東京都立大学での社会教育研究 40年

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東京都立大学での社会教育研究40年(大串隆吉教授退
職記念)
大串, 隆吉
人文学報. 教育学(43): 5-26
2008-03-00
http://hdl.handle.net/10748/3312
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Departmental Bulletin Paper
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http://www.tmu.ac.jp/
首都大学東京 機関リポジトリ
東京都立大学での社会教育研究40年
大串 隆吉
Wie anders hast du mich emfangen,
Du Stadt der Unbestandigkeit!
Die runden Lindenbaume bluten
Die klaren Rinnen rauschten hell,
Und ach, zwei Madchenaugen glUhten!
Da war’s gescheh’n um dich, gesell!
一シューベルト「冬の旅」〈かえり見〉より一
私が東京都立大学人文学部に入学してから,すでに43年になる。履歴にある
ように都立大で学び,研究者の道を選んだ。その研究の分野は,教育学の中の
社会教育である。社会教育研究の偉大な先達である故小川利夫氏は,最終講義
「社会教育研究40年一その回顧と展望」を,大著『社会教育研究40年一現代社
会教育研究入門』と題する『小川利夫社会教育論集第8巻』として残された。
奇しくも,私の研究生活も卒業論文を出発点にすれば40年目になる。しかし,
私のそれは,小川利夫氏の研究の規模,その雄大さ,斬新な問題提起などには
お呼びもつかないから,内心伍泥たるものがある。とはいえ,定年に当たり,
何かを書き残すことが義務であるらしい。そこで,都立大で学び,教鞭を執っ
た者として,「社会教育研究40年」概括的に書くことによって,後輩の方々の
参考になれば良いと思っている。
わたしの故郷
私は,1945年2月11日に疎開先である母の実家で生まれた。2月11日は最後
の紀元節である。母の実家は,有田焼で有名な佐賀県有田町と有田焼の積出港
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であった伊万里とのほぼ中間の宿場,大山村大木で醸造業を営んでいた。この
地域は,典型的な日本の農村で,神社では夏祭りの時期には,たくさんののぼ
りが立ち,大道芸人がたくさん来て,墓の脂売りなどをしていたし,お寺の夏
祭りには奉納の盆踊りがあった。小学校の運動場で夏の夜に映画会があった。
そのうちに,場所が体育館に変わった。映画館は伊万里にしかなかった。夏に
は川に泳ぎに行ったり,タニシをとったりした。科学肥料が使われるようになっ
た1950年代末になると,川で泳ぐことが禁止された。
家格の上下が存在していた。また,小屋がけの共同風呂も作られていた。な
んと,この地域は五右衛門風呂であった。風呂に入る順番は男が先,女は後と
決まっていた。村の中心地には,村役場,農業協同組合事務所,消防団,小学
校それに床屋があり,火の見櫓が建っていた。村長選挙は二っの村が合併した
西有田町になると旧村毎に候補者が出,偵察や夜になると旧村の入り口に見張
りが立っていた。
数年前に有田焼の始祖といわれる李参平(イ・サムビョン)の過去帳が母の
実家の菩提寺である竜泉寺で見っかった。この人は,豊臣秀吉が起こした朝鮮
戦争の際に,朝鮮から連れられてきて,有田で焼き物に従事させられ,有田焼
の始祖になった人である。この人の過去帳が,母の実家の菩提寺にあったこと
は,その辺に朝鮮から連れてこられた人が住んでいた可能性がある。ひょっと
すると,私は彼らの子孫かもしれない。
2005年に劇団わらび座が,この有田焼の始祖をとりあげたミュージカル「百
婆」を上演したので,見に行った。このミュージカルは,李参平の葬儀をめぐ
る息子たちと母親との対立をえがいている。息子たちが鍋島藩を思い暉って,
日本式でしようとしたのに対し,彼らの母親が朝鮮式にすることを主張し,押
しとうした物語である。観客には在日朝鮮人の人たちもいた。私は,何か知ら
ないが,涙が出てきた。
大串という名前を持っ人は,昔の肥前の国の東部,今の長崎県と佐賀県の東
の端に多い。父に依れば,串とは船のとも綱を結ぶ杭のことを言ったそうであ
る。実際長崎県の大村湾の沿岸に大串という地名があるから,的はずれな説
明ではなさそうである。そうすると,大串は海岸にある大きな杭で,大きな船
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を持っていたことになる。私の三代前は有明湾沿岸の半農半漁の村で農民であっ
た。
肥前の国の東部は,海の民であった松浦党の勢力が強いところだったから,
大串はそれに所属していたことはほぼ確実である。中世から近世にかけて大名
にも有名な武士にもならず,中央で名をなすこともなかったが,玄界灘や対馬
海峡をこえて,朝鮮や中国と行き来していた海の民であったことは十分考える
ことができる。
以上のことを紹介したのは,私が生まれた地域では古くから朝鮮や中国,さ
らにヨーロッパとの交流が存在していたことを考えたいからである。私が生ま
れた地域は保守色が強く,1960年代まで諸外国との交流の歴史を意識させるこ
とはなかった。有田町はドイッのマイセン市と陶器を通じて深いっながりを持っ
てきたが,交流が活発になるのは1990年代になってからである。
朝鮮やアジアとの関係を十分調べて言っていることではないが,こうしたこ
とを意識するようになったのは,都立大学で古川原先生,小沢有作先生にめぐ
りあったからであるし,都立大の歴史学が朝鮮史や中国史に力を入れていたこ
とも間接的に影響している。朝鮮史研究の先達だった旗田魏先生がいた。
