GKH020507

1
23
日本における仏教文化の展開と受容について
方
〔
要
献
洲
旨〕 日本文化は,外来文化の受容 と前代以来の文化 との融合を繰 り返すことによ
って展開している。特に, 日本文化の中で,仏教の思想が大 きな位置を占めることは否
めない。本稿では,日本人が仏教をどのように受容 し,それを日本仏教 としてどのよう
に展開してきたのかについて考察する。最初に,日本仏教の発展の概要を詳述 し,その
変化の背景を解説 し,日本仏教の創造性 と適応性 を説明する。それから,日本仏教の諸
宗に関してその根源を探 り,異同を考察する。最後に,仏教が 日本の文化芸術に対 して
どのように影響 したかを追究 してい く。
〔
キーワー ド〕 E
]
本文化 仏教の伝来 現世利益 鎮護国家 鎌倉新仏教
-, は じめ に
日中両 国は,古代 か ら現在 に至 るまで長期 にわたって文化交流 を行 って きたが,長い歴史の
中では,お互 いに相手の文化 に対 して優越感 を持 った り,劣等感 を感 じた り,誤解 を した りし
たことがあったの もまた事実である。 中国側 についていえば,中国文化 に対 して過剰 な優越感
を持 ち, 日本 に対 して文字 か ら宗教 ,思想 まで教 えてや った とい うような認識 を持つ人 は決 し
て少 な くない と私 は思 う。その根拠 の一つ と して,今 まで 日本 の文化 に対 して対等の立場 か ら
比較分析 をす る研 究があ ま り行われて こなか ったことがあげ られ る。数少 ない比較研 究の中に
ち,中国文化がいか に 日本 に影響 を与 えたかだけを論 じた ものが多い ように思 う。
本稿 では, 日本が単 にどの ように中国文化 の影響 を受 けたか とい う視点 だけではな く, 日本
文化 をその民族の固有文化 として分析 してい きたい と思 っている。対象 として仏教 を取 り上 げ
l
い
たい。 また, 日本文化 の中で,仏の思想が大 きな位置 を占めるこ とは否めない。 と りわけ, 日
常生活の 日本語 には,「
精進」,「
方便」,「
出世」,「
醍醐味」,「
大袈裟」,「
不思議」,「
言語道断」,
「自業 自得 」,「
一期一会」 な ど,仏教 に由来す る言葉が少 な くないOお盆やお彼岸 な どの年 中
行事 は仏教 の行事 であ り, また,能楽,華道,茶道な どの芸道 も仏教 の深 い影響 の下で成立 し
た ものである。 日本人は仏教 の受容 をとお して,彼 らの生 き方 を求めて きた。本稿 では, 日本
人が仏教 をどの ように受容 し,それ を日本仏教 として どの ように展 開 して きたのかについて考
察す る。
二,仏教の伝来 と普及
日本文化の進歩 は,東洋の外来文化 による後押 しに頼 るこ とが多か ったが,仏教文化 はその
中で も最 も重要 な外来文化 の一つである。仏教 は紀元前 5世紀のイ ン ドで誕生 し,後漠 の明帝
天 理 大 学 学 報
1
24
の永平1
0年 (
67) に,西域諸国を通 じて,天山南路,天山北路 などのシルクロー ドを通 って,
中国に伝来 したのである。仏典は何世紀 もの時間をかけて漠訳 され,仏教 は中国化 した。当初
は一部の貴族や知識階級 に広 ま り,大 きな勢力 となることはなかったが,後漠末か ら魂 ・西晋
時代 になると,イ ン ドや西域か ら来朝する僧 も多 くな り,経典の翻訳 も行 われ,次第に世間の
生没年未詳) によって禅宗が伝 えられ,臨済宗,
注 目を集めるようになった。 6世紀 には達磨 (
曹洞宗の 2大宗派が生 まれた。晴代 には智顛 (
5
38
-5
9
7)が 「
法華経」 によって天台宗 を開 き,
吉蔵 (
5
49
づ2
3)が三論宗 を大成 したo唐代 には浄土宗,法相宗,華厳宗,真言宗 な どが成立,
8
42年) にて,次 第に中国の仏教 は衰退 していった。
仏教 は黄金時代 を迎 えるが,会昌の法難 (
こうして仏教 は東方へ広が り,6世紀 中葉 には朝鮮 を経て 日本-至 り,長い間影響 を及ぼ した。
,『日本書紀』 に基づ き,522 (壬 申)年 とす る説 と,他方,『上官聖
仏教 の伝来 については
38 (
戊午)年 とす る二説がある。 このあた りの 『日
徳法王帝説』や 『
元興寺縁起』 な どには5
本書紀』の紀元 には問題があるので,元輿寺の古縁起 に もどづ く5
38年説が正 しい と言 うのが
通説 となっている。 もっとも,仏教の公伝 に先立 って民間で私伝の形で伝 わっていったことは
3年 (
5
5
2),百済王 は使いを遣わ して金や銅の仏像 ・経典及び旗 などの
明確である。欽明天皇 1
文物 を贈 り,仏教の功徳 を賞賛 した。 しか し,それは当時の 日本の朝廷内部 に論争 を引 き起 こ
したようである。物部氏 は排斥 を主張 し,蘇我氏 は受け入れを主張 したのである。そ こで蘇我
氏 は仏像 ・経文 などをいただ くことを願い出て, もともと自分の住宅であった所 を仏寺 とし,
仏教 の崇拝 を始めた。 これが 日本-の仏教の伝播 の始 ま りである。 しか し仏教が 日本へ伝播 し
57
4
-6
2
2) か らである。聖徳太子が制定 した
た影響が表れは じめたのは,推古朝の聖徳太子 (
『
十七条憲法』の第二条 には 「
篤敬三賓。三賓者仏法僧也。
」 と明文で規定 している。彼 はま
た法隆寺 を建て,仏教学問を研究する場所 を作 り,四天王寺 を建て,感化 ・救済 ・養老 ・治病
などの社会事業 を行 った。仏教はこれによって盛 んにな りは じめた。 しか し当時の一般の仏教
の伝者は,解脱 を追求するとい う意味で仏理 を理解 してお らず,伝統的な祭神信仰か ら出発 し,
仏 も同様 に現世 に招福壊災 して くれる 「異国の神」 として崇拝の対象 に加 えたのである。 しか
』
』
維摩経 『
勝蔓経』
し聖徳太 子本人は例外で,彼 は仏教教義の研究
に専心 し, また 『
法華経 『
(
2
)
を摸 して 『
三経義疏』 を著 した という。天寿国繍帳の銘文の中には太子 による 「
世間虚仮,唯
(
3
)
仏是真」 という一句が記載 されてお り,彼がすでに仏教の世俗超越の本意 を理解 していたこと
が分かる。しか し聖徳太子 は仏教の世俗超越の意味 を広めることは しなかった。『
十七条憲法』
か ら,彼 が仏教 を提唱 したことは見出せ るが,その 日的は 「
勧善懲悪」 に有 り,国家の現実的
な利益 を守 り,世俗生活の中で真理 を実践す ることを強調 し,現実社会の一切の善行 を肯定 し
たのである。
聖徳太子 の後, 日本の朝廷 は仏教 の提唱 に大いに努めたo天武天皇 (
67
3
づ8
6) は詔 を下 し
て,全 国に仏堂 を建て,仏像 を置 き,経巻 を所蔵 させ,拝仏儀式 を行 わせた。 また,諸国に使
,『金光明経』『仁王経』 を講 じさせ た。持 続 8年
者 を遣 わ して
(
69
4) には また,諸 国 に 『
金
7
2
4
-7
49)
光明経』百部 を送 り,毎年正 月上旬 に必ず読 ませ,恒例 の行事 とした。聖武天皇 (
は五穀豊穣 ・国家鎮護のため,更に,諸 国に国分寺 ・国分尼寺 を建て させ た。そ して奈良に東
(
4
)
大寺 を建立 し,慮舎那仏 を祭って,国分寺 を統轄 した。 また,大和法華寺 を建 て,国分尼寺 を
統轄 した。万乗の君である天皇で さえ,東大寺へ赴いた時 には大仏の前 に脆 き,伏 して, 自ら
「
三宝の奴」 と称 したのであるか ら,その熱狂の程が うかがえよう。 ここに至 って, 日本 国は
ついに盛大な仏教国家 となったのである。
こうして,仏教 は日本で盛 んに行 われるようになったが,一般人はやは り仏教の真の意味 を
日本 における仏教文化の展 開 と受容 について
1
2
5
理解 していなかった。彼 らは智慧仏 ・慈悲仏 を外国の諸神 と思い込んで,礼 を尽 くして平伏 し,
拝 したのであ り,仏 は予め孝徳 を施 して人の憂いや疾病 を除 き,助 けて くれると信 じたのであ
る。従 って 日本の多神信仰 とも矛盾 は起 こらなかった。仏教の高遇 な教理や深い哲学 について
5
9
3
7
9
4
)
,朝廷 は仏教 を提唱 したが,
は,彼 らは全然理解 していなかった。飛鳥 ・奈良時代 (
その 目的は仏教の霊験 を借 りて 「
国家 を鎮護す る」 ことであった。従 って仏教 と政治の関係 は
非常 に密接で,政教一致であ り,政府が任命 した官吏が仏教界 をすべて掌握 してお り,僧侶は
自由な布教がで きない訳ではなかったが,官僚 に準ずる身分 を持 ち,その行動 は法律 による厳
