序 章 介護保険制度創設への助走 【1994年3月までの動き】 介護保険制度の歴史は何時の時点から語られるべきであろうか。日本政府が介護保険制度 について本格的な検討を始めたのは、1994年4月厚生省が「高齢者介護対策本部」を設 置してからである。しかし、この検討開始も、それ以前に多くの人々が高齢者介護の問題に 取組み、試行錯誤を積み重ねていったからこそ実現したものであった。そこで、介護保険制 度史は、高齢者介護が日本社会の重大課題として認識されるようになった時期から、高齢者 介護対策本部設置に至るまでの間の動きを、 「介護保険制度創設への助走」として取り上げ ることから始めたい。 24 介護保険制度創設への助走 ― 1994年3月までの動き ⑴ 寝たきり老人の増大と「日本型福祉社会論」の破たん 高齢者問題は、1970年代以降一貫して、日本社会の大きな課題であった。我が国にお ける高齢化の進行は、生活水準の向上や医学医療の進歩によってもたらされた大きな成果と 言うべきものであったが、一方、慢性疾患の増大とあいまって心身の能力が低下した高齢障 害者が大量に発生する事態を引き起こした。すでに1969年の厚生白書では「寝たきり老 人」という言葉が登場し、1972年に発表された有吉佐和子の「恍惚の人」では、認知症 高齢者(当時は「痴呆性老人」と呼んでいた ⑴)が身近な問題として取り上げられ、大きな 社会的関心を呼ぶところとなった。 こうした高齢障害者を社会全体でどのように受けとめるべきかについて、当時の日本政府 の基本姿勢は定まらず、統一性を欠いた政策対応に終始していた。このため、日本社会にさ まざまな形で歪みをもたらした。まず現れた事象は、高齢者の長期入院の増大である。厚生 省は、この問題を老人医療費という視点のみからとらえ、各種の抑制策を講じた。しかし、 その後も高齢者の入院の勢いは収まらず、高齢者を専門とする「老人病院」が各地に現れる ような状況に至った。このような事態に対して、 厚生省は老人病院を規制する「締め付け策」 25 の強化を図ったが、いくら規制を強化しても、実態は改善するどころか、深刻化する一方で あった。なぜならば、その背景には急増する高齢障害者を家族が支えきれない社会の実態が あったからである。 年代後半から高齢者問題に対する基本政策のあり方として台頭したのが「日本型福祉社 会論」であった。この考え方は、日本経済が低成長へ移行する中で、高齢化に伴う福祉費用 198 年の厚生省調査では死亡前に %の人が3 か月以上、 22 %の人が6 か月以上床につ 37 65 51 進む中で、家族は高齢者を支えきれず、病院への入院を選択せざるを得なくなっていったの いているとする結果が公表された。寝たきりや認知症などの高齢者の増大と介護の長期化が 7 一 方、 高 齢 者 を め ぐ る 実 態 は、 そ う し た 政 策 論 議 と は 大 き く 様 相 が 異 な っ て い た。 1986年 の 国 民 生 活 基 礎 調 査 で は 歳 以 上 で 寝 た き り6 か月 以 上 の 人 は 万 人 と さ れ、 論が盛り込まれることとなった。 位置づけ、さらに1979年5月に策定された「新経済社会7か年計画」に日本型福祉社会 れていた。これを踏まえ、1978年版厚生白書は、同居家族を「福祉の含み資産」として というものである。主張の背景としては、日本では老親と家族の同居率が高いことがあげら 祉国家モデルを否定し、日本は家族による支えを主とする「日本型福祉社会」を目指すべき の増大を危惧する立場から、高齢者福祉をはじめ公的福祉の充実を図っていた欧州諸国の福 70 26 介護保険制度創設への助走 ― 1994年3月までの動き である。さらに、頼みの綱とされた老親と家族の同居率も急速に低下し続け、高齢者を家族 で支えようとする「日本型福祉社会論」は、日本社会の現実の前に実質的に破たんしていっ た ⑵。 ⑴ 「 痴 呆 性 老 人 」 と は、「 一 旦 正 常 な 発 達 し た 知 能 が 後 天 的 な 脳 の 器 質 障 害 に よ り 持 続 的 に 低 下 し て い る 状 態 の 老 人 (1992年6月 日老健第 号、厚生省老人保健福祉部長通知) 」とされていた。この呼称は、 2005年に「認知症」 へと改められた。