結核治療所
社会教育を選んだ理由には,結核療養所の体験が遠因にある。大学受験のた
あの健康診査で結核が発見され,大学入学と共に療養生活に入ってしまった。
療養所は,結核患者専門の神奈川県立長浜療養所(現;循環器呼吸器病センター)
で京浜急行の能見台(旧:長浜)駅の近くの高台にあり,すぐ下は東京湾であっ
た。1964年のことで,東京オリンピックの熱狂も私にとっては遠いさざめきに
すぎなかった。
結核という病は,世の中に強力な伝染病としておそれられていたと同時に,
不思議な印象を与えていた。「女工と結核」,過重労働と不十分な栄養,「24の
瞳」に出てくる遠ざけられ,死ぬ運命だけにある結核患者という印象と同時に,
石川啄木,堀辰雄,中原中也,立原道造など文学者が結核で早死にしたことと
結びっけられ,あるいは美人薄命と結びっけられ,有能なあるいは美人がなる
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病という印象が生まれていた。それには文学の力が大きい。軽井沢のサナトリ
ウム生活を描いた堀辰雄の「風立ちぬ」はその印象を決定づけた。・
「風立ちぬ,いざ生きめやも」というロマンチックな表現は,軽井沢ならい
ざしらず,私の療養生活では縁がなかった。そこにはどんな人々が「収容」さ
れていたのだろうか。
太平洋戦争従軍者がいた。1964年はまだ戦後19年にすぎず,従軍者は40歳前
後であった。ニューギニア戦線にいた元兵士は片肺がなかった。中国戦線にい
た元衛生兵から捕虜の人体実験の話を聞かされた。病棟の婦長さんは従軍看護
婦であった。中卒の清掃労働者,屋台を引いていたおじさん,入れ墨をした暴
力団員,サラリーマン,新聞記者,主婦,高校生,中学生などなど。キリスト
教徒もいれば,創価学会員もいた。
私は私の生活圏と違う人たちと長期に接するのは初めてであった。そこで,
安心できるコミュニケーションを作ることは,難しかった。高校時代まで同じ
階層の青少年と学校生活を送り,話題にも共通性があった生活とはちがったし,
人々の振る舞いの仕方も様々だった。「オイチョカブ」を楽しみとするグルー
プがあり,大部屋で看護婦さんの目を盗んでやっていた。私は,将来の不安と
ともに,彼等との関係の取り方がよく分からないため,ノイローゼに近くなっ
た。
分かったのは,人々が病気の不安,病気による生活の重荷をもっていること
であった。他人の病気による運命には敏感であった。例えば,当時は肺結核と
肺ガンとはレントゲン検査では見分けがっかなかった。手術室に行き,すぐ帰っ
てくる人は肺ガンであったといわれており,手術に言った人が早く帰ってくる
かどうかに関心が集中していた。そして,ささやかな助けあいをしていたが,
大学卒のインテリは個室に入りたがっていた。
セツルメント
私は手術が成功して,翌年の3月に退院したが,なぜ人々と自然にっきあう
ことができなかったかが,なぜ理解しようしなかったが,引っかかっていた。
大学に戻ったときに,大原セッルメントに入った。大原セッルメントは,大
東京都立大学での社会教育研究40年 9
学から北へ行った国立駒沢病院の裏にあった厚生寮で活動していた。厚生寮は
生活保護を受けた人などのための住宅であり,旧海軍の薬品倉庫を改造した二
階立てで,八畳一間に一家族が住んでいた。その活動は子供会であった。私は,
私と異なる社会で生活している人々のことを理解したかった。
セツルメントは,知識人や学生が地域に定着して社会福祉活動を行うことを
言い,社会事業団体や公設施設で行うものもあったが,大原セッルメントはい
わゆる学生セッルメントである。学生セッルメントは,1919年に長谷川良信が
宗教大学(現・大正大学)学生と組織したマハヤナ学園(現在社会福祉法人)
と1923年に結成された東京帝大セッルメントがその始まりであり,社会福祉事
業と社会教育を一体化させていた。
第二次大戦後,学生セッルメントは東京大学の学生などにより組織されてい
た。1950年代から1960年前後にかけて,子ども会活動や医学生による医療活動
がおこなわれ,全国学生セッルメント連合という全国組織も組織されていた。
しかし,セッルメントで革命運動の足がかりをっくる動きがあり,学生セッル
メントの独自性が明確になっていたわけではなかった。
私が入った頃,学生セッルメントの独自性を明確にする動きがあり,第17回
全国学生セツルメント大会(1968年,於東京教育大学)で「仲間と共に地域に
より深く接し実践を一歩一歩発展させてゆく過程は,何よりも私達セッラー自
身の問題にっき当り,地域の人達と同様の背景をもって歪められている自己の
姿に気づき,自らの真の願いを自覚し発展させてゆく追程」と特徴づけられた。
(『第17回全国学生セツルメント連合大会討論資料』)
大原セッルの子供会は,小学生低学年パート,小学生高学年パート,中学生
パートに別れ,遊びやスポーッ,ハイキング,家庭訪問などをしていた。その
うち,子どもが勉強する条件がないこと,基礎学力がっいていないことがわかっ
たこと,家庭訪問で親から要望があったことから,勉強会を集中授業の形式で
夏休みに始めたことをきっかけに,週一回,大学の学生ホールの部室で行うよ
うになった。
家庭訪問や年始の訪問で,親と酒を酌み交わして(子どもがそばでその様子
をジーと見ていたことを今でも覚えている)親しくなったり,学生だから知っ
ているだろうと日韓条約のことをきかれたり,「今までさんざん人からだまさ
れてきた,ただで助けてくれる人は共産党かキリスト教の人だがあなたたちは
どちらだ」といわれ,どきまぎしたりした。親と接触するうちに,北九州の炭
坑や常磐炭坑の閉鎖で東京に出てきた人がいることに気づいた。当時,日本で
は石炭から石油へのエネルギ・一一一転換が起こっていたことが,人々に与える影響
に気づいていった。
教育学専攻へ
こうして,学校外の子どもの世界が子どもにとって大事であること,社会問
題を考えなければならないことに気づいた。ここに,社会教育を選ぶきっかけ
があった。専攻を決める時期,今と同じ2年生になるときに,ドイッ文学も魅
