教理を短く明瞭に 一言で言いますと「難渋を助けろっく(平等)の地に踏みな らす心を定める」 それに基づいて世直しをしていくようにせきこまれました。 その「心定めのつとめ」を中心として、お道の教義というこ とを考え、まとめてみたいと思います。 . おやさまが「おつとめ」で教えた教義を理解して、その理念 (これを教理というのですが)を生活の中に生かしてそして、 人に伝えていくのが私たちの信仰であると思います。そのた めに思い切って、簡単に、わかりやすく、短く一分以内に表 現してみたいと思います。 この世は、補い合い、助け合う陽気づくめの世界です。 私 た ち は 人 を 助 け る の が 真 の 誠 と い う 本 性 を持 った 人間です。体をはじめ、あらゆる物は皆助け合うため のものであります。人間世界は、補い合い助け合って 陽 気 ぐ ら し を 生 み 出 す よ う に 生 き る こ と が 基 本 の理 であります。 こ れ に も う 少 し 解 説 を 加 え て 十 分 間 ぐ ら い に ま とめ てみましょう。まず最初に「あしきをはろうて」の「お つとめ」から入りますと、悪しき心遣いを払って、む ご い 心 か ら や さ し い 心 に 変 わ っ て い く の が 陽 気 ぐら しへの道なのです。 それには世界を助けたいという神の心、転輪王の心を しっかりと我が心に収め、それに基づいて生きさせて 頂きますというお誓いが出発点なのです。 神の心をもって生きます私たち人間は、一人ひとりが 神のやしろとなって、この世の真理に沿って、これが 正 し い の だ と 思 う こ と を そ の ま ま に 行 わ せ て 頂 きま すというお誓から出発するわけです。 そ し て ど う い う 考 え に 基 づ い て 生 き る か と い う のが 次の「ちょとはなし」の「おつとめ」です。 悪 い こ と は 言 わ な い か ら 神 の 言 う こ と を 聞 い て くれ という前置きで始まって、 このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしrうぇきたるでな これはこのよのはじめだし と言わ れてま す のはこ の世界の 人間関 係の基 本 のあり 方を 教えてくださっているのです。 この世、人間関係の姿というものを圧縮しまして、地と天と をかたどって、夫婦という人間の間柄にまとめたのが「ちょ とはなし」のお歌であり、それを「かんろだい」に表したわ けであります。 「夫婦をこしらえきたるでな」というのは、女松男松隔てな く補い 合い助 け 合って 陽気ぐ ら し生み 出す生 き 方がこ の陽 気づく めの世 界 の始め だしで あ ると教 えて下 さ ってい るの です。 この「ちょとはなし」のお歌を教えられたのが明治三年とい う時期です。当時、日本におきましては、日本の方針は君臣 父子の 道徳を 基 本にし て定め る という 大教宣 振 布の詔 が出 国家も社会も家庭も、人間は支配者とそれに服従する者と分 れ、縦型の支配関係でおさめるものだという命令が出されて いたのです。その時教祖はその国の方針に真向から反対され、 この世の人間関係の基本は夫婦の間柄であり、血のつながり のない 他人同 士 が心のつなが り をもっ て互い に 補い合 い助 け合う ところ に 陽気ぐ らしが 生 まれ出 るのだ と 教えら れた わけです。 三番目のお歌に至りましては、 あしきをはろうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろうだい と歌われまして、神も人間もこの世の陽気づくめせき込んで いるわけで、それが「たすけせきこむ」ということなのです。 つまり 女松男 松 隔てな く補い 合 い助け 合って 陽 気ぐら しを つくるという人間関係の基本に基づいて、すいきの人も、ぬ くみの人も、つなぎの人も、つっぱりの人も、その他の人々 も、それぞれの持ち味、立場を生かして陽気づくめに暮らす 世界を作らせて頂く、これが一れつすましてつくる「かんろ だい世界」であると教えられているのです。 