JNK000905

天理大学人権問題研究室紀要第
9 号 :77
一 93, 2006
散所村から人形 操村へ
一一淡路三条 村 と西宮産所村一一
吉井敏幸
YOSHIITosh
hyu Ⅱ
土
エ
晴子氏は,中世双期の 散所は本所に 対する 散
所であって,散所雑色や 散所召次は差別され
はじめに
淡路三条 村 (現,兵庫県南あわ じ 両市姉條 )
ていたわけではなく ,中世後期になって「
散
は,淡路人形浄瑠璃の 発祥の地として 夙に百
所非人」が出て 来るが,これは芸能 民 であ る
名である。 この淡路人形浄瑠璃は 摂津国西宮
声聞師を,本来の非人であ
産所村 (現 ,兵庫県西宮市産所町) から伝え
で腕曲 な呼称として 使ったものであ る,とさ
られたとの伝承があ り,事実としてまず 間遠
れ,
に んぎょうあ
や 09
いはない。 これらの二つの 人形 操村は ,
「ト
世では散所 村 または産所村であ った。 つま
る
被 差別 民 としての散所は
坂非人と区別し
,中世後期にな
ってあ らわれる神事芸能をする 集団で,声聞
師でもあ り,その淵源は 中世前期の仇 偶 子で
り中世では宗教性を 帯びたさまざまな 諸芸能
に従事する村であ った。 これが近世では 人形
あ る, とされた。
中世の散所についてこの 他に天皇制と
浄瑠璃の芝居に 特化する人形 操村 になる。 人
る非農業民の 職人で,中世後期に 差別される
形 操村であ る西宮産所村と 淡路三条村の 研究
ようになったとする 網野善彦氏や ,散所と検
は ,これまで人形浄瑠璃という 芸能史から取
非違使の関係を 注目された丹生 谷 智一氏など
連な
り上げられることはあ ったが,本稿では 中世
多数の研究者が 考察している。 さらに近年で
の散所村が,近世の 人形操村へと転化する 過
は,山本尚友氏を 中心とするグループが 具体
程について,特に村落という側面を 中心にし
的な散所村の 研究を進めている。
他方,中世の散所村から系譜的につながる
て述べてみたい。
中世の散所論は 豊かな研究 史 があ る。 中世
近世の村として「役者利」があ
る。 役者付は
の史料に散見する 散所について 早くから注目
ついては,近年その 機能や社会的位置につい
した林屋 辰 三郎氏は,古代からの 雑戸の系譜
て研究されているが ,中世との関連において
を
引く権門寺社に隷属する 雑色散所の民が 中
世 前期ではすでに 被差別 民 であ ったとし, 森
は, 必ずしも十分に 研究されていない。
以上の研究史から ,散所は申世 前期から 見
未読影氏は中世前期から 被差別 民 であ るが,
られ,中世後期には 次第に階層分化,定住化
浮浪性があ ったとしている。 これに対し脇田
していったことは 確かであ
天理大学文学部
る。 中世末から 近
Faculty@of@Letters
77
散所村から人形操村へ
世 へと見通しを 述べられている 脇田晴子氏の
と
理解によると ,散所の民は,また声聞師とも
る。 西宮産所村の
いい,神事雑芸をずる 集団であ り,そのなか
社の宮司を勤められた 吉井良尚氏の 一連の仕
には木偶廻しもあ り,猿楽や能楽を 演ずる者
事があ り,基本的な 史料もほとんど 同氏によ
もいた。 彼等は寺や神社の 法会や祭礼,村人
って収集されている。 また西宮と淡路の 人形
の祝事に招かれ ,芸能を奉納するとともに
操 との関係については ,吉井良尚氏も 研究さ
,
徳人形を操る 塊偏子の銅像を残すのみであ
人形操は ついては,西宮神
人家の門口に 立ち,音曲・ 芸能を演じて 金品
れているが,武田清両氏も 研究されている。
を貰う門付けもしていた。 散所非人とも
西宮産所村および 人形操の歴史については
いわ
れた彼等は,非人のなかでも 河原者や坂非人
と
,
これらの研究を 見で頂くとして ,ここでは
十づ
階層分化した 結果,民間信仰で未分離な 雑
・
落としての産所柄について 述べたい。
l。
近世では,この産所村は石高 82 万余で,人
人や葬送に従事する 三昧聖 とは別の芸能に 従
形廻し村 と称され,人形 燥が行なわれていた。
芸 を行なっていたが ,近世になるとエタ・
ヲ
事する雑種 賎民となった。 さらに分離特化す
享保1m 年 (1727)
るかたちで専業的な 芸能集団化していった。
形 芝居興行請書」に ,
中世末期,人形操 をする西宮と 淡路の散所
3
月
16 日「広田神社遷宮人
(12)
Ⅰ広田境内ニ 市産所志昔人形上るり 為致
民は ,人形浄瑠璃という 新しい演芸をはじめ
候 二村, 弥右衛門殿 より西宮町庄屋市郎
て大いに繁栄させ
右衛門まて一札板御付, 案紙御出し候 ,
,その後の人形操の 在り方
を変化,拡大させた。本稿では,散所村の 具
如 前産所四郎 三 ・上るり大夫一札取帳 友
体的な事例として ,人形浄瑠璃の発祥の地で
之通 ,
あ る淡路三条 村と ,淡路へ人形操を 伝えた西
宮産所村が,中世産所村から 近世の人形 操村
へと転化していった 過程と,その過程のなか
で淡路の人形 操村であ る三条 村が何故に全国
化し,西宮の人形操村が衰退していったかに
一札之事
仝度 広田 御 遷宮ニ村,今月十セ口ょ
-,
り
来月朔日進私共働 請合 少々人形 ヲ 天
一段切迫田
シ
仕儀二行,御役所ょり 被
仰山懐ハ, 常々も 被 御付御法度玄
ついても考察したい。
趣相手町中 條 ,勿論見物人其外 とも慮
コ 西宮産所村の 人形操 とその成立
外皮儀仕開敷候 ,尚又本人・ 大坂者武
三人も相交り 中二村,当社御法度亡機
] . 近世の産所村
急度相手帳 様 ニ町中波 旨奉 良候, 万 d
兵庫県西宮市の 西宮神社は, 伊弊諾と 伊井
冊の ニ 柱の子,蛭子神を
こ
祭神としている。 こ
の神は古くから 漁 携の神,航海の神として 漁
不屈之 儲位候ハ
民の間で崇められ ,鎌倉末期には市場の神 ,
後日 仇如件,
なみ
ひる
商売の神として 急速に信仰を
広め , 広く民間
から信仰を集める 神となった。 この西宮神社
のすぐ北に産所 町 があ る。 今日では静かな 住
宅地であ り,この地がかって
人形操の産所柄
であ った形跡は,「 塊偏師故蹟 」という石礫
78
、
,私共いか様六町被
御付候,有志趣従御役所被御付 候
二村,私共一札板 御付差 上申供, 為
産所村座本
享保+ 二年末三月十六回
四郎姉 卵
同年寄
八郎兵衛
印
上るり大夫
茂 大夫 印
せ"引
吉井宮内様
右左通 一札取 , 則 庄田 弥 右衛門殿へ広田年
えば,西宮神社かまたは 西宮社の北にあ る広
田神社付近に 限られ,西宮神社の 境内では時
寄強兵衛尼崎 江相参差上申恨事,
に応じて芝居小屋が 建てられ,上演していた。
この文書は,広田社の 遷宮に際して ,境内
三 生日記」 文ィ Ⅱ 4 年 3 月 4 日 条に 「西宮に
至 ,西宮明神を拝す, 此 境内,折節劇場あ
で産所の者が 人形浄瑠璃を 上演するにあ たり
「
り
(151
尼崎の領主松平氏の 役人庄田 弥右衛門宛て,
法度を遵守する 旨の請書一札を 出すように命
て ,男女群出す,」とあ り,また「山崎通分
じられ,それに 伴い西宮の神主吉井宮内にも
描かれていることから ,常設小屋であった よ
差し出した請書であ る。 差出人は産所村の 座
うであ る。 つまり近世の 西宮産所村の 人形操
本四郎 三 ,同村の年寄八郎兵衛,ヒ るり大夫
は,西宮神社や 広田神社の境内やその 周辺で
の茂大夫の姉人であ る。 したがって興行を 行
しか活動していなかったのであ
なう座本は四郎姉であ り,浄瑠璃を 演ずる太
後で述べる淡路姉条の 人形操と 異なる点であ
夫が茂大夫であ った。 上演は人形を 遣い,浄
る。
瑠璃 節 十二段のうち 一段を大坂からも 2 一 3
人が参加して 上演することになっていた。
開廷絵図」には 西宮神社の北東に 芝居小屋が