力的だったが(ドイッ語の成績が非常に良かったし,魅力的な先生が何人かい
た)教育学を選んだ。もし,社会福祉専攻があったなら,もっと迷っていたか
もしれない。
当時人文学部の一学年定員は38名,私のように留年していたのを加えて40名
くらいでクラスの名前はHIAと言った。そして,専攻は,国文,中文,仏文,
独文,英文,社会,心理,歴史,教育に分かれており,今と同じく社会,心理,
歴史の希望者が多かった。教育学専攻は,二名だった。最終的には転類や学士
入学で5名になった。
教育学専攻に進んだけれども,学校の教師になる気はなくなった。国語の教
免をとろうとしたが,授業をさぼってしまった。むしろ,社会教育に魅力を感
じ,社会教育主事の資格をとった。
当時,教育学専攻の教員は社会教育研究で注目されていた。1950年代後半に,
都立大学を会場に都立大の教員の磯野昌蔵,大蔵隆雄が小川利夫,橋口菊とと
もに社会教育史研究を行い,本格的に社会教育の歴史的構造を明らかにしたか
らである。その成果は,『教育学研究』24巻5号,6号(1957年)に「わが国
社会教育の成立とその本質にかんする一考察(1)」及び「同(2)」として発
表された。この研究がなければ,その後の社会教育史研究はなかったであろう
し,社会教育を教育学の固有の領域として独自に設定することは遅れたであろ
東京都立大学での社会教育研究40年 II
う。それに加え,三井為友先生が社会教育学会で活躍されていた。
磯野昌蔵先生は,私が三年生の時に受講生を授業の一環として目黒商店連合
会と目黒区教育委員会が行っていた商店青年学級に参加させ,助手のような仕
事,例えば話し合いの時に司会をするなどをさせた。この青年学級は,目黒区
の商店に集団就職できた中卒青年を対象に行われていた。参加した青年は全員
東北出身であった。
青年学級では,電話のかけ方や,そば屋の店員が多かったこともあって,そ
ばの性質などの講義があったことを記憶しているし,日頃の悩みを話そうとグ
ループでの話し合いが行われた。なにしろ,電話は東京でさえ家庭に普及して
いたわけではなく(私の家に電話が引かれたのは大学生時代だった),彼らは
電話を受けるのも初めてだし,人前に出るのに方言が出ないかとおそれていた
のだから。
話し合いといっても,本音が出せただろうか。今になって記憶をたどってみ
てもよく思い出せない。ただ,あるとき一青年が給料が約束より少ないと言い
出したので,グループで給料額を出し合ったところ,主催者から給料の話をし
ないようにと注意された。理由は,給料がよいところに移るからだということ
だった。
そば屋の店員には,のれん分けで希望を持たせていた。「石の上にも三年」
と親たちからいわれて東京に来て,東京でもそういわれ,将来展望をのれん分
け,自分の店を持っことにさせていた。そのためには,そば屋はまず,肩に注
文品を担ぎ自転車に乗ることができるようになるのが必要だと青年学級の講師
は言っていた。ちょうどそのころ,小川利夫・高沢武司編著『集団就職一その
追跡研究』(明治図書,1967年)が出され,さっそく読んだ。なんと,450円だっ
た。当時ラーメンー杯が50円から100円だった。そこで,彼ら青年が多様な歩
みをしていることがわかった。
セッルメントでも青年パートを作り,青年会を組織した。大学の通用門の真
ん前の美容院から見習いの女性が三人そろって参加してくれた。そのほか,近
くの零細企業勤めの若者が来た。その女性たちがダンスが好きで,当時売られ
始めていたポータブルの蓄音機でレコードをかけ踊ったが,私はいっまでもう
まくならず弱った。キャンプにも行った。そのときの集合写真が残っているが,
みんなニコニコしている。冬には学生ホールで,拾ってきたこわれかけた石油
ストーブのまわりで,たわいのない話し合いをしていた。たわいのない話でも,
若者は男女が集まるだけで暖かくなるときがあるものだ。
青年学級や若者の集まりには必ず歌声が起こった。話し合いの前には歌を歌
い,終わるときにも歌を歌った。私は残念なことに音痴で,一緒に歌を歌って
いた女の子から不思議そうな目でみっめられたりした。青年学級やサークルで
よく歌った歌「手のひらに太陽を」(この歌は小学校の教科書にのるようになっ
たらしい。)
僕らはみんな生きている/生きているから歌うんだ/僕らはみんな生きてい
る/生きているから悲しいんだ/手のひらを太陽にすかしてみれば/真っ赤に
流れる僕の血潮/みみずだって,おけらだって,あめんぼだって,みんなみん
な生きているんだ/友達なんだ。
私は,しだいに若者自身が自分たちの問題を解決するにはどうしたらよいか
考えるようになった。当時,社会主義青年同盟や民主青年同盟の活動が活発に
なり,サークル活動や歌声運動も活発で,青年運動に実感がもてた。
卒業論文
青年問題や青年運動を考えるようになった時に,大蔵隆雄先生が授業で取り
上げた宮原誠一編『教育史」がおもしろく,卒業論文のテーマは,「明治20年
代の農村青年会の成立」であった。日本の青年会の成立が自由民権運動敗北後
にあったのではないかと考え,実証しようとした。その際に,政治運動であっ
た自由民権運動終焉後に,青年を政府が組織するときに,「青年の風紀改善」
があげられていたことに着目して,その序文に次のように書いていた。
「青年自らが成人と違った独自の意味において,政治学習と文化創造の必要性
を認識しなければならない。それを認識するひとっの方法として,青年運動の
歴史の研究がある。」
当時,自由民権運動の中で作られた五日市憲法草案を発掘し,三多摩の自由
民権運動に新たな光を当てた色川大吉著『明治精神史』が出たばかりだった。
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私は,その影響を受けて五日市の青年会を対象とした。見も知らずの色川大吉
氏に電話をしたら,五日市のある旧家に行きなさいと言ってくれた。その家を
五日市に訪ねたら,丁寧に応対してくれ,当時の毛筆の手紙を見せられた。残
念なことに全然読めない。古文書の読み方を勉強していたら卒論の提出期限に
