『万葉拾穂抄』についての一考察‐自筆稿本巻一との比較

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Title
『万葉拾穂抄』についての一考察‐自筆稿本巻一との比較を通して
‐
Author(s)
大石, 真由香
Citation
人間文化研究科年報, Vol.24, pp.270-262
Issue Date
2009-03-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/1119
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﹃万葉拾穂抄﹄についての一考察−自筆稿本巻一との比較を通して一
真由香
岩瀬文庫本は、北村季吟の万葉集の全歌注釈書﹃拾穂抄﹄の自筆稿
公開するにあたっての研究ノートとして記すものである︵注−︶。
庫本︶の調査・翻刻を行ってきた。本稿は、別に岩瀬文庫本の翻刻を
で、愛知県西尾市岩瀬文庫に所蔵される﹃拾穂抄﹄一本︵以下、岩瀬文
筆者は、北村季吟﹃万葉拾老君﹄︵以下、﹃拾穂抄﹄︶の研究を進める中
はじめに
今予が所用之本は此仙覚が本をもて妙諦院[冷泉殿]の校正し給
本﹂の総論には
であった寛永版本と異なった特色を持つことは大きな特徴と言える。﹁刊
﹁刊本﹂の本文︵﹃万葉集﹄テキスト部分︶が当時の﹃万葉集﹂の流布本
一、﹁刊本﹂の底本について
われる。本稿は特に巻一を取り上げて考察を進める。
を検討できるのは、季吟の著述態度を考察する上で有意義であると思
27
一
↑
石
本と目される一本であり、巻一、四が存する。自筆稿本としては他に
へる本とかや。寄の前書作者の書やう訓点等まことに藤飲夫の所
大
お茶の水図書館︵竹柏園旧蔵により、以下、竹柏園本︶に巻二および、三葉
為しるく学者の益おほく見やすかるぺければしばらく用ひ侍し。
︵比較文化学専攻︶
の巻七残簡が所蔵されている。これら自筆稿本は、﹃拾穂抄﹄が元禄四
とあり、そのテキスト部分の底本となったのが、措置本系統の本によ
は述べている。また、﹁刊本﹂の巻一巻頭に付されている貞享五年冷泉
って妙寿院︵藤原捏窩︶が校正を加えた本︵以下、慢献本︶であると季吟
ママ Z九一︶年頃に刊行︵以下、刊行された﹃敷写抄﹄を﹁刊本﹂と称し、す
︵一
べて塙書房から出版された翻刻の底本となった坂本信幸先生所蔵本を用いる︶さ
れる以前の注釈本文を持つと考えられる。自筆稿本は、野村貴次氏︵注
世に知られていなかった。
北村季重者有素直、故使彼毒血之。今風穂紗所由起也。
之、怪斎不得意急心。玄之太喜、謄写以伝手家、目配孫。玄恒与
我先捏斎有家伝一本、取数本校正之、秘不出氏家。時田玄之懇求
2︶によって竹柏園本のみ翻刻、紹介されているが、岩瀬文庫本は未だ 為経堂にも、
本稿では自筆稿本の注釈態度と﹁刊本﹂のそれとを比較し、この二
一
と述べており、﹁刊本﹂の底本は、冷泉家伝来の一本に怪窩が他の数本
本間の著述態度の相違を検討したい。今回、岩瀬文庫本を視野に入れ
ることにより、巻一冒頭におかれた総論的な部分︵以下、総論︶の相違
によって校正を加えた本を吉田玄之︵角倉素庵︶が謄写して子孫に伝え
二
天理本は、先にあげた﹁刊本﹂の総論に﹁仙覚が本をもて妙寿院
怪脚本は現存せず、﹁刊本﹂への直接の影響関係を知るすべは今のと
