JNK000602

第 6 号 : 13
天理大学人権問題研究室紀要
一 28,
2003
中 近世大和の被 賎視 民の歴史的諸相
一
横行の場合一一
-
吉田栄治郎
YOSHIDA・ijirou
となった。
はじめに
しかし, 降 路は時に問題を 整序する効果が
いまだにその 原因が解明されず ,したがっ
あ る。 直面した 降 路は部落問題の 整序を促し
て解決に至らない 日本の社会病理の 一つに部
それが日本史の「孤本」ではないとの
落 朋題 があ る。 鎌倉一室町 期 には細工-, 河原
育てた。 喜田貞吉が雑誌Ⅱ民族と 歴史上に拠
者,近世は械多 ,明治期以降は「特殊 (稲 )
って蘇生させた 多種多様な被 賎視民 の 末商 た
部落」「細民部落」,戦後になると
被差別部落・
ちが,今なお部落とほぼ同質の 偏見と不正常
未解放部落と 呼ばれ,行政的には 同和地区と
な 関係に直面していることを
一括された集落
心に引き寄せて 論じなければならないとの 合
(以下部落と表記する ) と人
に対する偏見 (基調としては 賎視 ・蔑視) と,
それに基づいて 酸される関係の 不正常さとし
認識を
部落 史研究の関
意が形成されるようになった。
部落史研究の関心とは 言うまでもなく 偏見
と不正常な関係解消の 方途を歴史のなかに 見
て 現れている。
この病理を歴史的に 解き明すため ,戦後a-
出すことにあ
る。 一方, 隔路に直面するまで
い 時期から部落 史 というカテゴリーが 用意 さ
の部落 史研究と権 力意志との距離を 必ずしも
れ ,大量の研究が蓄積されてきた。 ただ,当
共有せず,主として 京都・奈良とその 周辺に
初からそれが 政治課題と過剰に 密着したため
地域を限って 蓄積されてきた 鎌倉一室町 期 の
か権 フ U 意志を肥大させすぎ ,それとの間に適
宿及び散所,声聞師研究の
切な距離を保てな い まま政治権 メ n に よ る懇意
対象地域を京都・ 奈良から全国各地に 広げた
果ては戦国別に 一向 --,淡に
江戸期の陰陽師・ 万歳・神子・ 芸能 民 に関す
的創出説を生み ,
成果があ る。 また
加わって捕らわれ ,身分を@ ・「されたことに
る近年の研究成果があ
始まるとの妄説さえ 現れた。 後者などは鎌倉
の 関心に沿って 読み直せば病理解明と 問題 僻
一室町期の細工,河原者を 思えば妄説としか
決に向けて何がみえてくるのか ,それが先の
青いよ
う
がないが, さらに経済的低位性に 問
題を還元させたため ,それが--,定の解決をみ
る 20 世紀後半には 必然の院 路 に直面すること
る。 それらを部落問題
合意が部落 史研究に 捉 起する新たな 課題の一
つ だと認識している。
小論の作業は 右の文脈に位置づけて 行 うも
Nara ̄refecturalヽesearch,enter’or》he`aterials{fBuraku ̄roblems
Ⅰ
S
中近世大和の被賎視 民の歴史的諸相
のであ る。対象地域は大和に 限り,他地域へ
興福寺のあ らためての下知はなかった。 役と
の言及は行論の 必要によって 行 う 。 鎌倉期の
は一般的には 権 フ 3 的に設定された 義務的労働
大和には細工・ 宿 非人・横行と 呼ばれる 被購
だが,この場合は 藤原氏氏長者の 春日 話 に際
視民 が い たが,細工は河原者であ り,近世の
して一国平均役として 課せられた人夫役の --,
槻多につながるためここでは 取り上げない。
種であ る。
ただ,それが氏長者の春日 話 に限られる 役
また,与えられた 紙幅の関係から 宿 非人は別
稿 に譲り, 細 1 とあ わせて必要な 範囲で言及
する。 したがって,対象を 鎌倉期の横行とそ
なのか, もともと興福寺の 掃除役としてあ
恒常的かつまり 広範な範囲に 及ぶものなのか
の 米商に 限り,幕末期に至る各時代の
は 当該期の史料が
史料,に即して素描する作業であ
実態を
る。 なお,本
他にないためはっきりしな
