GKH019905 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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リテラシー研究法 としての
エスノグラフイー
角
〔
要
知
行
旨〕 広義の T
)テラシーを研究する方法 としてエスノグラフイー(
民族誌)をとりあ
げる。それが社会言語学のなかからあらわれ、
実際の調査研究にもちいられるようになっ
た経緯 をまとめる。こうしたエ スノグラフイーの事例 として,スクリブナ-&コール,
ヒース,パーセルゲー トの3人をとりあげる。ここからリテラシーのエスノグラフイー研
究にどのような可能性があるのか,私見をのべ,最後にそれがメデ ィア批判の視座を手
にいれるべ く,権力概念の分析 とむすびつかねばならない点をあ きらかにする。
〔
キーワー ド〕 リテラシー,エスノグラフイー,文字,識字,権力,
1.課題の設定
情報技術 の発 展 と ともに,「コンピュー タ ・リテ ラ シー」 とか 「メデ ィア ・リテラ シー」 と
か ,「リテ ラシー」 をふ くむ用語 が 目につ くようになって きた。 「コンピュー タ ・リテラシー」
とい った場合 には, コンピュー タを操作 す る技 能 的側 面 に力 点がおかれ るの にたい して,「メ
デ ィア ・リテ ラシー」 とい った場合 には, メデ ィア と くに映像 メデ ィアの視聴 のあ りかた とい
う批判 的側 面 に力点が おかれ る。近 年,各人 の コ ミュニケ ー シ ョン能力へ の要 求水 準 とと も
に,各種 メデ ィアへ の懐 疑や批判意識 がたか まってい る とい うことが この背景 にあるのであろ
う。
*本稿 の記述 は,か なや ローマ字 による 日本語表記の平易化 を提唱 してい る梅樟忠夫 ,野
村雅昭, ましこひでの りらに賛 同 して, むつか しい漢字 や訓 よみの漢字 をで きるだけつか
わず, ひ らが なをおお くつか うようにこころがける。そのため,最初 は多少 よみ に くくか
ん じられるか もしれない。 ご容赦 いただ きたい。
リテ ラシー とは,声 ,文字,映像 な ど, さまざまなメデ ィアの うち,元来 は と くに文字 (
活
辛) についてつかわれて きた用語 である。活字 の発 明,活字 メデ ィアの発 達の なかで,近代 に
おいては, リテラシーの獲得 はひ とつの国家 的な教育課題 となって きた。そ う した課題 をめ ぐ
って論 じられるのが リテ ラシーの テ クス トであ った。今 日,あた ら しい メデ ィアの発達 のなか
で,文字 はその支配的 な位置 を う しないつつ も,存在形態 をか えつつ, なお重要 な位 置 を しめ
ている ようにみ える。 インターネ ッ ト,デー タベ ース,電子 メール とい った文字 をあつか うあ
た ら しい メデ ィアがあ らわれて きてい るか らであ る。
本稿 では リテラシーの原型であ り,い まもその重要 な存在理 由を もっている メデ ィア と して
文字 を と りあげるこ とに したい。現代 にお けるその多様 なあ りかた をあ きらか に し,同時 に批
判 的な視 点 を獲得 す るには どの ような研究方法が あ るのか をかんが えてみ る ことにす る。 それ
6
0
天 理 大 学 学 報
は,文字 メデ ィア とのかかわ りをあ きらかにす る とともに, うえにあげた ようなさまざまな リ
テラシーを今後かんが えてい くうえで・ ひとつのモデルになる もの とお もわれる。
,
まず は じめ に・文字 メデ ィアにか ぎってみて も 「7
)テ ラシー(
l
i
t
e
r
a
c
y)
」 とい う英語 は,覗
在・かな りひろい意味範囲 を もってつかわれ ているこ とを確認 してお かねばな らない。元来
は 「リテラシー」 は文字 の習得過程 あるいはその結果 と しての文字能力 に焦点 をあてた こと
,
ばであ った。「リテ ラシー」 は 日本語で 「
識字 (しきじ)
」 と訳 され るこ とがある。 「
識字」 と
はそ もそ も中国で漢字の よみか きの基礎能力 とその習得程度 をさす こ とばであった (
元木 ・内
山 :1
9
8
9
・p・
3
9
)
。その漢語が 「リテラシー」の訳語 と して採用 されたのであ ろう。匡l
語辞典
,
では 「
識字 」は 「
文字 をお ぼえるこ と」 (
広辞苑,第 3版) 「
文字 の読み書 きがで きる こ と」
(
同,第 5版) な どと解説 されている。
近代 になっておお くの国は識字率の向上 をはか った〇一時,経済の 「
離陸」 と識字率 との関
連が強調 されたこともあ り, とくに1
9
5
0
年代以降は,ユ ネス コなどの国際機関の支援 をうけつ
つ,いろんなプログラムが さだめ られ実施 されたoその際 にひとつの指標 となったのが 「
機能
的識字(
f
unc
t
i
o
na
ll
i
t
e
r
a
c
y)
」 であるo社会生活 をい となむ うえで必要な よみか きの能力の水
準が設定 され,その習得がめざされた。いっぼう,文字の よみか きはただ機能的 レベルにとど
まるべ きではな く,社会を批判的にみて行動で きるレベル にまでいたるべ きだとす る主張 もあ
らわれた。P・フレイ レには じまるこうした立場は 「
批判的識字(
c
r
i
t
i
c
a
ll
i
t
e
r
a
c
y)
」 といわれて
いるo これに もとづ く識字 キャンペー ンが キューバ,ニ カラグア, タンザニアをは じめ,い く
つかの国で くりひろげ られた。
9
6
0
年代か ら
わが国で識字問題が身近 な問題 として と りあげ られるきっかけになったのは,1
7
0年代 にかけて被差別部落の識字運動 であった といえる。文字や教育 をうばいかえすこころみ
として,福 岡県の筑豊 を中心 には じまった識字運動 は,大阪 さらには全国へ とひろが っていっ
た。部落差別 ばか りでな く,民族差別や抑圧 によって うばわれた教育 をと りもどそ うとす る在
日韓国 ・朝鮮人の識字運動 や高野雅夫民 らの夜 間中学開設運動 もあった。
,「来任外 国人」 と 「障害者」 に対す るあた ら しい識
近年では,小 沢有作 が指摘す る ように
字活動が うまれている (
小沢 :1
9
9
1
,p.