本書では、固有の名称として用いられている場合や当時の報告書などにおける表現を除き、 「認知症」 という呼称を用いている。 この「日本型福祉社会論」は、老親は家族が介護すべきであるという考え方が根底にあった。この考え方は、後年 の介護保険制度導入の際に再燃し、「介護の社会化」に反対し、 「家族介護」を重視する意見に結びついていった。 86 年代以降も高齢者の大量入院は続き、こうした入院患者は、疾病の治療という医学的理 由ではなく、別の社会的理由で入院するという意味で「社会的入院」と呼ばれることとなっ ⑵ 高齢者に対する医療・福祉政策の矛盾 ⑵ 30 た。そうした中で、老人病院では劣悪な看護体制の下で多くの患者が「薬漬け」となり、 ベッ ドに寝たきりになっている実態が明らかになっていく。これらの高齢者に必要なのは、 「疾 病の治療」ではなく、残存している「心身の機能維持・回復」と「社会的な自立支援」であっ 27 80 た。ところが、本来こうした人々を支えるべき福祉サービスは非力であった。 当時、高齢者福祉は措置制度によって運営されていたが、措置制度は、一般国民を対象に 普遍的なサービスを提供する医療保険制度とは異なり、低所得者など保護の必要な一部の者 に対して、公権力による行政処分としてサービス提供を決定することを基本に置いていた。 日本型福祉社会論や緊縮財政の基本方針に基づき福祉予算の抑制が貫かれる中で、措置制度 で運営されていた特別養護老人ホーム(以下「特養」という)の入所者は低所得者などに事 実上限定され、施設の増設も高齢者数の伸びに到底追いついていなかった。在宅福祉サービ スも極めて限られた人々にしか提供されておらず、1982年にようやく訪問介護(ホーム ヘルプサービス)が所得税課税世帯でも利用可能となるような状況であった。福祉サービス の不足を補完する観点から、医療と福祉の中間、さらに家庭と施設の中間に位置づけられる 受け皿(中間施設)として、老人保健施設(以下「老健施設」という)が創設(1986年) されたが、その数は限られていた。こうした結果、高齢者や家族の多くは、医療保険制度に よってアクセスが保障されている病院への入院を選択せざるを得なかったのである。 まさに、我が国の高齢者に対する医療・福祉政策の矛盾が、高齢者の「社会的入院」の増 大という形で現れていた。 28 介護保険制度創設への助走 ― 1994年3月までの動き ⑶ 「ゴールドプラン」と「福祉八法改正」 このように深刻化する一方の高齢者問題に新たな局面をもたらし、政策的な矛盾を打開す る契機となったのが、1989年 月に厚生大臣、大蔵大臣、自治大臣の3大臣の間で合意 万人、ショートステイ5万床、デイサービスセンター 1万 か所、特養 万床、 万床などを目標数値として掲げていた。この目標数値は、当時のサービス水準と 24 10 比較すると、ホームヘルプサービスは約3倍、デイサービスやショートステイは約 倍にす 老健施設 ムヘルパー ていた。目標年度を1999年度とし、 今後 年間に約6兆円の予算を投入するもので、 ホー 者対策の一環として高齢者の在宅・施設福祉サービスの整備を推進することを主な内容とし ンは、1989年4月に消費税(3%)が導入されたことを踏まえ、社会的弱者である高齢 された「高齢者保健福祉推進十か年戦略」 (通称「ゴールドプラン」 )である。ゴールドプラ 12 ることを意味していた。マスコミの論調は実現を疑問視するものが多かったが、意欲的な目 10 標数値や財政規模(過去 年間で1兆7000億円程度であった予算を3倍以上に増大)が 10 盛り込まれたことから、それまでの福祉予算抑制路線を見直すものとして各方面の注目を集 めた。 29 10 28 このゴールドプランを地域レベルで推し進める役割を担ったのが、1990年の老人福祉 法等の福祉八法改正である。この法改正により、 在宅福祉サービスが法定化されるとともに、 市町村が在宅福祉と施設福祉を一元的に提供する体制が整備された。さらに、都道府県と市 町村は「地方版ゴールドプラン」とも言える「老人保健福祉計画」を1993年までに策定 することが義務づけられ、この計画策定作業 ⑶を通じて、各地で高齢者介護の問題が大きく 取り上げられ、介護サービスの整備に拍車がかかることとなった。 