的には前回から大きくは変えていない。天然の顔パックだ。 要望通りプルプル効果と、香りをつけてみた。香りはしつこくない ように優しいフルーツの香りにしておいた﹂ ﹁流石だな﹂ 試しに一枚手に取り、嗅いでみた。確かに優しいフルーツの香りだ。 若干の酸味が入っているのが、さっぱりとした印象を与えてくれる。 予想していた以上の出来だ。 ﹁使ってみたか?﹂ ﹁もちろんテスト済みだ。効果も確認した。僕に抜かりはないね﹂ ﹁いや、実際に自分で使ってみたかってこと﹂ ﹁いや、まだだけど﹂ ﹁よし、じゃあ使ってみよう。今から二人で﹂ ﹁いまからか!?・・・まぁいいけど﹂ ﹁決まりだな。ビニールハウスを出て早速試そうか﹂ ビニールハウスから出て、二人で手ごろなベンチを二つ運んできた。 一人で寝転がるようにそれぞれ使うのだ。 ベンチが揃い次第、早速顔パックを始めた。 二人とも慣れていないので、隣でトトがもぞもぞ苦しんでいるのが 分かった。 俺もなかなか定位置に貼れないので、もぞもぞしている。あー、も 338 どかしい! しばらくして、隣のトトが静かになった。先に上手く貼れたようだ。 羨ましい。 それから俺もうまくいき、しばらくの安静タイムに入った。 日陰にいるので外の暑さはあまり気にならない。 たまに吹く風が気持ちいい。 顔に緑の葉っぱを貼り付け、ベンチで寝そべる。・・・俺なにやっ てんだろ、っていう気持ちがわいてくるがそこは考えないようにし よう。ただ一つ、部屋でやればよかったという後悔はどうしても消 えなかった。 ﹁なぁ、トト。効果はどうだ﹂ 横に寝そべるトトに聞いてみた。 ﹁わからない﹂ 全く同じ感想だった。顔がむず痒い以外の感触がないのだ。これは 効果があるのか!?若干の不安が襲ってきた。 ﹁なぁ、クルリ﹂ ﹁なんだトト﹂ ﹁これは部屋で試したほうがよかったのではないか?あと何時間こ のままでいるつもりだ?﹂ ﹁・・・﹂ 気まずいので押し黙り、寝たふりをした。 何時間か経ち、本当に眠りついて起きた時には既に真昼を迎えてい た。 あまりの暑さで起きてしまったようだ。顔パックした顔は汗でベタ 339 ベタになっていた。 おおよそ3時間ほどのテストか、まだ試したいが何しろ暑すぎても う我慢できない。すぐさま右手でパックをはぎ取り、起き上がった。 ﹁ぷはー!﹂なんだか久々に息をした気分だ。暑い空気なのにやけ に涼しく感じられた。 ﹁おきたかい、クルリ﹂ ﹁トトはもう起きてたのか﹂隣を見ると既にトトは起き上がり、顔 パックも外していた。 ﹁・・・おい﹂いや、今はそれはどうでもいい。一つ明らかに気に なることがある。 ﹁そうだよ﹂ ﹁顔がつやつやのプルップルじゃないか!!﹂ トトの顔は綺麗に磨き上げられた大理石のように輝いていた。たっ た3時間のテストだったはずなのに恐ろしい効き目だ。 ﹁君の顔もそうだよ。ほら、鏡﹂手渡された手鏡を見て、驚いた。 自分の顔がピッカピカしているのだ。指でほっぺを触ると、ああ吸 いつくわぁ。 なんだか新しい扉を開けてしまいそうになる気分だ。 ﹁すごいな!肌が生まれ変わった気分だ﹂ ﹁僕も自分の才能が怖いね﹂ トトは誇らしげだ。なんだか俺もうれしい。 ﹁でもこれで欠点も見つかったな﹂ ﹁確かに、暑すぎる。これじゃ我慢しなくちゃならない。夏は厳し いな﹂ ﹁弱点は明確だ。今この顔パックに必要なのは﹃ヒンヤリ効果だ﹄﹂ 340 ﹁ヒンヤリコウカ?なんだそれは﹂ ﹁肌に当たった時に冷たく感じる効果を追加するんだ。それで弱点 を補える﹂ ﹁でももう間に合わないぞ。夏休暇はもう目の前だ﹂ ﹁いや、今回はこのままでいい。奥様方には、絶大な効果を味わっ てもらうと同時に、不満も味わってもらおう。そして次回、ヒンヤ リプラスを高値で売り出す。どうだ?﹂ ﹁流石だな﹂ 二人で見つめ合い、不思議と笑いが立ち上ってきた。 おぬしもなんちゃらのやつみたいだ。 ﹁また二人で楽しそうにしてるね﹂ このいやらしい空間に颯爽と割り込んだのはアイリスだ。 今日もトトのビニールハウスに来ているみたいだ。 ﹁楽しいさ。楽しいことだらけだ﹂ ﹁それは良かったね﹂ ﹁そういえば、アイリスの野菜の件はどうした?﹂ この問いかけにトトはまたも誇らしげな顔をする。どうやら抜かり はなさそうだ。 ﹁顔パックと同時に完成させてある。空き時間に両方を同時に進め ていたからね。今日はその件でアイリスに来てもらっているのさ﹂ ﹁それでか﹂ ﹁うん﹂アイリスがいつもの純粋な笑顔で返してくれる。夏に見て もさわやかな笑顔だ。 ﹁さて、研究の成果だが、もちろん改良には成功した。これがその 種だ﹂ トトの指がつまんだ種を覗き込む。何ら変わり映えしない種の様に 341 も見える。 ﹁芋系、葉野菜系、根野菜系、穀物系、果実系の種類を作ってある。 どれも通常の10倍の大きさにはなるはずだ。今日ここの空いた土 地に植える予定だ。といっても収穫までには僕の観察がまだ必要で はあるが、一応の完成はみた﹂ ﹁すごーい﹂ キャーと言わんばかりにアイリスの目が輝いている。アイドルでも 見ているかのようだ。 ﹁あのぉ、先に何粒か分けてもらえませんか?﹂ ﹁いいけど、まだ僕の観察も必要だ。完全な完成品ではないのだが﹂ ﹁トト、いいだろ?﹂ ﹁別にいいけど、他で育てたものが失敗したとしてもそれは僕の失 敗ではないからな﹂ ﹁そんなことアイリスだってわかってる、そうだろ?﹂ ﹁うん、大丈夫﹂ アイリスはトトから種を受け取り、またも一段と目を輝かせた。 ﹁家族のところに送るのかい?﹂ ﹁うん﹂ 貴族の学園に来てもアイリスの変わらない純粋さには頭が下がる思 いだ。変わらない家族愛。自己犠牲の精神もそこにはある。 俺も見習うべきだと思う。 ﹁郵便の収集は夕方からだ、種はその時に送ればいい。さっそくだ けど、今からこの種を植える作業に入ろうか﹂ ﹁二人も手伝ってくれるの?悪いからいいよ、私一人でやるから!﹂ ﹁いや、俺も結構興味があってね。是非一緒にやらせてくれ。その 代り成果が出たら俺も種を貰いたい﹂ 342 ﹁それは私じゃなくて、トトに、だね﹂ 二人でトトの方を向いた。 視線に気づき、若干気まずそうである。こういうのには慣れていな いのだろう。 ﹁その種の権利はもう君たちにあげたものだ。これからどうなろう が、それはずっと君たちの物だ。僕には興味のないものだし﹂ ﹁あはっ﹂アイリスの顔を晴れ渡った。 ﹁じゃあ成果がでたら、クルリと山分けだね﹂ ニコッと笑いかけてきた顔がなんともかわいかった。あのぉ、もう 一度やってくれませんか? ﹁言っておくけど、僕は力仕事は無理だから﹂ 浮かれている俺とアイリスに現実が付きつけられる。 土地を自由に使っていいとのことだが、耕されている空き地などな いのだ。 トトから指示された収穫量分の土地となると結構な広さになる。 二人で耕すには随分と辛い作業量になる気がする。 ﹁がんばろっか﹂アイリスのその言葉にはどうも元気がなかった。 元気が出るはずもないのだが。 仕方ない。あれだけは使いたくなかったが、アイリスを落ち込ませ るよりはましだろう。 ﹁アイリス、今から少し不快な思いをさせるかもしれない。でも、 耕す作業は格段に速くなると思う。それでもいいかい?﹂ ﹁もちろん。クルリがやるなら私は何も異存はないよ﹂ 同意も得られた。それでも気は進まないが、あれをやる準備に入っ 343 た。 魔力を手のひらに名一杯集める。 それを傍にある花へと注ぐ。前回の反省を生かして、今回は狙いを 定めた花、5つだけに魔力を注ぎ込んだ。 ﹁現れよ、目に見えぬものども﹂ 魔力が花に吸収されるように消えていった。 以前にも聞いた、大地の中からロープをバチバチと千切るような音 がする。 そして前回と同じく、土が盛り上がり奴らは這い出た。 前回100匹ほど出てきたそいつらと違い、今回は5匹限定だ。 ﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂﹁ウィッ﹂ 奴らの顔をみて、頭を抱えこむ。あれから魔法は上達したはずなの に。 前回同様、目の前には堀の深いおやじ顔の大根たちがいた。失敗だ。 この魔法に関して俺は才能がないのかもしれない。 奴らは短い手足を最大限に広げて、この世を謳歌するがごとく跳ね まわっている。 5匹だけにしてよかった。前回ほど蹴りたい衝動には襲われない。 ﹁なにこれ?﹂ アイリスが俺と大根たちを交互に見る。挙動が少しおかしい。 まずい、思った以上に不快感を与えてしまっただろうか。 ﹁魔法生物。見た目はあれだけど、忠実に働くいいやつだから﹂ ﹁かわいいー!!﹂ そう言ってアイリスは大根の一匹を捕まえて、抱きしめた。 344 ﹁なにこれ?かわいすぎる!!クルリ、見て!この子たちかわいい よ!﹂ ﹁・・・﹂ なんだろう、この言葉にならない気持ちは。 今すぐこいつらを葬ってしまいたい。 ん?俺はこいつらに嫉妬しているのか?大根に? そう考えると途端に恥ずかしくなった。これじゃ、大根に負けたみ たいじゃないか。 ﹁ウィ∼﹂抱きしめられた大根が、少しいやらしい声を出した。 俺は間違いなく聞いた。あいつは今、ウィ∼と言った。間違いなく いった。いつもウィしか言わないのに、今ウィ∼といった。 絶対に顔だけじゃなく、中身もおっさんに違いない。 出なきゃあんな声は出さない。 アイリスに抱きしめられた大根の頭の花を掴み、放り投げた。 ﹁いいからさっさと働け﹂ ﹁ウィッ!ウィッ!﹂ウィッ!﹂﹂投げられたそいつから壮絶な抗 議があったが、前回みたく数が多くないから特に迫力はない。無視 して問題ない。 ﹁こらっ!クルリ、ひどいよ。こんな弱い子たちをイジメて﹂ えっ?俺が怒られるの?だってあいつが・・・。 ﹁もうこんな乱暴はしないでね﹂ ﹁はい・・・﹂ 投げ飛ばした奴はアイリスに優しくなでられていた。少し顎を上げ、 俺を見下すように笑っている気がする。なんだこいつは、前回の雑 草たちがかわいく思えてしまうほど憎たらしい。 345 散々こき使った後、即大地に返してやる。待っていろ、大根どもめ! 早速人間二人と、大根5匹で畑を耕す作業に入る。 それぞれの場所分担を決め、作業開始だ。 鍬を持って耕す。久々の力仕事だ。気持ちのいい汗が流れる。 たまにはこういうのも悪くない。勉強ばかりでは体に悪いというも のだ。 ちらっと大根たちを見たが、概ね真面目に働いている。やはり、命 令には忠実なようだ。 これなら俺も自分の作業に集中できる。 そんなとき一匹の大根がこけた。振り上げた鍬でバランスを崩した のだ。 あ、さっき投げ飛ばした奴だ。 すぐさまアイリスが駆け寄り、起こしてあげた。 頭を撫で、優しくいたわっている。 ﹁大丈夫?きつい仕事をさせてごめんね﹂ ﹁ウィ!﹂問題ないと主張するかのように、きりっとした顔をして いる。かっこつけやがって。腹立つ。 ﹁やっぱりかわいいー!!﹂ それを見てアイリスが大根を抱きしめた。 ﹁ウィヒヒヒ﹂大根の顔がかつてないほどにいやらしくなっている。 全力で駆けた。 すぐに頭の花を掴み、アイリスの傍から遠ざけるため投げ捨てた。 ﹁クルリ!なんてことするの!?﹂ ﹁今あいつウィヒヒヒって!、ウィヒヒヒって言った!﹂ ﹁もう!なに!?ふざけるならクルリでも帰ってもらうよ!﹂ 346 ﹁だってウィヒヒヒって・・・﹂言ったもん。あいつ言ったもん。 叱られてとぼとぼと自分の作業場に戻る。ちらっと大根を見ると、 またも見下したようにこちらを笑ている。 殺す!あの大根だけは許さん! それから作業が再開したが、すぐに別の大根が同じようにこけた。 アイリスはまたも駆け寄り、だきしめる。悪知恵が働くようだ。俺 もこけてみるか? ﹁ウィヒヒヒ﹂ ﹁言った!今絶対言った!ウィヒヒヒって!!﹂ アイリスに忠告しに行ったが、またも追い出されたのは俺だった。 言ったもん、あいつ言ったもん! しばらくはそれが続き、気づけば俺だけ蚊帳の外に追い出されてい た。 大根め。今土に返したらアイリスが怒るだろうし、さてどうしたも のか。 アイリスがあの大根たちに汚される。そんなの嫌だ。 どうすればいいんだ。どうすればアイリスを助けられる。 ﹁除草剤いる?﹂ 頭を抱える俺の頭上から、天の声が聞こえた。 トトの声だ。様子を見ていたらしい。友よ、よくぞ差し入れてくれ た。 結局大根たちにはいい思いをしてもらうことにした。 存分に楽しむがよい。働き終わった後に待っておけ。 347 そして、この日。俺は大根暗殺事件を引き起こすのであった。 348 2章︳17話 期末のテストが近づくこの頃、俺は勉強にあまり集中できないでい た。 トトと作り上げている試作品が気になり、毎日ビニールハウスに通 ってしまうのだ。 それはトトも同じで、﹁僕は別にテストの点とかどうでもいい、そ う薬草さえあればね﹂というどこかで聞き覚えのあるフレーズが彼 の理屈だ。 しかし、気になるもう一人の人物も来ていた。 アイリスだ。 ﹁君はテストに集中しなきゃダメだろ﹂と注意したのだが、﹁野菜 たちが気になってしょうがないの﹂と上目遣いで言われればそれ以 上言う訳にもいかなかった。 結局夜まで3人でいて、それから帰る日々が続いた。 アイリスは夜から勉強するらしい。真面目で素晴らしい。 俺の部屋には変な二人がいるからなかなか集中できない。 ﹁二人は勉強しないの?﹂と聞いてみたが、明日からやる、と現実 逃避中だ。最近になってやっと二人とも本腰を入れて勉強している。 俺の部屋で・・・。 そんな平和な毎日が過ぎていくなか、ある日事件が起きた。 今日ビニールハウスに一番にやってきたのは俺だった。 珍しい。 349 いつもはトトがいるのだ。今までで初めてかもしれない。 先に作業を始めておくかと思ったが、すぐに異変に気が付いた。 ビニールハウスの裏にあるアイリスの畑が荒らされていたのだ。掘 り返されたものや、単にふみつけられたものまで。 アイリスへの嫌がらせだろうか。 反吐が出そうなことをする。許せない。自分の中ですごく怒りがわ いてくるのが感じられた。 こぶしをぎゅっと握りしめ、その気持ちを押し殺した。 でも完全に荒らされたわけじゃない。今日がんばって修復すればな んとかダメージは少なく抑えられるだろう。 少しの間一人で思案して、あたりを見回すとビニールハウス内にも 異変があることに気が付いた。 急いで入ってみる。 ビニールハウス内はもっとひどいことになっていた。 どの薬草たちも千切られ、無事なものは一つとしてない。 ﹁顔パックは!?﹂ 一番大事なものを思い出し、特別に設けた加湿してある部屋に入っ た。 ﹁ダメか﹂顔パックの植物は既になかった。他のものはいたぶられ ていたが、これは持ち去られたようだ。 何もこんな時期に、怒りよりもなんだか脱力感の方が大きかった。 気持ちの沈みが激しく、なんだか立っているのがしんどくなり、そ の場に座り込んだ。﹁なんでだよ﹂ 最初はアイリスへの嫌がらせだと思った。 けど、ビニールハウス内の惨状をみて考えを変えた。 ターゲットはこのビニールハウスのものだ。 350 となると、ターゲットは俺か?トトか? 考えてみたが、俺に心当たりはない。 トトは・・・、わからないが、今日いないのがすごく気になる。 なんだか考えるのも嫌になってきた。 ビニールハウスから出て、外の空気を吸った。気分は全く晴れない。 しばらくしてアイリスがやってきた。 俺と同じように驚きと悲しみの声をあげている。 ﹁どうして?﹂ 俺も聞きたい。ただただ、状況の整理がつかないのだ。 ﹁わからない﹂ とりあえず片付くところは片づけようというアイリスの提案に乗り、 二人で散らかった物を集め始める。 ﹁悲しいね﹂ ﹁うん、とても悲しい﹂ ﹁私クルリの悲しんでいる顔なんて見たくなかった。これをやった 人を許さない﹂ ﹁・・・うん﹂ アイリスが何度か優しく声をかけてくれるが、今の俺の心にはあま り響かない。 もう帰って、寝てしまおうか。そしたら考えずに済む。それが一番 いいかもしれない。 ﹁トト!?どうしたの!?﹂ 隣で作業していたアイリスが急に駆けだした。どうしたのかと気に なり、頭を上げるとそこにはボロボロになったトトがいた。 351 ﹁どうした!?﹂俺もすぐさま駆け付ける。 ﹁すまねぇクルリ、大事な試作品がなくなっちまった。でも心配し ないでほしい、根っこと種はまだある。いまから作り直しても全然 間に合うからさ﹂ ﹁何言ってんだよ。お前こんなにボロボロになって。何があったん だ?﹂ ﹁何もないさ。それより忙しくなるからビニールハウスの中を整理 しないと。夏季休暇はもうすぐだから﹂ そう言って、トトは強引に手を振りほどきビニールハウスに入って いった。 トトの傷はどう見ても暴力によるものだ。 なんだか良くないことが起きている、それだけはわかった。 ﹁クルリ﹂アイリスも不安な顔をしていた。 ﹁俺に任せて、アイリスは外を頼む﹂ ﹁うん﹂ ビニールハウスの入り口をくぐり、中に入る。 中では何も言わず、せっせと動き回るトトがいる。 ﹁なぁ、何があった?﹂ ﹁すまねぇ。でも、夏季休暇には間に合うんだ。それさえできてい れば問題ないだろ?﹂ ﹁何があったか聞いている﹂ ﹁・・・すまねぇ﹂ 埒が明かない。なぜ何も話してくれないのか。なぜ、こちらを向い て話してくれないのか。 ﹁何か言えない理由でもあるのか?﹂ ﹁・・・すまねぇ﹂ トトの声は涙ぐんでいた。言えない理由があるのだろう。これ以上 352 追及するわけにもいかなかった。 なんだか俺まで悲しくなってくる。 ふー。俺は一度息を大きく吐き出し、気持ちを落ち着かせた。 ﹁まずは何をしたらいい?とりあえず散らかったこの中を整理すれ ばいいか?﹂ 考えてみたが、これが俺の今できることだ。これしかできそうにも ない。 ﹁すまねぇ。散らかった物を整理して、その後顔パックを再度作り 直す。・・・本当にすまねぇ﹂ ﹁ああ、わかった﹂ トトは涙を堪えながら作業を行っていた。あまり見られたくないの だろう、珍しく俺の前で人除けのコート来ていたのだ。 結局整理だけでこの日は夜になった。アイリスも遅くまで手伝って くれた。 ﹁僕はもう少し残って、今日のうちに顔パックの種を植えておく。 二人はもう戻ってもいい﹂ ﹁いや、俺も手伝うよ﹂ ﹁私も﹂ ﹁アイリスはテスト勉強があるだろ。帰ったほうがいい﹂ ﹁嫌!わたしもいる!﹂ アイリスの顔は怒っていた。こんな顔を見たのは初めてかもしれな い。 アイリスも相当頭に来ていたし、同時にトトのことも心配なのだろ う。 ﹁そっか、じゃあ3人で頑張ろう﹂ ﹁いや、僕一人で事足りるし﹂ 353 少し毒気づいたのは、トトだ。毒が出だしたということは少しは元 気が戻ってくれたらしい。 誰よりも今日悲しい思いをしたのは彼だ。 それが元気になってくれるのは、嬉しかった。 アイリスも同じように思っているらしい、同じタイミングで目があ った。 ﹁よし、がんばろっか﹂ 3人で手を取り、気合の掛け声を上げて種植え作業に入った。 種植えの手順を聞き、それを丁寧に行う。 二人も同じように行っており、夜ということもあり、すごく静かに なった。 集中しているといいのだが、集中が切れるとどうしても今日のこと を考えてしまう。 そのたびに怒りがわき、悲しみが起き、トトを問いただしたくなっ た。 でも、今は良くない。今聞いても話してはくれないだろう。いや、 これからも話してくれないかもしれない。 どうすればいいのだろうか、このまま水に流せと?残念ながら俺は そこまで大人になりきれていない。 ﹁おーい、クルリ!﹂ 辺りが完全に暗くなった頃、ヴァインとクロッシが駆けつけてきた。 手には差し入れがあるみたいだ。 ﹁遅いから、迎えに来たぞ﹂ 嫁か! ﹁その手のものは?﹂気になる荷物の正体を訪ねた。 ﹁夕食だ。食堂から持ち帰りさせてもらった﹂ 354 なんといういいやつだ。気の利く嫁か! ﹁ありがたくもらおう!﹂ アイリスと、トトもそれもを貰い、全て平らげた。やっぱり仕事の 後の飯はうまい。 心の元気も出てくるようだ。 ﹁これから力作業が少しあるから、ちょうどよかった﹂ ﹁任せろ。それよりも、どうしたんだ?散らかっているようだが﹂ ﹁・・・ちょっとね﹂ ﹁いたずらか?﹂ ﹁わからない﹂ ﹁師匠の物を荒らすなど許せません!許可を頂ければ私が斬ってき ます!﹂恐ろしいことを言っているのはクロッシだ。かわいらしい 容姿からは想像もつかない発言がたびたび飛んでくる。 それが彼のいいところでもある気はするが。 ﹁犯人は俺も斬ってやりたい﹂ でも、誰だかわからないし。一番悔しいはずのトトが犯人を隠して いるようなそぶりを見せている。 あまりことを荒立てない方がいいのかもしれない。 とりあえず今は動きたくても、動きようがないのだ。 ﹁だけど、いいんだクロッシ﹂ ﹁でも、師匠・・・﹂ ﹁俺も納得がいかないな。クルリのそんな悲しそうな顔を初めて見 た。何かあるなら俺に言え。斬ってくる﹂ 今クロッシにやらなくていいと言ったのに、すぐさまヴァインが斬 るとか言ってる。 怖いよこの二人、そして話を聞けよ。 355 ﹁大丈夫だ。とりあえず今は﹂ ﹁そうか。俺は心配だ。だが、クルリがそう言うのなら﹂ ﹁ああ、すまない。それじゃあ、作業を手伝ってよ﹂ ﹁ああ﹂ ﹁もちろんです!師匠!﹂ この日、5人で夜通し作業をした。 その甲斐あって、アイリスの畑も復活して、種植えもすんだ。 ビニールハウス内の環境も整い、﹁これなら間に合う﹂とトトから 安心する言葉も貰った。 でも、次の朝、起きても気分は晴れなかった。 むしろ今までで一番体が重い。 太ったか?そんなわけもなかった。 天気が悪いせいか?いや、外は晴れ晴れとしていた。 原因はいうまでもなくわかっているのだが・・・。 ﹁今日の朝は医学の授業か﹂ 休んでしまいたい気持ちもあったが、なんとか重い体を引きずって 授業に出た。 いまいち教師の話が頭に入らない。 だるいな。 早退でもしようか。 ﹁クルリ君、元気ないね﹂ いつも通りスルスルとレイルが近づく。 授業内容が徐々に難しくなった今でも構わず毎時間来るのだ。 356 今日もピタリと隣に引っ付く、いつもは引きはがすが、なんだか今 日はそれもどうでもいい。 ﹁おや?引きはがされない。もしかして僕を受け入てくれたの?﹂ なんてブラックジョークを言ってるが、それもどうでもいい。 ていうか、近くにいたらレイルのいい香りがする。流石はイケメン。 そういうところに抜かりはなさそうだ。 ﹁なんか、僕のことなんかどうでもよさそうな感じだね。じゃあさ ぁ、この情報はなんてどうかな?トト・ギャップ君のビニールハウ スを荒らした犯人の情報なんて﹂ レイルの話なんて、どうでもいい。 それはいつものことだが、今日はより一層どうでもいい。 もう何もかもどうでもいい・・・、えっ!?いまなんて? ﹁今、今なんて言った?﹂ ﹁僕には全く興味ないのに、必要な情報があったらすぐにこれだ。 ひどいよねー。僕は都合のいい女ですかって?﹂ ﹁いいから、さっきの情報を言え﹂気が付けばレイルの肩をがっし りつかみ揺らしていた。 ﹁痛いよ、初めてなんだから優しくね﹂ ﹁もういいから、そういうのいいか!﹂あー焦れったい!早く言え !! それにしても、レイルはなんでそんなことを知っている。嫌に耳が 広いよな、とか思ってしまった。 ﹁僕は一応王子の付き人だからね。情報収集は得意なんだ﹂ なんか考えを読まれた。きゃっ、恥ずかしい。いや、いいから言え や! ﹁僕はクルリ君が好きだから、役に立つ情報は流してあげたい。で 357 もね、僕だって情報収集でいろいろと犠牲を払っているんだ。タダ、 と言う訳にはいかないなー﹂ ﹁金か?金ならある。いくらだ?﹂ ﹁わかってないなー。僕が欲しいのはク・ル・リ・君なのに﹂ 気づけばレイルの首を絞めていた。 ﹁ごめん、ごめん。冗談﹂ 手を放してやった、けど次は許さん。 ﹁情報料は、エリザとの手紙。それだけでいいよ﹂キラッとレイル のウインクが飛んできた。 ・・・こやつ、どこでそれを!? ゾッとして、全身に鳥肌がたった。 ﹁エリザを丸め込んだんだって?すごいよねー。クルリ君はいつも 僕の想像の上を飛んでいく。流石としか言えないよ。手紙、読みた いなー﹂ ﹁・・・手紙でいいんだな。わかった﹂ 俺は意を決した。恥ずかしい。恥ずかしいが、昨日の真相がわかる のだ。 それに比べれば俺の個人的な羞恥心などどうでもいい。 ・・・どうでもいい!どうでもいい!どうでもいい!大事なことな ので3回念じてみた。 ﹁なんてね。それも冗談。情報はただであげる。はい、これ﹂ レイルがポケットから出したのは封筒だった。 ﹁この中に詳細を書いたから。見たかったら見なよ﹂ ﹁いいのか?﹂ ﹁うん、僕はクルリ君が好きだからね﹂ 358 レイルから手紙を受け取り、それをポケットにしまった。 授業中、内容を見るべきか、見ないべきか悩んだ。 見たいが、トトはそれを隠していたのだ。 色々考えたが、レイルは俺に情報をくれたということは内容を知っ ているのだろう。 それでいて、渡してきた。 きっと見るべき内容なのだろう、と思う。 レイルがそう言っている気もする。 ﹁レイル、ありがとう。この恩は絶対返すから﹂ ﹁それは楽しみにしておかなくちゃ。一体何を返してもらえるんだ ろうか?いいものだといいなー﹂ 359 360 2章︳18話 部屋に戻り、早速封を開け、中の用紙に書かれた内容を見てみるこ とにした。 報告書と記載されたその用紙に目を通す。 ﹃実行犯、リーダ格のモーリ・ギャップ、トミル・ゲイン、ライア ン・クリストファー。 午後16時頃、ビニールハウス内に侵入。 トト・ギャップと揉めた挙句、ビニールハウス内を荒らす。 その後モーリが手に何かの植物を握りしめビニールハウスから出て くる。 傍にあった畑も3人で荒らして、その場を去る。 トト・ギャップがしばらくして3人の後を追ったが、途中で返り討 ちにあう。 トミル、ライアンはトトとの直接的な関係はなし。 モーリはトトと同じ領の人間だと確認。 本家のモーリと分家のトト。トトが一方的にやられた理由はこの関 係性ゆえだと考えられる。 以上、今回の報告となります。 報酬はいつもの支払い方法でお願いします。 前回依頼分の、エリザ・ドーヴィル、クルリ・ヘラン交友調査の報 酬が支払われていません。 急ぎ支払いの方をお願いいたします。﹄ おい!最後!! 361 あいつめ! こんな情報網を持っていたなんて知らなかった。 無駄なことに金を使うんじゃないよ! いや、今はそれはどうでもいいことだ。いずれ文句はつけるが、今 はこの報告をありがたくいただくことにしよう。 この報告書を読んだ今の感想を一言で言い表そう。 ﹃怒り﹄だ。 内容から察するに、明らかなトトへの嫌がらせでしかない。 しかも本家と言う立場を悪用した卑劣なやり方がそこには読み取れ る。 一対一のやり取りですらない。あの運動不足なトトに3人も寄って たかったのか。 トトはボロボロになりながらも後を追ったことも読み取れる。 なんだか、トトの痛みが手に取るように分かる。 悔しかっただろうな。 それにしても、実に簡潔でわかりやすい報告書だ。今度俺も依頼し てみようかな。 どこの誰に頼めばいいのかな。 いや、今はそんなことはいい。 許せない!この三人に仕返しがしたいと思った。 トトが手を出せない理由もわかった。手を出せば自分だけじゃなく、 家族にまで影響が及ぶのだから仕方がない。無理に追求しなくて良 かったと思っているよ。 362 となると、俺も正面からやり返すわけにはいかない。トトとの関係 性は知られているだろうし、俺がやり返せばそれはつまりトトがや り返したことにつながるのだ。 でもこのまま黙って、許してやる気にもなれない。 何よりこのまま放っておいたらいつまた嫌がらせをしてくるかもわ からないのだ。 鉄拳制裁を加えてやる必要がある。 色々考えたのだが、どれもこれもうまくいきそうにない。 何かないか、トトに迷惑をかけることなく奴らに鉄拳制裁をする方 法が。 結局思いつかなかった。俺は平和な人間だと思った。 友達のための仕返しの方法一つ思いつかないのだ。情けない。 この日はいろいろと考えながら眠りについた。 寝つきも悪く、いろんなことを思い出してしまう。 そんな夜は決まって悪夢を見るのだ。 朝起きて、鏡越しに真っ青な顔した自分を見た。 昨日見た夢が相当にひどかったのだ。ああ、思い出すだけでゾッと する。暖かい日なのに鳥肌がおさまらない。 もうあんな夢は二度と見たくない。 ・・・だが、悪夢でもいいアイデアとなった。 鏡に映る自分の顔がニヤリと笑う。悪夢だったが、いい夢を見た。 ﹁よし﹂ 是非俺もこれをやろう。 日中、授業の休憩の合間にモーリ・ギャップなる人物を探した。 363 聞きこみをしていくうちに、D組にその人物がいることが分かった。 早速ちらりとクラス内を覗く。 いた!聞いた通り金髪でケツ顎の男。取り巻きからモーリと呼ばれ ているので、間違いないだろう。 見るからに憎たらしい顔だ。今すぐ飛びついてぶん殴ってやりたい。 まぁ待て、別に逃げらるわけじゃない。自分を落ち着かせてその場 を後にした。 放課後、すぐさまD組へと行き、モーリを追跡する。 報告書にあった取り巻きの二人と一緒に教室をでた。 どこかへむかっている。こそこそと後を追う。 着いたのは、校舎の隅の一角。 いつも彼らがくる場所なのだろう、その一角には彼らの物と思われ るものがちらほらと並んでいた。 そこにトトから奪ったと思われる、顔パックの植物もある。既に枯 れ果てて、もう使い物にはなりそうもない。 ﹁おい、昨日のトトの顔は面白かったよな。あいつこんなもののた めに必死になってよ。バカみたいだよな﹂モーリがそう言って、取 り巻きの二人が笑う。 思った以上に下種な奴らだった。 ﹁また植えたらしいからさ、育ったらまた盗りにいくか!﹂ ﹁いこうぜ。何なら今日でもいいくらいだ﹂ ﹁そうだな。ははははは﹂ もう我慢ならない。 奴らが笑って見せる白い歯がたまらなく俺の癇に触れる。 364 変身魔法を使い、自分の姿を魔法生物の大根たちと同じものにした。 大きさは人間サイズだ。 顔は例の堀の深いおっさん顔。手足は不自然なほど短い。 屈辱だ。こんな姿になるなんて。 どうしてこんなことをするのかと言うと、昨日見た夢にこいつが出 てきたのだ。 俺は等身大の大根たちにぼっこぼこにされた。除草剤を使ったこと に怒りをあらわにしていたのだ。 恐ろしい夢だった。もう二度と除草剤は使わないので許してくださ いとお願いしたほどだ。 屈辱的だった。 ならばこの屈辱ごとこの三人にぶつけてしまおうと、今朝思いつい たのだ。 ﹁何を楽しそうにしているウィ?﹂ ﹁な、なんだお前は!?﹂ 突如現れた俺に驚く3人組。まぁ驚くわな。 正体を聞いてきたか、なら応えてやるのが世の情け。 ﹁お前たちが先日抜いた薬草ウィ﹂ ﹁はぁ、バカか。そんなのありえねーよ﹂ 取り巻きの一人が噛みついてきた。流石にこの年にもなってそんな おとぎ話のようなことを信じるやつもいないか。 今頃になり、自分の悪手に気が付いた。 こうなったら暴力に訴える。 両こぶしを顔の前でかまえ、駆けだす。 365 取り巻きの一人が呆気に取られているうちに、懐に潜りこみ顎への 強烈な一撃をお見舞いした。 ﹁ゴふっ﹂うめき声を上げながら一人が倒れる。 すかさず振り向きざまにもう一人の取り巻きの鼻柱に鉄拳をお見舞 いした。 ﹁あああ!!﹂ 悲痛な声をあげてそいつも倒れた。 後は一人。 と、そのとき後ろから飛び乗ってくる男に押し倒された。 押し倒されるなか何とか反転できたが、完全に上をとられた。 腹の上に乗られ、振り下ろされるこぶしをもろに顔に受ける。 ﹁死ね!死ね!死ね!﹂暴言と共に降ろされるこぶし、何とか手で 払い最初の数発以外は直撃を免れている。 しかし、不味い。このままでは魔法が解ける。 状況を打開しないといけない。 振り下ろされるこぶしを一つ受け流し、一瞬のスキをついて手首を つかんだ。それをすぐさまひねる。 ﹁いたたたた!﹂ モーリは間接をひねられ、その痛みを逃れるため体を投げ出した。 これにより、何とか乗っかられている状態からは回避できた。 反撃開始だ。 ﹁くそっ、死ね!﹂ 反撃開始とこぶしを構える俺に、モーリはなんと炎魔法をぶっ放し てきた。 喧嘩に魔法はご法度だろ!!と思ったが、向こうからしたら謎の生 物に襲われているのだ、自己防衛なので仕方ないのだろう。 366 炎は俺の頭の草に引火し、燃え広がる。 ﹁あつっ、あつっ、あつっ、あつっ、うわあっつつつつつつつつつ つ﹂ 足をバタバタさせもがく、手が短くて頭のてっぺんに届かない。 もがいているうちに、とうとう魔法が解けた。 ボンと現れる人間の姿。 ﹁お前は、クルリ・ヘラン!はっ、トトのやつの頼みで仕返しにで も来たのかよ!﹂ ばれてしまったか。 しかも予想通りトトとの関係性も知っているようだ。 ﹁トトに頼まれたわけじゃない﹂ ﹁そんなこと知るか。お前をぶっ潰した後にあいつも絞めてやる。 俺に逆らったことを後悔させてやるからな﹂ ﹁本当に今回の襲撃はトトとは関係ない。俺の独断だ﹂ ﹁うるせー。俺がどうしようとてめーには関係ないだろ﹂ ﹁謝るから。俺のことは好きにしていい。だからトトには手を出す な﹂ ﹁は?だからてめーもつぶすし、トトの野郎もつぶすって言ってん だろ!!﹂ それを聞いて、頭の中でブチっと何かがキレた音がした気がする。 こんな感情ははじめてだ。こぶしが少し震えていた。 力強く足を踏み出し、気が付けばモーリを殴り飛ばしていた。 殴ったときに鈍い、変な音がしたのが聞こえた。やつの骨に何か起 きたのかもしれない。 でも、もういい。もう我慢するつもりはない。 367 ﹁これだけ譲歩してもダメなのか。ならもう我慢はしない。お前が これ以上何かしてくるのなら俺はお前は許さない。クルリ・ヘラン の名に懸けてお前をぶっ潰す。トトに手を出したらぶっ潰す。俺の ものに手を出したらぶっ潰す。俺の知らないところで何かしてもぶ っ潰す。わかったか!!﹂ ﹁な、なんなんだよ﹂ 最期に何か小声で言い返してきたが、何を言われたかはよくわから なかった。 取り巻きの二人に連れられて一行は去った。 ・・・やってしまった。 自分の浅すぎる策と、結局トトに迷惑をかけてしまうことになって しまったことを後悔している。が、もうやってしまった。仕方がな いが、やはりふがいない。 ﹁申し訳ない﹂ そっとそんな言葉が出てきてしまう。 この日俺は教師に呼び出された。 暴力を行ったことを報告されたのだ。 もちろん言い分はあるが、それでも先に手を出したのは俺だ。 それに何か言い訳をしたい気分でもなかった。 三日間の懲罰部屋での生活が強いられるらしい。 とはいっても、反省を促すような部屋であり、特別に何か罰がある わけではない。 368 3日間頭を冷やせと言う訳だ。 懲罰部屋に入り、一日中考え事をした。 自分の行動が正しかったのかと。 間違っていたのだろう、と今は思う。浅はかだった。 放課後の時間になり、トトが一人でやってきた。 ﹁聞いたよ。モーリ達とやり合ったんだって?﹂ トトの問いに答えられなかった。顔もあわせられない。 ﹁三人とやり合うなんて無茶な。でもすごい勇気だよ﹂ ﹁ごめん﹂ ﹁そんなに自分を責めないでほしい。僕は今、結構スッキリしてる んだ﹂ 俺は頭を上げて、トトを見た。 予想外の言葉に驚いたのだ。 ﹁僕が怒っているとでも思ったのかい?最初はびっくりしたさ。で もね、僕は自分のことを思って戦ってくれた友達に怒りを向けるほ ど愚かじゃないよ﹂ ﹁でも、結果トトに迷惑をかけることになった﹂ ﹁別に死ぬわけじゃない。確かに苦労することになるかもしれない が、将来的にあの領にいるつもりもないし、少しだけだよ。それよ りも今のスッキリした気分の方が僕には何倍もうれしいのさ﹂ トトはそう言って、珍しくさわやかな笑顔を見せてくれた。 それからトトが帰り、色々と考えた。 今回の行動は・・・、結局答えなんて出なかった。 369 でも、考えて損はない気もした。 気持ちは落ち込んだが、そんな日もあっていい気もする。 7時になり、夕ご飯の時間が来た。 一日やることがないと、食事だけが楽しみになっていかん。開けら れる懲罰部屋の扉、さてさて夕ご飯はなんだろう。 ﹁面会のついでに、私が食事を届けることになりました﹂ ﹁エリザ!?﹂ なんと食事を運んできたのは、エリザだった。 どうして!?食事も気になるが、エリザも気になる。 食事はなに?どうしてエリザが? 食事のことが先によぎったので、やっぱり食事の方がちょっとだけ 気になっているみたいだ。 食欲恐るべし。 ﹁エリザ。どうして君が?﹂ ﹁クルリ様が懲罰室に入って退屈しているのではないかと思って。 書物の差し入れはいいとのことなので、私の愛読書を持ってきまし た﹂ ﹁ああ、ありがとう。﹃花の王子様﹄、なんともメルヘンな本だね﹂ ﹁ええ、でもこれが意外と内容の濃い物語なのですよ﹂ ﹁へー、ありがとう。本当に退屈していたから嬉しいよ﹂ ﹁まあっ、それは持ってきた甲斐がありましたわ﹂ エリザがにこりと笑った。 いつも冷静沈着なイメージのエリザが先日から大分印象が変わって きている。 見た目は冷たい感じの高嶺の花的な女性なのだが、こうして正面き 370 って話すと柔らかい雰囲気もある。 顔が綺麗なので、笑いかけられるとドキッとする。勘違いしてしま いそうだ。 ﹁クルリー。来ちゃった﹂ そんないい雰囲気のなか、扉が開けられ、これまた笑顔のアイリス が入って来た。 ﹁あ﹂ すぐさまエリザの存在に気が付いて、固まるアイリス。 ﹁お邪魔でした?﹂ ﹁いや、そんなことないよ。来てくれてうれしい﹂ ﹁そう?じゃあ、入るね﹂ そう言って入り、エリザの隣に座った。 ﹁エリザさんも来てたんだね。私、アイリス、知ってる・・・よね ?﹂ アイリスは若干気まずそうにエリザに声をかけた。 ﹁ええ、存じ上げておりますよ﹂ エリザの雰囲気が鋭くなった気がする。なんだろう、この嫌な感じ の空気は。 ﹁あのね、クルリ授業に出られなかったから、ノートの写しを持っ てきたの﹂ ﹁ノートを!?ありがとう!!いやー、授業に出られないから不安 だったんだよ。テスト近いし。助かるよ﹂ ﹁うん、きっと欲しがってるだろうなーって﹂ ﹁アイリスは気が利くなー。きっといいお嫁さんになるよ﹂ ﹁そんなことないよ﹂そう言って、頭をかいて照れ隠しをしている。 アイリスは褒めるとすぐ浮かれるのだ。 371 ﹁今夜はもう遅いですね。食事をとった後はどうするのですか?﹂ エリザからの問いだ。 ﹁ああ、やっぱりテストも近いし少し勉強して眠ろうかと思ってい るけど﹂ ﹁ということは、そのノートの写しを見て眠るのですね﹂ うっ。エリザの言いたいことがわかってきた。 ﹁読書はいつも寝る前にしていてね。今日もそのつもりだよ。いや ー、楽しみだなー花の王子様﹂ ﹁そうですか﹂ エリザのさっきまでの柔らかい雰囲気はどこへ行ったのか、今はす ごく話しかけづらい。 ﹁クルリ・・・、今日喧嘩したんだよね。トトには悪いと思いなが ら私もレイルからいきさつは聞いたの。クルリは悪くないと思う。 ううん、むしろかっこいいって思ったくらい。私凄くスッキリした !﹂ 今度はアイリスが話しを切り出した。今日の出来事だ。 アイリスもトト同様に怒ってはいなかった。それどころか、俺の行 動を肯定してくれているようだ。 ﹁いや、そんなこと言われると自分の行動が正しいことのように思 えてくる。結果、トトに迷惑をかけることになった。やっぱり、俺 のやったことは迷惑以外の何物でもないよ﹂ ﹁いいえ、そんなことはありません!私も正しいと思っていますわ﹂ 今度はエリザが、返答した。なんで!? ﹁かっこいい・・・と思いましたわ﹂ 言い終わり、一人で小声でキャーとか言っている。なんだろう、エ リザのテンションがわからない。 372 ﹁クルリは正しいことをしたよ。私はそう信じてる﹂ ﹁私の方が信じています﹂ エリザはそう言って、目をつむる。 アイリスは目をそらす。 ﹁はい﹂ いたたまれない空気につい、返事をしてしまった。 ﹁クルリ、来たぞ﹂ ﹁なんだか、変に静かですね﹂ そこへ、ヴァインとクロッシがきた。 この場の空気に気が付いたようだ。 いやー、やっぱり男はちょっと悪い方がいいのかね? 373 2章︳19話 いろいろあった春期の学園生活もあっという間に過ぎ去り、学校中 の話題は学期末の試験で占められていた。 期末の試験結果が今日出る。これと次の冬期休暇前のテストの成績 を総合して次年度のクラスが決まる大事なテストだ。もちろんみん な必死で仕上げてくる。中には血走った眼をしている連中もいた。 今日の試験結果の発表が終わり次第、夏季休暇に突入する。 学校に残ってもいいが、ほとんどの者は自分の家に帰る。なんとい っても2か月も休みがあるのだ。 みんなちらほらと休みの妄想をしながら、テスト結果を待っている のだろう。 試験は8科目、800点満点で採点される。 選択科目は難易度に差が出ないように気を遣っているとのことだが、 少しは苦情が出るだろう。いつの世もそんなものだ。 昼前に試験の結果が貼りだされた。 結果は予想通りのところが多いものだった。 1位 アーク・クダン 800点 1位 アイリス・パララ 800点 3位 エリザ・ドーヴィル 799点 4位 レイル・ レイン 797点 ・ ・ ・ 374 7位 クルリ・ヘラン 777点 アイリスは流石だ。あれだけ畑に力を入れていたのにもかかわらず、 貫禄の満点だ。 王子も流石だ。 エリザはまたも躓いたらしい。一点が遠いなー。 そして何より訴えたい悔しさが、レイルに大分放されたことだ。 今回は確かにいろいろあり、勉強に身が入らなかった。 だが、今回のテストで最も足を引っ張ったのは、医学だ! 全23失点中、実に15点を医学で落とした。 いつもいつも奴がすり寄ってくるせいだ! それなのに奴はきっちりと100点をとってきている。許すまじ!! まぁ、それも口に出せばいい訳になる。 結局は自分の勉強不足が招いた結果だ。受け止めるしかないだろう。 結果は見た、俺もそろそろ家に帰る準備をしよう。 と、その前にいくつか済ませることはあるが。 まずはトトから顔パックの植物を鉢植えに移し替えたものを30個 受け取り、先に郵送用の馬車に乗せて発たせた。 トトは自分の領にもどるため、ヘラン領には来れないとのことだ。 無事に売るからと伝えて、しばらくのお別れを伝えた。 あれから、モーリからの嫌がらせは一切ないらしい。これからどう かわからないが、大丈夫だろうと本人は言っていた。そうだといい と俺も心から願った。 エリザはというと、相変わらずテストの結果に苛立っていたが、話 しかけるとそれほど怒っている様子でもなさそうだった。前にも比 べてより一層四天王からのマークがきつくなったのが気にはなるが、 375 エリザ本人との関係は良好と言っていい。エリザも王都にある自宅 に帰るらしい。体調に気をつけるようにとだけ伝えた。先日貸して もらった﹃花の王子様﹄も返しておいた。 なかなかいい話で、実は涙した良作だ。 レイルとの話は思い出したくないが、面白い話も聞いた。 レイルと一応の挨拶をした後、執拗にハグを迫ってくるのでグーパ ンチをくれてやった。 これに懲りてあまり近づかないで欲しいものだ。 ﹁そうそう、面白い話があるけど聞くかい?﹂ という彼からの提案には素直に乗った。やつの情報網は時に役に立 つ。 ﹁うちの王子がさ、アイリスに﹁よかったら王都に来ないか、2か 月好きなだけ贅沢な生活をさせてやる﹂っていう下手な誘い方をし て断られてたよ。爆笑ものだよね﹂とめちゃめちゃ楽しそうに話し ていた。ひどい奴だ。 それにしても、下手な誘い方だということには同意だ。 ちなみにレイルと、アークも王都に戻るらしい。 王都かぁ、街の商業施設が栄えているらしい。一度そこらへ遊びに 行きたいものだ。 と言う訳で、王子のリベンジとして俺がアイリスのもとに来た。 原作でもアイリスは学園で一人で過ごすことになっていた。 衣食住には困らないし、図書館もある。でも、一人で2か月間はあ まりに寂しい。そんなのは流石に可哀そうだ。それならば、と俺が 手を差し伸べようと思っている。 ﹁アイリス﹂ 畑で野菜に水をあげるアイリスを見つけた。 376 ﹁クルリ、見て見て、野菜たちが早速芽を出してるよ。成長が早い みたい﹂ ﹁そうだね﹂ そこには青々とした芽を出す野菜たちの姿があった。 俺もこいつたちの成長は楽しみにしていた。 ﹁アイリス、夏季休暇はどうするつもり?﹂ ﹁学園で過ごすよ。この子たちの世話もあるし、まとまって勉強す る時間もできるから。ていうより、帰るのが無理だから居るだけな んだけどね﹂ へへ、と笑うアイリス。 ﹁やっぱりそうだと思った。よかったらヘラン領に来るかい?﹂ ﹁うんうん、行かない。ヘラン領はステキなところだけど、クルリ に迷惑かけたくないし、それにあそこの温泉には、いつか自分で稼 いだお金で行くのが私の夢だから﹂ ﹁家族もつれてだろ?﹂ ﹁そう﹂ ﹁じゃあ先に一人で行くのはセーフだ﹂ ﹁セーフかな?でも行かないよ﹂ ﹁じゃあこうしよう。バイトとして来ないか?アイリスは自分が行 くことで迷惑がかかると思っているけど、実はうちの領は今人手が かなり不足している。臨時で誰かを雇えるならそれに越したことは ないんだよ﹂ ごくりとアイリスの喉がなったのが聞こえた。うん、ちょろいな。 ﹁バイト代が入ればアイリスだって嬉しいだろ?家族に送ってもい い。自分で使ってもいい。それに心配している野菜たちも薬草学の 教師に頼めばついでに世話してくれる。トトの薬草だってそうだ。 勉強もまとまってできると言っていたけど、夏季は暑くて勉強にな らないからこそ休暇があるんだ。どうだい?ヘラン領に来たくなっ ただろう?﹂ 377 ﹁・・・ちょっとだけ。でも待って!考えさせて!﹂ しばらく、うーと頭を抱え込み、アイリスはこちらに向き直った。 ﹁2か月の間、お世話になります。きっと迷惑をかけず、身を粉に して働きますので、よろしくお願いします!﹂ ﹁迷惑なんて、そんなの気にしなくてもいい。じゃあ、ヴァインと クロッシに挨拶を済ませたら行こう﹂ ﹁この恩は一生忘れないから。何度も言ってるけど忘れないから!﹂ ほほっと俺の顔が仏になり、それから二人で畑に別れを告げた。 寮の部屋に戻り、アイリスと共にヴァインの部屋を訪ねた。 ﹁ヴァイン、俺たちはこれからヘラン領に戻る。よかったら一緒に 来るか?﹂ ﹁いいのか?実は行く場所に困って山籠もりでもしようと思ってい たのだ。しっかり働くから行かせてくれ﹂ あいさつ程度に言ったつもりだったが、本当に来るらしい。事実働 き手は必要になる。 彼ほどよく働く人間が来るのは助かることだ。力作業では100人 力だろう。 おい、ちょっと待て!山籠もりはするな! ﹁よし、それじゃあ一緒に行こう。クロッシも誘おうと思うのだが、 そういえば彼の部屋はどこだろう﹂ ﹁確かに知らないな﹂ 思案する俺と、ヴァイン。いつも一緒にいるのに部屋を知らなかっ たとは。予想外だ。もう帰ってたりしないよね? ﹁クロッシって男の子なの?私女の子かと思ってた﹂アイリスがと ぼけたことを言っている。 ﹁失礼な。気にしてるかもしれないから本人の前で言ったらダメだ 378 ぞ﹂ ﹁そうだぞ、アイリス﹂珍しくヴァインも注意する。 反省するそぶりを見せず、アイリスはそうかな?とつぶやくのだ。 彼女は意外と鈍感なところがある。 そんなとき、ちょうどヴァインの部屋にクロッシがきた。 ﹁師匠の部屋にいないので、こちらかと思って﹂ ﹁よかった、クロッシを探してたんだ﹂ ﹁私をですか?﹂ ﹁うん。3人でヘラン領に行くんだけど、クロッシもどうかなって﹂ ﹁すみません。今日は師匠に別れのあいさつに来たのです。行きた い気持ちはあるのですが、夏季休暇は戻らないといけないのです﹂ クロッシは落ち込みんだ顔をのぞかせた。 なんだか、ヴァインがいるのにクロッシがいないのは落ち着かない。 是非来てほしかったが、来れないものは仕方がない。 ﹁そっか、じゃあまた夏季休暇明けに。体調には気をつけるんだぞ﹂ ﹁はい、師匠!お世話になりました。師匠こそ体調に気をつけてく ださい。あと、貴様もな!!﹂ 指さされたのはヴァインだ。 ふんっとだけ、ヴァインが返事をし、クロッシと別れた。 二人とも素直じゃないなー。 それぞれの荷物を準備し、呼んであった馬車に乗せていく。 俺もアイリスも結構な荷物なのだが、ヴァインは片手で持てる程度 の量だ。 彼は何者なのだろう。四次元ポケットでもあるのだろうか。 こうして俺と、ヴァイン、アイリスの三人でヘラン領へと旅立つこ とになった。 379 狭い馬車の中、三人でのんびりと旅を楽しむ。 来たときはまだ学園の生活がどんなものになるかわからなくて不安 だった。そんな昔の気持ちを思い出す。 まだまだこれからいろんなことが起きるだろうが、とりあえずは楽 しい一時期を過ごすことができた。 色々なことを思い出しながら、そっと目を閉じる。 頭の中に映像として出てくる鮮明な記憶ばかりだ。 楽しかったなー。エリザに殺されかけたなー。 あれ?楽しかったのか? 外は太陽が昇り快晴だ。 馬車はごろごろと音を立て、ヘラン領へと進むのであった。 380 381 2章︳20話 閑話 2年生のテスト成績順位表は既に固まりつつある。 微々たる順位変動はあるが、ジャンプアップも滑り落ちる生徒もな かなかいない。 特に成績上位組はこれが顕著だ。 そして、今回でトータル4度目の一位に輝いた生徒がいる。 もちろん私、マリア・クダンのことである。 成績優秀、スポーツ万能、才色兼備の私なのだが、こうも張り合い がなくては人生も退屈なものだ。 人生刺激が足りないとやっていけない。 まぁ学園でやることもないので、とりあえず王都に帰ることにした。 別に帰りたくはないが、帰らないとお付きの人がうるさいのだ。 あーだこーだとウダウダ言ってくる。 帰ってもやることないのよねー、またヘラン領でも行こうかしらな んてことを考えながら長い旅路を済ませた。 帰ると変わらない王都がそこにはある。 確かに商業施設などは繁盛しているのだが、いまさら欲しいものも ない。 さてさて、この夏はどう過ごしたものか。 そんなやる気のない夏季休暇を過ごしていると、お母様からの呼び 出しをくらった。 382 どうやら隣国の王女様とその他もろもろの人物がやってくるらしい。 その相手をしろとのことだ。 こんなことになるのなら、さっさとヘラン領の新しくできた避暑地 にでも行けばよかった。 その日はあっという間に来て、城の庭園でお茶会をすることになっ た。 テーブルを囲い、私を含めた10人ほどの女性が紅茶を飲みながら 談笑するのだ。 誰かのつまらない話があり、皆がオホホホホホと笑う。 また誰かのつまらない話があり、皆がオホホホホホと笑う。 腸がねじれそうな気分になる。 あー、早く終わってくれないかしら。 そんな、オホホホホホ大会をしていると、ひょいっと可愛い顔した 人物が現れた。 ﹁皆さま初めまして、ラーサー・クダンと申します。急に現れてし まい申し訳ございません﹂ ﹁あら、ラーサー﹂ 来たのはラーサーだった。 太々しいアークとは違い、かわいい弟のラーサーだ。 ﹁実はこれからヘラン領に向かうところです。それで姉さまに出発 前の挨拶をと思いまして﹂ ﹁えっ!?ヘラン領に﹂・・・私も行きたい。 でもこの状況が許してはくれない。 隣国の王女まで来ているのだ。 383 私が欲望の赴くまま抜け出して、ヘラン領に行っては一国の王女と しての義務を放棄したも同然。 それだけはやってはいけない。しかし、方法がない訳でもなかった。 ﹁ラーサーちょっとだけ待ってくれない?私も行くから﹂ 私はこっそりとラーサーの耳元でそう伝えた。 ﹁でもいいのですか?﹂ ラーサーが心配そうに小声で言った。 ﹁まぁ見てなさい﹂ ﹁いた、いたたたた!お腹が痛いわ!!﹂ 私は急にお腹を押さえ、その場に膝をつけた。 片手も地面に着き、もう片手はお腹をさすり必死に苦しむ表情を作 り出した。 ﹁大丈夫ですの!?﹂ 一緒に紅茶を楽しんでいた隣国の人たちと自国貴族の娘数人がが心 配して駆け寄ってくれた。 よし、予想通りの展開だ。 ﹁姉さん・・・﹂ 横で白い眼をしているラーサーが気にはなるが、まぁ支障はない。 ﹁どうなさったの?マリア様、最近便通の方が悪かったとか?﹂ 声をかけてきたのは隣国の王女、イリーナ王女だった。 便秘を心配されているようだ。周りが、あらっとか言っている。い らぬ恥をかいた気がする。 ﹁いえ、便通は良いです。でも、あいたたたたた!もう、ダメ誰か 医者をお呼びになって﹂ ﹁ええ、わかりましたわ。だれか急いでお願いいたします。その間 384 に私は応急処置を﹂ ﹁ありがとう。でも、医者がくるまでは何もしなくていいから﹂ ﹁そんなわけにはいきません。どれお腹を触れせてもらいますよ。・ ・・張っていますね。もしかしたらガスがたまっているのではない でしょうか﹂ それは退屈な話の間に飲みすぎたお茶で水腹になっているだけだ、 ちゃぽんちゃぽん音がしそうなほど飲んでしまったのだから。 絶対に屁ではない。 ﹁マリア様、お恥ずかしい気持ちはお捨てになって!どうぞ放屁な さってください﹂ ﹁いえ、そのようなものではありません!﹂ 必死に弁明した。屁を我慢して腹を痛めた姫などと言う汚名を着せ られては今後の人生に暗雲が立ち込めてしまう。 何が何でもそれだけは阻止せねば。 ﹁あのーイリーナ姫、あまり心配なさらずとも大丈夫です。姉はこ ういう人なので﹂ 声をはさんだのはラーサーだ。真実を知っているだけに冷静でもあ る。 ﹁何をおっしゃってるの?あなたマリア様の弟でしょ!?心配では ないの!?﹂ 若干の怒気をこめてイリーナ王女がラーサーに言った。 ラーサーは頭をポリポリかいて、どうしたものかと顔を俯かせる。 すまない弟よ。 イリーナ王女がここまでお節介焼きだとは知らなかったのだ。 ﹁医者を連れてまいりましたわー﹂ 同席者たちがようやく医者を呼びつけ、専属の医者が駆けつけた。 385 すぐさま私の腹部を触診し、首を傾げた。 彼には原因がわからないのだ。 それもそう、原因なのどないのだから。 これで医者は原因がわからず、とりあえず様子を見るために安静に していてください、と切り出すだろう。 そして私は部屋に引きこもっている間に抜け出し、ラーサーと一緒 にヘラン領に行くのだ。 その後は爺やに何とかしてもらおう。まだ体調が悪くて部屋から出 られないだとかで、イリーナ王女たちが帰るまでそれでやり過ごす のだ。 これでよし。 ﹁んー、あまり原因がわかりませんね。とりあえず部屋で安静にし て様子をみて見ましょう。ひどくなるようでしたら、さらに詳しい 検査が必要になりますが、それでよろしいでしょうか?マリア様﹂ 完璧な診断だ。給料を上げるようにお父様に直訴しておきましょう。 ﹁そうですね。痛みも少し収まったようです。とりあえず部屋に戻 り安静にしてみますわ﹂ 任務完了。あとは窓から飛び降り、ラーサーと共に避暑地ヘラン領 に!! それを見ていたラーサーは頭を抱え、やれやれとため息をついてい た。 まぁこれで事は済んだのだから、いいではないか弟よ。そんなこと を考えて、ちらりとラーサーに視線を送る。 ﹁ちょっとお待ちになって!!﹂ 386 大声を上げて呼び止めたのはイリーナ王女だ。なんだろう? ﹁私、心配だから一緒に部屋へ行くわ﹂ うっ。なんてお節介な。 ﹁いえ、ご迷惑ですし。皆さまは引き続きここでお茶でもお楽しみ になってください﹂ ﹁ダメです。容体が悪くなった時にすぐ近くに誰かがいなくては心 配です。このクダン国の王女マリア様の身ならなおさらのことです﹂ ﹁・・・はい﹂ 結局押し切られるように、部屋に来られてしまった。 部屋で二人きりになり、私はベッドで横になる。 イリーナはベッドの傍らに椅子を持って来て看病してくれている。 なんて健気。なんて優しいのか。そして、なんて邪魔なのかしら。 私はもう退屈に飽き飽きしてるのよ!今すぐ抜け出させて! ﹁マリア様、私も昔よくやっていましたわ﹂ ん?神妙な面持ちでイリーナ王女が語りだした。 ﹁演技なのでしょう?本当は痛くないのでは?﹂ えっ!?あまりに予想外な言葉に全身が固まる。 ﹁いえ・・・、本当に少し痛むのですわ、オホホホホホ﹂ ﹁別に責めているわけではありません。私も昔よくやった手口なの ですからわかります﹂ ﹁え?本当に?﹂ ﹁ええ、本当ですよ。マリア様が退屈してたのも知っていました。 どこかへ行きたがっているのも﹂ ﹁じゃあ、さっきはなんで﹂ ﹁みんなの前で言ってしまうといろいろ問題があるでしょう?私た ち同じ立場だもの、気持ちも一緒よ﹂ 387 ﹁イリーナ様・・・﹂ ﹁マリア様・・・﹂ ﹁抜け出す?﹂ ﹁どちらへ?﹂ ﹁ヘラン領と言う温泉で有名な土地があります。この夏から避暑地 が出来上がり、より一層楽しめると思いますわ﹂ ﹁あら、ステキね。是非行きましょうか。でもどちらから抜け出す のですか?﹂ ﹁それはもちろん窓からです。ロープを使って下まで降ります﹂ ﹁ふふふ、なんだかワクワクしてきましたね﹂ イリーナと二人でくすくすと笑った。 なんだろう、久々に心が揺れる思いがした。 凄く楽しいのだ。 人生で初めて張り合いのある人に出会えたのかもしれない。 そんな気分にさせてくれるのだ。 388 389 3章︳1話 澄んだ水の流れる小川が見えた。 夏にもかかわらず、森から流れてきたその水はすごく冷えているよ うに見える。 水に濡れた岩などが遠目からは輝いて見える。 小川に近づき、馬車を止めた。 靴を脱ぎ、川に入る。 思った通り冷たくきれいな水だった。時間は午後2時ごろ。一番熱 い時間帯故に、冷たい水が心地いい。 ああ、帰ってきたんだ。この綺麗な自然がそんな気持ちにさせてく る。 辺りを見回すと、徐々に緑が綺麗な土地に入ってきていた。 ﹁ここがヘラン領だ﹂ 遅れて馬車から降りるアイリスと、ヴァインに説明するように口を 開いた。 ﹁きれいな川ね。きゃっ冷たーい﹂ そう言ってアイリスも小川に足を踏み入れた。 ﹁これはいい魚がいそうだな﹂少し違う観点からヴァインが指摘す るが、それも正解である。 綺麗な小川にはちらほらと視認できる魚がいた。 俺は手に水を一杯救い、それを一気に飲み干した。 火照った体を内側から一気に冷やしてくれる。混じりけのないきれ いな水がこれまたおいしい。 390 それに倣うように二人も水を飲んだ。 ﹁おいしいー!﹂﹁いい水だ﹂ 二人の喜んでいる顔を見てなんだか俺まで嬉しくて、たまらなくな ってきた。 ﹁ああ、ようこそヘラン領へ!﹂ ﹁ステキなところね﹂ アイリスが目を輝かせながら言った。 彼女にとっては憧れの地なのだ、きっと輝いて見えるのだろう。 なんだか一生懸命接待しなくては、と言う気持ちにさせる。 ﹁しばらくここでのんびりしていきたいな﹂下半身をどっぷりと水 につけてヴァインがいった。 よく見ると彼の方もとても目を輝かせていた。 あれは遊び盛りの少年の目だ。 ﹁よかったらここで一泊していこう。夜は冷えるけど毛布はある。 食事も川魚を焼けば美味しくいただけるだろう﹂ ﹁賛成!﹂アイリスが川の中で飛び跳ねて手を挙げた。 ﹁ようし、そうと決まれば早速釣り道具でも作ろうか﹂ まずはヴァインに釣り竿の代わりになる木の枝を探しに行ってもら った。 すぐ近くに林があるので、難無く見つかるだろう。 俺とアイリスは馬車の荷物から釣り糸、針になりそうな物を探した。 