JNK000804

昭捧 紀要
天理大学人権問題
第 8 号 :45
Ⅱ 8,
2005
安堵小学校「卒業者名簿」を 通して見る北方の 教育と暮らし
伊藤和男
ITO@Kazuo
族籍
はじめに……「卒業生名簿」について
生徒氏名
池田論文がめつかっている 安堵町の小学校,
生年月
安堵小学校が 保管している 同校関係文書のな
明治中期から 第二次大戦後まで 続くこの 記
る。VG 龍 さ
録じたい,興味深く 貴重な資料といえる。 だ
かに,古い「卒業生名簿」があ
んや MIT 真一さんのお 話をうかがっている
が,私たちが驚いたのは,卒業生たちの 名前
うちに, もしかしたら 小学校に何か 残ってい
の上部欄外に ,それぞれの子どもの居住地区
ないだろうかと 思い,隣保館館長の 芳野さん
の紹介で安堵小学校を 訪ねた。 正直にいうと
を示す文字が 書き込まれていたことであ る。
当時の安堵小学校は , 束 安堵,西安堵,笹 目,
たいして期待していなかったのだが
窪田, lm@ の 6 つの村を校医としていたが ,
,思いが
けないことに 1895 (明治 28) 年度卒業生の 記
% 安堵村の子には「 東 」,西安堵の子には「西 」,
録から始まる「卒業生名簿 -Jが残っていた。
笹目付は 笠 」などと,たいていは 村名の初
「
「卒業生名簿」は ,「龍 田川印刷所」が 調
めの漢字一字が 記されていた。 専用筆に住所
製した縦書きの 公用筆を用いた 和綴じの 4.冊
欄が欠けている「不備」を 補うつもりだった
であ る。 この公用筆はおそらくは 専用に調整
のであ ろうか。
したと思われる。 そこには,各年度ごとの 卒
業 生一人一人ほついて ,次の事項が記載され
ところが,この 頭書のなかに 6 つの村名に
ない文字,「Ⅱ」が出てくるのであ る。
ている。
が,旧風眼,北方を
意味することは 疑いない。
(証書) 番号
ヒ
北方は,行政村 としては 東 安堵村 の - 部であ
卒業年月日
る
在校年数
のがこの頭書のルールであ
学力
体質
卒業後
。 だから,北方の子どもにも「 東 」と書く
るはずだが。
安堵小学校は , ⅡⅡという頭書を ,
1921
(大正10) 年度まで書き 続けている。 翌年か
/
情況
父兄職業
天理大学人間学部
ら 書式が簡略化され ,記載事項は「卒業番号」
「氏名」「生年月日」「卒業後/ 方向」の 4 つ
Faculty@of@Human@Studies
45
安堵小学校「卒業者名簿」を通して見る北方の教育と暮らし
に絞られている。 これを機としたのであ
か,あるいはこの年 3
反応したのであ
ろう
名な郷土の偉人が ,「卒業生名簿」の 発頭を
月の全国水平社結成に
飾っているのは ,偶然とはいえあまりにでき
ろうか,居住地区を 示す頭書
すぎている。 これはあ とになって知ったのだ
から「化 」の文字が消えている。
が,
じっはこの「卒業生名簿」は ,奈良県教
育 委員会の吉田栄次郎氏が ,私たちよりも 先
安堵小学校が 27 年間にわたって「 化 」と記
し続けた意図はしばらく 措くとして,いまと
に目を通しておられた。 吉田氏は,県下の部
なっては北方の 子どもの教育と 暮らしをうか
藩史料研究の 第 - 人者と目されている。 そこ
がう
う
で,富本憲吉の件を氏に質してみたとろ ,偶
えで貴重な資料ではあ る。そこで,1922
年度以降は隣保館長の 芳野さんに,誰がなら
然でしょう,ということだった。この一点を
の子どもであ るかを教えていただくことにし
除いて,「卒業生名簿」には 史料・としての信
た。 こうして 1895 (明治 28) 年から 1945
患 ,性を疑わせるようなものはなに 一つ見あ
(昭
和 20) 年 までの 51 年間の「卒業生名簿」を 集
らない。
計 ・整理したが ,このデータには,うえに述
第 ] 章 1928 W昭和 3) 年卒業の人々
べた理由で 1921 年 までとそれ以降で 明確な境
