ウズベキスタンに建つ涙の結晶。日本人捕虜が見せた「誇りと意地」 ウズベキスタンの首都・タシケント市に建つ「ナボイ劇場」。美しいレンガ造りの建物で、 館内には繊細な彫刻も施されています。1966年に大地震に襲われるも無傷だったという このオペラハウス、実は日本人捕虜たちが建てたもの。無料メルマガ『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』で、「涙と感動の物語」が紹介されています。 ・日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい 1966年4月26日、中央アジアのタシケント市が直下型の大地震に襲われた。ソーヤは 「みんな外に出て!」と子供たちに向かって叫んだ。子供らの手を掴んで外に飛び出しな がら、「近くのナボイ劇場の建っている公園に行って! 噴水の周りに集まりましょう」 と叫んだ。あちこちの家が崩れている。 ソーヤがナボイ公園に逃げることを咄嗟に思いついたのは、20年前に、まだ少女だった 頃、ナボイ劇場建設に従事していた日本人抑留者たちから、「大きな地震が起こったら、 家が倒れて逃げられなくなるので、広場などに避難した方が良い」と教わったことを思い 出したからだ。 と、同時に、あの真面目で仕事熱心だった日本人抑留者たちの建てたナボイ劇場も壊れて しまったのだろうか、と気になった。多くの人々が、同様にナボイ公園に向かっていた。 1/6 しかし、公園に着いた人々は、みんな息をのむほどに驚いた。ナボイ劇場は、何事もな かったかのようにすっくと立っていた。 ・中央アジア各国の広まった日本人伝説 ナボイ劇場は地上3階建て、地下1階、1,400席を備えた壮麗なレンガ作りの建物で、旧 ソ連時代ではモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハ ウスと並び称される四大劇場の一つとされていた。 大地震で政府系建物240、工場250、約8万の家が崩壊し、タシケントの街がほぼ全壊し たといってもよい状況の中で、ナボイ劇場だけが無傷だった。 「外壁も崩れていないし、レンガ建てなのによく壊れずに美しくそびえ立っているな」 「レンガの張り付け、積み立て、継ぎ目などの仕事がしっかりしていたからびくともしな かったんじゃないか。建物の角やレンガを積み重ねて形造っている目地も相変わらず見事 な美しさだ」 タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凜として立ち続けている姿を見て涙ぐむ人も いた。ソーヤの目からも涙がこぼれ落ちた。子供たちに言った。「ね、すごいでしょ。あ の劇場づくりをお母さんも手伝ったの。でも本当に一生懸命作ってくれたのは、一緒にい た捕虜の日本人だったのよ」。 大地震にも倒れなかったナボイ劇場の話は、瞬く間にウズベキスタン国内だけでなく、隣 接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなど中央アジア各国に 伝わった。日本人は優秀で真面目な民族だという「日本人伝説」が広まり、1991年のソ 連崩壊で各国が独立した後に、国家目標として日本人を見習おうとする国も出てきた。 ・タシケントへ 奉天の第10野戦航空部隊で航空機の修理を担当していた永田行夫大尉以下250名がタシ ケント市に到着したのは、1945(昭和20)年10月下旬だった。8月15日の玉音放送を 受けて日本軍が降伏すると、19日にはソ連軍の航空機が次々と奉天の飛行場に着陸した。 ソ連兵は「ダモイ(帰国)、ダモイ(帰国)」と言いながら、日本兵を貨車1両に50人 もの割合で詰め込んだ。「帰国」と して抵抗を防ぎつつ、貨物列車は西に向かった。 2/6 日本の降伏直前に、日ソ中立条約を蹂躙して満洲になだれ込んだソ連軍は、戦争終了後に 捕虜をシベリアや中央アジアでの強制労働で使役するという、国際法違反を犯したので あった。 永田大尉の一行は貨物列車で約4,000キロ、1ヶ月半もかけてタシケント市に連れてこら れた。ここでソ連は革命30周年にあたる1947年11月7日までに、壮麗なオペラハウスを 建設する計画を立てていた。 航空機の修理をしていた永田の部隊に技術者が っていることから、この任務につけたよ うだ。他の部隊からも補充を受けて、永田は24歳にして、18歳から30歳までの457人 を指揮する立場となった。 ・「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」 1947年11月とは2年も先だ。