YMN004805

叶われ月﹂と﹁みだれ髪﹂の絵画的特性をめぐって
太
上、
ノ一
登
明治三十四年 の短歌史的意味
1﹁
代短歌史の構想というこころみにおいて、与謝野鉄幹 と 石川 啄
いう二人の歌人的位相を考察しながら明治四十三年の短歌史的
を 明らかにした拙稿﹁明治四十三年の短歌史的意味| 鉄幹から
へ| ﹂ -﹁
山 逼迫﹂ 第 鶴首、平成 8年 3旦で、明治二一 十四年と
年を近代短歌史の大きな転換点として設定したいとい うもく る
の べておいたが、本稿では、金子薫園の第一歌集﹁ 片 われ 月 ﹂
謝野 晶子の第一歌集﹁みだれ髪﹂の絵画的特性をめぐ って、明
落合直文から与謝野鉄幹、金子薫園 へ
十四年の短歌史的意味を考察することにしたい。
1
明治二十四年十一月編纂の﹁新撰歌典 ヒおよび二十五 年三月創刊
﹁歌学﹂を経て、落合直文は二十六年二月に近代短歌
結 社の創始
に
もいうべき浅香社を結成した。このとき与謝野鉄幹は 数え二十歳
者
田
学 高 い 一
の
し
で
南 の
わ
の
味 実 相 (
と
声 ﹂は、﹁与謝野鉄幹足下に与ふ﹂という公開 書を もって新詩社
上
、
ノ一一
人は、直文からもっとも愛された兄弟弟子としての 関 係 にあった。
﹁明星﹂にたいする宣戦布告書となした。如上の論駁にしたがえば、
﹁新声﹂の薫園、﹁明星﹂の晶子が新声
すでに明石 利代 ﹁関西文壇の形成 | 明治・大正の歌誌を 中心に1口
一昭和㏄年 9月︶が指摘するように、三十三年一月の﹁ よしるし草 ﹂
の攻撃目標であったことが理解できる。
2
﹁
叶 われ 月﹂とその絵画性
の ﹁
叶 われ月ヒ と晶子の﹁みだれ髪﹂は出版された。
こうした新派和歌運動の先陣をめぐる険悪な気運のな かで、薫園
社 新詩社の両者 にとって最大
第二十二号に鉄幹と薫園の詠草が見開きに掲載された のは、﹁中央
歌壇で新しい和歌の作者として活躍している薫園の協 力を暗に示す
意図のもとに、新詩社を結成した鉄幹を支持するため 0編集﹂であ
﹁
紫墨吟 ﹂ 十
選 者薫園を新派
ったといえよう。また同年四月号の﹁新声﹂でも鉄幹
二官 と薫園﹁菜花葉﹂十七百 が 見開きに掲載され、
の躍進をはかろうとする意図が読みとれる。ときあた かも﹁明星﹂
た 。薫園じしんの回想に ょれば・﹁与謝野氏等の明星派 が恋愛至上
であると同時に新声 社 にとっても最初の本格的な歌集 の出版であっ
明治三十四年一月に刊行された﹁ 叶 われ月ヒ は、薫園 の第一歌集
創刊の明治三十三年四月の鉄幹薫園はいわば蜜月時期 のさなかにあ
正義で、歌壇を風塵するばかりであった時に 、 私は 亡 き 母を恋 ひ、
和歌運動の先頭に立つ鉄幹と並称することによって、 ﹁新声﹂歌壇
った 。
師を慕ひ、祖父母や妹を想 ひ、 友に親しみの情を寄す る 一方、自炊
八
」
は
あ
ところが﹁新声﹂﹁明星﹂に相互にきわめて協力的で あった二人
慕
巻
-
記 で
の関係は、子規鉄幹不可並称論議が集中した三十三年 九月頃から 急
。
小
速に 疎遠となった。﹁よしあし草 ﹂の後継 誌 である﹁ 関西文学﹂の
に
愛
集
集
品
三十三年十月号の﹁来者下炬﹂欄は、﹁新声﹂の選者 薫園の短歌を
酷評し、十二月号では﹁本月の﹁新田互に 鳳女史の歌 は鬼才なりと
一月ロ
すの﹁ 新
﹂という
云ふ 様なことが見え 候 ・生意気も程のあることに 候、 新声社の中に
一人でも国詩の智識を有する人存亡 候や、
﹁鉄幹子 よりの来書﹂が掲載されている。堅三十四年
た
ゐ
一
2
何
の歌、そして
どの多くの追悼 歌、兄弟子の鉄幹を悪う﹁世のちりに 汚れや せむと
﹁母のためりゑし 小萩もを れ ふして 御墓 のまがき秋く れ むとす﹂ な
かに二百六十五首の所収 歌は 、三十一歳で急逝した 母 ち かを偲んだ
巻頭歌である 1 ﹁あけがたの﹂は、いかにも初心者らしい一本調子
入れつつ、集中のおよそ大半を占める叙景歌の特色を明示している。
り ﹂﹁ゆふ づく 日﹂という︵時令︶︵天象︶などの歌語や歌材を取り
う ︵鳥 Ⅰ﹁鳳仙花﹂﹁菜の花﹂という︵草木Ⅹ﹁
私く れむ ﹂﹁花 ぐも
﹁菜の花のさきつ,きたる
そ 。ろありき﹂﹁うぐ ひ すのはつ 昔 ﹂﹁藪 かげの道﹂と いう平淡清明
の歌で直文の浅香社に入門直後の作と考えられるが、 ﹁あけがたの
雲の中に秘めけむ君がうたをきかぼや﹂などの交友