統の本を含む数本によって校合した本を田本に持つと考えられ、多く
之﹂ともあることから、慢窩が冷泉家伝来の一本を基礎に、仙唐本系
[冷泉殿]の校正し給へる本﹂、為経序に﹁怪斎有家伝一本取数本校正
ころない。しかしながら、天理図書館には、全巻墨書の訓が付され、
新点を採る。例えば、3番歌、36番歌、45番隠家の﹁入隅知之﹂
たものであるとしている。
此万葉集之点者、妙寿轟轟斎公浅野紀伊守幸長公所望ニョリテ門
を﹁ヤスミシシ﹂と訓み、8番歌﹁熟田津﹂を﹁ニキタツ﹂、17番歌
﹁味酒﹂を﹁あちさけの﹂と訓んでいる。﹁刊本﹂においてもそれぞれ
筆稿本では﹁入隅知之﹂を﹁やすみしる﹂、﹁熟田津﹂を﹁なりたつ﹂、
﹁味酒﹂を﹁ウマサカノ﹂と訓むごとくである。﹃拾穂抄﹄の場合、自
人伯郎ト翌年二二命シテ写サセ点ヲ改奉射御本之点ノ写也。可秘
之。
西川安之
と奥書のある古活字本﹃万葉集﹄が所蔵されている︵以下、天理本と称
記して新点を書き添えている。自筆稿本頭注に﹁斜日、熟田津、古点
本文訓は自筆稿本と同様であり、イ訓として手事の訓であることを明
にはむまたつ或はなりたつと点ス。日本留筆六日、庚戌御船泊⊃伊与
す︶。天理本には歌本文の右傍らに墨書されたカタカナ訓の他、底本の
に朱で印して消し、平安以降の和歌集のごとく題詞の下方に墨書する。
様式を記した墨と朱による書入がある。すなわち、題詞にある作者名
卜
の傍らに仮名が附いていたものと思われるが、その他の特色︵題詞・左
松永貞徳の遺志により季吟が作為したもので、底本は漢字を主体にそ
関係にあるものと推定してよく、つとに野村氏が﹁仮名書きはその師
これらのことから、天理本の造本が、季吟の披見した怪窩本と近しい
月本により改めたと考えられている﹁刊本﹂特有の様式と一致する。
ているが、これらの様式はすべて、季吟が﹁刊本﹂作成に当たって三
季吟が自らの意志に従って本文訓、イ訓を定めていたことが分かるた
よみたれば、あちさけを本に用ひてうまさかをも書転たり。﹂とあり、
本﹂17番歌頭注に﹁[愚案]両点捨がたきにつきて猶古点は単寧にも
はそれをイ訓として本文訓に準ずる形で書き添えるのであるが、﹁刊
稿本の段階で仙覚新点を認識していたことが分かる。﹁刊本﹂の段階で
/筆者注︶﹂︵17番歌︶とあることから︵﹁八隅知之﹂については後述︶、自筆
語によらばうまさかといふべき也。︵以下に﹃日本書紀﹄の引用あり、略す。
ニキタツト
熟田津石湯行宮.∼。熟田津此云二祢枳駝単一。日本紀のごとくはにき
注の様式、歌二等/筆者注︶は憧窩の作為によるものと考えられている﹂
め、怪窩本による訓読への影響はそれほど強いとは言えないだろう。
コあニハ また、左注には、これが題詞の下に細字で移されていることを意味す
26
とされた推論は、ここに実証を得たのである。
その他、自筆稿本では仕覚新点に従っており天理本と一致するものを、
一
る印がある。また、54番歌の直後に56番歌を挿入する印も付されたつと和すべし。﹂︵8番歌︶、﹁仙日、古点はあちさけと点せり。虫魚古
天理本をもって促堂下そのものとするには多くの誤謬を孕むであろ
が自筆稿本の﹁底本は流布本と考えられ、それに諸本により自筆稿本
﹁刊本﹂に至って訓を改変している箇所も複数見られ︵後述︶、野村氏
を考察する術はないので、以下、天理本を、慢窩本の訓を保存したも
を作成し、更に刊本作成に当たり促只只正本をも用い、また流布本に
