叶われ月﹂と﹁みだれ髪﹂の絵画的特性をめぐって 太 上、 ノ一 登 明治三十四年 の短歌史的意味 1﹁ 代短歌史の構想というこころみにおいて、与謝野鉄幹 と 石川 啄 いう二人の歌人的位相を考察しながら明治四十三年の短歌史的 を 明らかにした拙稿﹁明治四十三年の短歌史的意味| 鉄幹から へ| ﹂ -﹁ 山 逼迫﹂ 第 鶴首、平成 8年 3旦で、明治二一 十四年と 年を近代短歌史の大きな転換点として設定したいとい うもく る の べておいたが、本稿では、金子薫園の第一歌集﹁ 片 われ 月 ﹂ 謝野 晶子の第一歌集﹁みだれ髪﹂の絵画的特性をめぐ って、明 落合直文から与謝野鉄幹、金子薫園 へ 十四年の短歌史的意味を考察することにしたい。 1 明治二十四年十一月編纂の﹁新撰歌典 ヒおよび二十五 年三月創刊 ﹁歌学﹂を経て、落合直文は二十六年二月に近代短歌 結 社の創始 に もいうべき浅香社を結成した。このとき与謝野鉄幹は 数え二十歳 者 田 学 高 い 一 の し で 南 の わ の 味 実 相 ( と 声 ﹂は、﹁与謝野鉄幹足下に与ふ﹂という公開 書を もって新詩社 上 、 ノ一一 人は、直文からもっとも愛された兄弟弟子としての 関 係 にあった。 ﹁明星﹂にたいする宣戦布告書となした。如上の論駁にしたがえば、 ﹁新声﹂の薫園、﹁明星﹂の晶子が新声 すでに明石 利代 ﹁関西文壇の形成 | 明治・大正の歌誌を 中心に1口 一昭和㏄年 9月︶が指摘するように、三十三年一月の﹁ よしるし草 ﹂ の攻撃目標であったことが理解できる。 2 ﹁ 叶 われ 月﹂とその絵画性 の ﹁ 叶 われ月ヒ と晶子の﹁みだれ髪﹂は出版された。 こうした新派和歌運動の先陣をめぐる険悪な気運のな かで、薫園 社 新詩社の両者 にとって最大 第二十二号に鉄幹と薫園の詠草が見開きに掲載された のは、﹁中央 歌壇で新しい和歌の作者として活躍している薫園の協 力を暗に示す 意図のもとに、新詩社を結成した鉄幹を支持するため 0編集﹂であ ﹁ 紫墨吟 ﹂ 十 選 者薫園を新派 ったといえよう。また同年四月号の﹁新声﹂でも鉄幹 二官 と薫園﹁菜花葉﹂十七百 が 見開きに掲載され、 の躍進をはかろうとする意図が読みとれる。ときあた かも﹁明星﹂ た 。薫園じしんの回想に ょれば・﹁与謝野氏等の明星派 が恋愛至上 であると同時に新声 社 にとっても最初の本格的な歌集 の出版であっ 明治三十四年一月に刊行された﹁ 叶 われ月ヒ は、薫園 の第一歌集 創刊の明治三十三年四月の鉄幹薫園はいわば蜜月時期 のさなかにあ 正義で、歌壇を風塵するばかりであった時に 、 私は 亡 き 母を恋 ひ、 和歌運動の先頭に立つ鉄幹と並称することによって、 ﹁新声﹂歌壇 った 。 師を慕ひ、祖父母や妹を想 ひ、 友に親しみの情を寄す る 一方、自炊 八 」 は あ ところが﹁新声﹂﹁明星﹂に相互にきわめて協力的で あった二人 慕 巻 - 記 で の関係は、子規鉄幹不可並称論議が集中した三十三年 九月頃から 急 。 小 速に 疎遠となった。﹁よしあし草 ﹂の後継 誌 である﹁ 関西文学﹂の に 愛 集 集 品 三十三年十月号の﹁来者下炬﹂欄は、﹁新声﹂の選者 薫園の短歌を 酷評し、十二月号では﹁本月の﹁新田互に 鳳女史の歌 は鬼才なりと 一月ロ すの﹁ 新 ﹂という 云ふ 様なことが見え 候 ・生意気も程のあることに 候、 新声社の中に 一人でも国詩の智識を有する人存亡 候や、 ﹁鉄幹子 よりの来書﹂が掲載されている。堅三十四年 た ゐ 一 2 何 の歌、そして どの多くの追悼 歌、兄弟子の鉄幹を悪う﹁世のちりに 汚れや せむと ﹁母のためりゑし 小萩もを れ ふして 御墓 のまがき秋く れ むとす﹂ な かに二百六十五首の所収 歌は 、三十一歳で急逝した 母 ち かを偲んだ 巻頭歌である 1 ﹁あけがたの﹂は、いかにも初心者らしい一本調子 入れつつ、集中のおよそ大半を占める叙景歌の特色を明示している。 り ﹂﹁ゆふ づく 日﹂という︵時令︶︵天象︶などの歌語や歌材を取り う ︵鳥 Ⅰ﹁鳳仙花﹂﹁菜の花﹂という︵草木Ⅹ﹁ 私く れむ ﹂﹁花 ぐも ﹁菜の花のさきつ,きたる そ 。ろありき﹂﹁うぐ ひ すのはつ 昔 ﹂﹁藪 かげの道﹂と いう平淡清明 の歌で直文の浅香社に入門直後の作と考えられるが、 ﹁あけがたの 雲の中に秘めけむ君がうたをきかぼや﹂などの交友 どの叙景 歌という三つに大きく分類される。