どの叙景 歌という三つに大きく分類される。とりわけ ﹁自然に愛慕
なことばの調べによって、早春の爽やかな情趣を平明 にとらえてい
山ばたのかぎり見えけり 茅 ふける 家 ﹂ な
の心を捧げて ぬた﹂という薫園の本領は、二十九年八月号 ﹁文学界﹂
る 。 6 ﹁鳳仙花﹂は、﹁鳳仙花 照 らす ゆふ 日に﹂とい・ っ視覚的表現
と﹁おの づからその実のわれて﹂という聴覚的表現 と の重奏によっ
掲載の﹁ひと 雫﹂二十五首の巻頭歌である
やまざとは軒もる昔もしのび つ、柴のあみ戸に春さめ ぞふる
て、 深まりゆく秋のさやけさが立体的に浮かんでく
る。は・はも
に顕著なように自然の景物を客観的にとらえた温雅な 叙景 敵 にあっ
﹁
花 ぐもり﹂﹁日影﹂﹁嵯峨の山里﹂、﹁ ゆふ づく 日 ﹂﹁菜 の花ばたけ﹂
薫園は自吠の景物として好んで﹁ 月﹂や﹁ 梅﹂という 歌材を詠んで
として、敬一百から醸しだされる情感に乏しいとい・っ憾 みはある。
とはいえあまりにも自然を素描しただけの生地そのま まの叙景 歌
陽 のぬくもりがほのぼのと伝わってくる。
﹁妹が家﹂という自然の景物を絵画的に配合すること に 2 つて、 春
*
+八
@
.
。
ュあ けがたのそ ,ろありきにう ぐひ すのはつ 昔 き、 たり 数か げ
の道
6鳳仙花照らすのふ日におの づ からその実のわれて 秋 くれ む と
す
梅﹂を詠み込 んだ十三首を
いるが
-﹁
月 ﹂を詠み込んだ二十四百、﹁
は花 ぐもりしばしははれてのどやかに日影さすなり嵯 峨の山里
合わせると集中の叙景 歌 のおよそ半数になるⅠつぎ に引用する 歌
刻まる窓に老木の梅のかげ痩せてすみ絵のま 、のうす 月夜かな
にそれが明白である。
㎎ ゆふ づく日かすかにのころ山もとの菜の花ばたけ妹 が家見ゆ
いずれも歌集の導入部に位置する歌であるが、﹁ぅぐ ひす﹂とい
/¥¥¥
一
きめ ﹂という直哉な表現がその興趣を雲散させたきら ぃ がある。
映し出されたシルエットに興趣をそそろうとしたが、 ﹁すみ絵の
おそらく﹁老木の梅﹂と﹁うす月夜﹂との配合によっ て ﹁まる窓 ﹂
の詠風の摂取につとめていたことがわかる。
井上文雄の家集﹁ 調鶴集ヒ 佐佐木 弘網の序を付し、 慶 応 3年刊行 -
幕末から明治維新にかけて活躍した江戸派最後の歌人 ともいうべき
二元﹂大正旧年 8月一で述懐するところに ょれば、 そ の修業時代、
工
八四
のことを晶子の﹁みだれ髪﹂のつぎの歌などとくらべ てみるとよ
に
繋清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ 逢ふ 人 みなうつく しき
にきわめて
柵 みなぞ こにけぶる里美 ぬ しや 詐 れ緋鯉のせなに梅の 花 ちる
M. 柵もともに﹁ 片われ旦の初﹁まる窓に﹂と同様
隅田川なか洲をこける潮先にかすみ流れて春雨のふる
河上暮秋
秋くる、タ河そひ のくぬぎ原うすき日影に小雀なくな
いずれも春秋の景情をこまやかな自然観察によって と らえた叙景
0組合せが水底から浮かび出された黒髪の女人の妖艶 な美しさを
人たちに相通ずる一面があり、明治歌壇の先駆をなす 作家であると
いてゐる﹂とし、かれの作風には直文をはじめとする 新派和歌の歌
味 ではあるが清新であり、感覚も鋭くはないけれども 細かく行き届
昭和 6年は月一は、文雄の歌風が﹁軽妙﹂﹁品のいいやさしさ﹂﹁小
までもない。
の大きな差異こそがそれぞれの歌集の絵画的特性であ ることはい
が 歌
りに大きな差異が見られることに気づかされる。後述するように、
はいずれも絵画的発想によりながら、﹁月 ﹂﹁梅 ﹂とい う 歌材の広
め
構図﹂の模倣にだれよりも熱心な歌人が若き薫園であ った。
らわれず自妖の景趣を清新かっ細心に詠み込んだ、 ぃわば﹁文雄 式
もあり、実際に、軽妙 酒脱 な江戸前の歌風によって用 語や技巧にと
評価している。前川のいう文雄の歌風の特色は同時に 薫園のそれで
﹁梅の花﹂
れぞれ色彩的に際立たせながら・一百全体に幻想的な 情趣をきわ
が
て映像的に映しだしている。﹁
と
叶 われ 月 ﹂﹁みだれ髪 ヒ のこれらの
﹁こょひ 逢ふ 人﹂たちの優艶な美しさを、﹁緋鯉﹂と
1ム を基調としているのにたいし、﹁桜月夜﹂という 日朋子の吐
坦五町
絵
% め典型といえる。前川佳美雄﹁井上文雄﹂ 宅短歌話 座 ﹂第 7巻、