針は鉄を加工することですぐに作ることができた。 先っちょを削り、尖らせれば問題ないだろう。かえしがないのは若 干不安だが、そこは釣り技術でカバーと言うことで。特にヴァイン は見るからに釣りの熟練者だ。問題ないだろう。 391 釣り糸は白色の糸が見つかったので、それで代用することにした。 うーん、出来はいまいちだが、まぁぎりぎり合格かな。 そうしていると、ヴァインが釣りに最適なサイズの木の棒を3本持 って帰ってきた。 流石は頼れる男だ。 早速糸を結び付け、自前の釣り竿が完成した。 餌は持っていた乾燥肉を括りつける。 肉を魚が食べるのか?と思ったが、ヴァインが﹁匂いがあればあい つらはなんでも食べる﹂と力強くいったので不安はすべて消えた。 なんという頼もしさ。 俺は一番大きな岩の上に上り、糸を垂らした。 じっくり待つ作戦だ。景色が綺麗なので、それも同時に楽しむには 最適な場所だった。 アイリスは川の端で、釣り糸を垂らした。小物狙いだそうだ。そし て足を川の中に入れている。 釣りと川の気持ちよさを両方楽しむ魂胆だ。 ヴァインはと言うと、腰のあたりまで浸かる深い位置まで行き、そ こから釣り針を投げた。 目に全く余裕がない。ガチの人になっている。 それを見ていた俺とアイリスが若干の申し訳なさを感じ、﹁俺たち もそっちに行って手伝おうか?﹂と聞いたが、﹁いや、これが俺の 楽しみ方なのだ。それぞれ好きに楽しんでくれ﹂と言う返事が返っ てきた。 ガチだけど、それが楽しいみたいだ。 392 それならばと、俺も遠慮することなく自分の釣りを楽しんだ。 岩場に肘をつけながら寝転がる。乾燥肉をしゃぶりながらじっくり と、ゆったりと獲物をまつ。 なんとも贅沢な時間だ。 木陰に入れているので涼しい。景色が綺麗なので心が癒される。 ﹁あー、しあわせだー﹂ ﹁ふふ、今のおじいさんみたい﹂ 岩の下、俺の視線から斜め左下のアイリスが声をかけてきた。 どうやらさっきの俺の言葉がおかしかったらしく、少し笑っている。 ﹁ここはまだヘラン領の端っこだけど、きれいな場所だろ?﹂ ﹁うん、中心地はどんなだろう?クルリのその自信たっぷりな顔を 見るときっといいとこなんだろうね﹂ ﹁ふふん﹂ ﹁花園があるのよね。それに囲まれた温泉かー、すごいだろうなー。 私正気を保ってられるかな?﹂ ﹁しかも夏は避暑地もある。最高だよ﹂ ﹁最高だね﹂ アイリスはニコッと笑う。会話が盛り上がって来てはいるが、肝心 の魚はつれない。 しばらくして、アイリスとの会話も止んだころ、竿に若干の違和感 を感じた。 あれ?これ食いついてる? すぐさま体を起き上がらせ、竿を引いた。 魚は見事に食いついており、しかも結構な大物だ。 嬉しくて急いで糸を手繰り寄せた。 393 その瞬間、チャポン!魚が呆気なく針からのがれ、そのまま逃げ去 った。 ﹁ありゃりゃりゃ﹂横からの残念がる声を聴いたが、俺はそれ以上 に落ち込んでいる。 かえしがないとこうも難しいものなのか。 ﹁あー、やっぱり素人には難しいのかな﹂ ﹁私なんかまだヒットもしていないからすごい方だよ﹂ ﹁あーあ、今の見た?結構大物だったよね?﹂ ﹁うん。大物だった﹂ あー、やっぱり見間違いではなかった。 もったいない。あー、もったいない。 でも、なんだか一度ヒットしたことでやる気がわいてきた。 再び干し肉を針に着け、糸を垂らす。 さぁ次こそ釣り上げよう。 しばらく待ち、今度はアイリスにヒットが来た。 針に食いついた魚が暴れまわり、水の上に跳ね出た。これも大物だ。 ﹁落ち着いて!﹂ ﹁うん﹂ アイリスは落ち着いて糸を手繰り寄せる。かえしがないことはわか っている。 その手つきは先ほどの俺の失敗を糧に、すごく慎重なものになって いた。 しかし無情にも、チャポン!という耳障りの言い音とともにまたも 魚が逃げ出した。 394 ﹁あーーー!﹂顔を覆い悔しがるアイリス。 その傍でおれは、笑っちゃいけないと思いながらも、なんだか笑っ てしまった。 真剣にやりながら最後は俺と同じように逃げられたのがなんだかす ごくツボにはまってしまった。 結局それからアイリスと喋りながら、日が傾くまで糸を垂らした。 何度か来たアタリも、結局は手元までは届かない。 ﹁ねぇ、ヴァインは?﹂ アイリスから投げられた質問にあたりを見まわす。 あれ!?いない。そういえば二人で釣りと会話に夢中になりヴァイ ンのことを忘れていた。 深いところも行っていたし、流されたりしてないよな!? そう思うと急に不安になってきた。 釣り竿を置き、ヴァインを最後に見たあたりの場所に入る。 そこは腰まで水に浸かる。 川の流れは穏やかので、流れることはないと思うが・・・。 それでも最悪の事態を考えるとどうしても不安になった。 ﹁ぶーわしゅ!﹂突然目の前から謎の音が聞こえ、目をやると全身 ずぶぬれのヴァインがいた。 どうやら川に潜っていたらしい。 ﹁よし、こんなもんで足りるだろう﹂ そう言ったヴァインの手にはいつの間にか麻袋が握られていて、そ の中には魚と思われるものが数匹暴れまわっていた。 心配無用だったようだ。 それよりも、収穫のない俺たちと違いあの大漁。流石だよ! 395 外の空気もも冷えてきたので3人とも川から上がり、たき火を起こ した。 俺とヴァインは服が濡れたので、それを抜いだ。 馬車にある着替えをとり、それに着替える。冷えた肌に渇いた服は すごく温かく感じた。 ﹁あれ?ヴァインは着替えないのか?﹂着替えずに上半身裸のヴァ インがいたので聞いてみた。 ﹁ああ、俺は乾いたらまたこれを着るからいい﹂ 流石は山籠もりをしようとしていた男である。服を着替えた自分が なんだかすごく女々しく感じる。 日が沈むころ、ちょうど焚火の火も起き上がった。 木くずを結構集めたので、火はそれなりによく燃えた。 ヴァインはその傍で服を乾かし、体を温めている。若干ぶるぶる震 えているので、服を貸そうとしたが、﹁いやこの寒さがまたいいん だ﹂と断られた。 変な性癖でもあるのだろうか。ちょっとだけ怖い。 従者も呼び、4人で今日獲った魚を焼いた。 香ばしい匂いが立ち上て来る。一日動いたので空腹もすごいことに なっていた。 最高のスパイスが添えられたも同然だ。 魚が焼きあがると4人でそれにかぶりつく。 会話もなく、ただただ食す。 旬の魚なのだろう。脂がのっていてとてもうまい。 最期の一口になった瞬間の名残惜しさはとてつもないものだった。 ﹁あー美味しかった﹂食い終わると同時に俺はその場に背をつけて 寝転がった。 396 続いて、ヴァイン、アイリスも寝転がる。 従者は毛布をとってきてくれて、自分は馬の近くで寝ると伝えて去 った。 その場で3人で毛布をかぶり、空を眺める。 空もまた星を遮るものなど一切なく、さんさんと輝く星々が目に見 えた。 ﹁きれー﹂ アイリスが感情のこもった声を発した。その顔は食後の満足した顔 と、純粋にこの場を楽しいんでいる顔に見えた。 寝転がってきれいな星を見上げる。確かに贅沢な時間だ。 ﹁アイリスもきれいだ﹂ ﹁なっ!?﹂﹁へっ!?﹂ 突如ヴァインから投げられる爆弾に俺とアイリスが爆破された。 それでいて当の本人は星に向き直り、﹁星もきれいだ﹂とか呑気な ことを言っている。 ぽーと顔を赤らめるアイリス。 ヴァインには下心がない分余計にたちが悪い。彼は純粋に思ったこ とを言っただけなのだ。 だからこそアイリスもうれしくて、毛布で顔の半分を覆っている。 流石だよ!野生児のヴァイン君。 そりゃモテるよ!! グー。 こちらが興奮冷めやらぬうちにヴァインは眠りについてしまった。 なんとも心地のいいイビキである。 397 彼は今日一生懸命魚を捕まえてくれたのだ。ここは多めに見てあげ よう。 ﹁ヴァイン寝ちゃったね﹂ ひょこっと毛布から顔をのぞかせて、アイリスが小声で言った。 ﹁ああ、幸せそうだよな。クロッシがいなくて寂しいんじゃないか と思ったけど、存外一番楽しんでいたいな﹂ ﹁そうだね。私もあんなに素直になれたらいいのになー﹂ ﹁それは俺も時々思うよ﹂ ﹁ふふ、クルリはクルリで幸せそうだけどね﹂ ﹁なんだよ、なんかバカにされてる気がする﹂ ﹁そんなことないよ。じゃあ、私も寝るね﹂ ﹁あっ、逃げたな﹂ ふふっと少しだけ笑い、アイリスも眠りについた。 徐々に静まる景色を眺めながら、いつのまにか俺も眠りについた。 綺麗な夜空を眺めていたおかげか、翌朝はみんなスッキリと目覚め ることができた。 馬車に乗り、再び我が家をめざす。 領には既に入っているので、屋敷にも今日中には着くはずだ。 街道を馬車がリズムよく進む。 次々に街が見え、人が踊り出てくる。 ﹁クルリ様だ﹂﹁クルリ様が返ってきた﹂﹁若様だ﹂﹁やったもう 大丈夫だ﹂ 馬車を止めることなく、そのまま進んだが、どうやら領民には歓迎 されているらしい。 いくつか街を通ったが、どこも似たり寄ったりの声が聞いてとれた。 398 よかったよ、忘れられた存在になったらどうしようかと心配してい たのだ。 しかし、やけに領民が大げさに騒いでいたのが気になる。 それだけ愛されてるっていう認識でいいのかな? まぁそれでいいや。 そして、昼前に馬車は屋敷に着いた。 そこには以前と変わらぬ堂々とした我が家がたたずんでいる。 まぁこんな短期間に特に変化があるわけもない。 馬車から降りて、俺はヴァイン、アイリスの二人とともに久しぶり の我が家に戻った。 399 400 3章︳2話 我が家に着くと同時に、家からある人物が飛び出してきた。 ﹁クルリ∼﹂と目に涙をためながら走ってくるのは我が父、トラル・ ヘランその人だった。 一瞬にして判断がついた。 ああ、あれは息子との久々の再開を喜んでの涙ではない。 あれは困ったことを処理しきれず、それを俺に頼る顔であり、涙で あることを。 さながら学校から戻ってきたのび〇君である。と言うことは、俺は 頭の大きい青タヌキのドラ〇モンになるのか。 おい!誰が2等身やねん!! ﹁お久しぶりです、父上﹂ ﹁クルリよ、よくぞ戻ってくれた。父は嬉しいぞ!﹂ 会うや否やすぐに抱き付いてくるのが少しうざいが、ここは我慢し よう。そっと抱き寄せて、背中をさすってあげた。おい、鼻水つけ るな、見えてるぞ。 満足するまでそのままにしておき、落ち着いたところで二人を紹介 した。 ﹁こちらがヴァインと、アイリス。二人とも学園の友達だ。夏季休 暇はヘラン領で過ごしてもらおうと思っている﹂ ﹁ああ、よく来たね﹂父は両手を開いて二人のもとへ行く。基本ウ ェルカムな人なのできっと二人のことも受け入てくれると思ってい たが、その通りみたいだ。 401 ほほほ、と二人に近づき、しかしヴァインを見てそっと目を逸らし た。 あまりの迫力に少し気圧されたらしい。父はちょいぽっちゃりのド ラ〇モン体型なので余計に大きく見えてしまうのだろう。 ぷいっと顔を向きなおし、今度はアイリスの前に行く。 ﹁やぁやぁよく来たね。君は随分と綺麗だね。もしかしてクルリの これかい?﹂ニヤリと小指を立てる。 なんだこの父親は。久しぶりに会ったというのにまともな一面がな い。 アイリスも苦笑いして﹁いえいえ﹂とか言ってる。 これ以上悪い印象を与える前に、父をひっぱりあげて、そっと耳打 ちした。 ﹁その子、将来の王妃様になるかもしれないから失礼のないように ね﹂ ﹁へ?﹂ ﹁ちなみに大きい方は王国騎士長の息子だから﹂ ﹁ふえ?﹂ それを聞いた父は、ヴァインを見ては顔を逸らし、アイリスを見て はまたも顔を逸らす。 あいたたたとお腹を押さえて、遂には座り込んだ。 ﹁大丈夫かい、父さん﹂ ﹁クルリや、父さんはもうダメかもしれない。ここ最近ストレスで 胃がキリキリしてるんだ。もうこれ以上抱えるとなると私はもう死 んでしまうよ﹂ ﹁大げさだよ。俺も帰って来たし、仕事があるなら手伝うよ﹂ ﹁そう言ってくれると信じていたよ。早速だがいっぱい抱え込んで 402 いるんだ。もう私じゃ限界だ。クルリに全てお願いしたい﹂ ﹁すべて・・・ですか?﹂ ﹁すべて・・・いや、もうほとんど済ませてあるから。・・・ほん とだよ?﹂ これですべて合点がいった。 領民の盛大すぎる歓迎と、父の涙の理由がわかった。 どうやらしばらく離れていた、このヘラン領には問題がたまりつつ あるようだ。 出発前に随分と開発を行った。 街の活気を見る限り、その成果は出ているようだったが、どうやら 問題も同時に起きているらしい。 それを解決しきれない父親と、それを理解している領民。 どうやら父も領民も俺に仕事をやらせる気満々のようだ。 そういうことか、とスッキリ納得した。 ﹁わかったよ。父さんはゆっくり温泉にでも入っているといい。あ とは俺に任せてくれ﹂ ﹁クルリよ、じゃあ父さんは避暑地に行ってくるから。屋敷は存分 に使いたまえ﹂ さっきまで腹が痛いと言っていたのに、アッという間に支度を済ま せ、馬車で今夏オープンの避暑地に行ってしまった。 なんという逃げ足。なんという軽いフットワーク。 もっと働けよ! まぁ仕方がない、種を蒔いたのは俺である。 もともとヘラン領は静かな領だった。徐々に過疎化していく問題は あったが、領主が表に出てやることなど何もなかった領だ。経験の 403 ない父には確かに重荷だったのかもしれない。 それは俺も同じなのだが、将来への確実な不安ある分だけ父よりは よく働くつもりだ。 そうと決まれば、早速山積みになっていると思われる問題に取り掛 かるとしよう。 ﹁アイリスにはバイトをしてもらおうと思っているけど、実はまだ 何をしてもらうかは決まっていない。決まり次第、伝えるから客室 を自由に使ってよ﹂ ﹁うん﹂ 快諾してくれたアイリスを客室に通して、荷物の整理をしてもらう ことにした。 ﹁ヴァインはどうする?﹂ ﹁そうだな。世話になるわけだし、せっかくだから働かせてもらお う。力仕事なら何でも任せろ﹂ ﹁それは助かるよ﹂ 働き手が早速確保できた。一人二人増えるのでも大変ありがたい。 家に仕えるものに、今現在抱えている問題を教えてもらうことにし た。 領民から来ている依頼は毎日のように書状で送られてきているらし く、それを読むように勧められた。 以前からあったシステムらしいが、父からこんなシステムのことは 聞いたことがないし、実際機能したのも最近なのだろう。 いっぱいある書状の中から、できるだけ日付が経っているものを選 404 び出し、読んでみた。 色々書いてあるのだが、要点をまとめてみるとつまりはこうだ。 ・最近の好景気に後押しされるように領民が続々増えている。 ・あまりの多さに家の数が足りていない。借り屋も埋まっている。 ・そもそもお金があまりない人ばかりで家を建てるどころではない。 ・その住民たちが街の端に住み着き、治安も悪くなっている。 どうやら人が増えすぎたことゆえの問題が起きているようだ。 正に俺が蒔いた種ではないか。 領の発展は喜ぶべきことだ。それが将来の安定した生活にもつなが る。ならばやるしかない。 書状を他にも何通か呼んでみたが、やはり住宅がない領民の問題が 大きく取り上げられたものが多い。となると、まずはこの問題から だ。 幸いにしてこの問題は、家はないが、どうやら移り住んできた人た ちに仕事はあるようだ。 手に職あるものはしっかりと雇用されているみたいだし、何よりも サービス業は特に人手が足りないらしく、とにかく人がいればいい との店も多い。 農家も潤っているらしく、それを手伝う人たちも増えてきているら しい。 それぞれに家を建ててやるひつようがある。それにはやはりお金が いる。もちろん土地も分配しなくては。 建設には人手もいるだろう。思った以上になることが多いようだ。 でも思い悩んでいる時間はない。行動あるのみだ。 405 早速屋敷の金庫を開け、中を覗いてみた。 領が潤っているだけあり、我が屋の金庫も潤っていた。 全部を任されたのだ、金庫に手を出す権利もあるだろう。 仕方がない、領民が困っているのだ。 そう自分を納得させ、心でそっと父親に謝罪し、金庫内に手を出し た。 ﹁クルリ、来客みたいだぞ﹂ 金庫内を整理していると、外にいたヴァインが戻ってきており、来 客と一緒にそこに立っていた。 ﹁お久しぶりです。クルリ様﹂ ﹁ロツォンさん!!﹂ 思わぬ来客に少し喜色の声をあげ、駆け寄った。 懐かしく、そして相変わらず凛々しい人物のままだ。 ﹁お帰りと聞きましたので、お会いしに来ました﹂ ﹁いやー、会えて嬉しいよ。よく来たね﹂ ﹁はい、避暑地計画が開始しましたので、その経営報告書をまとめ てもってまいりました。経理書類に、来場者数の統計データ、様々 な意見、要望、従業員の報告などを持ってまいりました﹂ ﹁相変わらず凄腕だね!感心しちゃうよ。どれも全部見るから屋敷 内にもって入ってよ﹂ ﹁はい、かしこまりました﹂ できる男ロツォンさんに感服しながら、ついでなので相談に乗って もらうことにした。 ﹁ロツォンさんこちらへ﹂ 書類を運んできたロツォンさんはそれを屋敷内に置き、こちらへ来 406 る。 金庫内を指し、ロツォンさんに話した。 ﹁この私財をはたいて、家のない人達に家を建設していこうと思っ ている。早急な対策が必要だと思うので、簡素なものを予定してい る。見てのとおり資金には余裕がある。働き手も集まるだろう。こ れで進めていこうと思うのだが、何か意見があれば聞きたい﹂ ﹁早速行動に移してくれて、一領民として大変感謝しております。 私財をはたいての寛大な政策、器の大きさを感じます。ですが、無 償で建てるとなると既に家のある領民たちからの嫉妬に似た不満が 出てくるのではないかと思われます﹂ ﹁そうだね。確かに今いる領民にとっては自分たちにもお金を使っ て欲しいと思うのも当然だ﹂ ﹁ですので、家はあくまで有料にしておきましょう。原価よりも安 い値段で売りつけるのです。お金の返済は分割でもよし。これなら ば買う側も負担が少なく、既にいる領民たちにも不満が出てこない でしょう。ですが、領主様は損してしまうことになってしまいます ので、その面だけが・・・申しわけございません﹂ ﹁それで構わないさ。領民のための領主だ。その計画で行く。さぁ 早速取り掛かるとしよう。まずは人集めからになるかな﹂ ﹁人集めは私にお任せください﹂ ﹁でもロツォンさんは別荘の管理があるでしょう?﹂ ﹁勝手なことをして申し訳ないのですが、管理の方は下の兄弟たち に任せても大丈夫だと思います。しっかりと教育はしておりますの で、間違ってもおかしなことは致しません。そこはご安心ください﹂ ﹁ロツォンさんの兄弟なら問題なさそうだね。じゃあロツォンさん にはこちらを手伝ってもらおうかな。人集めはよろしく、原価の計 算と返済プランは俺が用意しておくから﹂ ﹁はい、では早速行ってまいります﹂ 407 てきぱきと動いて、来た道を引き返すロツォンさん。 見てて安心するよ。 ﹁で、私たちは何をすればいいのかな?﹂ 気づくと横にいたアイリス。さっきの話も聞いていたみたいで、事 情は話さなくてもよさそうだ。 ﹁ヴァインは俺と共に力作業になる。よろしく﹂ ﹁ああ﹂ 現場にもいくつもりなので、ヴァインにはそこをお願いしたい。 女性のアイリスの力作業はないので、ほかをお願いしようか。 ﹁書類作りと、契約作業を手伝ってもおうか﹂ ﹁家を買う人達用のものを?﹂ ﹁そう。これから大がかりな仕事になるし、煩雑な仕事になると思 う。アイリスなら任せて安心だと思うから﹂ ﹁わかった。やるよ、私﹂袖をまくって、やる気満々と言った雰囲 気だ。 実行に移せたのは次の日からである。 集まった100余名の働き手。職人も結構集まったようだ。 ロツォンさんの働きにはボーナスを支払わなくてはな。 昨日から領民には話が広まっており、今日の建設予定地に赴いたこ ろにはたくさんの領民が集まっていた。 自分の仕事をほったらかして見物に来る人もいる。 アイリスの受付が始まると同時に大勢の領民が詰め寄る。 破格の安さで我が家が建つだけあり、今回の調査で判明した移住者 世帯のほぼすべてから建設依頼があった。 408 それぞれに土地を割り振り、権利書と契約書を発行する。 アイリスの事務処理能力は流石のものだった。ロツォンさんにも手 伝ってもらっており、どうやらあちらは問題なさそうだ。 実際の建設作業は集まった100余名に俺とヴァインが加わり、徐 々に作業を開始していった。 領主の俺が働いていることもあり、領民が仕事終わりにボランティ アで来る人も多くいた。自分たちの家が建つのだと、皆が活きこん でいた。 暑く、魂の焼ける夏でもあった。 夏季休暇は2か月あるのだが、結局この問題に実に1か月もの期間 を割き、なんとか解決した。 やりがいはあったが、ひどく疲れた夏になった。 後に﹃アルイネの奇跡﹄と呼ばれることになる一つの夏でもあった。 アルイネは土地の名であり、多くの領民の悩みを解決したことで領 民から称えられ、呼ばれるようになったらしい。なんともありがた い話だ。 ロツォンさんとアイリス、ヴァインは特によく働いてくれており、 非常に助かった。 これで当面の課題は解決できたと言ってもいい。 しばらくの本当の夏季休暇に入れそうだ。 ﹁ロツォンさん、今回の報酬とは別に、これは特別に取っておいて よ﹂ 少し多めのボーナスを包み、それをロツォンさんに渡す。 ﹁私なんかが、もったいない限りです﹂ そう言いながらしっかりと貰うロツォンさん。流石はしっかり者だ。 409 どうやら結構な大所帯らしいので、きっとお金はあればあるだけ助 かるのだろう。 ﹁クルリ様がいる限りこの領は安泰です。是非今後とも役に立てれ ばと思います﹂ ﹁ああ、期待しているよ﹂ ﹁では、私はこれで﹂ 静かに去るロツォンさん。渋い男なだけに、背中がかっこいいぜ。 ﹁ちょっと待って﹂帰りかけるロツォンさんを呼び止めたのはアイ リスだった。 その目はなんだか、うるんでいる。 震える唇を何とかかみしめて、言葉をひねり出すようにアイリスが 話した。 ﹁ロツォンさん、また会えますか?﹂ えっ!?どゆこと!?なんだか汗が止まらない俺。 ﹁ええ、クルリ様の友人の頼みであればいつでも﹂ ﹁そうじゃない・・・。いえ、何でもないです。では、また今度﹂ ﹁はい、ではまた今度﹂ 静かに去るロツォンさん。それをじっと眺めるアイリス。 なんともロマンチックな光景が目の前に広がる。 えっ!?どゆこと!?!? ﹁あの、アイリス。これ、今回の報酬、色つけておいたから﹂ ﹁ありがとう﹂ きっと飛び跳ねて喜んでくれると思ったのに、なんだかあまり興味 がなさそうに受け取る。 やはり中身を確認することもなく、ロツォンさんが去った道をただ 眺めるのだ。 410 ﹁・・・これはヴァインの﹂ ﹁いや、俺はいらない﹂ ﹁ああ﹂そうですか。いや、今はそんなことどうだっていいんだ!! いや、やっぱり働いてくれてありがとう。すごく助かったよ、ヴァ イン。 ﹁受け取ってよ。ヴァインは良く働いてくれたし﹂そう言って無理 やりに渡した。 ﹁なぁそれより、アイリスのあの様子・・・もしかして﹂ ﹁俺にはわからん﹂ヴァインは視線で俺に指示を出す。アイリスに 聞け、と。 ﹁すいません﹂遠目をしたアイリスに恐る恐る声をかけた。 ﹁はい﹂アイリスはそのまま顔も視線も動かさずに答えた。 ﹁どうしたの?﹂ ﹁私、こんな気持ち始めて﹂ ﹁えっ!?﹂ えっ!?えっ!?えええええええ!!!!? ﹁そ、それってどんな気持ち?﹂ ﹁なんだか、胸がどきどきするの。あんなに仕事ができて、気の利 く人初めて出会った﹂ ステキ、と言葉の最後に続きそうな勢いだ。確かにロツォンさんは いい人だ。でも、でも・・・。 アイリスは両手で心臓を覆うようなしぐさをしている。なんだか顔 が艶っぽい。ほほが赤らんでいた。 あ、はい、それ恋ですね! まさかのロツォンさんに恋ですか。 原作で全く出てこない人ですよ!?俺以上のサブキャラですよ!? 411 いいの!? 大丈夫ですか!?アイリスさん。大丈夫ですか!?俺の人生!! 412 3章︳3話 あれからアイリスは空っぽだ。 何を話しかけても﹁あー﹂とか﹁そうだねー﹂としか返って来ない。 食欲も落ちてきたようで、おかわりをしなくなった。 来た頃はもりもり食べていたのに、今じゃ食事の時間も忘れて遠く ばかりを見ているのだ。 そろそろ詩を書きだすんじゃないかと、どぎまぎしている。 ﹁おいヴァイン、なんとかしてくれ﹂ ﹁そう言われても、何をすればいいかわからない﹂ 二人ともレディーの扱いになれていないのだ。特に打開策が思いつ かない。 しかも相手はただのレディーではない。 恋する乙女である。猪突猛進で他が見えていない。今は彼女はイノ シシなのだ。 イノシシに簡単に近づくべきではない。 あいつら本当にでかくて危ないからな。牙だってある。想像の2倍 大きいと思ってくれていい。 イノシシを見かけたら役所に報告して対処を待つべきだ。決して自 分でどうにかしようとかおもってはいけない。本当に危ないぞ!! いかんいかん、イノシシの話になってしまった。 恋するイノシシだったらどれだけ楽な話だっただろう。食べてしま えばいいのだから。 恋する未来の王妃か、問題は大きい。 413 誰に恋してるんだよ!目を覚まさないかアイリス! そうは思うものの、アイリスの悩まし気なため息を聞くたびに俺と ヴァインもつられてため息が出てしまう。なんだかなー。 応援してやりたいが、何をすればいいのやら。 ﹁アイリス、別荘地に行ってみる?ロツォンさんがいると思うよ﹂ ﹁えっ!?ななななんで!?私別に用事なんてないよ?﹂ えっ!?はこちらのセリフだ。 バレてないとでも?あの鈍感なヴァインさんでさへ気にかけている のだぞ。 わかるわ!! ﹁いや、俺もロツォンさんに会いたいと思っていたし、良かったら 一緒にどうかなって﹂ ﹁ああそういうことね。うん、そうだね、いいんじゃないかな、ど ちらでも﹂ なんとも歯切れの悪い返事が変えてくる。 おいおい、ひと夏の恋って感じじゃないぞ。がっつりですよ。 このまま学園に帰らないってなったらどうしよう。 アーク王子に土下座でもしにいこうかな。 ﹁クルリ!﹂ ヴァインが珍しく慌てた顔をしていた。何事だろうか、これ以上イ ノシシには対処できないぞ。 ヴァインが視線でさし示す方向に、ロツォンさんがいた。 どうやら我が家の玄関まで来ているようだ。 渦中の人キターーーーーー!!! 414 慌てふためいていると、アイリスがこちらに来た。そして、見る。 その人を。 今度はアイリスが急に慌てふためき、珍しく髪型を気にしだした。 ﹁ねえ、クルリ、私の髪変じゃないかな!?﹂ ﹁変じゃないよ!でも、なんか珍しく隈ができてる!﹂ アイリスのドキドキがこちらまで移ってきて、俺も言葉がキレッキ レだ。 ﹁えっ!?どうしよう。どうしよ﹂ あーあーと声をあげ部屋を走り回るアイリス。 落ち着いてくれ、こちらまでそわそわする。 その時、運命のチャイムが鳴った。 家のチャイムでこんなにドキドキしたのは初めてだ。 えっ、俺も恋してるの? 高鳴る心を抑えて、玄関へ行った。 ﹁やぁ、ロツォンさん﹂ ドアを開けるとそこには変わらぬ凛々しい男、ロツォンさんがいた。 あれ?確かに顔を見ると、かっこいかも。 いや、普通にかっこいいよロツォンさん。年は20代前半かな?な んだか大人の男って感じがするよ。 もうアイリスとくっついちゃえばいいんじゃないかな。 二人ともいい人だし。 ﹁おかわりないようで、クルリ様﹂ ﹁ああ、そちらも﹂ ﹁今日は別荘地の経営についての定期報告に来ました。クルリ様が いる間は頻繁に足を運ぼうと思っていますので、よろしくお願いし 415 ます﹂ ﹁それは助かるよ﹂いろんな意味で。 ﹁そういえばこの間の報告書も良くできていた。特に会計について の書類はどれも出来が良く、内情を良く知れた。現場はロツォンさ んがいるから特には心配していない。お金の動きについての報告は 本当に助かるよ﹂ ﹁ありがとうございます。では、これからも会計書類についてはよ り力をいれておきます﹂ ロツォンさんに家に上がってもらい、今日持って来た書類を一緒に 確認した。 その間、後ろの物陰からのぞく人物が一人。 家政婦のアイリスさんは見ている!! いや、家政婦ではないけれど。 ヴァインはこの空気に耐え切れずに逃げ出したようだ。 報告が始まり、様々な書類が取り出される。アイリスはまだこちら に来ないようだ。 ﹁クルリ様、集中して聞いてくれていますか?﹂ ﹁ああ、すまない。続けてくれ﹂ ﹁はい、経営状況は全体的に上々で・・・﹂ ロツォンさんの話は要点がまとまっており、非常に理解しやすいも のだった。 しかし、いまいち頭に残らない。 なぜなら後ろにいるアイリスが何度も出て来ようとして、引っ込ん でいく気配を感じているからだ。 416 これは俺がフォローしておいた方がいいのか? ﹁ちょっと待って﹂話し続けるロツォンさんを遮り、俺は振り返る。 ﹁アイリス、ロツォンさんが経営報告をしてくれているけど、会計 知識の勉強にもなる。よかったら一緒に聞かないか?﹂ ﹁へっ!?﹂ 呼び止められて、どうしようかなーなんてつぶやくアイリス。 ﹁ほら﹂急かすと、ようやくアイリスもきた。やけに足取りが軽い。 ロツォンさんと俺が向かい合って座っており、アイリスは俺の隣に 座った。 素直に好きな人の隣に座れない辺りがもう、なんだかなー。 結局アイリスは俺以上に話が頭に入っておらず、しかもなぜか俺の 方ばかりを見る。 ﹁では今日の報告は以上になります﹂ ﹁ああ、ありがとう。ロツォンさんのようなできる男がいて助かる よ﹂ ﹁クルリ様のような人がいるからこそですよ﹂ ﹁いや、ロツォンさんはすごいです!﹂ 割って入るアイリス。ようやく絞り出した一言のようだ。 あまりの勢いにロツォンさんも﹁はぁ﹂とうなずくだけだ。 恋する乙女は不器用だな。まぁ猪突猛進だから仕方がないのかもし れない。 ﹁私はこれで帰ります﹂ えっ、とほとんど声にならない言葉でアイリスが反応した。 ・・・仕方がない。 417 ﹁ロツォンさん、良かったらもう少しゆっくりしていってよ﹂ ﹁いえ、私は仕事もありますので﹂ ﹁まぁまぁそう言わずに﹂無理やりに肩を押して、椅子に座らせる。 ﹁じゃあなんか食べ物をとってくるから、二人で何か話してて﹂ ﹁・・・それではお言葉に甘えさせてもらいます﹂ 控えめなロツォンさんと、上がりっぱなしのアイリス。 二人っきりにしてもいいものかと思ったが、まぁいいんじゃね?と 半ば放り出して、俺は部屋をでた。 ﹁クルリも逃げてきたのか﹂ 外の空気を吸うために出ていくと、ヴァインが剣を振っていた。 ﹁ああ、二人にきりにしておいた。邪魔者はいないほうがいいと思 って﹂ ﹁クルリはいいやつだな﹂ ﹁そうでもないよ﹂なんたって逃げてきたのだから。 ﹁二人は上手くやれるだろうか﹂心配そうにするヴァイン。 ﹁確かに﹂ それならばと、二人で窓際へ行き、ひょこっと顔だけ窓ぶち内に入 れ、中の様子を覗いた。 二人の会話までは聞こえないが、なんだか楽しそうに会話はしてい た。 アイリスの笑顔がまぶしい。アーク王子が夢にまで見た笑顔がそこ にはある。どんまい、王子。 ﹁楽しそうだな﹂ ﹁うん﹂ 418 ﹁心配しなくてもよかったな﹂ ﹁そうだな。ところで、俺たちは覗いてていいのかな?﹂ ﹁いい趣味ではないな﹂ ﹁じゃあ、剣の稽古でもする?﹂ ﹁そうしよう﹂ 息があったので、久々に二人で剣の稽古をした。 ヴァイン曰く体を動かすと考えずに済むとのことだ。 その言葉の通り、純粋に剣の稽古を楽しむことができた。 ﹁クルリは剣の腕もすさまじいな﹂ ﹁ヴァインこそ﹂ お互いに愛剣を取り出し、夢中で何合も打ち合った。 ときが経つのも忘れ、自分たちの体力が続く限りそれは続いた。 そうだ、男はやっぱりこうでないと。 うだうだ考えるのはやめた。やりたいことをしよう。それが一番幸 せだ。 ヴァインとの剣の稽古は決着がつかず、お互いの息が切れてきたこ ろに自然と終わりをむかえた。 ﹁いい稽古だった﹂ ﹁ああ﹂ お互いの息が切れて、まともに会話もできない。でも、なんだか楽 しい。 やぱっり体を動かすのはいいことだ。 お互いの健闘をたたえあった後、横から拍手が聞こえた。 目をやると、アイリスとロツォンさんがそこにはいた。 ﹁ロツォンさん、もう帰るんだって。それで二人で出てきたの﹂ 419 ﹁ええ、今日は随分と長居を致しました。私はこの辺で帰ります﹂ ﹁そうですか。またいつでも来てください﹂ 気づけば結構時間もたっていた。二人で充分話したのだろう。アイ リスの顔は満足そうに見える。 仕事があると言うロツォンさんを見送り、3人で屋敷の中へと戻っ た。 あまり聞くのは良くないかと思ったが、一言だけならと。 ﹁ロツォンさんとはいろいろ話せたみたいだね﹂ ﹁うん、でもクルリの話ばっかりするんだよ。クルリが昔何をした とかそういう話ばかり、ずるいよっ﹂ 指をバシッとこちらに差し、プ∼と頬を膨らませて、若干の不満顔 を見せている。 なんだ、随分と楽しめたようではないか。 ﹁ははは、さぁいっぱい動いてお腹も減った。シャワーを浴びたら 夕飯にしよう﹂ ﹁うんっ﹂ アイリスは元気に頷いた。 その顔は今朝と比べて随分と晴れ晴れとしている。大分スッキリし たようだ。 今日は久々におかわりしてくれそうな気がする。 420 3章︳4話 ラーサーが嬉しそうな顔して、我が領に来た。 かわいい弟分が来て非常にうれしいのだが、馬車から降りてきたの はラーサーだけではなかった・・・。 ラーサーが来ることに慣れたらしいうちの父親が朝から張り切って いた。 王族が我が領に来る、こんなめでたいことはないと前の週から夜な 夜な語るのだ。 王妃様は迫力があり、それを父親は苦手にしている。 でもラーサーはそのあふれ出る優しさから、気づけば我が家に自然 と馴染んでいた。 その甲斐あり、父はラーサーが来ると心から歓迎するのだった。 ﹁いやー、ラーサー様が王位に就けばいいのになー﹂なんて恐ろし いことを言う日もある。 おー怖い怖い。父親の口からボロが出ないうちに早く矯正しておか なくては。 今夏に収穫できたスイカを川で冷やして、昼に着くというラーサー に合わせて屋敷内に運び入れている。 ﹁ラーサー様が喜んでくださるとといいな﹂ なんて下心ありありの父親がにやにや顔で言う。 ﹁そうですね﹂ 421 昼になり、予定通りラーサーの馬車が着いた。 随分と馴染んだもので、領民も大きく騒がなくなっている。 ラーサーにとってはその方が来やすいからいいだろう。 馬車が屋敷に着くと、ラーサーが降りてきた。 ﹁お久しぶりです、アニキ﹂ 相変わらずの可愛らしい笑顔だ。 ﹁よく来たなラーサー﹂ 出迎えるのは俺と父と、アイリス、ヴァイン。 ヴァインとラーサーは顔見知りらしく、お互いに一礼していた。 ﹁こちらはアニキの恋人ですか?﹂とラーサーが指すのはアイリス だ。 ﹁いや、違う﹂ すぐに否定した。 ﹁ところで、一人で来る予定でしたが・・・実は出発の際に捕まり まして、あのー﹂ なんとも気まずそうに口ごもるラーサー。 良くない話ですね、はいわかります。 ﹁実は姉達と兄も着いてきまして・・・。姉は知人と一足先に街に 行ってしまったのですが、兄は今馬車の中にいます﹂ なんとも申しわけなさそうに言うラーサー。 君は悪くないんだよ、君のお兄さんが自分の欲のために来ただけだ から。 そう思いラーサーの頭を撫でてやる。 その話を聞いて一番びっくりしたのは父親である。 422 いたたたた、とお腹の調子を急降下させて﹁息子よ、あとは頼んだ﹂ とかっこよく去っていった。 トイレへと。 満を持して、第一王子のアークが馬車より出てきた。 ﹁ほう、ここがヘラン領か﹂とかブツブツ呟いている。 ﹁まぁなかなかよさそうなところではあるな﹂ 頭はアイリスのことでいっぱいのくせに、下手に景色ばかり見てい る。 ﹁よぉ、クルリ・ヘラン。第一王子としてお前の領の視察に来た﹂ ﹁それはどうも﹂ ﹁領主の姿が見えないが、在宅じゃないのか?﹂ ﹁いや、腹を下して席をはずしています。まぁ私が対応させてもら いますので、お気になさらずに﹂ ﹁そうか、それではよろしく頼む﹂ ふっふーと今度は口笛を吹きだし、なにやら落ち着かない様子だ。 ﹁ヘラン領に近づくにつれてこのような様子なのですよ。兄が迷惑 をかけるかもしれませんが、どうかよろしくお願いします﹂ 兄の真実の気持ちをしらないラーサーが、兄の様子を気味悪がるの も仕方がない。 変な兄を持つと弟は苦労するな。 ラーサーには姉もいると聞いている。たしか第一王女のマリア様だ ったか。まともな姉であればいいのだが、きっと話題に上がらない ので、しっかりとした人なのだろう。 ラーサーをよろしくお願いします、そっと心の中で祈った。 第一王子アークの魂胆はわかりきっているので確かめる必要もない 423 が、一応本当に公務で来てるといけないので形だけでも確認してお こう。 ﹁ラーサー様はアイリス、ヴァインと一緒に屋敷でお待ちください。 以前話したスイカを用意しております。では、アーク様は私と一緒 に領内の視察に向かいましょうか?﹂ ﹁うっ﹂と少し疼き、ひやりと汗を流すアーク。 やはり公務は言い訳だったか。 素直に遊びに来たとでもいえば済んだものを、俺だって休日を楽し みたいのに。 ﹁兄をよろしくお願いします﹂ ラーサーが頭を下げ、アイリス、ヴァインと共に屋敷へと入ってい った。 我が家への入り方と言い、もう手慣れたものだった。 のこされた俺と、アーク王子。 相手は嫌そうな顔をしているが、こちらも同じ気持ちだ。 ここまで状況が進んでは退くに退けず、結局二人で領内をまわるこ とになった。 ﹁あ、これ頼まれたから﹂とぶっきらぼうに渡されたのは、手紙だ った。 宛先には、エリザ・ドーヴィルと書かれている。 その名を見て少し自分の気持ちが高ぶったのを感じた。 あれ?俺なんでこんなに喜んでいるのだろう? なんだか自分でもすこし不思議だった。 424 馬車の中でガタガタと揺らされる二人。特に話すこともないので二 人ともただ遠くを眺めている。 ﹁ヴ、ヴァインと、アイリスは何しにここへ?﹂ 沈黙を破ったのは王子の方だった。アイリスがなぜここに来たのか、 気になるらしい。 ﹁遊びに来ただけですよ。ああ、あとバイトをしに﹂ ﹁そうか。バイトか・・・﹂と王子は納得している様子だ。 しばらく離れていて、だいぶアイリスのことを考えたのだろう。 ようやくアイリスと言う人間がわかりだしてきており、その手があ ったかと今納得している様子だ。 俺としては早いとこアイリスと上手く行って欲しいが、何せ思った より王子が残念なのでいまいち応援してやりたくなる気持ちに熱が 入らない。 今日も、ちらちらとアイリスと覗き見ていた姿が情けなかった。 もっとしっかりしてくれよ王子! そしてまた厄介なタイミングで来たな! 今アイリスは別の男性に夢中なのだ。 それを知ってしまったら、アークはどうするのだろうか? うちの領内で身投げとかやめてよ?本当に。 ﹁あのー、屋敷にスイカと言う美味しい果物を用意しています。も しよかったら、公務を早めに切り上げて戻りますか?﹂ ﹁そうだな。それがいい!﹂ 水を得た魚のように目が生き生きしだす王子。 もう素直にアイリスにあいたいと言ってくれればいいのに。 そしたらこんな回り道をしなくても済んだものを。 425 屋敷に戻ると三人が庭で並んでスイカを食べていた。 種を口に含み、誰が一番とばせるか競っているようだ。 俺も混ざりたい。 こちらに気づいたラーサーが駆け寄って来た。 ﹁もうお戻りですか?﹂ ﹁ああ、ちょっと予定を変更して一緒にスイカを食べることにした﹂ ﹁それはよかったです。さぁ一緒に食べましょう。本当に美味しん ですね、このスイカと言う果物は﹂ そう言われてしまうと、もう我慢はできない。 スイカを一切れもらい、すぐに俺も居並ぶ。 口いっぱいにほおばり、種だけを飛ばす。ピュッ! んー、幸せだ。 ﹁見て、私も結構飛ぶから﹂ピュッとアイリスも吹き出す。 レディーがやることじゃありません!と言いたいが、楽しそうなの でよし! そんな会話をしていてすごく楽しいのだが、ちょっとだけ困ったこ ともある。 今の席位置は、アーク、ヴァイン、アイリス、ラーサー、俺と並ん で座っているのだが、アイリスがこちらばかりを見て話すのだ。 ラーサーと俺の方を見て3人で話す。すごく楽しい空間ができてい る。 向こうのヴァインは一人で黙々とスイカを食べている。彼はあの静 けさが幸せなのだ。 何も問題はない。 426 問題なのは端っこで拗ねている第一王子のアークだ。 いままで集団にいて、自分が中心にならないことはなかったのだろ う。 どうしていいかもわからず、彼の目はかなり寂しそうだった。 イケメンだからなー、普通は女の子が飛びつくのに。 アイリスは普通の女の子じゃないから。ドンマイ、王子。 ﹁あ、アイリスは休みの間ずっとここに居るのか?﹂疎外されてい たアークが勇気を振り絞り、輪の中に飛び込んだ。 大きいヴァインが遮っているので、彼は随分と苦労したことだろう。 ﹁うん﹂ それに対するアイリスの返答はあまりに素っ気ないものだった。 流石にそれは冷たいっすよ!アイリスさん! もうアークは泣き出しそうだ。 イケメンで王子で、何もかも持っているのに・・・、なんなんだろ う今現在放つあの負のオーラは。 レイルの話によると、学園では結構つきまとっていたらしい。 もしかして、既に嫌われてる?そこまでいったの? ﹁そういえばアイリスとアーク様は結構親しいようですね。学園で 一緒にいることが多いのでしょうか﹂ 会話を途切れさせないように、とっさに二人の間に橋を架けた。 ﹁そうだな、二人で良く一緒に話したりするぞ﹂デレデレ顔の王子 が言う。 ﹁一緒の授業が多いだけよ﹂ 冷たくアイリスが橋をぶっ壊す。 あ、もうダメだこれ。王子さん、しばらく顔見せない方がいいよ。 427 ﹁今日初めて会いましたけど、アイリスさんはすごく魅力的な人で すね。みなさん同様に僕もこれからアイリスさんともっと仲良くな りたいです﹂ ﹁あら、私もラーサー様となら仲良くなりたい﹂ニコッといつもの アイリスの明るい笑顔が飛び出し、ラーサーの頭を優しくなでた。 弟みたいな可愛さがあるラーサーのことが気に入っているようだ。 ︶なら?と、なら? ﹁やった﹂ラーサーも嬉しそうに笑った。 ラーサー様と︵ それは誰を省いているのでしょう。怖くて想像したくありません。 それを見てより一層泣きそうになるアーク。 もう帰らせてあげた方が、彼のためかもしれない。 頼むから我が領内で身投げとかやめてほしい。 こんなやり取りが続き、夜になるころにはアークはついに涙目で﹁ 帰る﹂と言い出した。 ふらふらになりながら、さながらゾンビのように家の中を徘徊する。 ﹁夜は危ないから、明日まで待ちましょう﹂となんとか引き止め、 一泊してもらうことになった。 ﹁温泉に入りましょう。そしたら気分も変わりますから﹂ ﹁そうだな、俺なんていっそ温泉に沈めばいいんだ﹂ あかん、あかん!死ぬのは勝手だが、うちの領で死ぬのは止めてく れ! その身を従者に任せ、俺はようやくひと段落着くことができた。 俺も温泉に入って寝ることにしよう。ひどく疲れた一日になった。 温泉は体と心を癒してくれた。 風呂上がりにラーサーが待っていてくれて、一緒に散歩に行くこと 428 になった。 ﹁ヘラン領は相変わらずきれいな土地ですね﹂ 夜道の散歩は気持ちがいい。おれも同じくきれいな自然を楽しんで いた。 ﹁それにしても今日は兄がお世話になりました。連れてくるべきじ ゃなかったですね﹂ ﹁いやいや、別に世話ってほどでもないよ﹂ ﹁でも、やっぱり連れてくるべきではなかったです。兄はアイリス さんに好意を持っているみたいですし﹂ ﹁ああ、あれね﹂ ﹁アニキ、アニキは兄のことなど気にせず自分の恋を貫いてくださ い。アイリスさんとアニキはお似合いです。幸せにしてあげてくだ さい﹂ ﹁えっ!?﹂ ラーサーがとんでもない勘違いをして、とんでもない発言をしたた め、温泉上がりのポカポカ気分がぶっ飛んでしまった。 ﹁違う、違う。そんな間柄じゃないから!﹂ ﹁でも休みにずっとヘラン領にいるのですよね?それが恋人でない とでも?﹂ ﹁違うよ。彼女にはここで働いてもらっているだけ。本当にそうい う気持ちはないよ﹂ ﹁そうなのですか?それはとんだ勘違いをしてしまいました﹂ ﹁ああ、びっくりしたよ。アイリスはいい子だけど、恋愛対象とし ては見てないから﹂ ﹁なんだ、心配して損しましたよ。なんだかホッとしたら、眠くな ってきました。私はもう戻りますね、アニキも戻りますか?﹂ ﹁いや、もうすこし風をあびてから戻るよ﹂ ラーサーと夜の挨拶を交わして、その場で別れた。 429 芝の上に座り、一人屋敷の庭で夜風をあびた。 夏の夜風は気持ちがいい。 冷たくなく、暑くもない。 星もよく見えた。虫のきれいな鳴き声も聞こえる。 そんな素敵な空間に、人の足音がして、振り向くとアイリスが歩い てきていた。 ﹁気持ちがよさそうだね﹂ ﹁うん。夜風が気持ちいいよ、アイリスも座る?﹂ ﹁座る。本当だ、すごく気持ちがいいね﹂ 二人で黙って星を眺めた。 出会ってもう数か月経つのか、今ではこうして一緒にいても緊張す ることもなくなった。 それだけ仲良くなったのだ。 まさか俺がこんな美人さんで運命を左右する人と仲良くなるなんて。 王子が嫌われて、俺が仲良くなっている。 運命は変わりつつあるのか、ふと夏の夜空の下でそんなことを考え た。 ﹁実はさっきの話聞いてたんだ・・・﹂ ﹁ん?ラーサーとの話?﹂ ﹁うん﹂ 聞かれてたか、でもそんな変なことも言ってないし、まぁ特に問題 はない。 ﹁クルリは私のこと女性としては見てないんだね。私はね、クルリ が私のこと好きだったらいいのになーなんて思ったこともあるよ?﹂ ﹁えっ、だって﹂ロツォンさんのことが・・・、えっ!?どゆこと? 430 ﹁ふふ、なーんてね。じゃあお休み、先に戻るから﹂ ﹁あ﹂ 固まる俺を放って、アイリスは屋敷へと戻っていった。 さっきのは何だったのだろうか、からかわれたのか? ・・・きっとそうなのだろう。彼女が好きなのはロツォンさんなの だから。 俺も重い腰を上げて、屋敷に戻った。 その日の夜は、なんだか眠りにつけず翌朝まで目がぱっちりとして いた。 俺もまだまだピュアだなと、痛感した日でもある。 431 3章︳5話 王子が我が領に来て、ゲッソリして帰る。 そんな状態にさせる訳にはいかず、帰る帰ると言っていた王子を無 理やりとどめた。 我が領に行って王子が痩せて帰って来たなんてことが噂で流れたら 大変な事態である。 そんなことは断じて阻止せねばと、王子を元気づけるために街に連 れ出した。 ﹁どうです?我が領の街は華やかでしょう﹂ ﹁そだな﹂ 王子のから返事だけが返ってくる。 顔色もよろしくない。 どれだけ昨日のことを引きずっているのだろう。 ﹁そんなに落ち込まないで。ほら、かわいい町娘がいっぱいいます よ﹂ 俺の指さす方角に確かにかわいい女の子の集団がいる。 街で若い娘が自由に買い物をしている。 領主目線から見ると、実にいい光景だ。 若い娘が自由に休日を謳歌しているのは、領が栄えている証拠でも ある。 でも、今日はそういう目線は必要ない。 432 今日は王子の接待をせねば。 王子のアークは顔はかっこいい。 それになんでもできてしまう、天才肌でもある。 黙っていれば確実にモテるはずだ。 間違いない、これには確信を持っている。 黙って街中を歩いて、若い娘たちにキャーキャー言われれば元気に 王都へ戻るだろう。 最期に我が領特産のスイカを手土産で持って帰らせればパーフェク トだ。 ちょろい仕事だよ。 ﹁あっちに行ってみましょう﹂ 抜け殻状態の王子を誘導し、若い娘達の集団の傍に寄った。 どうやら露店のアクセサリー屋さんで買い物中みたいだ。 王子を誘導して、俺たち二人も店に顔を出す。 それと同時に若い娘達がこちらに気が付き、急に色めき立った。 キャッと一人が声を上げれば、周りも声をあげ、一気に雰囲気が華 やいだ。 横目で確認しているが、間違いなくこちらに興味がある様子だ。 さぁ、あとは声がかかるのを待つだけ。 ﹁あのー﹂ きた!! 早速釣れました! 横を振り向き、その娘の顔を見ると、街中でもなかなか見かけない 433 レベルの美人だった。 やりましたよ、これでアイリスのことを忘れて王子も現を楽しんで くれるはずだ。 さぁ美女よ、王子にアタックせよ! ﹁あのぉ、領主様のクルリ様ですよね﹂ ﹁はぁ﹂ えっ、私ですか? ﹁その、私ずっとクルリ様に憧れてたんです。そのもしよろしけれ ば、握手だけでもさせてもらえないでしょうか﹂ ﹁あ、はい。いいですよ﹂ ﹁キャッやった。で、では﹂ そっと差し出された手を握り、握手を交わした。 華奢できれいな手だった。 ﹁すみません!私もいいですか?﹂今度は違う娘が声をかけてきた。 ﹁あ、はい﹂ またも美人で、きれいな手だった。 それから立て続けに並ぶ町娘たち。気が付けば数十人が集まり、握 手を待つ行列ができていた。 うん、いい気持ちだ。 違う!! こんなために来たのではない! 急いで王子を見ると、こちらを死んだ魚のような目で見ていた。 なぜだ!?なぜ王子に勝ってしまったのか!! 間違いなく王子はイケメンだ。黙っていればとてつもなくかっこい い。 434 なのに、なのになぜ完勝してしまったのだろうか。 ﹁はっ﹂ ここで俺はようやく気が付いた。 ホームとアウェーの差だということに。 王子の顔を知らない領民などいくらでもいる。 しかし、俺はよく領内に顔をみせることもあり、領民には顔が知れ ている。 ということはだ、顔では王子が勝っている。 しかし、この俺クルリ・ヘランもそこそこのいい男である。 つまり顔ではあまり差はついていない。 差がついたのは、まさしく女性が大好きなもの。 肩書だ!! 二人並んだいい男。 片方は得体のしれないイケメン。 もう片方は次期領主のイケメン。 これでは俺が勝ってしまうのも無理ない。 しまった!だが、もう手遅れだ。 それにしても我が領の女性はしっかりしているな。 将来はみんなしっかり者の嫁になると思うよ。 でも、でも今日に限ってはその選択は間違いだ。 なんたって俺の隣の人物は王子なのだから。 435 玉の輿なんてレベルじゃない、町娘から天に昇れるのですよ!? しっかり見極めなさい!! ﹁・・・﹂ ほら、王子が黙って泣きそうになってる。 もう見てらんないよ。 ﹁すみません。もう握手は終わりでお願いします。今日は友人が来 ているので﹂ ええー、と行列から声がする。 どうも、なんかスターになった気分だ。 みんなに手を振ると、さっさと王子を連れて逃げだした。 ﹁俺がいつお前の友人になったんだ?﹂ ﹁まぁいいじゃないですか﹂ ﹁お前はいいな。女にモテて﹂ ﹁・・・﹂ 殺気のようなものを感じたので、ここは聞こえなかったことにしよ う。 ﹁そういえば、昨日エリザからの手紙を渡したよな。あれも、もし かして﹂ ちっ、覚えていたか。 ﹁あれは違いますよ。ただの夏の挨拶みたいなものでしたから﹂ 事実そんな内容だった。 ただやたらと書かれていたエリザの日常が気にはなったが、意外と 平凡な内容で案外だった。 ﹁はぁー、俺はいつからこんな情けない男になってしまったのか﹂ 436 王子がついに座り込み、遠い目で黄昏だした。 ダメだこれ、どう励ましていいのかわからない。 王子、原作ではあんなにかっこよかったのに。 人間どこで足を踏み外すかわからないな。 あー、無情。 ﹁エリザはな、むかしはいつも俺を追いかけてきていたんだ﹂ ﹁・・・はぁ﹂ ﹁昔はうざいくらいしつこくてな。何でも自己中心でなければ済ま ないあの性格のせいで、俺も何度かキレたことがあったよ。それが 今じゃ懐かしい﹂ なんだろう、彼は寿命を迎えた老人にでもなったのだろうか。 ﹁エリザは最近全然俺を追いかけなくなった。最初は憑いた霊が落 ちたような気分だったが、思えばあの頃が俺の人生が一番輝いてい たかもしれない﹂ ﹁エリザは忙しいそうですし﹂ ﹁大切なものはなくして気づくって、本当だったんだな﹂ ﹁そうですか﹂ これでツーと涙が流れようものなら、もう旅に出たらいい。 きっといい文集が書けるに違いない。 ﹁お前はいいよな。アイリスと仲良くして、エリザからも手紙を貰 って。俺から何もかも盗っていくんだな﹂ これは言いがかりだ。 いや、でも本来ならこんなことにはなっていないはず。 俺のせいなのか? 437 ﹁レイルも最近じゃお前とよく一緒にいる。俺から親友まで奪うの か﹂ ﹁いや、あれは違う﹂ これだけは即否定させてもらおう。 あいつはちょっと危険だ。できればもう近づきたくない。 見ていて王子が一秒一秒ごとに痩せていってる気がする。 いままで挫折とかしたことないんだろうな。特に恋愛方面では。 100戦99勝の男が初めて刻んだ唯一の一敗。 それが運命の相手か。 ぷぷぷ、なんか笑える。 ﹁まぁ元気出してください。女の子なんていくらでもいますよ﹂ ﹁お前はモテるからそう言えるんだ﹂ モテていた過去など忘れてしまったかのように、その言葉には寂し さしかなかった。 ﹁女性にはプレゼントを贈るといいと言いますけど、気になる女性 でもいるなら贈ってみてはどうでしょう﹂ ﹁そんな相手はいない﹂ とか言いながら、きっとアイリスのことを考えているのだろう。 ﹁でもな、以前贈ったときは断られた。むしろ嫌な気分にさせたか もしれない﹂ ﹁何を贈ったんですか?﹂ ﹁ダイヤのネックレスだ﹂ ﹁・・・﹂ ﹁なぜ何も言わない﹂ ﹁いえ﹂ 438 ﹁やっぱりおかしいのか!?俺のセンスはいつの間にか枯れ果てて、 前時代の遺物と化したのか!!??﹂ ﹁いえ、落ち着いてください。そういう訳じゃないです﹂ ﹁じゃあどういうことだ﹂ ﹁いや、だってそんなの贈られたら・・・普通怖くないですか?﹂ ﹁・・・わからない。その気持ちがわからない﹂ 人の気持ちがわからない。 人間わからない。 人間怖い。 人間・・・。 と続きそうなトーンだ。 しょうがない。彼が野獣になる前に、拙い俺の知識を分けてやるこ とにしよう。 ﹁以前女性に花を贈ったら、すごく喜んでくれましたよ﹂ ﹁花・・・、ようし、なら俺は花園まるまる送ってくれるわ!﹂ ﹁いや、それはまた怖がられるのでは?﹂ ﹁・・・わからない。その気持ちがわからない﹂ 人間・・・以下省略。 ﹁一輪の花で充分です﹂ ﹁一輪?けち臭くないか?﹂ ﹁そうでもないですよ。ヘラン領にはそれは珍しい花があります。 広大な花園に一輪しか咲かないと言われる大変貴重な花です。それ を見つけて贈れば、きっとどんな女性も喜びますね﹂ ﹁おお!わかる。その気持ちはわかるぞ!﹂ 人間・・・。 人間温かい。 人間優しい。 439 人間は愛。 おっと、これ以上心で王子をバカにするのは止めよう。 早速とばかりに花園に案内しろと言われた。 どうせなので領で一番大きな花園を紹介した。広大な土地だ。 ココなら間違いなく咲いているだろう。 ﹁花の名は﹃ハーマイオ﹄。花弁6枚がそれぞれ赤、白、青、黄、 緑、ピンクと色が違う世にも珍しい花です。花言葉は、この世の奇 跡。見つけただけできっといいとこが起こるでしょう!﹂ ﹁ああ、なんだか気力がわいてくるぞ!そうだ、俺はこれを見つけ て、そして・・・。いや、全ては見つけてからだ!﹂ ﹁その調子ですよ!﹂ ﹁ありがとう、クルリ。あとは自分の力でやりたい!お前は屋敷に 戻っていればいい﹂ ﹁ええ、期待して待っていますよ!﹂ ﹁まかせろ!﹂ こうして俺は先に屋敷に戻り、ラーサーたちと楽しい休暇を楽しん だ。 邪魔者がいない休暇は本当に楽しいものだった。 ラーサーはいいやつだ。ヴァインは愉快な奴だ。アイリスはいつも 新鮮な気持ちをくれる。 いい休暇だ! そんな時間を忘れる楽しい休暇だったため、いつしか第一王子のア ークのことなど忘れ去ってしまった。 3日後、ボロボロの半泣き状態で帰ってきた王子を見てようやくそ 440 の存在を思い出した。 ・・・どうやら見つからなかったらしい。 王子はさらに痩せていた。 ﹁・・・ドンマイ﹂そんな言葉しか出てこない。 王子に春はもう来ないかもしれない。 441 3章︳6話 ラーサーが無理やりと兄のアークを馬車に乗せ、ようやく我が領を 立ち去ってくれることになった。 ﹁アニキ、色々と迷惑をかけてしまいました﹂ 申し訳なさそうにラーサーが謝罪をしてきた。 ラーサーは良き来客だった。 来てくれるだけで嬉しい良き弟分である。 迷惑だなんてとんでもない。 ﹁ラーサーには迷惑をかけられていないよ﹂ ラーサーには、としっかりつけておいた。 ﹁兄がいろいろと、今度は私一人で来ますのでその時はまたよろし くお願いします﹂ ﹁うん、ちゃんと一人で来るんだぞ﹂ 一人で、の部分を強調しておいた。 もういろいろと背負うのは嫌だ。 休暇はちゃんと心も休ませてほしい。 ﹁では、私と兄はこれで王都へ戻ります﹂ ﹁ああ、ラーサーはまたいつでも来ていいからな﹂ ﹁ありがとうございます。また会える日を楽しみにしています﹂ ラーサー一行の馬車は去った。 なんか馬車の中から悲壮感が漂っていたので、軽くお祓いをしてお いた。 442 ﹁ラーサー様が行っちゃったね﹂ いつの間にか隣に来たアイリスが寂しそうに言う。 ラーサー様・・・。 ﹁ラーサーとアークが帰って寂しいな﹂ ﹁うん、ラーサー様とやっと仲良くなれたのに﹂ ラーサー様・・・。 ﹁ラーサーとアークは次またいつ来れるだろうか﹂ ﹁ラーサー様は忙しそうだし、また冬の休暇とかになりそうだね﹂ アークがいない、彼女の中にいない・・・どんまい。 ﹁アイリス、部屋に戻ろうか﹂ ﹁うん﹂ ここ数日は実りの多い休暇を過ごすことができた。 それでいいのだが、ヴァインとアイリスはあくまで働きに来た意識 を持っており、残念ながら俺ほどにリラックスしきれていない感じ はした。 今日も二人ともなんだかそわそわしている雰囲気がある。 もうこれ以上休むのは申し訳ない、とそろそろ言い出しそうだ。 もちろん二人の気持ちには気づいているので、そろそろやるべきこ ともしようと思っている。 ﹁ヴァイン、アイリス、仕事を頼みたいんだけどいいかな﹂ ﹁ああ、退屈してたところだ﹂﹁もちろん﹂ トトとの試作品の顔パックを今日から販売しようと思っている。 別荘地に止まっている客に優先的にまわそうと思う。 443 ﹁ヴァインは顔パックの植物を全部ロツォンさんのところへ運んで もらえるかな。馬車で全部運び入れてほしい。話はロツォンさんに 通してあるから、現場でのサポートよろしく﹂ ﹁わかった﹂ ﹁アイリスは俺と一緒に販売をやってくれるかい?﹂ ﹁うん﹂ 早速別荘地へと趣、顔パックの植物はヴァインとロツォンさん指導 のもと丁寧に運び込まれた。 ロツォンさんが用意してくれた販売スペースを借りて、別荘地の一 角に臨時の顔パック売り場ができた。 商品も徐々に並び、昼過ぎに店をオープンした。 ﹁さぁいらっしゃいませー﹂ 早速ちょろちょろと通る奥様方に声かけをしていく。 ﹁か、顔パックありまーす﹂ アイリスも慣れないが、頑張って声をだしている。 ﹁あら、それは何かしら﹂ 人通りの多い別荘地ではないが、金に余裕のある奥様方はとりあえ ず珍しいものには飛びつくらしい。 早速一人捕まえた。40代くらいの奥様だ。いかにも美にお金をか けていそうな雰囲気である。 ﹁顔パックです。この植物の葉を一枚、顔に半日乗せておけば肌の あらゆるトラブルを改善してくれます﹂ ﹁あら、ほんとかしら?﹂ ﹁テストは済ませています。非常に美肌効果の高い優れた商品です。 