しい取 り締 まりを受けていた。 また,政府の認可 をうけなければ,誰 も自由に出家することは
で きなかった。
当時,大陸か ら伝 わった,三論 ・成実 ・倶舎 ・法相 ・律 ・華厳 の六つの宗派 (
後世 これを南
都六宗 と称する)は,ただ大寺院の中で研究が行われただけの もので,学僧たちの書斎学問で
あ り,現実の生活の中での信仰 とはほとん ど無関係であった。 この時のいわゆる 「
宗」 も,伝
仰 の違いによって教 団が分かれていたのではな く,ただ研究内容の違いを表すだけであった。
従 って寺院はある 「
宗」 に専属せず,同一の寺院で数種類の宗が雑居 し,一緒 に研究すること
もで きた し,一人が数種類の宗 を兼ねて学ぶ こともあ り,信仰上の宗派はまだ生 まれていなか
った。大陸 との交流 に伴 い,唐代のすべての経典がほとんど日本へ伝 わったが, この大量の経
・論 ・律 はただ呪術式 に くり返 し調 えられるにとどまった。内容の研究 も,多 くは朝廷が挙行
する法会の時 に提供 された講経の材料 を研究 した もので,本当の理論研究は行われなかった。
三,仏教 の 日本 化
平安時代 (
7
9
4
1
1
8
4)になると,奈良時代 の中央集権制は衰え,天皇国家か ら貴族国家へ と
変化 した。仏教 は以前の とお り 「
国家鎮護」 を標模 し,朝廷 の支持 を得 ていたが,主要な支持
者は有力貴族 に変わっていた。南都六宗は しだいに衰 え,天台宗 ・真言宗が相継いで起 こ り,
いわゆる北嶺仏教 を形成 した。
7
6
7
8
2
2
)である。最澄 は1
3
歳の時,近江 (
滋賀県大津)
天台宗の創始者 は伝教大師最澄 (
4
歳で得度 し,俗名の広野 を最澄 と改め,1
9
歳の時,東大寺
国分寺の大国師に随って行表 し,1
の戒壇院で具足戒 を受け,正式に僧 となった。 しか しこの僅か 3ケ月後 に彼 は人生の無常,正
法の衰退を感 じ,故郷近江の比叡 山に隠遁 し,草庵 を結んで独居 し,1
3
年 間思索 ・読経 に没頭
した。 この期 間に彼 は,鑑真 (
6
8
8
7
6
3
)が持 って来 た天台宗の経典 を読 んでお り, これ によ
って天台教学の研究 を始めた。2
2
歳の時一乗止観院 (
現在の根本 中萱) を建て,3
2
歳か ら 『
法
0
4
年 ,3
8
歳の時,彼 は遣唐使 に随 って入唐 し,唐 に
華経』 と天台思想 の解釈 を講 じ始めた。8
8ケ月余 り滞在 し,天台 山にて修禅 寺道逮 (
生没年未詳 ,8-9世紀 ごろ),悌階巨
寺行満 (
坐
没年未詳 8-9世紀 ごろ)か ら天台円教 を学ぶ。天台法華 を学んだほか,密教 ・戒律 ・禅 など
8
0
6
年) に彼 は比叡 山で天台法華宗 を開いた。著 に 『
顕戒論
を学んだ。帰国後 2年 目 (
』『山家学生式』 な どがある。
国界章
』『守護
,『法華経』 を尊奉 し,止観並重 ・走慧双修 を提唱 した。理
天台宗は本来中国の仏教宗派で
ち一切の生は仏の心性であると主張 し,成仏の普遍的な可能性 を宣揚 した。天台宗は最澄 によ
って 日本へ伝 えられた後,天台宗の教義のほか,持戒守律の提唱 にも大いに努め,密 ・禅の 2
宗 もこれに混合 されて明 らかに密教 の要素 を帯 び,「
台密」 と称 された。
7
7
4
8
3
5
)である。空海 は初め京都 の大学明経科 に入 り,
真言宗の創始者 は弘法大師空海 (
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2
6
儒学史伝等 を修めたが,意に満たず,仏教へ傾倒 していった。その後退学 して名山大川に遊び,
鋭意修養鍛錬 した。20歳の とき和泉の横尾寺で得度 し出家 した。24歳の とき 『
三教指帰』 を著
し,儒 ・道 ・釈の三教の優劣 を論 じ,孔子の儒教は俗塵の微風であるとし,老子の道教 は仏の
小術であるとして,ただ釈迦の仏教だけは 「
吾,今,重ねて生死の苦源
を述べ,浬磐の楽果 を
(
5
)
示 さむ。その旨は姫,孔の未だ談ぜ ざる所,老荘の未だ演べ ざる所な り」か ら,最 も優れた卓
越の教 えであるとした。8
0
4年,彼は遣唐使 に随って入唐 し法 を求め,長安で様 々な大 きな寺
,
(
6
)
を受けた。8
0
6
年に帰国 した後 は, しばらく和泉の槙尾寺 に留 まった。そ してその後京都 に上
を訪ね歩 き,ついに青龍寺の恵果
(
7
4
6
8
0
5
)に出遇い 拝 して彼 に師事 し,真言密教の伝授
り高雄山寺 に住んだ。高雄山寺では最澄 とも密接な交流があ り,最澄 とその弟子たちに密教伝
授の儀式 (
潅頂) を行 っている。8
1
8
年,空海は朝廷の許 しを受けて高雄山寺 を離れ,高野山
に金剛峰寺を建てた。8
2
3年,天皇は再び詔 を下 して京都の東寺 を空海大師に賜 り,真言宗の
教主護国寺」の名 を賜 った。 これ以後真言宗 は東寺 を中心 として広範 な
永久的な道場 とし,「
活動 を展開 し,大いに朝廷 と貴族たちの支持 を得た。晩年,空海は再び高野山に隠れ棲んだ。
』『十住心論』『秘蔵宝錦』など多数があるo
著作 には 『
即身成仏義
空海の真言宗はインド・中国の密教の基礎の上 に創 られたもので,またの名 を 「
東密」 と称
する。真言宗は 『
大 目経
』『金剛頂経』『蘇悉地経』 を根本の経典 とし,地 ・火 ・水 ・風 ・空 ・
識の 「
六大無碍」「
即事而真」 を主張 した。「
仏は六大,鬼 も六大,天地 も六大,人
も六大であ
(
7
)
る。法界 は無限であるといって も,すべて六大 によって造 られた ものである。
」従 って心 とは
色,色 とは心であ り,智 とは理,理 とは智であ り,我が身 も彼の身 もすべて仏身 と関わってい
るので,すべて聖なることはただ一つのことであ り,衆生はすべて仏なのである, とも主張
し
(
8
)
た。真言宗はまた,「
三番成仏」 とい うことを考 えた。身密 とは手で法 に従 って印契 を結ぶ こ
(
9
)
とであ り,口密 とは口で真言陀羅尼 を謡えることであ り,意密 とは心 ・仏 ・衆生の三者の平等
を悟 ることである。 もしこの三密 を成就すれば,この肉体のまま仏 に成れるのである。
日本の天台宗,真言宗は共に呪術 ・祈祷の特徴 を持 ってお り,また多 くの事相 (
実践方面の
儀礼の規則 と理論方面の教 えを合わせたもの)を持 っている。例 えば息災の法 ・雨請い法 ・延
命の法 ・本命星の法などの多 くは,民族の伝統的な信仰儀式 と期せず して一致 している。これ
に加 えて神秘的な呪語は,貴族たちの官位昇進や荘園拡大などの政治的 ・経済的な欲望 に迎合
することがで き,貴族たちは自己の現世での利益 を保護するために,熱心 に仏 を拝んだ。 これ
によって二宗は平安朝初期 に隆盛 を極めた。 この時期の仏教は,奈良時代の南都仏教 とは異な
り,大寺院は都城 に建てられず,都城の北部の山林の中に建てられた。例 えば,天台宗の延暦
寺は比叡山,空海の建てた金剛峰寺は高野山の中であ り,だから北嶺仏教 というよび方 もある。
寺院が国都か ら山地- と移ったことは,仏教が国家政治の厳密な制御か ら遁れ始めたことを表
明 してお り, しだいに信仰 を中心 とした教団が形成 され,精神面で も経済面で も独立 を獲得 し
ていった。この時の仏教は主に貴族 を檀越 (
施主) としてお り,まだ民衆の中へ広 く深 く入っ
ていってお らず,「
現世仏教」の範国か ら脱け出 していなかったが,仏教 は発展 を一歩進める
条件 を準備 していた。
国家仏教が貴族仏教 に転 じた結果,寺院の中には教典の研究 に専心する僧侶の外,貴族の求
めに応 えて専 ら秘密の祈祷 を し,様々な政治色の強い儀式 を行 う僧 もお り,その外 にも寺院の
経営 に奔走 し,精 を出す僧 もいた し,大 きな寺院では専門の僧兵集団 も成立 した。こうなって
くると,本来は出家 ・修行のためだけの場所であった寺院に,却 って世俗化の傾向が表れ,こ
のことが仏教の改革の大門を打ち聞かせた。
日本 における仏教文化の展開 と受容 について
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27
この ような背景の下,い くらかの僧 たちは,大寺院で研修 して仏教の本義 を理解す ると,そ
の後寺院を離れて山岳信仰 などの民俗宗教 の行者 となった。 この ような二重出家の僧 ・寺外活
動の僧 は 日増 しに増 え,人か ら 「
聖」 と称 された。 また別のい くらかの人たちは仏教 を学 び,