面的な発想を特色としている。しかし薫園短歌の絵画 性が モノク
河春雨
ま
歴然とする。
こ
り
口
そ
そ
、ひとつの定型的な構図がある。薫園みずからが﹁ 調 鶴集 と私﹂
ところでこうした自然の景物を素描する﹁ 片 われ 月 ﹂ の叙 三足
歌に
むとす﹂の 一首にしても、﹁調鶴集ヒの ﹁八月つごも りばかり物へ
前掲 6 ﹁鳳仙花照らすのふ日におのづからその実のわ れて秋 くれ
う
@
ま
山里のそともの豆生おの
まめふ
づからこぼる、見れば 秋 更け
まかりける道にて﹂という詞書をもつ
一般芸術の基礎をなして居る如く、和歌研究の根抵と なるべきもの
も 、 矢張り此の写生に基づかねばならぬ。写生の用務 は、 王として
自然の景物を写すにある﹂と記している。周知のよう に、正岡子規
が俳句短歌の表現技法として唱えた︵写生︶は、もと もと中村不折
らの洋画家の画法であるスケッチに示唆をえたといわ れている。 し
の ﹁文雄大構図﹂の叙景 歌 に与るところ大であった。
㎝タやけの中にたちたる柿の木の柿 のひとつに目白つどひよる
たがって、ここにいう︵写生︶が﹁ 叶われ月ヒにおけ る絵画的特性
﹁この書の挿画のひとつなる結城表明君の作は 、君が 士心願兵にて、
﹁
叶 われ月﹂の﹁例言 四﹂に薫園はつぎのようにいう。
に密接に関与していることはいうまでもな
Ⅸてる月にひれふる角のかげ見えて ゆく舟からし江戸川のみ づ
Ⅸはっ時雨よきてもふれや朝顔のち ひさく咲きて 枕くれむとす
袖朝霧のうする、ままに梅もどきさ やかになりて日は出でに け
片われ月﹂
察眼 によって自在にうたう文雄の歌境に近づこうとす る ﹁
これらの歌もやや類型的ではあるが、自扶の風趣をこ まやかな 観
こらされしものをよせて、さびし き わが歌の集に 、匂 ひちそ へられ
は、あらためて、言はざるべし。また、木折画伯の 、わきて意匠を
らず、わがために、画きおこせたるもの、君が友につ くすまご、 ろ
入営 せむとするにあたり、なにくれと、いそがはしか りしにか
の持ち味でもあったことはたしかである。その持ち味 は、﹁柿の木﹂
たる。一条成美君の、かねて、われに贈られし作を
り
と﹁目白﹂、﹁
ひれ ふる仙﹂と﹁舟﹂、﹁時雨﹂と﹁朝﹂
顔、﹁朝霧﹂と
こ、に載することをえたるなど、 いづれも、よろこ ば し﹂。
っ生かされて
す﹂﹁日は出でにけり﹂という全体の構図のなかにど,
な仕上がりになったとすれば、中村不折の口絵、結城 泰明、一条成
まさに地味そのものというほかない四六判紙 袋板縁 の歌集が庸酒
、たまたま、
私くれむと
﹁梅もどき﹂という素材の配合が、 ﹁
タやけ﹂﹁江戸川﹂﹁
いるかによって左右されるが、ここに﹁叶われ月目の絵画的特性を
る図﹂という題詞のある中村不折の折り込みの口絵に は、中央の手
美の挿画などの絵画的効用によるものであろう。﹁ 片 われ月に 題す
薫園は師直文の﹁新撰歌典 ヒに 倣って﹁作歌新辞典ヒ という手引
前に松の大木を配し、その後方に茅葺きの家が描かれ 、左の隅 端に
見ぃだすことができょぅ。
き書を編纂しているが、その﹁ 第豊編 四季﹂のはしがきに﹁写生が
Ⅰ八五
集成美の描く川辺の風景
明の描く山家の風景も一
汲みとれる。また結城 素
えるという田園の野趣が
かすかに片割れの月が見
一年に西洋画科に再入学
両 科の教室を開いた三十
た 泰明 は 、浅井忠が西洋
学校の日本画科を卒業し
た後、三十年に東京美術
山 派の川端玉章に師事し
訊年竹月一に ょ れば、 円
﹁理想主義を旗識 とした 日
亭 、平福百穂らとともに
し ・三十二年には福井 江
もともに端正な筆致でお
中
だやかな 自 牡の景情を ょ
では、﹁叶われ月日の詩趣
本 美術院のいわゆる 檬瀧
く 伝えている。その意味
と みごとに調和した口絵
回体とはまた 異 った立場
上ノ
Ⅰ上
ノ
Ⅱ
を
であり挿画であったとい
ム
から洋画の影響を咀 嗅し、
土戸
えよう。
平明な客観的写実を追求﹂
虹
もとより﹁ 叶われ月日に は、﹁繁明君と共に舟を乏べて﹂﹁木折田
ていた。
な
画家との幅広い交渉が当時の薫園にあっ
覚的
派
伯の贈られたる画に﹂﹁ 下村観山君の ゑがきし﹁長安一片月日に﹂
術院
園
こうした新傾向を打ちだ
り
などの詞書が示すように、
共感した薫園もまた、﹁文
とは対比的な淡い自然 味か
奥行きをもたらすことに 昔
にと つて願ってもない指煙