文中の史料引用は 出来るだけ避けて 注にまわ
い。 しかし,戸上・ 膳 手からの下知,つまり
臨時に不浄 物 の満目を命じられる 北山非人と
すが,煩雑になるので 前後省略の注記は 省く
は明らかに異なる。 おそらく興福寺にとって
の横行は恒常的な 義務的労働,つまり 役 賦課
l 、 鎌倉期の横行
ができるだけの ,横行の側に即していえば 実
(l ) 興福寺寺辺の横行一河上横行 一
横行は鎌倉 - 室町中期の被 賎視民の一種で
あ る。鎌倉期の字訓はみていないが
態が,興福寺の側には寺務上の 必要性とがこ
の時期存在したということだろう。
,横行睡
うこう ) の訓釈に「あ まねく歩き巡る」「自
横行が掃除役をつとめる「 逆野辺」だが,
「
逆 」は普通は「ぎゃく」だが
,「さか」と
も読め,そう 読めば坂であ る。 「野辺」は野
由自在に駆け 巡る」Ⅳ角川大字源 醸 があ る
ので,素直に読めば「おうこう」になる。 後
辺送りの野辺であ り,墓地のことであ る。 と
にみるように ,横行は呪禁者・ 芸能者であ
すれば,「逆 野辺」とは「坂にあ る墓地」と
る
ことから移動性を 特徴的に持ち ,そのため定
いうことになるが ,
仕者からは共同体秩序に 納まらない人々 と捉
の前提もつけずに「坂にあ る墓地」と表記し
えられ, 「自由自在に 駆け巡る」 人 とみられ
て理解される墓地は「金剛仏子叡尊感易学正
たのだろう。
記」にみえる ,叡尊が非人施行をした「当寺
さて,その横行だが ,文永2 年 (1265) 12
月の関白一条 実 経に よ る春日社参詣の 迎賓準
西南野」の「五姉味」以覚には
備を興福寺中綱貫瞬が 記録した「御参宮雑々
今もここに周辺集落の 共同墓地があ り,般若
記 」が初見であ
下知にょり
寺からなだらかに 下る坂の突端,北山の 人口
「八幡伏拝」から 南及び西に延びる 道筋の不
からわずかに 北に登った地点に 位置する。
「掃除等」とは墓地に遺棄された 遺体や塵
浄 物 の滴目を行
る。 戸上・勝手の
う
北山非人に次いで
,に「
逆
野辺掃除等」を 行う「横行 井 細工」が記載さ
れている。
細 1 は河原者の鎌倉一室町期の
別称であ
り
この時期興福寺寺中で 何
考えられない。
「五姉昧」は墓地,「当寺」は 般若寺だが,
芥の処理を行ったということだろうが
,少な
くとも近世では 墓所の管理や 遺体処理は三味
聖 (隠亡 ) が専管したことが 確かめられてい
近世の槻多に 続くため小論に 取り上げないこ
るので,限られた 場所と場面だとしても 鎌倉
とは先に断っている。 横行による「
逆 野辺 掃
中期に細工と 横行が行ったという 事実は,大
捺筆」は北山非人の 場合とは違って
役であ
和の姉味聖の 組成を論じる 際に留意すべき 一
14
吉田
点 になろう。
「御参宮雑々記 」に次いで横行が 現れるの
「合戦」から 半世紀ほど経った 観応元年
(1350) ごろ,「河上左横行」が 興福寺大来
は,元亨 4 年 (1324)の非人と横行との「合
戦 」に関する大乗院「雑々 引付 」である。 般
院から罪科に 問われたという
若 寺の向かいにあ
で全容は読み 取れないが,「河上横行罪科
る「実者」の 家に雷が落ち
記事が大乗院
「奉行司付 」にあ る。 判読が十分できないの
事,
て焼けた際 ,その家に宿非人が隠れているこ
早々如此検断,往古違 沙汰日比 致其 沙汰 候 ,
とがわかり,それをめぐって 起こった非人と
更 非新儀 候也 ,
横行との「合戦」であ
て」との文言があ り,背後に元亨 4 年の事件
る。 この非人と横行は ,
「合戦」のその後を伝える同年八月の「東大
此 尊者元亨比目ロロロ
後見
がみえ隠れしている。 室町期 に横行を家産的
寺 年預下文案」により ,非人は「北山之非人」, に支配する大乗院家と
横行は「河上左横行」だということが 明らか
係を示す初見史料だが
になるが,北山井 人 が東大寺の合戦停止命令
河上横行との 特殊な関
,これについては次節