仏教 を信 じたが,焚儀 を全部は尊ばず,剃髪せず,寺 に住 まず,妻や家庭 を持 ち,民間に布教
して,人々に 「
沙弥」 と称 された。「
聖」 と 「
沙弥」の出現 は, 日本仏教 の転化時期 の一種特
殊 な現象で,彼 らは仏教理論 を用いて 自己の民族土着の宗教の伝統 を充実 させ,硯実社会の中
に仏教 の 日本化の路 を探 し求め,積極的に仏教改革-橋 を築いたのである。
平安朝の後期 には,貴族社会は停滞状態 を呈 して きた。享楽に耽 る貴族 たちは,限 りない物
欲の中に陥ってゆ き,窮め尽 くせない煩悩 を持つことになった。 これ と同時に,希望す る社会
的地位 を得 られず,心 に不満 を抱 く中下層の貴族が大いに増加 し,彼 らは現世の栄華 に対 して
失望 し,来世の極楽 を求めるようになった。そ してこの ような 「
厭離稜土,欣求浄土」思想が
貴族 たちの間に深 く浸透 した。彼 らは華麗な阿弥陀堂を築 きは じめ,阿弥陀金像 を供 え,堂内
では多 くの僧 に教 を請えて もらい,極楽世界の幻境 を造成 し,その心の中の憂慮 を開放 しよう
とした。 この ような情況の中で源信 (
9
4
2
-1
0
1
7
)は 『
往生要集』 を著 し,系統的に浄土の教義
を唱えて,念仏 によって極楽往生 を求める考 えを広 めた。 この ように して 日本で ち,ついに個
人の信仰 によって救済 を獲得す る出世仏教が生 まれ,新仏教誕生のための道 を切 り開いた。
しか し源信 の 『
往生安集』はお もに貴族階層の中で流行 した。一般の民衆 にとっては,華麗
な阿弥陀堂 を建 てた くとも,そんなことは想像 もで きない事であった し,難 しい文字 を請 え読
むことも,で きるはずがなかった。彼 らは毎 日生活 に追われていたので, もっと確実で簡易 な
教義 を必要 とし,仏国の幸福 を享受す る切符 を安いお金で得 ることを希望 していた。「
聖」や
「
沙弥」の活動 も,仏教 を民間に広 く伝 える先導 になった。 この ようにして,新仏教が生 まれ
る条件 は具わったのである。
四,末 法思想 と 日本 の新仏教
平安期の末期,貴族社会の危機
は日増 しに大 きくな り,社会は混乱状態 に陥った。仏教でい
I
l
l
l
う 「
末法の世」 は,眼の前の事実 と酷似 した ものにな り,人々は心 に激 しい不安 を感 じ,精神
上の救済 を得 ることを渇望 した。仏教 の新観念である法然の浄土宗 とい う新たな宗派の創設は,
この ような社会心理 を満足 させた。
浄土宗は本来 イン ド・中国原有の宗派であった。浄土 とい うのは大乗仏教の中で伝 えられる,
仏が住 む世界である。 これは浄剃 ・浄国 ・仏 国などとも称 され,世俗の硯実生活の 「
穣土」「
稜
国」 と相対す るものである。仏 はた くさんいるので浄土 もた くさんあるが,影響が大 きいのは
『
無量寿経』などに伝 えられる阿弥陀仏 の居住地である西方浄土 (
極楽世界)であ り,ただ阿
弥陀仏 だけを信仰 し,絶 えず この仏の名 を念 じれば,死後西方浄土へ往生で きるといわれた。
この ような思想 はイン ドの馬鳴 (
生没年未詳 2世紀 ごろ)・龍樹 (
生没年未詳 2-3世紀 ごろ)
・世親 (
生没年未詳 5世紀 ごろ) などの高僧が提唱 を始め,その後中国に伝 わって唐代 に浄土
宗 として宗派が創立 された。
日本 に浄土信仰が伝 わったのは比較的早 く,聖徳太子 も西方浄土への往生 を願 ったことがあ
った。平安 中期以後,僧都源信が著 した 『
往生雲集』 は浄土念仏の敦 を系統的に論証 し,彼 は
1
1
い
念仏 の一門に依 りて,い
「
往生極楽の数行 は,濁世末代 の 目足 な り」 とい う。従 って彼 は 「
,
ささか経論 の要文 を集む。 これを披 いてこれを修 むるに,覚 り易 く行 ひ易か らん。惣べ て十門
2
)
(
1
3
)
(
1
あ り。 「これを座右 に置いて,廃忘 に備-ん」 ことに した。 この十門とは,厭離横土 ・欣求浄
」
1
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天 理 大 学 学 報
土 ・極楽証拠 ・正修念仏 ・助念方法 ・別時念仏 ・念仏利益 ・念仏証拠 ・往生諸業 ・問答料簡で
ある。十門の中では,正修念仏 ・助念方法 ・別時念仏 に重点が置かれる。「
正修念仏」の門で
は源信 は念仏往生の内容 を論述する。彼 は,念仏往生は異なる対象 に対 して,それぞれ異なる
方法 をとらなければならない と考えた。上磯の人は別相観 を取 り,いちいち仏の相好 を見て考
えるべ きであ り,中機の人は総相観 を取 り,仏 の総体 を見て考えるべ きであ り,下機の人は雑
略観 を取 り,仏 の白墓相 を見て考 えるべ きである。そ して最下機の人は仏相 を見て考 える能力
は無いので,ただ阿弥陀仏の名 を一心 に称 し念 じるべ きである, と考 えたのである。総 じてい
うと,源信 の念仏理論 は観念上の念仏 を中心 とし,称名念仏はただ二次的な もの としていると
ころに,後 の 日本の浄土宗教 との区別がある。
平安末期,良忍 (
1
0
7
3
-1
1
3
2
)は源信の影響 を受 け,浄土融通念仏 を創 った。良忍の言 うと
ころによれば,彼は念仏三昧によって阿弥陀仏の夢のお告げを得 たが,阿弥陀仏 は彼 に融通念
仏 を行わせ,秘訣 を授 けて 「
一人一切人,一切人一人,一行一切行,一切行一行,是名他力往
り
1
)
生。十界一念,融通念仏 ,億百万遍,功徳円満」 と教 えた。その意味 は 1人の称名念仏 を以て
大衆の功徳 とな し,大衆の念仏 を以て 1人の功徳 とする,いいかえる と,宇宙法界の全体 は一
物 として単独 には存在 し得 ないばか りでな く,物物互いに因 とな り緑 となって交渉連繋す るも
のであるか ら,一物 をとれば必ず法界全体がが包含 され法界全体の中に一物が生 きて くる。故
に一人の称名念仏 の功徳 には多数人の念仏の功徳が一人 に帰 って くる。又念仏の一行 は他の諸
善万行 は念仏の一行 にお さまるが故 に,その功徳 は非常 に広大で,又往生 もはや くててみ じか
にで きる とい う教 えである。 これは念仏の 自他互融 をいってお り,一種の円融思想であ り,少
なか らず信徒 を引 きつけた。 これが浄土教の 日本での宗派の始 ま りとなる。
しか し, 日本の浄土宗 とい う新教派の創始者 はやは り法然 にすべ きであ ろう。法然 (
1
1
3
3
-
1
21
2) は平安末か ら鎌倉の初めごろに生 きた。彼 は良忍の弟子であ り,叡空の弟子である。彼
(
1
5
)
は1
3歳で比叡 山に登 り,天台思想 を学 び,一切の経 を研究 し, さらに奈良の仏教界 を訪ね歩い
て諸宗の秘跡 を探 し求めた。後 に源信の 『
往生要集』の研究 を通 して,中国の浄土宗の創始者
である善導 (
61
3
6
81
) を尊崇するようにな り,善導の 『
観経疏』 を細か く研究 ・読書 し,大
5
6
2
1池5)の説 く,末法
彼 の主要な著作 である 『
選択本願念仏集』は中国浄土教 の大師道縛 (
H
6
1
になった時は 「
-は大聖 を去れること遥遠なるによる。二 には理は深 く解が微 なるによる」「
当
(
1
7
)
今 は末法,硯 にこれ五濁悪世な り,ただ浄土の一門のみあ りて通人すべ き路 な り」 とい う言葉
を根拠 としてお り,従 って万善諸行 を捨て,ただ念仏の一行 を行 う浄土宗 を主張 した。
浄土宗が依拠 したのは 「
三経-論」で,それは 『
大無量寿経
』『観無量寿経』『阿弥陀経』 と
世親の
『
往生浄土論』であ り,他力の摂取 に頼 ることと,浄土 に往生することを目的 とした法
H
l
l
門を主張 した。『
大無量寿経』の中には次の ようにい う。弥陀如来が まだ法蔵比丘の時,四十
八の誓願を定めたが,その第十八願の中に,「
阿弥陀如来」 と専心 して謂 えた人は往生 に到 る
ことがで きるようにす るとある。中国の浄土宗の善導派にもまた 「
一心専念弥陀名号」 とい う
,
選択本願念仏集」
】を著 し,万善諸行 を棄て,専 ら念仏
説がある。法然 はここか ら啓発 され 『
の一行 を行 うことが凡夫 を浄土 に往生 させ る業因 となるとい う考 えを提出 した。彼 は旧仏教 を
「
難行道」 と称 し,彼の提唱 した浄土の新宗派 を 「
易行道」 と称 して次の ように言 った。「
難
行道 とは,さか しきみちをかちよりゆかんが ごとし。易行道 とは,海路 をふね よりゆ くが ごと
しといへ り。 しかるに目しゐ足 なえた らん ものは,陸地 にはむかふべか らず。た ゞふねにの り
