WIJC160529聖霊に満たされた教会

1
2016 年 5 月 29日 聖書:使徒の働き2章 40-42 節
タイトル:聖霊に満たされた教会
序 論
●私たちは、肉体的・物質的に言って、「真空状態」には生きられない。同様に、私たちは、「心の真
空状態」にも生きることはできない。いつも何かの霊が、私たちの魂、心を占領するのである。真空
状態は無い。
●それゆえ、もし、私たちの心を、ご聖霊が満たさないなら、
1. 神様を必ずしも好まない霊、
2. 神様を疎んじ、軽んじる霊、
3. 神様を嫌う霊、更には、神様に反する霊が、
徐々に私たちの心を占拠、占領し、支配するようになる。
●多くの人は、「聖霊」に満たされる人生と「世的な霊」を心に持ながら生きる人生との「中間」を、
上手にバランスをもって生きられると安易に思っている。
●しかし、聖書は、そのような「中間の道(Middle Road)」を上手に歩こうとする『人間の知恵』は、
悪魔の前には全く無力であり、所詮は、小賢しい「サル知恵」に過ぎず、遅かれ早かれ必ず神様から
離れて行くことを教えている。
●勿論、私たちの現実は、信仰の初期において、その生活の中に、沢山の点で、聖霊に満たされた歩み
とその正反対の歩みとの中間的な状況・姿が入り混じっている。
●しかし、それは、その両方を上手にジャグルし、その「中間」を生きることを、「それでいいんだ」
と是認し、容認し、そこにあぐらをかいて生きるのとは大違いである。
●現実は、たとい、まだまだ両方が入り混じっている状態であっても、心は、「これではいけない」、
「もっと神様に近づきたい、もっと聖霊に満たされた生活、人生を歩みたい」と必死に求めている。
これが聖霊に満たされた人生である。そのことをパウロは、ピリピ 3 章 13-14 節で言っている。
●聖霊に満たされた人生には、出発がある。そして、そこから成長への長いプロセスが始まる。
●その成長には、成長のルール、原則がある。それは、律法でも、戒律でも、規則でもない。それは健
全に生きるための基本原則である。
●肉体的にも、呼吸することは勿論、飲むこと、食べること、運動すること、それらは、人間が、肉体
的に成長し、健康に生き、人生をフルにエンジョイし、その使命十分に果たすために、必要な原則で
ある。規則だから、戒律だからするのではない。
●霊的、信仰的な世界でも聖霊に満たされた個人、教会が、健全に成長していくために、実践するべき
ことがある。
●初代教会が、なぜあのように、あらゆる困難、悪条件の中でも、正に、against all odds の中で、力
強く成長し、一人一人がキリストの証人となり、世界宣教を成し遂げて行ったのは、彼らがこの原則
を熱心に実践して行ったからである。
●今日は、聖霊に満たされた個人と教会が実践するべき原則を初代教会の姿から学びたい。そのために、
もう一度使徒の働き 2 章40-42節、特に 42 節を見て頂きたい。
●ここに見る4つの原則は、これまでも何度も学んで来たことである。何も目新しくないであろう。し
かし、この教会の皆様が、この原点に帰り、留まり、いつも熱心にこれを実践していくために、絶え
ざるリマインダーとなるメッセージが必要と信じ、このメッセージを取り次がせて頂きたい。
本 論
Ⅰ.第一に、初代クリスチャン、初代教会が実践した原則とは、「使徒たちの教えを守る」ことであった。
「使徒たちの教えを守る」とは、別言するなら、「イエス様の教え」、「聖書の教え」を守ることである。
A,初代のクリスチャンたちは、「聖書の教え」を権威あるものと重んじ、それを固く守ったのである。
1.「使徒たち」とは、イエス様が「福音」を託すために神様によって特別な「権威」を与えら
れた人たちであった。
2.それゆえ、「使徒たちの教え」とは特別な「権威」を意味した。普通のことば、普通の人の
言葉とは区別される「神の権威」を意味した。
3.それが、「聖書」である。聖書は、神の言葉、神様の権威を持った特別な言葉である。
2
4.「聖書」とは英語で Bible と言われるが、ラテン語で元々、それは「本」と言う意味である。
5.しかし、それは、ただの A Bible ではなく、The Bible と言われ、世界中に沢山ある本の一
つではなく、「唯一の本」「本の中の本」として、他に比類・比肩するもののない本である。
6.具体的には、
(1)世界中、歴史上に、こんなに発行、販売、頒布された本はない。47 億以上
(2)世界中でこんなに「迫害」された本もない。何度となく聖書は焚書の迫害にあった。ヴ
ォルテールは、「今から 100 年後には聖書など世界になくなる」と豪語したが、100
年後彼の家はフランス聖書協会の倉庫になっていたという。
(3)世界中でこんなに、影響を与えた本もない。沢山の世界の著名人、文化人に影響を与え