で取り上げる。
に従わなかったため ,諸国の東大寺領花圃 で
「非人等立党類」の「 乞場」が停止されてい
(2) 法隆寺寺辺の横行一国符後横行一
法隆寺の周辺にも 横行がいた。 後 嵯峨上皇
る。
「実者」は「あ んじゃ」と読めば 行者 (あ
んじゃ ) だろうし,近い読みを探せば 案主体
の 法隆寺行幸に 際して寺内の 迎賓準備を記し
んじゅ・あ んず ) かもしれない。 前者は禅寺
の雑役者を いい ,後者は平安一鎌倉期の 諸官
の 記事に現れる
庁や権門,荘園に置かれた 文書作成者であ
に横行が「スナ
般若寺は禅寺でかいことや
る。
,「合戦」が東大
た「法隆寺別当次第」腔長元年
横行であ
(1261)
9
月
る。
「法隆寺別当次第」には 寺僧や郷民ととも
コ
」持ちをしたことが 記され
る。 ヌ
、 ナコ」とは細かい 砂のことで真砂と
「
寺領荘園での 非人「 乞場 」の停止という 事態
もいい,道筋に 敷いたようだが ,清浄を保障
をもたらしたことから 後者の可能性が 強いと
する呪術的な 意味があ ったとされる。 ただ,
ぽ、 うが,それ以上にはわからない。
郷民も同じく
いずれにしても ,般若寺周辺が河上横行の
何らかの権 利が実現する 場だったため 権利執
この場合は横行に 特殊な役割とは 思えず,横
行の呪禁者としての 性格をこの「スナ
行に出向いたところ ,「実者」の家に北山非
ちからみることはできないようであ
人が隠れていたことに 端を発した「合戦」だ
ろうが,これについてもそれ 以上のことはわ
さて,「法隆寺別当次第」は 横行の上位地
について伝えないが ,それを特定する 史料が
からない。
別にある。捕らえられた 強盗を断頭した fmmY
「河上之横行」の河上は 般若寺から南に 下
った北山丘陵地の 南端あたりを指している。
また,「逆 野辺」を般若寺西南方の 五三昧地
としたが,そこは 河上に含まれる。 したがっ
て,「雑々引伸」の「河上左横行」と「御参
「スナコ 」持ちをしているため ,
コ
」持
る。
ホ
の「カゼヒ野 / セ部」とその 首の番をした「 国
行役 / 乞食」が現れる「嘉元
記 」延慶 3 年
Ⅰ310) 条である。細工はここでは 取り上げ
ないため問題は「国符後 / 乞食」になるが ,
「嘉元記 」を南北朝朗まで 下って探せば ,他
(1337)
宮雑々 記 」の横行を同じ 横行とみてそれほど
に建武 4 年
無理はないだろう。
の際に「腕木」を 貰った「国符後乞食」, 観
8 月の法隆寺の 雨 悦 相撲
15
応 2
年は 351)
10 月 ,
-
すべての名前が 刊
4 筆のなかに確認できる。
乗院と大乗院の 抗争
のさなか,「祓 所役」に随わないという
理由
た
とえば,「まひきひ」と肩書きされた 甚 八郎・
で 興福寺から罪科に 問われた「国符後 を
九郎の 2
食 」,延文 2 年 ( ;357) 6
それぞれ 1 筆 ず つ持ち,甚 八郎は他に小字「こ
Ⅰ
月
8 日に盗賊の捕
縛を命じられた「国府後惣中」があ
の後」で下臨
る。
あ る。 「政所」は神祇 令 大祓条 の 祓所 と同様
械の解除役であ
煩雑になったが ,右の作業から 太閤検地時
点で法隆寺村の「おとの」と「こうのうしろ」
となればそれは
る。 この時期,陰陽師が
」
下里 2 筆 ,あわせて 5 筆 持っている。
上で興味深いものは 観応 2 年の「城所役」で
,
1 筆 ,九郎は「やみのかいと
で下婁 1 筆 ,小字「辰巳ヵハナ 」で土窟 2 筆 ,
このうち,「国符後 / 乞食」の素性を 知る
の儀礼とみる以外にないが
人をみれば,「 大トノ 」に屋敷地を
人形
は同じ集落を 指していること ,そこには「ま
などに磯を移して 水に流す七瀬 祓が京都の公
ひ まひ 」が住むことが 確かめられる。
家や鎌倉幕府で。流行していたが ,「祓 所役」
のうしろ」は 国符後の字訓だが ,「嘉元記
が直接七瀬祓を 指すかどうかは 別にして,当
の国符後であ ろう。 鎌倉期の国符後は 太閤検