とりわけ ﹁自然に愛慕 なことばの調べによって、早春の爽やかな情趣を平明 にとらえてい 山ばたのかぎり見えけり 茅 ふける 家 ﹂ な の心を捧げて ぬた﹂という薫園の本領は、二十九年八月号 ﹁文学界﹂ る 。 6 ﹁鳳仙花﹂は、﹁鳳仙花 照 らす ゆふ 日に﹂とい・ っ視覚的表現 と﹁おの づからその実のわれて﹂という聴覚的表現 と の重奏によっ 掲載の﹁ひと 雫﹂二十五首の巻頭歌である やまざとは軒もる昔もしのび つ、柴のあみ戸に春さめ ぞふる て、 深まりゆく秋のさやけさが立体的に浮かんでく る。は・はも に顕著なように自然の景物を客観的にとらえた温雅な 叙景 敵 にあっ ﹁ 花 ぐもり﹂﹁日影﹂﹁嵯峨の山里﹂、﹁ ゆふ づく 日 ﹂﹁菜 の花ばたけ﹂ 薫園は自吠の景物として好んで﹁ 月﹂や﹁ 梅﹂という 歌材を詠んで として、敬一百から醸しだされる情感に乏しいとい・っ憾 みはある。 とはいえあまりにも自然を素描しただけの生地そのま まの叙景 歌 陽 のぬくもりがほのぼのと伝わってくる。 ﹁妹が家﹂という自然の景物を絵画的に配合すること に 2 つて、 春 * +八 @ . 。 ュあ けがたのそ ,ろありきにう ぐひ すのはつ 昔 き、 たり 数か げ の道 6鳳仙花照らすのふ日におの づ からその実のわれて 秋 くれ む と す 梅﹂を詠み込 んだ十三首を いるが -﹁ 月 ﹂を詠み込んだ二十四百、﹁ は花 ぐもりしばしははれてのどやかに日影さすなり嵯 峨の山里 合わせると集中の叙景 歌 のおよそ半数になるⅠつぎ に引用する 歌 刻まる窓に老木の梅のかげ痩せてすみ絵のま 、のうす 月夜かな にそれが明白である。 ㎎ ゆふ づく日かすかにのころ山もとの菜の花ばたけ妹 が家見ゆ いずれも歌集の導入部に位置する歌であるが、﹁ぅぐ ひす﹂とい /¥¥¥ 一 きめ ﹂という直哉な表現がその興趣を雲散させたきら ぃ がある。 映し出されたシルエットに興趣をそそろうとしたが、 ﹁すみ絵の おそらく﹁老木の梅﹂と﹁うす月夜﹂との配合によっ て ﹁まる窓 ﹂ の詠風の摂取につとめていたことがわかる。 井上文雄の家集﹁ 調鶴集ヒ 佐佐木 弘網の序を付し、 慶 応 3年刊行 - 幕末から明治維新にかけて活躍した江戸派最後の歌人 ともいうべき 二元﹂大正旧年 8月一で述懐するところに ょれば、 そ の修業時代、 工 八四 のことを晶子の﹁みだれ髪﹂のつぎの歌などとくらべ てみるとよ に 繋清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ 逢ふ 人 みなうつく しき にきわめて 柵 みなぞ こにけぶる里美 ぬ しや 詐 れ緋鯉のせなに梅の 花 ちる M. 柵もともに﹁ 片われ旦の初﹁まる窓に﹂と同様 隅田川なか洲をこける潮先にかすみ流れて春雨のふる 河上暮秋 秋くる、タ河そひ のくぬぎ原うすき日影に小雀なくな いずれも春秋の景情をこまやかな自然観察によって と らえた叙景 0組合せが水底から浮かび出された黒髪の女人の妖艶 な美しさを 人たちに相通ずる一面があり、明治歌壇の先駆をなす 作家であると いてゐる﹂とし、かれの作風には直文をはじめとする 新派和歌の歌 味 ではあるが清新であり、感覚も鋭くはないけれども 細かく行き届 昭和 6年は月一は、文雄の歌風が﹁軽妙﹂﹁品のいいやさしさ﹂﹁小 までもない。 の大きな差異こそがそれぞれの歌集の絵画的特性であ ることはい が 歌 りに大きな差異が見られることに気づかされる。後述するように、 はいずれも絵画的発想によりながら、﹁月 ﹂﹁梅 ﹂とい う 歌材の広 め 構図﹂の模倣にだれよりも熱心な歌人が若き薫園であ った。 らわれず自妖の景趣を清新かっ細心に詠み込んだ、 ぃわば﹁文雄 式 もあり、実際に、軽妙 酒脱 な江戸前の歌風によって用 語や技巧にと 評価している。前川のいう文雄の歌風の特色は同時に 薫園のそれで ﹁梅の花﹂ れぞれ色彩的に際立たせながら・一百全体に幻想的な 情趣をきわ が て映像的に映しだしている。﹁ と 叶 われ 月 ﹂﹁みだれ髪 ヒ のこれらの ﹁こょひ 逢ふ 人﹂たちの優艶な美しさを、﹁緋鯉﹂と 1ム を基調としているのにたいし、﹁桜月夜﹂という 日朋子の吐 坦五町 絵 % め典型といえる。前川佳美雄﹁井上文雄﹂ 宅短歌話 座 ﹂第 7巻、 面的な発想を特色としている。