KOJ001203

旺
資本斗紹介 目汁カラ一図版
)
コ
をめぐって
山本
1
忠尚
はじめに
体躯は鳥で有興だが、 羊 、 山羊、 鹿、 あ るいは犬のような 頭と御足を持っ 動物の図像が 、 北
朝から唐にかけて 認められる。 筆者は 2005 年に山西省太原市にあ る徐顕秀 墓を見学する 機会に
恵まれ、 石門に彫刻されたこの 種の画像に初めてお 目にかかった。 それ以来注目してきたので
あ るが、 2007年秋、 天理大学附属天理参考 館 学芸員の小田水浩太郎氏の 教示によって、 当館に
も
仲間が居ることを 知った。 爾朱紹 墓誌蓋の画像であ る。 日頃見慣れた展示物なのだが、 逆向
きなので気付かなかったのであ る。 この画像を紹介すると 共に類例を掲げ、 併せて若干の 考察
をおこなってみたい。
穂末 紹 墓誌蓋の上面、 四角く囲った 題 記の周りを 別地線刻 で表現した画像が 巡る。 上下左右
に四神を配しているが、 そのうちの上部、 神人を乗せた 朱雀を挟んで、 耳の大きな犬のような
頭と脚部を持った 有 翼の動物が 2 件いる。 左が先導し 、 右が護っているように 見える。 両者と
も
口にパルメットのような 草を衡える。 定 先に 3 本の指が見える
(第 1 図 1 .部分 ) 。 爾 米綿 は 、
北魏永安二年 (529) 河 陰の変に際して、 28 才の若さで殺された。
この種の動物図像を 対象とした研究は、 今までほとんどないに 等しかった。 1969 年に長広 敏
雄が 、 ボストン美術館が 所蔵 する 鴻墓 義兄 氏 墓誌の側面に 彫刻された長歎画像を 検討するつい
でに、 鳥翼獣 」として言及したのがその 存在を認めた 初めであ るが、深く正体を追求すること
「
はなかった (長床 1969 。 2006 年に刊行された 山西省 婁容 墓の報告書は、 壁画に描かれた 図像の
コ
笏
」とするが、 その理由は示していない
( 山西 2006 。 この間に、 何家 村 出土の銀盤
コ
の主 紋 であ る「翼牛 」を古文献に 見える「飛簾」に 当てた 孫 機の研究があ りて孫 2989 コ、 つい最
近、 再万里が 孫 説を追認した (再 2007) のではあ るけれど。
このような中で、 近年ギメ美術館 MUS ee GluinITlRt,
R ㎡ S で展示されるようになった 囲屏 石林
色
の画像についておこなったコンパレッティ
M. COmPa
二万板上部に 同心円の中央に 表された「ス
ー
の 獣形について
「
e 廿の研究は画期的なものであ
る。囲屏 第
リア SU ya 」像の右上にいる「 狗頭 ・鳥見・ 鹿腿
「
」
(第 1 図 8) 、 パフラビ語で セシ ム ルヴ Senmurv 、 近代ペルシア 語でシームル
グ S ㎞ urgh という鳥獣 混 清の存在であ ると説いたのであ る (康 2006 。
コ
中国における 類例も提示しており、 その研究態度は 真摯なものと 評価できるが、 結論はいた
だけない。 コンパレッティの 説くところにいては 後に触れることにし、 まず類例を挙げること
にしよう。
有蹄類のような 蹄 脚を持つものと、 脂分かれした 獣 脚を有するものとに 二分し、 どちらか 判
らないばあ
い は後者に含めて
記述する。
一 22 一
l の部分
第 l 図 爾朱紹 襲 兄弟墓誌蓋 (天地を逆にしてあ る )
・
一 23
一
2 の部分
2
図像資料 (1)蹄脚