時興福寺内で 種々の解除が 行われたことは 容
地の時点では「おとの」とも「こうのうしろ」
易に想像でき ,「政所役」をそうした 解除の
とも呼ばれ,「まひ まひ 」の住む集落になっ
一極とみるのが 妥当な解釈だろう。 したがっ
ていたのであ
「こう
る。 「まひきひ 」は舞々であ
」
り
て「国符後乞食」は 陰陽師ということになる
久世舞 あ るいはその演者のことであ
が,「国符後乞食」を 陰陽師とするには 傍証
舞は室町 期 に声聞師が専管した 芸能だが,声
があ る。
聞師であ る「まひ きひ」が住む「 大ト /
文禄 4 年 (1595) の法隆寺村文禄検地帳 (181
に
は肩に「 大ト / 」と記された 名 請人の屋敷地
る
」
村"
は声聞師 村"ということになる。
があ わせて 17 筆 あ り,同一名を 同一人と考え
「城所役」といい「まひ まひ」といい, と
もに国符後の 住人が声聞師だったことを 指し
て寄せれば 12人の名請人が 検出江 きる。 名請
示している。 この声聞師が 鎌倉期には横行と
人肩書きは
-
呼ばれたことは 次節で明らかにするが ,横行
般に集落毛・ 集団名・身分名を
指すが,「大ト / 」は近世に同名の
枝郷 があ るので集落毛であ
法隆寺小
づ
・
る。 また,「大ト
と声聞師はほぼイコールの 集団だった。 とす
れば,鎌倉中期の 法隆寺周辺に 複数の横行集
/ 」「おとの」「ヲト / 」「大股」と 肩書きさ
団が存在したとの 明証がえられない 限り,文
れた 名 請人が屋敷地を 持つ 12 人を含めて 22 人
禄検地の際の「 大ト / 」村は『嘉;元記』の「国
おり,田畑訊筆 。 屋敷地とあ わせて f67筆が拾
符後 / 乞食」であ り,「法隆寺別当次第」の
い出せる。
横行と考えなければならない。
また,「こうのうしろ」「この後」と肩書き
された名 請人が 5 人・ 18 等 (田畑・屋敷
分 ),
「まひきひ」が 2 人, 6 等 (田畑・屋敷 か )
あ る。 に
ぅ
の う しろ」「この後」は集落 名 ,
「まひまひ」は集団名だろうが
,あわせて 7
人は同じ名双をすべて「 大ト / 」屋敷地登録
者 12人のなかに確かめられるとともに
16
,
7人
(3) 永久幸手辺の 横行一彰 塚 横行一
徹嵯峨上皇は 法隆寺に次いで 内山永久 寄 へ
も行幸する予定になっていた。
結局それは中
止になったが ,永久寺 では迎賓準備を 進めた。
「当山詞」には準備の様子が 記されるが,二
つの座に分かれた「 影塚左横行」が白土を
納
吉田
(l91
めたという記事があ
「
の後身ということになろう。
る。
影塚左横行」の 鍵 塚は地名だが
,近世に
なると永久 手 にほど近い m 辺 都寺自重村
枝郷
2. 南北朝一室町期の 横行
(1 ) 横行から声聞師
に鍵 "
隊付があ った。 両者は極 慨 しており,字
訓は同じとみる 以外にないので ,「影塚左横
行」と近世の 鍵塚村 との間に系譜的なつなが
大乗院「奉行 列付 」の暦応
月
4
年 (1341)
5
23 日 条によ れば「幸鵠垣内」に横行が 住ん
でかたことが 確かめられる。 一方, 15 世紀 中
りを想定してよいだろう "
ただ,その判断には 大きな障害がともなう。
「
へ
影塚左横行コと鍵塚 村の間に横たわる
長い
期 に大乗院門跡尋尊が 記した「大乗院門跡 領
目 釣りには「
1231 - 円丘 ケ所唱 円居住」の 地 とし
史料不在の時間であ る。鎌倉中期から 近世中
年余りの間,「影像左横
期に至るまでの 40(M
行」のその後の 姿を確かめる 直接の史料がみ
郷の「鳩 垣内」は同一地名だが ,南北朝潮に
あ たらないことであ る。
は横行の住んだ「 幸鵠垣内」が室町中期には
むちんここでも 傍証はあ る。 まず,管見の
限り鎌倉期の 永久寺 周辺には「 影塚左横行」
て幸郷の「鳩 垣内」があ げられている。 鶴
の字訓は「はと」であ り,「幸鶴 垣内」と幸
「