間に合わないから,それはあきらめた。
五日市の戸倉の民宿に泊まり込んで,当地の郷土史家などを訪ねた。五日市
憲法草案が発見された旧家を訪ねたら,憲法草案を作った先祖は国賊のように
言われ,肩身の狭い思いをしてきたが,やっと光が当たってきたと言われ,歴
史が息づいていることを感じた。
卒論は資料の不足などで満足のいくものではなかったが,自由民権運動敗北
後の地域の混乱の中で,村の再建のために青年会が組織されたことを明らかに
出来たと思う。後書きで,青年運動が青年の成長に果たす役割を,政治運動と
学習との結合,文化問題の独自な意義を通じて明らかにしたいと書いている。
これが,その後の研究を決定づけた。その意味で卒論は私の研究生活の出発点
だった。
大学院に行くことにしたのは,結核既往症者にとっての進路は,公務員か,
研究者しかないと考えたからである。もう少し勉強したいという気持ちもあっ
た。
大学封鎖のなかで大学院での研究
修士論文は,大正期から昭和初期にかけての労農青年運動研究であった。博
士課程進学は,私が第一号となった。第一号ということは,学閥がないことで
あり,研究者としての身の処し方にっいて学ぶべき,また指導してくれる先輩
がいなく,手探りの状態で,しばしば孤独であった。今,明治大学の新設の大
学院で非常勤講師をしているが,院生を見ていると私の院生時代と二重写しに
なる。そこで,教育科学研究会や社会教育推進全国協議会の集まりに出て,刺
激を受けるようにした。
学部四年生の時に,学生運動が激化し,安田講堂事件が起こった。そして,
都立大にも飛び火し,修士一年の六月末に,ストライキ実行委員会と称する学
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生集団によって大学のA棟が封鎖され,さらに八月B棟も封鎖された。そのた
めに,十月末に解除されるまで大学は休校,図書館も利用できなくなった。よ
うするに研究する場は学内になくなった。私は封鎖反対の活動をした。
注:すでに無くなってしまった八雲の旧校舎は,旧制府立高校の敷地にあったが,附属
高校もあった。運動場は共有だった。校舎は,1日制府立高校校舎をA棟といい,1966年
に学生定員増に伴いA棟の南側に新築された四階建ての鉄筋校舎をB棟と言った。A棟
とB棟の問に銀杏並木があった。研究室はA棟に集中していた。
この間,院生と学生の神経は,学生間の対立で緊張し,教員との間でも大学
のあり方をめぐってはげしいやりとりがあった。封鎖解除後,一見平穏になっ
ても,学生間には対立が,教師と学生との間にわだかまりが残っていたし,授
業の中でも激しいやりとりがあった。
しかし,院生も増えてきて,院生集団なるものが出来た。狭い校舎の中で,
人文学部の先生方は個室を持たず,中文や独文では先生方は大部屋にいたし,
教育学専攻は三人で一部屋,ある先生は事務室兼会議室の大部屋の一角のしき
りの中にいた。そのなかでも,学生室が狭いながらも保障されていた。しかし,
院生室がなかっため,三井為友,古川原先生がいた一部屋を一時借用を申し入
れ院生室にしたが,結局院生がいる部屋になり,三井先生は取られてしまった
と嘆いていた。若気のいたりとはい亀申し訳ない気が今となってはする。
院生集団が要求したのが総合ゼミであった。院生のテーマはそれぞれに違い,
また教員の専門も違うので,お互いの問題意識を理解できる場がほしいと院生
が教員に提起して生まれた。これは総合ゼミが生まれた教育研究の志の一面で,
他の一面は修士課程で取るべき単位の負担が大きいという不満から,いっその
こと総合ゼミを単位にしようという発想がない交ぜになっていた。
この総合ゼミをきっかけに生まれたのが都立大学教育理論研究会である。他
の社会科学と異なる教育学の独自性は何なのか。それを,1950年代に教育史の
海後勝雄,教育社会学の清水義弘,教育科学研究会の五十嵐顕,勝田守一らに
よって行われた教育科学論争から学ぼうとした。この論争を再検討するために,
この研究会は生まれた。山住先生を巻き込み,小沢先生も参加した。その成果
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を雑誌「教育』に発表した。都立大の院生ここにありということになった。
その過程で,上述の人たちの著作だけでなく,小川太郎,矢川徳光,宮原誠
一などの著作を読みあい,議論した。その議論に参加した院生は,柿沼秀雄,
梅原利夫,増山均,笹川孝t,山本哲士であったと記憶している。論文をまと
める最終段階で,五十嵐顕氏から民族教育研究を高く評価されたことがあった
小沢先生が,マルクス主義との関わりを論じなければならないと,ポッリと言っ
たことを鮮明に覚えている。いっかやりたいと思いながら,手を出せないで来
てしまった。
私の社会教育実践
今振り返ってみると,私が取り扱ってきた分野は,青年教育・社会教育の歴
史研究,青年教育・社会教育の現代問題,そして外国との比較研究になる。誰
が言ったのか,たぶん坂元忠芳先生であろう,教育学研究は歴史,外国との比
較,そして現代問題を扱わなければならないと言われたことを記憶している。
実際,坂元,小沢両先生は,これらをやられていた。その影響があったのかも
しれないが,私のような非才にはそれぞれの追及が薄くなったように思う。
しかし,この点は言われただけでなく,私の内部から生まれたことでもあっ
たろう。現代の問題に直結するセツルメントに始まった私の実践は,大学院時
代には世田谷区の社会教育指導員として等々力にあった区立青年の家や三軒茶
屋の青年学級で行われた。青年の家では,「泊まり込み青年の集い」を開催し
た。区の広報や新聞,ポスターで宣伝しただけだったのに,50名ばかりの青年
が,しかも多摩川の対岸の川崎からも参加してきて驚いた。
さらに目黒区で労働者教育協会の会員が中心となって組織した労働学校の手
伝いをした。この労働学校は,1964年に結成され,初期には三っの地域にあっ
たが,私が参加した1970年代初めには区立の青年会館を会場として,開催され