し
る薫
が
に
貫合
たことは自明である。とく・に明治三十三年の春、鉄幹の紹介で相知
る友 となった結城表明にた いしては、
などの交遊の歌人 首が 集中 におさめられ、その親密な関係がわかる。
の画に入りてわが 歌 ぶくろ歌みかりけり
胡花 あやめみな君が手-
| 明治大正昭和の挿絵1口一昭和
匠秀夫﹁近代日本の美術Ⅲと文学
結成
表明
木
画 か 本
家
展 か 美 視 の
す
椎 オ
た
三十三年春 に開催され、三十三年五月の﹁明星﹂第二号の﹁ 文界雑
自妹T正義 の
語﹂欄には、﹁新に日本美術の根帯を作らう﹂として ﹁
﹁
甘 舌口音
た 。﹁片 われ 月 ﹂が刊行された三十四年一月の﹁新声 ﹂ かり
紹介があり、三十三年十一月の裸体画問題に よる鉄幹との確執で 新
姐﹂欄に 、﹁儲酒清新、何処までも自然は貴ぶ所の見えたのは
詩社を脱退したばかりの一条成美の挿画も新登場し、 後述する よう
旗識を翻へした無声 会﹂は﹁美術団体中の第一位であ らう﹂という
に、外光と色彩によって近代西洋画の確立をめざす 白 馬会に密着す
かつた。 分けて泰明氏の作の清新にして野趣に富めるは、この ム五の
かズ ウオ ルス といふ趣きがある。陶淵明といふ趣がある。我が 固め
白眉であ つた。これを外国の詩人に讐 へて見やうなれば、
とい
先づ ウオ
近世の歌 人 に求むれば、マア井上文雄 とぃふ 趣があるやうだ﹂
一
と同時に文学的立場︶は 当妖 ながら
る ﹁明星﹂との対決姿勢を明瞭に表明している。
この﹁新声﹂の編集方針
うように 好意的に紹介されたが、井上文雄の歌風と結城表明 の画風
に 一致する詩境があることを
﹁新声﹂和歌欄の選者薫園の立場を限定するものであ った。もとよ
野趣に清新な味わいを見いだした文雄の歌風を敬慕 し つっ、自然界
りそれは薫園の歌人としての資質にかなりところであ った。出国の
ともあれ 虹声合の中心的存在
衛兵第二連隊に入営したため
川端 塾以来の画 友 である半
頁穂が 健筆を発揮するように
るが、その 百穂に全面的に 慨
したのが同郷の﹁新声﹂記者
田口 掬汀 であった。したがっ
無声会 と﹁新声﹂との連携は 、
のずから強固なものとなっ
3
﹁みだれ髪 ヒとその絵画性
明治三十四年八月に東京新詩社から刊行された晶子
六セ
三十三年九月発行の第六号から創刊以来のタブロイド 判の新聞型
た。
﹁みだれ髪﹂は、新詩社および﹁明星﹂の命運をかけ た出版であっ
の第一歌集
び佃戸会の画風を積極的に摂取した﹁ 片 われ 月 ﹂は 、 その叙景 歌に
の ︵写生︶に徹することで新しい日本画をめざそうとした表明 おょ
一条成美の挿画
あった表明が三十三年暮れに
ったことがわかる。
破したのは薫園ひとりではな
と
看
か
で
近
に
福
な
力
の
て
お
四六倍判の雑誌
へとスタイルを
新した﹁明星﹂
、﹁文学美術等
上 より新趣味の
六八
ね
及せんことを願
さ
て、雑誌﹁明星﹂を公にす﹂という意気込みにふし
さい
わ斬新な
朗を
シスによって、当代の文学青年たちの感受性を大刺
い激
にした。
は
つ
ころが三十三年十一月発行の第八号に掲載された名
﹁一
仏里
国一葉﹂
いわゆる風俗壊乱を理由に発売禁止処分となり、
にさ
そら
の挿画
模写した人気挿絵画家の一条成美が退社翌
し三
、十四年三月には
三鏡
によって
、鉄幹じしんは
幹の品行を誹訪中傷する﹁文壇照魔
とより新詩社および﹁明星﹂は窮地に追い込まれる
にこ
なと
った。
し
構
的
」
君
「
うした危機的状況を打開するために鉄幹が選択戦
し略
たは、社会
に指弾されたおのれの︵現実︶に根ざし
女弟
た子との恋愛生活を
比
とともだ
いれ
流
し
い
れ
一目
の
耽
む
要な
ひ
て
し
.7
く
や
み
ら
さ
こ
目木
るかみ『
き
野
の
つぎ
紅
ゑ
絵
して
の
壇ジャーナリズムにたいして︵文学︶として提示こ
すと
るであっ
ら﹃出み
人
に
ま
よ
よ
か 鉄
「
午
み
し
な君
『みだれ髪』の
表紙
された。﹁むらさきの襟に秘めず
吾も
ひいでて君ほほゑまば死な
と
@@@@@
が
き
ふり
Ⅰ
刀
か
ハ
ノ
ン
図の
な
た
」
「
人
絵画
瞭然
を
型
一
は
の
普
ひ
セ
と
が
を
鉄
も
こ
的
文
た
だ
版
の
の
おちぎりてし人待ちをれば椎がもと椎の実落ちて夜は ふけに け