2
3
)
0
1
9
8
0
年代 には じまる外 国人労働者や留学生 の増
加 は, 日本語学習者の増加 につ なが った。その学習の一環 として地域 において 日本語教室が ひ
らかれ,文字 の学習 もお こなわれている (
ここ奈良県下で も十数 ヶ所の 日本語教室があ り,私
は2
01
年度,天理大学学術研 究助成 をうけ,共同でその調査研 究 をお こなっている)。 もうひ
とつ,障害者の識字運動 のたか ま りの背景 には,障害者運動やボランテ ィア活動の活発化,障
害者用の情報機器 の発達 な どがあげ られ よう。
こう した文字の習得過程 としての リテラシーはい まなお問題性 をう しなっていないのである
が,同時 に リテラシー とい う英語 は別の文脈 で ももちい られるようになって きた。それは学習
過程 にか ぎらず文字の使用過程全般 をさす場合である。すで に文字 を獲得 した識字者 はいろん
な時 と場所 において,文字 をさまざまな用途でつかっている。個人や集団の ちがいによって,
そ こには特徴がみいだせ る。非識字者であって も,代読 とか接触 回避 といった方法で,学習以
外 に文字 とかかわ りをもって 日常生活 をい きている。そ う した文字習得 にか ぎらない もっと広
義の文字使用, こう した場合 に も 「リテラシー」がつかわれるのである。 これは 「
識字」 とい
う訳語 よ りは 「よみか き (
読 み書 き)
」あ るいは 「
文字の文化」 とい う訳語 で喚起 され る内容
によ りちかい といえる。その研究の 目的は,非識字者 に文字 を獲得 させ る とい うよ りは,文字
使用の解明 とい うことになる。 このふたつの側面 を図式化 して しめせ ばつ ぎの ようになる。
リテラシー研究法 としてのエスノグラフイー
61
リテラシーの二
狭
(
l
i
t
e
r
ac
y)
リテラシー
識字
文字の習得過程あるいはその
文字の (
批判的)習得
結果 としての文字能力
広
(
読み書
よみかき
き)I
文字の使用過程全般
文字使用の解明と説明
このふたつの側面 の うち,本稿 では冒頭でのべ た理 由によ り,「よみか き」 とい う意味 での
リテ ラシー を対象 に したい。文字の学習者 にとどまらず,文字 の使用者の問題 として リテラシ
ーをとらえることにする。た しか に 「
識字」か ら 「よみか き」 に拡大す ることによって,識字
教育や識字運動が提起す る問題点が拡散 されるのではないか とい う危倶 はある。 しか し, よ り
ひろい視点か ら文字 をとらえなおす ことによって,あ らたにみ えて くることもあ るであろう。
識字 の側面 についてわが 国では識字運動 の展 開 と関連 を もちつつ,研 究がお こなわれ て き
た。その研究成果の一定の蓄積 もみ られ る。 しか し 「よみか き」 としての リテ ラシーについて
のわが国での研究 は,何 人かの研 究者が指摘す る ように,「
決定的 にす くない」 とい うのが現
状である(
蘇 :1
991
, 児島 :1
9
96)。いっほ う,アメリカを中心 とす る英語圏ではこの2
0年 ,30
年ほ どのあいだにさまざまな視点か らリテラシー研究がお こなわれて多大の蓄積がみ られる。
「1
)テラシー」の意味 の拡大は,そ うした研究の結果である ともいえるo
こう した リテラシー研究の展開 をどの ような視点か らまとめ うるのか, これについては 「自
律 的 モ デ ルか ら イデ オ ロギ ーモ デ ルへ」 (
ス トリー ト),「
認 知能 力論 か ら権 力 関係 論 へ」
(
森),「
単一的識字観か ら多元的識字観 -」 (
児 島) とい った図式が えがかれ ることがある。
しか し私 は, リテラシーの研究法 に,従来の文献学や心理学 などにかわって,人類学の方法の
ひとつであるエス ノグラフイー (
民族誌)が とりいれ られて きた とい う点 に,近年の研究動向
の特徴 をみ ることがで きるので はないか とかんが えてい る。あ えて図式 的にい えば,「リテラ
シー研究 におけるエス ノグラフイー法の定位 と発展」 とい うことになる。 この仮説 にそって,
アメリカを中心 とす る英語圏での リテラシー研究の動向 をまとめ,同時 にその可能性 をさぐっ
てみ ようとい うのが,本稿 の問題意識である。
*
以下では 「リテラシー (
l
i
t
e
r
ac
y)
」 は 日本語 に訳 さないで,その まま 「リテラシー」 と
してつか うことにす る。 うえでのべ たように 「
識字」 とい う訳語では意味が限定 されるか
,
らであ り 「よみか き (
読み書 き)
」 あるいは 「
文字の文化」 とい う訳語 もかな らず Lも文
脈 にて ききない場合があ るか らである。 また,「コンピュー タ」や 「メデ ィア」 とい うこ
とばの語尾 に接続 す る場合 に も,「リテ ラシー」 の ほ うが ふ さわ しいで あ ろ う。 ただ し
「
識字率」「
識字者」「
非識字者」「
識字教育」 な どの用語 はすでに一般 化 しているので,
その まま採用す ることにす る。
2.エスノグラフイーとは何 か
エス ノグラフイー (
民族誌 と訳 され ることもある)はほん らい人類学者がある異文化や社会
事象 を長期 にわたって参加 ・観察 し,その研 究成果 を記述,報告 す る社会調査 法 を さ してい
る。1
9世紀 までの民族学は現地か らの報告書や二次 的な資料 をもとにある社会 を考察する 「ひ
じかけ椅子の民族学」であった といわれ る。それ にたい して,マ リノフスキーは現地での フ イ
62
天 理 大 学 学 報
ール ドワークをとお して 『
西太平洋 の遠洋航海者』 (
1
9
2
2) をあ らわ し, これが ひ とつの ター
ニ ングポ イン トになった。以来,エス ノグラフイーは人類学の方法 として中心的な位置 を しめ
て きた。
エス ノグラフ イーは異文化社会や民族社会 を対象 とす るばか りではない。ある社会 における
社会集団 を対象 とすることもある。最近のわが国での研究 には,た とえば暴走族 を対象 と した
「
暴走族 のエス ノグラフイー」 (
佐藤郁 哉) とか,小 ・中学校 におけるニューカマーの子 ども
を対象 に した 「
ニューカマーの子 どもと学校教育」 (
太 田晴雄) といったす ぐれたエス ノグラ
フイー もある。 ここではエス ノグラフイーは社会学や教育学の方法 になっている。
人類学のエス ノグラフイーでは言語はかな らず Lも自覚的な研究対象 とはなっていない。言
語 をと くにエス ノグラフイーの研究対象 と して強調 したの は社会言語学者 の D.ハ イムズで
ある。言語 を抽象 的な場面ではな く,具体 的な実践の場 において考察 しようとい う立場 は社会
言語学や語用論 で主張 されることがある。ハ イムズは具体的なコミュニケーシ ョン行為の諸要
素 を記述す る科学 の成立 を主張 し,それ を 「ことば (
s
pe
aki
ng)のエス ノグラフイー」 とよん
だOのちにはか きことばや非言語行動 もふ くめて 「コ ミュニケーシ ョンのエス ノグラフイー」
9
9
9)
。彼 は とくにある社会 における発話 (
s
pe
e
c
h)を主題化す ることを主
とよんだ (
橋本武 :1
張 している。その分析 のための概念 として,話 し方,流暢 なはな し手,発話状況,発話 イベ ン
ト,発話行為,発話 イベ ン トと発話行為 の要素, ことばの規則,発話 の機能等 をあげてい る
(
Hymes
,Del
l
:1
974=1
979)
。 これ らのなかで とくに中心 になるのは,発話状況,発話 イベ ン
ト,発話行為 であるo たとえばパーテ ィとい う発話状況 において,その最 中の会話 (
発話 イベ
説 明」「
挨拶」 とい った発話行為 をみ るこ とがで き
ン ト) をと りあげ,その なかの 「
冗談」「
る。そ こでのいろんな要素 を記述 してい くのが彼のい う 「コミュニケーシ ョンのエス ノグラフ
イー」 である。
ハ イムズはモデル としてお もに発話 を想定 していたが,のちに 3-2で もふれ る S.