ていたQ
当時,目黒区には大田区,品川区につづくいわゆる南部工業地帯があり,目
黒川沿いや都立大のあった丘の下を流れる呑川の下流に向かって中小零細工場
が建ち並んでいた。それらの工場の青年や保母さん,公務員などの若者が参加
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していた。呑川沿いの工場は,今はその多くがマンションになっている。
労働学校は一期三ヶ月,年二回開催され,哲学,経済学,労働組合論から編
成されていた。講義後班別に話し合いが行われ,終わると喫茶店に誘い合って
出かけ,職場の話や身の上話をした。自治会が作られ,そこではレクリエーショ
ンの相談や講義の編成や講師の注文などが話し合われていた。
学習の後に,喫茶店や飲み屋に行く習慣が大事だと気づいたのは,このとき
のような気がする。後に,目黒区の青年教室を手伝ったときに,学習が終わる
と近くの飲み屋がたまり場になった。その場に積極的に参加し,いっの間にか
アルコールに強くなった。
労働学校の参加は,1973年の労働者教育協会の組織替えまで続いた。のちに,
労働学校がうまくいかなくなったときに,当時の役員から労働学校の歴史を作
りたいと言われ,資料を渡された。資料が不足していたため,何人かの人に思
い出を聞いているうちに,他の仕事に時間が取られ,そのままになってしまっ
た。申し訳ないことである。
青年期教育研究と労働者教育研究
以上のような仕事をしながら,現代の勤労青年教育にっいて関心を持ち,教
育科学研究会(教科研)の青年期教育部会に参加し,小川利夫氏や藤岡貞彦氏
の肉声を聞くようになった。青年期教育部会の関心は,青年期教育の二重構造
を克服する道の探求にあった。そのひとっは高校教育の改革にあったが,私は
高校教育そのものではなく,勤労青年の自己教育運動から青年期教育のあり方
を考えようとするもので,当時,東大の宮原ゼミで労働者教育の研究を行って
いたことに勇気づけられもした。その考察の結果が,1979年の志摩陽伍編『講
座日本の学力5一教育課程』に書いた論文である。一生懸命書いたのだが,残
念なことに重要な発想を得た著作の引用を怠っており,その点で鍛疵ある論文
である。
1973年に太田政男氏(現大東文化大)などとともに「青年期教育研究』を
創刊した。1980年に太田政男氏と共に雑誌『教育』に書いた「青年期教育研究
の再検討」は,高校や大学の大衆化の中で,分業の構造が変化することにより,
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それぞれの社会的位置が低下し,青年基教育の二重構造論ではとらえきれない
事態が広がっており,高校,大学の社会的位置の分析の必要性を提起した。こ
れにたいし,小川利夫氏から青年期教育の二重構造は依然としてあるという批
判があった。
私たちは,この小川批判にこたえなかった。小川利夫氏は,青年期教育の二
重構造論を更に進め,教育と福祉の谷間にある児童,青年の教育問題を対象と
する教育福祉論を探求,提起されていた。そのことを,私は十分に意識してお
らず,もし対峙することになれば,この教育福祉論をも視野に入れ,養護施設
や少年院なども視野に入れたより豊かな問題関心が生まれていたことであろう。
このことを,現在,明治大学の大学院ゼミで,小川利夫『教育福祉の基本問題』
(1985),小川利夫・高橋正教編著『教育福祉論入門」(2001)を読む中で考え
るのである。
また,社会教育推進全国協議会(社全協)にも参加し,教育科学研究会より
も,力を入れてきた。この社全協の活動の中で,青年教育や労働者教育にとら
われない,より広い社会教育の活動への認識と課題を得ることが出来た。
私は,この活動の中で労働者教育の実践の交流と研究を試みたが,定着させ
ることは出来なかった。1960年代1970年代にかけて労働組合教育が活発になり,
日本社会教育学会でもそれらを研究するグループが生まれたが,日本社会教育
学会の年報『労働者教育の展望』(1970)を最後に,グループの関心は別のと
ころに移っていった。
それにたいし,私は社全協の社会教育研究全国集会で労働者教育を考えよう
としたわけである。教科研の大会,社全協の研究集会は,テーマ別,領域別の
分科会に別れ,運営されている。社全協の研究集会には,公民館や社会教育行
政の活動に関わった職員や市民が集まってきていた。しかし,労働者教育は公
民館や社会教育行政の活動と関わりがないから,参加者は少なく,位置づけは
曖昧になった。それでも,大学への社会人入学や仕事と家庭作りの問題などを
とりあげ,労働問題に関係する学習の大切さを主張してきた。
日本社会教育学会では,職業訓練も含んでこの問題を考えた。1994年の6月
集会から1995年の第42回研究大会まで四回にわたり,課題研究として「生涯学
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18
習と職業教育・訓練」を担当した。しかし,この分野に関心を持っ者は少なかっ
た。それで,私は日本産業教育学会に加入した。
なぜ,社会教育学研究者や実践家で職業訓練や労働者教育に関心を持つ者は
少ないのだろうか。私の今のところの仮説的結論は,社会教育の社会を社会学
的社会ととらえ,社会政策的,社会問題的社会ととらえていないからである。
しかし,社会問題的社会に関心を持ったとしても,そもそも労働問題職業技
術問題に対する関心が薄いのである。それは,おそらく彼らの研究者として,
あるいは人間形成に関わりがあるだろう。なにしろ,文系で生産技術など教わ
ることはないのだから。
歴史研究
すでに述べたように卒業論文で,自分の歴史への関心を述べていた。卒論で
取り上げた時期に接続する時期の青年会発生の分析として,徳富蘇峰と山本滝
之助の関係を明らかにした論文を書いた。そこでのキー概念は,世代,青年の
政治性,農村共同体,青年期教育の二重構造であった。
その後,それらが集中して現れた青年会自主化運動に関心を集中させた。そ