立場、持ち味を生かして補い合い助け合うところに陽気づく めが現れる、これを「いちれつすます」と言われていますの はどういうことかと申しますと、人間の中に強い弱い、尊い 卑しいという 違 いを考 えるこ と が差別 を生み 出 しして いく ことになるわけですが、これはわが身思案にとらわれ相手を 負かそう、倒そうと敵対する心を持つことに原因があるわけ で、おやさまが教えてくださったように、互いに補い合い助 け合う心で生きたら、相手の力の強さが喜ばしいことになっ てくるのです。倒し合いの世界では、相手の頭のいいことが 大変に自分の不安を生み出すことになっていくるわけです。 助け合うところには、弱肉強食は問題でなくなり、尊い卑し いという差別的なことは考えなくなってくる、これが「いち れつすまして」の手ぶりに表されているのです。 要するに、私たちは二兎を助ける心を持った人間であり、私 たちの体を始め、全てのものは互いに助け合うべき借り物で、 そ れ を 補 い 合 い 助 け 合 っ て 陽 気 ぐ ら し を 生 み 出 す よ う に使 いましょう、たったこれだけの言葉が天理教の教義というこ となのです。 それをまとめてくださったのが「おかきさげ」であり、その 教材が「おつとめ」なのです。 一の21 このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろぜを歌のりでせめ とおふでさききで示されるように、この世界は真理通 り動いており 、それを理解 させるために 歌の理 教 *** 理 を 教 え るのだ と 言 われ 、こ の 理 と 言 うの は 、こ の 世 の 天然自然 の 理 も 、 人間関係 の 陽気 づ く め へ の 暮 ら し 方 も、 ぴ っい た り 一 つ の もの で あ ると 言 う ふ うに 言 われているわけです。理 が神 やで***神様 の心 という のは こう い うも のな のだ 、 神 の 体 とい う もの は こう いう 世 界 なの だ 、こ う いう ふう に 教 え てく ださ っ たの が理 な ので す。 ですから私たちはこの理をしり、その理に基づいて生きると 言うことが自分の陽気ぐらしのもとであり、陽気づくめの世 に立て直す生き方になるわけです。 理を知らずして陽気ぐらしはない 陽気ぐらしというのはどういうものなのかと考えますと、自 分が正しいと思うことを言葉に出すことができ、自分がこれ が本当だと思うことに向かってやりたいことが行なえ、これ が本当 の世の 中 である という 方 向に変 えられ る 時に生 きが いがうまれるのです。 従って自分がしっかりした目的を持たないと、真の充実した 喜びというものが味えないのです。 ですか ら理を し らなけ れば陽 気 ぐらしはでき な いとい うこ とです。 理を知 らずし て 幾ら助 け合い の 暮らし を結果 と してや るこ とができましても、自分の意思というものが伴っていないと きには、心のない動きで、ロボットが都合のいいうごきをし てくれたのと何ら変わらないのです。 働かされたところには陽気ぐらしは生まれないのです 。真理を知り、真理通りに生きようという正義感を持って自 分が正しいと思うことを行い、そこに進んでいるとき陽気ぐ らしがあるのだ、これがお道の陽気ぐらしの理ではないかと 思うのです。 これが教義であり、これは「おつとめ」で教えられているの です。 なぜ元の理がとかれたか そして この教 義 をしっ かりと 理 解させ るため に 元始ま りの 話をおやさまはお聞かせくださったのです。 なぜこ の元始 ま りの話 を説か な ければ ならな かったと 申し ますとこの陽気づくめの理というのが、今までの考え方とあ まりにも違っていたからです。 この「おつとめ」の理合いを聞かされますと互いに助け合っ て陽気ぐらしを作るということはあまりに宇宙の真理、人間 の本性 に沿っ て います のでそ ん なこと 当たり 前 じゃな いか という感じになるもなですけれども、実際の社会の常識とい うものは、それとは全然違うものだったのです。 