B. ヒー
スは,か きことばを対象 として, リテラシーのエス ノグラフイーを提唱 し,その研究のための
概念 と して 「リテラシー ・イベ ン ト」 を提案 している。 リテラシーイベ ン トとは 「なん らかの
筆記が, コ ミュニケーシ ョンに参加 している者の相互行為の性質や彼 らの解釈過程 にふ くまれ
ているいろんな場合の こと」である (
Hea
t
h,Shi
r
l
e
yB.
:1
982=2001,p.
445)
。その リテラシー
イベ ン トを記述す ることで ヒースは リテラシーのエスノグラフ イー を構想 し,実際 にアメ リカ
のある町でそれ を実行 した。
.スウェー ドも, とくにメデ ィア として
ハ イムズの協力者であ り,共同研究者 で もあった J
文字 を想定 して,「リテラシーのエス ノグラフイー」の可能性 を主張 している。読書 といって
も試験勉強,子 ども-の よみ きかせ,新聞の購読,商品名 の読解 な どさまざまである。筆記 に
ついて も,署名,手紙, レポー ト作成な どいろんな場合がある。 こうした具体 的な実践過程 に
おいて こそ リテラシーは理解 されるべ きであって,たんにテス トによってはか られるべ きもの
ではない とス ウェー ドはのべ る。 よみか きの多様 な構成 こそが発見 されるべ きなのである。そ
して リテラシーのエス ノグラフ イーを実行す るための概念 として,テクス ト, コンテクス ト,
Sz
we
d,Jo
hn:1
981
=2001
,p.
423)
。
機能,参加者,動機づ けの 5つ をあげている。 (
リテラシーのエス ノグラフイー といって もかな らず Lも識字者 だけ をあつか うもので はな
い。非識字者の手記 をみ ると,病院に診察 にいったさいに,問診表 をわたされたがわか らない
ので,看護師に代理記入 して もらった とか,スーパー-かい ものにいって も商品名や説明がわ
か らないのでいつ もかっている商品 をかって しまうとか,文字 をよめない ことをか くすために
リテラシー研究法 としてのエスノグラフイー
63
会社 にいって も新聞 をよんだふ りを している といった話 にであ うことがある。 これ らは直接 に
文字 を解読 しているわけではないが,文字 をめ ぐって しょう じているコミュニケーシ ョン行為
である。無文字社会 にい きる人の文化 は声の文化 といわれることがあるo非識字者の文化 も声
の文化であ り,一種の異文化である。抑圧 された異文化 を純粋 な もの・独立 して もの としてえ
が くのではな く,支配的文化 との対抗 においてえがかれるべ きだ とい う最近の文化人類学 の主
張 にそえば,文字 文化 との対抗のなかで抑圧 されつつ も同時 に したたかにい きている非識字者
の姿 もまた, .
)テラシー研究の対象 となるべ きものであろう。
スウェー ドは 「リテラシーの現実 の姿 を発見 し,それ を正当に しらべ る唯一の方法がエスノ
I
bi
d.
‥p.
427)
。 はた してその ようにつ よ く主張で きるか
グラフイーである」 と主張 している (
どうかわか らないが,つ ぎにい くつかの研究事例 をみてみたい。
3. リテ ラ シーの エ スノ グラ フ イー
文字の使用 についての 日常 的な実践 をエスノグラフイーの対象 にす る とい う主張は1
9
7
0年代
0年代初頭 にかけて,はっ きりとした姿 をとってあ らわれて きた。 これ らの主張 はそ
後半か ら8
の後 の リテラシー研究 を リー ドす る方法 を提供 して きた。論文冒頭 に,あるいは重要 な先行研
r
r
,Ma
r
究者 として,ハ イムズの名 をあげる 7
)テラシー研究論文 もい くつかある (
た とえば Fa
e
i
a: 1
994=2001)
。 しか し,かな らず Lもこれに触発 された形跡 はないが,同時期 に共時的に
あ らわれた とみ られる l
)テラシーのエ スノグラフイー研究 もある。 ここでは,そ うした研究の
なかか ら,スクリブナ-&コール, ヒース,パーセルゲー トをと りあげ, 7
)テラシーのエスノ
グラフ イー研究 をみてみることに したい。ス クリブナ-&コール,ヒースはいずれ も長期 にわ
たるフィール ド調査 をお こなってお り,すで に定評のある研究事例である。パーセルゲー トの
研究 は比較的近年 の,短期間の ものであるが,非識字者 をあつかっている とい う点で興味ふか
い ものである。
3- 1.社会実践 としての リテラシー (
スク リブナー &コール)
97
3年か ら7
8年 にかけ
スク .
)ブナ- とコールは,アフ リカの リベ リアをフィール ドとして,1
9
81
年 に 『リテ ラシーの心理
て ヴァイ族 の リテ ラシーについて調査 をお こない,その結 果 を1
学』 と して発表 している。 ヴァイ族 は 3種類 の文字 をもっている。伝統的社会で個人的にまな
ばれ もちい られるヴアイ文字, コーラン学校 で コーランのため にまなばれ るアラビア文字 ,そ
して学校で まなばれる公用語の英語である。 これ ら 3種類の文字 はそれぞれ識字率が ことなっ
0-25%である。 スクリブナ- とコールは心理 テス トをもちい
てお り,た とえばヴァイ文字 は2
て,カテ ゴ リー化 ,記憶,論理的推論 とい ったいろんな認 知能力が どうこ となるか を しらべ
た。その結果 わか った ことは,それぞれの文字がお しあげることので きる認知能力 はか ぎられ
ていて,普遍的に文字が認知能力 をお しあげる とい う効果 はみ られなかったのである。そ して
結論 と して 「
論理 ,抽象,記憶 , コミュニケーシ ョン, どの課題の達成 をとって も,非識字者
Sc
ibner& Co
r
l
e:
が識字者 よ りもひ くい レベルである とい うことはなかった」 とのべ ている (
1
981
,p.