の地域は,長野県下伊那郡であった。1960年に「下伊那青年運動史」(国土社)
が出版されていて,そのときに収集された資料が飯田市立図書館に収められて
いた。私はそこを訪ね,あらたな資料の整理を手伝いながら,資料を読んでいっ
た。
当時まだ,コピーの機械はなく,筆記か写真をとるかであった。写真も自動
ではなかったから絞りやシャッタースピードに気を遣った。現像も短時間で出
来る写真屋はなかったから,東京に帰ってから現像して真っ黒だったこともあっ
た。あるとき,図書館の窓際で資料を写真に撮っていたら,一天にわかにかき
曇り,写真が撮ることが出来なくなり,雨がやむまで待っていたこともあった。
1970年代は,まだ大正時代の集会所や旅館が残っており,臨場感を得ること
が出来た。今は,そうした建物はなくなってしまった。町並みの変化は,1980
年代に急速に進んだ。
その方法論や視点に,次の研究から影響を受けた。ひとつは,色川大吉,安
東京都立大学での社会教育研究40年 19
丸良夫,鹿野正直ら歴史学者によって行われていた民衆史研究,坂元忠芳らに
よって行われていた自由民権運動と教育研究であった。「総じて教育というい
となみを,日本民衆の苦悩に満ちた生活史のなかにもう一度照射しなおして,
そのいとなみが持っ民衆の主体形成における実像一リアリズムをぎりぎり定着
してゆく」という坂元忠芳氏の発言(『近代日本教育論集第二巻・社会運動と
教育』国土社,1969)や,鹿野正直の「思想史の認識対象を日常的な生活意識
の次元にまで拡大するとき,われわれは必然的に行動を対象とせざるをえない」
(『資本主義形成期の秩序意識』筑摩書房,1969),さらに勝田守一の「人間存
在の歴史的諸条件(経済的・政治的・理念的・文化的な)に規定されっっ教育
の諸価値がどのように形成されたかを研究する」(『勝田守一著作集第六巻・人
間の科学としての教育学」)などに示唆を受けた。
そして,私なりに次のように課題をまとめてみた。
「地域における自己教育運動・思想には,いくっかの潮流があり,それらが
矛盾・葛藤しながら歴史的に展開している。これらの思想は『日常的な物質的
な生活過程のレベル』の意識・学習と,ある場合には結合し,ある場合には矛
盾している。したがって,地域の自己教育運動は,それぞれの運動・思想の間
の矛盾の構造として。またそれらと『日常的な物質過程のレベル』での意識・
学習との矛盾ないし結合として歴史的に展開している。このような歴史的展開
のもとで各時代の教育的価値の遺産を総括し,その発展・継承・断絶の中で形
成されるあらたな教育的価値の思想を検討していく必要がある。」(「地域社会
教育史研究の方法」津高正文編『地方社会教育史の研究』東洋館出版社,
1981)
私の足は,下伊那の集落(例えば,旧千代村役場の倉)に入り,飯山市の郊
外などに行き,日記なども見せられ,さらに青森県車力村,新潟県高田市,茨
城県水海道市などにのびた。また,「信濃毎日新聞』の「農村雑記」の投稿を
すべて読み,生活記録運動の源流を明らかにしたり,徳永直の思想形成をおう
仕事となった。その過程で,法政大学大原社会問題研究所に所蔵されていた農
民運動,青年運動関係の原資料を読みに通った。当時,それは麻布にあった。
特に感動したのは,長野県川上村を訪ねた際に,教育史上有名な新潟県木崎
村の農民学校で学んだ人を見っけ,思い出を開き,学習ノートを見せられた時
であった。川上村は,今でこそ高原野菜で有名で避暑地になっているが,当時
は僻地であった。
長野県の青年団活動との接触が生まれた。そのきっかけはよく思い出せない
が,長野県連合青年団の青年問題研究集会に出かけるようになったからである。
それは,1970年代には長野の善光寺の宿坊で冬行われていた。外はよく雪が降っ
ていた。県下の青年100人以上が集まり,分科会に分かれ,大きなこたっに足
をっっこんで夜遅くまで議論していた。
このっながりで,1985年に完成した長野県青年団運動史をまとめることを任
されることになった。事務所に所蔵されている資料や各地の文書を,現役の青
年団員と集めた。そして,信越線の篠ノ井にあった事務所にたびたび寝泊まり
して,青年団員や社会教育主事さんたちと研究会や編集会議を開いた。青年団
員との協同作業であった。藤岡貞彦氏が,かって長野に通った時に,「信越線
はわが廊下」といったといわれるが,私にもその当時あてはまる。
海外研修,ドイツ民主共和国崩壊
こうした青年の運動を調べているうちに,地域の運動が国際的な運動と何ら
かの形でっながっているのを知り,国際的な運動も調べだした。1989年に,海
外研修の機会を与えられた時に,旧東ドイッのロストックに行ったのは,その
ためであった。そこには,カール・ハインッ・ヤーンケという青年運動史研究
家がいた。
社会主義国に幾分かの期待を持って出かけた。まさか,ベルリンの壁が崩壊
し,ドイッ統一になるとは,まったく予想だにせず出かけた。ロストックは,
リューベックなどとともにハンザ同盟都市であり,中世に出来た大学のある都
市でもあった。落ち着いた,静かな都市であり,郊外に団地が広がっていた。
生活水準は,日本の1960年代に近く,パソコンやコピー機は一般化していなかっ
た。
10月から11月にかけてライプチッヒやロストックでデモにたびたび会った。
ライプチッヒに行った時に,私の宿舎の裏に民主化グループの教会があったが,
東京都立大学での社会教育研究40年 21
そこを訪ねる勇気はなかった。ロストックで検事局の建物のそばでデモを見て
いたら,デモ隊が急に私に向けてスパイだと言って騒ぎ出した。デモ隊から友
人が飛び出してきて,この人は日本人だと言ったら,今度は写真を撮れと言い
出した。あとで,北朝鮮からきた研修中の警察官だと思ったらしいと言うこと
だった。残念ながら,まだドイッ語が不自由だったのと見張られているのでは
ないかと思い,そうしたグループの人たちに話を聞く勇気がなかった。
資料調査にっいて言うと,許可に時間がかかったり,付き添いがいないとす
んなりいかない場合が多かった。統一後,私にとって一番やりやすくなったこ