さて、最も古 い 図像は北魏正光姉年 (522) に没した 潟菖妻元 氏の墓誌に見える。 誌右 の西側
面に別 地線刻 で表現された 18 体の獣形のうちの 4 体と蓋石 斜面の 2 体が該当する。 この墓誌は、
河南省洛陽において 1920 年代に出土したとされ、 現在ボストン 美術館 Museum
ofFine 血 t,
B0stonが所蔵 する。 頭は羊のような 感じで角はなく、 口には何も衡えていない。 蹄は ニ又に分
かれていない (第 2 図 1 ) 。 蓋の上面にも 同様な画像が 認められる (第 2 図 2) 。
元諦 石棺は 1930 年頃 洛陽で出土し、 骨董市場を経由して 現在はミネアポリス
Ⅵ nneapo
Ⅰ
美術館 The
i5lS
Instl㎞te of 血 ts が所蔵 する。 洛陽博物館に 残る拓本に「九識石棺」の 墨書があ る
のでこのように 呼ばれる。 これが正しければ 元 諦は北魏正光五年 (524) に葬られたので、 石棺
の年代が決まる。 奥村伊久 良は 、 上海の古田福姉郎所蔵 の拓本を紹介するに 際し、 当時は所在
が 不明だったため、 金箔の痕跡があ るところから「鍍金孝子 博 石棺」と名付けた
(奥村 1939 。
コ
両帯に 孝子故事を 6 場面、 別 地線刻 で表す。 そのうち 左常 には、 中央 に鋪首 、 その右に 龍 、 左
にくだんの鳥見画像があ る。 頭は犬とも思えるが、 頭上には小さな 円錐のような 角が 2 本生え、
山羊に似る。 ロは 閉じているが、 長いパルメット 状の草を吐き 出している。 蹄は二又 は 分かれ
る (第 2 図
3)0
荷景 墓誌は西安碑林に 納められており、 その蓋の斜面に 刻されている 画像の一部が 該当する。
火焔宝珠を中心に 左右から鳥が 向き合ううちの 左のもの。 頭は鹿に似るが 角はなく、 口に葉の
ようなものを 衡 える。 蹄は二又 は 分かれていない (第 2 図 4) 。 右側の鳥形は 頭が狐狸のようで、
足も狐狸のそれであ り、左右対称にはなっていないのであ
る。 荷景は ヒ魏永安元年
Ⅱ
(528) の 葬 。
洛陽古代芸術館が 所蔵 する石棺前柑は 洛陽出土と伝えられる。 亀甲繋ぎの中に 別 地線刻で
種々の獣形を 納めるが、 そのうち右上とその 左下のものが 蹄脚 であ る。 頭は羊に似、 口に掌状
のものを 衡 える。 蹄は - 又でない (第 2 図 5) 。 当 館が所蔵 L 、 別扱 い されている神歌石棺 と技
法
・紋様構成・
高さが一致するので、 本来一具のものであ ろう。 年代は北魏後期。
河北 省磁 宗清 滝 墓は極めて大型の 壁画 墓 であ る。 裏 道の 雨壁 には様々な獣形が 描かれており
報告書に
ょ
ればそのうちⅥ 類神獣が
「
鹿頭 、 鳥見、 鹿踊」で、 4 体 あ るという。 図版で確認で
きたのは 東壁第 14 獣のみであ る。 飛翔形をし、 長歎
と
共に雲間に存在する。 頭は耳が長くロバ
のようで、 口に何かを 衡 えているか否かは 判らない。 蹄は _ 又に分かれていない
(カラ一図版
l ) 。 この墓は北斉の 高津武事陵の 可能性が強く、 とすれば 乾 開元年 (560) の葬であ る (江
1998Jo
m 両省太原市で 1979 一 1981 に発掘された 婁容 墓の壁画は 、 はぎ取って現在 m 四省博物 院 が管
理している。 そのうち 墓室 常道 東壁 に描かれた 画 59
るが ( 山西 198% 、 先述のように 正報告では「
亥
.
