欄( 右の @、 こ 乙 詠 手合 版 書房 の「血 「明星 穏 に山 き 歌 べ ぐ な集とたく「 すめ ど 』 し 最に 明 五号の 。 と j思 う 地 秋 期 墓 に 啄 口 がある 木短歌 も幾つ 短歌が によっ 記念す 手 を 日 も 顔の名 れ る た か べ そ と 「 筑 セ が 詠 て の も 白 と れ ㈲ が 世 笛 き き @乙 啄木 ﹁血に染めし﹂歌の成立にっ いて た き 素材論大方の と ( @% て 星ら 」 ひ 見を述かし、 新詩社 、 れると 掲載の ど 。 、十 る し ず た 題 である 寧 歳 、 明 こ 10 ) 町 草 歌にお の一 短 まず、 0 果、 の 数 奇 束 生 涯 啄 木 ので にそ 私は 詩 遂 才 あ の こ こ る 数奇 つ せる @@ 西 能を 舞 乍 。 位 の ) 金 見 明 に 8 把 に し な が き 啄 太 み ず @ , て い る 百 社 の 川 感 余 れ 啄 れ ら 所 が 堂 達 そ と解読 ある。 で 生 ら け で の 於て L 木 昭 17 涯を回 ずして る私の はない 頭 困 却 か し 苦 象 と スター い の 。 文 学 へ の出 ト 発 に お 、 は、 藤一手)U ・ 三 ム 一区 一 ての 窮乏の 卓 思 さへ 篇 結 抜 ふ 既 田 か 啄 木 登 氏の言及によって、盛岡中学校中退への決意を表明した歌として注 る ﹂と解説している。 このようないわば﹁明星﹂的視点は・﹁これも コねだれ髪 L 調の 歌が 、一首だけ日明星目に出ることになるが、 たれ 髪 ロ調の一つなのだが︶ 、 ﹂るという小田切秀雄氏 0 コ石 Ⅲ 啄 たいが コみ コ爾伎多麻 ﹂や﹁ 岩 学業を放棄するに至るまでの学校生活の苦渋と、そこから展望した 手 日報 口 に載った歌とくらべると、やや独自なものがこの舌足らず この歌における﹁野に叫ぶ﹂とは、自己の周辺に左右せられる 木の世界﹂︵昭昭・ 0作品のなかには見出されどの舌足らずということじ ことなく、信念のままに大宇宙に合体すべく、生の高調に理想 に集約きれる。 ﹁野に叫ぶ﹂とい,三 辞日 および姿態から、かの旧約の予舌口者 叱ぶ たのであろう。︵略︶しからば﹁さすらひ ここに野に 叫ぶ 秋 ﹂ こう見てくると、この歌を作る時、退学と上京とを決定してい とある﹁ 野﹂は実は﹁ 都﹂または﹁東京﹂とすべきで あった。 それをこういったところに空想があるわけである。この壮士風 作品ではない﹂と結んでいる。ところが、今井泰子氏 は ﹁石Ⅲ啄木 に求めて、﹁ただに明星的地楡や誇張による表現の華々しきに終る は ならぬのではあるまいか。ただこの歌、悲壮味 はあ り、鉄幹をつねに意識に置きつつこのころの啄木を見てゆ か れ も 、こうい う歌で成功していることに注意せねばなら ね 。つま れより 作品事典﹂︵岩城之徳編 ﹁石Ⅲ啄木必携﹂昭蛇 ・は刊︶の項目︵詩 ど、 歌としては空疎な作のように思われる。﹁血に染 めし ﹂ の 悲壮感の歌は鉄幹の影響下に成ったもので、日明子のそ 燈 ︶で、﹁そこに溢れ出ようとしている作者の若若しい情動と、悲 で、問題とするほどのものではあるまい。 