(論 文 ) 鳳凰と朱雀に 違いは 山本 Ⅰ 忠尚 はじめに 羅豊 編著『固煉 南郊惰唐 墓地』は、 寧夏回族自治区南部に 所在し、 壁画に加 え 石門 ゃ 墓誌 蓋 などに豊富な 石刻画像を有する、 あ わせて 6 座の墓葬の発掘調査報告書であ る。 墓誌によって 墓 主人の名や埋葬 年 が知られる上、 いろいろと示唆に 富んだ見解が 散りばめられていて、 稗 益 するところ少なくない。 あ る時、何気なく本書を 絡いていて、 今まで気づかなかった 事実を知って 大変びっくりした。 麟 徳元年 (664)に埋葬された 史奈吉夫婦墓の 第 5 週 洞封門 に描かれた正面形 (中国では「正視 形 と表現 ) 鳥 図像を「朱雀」と 説明しているのであ 他墓 壁画の類例 (第 4 図 2 . 3 . 」 る (第 4 図 1 、 カラ一図版 6 。 図示された コ 5 コを 含めて、 平城宮跡から 出土し 、 私たちが「鳳凰 紋 鬼瓦」 と呼び慣わしている 瓦の主 紋 (第 1 図コ ときわめてよく 似ているのだ。 私たちはこの 瓦の呼び 方を「朱雀 紋 鬼瓦」と変えなければならないのだろうか。 また、 史奈吉夫婦 墓 の 墓門 には側面 形の鳥が一対 線 刻されており、 報告はこれも「朱雀」であ るとする。 中国の研究者は 鳳凰と朱 雀をどのように 区別しているのであ ろうか。 鳳凰・朱雀の 歴史的背景を 再検討し、 その図像が 展開してきた 様を捉え直した 上で、 鳳凰と朱雀の 正体を明らかにする 必要性を感じた。 林邑奈央 は 、 陳 四省北部の画像石によく 見られる「門の 守護神」 ( 第 3 図 1 の仲間 コを 説明 するところで 鳳凰に触れ、 次のように解説している。 (鋪育め ) 頭上の心葉形の 上には大きな 鳥 がとまっている。 頭に付く姉叉になった 羽冠 や、 先のひろがった 尾羽根から鳳凰の 一種と 知られる。 画像石では、 このような門の 神の 上に鳳凰を一緒に 彫ったものが 多い。 また 同 じ所に虎の い るものも多い。 門を守る力を 増 強しようという 意図と思われる 0 鳳凰は紀元 前 二千年紀の晩期から 天上の最高神の 使者と して知られ、 その考え方の 伝統は画像石の 作 られた時代まで 続いている。 天の最高神の 権 威を背負ってそこに 頑張っていると 見られ る 。 また鳳凰は天の 四方の神の一つで、 南方、 夏 、 暑熱、 盛大な陽の 力 を象徴する。 扉の申 央 に配された神の 陽なる力を増益するものと も 解される。 第 1 図 平城宮跡 出土鳳凰 紋鬼瓦 一 19 一 林 はまた 別稿 において、 南方の星座 群は ついて『史記 天官 善 に「 南 宮は朱鳥」とあ り、 朱 コ 鳥は四神の一つに 数えられる時に 朱雀と呼ばれ、 この「 雀 」は鳳凰の意味とされ、 像では同時代に 鳳凰と解されていた 形をもってえがかれた、 漢 以降の画 とも説明している。 どうやら鳳凰 鳥などを包括する、 より大きな概念のようなのだ。 上のような疑問を 抱き始めてからかなり 年月を経た 2001 年 、 奈良県明日香 村 キトラ古墳で 新 たな壁画が発見された。 かねてから知られていた「玄武」に 加え、 「朱雀」「青龍 」「白虎」が 見つかり、 四神が揃ったのであ る。 四神の一であ るならばそれを 朱雀と呼んでよいのだろうか。 これを契機に 再び鳳凰と朱雀の 関係に取り組んでみることとした。 本墳 の 被 奏者が誰なのかと 共にこの図像の 淵源がどこにあ るかが最大の 論点となっている。 本稿ではそれら 諸点について 直接には触れないが、 その解明に向けて 何らかの役割を 果たすことができれば 幸 い であ る。 Ⅱ 1 古文献と図像の 対比一研究 略史一 出石 説 鳳凰について 包括的に考察したのは 出石 誠彦が 始めであ ろう。 出石はいわゆる 四霊 、 すなわ ち 龍 、 亀 、 麟 、 鳳のうち亀を 除く三者の由来を 検討した。 その一環であ る「鳳凰の由来につい て 」において、 まず鳳凰が中国古代の 諸記録の中で 祥瑞の一つとして 取扱われており、 それが 鳳凰の最も著しい 性質であ ること、 その後瑞鳥とされた 鳳凰に豊富にして 気高い性質が 付与さ ね 、 姻族の長であ るとする思想に 発達したことを 明らかにした。 また、 種々の文献に 散見され るところを綜合し、 第一に梧桐竹 実 と関係づけられていること、 第ニ に 高く 飛弄 するものとせ られていること、 第三に種々の 鳥獣の形態が 附加されていることに 注意する。 そして鳳凰の 由 来 について、 phoenix説を批判、 peacock説を採用した。 その根拠の第一は 形態にあ るとする。 上代の文献の 記事は種々 な 思想で潤色されており、 決 してorigin田 な形態を示すものではないことを 承知の上で、 「然もなほ考察を 試みた結果、 鳳凰 は 大鳥であ って羽毛が五乗 で 美しいとせられてゐたことが 推知せられた」と 考えるのであ る。 