60 は、 概報 では「鳥 見獣頭 踏足 獣 」とす
」に呼称を変えた
( 山西 2006 。 ニホンカモ
コ
、ンカ のような直立する 2 本の角を生やした 頭 頸部 と蹄脚を持ち、 鳥の体躯をして、 左の畏 獣に
襲われんとする。 口に草を衡 え、 蹄は二又 は 分かれる (カラ一図版 2) 。 婁 容は北斉 東安王 で、
武平元年 (570) の 卒 。
山西省太原 市徐 頭香 墓は 2000 一 2002 年に発掘され、 現地に保存されている。 石門の東西面 扉
に別地線刻 で様々な画像を 表してあ るが、 そのうち上部に 当該の画像はあ る。 上記 諸例 と比べ
一 24
一
第 2 図 蹄脚 (l @ 6) と獣脚 (7.8)
一 25 一
ると最も整った 画像で、 生き生きした 表現であ る。 西扉 のものは 2 本の角が直立してニホンカ
モシカの趣が 濃い ( カラ一図版 3L 。 東 扉の方はやや 違って 、 角が 上弩 するので山羊であ ろうか。
共に長いパルメット 状の草を衡み、 蹄は _ 又に分かれる。 徐顕 秀は北斉武平 . 年 (571) に埋葬
された (山西2003. 太原 2005Jo
ギメ美術館が 展示している 囲屏 石林は Koonis 家が所蔵 していたもので、 長方形の台座の 左
右と奥に 囲屏 が 立っ。 他に侍衛と獅子 各 1 対の石彫 る 伴 う 。 囲 屏 は左右 各 2 枚、 奥に 8 枚の石
板を連ねたもので、 浅 浮彫で様々な 画像を表現してあ る。 問題の画像は 第 2 万板にあ る。 画面
の下半分は海面から 奇怪な 獣達 が顔を出しているところ、 上方は天上世界と 思われ、 大きな四
重の同心円の 中央に蓮華に 乗った 四 腎の女神とその 左右に外向きに 弓を構えた射手が 立つ。 そ
の上の隅の部分右方に 獣 顔鳥見 蹄 脚の動物、 左方に上半身人間で 下半身が鳥の 迦陵頻伽のよう
な動物が内向きに 漂う (第 2 図 6) 。 彫刻技法と台座の 四周に格狭間を 設けているところから、
北斉代の製作と 考えられる。
陳四省何家 村害 蔵 め 翼牛 敬六 弁 銀盤」中央に 有翼の獣が浮彫で 表わされ、 鍍金が施されて
「
いる。 耳が大きいので 牛ではなくむしろロバに 近い。 頭上に
1
角を頂く。 翼も尾羽も大きく、
三叉 に 分かれた蹄を 持つ ( カラ一図版 4) 。 何家 村害蔵 は唐代 、 武則天から玄宗 期 に至る様々な
器物 1,000点余を穴に納めたものであ る。
正倉院 北倉 の 紅牙雙鍍 搬の表面上部に 表された「馬頭の 鳥」は何家 村 のものと良く 似ている。
頭は馬のようで 頭頂部に独 角が 生え、 鳥身 、 蹄胸 は _ 又に分かれ、 一方の足を蓮華座の 上に乗
せる (ヵラ 一図版 5)0
2
図像資料 (2)獣脚
コンパレティは 類例として山東省 青州 市で発見された 石板 線刻画 「主僕文 談囲の上部に 見
える獣形を挙げるが、 これは口に草を 衡み、 天空を翔 ぶ 右翼の獣ではあ るが、 蹄脚 ではない
(第 2 図 7) ので、 別個の存在と 考えるべきであ る。 北斉 代 と考えられている。
映画省姉原泉季和墓石棺の 左 那 足部に 線刻 で表現された 動物形も よく 似る。 ただし、 足に蹄
があ るかどうか判らない。 季和は惰 開皇 二年 (582) の 卒 (灰西 i966: 図 40)。 靖代の資料とし
てもうす 点 挙げることができる。 大業六年 (610) に死去した % 高 藝妻 藤氏の墓誌 蓋 で、 四角く
囲った 題 記の周りに 4 頭の動物を配してあ るが、 そのうち右側が 獣 顔鳥見であ る。 頭は鳥のよ
うにも見えるが、
両耳を有するので 獣の仲間であ る。 口から雲のようなものを 吐き出す。 足は
よく分からない。 靖代の作であ るのに、 別地線 刻を採用した 希な 例であ る (趙 1975: 図版 437 コ。
このような類の 図像が他にもあ る。 九識墓誌 蓋 、 陳西 歴史博物館が 所蔵 する穂末 襲 墓誌 蓋 、
洛陽古代芸術館が 所蔵 する仙人 騎龍 騎虎 図 石棺、 同館が所蔵 する石林、 河南省 泌陽 市出土の囲
屏 石林、 そして天理参考 館 の穂末 紹 墓誌 蓋 であ る。 いずれも北魏洛陽期の 製作にかかるもので、