(
1
9
)
てのみ,むかひの きLにはつ くべ きな り。
」
1
29
日本 における仏教文化の展 開 と受容 について
法然は,末法の世では,ただひたす ら 「
南無阿弥陀仏」 の名 を口で言
雨ええるだけで,天台教
学 などの知識の有無 に関係な く, どの人で も極楽浄土へ往生で きると言 った。 この ような専修
念仏の教義は,寺 を造 り仏 を供 えるお金がない 「
貧窮困乏の類」や,学問 を研究することのな
い 「
愚鈍下智」の人に向かって往生の門を開 き, とて も大 きな吸引力 を持 っていた。 この よう
な極めて簡易な教義の下では階級の差 は無 く,身分の区別 も無 く,国家の政治的な牽制 も受け
ず,人々に与えるのは仏 国の門前の, どの人にも平等 な福音であった。
法然の門徒親鷲 (
1
1
7
3
-1
2
6
2) は 自ら深 く関東 の農村 に入 り,下級武士や農民 と広 く接触 し,
法然の浄土の教義 を更 に大衆化 した。彼 は 『
数行信証 』 『
浄土文類衆抄 』 『
愚禿抄』などの書 を
著 し, これによって浄土真宗が創立 された。
観無量寿経』か
親鷲 には法然 と異 なる所 もある。法然 は善導の 『
観経疏』の影響 を受 け, 『
ら出発 し,第十八願 を把握 した念仏であった。親鷲 は 『
無量寿経』 を根拠 とし,念仏往生の願
(
2
0)
を阿弥陀仏の回向の教義であるとして,仏の他力回向を強調 した。親鷲は自己を自ら愚である
と認め,故 に 「
愚禿釈の鷲」 と自称 した。彼 はまた,人は本質的に罪悪 に満ちた悪人であ り,
一切の ものはすべ て虚仮,不実であるか ら, どんなに苦 しい修練 をして も, 自力 によって成仏
することはで きない とも考えた。ただ仏があることだけが真実であ り,弥陀如来の本願名号 だ
けが往生成仏の因種である。従って 自力修行は放棄 しなければならず,仏の他力恩賜 に頼 って
こそ往生に至れるのである。この理論 と,人々には皆仏性がある と認めて, 自力 を主張する禅
宗の理論 とは相対するものである。 このほか,当時の浄土信仰は法然 も含めてただ死後の往生
に着眼するだけで,現世の生活 を軽視 していた。親鷲 は 「
厭離横土」の思想 を排斥 し,現世利
益 を否定せず,現世 に即 して未来 を求めたO従 って真宗は仏教の戒律 を重視せず,僧俗一棟 を
主張 し,ただ普通の人倫道徳 に従 うだけでいい とした。親鷲 自身 も常人 と同様 に肉を食べ妻 を
要 り,現世生活 に意義があることを表 した。 この ような教義は日本民衆の固有の思想 に更 に符
合 し,民衆の理解 と信徒 を更に容易 に し,それによって勢力は大いに拡大 した。
法然 ・親鷲の浄土教 は仏教界 に強烈な波風 を立て,特に旧仏教派からは強い反発があった。
しか し旧仏教 も情勢に適応 し,広 く民心 を得 るには,浄土教の簡単 な信仰形式から学 ばな くて
はならず,少 しずつ 自己の内容 を改変 していった。例 えば明恵 (
1
1
7
3
-1
2
32) はその尊者で法
然の 『
催邪論』 を批判 したが,一方で三時三宝の礼 を創 り出 し,ただ 「
南無三宝後生得助」 と
唱えれば成仏 で きるとした。 これは明 らかに法然の影響 を受けている。
浄土教が生 まれて少 し後 に, 日蓮 (
1
2
2
2
-1
2
82) もまた, 『
法華経』 に依拠 して, 日蓮新宗派
を開いた。 日蓮は漁師の家の出身で,故郷の清澄寺 に入 り,通善 に師事 した。1
7歳の時鎌倉出,浄土宗 と禅宗 を学び, また比叡 山や南都諸寺 を歴遊 し,仏教各派 を研 究 した。建長 5年
(
1
25
3) 日蓮 は清澄寺 に帰 り,末法の時代 にはただ 『
法華経』だけが絶対的な救いの星である
と確信 し, これによって立教 開宗 して 日蓮法華宗 を開いた。 日蓮の思想 ・行動 は極めて独特で,
彼は専 ら 「
折伏 門」 をとり,古今多 くの高僧 を排斥 し,その他 の各宗派 を一概 に否定 した。彼
の四つの格言は 「
念仏無間,禅天魔,真言亡国,律 国賊」で,ただ 日蓮宗だけが真理 を代表す
るものであるとし,国主 を諌め諭す形式 とによって明 らかな護国性 を表 した。
日蓮の著作 には 『
立正安国論 』 『
関目抄 』 『
観心本尊抄』 などがあ り,その理論 の総体 は 「
南
。
」「邪正は二つでは
南無妙法蓮華経」 は 「
善悪 は二つではない
無妙法蓮華経」 を核心 とす る 「
ない」 とい う経題であ り,従 ってこの七文字の経題
を請えるだけで善人 も悪人 も同様 に成仏 で
(
2
1
)
き,十法界 はすべ てよい所 となる と考 えた。
日蓮宗は,ただ七文字の経題 を口詣すれば成仏で きると主張 した。 これは法然 ・親鷲の浄土
1
3
0
天 理 大 学 学 報
宗 ・浄土真宗 に類似 している。 しか し日蓮宗 はそれ らの宗派の ように個人の救済に重点 を置か
ず,規実社会 に対 して強烈な関心 を抱いていた。それは 『
法華経』 を根拠 として,現実社会の
秩序 を立て,武士 と庶民の生活の安定を維持す ることを志 していた。 日蓮本人は,鎌倉幕府 に
向かって, もし 『
法華経』 を信仰 しなければ,国家は滅亡するだろうというような事 を大声で
厳 しく言 った。その言葉の激 しさによって当局 にひどく恨 まれ,それによって何度 も迫害 に遭
,
った。 しか しその信仰 は終始少 しも動揺 しなかった。彼 は 『
法華経』 によって仏教 を統一 し,
仏教の統一勢力 によって社会救済の面で強大 な力量 を発揮す ること,そ して為政者 も仏教の統
一理念 に基づいて政治に従事 し,国家 を安定 させ ることを強調 した。彼 の国家安定の維持 に関
する言論 は,一見す ると南都北嶺 旧仏教 の 「
鎮護国家」 の宗 旨に相通 じるようであるが,その
実体 を究めると実 は大 きな違いがある。 日蓮の意図は国家政権 を 『
法華経』の下 に置 くことに
あ り,仏教 を政治 より高い もの として見ているのである。
浄土教 は末法 とい う 「
時」 と,凡夫劣悪 とい う 「
機」の上 に,念仏の中で時 と機の両方に応
じる教 えを求めて開かれた。 日蓮 も同様である。ただ しか し彼 は 『
法華経』の中に時 と機 の両
を締め出す折伏 という方法 を採用 した。 また,ただ 『
法華経』だけが 日本 に適合 してお り,今
はまさにこの数 えを流布することによって救済 を行 う時であると確信 した。彼 はまた,諸経で
(
2
2
)
は悪人 ・一関提 ・女人な どは成仏で きない と考 えるが
,『法華経』は他の経 を超越 してその よ
うな人達 を教 え導いて成仏 させ ると強調 し, これは更に容易 に広 く下層民衆 を引 きつけた。
日蓮は,彼の教主は久遠の成仏 を した釈迦であると宣伝 した。彼 は自ら自分だけが『
法華経」
】
,
の真髄 を理解で きている と信 じ, 自分が何度か蒙 った苦難 は 『
法華経』観持品 ・未来記 に説
かれている,法華 を信 じる者 は迫害 にあ うとい う内容 を実証する ものだ と考えた。彼 は自分 こ
(
2
3)
そが真の法華の行者であ り,経で述べ られている本化地涌菩薩であると自覚 してお り,だか ら
自分が 日本の柱 とならなければ というある種の使命感 を抱いていた。
日蓮は教主釈迦 を久遠成仏の仏 としたが,また釈迦の因行来徳 は 「
妙法蓮華経」の五字の題
目に具わっていると考 え, この五字の題 目を受持 した (
信 じた)時に 「
南無妙法蓮華経」 と念
じて調 えれば, 自然 に仏徳 を受けることを会得することがで きると考 えた。 このように して彼
は本 門本尊 と本 門題 目を確立 した。 この二者 に本門戒壇,つ まり絶 えず七文字の唱題 をとなえ
る無作円頓戒 を加えて 日蓮宗の三大秘法
とした。 日蓮はこの三大秘法は 「
本当に教主の大覚世
(
24)
尊か ら口訣相称 された」 ものであ り,従 って絶対 に尊信 しなければならない とした。
(
2
5)
注 目に値す るのは, 日蓮が制作 した 「
十界大量奈羅」 は, 「
南無妙法蓮華経」の七字 を中央
(
2
6
)
(
2
7)
(
Z8)
に置 き,釈迦 ・多宝の二仏 と本化菩薩がお り,また,不動明王がお り,愛染明王がいる。甚だ
しくは日本の神道の天照大神や八幡菩薩等 まで もがいて,明 らか に神仏融合の思想が表れてお
り,その上真言密教 との妥協 も表れているが, これは日本 のその他の新仏教の宗派が排斥 した
ものである。
日蓮の弟子 と信徒 は とて も多 く,彼が晩年山中に隠.
