支輪の 丘 場から |白秋の﹁落 葉松﹂について 1 はじめに新制大事における一般教養の﹁ 國語﹂とい, ヮ科目をど 鋒矢寛郎 0% 係を確めながら文脈を整理する作業︶を主とした授 業 を試 いるのであるが、これには、私が国語畢を専門とするからとか わけではない。 に興味を持つているからとかいうこと以外に、私なり の 理由も どろの孝生はきともな文章が書けない、という非難があ ちこち なかなか頭の痛い問題である。大事における専門教育の立場からす と思ってしまう。しかし、高等睾校までの﹁国語﹂と いう科目の名 櫛を考えると、文事と語卑の別 なく両者を総合したも のを指してい るようである。一般教養とうたっているところをみると、後者のよ ぅ でもあるし、一方に﹁日本文卑﹂などという講座の 設けられてい るところをみると前者のよう でもある。あちこちの新 制大孝の様子 を聞いてみても、要するに措富者の専門に底じて語孝 的であったり 文畢的であったりするというのが實情 であるらしい。 わたくしもまた、御多分に洩れず、暗中模索の形で、文 鋒覗︵ オ@ ムW で、今さら大豊で教える必要はない、 きるだけの手を打つておかなければ、 一一一一 現實に のだ、と甚だ不本意な責任をとらきれることになってし まう。 一肥大豊では 何 を 教えて もな文章の書けない畢生がおれば、これを社倉に 送り 出すまで と 言ってみても、 珍しくない。そんなことは高等亭校 までに習得してし まぅ べき も、漢字・かなづかいの誤りや、文脈の不整な悪文に 出逢うこ を重視するようになったせいか、闘文科専攻の孝生の書いたも かれる。戦後の国語教育が﹁ 讃み ・書き﹂よりも﹁ 聞く・ 話 で」間近 のすで とは こと るでと なものだから、﹁国語﹂というとつい國 ﹁語畢﹂の講義をするものだ れば、目語畢と闘文事という二つの分野に大別するの は常識のよう う扱うかという問題は、實際にその講義を塘賞するも のにとってほ いにま 一四 北原白秋の﹁落葉松﹂をとりあげたのは、全く偶 然 であって しかし、毎時間、漢字の書取りや現 テス 代ト かば なか づり かい文 の節の開係 る圓 示する万法はいろいろあるが、ここで ほ、わたく やっていては、大畢生たるもののメが ンら ツ、 も教 き師 るの こと し流は の方法をとった。印刷の便宜のことも考えてのことである。 天れ 稟が でや 授る 採・ 難 に費やす時間 営な はも 柏ので、こ 側の出題 1 のなら讃 、ひ だけでも人愛な重労働で、 添削 ま・ し 採て 離 す一 る々 誰でもよく知っている詩に、こんな問題が起こるとほ、 豫頼 もしな などと考えただけで菊の遠くなるよど うの な根 こ気 とと はひ 、い よこほ とであった。初めに全文を拳げておく。︵次頁上 段河 血書房 まのあるものにしかできない相談である。 刊 ﹁日本現代詩大系 し 第四巻一九一頁による︶ 遭 は︵ 主 ︶ |Ⅰつづけり︵ 述 ︶ フ とじ しよ ても、 これを、 文 どとに次のように国解してゆくのである。 闘心を示 享生 すは皆無に、 近 やく きしい古典を, 講 よう 、りを傷つ 文法など死ぬほど嫌いだという。大け 豊ぬ 生 のに 誇 ①からまつのⅠ林を | Ⅰ過ぎて ノ 作文と文法の力を伸ばそうとすると勉 、強 高で 校は 時比 代較 の受験 からまつを / の構 い文 ろいろの 釣手薄になり文 が論 ち あな たり重 に 貼を置いて、 しみじみと| Ⅰ 見き ︵ 述︶ 聖る得 膿させるのも、一つの方法ではで なあ いる か。 と思うの ②からまっは︵ 主 ︶ |ょ きびしかりけり︵述 ︶ 右のような理由で、ここ数年間、一哺 般 の し教 は養 、祀 文﹁ 室国語③﹂たびゆ くは︵ 主︶Ⅰきびしかりけり︵述 ︶ ④からまつの| Ⅰ林を| Ⅰ出でて / 中心の講義をしてきたのであるが、は 以、 下そ にの 述講 べ義 ること からまつの上林に 1Ⅰ入りぬ︵ 述 ︶ の一こまに起こりた問題を要約してみ これ たを もも の て つ である。 