2016年(平成28 年)5月12日 正しい動きはない 高齢になれば、 視力や聴力な どの感覚機能、 筋力や柔軟性な どの運動機能、 心肺や呼吸、 消化 器などの機能が衰えてきます。衰える機能や進 行に個人差はありますが、 どの方も衰えた機能 を補うように生活されていく中で、 腰が曲がっ たり、 膝や腰が痛くなったり、 睡眠時間や活動 量、 質が変化していきます。知らず知らずのう ちに、 その方特有の姿勢や動き方、 動作となって いきます。衰えた機能を発見し、 その機能を高 めることができれば丸く収まるほど、 人の身体 は単純ではありません。特に高齢者の生活、 動 作、 姿勢は機能の衰えとともに、 適応的につくら れたという過程があるからです。 元気な高齢者とは、 自分の能力を福祉用具な どの環境を工夫し、 折り合いをつけて暮らして いる方です。理想とする身体像のようなものが あって、 マッサージをして姿勢を修正すれば、 足 腰の筋力をつければ、 痛みを和らげることがで きれば、 最終的に理想に近づくというものでは ないと思います。形は多少悪くても、 本人なり に楽に、 毎日継続して動けるのであればそれが 何よりですし、 環境を工夫することで動きやす く、 動きたくなるのであれば、 無理して機能を改 善するよりも効率的で効果的なのかもしれませ ん。 できなくなったことをマイナスととらえる と、 マイナスを埋めるように治す発想になりま す。しかし、 できなくなったことはマイナスで もプラスでもありません。今の能力を当事者も 私たちも感じて、 折り合いがつく程度に介助し、 環境を整えることが大切です。ただし、 動きの 主導権は当事者にあり、 「 動き出しは当事者か ら」 でなければ、 本当の能力をお互い知らないま まに必要以上の介 助や不要な機能訓 練をしてしまう恐 れがあります。 私たちの身体 は、他者から何か をされることに慣 れてはいません。 良かれと思って行 う介助、 リハビリ、 看護が実は本当の 能力を見えなくさ せてしまうばかり か、できる能力を 奪い、結果的にA DLを低下させて しまっている可能 性さえあることを 知っておく必要が あります。正しい 動きを私たちの目 線で考えるのでは なく、高齢者が長 い年月をかけて、 それぞれの方が人 生に適応した結果 の身体、動き方で 同じような移乗の場面 あることを認める でも、手段はその時々 ことからケアを始 で変化する。お尻上げ めたいと考えてい 一つとっても、私たち が手段を決めてしまう ます。 ことで、当事者の能力 を見誤る可能性がある 当事者の動き出しは、 能力を知り、認めるき っかけになり、 いつ、 ど こで介助の手を差し伸 べるのか、タイミング や量を調節できる ( はトラブルになりませんが、 他人への一方的な 接触は犯罪とされます。したがって、 私たちが 当事者にどのように触れていくかについて慎重 「突っ張ってしまう」 「 緊張が強い」 「 踏ん張っ になる必要があります。 てくれない」 「とても痛がる」 など、 ケアを難しく 「動き出しは当事者から」 であれば、 当事者の する要因はいくつも存在し、 悩んでいる介護関 動き出しの意図を察し、 私たちが触れていくこ 係者は多いのではないでしょうか。対処する手 とができ、 単純にお互い納得しやすいのが利点 段を考えようとした時、 「 突っ張ってしまう人」 です。自分で動けない方でも生活すること、 動 「緊張が強い人」 「 踏ん張ってくれない人」 「 とて くことの主導権は本人にあります。思いはいつ も痛がる人」 というように、 当事者に原因がある も誰にもあり、 目の動きや表情、 指先など、 ほん という前提で話が進んでしまうことが多いよう の些細な動きとなって現れます。その一つひと に思います。 つが 「動き出し」 であり、 それを認め、 尊重するこ しかし、 ケアは 「人と人が直接関わる」 、 つまり とが、 当事者に主導権のある動き、 生活であると 関係性の中で展開されています。普段の人間関 考えます。 係がそうであるように、 そこで起こっているす べての原因が相手にあるとは考えづらく、 お互 いが影響し合った結果ととらえる方が自然で す。 相互関係の視点から、 「突っ張らせてしまって いる」 「緊張させてしまっている」 「踏ん張れない 状況にさせている」 「 痛い思いをさせている」 と いう私たち専門職にも原因があると考えなけれ ば、 根本的な解決には至らないと感じています。 