次に、 出石はいくつかの 前提に立って 文字の検討をおこなう。 鳳凰は「 鳳 」とも「 鳳皇 」と も表記されたが、 『爾雅』 澤鳥 には「 鴎鳳 英雄 皇 」とあ って 雄と雌 とが区別されたように 記し てあ り、 張華の 『 禽経 』にも明瞭に「風雅風 雌 」と言っている。 皇 あ るいは凰は鳳に 付随する ものに過ぎず、 恐らくその原形は 鳳であ ったに相違ない。 そこで下説文』、 『荘子』などから 鳳 の文字を考えてみると、 大鳥であ り羽毛の美、 長尾が注意される。 出石はさらに 遺物に照らしてみる。 鳳碑 、 四川省 渠県 所在の沈府君神道関の 鳥は鳳と朱鳥と のいずれとも 決し難いし、 この種の形態は 概して想像的分子を 豊かに附加された 後のものと考 えられる。 しかし、 、ンャ ヴァン ヌ が掲げた鳳凰刻石には 明瞭に「 鳳皇 」と記してあ るし (第 2 図 1 コ、 山陽 麟鳳 碑の鳥の下には「大百 奇鳥 、 各日 鳳皇 n下略Ⅱとあ って (第 2 図 3 コ、 共に 漢代の人々が 鳳凰を如何なる 形態のものとしていたかを 知る貴重な資料であ る。 頭上に冠羽が あ り尾羽甚だ長 い ことから一見して 孔雀を思わしめる、 と。 一 20 一 2 伊藤諒 一方、 伊藤清司『中国の 神 獣 ・悪鬼たち 山海経の世界』によると、 「山陵川 沢 には戦乱や 苛酷な労役をよびこむ 妖怪・鬼神がいて、 人びとを不安と 不幸に 陥 しいれたが、 戦争も土 功も ない安寧な暮しを 約束してくれる 妖怪・鬼神も 棲んでいた。 丹 穴山の鳳凰がそれであ る。」と い 写 。 『山海経』南山経に「文京五百里、 日月天芝山、 其 上 多 金玉。 舟木田烏、 両両流注 干 渤 海。 百鳥馬、 具状 如鶏 、 五来而立、 名目 鳳皇 、 首丈 日徳 、 翼文 口義、 背文日 膿 、 贋 文目 仁 、 腹 文目 信 。 是是也、 飲食自然、 自歌 時舞 、 見 則 天下安寧。」とあ るところから、 伊藤は「このき わめて ヵ ラフルな山鳥の 体の各部位の 文様が、 徳 ・ 義 サ ・ ・ ロ ・信の五義をシンボライズして いるという徳目象徴 説は 、 顧頴 剛も批判した よ うに、 瑞応思想・五行思想が 発達し、 五帝五教 説の発生した 後世のこじつけであ る。 おそらく、 漢代学者の筆が 加わっていよう。 しかし、 特 定の奇獣黒鳥の 出現を歓迎するという 発想はずいぶん 古い時代からあ ったとみられる。 中略 ) 鳳凰もまたそのひとつであ る。」と考えた。 『山海経』は 紀元前千年紀晩期の 成立で、 これが文献上遡れる 上限であ る。 どうやら漢代に なって鳳凰と 朱雀の間に差異が 生じたように 思われる。 それは漢代に 四神の概俳が 定まってゆ くことと関連があ ろうか。 く 3 株説 鳳凰についての 上記 二 説は古文献の 記載にほとんどを 依拠していた。 文献資料,の 少ない春秋 時代以前の各種の 鳥の図像の系譜をたどることによって、 戦国、 漢時代以後同一視ないし 混同 されていった 各種の名をもった 鳳凰の類の原形を 弁別し 、 各々の図像を 解釈することによって、 それぞれの神話上の 役割、象徴的意味を 解明しようと 試みたのが林邑奈央「鳳凰の であ 援 。 「はじめに」で 引いた林の解説はこの 図像の系譜」 論文に基づいているのだ。 鳳 林 はまず、 鳳凰を表わした 最も古 い 図像的表現を 甲骨文字「 鳳 」に求める。 それは頭上に 茸形 の 角 と長く垂れた 尾羽根をもっ。 その ょ うな鳥は青銅器の 紋様の中にもあ り、 この図像が 段の鳳であ った、と考える。 それは孔雀の 尾羽根を原形としたシンボルを 頭上につけた 神島で、 頭上につくものの 象徴的意味は 太陽にあ り、 皇 」の記号でもあ った。 遥かに降って 後漢の図 像にも尾羽根をつけ、 その尾羽根と 同じものを頭上につけた 鳥が多く見出される。 これが 段時 代 以来の鳳の後身であ ることは疑いない。 然しこの頃 になると五彩の 美しい羽根と 抽象的な意 味が伝わただけで、 原初の象徴的、 神話的意味は 失われてしまっている。 窪 上とは明らかに 別種で、 段、 西周前半期の 青銅葬器に頻繁に 表わされる鳥があ る。 鳳と同 横長く垂れた 尾をもつが、 頭にひるがえった 冠羽ないしは 一対の羽根をつけるところに 特徴が あ る。 このような目立った 冠羽をもった 尾の長い鳥といえば 余 難 が 想起される。 これは金色に 輝く赤い羽根を 持った美しい 鳥で、 中原に近いところでは 現在甘粛、 灰 西南部に棲息する。 こ れは当時は「 崔 」と呼ばれた。 漢 時代にも頭上に 三叉になった 直立する羽根あ るいはひるがえ った冠羽をつけた 鳥があ り、 後漢の例に「 鳳 豊田」の題が 記されたもの (次節の⑤ ) があ るた めこの鳥が鳳凰の 一種とみなされたものであ ることが知られる。 宝難 西周になって 現れた、頭に先が丸くふくらんだ 重 そうな感じの 肉冠をつけた 一類であ る。 