近世の読者序説 はじめに 近世︵江戸時代 - の文学をそれ以前の文学と大きく 区 則する外的 な特質は、本屋によって文学作品が出版され、不特定 多数の読者に 提供される中で発展形成されたということである。 中 世文学以前に あっては宮廷や寺院とか特別な階層や場所を除いて、 ごく少数の限 大橋正 叔 の活動は、貸本屋も含め、読者の知的好奇心や娯楽の 動向をいち 早 く察知し、その嗜好を作品に反映させるように作者に 働きかけ、 作 品自体の質的変化を誘導するまでになる。また、積極 的な本屋の商 業主義は、呂后専属や抱えの作者に定期的に作品を発 表させるとい う、職業作家の誕生をも導くこととなる。そして、 本屋の活動が活 発 になればなるほど、読者にはそれだけ多くの書物が 与えられるこ とになるため、読者の側からは、選択の余地も少なく ただ眼前の書 読書を楽しむことが出来るだけであった。これに対し て、近世は多 めに応じた書物を手に入れることができ、好みの読書が 可能となる。 のみを受身的に得ていたん﹁までの読書とは違って ﹂とで人手し 、 られた人達のみが、写本や舶載の唐木等をやっとの @ 種の本が本屋によって商品として多量に販売され、 多くの読者が多 ここに初めて、作者や本屋と絡まった読者の問題が生 じてくる。 、人それぞれの 需 様な読み物を得ることの出来た出版文化の時代であっ た。このこと 不作りそのものの問題となる。多種多様に提供される 書物に対して そして、読者の問題は作品の内容や形式にさえも強い 影響を与える あるが、この出版文化の発展成長は 、即ち、仮名草子から始まる 近 読者は選択する。本屋は読者が求める本を出版しょう とし、作者は は徳川幕府成立後の安定した社会の下で初めて可能と なった現象で 地文学自体の成長発展でもあった。本を読者へ、それ を支えた本屋 四一 文学史上の重要な課題となってくる。こうした問題に つ、レ て既に多 題 が起こってくる。このことは文学の質的変化にも 繋 カず つて、近世 読者の対象を考えて、その的を絞りながら作品創作に 励む 等々の間 頼 版や比叡山延暦寺の叡 m 版 、日蓮宗 英法音の英法 寺 版等、為政者 後陽成天皇の慶長勅版、徳川家康の伏見版、駿河版、 豊臣秀頼の秀 題徐 状元補注蒙求 ヒ等が古い年代のものである。当初 のそれらは、 の刊行を最初とするが、現存 本 では同五年一一五九六 -刊行の﹁標 四二 数の先学の論考があるが、その研究成果に導かれながら ら、 、 以下近世 や寺院等の私家版であり、売る方の刊行ではなく配り 本 として、 修 学の必要の上から刷り出されたものであった。またそ 0発行部数も 小説と読者との関係について、出版機構への言及をも 含め て 述べる ことによって、今後の課題を明らかにすると共に 、昭 相互 十八年度 多くて百部前後、しかも組版にあっても一丁毎に活字 を組み変える 0本を求める読者など最初から考えられていなかった といえよう。 ることなく、組版はその場で解 粗されていった。つま り、 新たにそ 部数が決まっており、その部数を満たせば事足りた 為 、再版を考え は予め必要な 五十九年度の共同研究の報告とする。 札加 らである。百万塔 陀羅尼に見られ 木 が印刷によって刊行されたのは、文禄から寛永 -一五九二一一 六四こに出版された自活字 人々の要望によって 、 同じ 古活字版でも再び組版した 異柿板による しかし、実用的な書や娯楽書が刊行され出すと、それ を必要とする 版 に利用されたのは一部の寺院 版 のみで、一般的な本 にまで及ぶこ 再版が現れ、追利がなされたりしてくる。例えば、 嵯 城本と呼ばれ るように、印刷技術そのものは奈良朝よりあったが、 それが本の出 とはなかった。しかし,文禄・慶長の二度に渉る豊臣 秀吉の朝鮮 侵 る木阿弥光悦が中心となって京都嵯峨の地で開版 が、逆に見れば、 円 伊勢物語 臼が 当時の教養 人必読の 書 であり・ そ 見られる。これはこの当時の﹁伊勢物証叩ヒの流行を示 すものである ﹁伊勢物 ま出には数種の異版が見られ、それぞれにま た異植字版が した高価な書物で、多分に私家版的なものではあるが 、その中でも は 、その 装偵、活字の字体から用紙に及ぶまで、彼ら の趣味を凝ら さ れた一連の書 冠 によって、活字印刷の技術が朝鮮ょり我国へもたら されたことが 契機となり、印刷された本の時代へと急速にすすんで いくことにな った 。 当時朝鮮では 銅活字等を用いた活字印刷が行われて ぃたが、その の ﹁古文孝経 し 活字や印刷道具が日本に持ち帰られるやその技術を倣 っての開版が 早速になされた。記録の上では文禄二年︵一五九三一 れを求める読者の需めに応ぜざるを得ず、開版を繰り 返したのであ る程 販売されたのである。 人々に。二三千とをりも 売申せし 也 ﹂ 宙祇園物垂下 一と評判され 仕置素 サ な 直二 お、非道 無 。Z様 三学問 ヲ用ヒ 快事、第一千 ァ候 。 黒田長政 ぬ哩@ ロ 板倉重矩重道え之遺書口米 一、⋮人の主たる身の、学文なくば、政道なりがたし 。 m 三日五 つ労 さ とも、 よ ませ 聞 、其理 を具にすべし。 経 七書類、文字は不:見知 米 口書五経孝経、素読 能覚候ハ 。、道書折々 呼ビ 道理 ヲ聞、国文 られて来ているのである。この場合も 、 それだけ人々の生活の中に化要な知識を与えてくれる 書物が求め ろう 。また、こうした古典や歌学を学ぶための教養 書 でなく、娯楽 の為に読まれた笑話本﹁きの ふ はけふの 物ま㌍にあっ ても数種の異 版と異植字版が見られ転など、読書人口の増加を十分 に窺わせる 出 通近衛 W/ 本屋新也刊行﹂とあり 、営利を目的 販 が現れて来る。さらに、慶長十四年 -一六0 九 - 刊 の ﹁古文真宝 後集﹂には、﹁室町 とした本屋による出版も見られる。