示決 唆の す端 る緒 もを ⑤からまつの |ょ 林に| Ⅰ入りて ノ 一般教養國 の語 ﹁ ﹂のあり方だとか、問題解 らだ く、 、わた ム ﹁ う も した ば のだなどというつもりは毛頭 な後 い 。 また / 細く / いうことを 落葉松 からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみ見 とき・ からまつはさびしかりけり。 たびゆくはさびしかりけり。 一""" からまつの林を出でて、 からまつの林に人りぬ。 からまつの林に入りて、 はつづけり。 また細く道 一 からまつの林の奥も わが通る道はありけり。 霧雨のかかる道なり。 山風のかよふ道なり。 四 からまつの林の道は 北原白秋 五 ゆゑしらず歩みひそめ っ からまつの林を過ぎて、 からまつはさびしかりけ からまつときさやきにけ ト / からまつの林を出でて、 浅間嶺 にけぶり立つ見つ 浅間嶺 にけぶり立つ見つ セ からまつのまたそのうへ 山川に山がは の五目、 常 なけどうれ しかりけり。 世の中 よ、あ はれなりけり。 人 からまっの濡 るるのみなる。 かんこ鳥鳴け るのみなる。 さびしけどい よよしづけし。 からまつの 休 の雨は @ " からまつに か らまつのかぜ。 ノ 問題はここで起こりた。 文⑤の構文に似た例 トンネルを出て 鐸に|こついた︵述︶ 汽車は︵ 主︶ / ノ 汽車は︵ 主︶ ノ 鐸にっいた︵ 述︶ トンネルを出て と比較すると、文⑤ は 遭 は︵土︶ ノ からまつの 1@ 林に 1@ 入りて / また ノ 細くつづけり︵ 述︶ のような散文形として讃み直すことができる。つまり ﹁つづいてい る﹂のは勿論﹁道﹂であるが、﹁からまつの林に入 っ﹂たのも道だ ということになる。 しかじ、ふりかえって①を見よう。述語﹁見き﹂の主詰 は、隠れ たる話し手﹁私﹂であり、﹁過ぎて﹂の動作者もまたその﹁私﹂で あることは疑いのないところである。②③の主語は 一底 ﹁からまつ は﹂﹁︵ たび︶ゆくは﹂であるが、隠れたる﹁私﹂を主語 として想定 すれば、それらは﹁さびしかりけり﹂の封家請という べきものであ 五 t)@ . t)@ 0@ (C に の に ④ ら ② と て 」私 作者 に」 る て 「 に 嘗 後 た 讃 あ てみると議論は分かれた。しかし、試みに口語程をさ せてみると 串生 たちには、そういう疑問は起きなかつたよう であ るが、質問 かというのが問題なのである。 て からまつの林に入ると、また細く道はつづいている﹂と するもの ﹁入って﹂ かりである。﹁入りて﹂と﹁入ると﹂とでは違って い ないか、 文 の ﹁入れば﹂なら﹁入ると﹂でよいが、﹁入りて﹂は しかならないのではないか、と聞いてみても、﹁宴 す るに道が入 ているから、人もその道を通って入って行くのだろう﹂ というよ な、文の表現に即さぬ實 暴論になってしまうのである。 主語は同 ただ、この場合﹁また﹂に注意することはできる。﹁ 入 りて :・ま :つづけり﹂であるから、﹁つづけり﹂と﹁入りて﹂の ほ ﹁またし て、この場合には 問 題 解決の でなければなるまい、という意見である。ただし、これ ﹁細く﹂にかかるとも考えられるの 定 的な極め手にはならないことになる。 ①②③④からのつづきから考えると﹁私が林に入って﹂ のように 八 」 の る」 表 接相 一 なの -、 現 上 ノ ここで念のため、接績助詞の用法について簡単に 調べておく と「 N 思 に かつれ ぬて、 の 。 に われる つつい め て て る い と よ ぅ 績 違 た な と 考 は え 納 る と 4% する わ 「私 が け 林 ュ ・俄定順接條件 ・踊りたり:::㈲ ェ ・異時共存 踊らず:::㈹ 4. 確定逆接條件 | 踊れり:::㈲ 2. 同時共存 主語 は同じであるといえるよう である。 