tTG 龍 , MU
界線が引かれている。
る。 それ
もうひとつ,ひっかかることがあ
た
子 , YN
真 Ⅰ KM
I 日女生・ IU) レイ
I 国姓・HG) 千穂栄さんが 安堵小
は ,第一分冊の冒頭に「富本憲吉」の 名が掲
げられていることであ る。 富本は世界的な 陶
学校を卒業したのは 1928 ( 03) 午である。
この年,安堵小学校を 卒業した北方の 子ども
去 家にして文化勲章受賞者,現在の
は,男子9 名,女子 4 名,全部で13 名。
ほ召 オ
安堵町に
氏
は富本憲吉記俳館まであ る, このあ まりに 高
番号
進
1222
家
路
づ田付
-lll
名
1914712
MU
1915/12
1229
高 等
高 等 科
UG 龍 (男 )
1331
家
事
BW 男 )
1.3W32
高 等
科
C( 男 )
m23.3
高
121M4
高
等 科
年
A( 男 )
1230
科
生
真一(男 )
1916/2
D (男 )
1915/4
E( 男 )
1916/1
F(
は5R
家
)
1915/2
1263
高 等 科
G( 女)
1916/2
1264
郡山高等女学校
H( 女)
1915/7
1265
高 等
IU レイ 子 (女)
19%/12
花66
郡山高等女学校
HG
1291
家
Ⅱ男 )
事
科
事
身き
千穂栄 (女@
月
1916/3
空
白
UG 瀧 さんたちの記憶では ,同い年の子と,
もは20名ほどだが,中途退学した 子もいたと
義務を猶予・ 免除してもいい
いう。 このころは,保護者貧窮の
しない子どもはさすがに 少なくなっていたが
場合は就学
(小学校令第 33
条 ) ことになっていた。 初めから学校に 就学
,
中途退学はそれほど 珍しくはなかった。 たと
えば, 1922 (大正11) 年に尋常小学校に 入学
した子どものうち
6
年後に卒業した 者は,全
びかけた。 これに応えるかたちで 東 安堵村 で
は翌 73年 3 月に村内の廃寺を 活用して「郁々
舎 」という小学校を 創立した。 教員 4 名,男
国平均で男子 93%, 女子90%, 平均91.5% と
子生徒は 8 名,女子生徒 62 名 (1875年調べ)
いう指摘があ る。
という「郁々 舎」は,明治中期に至るまで
それにしても UG 瀧 さんたちと同い 年の
1
学校 1 学級の単式学校がなお 少なくなかった
子どもたちがかりに 20名だったとして ,小学
校を卒業した 子が13名。 (65%) というのは,
の小学校だったといえよう。
全国平均に比べて 決して多いとはいえない。
存されている「沿革 誌 」には,同校の前身と
もっとも, m3 名のうち,高等小学校へ 進学し
してこの「郁々 舎 」のことが記されている。
ことを考えれば ,当時としてはかなりの 規模
安堵小学校に 保
た子が 7 名,女子の 2 名は郡山高等女学校に
進んでいるから ,教育熱 ・進学熱の趨勢はか
もう一つの小学校があ った。 教員
らにも及んでいたと 見るべきだろう。 郡山高
生徒4R名 ,女子生徒 3 名のこじんまりしたこ
等女学校に進学した YN
の小学校は「 風根方」にあ る, と「明治八年
さんのお父さんは ,
日頃から頭を指さしては「これからはここの
博千 ヒや
業後は何も学ばないというわけではない。
1
名,男子
奈良県管内分学校 表 」は伝えている。
「学制」は,当時の 留守政府の参議たちが
。 」とおっしゃっていたという。
上級学校に進まなかったからといって
だが, じつは 東 安堵には「 明倫舎」という
,卒
い
予想したよりも ,はるかに深く 日本社会のあ
り方を変える 性格を備えていた。 「ニューヨ
まと違ってこの 当時は昔からの「若出宿」Ⅰ娘
ーク・タイムズ」紙は ,翌年次のようにこれ
宿 」などの年齢集団が 残っていた。 町に勤め
を評している。
に出た青年たちを 除いて,小学校を 卒業した
後はこうした 集団単位でおたがいに 仕事の技