また、 年代初めには、在宅サービスのメニューとして、在宅介護支援センター(1990 年)や訪問看護制度(1992年)が導入されたほか、老人病院についても介護力を強化す このように 年代に相次いで取組まれた、在宅・施設サービスの質・量の両面にわたる整 備は、後年の介護保険制度の創設へと結びついていった。 る制度(特例許可老人病院入院医療管理料)が創設された。 90 ⑷ 「介護対策研究会」と「高齢者トータルプラン研究会」 ⑶ 地方自治体の老人保健福祉計画策定には、行政関係者や関係団体のみならず、地域住民が参画するケースも見られ、 これが介護保険制度創設時における市民参画の重要な契機となった。 90 30 介護保険制度創設への助走 ― 1994年3月までの動き 高齢者介護について社会保険方式を含めた制度面の検討について言及した公的な報告は、 1989年 月の「介護対策研究会(座長・伊藤善市東京女子大教授) 」が最初である。こ の報告書では「費用負担問題の検討の視点」として、 「財源、制度については、保険に馴染 むか、財源制約の性格の違いはあるか、所得保障との関係をどう考えるのか等の観点から、 ①公費、保険料、双方の組合せのいずれにするのか、②社会保険方式の場合は、医療保険制 度、老人保健制度、年金制度、単独制度等のいずれの方式にするのか、③現行の措置費制度、 特別障害者手当制度等他制度との関係をどう整理するのか(報告書の抜粋) 」について検討 を進めるべきである、という指摘がなされていた。 その後介護保険制度に関する議論は、一部研究者の間で続けられたが、厚生省内の動きと しては、1992年に当時の老人保健福祉部長が部内勉強会として主宰し、担当審議官、関 係課長や課長補佐らが参加した「高齢者トータルプラン研究会」があげられる ⑷。この研究 会の報告書は公表されなかったが、その中では、介護を高齢化社会の社会的リスクとして捉 え直す考え方が提起されていた。現行の特養の措置制度が救貧的であり、所得水準、生活水 準の向上に見合ったサービス改善が進まず、極端な応能負担により、中流層以上を事実上排 除していると指摘し、こうした低所得者向けの公的扶助の考え方を転換するための具体的な 対策として、①高齢者の介護に着目した社会保険制度(介護保険)の導入を図る、②高齢者 31 12 介護施設として、老人病院、老健施設、特養を一元化する、③高齢者介護施設の入所は現物 給付とする、④高齢者介護施設については、生活費は自己負担とし、介護サービスは介護保 険給付とするなどの案が提案されていた。 この報告書は、特養など高齢者介護施設を中心とした社会保険の導入を念頭に置いており、 在宅給付の扱いは今後の検討課題としていたが、介護保険制度を正面から取り上げ、具体的 な提案も盛り込んでいた点が注目される。 ⑷ 「 高齢者トータルプラン研究会」の記述は、日本医師会総合政策研究機構(1997年) 『介護保険導入の政策形成 過程』 頁による。 ⑸ 「 世紀福祉ビジョン」の公表 13 「 その後、介護保険制度をめぐる動きは活発になっていった。厚生省の公的な報告書として、 1994年3月 日に「高齢社会福祉ビジョン懇談会(座長・宮崎勇大和総研理事長) 」の 21 世紀福祉ビジョン」が公表された。この報告書では、介護保険制度という名称は使って 28 点が掲げられた。これらは、その後の介護保険制度の基本骨格に通ずるものであった。 いないものの、「新介護システムの導入」が明記され、その基本的視点として次のような5 21 32 介護保険制度創設への助走 ― 1994年3月までの動き 「 世紀福祉ビジョン」(抜粋)(1994年3月 日高齢社会福祉ビジョン懇談会) イ 世紀に向けた介護システムの構築 介護を要する高齢者が増大する 世紀に向けて、上記新ゴールドプランによるサービス提供基 盤の緊急整備を進めつつ、「国民誰もが、身近に、必要な介護サービスがスムーズに手に入れられ 28 ④増大する高齢者の介護費用を国民全体の公平な負担により賄うシステム ③多様なサービス提供機関の健全な競争により、質の高いサービスが提供されるシステム 選べるようなシステム ②高齢者本人の意思に基づき、専門家の助言を得ながら、本人の自立のために最適なサービスが その際、基本的視点として、以下のような点が重要であると考えられる。 ①医療・福祉などを通じ、高齢者の介護に必要なサービスを総合的に提供できるシステム が必要である。 