ク
る。 この点が
さて,村落内のことであ るが,摂津国の 地
誌である「摂陽奇観」の「山上村」の 項に「西
寄のみであ り,庄屋は西宮町の 町庄屋市郎右
支配関係に注目すると ,産所の村役人は年
宮の北に山上村といふあ り, 此虎に百 太夫の
末孫笠井底なるもの 家数六軒にして 枝葉数 家
衛門であ った。 つまり産所村は 独立した村で
に分れ共 ,株は六軒の 外に増ることなし , (中
はなく西宮町の 枝村 であ った。 この時の年寄
略 ) 平人笠井氏を 厭 ひて縁組をなさずと ぞ Ⅱ
は八郎兵衛であ るが,この八郎兵衛は 塊 偏子
とあ り,山上 0産所) 村の人形操の 家に笠井
でもあ
。3 ,
り
氏という家があ り,一族6 軒であるが,増え
西宮境内にて 人形操興行を許可してほしい 旨
願っている。 この時の請書は 尼崎領主宛てと
ることは無く ,「平人」と
呼ばれた周囲の 人々
から縁組みをしないという 差別を受けていた。
ともに,西宮仕にも 出されている。 領主宛て
は興行を行なうからには 領主の許可が 必要だ
この差別をしていた「平人」もまた 産所柄の
住人であ ることから, この時の産所村には 人
からだが,西宮社 宛てにも出されているのは ,
形操師は笠井氏一族
境内地で上演するからであ り,それ以外に 西
以外は一般の 住人であ った。 つまり産所村は ,
宮 社 と人形 操師 との関係はなかったと 見られ
人形操師だけの村ではなかったのであ
る。
西宮産所村の 人形操の場合,領主であ る尼
崎藩は特に保護していたようには 見受けられ
ない。 享保 5 年れ 720) 3 月,同 9 年 (1724)
4 月,延享 2 年 (1745) 81 月に,それぞれ尼
崎藩主松平氏の 息女が西宮産所村の 芝居見物
宝暦10 年 (1760)
6
1
町だけであ って,それ
月
る。
23 日「兎 項部散所相
にて狂言万歳興行覚書」に ,
ニ 産所村狂言万歳甘口 願 算 所村平人役
人
此願差上 置候所,小俣万歳と 無 之候, 致
吟味町中言 弥右 衛門 呼被下昼前出勤 帳 所 ,
なしているが ,それ以上のことはなかった。
以奥太夫殿被仰山懐ニ村,先達市政吟味
産所村の人形 操 師の活動の舞台は ,門付けや
其 竹ニ 差 上様子ハ 兜太夫殿追申上條通,
配 札などを除く 浄瑠璃芝居の 上演に限って
去年も亀 屋二 て候 と 中條 旨中 上條所 , 願
い
79
散所村から人形操村へ
差戻し正子供真似万歳 願ニ候ハ 、 , 御 ?.
ダ
五郎が70 歳で死去した 後,まもなく 消滅した。
決河 被遊被仰候 , 依之於会所本蔵 立会,
したがって西宮産所村の 人形操は ,江戸時代
呼出
には衰退しつつも 何とか継続して 上演しつづ
鼻 所 平人売人井手頃
御意志趣 申渡し願書差戻し ,右左趣安右
以上のように ,近世の産所村は,人形操 を
衛門殿へ平四郎 ヲ 戊申 遣候,
-
とあ るが,関係文書はこの
前後関係が
よ
通だけなので ,
くわからない。 産所村の役人が
同所の狂言万歳上演願いをしたところ
,子供
はじめいくつかの 芸能をする芸能村であ った。
興行は西宮神社や 広田神社の境内に 限られて
活動をしていた。 これに従事する 人々は特定
の家が代々引き 継ぐのであ り,座本を構成し
万歳なのか否かで ,役所から問いなおされて
いる。
けていたことになる。
これによると 産所村では人形 操 だけで
て興行上演していたが ,産所村には平人と呼,
はなく,狂言や万歳をも上演することができ
ばれた芸能に 従事しない村人もいた。 産所村,
たのであ る。 恐らく様々な 種類の芸能を 持つ
は,西宮町の枝村 であ り,庄屋はおらず 村役
芸能村であ った。 人形操は, 多くの芸能の 一
人は年寄が代表であ った。 年寄は村役人であ
つであった。 ここにも「平人役人」が 出てく
るとともに,人形 操に 従事している 場合もあ
るが,このように 平人も十 7吏人をしている。
った。 人形操の人々は ,同じ産所村の平人か
す
近世の産所村の 人形 操は ,
もともと小規模
らも差別を受けていた。
であ り,次第に衰退している。
元禄頃の産所
村は戸数 30 一 40 戸あ り,正徳年間に 座本とし
て笠井治兵衛がいた。 寛保元年 (1741) 11 同
2. 西宮産所村の 形成
中世の産所村の 史料はほとんど 無 い ので中
日の「神主日記」によると ,産所村は「近
世の姿はよくわからない。 しかし威信仰の 総
年退転同前に 困窮云々」とあ り, 同月Ⅰ7 日の
元締であ る西宮戎神社の 存在を欠いては 産所
神事では,同村の 者が浄瑠璃を 稽古してい
村の存在は考えられない。 西宮社は広田社の
5
(@91
。 文化 2 年行 805)
る
によると,文化2 年
1
1
月
01
「衣装借用証文」
は
月に,産所村の源次郎
別宮沢雨 宮に由来する。 広岡社は西宮 社 の北
l.Rkm の西宮市大社町に 鎮 坐する神社であ
他 3 名が,明石屋太郎兵衛から 操人形の衣装
る。 この神社の起源は 古く,神功皇后が新羅
435 枚を借用している。 操人形芝居の 経営が
征討の帰途,天照大神の 神勅により現在地よ
困難になった 源次郎らが自らの 人形を明石屋
り北の甲山の 麓に造営され ,天照夫神が祠 ら
れた。 『延喜式コの 式内社の明神大社に 列せ
太郎兵衛に売却し ,年毎にこのような 借用証
文を出して賃借していたのであ る。 困窮して
いたが, まだまだ興行を 継続していたことが
ど,摂津国では 住吉大社と並ぶ 重要な神社で
わかる。 文化比年れ 816) 3 月 25 . 26 日に産
新村の吉次郎,吉田小六の 寄進に係わる 人形
あ った。 広田社には 5 柱の神を祠 る
くの摂 末社があ ったが,そのうちの
芝居が催されていたが ,嘉永の頃には産所村・
は全く退転して 1 戸も留めずという 状態にな
宮 であ る。
雨宮は広田社の 商に鎮 坐する故に 南宮と 称
った。 ただ幕末から 明治初年の頃 に吉田吉五
郎 (通称人形 吉 ) 芸名吉田 伝 吾が, 10 数人で
されたが,また 海浜に臨んでいるので 涙雨宮
とも呼ばれた。 涙雨宮は長承元年 (1132) に
一座を構成していたが ,これも明治m2 年に吉
は現 西宮神社の社地にできていた。
80
られ,平安時代にはニ 十二社の一つとなるな
5
座 と多
一つが 南
r以呂波
吉井
(2@1
字類抄コに 広田社や南唐 に戎 ,三郎殿
・
百太
木偶を操り,住民に 門付けや 配札なしていた
夫などの諸神が 見えるので,これらの 諸神は
のが, 塊侃子であった。 仇偏子は平安時代 申
平安時代末にはすでに
期の11 世紀には全国的に 散在し各地を
刷 られていたことがわ
漂泊
かる。 鎌倉時代の初期から 威信仰が盛んにな
していたが,鎌倉末期には 次第に定住に 何%
り,漁業,商業の
神として広く 信仰を集め,
ていたとされている。 塊偶 子に限って言えば ,
いつしか海市宮の 地を指して西宮と 呼ばれる
威信仰と木偶の 操りとが結び 付き,威信仰の
ようになった。 鎌倉末期には 交通の要地とも
中心であ る西宮仕周辺に 木偶を操る 塊偏子が
なり,市場が開かれた。 西宮神社の西に 隣接
次第に集住していくのは ,自然の流れであ
して西宮市市庭 町 があ るが, ここはその市場
た。 そして彼等もまた 供祭人 と同じように ,
西宮社に隷属する奉仕者集団であ った。
の 跡である。 延慶 2
年は 309)
8
月
24 日「広
この 案 住の時期が問題であ
田社神官供僧等言上械」に ,
Ⅰ海浜供祭八等 船面 銭貨車,
っ
るが,南北朝期
の法隆寺およびその 周辺の姿を活写する『 嘉
右 ,海浜者大神御重跡 以来為 供祭八等敷
元記コによ ると,延文4 年は 359) に新たに
地, 葉 涙金備進有限供祭 之賛,屋敷則 西