しかし薫園短歌の絵画 性が モノク 河春雨 ま 歴然とする。 こ り 口 そ そ 、ひとつの定型的な構図がある。薫園みずからが﹁ 調 鶴集 と私﹂ ところでこうした自然の景物を素描する﹁ 片 われ 月 ﹂ の叙 三足 歌に むとす﹂の 一首にしても、﹁調鶴集ヒの ﹁八月つごも りばかり物へ 前掲 6 ﹁鳳仙花照らすのふ日におのづからその実のわ れて秋 くれ う @ ま 山里のそともの豆生おの まめふ づからこぼる、見れば 秋 更け まかりける道にて﹂という詞書をもつ 一般芸術の基礎をなして居る如く、和歌研究の根抵と なるべきもの も 、 矢張り此の写生に基づかねばならぬ。写生の用務 は、 王として 自然の景物を写すにある﹂と記している。周知のよう に、正岡子規 が俳句短歌の表現技法として唱えた︵写生︶は、もと もと中村不折 らの洋画家の画法であるスケッチに示唆をえたといわ れている。 し の ﹁文雄大構図﹂の叙景 歌 に与るところ大であった。 ㎝タやけの中にたちたる柿の木の柿 のひとつに目白つどひよる たがって、ここにいう︵写生︶が﹁ 叶われ月ヒにおけ る絵画的特性 ﹁この書の挿画のひとつなる結城表明君の作は 、君が 士心願兵にて、 ﹁ 叶 われ月﹂の﹁例言 四﹂に薫園はつぎのようにいう。 に密接に関与していることはいうまでもな Ⅸてる月にひれふる角のかげ見えて ゆく舟からし江戸川のみ づ Ⅸはっ時雨よきてもふれや朝顔のち ひさく咲きて 枕くれむとす 袖朝霧のうする、ままに梅もどきさ やかになりて日は出でに け 片われ月﹂ 察眼 によって自在にうたう文雄の歌境に近づこうとす る ﹁ これらの歌もやや類型的ではあるが、自扶の風趣をこ まやかな 観 こらされしものをよせて、さびし き わが歌の集に 、匂 ひちそ へられ は、あらためて、言はざるべし。また、木折画伯の 、わきて意匠を らず、わがために、画きおこせたるもの、君が友につ くすまご、 ろ 入営 せむとするにあたり、なにくれと、いそがはしか りしにか の持ち味でもあったことはたしかである。その持ち味 は、﹁柿の木﹂ たる。一条成美君の、かねて、われに贈られし作を り と﹁目白﹂、﹁ ひれ ふる仙﹂と﹁舟﹂、﹁時雨﹂と﹁朝﹂ 顔、﹁朝霧﹂と こ、に載することをえたるなど、 いづれも、よろこ ば し﹂。 っ生かされて す﹂﹁日は出でにけり﹂という全体の構図のなかにど, な仕上がりになったとすれば、中村不折の口絵、結城 泰明、一条成 まさに地味そのものというほかない四六判紙 袋板縁 の歌集が庸酒 、たまたま、 私くれむと ﹁梅もどき﹂という素材の配合が、 ﹁ タやけ﹂﹁江戸川﹂﹁ いるかによって左右されるが、ここに﹁叶われ月目の絵画的特性を る図﹂という題詞のある中村不折の折り込みの口絵に は、中央の手 美の挿画などの絵画的効用によるものであろう。﹁ 片 われ月に 題す 薫園は師直文の﹁新撰歌典 ヒに 倣って﹁作歌新辞典ヒ という手引 前に松の大木を配し、その後方に茅葺きの家が描かれ 、左の隅 端に 見ぃだすことができょぅ。 き書を編纂しているが、その﹁ 第豊編 四季﹂のはしがきに﹁写生が Ⅰ八五 集成美の描く川辺の風景 明の描く山家の風景も一 汲みとれる。また結城 素 えるという田園の野趣が かすかに片割れの月が見 一年に西洋画科に再入学 両 科の教室を開いた三十 た 泰明 は 、浅井忠が西洋 学校の日本画科を卒業し た後、三十年に東京美術 山 派の川端玉章に師事し 訊年竹月一に ょ れば、 円 ﹁理想主義を旗識 とした 日 亭 、平福百穂らとともに し ・三十二年には福井 江 もともに端正な筆致でお 中 だやかな 自 牡の景情を ょ では、﹁叶われ月日の詩趣 本 美術院のいわゆる 檬瀧 く 伝えている。その意味 と みごとに調和した口絵 回体とはまた 異 った立場 上ノ Ⅰ上 ノ Ⅱ を であり挿画であったとい ム から洋画の影響を咀 嗅し、 土戸 えよう。 平明な客観的写実を追求﹂ 虹 もとより﹁ 叶われ月日に は、﹁繁明君と共に舟を乏べて﹂﹁木折田 ていた。 な 画家との幅広い交渉が当時の薫園にあっ 覚的 派 伯の贈られたる画に﹂﹁ 下村観山君の ゑがきし﹁長安一片月日に﹂ 術院 園 こうした新傾向を打ちだ り などの詞書が示すように、 共感した薫園もまた、﹁文 とは対比的な淡い自然 味か 奥行きをもたらすことに 昔 にと つて願ってもない指煙 し る薫 が に 貫合 たことは自明である。