「あんたの母国語は 大丈夫か。」

連載 Washington, D.C. 通信
日本は小さな島国だが,日本語を使う人々
が 1 億人以上いる。英語が使えるようになり
たいと願うことはあっても,日本語が消滅し
「あんたの母国語は
大丈夫か。」
東京学芸大学附属国際中等教育学校
雨宮 真一
てしまうことを恐れる人はいないだろう。出
会ったタクシー運転手のように,使命感を
持って日本語を使っている日本人はいるだろ
うか。本当は,英語を使わずに日常生活で困
ることがないのも,母語で高等教育を受けら
れるのも幸運でありがたいことなのだ。
国としての日本語は大丈夫でも,海外に住
予期していなかった出会いが,忘れられな
む日本人の個々の日本語は別問題だ。ワシン
い思い出になることがある。米国在任中,出
トン補習授業校をはじめ,北米の補習校では
張で他州を訪れた帰りに空港までタクシーに
どこでも永住や国際家庭の生徒の割合が高く
乗ったときのことだ。運転手はアフリカから
なってきている。また,補習校ではたいてい
移民してきた陽気なおじさんだった。乗車後
週に一度の授業日に,日本の検定教科書を中
しばらくすると運転席で電話が鳴り,ハンズ
心に授業を進めているが,「国語」ではなく,
フリー機能で電話を取った彼は相手と話し始
「継承語としての日本語」を学びたいと思っ
めた。英語ではない。何を言っているのかわ
ている生徒や家庭は増えてきている。そうい
からないが,電話の女性はものすごい剣幕で
う彼らにとって日本の教科書は難しすぎる。
怒っているようだ。彼も負けじと大声でまく
在任中,最初の進級の壁は小学 4 年生にある
し立てて電話を切った。後ろの乗客など全く
気にしないところがなんとなく気持ちいい。
と感じてきた。小学 3 年生から徐々に学習言
語が増え,教科書を音読しても意味がわから
「彼女はずいぶん怒っていたようだったね。
」
なくなっていき,もう少し,もう少しと頑
「そうさ。俺が頼まれたことを忘れたから,
張ってきて親子共々疲れきって退学してしま
嫁さんが怒っているんだ。」
うのだ。言語はアイデンティティ形成に重要
乗客の前でスピーカー越しに夫婦喧嘩をし
な役割を果たす。補習校を辞めてしまったら
たことよりも,言語について興味がわいた。
子どもと日本とのつながりが永久に閉ざされ
「奥さんとは英語で話さないんだね。」
てしまう恐れがある。退学の決断は,子を思
「うん。俺はまだ小さかった頃,家族で米
う親にとって身を切るよりつらいことだろ
国に移民してきたんだ。学校や生活は英語
う。海外で日本語を学習する子どもたちを,
だったから,今でも本当は英語で話すほうが
教師として,学校として,また国として何が
楽なんだが,母国語を忘れちゃいけないから
できるかを考え続けた 3 年間だった。彼らは
ね。嫁さんも同じさ。俺らの祖国は貧乏だか
ら,人がどんどん外国に移民して,将来は母
将来きっと様々な形で日本と米国,世界との
架け橋になってくれるはずなのだ。
国語がなくなってしまうかもしれない。困る
ワシントン補習授業校での任期を終え,帰
のは子どもたちだよ。俺たちで母国語を守っ
国してもうすぐ 1 年が経つ。毎日の忙しさに
ていかなくちゃいけないのに,子ども同士だ
普段は在米時の記憶は遠ざかっているが,ふ
とどうしても英語になっちまう。だから仲間
と立ち止まると思い出すのは,言葉を大切に
内や家族では必ず俺たちの言語で話すように
して生きている人々のひたむきな努力だ。彼
しているんだ。あんたの母国語は大丈夫か。」
らは今日も懸命に母国語を守っている。
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