これ以前にあって は商業的な本 尾として、絵巻や奈良絵本に見られる同じような図柄 や社立から、 それを専門に制作した絵草子尾の存在は指摘されてい るが、近世に 入って最初に知られる本屋が右の﹁本屋新セ﹂である 一 より 引用 と 述べられるごとく、儒教が徳川幕府の奨励する学で あり、為政者 米 ﹁近世武家思想日 日本思想大系岩波書店刊 一、室町時代末からの知識人の増加に加えて、戦国持 代の終結によ 側の必須の知識となったこととも関係して、その入門 書として歓迎 近世初期 よ り読書人口が増加して来る事由には、 って武士層にも施政者側に立つ上層階級の者としての自覚と知識 や されたことによるのであろう。また、 W 人にあっても 教養が求められ、武士が新たな知識層をなしたこと。 けいこすべき事 一、ものをかき、さんよう・ めきき、いしや、しつけ 、りやう 一、乱世の終りと共に、経済的基盤も安定し、物品 流通の発展に従 顕 して、 そ って貨幣経済が浸透したことによって、富裕W八層 が ムロ - より 引用 戸長者数日Ⅹ り ・ほうちゃう 、こ、ろ へてよし 日本思想大系岩波書店刊 と 生活に % 安な知識は稽古して身につけるべきものと されている。 米 ﹁近世 W 人 思想日 ぬなりの知識・教養や娯楽を求めたこと。 等 が考えられる。一例として、貫木十五年一一六三八 ︶に刊行され 示やゐ なかの 一 た ﹁清水物語﹂をみるに、この書は京都の大儒息株庵朝山素心が通 俗 的な表現をもって表した儒学の解説書であるが﹁ 四三 この﹁長者数ヒ は寛永四年 -一六二七一の古活字本に 始まり多種の 再版・重版を経て、約百年近く町人の致富と倹約の心 得を説いた 書 として調法された書である。こうした実用的な教養を 求めた人々に 対して多くの書物が刊行されてゆくことになるが、 こ の読者の増加 に対応してゆくには、従来の古活字版の印刷方法では 活字の減りや 組版のめ るみ等から、手間のかかる割に多くの部数を 印刷するに 耐 えないため、寛永頃より一枚の板木に文字をそのまま 彫り込む整版 ②田中坊 堂 四四 |慶長勅 版を中心とし ﹁百万塔陀羅尼文字号﹂ヨビブリア﹂三一一号、昭三七一 ③金子和正﹁古活字本の印刷技法について ヒ 一昭空こ てー﹂ 宰ビブリアヒ 六七日 万、昭五二・一 0一 ④川瀬一馬﹁自活字版の研究 古奈良絵本葉 一ヒ解題︵ 昭四 ⑤小高敏郎﹁﹁昨日は今日の物語 ヒの 諸本﹂三学習 院大学文学部 研究年報目 一二、昭四九・二 こ ⑥岡見正雄﹁天理図書館善本叢書 九・七の 印刷へと、その技術は移行していく。整版印刷の技術 は、平安時代 から 版経等で既になされていた方法であり、また、 そ の耐用度も古 ⑧長谷川 強 ﹁慶長・元和 ﹁仮名草子﹂ヨ講座日本文学 7近世編 1 口昭 四四︶ 八女訓的なもの ロ 随筆的なもの イ 教義問答的なもの 一 教義教訓的なもの る。前田令五郎氏は作品の描かれた内容によって ていることから便宜上与えられた名称で、その内容は 多種雑多であ たる。﹁仮名類﹂とはその本文が漢字でなく読易い仮 宅 で標記され 仮名草子は当時の書籍目録で﹁仮名類﹂と分類された 書籍群 にあ 一一 野間光辰 ﹁﹁長者数考 ヒ﹂ 尖西鶴新政ヒ 昭二三所 @ X Ⅱ - 活字版に比べて十分強いものであった。そして、殊に 京 ・大坂・ 江 声は、都市の発展に伴う人口集中により、整版印刷に よって大日重に " 仮名草子 " と呼ばれる 刷られた書物を売りさばくに十分な読書人口を擁した 大都会であっ た 。こうした背景の中から 一一五九六一一六三一 % 頃よりほほ天和 -一六八一 @ 一六八一三の 西鶴作 ﹁好色一代男ヒ出現頃までの間に現れた、仮名書きの当時の 近世 木 活字本 思想・風俗を反映した小説、および小説的結構を備え た啓蒙教化 読 物 ﹂が出版されてくる。 ハ註し ①古活字本というのは、江戸時代末期に刊行された に 対しての呼称である。 ニ 説話集 的なもの 蒲仔 市ョ物巴 証 な書物が大半を占めるが、﹁恨の介﹂慶長末頃成立一 や ﹁ や風俗を描き、現世 嘔歌の様子を盛り込んだ娯楽的な 小説も現れて 一同︶等のように、中世小説の影響を強く受けながら 、当世の流行 中世物語的なもの 二 娯楽的なもの イ きている。これらは古活字本、整版本と版を重ねた 評判の小説では ハ 翻訳・ダイジェスト 物 あるが、その表現は中世小説以来の伝統的な修辞を踏 製 しており、 当初においてはそれなりの読者の限定がなされるべき であろう また内容を理解するにはかなり古典に対する知識が求 められる 為、 事物解説 物 評判記的なもの イ見聞記的なもの る稀槻 な書である。その内容は﹁枕草子 口をもじっ た題名が示す 刊本は天理図書館蔵の古活字本一本のみ、他に写本で 三本が伝存す 知識人を読者とする例として﹁大札﹂が考えられる。 ﹁大札﹂は 、 ロ 狼雑な物が多いがその 一 いちきの、 ちそひね女﹂が著名な 学者中江藤樹 四五 ば 、藤樹はどこでどのような形でこの書を読んだので あろうか。 彼 本 ・国籍類書本といった公家・大名家のものであったことを考えれ 版 ︵慶長中期 頃刊 ︶的な出版物であり、残存する 写本も陽明文庫 枕 L ︵古活字本︶が﹁ 毎丁 ごとに組版 し 、摺制 し、 解 叛する﹂私家 き、女性への執着を断つように説き勧めているのであ る。この﹁ 犬 と 訴える弟子を諫める返事に、﹁大札 ヒの 書名あげ、 右の箇所を引 の書簡に引用されている。藤樹は、色欲の為に勉学へ 集中できない っ ﹁いなせたき 物 から作られたと言われる。①羅列する書物に ﹁物は付け﹂の書で、二親院近衛信尹と側近の御伽衆 との談笑の中 割を担っている。仮名草子全体を見れば、教訓啓蒙を 説いた実用 と 繋がる 顔 ぶれが見られる。そして、教訓啓蒙 家 とし て時代的な 家に加えて、武士・浪人といった人達であり、直接 新 しい読者層 これら仮名草子の作者達は前時代からの知識層であっ た僧侶 れている。 史的な位置づけをなそうと、﹁近世初期小説﹂と呼ぶ考えも提出 子の中から特に小説的な作品だけを取り出して、より 積極的な文 と大きくは三分類、さらに細かな分類もなされている 。