とと言えば,好きなときに資料館に行くことが出来ることと,コピーが出来る
ようになったことである。それに加え,東西ドイッを自由に行き来できるよう
になったことが非常に大きい。なぜなら,たとえばナチス時代の資料が東西の
図書館,資料館に分かれてあるからである。それに,ビザをとらずに行くこと
が出来るようになったことも大きい。
教育学では,小川太郎の『訓育と陶冶の理論』やハインッ・カルラス『マル
クス主義教育学の構想』など東ドイツ教育学の紹介,総合技術教育などが紹介
され,それが肯定的にあるいは学ぶ価値のあるものとして紹介されていた。そ
のため,旧東ドイッの改革により,西側諸国とも旧社会主義国ともちがう第三
の道がありうるとすれば,どうなるか興味と期待を持っていた。
その期待は,あえなく消えてしまった。それにしても,あんなに短期間で旧
東ドイッ国家が崩壊するとは思わなかった。国家とは,権力を持っているから
強力なものだと思っていたからである。旧東独にっいて,日本の知識人により
肯定的に評価されていた総合技術教育や青年組織に,私も希望を持っていたか
ら,その影響力が急速に失なわれていったことは驚きであった。
もうすぐ,統一から20年がたとうとしている。この20年間は何だったのか。
旧東ドイッの教育の「実験」は全く無意味だったのか。自由ドイッ青年同盟の
活動家は,その活動を自分の人生の中でどうとらえているのか。考察してみた
い。さいわい,研修中に知りあった人々とは今も親しくしている。
国際関係の研究から比較研究へ
この海外研修は,日本の青年団あるいは青年運動の国際関係を調査する契機
となった。とくに日本青年館関係者から示唆を受けたヒトラー・ユーゲントと
青年団との関係は,当時の植民地朝鮮の青年団との関係にまで考察の範囲を広
げることになった。あわてて,朝鮮・韓国語をNHKのラジオ講座で学習し,
なんとか辞典をもって読めるようになった。しかし,植民地朝鮮時代のハング
ル文字の新聞・雑誌などの文献は漢字交じりで難しい。それに韓国の若い人に
聞いても漢字がわからない人が多い。なかなか難しい。
この研究の成果が,『日本青年団の国際交流』である。さらに戦後にっいて
研究するために,日本青年団協議会が関係をもった世界民主青年連盟と世界青
年会議にっいて,調査を行った。世界青年会議とは連絡をとることが出来なかっ
たが(活動を休止しているらしい),世界民主青年連盟の事務所は旧社会主義
諸国崩壊後もハンガリーのブタペストに残っていた。そこで,資料を見せても
らえることになった。ソヴィエト連邦があったときにはおそらく無理だっただ
ろう。世界青年会議の資料は,オランダのアムステルダムの資料館にあること
がわかったので,アムステルダムにも出かけた。
この研究成果のいったんは,日本青年団協議会の「地域青年運動50年史』に
反映させたが,収集した関係資料を読み込んでまとめる作業は,まだ手にっい
ていない。このような研究は,旧社会主義国が存在していた頃,すなわち冷
戦時代には,興味がもたれたろうが,今は関心はほとんどみられない。都立大
経済学部出身で法政大学大原社会問題研究所副所長の五十嵐仁さんが,労働運
動(史)研究に関心を持っ人が少なくなったとなげいていたが,それは青年運
動や学生運動にもあてはまる。
東ドイッや冷戦時代の青年運動の歴史を,過ぎ去ったものとして,単なる歴
史のエピソードとして終わらせて良いのであろうか。たらいの水と一緒に赤ん
坊を流してしまって良いものであろうか。ソヴィエト連邦や東ドイツが崩壊し
たとしても,セルゲイ・エイゼンシュタイン,ドミートリイ・ショスタコビッ
チ,アントン・マカレンコ,エーリッヒ・ケストナー,ベルトルト・ブレヒト
などの仕事が流されてしまうわけではなかろう。
かっての同僚でドイッの教育思想を研究されている今井康夫氏から,ドイツ
東京都立大学での社会教育研究40年 23
の社会教育学者とのセミナーを依頼されたのきっかけに,ドイッ社会教育学の
研究に打ち込むようななった。それは,さらにドイッの青少年自立援助の調査
によって,ドイッの生産学校の「発見」にっながった。それはさらに,デンマー
クの生産学校と社会教育の「発見」にっながっていく。
ここで「発見」というのは,日本では紹介されてこなかったからである。ド
イッの社会教育は,社会的教育と訳されたうえ,ナトルプまでしか紹介されて
こなかった上に,日本の社会教育を成人教育と同一視する言説が有力になった
め,日本の社会教育とは無縁なものとして扱われてきた。
しかし,そうではないというのが私の主張である。社会教育一
Sozialpaedagogikは,アングロサクソン系諸国,すなわち英語圏では, social
とpedagogyをくっっけた言葉が発達しなかったし, pedagogyの概念は利用さ
れていないのであるから,英語圏の研究ではわからないのである。じっさい,
Sozialpaedagogikに類する社会教育という言葉と活動は,ヨーロッパではド
イツ,デンマーク,スウェーデン,ノルウェー,東ヨーロッパのいくっかの国
に存在し,アングロサクソンには存在しない。
なぜ,成人教育ではなく社会教育を必要としたのか。その解明を基礎に,共
通の土俵と課題を明らかにすることが,日本の社会教育にとって大切である。
その理由は,次の点からである。ドイッやデンマークの社会教育が社会問題の
解決と社会教育をセットにしてきたのに対し,日本ではこれを分離してきたか
らである。これが日本の社会教育の場合,職業訓練への冷淡さになっていると
思う。しかし,近年日本では社会福祉と社会教育との結合が具体化されている
から,ドイツ,デンマークの社会教育概念への接近をみることが出来る。
生産学校は,ドイッ,デンマークでは1980年代に組織され始あていたが,日
本では全く紹介されてこなかった。両国とも日本の研究者は,成人教育機関と
しての民衆大学に目を奪われていたのである。それでもデンマークの成人教育
ですら研究している人は,二人くらいしかいなかった。
NPO文化学習協同ネットワークの活動にみられるように,生産学校の課題