251)
。
彼 らの研究の影響 は,ひとつ にはそれまでの リテラシー研究 に支配的であった声 と文字 との
二分法 にひとつの有力 な反証 をあたえたことにある。音声,文字 といったメデ ィアは人間の感
覚比率 を変容 させ ると して
,「メデ ィアはメ ッセ ージであ る」 とい う有名 な命題 をとなえたの
はマ クルーハ ンであった。 ここにはメデ ィア と感覚器官 とを直接 にむす びつける発想がある。
64
天 理 大 学 学 報
おな じように・文字 を獲得することは,人間の感覚,認知,心性 におお きな変容 と飛躍 をもた
9
6
0年代 ,7
0年代 にあいついで刊行 されたoハ ヴロ ック, グデ イ,オ ング
ら した とする議論が1
Gr
e
at
といった論者の名前 をあげることがで きる。こうした主張は,多少おおげ さではあるが ,r
大分水嶺理論 )
」 と総称 されることがある (
訳語は茂呂雄二 :1
9
8
8による)。
De
ideThe
v
o
r
y(
こう した研 究 においては,文字 の獲得 は合理 的,客観 的,抽象的思考 を可能 に した とされ
de
vi
de
)がで きるとい うわけである。古典 につ
る。文字 をもたない以前 の段階 との間には溝 (
いての文献学 をお もな資料 として論証 されるこれ らの議論 は, さらに認知心理学の分野で仮説
と して採用 され,文字 を使用す る者 にはあ らたな知的能力がそなわる とい う結論がみ ちび きだ
01
s
on, Da
vi
d R∴
されて きた。 こう した諸命題 を,オルソ ンは次 の 6点 に まとめ てい る (
1
994,pp,
37)
O
(1) 筆記 は発話の うつ しである とい うこと。
(2) 発話 にたいする筆記の優位性。
(3) アルファベ ッ ト方式の技術 的優位性。
(
4) 社会的進歩の機関 と しての リテラシー。
(5) 文化的,科学的発展のための道具 としての リテラシー。
(6) 認知的発展 の道具 としての リテラシー。
ス クリブナ- とコールの研究は, こう した諸命題がな りたたないことをヴァイ社会 とい うひ
P. ジーは 「リテラ シーの認 知効果 につ いての問題性
とつの事例 に もとづ いて実証 した。∫.
は,ス クリブナ- とコールの ヴァイ社会 についてのパ イオニア的研究 によって再定義 されるこ
Ge
e,Ja
me
sP∴1
990=1
996,p.
55)
0
とになった」 とのべ ている (
ス クリブナ- とコールの研究の意義は,それ までのパラ ダイムへの反証 とい うことにとどま
る ものではない。彼 らは心理学 的テス トをもちいて文字使 用 と認知能力 との関係 を説明 しよう
と し,3種類の文字 ごとにことなった認知能力 との関係がみ られることをあ きらかに したが,
pr
ac
t
i
c
e)
」 とい う概念 をもちいている。 リテラシーは抽象的に設定 され
その説明には 「
実践 (
るべ きではな く,ある日的や条件の もとにお こなわれている。つ まり 「リテラシーの成果 を し
るためには私 たちは特別な実践活動 の,特別 な性格 をかんがえにいれなければならない」 ので
I
bi
d.
:p.
235)
。
ある。 この枠組 を彼 らは 「リテラシーの実践的説明」 とよんでいる (
た とえば, ヴァイ語が もちい られるのはお もに手紙 をかいた り, 日記 をかいた りす る とい う
実践 においてである。商人が手紙 をかいた り,農民が農作業や農作物の記録 をの こす ときにヴ
アイ文字 はつかわれて きたC ヴァイ語のよみか きがで きる者は.認知能力でいうと,形や数の分類 とい うカテゴリー能力,語や音節 を統合す る意味論的統合能力,出来事 をったえるコ ミ
ュニケーシ ョン能力 に優秀 さがみ とめ られたが,その背景 にはそ うした言語実践がある とかん
がえ られるのである。
エス ノグラフ イーにはい くつかの意味がある。 その うちの重要 なふたつは,調査の方法 とい
9
9
2)
。ス クリブナー とコールは, じっ さ
う意味 と調査 の記述 とい う意味 であ る (
佐藤郁哉 :1
いにヴアイ社会で フ ィール ド調査 をお こなった とい う方法論 的な意味 ばか りでな く,社会実践
とい う点か らも記述 をすすめていった意味で,エスノグラフイーの観点か らリテラシー を研究
した先駆的 な事例である ということがで きるであろう。
3-2.声 と文字の相互依存 (ヒース)
S.
B.ヒースはアメ リカ南部の カロライナの山麓の町, ロー ドヴイル と トラック トンで住民
リテラシー研究法 としてのエス ノグラフイー
65
の言語使用 について,1
9
6
9年か ら1
9
7
9
年 まで長期 にわた る調査 をお こない・その結果 を1
9
8
3
年
に 『ことばの使用法 -コ ミュニテ ィと教室 における言語,生活・労働』 として発表 しているO
この書はスクリブナ-& コールの著作 とならんで きわめて著名であ り・おお くの版 をか さねて
He
a
t
h,Shi
r
l
e
y
いる。また,トラック トンの住民の リテラシーについて論文 に もまとめているC(
B∴1
98
2=20
01
)
0
トラック トンとはアフリカ系 アメ リカ人の労働者が住 む町である。かつてはおお くは農場で
はた らいていたがい までは紡績工場ではたらいている。成人は一般的 によみか きはで きるが,
特 に読書や筆記の習慣 はない。 ここで よみか きを観察 したヒースによれば,そのあ りかたは特
徴のある ものであった。 ヒースは よみか きの活動 をとらえるため に・ さきに ものべ た ように,
リテラシーイベ ン トとい う概念 を提起す る。そ して トラック トンにおけるい くつかの リテラシ
ーイベ ン トを例 に してその生活の特徴 をえが きだす。
一例 として,保育園の入園のための診 断書 の提 出をもとめる手紙がついた ときの リテラシー
イベ ン トがある。ひ とり母親がその手紙 をもって玄関 にあ らわれると,ちか くに近所の人 たち
がや って きて会話がは じまった。診断書の とりかた,病院へのい きかた,学校- の入学前 のこ
と,近所のセ ンターの教 師の ことな ど,約 1時間 もつづいた。手紙のいろんな箇所が とりあげ
られ,「これは どうい う意味 ?」 とい う質問が なされ,それにたいす る回答がお こなわれた。
この事例 にみ られ るように, トラック トンでは文字 をよむ・
とい うことが単独でおこなわれる
ことは きわめてす くな く,人 といっ しょにわいわいいいなが らよむ とい う行為のほうが一般的
であるとヒースはのべ ている。た とえば新開は家族や近所の人のいる場所で,はな しなが らよ
まれるのが普通である。 ヒースは教会や会社 での リテラシーイベ ン トをと りあげておな じよう
な結果 を例証 している。 ひとりで よむ ということはむ しろ奇妙でおか しな行為 とみな されてい
るとい うのである。かずす くない単独の読書 とは, 日曜学校で聖書 をよむ ときと, こどもが図
書館の本 をよんだ り宿題 を した りする時だけであ る。 これ らの例か らヒースは 「トラ ック トン
では文字情報 はけっ して単独で成立 していない。それは会話のなかに再創造 され再言語化 され
(
I
b
i
d∴p.