法隆寺によって 常楽守市が開かれた。 『司書』
宮 是也, 佛 Z 混 新田畠等 之虎船面 銭貨号
町石新皇 分被軟調貢條供祭閥加之源也臭,
延文 4 年 6 月 5 日 条 によると,この 日, 法隆
手 によって常楽手巾が 開かれた。 それに先立
一
両 宮 御後両津料銭車,
って 5
石 市庭者雨宮御敷地内西宮最中 也 ,与同
新皇,今月廿 四日 津銭料皆以 奪取垂裳,
月
27 日夜に 夷 神の神鏡が本社広田社
(恐らく広田社の 別宮の西宮仕 ) から 高 威望
によって持ち 込まれ,翌28
日に夷 社の社殿が
とあ る。 これは,西宮戎社 のあ る海浜は大 ttl 造立された。 勿論この 夷 社は常楽手市の 市神
が 垂迦 して以来供祭人の 敷地であ り, 供菜で
であ る。 夷神はiQ 同 8 日夜に広田社から 勧請
ゃ
あ る魚貝類などの 神韻であ る賢を大神に 上納
され,次の年の
しているが,新たに 新開の田畠に 租税を賦課
移された。 ところがこの 時は西宮の夷 社 造営
されることになったので ,賛を出すことが困
勧請にもかかわらず ,市祭で奉納されたのは
難になる, との訴えであ
る。 ここに記されて
2
月
22 日には十羅刹女なども
地元の両鹿猿楽であ って西宮の塊 偏 子は全く
いる「西宮」は広田社を指しており ,「雨 宮」
姿を見せていない。 このことから ,
が現在の西宮神社
はまだ西宮周辺には 佛偏子が集住し西宮 夷 信
(戎社) であ るが,浜に垂
迦 した「大神」とは ,西宮戎社の祭神であ
る
仰と結び付いていたが ,
この当時
まだ各地に渡りはじ
蛭 鬼神とみられ ,海浜には西宮蛭 月神に奉仕
めるには十分に 発展していないのではないか
する供祭人の 集住する様子が 窺える。 雨宮 の
と
,
思われる。
敷地内には市場が 開かれ,両津料が広田社に
r実隆公記
コ
明応 2 年 (1493) 9
月
2
日
条
上納されていた。 津料とあ るから,港の機能
に
も果していたものと 見られる。西宮周辺は市・
参,後聞,
塊 偶有志云々,」とあ り,三条西
津があ り,人々の 集 住する地として 都市的景
実隆が,宮中で催された 塊 侃の技に招かれて
観が形成発展してゆく 場所であ る。
このような市場や 津などの宿を 拠点に置き ,
漁村や市場に 広まっていった 威信仰を頼り ,
「今日自禁裏有召 云々,他行不存知之間不
おり,明応4 年にも甘露 寺 氏の邸で操を 見て
お 。
盤,
りク
するまでに発展していた。
宮中での上演は ,
散所村から人形操村へ
配衛配
中
文具
支
瀬中
殿し
神を
月
四こし
内はな
月,同年 8
大
. 22 日にも 院御所にてえびす
かきが演じている。 さらに元和元年 (1615)
2
牛
一 18 年, 文
禄 4 年 (1595) におこなっており ,慶長19 年
(1614) 9 月 21
頭摂 有田
11 年は 568), 天正 16 年は 588)
一
"
(夷昇) 」として,永禄
一
西宮の「えびすかき
22 日,元和2 年 8 月には仙洞
御所で,寛永 6 年は 629)
7
月
28 日には禁中
とあ り,産所村に 隣接して風柄があ った。
し
かも西宮町の 庄屋の配下にあ ることから,
こ
の風村も産所相と
同じく西宮町の 枝村 であ っ
で興行,同15 年には後水尾天皇中宮であ った
た。 このことから ,本来は産所村と 同村は同
東福門院和子も
まさこ
観覧した。
1301
したがって 14世紀
じ村であ ったが,中世末 になって身分的に 分
一 15 世紀の間に,西宮の 佛 偏師 (夷昇) は急
化し,産所相と 同村の二つの 村に分離したの
速に発展し, 16. ぼ紀になると,西宮の夷 昇 と
ではないか,と 思われる。 つまり産所村の 存
在した西宮社の 周辺には,様々な身分的職業
よばれた人形 操は ,宮中に参内し,
自他とも
に認める質の 高い人形操を 上演し,認められ
的諸集団が雑居していたのであ
る存在となったのであ
第に分離し,産所村と 同村が分れ,さらに 産
る。 この流れが,前節
り,それが次
で述べた江戸時代の 西宮産所村の 人形操の双
所村では人形操の 従事するものが 特化するよ
身であ る。
うになったが ,人形操 以外にも狂言や 万歳を
以上の西宮の 夷昇コ人形操の 発展過程から ,
する集団もいたのであ る。 中世では彼等は 西
南北朝期から 室町期 にかけて全国に 散在して
官社に奉仕する 奉仕者集団であ り,西宮社か
いた 塊偏師が ,威信仰の中心であ った西宮柱
ら支配されるとともに 保護を受けていたが ,
の近くに 集 住するようになり ,中世末 には英
近世になると 西宮社の支配から 離れ,近世の
男といえば西宮というほどになった。
領主から支配される 一般村落の一つとなった
彼等は
西宮に課役や 労働で奉仕するとともに ,威信
であ る。 しかも先に触れたように ,近世の西
宮産所村には 単に人形 操 だけではなく ,狂言
や万歳を演ずる 者もいたことから ,中世では
様々な芸能を 行なう雑芸能の 村でもあ
った。
また西宮産所村の 近くに夙村の存在も確認
することができる。 元文 3 年 (1738) 2
月「
村々
のであ る。
一
'
仰にともなう 人形操や配札 に従事していたの
淡路三条村の 人形操
1 、 芸能村としての 三条枯
淡路図三原郡三条 村は,淡路島のほぼ中央
部,三原平野の中心にあ り,島内でも 内陸部
(321
にあ たる。 近くに「国符」という 地名もあ
り
国分寺や惣社,淡路図二宮であ る大和大国魂
神社仏閣神主宮守堂守兵 外支配人等判形 儂 j
神社もあ
に各村々の神社や堂の 書上があ るが,そのな
かに,
年 (1627) の検地帳 では 551 石 ,「反別戸数敗
調書」によると 80 町 8 反 余であった。
る。 近世の三条
村は,石高は寛永4
淡路三条村も 中世の姿はわからない。
二天一神社有のほこら 産所
宮座竹之内廻り持
(中略 )
しか
し三条村がもとは産所村と 呼ばれていたこと
は ,はっきりしている。安政 4 年㎝ 857) に
刊行された淡路島の 地誌『味 地車ロの姉条
村
の項に「寛永四年の 官記に産所村と 記せり ,
82
井
七口
俊姉条の字に 転せし時暦詳ならず」とあ
兵士ニ市所々 不玲成義 有志候由 ,右左旨
寛永 4 年 (1627)頃 では「産所村」と 称して
此度遊吟味,相互 ニ堅相手町中 條 ,以
いた。 また恒三原町 (現, 南 あ わ じ市)
後々々 致左様 之事 たる者御座候 ハ
教育
、
遊吟
委員会所蔵 の三条村 関係文書に,三条村検地
味,其者之 諸道具取 上 ケ ,仲間はつし町
帳 合12 冊・あ るが,そのうち 最も古い寛永 21 年
中條 事 ,
け
644) の検地帳 は「姉原郡姉条 村新開御検
地峡」であ るが,正保4 年㏄ 647)
5
月の検
この二つの史料から ,淡路の三条村 でも,
村人は単に人形 操 だけではなく ,叩き巫女,
他岐では「淡路図姉原郡 之 内産所村新開 御検
他岐」とあ り, 17世紀中頃 では三条 村と 産所
祭文を奉納し ,手品や獅子舞,子供踊り,三
村 という二つの 名称が併用されていた よう で
番受を寒 々の門であ げ,恵美須 大黒の御札を
あ る。 したがって 17 組中頃に,産所村が次第
ぽ田 ;しするなど,様々な 活動をしていたことが
に三条 村 と称されるようになっていったので
わかる。 後者の寛延 2 年の「法度書」は ,
あ る。
の ょう な宗教活動を 操 師 でっくる仲間の 手で
この三条村は 人形操の村であ るが,近世の
つまり梓弓を 鳴らして口寄せする 巫女がおり
制限しょうとするものであ
り,
この 23
こ
な活
三条村も人形 操 だけではなく 様々な芸能を 行
動制限の動きは ,たとえば宝暦13年 (1763)