日本人 は大体 に おいて 中国か ら 渡って きた文 字 を中心 に勉 強していますから、その文字の持つ歴史に深く左右されてい るのです。 皆が漢字を学ぶとき使った中国の文献のほとんどが、人を働 かせ支 配して 豊 かに暮 らすの が 人生の 目的で あ るとい う考 え方になっています。これを旧来の思想というわけです。 旧来のものの考え方というものを端的に示していますのが、 国々村々にある神社、仏閣です。 神社でわ、上の人は神様ですと教えて来ました。ここで生ま れ変わりを説かない差別思想、運命感、霊魂不滅説を説いて いたのです。また説かなくとも神社そのものがそういう思想 を人間に植え付けていったのです。 橿原神宮には神武天皇、伊勢神宮には天照大神、明治神宮に は明治天皇が、それぞれに姿は見えないけれども霊がいらっ しゃるのだ、こういうふうに神社があるというだけで、上の 人は神様だという考えがしみついていくわけです。 それからお寺におきましては、因果応報、輪廻を教えました。 この輪廻の思想は、生まれかわりを当然のことのように言い、 今世は 前世の 通 り返し の人生 で あると いう考 え 方を教 え込 んだのです。 そして 前世の 通 り返し の人生 で あると いう考 え 方を教 え込 んだのです。そして前世の通り返しの今世、また前世の悪業 を納消する今世ならば、現在の環境に貧富の差、尊卑の差が あっても当然と、差別社会を容認する効果を持っていたのが お寺のお説教であったのです。 本来、お釈迦様は、諸行無常 ** 死んだあとに霊魂など残らな い、すべて無常なのだと説いたにもかかわらず、そういう平 等思想を教え続けることができないお釈迦様の弟子たちは、 ヒンズー教の輪廻という差別思想に汚染されまして、霊魂と 肉体は 別のも の である という 霊 肉二元 論を同 じ ように 神社 とともに説きまして、そして通り返しの世の中であるからと、 当然の ことの ご とくに 差別思 想 を皆の 心にし み つけて いっ たわけです。 つまり上の人は神様であり、下の者、民草はそれに仕える奴 隷の魂である、こういうように説く神社の考え方が何とはな しにしみ込むようになっていたわけです。 そういう旧来の教育に対しまして、これを是正するために説 かれたのが、世界一れつは親神の子であるというおやさまの 平等思想だったのです あの神社に祀られているのが神様で、その子孫が村の有力者 である、こういう考え方では全く差別そのものであり、神は あの人の先祖ということになってくるわけです。 これが差別思想のもとです。 それに 対しま し ておや さまは 世 界一れ つは親 神 の子で あり 神の心を理解し、その心を持って生きますと心定めをしたら、 神のやしろとになれ生きがいを持って暮らせるのだ、一人残 らずが 自分の 心 の持ち よう如 何 によっ て神の 社 という 尊厳 を身に付けることができるのだと教えられたのです。つまり 差別思想が思想的に消されるわけです。 そして 一寸に も 満たな い小さ な 生きも のから 生 み出さ れ育 てられて、それが親から子、子から孫へと命あるものから命 あるものが分かれて育ち、それが今日、互い助け合いをする にふさ わしい 今 の世の 中の生 き ものに まで生 き 続け育 った のだというのがおやさまのお話であったわけです。そこには 命の大切さというものが流れているのです。九億九万年にた とえられる長い年限、互いに助け合えよと育て続けてきた人 間が互いに向かい合って、ともに生きているんですよ、それ なのになぜ傷つけあうのか、なぜ助け合ってくれないのかと いう思いがここには語られているわけです。 ここで は前生 の 悪業の 報いな ど という ものは 全 然通用 いた しません。ただ、今生きているものが助け合って生き続けて いく生きものの世界しかないのだ、ここで殺し合ってしまっ ては、その子孫はいなくなるのだということをしっかり自覚 しなさいと言われているのです。