に含め , 彼らにも平等の 特権 と昇進の機会や
術や生きるために 必要な知恵を 学んでいた。
学校の教師になる 機会を与えることに 同意で
「女性や下層階級の 者を ,
彼らの教育計画
初めに考えていたむらの 古老, とくに 1928
きたとき,これらの 人々の考え方に 起こった
年に小学校を 卒業し,いまでは80歳を超えた
に違いない大きな 変化は,いくら高く評価し
方々の生活史をつづるというテーマからすれ
ば,「卒業生名簿」から 分かることはさしあ
ても評価しすぎることはないであ
たりこれぐらいであ る。
第 2 章 むらの子どもの 学校教育
1872 0明治 5) 年 政府は「学制」を 頒布し
て ,欧米諸国を範とした学校制度を 発足させ
ューヨーク・タイムズ , 1873 年 4
ろう」 (ニ
月
2
日
)。
ニューヨーク・タイムズの 記者がいう「 下
層階級」が, 日本社会をどこまで 深く見据え
たものかは定かではない。 だが,地主の息子
が 部落の少女と 同じ教室で机を 隣り合わせて
ともに学ぶようになるという 事態は,見方に
た。 「学制」頒布に 先立って示された 太政官
よっては前年の 解放令にもまして 大きな衝撃
布告「学事奨励に 関する 被 仰山 書 」では,「学
を一般民衆に 与えたに違いない。 あ ちこちで
問は立身の財本」という 個人主義的で 功利的
この共学を忌避する 動きが起こり ,
な教育観を掲げ ,「一般の人民 華 士族農工商
及 婦女子」が同じ 学校制度の下で 学ぶよう 呼
奈良でも 25 校ほどの「部落学校」が 生まれた。
この結果,
北方の「 明倫舎」もその一つぼ 数えられてい
47
安堵小学校「卒業者名,
簿」を通して見る北方の教育と暮らし
とくに 95 年 6 月の訓 f では,奈良県知事古
る 。
県が,こうした「部落学校」を 廃止し,近
沢 滋 が ,県下の各郡の就学者数・就学率・
卒
隣の学校に統合するように 指示するのは 1912
業率・教育穏など 細かい数字を 掲げて教育の
(大正元) 年になってからだ。 この訓令につ
実況を明らかにするとともに ,これを近 府県
いては,明治末期の「大逆事件」への
らの反応の 一 っとする見方もあ
権 力か
といち いち 比較することで ,小学校の就学お
よび出席を督励 し ,かっ卒業率を高めるよう
るが,
舎」についていえば ,詳しい経緯は分からな
各郡長をはじめとした 当局者を叱 暁 激励して
いが, 1891 (明治24) 年 という比較的早い 段
階で安堵小学校への 統合が実現している。
就学率 71%,
いろ。 古沢が, 1894
(明治27) 年度の県内の
出席率 79%,
卒業率 60% 弱とい
う数字をあ げて,県内の学齢児童のうち 58%
が「国民必須の 教育」を受けていないと ,こ
Ⅲ 就学と卒業
安堵小学校が「卒業生名簿」を
1895
残し始めた
W明治 28) 年は, 日清戦争を経て 国民 教
こで指摘していることは ,
この年から始まる
安堵小学校の 卒業者名簿の 調製と無関係とは
育の重要性に 対する国家的視点からの 関心が
考えにくい。 もしそうだとすれば ,安堵小学
高まっていく 時期であ る。教育界は,「教育
校と同じような「卒業生名簿」は ,県内の他
を受けた皇軍兵士」が「無識 固阿 な支那 兵
の小学校でも作られていたと
」
を打ち破ったと ,国民教育の成果を自画自賛
した。 政府は, 清国賠償金のうちから 1000 万
円を割いて「教育基金」を 設けた。
思われる。
ところで,残俳なことに ,この「卒業生名
簿 」を読む う えで 不、 可欠な史料,つまり 管内
各村の年度別の 学齢児童数を ,現在までのと
だが,地域に目を向ければ ,このような熱
ころ見つけ出せていない。 たとえば, 1895年
狂とは裏 腹 な現実が横たわっていた。 義務教
の時点で安堵小学校が 属していた平群那の 就
育であるはずの小学校教育の 深刻な伸び悩み