この仮名 ニ 艶書文範 ハ 男色物 三 実用本位のもの ホ ニ 擬物語 口説話 集 的なもの 学 草 さ 竹 枝 へ 公 自身も女訓 物 ﹁鋸草ヒを書いた仮名草子作者の一人で あるが、同時 うに以後江戸時代を通じて続く 、な 性の教養 書として の享受のあり が成長してきていることを 現わしていよう。殊に﹁ 薄 雪 物証巴 のよ 而 Ⅲ@ 二ハ に読者その者でもあった。また、戦国武将から転じて 連歌 俳詣師と 方からみて、﹁大札 口が ﹁こ、ろほくきもの女のも のよくかく﹂ なった斎藤徳元も、やはり仮名草子作者の一人として 、﹁尤 Z 双紙﹂ を 掲げるのは、それが先行の書であることに加えて、 徳元自身がこ 為にする読書と、生活の余裕の中で慰みを求める、 楽 しみの読書と 人々が読書をなすのは、基本的には新しい知識・教養 を求めての と 掲げつらった女性の読者を考えなくてはならないで あろう。 うした書の読者であったことを物語っていよう。つま り初期仮名草 が考えられよう。そして、仮名草子の時代に新しい 読 者となった 武 ﹁大札ヒの名 子にあっては、読者にかなりの知識層があったことを 予想させると 土や W人達が後者のようなあり方で書物に向かうこと は、費用の面 一 これも﹁枕草子﹂をもじる一を作るが、その序文に えるのである。 それをより明らかに示しているのが、日大札ヒ のよう に刊本、写本 ︵一六五五 @ 一六六 0︶頃より、本の種類 -ジャンル 一によっては からもなを困難な状態がしばらく続いていく。しか 共に、同時に、そうした読者が作者にもなり得たとい, 共に伝わる書物にあっては、その内容に加除がなされ て、読者が作 新しい状況が起こっていたといえる。 松平面 矩の ﹁松平大和守日記﹂万治四年︵一エハエ ハ0- 二月十三日 し明暦・万治 者の仲間人りをなすということである。﹁大坂物証旦 ⑥や ﹁きのふ は け ふの物語ヒ にも同様な現象がみられ、本文の流動が 、読者による 0条に 、 昔とかはりたる事は、さま その書への参加という、その書の亨受の形態を伝えて いるといえよ う 。小部数しか刊行されなかった時代にあっては、 そ の伝播の狭さ うしいろ出来たり、あらましかそへて見るに、 内 に せつ 有といふうちに、上る りのさ から、なお写本によって 一 刊本を写す場合も、逆に写 本に よ る拡が きやりのさうしも 有、よき物の本はすくなし、思ひい たし 次 第 に書のせる りが刊本を作り出させた場合もあろう一字彙された 時 期 が合わさっ てあったことを考えておくべきであろう。 これらは残存するものからみて、草子屋の刊行になる 安直な仕立て と 説経節の正本十一点、浄瑠璃節の正本一五セ点が掲げられている。 とは、作品の中にある中世的な面に加えて、新しく 盛 り込まれた当 の正本類 で、舞台で上演されると共に読み物としても 刊行されてい しかし、﹁ 恨 亡命ヒ や ﹁薄雪物譚等が幾版 となく 版を 重ねたこ 化他に注目していたことにもあるが、それらを読み得 る新しい読者 た。庶民が生んだ浄瑠璃であった﹂といわれるそ がれ 、だけに刊行 な素 時朴 代であっ なく、自由に興行して観客の人気と歓声に応じた この時期の浄瑠璃は未 ﹁軌かもしれないが、体制の束 拘も保護も となく、それ自体を読み物として楽しいものにし、﹁東 海道名所記﹂ 旅や芝居・遊里への関心は、実用的な道中記・名所記 に満足するこ それはまた当時の人々の関心の対象を取り出したもの でもあった。 約八十年間続いた仮名草子の時代は、多様な作品を生み 出したが、 て 指摘し得る。 された正本も﹁よき物の本はすくなし﹂とあるよ 、う 読に 者対象を ﹁竹斎﹂等の傑作を作り上げ、また役者評判記や遊女 評判記といっ たことが知られる。 形に で筆 未や録写 考慮した仮名書で、多くは丹緑本と称される挿絵 の 時代であっ た、 粋に通じる悪所の美を演出する書を作り上げてき た 古典が改めて見直され、人々の興味を惹いたのも,﹂ も色 のを で施 あし るた ﹂、 が目 、か そら れも は楽 同し 時む に工 、夫 こが れな らさ のれ 書た が、 娯 楽 的 数 粗 な 紙悪 質の本で にも 再の 印本が多 あった。しかも、これら古浄瑠璃正本の現存する るものであり、﹁徒然 た。松永貞徳の﹁戴恩記﹂には慶長八・九年︵一六 0 三・四 - 頃の を現 わしている。殊にこの三善はこの頃より新しい 古 典 として、 ま いことは、﹁その浄瑠璃がいかに歓迎されたか、 の流 ほ行 どを示す 璃は寛永十三年一一六三六一十 セ月 日に上演の記録を 知ることので た、史書・軍書として多彩な享受を展開している。 近松門左衛門が こととして、林道春が論語の新註を、遠藤宗務法橋が 太平記の講釈 きる作品であるが、その写本の奥書に右 は之 ﹁常瑠璃は悪筆勘酌候 堺 の夷島 ︵歓楽地 で原水場 と 共に従妹牡羊講釈を若い 頃になしたと な読み物とし て堅辞退申供侍 共御懇望2間木頭他之瑚違字 落字多々可在Z候英王 いうのも、従妹 弐 早の当時における人気を語るものであるが、街頭講 を 、貞徳が百人一首や徒然草を初めて群集を相手に講 釈したことを 璃の読者の存 本の俸書付申供⋮⋮﹂とあり、九州の地にお浄 け瑠 る ていかに読まれたか現 をわすものでもある。また慶 、安四年一一六 在を教える。なお、浄瑠璃本について付言すれこ ばの 、後江戸時代 釈 というより一層幅広い人々を対象とした古典の公開 である。古典 開講義といえ を通じて庶民の手近な娯楽として人形浄瑠璃芝居て がは もやされた がこれ 程身近なものとなった理由の一つに貞門や談林 の俳話 師 によ 五二日向国の蓮華院の僧によって書写された﹁義 ﹂民 という浄瑠 のと同じく、庶民の手近な読み物でもあった。そ 現れ 存は する浄瑠 る積極的な活動が上げられる。