「最低2年は、この収容所で暮らすということか」と皆、 がっかりした。永田は「我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は全員が 無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会することだ」と皆に諭した。 その後、測量、鉄骨組立、レンガ積み、電気工事など、各自の職歴と適性をもとに班分け をして、建設作業が始まった。 収容所所長のアナポリスキーは、「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」と、社会主 義の基本原則を押しつけた。その食事にしても、黒パンや塩っぱいキャベツの漬物、羊肉 と言っても骨ばかりで、1日2,000カロリーほどしかなかった。 しかし、仕事が違うのに、公平なノルマなどできるはずもない。床張り、電気工事などは 日本で職人をしていた人にとっては軽々とノルマを達成できるが、穴掘りやレンガ積みな ど、きつい肉体作業はノルマ達成が難しい。罰として食事を減らされると、体力が落ちて ますます難しくなる。数ヶ月も経つと、こうした不公平から不満が高まり、収容所内で喧 嘩にまでなりそうだった。 ・「今回は君たちのやり方を認めよう」 永田は「全員が無事に帰国する」という至上目的のためには、皆に公平な食事がわたるよ うにしなければならない、と考えた。しかし、アナポリスキー所長をどう説得するか。そ こで永田は、各自がノルマに応じた食料を受けとった後、公平に再分配させるようにした。 その光景を見ていたソ連兵たちは驚いて、所長に報告した。所長は食堂にやってきて「永 田隊長はどこにいる」と大声を出した。永田は「ここにおります」とゆっくり立ち上がっ 3/6 た。所長が「これは規則違反だ」と言うと、食堂はシーンとなった。永田は通訳を通じて、 所長の目をしっかり見つめながら、語り出した。 永田が「ソ連の社会主義政策では、働いた上で本人に与えられた物は、その本人が自由に 処分してもよいんですよね」と言うと、所長は「当たり前だ」。 それを聞いて安心しました。今日の食事は、ノルマ以上の達成で多くの量を与えられた兵 が、自分の裁量で配分が少なかった兵に自分の分を分け与えたんであります。その結果と して全員がほぼ同じ量、平等になったわけです。 所長は「してやられた」という顔で、「まあ、今回は君たちのやり方を認めよう」と言っ て、永田の肩をポンと叩いて出て行った。「度胸があり、兵隊思いのよい男だ」と感じ 入ったのである。 食事に関しては、ウズベク人たちの隠れた支援もあった。穴掘りに疲れて立っている青年 に、老婆が「私の息子は独ソ戦でお前と同じ年頃に死んだよ」と言って、手提げ袋から黒 パンをひと塊出して「お腹空いているんだろう。これを食べなさい」と言ってくれた。 「父母はどこか」と聞くので「東京にいる」と言ったら「おお、かわいそうに…」と肩を 抱いてくれた。その青年は涙が止まらなかった。こういう形で、差し入れをしてくれるウ ズベク人が後を絶たなかった。 ・「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」 1946年になると、工事を加速するためにウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り 込まれてきた。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいた。ソ 連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じた。 困った若松は永田に相談した。永田は「全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力 し合ってやろう」と若松の手を握った。さらに、こう続けた。 むろん、手抜きをしたり、いい加減なやり方で格好をつけた建物にすることもできると思 うが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良 のものを作りたいと思っている。 捕虜としてやるのだから別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだ ろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考え ている。