肌がプルップルになりますよ﹂ 444 ﹁プルップルに?﹂ ﹁ええ、プルップルに﹂ ﹁プルッーーープルに?﹂ ﹁ええ、プルッーーーープルに﹂ ﹁・・・じゃあ一つ頂こうかしら。おいくら?﹂ ﹁今回が初めての販売ですので、今だけ特別価格で銀貨5枚です﹂ ﹁はい﹂ 奥様はすぐにバッグから銀貨を取り出した。 なかなかのチャレンジ価格だと思ったが、奥様方にはノーダメージ らしい。 恐るべし財布力。 ﹁どう使えばいいのかしら?﹂ ﹁葉を一枚容器に入れてお渡しします。容器から取り出した後は、 植物の効果の持続が8時間しかありませんので、お急ぎください﹂ ﹁ふーん、そう。じゃあとりあえず使ってみるわ。効果がよかった らまた買いに来てあげる﹂ ﹁はい、ありがとうございます。今回は数に限りがありますが、気 に入っていただけたらまた来てください﹂ 奥様は商品を受け取るとそそくさと帰っていった。 足取りが軽いので態度とは裏腹に意外と期待しているかもしれない。 女性は新商品と限定品に弱い、は本当だったようだ。 ﹁いきなり売れちゃったね﹂ ﹁ああ、びっくりした﹂ ﹁銀貨5枚だなんて、一体どれだけの食料が帰るんだろう﹂ そういう目線になっちゃうよね。 銀貨5枚は安くなんかないぞ。むしろめちゃめちゃ高い。 445 本当に、いきなり売れてよかったよ。 ﹁トト喜ぶかな﹂ ﹁これからの反応次第かな﹂ そう、まだまだ売り出した直後なのだ。 これから客がまだ来るとは限らない。 それに客のリピートがなにより大切なのだ。 気を引き締めなくては。 ﹁まだまだどうなるかわからない。俺たちで頑張って声を出して売 ろう!﹂ ﹁うん!頑張ろう!﹂ ﹁あら、何を売っているのかしら?﹂ うわ、またいきなり来た!! いや、来ていいんだけど。 今度もいかにもお金を持っていそうな奥様だ。 財布力、53万はありそうだ。 ﹁顔パックですよ﹂ ﹁あら、なにかしら?﹂ 横から別の奥様が割り込み、顔を出す。 ﹁顔パックですよ﹂ ﹁あら、なになに?﹂ またまた別の奥様が割り込んで来た。 ﹁顔パックですよ﹂ なになになに?とぞろぞろ集まる。 人が一人増え、3,4と増えるにつれて、一気に別荘地に火が付い た。 奥様方は行列に弱いと言うが、本当だったみたいだ。 446 俺とアイリスが頑張るまでもなく、およそ9割がた売れてしまった。 金に糸目を付けぬ、とかっこよく去っていった奥様方がちょっとカ ッコよかった。 ﹁はー、めちゃめちゃ売れたね﹂ 頑張って働いてくれたアイリスが満足な顔で言った。 ﹁ああ、びっくりしたよ﹂ 残った顔パックの植物は残り一鉢だけ。 日も大分傾いたので、もう店をたたむことにした。 後は客の反応を見て、今後の計画を立てよう。 あまりダメってことはないと思うが、一応明日もここにきて客の意 見などを集めようと思う。 それ次第で、また今後売り出すかどうかを決めることにする。 ﹁アイリス、お疲れ。ロツォンさんに声をかけて、ヴァインと一緒 に帰ろうか﹂ ﹁うん﹂ アイリスがほっぺを赤く染めて、少しだけ髪を整える。 乙女だねー、ほほえましいよ。ほほほほほ。 ﹁少しだけ残っちゃったのが心残りだね﹂ ﹁うーん、まぁあと少しだけだし、これは俺たちで使ってしまうか。 ロツォンさんにも御裾分けしよう﹂ ﹁うん﹂ アイリスの顔がまたも赤くなった。 ロツォンさんの名前を出すだけで赤くなるらしい、随分と幸せを満 喫なさっているようだ。 ﹁ロツォンさん、ヴァイン、今日はお疲れ﹂ 447 裏方で働いてくれていた二人のもとへ行き、感謝の言葉を伝えた。 ﹁久々に働いてむしろ心地いい気分だ﹂ ヴァインが満足げに言う。ありがたい限りだ。 ﹁私も役に立ててうれしい限りです﹂ 相変わらずのできる男、ロツォンさんだ。 今日も手堅く仕事をこなしてくれた。 ﹁ロツォンさん、別荘地の管理もあるのに臨時で手伝ってもらった お礼。よかったらこの顔パックを何枚か持って帰ってよ﹂ ﹁いいのですか?結構な値段がすると聞きましたが﹂ ﹁いいんですよ。ロツォンさんにはいつも報酬以上の働きをしても らっていますし﹂ ﹁いや、それはどうも。では、一枚だけいただきます﹂ ﹁一枚か、もしかして妹さんに?前にいるって言ってたよね﹂ ﹁ええ、でも妹はまだまだ少女ですのでこんなものは必要ありませ ん﹂ ﹁では誰に?﹂ ﹁妻に贈ろうと思います。日ごろからあまりかまってやれていませ んので、お礼も込めて﹂ 妻・・・。 ツマ・・・ツナ?いや、妻! ﹁ひょーーー!!!﹂ 妻いるのかよ!? 妻帯者かよ!! 知らなかたよーーー!! 顔をゆがめて、奇声をあげる俺。 448 卒倒するアイリス。 笑いをこらえきれないヴァイン。 まさかの大どんでん返し! ﹁皆さんどうしました!?大丈夫ですか!?﹂ 慌てふためくロツォンさん。 アイリスは意識が飛んだみたいだ。 ヴァインがかろうじて支えている。 ﹁ロツォンさん、流石です﹂ 俺は親指をぐっと立て、やはりロツォンさんはすごいと再度心に刻 み、その場に倒れた。 449 3章︳7話 アイリスが地獄に突き落とされて早3日。 時間が経ったため彼女も大分落ち着いたみたいで、1日のため息が 数回程度で収まるくらいには回復した。 ヴァインが笑ってしまったことを申し訳なく思っているのか、アイ リスを狩りにつれていった。 二人で体を動かして気分を晴らしてくれるといいのだが、どうなる ことやら。 二人が去ったことで、我が家は静かになるはずだったのだが、ちょ うど父親も戻り、久々に我が家を満喫できるとはしゃいでいる。 普段動かないのに、やたらと嬉しかったのかスキップしだした。 おっさんがスキップだ。 ありえない。 ﹁父さん、少しは落ち着いてくださいよ﹂ ﹁いやー、久しぶりだよ。何も抱え込まずに家でのんびりできるな んて﹂ ﹁母さんに怒られますよ﹂ ﹁いんだよ、お父さんは今幸せなのだから﹂ そんなことを言ってルンルンと踊りだす。 とはいえ、しばらく家を占拠してしまって申し訳ないことをしてし まったかもしれない。 450 好きにさせてもいいだろう。 ﹁ご主人様にお話が﹂ そんな時に、珍しく従者から連絡があった。 なんだかただならぬ雰囲気。 明らかに何かあったな。 父親の休まる時間もわずかだったな。 ﹁父さん、何か話があるみたい﹂ 父親のもとに連れていき、報告があることを知らせてあげた。 ﹁なんだね、言いたまえ﹂ ﹁我が領に隣接するマール領の領主、カラーク・マール様が来てお ります。まもなく屋敷に到着すると伝者から知らせが﹂ ﹁えっ!?﹂ 知らせを聞いた父親が急にぎくりとして、その場に倒れこんだ。 ﹁いたたたた、足がつった﹂ 足を痛めた父親のもとへ行き、脚の筋肉を伸ばしてあげた。 ﹁スキップなんかするからですよ﹂ ﹁すまないクルリ、でもそうじゃないんだ﹂ ﹁どういうことですか?﹂ ﹁カラーク・マール・・・﹂ 口ごもる父親。 何があるのだろう。 そういえばマール領はアイリスの故郷ではないか。 聞く話ではあまり領民にとって良い領主ではないらしい。 ヘラン領に移る領民の多くはマール領からと言う話も聞く。 451 正直いい印象のない人物だ。 そんな人物が、一体何をしにきたのだろうか。 ﹁カラーク・マール様とは知り合いなのですか?﹂ 顔色を悪くする父親が心配になり聞いてみた。 ﹁あいつは、あいつは・・・﹂ ﹁辛いようでしたら、無理しないでください﹂ ﹁いや、いいんだ。カラーク・マール、奴と私は同級生だったのだ﹂ ﹁同級生ですか﹂なるほど、なにか因縁がありそうですね。 ﹁あいつは昔からなんでも私よりできた。勉強、スポーツ、なんだ ってあいつが上だった﹂ ﹁はい﹂ ﹁あいつは良くモテていた、対照的に私は何もかもあいつに負けて いたし、女性にもモテなかった﹂ ﹁はい﹂わかります。 ﹁いつしか私はあいつに劣等感のようなものを感じていて、それ以 来あいつの顔を見ると怖くてしょうがないのだ。昔喧嘩で負けた記 憶がよみがえってくるようで、だからあいつとは・・・﹂ ﹁事情は分かりました。では、私がお会いしましょう。父さんは奥 で休んでいてください﹂ ﹁いや、そんなことを息子に任せる訳にはいかない。息子を矢面に たたせるに訳にはいかない﹂ 珍しく父親がかっこいい顔をしている。 なんだろう、本当にかっこいいよ。 カラーク・マール、それほどに恐ろしい人物なのだろうか。 そんな人物がアポもなく我が領へ来た。 間違いなく悪いことに違いない。 452 ﹁では、私も同席します。辛いことは一緒に乗り越えましょう﹂ ﹁いいのか?クルリよ﹂ ﹁ええ、もちろんですよ﹂ ﹁私はいい息子を持ったよ。ではこうしてはいられないな﹂ 父親は痛む足で地面を踏みしめ、立ち上がった。 戦場に行く前の戦士の顔は晴れやかだと聞くが、父親の顔もそれに 似たものがあった。 俺も心を引き締めておいたほうがいいかもしれない。 ﹁やぁ久しぶりだね、トラル君﹂ ﹁あ、はい、お久しぶりです。カラーク殿﹂ カラーク・マールなる人物はいきなり通された客間に入るなり、ソ ファにどかっと腰をつけて座り込んだ。 あまりの図々しい態度にいきなり気分を害されてしまった。 相手とは同級生だと言うのに、父親は敬語を使っている。 なんだか、少しだけ嫌な気分だ。 それにしても、気になる点がある。 父親から聞いた話からカラーク・マールなる人物像を頭の中に描い ていたのだが、現実に目の前にいる人物とはあまりに違っていた。 想像上はこうだ。 勉強ができてスポーツもできる。それでモテて、喧嘩も強い。 となると、身長180cmの強面イケメン、体格はがっちり系。 だが、目の前にいるそれは全く違う生き物だった。 顔は豚に瓜二つであり、体も比例して肥満体系である。 あまり頭のよさそうな振る舞いもなければ、モテそうな雰囲気もな い。 453 あれ?別人物なのか? それとも父親の主観から見ると、こいつは全てが優秀な人物に見え るのだろうか。 なんだかそんな気がしてきたよ。 ﹁変わらないね、トラル君﹂ ﹁ええ、カラーク殿も﹂ あ、変わらないんだ。 じゃあ、あれだね。父親の主観だね。 モテないよこいつ、豚だもん。 ﹁今日は突然来てしまって申し訳ないね。ちょっとだけお願いがあ って来たんだよ﹂ ﹁いや、来てもらうのは構いませんが、お願いと言うのは﹂ カラークが大股を開いて、肘かけに肘をのせた。 あまりに客人らしくない振る舞いに、だんだんとイライラが募って きた。 ﹁君の領は最近随分と栄えているらしいね﹂ ﹁ええ、おかげさまで﹂ ﹁そうなんだよ。おかげ様なんだよ。うちの領民がトラル君のとこ ろに多く移っているでしょう。おかげでこちらは働き手が日に日に 減っていく﹂ ﹁それは・・・、そうですね﹂ ﹁そこでね?今日の本題なんだけど、賠償してくれないかな。うち の領民をさらったことへの賠償を﹂ ﹁さらっただなんて、領民は自分の意志で我が領に来ています。国 も領民の移動には制限をかけていませんし、何も問題はないはずで すが﹂ 454 ﹁問題大ありだよ。うちの領の働き手が減ってるって言ってるでし ょう!﹂ ﹁しかし﹂ ﹁いいから、さっさとお金を出せばいいんだよ。それでうちの領民 も納得するだろうさ﹂ 父親の後ろで黙って話を聞いていたが、随分とふざけた話をしてい る。 アイリスの話じゃ、マール領は税金が重い。 そんな領より、税も重くなく、好景気な我が領に来るのは当然であ る。 なにより、それを阻止するために頑張るのが領主の務めである。 それなのに、目の前の豚はやるべきこともせず、あたかも自分が被 害者だと言わんばかりの態度だ。 いや、奴はわかっている。自分が悪いことも、こちらに非がないこ とも。 それでいて、無理な話をつっかけてきている。 おそらく父親相手なら今までどんな話でも押し通してきたのだろう。 とんでもない豚野郎だ。 ﹁ブヒブヒブヒブヒと、随分と勝手なことを言ってくれますね﹂ もう我慢の限界だ。できるだけ何もしないでおこうと思っていたの だが、もう黙っているわけにはいかない。何よりも、父親を見下し ているこの態度が気にくわない。 ﹁なんだね君は、私は今トラル君とはなしをしているのだよ。部外 者は黙っていてもらおうか﹂ ﹁私の名前はクルリ・ヘラン。次期領主であり、トラル・ヘランの 息子です。決して部外者ではありません﹂ 455 ﹁トラル君、困るよ。ほらとっとと追い出してくれ﹂ ﹁クルリ・・・﹂ ﹁父さんは黙っていてください。私が話をつけます。カラーク殿、 随分と勝手なことを仰っておりますが、こちらとしては一切受ける ことはありません。今すぐお引き取り下さい﹂ ﹁そうは言うがね、私の領は事実被害を受けているし、ただで帰る わけにはいかないでしょう﹂ ﹁では特産品のスイカを持ちかえらせましょう。10個ほどどうぞ﹂ ﹁10個って、それはないでしょう!﹂ ﹁では15個、いやそんなことはどうでもいいです。とにかく我が 領から賠償することは一切ありませんので﹂ ﹁はー、困ったね。いやー、困った﹂ うーんと顎を撫でるクラーク。 父さん相手ならそんな馬鹿な要求でも通ると思ったのだろうか。 本当に同席しておいてよかった。 断固としてやつの要求はのまない。 ﹁それじゃあ納得いかないよ。トラル君、息子さんを説得してよ﹂ ﹁く、クルリ⋮﹂ ﹁父さん、何を怯える必要があるのですか。こんな馬鹿げた要求な ど蹴飛ばして仕舞えばいい。たとえ蹴り返したとしても、正義はこ ちらにあります﹂ 自信満々で父親を諭したが、父はそれでも下を向くだけだった。 ﹁トラル君!﹂ ﹁父さん!﹂ 456 父はどちらの声にも反応しなかった。葛藤しているのだろう。でも それでいい。 ここでの返答なしは、すなわちNOになる。 後は俺が強引に追い返すもよし、煮るなり焼くなりすればいい。 ﹁はー、君はいつもそれだね。困ったことがあると黙る。でも、そ んなことくらい予想はついていたよ。最後にもう一度聞くが、君の 返答はNOでいいのかな?﹂ ﹁もちろん﹂父の代わりに俺が答えた。 ギロリとカラークが睨んでくる。 ここで目を逸らしたら負けだと思い、睨み返す。 ﹁ふん、ではわかった。こちらも方法を変えよう。ここはドーヴィ ル先輩にお願いするとしようかね﹂ ﹁ドーヴィル!?エヤン・ドーヴィル様に!?﹂ 父の口から出たエヤン・ドーヴィルの名。 知らないはずもない、この国の宰相だ。 政治に関する権力は国王の次に持っている人物である。 政治が彼の仕事故に国王よりも権力を振るっているのが実状だ。 しかもエリザのお父さん。 将来は確か不正が発覚して、王子に追放されるのだが、現段階では この国で一番恐ろしい人物と言っても差し支えはない。 そんな人物にお願いだと!? 457 ﹁君の馬鹿な息子が挑発してくるものだからね。僕もちょっと本気 を出そうかなーって﹂ ﹁ど、ドーヴィル⋮﹂ 父の顔は青ざめていた。 何か今までで一番怯えているかもしれないほどに。 ﹁世間知らずな馬鹿な坊ちゃんに教えよう。私とドーヴィル先輩は ね、学園在籍時からの旧友でして、かつては学園に我らの名前を轟 かせたものだよ。私はドーヴィル先輩に可愛がられていたからね、 卒業後もいろいろと良くしてもらっているんだよ﹂ ドヤ顔の相手を見て、一気に形勢が変わったのを感じ、汗が少し流 れた。 対照的に一気に勝気になり、より一層態度が腹立たしくなるカラー ク。 ﹁僕は君のお父さんにお願いしてちょっとだけお金を貰う予定だっ たけどね、君のその態度で気分が変わったよ。ここはドーヴィル先 輩にお願いして、このヘラン領からごっそりと奪い取ることにしよ う﹂ くっくくくと醜い笑いをする。 ちょっとツバ飛んでるからやめて! いや、今はそんな余裕をぶっこいてる場合じゃない。 父の様子からこの男の話は真実だと推測できる。 まさか宰相とつながりがあるとは。 ていうかエリザのお父さんはこんな事に使われてるから断罪された のではないだろうか? 何やってんだよエリザパパ。 458 まずいよ、どうしよう、本当にごっそりとられたらどうしよう。 宰相相手に対抗なんてできない。 こちらの手札には将来の王妃様というカードがあるが、今は効果が ないし、効果が発動するかも怪しくなってきたとこだ。 ﹁失礼な態度をとったのは謝ります。ですが、宰相様を呼んでくる というのは⋮。謝罪は致しますのでどうか﹂ ﹁は?いや、謝罪って、わかってないね。お金は差し出さないの?﹂ ﹁特産品などはできるだけ差し上げます。我が領も栄えてきてはい ますが、決して資金に余裕があるわけではありません。どうかご勘 弁を﹂ ﹁馬鹿だね。トラル君、君の息子は本当に馬鹿だね。グズでマヌケ で愚かだよ。うちの息子と同級生と聞いていたのに、まさかこんな に馬鹿ものだったとは。トラル君、やっぱり馬鹿な君の遺伝子を受 け継いだこの息子も馬鹿なだったようだね!!﹂ 言いたい豊富だ。 こんなに罵られたのもツバをかけられたのも初めてだ。 だが、今は頭をさげるしかない。 ダメかもしれないが、宰相に来られては困る。 やっと勢いに乗った我が領に水を差されては困る。 領を守るためには、今はただ頭をさげるしかない。 ﹁申し訳ありません、どうか怒りを収めていただけないでしょうか、 カラーク様﹂ 必死に謝罪だ。 どうかこれで。 459 ﹁ダメダメダメ!!もうゴミ屑の話なんて頭に入らないよ。ドーヴ ィル先輩呼ぶから!絶対呼ぶから!﹂ はーはははは、と勝ち誇るカラーク。 もうダメなのか。 やってしまった。完全に俺のせいだ。 カラークの言う通り、出しゃ張りすぎた。愚かだよ。 ﹁⋮クルリ﹂ カラークの笑い声の中から小さく、しかし確実に父親の声が聞こえ た。 さっきまで死にそうな顔してた父親が立ち上がり、その目には怒り のようなものを宿していた。 ﹁クルリよ、もう謝る必要はない﹂ ﹁ですが、父さん﹂ 父は一歩踏み出し、対面に座っていたカラークのもとへ近づいた。 ﹁カラーク殿⋮、いや豚野郎﹂ ﹁は?なんだって?﹂ 一瞬父親が何を言ったのか俺にも理解できなかった。 あの臆病な父親が天敵に向かって豚野郎だと? しかもこの劣勢時に!? ﹁私を罵ることは幾らでも受け入れよう。でもな、息子のことを悪 く言うのは許さん!!!!くらえ、この豚野郎!!!!﹂ 460 絶叫した直後、父親の鉄拳がカラークの顎をとらえた。 直撃し、椅子から転げ落ちるカラーク。 ﹁な、なななんだ!?なんだ!!﹂ 状況を理解できず動揺しまくるカラーク。 それにしてもいいパンチだった! まさか父親にあれほどの攻撃力があったとは。 ﹁よく聞け豚野郎!宰相でも国王でも呼んでくるがいい!全面戦争 だ!﹂ ﹁はは、言ったな!トラルの分際でよくも﹂ ﹁トラルの分際で言ったぞ!さぁわかったらとっとと帰れ!﹂ ﹁もう後戻りはできんぞ、トラル!﹂ ﹁帰れというのが聞こえんか!すぐに帰らなければここで殺す!﹂ ﹁はあ!?﹂ 二人の壮絶なやりとりが終わり、カラークは屋敷を逃げるように去 った。 父親に近づくと、その体は小刻みに震えていた。 臆病な父親がよくやってくれたよ。 こんな馬鹿息子のために。 ﹁父さん、かっこよかったよ﹂ ﹁だろう?﹂ そう言うと震える手をグッと握りしめて、親指を立てた。 ﹁⋮クルリ、どうしよう﹂ 覚醒モードが終わり、いつもの父親に戻った。 461 これのほうがいい。 なんだかそう思う。 ﹁後は俺に任せてよ﹂ 父親に笑顔を向けそう伝えた。 462 3章︳8話 父親にかっこつけて、任せてとか言ったのにここ一週間で何も思い つかなかった。 宰相に対抗する策などなかなか思いつくものでもないが、頭が考え ることを拒否したかのように働いてくれない。 挙句、現実逃避でヴァインと釣りに来てしまった。 ﹁どうかしたのか?﹂ ﹁どうかしたように見える?﹂ ﹁見える、アイリスと似た雰囲気だ﹂ ああそう、それは重傷だ。 アイリスも俺もひどい夏季休暇になった。 宰相が我が領に来るのか、考えるとお腹が痛くなりそうだった。 こんな日に限って魚が良く釣れる。 ﹁また来た﹂ ﹁またか5匹目だぞ﹂ なんでだろう、こんなに釣りスキルが上達した覚えはない。 頭が悩みでいっぱい過ぎて、魚にはそれが邪心なく見えるのかな? このエサには釣ってやろう!っていう気持ちがみじんもない! タダで餌獲れるんじゃね!?よっしゃ、食ったろ!!と魚が油断し ているのだろうか。 463 ﹁あ、また来た﹂ ﹁またか﹂ 野生児のヴァインを圧倒してしまった。 なんだろう、この頃強者に勝ちまくりじゃないか。 俺持ってるな!! だからと言って、うぇーいと騒ぐ気持ちにもなれない。 いや、普段もうぇーいとは騒がないが。 現実逃避で来た釣りだったが、結局気持ちも晴れることはなかった。 魚は10匹釣れた。 そして、運命を左右する裁きの日が訪れる。 俺も父親も腹を痛めて朝から体調最悪だ。 ヴァインとアイリスには迷惑をかけたくなかったので、屋敷から離 れて街に行ってもらった。 ﹁来ました﹂ 従者から告げられたその言葉は、我ら親子にとっては死の宣告の様 にも聞こえた。 そして、とうとう屋敷の客間に現れる。 まず現れたのは、初見だったが、おそらく宰相エヤン・ドーヴィル と思われる人物。 すらりとした体格に、きれいにまとまった黒髪。 目元は鋭く、すごくエリザの目元に似ていた。やっぱり親子なんだ な。 髭もきれいに整っており、すらりとした長い手足が魅力的なダンデ 464 ィオジサンだった。 その後ろから先日とは全く雰囲気を変えた、カラーク・マールが入 って来た。 先日の偉そうな態度とは違い、今日は終始にこやかで、両手をすり すりしている。 ゴマすり、ゴマすり!雰囲気は変わったが、顔は変わらない。相変 わらず不細工だ。 ﹁いらっしゃいませ、どうぞお席にお掛けてください﹂ 父親が話し終わる前に、既に両名ソファーにドカっと座り込んでい る。 エリザの父親は態度こそ大きいが、仕草に上品さがあり、あまり不 快感はなかった。 一方でカラークの方も、今日はニコニコしているせいか、あまり不 快感はない。 ﹁トラル・ヘラン君、ここ数年で何回か会っているが、話すのは学 園在籍時以来かな?﹂ ﹁は、はい。学園在籍時にドーヴィル様より声をかけてもらって以 来です。それ以外では王都で何度か軽くお目にかかった程度でござ います﹂ 父親は完全に空気に飲まれていた。 主導権を完全に渡してしまった。 という俺も空気に飲まれて発言などできそうにもない。既に勝敗は 決したかもしれない。 このままでは言われるがままになってしまいそうだ。 465 ﹁それにしても昨今のヘラン領の発展には目を見張るものがる。ト ラル君は素晴らしい領主だ。正に領主の鏡。是非とも全国の領主に トラル君の働きを見せてやりたいものだ﹂ ﹁いえ、私は何も。あえて言うならば、息子が行ったことが発展に つながっております。称えるなら息子の方でございます﹂ ﹁ほう?隣のがその息子の、クルリ君かな?﹂ ﹁は、はい、クルリ・ヘランでございます﹂ 急に名前を呼ばれたため、慌てて名乗った。 それから浴びせられる、視線。 どうやらエヤン・ドーヴィルに値踏みをされているようだ。 これで何か変わるのなら好きなだけ見るがいい。 でも変わらないならやめて!凄くお腹が痛い! ﹁うちのエリザと同級生のクルリ君・・・。うん、色々きいている よ?﹂ いろいろ聞いてる・・・、あ、死にましたね、これ。 エリザからいろいろ聞いてる。 そうですか。あれも、それも聞いてるんですね? はい、終わりました。我がヘラン家、本日にて没落決定!! ﹁先輩、それよりも本題を﹂ 隣から茶々を入れるカラーク。 畜生め、この野郎は道連れにする。 なんかそんな気持ちが走った。 466 ﹁そうだったね、私も暇な身分でもない。ゆっくり温泉にでも浸か っていきたいが、王都での仕事もまだまだ残っている。ここは手短 に行こうか﹂ ﹁手短にですか﹂ 俺と父親が唾を飲み込む。 大丈夫、領主権限なくなったら俺が鍛冶職で家族を養うから。 そんなことを考えて心の平静をなんとか保った。 ﹁先日私のかわいい後輩のカラークに手を出したそうじゃないか﹂ ﹁はい、そのことは誠に反省しております。大変申し訳ございませ んでした!﹂ 間を開けずに父親が返事をし、頭を下げた。 俺もつられて頭を下げる。 ﹁暴力はいけないね。お互いいい年した男だ、話で済ますのが大人 の男ってもんだろう。いつまでも学生気分ではいられないよ﹂ ﹁はい、その通りでございます﹂ ﹁学生の頃は良かった。拳で語り合うなんてこともできたが、今は お互い身分ある身。難しい立場になったものだ。拳を出せば、当人 同士の争いでは済まなくなることもある。私の話に納得したのなら、 カラークに謝罪を。あと治療費も払うように﹂ ﹁はい。カラーク殿、先日は誠に申し訳ございませんでした。息子 ともども反省しております。治療費の方は払いますので、どうかご 容赦くださいませ﹂ ﹁はは、別にいいよあれくらい。大したことのないパンチだったし ね。まぁ君があんな態度に出るとは予想外だったが﹂ 自分の横に獅子がいることで、あからさまに図々しいカラーク。 本当に嫌な人間だと思うが、今は今だけは頭を下げなくては。 467 悔しいが、頭を下げ謝罪の言葉も述べた。 これで何かが好転するとも思えないが、今はこうするほかない。 それが宰相の命じたことなのだから。 ﹁トラル君もああ謝罪しているし、カラーク、もういいだろう?﹂ ﹁ええ、もちろんですよ。流石は先輩です。いつも頼りになります﹂ カラークが手をごしごしとする。 あれでは指紋がいつかなくなりそうだ。 ﹁ようし!では以上だ。帰るぞカラーク!﹂手をパチンと叩き、勢 いよく立ち上がる宰相。 見た目通り身軽のようだ。 いやまて・・・。 ﹁﹁﹁えっ!?﹂﹂﹂ 三人が一斉に疑問の声を上げた。 カラーク、トラル、クルリの三人だ。 驚きの度合いはみんな同じだっただろう。それぞれが大声を上げた。 そして疑問の内容も同じはずだ。 ちなみに俺の疑問は、なぜもう終わりなのか!?だ。 あとの二人も同じだろう。 その証拠にまずはカラークが騒ぎ出した。 ﹁先輩!終わりって何がですか?もしかして今日の話し合いが終わ 468 りですか?﹂ ﹁そうだ。これでお終いだ。とっとと帰るぞ﹂ ﹁なぜです!話はこれからでしょう!?ここで帰られてはなんのた めに先輩を呼んだのかわかりません﹂ ﹁もうトラル君には謝罪を貰っただろう。それでいいじゃないか﹂ ﹁良くありません!謝罪などどうでもいいです。私は名誉とかそん なものには毛ほども興味がありません。私が興味あるのは⋮﹂ そこまで言って、カラークは話すのをやめた。 明らかにエヤン・ドーヴィルの雰囲気が変わったからだ。 彼から放たれた怒りが部屋の空気を包み込む。 流石は宰相まで上り詰めた人物だけあって、一瞬で場の空気を掌握 するほどの圧迫感がある。 3人とも全く動けなくなった。 ﹁私の立場も考えろ﹂ 去り際にエヤン・ドーヴィルがそういった。 それに返すように、カラークが言う。 ﹁あなたの立場!?この国の誰があなたに口出しできるのですか! 国王ですか!?﹂ ﹁違う。もっと上だ﹂ 振り返り、人差し指を突き立てる。 エヤン・ドーヴィルが今日一番の険しい顔をし、それを見たカラー クは抵抗をやめた。 すらりと伸びた綺麗な脚で客室を出る宰相。従者が外まで案内した。 カラークもついていくように客室を後にする。 ドアを出る際にこちらを一瞥し、舌打ちをしていった。 469 嵐が去り、部屋に立ち尽くす俺と父親。 両者顔を合わせ、なんだかほってして、笑いがこみ上げてくる。 何が起こったのかいまいち整理がつかない。 でも嵐は確実に去った。 ﹁見送りに行くか﹂ 父親の提案に同意し、屋敷を出た。 屋敷を出ると、既に宰相とカラークの馬車は走り去っており、遠目 でなんとか確認できる位置にまで行ってしまっていた。 思ったより俺と父親は立ち尽くしていたらしい。 ﹁行ってしまったな﹂ ﹁ええ﹂ ﹁ヘラン領は無事にすんだのかな﹂ ﹁そう考えていいと思います﹂ ﹁クルリよ、お父さん温泉行っていい?なんだかいろんなところが 痛い﹂ ﹁もちろんいいですよ﹂ 今度は父親の馬車を見送り、俺も心がひと段落着いた。 そして屋敷に戻ろうとしたとき、庭からひょっこりと現れた人物の 姿を見た。 見覚えのある、すらりと伸びた綺麗な髪。 普段は厳しいが、笑うとかわいいその目。 冷静な彼女が、珍しく自分から手を振ってきていた。 ﹁エリザ﹂ 470 ﹁お久しぶりです﹂ 471 3章︳9話 そういえばエヤン・ドーヴィルが言ってたっけ。 国王より上の人物から口出しがあったと。 国王よりも上の人物か・・・。 しかし、客観的にそんな人物など存在しない。 ﹁エリザ、もしかして君がお父さんに何か言ったのかい?﹂ ﹁何かとは?﹂ ﹁そのー、ヘラン領のことについて何かお願いしたとか﹂ ﹁さて?なんのことでしょう﹂ そう言って、少しだけ微笑む。 イタズラした後の少女のようだ。やっぱりそういうことらしい。 ﹁そうか、ならいいんだ。・・・でも、ありがとう﹂ ﹁感謝される覚えはありませんわ。私は夏季休暇に友人宅に遊びに 来ただけですから﹂ ﹁そうだね。なら一緒にヘラン領を楽しもうか﹂ ﹁ええ、是非﹂ 自然とエリザの手を取り、屋敷に招き入れた。 キャッと小声で反応されて自分の行動をようやく顧みることができ たが、まぁいいや。 今は気分が高ぶっていて小さいことにまであまり気が回りそうにな い。 女の子の手くらいなら握っても許されるだろう。 472 エリザを屋敷に招き入れ、庭に面した場所に座らせた。 それから俺はスイカをとってくる。 目の前でスイカを半分に、さらに4等分に切り分け、それを渡す。 俺も一切れとり、エリザの隣へ。 ﹁これは?﹂ ﹁スイカだよ。あまくて、みずみずしくて美味しい果物だ﹂ ﹁へぇ、珍しいものがありますのね﹂ そう言いいながらも、迷わずかぶりつく。 ﹁んー!美味しいぃ!!﹂ 目を見開きこちらを見た。 顔は満面の笑みで。 ﹁そうだろう?﹂ 俺もかぶりつく、ヒンヤリして甘くてみずみずしい。 ﹁んー、んまー﹂ ﹁ところでこの黒い種はどうしたらいいのでしょう﹂ ﹁それはね・・・﹂ ぷっ!と思いっきり口から噴き出す。 できるだけ遠くに飛ばし、茂みに隠れるようにするのがプロの仕事 である。 ﹁こうやって吐き出す。これが正しいスイカの楽しみ方だ﹂ ﹁えー、下品ではありませんか?﹂ そう言われてしまうと、そんな気もする。 ﹁確かに、特にエリザのような御淑やかな娘がやることではないか 473 もしれないね﹂ ぷっ! と言ってる隣で、エリザが勢いよく噴き出した。 ﹁いいね!それこそスイカの醍醐味だよ﹂ ﹁ふふ、合格点はもらえそうですか?﹂ ﹁もちろん!ていうか俺より飛んだんじゃないのか?﹂ ﹁大きくとばしたほうがいいのですか?﹂ ﹁ああ、茂みに隠れるくらいが一番いい﹂ ふふふ、とエリザが隣で笑ってくれる。 ちらりと横目で確認するが、やはり綺麗な顔をしている。 それが笑うと余計にかわいくなる。 それにスイカで濡らした唇がなんとも・・・。 スイカをかじるふりして、もう一度ちらりと見た。 うん、きれいだ。 思えばエリザとこうして話すのは初めてかもしれない。 それに我が家で、二人きり・・・。 おっと、よこしまな考えはこのくらいにしておこう。 ﹁それにしても、この種がなければおいしく実だけを贅沢に食べれ るのですが﹂ ﹁うん、でもなかったらなかったで寂しいものな気もする﹂ ﹁そうでしょうか?私は邪魔者は徹底的に排除しておきたい性分で して﹂ あ、やっぱりそうなんだ。 ちょっとだけ背筋がぞくっとしたよ。 474 ﹁しばらくヘラン領にはいられるの?﹂ ﹁今日だけはこちらにいられます﹂ ﹁じゃあ今日はヘラン領を一緒にまわろう。いろいろ案内したいと ころがある﹂ ﹁それは楽しみですね﹂ スイカを食べ終え、早速二人で出かける準備をする。 その前にまずは書庫のあの人を紹介しておこう。 二人で書庫へ趣、その人に会った。 ﹁あちらはモラン爺。 モラン爺!こちらはエリザ・ドーヴィルさん。学園の友人で、今は ヘラン領に遊びにきてくれている﹂ ﹁初めまして、エリザ・ドーヴィルです﹂ エリザが見惚れる動作で一礼する。 ﹁ほっほっほ、これはこれは、きれいな娘さんが来てくださいまし たね﹂ 書物を読んでいたモラン爺は頭を上げてこちらに挨拶した。 ﹁モラン爺はいろんなことを知っている人だ。昔は良く勉学を見て もらっていた。小さいころから迷惑も結構かけているけど、ずっと 良くしてくれている﹂ ﹁そんなことはありませんよ。坊ちゃんは手のかからない子でした から﹂ ﹁ああやって昔からお世辞が得意なんだ。もう先も長くないし、何 か話したいことがあったら今のうちにね﹂ 475 ﹁坊ちゃんは上手に毒を吐くようになりましたね。でも、このモラ ン爺は野望を果たすまでは死にはしませんよ﹂ 腕を組みまだまだ大丈夫だとアピールするモラン爺。 あれならまだ死にそうにはないな。 ちょっとだけ安心したよ。 ﹁老人は労わらなくてはいけませんよ﹂チクリとエリザからも指摘 された。 ﹁そうですじゃ。エリザ殿はよくわかっておる。是非ヘラン領に嫁 いでもらいたいものじゃ﹂ エリザがキャっと顔を覆い、モラン爺がほっほっほと楽しそうにし ている。 随分と相性がよさそうだ。 会って数分だが、既にモラン爺とエリザは打ち解けているようだっ た。二人で何か世間話もしている。 エリザは堅いイメージがあったが、モラン爺と普通に世間話をでき ているのがすこし意外だった。 書庫を後にし、今度は鍛冶を教えてくれた師匠のもとに案内した。 道中は二人で馬に相乗りした。 エリザが前で、抱え込むように俺が後ろに座る。 随分と興奮してしまったよ。 凄くいいにおいがするんだもん。 興奮が伝わったのか、馬もやたらと騒いでいた。 ﹁師匠!久しぶりにかわいい弟子が来ましたよ!﹂ ﹁帰れ!﹂ 476 ﹁帰りません!あちらが鍛冶職を教えてくれた師匠のドンガさん。 見かけ通り頑固者だから﹂ ﹁ええ、そんな感じがしますわ﹂ 俺の言葉に納得するエリザ。 師匠は相変わらず仕事ばかりしている武骨な人間だった。 ﹁こら!玄関口で悪口を言ってないで、中に入れ!何か食っていく か?﹂ ﹁あれはツンデレと言う技だ﹂ ﹁ツンデレ?﹂ ﹁ああ、ツンツンした後にデレデレする高等テクニックだ。師匠は 昔からああだ。怒った後には必ず褒めてくれる﹂ ﹁ええ、そんな感じがしますわ﹂ ﹁うるさいわ!いいからはよ入れ!﹂ 師匠に言われるがままに部屋に入り、出された菓子などを食べた。 久々に来たこともあり、師匠は俺を歓迎してくれた。 一緒に来たエリザのことも気に入ったようだ。 ﹁お前の許嫁か?﹂師匠がそんな無粋なことを聞いてくる。 エリザがまたまたキャッと可愛く反応し、師匠がそれをほほえまし く眺める。 ﹁手に職持ったんだ。貴族のしきたりなんぞ気にせず、はよう身を 固めてもええんじゃぞ。ワシも若い頃に結婚しとる。結構いいもん じゃぞ﹂ ﹁ええ、考えておきます﹂ ﹁それにその娘は結構きれいではないか。いい嫁になると思うぞ。 子供ができたらワシのところにも見せに来るんじゃぞ﹂ ﹁はい﹂ なんか嫁入り前の挨拶みたいになってしまったので、早いとこ師匠 477 のところから逃げ出した。 エリザは終始上機嫌だ。 なんだか師匠とも上手くやっていけそうな雰囲気である。 師匠のとこから逃げ出し、今度はエリザに我が領のおすすめの温泉 に入ってもらうことにした。 一番おススメの花園に囲まれた温泉に入ってもらうべく、そこへ移 動する。 温泉に着くや否や、休憩所でゆっくりと休んでいる父親に遭遇した。 一番高いお酒を手に、火照った体を覚ましているところだった。 ﹁父さん、この温泉に来ていたんですね﹂ ﹁ああ、ここの温泉はいいのー。ホッとするわ。あれ?そっちの娘 は・・・、これか?﹂ と小指を立てる父親。 さっきまであなたが死ぬほど恐れていた人物の娘だと知らずに、小 指を立てて調子に乗っているとは。 ふふ、ちょっとだけ地獄に落としてやろうではないか。 ﹁こちらエヤン・ドーヴィル様の娘の、エリザ・ドーヴィルさんで す﹂ ﹁ああ、宰相様の娘でしたか。これはこれは﹂ 父親が慌てて頭を下げ、二人で握手を交わした。 あれ?父親が腹を痛めていない。 なぜ!? あの気の弱い父親が、エリザにはなぜか全く警戒心を抱いていない。 むしろ積極的に自分から近づいている。 478 二人はしばらく世間話をして、それから別れた。 父は屋敷に戻るらしい。 俺とエリザはそのまま温泉に入っていった。 男湯で一人のんびりとくつろいで、本日のことを思い返した。 朝から大変な一日だったが、何よりエリザのヘラン領への適応力に 驚いた。 会う人会う人に気に入られていたと思う。 モラン爺に、師匠、更には一番のネックだった父親まで問題なかっ た。 なんだか、本当にこのまま嫁いでしまいそうな勢いだ。 まぁ、それでもいい気がしてきた。あれだけきれいな娘をもらえる なら俺も万々歳である。 火照った頭が考えることをやめさせ、俺の体はそのまま湯の中で伸 びきった。 風呂上がりの休憩所でエリザを待っていると、髪を濡らした色っぽ いエリザが休憩所に現れた。 タオルで髪を向きながらやってくる仕草がなんともエロティックだ。 ﹁あ、あの、温泉はどうだった?﹂ なんだか緊張してしまう。 ﹁よかったですよ。花のいい香りがまだ体に残っています。ステキ ですね﹂ いえ、あなたの方が素敵です。とはさすがに言えなかった。 薄着を一枚羽織、隣で髪を乾かすエリザ。 ちらちらとそれを見る純情な俺。 479 いや、いやらしい俺になりつつある。 ﹁何か飲む?﹂ ﹁冷たいお茶を頂けます?﹂ ﹁すぐとってくる﹂ お茶を届けると、エリザはすぐにそれを口につけた。 ごくごくとそれを飲んでいく。 随分と喉が渇いていたようだ。 首筋から流れる汗がなんとも生々しい。 たまに口もとからこぼれるお茶も生々しい。 手を伸ばせば触れそうだ。何度か衝動に似たものが襲ってきた。 たまらんぜよ!! 気が付けば、エリザがお茶を飲み終わるまでずっと見続けてしまっ ていた。 ﹁そんなに見ないでください﹂ 言われてはっとする。 いかん、いかん。俺も自分のお茶を飲んで冷静にならなければ。 まさかずっと見てしまっていたとは。 エリザはどう思っているのだろうか。そう考えるとめちゃめちゃ恥 ずかしくなる。 ﹁今日はすごく楽しい一日を過ごすことができましたわ﹂ お茶を飲み終わり、エリザが切り出した。 ﹁ヘラン領は気にいった?﹂ ﹁ええ、とても﹂ ﹁みんなもエリザのことを気に入ってたみたいだ﹂ ﹁それは嬉しいことですわ﹂ ﹁よかったらまた来てよ。みんな喜ぶと思うから﹂ 480 ﹁ええ、必ずまた来ますわ﹂ 温泉から上がる頃、エリザが王都に帰る時間となっていた。 少し名残惜しいが、馬車に乗り去っていくエリザを見送った。 その後静かに一人で俺は家路につく。 一日、エリザと二人でヘラン領をまわった。すごく楽しかった。 そして今頃になって疑問に思う。 なぜ俺は今日一日、エリザに自分のルーツを紹介するようなことを したのだろうかと。 不思議だが、案内している最中は不思議じゃなかった。 たまにはこんな日があってもいいのかもしれない。 何よりエリザが今日一日楽しそうだった。 それが一番大事だ。 暑い夏の一日にいい思い出ができた。 481 3章︳10話 領内に魔物が増えてきた。 領民からの報告で判明したのだが、森に魔物が集まりだしているら しい。 以前は外部に依頼して討伐をしてもらっていたのだが、今は折角最 高の二人がいるので働いてもうことにしよう。 アイリスは結構心も落ち着いてきている。 魔物討伐に連れ出しても問題ないだろう。 というよりも、今は体を動かしておいたほうが彼女のためになると 思う。 ヴァインの方は間違いないなく来てくれるだろう。 戦いが大好きな彼だ。 ノリノリで来てくれるに違いない。 早速二人を連れ出して、森へ行った。 二人ともやはり乗り気でついて来てくれた。 ﹁じゃあ3人パーティーなので前衛後衛を決めようか﹂ ﹁俺は前衛がいい﹂ ヴァインはノリノリだ。 やる気満々で剣を素振りしている。 まぁ彼が前衛なのは問題ない。 攻撃防御ともにもんだいないだろう。 482 ﹁アイリスは前衛と後衛どちらがいい?﹂ ﹁私も前衛がいいな﹂ ﹁わかった、じゃあ俺が後衛で援護ってことで﹂ アイリスは可愛らしい見た目とは裏腹に作品中でもかなり能力値の 高いキャラなのだ。 ソロでも、前衛でも、後衛でも、なんでもこなしてしまう完璧美少 女。 そんな彼女が前衛を希望しているのなら、やらせるのが一番いい。 ﹁じゃあ行こうか﹂ 森に入ると、早速嫌な雰囲気がじわじわとしてくる。 ﹁森が静まり返っているな。こういう雰囲気のときは大抵魔物が多 く集まっている﹂ 魔物討伐が大好きなヴァイン先輩が言うのだ、間違いないはずだ。 よし、気を引き締めなくては。 3人でゆっくりと進み、それぞれが周りの警戒を怠らないように注 意した。 ﹁いるぞ﹂ 先頭を行くヴァインからの言葉通り目の前にゴブリンが3匹ほどい た。 ﹁俺が先頭を行く。アイリスは抜け出したのを頼む。クルリはもし もの為に備えて魔法を用意しておいてほしい﹂ 483 もしもの時とは、誰かがやられそうになったときだろうか。 そんなことにならないといいのだが。 ゴブリンはこちらに気がつくと3匹同時に突っ込んできた。 先頭のヴァインがその豪腕で大剣を振り、ゴブリンを早速1匹を葬 った。 残りの2匹のうち1匹は逆上しヴァインに突っ込んでいく。 もう1匹は側を抜けて、アイリスの方へ駆け寄る。 俺も魔法の準備をした。 ヴァインの方は問題ない。 俺が備えるべきはアイリスの方だ。 一応両者に目を配っていたが、やはりヴァインの方は2匹目も瞬殺 で葬った。 さすがというしかない。 これで俺は100%アイリスのサポートができる。 アイリスの方に向かったゴブリンは棍棒を大きく振りかぶり、それ をふりおろした。 アイリスは見事な体さばきでそれをかわし、ガラ空きの首元に剣を 払った。 ﹁結婚してるなんて知らないわよ!!﹂ ゴブリンの首が綺麗に飛んだ。 いや、それよりもやっぱりまだ引きずってたんだ。 しかもダイレクトな感想だな。 484 それにしたってゴブリンさんに当たらなくてもいいじゃないですか! ﹁その、アイリス、大丈夫か?﹂ ﹁うん、すっきりした。さぁ次いこ次!!﹂ ああ、あれですね。 失恋帰りにバッティングセンターに行くOL。わかります。 幸先よく行ったので、そのまま森の奥へと進んだ。 けが人なしで、ゴブリン3匹か。 外部委託だと金貨1枚の支払いってとこか。 節税節税。領主としては嬉しい限りだ。 ﹁グールだ﹂ ヴァインの一早い気づきで、すぐに戦闘準備に入れた。 ﹁どうする?やるか?﹂ ヴァインの質問は正しい。 グールは実に危険な魔物だ。 あまり殺りあうべき相手ではない。 ﹁解毒薬は持っている。無理に避ける必要はないが、無理に戦う必 要もない﹂ 俺は現状を伝え、パーティメンバーの意見を待つことにした。 ﹁やろう!﹂ 485 勢いよく言ったのは、アイリスだ。 早くやりたくてしょうがないといった雰囲気だ。 ﹁解毒薬はあるが、最大限気をつけてくれよ﹂ ﹁うん﹂ ﹁じゃあ今回は俺が相手の攻撃を受け止める。アイリスは隙を窺っ て攻撃を。クルリはアクシデントに備えてくれ﹂ ヴァインの指示通り、3人で合理的な動きをした。 グールの突進をヴァインが大剣で受け止める。 動きが止まったのを確認して、アイリスがすぐさま後ろに回った。 俺は魔法をいつでも放てる体制にある。 アイリスの剣がグールの首元に飛んだ。 カウンターはきそうにもない。 完璧に決まった一撃だ。 ﹁奥さんがいるなら優しくしないで!!﹂ 剣が振りはらわれると、グールの頭が飛んだ。 いや⋮、アイリスさんそんなに気にしてたんですね。 優しくされたんだね、でもロツォンさんみんなに優しいからね! ﹁アイリス!グールはまだ生きている!﹂ 俺の忠告を聞いてアイリスはすぐさま剣を構え直し、グールの動き が悪いことを確認すると、その胴体に真っ直ぐ剣をふりおろした。。 ﹁あのときの笑顔はなんだったのよ!!﹂ 486 アイリスの愚痴とともにグールの体は、真っ二つに分かれその場に 倒れた。 思い出してるんですね?楽しかった記憶を。 だからってグールさんに当たらなくてもいいじゃないですか! これはあれですね。 居酒屋帰りですね。酔って幸せ記憶を思い出しちゃったんですね。 わかります。 ﹁よし、このまま進もうか﹂ ﹁うん、早く行こう﹂ 気がつけばいつしかアイリスが先導して、ヴァインが真ん中、俺が 最後尾につける形になっていた。 結構たまってるんですね。 失恋のストレス。 ﹁おいおい、これはまずいかもしれない﹂ しばらく森を進むと、ヴァインからまたも忠告があった。 ﹁ちょっと身を隠そう﹂ 指示に従い、3人で木陰に身を潜めた。 ﹁どうした?﹂ ﹁豚の魔物、オークがいる﹂ ﹁オークが!?﹂ 豚の魔物オークは確かにまずい。 487 その力は人間をはるかに凌駕しており、防御面も非常に優れている。 しかも賢く、見かけによらず足も速い。 勝てないとなると、最悪逃げ切ることもできないかもしれない相手 なのだ。 人間の武器を使いこなすことでも知られており、ヴァイン曰くさっ きの個体は斧を持っていたらしい。 ここで相手にするには確かに危険な相手である。 ﹁非常に危険な相手だ。無理に戦うこともないと思うが﹂ ﹁となると、外部委託か﹂ 俺の頭の中でチャリチャリとお金の計算が自動的に行われる。 うん、自分たちで狩りたいぞ! ﹁どうする?やるか?﹂ ﹁やろう!﹂ またも勢いよく、アイリスの返事が飛んだ。 待ってました!流石です、アイリスさん! ﹁決まりだな。作戦はグール戦同様に、俺が奴の動きを止める。止 まり次第、アイリスは攻撃を開始してくれ。クルリも隙があれば魔 法で攻撃してほしい﹂ ﹁うん﹂ ﹁わかった﹂ 3人でオークが去った道を辿り、その後ろに回った。 ちかくで見ると、その体長は3メートルはあった。 オークの平均値からすると小さい方だが、この際そんなことはどう でもよかった。 一撃を食らえば死ぬことに違いはない。 488 オークはまだこちらに気がついていない。 ヴァインが動きを止める算段だが、わざわざ先制させてやる必要も ない。 まずは俺が魔法を飛ばした。 小さな魔力の塊はオークにあたり次第、体を覆う大火と化した。 業火がその身を焼くが、命を絶つには至らず、燃える体でオークは こちらに突っ込んできた。 逆上しており、勢いは凄まじいものだ。 それをヴァインが大剣で受け止めるも、あまりの衝撃に堪えること ができず、その巨体を空に飛ばした。 我がパーティの盾が開戦直後に崩壊してしまった。 ヴァインが後方に5メートルくらい飛ばされただろうか。 呆気に取られると命を失う状況なので、俺もアイリスも先頭態勢は 崩さない。 横目で確認したが、ヴァインも立ち上がれてはいる。 今度はアイリスとオークが交戦した。 アイリスが、オークの斧をかわし続けながら反撃の機会をうかがう。 しかし、オークの方が力も技量も勝っており、反撃どころか次第に 追いつめられていた。 やはりソロではきつい相手だ。 でも、それで十分に時間は稼ぐことができた。 俺の魔法はすでに発動されており、オークの足元からその変化は起 きた。 489 足元から魔力が氷へと変わり、徐々にその身の中心部へと向かって 侵食していく。 氷魔法を足元に放ち、オークが気づいた時には既に腰あたりまで氷 が来ていた。 オークの動きが違和感から、次第に動けない状態に変わりつつある。 ここまでくるとあとは魔力を注いで氷の量を増やすだけである。 氷が腕まで達したとき、アイリスの渾身の一撃がその心臓に突き刺 さった。 正確な一撃はオークの命を絶った。 絶命したが、念には念を入れ、アイリスは首元めがけて剣を振るう。 ﹁さようなら!私の恋!!﹂ アイリスの剣がオークの首を飛ばし、戦いは終わった。 結局最後まで、アイリスの頭は失恋でいっぱいだったみたいだ。 だからってオークさんにダメ押ししなくたっていいじゃないですか! 汗をぬぐい、二人でヴァインの元へいった。 どうやら軽い打撲で済んだらしい。 ﹁不覚﹂ とか言ってたけど、しょうがない。 相手が強かった。 アイリスも相当汗をかいたみたいで、袖で汗をぬぐっていた。 ﹁ふーすっきりした。あのオーク顔が嫌だったのよね。たおせてよ かった﹂ ああ、あれですね。 490 女子会で失恋話で盛り上がったあと、禿げた課長の悪口を言いまく ってすっきりするOL。わかります。 それから3人であと何匹か魔物を討伐し、屋敷へと戻った。 491 3章︳11話 あれから領での日々はあっという間に過ぎ去り、厳しい夏の暑さも 去っていった。 そして学園が始まり、我々も学園へと戻った。 短いようで長い休暇が終わり、勉学へ励む毎日がもどってきた。 久々に寮の部屋へと戻ると、不思議な気分に襲われた。 なんだか、懐かしいが新鮮な気分だ。 いい部屋だ。 広さもあるし、日当たりもいい。 快適な空間がそこにはあるのだが⋮。 ﹁おい、なんでいる﹂ なぜか部屋にいるレイルに苦情を伝えた。 なぜ彼がいるのか。 鍵はどこから手に入れたのか。 なぜ紅茶を入れて読書を楽しんでいるのか。 なぜ、えっ!?みたいな顔をしているのか。 ﹁だって、僕たちの仲じゃないか﹂ ﹁どんな仲だ﹂ ﹁あんなこともこんなことも﹂ ﹁してない﹂ レイルはまたまた、えっ!?という顔を見せた。 492 腹たつわー。 ﹁まぁ冗談はこのくらいにして、夏季休暇明けに会いに来ただけだ よ。僕はヘラン領に招待されなかったからね﹂ ﹁なんだよ、来たいならくればよかっただろ?﹂ ﹁アークは行ったよね﹂ ﹁来たよ﹂ ﹁エリザも行ったでしょう?﹂ ﹁ん、来たよ﹂ ﹁じゃあなんで僕は呼んでくれないのさ﹂ 腹たつわー。 あの目をうるうるさせてる顔が腹たつわー。 ﹁いいから何しにきたんだよ﹂ ﹁ああ、別に用はないよ﹂ あ、本当に用がないんだ。 びっくりしたー! 用がないのに、部屋の主より先にいるレイルか。 びっくりするわー! ﹁用がないのに忍び込んだの?﹂ ﹁そうだよ﹂ うわ、怖っ! この人、怖っ! 黙っているとレイルがこちらをじっと見つめる。 えっ何?みたいな顔してるけど、こっちが何?って気分だ。 493 ﹁あの、用事がないなら帰って﹂ ﹁えっ!?﹂ ﹁えっじゃないよ。なんでいたがるの﹂ ﹁だって、だって﹂ ﹁可愛くないから帰って﹂ 帰らないので押し問答になった。 押し問答中に何度かお尻を触られたが、気のせいだろう。 自意識過剰というやつだな。 男が男の尻を触るなどありえない。 そんなことをしていると、ヴァインも部屋に入ってきた。 もはやノックもない。 なんで当たり前のように入るんだろうか。 ﹁ヴァインくん!よかった、助けてよ。クルリくんが無理矢理手を 出してくるんだ﹂ ﹁手を出してるのはお前だ。いいから尻から手をどけろ﹂ ヴァインは特にこちらに加勢することはなく、﹁ほどほどにな﹂と いって、椅子に腰掛けた。 ほどほどって何!? 何をほどほどにやるのかな!? 教えて!偉い人! ヴァインは席に着くと、側の俺たちのいざこざなんて気にもせず、 落ち着いている。 何かを待っているかのように。 494 まぁクロッシを待っていることくらい明白ではあるが。 ﹁久々にクロッシに会えるな。そろそろ来るんじゃないのか?﹂ ﹁ああ、そうだな﹂ 素っ気ない返事だったが、ヴァインは心の中で楽しみにしているに 違いない。 その証拠に、さっきから足がそわそわしているのだ。 もう来てあげて! クロッシのこと好きすぎるでしょ! ﹁さ、賑やかになってきたし、僕もここにいさせてもらうよ﹂ どさくさに紛れて、レイルもヴァインの隣に腰掛け、紅茶の続きを 楽しみ出した。 ﹁ヴァインくんも休みはヘラン領にいたんでしょ?﹂ ﹁ああ、居たぞ﹂ ﹁いいなー。僕は誘われなかったんだよ﹂ ﹁そうなのか﹂ ﹁そうなんだよ。好きな相手を誘いづらいのはわかるけど、酷いよ ねー﹂ ﹁いや、好きじゃないから﹂ いや、まじで。 その、えっ!?みたいな顔やめて。 腹たつから。 クロッシを待つ間、俺も紅茶を淹れた。 495 領から持ってきた一番いいやつだ。 香りが強く、味も華やかだ。 ﹁ヴァインも飲む?﹂ ﹁貰おうか﹂ お茶パックを2袋取り出し、お湯を沸かす準備をする。 ﹁僕の分は!?﹂ ﹁飲んでるじゃん﹂ ﹁いいなーヴァインくんは領に誘ってもらって、しかも紅茶ももら えて﹂ ﹁わかったよ、あげるからヴァインにまで当たらないでくれ﹂ しょうがないのでレイルの分も準備し、3人で紅茶を楽しんだ。 そわそわするヴァイン。 なんかやたら近くに寄ってくるレイル。 俺の部屋にプライベートという空間が存在する日は来るのだろうか。 なんで自分の部屋で心落ち着かないのだろうか。 それらの鬱憤を紅茶と共に飲み込んだ。 それにしてもクロッシがまだ来ないのか。 真っ先に来て、ヴァインとトレーニングに行くと思っていたんだが。 もしかしてまだ学園に着いていないのかもしれない。 でもヴァインはそんなこと考えもせず、今か今かと待っている様子 496 だ。 ﹁来ないな﹂ ふとそんな言葉が出た。 ﹁そうだな﹂ つられてヴァインも答えた。 そういえばクロッシは何か用事があるとかでヘラン領にこなかった け。 どんな夏季休暇を過ごしたのだろうか。 ﹁そのー、クロッシは来ないよ?﹂ レイルからの言葉に俺とヴァインが顔を見合わせた。 なんだって!? こない? なんでこの人そんなことまで知ってるの? ﹁彼女もいろいろ大変な立場だしね﹂ ﹁彼女?﹂ いろいろと何を言っているのだろうか、この男は。 497 3章︳12話 ﹁クロッシは男だぞ﹂ レイルからの情報に少し修正を加えた。 帰らないという話は気になるが、まずはそこからだ。 ﹁いや、彼女は女の子だよ。だってお姫様だし﹂ ﹁えっ﹂ なに言ってんのこの人。 ﹁姫様?﹂ ﹁そうだよ。小国だけど立派な姫様。内情が不安定だったから一時 的にクダン国に亡命してたんだ。えっ?本当に知らなかったの?﹂ ﹁あ、はい﹂ もうなんて言ったらいいのか、開いた口が塞がりませんね。 ﹁本当に?﹂ ﹁本当だよ﹂ ヴァインを見ると、彼も頭を抱えていた。 何か言いたそうにしているが、言葉がでないようだ。代弁しよう。 ﹁なんてことだ!﹂これに違いない。 この部屋で、あんなことも、こんなことも、いろいろしたのに、ク ロッシは女の子だったのか。 体とかめっちゃ触ったけどいいのかな? いや、ていうか姫様なのか。 498 確かに上品だったし、仕草なんかもおしとやかだったけど。 うん、素直にびっくりだよ! ﹁どうする?﹂ ﹁どうするって?﹂ レイルからの質問の意味がわからず聞き返した。 ﹁彼女国に帰ったし、もうこの学園にも来ないよ。こちらから会い に行かないともう二度と会えないかも﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁そうだよ。彼女も大変な立場だし、そうそう他国へは行けないよ﹂ ﹁会いに行くったって、学園もあるし﹂ ﹁休めばいいじゃない﹂ ﹁あ、確かに﹂ いつの間に俺は堅物男になっていたのだろう。 学園をサボる考えすら出てこなかったとは。 ﹁どうする?ヴァイン﹂ 一応聞いてみた。 ﹁⋮行こうか﹂ だよね!! 学園にも戻って早々、我々は学園を出発することになった。 ヴァインと一緒にまた馬車に揺られる日々が来る。 二人だけでよかったのに、なぜかレイルまでついてきた。 ﹁いいじゃない﹂と押し切られ、狭い馬車で男三人暑苦しく身を寄 せ合っている。 499 クロッシは一体どんな気持ちで俺たちと一緒にいたのだろう。 彼女の気持ちなんて知る由もなかったし、今更彼女が当時どんな気 持ちか考えるのも無駄な気もするが、馬車の中では彼女のことばか り考えていた。 俺は楽しかったけど、クロッシは楽しかったのだろうか。 着いたらどんな話をするの?﹂ ヴァインもそんなことを考えているのか、馬車ではあまり話さなか った。 ﹁クルリくん、 ﹁うーん、わからない﹂ あんなに気兼ねなく話せたのに、彼女の立場が分かった途端何をは なしていいのかわからなくなっている自分がいた。 結局2週間ほどかかった道のりもあっという間に過ぎさり、クロッ シの国へとたどり着いた。 すごく田舎だが、王城近くは少しばかり栄えている。 漁業が盛んな国だと聞いている。 きっとあまり大きな施設などは必要ないのだろう。 民の生活も質素だが、豊かなものに見えた。 王城に着くと、すぐに中に入れてもらうことができた。 レイルが事前に文書を送ってくれていたらしい。 アポなしで来たつもりだったが、今になってなんて無謀な!と思っ ている。 レイルは裏でいろいろ動いている。よくも悪くも。 客間と思われる部屋で1時間ほど待たされた。 500 食べ物や、書物なども用意されていたので退屈はしなかったが、気 持ちは一度も落ち着かなかった。 客間の扉が開き、ようやくクロッシ本人が現れた。 綺麗なドレスを見に纏い、顔にも綺麗に施された化粧がのっていた。 ﹁クロッシ!﹂ ﹁師匠!それにヴァイン!と、その人誰ですか?﹂ レイルのことは知らないようだ。 クロッシは知らないのに、レイルは知っていた。 怖っ!この人怖っ! ﹁ああ、あれは気にしなくていいよ。それよりもびっくりしたよ。 まさかお姫様だったなんて﹂ ﹁すみません。状況が状況でしたので、話すわけにもいかず﹂ ﹁いいんだよ。情勢も落ち着いたと聞いているし、無事に過ごして いるならそれでいい﹂ ﹁はい、状況が二転三転しまして、急遽学園もやめることになり、 師匠達に挨拶もできなかったことを後悔していました。こうしてき てくれたことを感謝しています﹂ クロッシがドレスをちょこっと持ち上げ、綺麗な仕草で礼をした。 ああ、お姫様なんだな。 なんだかこの時、すごく納得し、すごく距離が離れた気持ちになっ た。 ﹁あの、師匠。ヴァインは怒っているのでしょうか?﹂ なかなか近づいて来ないヴァインを気にして、クロッシが小声で話 しかけてきた。 後ろを振り向くと確かにヴァインは近づいてきておらず、ずっと窓 501 の外を見ていた。 クロッシに一番会いたがっていたくせに、なぜこないのか。 ﹁ヴァイン﹂ しょうがないので呼んだが、反応はない。 ﹁俺はいい﹂ なんだか、知らない人と話す時のヴァインになっている。 寡黙で、愛想がない。 ﹁でも、クロッシが来てるし、もう学園じゃ会えないんだぞ﹂ ﹁⋮﹂ ﹁いいのかよ、ヴァイン﹂ ﹁⋮﹂ ヴァインは俯向くだけで、何も言わなかった。 本当は話したい気持ちがジンジン伝わってくるのに、何が彼を押し とどめているのだろう。 ﹁師匠、私もそれほど時間がありません。もし話したいことがなけ れば、私はこれで﹂ ﹁もう行くのか?﹂ ﹁すみません、溜まっている政務が多くありまして、この後も会食 などの予定が入っています。師匠達は急がないでください。この国 を観光していってくれてもいいですよ。多分私は一緒できませんが、 帰る際には挨拶に行きますので﹂ ﹁そうなのか。クロッシも大変なんだな。もっと話したかったけど﹂ ﹁私もです⋮﹂ クロッシの言葉には少しだけ、重たく暗い空気が混じっていた。 一番話したいはずのヴァインが口を開かないのだ。 502 結局二人は口を交わすことなく、その場で別れた。 残された俺たちは何かをやる気分にもなれずに、そのまま王城で1 日過ごした。 一晩泊まって、国に帰ろう。 これで意見はまとまった。 夜中にベッドの中でいろいろ考えた。 クロッシにもう会えないかもしれないと思うと、とても悲しい。 ヴァインも同じ気持ちなはずなのに、なんで何も言わないんだ。 そんなモヤモヤが頭の中に巡りめぐり眠れない。 ﹁眠れないのかい?﹂ 隣のベッドで横になっているレイルも起きているみたいだ。 ヴァインはすでに部屋を出て何処かへ行った。 三人とも眠れない夜だった。 ﹁眠れない﹂ ﹁子守唄を歌おうか?﹂ ﹁いらない﹂ ﹁添い寝?﹂ ﹁いらない﹂ ﹁腕枕?﹂ ﹁おやすみ﹂ ﹁ああっ﹂ レイルの無駄話を華麗にスルーして、なんとか目を瞑り、考えが巡 らないようにした。 503 ﹁ねえ、好きな人いるの?﹂ レイルからの茶々が入る。 枕を投げて黙らせておいた。 重く、湿った長い夜が過ぎ去った。 504 3章︳13話 学園に戻る日が来た。 ヴァインはまだ黙ったまま何も言わない。 何か言えばいいのに、と思ってしまう。 出発の直前、再びクロッシと会うことができた。 ﹁師匠、せっかく来ていただいたのに何もできなくて申し訳ありま せん﹂ ﹁いいんだよ。クロッシが大変なのはみんなから聞いている。これ から大変だろうけど、頑張れるかい?﹂ ﹁はい、私は大丈夫です。ただ・・・﹂ ﹁ただ?﹂ ﹁いえ、なんでもありません。それでは、お別れですね。次はいつ 会えるかわかりませんが、きっと会えると信じて日々を過ごします﹂ ﹁ああ、俺も同じ気持ちだ﹂ クロッシとのお別れだ。 本当に悲しい気分だ。 レイルもクロッシとの別れを惜しんだ。 二人はあまり仲のいい友人でもなかったので、特に深い気持ちもな さそうだ。 問題はヴァインだ。 彼が一番悲しいはずなのに、なぜか別れの挨拶すらしようとしない。 505 ﹁ヴァイン﹂ クロッシが声をかけて、ようやくヴァインも顔を向けた。 ﹁なんだ﹂ ﹁なんだとはなんだ。これからもう会えないのかもしれないのだぞ﹂ ﹁ああ、そうだな﹂ ﹁何かないのか﹂ ﹁特にはないな・・・﹂ ﹁貴様と言う男は・・・バカ・・・﹂ ﹁クルリ、もう行こう﹂ ヴァインは暗く重たい言葉でそう言った。 ﹁いいのか?クロッシがせっかく来てくれているのに﹂ ﹁いいんだ。もう別れの挨拶は済んだ﹂ クロッシは俯き、ヴァインは顔を逸らしている。 二人が今どんな気持ちかはわかっているが、素直にならない二人に 俺が何をしようともダメな気がする。 馬車にのり、御者に出発の意志を伝えた。 馬車の窓より顔を出して、クロッシとの別れを済ませた。 何度も何度も外を覗いては、クロッシの顔を見た。 いろんな思い出がよみがえってくる。 なんだかとても幸せに思える日々だ。 506 涙が止まらない。 乙女のようにすすり泣いてしまったが、それでも馬車は無機質に進 んでいく。 もうクロッシとは会えないかもしれない。 そう思うとやりきれない気持ちになった。 ﹁大丈夫かい?クルリ君﹂ 馬車がしばらく進み、俺の様子が落ち着いてきたころにレイルが声 をかけてくれた。 ﹁ああ、もう大分平気になってきた﹂ ﹁そう、それはよかった﹂ しばらく馬車が静かになった。 誰も話そうとしない。 何か話をする、そんな気分にはなれなかった。 ﹁詩を歌おうか?﹂ レイルが必死に空気を変えようとしたが、詩なんて聞きたくない。 なんでこの男は詩なんて歌うのだろうか。 無言の拒否を示していると、レイルは構わず歌いだした。 以外にも綺麗な声で、リズムよく。 なんだか小鳥がさえずるように。 さっきまで長く感じた道のりも、レイルが歌っている間は時間が短 く感じた。 507 なんでこの男は詩なんて歌えるのだろうか。 無駄な才能すぎるだろ。 ﹁クロッシはきっとこれから大変だろうね﹂ ﹁何をいまさら﹂ レイルの発言にチクリと答えた。 クロッシが大変なのはわかりきっている。 一時は亡命したほどの立場だ。 これから国を再興する姫様が大変じゃないわけがない。 一体これから何年かけて彼女は国を再興するのだろうか。 考えると気が遠くなりそうだ。 本当に今日が最後の別れだったのかもしれない。 ﹁クルリ君は本当にわかっているのかい?﹂ ﹁なにが?﹂ 質問に質問で返すのはNGと聞いたことがあるが、この男が焦らす のがいけない。 ああ、基本レイルが悪い。 ﹁僕はね、いつも王子と一緒にいたからよくわかるよ。王族と言う 生き物の大変さが﹂ ﹁だからなんだよ。もっと具体的に言ってくれ﹂ 先ほどから窓の外を眺めながら言っていたレイルだったが、こちら 508 をちらりと一瞥し、やれやれと話し始めた。 ﹁僕が知っているだけでも、アークは3回暗殺されかかっている。 比較的安定した情勢を保っているクダン国でさえだ。この意味がわ かるだろう?﹂ ﹁ああ﹂ そうだった、今の今まで気づかなかったが、俺が描くクロッシの苦 労と、レイルの描く苦労は全く違うものだった。 こんな直接的な危機に至りながら、クロッシは戻って来たのか。 本当に俺は何も知らなかったみたいだ。 ﹁ヴァ、ヴァイン?﹂ 衝撃の事実に汗を流している隣で、勢いよくヴァインが狭い馬車の 中で立ち上がった。 本当に狭いので天井に頭をぶつけたが、あんまり痛みを感じていな いらしい。 それもこれも、俺以上にレイルの話に衝撃を受けているからだ。 ﹁レイル、今の話は事実か?﹂ ﹁ああ、誓って事実だよ﹂ レイルの言葉をかみしめて、ヴァインはこぶしを握り締めた。 ﹁御者よ、馬車を止めてくれ﹂ ﹁はーい?どうなされました﹂ ﹁いいから、止めてくれ!!﹂ ヴァインのあまりの迫力に理由などどうでもよくなり、御者は馬を 止めざるを得なくなった。 509 ヴァインは固まる俺たちに構わず馬車から降り、相変わらずのある かないかわからない量の荷物と、自慢の剣を手に取った。 ﹁クルリ、俺は行かなくてはならない﹂ ﹁・・・ああ﹂ 聞いてすぐには理解できなかったが、ヴァインと言う男を知ってい るからこそ、その後は聞かずともわかった。 ﹁行くのか?﹂ ﹁ああ、俺は行く﹂ ﹁もう会えないかもしれないぞ﹂ ﹁それでも俺は行く。俺の剣でクロッシを守ってみせる﹂ ヴァインは剣をつきだし、堅くそう言い放った。 もともとイケメンだが、今日はより一層かっこよく見えた。 ﹁ならこれを持っていけ﹂ 俺は自分の名前を彫った短剣をヴァインに2本渡した。 ﹁お守りだ﹂ ﹁ありがとう﹂ ヴァインは受け取り、スカスカのバッグに剣をいれた。 最期の別れかもしれない。 ヴァインと抱き合い、言葉はかわさなかった。 ヴァインの背中は目で追わなかった。 510 見たらまた泣き出しそうだ。 一日に二人の親友と別れるのは、流石につらすぎる。 馬車を出発させた。 来たときは三人だったが、今は二人だ。 でかいヴァインがいなくなった。 馬車は案外それほど狭くもなかった。 ﹁ヴァイン君は思いっ切りがいいね﹂ ﹁ああ、そういうやつだから﹂ ﹁しかも、仲間思いだ﹂ ﹁ああ、そういうやつだから﹂ ﹁しかも、めちゃくちゃかっこいい﹂ ﹁ああ、そういうやつ・・・﹂ 言葉にならなかった。 初めてレイルの胸を借りて思いっ切り泣いた。 レイルからはバラのいい香りがした。 えっ、なんで!?ちょっとドン引きした。 511 3章︳14話 視界が白い霧に包まれていた。 いや、霧ではない。 雲といったほうがいい。 ふわふわとした白い雲に覆われている。 雲は水分が気化したものと聞いたことがあるが、これはほんのり暖 かくて気持ちがいい。 もちろん湿気もない。快適な雲だ。 体を覆ってくれており、幸せな気分にさせてくれる。 ﹁ああ、これは夢だ﹂ 夢を見ながら夢だと自覚してはいるが、今はずっとこうしていたい。 現実は厳しいものだ。 一度に大事な友人を二人も失ったのだ。 夢の中でぐずってだらだらするくらいの贅沢を貰ったっていいじゃ ないか。 そうだよ、今日くらいいいんだよ。 目が覚めたらまた勉強の毎日だ。 そこには大事な友がもういない。 512 休めるうちに休んでおこう。心も体も。 ﹁随分とお疲れの様子ですね﹂ 背中から女性の声がした。 エリザの声だった。 声がした後、こんどは背中を触られる感触があった。 どうやらエリザが添い寝したようだ。 ああ、いい夢だ。 神様と言うのは本当にいるのかもしれない。 傷心の俺にきちんとこういったご褒美をくれるのだから。 ﹁気分はいかがですか?﹂ ﹁うん、悪くないよ﹂ 背中に寄り添うエリザの感触がなんだか夢とは思えいくらいリアル だ。 本当に素敵な夢だ。 いつまでも続いてほしい。 そう思えてしまう。 ﹁はっ﹂ あまりにも幸せすぎたせいか、起きてしまった。 もっと見ていたかった。 513 ﹁くっそー﹂ あんないい夢なかなか見れるものじゃない。 ﹁あー、いい夢だったー。ん?﹂ 自分のベッドで目を覚ましてすぐに違和感に気が付いた。 目が覚めているはずなのに、背中に寄り添って誰かが寝ている感じ がする。 夢と同じ感触だ。 確かに背中越しにだれかいる。 恐る恐る振り返ってみた。 ﹁おい、なんでいるんだ﹂ そこにはレイルがいた。 施錠されたはずの俺の部屋になぜかこの男がいる。 ﹁やぁ、いい夢見れたようだね﹂ ﹁うるせー、でてけ﹂ ベッドから蹴りだし、見下した。 ﹁おい、なんでベッドの中にいた﹂ 貞操の危機だ。ここはきつく尋問せねば。 ﹁いやー、きっと寂しがってるかなーって﹂ ﹁寂しくても男と添い寝する趣味はない。あとどうやって入った! 514 ?﹂ ﹁それは、内緒﹂ もう、うざいので首を絞めておいた。 これに懲りてもう侵入してこなければいいのだが。 部屋で一人になり、改めてヴァインとクロッシがいない事実を感じ た。 なんだかとても寂しい。部屋が広く感じる。 前も一人で過ごす時間は多くあったのに。 今日は嫌に寂しい。 いつも楽しんでいた紅茶も味が薄く感じられる。 思いにふけっていると、ドアが荒くノックされた。 ヴァインのノックじゃない。 彼のはもっと荒い。通常運転で荒いのだ。 ﹁どなたです?﹂ ドアを開けると豚がいた。 いや、豚顔の男と、連れの男が二人立っていた。 ﹁クルリ・ヘランか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁俺はカラーコ・マールだ。わかるだろう?﹂ ﹁ああ﹂ カラーク・マールの息子か。 515 見た目がそっくりだ。 ﹁ちょっと面貸せよ﹂ ﹁いいけど﹂ 父親同様ずかずかやって来て、要求か。 やっぱり親子だな。 呼び出されたのは校舎の裏側。 木が生い茂る辺りで立ち止まった。 日陰に入っていて心地のいい場所だ。 ﹁父さんから聞いたぜ。随分生意気なことをしたらしいな。代わり に俺が痛い目見せてやるぜ﹂ ﹁何?喧嘩でもするの?﹂ ﹁そうだよ﹂ ﹁3対1は喧嘩とは言わないけどな﹂ ﹁うるせっ﹂ 真ん中のカラーコが来ると同時に後の二人も来た。 喧嘩の結果としては、惨敗だ。 3人相手はきついし、なんか途中でどうでも良くなってしまった。 結果、一方的にぼこぼこにされました。 それで奴らも満足したのか、去っていった。 516 木陰に入っているので、横になるとそのまま昼寝できそうなくらい 涼しく気持ちのいい場所だった。 体中痛いが、なんだか意外と気分はスッキリしていた。 喧嘩とはいえ、体を動かしたのがよかったのだろうか。 腕を頭の後ろで組み、空を見上げた。 気持ちのいい天気だ。 喧嘩でぼこぼこにされていなければもっといい気分だっただろう。 もったいないことをしてしまった。 まぁいいや。 少し寝よう。 浅い眠りの最中、女性の声で目が覚めた。 ﹁隣、よろしいですか?﹂ 顔を向けると、頭上から綺麗な女性がこちらを覗き込んでいた。 涼し気なパンピースを着ている。 スカートの丈が短くて、つい下着が見えてしまった。 悪意はない。不本意だ。 ピンクのパンツなんて見るつもりはなかった。 本当だ。 517 ﹁エリザ・・・どうぞ﹂ まずい、下着が気になる。 白いワンピースの下に、ピンクのパンツか。た、たまらん! ﹁あらあら、顔中傷だらけですよ?﹂ ﹁ああ﹂ エリザが俺のことを心配してくれているのか。 嬉しい限りだが、パ、パンツが気になる。 ﹁ダメですよ、弱い男はモテませんよ﹂ ﹁ああ﹂ パ、パンツがピンクと言うことは、う、上もピンクなのだろうか。 ﹁もう、話を聞いているのかしら。まぁカラーコ達は私が血祭りに あげましたけど﹂ ﹁ああ﹂ 普通に考えて上もピンクだろ! 普通揃えるよな! 上下ピンクとか、た、たまらん!! え?いま血祭りとか言った? なんの話!?こわー! ﹁ほら、口元の傷口拭いてあげますね﹂ 518 ああ。 ﹁ハンカチもピンクか﹂ ﹁ハンカチも?﹂ しまった!! 思考と発言が逆になってしまった。 エリザはワンピースを抑え、顔を赤くした。 直後、飛んでくる平手をもろに食らうことになった。 ﹁あ!いたー!﹂ 涼しい風が吹く木陰で、俺の顔だけがホカホカと熱かった。 ﹁い、痛い﹂ ﹁クルリ様が悪いんです!﹂ ﹁は、はい﹂ 確かに下着を見た俺が悪い。 でも悪意はなかった。 事故だ。 でも、その後想像を膨らませたのは反省せねば。 ﹁ご、ごめんなさい﹂ ﹁一度だけ許します﹂ エリザはぷいっと顔を背けた。 519 なんだかかわいい。 ﹁来週さぁ、デートしてくれない?二人きりで﹂ ちょっとだけ間が空いたので、不意に口を開くとそんな言葉が出て きてしまった。 自分でもよくわからない。 なんでこんな言葉が出たのか。 やはり俺は心の奥で寂しがっているのかもしれない。 ﹁え、ええ、いいですけど﹂ エリザが顔を赤くしながら承諾してくれた。 やった。 しばらく二人で何も話すことなく、その場にいた。 なんだか夢の続きみたいな、ステキな時間だった。 520 3章︳15話 エリザとの初デートだ。 朝から何度顔を洗ったか。 服も整えた。 少し硬い気もしたが、ちょっとかっこいい服装を選んでみた。 何度も鏡で確認する。 ﹁うん、大丈夫だ﹂ 待ち合わせ場所は噴水の前だ。 学園の人気デートスポットである。 少し待ち合わせ時間より早く来た。 遅れるよりはいいし、何より家にいては落ち着かない。 辺りを見回すが、エリザはまだ来ていなかった。 流石に早すぎたかな。 しばらく待っていると、人影が現れる。 背後から来たその二人を見た。 衝撃的な二人だった。 521 アークとアイリスが並んでこの噴水に向かってきているではないか。 いつの間に仲直りしたのだろうか。 アイリスが嫌がっていたはずだが。 なんだかそんな二人が来たので、つい隠れてしまった。 噴水を中心に広がる広場。 二人はその一角のベンチに腰を掛けた。 俺はこの広場の傍にある木陰に隠れた。 ﹁いつかここに来たことあったけ?﹂ ﹁うん、あんまり覚えてないけど確かあったと思う﹂ 二人の会話に笑顔はない。 なんでだ!? 楽しいデートではないのか? ﹁俺は最低な人間だ﹂ は!? アークは何を言い出すのだろう。 いきなり俺は最低だ!?意味が分からない。二人は一体何をしに来 たんだ? ﹁いえ、私の方こそ最低よ﹂ うわっ、アイリスまで。 522 なんだあの狂った空間は。一体何をしにきたんだ!? ﹁俺の方が最低さ。俺は最近何をしてもダメなんだ。何をしても失 敗してしまう。俺はなんてダメな奴なんだ﹂ ﹁いいえ、私こそ何をしてもダメなの。この間も・・・、あー思い 出すだけで頭が痛いわ﹂ ﹁いや、俺の方こそダメなんだ﹂ ﹁違うわ、私こそ﹂ 何してんだ、あの二人! 互いを褒め合う訳でもなく、己の自慢をするわけでもない。 ひたすら自分を卑下しているだけだなんて。 おかしいよ!あの二人やばいよ! ﹁俺なんて王子失格だ。ラーサーが次期王に就任すればいい。そう だ、それがいい﹂ ﹁何言ってるの。アークは勉強も、運動も、容姿だっていいじゃな い。そんな人が弱音はいちゃだめよ﹂ ﹁えっ!?い、いや、でも俺は本当にもうダメな奴なんだ。こない だヘラン領から先に帰っただろ?あの時馬車が倒れて俺とラーサー が投げ出されたんだ。 ラーサーはクッションの上に落ちて怪我はなかった。でも俺は馬糞 の上に落ちた。俺はそういう男なんだよ﹂ ﹁そ、それはすごいね・・・。でも、私もダメなの。この間すべて を失ったの。いや、もともと私なんて何もないのよ。空っぽな女な のよ﹂ ﹁そんなことないさ。アイリスは良く笑うし、それにすごい!そう だ、アイリスはすごい!﹂ 523 ﹁そんなぁ、私凄くなんかないよ﹂ ﹁すごいさ、アイリスはすごいんだ!﹂ ﹁アークだってすごいよ。きっとアークはすごい人になるよ﹂ なんだ、なんだかんだあの二人は上手くいきそうな気がする。 俺が心配するまでもなかったか。 でも、馬糞はないでしょ。 王子だよ? プププッ。 ﹁あら、覗きなんていい趣味じゃないですわね﹂ ﹁エリザ!?﹂ いつからみられていたのだろうか。 ちょっと恥ずかしいな。 ﹁来てたなら教えてよ﹂ ﹁あら、随分楽しそうにしてたから﹂ ﹁意地悪だなー﹂ ﹁ふふん﹂ エリザは笑った。 こんなに素直に笑うのを見たのは初めてだ。 綺麗だと思った。 ﹁行こうか﹂そっと手をさしだす。 ﹁ええ﹂エリザは嫌がることなく、手をつないだ。 524 二人一緒に歩き出す。 待ち望んだ瞬間であった。 ﹁どこ行こうか﹂ ﹁どこへでも﹂ ふたりで何でもない話をした。 本当になんでもない、ただの日常の話だ。 あれが好きだ、あれが嫌いだ。 あまり頭には入らないが、ただ一緒にいるのが楽しい。幸せと言う のはこういうことかと思わせてくれた。 ﹁エリザ、俺今楽しいよ﹂ ﹁ええ、わかっていますよ﹂ 二人で歩き回り、疲れたころに適当なベンチで休んだ。 ランチは手作りの弁当だ。 ありきたりなものが入っていた。 だけど、どれも美味しい。味なんてわからなかったけど、美味しい。 ﹁あ、そんなに急いで食べないでください。喉詰まりますよ?﹂ ﹁まさか・・・﹂ ごめんなさい。詰まりました。死にかけましよ。 エリザのお茶で何とか助かった。よかったよ、危うくデート中に死 んだ愚かものとして歴史に名を残すところだった。 525 食後もエリザと話し込んだ。 ベンチでゆっくり過ぎる時間とともに、エリザと語り合った。 何を話したかなんて覚えていない。 けれどそれでいい。一緒にいられることが、今はいい。 しばらく話し込んで、ふと、目の前のベンチにいる人物に気が付い た。 ベンチの背もたれに両の肘をのせ、脚は大きく開かれていた。 こんな暑い夏に、その人は暑そうな格好をしている。 猫先生だ。 ﹁何見てるニャ?﹂ 絡んできたので、目を逸らした。 まずいのに見つかった。 ﹁二人で何してるニャ﹂ ﹁いえ、ちょっとデートを﹂ じと目になる猫先生。 ﹁もう日が暮れるまでそう時間がないニャ。さっさと帰るニャ﹂ ﹁はい、俺たちもそろそろそれぞれの寮に帰ろうと思ってたとこで す﹂ ﹁違うニャ。早く帰って、日が出てポカポカしているうちにパコパ コやるニャ﹂ ﹁﹁・・・﹂﹂ これだよ!! 526 これだからこの人に会いたくなかったんだよ!! 全部ぶち壊しだよ! 雰囲気も何もないよ! ほら!エリザの顔に黒い縦線入ってるよ。 乙女の前でパコパコとかやめて!! ﹁パコパコやるニャ!﹂ なぜ言い直したのか。 聞こえなかったわけじゃない! 聞こえないふりをしてたんだ。 こうして、エリザとの初デートはパコパコによってぶち壊された。 帰り道に、仲良く歩くアークとアイリスを見た。 終わり良ければ総て良し。 なんだか思い言葉が俺にのしかかった。 もうパコパコしてしまえばいい!! 527 特別閑話 ﹁お土産がある﹂ ﹁僕にか?﹂ ﹁そう、トトにお土産がある﹂ ﹁ほう?﹂ ビニールハウス内で謎の植物たちに水をやっているトトを捕まえた。 忙しく動き回っていたが、俺のお土産には興味を持ってくれたみた いだ。 ヘラン領から学園に持って帰った物がちらほらとある。 その中にトトへの土産もあった。 彼にぴったりなものだ。結構自信があって選んだ逸品だ。 ﹁これだ﹂ ポケットから取り出したのは、瓶に入った我が領の温泉水だ。 ﹁水?﹂ ﹁そうだ。だが、ただの水じゃない。温泉水だ﹂ ﹁え⋮⋮なんでそんなものを?﹂ ﹁飲めばわかる﹂ ﹁いやだよ。人が体を洗った後の水だろう?﹂ ﹁違う。流石にそんなものは飲ませたりしない。ちゃんと入浴用と わけてある。これはすごいぞ。いろいろな種類の温泉があるが、こ いつはすごい﹂ ﹁すごいってなんだよ。怖いよ﹂ ﹁殺菌消毒はしてあるし、空気にも触れさせていないから衛生面は 大丈夫だ﹂ 528 ﹁そういうことじゃない。なんでお土産が温泉水なんだよ。もっと 他になかったのか﹂ ﹁あったが、これは本当にすごいぞ﹂ ﹁えー﹂ ほれほれ、と催促しているとトトもあきらめたように瓶を手にした。 ﹁死なない?﹂ ﹁失礼な﹂ ﹁うっ、うう﹂ 意を決してトトは瓶の蓋をあけ、こちらをチラチラ見ながら中身を 一気に飲み干した。 ﹁どうだ?﹂ ﹁う、うん?ちょっと変な味したけど、普通かな﹂ ﹁今飲ませたのは、酵素入り温泉水だ。流行りの、酵素だ﹂ ﹁いや、知らないよ﹂ ﹁サプリメント温泉水とでも名付けておこうかな﹂ ﹁なにそれ?怪しくない?﹂ ﹁どうだ?体の調子は﹂ ﹁いや、何もないけど﹂ ﹁なに?やはり瓶で持ち運んだのがダメだったか⋮⋮﹂ ﹁ちょっと!僕で実験しないでくれ!﹂ うーん、いいお土産だと思ったがそうでもなかったみたいだ。 それにしても今日はいい天気だ。ギャーギャー騒ぎ立てるトトも気 にならない、爽快さだ。 ﹁こんな日は、水やりも精が出るな﹂ ﹁それを君が止めたんだけどね﹂ ﹁温泉水を植物たちに⋮⋮﹂ 529 ﹁少なくとも僕のところではやらないでくれ﹂ ﹁んまぁ、それはまた今度でいいや。ところでこんな天気のいい日 に彼女の姿を見かけないね﹂ 彼女とはもちろんアイリスのことだ。 こんな晴天気に畑に来ないなどありえない。 彼女と言っただけだが、トトもアイリスのことだと理解したようだ。 ﹁来てるよ﹂ ﹁姿が見えないけど﹂ ﹁外で穴を掘っているんだよ﹂ ﹁穴!?⋮⋮トラップ!?﹂ 野菜だけでなく、獲物まで取るようになったのか?アイリス。それ はヒロインとしてどうなんだ! イノシシなんか仕留める君を見た王子は、百年の恋も冷めてしまわ ないかい!? ちなみに捌き方はヴァインに聞くといいと思うよ。 ﹁違うさ。休み前に植えた野菜の収穫だよ﹂ ﹁収穫か、早いな⋮⋮﹂ 大事な野菜を摂られないようにトラップか。王子がひっかかると面 白いが⋮⋮さてさてどうなるか。 ﹁変な想像しているようだけど、たぶん違うから﹂ ﹁アイリスは逞しい女性だからいろいろと想像しちゃうよね。で、 穴を掘っている真相は何だい?﹂ ﹁自分で見てみるといい。きっと君も夢中になって穴掘りを手伝う はずさ﹂ ﹁ほう?ちなみに俺は温泉を掘り当てたことがる。掘ることに関し てはすごいよ﹂ ﹁はいはい﹂ 530 トトは自分の水やり作業に戻っていった。 休み前に比べると更に植物が増えていた。いびつなものが多い。 世の役に立てばいいが。 さて、アイリスの方に行ってみるか。 トトいわく、俺も興味惹かれるらしいし。これは期待だ。 ビニールハウスを出ると、確かにザックザックと音がする。 辺りを見回すと土が盛り上がった部分がある。 近づくと、アイリスの綺麗な髪の毛が土を被りながら動いていた。 確かにアイリスは穴を掘っていた。 スコップ片手にそれは満足そうな顔で作業をしている。 ﹁何をしてるんだい?﹂ ﹁えっ?あ、クルリ﹂ アイリスはこちらを確認すると、その掘っていた穴の側面をペチペ チと叩いた。 叩いた音は土の音ではない。ぴちぴちとしたみずみずしい音だ。 ﹁芋だよ。芋!﹂ なんとも素晴らしい笑顔で返答があった。 ﹁芋!?﹂ 見るからにかなりのサイズだ。 アイリスの肩まで埋まるほどの穴を掘っているが、芋はまだ土に潜 り込んでいる。 いったいこれは芋と言っていいのか? 531 ﹁でかくない?﹂ ﹁大きいよ。しかも収穫も早くて、すごいよね!﹂ ﹁うん、すごい!﹂ 誰かさんも芋が大好きだが、アイリスも芋が大好きなようだ。 ﹁スコップはまだある?﹂ ﹁あるよ﹂ こうしてトトの言う通り二人で芋を掘ることになった。 ﹁トトの野菜凄いね。私人生で一番感激してるよ﹂ ﹁俺も感激してる。早く全長を見てみたいな﹂ 掘っているとすごく楽しかった。 黙々とした作業がなんだか心地いい。 ﹁どうしよう。一生かけても食べられないような芋だったら﹂ どんな芋だ、それは。まるで宝くじを開ける前のような気分だな、 アイリスさん。 ﹁このスコップはあまりよくないな。こんど先っちょを改良したの を作ろう﹂ ﹁はーい、是非お願いしまーす﹂ 疲労がアイリスのテンションを上げているようだ。 純粋にスコップの改良を望んでいる面もあるだろう。 ﹁ねぇ、芋とったら何か作ってあげるね﹂ ﹁ああ、楽しみにしているよ﹂ ﹁ほかにもアークとかも呼んであげようか﹂ ﹁そうだね﹂ エリザ譲も呼んであげたいね。きっと喜ぶと思うよ。彼女芋が好き 532 だから。 掘って、掘って、掘りまくり、昼までには掘り終えた。 見事に芋収穫成功だ。 ﹁大きかったねー﹂ ﹁ああ、手ごわかった﹂ ﹁疲れたでしょ?先に収穫したトウモロコシがあるよ。みずみずし くて、いかにも甘そうなんだー﹂ ﹁へぇー、もしかしてそれもビッグな野菜かい?﹂ ﹁もちろん!とってくるね﹂ 水できれいに洗われた、黄色いつるつるの肌をしたそいつがやって きた。 アイリスの言う通り、みずみずしくて甘そうだ。 そして何より、大きい。 アイリスはトウモロコシをその体に抱きしめて持って来ている。 どうやって食べるんだろうか。 ﹁一個が大きいから、これを三人で分けて食べよう。トトが言うに は生で食べられる品種らしいから、生でいこう!﹂ ﹁嬉しそうだね。昼はトウモロコシ単品か。それも悪くない﹂ ﹁トトを呼んでくるね﹂ 手渡されたトウモロコシを受け取り、嗅いでみた。 甘い香りが強い。重さもずっしりとあり、中身が詰まっているのが わかる。 力仕事のあとなので、お腹はペコペコだ。今にも噛り付きたい気分 になってくる。 533 これはなかなかいい野菜だ。俺もちょっとだけビック野菜にはまり そうである。 ﹁クルリ、先に食べていよっか﹂ アイリスが戻ってくると、そう告げてきた。 ﹁まだやることあったみたいだな﹂ ﹁うんうん、全て終えたらしいけど、お腹の調子がすぐれないから トイレに行くって。だから先に食べていようか﹂ ﹁ははは、あいつお腹弱そうな顔してるからなー。どうせ、試作中 の変な植物でも口にしたんだろ﹂ ﹁うーん、トトの野菜は新鮮なんだけどね。それに自分の植物にも しっかりとした管理をしているって言ってたけど﹂ ﹁食べよ食べよ。このトウモロコシいい香りがするんだー!﹂ ﹁うん!私ももう我慢できないよ﹂ こうして二人で噛り付いた。 でかいチーズにかぶりつくネズミはきっとこんな気分なのだろう。 幸せだ。 ネズミも案外幸せな思いをしているのかもしれない。 ﹁おいしいね﹂ ﹁うん、本当においしい。トトのやつ、やっぱり凄いな﹂ ﹁うん、天才だよ。いつかお礼をしなくちゃ。そういえば、トトに お土産があるとかって言ってなかった?渡したの?﹂ ﹁ああ、渡したよ。温泉水﹂ ﹁温泉水?﹂ ﹁そう、温泉水⋮⋮。あ⋮⋮﹂ すまぬ!!!! 534 特別閑話︵後書き︶ 久々の更新です。 更新遅くて申し訳ないです。 久々ですが楽しんでいただけると嬉しいです。 ところで、実は私の作品、﹃没落予定なので、鍛冶職人を目指す﹄ がカドカワBOOKSから書籍化をしております。 皆さんのおかげで、そこそこ売れているようです。 非常に、ありがたい話です。 本当にありがとうございます!! 更に嬉しいことに、重版が決定したとの連絡がありました。 本当に、ありがとうございます!!! 重版なんて夢みたいです。 これもすべて応援してくださった皆さんのおかげでございます。 535 3章︳16話 季節が移り替わった頃、一番勉強しやすい時期になり、学習面では すこぶる順調である。 今日もしっかりと授業を聞き、図書館で自習も済ませてきた。 なんでもない日常だが、やはり学生の本分は勉強である。 これさえしておけば、日常は充実してくるものだ。 勉強帰りに、トトの植物園へと寄っていった。 いつもの寄り道コースだ。 トトとアイリスがいつものように怪しげな植物を育てているのだろ う。 簡単にイメージできる映像を頭に浮かべて、ビニールハウスを視界 にいれた。 二人はどこかな? ビニールハウス内をちらりと覗き込む。トトはいないみたいだ。珍 しい。 ビニールハウスの周りをウロウロ、アイリスがいた! ﹁うわっ!?﹂ アイリスだけなら驚きはしなかったが、なんかでかい犬がいた。 どろんこまみれで、やたら大きい。 ﹁えっ?何この犬!?﹂ ﹁へっ?﹂ ようやくこちらに気が付いたアイリスが振り向いた。 536 なんか顔を真っ青にしている。 ﹁犬⋮⋮、じゃないよ﹂ 犬じゃないらしい。 なんで嘘つくんだ!? 犬だよね!俺の目が腐っていない限り、目の前にいるそいつは犬だ! 犬種はセントバーナードに近いみたいだ。山で遭難したら、間違い なく助けてくれるほど逞しい体を有している。 ﹁犬⋮⋮、だよね?﹂ ﹁犬⋮⋮、じゃないかもよ﹂ なに!?なんで誤魔化すの? アイリスの目がウロウロと泳いでいるのが嘘ついている証! いや、その前に間違いなく犬だから! ﹁そいつが犬だと何かまずいの?﹂ ﹁えーと、まずいかも﹂ まずいのか。じゃあ、俺も犬と認識しないであげた方がいいかもし れない。 ﹁クルリはこの子が犬だと思うの?それでいいの?﹂ なんだろう、俺は試されているみたいだ。 なんて言えば正解なんだ?アイリスが犬と認めない以上、俺も否定 した方がいいのかもしれない。 ﹁犬⋮⋮、じゃないです﹂ ﹁はい、そうですね﹂ やった、正解だ! 537 ﹁ところで、その犬じゃないヤツはどうしたの?﹂ ﹁この犬じゃない子はね、放課後来たらここにいたの﹂ ﹁ふーん、で懐かれたと﹂ アイリスの服装もどろんこまみれになっているところを見ると、一 人と一匹は楽しく遊んだのだろう。 ﹁この子、素直ですごくいい子なの。それに優しくて、賢いし﹂ ﹁はい﹂ ﹁それにね?