歌 にも鉄幹の加筆があるかも知れぬが、それはおそら く 少量 ︵﹁啄木短歌の研究 ヒ昭牡 ・6 刊 ︶ るけれ 壮に近いまでの孤高の精神とには、まがぅかたない後年の啄木が現 く、舌足らずな歌いぶりはいわゆる明星調の影響によるものであ われている﹂としながらも、﹁表現の幼さはいまだおおう べくもな る者の声す ﹁主の道を備へ、その 略すぢを直くせよ﹂﹂という詞章 入野はさけぶ秋 V の原拠を、 ﹁マタイ伝目第三章の﹁荒野 に呼は 2︶ 想起きれる。︵﹁啄木八面に染めし V の歌﹂ ・ボトナム﹂昭㏄ 5 刊 ︶ へつらなり、さらに次の桂孝二氏の指摘 郷をうち建てようとする決意の表現であると見られる 。なお ﹁立命館文学﹂ 昭豹 ・皿 ︶という解釈から、 人生の理想実現への決意を示すもの﹂︵﹁啄木の文学 目 きれるよう になった。きらに、和田繁 二郎氏は﹁この歌は、彼が 四 と の で 。 と 説の ぽかには、﹁八仙 に染めし V歌が透谷をうたった 左手に血 に染む頭廟セっ提げて酒のみをれば君召すと 云ふ やせ や せて雄心をどる君がう た素串を裂きて血に染めて見ひ おく霜を はら へばのこ ろくれなるの血 しほ手に染む山砲野砲 血に染み し軍の旗につⅠまれて佐世保にかへる君がなきがら わが名咀ふ ︵﹁ 紫 ﹂︶ ︵﹁鉄幹子﹂︶ 手さぐり に血に染むな鬼火にやけし男児 いだきて城に泣く夢 調、桂 氏の 鉄 氏の マタイ伝、小田切 底 らの﹁みだれ髪﹂ 何 んの密ぞ 何 んの嫌ひ わが恋しのぶ , ぞれ示唆に富みながら、いずれとも判定しがたい憾みが わけ、与謝野鉄幹・晶子Ⅱ﹁明星﹂を重視する考えに る。たしかに、啄木の歌から 歌口血に染む 八明星調の影響による 壮 盛 V をよみとることはたやすい。そのようによみと れ 無柳に堪へず 短 きも他人の笛か が、やはりこの歌は﹁ただに明星的比倫や誇張による表 よ みこまれ、八血に染む V という表現だけでも容易に見 でペ Ⅰと る0 、啄木の中学校時代の短歌とを列挙してみよう。 第六号︵明㏄・ 9.り ︶ 一五 血に染める旗に捲かれしますらをの枢 おくれば夕立の ふる 水野蝶郎 ちなみに、﹁明星﹂の第六号から第三巻第セ号までの新詩社詠草 いざ宰相の駕横ぎらむ 鉄 が に 幹や晶子の歌には、﹁明星﹂カラーの八皿熱 ・ ・涙 ・歌 V 固 さに終る作品ではない﹂のである。 ては空疎な 作 V に聞こえよ う。その素材への解釈は和田 り の と 華 異 々 な し る Ⅱ ﹁破笛﹂の終節 9 刊 ︶などの興味深い指摘もある。このように瞥見 、この歌が啄木の文学的出発にかかわる初期作品のうち 特異な位置にあることがわかる。しかし、こと素材に関 も こそふきわしい﹂という碓田 のぼる氏の司啄木の歌と 昭邸 ・Ⅰ刊 ︶ や、﹁出発点での歌でありながら、むし すこしもおかしくはない﹂という加藤悌三 氏の コ石Ⅲ 啄 諸 も 以 上 し て 論 考 』 ( 焉 ( の 昭 歌 53 に も り L で 風 ぎ 幹 る し て と は そ 和 れ 日 極 め て か 生 終 末 だ あ は 八 挺 ハ 一 義 歌 種 が と の の し 悲 こ 現 氏 出 が す 官 当 こ 套 き と 的 の て に エ︶ 1 . 大槻月哺 山川登美子 第十二号︵明弘・ 5. わ ︶ 3.1 ︶ 馬場孤蝶 われ 似ずや上羽みながら血に染みて春の人日にかへりこし 鳩 第二巻第三号︵明 ㏄・ 相馬御風 うらみ深く古城の壁に小歌染めし春のタ のなきにしもあ らず 第三巻第一号︵明鍋 ・7. 