巻頭言和泉氏.

人 工 知 能 31 巻 3 号(2016 年 5 月)
巻頭言
323
ブームは続くよ,どこまでも
和泉 潔
(東京大学)
最近は人工知能が何回目かのブームらしい.テレビをつければ,人工知能がいつ人間を追い越すのか,ワイドショー
の司会者が真面目な顔をして専門家に聞いていた.週刊誌を開くと,人間の仕事の何割が人工知能に置き換わるのか
特集を組んでいる.新聞を読むと,公的機関が人工知能を活用するための委員会を立ち上げるという記事が出ている.
ちょっと怖い気もするけれど,人工知能で世の中が変わりつつあるのだろうか.よくわからないけれど,自分のこれ
からの人生にどう関係するのだろう.
人工知能の専門家以外の多くの人々が,AI の第三次ブームに対して抱いている印象は,だいたい上のような感じだ
ろう.期待半分と不安半分の様子見という態度が多いように思う.企業の経営層であれば,ブームでのビジネスチャン
スに乗り遅れまいと,試しに人工知能を使うプロジェクトを立ち上げようとしている.
しかし,世の中の興味はいつも熱しやすく冷めやすい.人工知能に過度の期待がかかればかかるほど,期待はずれ
に感じて離れていってしまう人もいずれ出てくるだろう.人工知能が期待以上の成果を上げたとしても,一般の人々
が人工知能に感じる不安が期待よりも大きくなるタイミングが来るかもしれない.
本学会の役員を務めているような人達と話をしていると,皆案外冷静な視点でこのブームを見ているように感じる.
このブームはいつまで続くのか,このブームの間にどんな新しい技術が生み出せるのか,このブームが終わった後に
人工知能の分野はどうなるのか.多くの人工知能の専門家達は,ブームの先を見通そうとしているのだろう.そういっ
た意味では,人工知能が日常生活に入り込んだときに起こり得る問題に対して学会としての指針を今から示す目的で
倫理委員会を設立したことは,将来の不安を少しでも取り除くために必要なことをプロとして取り組む姿勢を示して,
渋くてとても良い仕事だと思う.
少し異なるマーケティングの視点から,人工知能のブームを見てみたい.ここでは,マーケティングコンサルタン
トのジェフリー・ムーア氏が提唱している「キャズム理論」[Moore 91] をもとにして話してみる.この理論によると,
人工知能のように利用者に今までの行動様式から変化を求めるような新技術の普及には,初期市場(初期採用者の層)
とメインストリーム市場(追随者の層)との間に深い溝(キャズム)があり,そこを乗り越えるためには普及のため
のいくつかのマーケティング戦略が必要らしい.一つの有効な手段が,一般層に対して新技術の信頼性や安心のイメー
ジをもたせることだそうだ.先ほどの倫理委員会の取組みはマーケティング戦略としてもとても有効である.
新技術を生みだしキャズムを乗り越える取組み(イノベーション)の最終結果として,
次の五つの分類がある [Moore
11].
● 差別化:コア技術で競合相手と差別化できるような独自性を生かせる状態
● 無効化:競合相手の優位性に後から追いついて無効化できる状態
● 最適化:もう普及した技術からむだな要素を省いて効率性を向上した状態
● 失敗:イノベーションの研究開発に失敗した状態
● むだ:本来の戦略と違うことを行って資源を浪費した状態
一般的に,
最初の三つの結果はリターンを生む成功した結果で,最後の二つがリターンを生まない結果だそうである.
失敗はある程度仕方がない.一番怖いのはむだになってしまうことである.例えば,競合と差別化できる新規技術を
生み出すことを目指すはずだったのに,いつのまにか相手よりも比較優位にある技術を目指してしまっている.でき
るだけ素早く先行技術の水準に追いついて無効化すべきなのに,より優位な技術をつくろうとして時間を浪費する.
大学や企業のさまざまな研究者が,どのような結果を目指して研究開発を行うかはいろいろあるだろう.ただ,も
し今の AI ブームがキャズムを乗り超えてメインストリームにまで入り込めたときに,自分達が上のどの状態になる
ことを目指すか,たまには考えてみることも面白いかもしれない.皆が少しずつでもブームの後の自分の立ち位置を
考えておけば,むだに終わらないブームのうまい着地点が決まっていくのではないかと期待している.
◇ 参 考 文 献 ◇
[Moore 91] Moore, G. A.: Crossing the Chasm: Marketing and Selling High-Tech Products to Mainstream Customers, Harper Business
(1991)
,川又政治 訳:キャズム,翔泳社(2002)
[Moore 11] Moore, G. A.: Escape Velocity: Free Your Company’
s Future from the Pull of the Past, Harper Business(2011)
,栗原 潔 訳:
エスケープ・ベロシティ~キャズムを埋める成長戦略,翔泳社(2011)