彼らが 俳詣の言葉の種 として謡曲や 草ヒ や日大平 記﹂に対する人々 の関 、心の 一 @さ m 瑞木の多くに捺印された貸本屋の や印 、貸本屋の在庫 目録等によっ 四セ 古典をしきりに引用したことが、人々の古典への接近 を導いたとも となるが、この時期は殊に﹁元禄太平記 ヒ 一元禄十五午 Ⅱ 一セ0 二 た時期、京都の書 捷 八文字屋出版の気質物を中心とし た時期が中心 四八 -一六二四 @ 一セ 0 五一 は ﹁源氏物語湖月抄 目 ﹁枕草子春曙抄 ヒを 始め数多くの 古 典 注釈を世に 書物は流行せず、商売になるのは好色本か重宝 記 の類 で本屋も読者 刊 いえる。中でも松永貞徳間の北村季吟 魅り出しており、江戸時代において﹁源氏物語 三は ﹁ 湖月抄﹂によ の嗜好をもとに活動しなければならない時期であった 。つまり、 本 都の錦 作 ︶の﹁京と大坂に本替の沙汰﹂で述べる ように、堅い って読まれたといっても過言ではない。後世の川柳に その文体・内容、即ち作者の主体的姿勢から見て 、西鶴自身の出版 屋 が読者との間に強く介在し初めた時代であった。 西鶴自体につい とあるのもその影響の大きさを物語っている。井原西 鶴の ﹁好色一 シャーナリズムへの寄りかかりについてはなお慎重な検討を要する 香貞ハ 柳蓼留 六二・三 代男ヒ ︵天和二年Ⅱ一六八三と﹁源氏物ま 旦 との 関 係は早くから 問題である。また、西鶴本については、八文字屋本に 比べてはるか 紫の吊につつむ湖月抄 説かれるところであるが、それもこうした出版・読書 界の傾向の上 に高等な文体や内容であることを考えれば、読者層も ﹁好色一代男﹂ てもそうした問題が指摘されているが、谷脇理史氏が述べるように、 から考えられることである。ただ、﹁一代男﹂は今迄 の小説にはな よりして、なおどの程度の人々を想定すべきか問題の 残るところで 読さした宵の枕に奉唱抄浪輔ハ 柳条留 一嵩 0.巴 かった新しい文体と内容を盛り込んだ小説であった。 文学史の上で ある。八文字屋本の気質物を好んだ人々よりは一段 知 的な層ではな その後、それぞれの発生や展開には各ジャンル独自の 事情や意味 は、西鶴の﹁一代男﹂の発表をもって浮世草子の時代 とし、従前の れた時は、西鶴がその俳話仲間に読ませる程度にしか 考えて いな か を有するが、作者・読者・本屋との強 い結び付きの中 で、価格 本 、 かったのではなかろうか。 ったようで、出版元も荒砥屋操兵衛という素人出版で 私家版的なも 談義本、読本、草双紙、黄表紙、合巻、人情本、滑稽 不等の多種多 仮名草子とは一線を劃 す。しかし、﹁好色一代男ヒも 最初に刊行さ のであった。しかし、その人気は次第に高まり、木版 された板木は 様な小説が作り出され、多くの読者がそれらを享受し てゆくことに いる。章末の諸論文を見ていただきたく思う。 なる。それらについても既に多くの研究が個別ながら も進められて 数販 が刊行され、上方だけで なく、江戸坂 専門書建に次々と渉り、 すら現れる程であった。 以後、浮世草子の時代は約百年間続く。その間西鶴 物 を 中心とし ⑬柴田光彦編著﹁大 惣蔵書・目録と研究本文篇﹂ ⑫国有相口解説 一O- 一O一 八一 " 主日 裳堂刊 二こ ﹁太平記読みと近世初期文芸 | ﹁太平記﹂の受容 か 昭四七・一こ 宅早稲田文学﹂天一一 二、﹁西鶴新新政ヒ昭 五六所収- ⑱﹁西鶴 目 一天理図書館 ﹁浮世草子の研究﹂一桜楓 社別 一一@ 一 I.B目塞 上堂司 昭 其西鶴研究論 放し 昭五六・一 昭四巴 ⑰野間北辰﹁浮世草子の成立﹂昌国語国文﹂昭一五 を中心として﹂三国語と国文学目昭一四・一一、昭一五 九一 島津久基﹁西鶴と古典文学 | 特に一代男と源氏物語と の関係 m 日刊﹁好色一代男の成立﹂ 藤岡作太郎﹁近代小説 史﹂︵大六︶ ⑯水谷不倒﹁列伝体小説史三明王 0一 ら|﹂ 宅待兼山論叢五日 ⑮大橋正 叔 一一 ⑭中村幸彦﹁従妹生芋受容 史﹂三国文学解釈と鑑賞ヒ昭一一一二ハ 昭 五八・一一こ で証 口 一性格﹂三国語と国文 学三 昭二 ①﹁仮名草子集目解説一日本古典文学大系岩波書店刊②両舌貞次﹁近世初期小説の 九・九一 昭三一・八一 山 住正巳﹁中江藤樹 目 一朝日新聞社刊 宰ビブリア三五五帖四八 昭 五二 二八号 昭 宜 保二年︵一六四二︶奉答コ伯叔 ニ﹂ 昭 五二 ③野間北辰﹁仮名草子の作者に関する一考察﹂三国五 叩と国文学﹂ ① ﹁藤樹:全集第二 % ⑤木村三四苦﹁大札﹂ ⑥中村幸彦﹁大坂物語諸本の変異﹂三文学﹂ 江 ﹁薄雪物語版本号﹂ 宅近世上ナ亘 二七 の 前掲小高論文 ⑧松原秀 五一こ ⑲長谷川 強 昭四 0- へ|﹂昌国語国文目昭三 0. 二こ Ⅲ 血@ 二八一参 也昭 ⑳久松潜一編﹁新版日本文学史近世 O一 ⑳﹁出版ジャーナリズムと西鶴﹂ 一二・五 - 野間 光辰 ﹁恨の介﹂解説一日本古典鑑賞講座﹁御伽草 子 ・仮 暉峻 康隆﹁仮名草子の作者と読者﹂三文学﹂昭二一 々q@@口 +角 , 川書店 訓じ ⑨松田修﹁うらみのすけをめぐって | 仮名草子か ら浮世草子 ⑩ ⑪相田善雄﹁天理図書館善本叢書古浄瑠璃集目 解説︵ 昭四 七・一一一 四九 一一 逓世の出版は為政者や寺院等の私家版から始まったが、 読者の増 古活字版 ナ 行木﹁きの ふ はけ ふ の物証明二 加と 共に民間においても小規模ながら開版が行われ、やが て 営利を 目的 とした本屋が出現した。 五O ﹁寛文目録の部門 名 をかりて・その分類順序を示せば 、 白 取初に経ま目 Ⅲ、白貝舌酪 口咽 、 由 詰 並聯句、 字集 の類、以下神書、暦 書、軍書、往 来物、戻垂口、禅、法相・律宗・倶舎、天台、浄土鉱一 無主草紙とな から始まる外典・ 書 、連歌、 俳諸、手本、釣杓立絵図、和書 並仮名類 っている。書名のみ一三六六部を録して、冊数以下の 生 記がな㍉﹂ 五十午後になるが、その間をの 陣 ・夏の陣といった 内 乱を持ちなが と報告されている。私的な古活字本が初めて刊行され た時からほぼ ゐ中 へ、もの、 本売りに下りて、いろの物売りけ る 。 又あ ら 、ここまでの刊行を見るに至っている。