うことは承知の上で、なお天理本以外に怪窩本の﹃拾穂抄﹄への影響
のと考え、考察を進めることとする。
影響はそう大きなものとは思えない。﹂とされたのはひとまずは正しい
よっても再考を加えている。故に用字・訓に関しては、幌窩校正本の
ここでは、文献引用の際の表記上の相違を考察する。例えば自筆稿
三、引用箇所の表記の相違
ゆき
︵訓読︶あかねさすむらさき野ゆきしめの行のもりは擬すやきみか袖
本20番歌には、
二、﹃拾穂抄﹄総論における比較検討
ふる
指摘であったと見ることができよう。
総論には﹃万葉集﹄についての総記、研究史および季吟の﹃拾穂抄﹄
仙覚由阿みつから了簡して古点をあらため其義をかへたる所々は
筆稿本には、
おける比較検討を行う。特に誓願説の取捨に関する部分について、自
も赤きを丹といへば紫の匂へると詠ぜしめ給ふ也。︵後略︶
子の答へ給ふ御食にむらさきのにほへるいもとつ“け給へる
つ・け名付る也。字訓にも紫は深赤とかけるは此後也。皇太
といへり。紫は根を用ゆ。其根赤き物なればあかねさす紫と
︵頭注︶あかねさすむらさきの ︵前略︶悪日、紫野しめの蒲生野に在
たf古人の寄によみきたれるにまかせて、一向に用ざる事どもお
と、食鳥の説が引用されている。実際の介在の﹃万葉集註釈﹄︵注3︶に
執筆に対する研究態度等が書かれるが、ここでは、研究態度の箇所に
ほく侍し。これも直しをとがむる罪はのがれぬわざながらかつは
は、
なればやむにもよしなき物なるべし。
聞ゆさてあかねさすといふ発句は帝を日にたとへたてまつれはみ
︵前略︶あるひは紫野のしめ野の蒲生野にありといへり是はさもと
26
ト
故実をたてかつは後学のまよひ晴しめんとなり。是亦先師の遺意
とあるが、﹁刊本﹂では、
ゆきのなれるをあかねさすとよそへむさることもはへるへき欺但
も イ も イ 仙台由澄みつから了簡して古点をあらため底面をかへたる所々は
これは古語のよそへことはのさまをみるはむらさきは自用とする
イン
由が加わっているのである。
るが、﹁刊本﹂では﹁古賢の例﹂を尊重するという、方針についての理
自筆稿本では先師・貞徳の遺志に従うという消極的な姿勢をとってい
となる︵傍線筆者︶。仙覚説を一向に用いない所々のあることについて、
分かる。それに対して﹁刊本﹂では、﹁祇日、紫野しめ野蒲生野に有。
傍線も同様︶、自筆稿本では﹃仙覚抄﹄からの略言となっていることが
とある部分で︵傍線筆者。﹃全美抄﹄への被引用箇所を指す。以下の引用部分の
きのにほへるとは令詠給与
るいもをとつ・け給へるもあかきを丹にといふことあれはむらさ
[
ロハ古人の寄によみきたれるにまかせて、一向に用ひざる事どもお
リヤウケン
ほく侍し。往しをとがむる罪あるに似たれど故実をたて後学のま
もの也その根あかきものなれはあかねさす紫とつ・け名優紅紫浅
接摩︶
深ありといへとも同赤色の摂なりされは字訓の所にも紅をは浅赤
よひをとかしめんためのわざにて古賢の例もあるにまかせてなり。
とかき紫をは深赤とかけるは此再起皇太子の答御歌に紫のにほヘ
では、この態度の相違は実際の注釈ではどのように現れてくるのだ
あかねさすといふ発句は古語のよそへ事也。紫は白根赤き物也。紫は
ナシ︵イ ︶
ろうか。そして﹁古賢の例﹂とは具体的には何を指すのか。以下、実
深赤とかける其儀也[仙同義]。﹂となり、宗祇の﹃万葉抄﹄︵穿︶を引
是亦先師の遺意なればならし。
