アジアの広域経済連携に 一石を投じるベトナム

 アジアの広域経済連携に
一石を投じるベトナム
環太平洋経済連携協定(TPP)に参加するベトナムは、同協定が求める高レベルの自
由化と構造改革を達成することで、輸出増加、対内直接投資増加などを通じ、参加国の
中でも最大の受益者となることが見込まれる。ベトナムの飛躍は、
TPP に非参加の周
辺ASEAN諸国や中国などにもプレッシャーを与え、アジアの広域経済連携の取り組
みを突き動かす可能性を持っている。
みずほ総合研究所 アジア調査部 部長 平塚宏和
中国株安・人民元安を契機とする年初からのグ
ローバルな金融市場の大混乱はいったん収まったも
のの、混乱の起点である中国の実体経済の弱さ、その
根底にあるバランスシート調整圧力が解消したわけ
アジアにおける構造改革の行方を考える上で、注
ではなく、新興国の経済・金融市場も下ぶれ不安を抱
目すべき動きがある。ASEAN の一国であるベトナ
えたままだ。米国の金融政策の行方も引き続き不安
ムが、ここにきて企業の投資・事業展開先として急浮
材料となっている。
上していることである。
それでも、新興国のうちアジアについては、高い成
本号でも取り上げているみずほ総合研究所のアジ
長ポテンシャルを持っており、引き続き中長期的な
アビジネスアンケートの 2015 年度調査では、海外展
有望市場であることに変わりはないという見方は根
開先として「今後最も力を入れていく予定の国」とし
強い。筆者もそうした見方を否定するものではない。
てベトナムを挙げた企業の比率が 2014 年度調査の
ただし、アジアの成長ポテンシャルは自然に発揮さ
48.6%から 53.5%に上昇した。他のアジア諸国につ
れるわけではなく、発揮されるための条件・環境を各
いては同比率が低下ないし横ばいとなっており、ベ
国あるいはアジア地域が一体となって整備していく
トナムの上昇が目立っている。
必要がある。すなわち、インフラ整備、円滑な貿易・
そ の 背 景 に は 、同 国 が 環 太 平 洋 経 済 連 携 協 定
投資や企業活動の効率性を阻害する規制・制度の是
(TPP)に参加していることがある。TPP参加国の中
正、金融市場の整備、地域内の経済連携の強化などの
で最も労賃が低いベトナムの強みが、TPP 域内向け
構造改革への取り組みである。東南アジア諸国連合
輸出拠点として繊維などの労働集約的分野を中心に
(ASEAN)では、ASEAN経済共同体(AEC)構想を軸
発揮されることが期待されている。特に、TPP によ
として、域内の物理的・制度的障壁を撤廃し経済統合
り対ベトナム関税の大幅な削減が見込まれる米国向
を図る取り組みが進められているが、政治的な障害
け繊維製品の輸出拠点としての期待が大きい。
から各国における国内の利害調整が難航するケース
こうしたなか、日本企業のみならず、TPP に参加
が目立ち、進捗は順調とはいえない。インドにおける
していない韓国や中国、香港の繊維関連企業の中に
改革の足取りも同様に鈍い。
もベトナムに製造拠点を移転しようという動きが出
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始めている。衣類分野で TPP の特恵関税の適用を受
いる。2015 年 10 月の TPP 大筋合意の後、タイのプラ
けるためには、製糸、生地製造、裁断・縫製の3工程全
ユット首相やインドネシアのジョコ大統領、フィリ
てが TPP 参加国で行われる必要があるという原産
ピンのアキノ大統領が新たに TPP 参加への意欲を
地規則(ヤーン・フォワード・ルール)を満たす必要が
表明しており、周辺国も座視してはいられなくなっ
あり、このルールを満たすことを目的とした対ベト
ている。
ナム投資の拡大が見込まれる。
さらに、ベトナムは、2015年12月に欧州連合(EU)
との自由貿易協定(FTA)でも最終合意に達してお