態やニーズに応じて必要なサービスが等しく受けられるような介護システムを構築していくこと その際、介護問題は、福祉のみならず、医療、年金など社会保障の各分野にまたがる問題であ ることから、介護に着目した社会保障全般にわたる再点検を行い、施設でも在宅でも高齢者の状 るシステム」を構築していく必要がある。 21 ⑤施設・在宅を通じて費用負担の公平化が図られるようなシステム 33 21 21 ⑹ 厚生省の「省内検討プロジェクトチーム」の検討 一方、厚生省内部では介護保険制度について具体的な検討が進められていた。その中心と なったのは、1993年 月 日に省内に設置した「高齢者介護問題に関する省内検討プロ 25 スクは普遍的であり、国民相互の社会連帯を基本とする、⑥費用負担は、保険料・公費(国・ サービス体系である、④在宅・施設間のサービス水準・費用負担は公平にする、⑤要介護リ 日常生活支援サービスと医学的管理サービスを一体的に提供する、③現物給付を基本とした 基本的視点として、①個々人のニーズに応じたサービスを最適な組み合わせで提供する、② まず、今後増大し多様化する高齢者の介護ニーズに対応していくためには、介護に着目し た新しいサービス体系を構築していくことが必要であるとの基本認識の下で、新システムの な内容を盛り込んでいた。 を取りまとめた。報告書は、部内資料の扱いとされ公表されることはなかったが、次のよう たな高齢者介護システムのあり方について総合的な検討を行い、1994年3月に検討結果 大臣官房審議官(老人保健福祉担当)が総括し、企画官や課長補佐らが参加したもので、新 ジェクトチーム」(以下「検討チーム」という)である ⑸。検討チームは、事務次官を長に、 11 34 介護保険制度創設への助走 ― 1994年3月までの動き 地方自治体)と合わせて利用者負担も組み込むこと、があげられていた。 介護サービスについては、サービス給付は、対象者を 歳以上の要介護者とし、サービス 利用は指定サービス機関(市町村が指定)と本人の契約に基づくものとした。その上で、高 齢者の自立に必要なサービスを最適な組み合わせで提供するため、 専門家(ケアマネジャー) が高齢者の心身の状況等を総合的に判定・評価し、個々人ごとのサービスパッケージを組み 立て、その後のフォローアップを行う、というケアマネジメントの仕組みを制度化すること が提案されていた。 また、身体介助や家事援助などの日常生活支援サービスと医学管理サービスとを一体的に 提供するため、在宅サービスの種類として、ホームヘルプサービス、ショートステイ、デイ サービス、訪問診察、訪問看護などのほか、配食サービス、住宅改造、福祉用具の給付・貸 与等があげられていた。従来の医療・福祉各々の体系の中で提供されていた施設サービスは 「高齢者介護サービス提供機関」として再編成し、療養や生活支援等の施設の機能特性、利 用機関等に応じていくつかの類型に体系化するとしていた。 、利用者負担を適切に組み 一方、制度に要する費用は、保険料、公費(国・地方自治体) 合わせることが提案されていた。基礎的生計費については、利用者負担を原則とし、低所得 者等については別途措置を講じることとしていた。制度試案としては、2つの案が示されて 35 65 いた。第1案は「独立の社会保険制度」案で、市町村を保険者とし、 歳以上の住民を被保 護対策本部」を立ち上げたのであった。 以上のような「創設への助走」と言うべき道程を経て、1994年4月、厚生省は介護保 険制度の創設に本格的に乗り出すことを決断し、省をあげて取り組む組織として「高齢者介 な役割を果たすことになる。 このように、検討チームの報告は、新たな介護システムの基本的な考え方や介護サービス 体系として介護保険制度に繋がる重要な考え方が網羅されており、その後の制度検討に大き 料は医療保険各保険者が算定・徴収するというものであった。 共同事業」案で、当時の老人保健制度をベースとして、市町村が事業実施主体となり、保険 財政調整措置を実施する、というものであった。第2案は「市町村と医療保険各保険者との 険者とする。保険料は全国一本の料率とし、市町村ごとの高齢化率・財政力の差異に基づき 20 「 高齢者介護問題に関する省内検討プロジェクトチーム」の記述は、 日本医師会総合政策研究機構(1997年) 『介 ⑸ 護保険導入の政策形成過程』 〜 頁による。 13 16 36
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