学率が73% であ ることなど,周辺史料は 断片
であ る。
的にではあ れ回にとき る 。 だが,肝心の安堵
奈良でも, 日清戦争に前後して 毎年のよう
小学校管内の 就学率や北方の 就学率を算出す
に小学校教育の 普及を命じる 規則・訓令が 出
る基礎になる 数値が分からなければ
されている。
者名簿」の史料価値は 半減ずると言わざるを
,亡卒業
1892 (明治 25) 年 3 月「学齢児童就学及
得ない。 関係資料を渉猟 し 何とか見つけ 出
び家庭教育等に 関する規則」
1893 (明治 26) 年 1 月「学齢児童就学調
したいと 思、 っている。
さて,義務教育の 就学・卒業率の 向上とい
査に関する訓令」
う県の強い意志を 反映するかたちで 作られ・
始
1895 W明治 28) 年 2 月「小学校学齢児童
就学に関する 訓令」
めたと推測される「卒業生名簿」をもとに
194.5 (昭和 20) 年 までの卒業生数を 地域別・
1895 (明治 28) 年 6 月「小学校教育の 現
性別に集計したものが ,
(表い
の地域別卒業生数」であ
る。
「安堵小学校
(表 l ) 地域・男女別各年度卒業者数
5
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先工
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化女 束w, 東女 所労 西友 洋m 男
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49
安堵小学校「卒業者名簿」を通して見る北方の教育と暮らし
1937
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合引
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7
6@
8
15
265
228
414
117
216
さきに断ったように ,北方や各村の学齢児
童 数が分からないので ,この表から確かなこ
とをいうのは 難しいが,天理図書館が 所蔵す
る
幕末から明治初期に
図を見れば,北方と ,
、 けての 東 安堵の古拙
Ⅱ
ヒ
方を除く東安堵
(か
枝郷飽波 万歳
町
19
3528
23 人
UG 瀧 さんや MT 真一さんの時代でも ,北
方と南方は戸数ではだいたい 同じ規模だった
という。
にもかかわらず ,卒業者の総数は ,北方615
名,南方833 名。 とかなりの開きがあ る。 北方
の卒業者が少ないのではないかという 印象は
本村
118 町
558 人
枝邪風根械 多
(男 262, 女 296)
102 町 456 人
(男 227, 女 229)
否定できない。
次に,北方の場合, とくに女子の 卒業者が
極端に少ないという 事実が目を引く。
Ⅰ
卒業年度
50
5
142
(男 13,女 10)
りに「南方」と 呼ぶ。) の戸数にそれほど 大
きな差はない。
136
Ⅰ
卒業生数
目
卒業年度
生
卒業年度
名村の卒業者の 男女比率は次の 通りであ
る。
は約 20 年後, 1930 年代からであ る。
1.01倍
(入学)
W卒業)
1.16
ィ吉
1907 年
窪田
1. 67写
笹目
0.88 倍
剛l奇
0.96 倍
東 安堵 (北方)
1.5f
東 安堵 (南方)
西安堵
男子に大きく
男子は女子の
Ⅰ
千
倍
水をあけられていた 女子の義
1912 年
(男 )
80 . 1%
68 円形
19 い 年
1918 年
84.3
76.2
1919年
1924 年
90, 2
85.9
安堵小学校では ,北方以覚の地区では卒業
者に占める女子の 率は全国平均を 上回って
上ヒ
いる。 しかし,北方では 女子の比率は 男子の
務教育就学率は ,全国平均で見れば1910 年前
約 64% に過ぎず,その 低さが際だっている。