でセンシュアル な感覚によるものでもあった。そのき ねまりを﹁ 嚥
脂紫﹂の章におさめられたつぎの二百に見ることがで きよう。
㏄ ゆあ みする泉の底の小百合花 二十の夏をうつくしと 貝ぬ
﹁君 ﹂﹁ちぎりてし 人 ﹂への思い人れが﹁ 桃 ﹂﹁椎 ﹂と いう淡い色
彩の配合によってそれぞれほのかな慕情として抑制さ れているのに
へず
目隠しをした
鶴みだれごこち まどひ ごこち ぞ頻なる百合ふむ神に 乳 おほひあ
。さらに恋し
﹁ゆあ かする﹂﹁みだれごこち﹂の
トレ
)ミ
力 ﹁恋愛﹂ということからかえば、見開きにある ㏄・㏄は 、
ヒド が矢を っがえている藤島武二の挿画があ る。そのタイ
愛の神 ク。
二首の左頁には、
︵
@
日な﹁絵
たいして、﹁みだれ髪﹂では恋愛者の抑えがたい情動 が亘且
0 目︵﹂の色彩を自在に駆使するように表現されている
い人を待つ身の心情にしても、﹁椎がもと椎の実落ち て夜はふけに
とか、
けり﹂というように自然の情趣のうちに沈静化平板化 された﹁ 片わ
れ月目にたいして、Ⅲ﹁野末にほひて 虹 あらはれぬ﹂
拙野茨をりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君 まちわび
と若々しい裸婦像の肉感的イメージとを絵画的視覚的 ほかさね あわ
﹂のイメージ
﹁野茨をりて髪にもかざし手にもとり﹂とか、きわめ て高揚した
せることによって、センシュアル な ﹁みだれ髪ヒの恋 楚歌のひとつ
﹁性愛﹂﹁女体﹂の象徴ともいうべき﹁小百合﹂﹁百合
ぃ る。とりわけ
ぬ
夢幻的浪漫的な気分が﹁みだれ髪上には充溢して
の典型を示しているといえよう。
レⅠ
が
たいする鉄幹の文学的戦略であった。もとよりそのこ レⅠド片日明子
別言すれば、このセンシュアリズムこそが文壇ジ ャ| ナリズムに
﹁野茨をりて髪にもかざし手にもとり﹂は、 ﹁みだれ髪目の恋愛敬 が
な 人の姿態を絵画的に発想することにもとづいている ことを顕著に
示している。
れほど自覚的であったかは不分明であるが、むしろ す でに中陪﹁ 与
﹁この添削に
﹂とながら
こうした﹁みだれ髪 目特有の絵画的発想は、自明の @
何 として㏄﹁ ゆあ みする﹂をあげて、
よって一首が生動していて、寛の指導ぶりの 解 かさの 一端を示して
たと思われる﹂
謝辞鉄幹﹂︵昭和的年2月一が﹁晶子の歌に寛が明ら かに手を加え
ベルナール﹂
﹁明星﹂第六号の百合の花を口もとに寄せる黒髪の裸 婦像を描いた
表紙面 や、アルフォンス・ミュシ ャ のポスター﹁サラ
を模写したカットなどに具象化されたアール・ヌーヴ オ ーのモダン
六九
る﹂と論証すよ
るうに、あるいは島津忠夫﹁﹁髪
み白
だの
れ成立
し
編目所収
一が目みだれ髪
ロが晶子の好みのまま
詠の
作でなく、
ので、美感の上の事を値 男 な自己の実感で解釈する 愚 論 である﹂
と鉄幹とのふロ作の集であった﹂と論及す如
る上
よの
う鉄
に幹
、
じ
この鉄幹の解釈をふまえて、水腹知史 目みだれ髪﹂の 画像世界﹂
宅
宇
使っている﹂とし、﹁鉄幹は、西洋化を近代の根拠と するという
の
|ナリズムから批判される要素があった。た恋
と愛
えは
ば美
﹁的
に
一
定
の
理
解
を
寄
せ
て
い
た
に
も
か
か
目
わ
乱
ら
れ
ず
髪
、
活の最も美はしきものの一平﹂として、その楽
﹁の
人境
生地
毛﹂
絶対的価値を認めた﹁美的生活を論ず﹂︵﹁%
太
年陽
8﹂
月明
一治
傍を
す標
る﹁明星﹂の浪
高山樗牛が自我独創の詩歌
主漫
義理想主
﹂は一時
奇
を歌はれたれども
浮,
情浅想
、久しうし堪
てゆべからざ
るを覚ゆ﹂
批判せざるをえないところに大方の見方がこ
あ
うっ
した
た。
文壇
あへぬ
、かう絵画的云
にひ現した所が面白いの読
で者
、は之に
対
を 主張した
想 によって、西洋絵画からの影響という要素を重要視 し、 新しい
照 規範を設定しようとし﹂、﹁鉄幹は、裸体画の芸術性
うに、西洋絵画の芸術性を近代の証ととらえながら、 西洋美術を
照 しつつ晶子の歌を読解することによって、道徳的な 批判を封じ
め、近代的な恋愛の神話を作り上げることに力をそそ ぃだのであ
﹂と指摘している。さらに中山和子は﹁みだれ髪 目の 校注﹁新口
古典文学大系明治綿羽女性作家集目︵平成 M年 3 月一 の当該 歌の