次いで知ら れるのは﹁ 和 頃成立とされるが、その一話に る人、枕草子を買うとて﹁もし文字の遠ひたる事があ らばかへ 漢書籍目録 目 一冊︵寛文六年Ⅱ一六六上ハ項利一である は寛 水の初め︵一六二四︶ さうぞ 。 此ほどの、買うた中にも、悪しきことがある ﹂と申さ を 二十二に分け、書名と冊数を掲げた簡単なものであ るが、書名は 。これは部門 れければ、﹁これは英法寺の上人、せいわう坊の、校 合 なされ 寛文十年︵一 前者の約二倍二六 00種を数える。以後、今田洋三氏の調査では① とあ る。文士目を笑った話であるが、田舎まで行商に本屋 が 下り、 貞享二年 -一六八五一服五九三四種 た 程に 、少しも違ひは御座右まい﹂と 申た 種々 0本を運んでいたことが知られる。これら本屋が短期 間の中に 元禄五年一一山八九三服セ一八一種 と陸続と書物数は増えていく。また書籍目録自体も部 類 分けに 加 % 八七0一服三八六エハ種 程 めざましい活動と発展をなしたかは、当初は彼らの 取引き上 の必要から編まれた書籍目録が示している。最も早い書籍 目録とし えて、伊呂波分けの目録も出され、さらに寛文十年刊には作者 付が、 Ⅴカ 禿氏祐祥氏は ﹁吾人が再治の目録を掲げたのは再治二年十月十 て、 そして、享和元年︵一八 0 こ 刊の﹁ 合類書籍目録大 全日をその 最 付 がなされる。 が ﹂ と 万治年間 -一六五八 | 一六六 0一の﹁新版書籍目録 ヒを 掲げ 彼として、二十三種の書籍目録が刊行されている。 こ れらは刊行さ 天和元年一一六八こ別室田籍目録大全日には値段 られ る 。今 その本の所在は不明ながら、同氏が昭和十二年 に謄写版 れた書名を掲載した書であるが、一方地誌 類 にはその 本を販売する 一日害鳥 畢呆快と記入した 一烏博本を東寺観智院 で見ただ けである を 整理され、 複製された本によって、阿部隆一氏がその掲載書目 本屋を載せる。本屋と一口に言っても ﹁京雀 跡追ヒ 延宝六年Ⅱ一六セ八利 - 本金屋良兵衛 三束羽二重し と、その種の本を専門に扱う本屋が現れてきている。 江戸時代に幾 粁程の本屋があり、それぞれの店でどのような種類の 本を出版し 、 本屋、古本のうりかい ﹁難波 鶴﹂︵延宝セ午 Ⅱ一六七九刑一 その店がいか 程存続し営業していたかについては既に いくつかの調 どのようなものであったかはなお不明な点が多い。 それはなお今後 査 があるが、早 い時期における本屋の活動や出版に到 る迄の機構が 唐本屋、書物屋、浄瑠璃本屋、歌書正絵草紙 一節に 京都本屋仲間は弐有余 軒御座候 知れ下中 候 云々 五一 一六Ⅰ大坂が享保八年一一七二三一、江戸が享保六年 ︵一セ三一一 仲間を出版物取締の意図から公認したのは、京都が正 油土ハ年︵一七 間は元禄以前に組織されていたと舌口われる。ただ、 徳川幕府が本屋 兄都の本屋 仲 と記されてある﹂ 宅京阪書籍南史三九頁 一 ことから、一 往古来仲間 相極り候改年数 相 月十四日大坂本屋仲間の行司が当時の大阪 W奉行に上 った口上書の 図しており、先ず京都で組織化された。蒔田稲城氏 は ﹁享保八年九 合 で、自分達が出版した書物の版権を守る為にその 日結と統制を企 本屋仲間というのは、本屋の増加に伴って設けられた 同業者の組 公開が進んでいる。 の課題であるが、本屋仲間が組織された後のことにつ いては資料の 書林白水 仁左衛門 中野小左衛門 一向宗西村九郎右衛門 法花書同五郎左衛門 同 き三口書前川権兵衛 神書田原 安斎言武村市兵衛 儒医書風月 法花書手染寺 % 一物芝本を取扱う - でも、 と、その取扱う書物による店舗の違いがあり、また 、 同じ書物 初芝本屋、唐本屋、書本屋、浄瑠璃本屋、板木屋 ﹁増補江戸 惣鹿子名所大全ヒ︵元禄三年力Ⅱ一六九 0刊 ﹁ 京 羽二重﹂ 貞享二年 n 一六八五刑- 書物屋、草子 屋・板木屋 屋 | と の 五二 こ 章 れ である。しかし、三都共 それ以前から重板・類板・偽板の問題がし ばしば表面化して現われているので、仲間組織化の動 きは早くから あったものと考えられている。本屋仲間が成立して後 は、書辞が新 たに本を発行しようとする 場ムロ 、次のような手続きを 経て出版され ることになる。 先ず書館 が書籍を刊行上梓一之を﹁開板 ヒと云ふ一せ んとする た 時にはそれに先達つて草稿を添へて、仲間行司に開板 願を差出 すのである。行事は御法度禁制に抵触する事なき 哉、 仲間内の 既刊書の重板若くは類板に非ざるかを検閲 吟味︶ し 、若しも 類板の懸念ある時には、仲間内に一応、其の草稿を添 へて既刊 あ か 合 ケ く 金 芋暴 と の 庫 、 出が つ な さ れ 圧 麦 菊 本 で な 問 な く か そ 記 き 前 又 後 印 製 必 本 と に と - 者の内覧を求め 之を﹁廻り木﹂と 云ふ︶、何等支障なき時に 版 た 許 し心 の有 中 る 5 意 竹 を や 達 章 発 開 一 0 表 芝 の が 売 叛 さ す 紙 都 同 力 上 を 双も 月 解題 始めて、行事は其の願書に奥印証明をなし︵行事の名 にて願書 ) 歴史 を差出す時もあったⅠ W奉行所に其の開版許可を中 詣するの そ 店刊 新 である。 一 江戸に於ては町年寄、大阪には惣年寄があっ たので、 此等の役人を経由したが、京都には年寄がなかったの で、行事 から直接奉行所に顔出た一。奉行所に於ては更に之を 検閲した 上、開版を許可するのであるが、 此時にも行事を奉行 所に召喚 宅京阪書籍南史し して、行事に其の開版許可の指令を下附し、行事が更 に開版人 に Zを伝達する。 こうして許可された原稿を板下書に浄書させ・さらに 彫師が板に 戸 佃 戸 祐 明 一 献 上 棚 禄 理 に 干 目 出 もなさ -不七 渡され に支払 浄瑠 続きもの土地 cた た 程の 事 れ 手 ど 本 い 間 な u、 江 「 売 氏 元 「 訟 出 師 が刷 行 れ 開 「江 北焼 仲間めぐる れ 屋 別 料 尼 そ て 本 さ は 案 ① ③② ④ いて﹂害ヒストリア﹂一九、昭三二・ハ- や貸本屋の実態を調査され、その様子を紹介されてい るが、貸本屋 萬栗生 矢島文亮著 ﹁徳川時代出版者出版物集覧ヒ ﹁同続編﹂一 う﹂と、全てが江戸時代の貸本屋とはいえないがと し ながらも、 述 ることができるから、実数はおそらく優に百四五十軒 は越すであろ の全国的な活動の跡について、﹁現在著者は八十五軒 ぐらいはあげ 書店刊、昭五二 べておられる。