YMN002301

自讃歌宗祇注の周辺
首
O
石
禄二
・
慶安元
歌
と
|
ところで、
年末
㌔に
る
た
祝子氏の温泉寺本の解説・翻刻︵大要国文九︶である。
入
に絵
詳
寛 て
木 の
る
みとし
( 意
赤潮信吾氏の鍋島文庫本をめぐる論︵国語国文四セ巻 一0 号︶ と林
木があ
えば、
後の中
0
容
交 い
通の同
内
る
れ
こ 0機ム五に、
識
や
語
刊 元 か
後刷水
段
紐
この画本 は相者もかねがね関心していたものであり、
の
他
上下二
に
拠
かたがた、多少の知見を記してみたい。尤も、結論や見通しをいう
駅本文
の
利
二年板
に遠く、不明なことの列挙に留まるのであるが、大方の御 示教、 と
多種
ら
て
い
って
くに未見の伝本についてのそれが得られれば誠に幸いである。
の 内容は
| 刊本・神宮 A 本など
そ
いものもあ
に限っ
が
以
ら
る
の
典
と
自讃歌の注にほ周知のように刊本が流布しているが、
﹁天の下長閑にて﹂で始まる序文︵版によっては持たな
三年版
のとみ
終
三
ら
・
の
本以来
、
心 寛
成っ
ら
に
注
こ
咋 五三年、自讃歌注に 関して注目すべき二つの論考が一
の
宗祇
一セ
自讃
れ
も
う
た
と
まえがき
ホされた。
る
)
絵
万
刊
本
一 刊本自讃歌注など
)
永
十
水
十
活
一 字
1@@
l
l
常
れるが、たとえば島原松平文庫本・天理図書館吉田文庫本 ・北駕
一
これは、刊本宗祇注 ︵以下紛らわしいので、特に必要
詣 で、前章末に記した写本とは別種なものである。
は
ところが、たとえば神宮文庫本︵同文庫三一セ ・セ一 0
A本と略︶などは、作者名表示・その掲載順 ・献本文 歌の掲載
注文など刊本と全く同じといってよいものでありながら、上
構成をとらず、神宮 A本の場合、俊成な﹁夢 かとよ﹂歌 の注文に
いて
﹁こⅠろあらはなり中上筆に不及なり又 たとへは物 いひかはし
たる人のかほりはてⅠ見たるものかともがもはて過るを見てか
ねてちきりし事は夢にてもやあるらんう つⅠとはきらにきめぬ
気色也 なをうらむるかなり﹂
対する刊本注が﹁ こ Ⅰろあらはなり﹂ですべてというような明ら
っ
写本は、次項に述べることも含めて再点検する必要があろ,。
写本宗祇注1谷山 A本|
な時の他
二糖、袋 織、江戸中期 写 の一冊で、 内 ・外題・宗祇 識伍m.興 すべ
八 X 一八
、同 本は紺地
しているのは谷山窟博士蔵 の一木にすぎないが︵他に多いであろ
が 、稿者自身が﹁写本宗祇 注 ﹂の再点検中のため︶
全線 で秋草図を描いた表裏組 に墨付五八丁、縦横二三
佃い ︵以下、谷山 A 本と 略称する︶。この本は、ある いは﹁ 右以
津嶋明神⋮﹂の識語を持っているべきかもしれない︵注 ⑦参照︶。
下の点で明らかに相違する。
な どのよ
容は序と注文部とから成り、刊本宗祇注と 類同のもの であるが、
作者名の表示が﹁後鳥羽院 御製︵刊本は太上天皇︶﹂
うに異なり、その相違は式子 ・慈円・宮内卿・離騒・ 寂 蓮 ・秀能
一0 名に及ぶ。
稀
通光 ﹁更に又 ﹂・ 俊成 ﹁
﹁古川
り臥
の出入については、自讃歌洋一般に関することとして早 く回黒川日日
たる﹂・﹁散りにけり﹂がないが、すべて刊本と逆である。 二一首
にくる﹂・寂蓮﹁月の行﹂があり、各人の﹁月冴ゆる﹂
加 注された歌に三首の出入がある。
歌人掲載 傾が定家・有家および 雅経 ・具 親の順で、 そ れぞれが
西行以外の
して残されていることを示そう。宗祇注 として一括処理きれてい
確認は、刊本宗祇注注文本文の確定のためだけにも必要 な手続き
あるが、少なくとも刊本の前提となった写本の形態お よび内容
刊本の逆順である。
な異文を持つ。最も長文の異文は神宮A本の場合この 一箇所のみ
の
認
ぅ
に
て
玉
内
以
イ
で か
二
現 在 までに 確
、刊本Ⅱ神宮 A 本 として扱 う ︶の﹁ある 注 ﹂部を除く 注文の写本
とや注文本文からも、むしろ刊本の写しとみられよう。
廣木︵資料館写真による︶などは上 ・不 二分冊構成をとっている
ら
文
こ
お 不 順 宮
に
の
と
る
享氏も指摘している︵国文学政四二一︶。
二 各歌人どとの歌の掲載傾が刊本と一致しない。
ホ 注文部において、刊本は宗祇江都に続けて﹁ある注 ﹂などと標
示して他説を六三首に及んで引用付加していることは前記赤潮氏
指摘の通りであるが、この木は﹁ある注﹂相当部を全く持たず、
それ以外の宗祇注部は刊本のそれと一致する。
以上の イー二項は谷山 A本の自讃歌本文が刊本とは別 系 のもので
あることを示そうし、ホは谷山 A本注 十 ﹁ある注﹂Ⅱ刊本注という
関係を予想きせよう。そこで、宗祇注部をさらに検討 してみる。い
ま、漢字とかなの違いや分部分の語句の誤脱などで、単 なる書写上
の誤りと認められるものやそれに準じぅ るものを無視すると、 一セ
0首から出人歌二官分を引いた一六セ首の中の 一三二百までは岡本
注文は全く同じか、ほとんど同文と見てよい。他に一 二話桂皮の
入れ替わりが数百。明らかな異同としては谷山A本の方が長文のも
の一三例・刊本の万が長文のもの四例・全く別文三例ということと
なる。
谷山 A本が長文の場合は、たとえば
心は竣成御年たけて身もよはり涙もと ムまりかたきを あらし吹
みねの紅葉によそへいへる也古今にあ へすちりぬるもめちはの
行商定めぬわれそかなしきと侍るなともこれより収め はせてい
かに
哀
深
もくおもひ
見
侍
っる
へ
Ⅰ
きけ
にて
やA
︵
本
谷文
山、
注
嵐
吹
歌
︶
﹂
俊二
成く
﹁
対して刊本注文は傍線部が
ぬ無
にく
な
我、
愁直後
に
と
で
の
り
なれは斗
いさ
也
へて
るこの歌はこり
と
︵は
下り
略あ
︶き
︵谷
A
本
山注文
経、
﹁雅
白雲
歌
︶
の﹂
対して刊本は傍線部が無いが、これも
す
る
注
釈
分を無用あるいは誤解を同
招
前く
のか
関と
係判
と断
A
本
持
られよう
。の
谷方
山が長い注文
右を
の
よつ場合
う
で
60
場
ム
歌
本
、
加
一
の
津
逆に刊本の方が
長ロ
いは
注
文文
を
持を
つ注文
部
︵
家ロ
隆
﹁いかにせ、
ん文
注
﹂末
の尾
場に
合独
︶
頭に呈場
示ム
す
る
した注釈・評語を付加する
宮内
場卿
合︵道元
﹁
唐
一
一
う
部 に
み
あ
冒
立
に
B
保田 A
系
に
A
A 本と
四
歌
A
A
・叡山文庫 B
︵後@ ︶
と同 じい。
注
十六年 霜
とすべき
稿一・自讃
と
と孝範注
注は 一種もみあたらず、 す べて谷山
﹂ 八 ﹁文学﹂昭 五四・ セ V 参照︶
り
系
がそれに
A
ず 成立し 、
て付加
さ ,@
ト
に、
注 ﹂・﹁ 人
を 移し、その際に必要な多少の注文の修司を行ない、
の
出させて出来たのが刊本の注文であったろう。
A水
﹂
B.