屈 した時,常に弟子 も百余人いた とい う
ことである。彼が入寂 した後,本宗の内部 は絶えず分裂が発生 し,理論 と主張が一つ にならな
かった。 しか し大体 においては,その他の宗派 を しだいに舎棄折伏 させ,それを受け入れてい
5
,
1
6
世紀の
き,その上高位高官の援護 と多 くの信者 を得 て,教団は絶 えず拡大 していった。1
ころ, 日蓮宗の布教活動 は京都で庶民階層の支持 を得,京都 は 「
題 目の巷」 と称 されるまでに
なった。
旧仏教が時代の要求 に適応で きず,新仏数が 日本で興 ったころ, 日本の仏教 を改革 しようと
1
31
日本における仏教文化の展開 と受容 について
考えていたい くらかの僧侶 たちの間で,中国の仏教 に対する強烈 な関心が起 こ りは じめた。そ
の ような背景の下で,末代 に盛行 した禅宗が 日本へ伝 わ り,仏教の一つの新宗派 となって迅速
に発展 していった。
禅宗 はイ ン ドの仏教 と中国哲学思想 との結合の産物で,その名の意味 は,禅那 を宗 とすると
い うことである。禅邪の意味 は思維修,あるいは静慮 と訳 され,思維真理 ・静息念慮の法のこ
とである。中国の禅宗 はイン ドの達磨が開祖 であると考 えられる。彼 は梁魂の時,中国へ仏心
宗 を伝 えたが,その法はただ静座黙念 し,仏心 を明 らかにし,工夫 を凝 らすだけである。
中国の禅宗 は,それをそのまま日本へ伝 えた人 もいたが,旧仏教 によって仏教界が統治 され
ていた時代だったので,禅宗 は結局 日本では独立 した宗派を形成 し得 なかった。鎌倉時代 にな
る と,国家仏教 と貴族仏教 は支配的な地位 を喪失 してお り, また教学に縛 られず,内心 を重視
しようとする傾向が表れていた。それで新たに人々の禅 に対す る強烈な興味が呼びお こされた
のである。 これ と同時 に栄西 と道元が中国の臨済禅 と曹洞禅 を積極的に宣伝 したので, 日本の
禅宗は二つの大流派 を形成 した。
臨済宗 は慧能 (
6
3
8
-71
3)の 6代 目の子孫,唐 の義玄 (?86
7)が創立 した ものであ り,彼
が真州 (
現在の河北鎮州東南)の臨済院に住 んでいたので,これに因んで名づけられた。中唐
以後はこの宗が最 も盛 んであった。彼 らの常用の伝教方法 には,四賓主,四料簡,四照用 など
がある。匹贋 主は,賓主あるいは師生の問答 を通 して双方の悟境の深浅 をはかるものである。
四料簡 と四照用 は,程度の異なる参学者の悟境 に対応 して異 なる説教方法 をとる ものである。
臨済宗の学人を導 く方法 は,単刀直入で機鋒峻烈であ り,棒喝な どの迅速 な手段や警句 を用い
。
大磯大用,
て,人 を頓悟 させ ようとす るものである 『人夫眼 目』の第二巻 は,その宗風 を 「
(
2
9)
脱羅龍出菓臼,虎騒龍奔,星馳電激」 としている。
栄西 (
1
1
41
1
2
1
5
)は1
4
歳で剃髪,出家 し, しば らく比叡 山で顕密二教 を学 んだ。 しか しそ
の後,しだいに仏教の現状 に疑いを持 ち,二度入宋 して 自ら正法 を求めた。-度 目の入宋 (
1
1
6
8
午)の時は天台山 ・阿育王山を巡拝 して天台宗の章疏二十三部 を携 えて帰国 した。1
1
87年に再
(
3
0)
度入宋 し,天台山万年寺で拝虚庵懐敵 に師事 し,臨済宗黄龍派 を学んで印可 を受 けた。当時は
ち ょうど慧能の南宗禅が盛行 してお り,その中で も臨済禅 は最 も盛んであった。
栄西 は帰国後,禅 こそは 日本の武家に適 した ものである と感 じ,禅 と密教の二つを桐いて鎌
倉幕府に働 きかけ,幕府の庇護 を得 て博多に聖福寺 を建て,勢いに乗 じて京都 にも建仁寺 を建
てた。 この両寺の建立が,弘通禅宗が広がる端緒 となった。
栄西はその主要な著作である 『
興禅護国論』の中で彼の基本的な哲学上の観点 をはっきりと
述べ ている。彼 は心の作用を崇拝 し,心 は天の上 ・地の下 ・日月光明の表 ・大千沙界の外 にも
出 られ,「
大虚 を包み,元気 を季 む」 ことがで き,天地 を覆い,載せ
(
,
7
1
)ることや,太陽 ・月 を運
行 させ,四季 を変化 させ,万物 を発生 させ ることもで きる と考えた。彼がい う心 とは,いわゆ
る仏心 ・禅心であ り,禅宗だけが伝 える心である。栄西 はまた,大いに持戒 を強調 した。彼 は
戒律 を非常 に重視 し,禅 を戒律 によって興隆 させ ようと考 えた。彼の時代 は破戒,無戒が流行
,
焚網経』の殺 ・盗 ・淫 ・妄語 ・酒の買売 などの十重
していたが,彼 は戒律 を極 めて重視 し 『
戒 と,師友 を敬わない,飲酒 ・食肉などに対する四十八軽戒 を堅 く守することを主張 しただけ
,
ではな く 『
四分律』に規定 されている様 々な煩墳 な戒条 を堅 く守 ることも主張 し,大小二乗
の戒 を共 に守るよう要求 した。天台宗六祖湛然 (
71
1
-7
8
2)の 『
止観輔行伝弘央』には 「
戒無
(
3
2
)
大小,由受者之心期」 と説かれる。栄西 はこれによって大小両戒 を用いたのである。そ して彼
はここの 「
心期」 を菩薩の利他 の心 ・禅心であると解釈 し,「
不立文字,教外別伝,直指人心,
天 理 大 学 学 報
1
32
(
3
3
)
0年後 にこの ような禅が独立
見性成仏」 とい う如来禅が興 るのは歴史の必然である と強調 し,5
して起 こる と考 えた。 ここか ら見 れば,栄西 の禅 は,間違いな く弘通臨済禅であるが,結局 は
まだ密教 と結合 してお り, まだ天台四宗 (
台 ・密 ・禅 ・律)合一の思想か ら脱 け出 していない。
指摘 に値す るのは,栄西が 「
末法」 を否定 し,持戒 を実践 し禅 を始めた 日が正法の時である
と考 えたことである。 この ような 「
末法」 を否定す る態度 は政権担当者や武士 階層 に更 に歓迎
された。
1
3世紀 ,道元 (
1
2
0
0
-1
25
3)が 日本 の曹洞宗 を開いた。曹洞宗 とい う宗命 は中国か ら起 こっ
8
07
-8
6
9) と彼の弟子 の曹山本寂 (
8
4(
ト9
01
) の頭字 を
た もので,その起源 は唐代 の洞山良価 (
とった もの といわれる。 この宗 は理 と事の互 回 (
互渉 に相応す る) ・即事而真 ・体用無碍 を主
(
3
4)
張 した。 『
人天眼 目』で は,その 「
家風細密,言行相応 ,随機利物,就語接 人」 とい う。 これ
を南宋の時,道元が 日本へ伝 えた。道元 は名 門の出身で,父は内大 臣の久我通親,母は前摂政
関白の藤原基房 の娘であるが,幼 い ころに父母 ともに亡 くした。 これが彼 に世事 の無常 を痛感
4歳で出家,比叡 山で天台教 を学んだ。 しか しわずか 1年で天台 に対 して疑問
させ,遂 に彼 は1
2
2
3年 に明仝 と共 に入宋 して法 を求めた。
を持 ち,建仁寺 の栄西の弟子 明全 に師事 した。そ して1
入宋後,最初 は天童 山で臨済宗楊岐派大慧流の禅 を学 んだ。その禅風 か ら受 けた影響 は相当大
きか ったが,その流派の密教祈祷 を行 い,権 門に阿訣 し,名利 を追求す る行為 を受 け入 れるこ
とがで きず, また各地の禅寺 を訪 ねることになった。 2年後,天童 山の長翁如浄禅 師に随 って
(
3S)
曹洞禅 を学びは じめ,彼 を仰 いで正師 とし,つい に嗣書 を得て,安貞元年 (
1
2
2
7年)帰 国 した。
』『正法眼蔵』 な どの書 を著 し,「只管
,「正法禅」 を広 め,弟子 を育 て,教 団 を樹立す るための基礎
道元 は帰国後末での研究成果 を整理 して 『
普勧坐禅儀
打坐」 の新 しい禅風 を宣伝 して
を打 ち立 てた。 『
普勧坐禅儀』の 中で,彼 は 「
所謂坐禅非習禅也,唯是安楽之法 門也」である
,
」
然別不論上智下愚,莫簡利 人鈍者 「
早 向直指端 的之正道,速成絶学無為之真
と坐禅 を称 え 「
(
36)
人。方遵百丈之規縄」 と人に勧めて説 いた。つ ま り,貴族 とか大衆 とかの差別 を問わない,賢
者 も愚者 も,出家 も在家 も区別 しない, さらには罪のあるな しさえ問わない とい う,極 めて普
。
「
先
)
遍性 のつ よい ものであ った。 『
正法眼蔵』 には天童如浄の教 えが次の ように記 されている
(
3
7
師尋常道,我箇裏,不用焼香 ・礼拝 ・念仏 ・修俄 ・着経 ,祇管打坐,弁道功夫,身心脱落」 と
言 って,仏教の真髄は経文 な どに頼 らず,ただ参禅 による 「身心 脱落」 に専心することを求め
ることであるO また 「
修証一如」 を本 旨とし,坐禅 は悟 りにいたるための手段 ではな く,参禅
はそれ 自体が 目的であ り,修行 と悟 りは一体 の ものである と考 えた。
道元 は出家修道 を強調 し,在 家での坐禅では不徹底である と考 えた。彼 は他力念仏 を採用せ
(
3
&)
直鏡飢死寒死す とも, 一 目一時 な りとも仏教 に随 うべ し」 と主張 した。道元 は臨済禅 に