なう芸能村であ った。 「護国寺文書」元禄 10
には「門姉番支弁 二 おしかけさんぱそう ,
年 (1697)
た ハ不あ るきにて近村 ヲ掠候 零下宮 敷候 ,」,
7
月
20 日「寺務方諸事書留書」は
三条 村 にあ る真言宗寺院の 慈恩寺と西光 手 を
めぐる真言宗 内 末寺の一件文書であ るが,そ
のなかに次のような
-
文があ る。
三条村定風俗
二人形廻た、 きみこ等男女色々立所作佐
ま
文化 8 年 け811) にも「先年より 売人稼之儀
指笛有志候へ 共 ,近頃狼り ニ相成層 中 ニ村」
など再々にわたり 制限している。 彼等の活動
の範囲も淡路島内はもとより 諸国を巡り歩い
ていたのであ る。 しかし周囲の 村々は三条 村
・
渡世乞ために 自他国間々 順り 牢者 井 少々
から宗教的芸能的な 恩恵を蒙っていたにもか
耕作仕者も御座候 得共皆具等類ニ市下賎
かわらず「 下賎種姓走者」として 差別してい
種姓亡者故国中において 他村へ 緑竹 も無
た。つまり三条村は
之 古今僧俗 共 きらり 隔 未申供,
な宗教的な芸能活動を 行なっていた 芸能村で
また寛延
4
年 (1751) 閏 6 月 13 日「姉原郡
人形操 だけではなく ,様々
あ り,そのうちの 一つが人形 操であ った。 近
三条 村他ニケ 村操仲間法度書」は 淡路人形 座
世に入ってから 急速に人形 操に 特化していっ
の仲間組織であ る座本仲間が 仲間内で申し 合
たが,中世末期は 様々な雑芸能が 同居した 村
わせた規定書であ るが,その1 ケ 条に次のよ
うな人形操の 活動の取り締まりについて 述べ
狂言や万歳をしていた 西宮の産所村と 同じで
ている。
あ る。 すなわち中世の 散所村 はこのような 姿
二
今度復本
従
御菱斯様
市税
)
被為仰山懐遺薫
切処走向,浄瑠璃語り・さいもん・ 手妻
獅子舞・千兵舞おどり , 寒 々二面三番三
井 ニ
恵美酒大黒・
阿波濤,稲荷・
ほ、
っそふ 芝手兵外諸事立礼 村 々 へ 入込,
だったのであ
だったのであ
る。 これらの特質は
,近世でも
る。
淡路三条村の 地に何故に散所村が 発展しの
か,はよくわからない。西宮の散所村は 西宮
社 という威信仰の 中心地で地方の 権 門寺社に
従属しており ,街道に面し@ もあ ったいわば
散所村から人形操村へ
都市的な場所であ ったが,淡路島の 内陸部に
諸国をめぐり 興行をしている。 浄瑠璃語りや
あ る淡路三条 村 はそのような 立地にはないか
三味線弾き,人形遣いもすべて 村人がしてい
らであ る。 しいていえば 国衛 に近く,また隣
る,という。
ここにあ る上村瀬 之丞座の上村
接する村の地名も「 市 」であるように市場も
あ り,規模は小さいが 淡路国の惣社や _ 宮で
氏とは,淡路人形の由来 記 であ る「 道燕坊伝
記」や「引田文書」にあ る「相伝左記」など
あ る大和大国魂神社もあ って,淡路島の 政治
によると,木偶操 をはじめた西宮の 百太夫が,
的経済的な中心地だからといえようか。
淡路三条にて 同じ木偶遣いの 菊 太夫の娘と結
さら
に鎌倉・室町時代にはこの 地に守護所が 置か
婚し,その子孫が代々上村 瀬之丞 (引田滅亡
れており,淡路国の 中心的な位置であ ること
丞 または上村日向 抜)
は変わらなかった。 この村には,中世 国街の
本仲間の申心的存在であ った。
と
名乗り,近世では座
文化 8 年 け811) 1 月「淡路操座本 衆取極
楽人の田地があ ったとの研究もあ るが,ある
いはそれが散所の 形成に繋がるかもしれな
書 」に よ ると,座本は三条村 では 源之丞以下
恐らく三条 村は国街 に所属した楽人, 塊
偶 師の村であ っが,さらに守護所が大きな 政
7
太夫以下
治的役割を果すようになった 後には,守護に
21 軒であ
従属する散所となったのはないだろうか。
近
と
町,地頭方では千兵衛以下
6
軒 , 鮎原は大
町 ,市村は清八以下4.軒で全部で
った。 人形操師 (淡路島では 道藪坊
4
称される ) の家のあ る村は,これ以外に三
世になって淡路の 領主蜂須賀氏から 手厚い保
項部牛筋 村 ,津名郡志筑中田村であ
護を受けているが ,これは中世以来の 伝統を
年間には上村日向 捧 (上村瀬玄永 ) のもとに
受け継いだからかも 知れない。
は ,「操座十八組立面々
共 」とあ るように 18
軒の座本があ った。 座本を率いるのが 上村瀬
2. 近世の三条 村と 操座本仲間
之垂であ るが,その元に彼等座本で「座本中」
どう
近世の淡路の 人形操に 従事する人々は ,道
薫坊 とも呼ばれた。 幕末の嘉永年間に 刊行さ
く
/@lまう
ねた
ァ
淡路名所図会』に ,三条村の人形操に
という組織をつくり ,有力座本で「座本役者」
を選び,捉をつくり 仲間内で統制を 行なって
いた。
ついて次のように 記している。
木偶操座
る。 天保
この組織は淡路の 人形操の座本をすべて 組
同村 ニ あ り,世人淡路 座 といふ,
凡其座本といふ 者廿酔余もあ るよし就
織したものであ るが,発祥の地であ り元締め
中上村瀬 之丞なる者を魁とす ,市村木立
の上村瀬 之 丞の居住している 三条村の座本の
みが,上演の時に「 司 看板」を立てるとい
丞 といへるも 最魁たり, 此 座本八市村に
う
住せり,年中諸国を 順歴 して木偶芝居を
本 第一
つかさ
特権 を持つことができた。 司 看板とは「
日
冠諸芸諸能上村日向 捧藤原政情」と
興行す,一村中 な此業によるもの 而 已
書いた看板で ,時には三条村以外の座本も 使
往 す,或ハ浄瑠璃かたり 三味線ひき木偶
用しようとし ,上村滅亡丞から 差止められる
っかひ 道具方にいたるまでこ
こともあ った。 慶応元年 (1865) 12 月「座本
ま
、 に会せり。
これに よ ると,三条村 には人形 操 を行な う
会合条目 定 」によると,座本17 座が1Q ケ条に
座本が 20 軒にれは淡路島全体の 軒数 ) 以上
わたって申し 合わせをしているが ,そのなか
あ り,上村瀬之丞座や隣村の市村の
に「当年
丞座が有力であ
84
市村木 之
る。 彼等人形操り 座は,年中
ョリ 年行事付置
則 年行事之座捌一円
もれざる 事」とあるように,元締めの 上村瀬
丑"引
之丞のもとに,年行事を
2
人選び,組織固め
三条村の座本は 上村源之丞を中心にして ,
を行なっている。
市村と地頭方の 座本も加えて 毎年正月
以上のように ,淡路人形操は座本中という
組織でまとまっていたが ,捉に違反すれば「仲
12月 19 日に,淡路に 人形操を伝えたという 百
太夫や道 薫切る祠る夷 神社で座本会合を 行な
間はずし」が 行なわれたが ,仲間から外れた
い,神に感謝するとともに ,鹿内の諸問題に
としても,興行権 が失われるわけではなく ,
ついての相談もしていた。
その意味では 極めて弱い統制 稚 しかなかった。
は一切入れなかった。 慶応元年は 865) 12 月
6
日 と
この席には村役人
三条村は,寛永4 年「姉原郡姉条 村新開 御
l%
(451
」によると 551万金,明治初年では 70f
石金,文化 8 年 (1811)「姉原郡姉条 村棟付
同神院衆中立等間数 候 事離 有半 伝候事」とあ
御吹帳 」によると,家数144 軒で道 薫 切処92
いた 百 太夫の伝承や 諸国
甘サま土ぬ
軒であ った。 この三条村の 村内は 8
「
1
1
日「中間諸法度 之事」は,座本仲間中
村方諸役人
る。 また淡路の人形 燥がもっとも大事にして
ケ 所の
@ 」からなりたっていた。 宝暦 5 年は 757)
月
「座本会合条目定 」に「某日は
「淡路秘書」は「村方宝蔵 へ相納御座候所 ,
毎年正月六日吉例として 村方 え願出 ,宝蔵御
開扉 被下,英日和義奉拝受,操座十八組之 面々
共 ,尚又百姓亡者へ 烏賊来り居串 候 義二御座