例をあげて考察してみたい。
三
用する形に変え、﹃仙覚抄﹄については
いる。実際の﹃宗祇抄﹄には、
﹁同義﹂と書き添えるに留めて
︵前略︶紫野標野蒲生野にあり。あかねさすといふ発句は古語のよ
そへこと也。紫は其日赤き物也。又紅葉に浅深ありといへとも、
54番歌のような例もある。自筆稿本には、
四
また、
こせ山のつら一つはきつらくに見つ・おもふなこせのは
こせ山のつらく椿 ︵前略︶仙日、目もはなさずみるをつら
る野を
︵訓読︶
︵頭注︶
く見るといふ[祇同]。
とある。
た・赤きにとれり。紅を浅赤とかき、紫を深赤とかけるは此義也。
とある。この例の場合、﹃宗祇抄﹄の内容は﹃仙覚抄﹄の注釈内容の要
たるものなれば目もかれずみるによそへたる也人の物を見るにめ
こせ山のつらくつばきつらくにとよめるは椿はつるくとし
﹃仙覚抄﹄の当該項目には、
約になっている。﹁刊本﹂では宗祇によって要約された仙覚説を用い、
は﹁仙日﹂とし、﹃宗祇抄﹄の中での要約を基に引用する場合には﹁祇
である。﹃拾歯肉﹄においては﹃仙覚抄﹄そのものから引用する場合に
どとして自説を展開する部分もあるが、多くは﹃仙覚抄﹄の要約引用
と見る也。目もかれぬ心也。﹂とある。確かに﹃宗祇園﹄からの忠実な
の引用の形に変化する。﹃論難抄﹄の当該項目には、﹁心は物をつらく
物をつらくと見る也。目もかれぬ心也[仙日]。﹂と﹃宗谷抄﹄から
とあり、傍線部よりの引用である。それが﹁刊本﹂に移ると、﹁二日、
26
卜
もはなたず見るをつらくとみると云かことく也
日﹂とする傾向にあるようであるから、この場合、﹁刊本﹂では﹃宗三
引用だから、引用元の表記を﹁祇日﹂とするのであるが、自筆稿本に
﹃仙覚抄﹄の説が要約されて載せられている。﹃宗首尾﹄は﹁私云﹂な
それをさらに要約して収めている。﹃宗祇抄﹄にはこのようにしばしば
重﹄の要約引用を用いたために﹁遅日﹂の形を用いたものととりあえ
も﹁祇同﹂の言葉のあることから、この段階ですでに﹃宗祇抄﹄の当
ママ ずは考えられよう。
該項目を目にしていたことは明白である。そしてこの場合、あえて
﹃宗祇抄﹄の要約に依らねばならぬほど長い注釈であるわけでもない。
にもかかわらず、引用元を﹃宗毒血﹄に変えているのである。
言える。しかし﹁刊本﹂には﹁祇、うつといふは物をほむる詞の随一
れた中世の歌学においては、少なくとも権威ある存在ではなかった。
実証的万葉学の祖とされているが、和歌の実作と関わって学問がなさ
一
しかし、23番歌のような例は少し意味が異なる。自筆稿本には、
︵訓読︶うつ麻を[袖中 うめるを・]をみのおほきみあまなれやい
あさ
らこかしまのたまもかり食[しく 袖中点・ます 漸々]
の総論にあった﹁古賢の例﹂を積極的に用いようとする態度と関わる
ここには、無性のある意図が見られるように思う。それは、﹁刊本﹂
よき麻のをといふ広田。︵後略︶
のではないだろうか。宗祇は古今伝授の成立にも密接に関わった、言
︵頭注︶うつあさををみの 聖日、うつとは物をほむる詞の随一也。
とある。引用元の﹃仁万抄﹄には﹁うつといふはものをほむる詞の随
也。よき麻の苧といふ詞也[仙同]。﹂とあり、﹃仙覚抄﹄からの忠実な
ただし、すでに拙稿に述べたように、季吟が﹃島島抄﹄の読者として
うまでもなく中世歌学の権威である。それに対し、仙覚は現代でこそ
引用であるにもかかわらず、引用元を﹁祇﹂とし、﹃仙追奪﹄に関して