ず 「
(
3
9)
対 しては,その門弟 に公案禅 を棄 てることを勧 めた。 なぜ な ら,公案禅 は 「
只管打坐」 に とっ
,
てあ ま り意味が ないか らである。彼 は また,臨済宗が依拠す る 『
模厳経』 は祈祷 の性格 を持つ
ものである とも考 えたため これ も排斥 し, また,世俗 と妥協 し,権 門 と手 を結ぶ臨済宗の態度
にも厭悪 した。
1
2
6
8
-1
3
25)が出て 目を見張 るような大 きな飛躍 を とげた。
道元 の後,曹洞宗 には豊 山紹珪 (
豊山は密教 を吸収 し,兼修禅 に対す る妥協 を し,諸宗 との摩擦 を解消 した ところにある。甚 だ
しくは神祇祭祀 と結合 し,施主 ・庶民の現世利益 に合 わせ ようとした。紹蓮 の門下 には優秀 な
弟子が輩出 し,その教 えに対す るお布施 は全 国各地か ら送 られ,発展 して一大教 団 となった。
曹洞宗の この ような大発展 はその禅風 の変化 と大い に関係 がある。た とえば密教 を吸収 し,
祈祷 を行 い, 日中三度 の説経 (
声 をそろえて経文 をとなえる儀式) を規定 し, さらに故 人の回
日本 における仏教文化の展 開 と受容 について
1
3
3
向 ・治病 ・招福 な どもや りは じめた。 これによって社会一般の人の祈祷 ・祖先供養 ・精霊崇拝
な どの類の習俗 に順応 しようとしたのである。 このほか,盛大 な受戒式 を行 い,各階級 ・各村
落の大勢の人を引 きつけて参加 させ ようとした。 また,禅宗特有の夏冬安居 (
夏 と冬の 3ケ月
外 出を禁 じて力 を尽 くして坐禅修学する) ・江湖会 (
夏冬安居 の時,禅徒が挙行する法会) ・
師徒密伝 の授受儀式 などもあ り, さらに教団の影響力 を大いに拡大 した。
禅宗 と浄土宗, 日蓮宗 は一様 に精神 をあがめる信仰であ り,寺 を造 った り仏 を供えた りする
ような外在 的な行為 を軽視 していた。これ も日本仏教の革新 を推進する要因 となった。
鎌倉時代の新仏教の各宗派は広大 な民衆の中に深 く入ることによって,次第に民衆の精神の
寄 りどころとな り,従 って非常 に早 く旧仏教の統治的地位 に取 って代 わ り,絶 えず発展 ・拡大
したDこれ らの新宗派は,歴史上のある時期 には圧迫 を受けて,順調 に発展 しない時 もあった
が,やは り時代の進展 に随ってその伝播 の路線 を拡大 してい き,ついには民衆の中に根 を下ろ
し,花聞かせた。例 えば1
5
世紀中葉,日蓮宗の 日親 (
1
4
0
7
-1
4
8
8
)と浄土真宗の蓮如 (
1
41
5
1
4
9
9
)
1
1
●l
は,それぞれ郡市の商人階層 と地方の農民階層の間で勢力 を伸 ば し,各地で 「
一向-挟」 を起
5
世紀以後,仏教 は思想面ではあま り新たな局面 を開け
こして武士の統治 を脅か した。 しか し1
1
3
3
6
-1
5
7
3
)に幕府 の保護 を受 け,五山の禅僧 は幕府の政治顧
なかった。臨済禅 は室町時代 (
問 となった者 も多かったが,宗教思想の深化に対 して貢献 した ところは無かった。従 って徳川
時代 には仏教の,思想 を主導する地位 に儒教が取 って代 わったの もその勢 いか ら当然のことで
ある。
五,仏教 の 日本 文化 に対 す る影響
仏教 を一種の宗教 と考 えると,その他の宗教 と同様 に虚言 ・幻想や様 々な荒唐無稽 な話 に満
ちている。 もしそれが社会に浸透すると,人々の精神 を麻痔 させ ることにもなる。 しか し仏教
理論の中には価値 のある思想が少なか らずあ り,それは曲折 しなが らも人に平等の観念 と有益
な道徳意識 を与えた。 とりわけその哲学的思弁の水準 は他の宗教 を超えて相当な程度にまで達
している。従 って仏教の 日本-の伝播 は, 日本人の精神世界 を拡大 し,彼 らの思惟の水準 を高
く引 き上げた といえる。 しか も仏教 と共 に日本 に転入 した ものには中国の先進的な文物制度や
工芸技術 などもあ り,これ らは日本文化の進歩 を促進 した。
当時,大陸か ら日本 に渡った僧侶 には名僧 も多 く,ただ教学 に精通 していただけではな く,
博識多能で, 日本の社会生活 に新鮮 な要素 を加えた。例 えば推古朝の とき日本 に渡 った百済の
僧 ・観勤 (
生没年未詳)は,法 を伝 えた と同時 に,暦法 ・天文 ・地理 ・遁甲 ・方術 などの多 く
の書籍 を持 ち込んだ。その中で も特 に重要なのは農業生産方面の新 たな知識 を日本へ伝 えたこ
とである。 また彼 は,仏教 を伝 えただけではな く,道教 も伝 えた。高麗の僧 ・曇徴 (
生没年未
詳) は西暦
610年 に日本 に渡 ったが,彼 は彩色画 に長 じていただけではな く,造紙 ・造墨の技
I
l
い
術及び魔窟の製造法 などの技術 も日本-伝 え始めた。天智天皇の時代,中国の僧 ・智由 (
生没
年未詳)は自ら製作 した指南車 を日本 に持 って行 き, 日本の天皇 に献上 した。孝謙天皇の時,
日本 に渡 った名僧,鑑真和 尚 とそれについて きた弟子 たちの多 くは,詩文の能力が有 り,徳才
兼備の人物であった上,造寺 ・造仏技術 にも詳 しく, 日本の仏教芸術の発展 と, 日本人の漢字
Ii
英文学習 に貢献 した。天平年間に建て られた唐招提寺の堂塔伽藍 と仏 ・菩薩の像は彼 らが 自
らの手で製作 した ものである。鑑真本人 もまた医学 に通 じ,特 に本草 に詳 しかった。当時の 日
本の医学の水準は高 くな く,薬物の真偽 を区別で きないことが よくあった。天皇が勅令 を下 し
1
34
天 理 大 学 学 報
が病 を患 った時,鑑真 は薬石治療 を行い,非常 に効果があった とい う。彼は 『
鑑上人秘方』一
巻 を著 し, 日本の医学 と本草学の発展 に大いに貢献 し,これによって 「
医術の阻」 と称 された。
これ と同時に日本か ら中国へ渡 った留学僧 も,帰国時に大量の文物 ・典籍 と各種の技術 を持 ち
帰 り,それが 日本の文化 に対す る大 きな刺激 となった。中国の印刷術 も,遣唐学生 ・留学僧 に
よって 日本 に伝 えられ, この ような事例は枚挙 に達がない。
仏教の 日本文化 に対する影響で最 も突出 しているのは芸術方面での影響である。仏教 は教義
の上では 「
世事無常,四大皆空」 を力説 したが,宣伝の面では逆 に頗 る象徴主義的特色 を持 っ
ていた。仏教はその始 まりの頃か ら仏像 を刻 んだ り,描いた りし,寺 を造 り,塔 を造ることを
主張 し,仏の慈悲 ・荘厳 さ ・偉大 さを芸術 とい うかたちで大いに表現 し,人々を魅了する力 を
発揮 させて,人々に信仰 ・崇拝の心情 を起 こさせ ようと努力 した。 この ような仏教芸術 は,仏
教が始めて 日本 に伝わった時か ら,迅速 に移植 され,吸収 された。 日本の統治者は膨大 な人力
と物力 を投入 し,大陸の風味 をたっぷ り含 んだ壮麗 な伽藍 を建造 した。屋根 を瓦で葺 き,柱 を
赤 く塗 り,アーチ を複雑 に組み合わせた ものである。伽藍の中には金銅 ・干漆 などで鋳造 した
精巧 な仏具があった。それに加 えて法会中の仏教音楽は,仏教が新芸術 の粋 を集めて成立 して
いたことを表 している。
建築 ・彫刻 ・絵画 ・装飾 な どの芸術 を一身に集めた寺院の中で, まず最初 に奉 げなければな
らないのが,蘇我氏が建立 した飛鳥寺 (
法興寺)である。 この寺の伽藍 は百済の寺工 ・瓦工の
造 った ものであ り,伽藍 に安置 された金銅釈迦仏像 は帰化人出身の仏工,鞍作鳥が造った もの
である。飛鳥寺の完成 は 7世紀初めで, これは 日本で最 も早い寺院である。 この尊金銅釈迦像
は重大 な損害 を受 けたが,今で も依然 として飛鳥にある。近人が附近 を発掘 した調査 によって,
金堂の東西 に小金堂があ り,仏塔 と南北相対 になって並 んでいたことも判明 している。飛鳥寺
の建立年代 ははっきりしてお り,従 って 7世紀前半の仏教美術 を代表することがで きるが,惜
しいことに,今 は多 くの損傷箇所 を補修 した仏像が残 っているだけである。
最 もよ く飛鳥時代
(
5
9
2
7
1
0
)の仏教芸術 を表 してい るもの として, まず法隆寺が挙 げ られ
る。法隆寺は 7世紀の初 め聖徳太子の時代 に建て られたが ,6
7
0
年 に火災 によって焼失 し,7
(
4
2
)
世紀末 に再び建て られた。法隆寺 には今で も金堂 ・五重塔 ・中門 と回廊 の一部分が残 ってお り,
金堂の正面 には金銅の釈迦三尊仏が安置 されている。 これは聖徳太子 を記念 して建立 された も
ので,仏像の容貌は古拙厳粛であ り,一種 の 「
古典的微笑」 をしている。 また外相 の一角が風
に吹 き上げられてお り,全身が三角形 になる構造 を持 っている。金堂の百済観音 と夢殿の観音
立像 にも同様 の特色があ り,北魂時代後期の中国彫刻の ような,厳格で厳密 に組織 された技術
を反映 している。