一定の時期を捉えた調査とはいえな いが、貸本屋の 集覧﹂ エ。 日届書店刊、 昭四五一 堂刊、昭五六一 井上隆明﹁近世書林板元総覧 ヒ 主日裏 活動が全図に及んでいた一証といえよう。長友 氏 はま た ﹁河内柏原 ⑤井上和雄編﹁増訂慶長以来書賈 両舌夏生締﹁書林編纂書目板元名寄 一|七﹂釜含ま 一こ にわたる四年間の三田家と行商本屋との書物の売 買や貸本の出 三田家と行商本屋﹂で、享保四年一一 セ 一九一から 同セ年 -一七二 ﹁京都書林仲間記録 ヒ全六巻︵ のまに書房甜 入を詳細に調査され報告されているが、ここに現れる 二軒の中、本 ⑥﹁大坂本屋仲間記録三 ︵刊行中一 ﹁江戸本屋出版記録﹂全三巻 のまに書房刊 一 屋森田忠 人 は、野間北辰 氏 が紹介された﹁河内国日下村元庄屋日記﹂ 大橋正叔 ﹁諸事取締 帳﹂ 宰ビブリ ア目セ五号 昭五五- の にも登場する﹁本屋忌人﹂と同じ人物と考えられてい る。大阪から たが、これ以前から、彼らがかなりの遠隔地まで足を 延して活動し 近郷の村々を廻るこれらの行商本屋の活動は本の売買 、貸本にあっ ⑧﹁名古屋の出版﹂一昭五六・五︶参考文献掲載 四 橋辰章一号生蕃︶の寛永十九年︵一六四こから元禄 ていたことが、最近紹介され注目された﹁家乗﹂によって知られる。 一話によって例示し、また、三都では本屋が店頭でそれぞれ専門の 七︶までの日記である。日記とはいえ、内容は家譜 としての記録を 不特定多数の読者に対して本がどのように販売されて いたか、前 書を販売していることも記した。寛文五年︵一エハ二︶ 八刊 五のヨ尺雀口 も 兼ねるものであるから、政治・経済・社会・世相 ﹁家乗口は、紀州徳川家の付家老であった三浦家に仕 えた儒医 石 の挿画に﹁初芝本や﹂の看板を掲げた店頭 国があるが 、これなど本 面 にわたる。近世読者史の資料としては、彼自身が教 養 ・娯楽とし 章 では早くから行商本屋のあったことを﹁きの ふはけふの物語ヒの 屋の絵として古いものの一つであろう。以後色々な 書初 に本屋店頭 て読んだ書物だけでなく、侍講として君主へ講釈した 書物を丹念に 芸能等の多方 十年 -一山八九 0図が描かれる。こうした問題について、長友千代治 氏は行商本屋 五一二 記録すると同時に、その書物が購入したものなら ぼその値段 を、ま 五四 0 薩摩 鹿 児嶋 五 F@2 琉w 球w屋 娘末虹 と事件の当時者の名前や年時、地名を書き留めたりし ている。尾形 公一十三日一 貴重なものである。彼の読書の幅は広く、出入する本屋の軒 数も十 肋氏は ﹁地名や年次を圧しているところを見れば、 姫路清十郎但馬屋 妹夏 数軒を数える。彼の元へは地元和歌山の本屋だけでなく、 京 大坂 か 事実と受けとめ、当世の下情に通じ施政の参考に資す る 意味を伴っ た貸本ならばその旨を読書日数、人手経路に及ぶまで記して いる 占 らも小 屋が訪れて来て 、同じ本屋が売買も貸本もして、彼の 便宜を るに足る報道性を具えている点に認められていたとい ぅ ことか﹂① 一面 ではそれを 計って いる。京阪からの和歌山までの来訪は数日を要するも のと 思 ていたかと思われる。浮世草子の効用は、そうした 読 みかたに応え 指摘されるが・そうした読み方がどこまでなされてい たか疑問であ 徳川御三家のお膝元とはいえ、当時の本屋の積極的な 活動の 程が窺われる。彼の読書対象が大半経書史書類であることは 当然な るが、一面そのような受けとめ方があったことは他の 市井の事件を われ、 仮名草子や浮世草子等も交じり込んでいる。しかも、 西鶴の がら、 エハ︶閏 三月二十二日には﹁好色五人女﹂の巻 四 ・養二 が、翌 二十三 れている︵生蕃 が読んだ﹁日本木代蔵﹂は君主からの恩 借物である︶ よう。そして、西鶴の作品が生蕃だけでなく君主三浦 為陸 にも読ま 浮世卓子なども侍講の書に入っている。例えば、貞享三年一 一山八八ハ 速報的に取り上げている浮世草子が多く存在する点か らも認められ あるこ とを 思えば ・かなり早い時期に読んでいることになる。しか @ 拙肌 重日 して興味深いことである。徳川家康を初め、江戸時代 を通じて好学 ことは、西鶴の読者がかなりの上層知識者に及んでい たことを示唆 日には 養三・巻立 が 侍読されている。同生日が同年二月刊行で 後、 江戸本郷八百屋船セコロ禅寺侍童Ⅰ小野川吉三郎Ⅰ 天 礼三Ⅰ 介する。薩摩藩主島津崇信の少年の頃の話として﹁ 古 か り油 月立ヒ 田に 久、 いるが、こうした軟派の文学も読まれていた何として 、もう一つ 紹 の諸大名は多く、各地に残る藩校や文庫の蔵書がその 証跡となって 年冬 u O大坂未満槙尾船子間男 麹届書左衛門 貞享Ⅰ 三%こ 公 が毎夜、侍臣に古今の治乱興廃のことを語らしてい 8時、ある 家 O侍読五人大 ご一十二日- 公御 一人微笑すらなされなかった。誰もが不思議に思 い、この咄を 臣が 咄の本の草紙を求めて、その咄を語って人々を笑 わせていたが、 u O 播磨 侍読五人女 東大経師事於佐車間男手代茂右衛門口貞享 / 元年 次の間で咄をしてお聞かせしたとの話が載る。読んで 楽しい書物に 帰国途上の黒田 候 ︵特定の名を指名できない一に西鶴が 召されて、 頃から親しんだ人であったのであろう。伊藤梅宇の﹁見聞談叢 口に、 い、 万。咄の本を大名の若君が読んでいた資料であるが 、読書に若い 知っていたと答えられたとある。享保末年︵ 一セ三五 一頃のことと 初めてお聞きなされたのではと尋ねると、この咄は既 に本で読んで け木の値打も増すというものであろう。貸本屋の サ| ビスもかなり ければ貸本で十分であろう。また、買った本を大勢で 読めばそれだ の一 から二十分の一の価格になるとなれば、手元に取 置く必要がな のはやはり時謄 されよ う。