4
51
)とのべ ている。
るのである」
ヒースのこの研究 は,い くつ もの リテラシーイベ ン トについて きわめて興味 ある事例 を提供
している。 ともすれば私 たちは文字 と音声 とを分断 してかんがえかだちだが, トラック トンの
例はそれにたいす る反証 となっている。文字 は音声 とともに存在 し,依存 しあい,浸透 しあっ
ている。文字 によるコ ミュニケー シ ョンは音声 によるコミュニケーシ ョンとともにあ るもの と
してかんがえるべ きである。おそ らく私 たちの社会の一部の リテラシーイベ ン トで もおな じこ
とが指摘 で きるであろ う。
ヒースのこの研 究は,長期 にわたる綿密 な調査 である とい う点ばか りでな く,「リテ ラシー
イベ ン ト」 とい う概念 をもっとも初期 にもちいた調査 であるとい う点で も画期 的な ものであっ
た といえる。
3- 3.印刷物の用途 (
パ ーセルゲ ー ト)
つ ぎに 「印刷物 のない世界」 とい うタイ トルで非識字者の事例 をえがいているパーセルゲー
トの近年のエスノグラフイーをみ ることにするO 彼女は大学の リテラシーセ ンターに籍 をおい
ているが,そ こにジェニー と ドニー とい う母子がたずねて きた。 ジェニーはちか くの町にすむ
アパ ラチ ア系住民 であるが, よみか きがほ とん どで きない。 自分の息子が学校 にはい って宿題
を もちかえって くるがみてやれない し,学校 か らの通知 もよめ ないので字 をまなぶ決心 を して
66
天 理 大 学 学 報
このセンターをたずねてきたのだった0本来なら大学院生が教師になるのであるがパ ルセルゲ
ー トは,彼女たちのよみか きの学習 を記録 し研究 したい とい う条件 で,その教育 をひきうけ
9
97
年に発表 されてい
たoその後の 2年間の記録が このエスノグラフイーであ り,その成果は1
る (
Pur
c
i
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l
Ga
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,
Vi
c
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o
ia:1
r
997
=2001)
0
ジェニーはほとんどよみか きがで きないが,別のかたちで文字 を 「よむ」。それは文字の内
Ma
xe
l
lHo
us
e
」は彼女に とってコーヒ
容ではな く,色や形や大 きさをよんでいるのであるo 「
ーを意味 したoなぜならいつ もつか うコー ヒー缶のうえに,この 「
標識」があるか らであるO
夫は屋根職人で彼 も非識字者であったo Lたが って息子の ドニーは文字 をよむという習慣のな
い環境のなかでそだったことになる。
パーセルゲー トにとってもっとも印象的であったのは,文字 をまなぶ とはただアルファベ ッ
トや単語のつづ りをまなぶだけでな く, さまざまな印刷物の用途をまなぶことで もあるとい う
ことであるoあるとき,彼女はイギ リスへ旅行 にでかけ,旅先から簡単 な言葉 をつかってかい
た絵 はが きを ドニーにだ した。アメリカにもどってか らたずねると, ドニー もジェニー もそん
なものみてないといったo絵 はが きの写真 のようすなどを くわ しくはなす と, ようや くジェニ
ーがおぼろげにお もいだ した. しか し彼女はひっ くりかえ さか で,文面 をよみ もしなかった
のであるoつ まり,手紙やハ ガキが どうい うつかわれ方をするのか とい う知識がないか ぎり,
そこにかかれている文字は意味 をもたないのである。
もうひとつ別の例があげられているOある時,その リテラシーセ ンターの工作室で ドニーは
ki
t
e)
」 をつ くったOほかのこどもたちもおな じようなタコをつ くりたがっているよう
「タコ (
にみえた。そこでパーセルゲー トは ドニーにタコのつ くりかたを記録 して冊子 をつ くり,ここ
の図書室にのこ しておいたらどうか提案 したo Lか しそれは ドニーにとってまった く理解で き
ない ことだった。 ドニーにとって工作 とは, 自分でつ くるか人か ら直接 にお しえて もらうもの
で,けっ して本 をみなが らっ くるものではなかったか らである。「
僕がお しえてあげる。僕が
いなければ先生がお しえてあげればいい」 というのが ドニ-の回答であった。
文字社会 にい きるこどもは,文字 をまなぶ まえにすでに印刷物の用途 について学習 してい
る。パ ーセルゲー トはみずか らの体験 にもとづいて, この ことが実証 された とのべ ている。
「
就学前 にこどもがか きことばについて学習する事柄 は,すべてその機能や価値 についての学
習によって事柄 とむすびついている」 というのが彼女の結論である (
I
bi
d∴ p.
4
07)
。文字 をよ
みか きする習慣のない家庭でそだった ドニーやジェニーにとっては,文字 をまなぶ とともに,
文字のかかれた印刷物のつかいかたをまなぶ必要があった。 とくに小学校 にはいったばか りの
ドニーにとっては,文字の学習はほかの生徒 にはない困難がつ きまってお り,それが彼の学習
困難の一因になっていた とかんがえられるのである。
同時 にこのパーセルゲー トの事例 で興味ふかいのは,非識字者の生活がい きいきとえがかれ
ていて,けっ して否定的 にだけとらえられていない点であ る。 ジェニーは字 はよめない もの
の,料理やキル トが得意である。それらは文字な しで もうまくやっていけるものであ り,必要
な時には友人や親戚 にきいて情報 を しいれていた。夫は屋根職人で,おな じく字の よみか きが
で きなかったが,仕事上その必要はなかった。テ レビや ビデオをみるのがす きで,歴史や自然
史に関心があった。 また ドライブ, さかなつ り,狩猟などもす きで,友人や親戚 をよく訪問す
る。こうした行動やつ きあいにおいて, よみか きがで きるかで きないか ということはジェニー
i
r
r
e
l
e
vant
)
」なのであったo
の言葉 によれば,「どうで もいいこと (
S・ライルはこれ まで非識字者についてステレオタイプが存在 していたという (
Ly
l
e
,S.
L.