とく・に明治三十三年の春、鉄幹の紹介で相知 る友 となった結城表明にた いしては、 などの交遊の歌人 首が 集中 におさめられ、その親密な関係がわかる。 の画に入りてわが 歌 ぶくろ歌みかりけり 胡花 あやめみな君が手- | 明治大正昭和の挿絵1口一昭和 匠秀夫﹁近代日本の美術Ⅲと文学 結成 表明 木 画 か 本 家 展 か 美 視 の す 椎 オ た 三十三年春 に開催され、三十三年五月の﹁明星﹂第二号の﹁ 文界雑 自妹T正義 の 語﹂欄には、﹁新に日本美術の根帯を作らう﹂として ﹁ ﹁ 甘 舌口音 た 。﹁片 われ 月 ﹂が刊行された三十四年一月の﹁新声 ﹂ かり 紹介があり、三十三年十一月の裸体画問題に よる鉄幹との確執で 新 姐﹂欄に 、﹁儲酒清新、何処までも自然は貴ぶ所の見えたのは 詩社を脱退したばかりの一条成美の挿画も新登場し、 後述する よう 旗識を翻へした無声 会﹂は﹁美術団体中の第一位であ らう﹂という に、外光と色彩によって近代西洋画の確立をめざす 白 馬会に密着す かつた。 分けて泰明氏の作の清新にして野趣に富めるは、この ム五の かズ ウオ ルス といふ趣きがある。陶淵明といふ趣がある。我が 固め 白眉であ つた。これを外国の詩人に讐 へて見やうなれば、 とい 先づ ウオ 近世の歌 人 に求むれば、マア井上文雄 とぃふ 趣があるやうだ﹂ 一 と同時に文学的立場︶は 当妖 ながら る ﹁明星﹂との対決姿勢を明瞭に表明している。 この﹁新声﹂の編集方針 うように 好意的に紹介されたが、井上文雄の歌風と結城表明 の画風 に 一致する詩境があることを ﹁新声﹂和歌欄の選者薫園の立場を限定するものであ った。もとよ 野趣に清新な味わいを見いだした文雄の歌風を敬慕 し つっ、自然界 りそれは薫園の歌人としての資質にかなりところであ った。出国の ともあれ 虹声合の中心的存在 衛兵第二連隊に入営したため 川端 塾以来の画 友 である半 頁穂が 健筆を発揮するように るが、その 百穂に全面的に 慨 したのが同郷の﹁新声﹂記者 田口 掬汀 であった。したがっ 無声会 と﹁新声﹂との連携は 、 のずから強固なものとなっ 3 ﹁みだれ髪 ヒとその絵画性 明治三十四年八月に東京新詩社から刊行された晶子 六セ 三十三年九月発行の第六号から創刊以来のタブロイド 判の新聞型 た。 ﹁みだれ髪﹂は、新詩社および﹁明星﹂の命運をかけ た出版であっ の第一歌集 び佃戸会の画風を積極的に摂取した﹁ 片 われ 月 ﹂は 、 その叙景 歌に の ︵写生︶に徹することで新しい日本画をめざそうとした表明 おょ 一条成美の挿画 あった表明が三十三年暮れに ったことがわかる。 破したのは薫園ひとりではな と 看 か で 近 に 福 な 力 の て お 四六倍判の雑誌 へとスタイルを 新した﹁明星﹂ 、﹁文学美術等 上 より新趣味の 六八 ね 及せんことを願 さ て、雑誌﹁明星﹂を公にす﹂という意気込みにふし さい わ斬新な 朗を シスによって、当代の文学青年たちの感受性を大刺 い激 にした。 は つ ころが三十三年十一月発行の第八号に掲載された名 ﹁一 仏里 国一葉﹂ いわゆる風俗壊乱を理由に発売禁止処分となり、 にさ そら の挿画 模写した人気挿絵画家の一条成美が退社翌 し三 、十四年三月には 三鏡 によって 、鉄幹じしんは 幹の品行を誹訪中傷する﹁文壇照魔 とより新詩社および﹁明星﹂は窮地に追い込まれる にこ なと った。 し 構 的 」 君 「 うした危機的状況を打開するために鉄幹が選択戦 し略 たは、社会 に指弾されたおのれの︵現実︶に根ざし 女弟 た子との恋愛生活を 比 とともだ いれ 流 し い れ 一目 の 耽 む 要な ひ て し .7 く や み ら さ こ 目木 るかみ『 き 野 の つぎ 紅 ゑ 絵 して の 壇ジャーナリズムにたいして︵文学︶として提示こ すと るであっ ら﹃出み 人 に ま よ よ か 鉄 「 午 み し な君 『みだれ髪』の 表紙 された。﹁むらさきの襟に秘めず 吾も ひいでて君ほほゑまば死な と @@@@@ が き ふり Ⅰ 刀 か ハ ノ ン 図の な た 」 「 人 絵画 瞭然 を 型 一 は の 普 ひ セ と が を 鉄 も こ 的 文 た だ 版 の の おちぎりてし人待ちをれば椎がもと椎の実落ちて夜は ふけに け でセンシュアル な感覚によるものでもあった。