それを貸本屋で借りて読め ば、約十五分 ほどになる。小説のようなものに一冊三千五百円から 五千円支払う 匁 とみて試算すれば、それらの現在の値段は三千五百 円から五千円 子の売値を三匁から 五匁 とすると、当時の米価の平均 を 一石五十五 草子作者は、自作﹁好色床談義ヒ一元禄二年Ⅱ一六八 九刑︶の自序 - と名乗る浮世 対する人々の興味は共通するものといえよう。 やつ 貝取るのではなく、貸本によって済ましている場合が ほとんどであ で自分の書いた作品の摺刑部数を七百部から一千部 だ と自賛してい 行きとどいたものであった。山の八市不入左衛門 る。また、友人間での本の貸借がしばしば行われてい る。本がなお る。自己宣伝を割引いても相当数が摺られ出 廻っていた ことになる。 読むには、 高価・貴重であることを語っている。これは武士以外 では一層のこ 彼の掲げた作品﹁恋慕水鏡 三 ﹁源氏色遊 ﹂﹁風流嵯峨 紅葉 ﹂﹁好色 旅 ﹁家乗ヒ をみるに、娯楽的な仮名草子、浮世草子等を とで、摂津国枚方の庄屋日記﹁見聞予覚 集ヒ では京都 より取り寄せ 枕目 ﹁好色覚帳六 いずれも上々の 作 といえないもので あっても右の た ﹁源平盛衰記﹂を読むというので、ある者の家に皆が集まった と 如くであれ ば 、読書が日常生活の中でそれなりの役割 を担い、文学 く 、識者が読 いう︵元禄三年Ⅱ一六九 0 年 十月二十七日一。おそら ハ 註し 全体がその位置を持つに到ったことを示すものであろ つ。 に指摘されていることながら、当時の書物の値段は他 の物価に比べ ①長友千代治﹁近世貸本屋の研究﹂ み解きながら進めていくのであろう。識字 層 の問題 も あろうが、 既 て高く、とても庶民層では自分の書として読むなど 出 来ないことで ②﹁浮世草子の読者層﹂言文学 目 昭三三・ 三 上堂刊、昭 東京堂刊、昭 五八・三︶ あった。また、たとえ富裕な者であっても、教養・ 実 用の書であれ ③﹁家乗ヒ一和歌山大学経済史文化史研究所編、清 五九一 ばともかく、無用な娯楽書に大金を出すことは気の使 うことであっ た。今の価格に正確に換算することは困難であるが、 西鶴の浮世草 五五 ④﹁儒医の日記から﹂ こョ 厚生閣刊、 戸口一一 宅文学ヒ 昭二セ ・一二 ⑤福井久蔵﹁諸大名学術と文芸の研究﹂ ﹁近世日本の儒学 目 ︵岩波書店刊、昭五九︶ ⑥面白貞次﹁御伽衆・ 御 咄衆・咄の本﹂︵日本吉 異文学大系 ﹁ 補刑 西鶴年譜老ぬ臣一中央公論社刊、 昭五八 ﹁江戸笑話集目月報 昭 四一・セ︶ ⑦野間北辰 著 一一一 鼠 の諏入、 は当時の庶民教育について むか﹂ 反か 十 @ Ⅱ二ハ 、 エ公刊行義の大意、 ︵中略一昔の金平本は、いさみのあるよい物で、武士 の子共には、 猶更勇気を付るよい 物 じやぞ。夫から段々 仕 上て 同 小意とて、中村氏が作、 甚よい ものじ ゃ、す、め てよませよ。 貝原の書は、下手談義にさ へす、 めてある。 泌 つねに おこたらずよ めうが 差 @ ん ませよ。 共外 町人 袋 、百姓袋 、冥加 訓 の類 、分量記の 前後二億、 此 類の草紙、皆平仮名で読やすく、具現さとりやすく、 いずれもよい きん 女子 訓 の 類、 書 じや。 あ づけて 諒 せよ。女子には女大学、大和小学、 暉峻康隆﹁仮名草子の作者と読者﹂三文学﹂昭二一 三・五@ 八 どれもよろし ひ物 じや。教へて読 しむべし。 亦 少し 午 かさな 娘 共に ⑧﹁枚方市正﹂所収 ⑨ 頁暉峻論文 ②野間論文 教育 の の る 振 作 年 ﹁宝暦・明和 ぬた遁辞に 始り、 彼らの 付 した。その時、その新小説 群をさす称 となった。﹂と 定義される。 始めた小説界の作風が安永・天明朗に入って、新様式 として確立坑 の間、知識人が、通俗文学を作った際に用 ち初期戯作が現れてくる。戯作について中村幸彦 氏は 享保以後の文芸の傾向として、一つは知識人による 遊 戯の文学 即 な ジャンルが形成されてきている。庶民的な娯楽読み 物も多い。 に応じた様々 と 、なお数書 読むことを勧めている。ここまで読む 側 に知識がっ け 同時に セ を勧 対して提供される詩書は八文字屋本以後は知識の普及 ば 、あとは本人が読書を好むか好まないかにかかって くる。それに 「 宝暦 書とし ⑩山崎隆三著﹁近世物価史 研究﹂ 一塙 書房刊、昭 五 八・一こ 六諭行 一年Ⅱ 教育は ⑪野間北辰﹁作者 山 八の正体| 近世小説に関する 覚 ぇ喜 -二 宗は 風教の 一 一 おわりに で 鳩巣 |﹂三国語国文﹂昭一六・ セ一 享保 に 一 一 セ ら し め と 興 を は こ 民 室 と 中に数えられてくる。しかし、松平定信の寛政改 -一 革七八七一役 mといった人などが読者の 調教養が求められ、肥前島原藩主松 静浦 それなりの 知 いて一家をなした人達であった 当。 殊ながら読者にも れる。酒落木しかり、黄表紙しかりで、その作者士 はや 武学問にお た狭い範囲であって、書館は便法で介入していたあ のる で﹂と説か もって一群をなしていた 中略一作者の予想する読は 者、特定され 指摘できるものとできない場合があるが、知識やな 嗜ど 好の条件を 体的な情況を れていく。また、この期の特色は﹁作者と読、 者具 が 老荘思想による現実との不即不離の姿勢に調 よ刺 るを通じて表現さ 小白 説話 の影響や では談義本に、知識人の洗練された趣味が、中国 朗は 読本、江戸 これは氏のいわれる狭義の戯作であるが、上方 初で である。 ろうかといった観測を、このレポートを記述する中で 得ているから た試みによって、案外、作品の本質的な問題に入り得 るのではなか るという試みは是非 共 なされなければならないことで ある。そ うし てから、即ち、近世の読者という立場から近世文学史 を把握してみ ことはむずかしいことであろう。しかし、この度の共 同研究の テ| のである。