ることは神宮 A 本以上であろう。
上
三
A.
A
ことか
ら、
谷山で系
の本ろ
文も諸
伝本。
を得て確認する必要
し
刊、
の
付加または竹田化と見そ
るて
の
が穏当のな
見
方
あ
う
る
こ祇
とは
の
識語を逆にた
A
木
どの
る注
な注
文
ら
とを
、
す宗
谷
山
本﹁照
ある︶
注
ぼ
許されるのではあるまいか。︵補説刊参
支子傾向
三手 を温
泉寺
,久
保田お
本|
いい
たて
方の
が全般的|な
なお、加津歌の有無につ
記
し
て
の
のであろう。
本のみが刊本と同じく、他はすべて谷山 本
の場合
刊本﹁
と同又
じ自讃
歌 かく﹂・
画本間で注文が別と見秀
ら
れ出
るさ
のは歌兵
額
も
能﹁
であが
る。と
ころそ
が、れ
﹁自讃
歌﹂三
の伝本
についてみる
刊
ム
﹁﹁
こむと﹂の三項のと
そも
れ、
である
、
は
首
の
﹂・
叡山
糸本文
を特殊とするならば、他は谷山 水系 刊本系
注が
此
木
﹁には
秋
な
こし
の地本にあの
りで
﹂、
と具
注体
記
す水る
も
﹁
心
あきらか
具
親な
﹁
が
ぅ
り﹂、 二分でき、いずれも相当数の伝本がある。︵別掲出
にはA
谷
本山
の注
秀
龍に
百
三は
が
り
﹂
れて世にふる事へ
はわ
か
りあ
とお
たれ
めは
し
あと
なも
を要あ
するに、谷山
刊本との加江 本文は別系
対する刊
秀本
欣
能首
注
二
にに
はは
簡単なり
注貝
が類
施し上て
、
、しし
かもた
谷山 が
本のっ
先行は動かせまいから、﹁文明
、で
こあ
のる。
は
同趣旨注
の
﹂﹁
をあ
引る
用するだて
け
旬 ﹂な
以前に
︵お。
そらくかなり遡るであろう︶谷山 本 宗祇
合もA
谷
本
前山
提の考えは少しも妨げられ
い
次いで別本系自讃歌本文に信を置いた宗祇
さらに、刊注
﹂
本の
注型
は正
以
﹁
広外
あ
な個
に
る
ど
の
人、
名を挙
たり﹁
人
﹂あ
・
人
る
﹂
﹁などの形で他
説つ
をい
示す場合が九
肩
に
とるべ
きも︵
のを注
﹁ある
﹂ま吸
た個人
名を挙げ
きな
れく
てと
いも
る三
見られるが、その中の少
首
文中に
収
久保田 A 本 ︵後記︶のみが、寂蓮歌の場合は温泉寺本
三首については、 通光歌の場
歌 に特殊なものを持つ
︵
雅﹁
経
な
便があろう。加津
孝範注
て
﹂の場合︶がすべて9
で
れ
は
は
丁あ
寧り
に、
なこ
後記
︶をら
別とす
れば注
、前釈
記田人
歌 よ
れ 錦
る
も
と
か 的 本
り
に
場
げ
て
と
本 で
ほ
体的な由縁を辿ることが問題とな ろ う。それは谷山 A水系の示す 宗
宗祇注成立の形態を以上のよう に考えると、次ぎは注文内容の具
が、 紛らわしい場合もあり数値に揺れが生じてもやむをえない。
ものは含めるよ う にし、趣旨共通また近似は含めないようにした
﹁共通﹂の中には同文・ほぼ同文・特徴的解釈また語句
の共通する
支子文庫 A木 四九 官 ・書陵部氏 朝 写本 四 0 首 ・ニ手文庫 B本 一八
祇注そのものと刊本系の示す﹁あ る注 ﹂関連 注とに二分されるであ
ろうから、まず、後者を考える。
都大学 A本 ・久保田 A本 ・書陵部明応 二奥本などが 少 し ず つ
首 ・温泉寺本一六百・ 孝範注丸首以下兼載 注 ・九州大 学 A本 ・京
説を言う ための他説引用、無責任な参考引用など他説の扱いはさま
当面の問題に関連を持つと思われるこれらの伝本の中で、書陵部氏
当然のことながら、多種の自讃歌注の中には、それを否定して自
ざまであるが、宗祇注全般を通じてそれらは肯定的なものとして、
朝 写本は宗祇注を中心として少なくとも二種以上の注から成るもの
るものは宗祇注の形で示され、﹁ある注﹂の形をとらないだろうか
って重要であると同時に微妙なものを持つ。即ち、自説に包含でき
掲稿の追記に記されたもので、﹁ある注﹂との強い関 係 はそのまま
外するとすれば支子文庫A木が際立ってくる。この水 は赤潮氏が前
注成立後にそれを 墓 としてなされた聞書と思われろ節 があるので 除
であるが、簡略化された宗祇注相当部を持っことからも、刊本宗祇
また、考慮に価する問題説 として扱われているという原則を指摘し
らであり、特定の自讃歌佳一本の説を肯定また否定したからといっ
首肯できるから、﹁ある 注﹂と共通注文を持つ四九百 の中の九官 の
ておく必要があろう。その意味から、前副﹁ある注﹂は宗祇注 にと
て、全的にその個人また流派との合背を意味しないという宗祇注の
注 はこの木以外のどの自讃歌往 にも見られぬ独自共通側 であること
を補足し、そのことから確実に宗祇注 以前に独立して 存在し、宗祇
総合性である。
て所説を引用される人物に正応四
きて、刊本注には個人名を挙,け
次ぎに、支子 A本以外の注で、支子 A木 と共通して﹁ ある 注 ﹂に
注に 影響を与えたものと認めるに留める。
回があるが、これは明示されているから除くと、﹁ある注﹂,﹁あ
一致するものを仮にすべて支子
回 ・東殿 ︵
東 二郎も一応同じとして︶三回・木戸孝節 一回・清厳一
8本﹂・﹁注 ﹂として分立された六三首の場合が対象となる。いま
の残余は一四百分となるが、たとえば﹁ある注 ﹂が三つ の事項を含
﹁ある注﹂
その六三首に関するものを管見に入った主要な自讃歌注と比較して
み、その中の一項のみ支子A本 と共通するという類もあるので、 そ
A 本によったとすると、
共通の有無を調べると次ぎのよう である。なお、比較に当たって、
五
形
ひ
田
で
や
っ
し
注孝
範
一一
A
の
@
注
の
み
手
泉
00
寺湿
u
大
一一一一一。
見支
子
神 の
本 み
B"- "一
0
ロ目
イま
@乙
注兼
載
一一
孝は
趣ロ
@ 趣
孝は
こ 間
の 衣 ぬ や
面
秋 い
の
を か
め
ロイ
文 を見出だしえないので、
の自讃歌注 にも相当する注
上表について、有家﹁こ
表示から外す。
セ 一一・一︶本 Ⅱ私称 ﹁神宮B本﹂。各
注 であり、何からでも痕跡
ぬ秋の﹂の注は歌題のみの
は加 筆 によ る頭注補記なので、除外した万が穏当かも しれない。
木自体については必要に応じて以下に記す。なお、 表 中、温泉寺本﹁思ふこと﹂歌の ィ ・ロ唄
写本・孝範注は大東急文庫本および神宮文庫茂三一
奥本・宗太Aは 東大付属図書館茂三三,
0兼載注は内閣文庫本・三手 B は三手文庫蔵 ︵敵城︶本 ・明応二は書陵部蔵 ︵
伏一 三八︶明応二