そのき ねまりを﹁ 嚥 脂紫﹂の章におさめられたつぎの二百に見ることがで きよう。 ㏄ ゆあ みする泉の底の小百合花 二十の夏をうつくしと 貝ぬ ﹁君 ﹂﹁ちぎりてし 人 ﹂への思い人れが﹁ 桃 ﹂﹁椎 ﹂と いう淡い色 彩の配合によってそれぞれほのかな慕情として抑制さ れているのに へず 目隠しをした 鶴みだれごこち まどひ ごこち ぞ頻なる百合ふむ神に 乳 おほひあ 。さらに恋し ﹁ゆあ かする﹂﹁みだれごこち﹂の トレ )ミ 力 ﹁恋愛﹂ということからかえば、見開きにある ㏄・㏄は 、 ヒド が矢を っがえている藤島武二の挿画があ る。そのタイ 愛の神 ク。 二首の左頁には、 ︵ @ 日な﹁絵 たいして、﹁みだれ髪﹂では恋愛者の抑えがたい情動 が亘且 0 目︵﹂の色彩を自在に駆使するように表現されている い人を待つ身の心情にしても、﹁椎がもと椎の実落ち て夜はふけに とか、 けり﹂というように自然の情趣のうちに沈静化平板化 された﹁ 片わ れ月目にたいして、Ⅲ﹁野末にほひて 虹 あらはれぬ﹂ 拙野茨をりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君 まちわび と若々しい裸婦像の肉感的イメージとを絵画的視覚的 ほかさね あわ ﹂のイメージ ﹁野茨をりて髪にもかざし手にもとり﹂とか、きわめ て高揚した せることによって、センシュアル な ﹁みだれ髪ヒの恋 楚歌のひとつ ﹁性愛﹂﹁女体﹂の象徴ともいうべき﹁小百合﹂﹁百合 ぃ る。とりわけ ぬ 夢幻的浪漫的な気分が﹁みだれ髪上には充溢して の典型を示しているといえよう。 レⅠ が たいする鉄幹の文学的戦略であった。もとよりそのこ レⅠド片日明子 別言すれば、このセンシュアリズムこそが文壇ジ ャ| ナリズムに ﹁野茨をりて髪にもかざし手にもとり﹂は、 ﹁みだれ髪目の恋愛敬 が な 人の姿態を絵画的に発想することにもとづいている ことを顕著に 示している。 れほど自覚的であったかは不分明であるが、むしろ す でに中陪﹁ 与 ﹁この添削に ﹂とながら こうした﹁みだれ髪 目特有の絵画的発想は、自明の @ 何 として㏄﹁ ゆあ みする﹂をあげて、 よって一首が生動していて、寛の指導ぶりの 解 かさの 一端を示して たと思われる﹂ 謝辞鉄幹﹂︵昭和的年2月一が﹁晶子の歌に寛が明ら かに手を加え ベルナール﹂ ﹁明星﹂第六号の百合の花を口もとに寄せる黒髪の裸 婦像を描いた 表紙面 や、アルフォンス・ミュシ ャ のポスター﹁サラ を模写したカットなどに具象化されたアール・ヌーヴ オ ーのモダン 六九 る﹂と論証すよ るうに、あるいは島津忠夫﹁﹁髪 み白 だの れ成立 し 編目所収 一が目みだれ髪 ロが晶子の好みのまま 詠の 作でなく、 ので、美感の上の事を値 男 な自己の実感で解釈する 愚 論 である﹂ と鉄幹とのふロ作の集であった﹂と論及す如 る上 よの う鉄 に幹 、 じ この鉄幹の解釈をふまえて、水腹知史 目みだれ髪﹂の 画像世界﹂ 宅 宇 使っている﹂とし、﹁鉄幹は、西洋化を近代の根拠と するという の |ナリズムから批判される要素があった。た恋 と愛 えは ば美 ﹁的 に 一 定 の 理 解 を 寄 せ て い た に も か か 目 わ 乱 ら れ ず 髪 、 活の最も美はしきものの一平﹂として、その楽 ﹁の 人境 生地 毛﹂ 絶対的価値を認めた﹁美的生活を論ず﹂︵﹁% 太 年陽 8﹂ 月明 一治 傍を す標 る﹁明星﹂の浪 高山樗牛が自我独創の詩歌 主漫 義理想主 ﹂は一時 奇 を歌はれたれども 浮, 情浅想 、久しうし堪 てゆべからざ るを覚ゆ﹂ 批判せざるをえないところに大方の見方がこ あ うっ した た。 文壇 あへぬ 、かう絵画的云 にひ現した所が面白いの読 で者 、は之に 対 を 主張した 想 によって、西洋絵画からの影響という要素を重要視 し、 新しい 照 規範を設定しようとし﹂、﹁鉄幹は、裸体画の芸術性 うに、西洋絵画の芸術性を近代の証ととらえながら、 西洋美術を 照 しつつ晶子の歌を読解することによって、道徳的な 批判を封じ め、近代的な恋愛の神話を作り上げることに力をそそ ぃだのであ ﹂と指摘している。