署名に至った。日本は、シンガポールとの経済連携協定(EPA)を皮切りに

◎ 巻頭エッセイ ◎
Oe Hiroshi
2015 年 10 月、TPP(環太平洋パートナーシップ)は大筋合意をし、2016 年 2 月 4 日、
署名に至った。日本は、シンガポールとの経済連携協定(EPA)を皮切りに他国に遅
れてEPAへと舵を切ったが、TPPは日本国内で、これまでわが国が締結したEPAとは
別次元の国民的関心事となった。安倍晋三総理もアベノミクス成長戦略の柱のひとつ
にTPP を挙げ、TPP は国家百年の計として位置づけられた。
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TPP の重要性はどこにあるのだろうか。この問いについて考える前に、現在の通
商・貿易体制がどうなっているのかをみる必要がある。言うまでもなく、戦後の貿易
はGATT/WTO(関税貿易一般協定/世界貿易機関)体制を軸にここまで発展・拡大して
きた。しかし、1999年のシアトルにおけるWTO閣僚会議以降、WTOの交渉が停滞し
てすでに20年近くになる。ドーハ・ラウンド(多角的貿易交渉)の状況をみて、WTO
は死んだと言う者さえいる。そのような状況のなか、多くの国がFTA(自由貿易協定)
に軸足を変えてきた。わが国が、シンガポールを皮切りに他国とEPAを締結し始めた
のは、他国に比べ最も遅いタイミングであったが、それは戦後 GATT/WTO を貿易政
策の中心においてきたわが国としては、EPAに軸足を移すことには、それなりの抵抗
があったということがある。また、わが国における農業のセンシティビティーに鑑
み、EPAに大きな抵抗があったのも事実である。それにもかかわらずEPA政策に正面
から取り組むことにしたのは、WTO が停滞するなか、貿易における新たなルール作
りがFTAにおいてなされ、わが国がそれにそっぽを向くということはわが国が世界の
新しい貿易ルールの策定に参加できなくなるという問題意識からであった。
そのような意識に基づけば、世界に数多くあるFTAのなかでも、いわゆるメガFTA
は特に重要である。そのなかでも、TPP は最も重要なメガ FTA であると言えよう。
原加盟国になることが想定されている12ヵ国で、世界の約4割のGDP(国内総生産)
をカバーしていると言われるが、そのなかに、世界第 1 と第 3 の経済大国の米国と日
本が含まれていることが非常に重要である。日米FTAというのは、過去何十年にわた
り多くの人の口に上り、しかしながら、誰もそれができるとは考えなかった。TPPは
日米だけではなく、オーストラリア、カナダ、メキシコ、ベトナムといった国を含む
国際問題 No. 652(2016 年 6 月)● 1
◎ 巻頭エッセイ◎ TPP 合意とアジア太平洋通商秩序
12ヵ国の協定であるという時点で、すでに日米 FTA をはるかに超える意義がある。
さらに重要なことは、TPPは、ほかの多くのFTAと違って、加盟国が固定されてお
らず、今後、拡大していくことが想定されているFTAであるということである。大筋
合意後、韓国、台湾、タイ、インドネシア、フィリピンといった国および地域が、す
でにTPP参加に強い関心を示している。これらの国および地域が参加すると、TPPは
さらに世界の約 5%のGDP が追加された地域をカバーすることとなる。
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これらの国が実際にTPPに参加するようになると、中国もTPPへの参加を真剣に考
えるようになると私は考えている。多分、中国は今、TPPが本当に発効しさらに多く
の国が参加していくようになるのか、じっと見守っているのではないか。中国は、も
ともとはTPPではなく、米国の参加していない、そしてTPPより野心レベルの低いこ
とが想定される RCEP(東アジア地域包括的経済連携)を、アジア太平洋地域の貿易の
軸としたかったであろう。しかし、TPP が実質合意した今、RCEP に対する期待は正
直なところ下がってきていると言わざるをえない。もちろん、RCEP が TPP に匹敵す
るような野心水準のものを目指すならば、大きな意味がある。しかし、現時点で中
国、インドと、TPPに参加している国が共に交渉し、高いレベルの合意に達するのは
容易ではない。もちろん、現在の中国がTPPに参加するのはハードルが高すぎるであ
ろう。国有企業等、今の中国にとっては困難な問題が多すぎるからである。しかし中
国も今後、自己改革をしていかないと、中国自身の成長を維持していくことは困難で
あろう。中国が TPP に参加するということになると、さらに世界の約 15% の GDP が
追加された地域がTPPによりカバーされることになる。そうなれば、インドもTPP参
加を真剣に検討するような状況が生まれるかもしれない。このように、TPPは今でも
世界最大のメガFTAであるが、潜在的には、さらにもっと大きな、世界のほとんどの