突っ張るから、 緊張が強いからマッサージを、 踏 指先一つでも、 「動き出し」 を認める ん張れないから筋力訓練を、 痛がるので痛み止 ことが当事者に主導権のある動作 めをという対処は、 本質から目をそらすことに になる なりかねません。 人が普段の生活で自ら動き出す時、 自分で突 当事者自ら安心して っ張る人も、 緊張でガチガチになることも、 自分 動くための前提が必要 で踏ん張らないことも、 わざわざ痛くなる動き をすることもありません。例えば、 お化け屋敷 予測できない事態は、 誰にとっても恐ろしい は、 先が見えない中で不意に受ける刺激が恐ろ ことです。前述したお化け屋敷は極端な例えだ しさを感じさせ、 緊張もさせます。予測できな としても、 先行きの見えない未来を前にした時、 い事態は人を簡単に恐怖にさらし、 緊張でこわ 私たちは漠然とした、 言い表せられない不安を ばった身体は知覚を歪めます。 感じてます。しかし、 私たちはさまざまな選択 中の見えない箱に入っている物を手探りで当 肢をイメージし、 実現可能な未来に向けて動く てるゲームがありますが、 緊張した身体では正 ことができます。臥床を余儀なくされている、 確に当てることは困難です。介助に置き換えた あるいは自分では動くことが難しくなってきた 場合、 動作一つとっても、 介助の手はいつ、 どの 当事者は、 自分で動ける範囲が狭まるだけでも、 くらいの強さでと相手が正確に予測することは 選択可能な未来が少なくなり、 その不安や恐怖 難しく、 少なからず緊張します。 は計り知れないものだということに気づきま だからこそ、 「 動き出しは当事者から」 が必要 す。 なのです。当事者が動き出すことを認めると、 自分で自分の身体をくすぐってみても、 他者 その後に入る介助の手は当事者にとって予測し にされるような何とも言えないこそばゆい感覚 やすいものとなります。当事者の不要な緊張を はしません。いつ、 どのような刺激が自分に入 避け、 さらに動きを自分のものとして感じるこ るか予測できるからだそうです。予測できるこ とができ (自分で行った=自己効力感) 、 その動 とは受け入れられるのです。介助という行為に きを長く続けられる状況にもつながっていきま 置き換えると、 必ず予測可能で受け入れられる す。 ことがあります。 それは自分から動くことです。 つまり、 「動き出しは当事者から」 です。 ケアの現場では、 転倒や転落など事故を未然 に防ぐ必要がありますので、 当事者に対してど うしても過介助になりやすい傾向があると思い ます。だからといって、 介助者が先に手を出し てしまうことは、 当事者を身構えさせ、 緊張さ せ、 突っ張らせてしまうことになり、 当事者を危 険にさらすことにもなってしまう恐れがありま す。それが重度者という印象になり、 危険とい う理由の下、 ますます多くの介助をしてしまう 一方的な介助 (上) は 悪循環にもつながっていきます。 不要な緊張が生じや すいが、動き出しを 「動き出しは当事者から」 は、 当事者が安心し 察し認める (下)と、 て動くための前提です。安心して動くことで、 当事者が安心し動き 自分の能力を感じ、 自信が持てるようになりま を自分のものとして す。私たち専門職にとっても、 当事者の動き出 感じることができる しからその方の能力を知り、 認めるきっかけと なり、 いつ、 どこで介助の手を差し伸べるのか、 タイミングや量が変わります。当事者から動き 出 し、そ の 意 図 人は他者からされることに を察してタイミ 慣れていない ングよく支援す 普段、 健康な大人が誰かから介助される経験 る こ と で、お 互 はほとんどないと思います。日常生活において い気づかなかっ た新たな能力の も、 仕事や家事、 趣味、 娯楽も含めて基本的には 発見にもつなが 自分で考え、 判断し、 実行しています。私たちは 他者の意図やペースで何かをされることはな り、ま す ま す 信 く、 それを好むこともないようです。 頼関係が深まる 他者との接触は、 お互いの納得を察してこそ きっかけにもな 成立しているはずです。親子や恋人同士の接触 ります。 ケアを難しくする要因は 専門職にもある 認定作業療法士・手稲渓仁会 連載第3回 介護されるとは恐ろしいこと ( 病院非常勤職員 関わることの原点が 「気づき」 と 「関係」 をもたらす 日本医療大保健医療学部 リハビリテーション学科 大堀 具視 准教授
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