飛鳥時代の次 に続 く時代 を, 日本美術史上では白鳳時代 と称す といわれている。 しか し実際
には 日本の歴史上 に 「白鳳」 とい う年号 は無 い.ただ天武 ・持続
(
6
7
0
1
6
9
6
)両天皇の前後 か
ら,8世紀の初めに至 るまでの時期 に,仏教芸術 はい くつかの特徴 を示 したので,習慣上 この
一時期の寺仏の様式 を白鳳様式 とし,この時期その ものついて も白鳳時代 と称す るようになっ
たのである。 白鳳時代の特色 を最 もよ く代表するのは,平城京の跡地に残 された薬師三重塔 と
仏像である。三重塔 には各層に裳階があ り,層軒 と裳階の長短が交叉 して適度 な韻律美 を表現
している。金堂の雄大 な薬師三尊像 と東院の聖観音像 は共に金銅像である。 これ らの裳裾の垂
れ方 には飛鳥時代 の遺風が残 っている。 しか し容貌は極めて写実的であ り,体の様子 は豊潤で
あ り,衣裳 と体は密着 しているな ど,明 らかに唐代風 の様子 を具 えている。 また,白鳳芸術が
飛鳥様式か ら後の天平様式への過渡的な色彩 を帯 びているのは,南北朝か ら唐朝の様式への過
日本 における仏教文化の展開 と受容 について
1
35
度的な色彩 を帯 びている ともいえる。白鳳時代の絵画芸術 は法隆寺金堂の壁画 を代表 とするこ
とがで きるが,この壁画の タッチは力強 く,構図は均整が とれていて,イン ドのアジャンタの
壁画の影響 を反映 している。この時期は,ち ょうど律令社会が確立 し,統治階級が信心 に満 ち
ていた時期 にあたるので,その作品は健康的で積極的な活力 に満ちあふれている。
聖武天皇 (
7
01
-7
5
6) を中心 とす る天平時代 には,建築の方面では唐招提寺 (
鑑真伝律駐錫
の地)の, まるでギ リシア神殿の ような柱列建築 (
エ ンタシス)である金堂や,東大寺の法華
堂な どがある。彫像の方面では,法華堂の執金剛神像 .日光月光像,東大寺戒壇 院の四天王像,
新薬師寺の十二神将像,興福寺の人夫尊 と十大弟子像などがある。 これ らの作 品は盛唐風の様
子 を受 け継いで理想的な形 にまで昇華 し,同時 に真実 を講究する風格 も具 えている。 しか し白
鳳彫刻のような偉大 さ ・健康的な様子 とは違い,一種の抑制の きいた優雅な情緒 をか もし出 し
ている。
総 じて言 えば,7,8世紀の 日本では,朝廷や貴族が仏教 の権威 を借 りて,律 令国家 を鎮護
し, 自己の現実的な利益 を保護 しようと考 えたので,熱狂的に仏教 を提唱 したのである。 また,
これに加 えて唐文化 に対す る憧憶 と追求があ り, これによって飛鳥 ・白鳳 ・天王の仏教芸術が
造 り出 されたのである。
平安時代 になると,天台宗 ・真言宗の流行 によって仏教芸術 も明 らかに密教的な色彩 を帯び
て きた。密教 に特有の大 目如来像 ・如意輪観音像 ・不動明王像 ・五大力帆像 などが,一様 に怒
容 を顕 している。 また,勧心寺の如意輪観音像 は非常 に妖艶で もあ り,円城寺の黄不動像 は英
武勇健である。これ らはすべてこの時代 (
芸術史上,貞観時代 と称す る)の不朽の傑作 である。
この時の絵画は密教の観念 を伝達す る媒介であった。例 えば現在神護寺 (
京都高雄)にある両
界皇陀羅は力強い細かい線 によって流暢 に仁慈美妙 を浮かび上が らせ,一本一本の線 を運用 し
線条芸術」 の高い水準 を顕示 した。 この時代の彫刻
て生 き生 きとした立体効果 を生み出 し,「
は木彫 を主 とし,仏像全体 に一塊 の木 を用い,それを彫 って作 るもので,以前の金銅や干漆像
とは異なるO この様 な彫像 には神秘的で強烈 な精神の力が大いに含 まれてお り,既 に唐風の影
響か ら脱出 しは じめ,独創的な特色 を表現す るようになっていた。
鎌倉時代 には新仏教の各派が興った。各派 ともその創立者の像 を措いた り,彼 らの生平の事
跡 を,図を用いて述べ た りし,これが宗教画の発展 に重要な作用 を引 き起 こ した。 また,水墨
画は禅宗 と極めて密接 な関係があ り, 日本の水墨画の初期の画家の多 くは禅僧であ り,画題 も
その多 くは宗教 と関係がある,布袋図や五祖六阻図などであった。
仏教芸術が 日本神道 に与 えた影響 は非常に大 きい。 日本古来の宗教伝仰 は,仏教が 日本に大
規模 に輸入 される以前は,神体 として宝鏡 を作 る以外 には,神 の像 を画に措いた り彫刻 した り
することはなかった。仏教理論 は日本の民俗宗教 の体系化 を促 したが,その上その象徴主義的
な宣伝方式が 日本神道に,偶像 を刻み画 き,神社 を建造するとい う新風 を吹 き込 んだ。
芸術以外 で も仏教 は 日本文化の多 くの方面 に影響 を与えている。文学の面では, 日本文学の
粋 と称 される物語 ・草紙 ・紀行 などの類は,すべて仏教 に感化 され,仏教思想を背景 としてい
る。和歌 ・連歌 ・俳語 などの純粋 な日本の詩 といわれるもの も,仏教思想 を吸収することによ
って,優雅 さと深 さを増 している。鎌倉時代以後, 日本文学はさらに僧侶たちに頼 って維持 さ
れるようになった。その他 にも学校 の開設 ・病院の設置 ・孤児院の建設 ・国民道徳の養成 など,
仏教 によって推 し進め られた ものが多い。 日本精神 を代表する武士道で さえも,その心理的な
基礎 は仏家の禅 を宗 とす るものである。槍法や諸般の武芸 もまた,仏法の影響 を受けている。
また,仏教 の影響 によって,花の生け方やお茶の入れ方が芸道 にまでたかめ られ,華道や茶
天 理 大 学 学 報
136
道が形成 された。 さらに,その影響 によって,戟場での武術す らも,徳川幕府体制が確立 され
て平和 な時代 が訪れる と,武芸 とい う芸道 になった。その ように,仏教,特 に禅 の影響 によっ
1
877
-1
955)
て, 日本人の生 き方 は深 み を増 したのである。 日本 の著名 な歴史学者辻善之助 (
は 「
仏教 は 日本 の国民の精神井 に物質生活 の中に全 く消化せ られ , その内 とな り血 となって,
(
43)
国民 は 日常生活の中に知 らず識 らず仏教文化 に浸って居 るのである」 と言 った ことがあるが,
この言葉 も確 か に道理 のあることである。
六,おわりに
以上 の考察 を通 じて言 えるのは, 日本での仏教受容 の特徴 は, まず第- に, もっぱ ら中国 と
朝鮮 を経 由 して仏教 を受容 した ことである。 また,中国で発達 した大乗仏教 ・密教 ・禅 を輸入
し,原始仏教 における釈迦の本来の教説 に対 してはあ ま り興味 を示す ことが なかった。 自分 の
文化 に都合の よい部分 を選択 し受容 したのである。二番 目の特徴 は,神仏習合や本地垂迩思想
の展 開によって 日本仏教が 日本 固有の神 々 を自らの系列下 に収 め独 自の神観念 を形成 していっ
たことである。つ ま り, 日本が仏教 を受け入れるに際 して, 日本固有 の神 の信仰 と仏教信仰 と
を折衷 して,それ らを融合調和す ることが行 われた。
日本文化 は,外来文化 の受容 と土着 の文化 との融合 を繰 り返す ことによって展 開 して きた。
本稿ではこう した点 について検証 して きたが,今後 は 日本人の生活や思考が どの ように生成 ・
変化 して きたのか を考察 し,あわせ て現代へ の影響 な どについて も考察 を深めてい きたい と思
う。 また, ここで と りあげた問題 に関す る 日本側の研究 については,今 日は紙幅の制約 もあっ
て,十分 に言及す ることがで きなかったが, これ について も今後の課題 としたい。
註
(1) 筆者は儒教について,その日本の受容過程 についてすでに論 じたことがある。拙稿 「日本に
」
『
中国文化研究』
,第1
9
号,202年,天理大学国際文化学部中
おける儒教文化の受容について (
国学科研究室)を参照する。
(
2) 一般に聖徳太子 自身の製作 とされているが,一一部には偽作説 も唱えられている。津田左右吉
氏 (
『日本上代史研究』1
9
30)の説 と福井康順氏 (
『
印度学仏教学論集』1
95
4)の説 とがある。
(3) 天寿国繍帳は天寿国蔓奈羅 (まんだら)繍帳ともいう。硯在奈良県中宮寺にったわる日本最
古の刺繍による帳,いまは断片 (
89c
mx8
3c
m) を残すのみである。日本の国宝。聖徳太子没後
の冥福を祈って,その夫人であった橘大郎女 (
推古天皇の孫)が侍女たちにつ くらせたもので,
太子のいる天寿国のあ りさまを描いている。 日月 ・人物 ・禽獣 ・如来像などが中国六朝様式で
表現されている。銘文は 『
上官聖徳法王帝説』に見える。
(4) 華厳経などの教主で,万物 を照らす宇宙的存在 としての仏。密教では大 日如来と同 じ。「
慮舎
毘慮舎那仏」は新訳華厳経で用いられる。
那仏」は旧訳華厳経で,「
(5) 空海 『
三教指帰』 (
『
弘法大師空海全集』第 6巻)筑摩書房
1
9
8
4 p.