後からは男子とほほ 肩を並べるようになった。
け 手サ
しかし,卒業率では
,両者の格差が縮まるの
ぜが遡るほどこの 傾向は強く, 1900 W明治
33) 年頃 まで,女子の 卒業者はほとんどいな
51
安堵小学校「卒業者名簿」を通して見る北方の教育と暮らし
学齢児童に国民必須の 教育を受ける 機会を与
いといっても 過言ではない。
ところで, 1906 (明治 36) 午から 3 年間に
えようという 意図に貫かれていることは 疑い
わたって卒業生が 急増する奇妙な 現象が表か
ない。 とはいえ,授業料を 廃止したからとい
ら見て取れる。 1909 (明治42), 19N0 (明治
43) 年度の卒業生がゼロなのは ,小学校令の
ってすべての 子どもたちが 学校に通えるとい
年延長 (4 年か
な働き手なのだから。 教員や市町村吏のなか
には,午後に手仕事をさせることで 学用品費
Ⅰ
改正にともなう 修学年限の
ら
6
年へ) によって,
2
2
年間卒業生がいなく
うわけではない。 下層社会では 子どもは貴重
なったことによるが ,その前の現象は何が原
因 なのだろうか。 答えは,このころ 就学・卒
や生活費の一部を 子どもたちに 稼がせる半券
業率を引き -@-げるために各地で 行われた「特
たちの修学に 力を注ぐ者もいた。
半学の学校運営を 試みるなど,貧しい子ども
そのいっぽうで ,「8手別教授」と 言っても,
別教授」という 名の変則教育にあ る。
1889 (明治 32) 年の「奈良県 報」に「就学
子どもたちのためというより
,
どちらかとい
児童出席督励方法」という 報告が掲載されて
えば,町村の行政担当者の 体面をとりつくろ
いる。 小学校の就学率,卒業率を
うことに関心が 向いているのではと 疑わせる
上げるため
に管内で打った 施策を,各郡長が県に報告し
地域も少なくない。
たものであ る。 当時,安堵小学校が 属してい
安堵小学校では ,
た生駒郡からの 報告に次の項目があ る。
,半日学校の 制を設け一日午前午後各姉
1907
生名簿の末尾をみれば ,
(明治 40) 年度卒業
12 名の子どもが「特
別教授」によって 小学校の課程を 終えたとし
時間とし交代教授を 施し貧民子弟の 就
て卒業を認められている。 ところが, この子
学出席を奨励すること
どもたちの「学力」欄には 12名全員に「中等」
・子守教育所を 設け子守をして 幼児を背
にしながら出入りせしめ 懇切に誘 肢 訓
育すること
・特種部落に 在りては 其 貧民児童の仏寺
等常に群衆せる 場所を巡回し 教授する
た全員「 中」と記されている。 5 名の生徒の
「生年月日」が空欄のままなのは ,
この子 ど
もたちに対する 学校の関わりの 度合いと姿勢
をうかがわせるものといえる。
これら 12 名の子どものうち ,南方1 名 ,窪
。と
要するに正規に 就学できない 貧しい子ども
たちを対象として ,簡易な方法で,
と書きなぐってあ り,「体質」欄にもこれま
とにもか
田 3 名,残りの 8 名が北方の子どもだった。
「特別教授」は,
少なくとも安堵小学校のそ
くにも義務教育を 受けさせるためのあ の手 こ
れについてみる 限り,おもに北方の子どもを
の手,これが「特別教授」の 中身であ る。夜
対象とした教育行政のつじつま
学や,学齢児童が働く工場に付設した 教育所
たという感が 強い。
など,土地の事情に合わせて 各地でじつにさ
合わせであ
このようなぞんざいな・扱い方の背後にあ っ
まざまな試みが 繰り広げられている。
日清戦
たのは,部落に 対する次のような 見方であ
後の第一次産業革命に 合わせるように
,文部
たことは記憶されるべきだろう。
省は,義務教育においで授業料を徴収しない
っ
っ
ことを認める 条文を盛り込んだ 第 3 次小学校
又 特種部落なるものあ りて貧児多し。 離
鞍を纏ひ遊惰の 性を有す。 是を以て一た
令を公布した。 この施策が,一人でも