の取り極めに 対する三条村内の 人形操師 (道
薫坊) から出された 請書であ るが,各町単位
候 二村, 御 雛ハ村方 ニ御所持」とあ り,村方
で出されている。 これによると , 北 左下 は22
が保管しており ,たとえ上村瀬之垂でも自由
人, 中之丁20 人, 角丁 5 人,東芝丁 18 人, 西
に見ることができなかった。
之丁 9 人,雨走78 人,書面町20人, 福 長打
25 人であった。 つまり 北之丁以下 8 町から 合
102 人が請文の捺印をしている。
したがっ
て三条 村 には 約 100 軒の人形 操に 従事する
ぎ十
(50>
以上のように ,三条村の人形操 師の組織と
村方とは別の 組織であ り, また三条村内にも
少ないが 操師ではない一般百姓がいた。 この
点では西宮産所村と 同じであ る。
このように組織としてかなりまとまって
人々がいたのであ り,彼等は三条村の 座本 7
座 のいずれかに 所属し,人形操 なしていたの
た淡路島の人形
であ る。
原郡市村,同地頭乃村,津名郡鮎 原村などで
"
三条 村 には人形操の 座本仲間があ り,七十づ
滅亡 丞が 取り仕切っていたが ,
この組織と 村"
月
三
も行なっていただけではなく ,海を隔てた阿
波国 (徳島) へも伝わり, さらに全国的に 活
・
年
動していった。 淡路人形 燥がこのように 拡大
13 日「仲間諸法度書 之事」は
していった要因の 一つに,領主蜂須賀家の
役とは別で,庄屋は別にいた。 寛延
ほ7 目 ) 閏 6
操は ,三条村 だけではなく
い
4
三条村北之町の人形 操師29人が差し出した 仲
間法度に対する 請書であ るが,この宛先は「役
代々にわたる 保護があ った。 時々藩主の前で
大衆中」「源之丞殿 」「 惣 座本中」となってい
る。 滅亡丞殿 とは上村瀬 之垂であ り, 惣 座本
られ,年貢も 優遇された。 また全国各地で 興
行するだけではなく ,淡路の人形遣 が各地で
中は三条村の 座本組織であ るが,「役人出中」
土着し,人形操を 伝播 し ,伝えられていった。
とは三条村の 村役人であ る。村役人は庄屋,
上演を命じられ ,徳島での興行にも 便宜を刮 -
近世の淡路島の 人形操の座本仲間の 組織が,
五人組などがいるが 村役人の組織と 人形操座
それほど統制力が 無いという点と ,本来は三
の座本中とは 全く別の組織であ った。
条 村 だけが木偶まわしをしていたが ,人形操
散所村から人形操村へ
になると三条 村 以外の淡路島の 村々や対岸の
いをし,神事を 行なっている。 ほかに 庖 瘡の
阿波にも伝播
祓い, 雨 乞の祈念,五穀豊穣の 祈念をしてい
し
,それぞれが座本を形成して
芝居興行を行なうようになるという 点は関連
る。 ここに単なる
があ る。 これは既に,中世的な 賎民が行なう
はなく,伝統的な 木偶廻しとしての 淡路人形
職業としての 木偶廻しではなく ,だれでも自
由に行なうことができる 職業になったからで
操の性格を残しているのであ る。
あ る。 人形操師が年貢免除や 特権 を持ってい
三 ,散所村から人形操村へ
本章では,散所村から 人形操村への展開に
るわけではなく ,職業としての芝居稼業だっ
たのであ り,だからこそ ,大部分の村人が人
人形芝居としての 人形操 で
ついて考察する。
形操師であ った三条 村が,普通の庄屋や五人
近世の人形 操村であ る西宮の産所村と 淡路
組 があ り,他村の者が 人形操 をはじめても 何
等の規制もなかったのであ る。 つまり中世の
散所は身分と 表裏一体の職であ り, 塊 偏や木
島の三条 村は,共通点が多く 存在する。 いず
れも中世からの 散所付言芸能村を 起源に持ち,
座本を組織し ,それが浄瑠璃を 主な演題とし
偶廻しは何らかの 特権 を特っていたが ,近世
の 人形操村は単に芝居に 従事する人々が 多く
た芝居興行を 行なっていたが ,大坂の文楽と
住んでいるというだけであ り,特権を持って
いなかったのであ る。 これが中世の 散所村と
いた。 しかし中世では 西宮戎社 に隣接し多
近世の人形 操村の違いであ る。
信頼のあ った西宮産所村の 人形燥が,近世に
は異なってまだまだ 宗教的な性格を 維持して
くの塊偏師が集住 定着し,京都の朝廷からも
はいると,小規模な 集落で衰退の 一途を辿っ
にみたように ,近世の三条村は周囲の神々 か
ていた。 ところが淡路の 三条村の場合,近く
ら。
にさしたる規模の 寺院や神社もないし ,中世
と路
産操
宮彫
り,これはいわば
のこ淡
の
こつ
の特徴は,純然たる
ろ う
いる
とあ
差別じで
な同
うも
差別されていたのであ
酌 も
賀 村
慣所
しかしそこには 中世以来の悪弊もあ る。 先
ではそれほど 注目される散所でもないが ,近
世になって急速に 発展し,人形操の座本も多
芝居ではなく ,中世以来
く
,何よりも全国へと 大きく展開して
い くこ
の 宗教的な側面を 残していることであ る。 人
とができた。 その原因は,先に 述べたように ,
形 操の元締めであ る上村家伝来の「姉社神楽
淡路人形操は 平たくり えば だれでもすること
左武由来」は ,淡路人形操で,人形浄瑠璃の
ができ,それを規制する特権 なども無く,
ま
前に演じなければならない
た徳島藩 蜂須賀家の保護もあ ったためであ
る。
三番受 はついて 次
のようにのべている。
しかし最大の 要因は,淡路人形操の 場合は
ァャ ッリコゥ
セッ
マッ
バン
弓 異材々二才イテ 操 興行 / 節ハ先三番
受ヲ仕立 , 塩 バラシイ,御酒,洗米
ヲ
ソナヘ,榊 / 枝 二紙手ヲ切 カケ , 洗ニ
柏手シテ六根清浄
ワテ
ノ祓
@,
ラ @ 中臣ミハライトナ
/ 祓ヲ フ
カシ
ロクコンショウ
ゼウ
イ
ナヵト
Ⅱ
昌
ベシ,
を
梅子にして活動を 展開していったことであ
る。 これが西宮の 人形操と 異なるところであ
る。 ここでは興行権 に注目して,二つの
人形
操の村の相互の 関係と,人形浄瑠璃として 確
すなわち, 操 興行をおこなう 時には,まず
三番受を演じ ,塩払いをして清め,神前に御
酒と洗米を供え , 榊の枝に紙垂を
人形操を各地で 興行する興行権 を持ち,それ
付けてお 祓
立して い く過程を述べてみたい。
吉井
て正
] . 操 興行権 と「淡路 座秘
て,人形浄瑠璃の 芝居をし,時にはその 地の
領主から許可を 貰 い ,土着して芝居興行を
っ
づけた。 その時彼等が 持ち歩いていたのが ,
「淡路秘書」と よ
ばれた興行の 免許状であ る。
文化 6 年 (1809) 11 月「市村大蔵 操勅免の
倫旨写し譲状」は ,淡路国の人形操師の姉原
郡 市村大蔵 が ,信州伊那郡上古田村治郎右衛
門と六右衛門に 人形操の道具や 興行権を譲っ
る。
覚 道 薫坊之事
Ⅰ 御輪旨之 儀は先年淡路 国え 頂戴仕 , 其
写三拾六本ハ国中立 弘 帳 面,永久神 いさ
めし 操致候様蒙
勅免 相勤候 証拠 之 一軸大切 二守護住所,
国々 ハ 勿論 エゾ 迄も相渡り 操 興行住,
又々当国え渡り ,飯田辺におゐて 老死仕,
其節拙者ニ披講候
これによると ,人形操の勅免の 輪 旨が淡路
国 に与えられ,その 給 旨の写が 36 本作られ,
それが国中の 人形操に 配付された。 その 倫 旨
たが,甥の市村人蔵 がそれを引き 継いできた,
という。
陸中盛岡に土着した 淡路の人形 操師の錦 江
氏の場合もよく 似ている。 延享 5 年は 748)
6
秘を路のに
行を行ない, この信州の飯田で 死去し
路
を持って 前 利治郎右衛門の 伯父の市村六姉郎
は, 日本国内の諸国はもちろん ,蝦夷地まで
行っ う淡津 この
六三郎諸国 え罷出候 時節国本より 持参仕,
役
相違無 御座候而立 拾ケ年以前,伯父市村
路 し 出さでこ
た時の譲状であ
たるの 記拾銘え銘東