1
0
2。
(
6) 筑紫 (
九州の古称)の観世音寺 という説もある。
(7) 村上専精 『日本仏教史綱』商務印書館 1
9
81
年 p.
65。
(8) 印契とは,各種の特定の手式 を指すO密教では真言,陀羅F
Eを念涌するとき,必ずム ドラ-
(
印契)を用いる。手指の組み合わせ,身振 りが定型化 されたものである。
(9) 真言陀羅尼 とは古代 インドの聖典 『
アタルヴァ ・ヴェ-ダ』などで撰災招福の呪文 を意味 し
た。真言は比較的短い呪句,陀羅尼は比較的長い呪句 をいう。
1
37
日本 にお ける仏教文化 の展 開 と受容 につ いて
(
1
0
) 釈尊入滅後二千年で末法の世 とな り,仏の教 えが廃れ,修行するもの も悟 りを得 るもの もな
くなって,教法のみが残る時期。 日本では1
0
5
2
年 (
永承 7)に末法元年 とされる。平安後期か
ら鎌倉時代 にかけて末法思想が流行 して,人々を不安 に陥 らせ る一方,仏教者の真剣 な求道 を
生み出 した。
(
l
l
) 源信
(
1
2
) 同上
(
1
3
) 同上
(
1
4
) 融観
『
往生要集』岩波書店 1
9
9
2 p.
1
0
0
『
往生要集』 p
.
l
oo
『
往生要集』 p
.
1
1
。
』(
『
大正新修大蔵経』第4
8
巻)大正一切経刊行会
『
融通円門章
1
9
3
1 p.
4-5。
(
1
5) 十五歳 という説 もある。
(
1
6
) 善導 『選択本願念仏集』岩波書店 1
9
9
7 p.
1
0
0
(
1
7) 同上 『
選択本願念仏集』 p.
100
(
1
8) 法門 :仏法の習修 を通 して仏果を獲得する門戸。
(
1
9
) 法然 『
往生大要抄』(
『日本哲学全書 第二巻 仏教篇 (
二)
』)第一書房 1
9
3
6 p.
4
6
0
(
2
0
) 回向 :自分の功徳 を他 に回 し向ける意。読経 ・布施などを行 って,死者の死後の安穏 をもた
らすよう祈 ること。
(
2
1
) 十法界は迷悟の階級 を十種 に分けた もので,十界 と簡称 した り,六凡四聖 と称 した りする。
地獄 ・餓鬼 ・畜生 ・阿修羅 ・人間 ・天上の 「
六凡」 と和声聞 ・縁覚 ・菩薩 ・仏の 「
四聖」であ
る。
(
2
2
) 一関提 :焚語は i
c
c
hant
i
ka 「
断善根」「
信不具足」 と訳す仏経でいう,解脱に因を欠 き,成仏
がで きない者。中国や 日本では一関接でさえも最終的には成仏で きるとする説が次第に強 くな
り,盛んに議論 された。
(
2
3
) 本化地涌菩薩 :本化はその地の仏の教化の意味。釈迦如来の講経 によると,本門の法草の時,
もともと釈迦如来の教化 を受けた無数の大菩薩が地下か ら涌 き出て,虚空中に住んだ という。
これを本化菩薩 という。『
法華経』涌出品参照。
(
2
4) 大覚世尊 :大いに悟 りを開いた,世界 に唯一独尊の仏 を指すO口決 :口授決定の要義O
(
2
5
) 大量奈羅 :中国 ・日本の もので,紙や綿の上に仏や菩薩の姿 を措いたもの。本来の意味は「
壇」
「
衆集」などである。
(
2
6
) 多宝 :多宝如来のことで,これは東方宝浄世界の仏である。
(
2
7
) 不動明王 :密教の中で,大 日如来の命 によって憤努の形 を示 し,悪魔 を降伏 させる, といわ
れる威力のある真言王。普通,一面二腎で,右手に降魔の剣 を持ち,左手に招索 を持つ。
(
2
8
) 愛染明王は衆生の愛欲煩悩がそのまま悟 りであることを表す明王。全身赤色,三 日六腎で,
外面は慣暴の様子 をしているが,内面は恋愛に染 まった至情 を本体 とする。
(
2
9
) 智昭 「人夫眼 目」 (
『
臨南寺全書』第 3巻 「
興聖寺本人天眼 目抄」
)稜伽林 1
9
9
4 p.
1
4
2
。
(
3
0
) 印可は印信許可の略称,師憎が弟子の悟 りを証明すること。
(
3
1
) 栄西 『興禅護国論』(
『日本思想大系』第1
6
巻)岩波書店 1
9
7
2 p.
9
9
。
『
大正新修大蔵経』第4
6
巻)大正一切経刊行会 1
9
2
7 p.
(
3
2
) 湛然 『止観輔行伝弘毅』巻四之-(
。
2
2
5
(
3
3
) 達磨が唱えた四聖句であ り,禅の根本思想 として一般化 している
(
3
4) 同上 「人天眼 目」第 3巻 p.
2
7
9
0
(
35) 嗣法の証 として,師が弟子に与える系譜。
(
3
6
) 道元 『普勧坐禅儀』(
『
道元禅師全集』下巻)筑摩書房 1
9
7
0 p.
4。
(
3
7
) 道元 『正法眼蔵』(
『
道元禅師全集』上巻)筑摩書房 1
9
7
0 p.
4
0
7
。
(
3
8
) 道元 『正法眼蔵随聞記』(
『
道元禅師全集』下巻)筑摩書房 1
9
7
0 p.
4
3
7
。
1
38
天 理 大 学 学 報
(
39) 公案 とい うの は本来 は官府 の文書 を指 す が,禅家 は これ を借 用 して,祖 師の言行 を範例 と し
て,それ に よって宗 門の正令 をを示 し,判 断 と迷信 の準則 とす る ことを指す。
(
40) 浄土真宗 は又の名 を一 向宗 とい う。一校 とは農民暴動 の意味。
(
41) 髄 は精米機 ,鎧 は精粉機 で,いず れ も水力 を使用す る。 『日本書紀』 は裾鎧 を造 る こ とは これ
か ら始 まる とす る。
(
42) 20世紀 の初 め以来
,『日本 書紀』 にい う670年 の法 隆寺焼 失 をめ ぐって,多 くの歴 史学 者 は再
建説 ,建築学者 は様 式 や使用尺度 か ら飛 鳥建築 だ と非再建 説 を主張 した。 だが,戦前 ・戦後 の
数次 の発掘調査 で若草伽藍が焼失以前 の法 隆寺である ことが判 明 し,再建説 に落 ち着 いた。
(
43) 辻善之助 『日本悌数 史研 究』第 6巻
岩波書 店
1
98
4 p.
27
40