上記 2 例 よ り古 い 。
元説 墓誌 蓋は 、 (1) 蹄 脚の項で触れた 石棺と本来はセットであ ったはずのもので、
上面四方
に配された動物は 四神ではなく、 向き合う方向の 一が 迦陵頻伽、 他が 鳥翼獣 なのであ る。 頭は
大 のようで、 口に三葉の草を 衛 む 。 他の二方は青 龍 ・白虎と思われる。
一 26
一
(趙 1975: 図版 17% 。
爾 米製墓誌 蓋は 2928年に洛陽 張 田村で出土し、 陳四 省歴史博物館に 収められている。 上面に
彫刻された画像は、 全体の構成も 細部も天理参考 館 の 爾朱紹 墓誌 蓋と 極めてよく似ている。 そ
れもそのはず、 襲は紹の弟で、 同年 (529) 同月同日に一族の 墓地に葬られたのだ。 その上部、
神人を乗せた 朱雀の左右を 有翼の動物が 守護する。 そのうち石は 鳥そのものであ るが、 左は頭
と脚部が犬のようで、 口に草を衡える。 定先 は 3 本 指 (第 Ⅰ図 2. 部分 ) 。
仙人 騎龍 騎虎 図石棺は洛陽市郊 区 渡河公社で出土したもので、 左 謂の中央 騎籠 場面の下方に 、
別地線刻 で表現された 兎のような長 い 耳をした 有 翼の動物がいろ。 脚部は失われて い て足の形
状は判らない。 口に房状のものを 衡 えている
(黄 1987:21J。 棺 底の左側面の 2 ヵ所にも同様な
動物が見える。 長方形の区画内に 別 地線刻 で表されたもので、 一方は兎のような 長 い 耳を持ち、
口 には何も衡えていない (第 2 図 7) 。 他方は鼠のような 細長い顔をし、 草を衡える (洛陽 1980:
12-7 コ。 右側にも同類が 1 体 あ る (洛陽 1980:13-4L 。
洛陽古代芸術館所蔵 の囲屏 石肺台座正面板の 長方形に区画した 一つぼ、 別地線刻 で表わした
右翼の動物画像が 認められる。羊のような頭で、 口には何も衡えていない。 足指は 3 本であ る (第
2 図 8) 。
1972年、 河南省 泌陽 市西向精管所で 出土した回帰 石 休の台座正面板に 線 刻された 16区画の装
飾 回申、 第 8 幅に「虎頭 鳥 身形象」があ る。 蓮華座の上に 立ち、 足先は蹄のように 見えるが、
よく判らない。 頭は犬のようで、 パルメット状の 草を衡 む (郡 察 1983: 図 4-3 コ。 彫刻技法の
・
点などから北朝晩期のものと 考えられる。
3
若干の考察
以上のように 駅頭・獣脚 にして 鳥 身の動物図像には、 ㎝) 蹄脚 グループと
(2) 獣脚 グループ
とがあ り、 さらに (1) には蹄が三叉 に 分かれたばあ いと 、 分かれていないばあ い とがあ る。 頭
は山羊、 羊 、 鹿、 犬などに似ており、 撫角、 独 角 、 双魚 の 3 種があ る。 いずれも北魏洛陽 期に
出現し、 北斉を経て、 唯 - 例ながら靖代にまで 存在した。
次に、 パルメットのような 草を衡 む 特徴が、 (1)、 (2) を問わず多数に 認められる点を 挙げた
い。 草を吐き出しているよ
う
にも思える。
第三に、 石に彫刻したものが 多く、 壁画は 2 例あ るに過ぎない。
さて、 このような特徴を 持つ動物は何に 比定できるであ ろうか。
惨説 であ るが、 猫笏は 二説文9 、 『神異経 』、 P論衡』いずれも「牛のようで、
一角であ る」とする。 上に掲げた図像 中 、 この記述に該当するのは 何家打出土銀盤の「 翼牛
のみであ る。 しかし、 これは唐代 のもので、 他側 はすべて北魏
一 北斉に属するので、
」
この銀盤
は別扱 い すべきであ ろう。
これも先に触れたが、 何家 村 銀盤の翼 牛を 『楚辞・離騒 d 、
にあ たるとする 孫機
伯 也 。 」と解し、
『
,
再 万里らの説があ る (孫 t989
惟 南子』 高誘註は
「
「
. 再 2007 コ。
准 南子
コ
などに見える「 飛廉
」
P楚辞 コの 王通 註は 「飛簾、 風
斐廉 、 獣毛、 長毛右翼」とする。 その形象についてはさ
らに 2 説があ り、 『漢書・武帝紀』顔師古註は「音的
文」とし、
『
日 、 身 似鹿 、 頭 如爵 、 有色面舵 尾 、 文如 豹
慶効 日、 飛簾、 龍雀也 、 鳥見、 鹿 頭。 」というのであ る。 そして孫は、 蹄脚も獣脚