:
リテラシー研究法 としてのエスノグラフイー
67
1
991
=2001
)
。それは非識字者は依存 的であ り,よわい存在であ り,失敗 をおか しがちである
というステ レオタイプである。 しか し,非識字者は自分 自身の生活の創造者であ り,かな り生
産的な労働者であ り, ときによると地域の リーダーで もあることを紹介 しているoパーセルゲ
ー トの事例 もこうした主張 をうらづ けるひとつの証拠 になるであろう0
4.エスノグラフイーの可能性
うえであげたリテラシーのエスノグラフイーのフィール ドは, リベ リアのヴァイ社会,アメ
リカ合州国のある町のアフリカ系 アメリカ人住民,おな じくアメリカのある町の非識字者であ
ったO これ らはほんの一例であって,最近の研究例 をみると,世界各地の諸集団におけるリテ
ラシーが と りあげ られてい る。エ スニ ックグループにおける二重 リテラシー (
bi
l
i
t
e
r
ac
y)
,
非識字者 ・半識字者 と文字 とのかかわ り,性 とリテラシーとの関係 など,いろんな問題がテー
マになっている。 リテラシーのエス ノグラフ イーの可能性 をさぐるには,そ うした研究テーマ
やその成果 を総合 した り,分類 した りすることが必要であるが, ここではまだその課題 をはた
せていないので, うえでみた 3つの事例 にもとづいて,私見 をのべ ることに したい。
,
大分水嶺理論」 にみ られるメデ ィ
これ らのエスノグラフイーの影響 として, まず第 1に 「
アの二分法 (
あるいは多分法)にたいする反証 をつみかさねて きた とい うことがで きる。 ヒー
スの例でみたように,声の文化 と文字の文化はけっ して分割 されているわけではな く, じっさ
いには重複 した り連続 した りしているものであった。あるいはパーセルゲー トの例 にみたよう
に,非識字者 はけ っ して能力 的 にお とってい る人 たちで は なか った。 リテ ラシー研究者 の
B.ス トリー トはこう した事態 をさして
「コミュニケーションの回路 における声 と文字 のちが
いは過去 においては過度 に強調 されす ぎて きた。今 日では研究者たちは社会的な脈絡 における
それ らの重複,混合,多様 な機能に関心 をもっている」 としている (
St
r
e
e
t
, Br
ian: 1
993,
p.
4)
。エスノグラフイー研究は多様 な文字の使用例 を提示することで,声 と文字 を分割的では
な く,連続的なもの として とらえかえす うえで,おお きな役割 をはた して きた といえる。
こうした研究はまた,従来 ともすれば画一的,単一的にとらえられて きた .
)テラシ-の概念
に多様 さとゆたか さをあたえることになったOおな じくス トリー トは 「
現代の都市的社会 にお
vemac
ul
ar
) の』 リテラシーを研究することは,国民国家や近代教育 シ
いて 『
その土地固有 (
ステムによって もた らされる画一性の圧力 にもかかわ らず, リテラシーの実践 と意味が豊か さ
と多様性 をもつ ものであることを証明 してきた」 とのべている (
I
bi
d∴ p.
1
)
。 リテラシーとは
けっ して 「
人間」一般の活動 として とらえられるべ きではな く,個性 をもった個人や集団 との
かかわ りにおいては じめて とらえられるものである。事例研究のつみか さねは, リテラシーそ
の ものの法則や構造 を一般的にあ きらかにするものではないOむ しろ多様 な事例 をつみかさね
ることによ り, リテラシーがふ くむ多様 な内実 をあ きらかにす るとともに,その輪郭線 をひと
つづつ えがいてい くことがで きるといえる。
そ してふれておかねばならないのは,第 1節でみたように, これまで文字の学習過程 として
しか とらえられてこなかったリテラシーの研究範囲をより拡大 し,文字の使用過程一般 を問題
にするようになった ということである。それは学校か ら日常生活-,教育学か ら社会 (
言語)
学へ と,関連する領域 と学問分野 をひろげてきた。
リテラシーをエスノグラフイー として研究することはまえにものべたように,わが国ではま
だほとんどお こなわれていない。 しか し 「
多様 な リテラシーの硯実」はここにも存在 している
はずであ り,研究の可能性はおおいにあるはずである。たとえばこれまで被差別部落や在 日韓
68
天 理 大 学 学 報
国 ・朝鮮人の非識字者がみずか らのおいたちをつづ って きたが,エス ノグラフイーによってち
が った角度か ら文字 とのかかわ りがえがかれ る可能性がある。あるいは最近のあた らしい識字
教育の対象である 「
新渡 日者」 とい うエスニ ック ・グループにおける文字 とのかかわ りの特徴
をテーマにす ることもで きようo彼 ら ・彼女 にあっては出身国 によって, 日本語の文字体系 と
のかかわ りかた もおおい にちが っている○ さらに障害者 にかかわる .
)テラシーのエス ノグラフ
イーがかんがえ られる。視覚障害者,身体障害者な ど,それぞれ障害の ちがいによって文字へ
のかかわ りもちが うはずである。
あるいは,別の領域 として 「
超」識字世代 ともい うべ き 「
音楽 ・テ レビゲーム世代」の .
)チ
ラシー といった研究 もかんがえ られる。文字 とのかかわ りは個 人や集団 によって多様 なのであ
り・ リテラシーのエス ノグラフイー もまたその多様性 だけあ りうる。そ ういった意味 で,研究
の可能性 はおお き くひらかれている とい って よいであろう0
5.エ スノ グラ フ イー と権 力
しか しエス ノグラフイー研究 は リテラシーの多様性 をえが くだけではな く,文字 をめ ぐる社
会の抑圧 とい う問題性 を同時 にあ きらかに し, メデ ィア批判の視座 を提供す るものでなければ
な らない。その ときに手かが りとなるのは近年,いろんな角度 か ら論 じられている 「
権力」概
念である。
リテラシー研究者のなか には権力概念 を もちこもうとす る研 究者 もいる。そ うしたひ と り,
B.ス ト1
)- トはエス ノグラフイ-を評価 しつつ も,同時 にそれは権力 をあぼ くもので なけれ
ばならない とい う。
この ようなす ぐれた, また理論的に洗練 された リテラシーのエス ノグラフイーをよむ とあ
きらか になることは, リテ ラシーは還元主義的な 『自律』モデルがい うような中立の技術
ではな くて,認識論,権力,政治学 といった基本的な道具 をふ くむ社会的, イデオロギー
I
bi
d.
:p.