淡路の人形 操は ,全国各地に興行に出かけ
月「陸中国盛岡 操 由来につき座元四郎兵衛
(南部氏)
5
へ 操の由来について
月
15 日に領主
答えたもので
あ る。 これによると 淡路図三条 村 の錦江文正
つ中 割物
本の鈴江 四郎兵衛が, この年
2
覚書」は,盛岡で人形操 なしていた盛岡操座
郎と 弟の四郎兵衛が ,盛岡の藩主の許可を得
8
散所村から人形操村へ
大年「姉条村道 薫 切処日向素性斗代々成行
相識
" l@
長
縫の
」,は,腔化
2 年は 8 曲 ) に上村日向 縁
の家の由来について 徳島領主蜂須賀氏から 尋
ねられた時に ,淡路筒井村組頭庄屋田村次郎
大夫から出されたものであ
る。 これに よ
ると,
中院大納言執達
(花押)
元亀元年五月
これは,いわば興行免許状といったところ
かと思われる。 両者はともに 淡路三条の上村
瀬 之丞 (引田淡路 丞) に与えられたものであ
初代の引田 (上 ) 滅亡丞は ,元亀元年ロ570)
り,内容は淡路系のもので ,西宮の戎信仰は
月に禁裏 御所で三社神楽操の 式を勤めたと
ころ中院大納言執達の 締 旨と , 櫓 免許を賜っ
無い。
これに対して 寛永15 年夏中旬の「 道薫功伐
た。 第 2
記 」は,紛失したとのことで 再度出されたも
小す
2
代の引田淡路 抹 (滅亡丞) は,京都
の禁裏御所に度々招かれ ,三社神楽の式を勤
のであ るが,内容は西宮戎の由来, 百 太夫の
め,中院様から 会符と人馬駄賃帳 ,それに帯
こと,さらに 西宮の百太夫が 淡路三条に来た
刀免許が与えられた。
過程などを記しており ,いわば西宮系ともい
ところが三条村の 西光
る。 先の 2
通の「輪旨」とこ
手 に預けていた 道薫坊廻しの巻物が 紛失した
うべき伝記であ
ので,寛永15 年に 源之丞の役者 菊 大夫と佐大
の寛永15 年の「道薫坊伝記」との間に ,時間
夫を連れて上京し ,禁裏御所にて 衰 筆の巻物
的な隔たりがあ る。
求め,坂上入道殿の執達名の巻物を 下され
この「 道燕坊伝記」は,淡路の人形操 の 曲
た。 これが寛永 15年 (1638) 6 月「 道薫坊伝
来 が記されている。 その内容は, 蛭児が和田
記」で,中院通村筆 とあ り,「道薫坊」すな
岬のあたりを漂い, これを漁人であ
を
わち人形操の 由来書であ り,いわゆる「巻物」
と よ
ばれるものであ
元亀元年
2
る
百 太夫
(姓は藤原,名は正清) が助け,宮殿を造営
して刷 った。 これが西宮大明神であ り,夷三
る。
月「締旨」はっぎのような 内容
であ る。
郎である。 その後道薫坊という者,神を 慰め
たが死後神を 慰めなくなったために 風雨が起
ニ椴駅 魔鳥三条 道薫坊相 網引田淡路 稼 ,
こり不漁が続いた。 そこで百 太夫が勅を賜っ
今般 於 禁裏 節会,三社神楽之武春捧 , 依
て 道悪坊の人形をつくり
玄徳四位下破飯音也,
に淡路島に至ってこの 術を伝え,ここで死去
天気立処 如件 ,
した。その子孫が上村氏であ る。この「伝記」
中院大納言執達
元亀元年二月
形式や文章表現からかうと
(花押)
,諸国をめぐるうち
では,勅を賜って 神慮を慰めているので
,こ
の操は「 諸能技芸冠 」,つまり諸々の 芸能の
問題があ り, 明
らかに綴文書であ るが,この内容からいうと ,
首である, としている。
「引田家文書」に 上村日向 抹 の著 とされ,
淡路三条引田淡路 捧 宛てのものであ り,三社
上村氏の伝承をまとめた 大年「相伝 之誼]
神楽操の式の 結果の締 胃であ る。
よると,「淡路秘書」ではないが ,上村滅亡
次に,同年五月「櫓 免許」であ
矢倉者共
る。
レ 梵天帝釈 之 二天を勧請 シ ,日時
之 吉凶太鼓を以て 天帝に告 ,悪魔を退け群
参の鋒禍を除く 者 也 ,
天気立処 如件 ,
に
丞家には「我家伝来 之 秘録」という 上村家の
由緒を記した 秘書 7 点と 翁面 があ る。 7 点の
秘書とは「姉社神楽之 式 」「 道蕪坊舞之 巻物」
「両名祈俳定式」「於海山里諸祈念左武」「疫
病 庖瘡祈念左武」「五穀成就祈俳左武」「除災
吉井
拙稿祈俳定式」であ るが,そのうち「姉社 袖
という名前で ,西宮から出 ,淡路にもあると
楽 定式」の
している。 淡路名所図会コ や 道燕坊伝記」
3
社とは春日・ 住吉・八幡の
3社
ぽ
「
であ るとともに三番史を 指しており,威信仰
も百太夫が西宮から 淡路に来て人形操を 伝え
は出て来ない。 他の秘書の内容は 紹介されて
いないので何とも 言えないが,「姉社神楽之
たことを記している。
式 」や元亀
成立した。 人形浄瑠璃は 近世の初頭,慶長年
2
年の
2
通の給旨写を見る限り ,
ところでちょうどこの 時期,人形浄瑠璃が
淡路系の人形操の 伝承には西宮系の 戎信仰は
間に浄瑠璃 節と 人形操と 三味線が合体して 新
入っていないと 見ることができる。 また三社
たな芸風が完成した ,
神楽の時は翁の 面を付けるが ,この鏡面も 秘
の 人形 操。 を担当した者が 西宮または淡路の 人
物 として大切に 伝来し現存している。 また「相
形 操師であ った。
16@1
「東海道名所記」は 寛文元年 (1661) に浅
伝忠記」は姉社神楽の 話と百太夫の 伝承を浬
然 と説明しており ,一貫性がない。
以上から,淡路人形の 伝承は,淡路系の伝
承 と西宮系の伝承が 混在しているが ,古来か
とされている。 この時
井了意によって 著された名所記であ るが,そ
のなかに人形浄瑠璃の 起源を記す段があ
る。
ら 淡路に伝来した 伝承は戎信仰ではなく , 三
又 浄瑠璃は,そのころ ,京の次郎兵衛とか
やい ふ者,後に淡路丞と 受領せし。 西の宮
社 神楽であ り,八幡信仰が 中心であ る。 すな
の夷 かきをかたら ひ,四条川原にして ,鎌
わち,八幡信仰を 背景にした木偶まわしや 門
田の政清か事をかたりて ,にんぎやぅ をあ
付け,口寄せなどをしていたが ,そこへ西宮
やつり,その、
ち, がうの姫, あ みだのむ
から 百 太夫の伝承を
ね わりなどが ふ 事を,かたりける。
持っ人形 燥 が伝来した,
ということができる。
これに よ ると,京都の次郎兵衛が西宮の 夷
界 きで後に淡路 丞 という受領名を 名乗った者
2. 人形浄瑠璃の 成立と淡路人形 操
と語らい,鎌田政情という 名前で人形を 操っ
「
道薫坊伝記」の内容は ,西宮神社の縁起
で彩られたものであ
り, 百 太夫も西宮の 人形
操 であ ったものが,諸国をめぐり 歩いた後に
淡路に来着したとされている。
淡路人形 燥 が
て人形浄瑠璃をはじめた ,
という。 ここでは
淡路丞は西宮の 夷 昇 であ り,鎌田政情とも 名
乗っている。
京都のもっとも 古い地誌で黒川道 祐 の著 ,
西宮から来たことは ,この伝記や給 旨が成立
貞享元年 (168% 開版の「 『i l、 1守 @吉(621
@」には,
した中世末から 近世初期には ,世間によ く知
人形浄瑠璃の 起源を次のように 述べている。
夢
り
・
月
られていたことだった。
浄瑠璃太夫。 白文禄年中波慶長,監物 某並
元禄 3 年㎝ 690) に開版になった「人倫 訓
えぴ ケ まわし
家国 彙 」の「夷舞」に「津国西宮より
出る
次郎兵衛 某 , 招 摂津西宮 塊偶師, 相共経営
ゆへに夷舞しと 号す。 西宮のさしむか ひ, 海
すなわち人形浄瑠璃は 文禄から慶長の 頃 に
之 。 監物並 次郎兵衛 談 浄瑠璃,西宮舞人形。
をへだて、 淡路島にも 此流有。 むかしは ゑひ
はじまった。 これを始めたのは 監物と次郎兵
すの綱を給ひし 所を仕形にして 春の始に出け
衛の 2 人で,この2 人は西宮の塊 偏 師を招き,
るとなり。 今は能のまね , 踊ま力a, 色々をつ
人形を舞わせて 自らは浄瑠璃節を 語ったとい
くす。 浮沈ある音声一風あ りてかくれなし。
つ
.