は日本の課題にもなっている。今年(2007年)に再度,デンマークのコーショー
生産学校を訪ねた際にこのNPOのことを紹介したら,是非交流したいという
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話になった。2008年中に具体化することを約束してきた。
そこで,この歳になってからデンマーク語を勉強し始めた。デンマーク語を
母国語にする人々は,わずか500万人強である。だから,英語を学習すること
に比べれば利用範囲は非常に狭い。しかし,英語と違った言葉を持っ国のこと
は英語ではわからないのである。専門用語あるいは仕事で使う用語がちがい,
英語に完全に置き換えることは出来ない。
それにしても,私はドイッ語を第二外国語にして良かった。英語やフランス
語とは異なる地域にっながるからである。学生時代には1ドル360円の固定相
場であったから,それこそ選ばれた人しか外国行くことは出来なかった。今の
ように気軽に行くことが出来るとは想像できなかったから,語学を学習するに
はあまり気が乗らなかった。それでも,ドイッには音楽を通じて非常に強い関
心を持っていたから,高校時代からドイツ語を少しかじっていた。
ドイッ語の学習については,都立大のドイッ語の先生方に感謝したい。高名
な文芸評論家である川村二郎先生が初級文法を教えに来た。非常に明快であっ
た。ただし,高名な文芸評論家であるのを知ったのは後のことである。中島悠
爾先生のちょっと幻想じみたテキストもおもしろかったし,大山郁夫の息子さ
んである大山聡先生からも教わった。英語の授業と違って,二年間まじめに勉
強した。
大学問題について
大学問題にっいてもいくっかの論考があり,公立大学の歴史にっいて書く機
会も与えられた。この分野は,今まで述べてきたような私の学問上の専門領域
ではない。大学にいる教員としてしたことであり,仮に研究所にっとめていた
なら,書かなかったであろう。だから,問題が起こるたびに書いてきたので,
系統性があるわけではない。もし,系統性があるとするなら,それは公立大学
の性格,存在意義への問いである。
大学に入学したら,歴史学の阿部行蔵教授復職闘争が戦われていた。この戦
いは,学生自治会と評議会共催の復職を要求する全学集会にまで発展し,復職
を勝ちとった。たびたび,都庁にデモに行ったし,都留文科大学でも同じよう
東京都立大学での社会教育研究40年 25
なことが起こったので,都立大学に対する東京都を考え始めた。
学生はこの運動から大学の自治に責任を持っ資格があることが証明されたと
して,学部長選挙と総長選挙の学生参加を要求した。人文学部では学部長,全
学では総長の選挙への参加が出来るようになった。教育学研究室では,カリキュ
ラムの交渉・相談を行う三者懇談会(学生,院生,教員)が制度化された。
私にとっての大学問題のクライマックスは,石原都政の下で行われた大学改
革であった。それはまさに公立大学の存在意義が問われると同時に,その改革
の方向は大学の自治を無視し,同時に全国の大学の改革に共通するものを多く
含んでいる。例えば,教養学部,観光関係学科の設置,ロースクール,ビジネ
ススクール,学生へのキャリア教育的就職指導,実践英語などである。その意
味では,特色があるわけではない。ところが,教員の身分にっいては,任期制
や業績評価の給与への反映など大学のなかでは突出している。
都立大学は,不思議な魅力がある大学であった。夜になるとB類の授業が始
まり,社会の現実を背負ってくるB類生の授業は,教師に対する率直な批判も
あり,厳しかったが,電灯の下で熱っぽい議論が繰り返されていた。翌日に仕
事があるのにサークル活動をしたり,呑みにいったり,疲労感がにおう中で,
活気と連帯感があった。このB類の設置にっいて,新しい資料を使って「東京
都教育史通史編4」に叙述したので参考にしてほしい。
わたしはB類を下敷きにした改革イメージを,「都民自由大学」として提言
してみたが「みみずの戯言」にすぎなかったようだ。これにっいて語るべきこ
とが多いが,ここで言い尽くすことが出来るものでもないので,別の機会に譲
りたい。
最後に
私の社会教育にっいての,今の段階でのまとめは,年明けに出版される『社
会教育入門』有信堂にあるので,参照していただきたい。
都立大学での40年間は,書き尽くせない,言い尽くせない経験の数々であっ
た。この間の大学改革も,助手闘争も,本当にいろいろなことを狭い大学の中
で経験した。研究や教育以外のことで,もちろんそれに関係するのだが,いろ
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いうな問題提起があった。
博士課程の一号として,左と右は分かるが,前も後ろも分からない私を指導
し,援助してくれた先生方や先後輩,教育研究室の同窓会さらに教科研や社全
協『月刊社会教育』編集部の方々に感謝したい。
私が教えを受けた教育研究室の先生方の中で,三井為友先生,古川原先生,
山住正己先生,小沢有作先生には,もうお会いすることは出来ず,直接感謝の
言葉を伝えることは出来ない。
私と同世代の氷川下セッルメントの元セッラーが「氷川下セッルメントー
『太陽のない街』の青春群像』(エイデル研究所)を出版した。また,川崎セッ
ルのことが『清洌の災』という小説に書かれているらしい。先を越されたと思っ
たが,今またセッルメントの復活が必要とされていると思う。
私は現在,母の介護のために,旧都立大の近くにある母の家にいる機会が多
い。この近くに,國學院大學で教鞭を執っている一年後輩の柿沼君や,セツル
で一緒だった江守弁護士,労働運動に飛び込み目黒区の労働組合で活躍した関
根君,そして東京土建の建築カレッジの教務主任をしていた渡辺君が住んでい
る。心強い限りである。みんなが健康に長生きできることを願うだけである。
Nun bin ich manche Stunde
Entfernt von jenem Or七,
Und immer hOr’ich, raushen:
Du fandest Ruhe dort.
一シューベルト「冬の旅」〈菩提樹〉より一