妹ができてすっかりおばあちゃん子になってまった私は、いつ のまにか「もったいない。ばちが当たるよ」とおばあちゃんの口 まねをするようなになっていた。二人目の妹ができてからは、 もうすっかりお姉さん気取りで、「もったいない。ばちが当たる よ」と、食べ物を残したすぐしたの妹におませな口を利いてい た。 自從妹妹出生之後,完全由奶奶帶大的我,不知不覺中 開始模仿奶奶的口吻說「太浪費了,會遭到報應喔。」 在第二個妹妹出生之後,我完全有了姐姐的樣子,看到 大妹食物吃剩時馬上用大人的口氣對她說「太浪費了, 會遭到報應喔。」 「お母さん、これもったいないから」と言って、お中元やお歳暮 が開けられた後のひもや包装紙をおばあちゃんの所へ持って いったりもした。祖母は「無駄にすると、ばちが当たるからね」と 言いながら、それを丁寧にたんすにしまい込んだ。 「媽媽,這個丟掉太可惜了」說完就把拆完中元節或歲 末禮盒後剩下的繩子和包裝紙拿去給奶奶。祖母邊說著 「浪費東西就會受到報應喔」邊把那些包裝紙和繩子小 心地收進衣櫥裡。 「おばあちゃんの」と呼び習わした古いたんすの前に座って、祖 母はたんすの話しをすることがあった。どこで生産されたか、ど れほど厳選されたすばらしい材質であるか、そして、施された 巧みな細工がいかに精魂込めた職人の技であるかということ。 まるで自分が熟練したプロのたんす職人ででもあるかのように 話した。 我曾經坐在叫習慣的「奶奶的」老舊衣櫥前,聽著祖母 說這個衣櫥的故事。在哪裡生產的、嚴選多麼上等的材 料製造的、以及師傅們在做衣櫥運用的精巧工藝是他們 投入了多少精力練就而成的技術等等。彷彿自己是非常 熟練的職業師傅般的說著。 この道にかけては誰にも引けは取らぬという職人の誇りと少し でも長く使ってもらいたいという心意気が、たんすを通して祖母 に語りかけ、愛着を持たせた。「これは、お父さんが子供のころ いたずらして、ナイフでつけた傷」と、折に触れ、たんすにまつ わるエピソードを語りってくれたりもした。 在這個專業的領域上不遜於任何人的這份工匠的驕傲、 和希望盡可能地讓消費者可以更長久使用的心意,透過 衣櫥讓祖母知道,讓她對這個衣櫥愛不釋手。「這個是 你爸爸小時候惡作劇用小刀劃的痕跡」一有機會的時候 也會像這樣說著關於衣櫥的小插曲給我聽。 「いい機会だから、この際処分したら」引越しを前に、父が遠慮 がちに口に出したことがある。「そんなもったいないことをしたら ばちが当たる」と、祖母は珍しいく大きな声を出した。そして、 「これは、私がお嫁に来るときにもってきた者で…」と幼かった 私に繰り返し聞かせたたんす物語が始まる。 面臨搬家的時候,爸爸曾經有所顧慮的說過這樣的話: 「這是個好機會啊,不如就趁這次機會把衣櫥丟掉吧?」 祖母少見的大聲回話:「如果做了這麼暴殄天物的事情 會遭到報應的!」奶奶說「這是我嫁過來時帶來的東 西。」接著開始講在我小時候不斷重複說給我聽的衣櫥 的故事。 「ね、まだ少し狂いもないでしょう」と何度も引き出しを聞け閉め して見せながら、「そこらで売ってる、見てくれだけのまがい物と は、物が違うんだから」と、いとおしそうにたんすをなでる。こう なると、さすが父も折れるしかなかった。 奶奶一邊開關抽屜給爸爸看一邊說「你看,它一點故障 都沒有對吧!」,又一邊說「這跟一般市面上隨處在賣 的、只有虛有其表的贗品不一樣。」一邊用好像很愛惜 的樣子撫摸著衣櫥。這麼一來,就連爸爸也只有讓步了。 戦後の日本は奇跡的な経済復興を遂げ、国中、物があふれる ほど潤沢になった。大量消費会社では、消費者側は「質より量」 を求め、昔ながらの手作りの良さには目を向けようとしなかった。 生産者側もそれに応えるため、安価で見栄えの良い物を大量 に生産してきた。 戰後的日本奇蹟般地讓經濟復甦,國內物資變得非常充 裕。在大量消費的社會,消費者尋求「量大於質」,而 不再重視過去手工的優點。生產者們也因應需求開始大 量生產廉價且外觀好看的產品。 利潤を追求し、商品を少しでも早く回転させるために、量産制 度の開発に力を注いだ。一つ一つの工程に手間をかけ、丹念 に物を作り上げていく伝統的な「職人の技」は、コストがかかり 過ぎ、生産性の向上のつながらないため、量産体制からは取り 残されていった。 生產者們為了追求利潤、讓商品盡可能趕快賣出,開始 致力於開發量產制度。一個一個程序都需要耗功夫、而 精心的去完成商品的「傳統工匠技術」因為成本太高、 且無法提高產能,所以從量產體制中被淘汰了。 大量生産で生み出された商品は、量産体制に乗せるために画 一化され製造された物であり、長年にわたって磨き抜かれた職 人の技を駆使して作り出された物とは比べるべくもない。