托 ︶ 野 に立ちて叫ぶ子 ム﹁ 宵 いづち往にし冷たき石よ打つに立自なミミ 鹿鳴霜風 人の世に男の子と来ては血にそめし黄金の冠得ずにやま ざ ね ﹁岩手日報﹂所載の白羊 会 詠草︵明弘・ フ ・31 %. Ⅰ 海裳に春の雨濃きお ぱ しまや染めむの歌の絹なきタ 半月 今日の秋かぜよ めめ よの野の中にすくせやなにぞ 一本女郎花 ﹁爾佳孝麻 ﹂︵班目・ 9. れ ︶ さむ歌を君とがめますな 野の月に冴えしや銀の笛の昔の清しきびしのそビろ の 調べ 三浦秋水 水野蝶郎 白羊 会歌会草稿 裂かば花に 、砕かば琴の夢追ふ 子追ふて旅する命の秋 よ 。 明治三十五年日記﹁秋軸 密語﹂序歌 蓬踏みて叫ばむ友の野にありゃ、燃ゆる焔の、夕雲の秋 。 袖を掩へ 世の智に迷ふ 胸ひ めて、歌に秋しる 、タ 花の 蝶 。 明鍋 ・は・は︶ 若水 恭 ︶ 2. しみ旗のこして白旗に君の名みるよ二千里の西 号 ︵明弘・ かの 日 あやを血にそめてさても御胸 に歌強ひし 吾 や 一 ﹁盛岡中学校校友会雑誌﹂︵ たる扇のうちを血に染めて 血 み 汐 にかきて矢に結び 星 飛ぶ夜半を空に引かんか 前原茸 葉 @@¥¥ ""'"" 」 ︵ 明 ㏄・ 皿 ・乾 ︶ る恋の血潮に染めなしてこの世の白き色を奪はむ 水野 蝶郎 水野 蝶郎 に恋に 杓 っともなにか悔いん生血吹かずやわが歌の上 暮 血 にかきし歌いまさらに世をおどろかす人あやしむな 京の子 血の十字架を指すむかれ抱く羊は濫 へ掃 きじ ︵明弘, 染めてくやまぬもだえをば知らじといふか鳴呼つよ き 号 を ︵明弘・は・ 乾 ︶ ビ ︵明弘,Ⅱ・ 四 ︶ へ せ 号 か 八 号 た 千 号 き き第 右胸 の第 に世を第 秋 の第 指裂 に 第 へ 破 か れ へ 十 染 り 我 歌 血 狂 タ Ⅲに葦は枯れたり血にま どふ 民の叫びのなど 悲 しき や このように実に類型的な発想が﹁明星﹂の基調を形成していたこ ︶. には、﹁明珠﹂と題する詠草脇の 冒頭に次の エ9 とがわかる。啄木の﹁血に染めし﹂歌が掲載された前号の第三巻 第 九号︵ 明 ㏄・ 歌 ︵大矢正修︶が登載されている。 この 血 いまだ染めはてぬ野の多き見ればをのこの命 をしと思ふ 秋 ︵ことし八月八日はしなくも吐血して︶ みぶりである。ともあれ、﹁明星﹂の主宰鉄幹 好 右の歌から啄木はその表現措辞を借用したのではないかと思われ るほど、相似のよ みの歌口であることは自明である。啄木が﹁鉄幹をつねに意識に置 ⑳ 赤心 館 時代の啄木がその日記に﹁金田一着と語った。 明 治新思潮 0流れといふ事に就いて、大帳時代の自党の根源は高山樗年の自覚 にあったと語った。先覚者、その先覚者は 然しまだ 確た るものを 捜 かである。 樗 ソ ﹂︵暁町・ 7.6 ︶ と 絶句してい 、敗れて、考へて 、 泣いて、 結果は今の まなかつた。・・・⋮自分自身の心的閲歴に徴しても明ら 年 に目をさまして、戦って 自然主義︵広い意味に於ける︶ に㎎ 発︶表の評 る よ う に、啄木の思想的展開は常に樗牛 との交錯のう ん になされて いたといえる。﹁岩手日報﹂︵明鍋 ・3. Ⅱ1 3. ﹁甘苦語 ﹂︵Ⅲ写実の意義︶が 樗牛の ﹁近世美学﹂︵明 %.9 刊 ︶ を援用したものであることや、同紙︵明鵠 ・6. エ ︶に 発表の﹁ 五 ぎつつ﹂敢えて鉄幹好みのよ みぶりをしたのか、それとも鉄幹の加 筆 があるのか、いずれにしてもここからは初期短歌とくらべて 八や る ﹂ 鮪些と や 独自なもの V を見出すことはむずかしい。では、この歌 における ︶、﹁美的生活 すを ﹂論 ︵。 ﹁太陽﹂明弘・ 8 の沈黙を破 5 ︶におけ る エイチェ主義・本能主義は、まさに﹁魔 語の如く﹂ 当時の青年た 1.5 って文壇に提唱した﹁文明批評家としての文学者﹂︵﹁太陽﹂ 明糾 周知のように、積年が明治二一十三年夏の喀血療養以来 盤を樗牛の時代思潮論︵法則と生命︶に求めていたことがわかる。 評しているところにも、中学時代の啄木がその自我実現の精神的基 以外に超脱して居る所、正に時に叫ぶ ]予 ]言者の姿であ︶ ︶の 月乃 文壇﹂︵ ニこで早々 と樗 牛の文芸時評をとりあげ ﹁被 れが 俗目 歌 をよみ つ ロマ ン チシズ立封 独自なものとは何か。い うまでもなく、悲壮味 のある 詩情は鉄幹 晶子の﹁明星﹂だけにかぎらず、明治二一十年代の 敵 に通有のものである。つまり、啄木が﹁血に染めし﹂ つ、その深刻な脳裏に閃かせていたものからこそ八独自 なもの V が ぅ かびあがるのではなかろうか。端的にいえば、盛岡漢氏村から 遥 嵩山棲 牛 の痩 かな鎌倉の地で、ひたすら肩駒の癒えるのを祈念する一 容 であったに違いない。 一セ いわば愛の福音書として大いに歓迎するところであった。とまれ、 ぢを動かし、すでに 堀 ムロ節子との恋愛に燃えていた 啄 木 としても、 といえ よう 。かさねていえば、 御座候ふ︶には、 樗牛と見合う強烈な自我発揚がたた えられている 西南北﹂︵ 明あ ・7 刊 ︶の 人自序Ⅴ︵小生の詩は 、即 ち 小生の詩に 一八 樗 牛の八日本主義 V から八個人主義V への転換を統一 的にとらえ、 として造型されたのは﹁感傷と侶傲の両極のあわいをはげ しく揺れ ナナト ス ⅡⅡ ヰ Ⅰ ハ ハトⅩ ている﹂︵ 癬畦︶ 樗牛の ﹁滝口入道﹂が感 傷的な武人 明治青年に共通の八素朴と感傷V 八据傲と 純情 V とい,ヮ二つの魂の ⅡⅠⅩⅡⅠ ハ ナナ ナ からだと道破きれる前田愛氏の視座は、鉄幹の﹁東西南北 ﹂﹁天地 矛盾から生まれる﹁ いはば 感傷による自己批評という近代日本文明 の 一つの原型が 樗年 において明らかにあらわれている﹂ 玄黄 L のよみとりにも適用できるのではないか。 繍魅 とい ぅ橋 Ⅲ文三氏の卓見に従えば、わが啄木の文学的資性も八 感傷によ つまり、矛盾する二つの魂を内包させた樗牛 ・鉄幹らの ロマン的円 資性︵Ⅱ主観的・感傷的本性︶をどのように統一的にとらえ発展 き も つとも、 こ 樗牛と同世代の鉄幹 せてゆくかが、啄木の文学的出発における重要な課題であった。 と る自己批評 V の系譜に求められるのではなかろうか。 の文学的履歴にも等しく投影している︵それぞれの師である井上哲 ころが、前述のように学業を断念せぎ るをえない状態に あった啄木 のような矛盾にみちた明治青年の精神作用は、 次郎の漢詩﹁ 孝な 白菊 詩 ﹂と落合直文の和訳新体詩﹁ 孝 女 白菊の歌﹂ ある。 学業と故郷への訣別を決断する絶好の命題︵Ⅱ方便︶になったので 樗牛 の六天才 憧惧 Vは、その失意・屈辱を希望・虚栄に置き換え、 5 ︶ を 渇仰する にとっては、﹁天才の出現﹂︵﹁太陽﹂明弘・Ⅱ・ 5 ︶が 、 ︶. として﹁ 言説 徒 らに ェ2 得は則 ち 足る﹂ 明鵠 ・1 とにそのアナロジーがある︶。