る︶は、目下のところ、ど
部以外は支子 A 本に見え
三首の﹁ある注﹂の一部︵一
ぶ﹂・俊成立﹁惜しむとも﹂
づがきや﹂・道県﹁霞むす
の﹁ある注﹂の全部、院﹁
み
具親 ﹁詠めよと﹂の五官
ある﹂・定家﹁駒とめて﹂
宮内卿﹁片枝さす﹂﹁心
なお、俊成立﹁下もえに﹂
ぎのよう である。
自讃歌注の関係を示すと次
重ならない﹁ある注﹂と他
ねらも含めて、支子 A本と
/¥¥
""""
奥本・温泉寺は城崎温泉寺本・九人Aは九大付属図書 館蔵 ︵五四四・
シ ・ハ六︶元徳二年頓阿
シ ・二五︶め木柄奥本・久保田Aは久保田淳氏蔵近世
0ィ,ロは 一首の﹁ある注﹂内に事項が分かれている こと、ムは 共通性が弱いことを示す。
ム
ク 一山里に
思春旅
末 詠
有家
ク
田
歌題
神文に
本子よ
のA 8
みも
と
月
す 枯
め や
0
0@
す
家隆
,万
A-" @
、
8
0
宮内
謹謹ク
ク
0
0@
慈 式
田 子
通見
﹂︶・書陵部二木などになく、神宮B本にのみある部公 で、同本注
歌および﹁詠めつち﹂の孝範注は、大東急本 ・三手本 ︵﹁三手A本
放 させうると思われるので兼載注そのものを除外する。関連して同
衣﹂における兼載注との共通は前記共通総数からみて温泉寺本に吸
を残さずに前引可能であるからこの項目を除外する。 続けて﹁旅
で、ここでは存疑として一応処理しておくこととする。
も少ない数であり、九大 A. 京人 A木は次章で扱 うこ とでもあるの
木間の関係が注意きれるが、これらは右表 においても 総数において
ものでは京大 A 1元 大 A、九大 A| 明応 二 と九大 A 本 を 媒にして 三
らいって、これも宗祇注に 先行したものとしてまちが いない。残る
と思われるが、常緑・宗祇の関係・
本 ︶の注文内容とも矛盾を生ぜず、文明年間、それも早い頃のもの
に ﹁叉 ﹂として他説を引用したと見られる場合が少なくとも一五百
手 B木の注文は、それ自体の注文が基本であるが、各歌の注文末尾
久保田 A本も温泉寺本および三手B本に吸収させられる。一方、三
確実であるが、今は﹁孝範注﹂と﹁ある注﹂の関連についてである。
往者・成立年次など未詳の点が多く今後の課題である。
てこれら宗祇注に 先行した筈の自讃歌 注は ついて、右記 のように 加
ぬ ﹁ある注 ﹂が残ることとなる。三手B本の本文の問題 を 始めとし
り、また五百および一部分の注文の三首には何の由る所 も見出だ せ
三手 B本が少なくも指摘され、九大 A本 関連三木にもそ の疑いは 残
以上を要するに、刊本﹁ある注﹂の来由は支子 A本 ・温 泉寺本
共通総数 か
交 は役柄部を持つとみられるので、孝範注を除外する。木戸孝範は
にわたってある。右表 ﹁聞 やいかに﹂の場合がその一つである。お
右表の独自共通部
宗祇注部 にも引かれる人物であり、それと宗祇注と交渉することは
そらく三手B本は二種類の独立した自讃歌注を前提としていると思
示祇注に先行
注文である。総共通数の多さとともに、今のところ、め
自注文であり、﹁又 ﹂部ではない﹁春の雨の﹂注文もまた独自共通
文庫 蔵 ︵五一・一二・ 外 四八八︶ 本 ︵私称 ﹁山 B本 ﹂︶ および支子
て推測きれたものに当該する独立した一本で、鍋島木以外に比叡山
よ う に除外したが、赤潮氏が前掲稿で 鍋島木との比較 から已往とし
ては右記の
したと見ておくより仕方がない。この注の加江者に関して当面何の
文庫本︵九一一・一四・
なお、久保田 A木は宗祇 注 ﹁ある注 ﹂との関連におい
手懸かりも持たない。また、温泉寺本はその奥書および赤潮氏が前
基本要素となっており、看過できぬ貴重な本である。
われるが、﹁間 やいかに﹂の場合、﹁ある注﹂に完全に適合する独
掲稿で赤きれた東大史料編纂所本の奥書などから東宮縁の注文の大
は章節 注 との関連が深く、 孝範注が持つ﹁或説 ﹂﹁ 抄 ﹂ ﹁中入侍る
ま た 、この 木
J 五四、私 称 ﹁支子B 本 ﹂︶ 注 文の重要な
坪道教による聞書と見てよいようで、再縁の新古今聞圭日︵内閣文庫
セ
八
一セ人の作者 村 そして一七 0 首の 歌 と注文
最後が﹁元徳二年九月日終功之
の 一文があり、次ぎに
共通注文を持つ︵このこと大略本瀬氏も指摘︶。そし てその中の八
国文研究室本︵ 私称 ﹁宗太B本 ﹂︶および、享保十四年の書写奥書
にや﹂など他説明引 一セ箇所の中一四箇所までに同文 ぽぼ同文の
箇所までが考範注と久保田A本にのみ共通してみられ るもので他の
を持つ清心女子大黒川文庫本は作者付 ・頓阿奥 がなく、 久保田淳氏
頓阿利﹂の 奥 となる 一冊で、京大
自讃歌江 に見出だせない。このことから久保田A本は 考範注に先行
上の成立年次も、加津者も残念ながら求めかねている現 状である。
云と ﹂について、二条派としてありそうな事としながらも、﹁ 為世
次のみを記している。この本については既に黒川氏が ﹁面白からぬ
蔵 一本は歌および注文のみで末尾に﹁明暦三四二月
吉 日 ﹂と書写 年
ただ、右記一四箇所の中大箇所が九大A本と、 五箇所が 温泉寺本と
といふ 人 ﹂の物言いや、有家﹁朝日影﹂歌の注文から頓 阿注 とする
し、革籠注に具体的影響を与えた注 といってよいであろぅ。それ以
類似重複することは指摘しておいた方がよいであろう。予測すると
本 ・その変型 本|
A
﹁世人﹂や﹁他家にはこと威儀あれとも不注
注 ﹂は ﹁自讃歌﹂
、歌人名表
、兼 載注本,刊本
﹁或人 ﹂
也 ︵邪径 ﹁いたづら
調 で、注文中に他説を挙げること極度に少なく、﹁人 ﹂
に ﹁か﹂・﹁にや﹂などもかなり用いられはするが墓木は ﹁なり﹂
に極端に遠い。注文は概して大らかで末節に走ることがなく、文末
温泉手木・三手B本 ・明応二本などに比較的近く
示 ・各歌の掲載順は京大 A本 ・谷山A本に極端に近く、考範注本
に 影響きれるがその逆はないと考えているからである︶
ておく。﹁自讃歌﹂は独自の流伝があり、﹁自讃歌
が、これは﹁自讃歌﹂のことで﹁自讃歌注 ﹂のことで はないと考え
光 ﹁更に又 ﹂歌に﹁我等が読候自讃歌には別の歌が入 て候﹂とある
A水系であり ︵尤も、通
ことを控えておられる。
東大
﹁め本紙注﹂
この木の歌人 順 ・山人三首の有無は谷山
ころは、支子A注 ・孝範注 ・温泉手木常緑注 ・久保田A 注など、そ
れぞれが随伴類同注を持ちながら別箇の注であるのに、 しかも相互
に共通要素を持ち合っていることの意味であり、それは同一歌の注
A.