一円,つまりすべてが声聞師の居住地になっ
ていたのであ る。
また,『経常 利、 要砂山宝徳
(乙)
3 年 (1451) 2
以外の横行の 存在を確かめられないことであ
る。
「
影塚左横行」は永久 手 に近 い 場所に止
月
住地を持っていたと 考える以覚にないが ,近
13
日
条 には「今日 モ 八案山茶 蘭 掃除之 ,元
興寺領井 横行双座 十 在所 共以百出て 」とあ り,
「横行両座」に 五ケ所 ・上座と 割注がされて
世の鍵 塚 村の所在地も 永久 手 にほど近いとこ
いる "
ろにあ った。
また, 鍵塚村は女は巫職として 土御門衆か
ら許状を受けて 口寄せを ,
」
男は現職として 布
としての職掌は 布留社への久世舞の 奉納 と郷
(201
八峯 山茶園掃除」は「横行商
座 」が
行うがそれは「 五ケ所土座」のことだという
ものであ る。
留社から補任状を 受けて舞 太夫をつとめる 陰
場師であ り,補任状の 文言にょ れば, 舞 太夫
「
f大乗院寺社雑事記
Ⅰ
憶
5
コ
文明 10 年 (1478)
6
日条にょ
(251れば, 五ケ所 ,土座とは,奈良
町各所の「 唱門 」を 北郷は-ト座,南郷は五ケ
中 での演舞であ った。 とすれば,『多聞 暁 日
所 と呼んで大乗院家が「自尊」,つまり 支配
永正 2 年は 505) 3 月 11 同条にみえる ,
朱雀院十王 党で勧進久世舞を 奉納した「布留
するものであ り,土座は興福寺出中と 大乗院
家が共に,
郷 若太夫」との
するという。
だから,法隆寺の 事例をふまえていえば ,布
都では室町 期に 陰陽師や多種多様な 芸能者
留 郷 に住む声聞師であ
して活動していた。
言刮
関係が予想される。
「布留郷 若太夫」は勧進の 久世舞を舞うの
る。 永正 2
五ケ 所は大来院家が
「
独占的に使役
唱門 」とは声聞師のことで
,
説経を聞いて 悟りを開く宗教者の 謂だが,京
年の場合は
奈良町における 演舞だったが ,布留郷 内での
五ケ所
・
と
十 座は横行の二つの 座のことであ
ろう。 とすれば,声聞師「布留 郷 若太夫」は,
り,それは「 唱門 」であるとする文明 1Q年の
ア大乗院寺社雑事記 ロの 記事や,南北朝潮に
近世の布留 郷 内で久世舞の 演舞を行う鍵 塚村
横行がいた町が 室町中期には 一円声聞師の 止
現職の前身になるだろうし
住 地 になっていたという 事実から,鎌倉一両
演舞を否定する 材料はない。 当然行われただ
・
,「影像左横行」
17
;lヒ 朝潮の横行は 室町中期になると 声聞師と呼 ,
の根本は木造東西,西城南北,京終,貝塚,
ばれるようになっていたことが 確かめられる。
鳩 垣内だとわかる。 -l-座根本地の
ところで,大和における 声聞師の初出は 応
永 5
年は 398)
「声聞考 」であ
る。 た
だ,ここでは声聞師ではなく「声聞者」であ
るためこれを 採らなければ ,次にはかなり 遅
れて『経常和典砂コ 康正 2 年 (1456)
同条 の ,
は
「
4
月
つ河上は
鎌倉期の「河上左横行」の I@2
位地であ り,
五
ケ所の - つ 鳩 垣内は南北朝 期 に横行正岡法師
の興福寺「官符出徒集会評定
案 」の
-
25
午刻先 警固 声朋甲 百計上 之 」の「
声
ね」がある。 ここでも声聞師とは 記されない
父子が住んで い た土地なので ,編成にょり 移
動があったとも思えず ,おそらくそのままの
形で掌握したということだろう。
五ケ所
・
(1447) 11 月
が, これは声聞師を 略した「声聞」に 違い な
原 」だが,
く,以後声聞師を 示す「声聞」の 文字が史料
(1457)
のなかに頻出する よう になる。 一方,横行は
Ⅱ経常松要 鈴ロ文明 4 年 (1472) 4 月 29El 条
-l-座の成立時期ははっきりしない。
五ケ 所の初見は『経常和
7
要紗ロ 文安 4 年
集め 「領内人夫五ケ 両法師
『大乗院寺社雑事記 $ 康正 3 年
月
4
日
13
日