世に塊侃 といふは 是 なり。」とあ り,夷舞し
以上 2 例はいずれも 西宮の偉 偏が関ぢ ,して
散所村から人形操村へ
(631
いるとしているが ,『ボロ 漢 三才図会 コは ,人
形を廻したのは
,西宮の夷昇 ではなく,淡路
の人形操師だとしている。
るに命じて 云 , 菊 太夫 ハ 論旨を伝持すれ バ弥
相伝エル。 京師二% 者 有り,滝野検校・ 浮
魚検校トイ
司
ト
浄瑠璃
ブ
ト
。 英ニ絃歌を善ス。 嘗テ 御曹
/
とかや,後年にいたり 西の宮の仇 偶と 淡路の
道薫坊と闘争の事あ りて京都の裁許に 預 りけ
恋慕事跡 ヲ著 ワス プ書 十二
淡路の道 薫 坊を以て本朝の 最上とさだめられ
たりと 云 」とあ り,これによると 西宮の塊 偶
と 淡路の道 蕪防が,論旨をめぐって 争いがあ
百 太夫の倫
段アリ。 扇ヲ拍ツテ 之を語 ル。 入学 ゲテ之
旨が 西宮から淡路三条の 菊入
ヲ習フ 。 是 ニ船 テ 四条 東 洞院彫金工 家 何某
夫の手に入っていたので ,京都での輪旨 をめ
特ニ 絶品ナリ。
ぐる裁判で西宮が 敗訴したと記している。
且ツ 淡路塊偏ヲ誘ッテ 木偶
こ
ヲ舞ワ シ三絃 ヲ鼓 シテ之ニ和ス 。 後場成 帝
の西宮と淡路の 給 旨 をめぐる裁判については ,
座二 百ス 。 因テ 引田淡路 稼ニ任ズ 。
この記事以外に 見られないので 事実であ ると
これは京都の 滝野検校と樺色検校の
2
人が
判断できないが ,十分可能性があ ると は、 う 。
浄瑠璃節を三味線に 合せて扇を叩いて 語った。
つまり西宮の 仇 偏 師の指導者であ り,人形浄
これを四条 東 洞院の彫金工の 某が淡路の人形
瑠璃の成立にも 大きな役割を 果した上村 源之
操を誘って人形を 舞わせて三味線を 鳴らした。
丞の先祖が , 何らかの理由で 西宮を離れ ,締
後陽成天皇が 前で上演し ,賞として人形 操師
旨を持つて淡路三条に 移ったと見られる。 淡
の引田淡路 抹 という受領名を 与えた。
路三条の人形廻しは ,八幡系であったが, 倫
これらの人形浄瑠璃の 起源説 のうち,人形
浄瑠璃の基礎となる 人形操は ,西宮または淡
路のいずれかであ るが,人形操を 担当した者
は「淡路 丞」「鎌田政清 」「引田淡路抜」など
旨故に西宮系の 夷信仰を受け 入れ,整合的な
縁起を作成していったのであ
おわりに
と出てくる。 この人物は西宮の 百太夫の子孫
であ る淡路三条の 上村瀬玄永
の歴代の事跡を
に近い。 上村家
書いた「姉条村道 薫 切処日向
素性並代々成行相調帳 」によると,上村の 第
ろう。
本稿は,中世は散所村であ り,近世は人形
操村 として芸能活動をしていた 西宮産所村と
淡路三条村の 変化過程と人形浄瑠璃の 成立を
考察したものであ る。 両村とも人形 ゆ・瑠璃を
1 代は「藤原政情」ともいい ,第2 代は「引
成立させた村として 芸能吏文化史上重要な
田淡路捧 」とも名乗っている。 伝記でも西宮
であ り,人形浄瑠璃は 西宮で成立し 淡路で発
から淡路へ移ったとされているので
,当時の
;
ィョ
屈 したとされているが ,これを村落史 という
人々も浄瑠璃での 人形操は西宮でも 淡路でも
側面から, どのように理解したら 良いかとい
行なっており ,しかもいずれも「人形浄瑠璃」
う
と名乗っているから ,両方で行なわれていた
論点で考えた。 その結果以下のようなこと
がわかった。
ということができる。 ところが西宮では 衰退
まず第一に,西宮産所村,淡路三条
村 はと
し,淡路では 発展するのは ,この上村瀬之丞
もに中世では 雑芸能の散所村であ るが,散所
が 西宮から淡路に 移ったからであ り,その時
に免許の輪旨を 淡路にもたらしたからという
利は単に人形 操 (木偶廻し, 塊偏) だけでは
なく,様々な神事芸能,門付け,万歳,巫女
ことができる。 『淡路名所図会上に「
などを行なって 来たが,次第に人形操に 特化
が 輪 旨を珍蔵 せしが是も菊太夫が
90
百 太夫
手に渡りし
するようになってきた。 ただし近世になって
吉井
もそのような ,性格がよく残っている。 また人
形 操 にも純粋な芝居興行ではなく 宗教,性も残
(2)
している。
(3)
林屋辰三郎氏「散所 その発生と展開」,同
氏『古代国家の
解体山東大出版会,
1955 年
第二に,中世の散所村の時代には 寺社権門
森末義移民「散所」,同氏に
中世の社寺と芸
術 畝傍書房,Ⅰ
941 年,後i983 年に吉川腔文館で
コ
や国 衛 ,守護に従属していたが ,近世になる
復・何
と一般 村 となり村内には 人形 操師だけではな
日本中世
被差別民の研究Ⅰ岩波
く一般百姓も 居住しており ,庄屋や五人組,
年寄など一般 村 と同じような 村組織があ り,
書店,2002 年
(5)
網野善彦氏 「中世双期の「散所」と
給免田一
人形操 師の組織と十すそ
女人とは全く 別であ り,
召次・雑色・駕輿丁を中心に一」,同氏
同業者だけの 村ではなかった。 また身分と職
業にともなう 特権 もなく,職業の 独占権 もな
世の非農業民 と天皇Ⅰ岩波書店,
1984 年
(6)
竹生盆祐一氏 『検非違使Ⅰ平凡社,
1986 年
かった。 そのために西宮の 人形操は領主の 保
(7)
世界人権問題研究センタ
一編
護もなく衰退し ,逆に淡路の人形操は領主の
保護もあ り興行権 もあ ったので,人形操 自体
が各地に伝播
し
舞々の研究団思文閣出版, 2004 年
(8)
,発展した。
第三に,淡路の人形 燥 が発展した要因の 一
出版会,1999 年
(9)
つに興行免許状であ る「淡路 座 秘書」と呼ば
れる 3 点の「論旨」や 由来書であ る「伝記」
神田虫薬氏ァ近世の芸能な
,@.と地域社会』東大
渡辺広氏「散所のことなど」,同氏子来解放
部落の史的研究 吉川腔文館,1963 年
コ
(10) 吉井良尚氏「西宮の
操人形」同氏㌃
摂播史蹟
があ り,その内容から 淡路人形 操は ,本来は
夷信仰ではなく 八幡信仰を中心とする 三社神
研究 全国書房,Ⅰ
94.W
年,吉井良尚氏 (吉井良隆
コ
2002 年, 酉
氏改訂) 『西宮神社史話Ⅰ西宮神社,
楽であ り,そこに西宮の 夷信仰の人形 燥 が入
って来たことがわかった。 ここから通説どお
り西宮の人形 燥が淡路へ移ったことが 証明さ
れる。 また淡路人形操座の 元締めであ る上木t.