たとい、日蓮崇拝にかたむく 樗牛の ﹁現代思想界に対する吾人の要求﹂︵﹁太陽﹂ 唄 わ・ ﹁ム﹁日の宗教は一人の宗教たり、自ら修めて自ら ︵﹁高山樗牛に与ふ﹂﹁明星﹂ 樗 牛の天才主義への憧倶は 、﹁予は矛盾の人出、煩悶 0人出、予 多弁空語あって 実修 なく、矛盾あって徹底なし﹂と鉄 幹 に冷評され よ うと 、さらに﹁凡そ明星一派の詩、清新は嘉みすべきも 、軽浮は 1 敗亡の 芽也 、屈 辱 の見世、 佃 6.5 ︶ や ﹁君よ、 が 今日までの 短 かき生涯は 、実に是の矛盾煩悶の中に過 どされた 予は敗亡の 身 なりと 云 へり。げに り﹂︵﹁姉崎潮風に与ふる書 ﹂﹁太陽﹂明弘, 明胆 ・8.5 ︶ という 樗牛 厭ふ べし﹂︵﹁無題 録 十八町﹂﹁太陽﹂ 鉄幹の﹁ 東 の酷評に対して、鉄幹の反論﹁ コ紫口を足下に進めて 恥 ちず、自ら 鉄を打つて出せるの短刀なるに在り﹂があるにしても、 念 の見世﹂︵ 明綴 ・Ⅱ・蝸付、姉崎潮風宛書簡︶など の深刻な思想 けず、眼に美色を絶ちて、化性さながら禅房の中に等し。 あ Ⅰ ひ送 人生酒を絶つて何によりてか行楽 せむ 。五口 れ曽 つて 君 に舌口 ニイテエ讃美から日蓮讃美へと変わ りつつあった 的 動揺のうちに、 破満腔の血一斗を吐いて死なむと。 なか︶ にの 次の たり 得 病勢悪化のため絶対安静・執筆禁止を命ぜられていた樗牛が 然も ず。 鳴呼世に棄てられて世を怨まず、人に顧みられずして人 に背か りね 、 君 還り 来 まき ぱ 願はくは一夕清見潟の海棲に痛 欲 し、 某 が 、薬餌に親しむ彼の胸中に去来していたのは六天才憧惧 V 思索の ⑬ 地Ⅱ清見潟への切ない追想にほかならなかった。まさ にドイツ留学 明鍋 ・9.5 中の潮風からの﹁再び樗年 に与ふる 書 ﹂︵﹁太陽﹂ 明 鍋 ・8.5 ︶ に対する返書﹁感慨一束﹂︵﹁太陽﹂ 注目すべき表現がある。 ﹁何故に日本人は斯く少しの苦悶と煩悩とを有して優々 此 邦の人は如何ばかりその真土忌 を 解せし 候 。君が三月の開書は げに 警世の て、夏休み明けの九月二日に学校側の処分︵各答案を無効 とし 講責 何為によっ んだことであろうか。五年生の 一学期末の試験での不正 ゲ ヮな思いで 読 大文字にて候ひしが、 に処すること︶を受けていた啄木が、その出席時数の甚だしい不足 血涙をしぼるかのように認めた感慨を、啄木はどのよ, か。︵略︶去りながら眠れる人は何時かは醒めむ。 迷 へる人は ともあわせ落第必定であることは覚悟していたに違いない 。その謎 るや 口。君の疑はれし此の疑問は早晩日本人の自覚を喚び 起す 何時かは悟らむ。天の霊光背ほ此の国に空しからずむ ば、吾等 責 処分が全校に発表された九月二日から三日後に発行の ﹁太陽﹂丑め べき力を有し来るべしと存じ の舌口 葉 に聴くことの 挽 かりしを悔ゆるの時機は早晩来らむ。 吾 下に思いを 馳 上に﹁感慨一束﹂が掲載されたのである。潮風との高ム ハト ハ は 、失意の啄木にとっ ﹁満腔の血一斗を吐い て さぞ救世主の声と聞こえたことであろう。 ⅠⅡⅩⅡⅡⅠ 卜 て死なむ﹂﹁世に棄てられて世を怨まず﹂ した 樗牛の ﹁ 吾等君 と共に 暫 らく野に叫ぶ 人 たらざる べからず﹂ せていた渡欧︵官費留学︶を断念、きらに東京帝国大学講師を辞任 等君 と共に 暫 らく野に叫ぶ 人 たらざるべからずと存じ候 。 此頃は駿河湾清見潟の風光信妹の間に往来致し、曽遊の感興ム﹁ 更の如く想ひ出され申供。何れ是の秋頃にはか の地の客となる べきかと懸念致し居り候ひぬ。病にかしりてよ9 ロに酒盃を接 一九 事なり﹂と憂慮していた啄木が、樗生を﹁正に野に叫 ぶ予言者﹂だ ここに、すでに﹁高山博士病重りて枕に就くと、蓋しわが文壇の恨 の 理想郷を建設せん﹂と東都の人となった。 