体がこんなに大きいけど、人に危害を加えたりしない んだよ?﹂ ﹁はい﹂ ﹁あー、いい子だねー。絶対人間の役に立つ子なのにねー﹂ はい、つまりは飼いたいと。 そうですね、いいんじゃないんですか? ﹁飼えばいいじゃないか﹂ 待っていましたとばかりに、アイリスの目が光った。 キラーンと音がしたとさえ思える。 ﹁⋮⋮いいのかな?﹂ ﹁いいんじゃないの?別に校則に書かれているわけじゃないし﹂ まさか誰も犬を飼うなんて、学園側も思わないだろうし。 なら禁止される前に、先に飼ってしまえばいいのだ。グレーゾーン ってやつですね。 ﹁でも、本当にいいのかな?﹂ ﹁いいよ。ご飯は食堂から調達してこよう﹂ 538 ﹁でも⋮⋮﹂ ﹁犬小屋は、明日にでも作ってあげようか。この畑の回りなら自由 に動き回れるし、運動不足にもならないだろう﹂ なんだか俺の方に火がついてきて、ペラペラしゃべっていると、う つむいたアイリスが服をつまんできた。 なにやらブツブツと口元が動いている。 ﹁⋮⋮しない?﹂ ﹁えっ、なに?﹂ ﹁食べたりしない?﹂ ﹁犬が人を?はは、そんなまさか﹂ 少し間をおいて、アイリスが顔を勢いよく起き上がらせた。 ﹁人が犬をよ!﹂ ﹁そっち!?﹂ ﹁貴族様って珍味とか言って犬を食べるんでしょ!?私知ってるの !﹂ めちゃくちゃ早口だな、それに顔が近い。 ﹁いや、食べないって。いたとしてもかなりの少数派だろうし、食 用に適した種類もあるんじゃないかな﹂ ﹁嘘は言わないで。食べるなら食べるって!﹂ ﹁えっ!?食べないってば﹂ ﹁そうね。それじゃ、やっぱりこの子は犬じゃないってことにしま しょう。そしたら食べられることもないわね、ふふふ﹂ ﹁おいおいおい、おちつけーアイリス!﹂ ﹁この子は犬じゃない、この子は犬じゃない﹂ ﹁洗脳する相手を間違ってるから!君だけ洗脳されてどうすんだ!﹂ はっ!とアイリスが息を吐きだす瞬間、彼女の肩を揺さぶって正気 539 に戻した。 ガクガクと頭が揺れる。これで大分落ち着いただろう。 自分の大事なものを守るとき、人は必死になるよね。さっきのテン パり具合は見なかったことにするよ。 ﹁本当に、本当に食べないんだよね!?﹂ ﹁神に誓って食べません。珍味ならほかをあたります﹂ ﹁そのー、エリザさんとか、アーク王子とかも?﹂ うーん、機嫌が悪い時に蹴とばすことはありそうだけど⋮⋮。 ﹁心配ご無用!﹂ ぐっと親指を立てて、彼女を安心させる。 ﹁じゃあ、飼ってもいいんだね。この子大事にするから﹂ ﹁そうだね。さっきからずっとアイリスを見ているし、飼ってあげ るのが一番だね﹂ というわけで、でかい犬は飼うことにした。 今更だけど、トトが来ないのは、このでかい犬にビビったからだと 思う。 明日説明してやらないとな。あいつっていろいろ不憫だよね。 ﹁畑とか守ってもらう番犬になっていいかもね﹂ アイリスのでかい野菜計画の立派な助手になってくれそうじゃない か。 ﹁えー、襲われたりしない?﹂ ヴァインくらいだ、そんなことする可能性があるやつは。 ﹁こんな大きな犬、怖くてだれも襲わないよ。いざってときに逃げ 540 られるように、紐で結ばないでおこう﹂ ﹁そうだね。いざってときは逃げるんだよー、アルフレード﹂ アルフレードってなんぞ? まさか、こののべーっとした汚い犬が、高貴な貴族様の名前アルフ レードを名乗ると? ﹁アルフレードって、まさか﹂ ﹁うん、この子の名前だよ。かっこいいでしょ﹂ 目を輝かせていうものだから、俺にその発言を訂正する度胸はもう ない。 ﹁汚いし、洗ってあげようか﹂ ﹁うん﹂ 少しでも名前に近づけるように、まずは泥を落とさなければ。 植物たちにあげる水を使って、アイリスが全身を洗ってあげた。 気持ちよさそうに構えるアルフレード。 目がトローンと垂れて、口がにやけているように見える。 やっぱこいつアルフレードじゃねーわ。いいとこゴロウだよ。 ﹁ふはー、きれーになったね。アルフレード﹂ 渇いてふかふかになったアルフレードに、アイリスが顔をうずめた。 確かにあれは気持ちよさそうだ。 俺も後日やってみようかな。でも恥ずかしいから一人のときに。 ﹁犬小屋の材料は学校から余った資材を貰ってくるよ﹂ ﹁じゃあ、私はこの子の食事調達の安定ルートを確保するために、 食堂のおばちゃんと交渉してくる﹂ ﹁あとは首輪くらいかな。俺の部屋にレザーがあるから、それを加 541 工しよう。首輪に騎士様にぴったりのアクセサリーも着けてやろう﹂ 畑を守る騎士様か。あまった鉄で、盾のアクセサリーでも作ってや ろうかな。 細かいものを作るのは久々だし、ちょっと楽しみだ。 ﹁よーし、首周りを図るからついて来い、アルフレード!﹂ 俺は自分部屋へと戻るため、歩き出した。 アルフレードは⋮⋮、あっ着いてこないんだね。 ちょっと予想外だよ。 ﹁あ、アルフレード、首輪を作ってやるからこっちに⋮⋮﹂ 来ないねぇ。 あれ? アイリスと張り切って、この犬を飼おうと盛り上がっていたのに。 俺は全く懐かれていなかったのか?なにこの恥ずかしい勘違い。 ていうか、冷静に考えれば、今だに指一本も触れていないや。 ﹁アルフレード、一緒にクルリの部屋に行こう﹂ アイリスが歩き出すと、アルフレードは素直に付いていった。 尻尾を振りながら、それは従順に。 決めた、俺はあの犬畜生をゴロウと呼ぶ。 あと首輪のアクセサリーは盾じゃなくて、ジャガイモにする。 ちょっとした嫌がらせを胸に、俺の部屋へと向かった。 542 3章︳17話 アイリスの女子寮はまずいし、何より俺の部屋が一階だったことが 大きい。 本日、ゴロウことアルフレードは俺の部屋で泊まることになった。 でかい、けもの臭い、よく食べる、ベッドを占拠する。 もうやだ。この子嫌いです。 ﹁バウッ!﹂ 向こうも同じ気持ちらしい。 庭に出そうとしても嫌がられるし、あきらめてベッドは譲ることに した。 たった一日だ、堅い床で眠るのもいいだろう。 それよりも、明日は犬小屋を作ってやるから今日中にアクセサリー を仕上げておいてあげるかな。 もちろん、予定通りジャガイモのアクセサリーをだ。 鉄を熱して、しばらく鍛えるために打ち続ける。 もう体にしみ込んだ作業だ。 今回はアクセサリー用なので、少量の鉄だ。 固まらないうちに型作りもしなければならない。 ジャガイモか⋮⋮、一応植物図鑑を取り出して精巧に作ってやろう。 こんなに細かい作業はいつ以来だろうか。 543 だいぶ前にレイルと医療器具を作って以来かな? あれとは違い、タダのアクセサリーなので気は楽だ。 それでも細部までこだわるのは、性格かなー。 ジャガイモごときに3時間もかけ、どこからみても完璧なジャガイ モアクセサリーを完成させた。 うむ、普通にかっこいい気がして来た。 バカにするつもりで作ったのに、なんか変な気分だ。 まぁ盾よりはいいか、それにつけたらマヌケに見えるだろう。 今度はレザーを取り出して、首輪を作る。 専門分野じゃないが、まぁなんとかいける。 これまた憎きゴロウにはもったいないものが出来上がり、ジャガイ モのアクセサリーをとっつけて完成だ。 逃げ回るゴロウを捕まえて、首輪をはめた。 ﹁⋮⋮イメージと違うな﹂ さっきまでどこから見ても野良犬でしかなかったゴロウだが、首輪 を付けたとたん見た目が映えた。 うーん、違うな。 貶めたかったのに、なんだか本当の立派な救助犬に見えてきたよ。 ゴロウが動くたびに、アクセサリーのジャガイモが光を反射してキ ラキラと光る。 あれ?めっちゃかっこいいぞ! 544 どっしりとベッドを陣取るゴロウの首元がどうしても気になる。 キラキラとジャガイモが輝いているのだ。 なんだあれ。あんなつもりじゃなかったのに。 ちょーかっこいいじゃん! 時計を見た。既に深夜12時。 やるか?やろうか! 恥もプライドも捨て、俺はもう一つジャガイモのアクセサリーを作 ることにした。 恥ずかしながら、自分用だ。 今度は上質な鉄を取り出し、念入りに鍛える。 2度目だけあって、型作りも先ほどより早く正確だ。 2時間を要して、キラッキラ光るジャガイモのアクセサリーを完成 させた。 これ売れるよ!すごくかっこいいもん。 どこにつけようか考えているうちに睡魔が襲ってきて、その日は倒 れるように眠った。 次の朝、ゴロウの踏み付けで目を覚ました。 奴め、この家の主が誰かまだわかっていないようだ。 食堂で朝ごはんを調達して、今朝は部屋でゴロウと一緒に食べた。 皿の上に乗せないと食べないんだよなー。 545 どっかの貴族にでも捨てられたのだろうか。 勝手な想像だが、そう思うと少しかわいそうに思えてくる。 ﹁バウッ!﹂ どうやら足りなかったらしい。なかなか通じ合ってきたなー、あー、 やだやだ。 もう一度食堂に行くのも面倒なので、俺の食べかけのパンを分けて やった。 なんだか嫌そうな顔をしている。 分けてやったのに、どうやら食いかけは嫌らしい。 ﹁わがまま言うなよ。俺だってまだ食べたいのに分けたんだぞ﹂ ﹁バゥ﹂ わかってくれたらしくて、食いかけのパンを食べ始めた。 なんだよ、意外と素直じゃないか。 いかん!いかん! 今一瞬だが、気が緩んでしまった。 こいつは敵だ。忘れてはならん。 今日限りの縁です。明日から一切世話しませんよ。 ゴロウは食いかけのパンもあっという間に平らげた。 残ったカスもサラごとペロペロ舐めて、名残惜しんでいる。 ﹁くーん﹂ あ、こいつこんなかわいい声も出すんだ。 546 ﹁しょうがないなー。もう一回食堂にいくよ﹂ 軽めの肉料理ならまだあったはずだ。パンも貰ってこよう。 やっぱ大型犬でよく食べるんだね。 おばちゃんに事情を説明して、パンをいっぱい貰った。 やつなら食べきるだろう。 ﹁ほー、ホーワッツ、オーツ﹂ 自分でもよくわからない言葉が出た。 部屋に戻ると、ゴロウが特大のう〇こをしていたのだ。 なんてことだ。人生これまで他の生物の糞なんぞ処理したことない ぞ。 湯気ってるけど、出来立てほやほやなの!? いやー!どうすればいいの!誰か助けてください! けどここは俺の部屋で、使用人はもちろんいない。 自分で創意工夫をこらし、糞を無事厚紙で掬い上げた。 トイレへと流す。 終わったよ。俺の人生の修羅場ベスト5には入っただろう。 一息つき、皿にパンを乗せてゴロウの元へと持って行った。 いくらでも食べてもいいぞ。 あ⋮⋮食べない。 547 出すものだしたら、逆に食べないんだね。 なるほどなるほど、大量のパンは食欲激減した俺が処理した。 覚えてろよ、ゴロウめ。 一日はあっという間にすぎて、放課後になった。 部屋から畑へとゴロウを連れていく。 ガチガチに震えたトトはやはり犬嫌いらしかった。 近くに犬小屋を作るから、慣れてもらうほかない。 ﹁やだやだ、絶対人間食べれるサイズだよ﹂ わからんでもない。 でも大人しい犬種だから。 遅れてアイリスもやってきた。 俺の作った首輪とジャガイモに大変感動したようだ。 ﹁なにこれー!かっこいいなー!お似合いだよアルフレード﹂ アルフレード?ああ、ゴロウのことか。 やっぱり予定と違うな。 本来の予定だと、ここでアイリス爆笑のはずだったが。 完全にかっこいいジャガイモになってしまった。 ちなみに、俺もジャガイモのアクセサリーを身に着けてきた。 あれからつける場所が決まらなくて、結局ネックレス仕様にした。 548 服の中に隠れているけど、そのうちバレちゃうかなー。 ゴロウのように褒めてもらえるといいけど。褒めてもらえるよね、 きっと。 ﹁え?クルリの服の中のネックレスってジャガイモ?﹂ おっと、アイリスとゴロウが楽しそうにしている間に、先にトトが 気が付いたようだ。 ﹁ふん、そうだよ﹂ ﹁なんでジャガイモ?ダサくない?﹂ ⋮⋮聞かなかったことにしようか。 ﹁ビニールハウスの隣に犬小屋作るから!﹂ ﹁なんで!?怖いからもっと離してよ!﹂ ﹁ビニールハウスの出入り口付近に作るから!﹂ ﹁なんで!?僕なんかした!?﹂ さて、木材を調達してこないとな。 先生に聞いて回ったらすぐ手に入るだろう。 ﹁おーい、お前の家を調達しに行くぞ﹂ ゴロウに声をかけて一緒に行こうとしたが、あまり乗り気じゃなさ そうな感じだ。 ちょっとは仲良くなれたと思ったが、そもそも動くのはあまり好き じゃないらしい。 しょうがない、一人で行くか。 ﹁じゃあアルフレードは私と一緒に食堂に行こうか。今後のご飯の 549 準備をしてもらわないとね﹂ アイリスが声をかけると、尻尾を振りながら付いていった。 ⋮⋮、ああいうやつなんだよね。 わかってたじゃない。 俺知ってたじゃない、気を許した自分をいつまでも悔いてしまう。 そんな気分だ。 550 4章 1話 ︵前書き︶ お盆だったのでしばらく怠けた。 4章入ります。 一年後期が始まります。 4章は王子といろいろやりたいと思います。 551 4章 1話 今日は午後から授業なので、いつもの鍛冶作業で一日のスタートを きろうとしていた矢先、部屋の窓が外側から勢いよく開けられると 同時に、男が飛び込んできた。 ﹁王子!?﹂ 綺麗なフォームで一回転して着地の衝撃を和らげる辺り、相当な運 動神経の良さが窺い知れる。どうでもいいが。 俺の部屋は常に外敵に侵入される運命にあることを理解した瞬間で もある。 ﹁あんたどこから入ってんですか﹂ ﹁ん?いや、まぁ⋮⋮いろいろあって﹂ ﹁いろいろってなんですか。王子だからってなんでもしていい訳じ ゃないですよ﹂ ﹁すまんな。ん?お前は相変わらず鍛冶作業か。全く貴族らしくな い﹂ ﹁好きでやっているので放っておいてください﹂ ﹁一旦それはやめて、俺に協力しないか?﹂ 王子がしゃがみ込んで、座っている俺に視線を合わせてきた。 意外と真面目な雰囲気だ。実はただ事じゃなかったりして。 ﹁な、なんでしょう﹂ ﹁実は今、アイリスの後を付けている﹂ はい、アウト!ストーカー見つけました。午前9時31分、王子を 逮捕いたします。 552 ﹁おい、何をしている!﹂ 手首を掴むと振り払われてしまった。 ﹁いえ、ちょっとした冗談ですよ﹂ ﹁なんのことだ。クルリ、お前暇ならちょっと手伝え﹂ 暇じゃないけどな。 王子の調子が戻ってきたと思いきや、もともとの唯我独尊的な一面 が出てきたな。 面倒くさい。 けど、彼に協力すると俺の将来にプラスな影響があるはずだ。 保険はいっぱいある方がよろしい。 ﹁はっ、不貞クルリが王子の公務護衛の任務に就かせてもらいます﹂ ﹁なんだお前、そんな堅いやつだったか?﹂ ほっほほ、これで合法的にストーキングの権利を得られた。 もしもの時は王子のせいにしてやればいい。 アイリスの後を付けるか。目的は何にしろ、少し気になるところで はある。 彼女は普段何をしているのだろうか。 ﹁アイリスはさっきこの部屋の近くを通った。見つかりそうだった からこの部屋に飛び込んだ次第だ﹂ ﹁いや迷惑なんでやめてください﹂ ﹁次からはやめておこう﹂ ﹁いや普通初回もないですから﹂ ぐちぐちいいながら、王子とのストーキング作戦が始まった。 553 早々にアイリスを見つけ、ゆったり歩く彼女の後ろ姿を眺めやる。 周りにも不審がられないように、できるだけ自然体で。 ﹁アイリスが気になるからって、こんな陰湿なことを﹂ ﹁バッ!お前、誰がそんな!別にアイリスのことを気になっている とかじゃないからな!﹂ テンパってて、子供みたいな言い回しだ。 ﹁じゃあなんで付け回しているんですか?﹂ ﹁付け回すとかいうな。護衛と言え、護衛だ﹂ ﹁護衛?それは私の仕事でしょうに﹂ 王子の護衛、一貴族として立派な職務だ。それをしているのは俺の はずだが。 ﹁最近な、どうもアイリスの様子が暗い。そうは思わないか?﹂ ﹁いいえ﹂ ﹁ふん、鈍い男だ。だから女にモテない﹂ なんだこいつ、最近アイリスと仲いいからって調子に乗りやがって。 夏のヘラン領でのこと覚えてんだぞ! ﹁アイリスは間違いなく最近落ち込んでいる。我が友が悲しんでい るというなら助けてやるのが筋だろう。だからこうして後を付けま わし⋮⋮、護衛してながら原因を探ろうと言うのだ﹂ ﹁今付け回すって言いかけましたよね?やっぱりそうですよね。私 たち付け回していますよね?﹂ ﹁⋮⋮アイリスに何か起きているならこの俺がそれを取り除いてい てやるまでだ﹂ ﹁いや付け回すって言いましたよね?﹂ 554 無言の怒りを感じながら、合法ストーキングは続いた。 アイリスは本日、朝の授業だけを履修している。 真面目に授業を受けている様子を窓の外から眺めた。 授業に原因はなさそうだ。 ﹁至って精力的、授業は真面目に聞いていますね﹂ ﹁原因はこれではないか﹂ アイリスは授業が終わると、その足で図書館へと向かった。 どうやら授業の復習をすぐさまやるらしい。 流石だ。流石は秀才、尊敬します。 俺たちは本棚から相変わらず覗いています。 ﹁至って勢力的、復習も順調ですね。私も少しばかり勉強したくな りました﹂ ﹁今日はダメだ。原因はこれでもないか⋮⋮、いや待て誰か近づい てくるぞ﹂ 王子の指摘通り、謎の美女三人組がアイリスに近づいていく。 皆身ぎれいで、ブロンズの長髪を持っている。 いかにも育ちがよさそうで、歩きかたや小さな仕草に品がある。 流行りだろうか、全員クマさんのブローチをつけている。 肌もつやつやで、間違いなく美人の類に入る。尻も骨盤が大きく、 それでふっくら見える。 きっといい子供を産むに違いない。いや、どうでもいいいが。 王子は怪訝そうな顔をしている。 俺は真っ青な顔をしていた。 555 彼女たちの顔がにやにやしているからだ。友好的ではない、あれは 悪意に満ちた顔だ。 まずい、まずいぞ! 消される!あの小さな悪意をもった3人の美女が王子に消される! 彼女ら間違いなくアイリスに嫌がらせする気だ。 前々から小耳にはさんではいたが、アイリスは学園で嫌がらせを受 けている。 エリザが本来の仕事を忘れているので、それほど苛烈ではないが、 間違いなくいじめまがいのものはあるのだ。 それをいま彼女らがやろうとしている。 今は王子の監査中だぞ!命を粗末にするな! 彼女らが消さるのは自業自得なのだが、実際アイリスはそんな小さ なことに心を痛める少女ではないのだ。 なんなら俺より心は強いと思う。 ﹁あーらごめんなさい﹂ 三人組の先頭を歩いていた女性がわざとらしくアイリスの椅子にぶ つかった。 アイリスのペンが滑り、本に横線が入る。 ﹁ワザとじゃないのよ。許して下さる?﹂ ﹁ええ、ワザとじゃないなら仕方ないですよね﹂ にっこりと答えるアイリス。そんな態度を見せられ彼女らは満足し なかったのか、不機嫌そうにその場を立ち去った。 嵐は去った。 556 しかし、傷跡はでかい。 アイリスにじゃない、アイリスは本当に何事もなかったように勉強 を再開した。 俺は知っているのだ、アイリスはこんな程度で負けるような女じゃ ないことを。 むしろこれを反骨精神にして頑張っている節だってある。 だから俺も今まで放置して来たんだ。 幸いエリザに火が付きそうな様子もないことだし、病原菌は小さい。 俺は納得している。アイリスは全く気にしていない。 王子は⋮⋮、あっ、火が着いてますね。 去りゆく先ほどの三人組の後を、王子が大股で追いかける。 フリーズ! 急いで王子の体を羽交い締めする。 ﹁放せ!原因が分かった、今すぐ取り除いてやろうではないか!﹂ ﹁早計ですよ。あれは今どきの少女流挨拶です﹂ ﹁そんなものあるか!いいから放せ!﹂ 物凄い勢いだし、これ以上は俺に飛び火してきそうなので放した。 ﹁わかりました。好きなだけやりたいようにやってください。あー あ、アイリスが悲しむなー﹂ ﹁⋮⋮、貴様なんだその歯切れの悪い言い方は﹂ ﹁いえ、何でもありませんよ。どうぞ彼女らを焼くなり煮るなりし てください﹂ ﹁わかった。何もしないからなんでアイリスが悲しむか教えろ﹂ アザラシみたいな顔をしてやった。 なんだかその顔が一番勝ち誇った気分になれたのだ。 557 ﹁アイリスはあの程度何も気にしていませんよ。むしろあれくらい あったほうが彼女は頑張れるんです。自分は平民だから差別されて 当然、だから人一倍頑張って認めてもらわなくちゃ、それが彼女の 根元にある精神です﹂ ﹁本当か?﹂ ﹁本当です。人一倍頑張ってアーク王子たちに認めてもらわなくち ゃ、それが彼女の気持ちです﹂ ﹁⋮⋮、よし分かった。あいつらは執行猶予つきで釈放だ﹂ 嬉しそうにしやがって。単純っていいな。 ﹁はい、積もったら逮捕しましょう。その時は私にご一報を﹂ 惨殺は可哀そう。罰もほどほどにね。 アイリスの自習を見届けて、尾行は続いた。 張り込みで一番大変なことは何か。 体力を要することだ。 アイリスが学園の庭園の中で食事を摂っている間、俺が使いっぱし りになって食事を調達した。 俺の分はカツサンド。 たっぷりソースをかけてもらい、サンドしてもらった。 王子の分は、野菜サンド。生野菜を挟んでやった。 ﹁おい、俺もそっちがいい﹂ ﹁我がまま言わないでください﹂ ここは押し通した。嫌がらせを権力でねじ伏せられてはたまらない。 アイリスは幸せそうに昼食を終えた。 今のところ何も問題はなさそうに見えるが。 それでも王子は何かあると言う。 558 うーん、俺にはわからないけど、24時間アイリスのことを考えて いる王子にはわかるのかな? まぁそろそろ大事な話をしなければならない時間だ。 ﹁王子。人はなぜ他人に報いると思います?﹂ ﹁それは様々なことが考えられるな。純粋にその個人のことが好き とか、その個人に恩があるとか。はたまた報酬をもらっているとか﹂ ﹁それ!私の今日の働きに何をくださるのでしょうか﹂ ﹁それはアイリスの問題が取り除かれたら、何をやるか考えよう﹂ ぐぬぬぬ、こやつめ!うまくかわしおったわ。 以前高価な品を頂いたことがある。 あれは良かったな。家が倒れてもあの宝は残るように、商人に預け てある。長期の出資と言う形をとっているのだ。 もっと資産を増やしておきたい。今回もいいものを期待したいのだ けれど。 それには、やはりアイリスの悩みを取り除かないといけないな。 ﹁あっアイリスが動きますよ﹂ ﹁よし、俺たちも動くぞ﹂ こうして怪しい二人のストーキングは続く。 559 4章 2話 ﹁花を見ていますね﹂ ﹁花を見ているな﹂ 花を見る可憐な少女を隅から眺めるストーカー二人。 いや、あくまでストーカーは王子一人。俺は王子の護衛だ。 ﹁あっ、今ため息をついたぞ﹂ ﹁そのようですね﹂ ﹁やはり先ほどの女たちの嫌がらせが効いてきたか﹂ ﹁いや、たぶんお腹が空いてきたんでしょう﹂ アイリスを見ていた王子の視線がこちらに移ってきた。 ﹁まじめにやれ﹂ とのお告げを頂いた。 何を真面目にやればいいのかわからない次第です。 ﹁それにしてもアイリスには花が似合うな﹂ ﹁王子にも似合いますよ﹂ ﹁そ、そうか?﹂ なに頬染めてんだよ。 適当に言ったんだよ。 イケメンのくせにあまり褒められ慣れてないらしい。 普段ツンケンしているから人が近づかないんだろうか。 これなら褒め倒して報酬倍増も狙えるかも。 でも懐かれても面倒くさいな。 ほどほどの距離がいい。いや、できれば近づきたくない。 560 ﹁お前今心の中で失礼なこと考えていただろ﹂ ﹁いえ、全く﹂ 存外顔に出る性格らしい。危うし! ﹁アイリスが動きそうですよ﹂ ﹁行くぞ、着いて来いクルリ﹂ アイリスの次なる目的地は、いつもの農園だった。 彼女お気に入りの大きい野菜たちがぐんぐん育っている最中だった。 到着するといつものように畑に大量の水をやっていく。 顔には先ほどのため息をついた様子は消え、にこやかな顔になって いた。 ﹁あれは何を育てている?﹂ ﹁見てわからないのですか?﹂ ﹁質問を質問で返すな。素直に答えろ﹂ ﹁野菜です﹂ ﹁野菜⋮⋮﹂ 王子が戸惑うのも仕方がない。 博識であるはずの王子が野菜の葉を見てもいまいちピンと来ていな い。 ﹁大きすぎないか?﹂ ﹁王子が小さくなったやもしれませぬぞ﹂ ﹁マジメに言え﹂ ﹁アイリスのために品種改良しています﹂ なるほど、と頷く王子。彼もまたあの大きな野菜に興味を持ったら しい。 561 流石は一国の王子。豊かな国づくりに励んでくださいませ。そして、 我が領に還元を。 ﹁品種改良は誰が?﹂ ﹁トトという男です。あっちょうどビニールハウスから出てきます ね﹂ ビニールハウスから出てきた顔色の悪い男がアイリスと談笑しだす。 もちろんトトのことだ。今日も丁寧にアイリスにアドバイスしてい るらしい。 マジメでよろしい。 ﹁彼はアイリスに好意を持っているのか?﹂ ﹁自分で聞いてください﹂ トトにそんな気持ちがないことは知っているが、王子は俺に甘えす ぎだ。 それくらい自分で聞いてくれ。 ﹁ちょっと消してくる﹂ ﹁やめろ!﹂ 今日二回目の羽交い締めだ。 もう!すぐ消そうとする! ﹁ないない。タダの友達ですから!﹂ ﹁そ、そうか。それならいいんだが﹂ 暴君だよ。一歩間違えたらすんごい暴君になるよこの人! 王子を必死に止め、二人が楽しそうに会話しているのを見ていると、 急にトトの顔色が変わったのが分かった。 先日作った犬小屋の方から物音がして来たのだ。 562 ああ、ゴロウが目覚めたらしい。 犬小屋から飛び出たゴロウは勢いよくアイリスのもとに駆け寄った。 さんざん甘えたあと、標的をトトに変え、顔色の悪いトトを追いか けまわした。 単なる嫌がらせなのだと思う。 あの犬絶対楽しんでいる。 ﹁もう悪い子ね。アルフレード、そのくらいにしなさい﹂ アイリスの言葉があると、悪犬はすぐに落ち着きを見せた。 トトは死にそうな勢いである。 可哀そうに。 ﹁おい、あの犬はいつから飼っているんだ?﹂ ﹁つい数日前ですよ﹂ ﹁名前はアルフレードと呼んでいたか?﹂ ﹁いえ、ゴロウです﹂ ﹁えっ!?でもアイリスはアルフレードと﹂ ﹁ゴロウです﹂ ﹁⋮⋮ゴロウか﹂ ゴロウ派2人目誕生の瞬間だった。 若干強引ではあったが。 陰で王子を洗脳していると、話題のゴロウがこちらに視線を向けて きた。 茂みの中にいるのではっきりとは見えないはずだが、気が付いてい るようにも見える。 ﹁匂いでバレたか?﹂ 563 そうか、その能力があったか。 まずい、いよいよストーカーが明るみに出てしまうのか。 しかし、ゴロウはすぐに興味を失ったように他のことを始めた。 完全にこちらへの意識は消えた。 ﹁ふー、どうやら助かったみたいだな﹂ ﹁もうやめません?今大量に汗が出ましたよ﹂ ﹁まだ何もわかっていないんだ。止める訳にはいかんな﹂ アイリスが落ち込んでいることか。 うーん、楽しそうに見えるんだけどな。 畑を後にしたアイリスは、そのまま寮へは戻らなかった。 既に日も傾いてきている。 夕食時にも関わらず、彼女は一人学園の領地外へと出ていた。 次第に赤くなる夕日を眺めながら、一人黄昏ている。 王子はその姿を見て頬を染めている。 ﹁うん、悪くないな﹂ こいつ、この姿が見たかっただけじゃ⋮⋮。 アイリスは野原に座り込むと、ポケットから安物の紙を取り出した。 安い作りで、質感もいかにも薄く荒い。 アイリスはそれをじっと見つめる。 見つめているだけではない。どうやら何か書かれているようだ。大 事に大事に何度も読み返している。 なるほど、そういうことか。 564 ﹁恋文か!?どいつからだ!?﹂ ﹁違いますよ。おそらく家族からのです﹂ ﹁本当か?﹂ ﹁ええ、貴族はあんな安物の紙を使いません。恋文ならなおのこと﹂ アイリスは安物の紙を大事そうに折りたたんだ。 きっと半年以上会えていない家族を思っているのだろう。 どうやら王子の洞察は正しかったらしい。 アイリスは落ち込んでいたのだ。ホームシックと言うよりは、しば らく見ない彼女の家族を思って心配しているのだ。 ﹁原因がわかりましたね﹂ ﹁アイリスは家族に会いたいのか。でもたった3年だ。何をそんな に心配する﹂ ﹁うーん、我々とは状況が違いますし。そこは想像しづらい部分で すね﹂ まぁなんとなくはわかるけど。 王子への説明が面倒くさい。 ﹁では会わせてやればいい﹂ ﹁でも冬期休暇までまだありますよ。それにアイリスは帰りたがら ないと思います。それなら勉学か、いい仕事があればそちらを優先 すると思いますよ﹂ ﹁あるだろう?この後にいい機会が﹂ 王子は思いついたとばかりにニヤニヤとしている。なんだろう? ﹁あ、秋の体育祭ですか?﹂ ﹁そうだ、父兄が学園に訪れる少ない機会がもうすぐ来るぞ﹂ ﹁それでアイリスは呼べない家族のことを思っていたのかもしれま 565 せんね﹂ ﹁呼べないのは昨日までの話だ。さっそく俺が手配してやる﹂ 流石は能動的王子、やると思ったよ。 ﹁アイリスの家族は庶民ですよ。参加したがりますかね﹂ ﹁娘を久々に見れるんだ。きっと喜んで来るに違いない﹂ 王子はもうやる気満々らしい。 ﹁あまり派手にはしないで下さいよ。あと彼女の家の生活もありま すから、都合もちゃんと聞いてください﹂ ﹁その都合とやらは、金貨何枚あれば足りる?﹂ 金に物言わせる気だ!! でもそれが一番いいかも。 ﹁⋮⋮20枚くらいでいいんじゃないですか?内密にお願いします よ﹂ お金があればなんとかなるよね、という精神で王子の提案に乗って しまった。 まぁ家族に会いたい少女の願いを叶えるのは悪いことじゃないはず だ。 きっとやりすぎなければ、いい方向に進むはず!と信じて、悪魔の 誘いに乗ってしまった。 こうして、アイリスの家族召喚の儀式が行われた。 566 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n7940cn/ 没落予定なので、鍛治職人を目指す 2016年8月27日22時48分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 567
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