この雑に似て 錐のシンボルであ る 難 冠を頭上につけ 難の属性を具えた 鳥は周の故地に 土着の鳥 「 一2 Ⅰ 一 神 で、 天体とも関係している。 林は仮に「定離」と 名付けた。 モデルは 野難 と思われ、 これは 頭から 頸 、 上尾筒に赤金色の 羽根のあ る美しい鳥で、 現在中国最南部に 棲息する。 漢 時代には すぐに鶏冠とわかる 写実的な形となった 例があ る。 鸞 長い尾をもった 神話的な鳥の 中にもう一種別な 類が識別できる。 目の周囲に少し 間隔をあ けて細い線のふち 取りがあ ることを特徴とする。 頭の上側をめぐり、 短い羽毛を表わしたと 思 われる短綬 が 刻まれており、 雑を写した可能性があ る。 後漢代の例では「 鳥」と題されてお り、他にも神格化された 赤い雑を「 鸞 」、 丹鳥 」などと呼んだことが 知られるので、 林は「 を代表させた。 「 以上のように 林は、 漢 時代に一様に 鳳凰とみなされていたものの 中に、 本来異なった 地域、 部族に起原をもち、 形態も名称も 異にした 幾 種類かの神話的な 鳥を識別した。 漢 時代には鳳凰 についての古い 知識が既に失われ、 また本来 別 であ った各種の鳥が 混同されるようになった、 と考えてよかろう。 朱雀 漢 時代の図像の 上で 鳳皇 の 層 と区別の難しいものに 四神の一 つ 、 朱雀があ る。 漢 時代の 遺物に青 龍 、 白虎、 玄武と共に四方に 配され、 明らかに朱雀として 表わされた図像があ る。 林 はこの,点に着目して 像を検討し、 孔雀の尾羽根を 頭上につけた 本来の鳳凰と 全く同じものも あ れば、 崔 、 宝難 、 のそれぞれが 存在することを 明らかにし、 そして以下のように 鸞の優位 Ⅱ竺土姉を説いた。 漢 時代に鳳を爵ともいったが、 と 爵は狭義の鳳凰を 含む上位の分類で、 鳳凰の類全般を 指す 語 取れる。 爵は雀で音義とも 同じものであ るから、 朱雀の名称から、 朱雀の図像が 各種の鳳凰 を含むのは当然であ り、 両者の図像上の 共通性はここに 由来する。 そうすると朱雀は 赤いとい うだけで、 形は鳳凰と全く 同じものであ るかというと、 両者にはずれがあ った。 朱雀の図像の 中には鸞のタイプが 優越しているようなのだ。 鸞は赤 雑 に原形をとっており、 丹鳥 とも呼ばれ ていた。 五行家が四神を 配列するに当って、 赤色であ る点に著しい 特徴のあ る 南方すなわち 赤に配したであ ろうことは想像に 難くない。 また、 漢 時代の工芸に 従事する人々 の間にも、 南方二市、 赤い 雀 (鳳凰 ) = を配するに当って 鸞の形が画かれることが ということが 意識されていたため、 南方に 雀 (鳳凰 ) 多かった。 Ⅲ 漢代以降の図像の 再検討 先秦代の鳳凰については 上の林 巳奈 大論文に尽くされていると 論文以降多くの 画像石・碑が 考えるが、 漢代については 杯 発見され、 あ るいは新たに 紹介され、 画像資料はかなり 増加した。 また、 南北朝から 惰唐 にわたる 墓 葬の発掘が進み、 この時期の鳳凰あ るいは朱雀と 思われる 図 像も増えた。 しかし、 それらを収めた 報告書や図録においては、 い るにもかかわらず、 その根拠は示されていない。 そこで漢代以降の 鳳凰あ るいは朱雀と 考え られている図像について 再検討してみることにした。 があ るか、 すなわち描き 分けが行われていたであ 一 22 その大半を「朱雀」と 呼んで 鳳凰と朱雀との 間に図像の上で 何か違 い ろうか、 を問 う のであ る。 一 1 傍題の存在 図像に傍題があ って、 当時の呼称を 知り得る資料がわずかながら 存在するので、 まずこれら の検討から始めよう。 管見にのぼったものは 以下の 7 例であ る。 ①画像石 (第 2 図 1 蔵 漢画家石』にきわめて ②風解 (第 2 図 2 ③山陽 麟 風解 (第 コ :銘 「 鳳皇 」。 頭に肉冠をつけており、 よく 似た拓本があ り、 これによれば 林分類の宝鶏に 当たる。 n魯迅 出土地は山東省 臨拶 であ る。 : 銘 鳳 」。 頭に肉冠をつける。 林分類の宝鶏。 「 石索 Ⅱに模刻の拓本あ り。 銘 「大百奇 鳥毛回風 皇」。 頭 上に直立した 羽根をつける。 後漢の元理元年は 05)。 本 碑は現存せず、 大村西岸 は 「山東新 2図3 : 潟雲鵬 コ 『 ったものか定かでない。 奏音に在りと 記せるものこれか」とするがどこにあ ④江蘇 省 徐州国宗燕手 埠 画像石 (第 2 図 4 い鳥がいて「朱鳥」と : 縦に並んだ 4 画面のうち下段には 尾羽根の長 記されており、 傍ら上に「日食」、 下に玄武を伴う。 頭には何もなし。 墓誌に元嘉元年 (15けの紀年 朱雀を表したものであ コ 林分類の饗。 銘あ (l01 り。 四神の朱雀はまた 朱鳥とも呼ばれた。 この画像が ることは明らかだが、 残俳ながらあ まり特徴がなり。 ⑤四川省 梓桐県 出土画像 博 (第 2 図 5 Ⅰ銘 鳳皇 「 」「 出 」。 長くひるがえる 冠羽と長い尾をもっ。 