条に ,応永 6 年
興福寺金堂供養に 際して興福寺衆中から
大
和・奈良の人夫が 徴発されたが ,大乗院家か
の 「横行舞 」を最後に史料・のなかから姿を消
らその成り立ちを 説明したため
してしまった。
官 m$'
衆徒集会評定案」の「声聞者」を
れなかったとあ ることから,それ以前に五
ケ
冊師 とみれば室町初頭,それを 採らなければ
所がすでに存在していた ど推測される。
また, い ) に引いた『大乗院寺社 郷 司,記
血
1% 世紀中期,史料のなかで 横行が声聞師に 変
文明 10 年 (1478) 6 月 5 日条の記事の 続きに
わるが,それについての 合理的な説明は 今の
ところできない。 興福寺と横行との 関係が顕
は, 五ケ 所は「朝タ 京 ・田舎以下召 任用 ニ ,
別冊南里 之唱門之座ヲ 立 」たものだと 記され
著に変化したとも 思えないし,職能面でも
ている。 大乗院家が独占的に 使役するため 奈
「
行と声聞師の
声
横
問に際立った 違いはみられない。
しかし,京都でも 14 世紀の末ごろになると
散
ヨ
所の住民が声聞師と 呼ばれるようになってい
るので,何かはつきりした 理由があ
ると思う
がわからず,今後の 課題であ る。
(2) 五ケ所 ・土座の成立
(1) でみたように
,興福寺寄辺の横行は
五ケ 所は使わ
良町南郷の声聞師に 別に座を立てさせたとい
うことであ り, とすれば上座の 成立が先行し
たことになろう。 そして,応永6 年以前に存
在していた 五ケ 所に先行する 土座 は ,鎌倉末
期,元亨 4 年前後にはすでに 大乗院家との 間
に何らかの特殊な 関係を作っていた 様子がう
かがえる。
観応元年 (1350)
ごろ河上横行が 興 補 寺人
室町 叶 期 までに大乗院家によって 家産的な 編
衆院から罪科,に問われたことは
成を受けて集団化し ,五ケ所
た。 それは,東大寺東商院家からの
・
・
-Ⅰ 歴 と呼ばれ
ていた。
"刮
寛正
3 年 (1462) 8 月 12l 条によ
(281 @ @
コ
座の根本地は 芝 辻
ぞド
Ⅰ
8
く
Ⅰ
・
477j5
河 」 こ ,『大乗院寺社雑訴
Ⅰ
可
13@l 多ミにより
臼田
五ケ戸ヮア
1. で紹介し
,おそら
くは河 」r. 横行の宥免願いに 対して,大来院家
が河上横行の 罪科をこのように
検断するのは
新儀のことではなく ,「元亨比 」に「後見」
するようになってからのことだと 返答した -
件であ る。 「後見」とはおそらく 後ろ盾の意
吉田
であ ろうから,鎌倉末期にはすでに
大乗院家
小盗町石 仕之条不可燃,其故老 ,応永五年金
と河上棚 打 との間には,何かはわからないが
堂供養時分,切面白寺門申請供養沙汰
特殊な関係が 作られていたことが 確かめられ
蒙 許可申請 了 ,書状等分明也 」とあ り,大乗
る 。
院家には一貫して 上記の理解があ
また,「内山御り
所毎日 抄(311
」元亨 4 年 (132%
正月 12
口
ったことは
確かめられる。
そうした目論見により 奈良町の横行が
条 に千秋万歳は 大乗院家が「後見」
していたとの 記事があ る。 「御後見千詩万歳
院家によって 五ケ所
入 了」という箇所だが ,
は, 五ケ所
「
之問 ,
三箇 院家 抄 」の「雑
・
・
大乗
-片皮に編成されたこと
荷
-片 座 が興福寺や大乗院家から
務 年中調進」には「南北横行千 詩 万歳」が正
物 運送人夫,法会の奉仕,築地の工事や壁塗,
月 元口に「酒肴」を 受けたという 記事があ る
柴刈 りや庭木・庭石の 搬送,墓穴掘り ,茶園
ので,室町期の千秋万歳が横行によって 演じ
の掃除など多種多様な 雑役に使役されたこと
られたことは 確かであ る。 とすれば,元亨 4
からもうなずけ
年の千秋万歳を 横行とみることに 異論はな い
よ
う。
しかし,上の 雑役は大来院家があ らためて
だろうし, また,それを 河 -l;横行に特定でき
賦課したものであ り,横行の本来の 職能では