文 だからということを越えて、あるいは祖注的な玉の が辿られぅる
宗祇注1元夫
かということである。
四
宗祇 注 ﹁ある注 ﹂の系譜を以上のように整理した上で、
そのものについて考えることとする。
前掲の九人 A本は﹁天の下長閑にて﹂で始まる序文の直後に﹁ 此
序は後烏羽院百年はかり後荒世 と芸人のかきてと曲目讃歌の中にも
面白からぬ歌も数多有 へき欺能 と御覧 し分 結ひ候は れ事 肝要 云と ﹂
に ﹂︶﹂・﹁世中の人種々この儀 とも申せ 共 更に 此昂 の 心 にあたらす
︵定家﹁年も経ぬ﹂︶﹂までを拾っても 一0 例に充たず、 しかもその
すべてが右のように簡単に否定されている。一方、﹁
師 説 ﹂﹁当家﹂
点を加えると、九大 A木は二条派で頓阿と近く、指導的立場にあっ
た柑承
思われる。
て宗祇に先行する、たとえば尭孝 あたりが直接に関与し
加圧・補訂などの意味を含めてとしてよいように
の中の少なくとも二例は﹁文明四年﹂の奥書を持つ岐阜市立図書館
いにふさわしい。ちなみに、他説として掲げられ、否定された注文
あるが、注文内容においても 一セ0百中で同文四四百
や、また右記 山 B 本 との関係から九大A 本に近似するこ とは確実で
京人 A本 ︵書陵部鷹四四五木は透写 か︶は前記歌人名表示以下
いずれにせよ、 祖注的な﹁自讃歌頓阿 注 ﹂があったとし て、九大 A
本 ︵九一・二八 楠堂本Ⅱ以下私稲﹁岐阜 A 本 ﹂︶に 一致し、それ 以
六百、他に一部分共通・類似、文は別であるが趣旨の特徴 的な点は
﹁当流﹂などの語は五例みられ︵このこと黒川氏も指摘 、定家 ろ
外を引かないところは孝範注や温泉寺本常緑 注 ・支子A本注・久保
同じなど 三セ首も加えると 九セ 首までが共通するもの を持つ注文と
木 はそれに最も密接するはずといってもよいであろう。
田 A本注るよりも早い成立か、または、それらを容易 に無視できた
いうことになる。ところでこの両木の前後関係は大略 九大 A本の注
歌人への待遇表現を考慮しても一流一派の椙当 な地位 0人物の物 @
為世 との関係から頓阿自身は無理としても頓阿
あるが、次ぎ
﹁当流﹂ な
て ﹁師説﹂
宗夫 A 本では
一
のことは決定的であろう。即ち、九大A 木には﹁師説﹂
どの舌口説が五箇所あったことは前記の通りであるが、
﹂の注も京
0話ともどもその痕跡を全く留めない。他に九大A木 が ﹁ことの外
﹁師説﹂のニ箇所・﹁当家口伝﹂一箇所が全く欠落してい
ほぼ同文一
人物を予測きせる。
本の万が長いことや、その他の点からも・言えることで
二 二回﹁ 二
よ も ﹂注文︶﹂
からの相承が可能な人物が期待されよう 。また、 注 ⑥ に記した 山 B
本は注文の中に﹁あすか め家などには︵武平﹁生きて
﹁冷泉家㌍。には︵定家﹁年もへぬ﹂注文︶﹂などの他に
一0 例 が 九大 A 木と
粂家には︵より︶﹂として他説を挙げ、自らを当流として自説を主
張 しているが、﹁二条家訓 ﹂とするものの中の
の秘事﹂としてながながと注記する﹁年もへぬ︵定家︶
︵京人A 木は
共通し、さらにその九例は京大A 木 とも重複共通する
﹁︵前略︶
我所 をもて人の上を善悪ともにはかる事 これに かきら
大木では全く無視きれている。﹁師説﹂の残る一つは
する例がある︶。以上のことに、前章に記した、祖法に先行するか
す 大切 成 へきよし師説 也 ︵宮内卿﹁月をな ほ ﹂九人 A 本 注文︶﹂
他 に一例丸太 A木 と共通しないで単独に山B 木 ﹁三冬 五ヒ﹂と一致
の点、 祇注に 先行する 諸注 との類似重複の点、さらに当 本ハツ輿望日ハリ
@
Ⅱノ
@
一O
のように並べてくると、﹁桐の葉﹂の京人A 本の﹁しせ っ﹂は少な
くとも九大 A 本のい う ﹁師説﹂でありえないし、ある
であるが、京大A大相当部は
﹁︵前略︶わか所をもつて人の
うへをせんあくともにはかるこ
血脈は九大 A本 と京大 A本 との間で奇妙にすり椙 わり えたのであっ
例は実は注文内容がいずれも誤解によるものである。一
尽大A本の加
もはや明白であろうがそれだけではない。先に無視されたとした四
を持つと思える。重要なるべき﹁師説﹂の有無から九大A水先行は
となって、以下全く別の注文が続く。このことは極めて重大な含み
秀歌体大略・百人一首にそれぞれ二種類の伝宗祇注があり、それら
から自己を胎動させ始めた原木的宗祇注と 考えてみた いのである。
即ち、京大 A本を、宗祇が九大 A 本注に密着しながら、
A 木 ︵書陵部本も ︶は﹁宗祇在判﹂の四字を持っている
た。そして先行する九人 A本注者にたとえば 亮孝が 憶測 され、京大
必 要 もない。
とこれにかきらすたいせつなるへきか︵下略︶﹂
注者はたとえ﹁師説﹂であってもその当否を判断する批判的な思考
の間での宗祇の具体的な役割が必ずしも主体的なものとは 見られな
この本は
しかもそこ
のであった。
力の持ち主であったとせねばなるまいし、さらには﹁師説﹂を継承
いことに不審は残るのであるが。
なお、 静嘉 堂本など一群の本にふれておく必要がある。
しながらそれを名乗らないということの中には相承の否足 または離
脱 ということも含みうる筈である。尤も
一一種類の注の
合成本 であり、その前半に相当するのが谷山A水系宗 祇注 ︵刊本系
同文庫松井本︵五二一・二一︶で、同類本も多いが、
読給ふなと泰人も侍り然 とも当流には自問自答の歌な るよしい
ではない︶であり、後半部に当たるのが九十代水系 注 である。 た
﹁是は世におしなへて沙汰する歌山内裏に秋の間といふ
所にて
へり︵下略︶﹂︵式子 ﹁なかめわひね﹂歌丸太A本注文 。ちな
A水系の注文
で、そのことから九大A本 と京大 A本 とから択一ムロ成し た 注があっ
だ 、その中で一 0 首 ほどの注文がまちがいなく京人
この部分を京人A本は傍線部と﹁然 とも﹂を欠き、他は全く同じで
たかもしれないのであるが、前半部が宗祇注 であるとこ ろから、お
みに傍線部は岐阜A本のみに共通する部分︶
﹁当流﹂を残している︵﹁あたる﹂と誤写されてはいる
が︶。また、
そらくその択一は宗祇注後になきれたものであろうと推 別 して、七本
ノ
式子の﹁桐の葉も﹂注で九大A本は﹁此歌 さま Ⅱ秘事あるよしい
祇注の生成を追 う当面の対象から外し、注に多少の説 明を記すに 留
める。
へるにや﹂で始まる長大な洋文を記すが、京大A木は﹁ この歌いろ
ノⅠ世の中に申ことにやしせつをたつぬへし﹂ですべて である。こ
宗祇注の生成1束
大 A本と谷山 A本|
かは侍らす見るさまの休也か Ⅰ る歌は只 心 にふかくそめ て けに
さる事そと心を付 て見時︵へき 地 深山の秋の タ の心にて 見る へ
叶へ ︵し ︶
人 ﹂説で ﹁興を添 ふ ﹂
き︶よしとそ侍りしまことに槙の葉の露う ちしめりて 霧 たちの
ほるさま太山の心にて
私意によって㈲| ㈹に区分したが、㈲は﹁ある
ところに共通した視点があり、㈹は事象の継起でなく総 休 として 深
自讃歌 注九