想定したのは、弟子を初めとする歌学の知識を持った万葉初学者であ
一也よきあさをと云ことは也﹂とあるので、引用はほぼ忠実であると
は﹁同﹂と記すに留めている。
啓蒙的立場を優先した結果と考えられよう。総論に言う﹁古賢の例﹂
る︵注5︶。そのことを視野に入れると、この改変は読者への配慮から、
が﹁刊本﹂になると、本文訓は﹁やすみしる﹂であるが、イ訓として
まじくこそ。﹂と俊成・定家の説を重んじる内容の注が見られる。それ
は八隅知之をやすみしるとよめば之の字和せられず、やすみし・
る名をのがれてと有。高年にても古点の如く可読歎。仙覚由阿等
たにもやすみしると有。新古今後京極殿の序にも、今はやすみし
やすみしる 八隅知之、古点はやすみしる也。八雲抄、帝王のし
箇所は﹁やすみしる﹂を本文訓とし、イ訓はあげない。頭注には、
字本文﹁八隅知之﹂の訓についての問題を取り上げる。自筆稿本当該
注釈態度の相違について考察を試みたい。まず、巻一の3番歌冒頭漢
次に、注釈内容や訓の採否の判断の相違から、より直接的に季吟の
四、注釈内容から見る姿勢の相違
していると考えられるのである。
しと両義の内を可用之。仙覚缶石等の説一偏に、やすみし・との
古点に任せてやすみしるとか。定家卿の和に底ひて、やすみしり
は、日本紀にてはやすみし・とよむべくとも、此集の八隅知之は
之と有。是も釈には、八隅知也。言フレ知二四海八誕ヲ一也云々。然
伝之をも・つたふとよむたぐひおほし。又日本紀には、夜輸禰始
とよめば之の字和しがたしといへど、之の字よまぬ事例あり。百
すみしると寄には可用之か。仙石心阿等、八隅知之をヤスミシル
にやすみしると有。近代当身集にもやすみしるとよませ給ふ。や
京極殿今はやすみしる名をのがれてとあり。海雲御抄、帝王の所
定家卿抄には、ヤスミシリシと和す。言立レ然欺。新古今序には、
やすみしる 入隅知之、古点ヤスミシル、ヤスミシリシ両説也。
﹁裏面 し・﹂と書き添えられる。しかし頭注には、
と読べし云々。然共、之の字はよまでよむ事文法例有。其外此集
み云も如何。
とは宗祇に象徴されるような中世歌学において権威ある人々の説を指
に此間をこ・とよみ、此集三に何物をなにと減たぐひ也。八隅は
しりし﹂を両訓とも﹁古点﹂として頭注に書き入れている点で、俊成・
とある。自筆稿本の欄外にある俊成説﹁やすみしる﹂、定家説﹁やすみ
ヤスミシル
ヤ ス ミ シ
入嶋の⋮儀と仙覚説さもあるべし。又仙覚由阿やすみし・と点する
マキムクノヒシロノミヤ テラス アメスメラキノミヨヲホヤマトシ キ ミ ツカキノクニ ノ
故は日本紀十一同十四にやすみし・と云詞あれば也。風土記、
巻向日代宮大入洲照臨天皇之世大倭志紀弥豆垣国大入島
した﹁やすみしる﹂については、﹃新古今序﹄﹃入朝抄﹄﹃柏里集﹄をあ
定家に対する敬意は高まっていると言えるだろう。本文訓として採択
り、結論は﹁可随所好﹂としている。また自筆稿本を一旦書き上げた
紀﹄﹃風土記﹄の仮名書き例を引用することで仙覚への理解も示してお
である﹁やすみしる﹂を採るべきとの見解を述べる。しかし、﹃日本書
の例をあげ、また集中に﹁之﹂の字を富まない例もあるとして﹁古点﹂
とある。まず、﹁古点はやすみしる也﹂と言い、﹃八雲抄﹄、﹃新古今序﹄
とから、仙覚説を完全に排除しようとしているわけではない。合理的
例をあげ、﹁日本紀にてはやすみし・とよむべくとも﹂と述べているこ
