活動の中での思い出

活 動 の 中 で の 思 い 出
≪思 い 出≫
愛知県・元UIゼンセン同盟 静岡県支部長
照 井 光 文
その1 繊維産業の変遷
戦前・戦後、東北地方は養蚕が盛んで、どこの家でもカイコを飼っておりました。その集約・
販売先は主に「東の片倉、西の郡是(グンゼ)
」と言われるほど、当時、生糸産業は隆盛を極
めていたそうな。小生が高校時代の昭和30年代この言葉は残っておりました。
大方の家でも、小生の生家も居間や客間までゴザを敷き、オカイコ様一面でありました。 よ
くできた繭は売って金に換え、残りや一部を「真綿」として使い、布団や座布団等の裏側に当
てて綿が動かないようにするために使っておりました。
一方、
「地木綿」と言われる会社も東北地方に多数あって、小生の生まれた秋田県にも繊維
試験場があったという。その機械器具が母校・横手工業高校の「紡織色染科」の源であるとい
われる。東北では山形県米沢工業高校をはじめ、各県に繊維科のある高校が存在しておりまし
た。これら若者たちを育てた東北地方は、関東・東海・北陸・関西への人材供給地でありまし
た。参考まで「テイジン」
(帝人)の発祥地は山形県米沢市であり、昔、帝国人造絹糸株式会
社としての設立だったという。今はその流れが山形大学米沢キャンパスになっております。
昭和30年代「衣食住」のことばが盛んに使われましたが、自分の将来は「人間社会、裸で
は生活ができない。いつの世でも」と考えての工業高校紡織科進学でした。然し、繊維の時代
は大きく変化、変遷をとげて、昭和40年後半から企業は倒産・廃業・閉鎖・転業・合理化が
嵐のごとく吹き荒れました。
わが出身校も繊維・木材科がなくなり、今では中高一貫教育校に変身して多くの優秀な卒業
生を送り出しております。
高校入学当時の、昭和30年代は「就職列車」
(就職する中学卒業生を乗せる特別仕立ての
列車=東京上野駅前にモニュメントがあります。
『ああ上野駅』
)が走りました。当時いかに東
北地方から若者が、東京を中心に就職したか想像がつくでしょう。
これら若者は、日本経済の復興・発展に寄与し、自分の家庭を持つと同時に子供らの進学の
ために辛酸を味わいながらも、夢であり小さな幸せでありました。
昭和30年代当時、我が国の繊維産業は隆盛を極めておりました。
紡績会社では、十大紡績・中京5社・愛三岐8社・新新紡など、化繊7社、羊毛、麻、関係の
会社など全国いたる所に大中小の繊維会社がありました。
私の就職した愛知県は、とくに繊維会社が多く尾西・尾州・尾北・知多・三河・三州と概ね
分かれて、繊維の産地を作り機械の音と共に若い男女労働者が町にあふれておりました。今は
それらの面影はほとんど無くなりました。
昭和35・36年ごろ給料が月額500円の差がある理由から、夜中に隣の会社へ移ること
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が散見しました。当時、新興宗教が跋扈して、大きな声で読経するため寮生活でよくトラブル
が発生しました。
集団での寮生活はどうあるべきか?風紀対策など課題は沢山ありました。
一方、左翼運動も盛んで組合結成時の紛争があちらこちらで起きました。
これら、労使双方が乗り越えなければならないテーマを、全繊同盟は労使に提起しながら、経
営側との話し合いをした結果「集団組織化」に結びついたと思います。
当時、学卒者の初任給をはじめ賃金改定等は、大手部会では、部会単位で、中小組合は業種
別の「集団団体交渉」で決定していました。全繊同盟が先行して他産業が追随することもあり
ました。
昭和36年、全繊同盟の滝田 実会長が公式にアメリカのケネディ大統領と会談したことは、
当時いかに繊維産業の力が強かったかが分かります。
同年秋、私ども蒲郡市の織物会社にアメリカ繊維合同労組役員が視察に来て、蒲郡ホテル(現
プリンスホテル)で懇談しております。
(照井は、カメラマンで同席)後に、日米繊維交渉が
あり、
「糸と縄を交換した」と言われた。日本は繊維の輸出を制限する代わり、アメリカは沖
縄を返還するという一大国策がありました。
(当時の通商産業大臣は、田中角栄氏)
≪思 い 出≫
その2
全繊同盟第17回大会
入社して間もなくの、昭和35年4月8日、午前10時愛知県蒲郡市を含む三河織物協同組
合傘下の7社に一斉に全繊同盟加盟の7組合が誕生。
この集団組織化方式は、当時、旭化成出身の全繊同盟中央オルグ・山田精吾氏(副会長、初
代連合事務局長)の力量と努力がありました。遠州浜松での佐藤文男氏(後に副書記長)と共
に全繊同盟の拡大運動に大きく貢献したことを忘れてはならない。
さて、組合結成時から小生は若い者の代表として何もわからぬまま役員となりましたが、得
意のソロバンで7社7組合の賃金調査をしました。学歴別・男女別・年齢別・勤続年数別と調
べて、7社の違いをグラフで表し各会社にも提供して団体交渉のベースにしたことを懐かしく
思います。
昭和37年8月(7日~10日)石川県山中中学校体育館で全繊大会が行われました。当時
旅館に分宿できても大勢の集まる会場がないため、学校の夏休みの期間、中学校を会場にした
ものと思う。
真夏であるため、講堂は暑さと議論で熱気がムンムン。会場のあちらこちらでタライに入れ
た氷柱が大きな音と共に解け落ちる様に会場がわきました。
討議内容については記憶が定かでありませんが、代議員の多くは、団扇(うちわ)を持っての
会場入りでした。
全繊幹部は、センスはあってもセンス(団扇)を持っている人は何人もいませんでした。ほ
とんどの人はウチワでした。
(会議は、内輪です?)