岡で堀合節子と別れを惜しみ、遂に十一月一日﹁人生 高調に自己 かくて、啄木は十月三十日朝故郷渋民 村を出発、翌三十一日朝 盛 二O と看破しえた所以がある。つまり、落第それとも退学かの窮地に立 たされた啄木は、この孤高の雄叫びとでもいう べき樗牛のプロテス ト にあらたな活路︵離郷・上京︶を見い出し、それこそ 一気呵成に ﹁血に染めし﹂歌を作り、原稿締切 目 ︵九月十 ゼ日︶に間 に合,ヮよ ぅ新詩社に投稿したのではなかろうか。あえて﹁鉄幹をつねに意識 に置きつつ﹂というのならば、前号に登載された大矢正修 め 0皿いまだ染めはてぬ野の多き見ればをのこの命をしと思ふ秋 から鉄幹好みの歌口を察知していた啄木が、樗牛 の表現に素材をえ ながら﹁明星﹂調に工夫したと考えるべきではなかろ, っか。ともか く、啄木は﹁血に染めし﹂歌が﹁明星﹂十月号に登載されることに 自己の命運を賭けていた。﹁石川自頗 ︵東京︶﹂といっ , 署名にも、 少年啄木が﹁感慨一束﹂にこめられた樗牛の清見潟 への執着をど れぽど理解しえたか定かでない。日清・日露の両戦役間、たえず論 壇の立役者であった樗牛がその病没まぎわに嘗めなけ ればならなか ったハ孤立・疎外V感に一種の精神的血縁をくみとり、 ﹁正に野に 叫ぶ予言者﹂という認識から、啄木なりの﹁血に染めし﹂歌が作ら れたということは既述のところである。その人生行路のただならぬ ことを予見していたかのような歌いぶりは、たしかに八終焉の歌V にふさわしい。樗牛への哀傷の意をこめた挽歌ともとれよう。その りまく周囲の諸事情は彼の上京をたやすくさせるもの ではなかっ 鍋 ・皿 ・り付、渋民何より︶と追記しているよう に、啄木 一家をと 越毅夫宛書簡に﹁五口は暫らくこの地に起臥してん思 とひ居候﹂︵明 ひここに時にさけぶ秋﹂を昂揚させ、自己の理想郷実 現 へ立ち向か ﹁血に染めし歌をわが世のなどり﹂として、その超俗情 神 ﹁さすら らもいえる。樗牛的自己主張をのりこえようとする 訣別の思いが 発見した﹂︵﹁時代閉塞の現状﹂︶樗牛から離れ始め ていたことか ことは、すでに啄木が﹁その迷信の偶像を日蓮という過 去 の人問に た。九月二日の処分発表から十月二十セ日の退学願提出 ︵受理︶ ま ったのである。上京後の啄木は、まるで樗年の抑圧から 逃れるかの よう に、その日記・書簡でも樗牛への言及をさけている。上京から でに費やされた日数が暗にそのことを物語っているよヮ ,に 思われ 啄木のしたたかな決意がうかがえる。しかし、盛岡中¥佼の友人細 ㈲ 窪 およそ二月後 牛の死についても、不思議なことに啄木は何も語 るやう な現実の生活﹂︵﹁暗い穴の中へ﹂︶を直視し た, @ ん, ず 慎一宛書簡︶と考えていた樗年会にち、積極的なはたらきをみせた ぅ 。国崎里人太郎氏の指摘するように﹁啄木の文学的発想が浪漫 生 らく現代を超越せざるべからず﹂が生かされていたからだといえよ という人向上的意力Ⅴを堅持していたのも、 高きより飛びおりる ど とき心もて という形跡もない。わずかに渋尻高等小学校代用教員時 代の ﹁教育 義 に基盤をもっていることは周知のとおりである。 らない。