ないことから ,先の特殊な関係が河上械 行に
なかった。 本来のそれは ,『大乗院寺社雑事
限らず横行全体に 及んでいた可能性が 否定で
記 $ 賀正 4 年 (1463) 11 月 23
きないことになる。
小座の支配にかかる「 セ 道者」として 猿楽,
大来院家による 河 」1.横行や千秋万歳の「後
見」が 五ケ所
・
タ、 キ
条に,五ケ所
御子, 金タ、 キ
アルキ白拍子・アルキ
-l-座編成に至る 道筋かどうか
日
,アルキ横行・ 猿飼があ
・
・
鉢
る。また,『大
の明証はないが ,それは五ケ所成立の応永 6
年を遡ること 半世紀のことなので ,横行編成
乗院寺社雑事記コ 文明 9 年 (1477) 5 月 13 日
に向けた意志が 何らかの形で 具体化し始めて
いたことを想定できよう。 したがって小論で
陽師,金口,
暦星宮 ・久世舞
は-l-座の成立を元亨 4 年前後,鎌倉末期に求
れを「同事」すると 記されている。 「同事」
めておきた い。
とは「自ら専らにすること」の
条 には「唱 開立沙汰」するものとして
盆 彼岸 経 ・毘
・
沙門経等芸能」と「七道 柳 」があげられ, そ
調 だから,戸
棚師は自ら陰陽師以下の「芸能」と
座は興福寺衆中
と
大乗院家の用務のため ,
・
大来院家の五 ケ所 , 十 巫の編成目的は ,
五
に座を立てさせたという
10
年 (1478) 6 月 5 同条の記事に
要約できよう。
むろん,室町期を 通じて必ずしも 五ケ 所の
よる興福寺「政所役」が
院寺社雑事記
の
廿
想起される。 『大乗
長享元年 (1487) 11 月 15 日 条
「弥勒御堂阿柳井 事 ,今日車初 ,
始の記事から「 :ヒ供」が, また,長享 3 年
け 489)
8 月の「禅定性
石 築地方諸下行事」
から「昌 川原」に
10 同 11
が,それぞれ雅かめられる。
条 にも,「凡於五ケ所 法師陳者, 衆
土 供祭 之 ,
-l-座音也」の記事から「 土 供祭」が,延徳2
年は 490) 4 月 16 日条の今宮殿造成工部の 鋳
大乗院家による 独占的使役が 貰 徹したわけで
はないが,『縦覧仏典砂コ 長禄 2 年 (1458)
円
る。
陰陽師については ,法隆寺国符後の横行に
l,
ケ 所は大乗院家が 使役するため「南里立唄
事記ゴ文明
猿楽以下
の七種の職 (七道) に携わったのであ
(3) 五ケ所 ・土座の職能
,「陰
よ
る
銭 50 文の「土供布施」
「
土供」は 地ゃ lll
中近世大和の被賎視民の歴史的諸相
12 日 条に ,土座声聞師明観が大乗院の
であ り,「土 供祭」とは地神を 祀る祭りだが ,
年
陰陽師が行ったものであ って,室町中期には
石の築地を完成させた 功によって大夫に 補任
横行の主要な 職能になっていた。
されたという 記事があ るので,「昌門 大夫」
6
月
金口は金鼓 (コンク ) で,鰐口の形をした
とは明 観法師のことであ ろう。 毘沙門天は多
仏具のことであ り,不吉な夢をみた 時などに
聞天とも称され ,四天王の一で夜叉や羅刹を
寺院で打ったことが「小右記」に
率 い, 甲冑を着して
記されてい
怒りの表情で 刻された 神
る 。 呪具 の一種であ り,「
瑞嚢抄 」には「民
であ る。財宝を守り,富貴をもたらすとして
屋門三正 テ。 打ツ 金鼓 ヲ 。 声聞師 ト云」とあ
神として信仰を 集めた。 江戸期に編纂された
,室町中期には声聞師が行う 芸能とみられ
り
『
ナは稽
雑談』には,京都では 元日の朝に祇園
社の犬神人が 毘沙門経を読むと
ていた。
また, 暦星宮は天文・ 造暦にかかわる職能
だろうが,「大乗院門跡鎮目録」の 五ケ 所の
るが,毘沙門天画像を 持参する際には 毘沙門
経が読まれたのだろう。
, 五
猿楽・アルキ 白拍子,アルキ 御子・ 金 叩
行っていたことが 確
き・鉢叩き,アルキ 横行・猿飼という「セ 道
項に「 暦 新座,本座」がみえることから
ケ所が暦の作成,頒布を
記されてい