び学に就くも 其 出席の状態は 隠見出没 常
52
多くの
ならざるを見る。 蓋し他日国家に
蕊 毒を
流布せんとするは 此 貧児中 より出るなら
ん。 実に司育の任にあ るものは一大覚悟
を有し 此子女と 此 貧児とを陶冶するの 術
にばらつきがあ
る。 これをかりに「優等」「中
等」「劣等」の 三つこまとめて
整理すれば下
表のようになる。
ここで注意しな
@ ればならないのは ,この
を講ぜざ るべからず。 は 889 (明治 32)
年 奈良県報 「就学児童出席奨励 法 」のう
時期の評価が 絶対手平価であるということだ。
ち生駒郡の報告 )
評定をみれば ,今日の目標準拠型の 到達度 評
さきに,北方の 子どもの卒業者は 少ないと
書いた。 そのことは事実であ る。 しかし,当
時の学校が部落の 子どもを初めから 蔑視し,
もっぱら治安上の 観点から子どもたちの「
教
育 」を発想していたとしたら ,親も子どもも
学校嫌いになってもしかたがないだろう。
最後に,
それでも 192(W
年代に入ると 北方の
卒業者は確実に 増えていく。 そのことは女子
といって,「超衆」とか「普通」とかという
価 のようにあ る種の基準があ
ったようにも 恩、
えない。 すべてひっくるめて
一つの評定とい
うのも,いかにも 乱暴であ る。
「学力」欄に記載があ った子どもの 総数は
1402 名。 このうち,北方は170 名,他地区は
12% 名 であ る。 表を一見して 分かるように ,
「中等」と分類されている 者は,北方・
他地
の卒業者数の 変遷を見れば 分かる。 差別と 貧
区ともにほぼ 70% で一致している。 しかし,
「優等」は,他地区の 三分の一 騎 ,逆に「劣
困からの解放のみちを ,子どもたちの教育に
等」は二倍強。 学校則
求める考えが 定着していく 過程は 1920 年代か
力 ) という面では ,北方の子どもに 相対的に
ら始まるといえる。
低学力の者が 多く,学力の高 い者が少ないと
(学校で評価される 学
いうことになる。
(2) 学力
「学力」欄は ,時期によって「優等」「 超
衆 」,「中等」「普通」,「劣等」などと
表記法
(3) 進路
北方の卒業生の 進路は次の表の 通りであ
(表 2@ 北方と他地区の
学力
北方
他地区
l 芸革
「 「
劣等
口中等
口
劣等
る。
安堵小学校「卒業者名簿」を通して見る北方の教育と暮らし
先にみたように ,
いかという見方が ,奈良の部落史研究者から
聞こえてくる。 大規模な皮革業を 地場産業と
1920 年代になると 高等小
学校を中心とした 上級学校への 進学の趨勢が
動かしがたいものとして 定着する。 もっとも,
当時の学校制度では ,高等小学校は基本的に
よりも,子どもに 仕事を手伝わせ ,手に職を
他の中等・高等教育諸学校に
つけさせる方を 重視する傾向があ ることは否
接続しないとい
定できない。 次に見るように ,北方には,村
う意味で「行き 止まり」の学校だった。 進学
熱が高まり始めた 都市部では,高等小学校は
,
中等教育の本流から 外れた,一種の「貧民草
校 」とみなされる 趨勢にあ った " 安堵の校区
は農業地域ということもあ
してもっているむらでは ,学校で勉強させる
ってこうした 動き
の人々がそれで 募らしを成り 立たせることが
できるほどの 地場産業はない "
さしあ たりは貧困を 意味するにすぎないこ
の事実が ,
逆に北方の少なくとも 一部に他の
から少し遅れていたのであ ろうか,北方以覚
の地域でもなお 高等小学校に 進む者が 60% 近
利には見られない 高い教育意欲を 生み出すこ
くあ り,比率においては 北方と大きくは 変わ
たちの中から 奈良女高師付属の 高等女学校や
らない。
とはいえ,高等小学校以覚の 中等教育諸挙
郡山中学校に 進むのがさして 珍しくなくなっ
校への進学率を 含めてみれば ,北方と他地区
まりをそこに 読み取ることも 可能だ。
