本阿弥光悦の茶碗

本阿弥光悦 = 日本史上最高の多才な芸術家
(1558-1637.2.27)
Super Multi Highest ARTIST & ART DIRECTOR in JAPAN
本
阿
弥
光
悦
肖
像
画
本阿弥光悦 (以下単に 『光悦』 と記す) は、京都の非常に裕福な家
庭に生まれて、家業の刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)を本業として
いましたが、『寛永の三筆』の一人に位置づけられる名筆家として、
またさらに、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも特別の才能を発揮し、
マルチアーティスト・マルチアートディレクターとして国宝2点、重文多
数など超偉大な業績を残している空前絶後の芸術家・趣味人でした。
このように光悦の業績は、非常に多岐にわたり、その全てに触れる
ことは困難であり、筆者が研究している光悦の茶碗を中心に、その研
究成果などについて、自分の得意な写真を多用して、以下に『ビジュ
アル光悦』的に、紹介します。筆者は職業柄、光悦の各分野に関する
専門書や資料を多数所有して読破していますが、やはり得意とする
茶碗を中心に、ここでは述べることにします。
→
記念碑
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碑
光悦が58歳の時(1615年)に、徳川家康から京都の北西部にある鷹
峯の広大な土地を与えられて、本阿弥一族が工匠とともに移り住み、
一大芸術村を開きました。現在は光悦寺となっている所です。光悦は
亡くなるまでそこで活躍し、茶碗作りは、この時代に行いました。
しかし、光悦が鷹峯へ移ったのは特別の理由があります。すなわち、
古田織部が豊臣家と内通していたという嫌疑をかけられ、家康から切
腹を命ぜられて自害しました。光悦は古田織部と非常に親交が深かっ
たので関係者とみなされて、京都の町の果てに追いやられたのです。
当時の鷹峯は辺鄙で追いはぎが出る怖い地でしたので、そこを家康
が選定したのでしょう。光悦は決して生涯バラ色の人生ではなかった
ようです。そのために光悦は鷹峯で大いに発奮して、芸術のレベルが
より一層上がった可能性があります。
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不二山
雨雲 ・ 時雨 ・ 雪峰 ・ 加賀 ・ 乙御前
【注】
光悦を研究して知れば知るほど、その偉大さに驚嘆する。とにかく、こんなに
凄い芸術家は空前絶後であるのは間違いない。神が与えた天賦の才能であろう。
不二山 ・ 加賀光悦 ・ 毘沙門堂 ・ 雪片 ・ 雪峯
障子 ・ 鉄壁 ・ 紙屋 ・ 七里 ・ 雨雲 ・ ヘゲメ
白狐 ・ 黒光悦 ・ 時雨 ・ 遠山 ・ 乙御前 ・ 弥生
膳所光悦
以上 全18点
(光悦自身の作である確度が高い茶碗)
不二山 ・ 雪峰 ・ 雪片 ・ 毘沙門堂 ・ 障子
不二山 ・ 雪峰 ・ 鉄壁 ・ 七里 ・ 障子 ・ 毘沙門堂 ・ 雪片
雨雲 ・ 時雨 ・ 鉄壁 ・ 加賀光悦 ・ 喰違 ・ 紙屋 ・ 有明
不二山 ・ 加賀光悦 ・ 黒光悦 ・ 喰違 ・ 鉄壁 ・ 有明 ・ 障子
雪片 ・ ヘゲメ ・ 毘沙門堂 【注】鉄壁とヘゲメは関東大震災で焼失
関東大震災で焼失した光悦作の幻の茶碗
大正12年9月1日に発生した関東大震災で、美術品数百万点が消失し、現在の貨幣価値で数千億円が灰になった。
鉄壁 (黒茶碗)
ヘゲメ (赤筒茶碗)
有名な美術品では古来から常に真贋が問題になります。偽物が多く出回るほ
ど、その本物の作品の価値は高いとされ、人気の判断基準の一つとなります。
光悦の茶碗については、超有名な芸術家で約400年も前の作品ということもあ
り、その真贋が議論されることが多く、判定が最も難しい例とされています。
現時点で、光悦作の可能性のある茶碗は、数十点知られておりますが、厳密
に言えば百パーセント間違いなく光悦作だと断言できるものはないそうです。そ
の判定には、伝承と作風が最も重要になります。箱書きや添え書きも重要です
が、これらと茶碗との関連の証明はできません。つまり中身の茶碗は、いくらで
も入れ替えられますので、光悦に限らず箱と中身が同一とは断言できません。
光悦作とされる茶碗の中で『不二山』は、最も本物らしいとされています。それ
は別に光悦の書いた解説があり、娘の嫁入りに持たせたとのことで、娘の振袖
の断片に包まれていて、茶碗の歴史上最初と言われている作者本人の箱書き
があって、印も押してありますが、この印に疑義を唱える人もいます。とにかく
何が添付されていようが、茶碗が光悦作とは断言できません。 【次ページへ続く】
この他の光悦作とされている多数の有名な茶碗も、絶対に光悦作に間違いな
いかと言われたら、専門家でも返答に困るらしく、全ての茶碗を『伝光悦作』とす
るのが妥当なようです。各地の美術館で光悦作とされる茶碗を所蔵していても、
本当にそうなのかの自信がないので公開していない例がいくつかあるそうです。
ネットオークションに出ているような『光悦作の茶碗』は贋作と思って間違いあ
りません。本物であれば、千円スタートで数万円や数十万円で落札できるわけ
がありません。『ひょっとしたら本物かも?』なんて考えること自体がナンセンス
です。もしもそんな値段で本物が買えるのならば、ぜひお知らせください。ちな
みに、売りに出されることはないでしょうが、『不二山』なら十億円はするでしょう
し、『雪峰』クラスで1億円、その他でも1千万円のオーダーになることでしょう。
いくら安いものでも数百万円は確実です。こんなのがネットオークションに出る
わけがありません。最初から偽物と自覚して楽しむのはよいでしょうが、 『もし
かしたら本物かも!』なんてことは絶対に思ってはいけません。
総数がわずか数十点以内しかないのはなぜか?