山桃 タの 心とする視点で、そこから﹁見る様の休﹂と規定きれる
︵﹁師説﹂﹁当流﹂の変化も興味深い︶。これに対して
㈲深山の休西山は常に義正市ふり雲 おりなと更はれます くなき
大 A 木は
をきわたして類なきをまたその興もはてぬにきりのたちのほり
よし 抱 いかにも山の感をいへる
そ其故は槙は深山にあるものなり都のタ むらさのうちそ Ⅰきて
もはんへらす深山の種のタ のさましてこの歌をは見侍 るへきと
致する。宗太 A 本は
わたりたるけしきをありのまⅠに諒 したまへるとそ﹂と記すのにム日
で、㈹の視点に鮮明に立っており、
ノ
として心もことは もを よ は
㈲ こ Ⅰろはまきのはの
1
を能ミおもふ へし㈹まことにおもしろくもさひしくもあはれも
ぬに 又 かたはらにはきりたちのほりたるみやまののふへ のさま
なりたういそく のうのことはりをおもふなりロへち の せつあり
とくに﹁ き
文明十年奥本宗祇注 ︵野中春水
底蔵本に拠り、ニは書ぽ都水︵ 五 0
で、﹁深山桃 タ のさま﹂﹁当意即妙﹂の点で㈲の視点、
・そうなる
と いへともしんようにたらす
㈲此歌を有人のいへるは村雨の露の面白く置 たるが其興もまた
らⅡ
/﹂の語から明応二年注との緊密な関係が留意され
一一
はてぬに霧の立そひて面白さをそ へたるよし申 とかや㈹師説 し
一・四一一一一訂
一︶
︶で
深かる へきにや掌記にもつくしかたくこそ
つゆきら
きら Ⅰとしてはのしめりたるをりしもきりのたちのほるさま
山 B木が﹁二条家に は 当座見え
也
て色とのふせいをづくしたるきまそとい へり㈹当りぅ の心はき
㈹此歌をある犬槙の葉にふれる村雨のおもしろかりしに又霞め
よる︶
明応 二奥本宗祇注 ︵吉田幸一氏
編、古活字版影印本︵笠間書院︶に
寂蓮歌 ﹁わらきめの﹂の﹁百人一首宗祇注﹂との場合
較 してみたい。
首共通する。いま、それぞれの宗祇注と自讃歌注 の関係注文とを比
ところで、自讃歌は﹁百人一首﹂と二官、﹁秀歌体大略﹂と一二
五
と﹁別の説﹂に㈲の視点は含まれるべきであろうが、
傍 線部の語句
一一一
政 ﹂と承け、刊本は前半に同様でありながら﹁ある注 ﹂に﹁后のし
后 Ⅱ遮光妹の愁傷とする説は自讃歌注 の地本では支子Aおよび温泉
うしゃり﹂としてそれは﹁遮光の妹﹂とする説を掲げる0ところで
㈲むらさめの名残の露真木の葉にやとりて英典たくめ なきにい
寺本のみが明示する。九天 A1束大 A|谷山 A の相承は確実であろ
は ㈲の視点が流入している感がある。
また 其 露もひ ぬに霧の立のほりて文典をそえたる心にや㈹これ
うし、そこに背ける異説が取り込まれ、この場合﹁大略 ﹂系説 は木
適 として退けられたものであろう。
も只 見るや ぅ の休にこそ
とする谷山 A 本に 、果して㈲の視点は積極的に取り上げられ、それ
東大 A木は宗祇 注、九大 A本は二条系ということの妥 当 さを示すも
なろ うか 。以上のことは第四章に記した九大A本から 一
尽大 A本 へ、
れのための個別的事象という谷山A本注の質的な止揚 があることに
書 も同︶・明応二本・山 B本 ・兼載注が故事として指摘 する。﹁大
山 A本以下は捨てる。そして他の自讃歌注 では温泉寺本 ︵新古
ム﹁
聞
注 では九大A本は採らず、全く同文の京人 A本は補 入して採り、谷
の故事の扱いをめぐって﹁大略﹂の二本は採り串本は捨 て、自讃歌
同じく院の﹁なき人の﹂歌の場合、その解釈に、高倉賦巫山神女
. のまきしく 一
刊提 となって
京キズ本は谷山 Aホ
全体的情調とそ
のとしてよかろうし、
略 ﹂でいえば Z. 中岡木の間に、自讃歌注 でいえぱ京 A本 と谷 A本
が ㈲の﹁見る様の体﹂に背かないとするところに、
いるといった P
つ舌口
いヰ
9 ぎウ
になろスフか。
のように思われる。そしてその迷いを生ぜしめたのはおそらくは常
の間に、故事の採否について一旦の迷いが生じたと考えるべきもの
歌の場合は端的である。土田将雄氏の説 ︵﹁詠歌主人 概 ﹂解説・ 笠
縁説 であったろう︵兼載注は妙に宗祇注と交差しない し、山 B本当
院 ﹁思 ひ出づる﹂
聞書院︶に従って、書陵部蔵本︵ 五 0 一・四八 0 ︶Ⅱ 乙本を先行宗
該部は時代が下がると見、明応二本は祇江より先行の根拠が得られ
次ぎに﹁秀歌体大略﹂の場合を検討してみるが、
注 とするなら
祇注、同蔵本︵ 五 0 一・四八五︶Ⅱ串本を後出宗祇
乙本 ㈲難波のうちは景気こそおもしろけれさひしき,
つらなるべし
俊成 ﹁難波人﹂歌の場合、関係各注は左のよう である。
なろう。
ていない︶。﹁思ひ出づる﹂歌の場合も常緑説補人 の可能性が強く
ている。自讃
ば、﹁思ひ出づる﹂歌の悲傷の原因を乙本は ﹁母 遠行の 時 ﹂とし、
中本 は ﹁慈鎮母 死の時﹂とし、紹巴妙 によって疑われ
歌注 では九大 A木は﹁後京極摂政﹂のこととし、京大A本も﹁後京
極摂政﹂︵新古今宗長 秘歌抄 8回︶、谷山 A 本も同じ く ﹁後京極 摂
煤
㈲戸人たくやに宿かりてとい ひてはすⅠろといはむためなり煤
の 心あ りた b心はす︵そ賠 Ⅱ底本注︶Ⅰろも同位戸人よりは
事をか りてすⅠろと天也㈹かやぅ のうちの旅懐おも ひ やる へ
し火 たく め ま人の家に旅ねしてあはれなるさまをかく読
にや㈲所は難波ふるき都にて小屋の盧火 に宿りせむ心思 ひやる
へし ︵刊本﹁あし
すふによせて﹂なし︶
引用が長くなったが、私に付した㈲部は場所の本意に基づく主意を
注した部分であろう。 Z本のⅢ㈹が中本 の㈹に総合 きれていよう
が、自讃歌洋三本には別に﹁旧都﹂の本意が注される。この要素は
串本㈲あ
る也 ㈹ すト ろとは心ならすよその事まてあはれに思入れて ぬ
他自讃歌注 には三手B木のみに見えるもので、三本の相承はやはり
確かである。㈲は﹁す Ⅰろ﹂の語義・用法に関する注 であるが、Z
は
Ⅰ袖な るな い ふ 心血 す Ⅰは芦の縁語なれはいへるなりたⅠ
Ⅰろと いふへし
木が縁語を中心にしての修辞技巧のみに終始するのに比し中本は傍
線部の直接の語義を注している。自讃歌江 三本の中で甲本の語義に
㈲難波の浦は昔仁徳天皇の都にてさしもめてたかりし所
なれと も今は心なきしりのみ盧火 たくやと成はてたる所に宿 を
最も近いのはいうまでもなく谷山A本であるが、それはまた確かに
九大 A 本
かりて お ほえ す 油のこほ ろ Ⅰとなり㈲ すち ろとは不慮なる 休 也
結
"口
'口
"
てきたことを支持こそすれ、妨げるものはないと考えろれる。
他例は略すが、以上、自讃歌外の宗祇注の検討は前章までに述べ
よう に思われる。
A, 宗太 Aから谷山 A または串本へという流れが最も素直な流れの
が最も谷山 A本注釈の情況場面に近く、温泉手淫を媒今 にして九大
﹁何となく︵兼載︶﹂﹁もよ
ほきれて︵温泉寺︶﹂の中 では温泉寺
かちにさやう にははなけれとも︵支子B︶﹂﹁所詮もなく ︵
山 B︶﹂
九 A. 京 A面注に関連を持つ。他の自讃歌注で相当部 を持つ﹁あな
わ う のみやこにて
l.