の間には歴然とした 差がみえる。 51 年間を通
算すると,男子で 8.15 ポイント,女子で 11.47
ポイントといずれも 他の地区の進学者比率を
下回っている。
どういう視点から 見るかによって ,この数
字に対する評価が 分かれよう。 これは,義務
教育就学率や「学力」の
評価とも関わるが ,
北方の人々は 子どもの教育に 対する意欲が ,
県内の他の部落に 比べてかなり 高いのではな
(表 3) 北方女子の卒業生の
進路
54
とにつながったのではないか。 北方の子ども
ていくのに目をとめれば ,親の教育意欲の高
じっ さい, 1920 年代になると ,尋常小学校
卒業だけでは 不十分で,せめて高等小学校に
進ませ,男の子であれば「国鉄」や,当時「大
航」といった 現在の近鉄などの 会社に就職さ
せたり,大阪などの商家に奉公に 出すことが
コースの 1 つとなっていた。
もっとも,女子の 多くは学校を 卒業すると
「娘宿」で草履表を 編む仕事をするなど ,か
らにとどまるのが 普通だったようだ。
伊藤
(表 4) 他地区女子の卒業生の進路
姐
桟
㈹
I
穏
㍼
249
2
203
Ⅱ
34
(表 5) 北方男子の卒業生の
進路
|
1
1
34
12
(表 6) 他地区男子卒業生の
進路
1936-1940@
174@
1941-1945
170
合引
1499
4@
265
75
816
0
0
10
23
22
27
4
22
0
19@
42@
24@
115
55
女
安堵小学校「卒業者名簿」を通して見る北方の教育と馨らし
(表 7@ 中等諸学校進学者の
比率
北方
278
比率
13.66%
15.07%
18.55%
11.73%
6.99%
男
女
26
17
6.93%
7.08%
(表 8@ 高等小学校進学者の
比率
高等小学校 203
118
52.19%
(表 9) 就職者の種別と
卒業生数に対する
比率
二
だ。 それゆえこの 数字は実際の 職業分布を正
なるの仕事と 暮らし
1922
(大正 11)
確に示すものではない。 統計数値としてはあ
年度から書式が 変わって
「親の職業」を記載する欄がなくなったこと
は前に触れた。 ここでは,記録があ
る 1895( 明
まり意味のな い 数字とも い えるが,この間の
卒業生 1720 人の兄弟姉妹を 完全に特定して 重
複計算を避けることはほとんど 不可能に近い。
治28) 年度から 1921 (大正10) 年度までの 27
そこでとりあ えずこの集計結果をもとに
年間の卒業生の 保護者の職業について 考えて
方の人々の職業分布とその
みる。
のそれと比べながら 素描してみる。
「保護者の職業の 素集計」 (大麦) は27 年
特徴を ,
安堵小学校の 校区は農村地帯であ
間の卒業生全員の 保護者の職業を 単純に集 司-
でも「農業」に 従事する人が 62%,
したものであ る。 「単純に」というのは
に 2 人の割合を占めている。
,た
,北
他の地区
り,北方
ほぼ 3 人
したがって,主
もちろ
とえば 1 つの家から 3 人の子どもが 卒業した
な職業は農業であ ったと言っていい。
場合,同じ保護者の職業を三度数えるという
ん,農業といっても ,自分の田畑を耕作する
よ
56
うに,資料・をそのまま集計したという 意味
自作農と,まったくあ るいはほとんど 自分の
土地がなく他人の 田畑を耕して
生活する小作
卒業するど娘宿で
農とではずいぶん 違いがあ る。 学校の資料に
は「自作」「小作」の 区別が書かれておらず
草履表を編む 仕事をする人
が 多かったそうだ。 地域のこうした 仕事が ,
,
農地をもつ者が 少ない北方の
人々の暮らしを
正確なところは 分からないが ,むらの古老に
辛うじて支えていたといえる。 UG 瀧 さんた
よればほとんどが「小作」だったという。 他
の地区では農業に 従事する者が 85% を超えて
ちのお話をうかがっていると
,「なんせあ の
頃 はみんな貧しかったから……」という