ることを根拠に批判している。ただし、季吟は自身も﹃日本書紀﹄の
之﹂をあげ、﹃釈日本紀﹄にも﹁夜輸禰始之﹂に﹁八隅知也﹂の注のあ
の新点﹁やすみしし﹂については、﹁之﹂を訓じない例として﹁百伝
げ、和歌では﹁やすみしる﹂と訓むべきかと言う。︸方、仙覚・由阿
クニシロシメスアメスヘロキノミカト
国所知天皇重三などいへる心と同[略注]。此点可随所好。
後に新たに書き加えたと思われる欄外の書入には﹁定家卿はやすみし
な方法を知りながら、敢えて和歌での先例を重視して万葉歌を訓じる
ヤスミシ ヤスミシル
りしと和書。俊成卿古来風体にはやすみしると有。此両卿の説の外用
五
一
昭
66
にして、それに則り、あるいは批判するという方法で注釈するが、そ
た由緒ある訓読である﹁古点﹂を尊重する一方で、知覚の理論を基盤
これらのことから、初稿段階では、古くから和歌などに詠まれてき
べきだという判断を下したのである。
祇等の説を可用之﹂の言葉である。歌学において権威ある人物の説で
述べた痛覚批判の部分が削られ、代わりに提示されるのが﹁定家卿宗
して仙覚の﹁あきのに﹂をあげているが、頭注においては自筆稿本で
となる。本文訓として定家・宗祇の﹁あきの・に﹂を採択し、イ訓と
六
の書入段階で俊成・定家を重視するという方法を見出し、﹁刊本﹂では
ねらじゃもいにしへおもふに﹂が﹁刊本﹂に至って﹁いもねらめ[イ
あることを強調しているのである。初句の他、自筆稿本の下句﹁いも
ジ]やもいにしへ[イ むかしへ]おもふに﹂と改変されているの
その立場を継承しつつ、和歌における先例を重視して﹃万葉集﹄を訓
じるべきだとの考え方を優先させていると言える。
47番歌は自筆稿本には、
と言えるQ
思われ、訓全体に亘って定家の権威を前面に出したものになっている
なひきいもねらめやもむかしおもふに﹂とある影響を受けた結果だと
同様の注釈態度の変化が見られる例として46・47番歌を見ておは、定家著述の﹃長歌短歌宝剣﹄︵注6>に﹁秋の・にやとるたひ人うち
こう。46番歌は自筆稿本では、
︵訓読︶阿騎の野に[祇本 あきの・に]やとる旅人打なひきいもね
らじゃもいにしへおもふに
︵頭注︶阿騎乃圷やどる旅人 仙日、初句多くはあきの・にと点せり。
葉過ゆくきみかかたみのあとよりそこし
︵訓読︶真[イ ま]草かるあら野には[定あらのはトヨム]あれと
み くさ
るべし。[愚案]四字ある寄を五文字によみつくる事此集の習
身共初句を四字に読る事此寧日本紀風土記等の寄にもおほか
ひ也。古点に任て阿騎の野にとよむべし。
とのは也。重日なめの皇子のふる事になり給ひたれば葉過ゆ
み こ
︵頭注︶真草かる荒野には 仙日、古点にはまくさかると云々。長寄
ユク
にも旗薄とよめり。み草は薄也。前千葉過去は、七日葉はこ
[毒性あきの・に]﹂と、宗祇説に従って訓じている。頭注には仙覚の
くとよめる也。薄かるほどのあら野にはあれど、君が形見の
とある。初句漢字本文﹁浪漫乃ホ﹂について、訓読は﹁阿騎の野に
﹁あきのに﹂と四字に訓む説をあげ、﹁四字ある寄を五文字によみつく
る事此集の習ひ也。﹂と批判する。訓読自体は宗祇説に従っているが、そ
も害なきにや。
跡より来たり給へるといへるなるべし。[愚案]秣かる、古点
ものと思われる。頭注には﹁秣かる、古点も害なきにや﹂ともあるが、
り、本文訓﹁真草かるあら野にはあれと﹂は﹃仙覚抄﹄の訓を用いた
