6 C1608『我が家は祈りの家』 [今月の聖書] 主はこう言われる、「あなたがたは公平を守って正義を行え。わが救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが 近いからだ。安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅 く守る人の子はさいわいである」。主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から 分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。主はこう言われる、「わが安息 日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも 娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。また主に連なり、主に仕え、 主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――わた しはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受け いれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。イスラエルの追いやられた者を集めら れる/主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。 (イザヤ書 56:1-8) それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、 はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきで ある』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 (マタイ 21:12,13) 「戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。」(箴言 21:31) 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」 (マタイ 6:33) お元気でお過ごしでしょうか?今月はイエス・キリストが宮浄めで用いられた「我が家は祈りの家と唱えられる」 (マタイ 21:13、マルコ 11:17、ルカ 19:46)をテーマとしました。信仰生活は教会の礼拝においても、日々の生活 においても、形式的になり、打算的になるものですね。エルサレムの神殿でも、それを商売の具にしようとする人々 が支配していました。イエス様は「ここは神の臨在するところで、人間の利害で運営するところではない」と言っ て鞭を振るわれました。人生において最も大切な事は神様と自分との間になにものも挟まないこと。神第一の生き 方ですね。人生それ自体が礼拝なのです。イザヤ書は第三の部分(56-66 章)に入ります。バビロンから解放されるイ スラエル人に礼拝を重んじ、主を愛し、主に仕えることこそ、国家再建と祝福の道であるとイザヤは語ります。 あなたの歩みにもこの祝福の原理が生きています。あなたの祈りが天に届きますようにお祈りしています。 (お知らせ) *地区集会のご案内 8月17日(水)11:00 CFI 賛美の集い(田園調布チャペル)、14:00 ジョイコーラス *8月11日(木)16:00 東日本大震災復興超教派一致祈祷会(淀橋教会) *11月12日(土)福島再生メサイアコンサートのご案内を致します。遠路ですが可能であれば是非ご参加下 さり、被災地の人々を励ましてください。また福島の実行委員会には財源が不足していますが、協賛募金にご 協力くだされば幸いです。またチケットをお知り合いの方々にお贈りください。この集いが「真の祈りの時」 となりますようにお祈りください。 ◇◆◇ CFI会員投稿原稿 第 50 回 ◇◆◇ 「拾われしこの命」 内藤 吉之(兵庫県) ハレルヤ!毎月の CFI メッセージを心待ちにしています。今回私はどうして も、私の救われた体験を証しさせて戴きたくこの手紙を記しました。私は信仰 が弱った時によく救われた時の記憶に戻ります。そこからまた恵みの内に立た せていただいております。 「死をも覚悟し、主の道に歩まん」と書きますと誠にたいそうなことですが、 今本当に、この身を捧げ歩みたいと願っています。主に出会うまで、自分の命 は自分のものと思っていました。自分勝手に生きながら、実は(魂は)死んでい たのです。それに気づかず、悟らず、自分は生きていると錯覚していたのです。 自分の身が泥沼の中で、うごめき、あえぎ、期待し得ないものにはかない希望 を抱き、毎日が手探りの日々でした。そんな不確実な人生でも、これが自分に 与えられた人生だと、半ば諦めていました。だから、一時でも自分を忘れ、楽しめれば人生最高と豪語し て、喧嘩と酒と自暴自棄の日々を過ごしていました。映画の役者のように虚像と実像がオーバーラップし て、一体どれが本当の自分かわからない毎日でした。自分を見失い、滅びに向かっていたにもかかわらず、 気がつかなかったのです。 「私の悩みとさすらいの思い出は、にがよもぎと苦しみだけ。私の魂は、ただこれを思い出しては沈む。 私達が滅び失せなかったのは主の恵みによる。主の哀れみは尽きないからだ…」(エレミヤ哀歌 3:22) それでも自分は正しいと言い張っていました。誰が自分を裁く権利があるのかと……一方、心の中では、 誰が私の真実をあばき、今までの仕業を清算し、清めてくれるだろうかという密かなねがいを抱いていま した。 「さあ来たれ、と主は言われる。たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。た とい、紅のように赤くても、羊の毛のように白くなる。…」(イザヤ 1:18) こうして私は主にお会いし、十字架の血潮によって清められ、人生を全く変えていただきました。やっ と自分自身を発見して、歩むべき道を歩み始めたのです。(そのいきさつはまたいつかお話させていただ きます。) ◇投稿募集のご案内◇ 皆様の原稿をお待ちしています。 毎月のCFIニュースレターの裏面に順次掲載させていただきたいと思います。 ・すくいの体験のあかし ・個人的願いや祈り ・信仰生活のあかし ・主にある交わりのレポート ・最近気づいたことや発見したみことば ・CFIメッセージの感想や教えられたこと 何でも結構です。800字程度で、手紙、ファックスかメールで送ってくだされば幸いです。
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