にお いては、前件後件の主語は別であり、㈲においては前件後件の 績さ れた前件と後件に主語を想定してみると、原則的に= ロ= つて、㈹ ころで、右の文を例にとって、このょうな接績助詞に よって接 笛吹きて 笛吹きつ っ 笛吹けども 笛吹くとも11踊るまじ::㈹ 3, 暇定逆接條件 笛吹けば 1@ 踊るなり:::㈹ 2. 確定順接條件 笛吹かば |踊らむ㈲ 例 を拳げれば次のようになる。︵ 注①︶ 後者は、異時共存と同時共存の二つに分けるのが普通であ る。 きらに前者は、暇定順接・確定順接・暇定逆接・確定逆接 の四つに 績 ㈹と共存的接績 ㈲︵並列、列叙などとも︶の助詞に二大別される。 ことにしよう。一般に接績助詞といわれる一群の助詞は 、條件的接 あ る 動 り ぬ」 入たれ 豫恕 されることになる。一%、 ﹁入りて﹂の主語は﹁私﹂ か ﹁ 道﹂ ること か こ易 客る。 と 来 る し は 「 語 と つ う た が 一 決 M ㈲ l 我 笛吹かば彼踊らむ 我笛吹かば︵ 我︶踊らむ O O 我笛吹けば︵ 我踊るなり::: X 3我 笛吹くとも彼踊るまじ 我笛吹くとも︵ 我︶踊るまじ::X 我笛吹けども︵ 投︶踊らず 1我 笛吹きて彼踊りたり 我笛吹きて︵ 我︶踊りたり:::0 2我 笛吹きっ っ彼踊れり 我笛吹きっ っ︵ 我︶踊れり:::0 もつとも、これは 一鵬の原則で、㈲ 3.4における﹁と も ・ども﹂ の用法は場ムコ によって、前件後件の主語を同じくすることも可能て ある。 私は、笛は吹いても、踊りは踊らないだろう。 私は 、笛は吹くけれども、踊りは踊らない。 うような︶場ムロには、やはり主語を同じくすること奇 は異な感じを 抱かせる。 同様に㈲Ⅰもまた前件後件の主語を別にすることはな いという原 別 には異論があるかも知れない。 私が笛を吹いて、彼が踊りを踊った は のような言い方も可能だからてある。しかし、この場ムロ 我笛吹き、彼踊れり のような中止法の言い万に近くなってくることに注意せねばならな い。助詞﹁ て﹂の有無は微妙に影響してくるのである。 また、かりに一歩を譲って㈲Ⅰにおいては主語を別にすることが 可能だとしても、前件後件のどちらか一方にしか主語が明記されて いない、 我笛吹きて踊れり 笛吹きて我踊れり にまで、別の主語を想定せよというのは、随分無理な のような場ムロ 相談でなければならない。 ︵ 我︶からまつの林に入りて、 場ムロなら知らず、後件の主語﹁道は﹂は﹁入りて﹂主 の語でもある において、意味の上から﹁入りて﹂の主語が﹁道は﹂であり得ない また細く﹁道は﹂つづけり。 も少し外れるのではあるまいか。﹁笛を吹く﹂ことが ﹁踊る﹂こと である。しかし、これは厳密に言えば、傑作法か などのような場ムロ の條件である︵笛を吹くと踊る、笛を吹かない場合に は踊らぬと い 一セ と考えるのは、丈論的な立場からいえば、どく自然な考えというも しかしながら、前述のように、第一節からりづけて讃 んでく{ のである。 3 自 ると、隠れ たる﹁私﹂が﹁林に入って﹂を考えたくなるのもまた自 上 然 な考えで はある。このようなとき、﹁友孝作品に見られる文法上 からまつの林に 二、からまつの林を からまつの林に 三、からまつの林の 遭は 遭は 道なり の破格﹂と いう 言い万で解決しようとすることが多いのであるが、 道は 道なり 四、からまつの林の で このように 安易に妥協する前に、もう少し考えてみることはないで て 使われて に ﹁からま あろうか。 ﹁落葉松﹂の詩は五 セ調 、八節 三 二行から成り、その中 セ回 ︵二行に一回強の割合︶にわたっ 道なり っ﹂という語が一 道なり ないであろうか。 林 ﹂封 ﹁道 ﹂ の勢力比 つまり、二節の後半に初出する﹁道﹂は三・四節におけ のて この とみ の萌芽であり、一・二節までの﹁からまっの林 ﹂を 歩 く ﹁私﹂との ﹁道 ﹂ ではなく、作者の詩心の移り発りを微妙にあらわして いると は 言え ︵Ⅰ・ 3 ︶︵Ⅰ・ 3︶という形式的な数量此 につい が逆 縛していることに気付くであろう。