9)
。
的な実践活動 である とい うことである (
彼 はこれ を 「イデオロギーモデル」 とよんで, リテラシー研究のあた らしいモデル に しようと
している。
いっぼ う, リテラシー研 究 を社会的な権力構造 において考察す ることは, フレイ レには じま
る批判的 リテラシー論が とくに強調す る ところである。 ここにおいては非識字者は社会の なか
の 「
被抑圧者」 と規定 され,文字 をまなぶ ことは社会 を変革 し自由をもとめるための認識行為
となる (
Fr
e
i
r
e,Paul
o:1
972=1
984,p,
1
9)
. フ レイ レのながれ をひきつ ぎ,い まも批判的 リテ
ラシーを提唱する研 究者たちがいるが,その ひと り L. アンダー ソンと P.アーヴインは従来
のエスノグラフイー研 究が さまざまな事例 をあつめて きたことを評価 しつつ も,それは 「
解釈
学 的」 にとどまっていた とす る。権力構造 を視野 にいれたエス ノグラフ イーを 「
批判 的エスノ
グラフイー」 とよび,つ ぎの ようにのべ る。
人間がつ くりあげる意味の網 の 目を理解 しようとする解釈学的エスノグラフア- とはちが
って,批判的エス ノグラフア-は,ある利害 関係か らつ くられる社会構造や有利 さをうみ
だす諸条件 を検証す ることによって, どうしてある意味の システムが存在するのかをた し
Ande
r
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on,C.
L.&Ⅰ
Ⅳi
ne,P.
:1
993,pp.
858
6)
0
かめ ようとす るのである (
リテラシー研究法 としてのエスノグラフ イー
6
9
では リテ ラシー とい う日常的実践のなかで どの ように権力 (
構造) をとらえればいいのか,
うえの論者 にあって もかな らず Lも定式化 された図式が提示 されてい るわけではない し,効果
的な分析がなされているように もみ えない。 ここでは試論的に権力の所在 を 4つ にわけ,その
分析 のための課題 を指摘 してお くことに したいOその 4つ とは, リテラシーの主体,文字 メデ
ィア,言説,研究者 (
エス ノグラフア-)である。
まず, リテ ラシーの主体 として登場す る人間 は,白紙 の状 態 にあ るわけで はな く,経 済,
悼,民族,障害,出身等 によって,すでに不平等 な位置 におかれている。 ブルデューの用語 を
つかっていえば,いろんな言語の使用者 は言語資本や文化資本の所有者 として競争や選別の場
にいる とい うことである。それ らの不平等 な配分が どの ように してお こっているのか,その構
造 をあ きらか にす る必要がある。
プラン ト
(
1
9
9
8-2
0
0
1
) は,
「リテ ラシーのスポ ンサー」 とい う興味ふかい概念 を提示 して
いる。彼 は リテラシーをはばひろ くかんがえ,文字の よみか き以外 にも簿記, コンピュー タ,
法律 な ど,高度な よみか きか らなるいろんな もの をかんがえている。そ して リテラシーは土地
とおな じくい まの経済体制のなかでは利子や利息 をうむ商品であ り,教会,家族,公教育,企
業 といったスポ ンサーによって提供 される ものであるとす る。 リテラシーはそ うしたおお きな
スケールでの経済的権力 と関係づ け られねばな らない。彼 はせ まい意味ではエス ノグラフ イー
とはい えないが,おお くの 「
詳細 なインタビュー」
(
i
nde
pt
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Ⅳi
e
w) によって,生活の履
歴のなかでスポ ンサー とリテラシーが どの ようにかかわっているか調査 をお こない,その うち
のい くつかの例 を提供 している。それは, リテラシーの場 にある人間が もつ言語資本,文化資
本 を, よ りひろい脈絡でかんが えてい くうえで,おおいに参考 になるものである。
リテラシーをめ ぐる権力構造 はすでに存在 しているだけでな く,エス ノグラフイーのなか に
あ らわれる具体 的な諸事象の微細 な構造のなかに もみいだ されるものである。 た とえば森本郁
代 は,エス ノメソ ドロジーの方法 をつか って,地域 日本語教室のなかであ らわれ る 「
先生一生
徒」 とい う権力関係 について検証 してい る (
森本郁代 :2
0
01) 。そ こで材料 としてつかわれて
,
いるのはボランテ ィアの ミーテ ィングであ る。その分析 か ら 「
先生 一生徒」 とい うカテ ゴ リ
ー化がいろんなや りかたでお こなわれていることを実証 し,それはたんなる 「
役割」 関係では
な く,無意識の うちに行使 される権力作用であると結論づ けている。 この ようにマ クロな次元
ばか りではな く, ミクロな次元 に もひそむ さまざまな権力が検 出 され るべ きであろ う。
二番 目は,文字 メデ ィアである。文字 とい うのは中立的なコ ミュニケーシ ョンの道具である
とかんが えられが ちだが,けっ してそ うではない。 どんな文字 を選択す るのか とい うのは, こ
とばをめ ぐる 「
階級闘争」 の結果である。点字 を公的 な文字 としてみ とめるか どうか, 日本語
の表記 システム と して漢字かな まじりにするのか ローマ字 にす るのか,あるいは学習対象 とな
る文字 言語 を 日本語 にするのか外 国語 にす るのか といったことは,ある文字使 用か ら利益 をう
る受益集団 とそ うではない非受益集団 との力関係 の結果 として さだめ られる。
た とえば 日本語 の表記 システム として漢字 かなまじりがあ るが, これはすでにこれにな じん
でいた りここか ら利益 をうける受益集団 と, この使用か ら利益 をうけなかった り不利益 をこう
むる非受益集団の力関係 によってその形が さだめ られるものである。外 国人, とくに母語 に漢
字 システムをもたない外 国人に とって,漢字 かなま じりシステムは きわめて習得 に時 間のかか
る不経済的な文字 システムである。あるいはかな文字 に対応 を した点字 システムをつか う視覚
障害者 にとって も意味 のない ものである。 こう した漢字かなま じり文の もつ問題性 を近年, ち
っ ともす るどく指摘 しているのは, ま しこひでの りであ る。かれ は
「
『
い まの漢字か な ま じり
70
天 理 大 学 学 報
システム とい う巨大な文化のめ ぐみ をうけられないひとたち』 とゆ-いみで 『日本語』のはな
せる外国人 と 『日本語』のはなせ る盲人はつなが っているのだ」 とのべている (ましこひでの
り:1
9
9
3,p.
1
6
3
)
。
識字教育をめ ぐる議論のなかで も,最近 ようや く文字の もつ権力 に目がむけられるようにな
って きた。これか ら文字 をまなほうとい う非識字者にとって,それはまさに切実な問題である
か らだ。そ うした過程でた とえば,漢字 にルビをふろうとい う提案がなされた りもするように
なって きたOこれは一歩前進 といえるが,問題 はこれで解消するものではない. これまで 日本
語の表記 システムについては,ローマ字,かなが き,漢字かな まじりなどをめ ぐってながいあ
いだにわたる国語国字論争があった。これをも視野にいれなが ら,非識字者 にもっともふ さわ
しい民主的な表記 システムこそが もとめ られるべ きであろう。 ましこは 「
現代の識字問題 とい
う課題 にとりくむ研究者 自身が漢字の権力性 にあまり重点 をおいてない」 と指摘 しているが,
そのとお りだといわざるをえない (ましこひでの り :1
9
9
7
,p.