さらに中山和子は﹁みだれ髪 目の 校注﹁新口 古典文学大系明治綿羽女性作家集目︵平成 M年 3 月一 の当該 歌の 任 で、 ボッ ティチェルりの絵画﹁ヴィーナスの誕生﹂ に ﹁自己像 重ねた趣きもこの歌にはある﹂とし、﹁ ヴイーナスの 神 Ⅰ ミユウ いう鉄幹の﹁日本を去る歌﹂︵﹁明星﹂明治綴字 ズ 、﹁晶子の歌は鉄幹と運命を共にする作者が、鉄幹の 詩の ヴィー 1 月一 との関係か の神Ⅰいざいざわれと共に去り給へⅠこの国の人みな 盲目なり﹂ を と も 学的戦略が﹁みだれ 髪おけるセンシュアリズ Lに あム っで た。 鉄幹は鵠﹁みだれごこち﹂にたいしていう、 百乱 合捕 ふ む﹁ 神、 批判 と同時に道徳的批判でもあった一をあす える てよ 挑う 発な て 参 発 ょ 込 参 る 神 木 髪目の官能表現には、︵ 肌や 派は ︶︵ 魔書︶︵春画と ︶ して文壇 ジ すを る主 ﹁調 みと だ たしかに鮮明で濃厚な視覚的色彩的イメージ 官能を表現した晶子の歌を読解する際に、西洋絵画を 下敷きとし 、 女性の身体 鉄 るべきであろう。 子 甲南大学紀要﹂平成比年 3 月一は、﹁与謝野鉄幹は 明星﹂明治 紐年 9且 。 も んの意図が﹁みだれ髪﹂の官能表現には微妙 し 考 てに い作 た用 と 幹の意向に添ってあえて作りあげられた作物レ ﹂ Ⅰ し L で 、あ ﹁る 日明 セO てまばゆい様な平和の光明に打たれる。裸形を詩に入 れるのを 兎 角 に批難する人のあるのは、寧ろその人の興味の低 いの を自白する い 鉄幹・晶子﹂ 一 ﹁国語国文﹂昭和田芋山月、﹁史 和の 歌研 文究 学 短 と 歌 し え れ ャ 生 に オ 義 の と 文 的 ナスにみずからを擬した挑戦の歌とも読める﹂と提示 している。 いずれも当時の裸体画問題を視野に入れた卓抜な解読 であるが、 ﹁文壇照魔鏡﹂事件であった。すでに木股 知史が綿密 に孝 証してい るよう に、当初の予定では﹁みだれ髪﹂の体裁は﹁ 紫 L と同一であ 層を意識した鉄幹の文学的戦略があった。前述したよ うに、﹁明星﹂ とは注目にあたいするといえる。くりかえしていえば 、そこに読者 近代的な美意識を価値づけようとする鉄幹の意図を重 規 しているこ かさへの転換﹂は、私見によれば、﹁文壇照魔鏡 ヒ事 件に よって 一 鉄幹の意志が働いていたと考えられる。水腹のいう﹁ 渋さ から華や ﹁社告﹂の背後には、﹁みだれ髪﹂の どの遠く及ばざるものと相成り 候 ﹂ -﹁明星﹂明治 紐年 ったが、﹁製本の体裁も亦意匠を変更致し 候 ため、 小 生 め 毘否な 第六号の一条成美が描いた﹁百合を持っ裸婦 像﹂の表紙面 に ﹁みだ 層 その対立が激しくなった新声 社と、 訣を分かつこと にな った 一条 ﹁みだれ髪﹂のセンシュアルな恋愛敬 に裸体画の芸術 性と通いあ ぅ れ髪目の絵画的発想の端緒があるとすれば、それが 成熟するのは 明 成美とにたいする 執拘 なまでの対抗意識を意味してい 装偵を急に変更せ ざる をえない 8 月-という 治 三十四年二月発行の第十一号の表紙画を描いた藤島 武二の斬新な にて矢の根 ょり吹き出でたる花は詩を意味せるなり﹂ とい う藤島武 @を射たる る小冊子、欧米に行るる﹁珍本目の体裁を参酌せり﹂ という﹁ 紫ヒ 二の装慎や挿画の図像的モチーフとみごとに共鳴した 三一ノ 変 形判の 二、 かくして、﹁表紙面みだれ髪の輪廓は恋愛の矢の ハ| の広告が掲載されているが、ラファエル前派、フラン ス印象派、 ア 華麗な歌集﹁みだれお蓬は、センシュアリズムに共感 する 青年層に 美的感覚との交感にあった。その第十一号の目次の左 真に、﹁砂た 1ル・ヌーヴォーなどの西洋美術の摂取に熱心であっ た白馬会の俊 広く支持され、新詩社﹁明星﹂の救世主となったこと よ lい うまでも へ 兵藤島武二の装頓にたいする鉄幹の期待が読みとれる 。それは同時 近代短歌の発生から開花 ﹁現代思想界に対する吾人の要求﹂ 一 ﹁太陽 明治 篆年 ない 4 m 樗牛が と 雑誌の挿画となるべし﹂とし、﹁妄りに洋風の皮相 を摸 して頻り 1月一で、﹁三十四年の文壇を最も好く代表するもの は 重日 籍の表装 高 に ﹁明星﹂創刊以来の協力者であった一条成美との関係悪化による 鉄幹じしんの思惑でもあった。いわば一条成美から 藤昌武二への 路 線変更には、白帯会との連携を強化することによって 、無声会との 連帯を強める﹁新声﹂および﹁ 叶われ月日とは異質の絵画的特性を 顕示しようという明白なねらいがあった。 