軍に︵ 3.0 ︶︵3 ,工 ︶ ・二節と三・四節において、﹁からまつ, いることは、誰でも気付く形式ヒの 特色である。しかし、この他に そし 四 、﹁かよ ふ ﹂ 三、他は二以下 である。︶ ﹁林 ﹂が九、﹁ 道 ﹂が セというのも頻度としてはかなり高い 0 ︵他の 自立語では﹁きびし﹂ て、せ つの﹁ 道 ﹂は ニ 、三、四節に集中してあらわれる ことも注意 き れる。この詩の前段と見られる一節から四節までに限 つて﹁からま つ ・林 ・道﹂の三諸のあらわれる状況をみると次のと ねりである。 一 、からまつの林を からまつを からまつは 八 交錯 貼 でもある。白秋が、そこまで意識して﹁からま つの林に入り のではないか。宰主 にありがちな文法ぎらいに対して、本稿の よう ロ ある らより高度な文事的な鑑賞に到達することが可能になる場ムが れることにも諸事的な確めを試みることにより、漠然とした鑑賞 か な文諭の立場からする試みが、何らかの興味と闘心を喚起する こと て﹂の一句の主語を﹁私﹂とも﹁道﹂とも両様にとら れるような 表 ができたとすれば、このような試行錯誤をもう しばら く績 けてみる 現を選んだのだという講明はできないかも知れない。しかし、無意 識の中に、第一期 景 ﹁からまつの 林﹂から、第二期景 たる﹁ 道 ﹂ へ のも全く無意味なこと ではないという気がする。 些か、 龍頭蛇尾にな つた感じのするのは、昭和三九年︵辰︶から の比重の推移が、このような形をとったものと考える ことはてきる 四 0年 ︵ 日 ︶にかけて の稿であるという酒落 ではなく、最近のわた し、さらに、この詩の全篇に見られる作為的とまで見 られるくりか えしなどの技法を︵ 注②︶考えると、白秋は案外意識 して、右のよ @ し かし て ﹂の場 ムロ なので、﹁ て ﹂ の からまつの林を過 ぎて、 五 えし、対句的な技法や封照的な構成が額 著 である。 かあまりの林を過ぎて、 目ノ 0 注②﹁落葉松﹂全篇の構成を圓示すると、次のようになり、くり 時共存にはわざと解 れなかつた。 今の場 ムロ は、問題が﹁動詞入る十 に接績 したときは、㈲ 2 の同時共存として使われる。 注 ①㈲ 1異時共存の﹁ て﹂が、形容詞・形容動詞など の 状態性の くしの不勉強のせいである。 う な心理的 縛換を試みたのだと言えなくはないような短 さえする。 つまり、立論の立場から﹁入りて﹂の主語を﹁道 ﹂だと する考え ほ、作者が林に入ったとする考えを否定するものでもなく、また、 安易に妥協したりするのでもない。作者の意識的・無意識的の何れ かは知らず、作者の心理的推移が、両様の解を豫想し なければなら う に﹁闘文事﹂﹁國語峯 ﹂と いう二つの からまつをきり 、 語 同 か ぬような表現を生んだものと解すべきではないかと考 えたいのであ る0 おわりに最初に述べたよ この二つの な鑑賞と矛盾するような結果になることがあり、それを を、語法上の くと文事的 行一 匡介が行なわれている。そして諸事的な立場を進めて, 行 破格などと 簡軍 に妥協してしまうことが多い。しかし、 匡介 は 、いわ ぱ盾の雨面のようなものであり、分かり き つたと思わ 九 一 からまつの林を出でて、 からまつの林に人りぬ。 コ、 遭 はつけづ り 。 からまつの林に入りて、 一一 からまつの林の::も わが道は:・みり。 けぶり立ち見つ。 / Ⅹ" "" の 林を出でて、 からまっ けぶり立つ見つ。 からまっ " l 一 "" 鳴けるのみなる。 濡るるのみなる。 し " セ からまつの林の道は一からまつの林の::は われ さびさびといそぐ道なり。 八 あはれなりけり。 :::けど うれしかりけり。 山がはの音 、 からまっのかぜ。 O
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