﹁樗牛は我らが思想上の恩師であるし、且つ日本史上に、 の最高目的は、天才を養成する事である﹂︵﹁村中書﹂ ︶という発 主観的感情の奔騰にとどめず、むしろ樗半的な自己主張の立場にた この一生を 言に、かつての樗半的影響の残英がしのばれるが、再 び啄木のまな 敵 は、 樗牛向 ってそれとの統一において自己形成をふみだしたところに啄木の新 尤も高価な血と涙を以て記るきれた偉人の一人であるから、生は出 ざしに樗牛像がよみがえるのは、明治四十一年の捲土 重来を期した しさがあった﹂︵﹁啄木論﹂︶。この﹁血に染めし﹂ き意味をもっ 終るすべ な きか 上京まで待たなければならない。上京直後に書かれた﹁ 北海の三都﹂ 化からのいわば 八歌 のわかれ V としても実に記念すべ 来る支け、かの会のためにも尽力したい﹂︵明師 ・3 皿付 、小沢 によれば、八血痕はだらなる V北海道生活にたえられた のは、ひと ているのである。 樗牛 の遺 訓 ﹁吾人は須 えに入人性本然の向上的意ガⅤを抱きつづけていたからであった。 注①今井泰子 氏は 、 その大著 門石川啄木論 口 ︵昭鵠 ・4 冊︶の 策 し かし晶子的な まきしく、これこそ啄木が座右銘 とする樗牛の ﹁法則の生命﹂︵注 ⑧︶の謂であることは自明である。 ﹁身も心 二章で初期作品に おける啄木の人生構図を詳しく跡付けなが 中絶のエッセイ﹁樗生死後﹂︵明蛇 ・2. エ起稿︶で ち、補注︵一四︶ で次のような傾聴すべき見解を提示してい のか。これも未完の最後の小説﹁我等の一団と彼﹂で描 こうとした も腐って行く様な果敢ない﹂日々に樗牛などり思い起 こそりとした る。 ﹁野﹂は、朝野の﹁ 野﹂、野史・野党などの ﹁野﹂の意味をこ めた﹁野にさけぶ﹂という慣用句と理解され ただしこの歌の 八現代の主潮 V と樗牛はどうかかわるのか。このよう に明治四十一 年の上京以来、啄木はかつての樗牛同化から離反、さ らに批判的立 場 に転じながらも、﹁暗い穴の中に割膝なしてぎ つしりと坐ってゐ -一一 る 。詠出の約三 ケ月前にっぎの言がある。﹁彼 れが 俗目 以外に りそむきて泣きて忘れ草つむ﹂と、第十一号に掲載の野村町村 第八号に掲載の山Ⅲ登美子の﹁それとなく紅き花 みな友にゆ づ 一一一一 ﹁五月乃 の ﹁紅き 花友 にゆづりて忘れ草つみます君を夢に 見るころ﹂と 超脱して居る所、正に野に叫ぶ予言目者の姿である﹂︵ 6. エ ︶。 樗牛評 であるが、 その 樗 文壇﹂﹁岩手日報口唄お・ ④藤村﹁若菜集﹂の﹁草枕﹂﹁牝馬﹂、晩翠﹁天地有情﹂の﹁ タ の謎めいた歌いぶりにも、鉄幹の思惑がからんでいるとも考え 来らむ。 吾 尊君と共に 暫 らく野に叫ぶ 人 たらざるべか らずと 存 の思ひ﹂、沈重コ草笛 集ヒの ﹁遊子﹂︵⋮⋮吾は清 せたり、歌屑 年 にもつぎの表現がある。﹁天の霊光背ほ此の国に空しからず じ候 ﹂︵﹁感慨一束11姉崎潮風に与ふる書 ﹂ コ太陽 し 明お ・ にノからくれなるの血を染めて。︶。啄木みずからもその中学 られる。 9︶。とすれ ば、啄木の作品に頻出する﹁ 野 ﹂の ィメ |ジこ@ 時代を﹁・・・⋮旦 暮菜集しや日暮笛集﹂を懐に しては、︵略︶ コ若 むば 、 吾等の言葉に聴くことの 晩かりしを悔ゆるの時機は早晩 は、人生一般の荒涼感だけでなく世の主流に立ちえ ぬ 者の疎外 青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学 校 へ行って 乾 ︶と 虹 年 9月仏日﹁日記﹂ とある0 足れ日本第一の法華経の行者にして、謙知木頭の 予言者なり﹂ ⑦ 樗牛の ﹁況後縁﹂︵﹁帝国文学﹂ 明鍋 ・1. 