当時は、大会の時期も違い、会場も・宿泊先も恵まれておりませんし、最近と比較し、偲ぶ
と先人の大変な苦労がよみがえってきます。
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この全繊大会は、三河労連会長・山本和市氏(38年市議当選・のち12期)と初の県外出
張であり記憶が特に強い。この大会で、37年7月の参議院議員選挙で当選した高山恒雄氏(綿
紡部会・日紡出身。
「青少年に働きやすい職場運動」に尽力されました。昭和42年小生の結
婚式の媒酌人でもあった。岐阜市加納鉄砲町在住)は、副会長を辞任して瓜生清氏(大阪府・
地繊部会・帯谷織布)と交代しました。
後日の参議院議員選挙では、
「うりう 清」上から読んでも下からも「うりう」と街宣活動
を行いました。
≪思 い 出≫
その3
核禁会議の平和運動について
政治的偏向に対峙して、すべての人が自由に発言でき、自由な意志による平和運動を進めよ
うと「核兵器禁止・平和建設国民会議」
(略称・核禁会議)が結成されたのは、昭和36年1
1月でした。多くの学者・文化人や民主的労働運動を推進する「同盟」や婦人・宗教関係者、
政党では民社党・自民党系の方々など各層からの支援でした。設立の趣旨は、①核兵器禁止の
実現 ②世界平和を希求 ③被爆者に愛の手を、のスローガンで現在に至る。
当時、他の団体で被爆者救援活動と称して集めたカンパ金が被爆者に一円も渡っていなかっ
たという。
(昭和36年核禁会議設立時の広島県被爆者代表発言)
私がかかわり始めたのは、昭和39年に広島市に「平和の灯」建設の運動以来です。毎年8
月になると、組織内カンパ活動と街頭カンパ活動を行うと共に、市長や議長・各議員から賛助
金を頂き愛知核禁会議を通じて、全額本部へ贈りました。
毎年、世界から多くの人々が、広島に集まりますが、両手を広げたようなシンボル『平和の
灯』は、核禁会議のカンパ金で建設されております。
長崎市の『平和の泉』と平和公園の周りの森は全国から「各県の木」を集めて作られた「平
和の森」があります。
愛知核禁活動で、小生は何回となく広島・長崎集会に出向き建設に至る記述・記名を探しま
したが、見つけることが出来ませんでした。
後日、驚いた事実は、これほどの事業を行いながら作成者や事業主の名前が何処にもありま
せん。誰が寄付したかは関係なく、ただひたすら平和を願う核禁会議議長の松下正寿さん(立
教大学総長・キリスト教)の固い意志であったという。
設立者の団体やカンパした人たちの名前がなくとも、毎年8月になると暑い夏のカンパ活動
と平和活動の熱い想いが浮かばれます。どうか誰もがこの精神を忘れないで下さい。
これらと同時に、核禁活動の一環として私たちは、国内外の被爆者に支援をしてきました。
特に韓国慶尚南道・陜川原爆診療所(館長・白南珍)の建設とカンパ金活動は、全国台はもち
ろんのこと核禁東海ブロックの活動として続けました。
(2008年現在:被爆登録者2,226名、診療所入所者数78名、職員18名)
縁があって、平成7年と12年の2回東海ブロック韓国被爆者慰問団団長として診療所入所
者のお見舞いで訪韓できたことは、小生の平和活動の集大成であり今も誇りに思う。
(平成24年8月 記)
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