西宮神社Ⅱ学生社,
2003 年など
(11)
同氏 近世淡路史考皿 近代文芸社,Ⅰ
989 年,
下
は
源之丞の第 1 代または第 2 代は,西宮の人形
操と 関係あ り,人形浄瑠璃を 完成させた中心
人物と見られ ,「淡路座 秘書」の 輪 旨を西宮
から持ち込んだと 考えられる。
本稿は論点が 多岐にわたり ,まだまだ不十
分 な論証しかできていないが ,あえて仮説と
して提示してみた。 大方の叱正をお 願いする。
武田清市民 「西宮 儂脇子と淡路人形芝居」,
2@ 「西宮神社所蔵
文書」 [兵庫県吏 史料編近世
四よ
くⅠ
3) 前掲吉井良尚氏「西宮の
操人形」
(14) 武田清市民双掲論文
く
15) ㌃西宮市 史 第六巻 史料編三j
く
16) r兵庫県の地名1. 平凡社,1999 年
く
17)
文政年間に浜松歌国ほか
著。
浪速叢書コ第
目
1 一 5 巻所収
兵庫県吏 史料編近世四皿
(19) 古井良尚氏前掲論文
註
(1@
以下本論文では
,宗教性の帯びた
淡路や西宮
0 人形浄瑠璃を人形操,人形 操に従事している
人々を人形操師,人形操をおこかつている
芸能村
を人形操打と称す。
(20) 吉井良尚氏双掲「西宮の
操人形」・
佗 1@
以上は,吉井良尚氏双掲論文のほか
同氏
軒西
西宮神社Ⅰを
参照した。
(22) 吉井良尚氏双掲書 『西宮神社史話 『西宮サ li@
ぷ
散所村から人形操村へ
(38)
社d などを参考にした。
(23) 長承元年9 月 2t3日「官宣旨」『平安避文
j 5
一
?め
く
丁
コ
護国寺,1996 年
26) 網野善彦氏は日本中世の非農業
民 と天皇コ器
・
v波 。- , 店,
く
1984
年
酊
『法隆寺
史
24,
(41) 中西英夫氏「淡路人形浄瑠璃の
発展」
員会,2001 年
(28) 吉井良尚氏双掲『西宮神社史話
j
「御湯殿上の
日記」永禄
lHl年 2 月 i8 日,沢
-正
lf 年 1 月 21 日,天正17 年 t 同 5 日,同年4 月 5 H,
同年月17 日,同年月
18B,
日
「引田公彦
氏所蔵文書」『兵庫県
史 史料編近
芸能淡路人形浄瑠璃ゴ
兵庫県三原祥三原町教育委
粁集成J 5, 所収
禄 4 年 2 月 23
(40@
世四0
27) 近藤紙城編 改訂史籍集覧J
(29@
「中世淡路の
舞楽神田と楽人集団一淡路人形
芝居発祥地に
関連して
一」中野 栄共編 護国寺誌0
r 日本古典全集 所職
(25) 前掲『西宮神社史話
J 30 頁所職
く
県史 史料編近世四 B
(39@
240
文化 8 年 1 月「淡路操座本米収極書」配兵庫
条,
天正18 年上
月
18 日
文
[西宮市史田 第四巻資料編
(42@
「引田家文書」天保
13 年 8 月「淡路操 由緒に
四 d, 1995 年
(43)
宝暦 5 年 1 月 10 日「姉条
村以外の者の諸芸
諸
能の 司 看板使用禁止につき
願書」に「国々所々の
所載
(30) 以上,吉井良尚氏双掲「西宮の
操人形」同氏
祭り事操等位便所ニ,諸けい諸能の 司 看板山中老
御座候,北岡かんばんの
義,先年より峯村計ハ
田
酊摂播 史蹟研, :@f
ヲ
(31@
「吉井良尚文書」『西宮市里コ
第 6 巻資料編3
(32)
淡路三条村の
人形操はついては,芸能史から
は極めて多くの
研究がある。 主なものは次の
通り
永田御古 日本の人形芝居Ⅲ第姉編第姉車淡路人
軒
形・阿波人形」,不動佳一・
不動敏
中,外々の
村派出中尊堅指密印」
「引田公彦此所蔵
文書」「兵庫県
史,史料編近
世四皿
悠め
路の人形芝居ユ
角川書店,1972 年,門屋光昭
路人形と岩手の
芸能集団コシバナル
社,
1990 坪。
なお正伝統芸能淡路人形浄瑠璃
J (三原町教育委
員会,2001 午) の「主要参考文献」欄に
関係史料
とともに網羅して
掲載されている。
旧 三原郡三原町教育委員会所蔵
lH@ 旧領取調帳Ⅱ近藤出版社,
1gS0 年
(48) 「引田家文書その
ニ」『姉原文化Ⅰ第
50 号,兵
庫県立三原高校,
1995 年
「 ぢ
W味他車コ巻第 24 「姉原郡姉条
村 1972 年,
」
家文書」『兵庫県吏史料 編近世四 j
編近世四ユ
旧 南淡町 (現,
商 あ わ じ市 ) 八幡,護国寺
所
年筆写「姉社神楽之式
(51@
「
@l 旧家文曹」九%3
㏄勿
「
唐"択- 平氏所蔵
"" 文世
'忘
三原文化コ第目号 1999 年
「引田公,法氏文書」㌃
兵庫県,
史
史料編近世
四$
(37@ 宝暦l.r年
「
門ィ寸
・三番受 等双極は つき四立
」
『兵庫県
史 史料編述
世四d
・
月
(5目
「錦江 博此所蔵文書」
世 四コ
・
町座
坐 木申請書」Ⅱ兵庫県
史 史料編近世四コ
92
@
操由緒にっき上村日向の
書上」
蔵
㏄ 6@
三原文化コ笛
W0 号, 兵
」
庫県立三原高校,
1995 年
(50) 「引田公彦
此所蔵文書」天保13 年 8 月「淡路
影印本
(35)
(47) 「引田家文書その
ニ
(49@
(33@ 『兵庫県の地名Ⅱ平凡社,
1999 年
(「引出家文書」
㌃兵庫県吏 史料 編近世四 d, 1995 年) とあ る。
(44@
出来J (財) 淡路人形協会,
1993 年,新見貫入『淡
㏄ 4)
兵庫県 史
つき上村日向の菩上」
兵庫県史
史料編 述
士
口 ji
㏄め
ら」
(5%
宮地正人氏「芸能と芸能艮一地域の視座か
日本の社会史 第 2 巻 岩波書店,1989 年
肝
ゴ
1964 年
『淡路島の民俗
] 吉川腔文館,
(60@ 『日本古典全集第三期 一七巻コ
菊川兼男瓦「淡路人形の
起源 (古浄瑠璃時代
まで)
」
佐@
日本古典文学全集 東海道名所記
伝統芸能淡路人形浄瑠璃
d, ただし不動
(62@
「新修京都叢書--OJ
不動敏両氏 F淡路人形の由来 では元亀元
(63)
「東洋文庫オ n 漢三才図会0 平凡社
肝
力
プ
Ⅱ
臨川書店
年 2 月「輪旨」のみ「淡路
座秘書」とされている。
(56@ m伝統芸能淡路人形浄瑠璃
d 373 頁
(5の
号,
(58@
あ とがき
「引出家文書 その 人」『姉原文
ィヒ
Ⅲ
第阿
あ わ じ市 教育委員会),南あ わ じ市 淡路人形浄瑠璃
1999 年
「
9l 旧家丈吉
本論文作成にあた七三原町教育委員会(現, 南
その 人
」
$三原文化
団
第 54
史料館と喜田憲
康,互井良徳,
素川恒男氏の各氏に
費重な資料・を
号, 1999 年
(59) 和歌森太郎氏は,淡路三条の人形遇いは,え
持
見させていただき
,いろり
ろ 御教示いただきました。
また兵庫県立歴史博物
びす信仰ではなく
,むしろ八幡信仰であ
るとされ
館の小栗栖建治氏にも
資料を提供していただきま
ている。同氏「八幡神信仰と
木偶まわし」同氏
編
した。
93