みくさ
文訓は寛永版本の﹁ミクサカルアラノニアレト﹂とも一部齪狂してお
きさるきみか・たみのあとよりそこし﹂からの引用と思われるが、本
イ訓とする定家訓は﹃長短歌里﹄の﹁まくさかるあらのはあれとはす
とある。上二句漢字本文﹁真草刈荒野者難有﹂の訓が分かれている。
の理由として仙覚批判の立場から自らの見解を述べる。ところが﹁刊
本﹂になると、
︵訓読︶[祇]あきの・に[仙 あきのに]やとる旅人うちなひきいも
ねらめ[イ ジ]やもいにしへ[イ むかしへ]おもふに
︵頭注︶あきの・にやどる旅人 定家卿秋の・にと和し給ふ。宗室本
亦如此。仙覚、あきのにとよむべし云々。然とも定家卿宗祇
等の説を可用之。︵後略︶
砲
㎜
65
として﹁真草﹂を﹁まくさ﹂と訓み換え、さらに﹁に﹂の読み添えを
にはあれと・きこえたりよりてこの字を点じいしたる也
り第二句あらのはあれど・よ見てはその理分明にきこえずあらの
見・さと云はすすき也長歌云はたす・きしのを・しなみとよめ
はまくさかるあらのはあれと﹂と提示した後、
これら三例から、自筆稿本には仙界説を基とする姿勢が比較的強く
るものの、﹁然不用之﹂との判断を下すのである。
ようという意識からか、定家訓に沿った解釈を試み、幻覚説は略注す
本では基本的に仙覚説を踏襲するが、﹁刊本﹂では定家の説を取り入れ
る。仙覚が解釈に合わせて改訓ずるのとは逆のやり方である。自筆稿
るべき訓としてまず定め、それをもとに解釈を考えたものと考えられ
﹁されど﹂と逆接を補わねばならない。この場合、季吟は定家訓を採
行う。そして、﹁す・きかるほどのあらのにてはあれどもきみがかた見
見られるのに対し、﹁刊本﹂では定家・宗二等、中世歌学における権
基本的に直覚説に従う形となっている。実際の﹃仙覚抄﹄は﹁古点に
のあとよりきたりたまへるといへるなるべし﹂と解釈している。仙覚
威、つまり﹁古賢の例﹂を規範とした注釈へと変化していることが見
薩 b匝
のこの改訓の根拠となるのは解釈である。
て取れる。その他、巻一を概観すると、自筆稿本において﹃仙覚抄﹄
﹃奥儀抄﹄の説を新たに加えるなど、より多くの歌学書を引用しよう
に依っていた部分を、﹁刊本﹂では﹃畠中抄﹄等からの引用とし、また
それに対し、﹁刊本﹂は、
︵訓読︶まくさ[イ みくさ]かるあらのは[イ には]あれとはす
きゆくきみかかたみのあとよりそこし
みくさは薄也。葉は言の葉也。彼日並のみこのふる事に成給
り給ふと也。仙点はみくさかるあらのにはあれど・和して、
り。されど日並のみこの形見のあとなるより軽皇子ゆきやど
は比の過たる也。[愚案]秣かる荒野はかはらであれど比過た
本稿では﹁刊本﹂を自筆稿本と比較することにより、孔門の﹃拾穂
おわりに
を啓蒙的な書物として完成させようとした結果であろうと考えられる。
べたようにこの改変は、面面が﹁刊本﹂の浄書にあたって﹃拾穂抄﹄
実際の注釈態度の相違として反映されていると言えるだろう。先に述
とする態度が見られた。総論における季吟の見解の相違は、確かに、
ひたれば葉過ゆくとよめる也。薄かるほどの荒野にはあれど
︵頭注︶まくさかるあらのはあれど 定家卿和也。見安云、葉過ゆく
等いへり。然不用之。
について確認しておく。季吟は﹁寄の前書作者の書やう訓点等まこと
抄﹄執筆に際しての意図を考察してきた。ここで再び、﹁刊本﹂の底本
に藤飲夫の所為しるく学者の益おほく見やすかるぺければ﹂として