本物と は程遠い、見かけ倒しの代物ばかりである。「おばあちゃんの たんす」と愛着を込めて呼び、大切に扱う家具など、今の時代、 特別に注文でもしない限り、到底手に入らない。 由大量生產製造出來的商品都是為了迎合量產體制而規 格化、製造出來的東西,和透過長年琢磨而來的傳統工 匠技術所製作出來的東西是無法相提並論的。大量生產 的都是些和真品相差甚遠、虛有其表的東西。能夠讓人 含著眷戀叫著「奶奶的衣櫥」,愛惜的用著的傢俱等等, 在這個時代,如果沒有特別訂製是無論如何都無法到手 的。 商品の画一化が進むにつれて、作る方、使い方、双方の愛情 も薄れ、物が語りかけることもなければ、物を前に何かを語り 継ぐということもない。大量に生産された「まがい物」は、不要に なったり使えなくなったが最後、粗大ゴミとしていとも簡単に捨 てられてしまう。大量消費・画一化社会は、大量廃棄物に痛み を感じることのない使い捨て社会へのプロセスでもあった。 隨著商品規格化的發展,生產者、消費者雙方對商品投 入的感情也跟著變薄弱,東西既不能說故事,東西擺在 面前人們也無法說出些甚麼來流傳下去。被大量生產出 來的「贗品」不再被需要或是變得無法使用時,最後都 被人們當成大型垃圾輕易地丟棄掉。大量消費、規格化 的社會也可以說是通往對大量丟棄毫無痛感、用完即丟 的社會型態的過程。 我々は、食生活においても、この「まがい物」大量消費社会のし わ寄せをまともに受けている。養殖やハウス栽培の技術、ある いは、冷凍技術の著しい進歩のおかげで、スーパーに行けば いつでも、どんなものでも安い値段で手に入る。ファミリーレスト ランでは、日本どころか、世界中の料理を楽しむことができる。 そして、食べ物から季節感ら地方色が消えた。 我們在飲食生活層面上,也直接的承受到此『贗品』大 量消費社會的不良影響的後果。拜養殖及溫室栽培技術、 或是冷凍技術的顯著進步所賜,只要去超級市場,無論 任何時間、無論何種物品,都能以便宜的價格買到。在 家庭餐廳裡,豈止是日本,連世界各地的料理都能享用 得到。而且,可以從食物感受到的季節性和地方特色的 也消失了。 出始めたスイカを前に「もう、夏だな」と季節を思い、届いた山 菜を口に、雪深い生産地を語ることもない。養殖物の魚が大量 に市場に出回り、手ごろな値段で食卓に上る。『腐ってもタイ』 などという言い方など、もう今の世代には通じない。天然物はま すます遠のき、庶民が味わえるような物ではなくなってしまった。 姿、形、色も申し分けないが、トマトやきゅうりはトマトやきゅうり に味がしない。 看著剛上市的西瓜說著:「已經夏天了吶!」或是將遠 到而來的野菜送入口中,來訴說積雪深厚的原產地,這 些都辦不到了。養殖的魚在市場上大量上市,以合適的 價錢上到了餐桌。「餓死的駱駝比馬大」等等諸此之類 的說法,在現今的時代已無法適用。天然產品離我們越 來越遠,已經變成並非平民能夠享用的東西了。雖然樣 子、形狀、顏色都無可挑剔,但蕃茄和黃瓜嘗不到該有 的味道。 生産者が手塩にかけれ栽培した「本物」は目の玉が飛び出る ほどの値段がする。日本各地の名物料理も、世界の味も、まが い物の素材では本場の味には程遠い。一般消費者の選択肢 から「本物」が姿を消してしまったのである。そればかりか、毎 日食べ残され、賞味期限を理由に当たり前のように廃棄される 食品の量は、それこそ計り知れない。 生產者親手精心栽培的『真貨』上寫著令人瞠目結舌的 價錢。日本各地的名產料理也好,世界各地的味道也好, 以贗品為素材製成的料理,其味道跟道地的味道相比實 在是相差甚遠!『真貨』已經從一般消費者的選項之中 徹底消失了影子。不只是如此,每天被人們所吃剩或以 過了賞味期限為理由,理所當然的被丟棄的食品數量, 才真正是無法估計。 「おばあちゃんのたんす」は、いまだにびくともしない現役で私 の手元にある。「もったいないから。ばちが当たるから」の口ま ねがすっかり自分の口癖になってしまった私が受け継いだので ある。たくさんのまがい物を作るだけ作って、品物や食料の大 量廃棄を続ける私たちにどんな「ばち」が当たるのだろうか。 「おばあちゃんのたんす」は見つめている。 「奶奶的衣櫥」至今仍好好地在我的身邊且還在使用。 模仿奶奶的口吻說的「太浪費了,會被懲罰喔!」這句 話,已經被完全變成自己的口頭禪的我繼承下來了。致 力於生產大量贗品和大量丟棄物品與食物的我們,究竟 會受到何種懲罰呢?「奶奶的衣櫥」正凝視著這一切。
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