経済を内包するような FTA になる可能性を秘めていると言えよう。
そして、そのプロセスで世界の新たな貿易のルールがTPPで作られることになると、
それがベースになって WTO が再生する可能性があるのである。TPP が成功裏に成長
していくことが、WTO 再生に繋がる唯一の道かもしれない。実際 TPP では、WTO で
決められなかったルール、または既存の WTO を超える水準のルールが決められてい
る。伝統的な分野だけではなく、Eコマース(電子商取引)、国有企業、労働、環境と
いった分野まで、TPP はカバーしているのである。
また、TPP の意義を考えるにあたって忘れてはならないのは、TPP は、単なる貿易
協定であるというだけではなく、アジア太平洋地域における米国のプレゼンスを確保
するという、より広い意味での安全保障上の意義も有するものであるということであ
る。このように言うと、すぐTPPは中国封じ込めのための協定ではないかと言う人が
いるが、そういうことではない。オバマ米大統領は、中国にルールを書かせてはなら
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ないと言ったが、その意味するところは、現在の中国がルールを書こうとすると野心
水準の低いものにならざるをえない。たとえばTPPでは、国有企業についても規定が
設けられたが、中国の国有企業がいろいろなところで大きな問題となっているのは周
知の事実であり、今、中国がルール作りに深く関与すれば、とても国有企業を規律し
ようという話にはならず、それでは意味あるルール作りはできないということであ
る。中国が自己改革をするなかでTPPに加盟できるような状況になり、中国がTPPに
将来加盟することは皆望んでいるし、そのような状態になることは中長期的には中国
にとっても必要なことであろう。
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さて、このようなシナリオが現実になっていくためには、何よりTPPが一日も早く
発効することが必要である。私は、TPPがいずれ発効することについては確信してい
るが、早急に、という点については不透明な点がある。たとえば、米政府は当初は本
年夏にも、ということを言っていたが、3 月 1 日のスーパー・テューズデーまでに民
主・共和両党の大統領選挙候補が実質的に決まるというシナリオが崩れたことによ
り、このシナリオはなくなったと言われている。現在では、本年末のいわゆるレーム
ダック・セッション(米大統領選挙後から会期末までの間、改選前の議員構成で開催され
るセッション)に議会を通すか、そうでなければ次の大統領に委ねるか、のいずれか
ということになる。オバマ政権は、前者を追求し本年中の議会通過につき意志表明し
ている。しかし、仮にそうではなく後者になった場合、少なくとも来年は米国では何
も動かない可能性が高いと言われている。なぜなら、大統領選挙という文脈のなか
で、本心はどうであれ、すべての有力候補はTPPに対して否定的な発言をしているか
らである。誰が大統領になろうとも、あれは選挙戦での発言だったとして、すぐに
TPP を通すという行動には出にくいであろう。少なくとも、1 年、場合によってはさ
らに長い期間、米国内でのTPP承認に向けての動きは期待できない可能性がある、と
いう見立てである。そうであればこそ、オバマ政権の意図どおり、本年中にどうにか
通すという米国政府の努力に期待している。
そして、そのような状況をみて、米国の状態をみて国内の手続きを進めようという
国もある。米国からの再交渉要求を恐れて、米国の状況をみないと進めないと感じて
いる国もある。過去、米国との間で、合意後、実質的な再交渉を求められ、それに抗
しきるのが困難であったという歴史があるからである。そんななか、TPPにおいては、
わが国が、いったん合意したものを再交渉することはありえないという毅然とした態
度をとり続け、それをバックにすべての交渉参加国が同様の立場を堅持してきた。
USTR(米通商代表部)もそれを理解し、種々の場で、TPPにおいては再交渉はありえ
ないということを公言している。そのなかで、わが国が率先して国会承認を得ること
は、再交渉がないということを対外的に明確に示すうえでも非常に大きな意味があ
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◎ 巻頭エッセイ◎ TPP 合意とアジア太平洋通商秩序
る。先の国会でTPPの承認にまで至らなかったのは、きわめて残念であるが、なるべ
く早期に国会で是非とも承認をいただけるよう、引き続き国民の理解を得る努力をし
ていきたい。
(注:本稿において意見等にわたる部分は筆者の個人的見解である。
)
おおえ・ひろし TPP 首席交渉官
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