た。例に枚挙に暇がない。これらの外的な面からだけでなく、更に、
(4)内面的に見ても聖書は極めて驚異的である。その最たる点は、以下に記すような条件下
でもそのメッセージの統一性・一貫性が、全く変わらず貫かれていることである。
●1500BC 頃から書き始められ、100AD 書き終えられるという 1500-1600 年間
にわたる執筆期間
●時代も、文化も、職業的背景も、社会的地位・立場も全く異なる 40 人以上の執筆者
●編集会議も、委員会も、マニュアルも全くなかった。
●にもかかわらず、メッセージは、一貫して統一している:唯一の神、人間を頂点にし
て万物の造り主なる神、神に対する不従順と不信の罪とその結果としての個人と世界
の不幸、御子の十字架による救いと世界の回復
(5)また、その写本数から見ても驚異的な本である。統計的、原典回復学的にに言って「原
本」をもっていることと同じと言える。
(6)最後にもう一つ、その翻訳数から言っても、聖書は 2500 以上の言語に全巻、また部分
が訳されている。正に前代未聞、空前絶後の驚くべき書である。
7.それゆえに、今でも、「もしたった一冊だけ本を持っていけるとしたら・・・」と言うアン
ケートの答えでトップはいつも「聖書」だと言われる。だからこそ、先ほども挙げたように、
●「三重苦の人」として知られるヘレンケラーをして、「私が毎日、もっとも愛読する
書物、それは聖書です。私の辞書に”悲惨”という文字はありません。聖書はダ
イナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。」と言わせ、
●文化と宗教を超えて、世界の聖人と言われるマハトマ・ガンジーをして「私の生涯に最
も深い影響を与えた書物は聖書である。」と言わせる。
8.初代教会のクリスチャンたちと教会の力の秘密は、これらの証拠のあるなしに関わらず、信
仰に入った直後から使徒たちの教え、即ち、聖書の教えを重んじ、固く守ったことである。
B.それでは、「聖書の教えを固く守る」とはどういう意味か?
1.まず、それは、言うまでもなく聖書を「読む」ことから始まる。
(1)聖書を「読む」とは、聖書に書いてあることをまず「知る」ことである。
●それは、当然「聞く」ことも含めている。
●パウロはローマ人への手紙 10 章で言う。「聞いたことのない方をどうして信じるこ
とができましょうか」(14)「信仰は聞くことから始まる」(17)と。
●聖書は、とにかく、まず読まなければならない。聖書から聞かなければならない。
●残念なことは、今日、これがほとんどなされていない。他の本は一杯読む。他の資料
には一杯耳を傾ける。インターネットやアイフォーンには一杯時間をかけているのに、
聖書は一日数分も読まない。最悪の場合は、聖書に触れるのは教会の集会の時だけ。
(2)更に、聖書を「読む」とは、聖書を深く味わうことを含んでいる。
●詩篇1篇2節に「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ず
さむ」とある。「口ずさむ」とは、よく言われるように「何度も何度もそれを反芻する
ように繰り返して味わう」姿である。
●それは、聖書の言葉を、客観的に、「あーそういうことか」と知って終わってしまう
と言う読み方でなく、その意味を深く考える読み方が必要である。
3
●そのためには、時間をかけて読む。そのために信仰書をもっと読む。多くの集会に出
る。牧師に質問するなどの努力をする。
●聖書は「命のパン」としてしばしば表現される。従がって聖書を読むことは「命の
糧」を食べることである。食べた物が栄養・滋養となるには、よく噛まなければならな
いのと同じように、じっくり味わう必要がある。
2.更に、「聖書の教えを固く守る」とは、「聖書を実践する」ことである。
(1)ヤコブの手紙1章 22-24 節「・・・・」でも、また、マタイ 7 章 24-27 節でも、
聖書のお言葉は、ただ読むだけ、聞くだけでは、何の意味もない。それを行う者になら
なければならないことが強調されている。
(2)初代のクリスチャンたち、教会を見るとき、今日の聖書箇所のすぐ後に続く部分でも、
明らかなように、彼らが、実践の人々であることが分かる。
●それは、互いに助け合って生きようとする愛の実践において(44-45)、
●信仰者としての成長において(46-47)
(3)たとい「聞いていても」、それを「実践」するまでは、イエス様がおっしゃったように、
その人生は、「砂の上に建てた家」と同じである。
Ⅱ.第二の原則は、「交わり」である。
A,「交わり」の大切さ。
1.「交わり」は人間の本性である。
(1)人間は「交わり」の動物である。
●だから、たとい一時的に「孤独」になることが必要であっても、
●それは、どこまでも暫時的、治療的処置であって、
