現代建築ヤブニラミ中谷正人

COLUMN
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◆連載ー Vol.14
執筆者プロフィール
現代建築 ヤブニラミ
千葉大学建築学科卒業、
『住宅
特集』『新建築』編集長 を 経 て
中谷 正人(なかたに・まさと)
1948 神 奈 川 生 ま れ。1971 年
1994 年からフリー編集者。
1999 年∼ 2014 年千葉大学客
中谷 正人(建築ジャーナリスト)
員教授。木の建築フォラム理事、
日本建築学会建築文化事業委員
会幹事
関東大震災後日談
交室(名前 が 渋 い!)、そしてどういうわけか 理容室 が 揃ってい
フィンランドの 応急仮設(?)住宅
とし、6 人 の 大工 が 4 週間 で 1 棟 を 建設可能 なログハウスの 建
たことが 大 きな 特徴 である。
一連 の 同潤会 アパートは 震災復興 ではあったもの の 、新し
設 システムが 開発 され 採用 された 。
耐火建築 の 必要性 が 環境 を 変 えた?
残念 ながら私 がいた 頃 の 大浴場 は 利用者 が 少 なく、予約制
い 都市居住 のプロトタイプを 提案し、 そ れがの ちまでも 評価
バス 、トイレ、 キッチンなどは 住居内部 ではなく、数棟 の
関東大震災( 1923 年 9 月 1 日)による木造校舎 の 倒壊 や 火
でしかも 毎日 お 湯 が 沸 いているわけではなかったし、社交室
されて いる。 また 、 フィンランドには 緊急対応 の ために 建設
住戸 によって 囲 まれた 中庭 に 共同 の 施設 として 設 けられてい
災 によって 多くの 子 どもたちが 犠牲 になり、 これを 契機 に 全
が 集会所 として 機能して いる 以外 はす べ て 閉鎖 されて い た 。
されながら 伝統建築群として 保存 の 対象となった 集合住宅 が
る。 中庭 が 菜園として 用 いられたのは 、 まさに 戦後 の 混乱期
国 の 学校建築 の 不燃化 が 進 められることになった 。
初 めから設置 されていたエレベータは 戦時中 の 金属供出 で 撤
ある。 ヘ ルシンキ 市内 にあるカピュラの 集合住宅 もついでに
の 状 況 を 表 わし て い る。 そし て 8 年 間 に 538 戸、 1 戸 平 均
しかし、第二次世界大戦 への 参戦、戦後 のベビーブームに
去 されてしまい 、解体 されるまで 復活 することはなかった 。
紹介しておきたい 。
1.8 室、居住者数約 3,000 人 とい われて いるが 、実数 として
よる 人口 の 急増 などによってこの 作業 はなかなか 進 まず 、 そ
都市居住 という視点 からみると、 けっして 広くな い 世帯向
1917 年、 ロシアから 独立 はした も の の 、 カレリア 地方 は
は 1,500 人程度 だったようだ 。 戦後 の 混乱期とはいえ 、 それ
のうちに 新建材 を 原因 とするシックスクー ルが 顕在化し、 さ
けの 部屋 ではあったが 、子 どもはある 程度成長したら 単身者
返還 されず 、 そこの 住民 たちはヘ ルシンキに 殺到した 。 すで
でも 1 室 に 3 人 が 暮らしていたことになる。
らには 資源 や 環境 の 問題 までが 絡 んで 、木造 の 学校 へとシフ
用 に 移り住 み 、 スープの 冷 めない 距離 で 独立心 を 養う、 そん
に 工業化 の 波 に 押 されて 地方 からも 続々とヘ ルシンキに 職 を
建設時間短縮 を 最優先 されて い て 、 いまで 言 えば 応急仮
トし始 めたのが 現代 である。
な 提案 までが 含 まれていた 。
求 め てくる 人々 が い た 。 当時 の ヘ ルシンキ の 人口 は およ そ
設住宅 で ある。 ところが 、 1960 年 に 市 が 建替 えのコンペを
木造化に反対 する理由 などないどころか、遅きに失したので
橋本 の 言葉 によれば 、「内 の 子」と「外 の 子」を 区別してい
20 万人。 そのうち 1 万人分 の 住居 が 不足していた 。
発表したところ、建築家グル ープが 反対運動 を 起 こし、調査
はないかと思われるのだが、これまでの学校建築が RC 造だった
たという。 建設当時 は 賃貸 であり、大卒程度 のサラリーマン
そこで 、早急 に 、しかも 廉価 に 大量 の 住宅 を 供給しなけれ
をした 結果、構造体 がまったく無事 で あることが 確認 できて
のにはこのような理由が背後にあったことを忘れてはいけない。
で は 入居 できるような 金額 で は な い 高級 アパ ートで あった 。
ばならなくなった の だが 、 エ ベ ネ ザ ー・ハワードの 田園都市
70 年 に 補修計画 が 発表 され 、現在 でも 入居 の 希望者 は 後 を
幸 か 不幸 か 、 まだ 残っている 木造校舎 がチラホラ 見受 けら
佐野利器 の 弟子 で 構造家 の 横山不学 や 文学者 の 坪内逍遥 な
構想 が 取り入 れられた の で ある。( つ い で な がら、同じ 構想
絶 たない 。
れるが 、 ほとんどが 廃校 となって いる。 2020 年 に 新省 エ ネ
どの 文化人 たちも 住 んでいた 。 おそらく周囲 は 木造平屋 かせ
が 1950 年 から始 まるタピオラにも 取り入 れられている)
東北地方太平洋沖地震被災者 の ため の 仮設住宅 と 比較し