国宝(1)や重文(5)が全作品中の1割以上もあるのはなぜか?
キズやヒビだらけで完品がほとんどないのはなぜか?
高台が極端に低いか陥没しているものが多く、高台周辺の
仕上げが雑・未完成のように見えるのはなぜか?
重文の名品『雪峰』の金継ぎが稚拙・粗雑なのはなぜか?
と に対する
光悦は60歳くらいから楽家(2代常慶)の援助も受けて本格的に茶
碗の製作を始めたようであり、79歳で亡くなるまで20年近くもあり、
その間の茶碗の製作総数が数十点とは、どう考えても少なすぎる。
半泥子は50歳代から茶碗の製作を始めているが、総数が数万点も
あり、その差が桁違いである。それにしても光悦茶碗が数十点しか
ないのは、実際はもっと多数製作したが、光悦が特別に気に入った
もののみ残して、あとは全て破棄したためではないかと思われる。
従って、特別に良い作品のみが残っているので、国宝や重文にな
る確率が高いのではないか。もちろん光悦の芸術的才能が非凡で
あることは大きいが。現在残存する30~40点が本物らしいとのこと。
に対する
光悦の茶碗は、何かと変わっており、芸術性が高すぎて陶芸を
習っている素人にはお手本にならず、入門者の教育上は良くない。
つまり完品がほとんどなく、ヒビやワレ、高台の陥没などのあるもの
が大部分である。その理由は、素人には理解できない一般性をはる
かに超えた特別の芸術的領域に生息していたのであろう。つまり、
凡人とは別世界の人です。『へうげもの』で有名な古田織部と親交が
深かったので、特異性には織部の影響もあるのかと思われます。
近代の有名な陶芸家の加藤唐九郎は、『光悦の無キズの茶碗は、
本物じゃない。キズのないものは、捨てている。茶の湯の名器に無
キズのものはない。光悦は、わざと山キズ(窯キズ)のできる土を使
い、作りかけのような高台にしている。』と書いている。納得です。
光悦作 黒楽茶碗 『村雲』の高台の様子
高台が陥没している! ← この理由は不明
お茶を点てる時に、指が茶碗と畳の間にすんなり入らずにやりにくそう。
もっとも、普通の人が光悦の茶碗でお茶を点てて飲むことは、まずないので心配無用かも。
実用品ではなく特別の美術品なので何ら問題なしか。
光悦作 白楽茶碗 国宝『不二山』の高台付近の様子
高台周辺の整形が未完成で粗雑な雰囲気がある!
高台周辺の整形具合のみのことであるが、素人がこのような茶碗を作れば、
確実に『下手くそ!』となるが、光悦なら別格で許され、むしろこれを称賛する専門家もいる。
凡人の茶碗作り人の私にはとても理解できない高度な芸術的作為か。
高台の形で光悦茶碗と対極にある天目茶碗の高台
社寺で献茶したり貴人に呈茶するための茶碗であり、
光悦茶碗と比較すると形が整い過ぎている。
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光悦作 赤楽茶碗 重要文化財『雪峰』の金継ぎ部分の様子
特に赤枠部分のやり方があまりにも稚拙なのはなぜか?
(これは光悦自身がしたとの説あり。他人であれば光悦茶碗にこんなことはしないであろう。)
【『雪峰』の金継ぎについての続き】
筆者は有名な漆芸家について金継ぎも指導を受けておりました。そ
して金継ぎ用品も手元にあり、時々金継ぎをしておりますが、普通の
金継ぎであれば、前ページの写真のようなやり方は確実にダメです。
しかし、光悦のことだから、これは失敗作ではなくて何か特別の考え
があって敢えてやったのではないかと思います。すなわち、この茶碗
は雪が峰に積もっている情景を表したものであり、峰からの雪解け水
が岩でデコボコの山の渓谷を荒々しく流れて行く様子を示すために、
大きなヒビ(溝)を金継ぎで完全にきれいに埋めてしまうのではなく、敢
えて一見雑なような荒い不完全な金継ぎをして、谷の荒々しさを表わ
そうとしたものではないでしょうか。
は
の理想とする芸術家であり、
は『昭和
の光悦』とも呼ばれていますが、両者の共通点と相違点の要約は次
のようです。
非常に裕福な家庭に生まれた。別に立派な本業があり、高年に
なってから趣味的に茶碗を作っていた。大胆な形の茶碗が多い。
一般に経済的余裕がないと、本当に良い芸術作品は生まれない。
光悦はわずか数十点の茶碗しか残さなかったが、半泥子は作っ
た全ての数万点もの非常に多くの茶碗を残した。この差はとても大
きい。光悦茶碗には国宝1点と重文5点があるが、こんなに凄いの
は光悦のみであり、1人の陶芸家の茶碗で、こんなのは皆無。
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