この意味からはこの時期の読者層をある 範 囲に限定する 品の種類においても印刷部数においても十分な量が供 給されていた 件の下に読者になり得たといっても過言ではあるまい 。それ 程、作 ことも加わって、郡部共に読書に興味を持つ全ての 人 達が平等な条 の読者は仮名書き本のこともあって、また、貸本屋の 全盛期である 巻、 本合 等一の時 後期後半の小説︵人情本、滑稽本、後期長編読本 戯義 作、近世 商業主義的な作家の活躍が中心となる。中村氏のの 広 ②中村幸彦 著 ①﹁近世 で寸 @口 札 あって消え、 は、酒略本や談義本の持ってい調 た刺性は出版取締に 達人 の会話や 化となる。これらの作は知的な楽しみよりも、登物 場 ③中村幸彦﹁戯作入門﹂ 一鑑賞日本古典文学﹁ 酒 落木・賀表 文﹂昭二八・四一 長友千代治﹁近世貸本屋の研究 目一 東京堂刊、昭五八 二こ ④浜田啓介﹁ 馬孝に於ける書豊作者読者の問題 ﹂三国語国 紙 ・滑稽本し ﹁戯作論 口 ︵角川書店刊 昭四二 W人 思想し一日本思想大系岩波書店刊 一よ り 引用 仕草、振舞等の中に実生活のカリカチュアや人情見 のて 綾楽 をしむ、 学の 的街 な面があ 本は高踏的な姿勢をとろうと務めはするが、本人 期 あり、全体の流れと質的な相違を見出すことはむし ずい か。この 五七 の研究﹂ 昭四八・四一 ⑤中村幸彦﹁読本の読者﹂三文学ヒ 昭三三・五、﹁近世小説 史 付記 本稿は、大谷森繁 天理大学教授一規、天理大学名誉教 授 ・広島女 五八 二年三 る。﹂一季 胤錫 ﹁記念論文集の刊行に際してヒと、そ の趣意聖日に述 べるように、大谷森繁教授の広島女子大学停年退官一 二00 月一を機として、韓国の貰冊一貸本一白小説研究に先 鞭をつけられ、 ﹁朝鮮後期小説読者研究ヒを 発表されている大谷教授 への、韓国研 究者達による献呈 本 である。ところが、この記念 集に は韓国の貰 冊 で、日本の部を担当した大橋が昭和六十年四月に提出 した同財団 へ 日の比較 ニ 昭和五十八年・五十九年に行った共同研究﹁朝鮮朝 侍 化 に於ける 小 よりの研究助 成を受けて、 ている。もっとも、翻刻したいとの申し出は、この 書 0編集に当た 者について﹂とともに、私のレポートも韓国語に翻訳 され掲載され 教授 - であった磯部彰 氏の論考﹁清代白話小説の諸 形 態とその受容 規東北大学東北アジア 研究センター 担当した当時富山大学助教授 - 韓国に伝えられていたので、その時提出された中国の 読者の問題を 古小説研究者の論考だけでなく、右の共同研究が大谷 教授を通じて の最終報告書である。ほぼ二十年以前の旧稿を補筆 訂 正せずに、 こ られた 李胤錫教授が私の研究室に別件の用事で大谷 教 授とご一緒に 子大学名誉教授 - が中心となって、韓国研究財団︵ K 0 Ⅰ eaR ・誤植のみ訂正のは、 そ の後この分野 見えられた、昨年の三月にあったが、その時は掲載に ついては聞か eserch F0undati0n@ での研究の進展を知る身としては、悔恨たるものがあ るが、次の ょ ず、 古いレポートでも 李教授が研究されている韓国の 貸本・読者 研 買価 古 小説研究﹂が出版された。﹁ こ の本は貰 冊古 中心とした韓国の貰 冊古小説研究 含 より、同舎 編 ﹁大 谷森繁博士停年 昨二 00 三年八月に、韓国の延地大草校 固文 阜科 の李 胤錫教授を 月末に李 胤錫教授から記念論文集が送られてきて、 韓 国語に既に翻 が大谷先生の記念論文集に掲載となったということで ある。昨年九 ただければかまいませんと、ごく気楽に返事はしてい る。その結果 究の参考になるならば、私の書いた時期を明示するこ とさえしてい 繍 小説研究を始められた大谷森繁 教授に対する感謝の表 赤 であると 同 訳されたことを知り、慌てたことである。しかも、 こ の本は大谷森 こ はそのまま発表する 説の受容と流布およびその社会的背景研究︵ 韓 ・中 うな事情によってである。 時に、 五 0年以上、韓国学の道を進み、今も韓国学関 連の研究に身 繁博士停年退任記念論文集の特別本とは別に、処世人 早技の延 他国 堤集 退任記念仏 を 置く七 0代の学者に対する若い研究者たちからの 友 情の表れであ 朝鮮後期の貸本再論 大谷森繁 研究者の目に 草叢書の第 桝何 としても刊行されている。とすれば、 李胤錫 ・邦明基 2部 貸本吉小説研究の現況と課題 もあろう。しかし、日本語では公表されてはいない。 旧稿過ぎるた 貸本︵春香伝︶所収の﹁パリ 歌﹂について 彰 大橋正 叔 ユ チュン ドン ンエ チョン サ ンオク 邦明基 李胤錫 触れる機会も多くなり、翻訳の元となった日本語版を 問われること め席曙はしたが、意を決して本誌を借りて翻訳の元 原稿一提出した 貸本小説の諌 疏は ついて | 書誌事項と叙事段落を中心に| 貸本系列︵春香伝︶の特性 | 東洋文庫本 ヨ二国モ 自を通してみる | 報土口書︶をそのまま発表することとした。 これが旧稿掲載の次第である。今まで公表しなかった のは、報土日 を 離れたものと解していたからである︵それも最早 時効 であろう 一。 書は韓国研究財団に提出したものなので、その扱いは 大橋個人の手 ﹁ 玄詩文伝白の叙事的特徴と意味 3部 ヨン チユヒョ 翻訳の労をお取りいただいた 李胤錫 教授に改めて感 謝申し上げま 索引 五九 清代白話小説の諸形態とその受容者について磯部 日本近世の読者序説 | 原典・京版本との比較とその意味を中心に | 貸本﹁錦香亭 記﹂の特性研究 ︶テキストの形成過程研究キム 貸本︵九車一 てダ お なお、昭和五十八年・五十九年の調査・研究には、 天現図書館 刊 す。 書牛見正和、大西光華両氏の助力を得て資料収集にあ たった。これ も 遅ればせながら記して謝意を申し上げます。 参考までに近世 國里叢書の第 糾冊 ﹁ 貰冊古 小説研究﹂ 0目次 -天 目次 土ロ 理大学教授松尾男瓦翻訳 一 を挙げておく。 発刊 辞 巻頭 =ロ= ト
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