任 で、 ボッ ティチェルりの絵画﹁ヴィーナスの誕生﹂ に ﹁自己像
重ねた趣きもこの歌にはある﹂とし、﹁ ヴイーナスの 神 Ⅰ ミユウ
いう鉄幹の﹁日本を去る歌﹂︵﹁明星﹂明治綴字
ズ
、﹁晶子の歌は鉄幹と運命を共にする作者が、鉄幹の 詩の ヴィー
1 月一 との関係か
の神Ⅰいざいざわれと共に去り給へⅠこの国の人みな 盲目なり﹂
を
と
も
学的戦略が﹁みだれ
髪おけるセンシュアリズ
Lに
あム
っで
た。
鉄幹は鵠﹁みだれごこち﹂にたいしていう、
百乱
合捕
ふ
む﹁
神、
批判 と同時に道徳的批判でもあった一をあす
える
てよ
挑う
発な
て
参 発
ょ
込 参
る
神 木
髪目の官能表現には、︵
肌や
派は
︶︵
魔書︶︵春画と
︶
して文壇
ジ
すを
る主
﹁調
みと
だ
たしかに鮮明で濃厚な視覚的色彩的イメージ
官能を表現した晶子の歌を読解する際に、西洋絵画を 下敷きとし
、 女性の身体
鉄
るべきであろう。
子
甲南大学紀要﹂平成比年 3 月一は、﹁与謝野鉄幹は
明星﹂明治 紐年 9且 。
も
んの意図が﹁みだれ髪﹂の官能表現には微妙
し
考
てに
い作
た用
と
幹の意向に添ってあえて作りあげられた作物レ
﹂
Ⅰ
し
L
で
、あ
﹁る
日明
セO
てまばゆい様な平和の光明に打たれる。裸形を詩に入 れるのを 兎
角
に批難する人のあるのは、寧ろその人の興味の低 いの を自白する
い
鉄幹・晶子﹂
一
﹁国語国文﹂昭和田芋山月、﹁史
和の
歌研
文究
学
短
と
歌
し
え
れ
ャ
生
に
オ 義 の
と
文 的
ナスにみずからを擬した挑戦の歌とも読める﹂と提示 している。
いずれも当時の裸体画問題を視野に入れた卓抜な解読 であるが、
﹁文壇照魔鏡﹂事件であった。すでに木股 知史が綿密 に孝 証してい
るよう に、当初の予定では﹁みだれ髪﹂の体裁は﹁ 紫 L と同一であ
層を意識した鉄幹の文学的戦略があった。前述したよ うに、﹁明星﹂
とは注目にあたいするといえる。くりかえしていえば 、そこに読者
近代的な美意識を価値づけようとする鉄幹の意図を重 規 しているこ
かさへの転換﹂は、私見によれば、﹁文壇照魔鏡 ヒ事 件に よって 一
鉄幹の意志が働いていたと考えられる。水腹のいう﹁ 渋さ から華や
﹁社告﹂の背後には、﹁みだれ髪﹂の
どの遠く及ばざるものと相成り 候 ﹂ -﹁明星﹂明治 紐年
ったが、﹁製本の体裁も亦意匠を変更致し 候 ため、 小 生 め 毘否な
第六号の一条成美が描いた﹁百合を持っ裸婦 像﹂の表紙面 に ﹁みだ
層 その対立が激しくなった新声 社と、 訣を分かつこと にな った 一条
﹁みだれ髪﹂のセンシュアルな恋愛敬 に裸体画の芸術 性と通いあ ぅ
れ髪目の絵画的発想の端緒があるとすれば、それが 成熟するのは 明
成美とにたいする 執拘 なまでの対抗意識を意味してい
装偵を急に変更せ ざる をえない
8 月-という
治 三十四年二月発行の第十一号の表紙画を描いた藤島 武二の斬新な
にて矢の根 ょり吹き出でたる花は詩を意味せるなり﹂ とい う藤島武
@を射たる
る小冊子、欧米に行るる﹁珍本目の体裁を参酌せり﹂ という﹁ 紫ヒ
二の装慎や挿画の図像的モチーフとみごとに共鳴した 三一ノ
変
形判の
二、
かくして、﹁表紙面みだれ髪の輪廓は恋愛の矢の ハ|
の広告が掲載されているが、ラファエル前派、フラン ス印象派、 ア
華麗な歌集﹁みだれお蓬は、センシュアリズムに共感 する 青年層に
美的感覚との交感にあった。その第十一号の目次の左 真に、﹁砂た
1ル・ヌーヴォーなどの西洋美術の摂取に熱心であっ た白馬会の俊
広く支持され、新詩社﹁明星﹂の救世主となったこと よ
lい うまでも
へ
兵藤島武二の装頓にたいする鉄幹の期待が読みとれる 。それは同時
近代短歌の発生から開花
﹁現代思想界に対する吾人の要求﹂
一
﹁太陽 明治 篆年
ない
4
m 樗牛が
と 雑誌の挿画となるべし﹂とし、﹁妄りに洋風の皮相 を摸 して頻り
1月一で、﹁三十四年の文壇を最も好く代表するもの は 重日
籍の表装
高
に ﹁明星﹂創刊以来の協力者であった一条成美との関係悪化による
鉄幹じしんの思惑でもあった。いわば一条成美から 藤昌武二への 路
線変更には、白帯会との連携を強化することによって 、無声会との
連帯を強める﹁新声﹂および﹁ 叶われ月日とは異質の絵画的特性を
顕示しようという明白なねらいがあった。