そうした鉄幹のねらいを確固たるものにしたのがその 年の三月の セ一 に親様を街 ひ 、形似なく、骨法なく、明信なく、 漫吠 東西を混じて セ二 たとえば、直文の代表作ともいうべきつぎの一百 は、 m ざくら花 伝統的和歌の詠 法 である題詠﹁桜 ﹂を継承しつつ、 緋絨 のよ るひをつけて太刀はきて 見 ばや とぞ おもふ 髪﹂の斬新かつ奇抜な意匠には理解されにくい一面も あった。しか を 躍動感をもって表現するために絵画的発想に留意し ていることが 帰適する所を知らず﹂と批判したように、﹁明星﹂ お ょび ﹁みだれ し ﹁表紙面 と挿画との面目を一新せるは絵画術の進歩 ﹂であると、 わかる。 学美術の両面より、国民一般の芸術眼 な 一新せむ ﹂と いう鉄幹の意 渡殿を通ふ更衣の衣の裾に雪と乱れて散るさくらかな さわさわと我が釣り上げし か 蝿の白きあぎとに秋の風 ふく 優 美さと勇壮 さ ﹁高山樗牛に与ふ﹂ 宇明星﹂明治㏄年 2旦で反論した ように、﹁サム 欲 はすさまじく、また白馬会の洋画家たちも熱意をも ってそれにこ きを見据えるような絵画的視点があり、﹁渡殿を﹂に しても王朝的 ﹁さわさわ と﹂も爽やかな秋の情趣を﹁ 小蝿の白きあ ぎと﹂の 動 こうした西洋画を媒体とした文学と美術との旺盛な交 流 はくらべ 雰囲気を絵画的様式 美 によりながら発想しているとこ ろに特色があ たえる気運の高まりがあった。 れば、地味ではあったが日本画を媒体とした相互交流 もあったこと 動期にあってはきわめて清新な着想として検討すべ る。こうした直文の歌風における絵画的発想は、当時 の新派和歌 胎 者の個性や主観があらわれず詩 として価値がない、 が 、﹁緋絨の ﹂の躍動感が鉄幹に 、 ﹁さわさわ と﹂の自然 味が 薫園に 、 は前述のとおりである。自然を写真のように写すだけ の叙景歌は作 いして、金子薫園は﹁文話歌話 目 一大正 1 年竹戸︶ のなかで、川合 ﹁渡殿を﹂の王朝風が晶子にというように、異なる 持 ち味がそれぞ 成 をもって き意味がある 玉堂 と菱田春草の日本画家を例に引いて、ともに自然 の愛重者であ れに継承され、洗練されて独自の絵画的特性を築いて いく原点でも と いう批判にた りながら﹁其の真味を看取しょうとする態度は、両者に大なる相違﹂ あった。 近代短歌主のうえでは、明治二十六年の浅香社の結 があり、﹁自炊 に対する主観の際やかに表はれてゐる ﹂作物によっ て、叙景歌の真の意義を学ぶべきであるとのべている された三十四年は︵近代短歌の開花︶と位置づけることができょぅ 。 ︵近代短歌の発生︶とみるならぼ 、﹁片 われ月ヒ﹁みだ れ 要目 が刊行 に鉄幹と薫園は位置していた。しかし計画一致あるい は絵画的発想 すでに小田切秀雄﹁﹁みだれ髪口論| 近代短歌典の 光 栄| ﹂ 一﹁古典 このように文学と美術との交流において、きわめて 対 庶的な立場 という観点からがえば、その源流は浅香社の師落合 百 丈 にあった。 研究﹂昭和Ⅲ牛山月一が提起した、﹁近代短歌史上に おいてもっと の潮流におい も光栄ある瞬間の一つは、二二歳のうら若い女性の手 に成った歌集 ﹁みだれ髪日の出現のときである﹂とし、﹁当時の文芸 という卓絶し て、中心的な意見たる美的生活論と﹁みだれ髪﹂とは 、 他のどの 小 説 ・キ ・俳句よりも強力に呼応しているのであった﹂ た近代文学史観にあえて補足していえば、近代短歌典 の光栄はひと り晶子の﹁みだれ髪 ロだけではなく、直文が蒔いた 新 派和歌運動の 種 がここにようやく開花したことにあった。 その意味において、新派和歌運動の胎動期にあって﹁ 文庫﹂をは じめ﹁青年立﹂﹁少年文庫﹂などの歌欄の選者として影響力のあっ た渡辺光風﹁明治三十年代の歌壇を語る﹂弓立命館 文 学﹂昭和田年 ﹁ げ m@W ﹂﹁ げ籾 6月一が、﹁三十年代の新歌壇は 、 著しい躍進はあ ったとしても、 決して首尾の整ったものではなかつた﹂とし、﹁文庫﹂ ﹂および﹁ 新 声﹂一 ﹁明星﹂の三話が当時の新歌壇に鼎立し、﹁新声 師 直文に私淑して、 一層の温和 潮﹂の選者であった薫園をつぎのように評したことは 任目 にあたい する。 ﹁彼は極めて温和な性質の上に、 味を加へて ゐた 。随って、寛の例の虎の鉄幹 と違ひ歌以外に何等の 野心もありさうになく、それが終生の仕事、彼の生命とまでなった﹂ ﹁薫園の歌には・彼一流の格調があった。温雅で、 あばれを見せ ぬ所を特長とすべきであらう。