●人間は、究極的に交わりなしに一人で生きていくことはできない。
(2)ナルシシストと言う概念を別にすれば、相手・対象が無ければ、愛は成立しない。複数
の人が愛し合って生きることにこそ、人間の幸せがある。
2.「交わり」の破壊と回復
(1)しかし、戦争を筆頭・頂点に、人間の罪がもたらす妬み、争いが、個人と世界の中にある
べき、この「交わり」を破壊し、不可能にしてしまった。
(2)今もそうである。自己中と言う罪によって、私たちは分離と分裂の時代に生きている。
3.福音による救いとは何か? それは、「交わり」の回復である。即ち、
(1)罪によって破壊されていた神様との「交わり」の回復であり、
(2)その結果としての人と人の「交わり」の回復である。
(3)エペソ 2 章 12-16 節を見ると、そこに、神から遠く離れ、その交わりから除外されて
いた者たちが、イエス様の血によって、即ち十字架によって神との交わりに回復され、敵
対し合っていたものも一つにされ、交わりが回復されたとある。
B.だから、クリスチャンは、イエス様が死をもって回復してくださったこの「交わり」を、感謝して、もっと楽しみ、
謳歌し、また深め、広げて行かなければならない。
1.言い換えるなら、クリスチャンは、人類で一番「交わり」を楽しむ人たちであるべきである。
だから、苦虫をかみつぶしたような顔で、独りぼっちでいるクリスチャンと言うイメージは、
特別な場合は除いて「オクシモロン」である。
2.しかし、確認しておかなければならないことがある。それは、ここに、英語でも、原語でも、
「定冠詞」がついていることである。即ち「The」 fellowship であって、a fellowship で
はないことである。
(1)言い換えるなら、とにかく「交わり」が大切だということで、「交わり」なら何でも良
いと言っているのではない、と言うことである。
(2)それでは、その「定冠詞」は何を意味しているか? それは、特別な交わり、即ち、
「キリストにある交わり」を意味している。
(3)「キリストにある交わり」とは何か? 一言で言うなら、それは、クリスチャン同志の
交わりである。
4
●私たちが、クリスチャンとして集まるほとんどが集会中心である。
●私たちは、もっと「交わり」中心の機会を増やすべきである。礼拝の前後、日曜日の
午後に、夜に、週日に。
●それが、教会の中でも、教会外でも、集会以外の、もっとクリスチャン同志の交わり
を増やすべきである。
●そこで、自由に信仰のことを話し合える交わり、普通の生活や趣味や家庭・家族の話
をしながら(つぶやきや不平も含めて)、でもそこで終わらずに、聖書で教えられてい
ることも関連して話す交わり、途中で、最後に一緒に祈れる交わりである。
●聖書の話し、信仰の話しをするが、会話の中にイエス様も出て来るが、それが余りに
日常生活に密接に関係しているので、ノン・クリスチャンも入れる交わりである。
(4)そのような「交わり」が、豊かになるとき、個人の信仰が地に足のついたものになり、
教会も全体として強くなる。
(5)なぜなら、多くの場合、まだまだ私たちの信仰と現実生活が分離している。「キリスト
にある交わり」こそが、それを一つにする大きな道である。
Ⅲ.第三の原則は「パンを裂く」ことである。
A,「パンを裂く」とは、「聖餐式」を守ることである。
1.「パンを裂く」と言う表現を、文字通り「食事の交わり」の意味と取る人もいるが、それで
は、先に学んだ「交わり」と重複することになる。
2.むしろ、聖書は、「パンを裂く」と言う表現をしばしば、単に「食事をする」という行為以
上の特別な意味を含めて用いている。それは、イエス様が、最後の晩餐の時に制定された
「聖餐式」である。その一例は、使徒の働き 20 章 7 節である。
B.初代の教会は、絶えず「パンを裂いた」「聖餐式を守った」とはどういうことか?
1.プロテスタントの教会の多くは、月に一回聖餐式を守る程度である。カソリックの教会は、
毎週日曜日に聖餐式を守る。また、修道院などでは、毎日、更に、毎朝晩と頻繁に聖餐式を
守る人々もいる。その意味で、初代教会は、よりカソリック的だったと言えるかもしれない。
2.しかし、だからと言って、私たちは、カソリック教会のように、もっと頻繁に聖餐式を守ら
ねばならないと言うことを意味しない。即ち「もっと儀式的教会になれ」と言うのではない。
3.大事なことは、「聖餐式」の意味をしっかり捕らえて、イエス様が言われたように、「食事
のときぶどう酒を飲むごとに、パンを食べるごとに」、イエス様が、私たちのために何をし
てくださったかを覚えることである。
4.私たちは、月に一度、儀式として、「聖餐式」を守るときだけしか、イエス様が十字架で成
し遂げてくださったことを思い出さないというような信仰生活ではないだろうか?