林分類の崔。 (,D) ⑥河南省都県画像 碑墓 の 噂 (第 2 図 6J : 銘 鳳皇 」。 色彩は脱落してしまったが、 「 翅膀 上に は 朱紅と粉 緑色が残る。 頭に肉冠、 林分類の宝鶏。 丸を街えている。 他の碑と合わせて 四神が 揃 うが 、 それでも「鳳凰」と 呼んでいろ。 ⑦真子 燕霜 高士弾琴錦 : 菱花形と葉花形があ り、 鏡 背の構図はさまざまであ 高士弾琴の場面、 右側の樹下に 一羽の鳥が立っている。 るが、 鉦の左に この鳥が鳳凰であ ることは、 外 因銘常 にあ る「 鳳皇雙鏡 両金塞、 陰陽老馬 配 (以下略 ) 」という銘文により 明らかであ る。 この鐘式 は 盛唐朝にかなり 愛好されたようで、 陳 四省西安 韓森案 において 1984 年に出土した 例をはじめ 十数例が知られている。 いずれも錆が 以上の資料をまとめると、 付着しており、 その姿は明瞭でない。 鳳皇 あ るいは鳳が 6 例、 朱鳥が 1 例あ り、 朱雀はない。 林分類の 崔が ③⑤の 2 例、 宝鶏が①②⑥の 3 例あ り、 鸞の類は含まれないことになる。 ④はいずれにも 当てはまらない。 結局、 鳳凰と朱雀の 図像上の違いは 傍題によって 知ることはできないのであ る 。 なお、 ① 一 ⑤は後漢代、 ⑥は南朝 2 (東晋一楽 ) 、 ⑦は盛唐朝に 位置づけられる。 冠羽と尾羽根の 形状 そこで次に、 林邑余矢 が鳳の最大の特徴とした 冠羽の形状と 尾羽根に注目して、 漢代画像石 に 見える図像のうち、 墓門 に表された 衡環鋪 首の上に乗る 鳥形を分析してみよう。 (141 陳 両省北部『 灰 北漢代画像石』に 載せられた 墓 門の画像総数れの 約半数、 31例が頭上に三叉 になった直立する 冠羽をつけ、 先端が太く内側に 巻き込んだ尾を 3 本持つ ( 第 3 図Ⅱ。 次い で尾と 同形のたなびく 冠羽が多く (第 3 図 2 、 さらに先端がオタマジヤク コ シ の頭のように 膨 らんだ尾を 3 本持ち、 同形の冠羽 1 本を頭上から 後方に伸ばした 類が 10 例あ る ( 第 3 図 3 。 コ これら 3 種は目が丸く 二重に表現されており、 いずれも崔の 仲間と判断できる。 例タL@まきわめ て 少ないが、 水指県官 荘 のように左が 三叉であ るのに対して 右がオタマジャクシ 形と冠羽の形 状が異なるばあ いがあ り、 綬 徳宗貸家 溝 では石が三叉の 冠羽であ るのに左は無冠羽と 描き分け 一 23 一 2 にり 6 画像 樽 6 画像 博 5 図 3像 画像石 半 を 44 図尉 翔㎝ 3 ぬ什 石 鳳 2 石 像 ている。 後者は尾の太さも 違っており、 あ るいは雌雄の 差であ ろうか。 崔は 、 林が指摘したように、 元々この地域と 密接な関係があ り、 先秦代からの 伝統が続いて いると理解できよう。 河南省南陽 上記 陳四 省と同じく三叉の 冠羽を持つものがⅡ 例 と多い。 次いで 尾と 同じく先端 が太く内側に 巻き込んだ冠羽を 3 本つけた類が 3 例 ( 第 3 図 4 コ、 2 本が 4 例、 1 本が 4 例あ るのが目立っ。 これらに属さないものが 山東省 5 例ほどあ るが、 大勢として裡が 優位であ る。 画像石基 が 多いにもかかわらず、 この類の画像は 少ない。 『嘉祥漢画像石』、 『 臨折 漢 画像石』の 2 冊には全くなく、 『山東漢画像石選集』に 諸城 県前涼 台 のものがわずかに 2 例あ る のみ。 (161これらはオタマジヤクシルの 冠羽を 江蘇 省 徐州 ち 1 1 本 持つ (第 3 図5㌔ 鋪昔 に乗る鳥という 図柄は少なく、 見つけ得たのはわずかに 例は冠羽なく、 安徽省 准北 『 4 例は後方へやや 湾曲する棒状の 6 例であ る。 このう 冠羽を生やす。 (171 准 北漢画像石』に 収録された拓本 36 例のうち、 建初 四年銘を記した 煤建 公司 出 上例に代表される よ う 、 長く内に湾曲し 先端が膨らんだ 3 本の尾を持ち、 頭の後方に同形の 冠 羽を 1 本生やした類が 多く 18 例を数えて第 3 図 6 、 ここでも雀が 優勢であ る。 次いで無冠羽 コ が 9 例あ り、 三叉の冠羽は 1 例も認められない。 四川省 冠羽はすべて 1 本であ るが、 尾の数は一定でない。 以上、 後漢時代の墓 門 に表された 鳥 画像を瞥見してみたが、 冠羽と尾羽根の 形状は林分類の 在に属するものが 多かった。 また、 同じ構成の画像であ るのに、 灰西 ・河南・ m 東 ・四川のば あ いは「朱雀」と 解説し、安徽 惟化 では「鳳凰」とする。 この違 いは 何に由来するのであ ろうか。 3 四神の組合せと 表現された位置 四神の 一 として他の三神と 共に表現されているばあ い、 これをただちに 朱雀と認定してよい であ ろうか。 河南省都県画像 博墓 の 噂 ⑥は他の醇と 合わせて四神が 揃っているが、 それでも傍 題には「鳳凰」と 記してあ るのだ。 