膿 ︶ に 、﹁日蓮は ⑥明治 ⑤評論﹁時代閉塞の現状﹂︵ 明禰 ・8宿︶ 列﹂﹁明星﹂明籠 ・は︶と回想している。 も、倫理の講堂で頴と﹁乱れ髪口を出して読んだりした﹂︵﹁葬 感も潜むに違いない。 ②佳孝二氏は、最近の﹁啄木短歌の解釈㈹﹂︵﹁ 啄 本 研究﹂ 第 私 4 号、昭 訊 ・4 ︶でも、この歌が﹁悲壮味 のある 男歌 である﹂ として、鉄幹の影響にあることを強調している。 ③金田一京助は岩城 之彼氏との対談で﹁⋮⋮しかし そのころ 昭㏄ が投稿した歌には与謝野さんの筆がはいっているのですね。 そ の 直し万が問題があったのです。﹂︵﹁国文学﹂ 証言している。きらに、島津忠夫氏の﹁ コみだれ髪 白が 晶子の ﹁法則の生 命﹂︵新しき声の最早や響かずなりたる時、人は死語の中より ⑧﹁太陽﹂︵ 明㏄・ 5.5 ︶の文芸時評に書かれた られた作物であった﹂︵﹁みだれ髪の成立と鉄幹,晶 子 ﹂ コ国 所謂法則なるものを造り出づ。是を以ての故也、所謂法則の栄 好みのままの 詠作 でなく、鉄幹の意向に添ってあえて作り上げ 語国文目 昭 ㏄ ,膿︶という指摘もある。たとえば、﹁明星﹂の 手今 00 線﹂ ︶︵ 、﹁ ﹁岩 戦雲 、啄木は﹁無 処、そこには必ず生命の死滅あるは ソ︶ 在なる録 ﹂ ︵﹁岩手日報﹂ 明 ㏄・は・ 校 校友会雑誌 報 ﹂ 明 甜 ・3.3 ︶、﹁村中書﹂︵﹁盛岡中学- 明 Ⅱ・ 5 刊︶ 央 公論﹂ 明佃 65 起. 稿︶など ︵﹂ ﹁小樽日報 Ⅰ﹁初めて見たる小樽 皿 ・Ⅱ︶、﹁北海の三都﹂︵ 第 q官、明 如 ・3.1 明邸 特集明治故人評論︵一︶ | 高山樗牛﹂︵﹁中 返し引用している。 繰り, ⑨﹁ 高山樗牛﹂︵﹁日本の思想家ヒ 2、 昭銘 第仏骨、昭 毬 正︶ 井上 巽軒と 高山樗牛﹂︵﹁日本近代文学﹂ 国略 聖火太郎﹁啄木論﹂︵﹁国語と国文学﹂昭弗 ・4、 コ 5︶ ⑪﹁ ⑫ その前後﹂所収︶ 木と一 4︶ Ⅱ ハ㌣﹁・清見潟日記﹂︵﹁中学世界﹂班田・ 況後録﹂の﹁刀杖瓦石もて身に流されたる呂蓮 が 血潮は ⑭﹁ ・ て妙法勝利の願文に染められたり﹂や、 ﹁静思 録 ﹂︵﹁ やが混々として 流 平 津ニ胡 鍋 ・3 ︶の﹁そして自らの力の痕より, 出づ る血潮によりて自分の喉を潤した時、悪魔一の声は吾れ 昌 。 ﹂にも悲壮なまでの生への執着がうかがえ一る の如く﹁吾は汝なり﹂と勝ち誇りげに自分一の心の耳に帰 の 土戸 た 明押 ・1.0 ,一 恒︶一 、﹁ 小石 沢 ょれば、その原稿締切は毎月十五日前 ⑮啄木の姉崎朝風宛書簡︵ 木 ﹂︵ 昭 Ⅱ・ り刊 ︶ ⑯﹁明星﹂の社告に 月 十三日限 其他は十セ 日限﹂とある。 嘩風 ﹁清見潟の一夏﹂︵﹁太陽﹂ 上︶ 上 明 ㏄・㏄ | Ⅰ あたるが、先月号︵ 明肪 ・9.Ⅰ︶に﹁次号原稿締切 絵画 ⑰姉崎 樗牛が 墓の中へ持つて行った夢だよ。 ﹂ 樗年 にかぶれてゐ た時代が有った﹂高橋と、﹁時代を するといふのは、 ⑩﹁ ぅ八私 Vとの対話︵第三章︶のなかに、啄木自身の主体的 を統一し強化していく方向性がひそれでいるのではないか 田博 ﹁啄木小説の世界﹂ 昭防 ・9 刊 、参照︶。 昭明・ り ・毬 初稿 昭坊 ・コ ・3 箱 稿 は 啄 後 に L フ 餌 口 」 」 に 啄 大 れ ら い
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