5.イエス様は、「飲むごとに」「食べるごとに」、「私がしたことを思い出しなさい」と言わ
れた。即ち、日常の「茶飯事」の中で、絶えずイエス様の十字架の意味を思い出し、味わう
ことである。
6.それが、本当の「聖餐式」の意味である。だから、ある Big City の若い牧師が、聖餐式の
材料に、ポテトチップとコカ・コーラを使ったという。それが何であれ、毎日飲む、食べる
そのことの中で主の死を味わう大切さである。
7.初代教会のクリスチャンたちの祝福の秘密は、日常生活の中で絶えず、少なくとも折々に、
イエス様の十字架を思い起こしていたことである。
Ⅳ.第四の原則、即ち、最後の原則は「祈り」である。(残念ながら、時間が押しているために、この最も
大事な課題に多くの時間を割くことができない。)
A,言うまでもないが、聖書の「祈り」は、「単なる、欲しいものを神様におねだりする」ことではない。
1.聖書の「祈り」は、神様との「会話」である。
2.だから、一方的に欲しいもの、欲しいことをリストアップして、それをくれと神様に報告し
たり、談判することではない。
3.むしろ、そのとことについて、神様とお話しすることである。良いの、悪いのから始まって、
なぜそうなのかと言うところまで入り込んで行く会話である。
5
4.それはしばしば、一回の単発の会話ではない。長期に亘るものである。だから忍耐を擁する。
5.その中で、私たちは、神様を知り、神様に扱われるのである。祈りは、神様との人格と人格
のぶつかり合いである。
B.そのような意味で、「その人が祈る人かどうか」、或いは、「教会が祈る教会かどうか」は、その人・教会が、
神に従う人・教会か、神に信頼する人・教会かどうかの試金石である。
1.神に従いたくない人・教会は、そそくさと少しは祈るが、上述のような祈りは捧げられない。
少し祈ったら、もうすぐに自分の考え、自分のやりたいことに進んでしまう。神に聞くより、
自分のやり方の方が正しいと思っているからである。
2.神に信頼していない人・教会も同じである。そそくさと祈るが、十分にも祈りもせずに、そ
の後すぐに自分の考えと計画に進む。神に信頼するよりも、自分の力に信頼する方を選ぶか
らである。
3.初代教会の特色は祈りであった。最初にペンテコステの日に聖霊を受けたときも、彼らは
「祈っていた」。その後、迫害を受け、使徒たちが捕縛されるという危機的なときも、彼ら
は、何を差し置いても祈った。使徒 12 章 1-5 節ほか参照。
4.祈りとその応えが彼らを支え、守り、祝福したのである。
結 論
●詳しいお話しをする時間はないが、締めくくりに、有名なブルックリン・タバナクル・チャーチのお
話しをしたい。風前の灯のようで、今にもつぶれそうな教会を任された牧師、ジム・シンバラは、当
時十分な神学教育さえ受けていなかった。案の定、彼はご奉仕に挫折し、失意のどん底に突き落とさ
れた。その失意の中で神様に示されたことがあった。彼は再び教会の日曜日の礼拝の講壇に戻ったと
き、少数の会衆に向かって行った。それは、「今日から、この教会が目指すことは、日曜礼拝に何人
集まるかではなく、祈祷会に何人集まるかである」と。「祈る教会」である。その日から教会は変わ
り始めた。間もなくその教会は、売春と麻薬の渦巻く最悪の環境の真っただ中にありつつも、人々が
どんどんその生活と人生から救われて、教会に加わり、その教会のメッセージとコワイヤーは、米国
全体、更に世界中に影響を与えて行くようになった。
●聖書のメッセージは明らかである。一つの小さなセクトのような宗教グループが世界の宗教になるよ
うな、力強い初代のクリスチャニティーは再現されなければならない。それは、単なる昔話で終わら
してはならない。
●しかし、それには、当時の弟子たちが求め、体験した聖霊に満たされることが必要である。
●しかし、それは一発で終わってしまうような単発的経験ではない。それを受け、受け続け、それを豊
かにして継続的に成長する道が必要である。
●それを今日学んだ。それは
1.使徒たちの教え、聖書を読み、味わい、それを実行することであり、
2.キリストにある交わりを豊かにすることであり
3.毎日の生活の中で十字架を思い、心の聖餐式を守ることであり、
4.祈りに専心する人生である。