四神の観俳が 成立したのは 漢代になってからで、 文献的には 准 商工劉安が前 139 年に献上し た『 准 南子』が初出と 思われる。 方格規矩四神鏡が 出現するのも 前漢後期のことで、 四神鏡の 朱雀には 崔 、 宝鶏、 鸞の各種が見られる。 墓室 装飾に取り入れられたのもほぼ 同じ頃 で、 河南 省ト 千秋壁画 墓 に認められる。 後漢になると 画像石・碑などが 加わる。 山東省会笹山出土 碑 0 鳥は口に 瑞草 をくわえ、 翼をひろげて 飛んでいる。 宝鶏であ (201 る。 後漢後期の山東省 沢 南画像石 墓は孔雀の尾羽根を 頭上につけた 林のいう本来の 鳳凰と同じ形であ る。 なお、 m 東名著山県 城 前村元嘉元年画像石墓には 328 文字の長い石刻題 詞 があ り、 各 幅の画 像の内容と位置を 詳しく記している。 主宰 後確 に配されている 第 2 幅 画像は、 剥落が著しいた め 拓本は公表されていないが、 報告によると 上下二段に分かれ、 上段には左側に 青 龍 、 白虎、 朱雀、 玄武、 右側に戯れ合った 仙人と神 戦 が描かれており、 下段に葦蟹 紋 が配されている。 こ れに対応する 銘文は「 薄疎 郭内、 画額 後当 、 朱爵 封 遊戯仙人、 中行白虎後鳳凰」 方 一十 茄 という年号は 2 回あ り、 報告は南朝 宋の 424 年説を主張するが、 他の画像石 基と 比較すれば後 漢の 151年 と見るのが妥当。 とすれば、 実年代の知れる 四神図像の最古例となる。 ただし、 図 像の詳細が不明なので、 ここでは深入りしない。 一 25 一 2 Ⅰ エ 5 ノ年 1 : 挟四省 綾徳 3 第 3 図 裏 門扉鋪首衡環 上の鳥図像 3 : 扶 両省 絃徳 4 : 河南省方城 R 2 : 陳四省綾徳 -26- 6 : 山東省 諸城 6 : 安徽省准北 墓室や 裏 道の壁画に四神が 描かれるのは 東晋代の朝陽 衰 台子壁画境が 始めで、 東魏,北斉代 には 茄茄 公主基、 婁叡 墓などその数をやや 増すが、 惰に至るまでさほど 多くはない。 (お) 唐代 にな ると、 山西省太原 全 勝村 337 号 墓 (高宗時期 ) 、 7 号 墓 (武周時期 ) のように四壁に 四神が揃う 例や唐突公主基 (786) のように北壁に 玄武があ って四神の存在を 窺わせる例もあ るが、 龍朔 三年 (663) 葬の新城兵公主基、 上元二年 (675)葬の阿史部思慕のように 青龍 ・白虎だけを 墓 道 に描くようになり、 朱雀 国 はマイナ一な 存在になる。 替わって墓誌 蓋に 四神が彫刻されるよ (251, うになり、 この類は晩唐まで 残る。 唐 墓の壁画に朱雀が 描かれた例は 意外に少なく、 の大半は 、 後に検討する よう に、 正面形を呈するのであ しかもそ る。 高句麗では 5 世紀前半に四神国が 出現し、 5 世紀中葉から 6-世紀中葉には 四神国が中心の 画 題 となり、 湖南里四神 塚 (559) のように葉室の 四壁に方位にしたがって 四神を壁いっぱいに 描くものがあ る。 金塞雄は高句麗古墳壁画に 描かれた朱雀図の 形態を 2 種に大ガ U した。 (261一 つは 舞踊 塚@ 、 天王地神像、 双 橘 塚などのもので、 技巧にこだわらず 自由豪宕のおもむきがあ と呼ぶ ) 。 A 種にはほかに 集安 長川 1 号墓前室の壁画などがあ =一 室塚、 る (以下「 A 種 」 り、 頭に大きな鶏冠を 戴き、 林 分類の宝鶏と 判断できる。 他の一 つは 、 通溝 四神 塚 、 通清笛 Y7 号 頃 、 江西大 墓 、 江西 申 墓など のように技巧的で 構図も複雑な 類であ る (円種 ) 。 B 種はおおむね 大壁に一対ずつ 描かれ、 噛 」 に蓮花をふくませたり、 脚下に蓮花座や 三神仙をあ られすなど付加的なものが 多くなるばかり でなく、 翼 尾も先端が上方に 向かって湾曲し 、 脚などもまた 細長くなってくる。 B 種にはほか に双 艦隊、 真 波里 1 号 墳 、 湖南里四神塚などがあ 金は 2 種の違い る 年代 差と 捉えようとしており、 舞踊 塚、 ・双盤塚 には同種が存在しており、 る。 この方向性はおおむね 妥当であ る。 ただし、 この頃 に変革が生じたと 考えられよう。 4 朱彩 の 鳥 ( カラ一図版 参且釜 最後に、 四神を配列するにあ たって赤色であ る鸞を朱雀として 南方に配したとする 林 説を検 証するために、 赤 (朱 ) 色に彩色された 鳥 図像に注目してみたい。 朱雀であ れば色彩で表現す る ばあ い 朱 彩を施すのが 自然と考えるからであ る。 近年、 漢時代から 唐 時代にかけての 壁画 墓 が 相次いで発見されるなど 漢 色付きの図像資料がかなり まず前漢代の 資料から。河南省 ト 増え、 検討が可能となった。 千秋壁画 墓 の土室 脊 頂の中央部近くに 描かれた 鳥 図像は 、 鸞 であ る。 休部を朱に塗り、 雲級で羽毛を 表わす。 前 86 一 前 49 年 ( ヵラ 一図版Ⅱ。 