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現代世界とキリスト教
アメリカのキリスト教事情
佐久間 重
アメリカ社会の2つの柱 実利主義とキリスト教信仰
(1)実利主義 → 個人主義 → 自由主義 個人や企業の徹底した利益追求
(2)キリスト教信仰 → 神の審判に基づく正義や隣人愛の追求
二面性の遠因
イギリスによるアメリカ植民地の建設の動機に反映
イングランドの宗教改革
背景
民衆の間にある反聖職者感情
イギリスのキリスト教会は外国の勢力であるローマ・カトリックにより移植されたもの
カンタベリーに最初の教会が成立
その後教会の勢力が拡大 イギリス全王国の富の3分の1を支配し、民衆から搾取を行う
直接の契機
国王(1.ヘンリー
)8世が王妃キャサリン(スペインの王女)と離婚し、女官アン・ブーリンと結婚することを希望
キリスト教の問題(離婚は不承認)に取り組むに当たり、ローマ教皇とイギリス国王のどちらが優位かという問題が生じる
イギリスの教会指導者 国王に味方する
ローマ教皇 イギリスの教会指導者と国王を破門
国王 「国王至上法」を成立さす
ローマ教会から独立した(2.イギリス国教会 )を設立
イギリス宗教改革の特徴
・教義や組織は旧来のまま
・イギリス国王が教会を支配
ヘンリー8世 修道院を解散させ、財産を没収
・教皇側のカトリック勢力(キャサリンの子供であるアン女王の側近)とプロテスタント勢力(アン・ブーリンの子供であるエリザ
ベスの側近)の対立
エリザベス女王死後 カトリック勢力の復活
エリザベスにより処刑されたメアリー・スチュアートの子供がイングランドの王位を継ぐ
スチュアート王朝の王位変遷
ジェームズ1世 → チャールズ1世(ジェームズの子供)ピューリタン革命で処刑される → チャールズ2世(チャールズの子
供) 王政復古 → ジェームズ2世(チャールズ2世の弟)名誉革命で退位
アメリカ植民地の建設の時期
イギリスがヨーロッパの大国になったエリザベス女王時代直後で、(3.ジェームズ1世 )の時(ステュアート王朝の開始時)
最初の植民地活動
・国王(4.ジェームズ1世 )から(5.特許状 )を得た集団が経済的利益を求めて植民地を建設
ジェームズタウンの建設(1607年) ヴァージニア植民地の基礎
・イギリス国内の宗教弾圧に嫌気をさした集団が宗教的自由を求めて植民地を建設
(6.メイフラワー )号に乗った102人がプリマス上陸(1620年12月)
指導的立場に立ったのは30人位の国教会からの分離を主張する急進的なピューリタン
航海中に上陸後の秩序ある生活を誓約する
メイフラワー誓約(Mayflower Contract)=キリスト教の厳しい規律を守って生活することを契約したもの
翌年まで生き延びた人数 約60人
最初の収穫を祝う 感謝祭(Thanksgiving)の起源
その後、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)に率いられた約1,000人のピューリタンが移住→マサチューセッツ湾植民地の
建設(1629年)
ヴァージニア植民地 アメリカの(7.実利主義 )の原点
マサチューセッツ湾植民地 (8.キリスト教信仰 )の原点
ヴァージニアを始めとする南部の植民地
富裕層が本国のジェントリーの立場に就き、本国と同様の農業経営
農場の働き手は、イギリス本国ではヨーマン(自由保有農民)であったが、アメリカ植民地では(9.黒人奴隷 )を使う→後の
南北戦争の原因
マサチューセッツ湾植民地を始めとするニュー・イングランドの植民地
(10.ピューリタニズム )に基づく社会・文化を形成
マサチューセッツ湾植民地→神聖政治→アメリカの使命感の源流
宗教的異端者の迫害(魔女狩り)1692年
植民地社会の成熟
(11.牧師職 )養成のための高等機関としての大学設立
ハーヴァード大学(1636年) イェール大学(1701年)など
1700年代初頭 啓蒙思想(Enlightenment,人間の理性を尊重する思想)の拡大に反比例してキリスト教の信仰熱が低下
植民地に様々な宗派が定着
マサチューセッツ植民地 会衆派(Congregationalist)
ペンシルベニア植民地 (宗教的に寛容)
クエーカー派(Quaker),メノ派(Mennonite),ルター派(Lutheran), 長老派(Presbyterian),再洗礼派(Anabaptist,Amishの源流)な
どが混在
ニューヨーク植民地 オランダ改革派(Dutch Reformed)
ロードアイランド植民地 バプティスト派(Baptist)
ニュー・イングランドに定着した会衆派、長老派がアメリカのプロテスタントの主流派(Main Line)を形成
1730年代から40年代 信仰復興運動始まる
キリスト教信仰熱の復活→第1次大覚醒(The First Great awakening)の始まり
ピューリタニズム(権威への絶対服従を求める)への挑戦
代表者:
(1)ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)
マサチューセッツで人間の能力を認めるアルミニウス主義(Arminianism)を批判し、神の絶対と人間の堕落を強調するカル
ヴァン主義(Calvinism)を(12.ニュートン )の自然科学やロックの啓蒙思想を活用して再解釈する説教により人気を集める
(2)ジョージ・ウィットフィールド(George Whitefield) メソディスト派(Methodist)の巡礼牧師
イギリスからアメリカに渡り、信仰心が厚ければだれでも天国に行けることを巡回説教して評判になる
信仰復興運動の中に情緒主義が蔓延 → 大覚醒の退潮
大覚醒の産物
各キリスト教集団の自立化(denominationalism)を促進
植民地政府からの援助への依存を絶つ
教会支援の大学の設立(例Brown, Dartmouth, Rutgersなど)
植民地文化の特徴
大商人や大地主 貴族的階級を形成
(13.イギリス )文化への憧れ
植民地独立への経緯
植民地の防衛 イギリス兵が行う
フランスやインディアンの勢力の存在
模範は本国の貴族階級
(14.イギリス )兵の駐屯は植民地人も認める
英仏対立の最終戦争(七年戦争 1756~63)での(15.イギリス )の勝利→ 植民地防御の必要性が軽減→ 独立へ
イギリス本国の財政悪化 植民地への(16.課税 )で対処
イギリス本国政府の政策への反対運動
1765年 (17.印紙 )税法制定
反対運動のスローガン「代表なくして課税なし」
1773年 (18.茶 )税法制定 →植民地に輸入される(19.茶 )には税金をかけるが、東インド会社(イギリスの貿易会社)が
販売する場合には免税とする
1773年12月 植民地の(20.茶の密輸商人 )
インディアンに変装し、ボストン湾に停泊中の東インド会社の船を襲い、
(21.茶 )箱を海に投げ入れる →ボストン茶会事件
イギリス本国政府
懲罰諸法(1774年)を制定し、ボストン湾を閉鎖