要するに彼の性格を反 映さしたもの である﹂ ﹁浅香社中にして、師の衣鉢を最も忠実に伝へた者は 、三十年か ら 四十年代にかけての薫園彼 であらう﹂ この当時の歌壇に精通した渡辺光風の見方には、一定 の妥当性が あろう。すな ねち、明治三十四年という近代短歌 史は 、 ︵近代短歌 0発生︶をうながした直文の継承とそれからの脱皮 と いう両極のせ めぎ合いによって 、︵近代短歌の開花︶を可能にしたといえよう。 周知のように、薫園は尾上柴舟と共編の﹁叙景 詩ヒを 結城表明、 平福百穂の協力をえて三十五年一月に刊行し、 反 ﹁明 星﹂色をより 鮮明にするが、それに先だって三十四年十一月に新声 社から発行さ れた﹁桂 花菜ヒ は、いわば青年文芸雑誌としての﹁ 新声﹂を広く 宣 伍 するという意図のもとに編集されている。﹁新声は 文学美術両罪 に 一日一れる大雑也 誌。本年 2りは、大に美術的趣味を鼓吹せんが 為め、 は、 明らかに 結城表明、一条成美、平福百穂、真個新派画家の筆に なれる絵画を 毎号十数面を掲げ﹂という十三局な布告に 新詩社﹁明星﹂への敵対意識がうかがえる。さらに、 右手に 欽 みを 迦具 もつ少女の立ち姿を描いた一条成美の口絵は、﹁ 無弦 弓ヒや ﹁ 上ヒ の挿画でも描かれた童女の可憐なイメージを誘い つつ、 ﹁みだ れ案﹂の﹁舞姫﹂の章にある﹁ 秋﹂という題の藤島武 二が描 いた 欽 七三 みで花を切り取ろうとする女性を意識しているように さえ読みとれ る。 ︵佳一 七四 ①ちなみに明治二十四年十一月に博文館から刊行 の ﹁新撰歌ぬヱ は、三十九年十二月に十四服が発行され、明治四十五 年 四月に新潮 こうした隠微な図像的意味もふくのたなかで、﹁ 片 われ 月 ﹂と ﹁みだれ髪ロ の絵画的特性は、新派和歌から短歌へと 転換する明治 社から刊行の﹁作歌新辞典 目は、昭和五年七月に四十 セ版が発行さ て、十分之を習練して、成るべく自然の風景に接近し 、自在に其其 年は月一においても、薫園は﹁新派和歌研究も 、先づ 写生より入 っ なお﹁作歌新辞典しに先だって編纂された﹁和歌入門 ヒ 一明治㏄ ね、とくに後者は長く広く入門手引き書としての役割 を 果たした。 三十四年の短歌更 に大きくかかわっていたといえよう 画 ったが、大正四年十月に﹁中央美術﹂を創刊し、後年 美術批評家と ②田口 掬 汀は秋田県角館町の出身で三十三年﹁新声 ﹂の記者とな 下 みだれ髪コ を伝へ鳥 得武 る二 やの う挿 に﹂、と同様の趣旨を強調している。 藤 して日本美術界に貢献した。とくに薫園の日本画壇 と の交渉やかれ の書画蒐集に寄与することが多大であった。 ③浅香社の同門である尾上柴舟﹁薫園 君との交渉﹂ 零現代短歌会 絵 集﹂第 8巻の月報、昭和 6年 2月一が、﹁片われ月目 を ﹁当時の旺 んで列 火の漣るやうな浪漫的のそれとは違って澄んだ 泉の湛へた や 桂 花 ] 口 の 一 ( 実条) 成 美 うな、淡紅の花の匂 ふやうな、清麗とか、芳郎とかの 静かな味のあ るのが、ことに我意を得た﹂と評し、﹁君の叙景風の 清新質実の歌 風は 、当時の浪漫的の匂の強いものとは違って ぬた﹂、と薫園短歌 めぐってー﹂ の独自性を﹁明日 隻 歌風との異質性において位置づけ ている。 ④中陪﹁鉄幹晶子の恋愛 歌| その発想構想措辞を 与同志社女子大学・日本語日本文学﹂第 7号、平成 7牛田 月 ︶が 、 ﹁花やかな色彩 美 が恋愛 歌に 絵画的色彩美を恋し恋愛 を 美化する。 そこにこそ鉄幹晶子の恋愛歌の新しさも魅力もあった ﹂と指摘して いる。 に ﹁このやうな叙景歌風の 傾向のものを ⑤島津忠夫﹁﹁みだれ髪目の成立と鉄幹﹂は、﹁明星 ﹂明治三十四 年 一月号の﹁舞姫﹂十九百 鉄幹が抑制して ぬたのなら、これは面白い問題であらう﹂という 見 方を提示した佐藤亮雅﹁みだれ髪 放﹂ 昭和釘年 4 月一 をふまえて、 ﹁鉄幹が晶子の歌風に注文をつけ、晶子のある一面を強く引き出そ 木股 知史は 、 ﹁みだれ髪目の装本が河井酔茗の第 一詩集﹁ 無弦 うした﹂編集者鉄幹の才腕に圧目している。 ⑥ 弓 ﹂一明治 簗年 1月一や服部 射冶の第一歌集﹁ 迦 兵士 ヒ ︵明治拠年 7 月一のそれぞれの 装偵 ・挿画を手がけた一条成美の先行事例を意識 していた、ということを具体的に論証している。 セ五
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