河南省洛 陽 車姑 広場西の金谷園林で 発見された壁画 墓 の 束確 には 2 羽の鳥図像が 表されており、 「鳳鳥」 と解説される。 冠羽と尾を除いて 朱で彩ってあ り、 これも鸞の仲間であ ると判断できる。 新芽 時期 ( カラ一図版 2 コ。 洛陽 澗 面責 治墓 、 焼溝 M50 などから出土した 加彩 土器 (中国では「 彩 絵陶壺 」と称する ) の胸部に四神を 描いた類があ 後漢代の例として、 り、 朱雀の体部は 映画名神木大 供当 彩絵画像石基 M 朱色を呈する。 (271 l 、 M23 が挙げられる。 裏 門の 衛環 鋪 背上に乗った 鳥で、 冠羽 1 、 尾 3 本など 陳西 省北部の同種画像と 同じであ る。 体に 墨線で 鱗 状の羽毛を表現、 口に丸を衡 む ( カラ一図版 回 。 四川省中江 塔梁 子産 墓 M 3 は四川省におけ る壁画 墓 の和親で、 第 5 常道右側壁の 鳥図像は体の 輪郭を黒 線で 描き体を朱、 足と階を緑に 塗 ってあ る ( カラ一図版 4 五 一 1 ア一 どうやら前漢 末 までは が 優り、 後漢になると 崔が多くなる 傾向が認められるようだ。 点において称説は 妥当であ り、 問題は南北朝以降にあ 南北朝 この る。 河北 省磁県茄茄 公主基・清滝墓の 壁画のほか、 m 四省太原 徐 頭香墓の彩色石刻 回 、 敦 性佛爺 廓清西晋墓の 彩色 碑 ( カラ一図版目などを 挙げることができる。 (2s)河北 省 02 例は東魏 ・北斉の陵墓で、 いずれも 門培に 極めて大型の 正面形 鳥 図像を描いてあ る。 佛爺 廓清西晋墓の 鳥は頭上に大きくたなびく 冠羽をつけており、 これも宝鶏と 判断できる。 他の碑に青 龍 ・白虎 が 描かれており、 明らかに朱雀と 意識している。 なお、 徐顕秀墓 の 墓 門間額の中央には 正面形の畏 獣 があ り、 その左右から 2 羽の側面形の 鳥 が口にパルメットを 衡 えて捧げている。 宝鶏であ る。 この類の図像が 裏 門間 額 に表現された 例 は 多いが、 ここでは触れない。 唐 寧夏回族自治区固煉史奈吉夫婦 墓 ( カラ一図版 6 、 映画名西安車国基 (第 1 図 3 コ コ ・南里 正村 G 墓 ( カラ一図版 7 コ・高文 珪墓 (第 1 図 5 コのほか、 楊 文略 墓 、 山西省太原市金勝村 (291 号 墓などを挙げることができる。 7 全 勝村 7 号墓の鳥は冠羽なし、 丸を衡える。 ほかの三壁に 方 位に対応する 四神の残りが 描かれている。 高句麗 高句麗壁画の 朱雀もおおむね 朱移 されている。 なお、徳 異里古墳の前 室 東側天井の中央に、 全身を朱 移 された鳥が描かれており、 左 腕に 玄鳥優人双行」という 傍題を伴う。 陽光の鳥は火を 踏んで行く、 というのであ (301 る。 5 「 陽 正面形の鳥図像 前節で見た 朱彩 された 鳥 図像の多くが 正面形であ り、 かっ朱雀と解説されていた。 正面形で あ ることにどのような 意義を見 ぃ だせるであ ろうか。 正面形の鳥図像は 灰画名西安地区の 唐 墓 ではじめて出現したとされるが、 河南省新野 礎集 画 像 碑 、 山東省 費 資格 県口荘鎮潜家口 発見画像石、 山東省 折南漢 墓前 室 北壁中柱画像石など 漢代 にすでに認められる。 表にまとめた 26 に北斉 代 03 例はいずれも 河北 省磁県 にあ り、 初唐朝 には寧夏回族自治区や 山西省にも存在するが、 盛唐朝には 陳 両省西安と河南省洛陽に 集中する。 北朝の例は造形的に 後続のものと 異なり正面観を 重視し、 立体的でなく 休部が扁平であ る。 漢 代の延長上にあ ると言えよう。 初唐から盛唐の 多くは体部が 紡錘形で細長く、 帯状の横縞が 入 る 。 頭が相対的に 小さい。 中唐以降、 体部がややずんぐりし、 鱗状の羽を表現するようになる。 固煉北魏 漆棺 以外はすべて「朱雀」と 解説され、 四神の 一 としてあ るいは 門培 描かれている。 朱雀であ ることは疑いえないのであ , 墓室南壁 に る。 平城宮 跡 で出土した鬼瓦の「鳳凰 紋 」も正面形に 表わされているが、 顔だけを右に 向けてい る。 目 、 偕 、 耳孔、 肉 彰を表現し、 頭上に直立する 三葉の冠羽をつける。 頸には 4 、 5 条の帯 を巡らし、 体部には菱形鱗状の 羽を表わし、 拡げた尾羽根を 顔の後ろに立てる。 力強い腿から 長い脚が伸び、 足を踏ん張る。 冠羽の形状は 林分類の程に 当たる。 これによく似た 図像は蒔 傲墓 、 高 元理 墓 、 楊 文略 墓 にあ る。 他例の顔が正面を 見据えるのに 対して、 これらは体は 正面向きだが 顔を横向きにしている。 しかも 高墓 ・ 楊墓 のばあ い、 腹 部 0 羽毛を鱗状に 表現しているのだ。 ただし、 これら 2 例の頭上にはふくらんだ 肉冠を持ち、 林 分類の宝鶏に 相当する。 