り、米国だけでなく欧州向けの輸出・製造拠点として
も注目される可能性がある。
これらの国が実際に TPP 参加にまで至るかは現
時点で何ともいえない。しかし、TPP へのベトナム
参加がプレッシャーとなって ASEAN 諸国の間に、
より高度な自由化と構造改革を進めようという風潮
が広がれば、ASEAN 自身の経済統合や、ASEAN が
TPP の効果は、関税削減による輸出促進だけで
打ち出して中国も参加する東アジア地域包括的経済
はない。TPP は貿易・投資分野における高レベルの
連携 (RCEP)など、アジアにおける他の広域連携の
自由化と透明性の高いルールの形成を目指すもの
取り組みを前進させる力となる可能性がある。
であり、参加国に対して投資・ビジネス環境の改善
そもそも ASEAN は、1990 年代前半から域内貿易
につながる構造改革を促す圧力になる。ベトナムに
の自由化を進め、2000 年代には自身をハブとして周
とっては、前述の輸出・製造拠点としての優位性と
辺6カ国(日本、中国、韓国、インド、オーストラリア、
併せて投資・ビジネス環境の改善も進むことで、繊
ニュージーランド)との FTA ネットワークを構築し
維分野以外でも対内直接投資の拡大が期待される。
ており、アジア地域の自由化・経済統合をリードし
ベトナム計画投資省傘下の中央経済管理研究所の
てきた。ASEAN を自由化・統合へと突き動かしてき
ボー・チー・タイン副所長は、TPPがベトナムの経済
たのは、中国などの経済的台頭による自身のプレゼ
改革・発展の転換点になるとの認識を示し、①輸出
ンスへの脅威であった。その後、ASEAN が AEC や
増加、②投資環境改善による対内直接投資の増加、
RCEPを打ち出した根底にも、国際貿易・投資ルール
③長期的な観点に立った経済構造改革による透明
の形成を巡る米国と中国の主導権争いのはざまで自
性あるビジネス環境の実現という 3 つの変化が期待
身が埋没することへの危機感がある。
できるとした。また、世界銀行によるTPP加盟12カ
実 際 に は 、T P P 交 渉 が 難 航 し て き た こ と や 、
国の 2030 年までの GDP 押し上げ効果の試算による
ASEAN各国およびRCEPに参加する中国、インドの
と、ベトナムは 10%と最も恩恵が大きいという結果
間で高レベルの自由化と構造改革を受け入れる意思
になった。
が共有されていないことから、AEC、RCEP 共に進
無論、ベトナムがこうした恩恵を享受するために
捗は鈍い。ベトナムの躍進を契機に自由化・改革に慎
は、TPP が要求する高レベルの自由化と構造改革を
重であった ASEAN 各国の姿勢が変化すれば、米国
達成する必要があり、そのハードルは決して低くな
との主導権争いで優位に立つために ASEAN の取り
い。ベトナムが参加への道を選択したのは、経済的実
込みを狙う中国にとっても看過できない事態となろ
利追求のために、TPP の外圧を利用して国内の反発
う。ASEAN 諸国の関心が RCEP から TPP に移るこ
をかわしつつ自由化と構造改革を推し進める覚悟を
とになれば、RCEP を重視する中国の戦略は大きな
決めたということであろう。
痛手を受ける。
TPP によりベトナムの浮上が見込まれる一方、
ベトナムは、小国ながら米国や中国といった大国
TPP に参加していない周辺 ASEAN 諸国は不利な
と巧みに渡り合ってきた歴史を持つ。そのベトナム
立場に置かれる。前述の世界銀行の試算によると、
が、大国が主導するアジアの新たな経済秩序の形成
TPP により非参加国にはマイナスの影響が及ぶこ
に投じた一石がどのような結果を呼ぶのか、注目し
とになり、なかでもタイへの影響が大きいとされて
たい。
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