it
あしの す Ⅰ と表事のあれは縁にひかれて出たる詞也
宗太 A 本 ㈲なにはのうちはむかしにんとく天
しもめ てたかりしこれはりよしゆくのさまなりなにはのむか
きしも みやこにてあり し ところの ム﹁はあまの め しひたくかけ
一よま くらをして思ひかけぬこしろをいはんとてす Ⅰろにそ
のし はたるⅠかなといへり㈲ そ Ⅰ ろもおなしことなりあ しと
㈲す しろにそⅠろに何もしかる へきにや 是は 億人とい
れはす Ⅰ ろ と っ Ⅰけられたり
谷山 A本
んとて あしす ㌧によせてすⅠろといへるなりそⅠろに袖のし
たる㌧ とは 我う への事にはあらすしかも哀 ともがもふときの 涙
まことに 在雑 な 肺 倣を以上で了えることとする。
京人 A本山谷山
本し
A
試みた主意は刊
神宮 A本 Ⅱ刊本
い上げることであった。そし て、 兼貝柱を刷
本宗祇 注に 至る自讃歌注の本流を辿り、かたがた そ の宗祇 注に 先行
する筈の自讃歌 注 を節
とすると
一祖洋一山力太 A木し
口
注口
一四
①刊本は第一章記載の各本、谷山 A本は注⑦記載の写本類と比
校 した。ほとんどが 少異に留まるが、谷山 A 本は寂 蓮 ﹁恨わ
び﹂の歌だけがあって注文は全欠という一例がある。同 上手続
きによって刊本と同文の注文があったものと推定した。
A本については赤瀬氏が記きれた通りで、成立年次・加
往者についても憶測するだけのものを持たない。同氏の後考を
③支子
と考えるべきものと思われる。
すると、刊本系注文を基にした英人の講釈の聞書が親本 である
胎化されていること、全体に文章が不整であることなどを総覧
る。宗祇注を含んでいること、宗祇注6 ﹁ある注﹂も 同様に簡
る内容である。﹁宗祇注﹂﹁ある注﹂以外の別注もまま見られ
﹁的 とめて﹂の注はこの水と宗祇注 ﹁ある注﹂とにのみ見られ
られるものが四 0首に及び、その中の二百、定家﹁春 の夜の﹂
注および別注のムロ成であり、別注の部分に﹁あ注
る﹂相 些とみ
て宝永三年北条民明書写とわかり、注文内容は簡略化した宗祇
②書
陵成
部頑稿
民︶
朝写本︵敬二 一0. セ 一四︶は奥書相 当部によっ
︵紅
宗教
祇原注︶︵宗祇初稿︶︵宗
祇
︵頓阿,係
︶
︶︵
三手 B本などを推測したのであ
このような骨組みと、神宮A 本注 に先行した筈の他 注 として久保田
A本 ・支子 A本 ・孝範注 ・常緑注
っての推測であり、それが持てぬままに使用し
った。ただし、管見に入った諸本の中で、ある程度性格の見通しの
ついたもののみを使
なかった伝本もあり ︵岐阜A は九大 A に先行など︶、さらに未見の
伝本は数多いことであろう。使用したものも、より善本の出現によ
って本文の整 定 がぜ ひとも必要である。推測と称した所以である。
宗祇 注に 先行する とした 右掲 本や明応二木などの注文内容は、九
大A本に近接しながら妙に密着しないものがある。いきなりそれら
に単一本を前提するのは危険であるが、たとえば頓阿原注とでもい
ぅ べき祖往相当のものを予測してもよいのではあるまいか。
まちたい。Ⅰ二気付いていることを記せば、叡山文庫 B本 ︵
注
6人ははやよそへう つりたりさてははや祈 恋はっといひ てかれ
摘筆 にあたって、貴重な蔵書の閲覧を許された文中記載の個人お
五四・一・二ミ
⑥に説明︶の定家﹁年もへぬ﹂の注文に﹁冷泉家にはいのりけ
宿
よび公私の図書館に深くお礼申し上げるとともに非礼の言辞がなか
ったかを躍 れるものである。
新 古ム﹁
の
によそへてよその夕暮といへり⋮⋮﹂とあるが、この歌の 解釈
歌三 首にっ い 。
すべて谷山 A水系。注文は概して不整本文が多
最も近似し、 沖@いで九大 A本 ・宗太A本に近い。これらは出入
う つり⋮⋮﹂は特徴的な解釈で、
古注類も含めて他に類を見ないのであるが、支子A 本 の ﹁
される。注文冒 一頭部に﹁此歌は・・・⋮﹂﹁心は⋮⋮﹂の形意
で首
く 、誤字もあり ,、右記大悦文 のこととともに親本の間頒と推測
としてこの﹁よそへ
異女房人の万 へ何 たる 時きてよまれたる歌なりわれは としを へ
る 傾向があ り、文末詰も﹁なり﹂﹁べし﹂が中
心で﹁にや﹂の 癬は見られ ぬといってよい。また、注文中に
を断定的に述べ
ところがないであろうか。一休に山 B 本の仙家説の扱い
﹁叉 ﹂として 乱読を付加し たと見られるものが少なくとも一五
て尾上の鏑はよそのちきりとなる心なり﹂の前半部と北
@通する
めく節がないでもないのであるが、右のことがもし認められる
首 ︵﹁又 ﹂とし ないが他説 引用と思われるものが他にもある︶
は 曲解
ならば支子 A本注は冷泉家の系統に属する可能性がある。それ
についてあるが
語意に関 する注文三百を除く一二首の注文の
以外では﹁似せ物﹂﹁抜けたり﹂などの、どちらかといえば 連
事項や大意に 閲一するものは、すべて俗説・伝承話などを含めた
誤解とみてよい
にもあ
るⅠ気にはなる。また、作者名の前後に作者の伝記的記述を持
ないが、少なく ども岐阜市 五図書館 A本 ︵九一・二八︶の記述
歌臭の感じられる言辞があり︵﹁抜けたり﹂は宗祇 注
つところは 孝範 注や温泉寺本などとよく似ている。かた@
カ@
+@
ト
@
と四百、支子 A 木 と三首 共通するものを持っが、セ首は目下拙
文意不整 のためか、完全に一致する文章では
宗祇 注 に兄 付するものであることは間違いないと思う。
全﹂、裳紐・江戸期転写の一冊であるが、綴じ直しの時に表紙
りに見えるが、 右記の所副注文に共通の性格は、おそらく岐阜
﹁又 ﹂ 部 前引い 仙説が 、 一見、複数の注文からの抄出引用のよ
のいかなる注に も 見出だ せぬものである。これらのことは、
題妓紙 が整えられたらしい。外題と本文は別筆 、もと 素 表紙
A 本と 類同の一 本に拠るも のであろうと推測きせる。したがっ
三手文庫 B 本 ︵
歌以 ︶は縦横お ・の
Xoo
Ⅰ 糎 、外題﹁ 自 讃歌 注
一六五
終 ﹂とある。加津 歌は
﹂前引 の 三手B本関係部は、三手 B本と同
て、宗祇 注 ﹁あ-6%
か。本文末尾に﹁自讃歌 私 註
昔、不足玉首の中の四背は 別筆で ﹁ィ本 ﹂として 歌だ け 細細に
であるが、 ム
﹁、その﹁
又﹂部系の独立一木の存
木所司﹁ 又 ﹂ 部 ︵岐阜A 本類同法か︶所収本の二本ス分かれる
通光 ﹁武蔵町や﹂歌は完全天
可能性を持つの
落 。歌人
記入して貼付してある。
および歌の掲出順・歌人名表記などを総合すると明応一一
奥本に
一五
⑤
在
ら
拠
他
関知しないことと、﹁ある注 ﹂が三手 B 本の両方の 部 分か
-@"
丹を通暁 が 自 分の手棒︵後に温泉寺本と定着︶と比較して不審
を述べたとい ぅ解釈もありえよ うか 。ただし、この場合はその
Ⅱ
に引いていると見られるところから、一応、三手B 本を ソ
識語が印章段 書本注文と結びっく理由がない。いずれにせよ、