基準 が 施行 されたら、こんな 木造建築 はできなくなる。 重要
い ぜ い 2 階建 ての 住宅 がひしめいていたに 違 いないから、青
カピュラはヘ ルシンキ 市 の 中心部 から 北 へ 5 ㎞ の 距離 であ
てはいけないだろうか 。
文化財 に 指定 されるまで 、何とか 今後 も 生 き 延 びて 欲しい 木
洟 をたらした 子 どもたちに 較 べ れば 、 お 坊 ちゃん 、 お 嬢 ちゃ
るが 、当時 では 都心 から 遠 すぎるという理由 で 、路面電車ト
ともかく、これで 戦前まではひとまず 最後としよう。次回 か
造建築物 は 枚挙 にいとまがない 。
んたちの 世界 であったのだろう。
ラムを 設置 する条件付 きで 開発 の 許可 がでた 。
らは 戦後( おそらく改 めて 第二次大戦後と言 わなければいけな
一言愚痴 を 言 えば 、 すでに 重要文化財 や 国宝 に 指定 され
中庭には 樹木 が 生 い 茂り、夏 でも 中庭に入ると 2 ∼ 3 ℃は 気
建設 に 当 たっては 、 ひとつ の 住戸 に 4 世帯入 る 規模 を 基準
に時代を移 そう。
い 時代となったような 気 もしているが )
(続く)
て いる 建築物 が「既存不適格」となるような 法律、 あって い
温 が 低 かった 。 春 には 中庭中 ガマカエルが 飛 び 跳 ね 、夏 は 蚊
い のだろうか? 日本 の 伝統的文化 に 対 する 暴挙 ではな いだ
の 大群 に 団扇と蚊取り線香 で 対抗し、秋 には 銀杏 を 拾って 酒
ろうか 。 文化革命 がいかに 多くの 文化 を 破壊したことか 。 同
の 肴にし、冬 は 火鉢と石油 ストーブで 凌ぐといった 長閑 な 暮ら
じ愚挙 を 繰り返してほしくないと祈 るのみである。
し。 なにせ 電気容量 は 建設当時と変 わらず 10A 。 冷 えたビー
ルは 必需品 なので 冷蔵庫を入 れたらエアコンなんて 入らない 。
革新的 な 都市型集合住居・同潤会 アパート
もう 時 効 だ ろうから 書 い てしまうが 、 10A に 耐 えら れ ず
大震災を契機として生まれた建物で注目すべきは同潤会であ
20A のヒュー ズに 、勝手 に 変 えてしまった 。 このころはブレ
る。全国各地 から寄 せられた 義捐金を基に翌年 の 1924 年に組
ーカーなどなく、過電流 が 流 れると熱 で 溶 けて 通電 を 阻止 す
織され、500 棟以上 の 戸建て木造分譲住宅や RC 造 の「同潤会
るヒュー ズという鉛製 の 線 が あった 。 これを 電気屋 で 買って
アパート」が 十数棟建 てられた。 いずれも 都市居住という立脚
きて 入 れ 替 えたのだ 、 ある 時、定期点検 でこれが 発覚、こっ
点がしっかりとしていて、これからの 都市生活をイメージして設
ぴどく怒られてしまった 。 といっても 怒られたのは 橋本 だが 。
計された。近隣との 関係、ライフスタイル、ライフステージへ
退去 する頃、外壁 が 剥離 する危険性 があって 周辺 は 立 ち 入
の 対応など、現代でも通用する理想的な集合住宅であった。
り禁止。 そして 中庭 に「禁煙」の 立 て 札 が 立った 。 そ れでも
そ のうち の ひとつ 、 そして 同潤会 アパ ートとしては 最新 モ
かまわずタバコを 吸っていたら 管理人 が 飛 んできて 、 すぐに
デルの 1934 年製「江戸川 アパート」の 末期 に 5 年 ほど居候 を
やめてくださいという。 理由 を 聞 いたら、大元 のガスメータ
した 。 家主 はここで 生 まれ 育った 大学 の 先輩 であり、建築家
ー の 消費量と各戸 のメーターを 足したものと合 わない 。 だか
の 橋本文隆。
らどこかで 漏 れているはずだという。 即 タバコをもみ 消した 。
現代 の 一般的 なマンションと比較して みると、階段室 など
超 高 層 が 建 ち 並 ぶ 新 宿 区 に ありな がらまったくの 別 世 界
の 共用部分 が 広 いこと、世帯向 けと単身者用 のふたつのタイ
で 、 私 の 元 を 訪 れたフィンランド の 建 築 家 た ち は「 Jungle
プが 階 を 別 にして 用意 されていること、大衆浴場、食堂、社
Office 」と呼 んで 喜 んでいた 。
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同潤会江戸川 アパート 解体数年前 の 写真。 小庇 はほとんど 剥落し
ていて 、 まるでゴーストタウン 。 手 すりが 黄色 いところに 居候して
いた
カピュラ 全体。 1920 年 に 建設 された 、魅力的 な 町 である
同潤会中庭。 ちらっと見 えるジープは 私 が 15 年間愛用した 車
同潤会にて:
『東京人』で 同潤会特集を組 んだ 時、改装した 74 号室
で 橋本文隆(左)、前野まさる(右)との 座談会風景。床を剥 がして
地面にじかにコンクリートを打った。冬は底冷え、夏は蚊に襲われる
通路 の 反対側 は 住人 たちのコミュニティの 場。 かつては 炊事場、 サ
カピュラ 建設時 の 図面類 はすべて 建築博物館 に 所蔵 され 、修復 の
ウナ、トイレなどが設置され、さらに野菜畑であり運動場でもあった
時 の 大切 な 資料となっている
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