楊墓は 864 年と降るので 除外すると、 罷墓の 720 年、 高 墓 0756 年が参 一 28 一 泰 正面形の鳥図像一覧 所在 名称 (南北朝一麿 ) 位置 年代 寧夏回族自治区固煉 固煉北魏漆棺画 技法 (色 ) 図の典拠 : 解説 棺蓋 漆絵 国原北魏漆棺画 : 飛鳥 河北省磁県 如茄公主基 東魏試走8年 (550) 門培 壁画 (朱) 中国美術全集12 : 朱雀 河北省磁県 湾障墓 北斉乾 開元年(560) 門培 壁画 (朱) 磯貝湾障墓 : 朱雀 河北省磁県 尭峻墓 北斉武平2年 (571) 門培 壁画 (青) 文物84-4 : 朱雀 陳四省札某某 長楽公主基 貞観17 年㈹ 3) 第=" 通洞門 壁画 (?) 寧夏回族自治区固煉 思索岩 夫婦墓 文博8B づ 第五対円 壁画 (朱) 固煉南郊晴唐墓地 : 朱雀 陳西省 西安 豊洞墓 貴寵2年-(704) 墓道東壁 壁画 (朱) 唐墓壁画集錦 映画客西安 長安南里主付庸墓 開元- 大宝 墓室蘭壁 壁画 (朱) 唐墓壁画具品選粋 : 朱雀 辞傲墓 : 文参56 毬 辞? 墓発掘報告 : 朱雀 墓誌蓋 映画省 西安 燕居島墓 大宝4年 (745) 陳四省西安 高元理墓 大宝15 年 (756) 阪四省西安 唐安公主 基 墓室南壁 李民夫人春墓 墓誌蓋 陳西省西安 挑存古墓 墓室商聖 河南省 張澤墓 会員元年㏄4 け 墓誌蓋 陵西省西安 梁元輪墓 全員4年 (844) 墓室商聖 河南省洛陽 郷民夫人拘墓 大牢元年 (847) 墓誌蓋 陳四省西安 場立略墓 墓室蘭壁 河南省洛陽 割金蔓 墓誌蓋 洛陽新穫墓誌116 空箱墓 墓誌蓋 洛陽新陵墓誌118 墓室蘭壁 壁画 (緑) 唐墓壁画集錦上 90 : 朱雀 唐墓壁画集錦、 文物59% 苦 になる。 南北朝や初唐の 図像が粉本になったのではなく、 壁画 (緑) 文物91 つ 壁画 (?@ 文博84% 壁画 (?@ 文博84 つ : 朱雀 洛陽新種墓誌108 壁画 (朱@ 盛唐朝、 晴唐文化4 : 朱雀 8 世紀半ばころの 朱雀で あ った可能性が 高いのであ る。 Ⅳ むすび 以上 5 つの観点から 漢代以降の鳥図像を 分析してみた。 この結果、 鳳凰と朱雀に 明確な描き 分けはないと 考えざるを得ない。 また、 唐 代の朱雀図像はさほど 多くはなく、 その大半は正面 形に表されており、 しかも 朱移 されたものが 多いことが判明した。 正面形 鳥 図像は朱雀の 可能 性が高いのであ り、 われわれは平城宮 跡 出土の「鳳凰 紋 鬼瓦」を「朱雀 紋 鬼瓦」と呼ぶべきで あ ろう。 この鬼瓦を葺いた 建物はかなり 特殊な機能を 持ったものであ り、 出土地は内裏 化外郭 および外郭東北隅の 外側の南北 溝 SD270fnであ り、 このあ たりで将来、 青 龍 ・白虎・玄武を 表 した鬼瓦が出土する 可能,性があ ろ 一 29 一 2 ) n3 6 第4 図 正面形の鳥図像 以上の論点のほか、 正位か飛翔 形か、 立っところ (蓮華座・神樹の 上など ) 、 丸を衡むか否か 、 など検討し残した 点が多いが、 後日に期したい。 なお、 キトラ古墳の 朱雀の冠羽は 飛翔形をなし、 冠羽は尾羽根と 同じ 形 、 尾は下向き 5 本、 翼の元部 (越膳 ) に特徴があ り、 なにより 朱移 されている点に 注目したい。 これらの諸特徴を 併せ持つ壁画は 中国には 見 あ たらず、 高句麗壁画 m 種を倣った可能性が 強い。 一 30 一 -生 工 234 567 89% Ⅱは㎎ 45 6 7 89 llⅠ 1 0123 2222 4 2 3 省 考古研究所 他 唐昭陵新城 長 公主 基 発掘 簡報 」㎝考古年文物 J 1997年 3 期 ) 、 阿 史部 忠墓 : 陳四省文物 「 管理委員会・ 礼泉県昭陵支 管所 唐阿 史部思慕発掘商戦」 (『考古コ 1977 年 2 期 ) 「 (25) 墓誌蓋に 四神を彫刻するようになるのは 南朝が先で、 北では濁孤羅墓誌 (600) が古い例。 この風は唐代 を 通じておこなわれた。 これらについては 別に検討したひ。 (26) 金塞 雄 『朝鮮半島の壁画古墳 J (六 (27) 『洛陽漢代影画J 阿南美術出版社 1986) (28) 茄茄 公主基 : 磁県文化館「河北 磁県東魏茄茄 公主基発掘簡報」㏍文物 1984 年 4 期 ) 、 酒津 墓 : 中国社会 コ 科学院考古研究所・ 河北省文物研究所『 磁 宗清滝北朝壁画 墓 2003)、 徐頭香墓 : 山西省 (科学出版社 』 考古研究所・ 太原市文物考古研究所「太原北斉 徐頭香墓 発掘商較」㎝ 文物』 2003 年 10期 ) (29) 場立略墓 : 灰四省博物館 編 惰唐文ィヒ 1 伴林出版社 1990) 4 (30) 朝鮮民主主義人民共和国社会科学院 (講談社 『 は徳 異里高句麗壁画古墳 ロ (31) 新野焚集画像博 : 南陽文物研究所『南陽漢代画像 碑 J (文物出版社 博物館・山東省文物考古研究所『山東漢画像石選集 1986) 1990)、 費県潜家瞳 画像石 : 山東省 1982)、 折南漢墓 J (斉魯書社 : 南京博物際・ m東 1956) 省文物管理 処 源南 古画像石基発掘報告 j (文化部文物管理局 『 