れたものであり、その成立などについては林 祝子氏の 一
Ⅲ掲
、同第三号︵ 昭 五二・九︶に﹁温泉幸蔵書紹介﹂とし て紹
崎 温泉寺本﹁月花葉 拾遺﹂は﹁芦屋ゼミ﹂同人の発見 こ
@,
カ
定が 是非必要な一本であることは確かである。
らいって 、誤 伝 はむしろ生じにくいといってもよい筈である。
深い興味を覚 えるのである。康慶・通暁・常緑の個人的関係か
しぅる 余地は ない筈である。逆に宗祇の名が全く見えぬことに
るか否かであ ろうが、本論で述べたごとく、私見によれば介入
考えにくい。 右奥書のいうところは、そこに東下野守が介入す
る注 ﹂が刊本系﹁ある 注﹂相当であれば﹁ 浜 豊後子康慶
別本奥書の流入であろう。その別本において、第二 頃 の
0 口 学識語が刊本系本文に関するものであれば、第二項
いろの事を考えさせる。まず、第一項の﹁文明十六年十二
一宿花押﹂ の奥書を持つ。﹁両部﹂は﹁百人一首﹂と﹁自讃
野州常緑法名 素伝 立御調相伝一流 下残書誌侍者 也 ⋮⋮ 四 万行者
﹂︵以下﹁Ⅲ A 本 ﹂と略称︶は 一
・此 両部 之聞書吏
讃歌聞書今 一
い。叡山文庫
せたと見られる温泉寺本一本しかないともいえな
文章に定着さ -
また、常緑 の自讃歌注が、通暁︵ 教 ︶が手控えを明応二年に
伝 を高 う ことになろ うし 、第四項の大坪 道暁の ﹁此ち,フカ
,
歌 ﹂であろう 。この木の自讃歌注は自讃歌の行間に細字木記さ
四頃 は
家集とは見えす﹂がそれを裏書きしょう。また、﹁東 下野
れた極めて 筒 単な 、それも歌題・詞書を中心にしたものにすぎ
自
の書いた自讃歌 注 ︵温泉寺本とは 別︶の一部が﹁ある 注
ないが、歌の 内容に触れた部分は大略温泉寺本注文に含まれる
︵五一・ハ 、外典五三九︶の﹁百人一首聞書・
て付加された未知の注があり、その﹁下野守﹂が書いた部
讃歌 注 奥書︵この木、捕者未見、同上所司による︶
大略従ってよいと思う。ただ、市瀬氏稿の東大史料 編 墓所
山 A 水糸注す 一と
刊本系注文との関係以外に﹁ある注 ﹂の関係は
谷
キ@
ん
しておく。ここには細部にわたりすぎるので記さなか つ-
に思ってはいる。いずれにせよ、この木も善大を得ての本
で述べてきた こと、また管見に入った自讃歌謡注からみて、
第二項﹁ある 注﹂の指す実態が問題点の一つであろうが、本論
る注 ﹂の典拠となり、三手 B 本は消去されるのが望ま
徴表からすれば、三手石本は両部に分離独立し、それ
のと共を
あ
う
「
文
よ
し」
守のの「後月
万誤あ は 」 い
ろ
成稿
自にきり
分 か 城 整
と
の 説と @ れば、奥書
といっ てよく、 孝範
関係自 ・讃歌注は存在
﹁ある荘﹂は宗祇に
であろ -Pn@o
の
束
こ
の
初
が 項
家
山
期
とこ ろで、温泉守
ろ
は西行歌︶﹂を﹁散
通じる が 、 他は谷山
抄 ﹂﹁ 有識﹂﹁三河
れたる にや︵慈円﹁
一箇所見える。﹁一
本 自讃献注が兼氏洋
らず訊 一ねたが今も所
の言と共 通する注文
﹁しめ置て ﹂歌の﹁
の 柏 哲注文に、西行
雄経 ﹁
・なれて﹂
照せ ﹂ の ﹁有説 ﹂は
と 一致する。﹁な る
響を
はので
が ﹁通光は源氏だから八幡と仰ぐ﹂趣旨であ・るのに温泉手
交 は﹁清和源氏の氏神が八幡で、遮光は村上旗 氏 だから 八
氏神といえ ね﹂という趣旨であり、それを宗補注﹁︵前略
幡は源氏の氏神なりとはしり侍るを化作者はむらかみ源氏
おはしませはいかⅠと木戸三州に尋ね侍しに・いつれの源氏
神も八幡のよし申され侍りき黙考歌 のこちら 猶う たかひな
や ︵谷山A 本︶﹂と較べると、宗祇注が﹁成読 ﹂ 群と 温泉
とを前提として成立していることは明らかで:その先後・
久
A保で
田あり、就中、 孝範注 はさら
関係は歴然たるものがある。その温泉寺本が影響を受けて
のが章節・支子 A.
保田 A本の影響を受けている︵本論﹁久保田A 本 ﹂ 項 ︶ と
関係になる。
あるもの、﹁
敵があり、その中から 脱女 一
また、この温泉寺本所収歌 と一,新古今聞書一︵内閣文庫本
とは五一首の共通
のものなどの注文を除くと三九百についての
注文が比較
かなり﹂だけのもの、穏やか・平凡すぎて特薇がなく比較
聞書﹂が温泉
る。その結果は相互に全部または特徴的な解釈の一致する
三 一首に及び、他の自讃歌江と較べた場合一
俊頼 ﹁うかりける﹂
とのみ共通する注文丸首を見出だしぅる。
さらに、定家﹁年もへぬ﹂歌の注に
一セ
いにい柏手きのに
ぅ入
承 本に氏 て )幅木
八を注
る
い 第
か 二
系
に
あ
る
か
が
吝
度 善
な 館
兼
豆
俊
成
範
注
に
、
な
を
文中に
条の禅
などと
ついて
黒川氏
温
た
管見に
は大東
茂人宏
A
・
保田
三
本
本のう 能明 」
寺もし不心)
歌を
受
二
本
ら
り
け
い
測
も
と
断
の
言
る
れ
そ
ら
敬
は
「有税
(
実
な
四
本
推
全くきなに
」に枚
刊本﹁ある 注
A 本ム -
よう
ではあ
、
、
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山 B本は少なくとも二種以上の注文の合成本と思われ るが、
があるよ う に思わ れるところから凡その時代は予測きれるが、
ことが窺われ、 それら他家の説を多少とも曲解しかれない傾向
して抄出し、それに対して﹁当流﹂意識を持っ人物の手に成る
にも記したよ う に二条・冷泉・飛島井をそれぞれ﹁家の説﹂と
在の本自体は江戸期の転写本であろう︶、また、山B本は本論
や ﹁面のま ト﹂の 類は無視されており、 一0四首も簡略化の傾
の各歌の注文の主として後半部に久保田A本の注文が認 めら
う順
に
らを
" 久るけ 本は
文明 一
寛参 三五古 A 首 O
で子行
と
安元・特をらし
鍋 異時かて)はは
照首 百一本に久
二系 つ A
なお検討を要する。後考にまちたい。
銅の ﹁限あれは﹂は道具の項に記される。0山人三
る。即ち、久保田 A本 一六八音は、注あるもの一五セ 簡単
そ
通光歌は四本ともに刊本系。0通光 ﹁尋ねても︵
新
八八︶﹂は四木ともに持つが、それとⅩ印を付した計
他 のいかなる自讃歌注にも見えぬ歌である。遮光Ⅹ印
﹁自讃歌﹂松平本・今治
C本 ︵前掲拙稿﹁自讃歌
考﹂
に見える。
久保田A本と鍋島本とが近く、仙 二本がまとさること
であるが、谷山A本来とも刊本系とも異なる特異な歌
ち、山B本が最も著しい。﹁自讃歌﹂生成の過程にお
な伝本である松平木などに拠ったものであろう。これ
二本の関係でいえば、歌順 ・歌人順 ・注文内容などか
する久保田A本を基にして、それに適ムす
ロるような歌
A本注文が分解再編されて鍋島木が出来上がったとい
支子 B 本も二種 以上の注の合成本 と思われるが、歌唄・歌人
B支
画子
本とも加津自讃歌本文は久保田
順 ・歌人名表示な どは久保田A本 よりも山B 本に近い。前掲表
と同じ傾向で、 山B.