そうした鉄幹のねらいを確固たるものにしたのがその 年の三月の
セ一
に親様を街 ひ 、形似なく、骨法なく、明信なく、
漫吠 東西を混じて
セ二
たとえば、直文の代表作ともいうべきつぎの一百 は、
m ざくら花
伝統的和歌の詠 法 である題詠﹁桜 ﹂を継承しつつ、
緋絨 のよ るひをつけて太刀はきて 見 ばや とぞ おもふ
髪﹂の斬新かつ奇抜な意匠には理解されにくい一面も あった。しか
を 躍動感をもって表現するために絵画的発想に留意し ていることが
帰適する所を知らず﹂と批判したように、﹁明星﹂ お ょび ﹁みだれ
し ﹁表紙面 と挿画との面目を一新せるは絵画術の進歩 ﹂であると、
わかる。
学美術の両面より、国民一般の芸術眼 な 一新せむ ﹂と いう鉄幹の意
渡殿を通ふ更衣の衣の裾に雪と乱れて散るさくらかな
さわさわと我が釣り上げし か 蝿の白きあぎとに秋の風 ふく
優 美さと勇壮 さ
﹁高山樗牛に与ふ﹂ 宇明星﹂明治㏄年 2旦で反論した ように、﹁サム
欲 はすさまじく、また白馬会の洋画家たちも熱意をも ってそれにこ
きを見据えるような絵画的視点があり、﹁渡殿を﹂に しても王朝的
﹁さわさわ と﹂も爽やかな秋の情趣を﹁ 小蝿の白きあ ぎと﹂の 動
こうした西洋画を媒体とした文学と美術との旺盛な交 流 はくらべ
雰囲気を絵画的様式 美 によりながら発想しているとこ ろに特色があ
たえる気運の高まりがあった。
れば、地味ではあったが日本画を媒体とした相互交流 もあったこと
動期にあってはきわめて清新な着想として検討すべ
る。こうした直文の歌風における絵画的発想は、当時 の新派和歌 胎
者の個性や主観があらわれず詩 として価値がない、
が 、﹁緋絨の ﹂の躍動感が鉄幹に 、 ﹁さわさわ と﹂の自然 味が 薫園に 、
は前述のとおりである。自然を写真のように写すだけ の叙景歌は作
いして、金子薫園は﹁文話歌話 目 一大正 1 年竹戸︶ のなかで、川合
﹁渡殿を﹂の王朝風が晶子にというように、異なる 持 ち味がそれぞ
成 をもって
き意味がある
玉堂 と菱田春草の日本画家を例に引いて、ともに自然 の愛重者であ
れに継承され、洗練されて独自の絵画的特性を築いて いく原点でも
と いう批判にた
りながら﹁其の真味を看取しょうとする態度は、両者に大なる相違﹂
あった。
近代短歌主のうえでは、明治二十六年の浅香社の結
があり、﹁自炊 に対する主観の際やかに表はれてゐる ﹂作物によっ
て、叙景歌の真の意義を学ぶべきであるとのべている
された三十四年は︵近代短歌の開花︶と位置づけることができょぅ 。
︵近代短歌の発生︶とみるならぼ 、﹁片 われ月ヒ﹁みだ れ 要目 が刊行
に鉄幹と薫園は位置していた。しかし計画一致あるい は絵画的発想
すでに小田切秀雄﹁﹁みだれ髪口論| 近代短歌典の 光 栄| ﹂ 一﹁古典
このように文学と美術との交流において、きわめて 対 庶的な立場
という観点からがえば、その源流は浅香社の師落合 百 丈 にあった。
研究﹂昭和Ⅲ牛山月一が提起した、﹁近代短歌史上に おいてもっと
の潮流におい
も光栄ある瞬間の一つは、二二歳のうら若い女性の手 に成った歌集
﹁みだれ髪日の出現のときである﹂とし、﹁当時の文芸
という卓絶し
て、中心的な意見たる美的生活論と﹁みだれ髪﹂とは 、 他のどの 小
説 ・キ ・俳句よりも強力に呼応しているのであった﹂
た近代文学史観にあえて補足していえば、近代短歌典 の光栄はひと
り晶子の﹁みだれ髪 ロだけではなく、直文が蒔いた 新 派和歌運動の
種 がここにようやく開花したことにあった。
その意味において、新派和歌運動の胎動期にあって﹁ 文庫﹂をは
じめ﹁青年立﹂﹁少年文庫﹂などの歌欄の選者として影響力のあっ
た渡辺光風﹁明治三十年代の歌壇を語る﹂弓立命館 文 学﹂昭和田年
﹁
げ
m@W
﹂﹁
げ籾
6月一が、﹁三十年代の新歌壇は 、 著しい躍進はあ ったとしても、
決して首尾の整ったものではなかつた﹂とし、﹁文庫﹂
﹂および﹁ 新
声﹂一 ﹁明星﹂の三話が当時の新歌壇に鼎立し、﹁新声
師 直文に私淑して、
一層の温和
潮﹂の選者であった薫園をつぎのように評したことは 任目 にあたい
する。
﹁彼は極めて温和な性質の上に、
味を加へて ゐた 。随って、寛の例の虎の鉄幹 と違ひ歌以外に何等の
野心もありさうになく、それが終生の仕事、彼の生命とまでなった﹂
﹁薫園の歌には・彼一流の格調があった。温雅で、 あばれを見せ