ママ とする。﹁真草﹂については定家訓をもとに﹁まくさ﹂と訓じ、第二句
に関しても定家訓に従って﹁あらのはあれと﹂を本文訓とし、頭注に
﹁刊本﹂の様式を藤野本のそれに合わせたのであった。まず、﹁前書﹂
く作者のみ題詞から独立させて下方に移している。これはやはり、平
おいては仙覚説を﹁然不用之﹂と切り捨てる。解釈に関しては、本文
れど日並のみこの形見のあとなるより軽皇子ゆきやどり給ふと也。﹂と
安以降の和歌集の様式に馴染んだ読者を意識した改変であろうと思わ
︵つまり題詞︶、﹁作者の書やう﹂については、平安以降の和歌集のごと
するが、﹁あらのはあれと﹂について﹁荒野はかはらであれど﹂と﹁か
れる。﹁訓点﹂に関しては、今回の考察からは梶窩本の影響はそれほど
訓とした定家説に忠実に﹁秣かる荒野はかはらであれど比量たり。さ
はらで﹂を補わなければ解釈できず、また﹁はすぎゆく﹂の下にも
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大きなものではないという結論に達しており、また歌里に関しても別
を中心に一﹂﹃国語と国文学﹄81−5 平成十六年五月︶、
︵五月女肇志氏﹁藤原定家﹃百人一首﹄自撰追考−万葉摂取
入
途考察を要するものと考えられるが、これらに関しては別稿を用意す
本稿では季吟が定家の説と考えていたことを尊重し、定家著
︻付記︼本稿の執筆にあたって山梨大学の長谷川千秋氏にご教示を賜
作であるという前提に立って検討を進める。
ることとしたい。
︵注1︶拙稿﹁岩瀬文庫本﹃万葉拾穂抄﹄解題と翻刻﹂︵﹃叙説﹄36
号 平成二十一年予定︶を参照されたい。
学二十一世紀COEプログラム平成十九年度若手研究者支援
つた。心より感謝を申し上げる。なお、本稿は、奈良女子大
主﹄﹂︵昭和五十二年︶。初出は﹁便秘の万葉十二抄﹂︵﹃万葉集
経費による研究成果の一部である。
﹃北村季吟の人と仕事﹄﹁第二章 仕事・第四節 ﹃万葉拾三
大成2文献篇﹄︵昭和二十八年︶。以下、野村氏論文はすべて
︵奈良女子大学大学院人間文化研究科比較文化学専攻・おおいし まゆか︶
︵注2︶
これによる。
︵注3︶本稿では、現行のカタカナ本より誤字は多いものの、季吟・
契沖ら江戸期の学者の用いたと思われる寛永年間刊行本の書
写本を底本とした﹃国文註釈全書﹄版を用いる。引用部分に
ある書入は、﹃国文註釈全書﹄版にある木村正辞による校合で
ある。以下、﹃万葉集註釈﹄は﹃仙覚抄﹄と称する。
︵注4︶引用は万葉集叢書本を用いる。以下、﹃宗祇抄﹄と称する。
榎坂浩尚氏﹁季吟の古典註釈の成立﹂︵﹃国語国文﹄22−4
︵注5︶
季吟の注釈書が門弟指導のために書かれたものであることは
昭和二十八年︶、川村晃生氏﹁北村季吟の﹃入代集抄﹄﹂︵﹃国
文学解釈と鑑賞﹄50−1 昭和六十年︶等に既に指摘があ
り、﹃万葉拾穂抄﹄もそれに準ずることは拙稿﹁﹃万葉拾穂抄﹄
の著述態度について1定家説引用部分を中心に一﹂︵﹃萬葉﹄
203号 平成二十一年︶にも述べたところである。
︵注6︶以下、﹃長短歌説﹄と略称する。本稿では当該書物の引用にあ
たり、すべて流布本系統の続群書類従本を用いることとする。
なお、﹃長短歌説﹄の定家著作への疑問も提唱されているが
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