一大昔は胎化して承け、他は無視されている。
A 木 とは別と見ら れる。そして、久木一五セ首の注文の中八九
首を受け継ぎ、
これらのことも、 本論に記したこととは別に、画本が久保田A
本に後続することを 示そう。さらに、この画本の入木津以外の
注文はまた相互に共通しない。
支子 B 本が﹁ 永 正十八年霜月十八日書之﹂の書写奥書を持
ち、書体・紙質などその時のものと思われるから、同注文成立
の下限は示され、 簡略化の様態などから山B 本は支子B 本より
遡るものと推測 きれ ︵
山B本は奥書の類を何も持たないが、現
九
ある。
向が見られる。
洋一・﹁面のまちなり﹂の類八 ・脱文二となるが、山 B 本で
れ
いては、寂蓮は表示の通り・俊放歌は四本ともに谷山
一五セ首の中の 一0回音が欠本注を承け継ぎ、﹁簡単な
もの﹂
こ
な
は
の
二O
ことである。ただし一一首ほどの注文は確実に刊本系注文であ
刊本と谷山A本注との相違点の細部にわたって点検した上での
る。ここで右記の静享堂本などの持っ ている﹁ 是 ハ所往事﹂の
本 ・大阪府立
図書館︵ 甲和 九二︶ 本 ・北駕 文庫本︵資料館写真によ る ︶・ 谷
一句は以上の含みをもった谷山A本来注文本に付されていた筈
ここでい う ものは静嘉堂文庫︵五二一・二一︶
山茂 博士 蔵 江戸中期写本︵ 私称 ﹁谷山B 本 ﹂︶・大阪 天満宮女
のものであり、第二章に記したように、右記一一首注を含めて
延徳田
および入首ほどの訂正を含んだ九大A 木系別本の存在である。
ここで問題になるのは一一ほどの訂正を含んだ谷山 A本茶別本
大A本注としても最低人音はどうしても京大 A 本注文である。
残る後半部は九大A本注または京大A本注であるが、大半は九
谷山A水系本文の確定は非常に重要な ことである。ところで、
庫 ︵一八四セ
・ ・一︶本 ・島津忠夫氏 蔵 江戸期写本・ 書陵 邦威︵ 鷹
陽明 文庫﹁ 自
九一︶宗祇 井飛鳥井註本などであるが、書陵部を始め他にもま
だ 伝本がある。﹁万治三年法橋栄治﹂の奥書を持つ
讃歌 紗 ﹂は別とすべきである。これらの本は原則として ﹁石城
正洋 嶋 明神 折
三日日御家門相伝芝地穴賢不可
中には
有 他見者 也
圭子孟春日股長安善之︵散事堂本︶﹂という識語を持ち、
ものも
もし右記したことが形式の通りであるならば、それらの本の実
﹁他見者 也 ﹂に続けて﹁ 是 ハ節洋車﹂という注記を持つ
ある。川津 歌 に出人歌 三首を含む一 セ三 首のものと 含 まない 一
ならないが、そのような本は実在しないのではないかと憶測し
のような伝本が実在するか未詳の今日 独善的判断は慎まねば
は 谷山 B 本が一七三首でありながら三百を一括後置し、 その 三
ている。それは﹁飛鳥井注﹂なるものに拘るのであるが、前記
在の可能性はあり、しかも宗祇江成立前のこととなりうる 0 ど
見られ
セ 0首のものがあり︵大悦歌を生じてその数に充たぬものもま
首が 刊本系であることが示すよう に谷山 A水系本文と
のように、これら同内容の一本が﹁宗紙片飛鳥井 註 ﹂とよばれ
まある︶、細別すればいろいろに分けられるが、その基本本文
る。寂蓮﹁散にけり﹂歌に散事堂本以下が記す﹁地歌格本ハ無
いう点にあるのではないかと想像されるからである。たとえば
ていることで、飛鳥井家の判断は右に記した注文のさし替えと
通見﹁霜むすぶ﹂歌の場合﹁︵祇江都 略 ︶ 霜 むす ふ袖のかたし
ィ 水仙 祇注 ﹂と頭記することもそれを証しょう。注文内 容は古刀
全 に二種の注文のムロ成であり、前半は宗祇
きはうちとけてねめといはんため也た とへ はさむしろなともと
注 であるが その実体
は刊本系ではなく谷山 A 水糸注文である。ただ単に 刊 水系 の
し
﹁ある注﹂部を持たぬというだけでなく、本論第二章にふれた
う ちの一のたのしみにはよもすからさやけき月を見たる也 いつ
ほそくでよもすからうちもまとろまねは今夜のきひしかり つる
Ⅰのへぬかりねに袖をかたしきてふしたれとも霜きえわ たり 心
と L申侍るにや﹂と記しており、それは歌の解としては誤解と
うになりともかこちゃりおとろかし候はてはいつをかきりにな
きてよも﹂の注に﹁︵前略︶
以上を考えさせる手懸かりにならない。また、
又あすか邦家なとにはせ めてかや
山 B 本式 子 ﹁生
る心をなくさのたる所不便にや︵散事堂本︶﹂がこの類の 注文
い わゆ
考えるが、それに適合する注文をこの類の注文はもちろん、 管
見に入ったいかなる自讃歌 注 にも見出だしえていない。
であるが、傍線部は﹁しもむすふそ てのかたし きう ちと けてね
ぬといふしうくなり︵下略︶﹂という京人A 本の注文を 修訂し
陽明文庫の飛鳥井栄治奥書本の注文内容をも含めて、
ねたい。
ないまま、以上のことを注記して、飛鳥井注関係を後者 にゆだ
る 飛鳥井 注に 関して今の稿者にはまだ統一的な見通しを持ちえ
て受け容れ、Ⅰ 印 以下は九大 A本注文そのままというありよう
は最も極端な例であるが、単に九大A 本 と京大 A 木の 択一とい
本と
ぅ ことだけではなしに・九天A本を根本としつつも 京 大 A.
の比較,判別の営為が確実になされていることを示している。
いま、このように考えてみたが、谷山A 本注 は 先行別人
補説
谷山 A
その営為を書陵部本に﹁宗祇丼飛鳥井 註 ﹂とあること
注 とすることも可能で、百人一首注 における満塁 抄 ・文 開士奥本
の相承・先行関係は動かないと思われるから、宗祇以外0人物を
相互関係を、文明十六年を決定年次として傭敵するとき 、一四頁
ねばならない。ただ、以後の本論にも述べるが、各種田讃歌 注の
い。そのときは、本論四章に記す東大A 本からも宗祇の 名 を外 き
明応 二奥本の関係を考慮すれば、その万が穏やかか もしれな
本茶注文が承け容れられていること,延徳四年の奥書を 持つこ
となどから飛鳥井家の営為と憶測したいのである。
の ﹁いか
序でに、 竣 成﹁いかにして﹂歌に散票堂本以下に頭注される
﹁飛鳥井 注他化歌笛木 地 ﹂については、直前歌注文末尾
にして 俊成呵 せるのかれてむかしの貴ゐ なおも ひ てよめ 8世﹂
丈 に対して付された頭注であるのに、注文が直前歌注 丈 に誤 入
今集をはじめ、詠歌之大概・秀歌体大略・百人一首な ど宗祇関係
媒介きせることは年代的にもどうも落ちつかない。
か たがた、 古
きれてしまったもの︵この類本の管見に入ったものはすべて 同
注は注文内容を相関的に検討する必要がある。
を指すと見られるが、同書の形式から﹁いかにして﹂歌 への 注
様である︶と考えられるが、その注文内容が平凡すぎて 、それ