ぬ所を特長とすべきであらう。要するに彼の性格を反 映さしたもの
である﹂
﹁浅香社中にして、師の衣鉢を最も忠実に伝へた者は 、三十年か
ら 四十年代にかけての薫園彼 であらう﹂
この当時の歌壇に精通した渡辺光風の見方には、一定 の妥当性が
あろう。すな ねち、明治三十四年という近代短歌 史は 、 ︵近代短歌
0発生︶をうながした直文の継承とそれからの脱皮 と いう両極のせ
めぎ合いによって 、︵近代短歌の開花︶を可能にしたといえよう。
周知のように、薫園は尾上柴舟と共編の﹁叙景 詩ヒを 結城表明、
平福百穂の協力をえて三十五年一月に刊行し、 反 ﹁明 星﹂色をより
鮮明にするが、それに先だって三十四年十一月に新声 社から発行さ
れた﹁桂 花菜ヒ は、いわば青年文芸雑誌としての﹁ 新声﹂を広く 宣
伍 するという意図のもとに編集されている。﹁新声は 文学美術両罪
に 一日一れる大雑也
誌。本年 2りは、大に美術的趣味を鼓吹せんが 為め、
は、 明らかに
結城表明、一条成美、平福百穂、真個新派画家の筆に なれる絵画を
毎号十数面を掲げ﹂という十三局な布告に
新詩社﹁明星﹂への敵対意識がうかがえる。さらに、 右手に 欽 みを
迦具
もつ少女の立ち姿を描いた一条成美の口絵は、﹁ 無弦 弓ヒや ﹁
上ヒ の挿画でも描かれた童女の可憐なイメージを誘い つつ、 ﹁みだ
れ案﹂の﹁舞姫﹂の章にある﹁ 秋﹂という題の藤島武 二が描 いた 欽
七三
みで花を切り取ろうとする女性を意識しているように さえ読みとれ
る。
︵佳一
七四
①ちなみに明治二十四年十一月に博文館から刊行
の ﹁新撰歌ぬヱ
は、三十九年十二月に十四服が発行され、明治四十五 年 四月に新潮
こうした隠微な図像的意味もふくのたなかで、﹁ 片 われ 月 ﹂と
﹁みだれ髪ロ の絵画的特性は、新派和歌から短歌へと 転換する明治
社から刊行の﹁作歌新辞典 目は、昭和五年七月に四十 セ版が発行さ
て、十分之を習練して、成るべく自然の風景に接近し 、自在に其其
年は月一においても、薫園は﹁新派和歌研究も 、先づ 写生より入 っ
なお﹁作歌新辞典しに先だって編纂された﹁和歌入門 ヒ 一明治㏄
ね、とくに後者は長く広く入門手引き書としての役割 を 果たした。
三十四年の短歌更 に大きくかかわっていたといえよう
画
ったが、大正四年十月に﹁中央美術﹂を創刊し、後年 美術批評家と
②田口 掬 汀は秋田県角館町の出身で三十三年﹁新声 ﹂の記者とな
下
みだれ髪コ
を伝へ鳥
得武
る二
やの
う挿
に﹂、と同様の趣旨を強調している。
藤
して日本美術界に貢献した。とくに薫園の日本画壇 と の交渉やかれ
の書画蒐集に寄与することが多大であった。
③浅香社の同門である尾上柴舟﹁薫園 君との交渉﹂ 零現代短歌会
絵
集﹂第 8巻の月報、昭和 6年 2月一が、﹁片われ月目 を ﹁当時の旺
んで列
火の漣るやうな浪漫的のそれとは違って澄んだ 泉の湛へた や
桂
花
]
口
の
一
(
実条)
成
美
うな、淡紅の花の匂 ふやうな、清麗とか、芳郎とかの 静かな味のあ
るのが、ことに我意を得た﹂と評し、﹁君の叙景風の 清新質実の歌
風は 、当時の浪漫的の匂の強いものとは違って ぬた﹂、と薫園短歌
めぐってー﹂
の独自性を﹁明日 隻 歌風との異質性において位置づけ ている。
④中陪﹁鉄幹晶子の恋愛 歌| その発想構想措辞を
与同志社女子大学・日本語日本文学﹂第 7号、平成 7牛田 月 ︶が 、
﹁花やかな色彩 美 が恋愛 歌に 絵画的色彩美を恋し恋愛 を 美化する。
そこにこそ鉄幹晶子の恋愛歌の新しさも魅力もあった ﹂と指摘して
いる。
に ﹁このやうな叙景歌風の 傾向のものを
⑤島津忠夫﹁﹁みだれ髪目の成立と鉄幹﹂は、﹁明星 ﹂明治三十四
年 一月号の﹁舞姫﹂十九百
鉄幹が抑制して ぬたのなら、これは面白い問題であらう﹂という 見
方を提示した佐藤亮雅﹁みだれ髪 放﹂ 昭和釘年 4 月一 をふまえて、
﹁鉄幹が晶子の歌風に注文をつけ、晶子のある一面を強く引き出そ
木股 知史は 、 ﹁みだれ髪目の装本が河井酔茗の第 一詩集﹁ 無弦
うした﹂編集者鉄幹の才腕に圧目している。
⑥
弓 ﹂一明治 簗年 1月一や服部 射冶の第一歌集﹁ 迦 兵士 ヒ ︵明治拠年 7
月一のそれぞれの 装偵 ・挿画を手がけた一条成美の先行事例を意識
していた、ということを具体的に論証している。
セ五