5
4
)
O
三番 目は,言説 (
デ ィス コース)である。権力の所在 を言説 にみいだす というのは, フーコ
ー以来の構築主義的な見方のひとつである。 リテラシーと言説をどうむすびつけるのか, この
P.ジーの議論である。彼は言説 を 「言語,象徴,モノの使用法,ある
点で参考 になるのは J.
いは自分が社会的に意味ある集団やネッ トワークの一員であ り,社会的に意味ある役割をえん
じているとい う感情,信念,価値観,行動の,社会的にうけいれられた総体」 と定義 している
(
Ge
e
,J
a
me
sP.
:1
9
9
6
,p,
1
31
)
。 この定義では,言説 をテクス トとしてだけみるのではな く,
よ りひろい生活形式 としてみているといえるO この言説についてジーは家族等の第一次集団で
習得する第一次言説 と,それ以外の学校,職場,会社 などの集団で習得 されるいろんな第二次
言説 とを区別 している。 ここで リテラシーとは 「
印刷物 をふ くむ第二次的言説のマスター」 と
される。印刷物のかわ りに絵 画,文学,映画,テ レビ,コンピュータなどのマス ター も,別の
I
bi
d.
:p
.
1
4
3)
。 こうした理論枠 をつ くったうえで,ジーは さま
リテラシーということになる (
ざまな場所 における言説同士の対立,葛藤,排除を検証 しようとしている。たとえば学校 に基
礎 をおいた第二次言説 は,ある少数者の生徒 たち (
た とえばアフ リカ系 アメ リカ人の生徒 た
ち)が もちこむ第一次言説 と衝突 し,それを排除 しようとするものである。 こうしたジーのか
説のなかにイデオロギーや権力の関係 をあばいてい くうえで,ひとつのモデルになるとお もわ
れる。
最後は,そのエスノグラフイーを記述する研究者 (
エス ノグラフ7-)であるOたとえば文
字の学習を している非識字者のエスノグラフ イーを記述するという場合をかんがえてみること
に しよう。 このとき研究者は,文字の世界 にい きる識字者 とい う立場,あるいは文字 をお しえ
る教師やボランテ ィアという立場 をはなれることはで きない。 こうしたときに,エスノグラフ
イーを記述するとい う行為 自体が逆 に識字者の立場 を補強するだけにおわることはないだろう
か。あるいは文字 中心主義の現実 をうみだす ことにつなが らないだろうか。
1
9
9
8
,2
0
0
1
)はこうした問題意識 を追求 している。彼 はサイ- ド
文化人類学者の太田好信 (
のオリエ ンタリズム批判 をふ まえつつ,これ まで 「
現地の人々」 を表象 -代弁するとい う文化
人類学のいとなみ-エスノグラフイーが, じつは植民地主義 とむすぴついていたこと,そ して
それは植民地主義状況に加担するひとつの契機で もあったことを,いろんな例か ら証明 してい
る。い ま文化人類学の立場が 「
現地 の人 々」か らきび しくといただ されてい る。「
誰が,い
つ,何 を目的に して, どの ような主張 をお こなってい くのか」 といった発話のポジシ ョンの と
リテラシー研究法 としてのエス ノグラフ イー
71
いなお しが もとめ られてい るのである。で は階級, ジェ ンダー,人種 ・エスニ シテ ィな どの理
由に よ り従属状態 におかれた人々 (
サバ ル タン) は語 ることがで きるのかo この といかけ にた
いす る太 田の見解 は苦渋 にみ ちた ものであ り,私 たち もす ぐに回答 をそ こか らひ きだす ことは
で きない。
本稿 では リテラシーのエ スノグラフイーの可能性 をさ ぐって きたoその可能性がおお きくひ
らかれていることを私 は しん じるが,文化人類学が現在 ,逢着 しているの とお な じ困難 な問題
を共有 してい ることも,同時 に確 認せ ざるをえないのである。
参
考
文
献
(
著者 アル フ ァベ ッ ト順)
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沢有作 ・植原彰 ・柿沼秀雄 ・伊藤周訳 『
被抑圧者の教育学』亜紀書房
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=柿沼秀雄訳 『自由のための文化
行動』亜紀書房
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日禎吾訳 『
未開と文明』岩波書店
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デ ィスコース-談話の織 りなす世界』 くろ しお出版
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997村岡晋市訳 『プラ トン序
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4番内三郎訳 『
読み書 き能力の効用』晶文社
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995芋阪直行他訳 『
読み書 き障害の克服-デイスレクシア入門』協同医書出
版社
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唐須教光訳 『ことばの民族誌 一社会言語学の基礎』紀伊国屋書店
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5『
(識字 )の構造 一思考 を抑圧する文字文化』勃草書房
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6 「リテ ラシ-研 究の視座 一単一的識字観か ら多元的識字観へ 瞳 古屋大学教 育学部紀
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997脇浜義明訳 睡 識字社会 アメリカ』明
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」『解放社会学
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3 「差別化装置 としてのか きことば-漢字 フェティシズム批判序説
研究』第 7号
」「E]本史」の知識社会学』三元社
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和彦 ・高儀進訳 『人間拡張の原理-メデ ィアの理解』竹内書房新杜
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9『
外国人労働者迎 え入れの論理一先進社会の ジレンマのなかで』明石書店
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91「リテラシー研究の動向 と課題 一認知能力論 か ら権力関係論へ」 日本社会教育学会編 『国
0年 と日本の識字問題』東洋館出版社
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0 「地域 日本語教育の批判的再検討 -ボランテ ィアの語 りにみ られるカテ ゴリー化 を通
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正 しさ」への問い-批判的社会言語学の試み』三元社
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8 『なぜ 人は書 くのか』東京大学出版 会
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9 『識字運動 とは-匡‖
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8 『多文化教育一多様性のための教育学』明石書店
野村雅 昭
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漢字の未来』筑摩書房
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91桜井直文 ・林正寛 ・槽谷啓介訳 『
声 の文化 と文字の文化』藤原書店
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0『多文化 .多民族共生社 会における地域識字 ・日本語学習活
大阪市 地域 日本語教育推進委員会 2
動一大阪市地域 日本語教育事業報告書』人阪市教育委員会
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0『ニューカマ-の子 どもと日本の学校』国際書院
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8 『トラ ンスポジシ ョンの思想一文化人類学の再想像』世界思想社
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01『
民族誌的近代-の介入一文化 を語 る権利 は誰 にあるのか』人文書院
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小沢有作 (
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91『識字 をとお して人び とはつ なが る-かながわ識字国際 フ ォー ラムの記録』明石
書店
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暴走族のエス ノグラフ イー-モー ドの叛乱 と文化の呪縛』新曜杜
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2 『フ ィール ドワー ク一書 をもって衛 に出 よう』新曜社
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8巻 一 日本 語 と文明』 中央公論社
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