言葉
いることに比べ ,北方ではこれより 13 ポイン
トも少ないのは ,農業で生活していくことが
件あ ることは,北方の 人々の厳しい 仕事と暮
できるほどの 農地をもつ者が 北方にはほとん
らしを象徴している。
がしばしば出てくる。 不安定な「日機」が
どおらず,狭くて 質の悪い (泥田 ) 農地の小
作では暮らしが 成り立たないことに 原因があ
ったと思われる。 先に触れているように
,む
8
その --- 方で「官吏」や「教員」「医師」と
いった学歴を 必要とする専門職
はつく人はほ
とんどいなかった。 それでも, さきに触れた
らの子どもたち , とくに男子は 学校を卒業す
ると大阪や京都の 商家に奉公に 出ることが多
YN さんのお父さんのような 保護者が徐々に
かったという。 耕す土地がない 人たちにとっ
学校に進学する 子どもが出てくる。 進学熱は
ては,糧を求めて 利から出ることが 一つの 生
このころから 社会一般の風潮になって 今日ま
きる道だったのだろう。
北方の保護者の 職業で目立つのは ,食肉業
で続いているのだが
に関係する牛肉 商や靴 ・履物商 であ る。KM
の豊かな生活を 願ってこの競争に 参入して い
さんのお話では ,むらの娘さんたちは 学校を
くことになる。
農
業
増え,中学校・ 高等女学校などの 中等教育諸
,北方の人々も 多くは貧
しい暮らしをやりくりして 子どもや孫の 世代
商
酒
農業兼履物商
農業果靴商
金物テンバス
商
農業兼車夫
捜業兼煙草質店
農業報灯芯闘
物
@セり
牛
馬
櫛
菓
目 -,
内
閣
菓子小売
石
商
大エ兼靴商
農業雅音物間
僻業兼小間物商
荒
@
@@@
げん
も・
Tム
@
子
商
巾り
川ん
けハ
白下
町
工
米
商
業
余
商
麻製 職工
靴
間
鍛 冶 職
57
安堵小学校「卒業者名簿」を通して見る北方の教育と暮らし
石
査
工
桶
職
屠
畜
履物修繕
会 社
豆腐製造
わ目
員
ナシ (母子家庭)
吏
小学校教員
教
九
%
員
白
終わった日の 夕刻,私の謝辞に芳野館長は ,
むすびにかえて
「こちらこそあ りがとうございました。 おか
語られなかった ,あるいは文字というかた
,それ
ちで記録に残っていないからといって
が存在しなかったわけではない。
げで懐かしい 人達の名双を 聞くことができま
した。」と静かな声でおっしやった。
北方の古老
その館長は,昨年,60 歳半ばで他界された。
からの聞き取りは ,こうした無告の 人々の生
本号に収録した 池田と私の稿は , もともと 館
き様を語り継ぐ 意図で始まった。 「卒業生名
簿」は,古老たちの 名前が登場する 数少ない
稿を芳野館長に 捧げ , 謹んでご冥福をお 祈り
文書であ るが,本稿に見るようにそこから 得
する。
長の退任記念として 上梓するはずだった。 拙
られるものは 多くはない。 ただ, この種の記
録を今後いっそう 深く掘り下げ , 広く収集し
(注)
てつなぎ合わせることで ,古老たちが生きた
い)
『日本近代教育史事典
d, 平凡社,197 円。
社会と時代を 浮き彫りにすることはできるだ
(2)
拙稿「小学校教育費国庫補助問題」
(木山幸
ろう。
彦編年帝国議会と
教育政策』,
ぽ、 文閣出版,1981
「卒業生名簿」を 転記・整理する 過程で ,
忘れられないのは ,本文でもふれた
よ
うに隣
保館館長の芳野さんの 助けを得たことであ る。
安堵小学校の 暗 い電灯の下で私が 読み上げる
卒業生の名前一人
-
人に,「村の人です」「違
年)
(3@
「明治二年来安堵
村絵図付記村古上」,天理
国吉館所蔵
れ)
(1) と同じ。
(5)
W@
は
ぎ
「日露戦後一大正期の
京都における
義務
います」と答える 館長さんの声がときおりよ
教育の動向」げ
木山幸彦教授退官記念論文集E@
どんでいたことを 思い出す。 すべての作業が
布教育史論叢
d, 思文閣出版, 1988 年)
58