そして親神の子としての一 れつ兄弟が、難儀しているのを見てなぜ嬉いのか楽しめるは ずがないのではないかという基本の姿勢から、難渋を助け、 皆の喜 べる世 界 をつく るのが 人 間の行 きがい で あり喜 びで ある。そのために親から子、子から孫へと守護し続けて今日 十四―25 十―103 六―88 に至っ ている の である という こ とを元 始まり の 話で教 えら れたのです。 にんげんである 月日よりだんだん こころつくしきり そのゆへなるの みなしてかかる このさきハせかへぢううハ どこまでも ようきづくめに みたいゆえから 月日にわにんげん はじめかけたのなわ ようきゆさんが という思いから、この世界のあり方、ものの使い方、人間関 係のあ り方と い うもの をしっ か り身に つけて く れとい うの が「おつとめ」の理合いで、これを教えたのが元始まりの真 実の話なのです。 ところが先生方が話されている間に、いろいろな話が混じっ てしまいまして、生まれ変わってまたこの世に出てくるよう な話をする先生まで出てきてしまったのですが、これはお道 ではないのです。 おやさまは、霊魂不滅、霊魂と肉体は別々であるという考え や、上は神という考え方、運命論、宿業論を削り、また生ま れ変わり、通り返しの考え方を否定するために、世界は一れ つは皆神の子であり、そして親神の心を理解し、その心に基 づいて 生きよ う とした ら皆神 の やしろ として い きられ るの だ、神のやしろになったら、自分が自分の主でありこの世界 の支配者の一員であり、これから実現する陽気づくめ世界の 創造に働く親神の道具衆である。すなわち陽気世界の創造主 になれるのだ、こういうふうに教えられたのが元始まりの真 実の話であったわけです。 礼拝の(信仰)の対象は理である 今、礼拝の対象ということが問題になっています。 おやさま百年祭を境にいたしまして、今までのような信仰で はもう「いかぬ、これでは互い助け合いができなくなるとい う反省がおこなわれるはずです。 そうなれば、すべて教義も洗い直しをし、礼拝の対象も洗い 直さな ければな らない という こ とにな ってく る とオモ ウの です。 今でも昔でも信仰の対象は理なのです。「理が神やで」とい われるのです。この理を理解するために何を礼拝するのか、 「おつとめ」のときの目標にするかということになってまい りますと、これは礼拝の対象というものを考えないといけな いと思うのです。 今は礼拝の対象にお社を考えています。そしてその中にある お目標というのは八はたの鏡をかたどった鉄の鏡で、長い間、 これが大事なものなのだ、命にかえても守らなければいけな いのだと教えられてきたのです。 そのため、これが命より大切なものという感じを持ってしま ったり、そういうことで命を捨ててしまう人まで出てきそう なので困ってしまうのですが、これはおやまさの教えから言 うと少しも尊くない、反対のものの考え方をしている人たち の圧力で今でも祀らされている応法の理であります。 まずお目標の八はたの鏡というのは、天照大神の象徴という ことになっているのです。 天照大神というのは、何を尊んでいるのかと言いますと、高 天原この地上を見おろして、あの中津国―地底でもなく天上 でもないこの 地 面の国 々は私 の 子孫が 君たる べ き国で ある と言ったことが、天照大神の子孫である歴代の天皇にとって は、世界の支配の約束をしてくれたお方であるからといって 尊ぶわけです。 ですか らこの 八 はたの 鏡とい う のは世 界支配 の 象徴な ので す。世界支配、八紘一宇ということですから、どうしても侵 略主義、世界征服の野望ということがつきまとっておりまし て、従っておやさまの教えられる世界一れつが互いに助け合 って陽気づくめを生み出すという方向とは逆の、大変適さな いもの である と いうこ とはは っ きりし ている わ けだあ りま す。 、
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