さすが日本人の建設したものは、「出来が違う」といわれるものにしたいと本気 で思っている。… 4/6 捕虜になって多くの兵隊は生きる張りを失い、先も見えず精神的に弱っている者もみかけ る。そんな時だけに、自分たちがこれまでに培った技術、技能で世界に引けをとらない建 築物をつくるんだという一点を生きる気力の糧にしてくれたらと願っている。 若松は永田の言葉を聞いて、胸が熱くなった。「この人と協力して歴史に残るような建築 物を作るよう全力を尽くそう」と決心した。そんな「日本人の誇りと意地」が劣悪な生活 環境で、抑留者たちを支えていた。 ・「何のおまじないなのだ」 日本人の働き方を見て、ロシア人やウズベク人が不思議に思ったのは、皆で重い物を持ち 上げたりする時に、「セーノ」とか「ヨイショ」と声を合わせることだった。「何のおま じないなのだ」とウズベク人が聞いてきた。一人の日本人はこう説明した。 これはね、皆で重いものを持ち上げる時に、「セーノ」と言ったら、一斉に力を出して持 ち上げるんだ。日本人はなるべく皆が一緒に力を合わせてやった方が上手くいくと教えら れてきた。それが日本独特の「和」の精神さ。 「『ワ』というのか」と不思議がったが、ウズベク人たちも一斉に「ヨイショ」と声をあ げて力を合わせると石が持ち上がり、みんな「なるほど」という顔をしていた。 永田は、そんなエピソードを挙げて、アナポリスキーに「和」を説明した。 和というのは皆で一つの大きな仕事を完成させる時に最も大事な協力の精神の事です。皆 が助け合い足りないところを補いあうから、日本では仕事が早くうまくゆくのです。 2、3人の優れた者がいてもオペラハウスの建設のような大きな仕事はできません。日本 人はそのことを知っているので、皆が助け合って仕事を進めているんです。 さらに食事の平等な配分もこの考え方に基づいている事を説明した。アナポリスキーは「あ なたは立派なリーダーだ。日本人の協力の精神の源や仕事のやり方、生き方を知ることが できて大変参考になった。ありがとう」と永田の手を強く握りしめた。 ・「日本人は本当によくやってくれた」 日本人抑留者たちは、こうして建設に励む一方、休みの日には花札やトランプ、果ては麻 雀 まで手作りして、一緒に遊んだ。ソ連兵も面白がって、「教えろ」「教えろ」と麻雀 に加わるようになった。収容所内はぐっと明るくなった。 5/6 また、ソ連兵が時々、ロシア民謡を合唱しているのを聞いて、日本人の一人がバイオリン を手作りして、伴奏した。こうした動きが盛りあがって、ついには日ソ合同の演芸大会ま で開催された。近所のウズベク人も大勢、押しかけた。 他の収容所のように、ソ連の共産主義教育で洗脳された日本兵がかつての将校を吊し上げ る、というような陰惨な光景は、この収容所ではついぞ見られなかった。 1947年9月の初め、劇場が完成に近づいたので、永田はソ連側の了承を得て、仮の完成 式を行う事とした。無事に立派な建物を作りあげた事を皆で確認し、喜び合いたい、と思っ たのである。 9月中旬の日曜日、抑留者たちと、一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちが続々と劇場 前に集まった。永田が「皆の前に建っているこの壮麗なナボナ劇場は、私達日本人を中心 に一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちとの汗と涙の結晶だ」と挨拶した。 ソ連将校やウズベク人が永田に近づいて握手し、何事か囁いた。永田は大きく頷き、皆に 告げた。 ロシア人もウズベク人も「日本人は本当によくやってくれた。素晴らしい民族だ」と言っ ている。それと後で、私達の作った舞台でロシア人、ウズベク人がバレエを披露するので 見て欲しいと言っている。楽しみに見せてもらおう。 抑留者たちは、出来上がった劇場を見学し、後世に残る建物を作りあげたことに誇りを抱 いた。永田は見学後に、隊員たちに、もう一度、声をかけた。 日本はアメリカの爆撃でそこら中が廃墟のようになっていると聞いている。…ぜひ、諸君 らも帰国したら世界から敬意を表されるような日本を再建し、そのような日本人になって 欲しい。私たちはここで礎を築くことを学んだし、感じたはずだ。 永田は胸にこみあげる思いを呑み込んで、一気に話した。思い残すことは、もうなかった。 文責:伊勢雅臣 image by: Shutterstock 6/6
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