図の典拠 第 1 図 平城宮跡 出土鳳凰 紋 鬼瓦 平城宮内裏 外郭出土 : 「発掘余録 平城宮鳳凰文鬼瓦」 (奈良国立文化財研究所Ⅱ文化財論叢Ⅲ同朋 社出 版 1995) 第 2 図 傍題を伴う図像 1 画像石 : 出石 誠彦 「鳳凰の由来について」㎝ 支那伝説の研究口中央公論社 2 鳳碑 : 金石拓本研究会『 漢碑 集成 d (同朋 社 出版 1994) 41 3 山陽麟鳳碑 : 大村西岸『支那美術史彫塑篇」 11 東京印刷 4 江蘇省徐州邸県燕手埠 画像石 : 『徐州漢画像石山 紅蘇 美術出版社 5 四川省 梓洞県出土画像 博 : 呂林編ニ四川漢代両家芸術 1943) 第 7 図21 1916) 第 108図 選 』 1985) 150 (四川芸術出版社 1988) 106 河南省都県出土画像 碑 : 河南省文化周文物工作 隊 『都県彩色画像碑墓d (文物出版社 1958) 図39 第 3 図 墓 門扉 鋪首衡操上の鳥画像 映画客 綾 穂果五星 店 : 李 林地編 2 陳西省綾 穂果 : r 中国美術全集絵画 編 18 3 % 四省線穂果四十錦 4 河南省方城泉城関鎖出土 : 王建 中 閃修山 『南陽画漢画像石コ億 初出版社 : 李 林地編 『 陳北漢代画像石コ (挟 西人民出版社 1995) 583 1 画像石画像 碑 』 80 扶北漢代画像石』 (陳 西人民出版社 1995) 277 ・ 山東省 諸城県涼台 : 山東省博物館・ 山東省文物考古研究所編 旺 1990) 233 山東漢画像石選集』 (斉魯書札 1982) 563 6 安徽省泊地面 煤建公司出土 : 高書林『 准 北漢画像石 J (天津人民美術出版社 第 4 図 正面形の鳥図像 (以下の図をトレース ) 一 32 一 2002) 224 頁 123456 史奈 岩墓過洞 上方 : 寧夏回族自治区博物館・ 羅豊 『固煉南部惰唐墓地』 (文物出版社 章洞墓商聖 : 映画歴史博物館「 1988) 209 G 墓壁画集金 J (陵 西人民美術出版社 吊 蘇思晟墓 商聖 : 灰西歴史博物館 旺 唐墓壁画集金 J (挟 西人民美術出版社 南里正村唐蓑 『 惰唐文ィヒ J (学林出版社 : 映画省 博物館編 1988) 190 阜 1990) 4 高元理墓 四壁 : 寧夏回族自治区博物館・ 羅豊 『国原南部惰唐 墓地J (文物出版社 蒔徴募墓誌 蓋 : 山西省考古研究所 rG 代龍傲墓 発掘報告』 (科学出版社 カラ一図版 1 i996) 第38図3 2000) 図70 朱彩の鳥 河南省 千秋墓壁画 ト : 『中国美術全集絵画編 12 1989) 二 基 塁 壁画』 (文物出版社 2 河南省洛陽 車拓 広場西金谷 園村壁画墓 : 洛陽漢代務 画 ぽ 3 1996) 第38 図 j 』 (河南美術出版社 1986) 50 頁 陳 四省神木大 保当 彩絵画像石基 M23 : 陳西省 考古研究所編 T陳 四神木大 保当 濃彩絵画像石 J (重慶出版社 2000) 128 4 四川省中江 塔梁 子産墓M3 : 「四川中江塔梁 子産 墓 」㎝文物 d 2004-9@ 図 17 5 敦埋佛輪廓 清 西晋 墓 M37 彩色樽 : 甘粛省文物考古研究所『軟性 佛爺 廓清西晋画像 碑墓J W科学出版社 1998) 図版 19-3 6 史索巌墓 通洞上方壁画 : T涼州 古 纂集成 7 陳四省西安南里正村 唐墓 : 映画名博物館 編 惰唐皮 コ (涼州聯合考古陵 『 ィヒ 1999) 103 J (学林出版社 1990) 4 表 中の「図の典拠」詳細 国原北魏 漆棺画 : 寧夏固煉博物館『固煉北魏 墓漆棺画 J (寧夏人民出版社 中国美術全集 12 : f 中国美術全集絵画 編 12 基塁 壁画 $ (文物出版社 1988) 1989) 磁県清滝墓 : 中国社会科学院考古研究所・ 河北省文物研究所『 磁 宗清津北朝壁画 墓 文物 84-4 : 「河北 磁県東陳村 北斉尭 陵墓」㎝文物ロ 文博 88-3 : 昭陵博物館「 唐昭陵長楽公主基」㎝ 1984 年 4 期 ) に固 原 市郊惰唐 墓地J (文物出版社 唐墓壁画集錦 : 灰西 歴史博物館『 G 墓壁画集錦 Z (陳西人民美術出版社 : 映画省文物管理委員会「長安南里正村唐草 洞墓発掘記 」 a『文物参考資料J 1956年 8 期) 蒔 敬慕発掘報告 : 山西省考古研究所『 m 代蒔傲墓 発掘報告』 (W 科学出版社 2000) 文物 91-9 : 陳安利・ 馬暁鐘「西安王家損 唐代 唐寅公主基」㎝ 文物コ 1991年 9 期) ・ 郭弓 @ 『洛陽新種墓誌』 (文物出版社 一 33 一 1996) 1988) 唐墓壁画真果 選粋 : 灰西歴史博物館『 唐墓壁画 真品選粋 J (扶西人民美術出版社 洛陽新種墓誌 : 李献奇 (科学出版社 文博 $ 1988 年 3 期 ) 国原市郊 惰唐 墓地 : 寧夏回族自治区博物館・ 羅豊 文参 56-8 』 1996) 1991) 2003)
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