一 27 一
も
何家 付 銀盤の翼 牛も皆 合わせて飛簾
と
見なした。 また、 正倉院の紅 牙搬鍛 琵琶 搬 子の独 角獣
(カラ一図版 5) がこれとよく 似る、 とも指摘している。 確かに古文献の 記載は、 当該動物図
像に当てはまるところもあ るが、 先秦 代 あ るいは漢代の 文献と北魏以降の 図像、 いわんや 唐代
のそれとの間には 大なる乖離が 存在する。
最後に セシ ム ルヴ説について。 コンパレッティの 他に 、
P 田boud
デラ クール C. Delacour
と
リバウド
ギメ の 獣像を 「大百右翼 神獣 」と表現、 「セン ムルヴ の類に属する」とする。 しか
も
し、 セン ムルヴ とされる図像は 他にあ り、 それらの特徴は 次のような点にあ る (ヵラ 一図版 6
∼ 9 )0
① セシ ム ルヴ は 翼と 尾が鳥のそれであ るが、 上半身と下肢が 獣で (多くは獅子の 可能性が高
く、 明らかに 騒駝と 判断できるものもあ る ) 、 時には下肢を 表現していない。
②腰を下ろしており、 天空の存在ではあ り得ない。
セン ムルヴ の図像は今まで サ サン 朝 ペルシアの領域内とソバディアナにおいてのみ
いる。 イラン・マリ ツ エヴァ 村 出土の瓶 (カラ一図版 6
ラ一図版 7) 、 パリ装飾美術館 Musee
. 8k
出土して
、 北 カフカス出土の 狩猟 紋銃 ( カ
des 甘 ts D cCor 醜憶, Panis が所蔵 する 錦や ターキブス
芭
ターン Taq-i-Bustanの鷹屋彫刻に 見える衣服の 紋様などで、 いわゆるトルキスタンには 認めら
れない。 また、 セン ムレダ 綾錦だけは ぺ ルシアより東のソグドの 地で壁画に描かれたが、 アフ
ラシア ブ のものは 7 世紀後半と考えられる
前半に 獣頭
・
獣脚
・
( 山本 199% 。 一方、 中国では 522 年を筆頭に 6 世紀
鳥 身の図像は出現している。 したがって、 セン ムルヴ が中国北朝の 墓の装
飾に 影響を与 , えたとは考え 難 い のであ る。
獅 名説、 飛簾 説 、 セン ムルヴ 説のいずれも 成立し得ない。 筆者はグリフィン 説を提起したい。
グリフィンとは、 鷲の頭と翼を 持つライオン 形の神話的動物で、 ギリシアと西アジアの 美術に
広く用いられたが、 誰よりスキタイ 民族が好み、 その初期段階 (前 7 世紀末 ) から金属工芸な
どの諸処に表現した。 確かに頭部は 鳥のそれなのであ るが、 不思議なことに 出現の当初から 耳
を有し、 末期 (前 4 世紀一前 3 世紀 初 ) になると、 グリフィンの 頭は鳥というより 獣に近くな
り、 中には角を有するものも 出現した。 例えば べス レネエフスク 第 17号クルガンから 出土し 、
エルミタージュ 美術館が所蔵 する 会 製品「逸文円錐形装飾」などであ る (東博 1978:12 。 年代
コ
も地域もかなり 離れているが、 スキタイが愛好していたグリフィンを
、 同じ騎馬民族であ る鮮
卑 族 が取り入れた 可能性は皆無ではあ るまい。 彼らと緑の深い 羊 ・山羊・犬などが 題材となっ
ていることもこの 考えを後押しする。
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、
カラ一図版
5
1
河ゴヒ
1 の部分
2
6
画像石 2000:45、
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康 2006: 図 4 、
2003: 形板 42-2 、
奈良 博 2000: ニ 、
筆者採択、 2
6 一8
2
7
3
表 1987:39 、
洛陽 1980:12 Ⅱ、
山西 2006: 形板 72 、
日経1985:70
・
80 129 、
一 29 一
・
3
9
8
2 の部分 画像石 2000:47
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西川l1966:135、
画像石 2000:69
太原 2005:13 、
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同朋