かめられる。 『大乗院寺社雑事記
ロ
には長禄
元年 (1457) 12 月 8 日条を初見に 幸徳升氏か
ら 年末に暦が大乗院門跡へ 献上されているこ
者」あるいは「 セ 遺物」は,アルキ横行など
意味が定かにならず ,具体的な職種がはっき
りしないものもあ るが,いずれもいわゆる 芸
とが記される。 幸徳升氏の作成した 具注暦を
能に属することは 確かであ り, 五ケ所 ・小座
もとに横行が 造暦 したのだろう。
声聞師が現実に 行っていた職種をあ げたもの
久世舞は白拍子の 舞に起源を持つ ,
鼓にあ
だろう。
わせて 唱う 叙事歌謡と舞いが 合体した芸能で
あ り,京都では 声聞師の芸能とされた。 南北
(4) 大和各地の声聞師
室町中期になると 興福寺・法隆寺・ 永久幸
朝朗ころから 始まったと考えられ ,大和でも
ア経
寛弘要妙凹 寛正元年 (1460) 正月 26
日
条
@@@ @ 施曲舞」,翌
(3@) 2 年 2 月 10目条 にも「布
「
施久世 舞 」が経覚のもとを訪れたという 記事
3
があ る。 また,『大乗院寺社雑事記日文明
年 (1471) 8 月 5
日
条 には柴屋声聞師と 五 ケ
所 ・土座声聞師が 久世舞の興行権
をめぐって
争ったこと記されている。
盆 彼岸経とは
7
月
ことだろうが , 五ケ所 ,小座が行ったという
具体的な史料はなく ,それ以上のことはわか
(1491)
2
正月 4
日
(].460)正月 26 日条及び翌 2 年 2 月Ⅰ 0 日 条 に
あ るように,安位手軽 覚 のもとを「布施曲軸」
「布施久世舞 」が訪れている。 また,『大乗
3
年8
月
4
日
条の,五ケ
所,小座声聞師と 久 世 舞の興行場所をめぐっ
て争ったという
『
記される「柴屋声聞」がいる。
経覚秘要妙ロ 文正 2 年 (1467) 2 月 16 日 条
には「 桜谷声聞舞々, 於他国糠釘 殺芝山今風
3年
条に 「島門大夫」が毘沙門
枚を持参したことが
せ始める。
先にも触れたが , f経営秘要 妙 Ⅲ寛正元年
院寺社雑事記日文明
15 日に唱える 孟蘭盆軽め
らない。
毘沙門経はⅡ大乗院寺社雑事記』延徳
手 辺 以外にも大和各地に 声聞師がその 姿をみ
記される。 回書長享 3
聞処,今日日西国帰来芝山奏申 了 」とある ょ
うに「 桜谷声聞舞々」が 西国から帰って 経常
のもとを訪れている。
吉田
布施は葛
下 郡の西端,現在の北葛城郡新庄
応じない者がいることを
怒っているように ,
町の山麓一帯を 指す。 どれが「布施曲舞」に
この時期になると
つながるかはわからないが
から移動し,大乗院家の 支配を離れる 動きが
,
このあ たりには
五ケ 所が木 近似 -lごの根本地
近世の被 賎 神民の集落が 複数あった。 また,
柴屋は奈良町市郊に 位置するが,系譜関係は
表面化していたのであ る。
わからないものの ,近世には風樹が存在した。
るが叶わず,大乗院家が「朝夕 京 ・田舎以下
桜谷」の所在地は 不明だが, 五ケ所 ・中座
や法隆寺・永久幸手 辺 以外にも相当数の 声聞
有位何%, 別冊南里 之唱 門立 座ヲ立」たとい
う五ケ 所は, 16 世紀の前半以後史料のなかか
師の集団が大和国内にあ ったことが確かめら
ら姿を消していく。 また,「天文年間抜翠緑」
れる。 『大乗院寺社雑事記 文明 10 年け 478)
天文17 年 (1548) 正月 27 日粂の記事によれば ,
「
ロ
6
月
5
日
条 には,当時大和国内には「数十
ケ
尋尊は五 ケ所 との関係をもとに 戻そうとす
土座の 芝辻 声聞師も戸上・ 膳 手への運上を 滞
研志唱門 」があ り,土座がその 支配を行って
納 したとして興福寺衆徒から 謎 責を受けて ぃ
いたと記されるが ,「布施曲舞」「柴屋声聞」
るが, これを最後に 十座も史料から 消えてし
「
桜谷声聞舞々」はその「数十
ケ前主唱門
」
ま,
っ 0
の個別事例であ ろう。
しかし, 五ケ所 ・土座が史料のなかから 姿
なお,「数十 ケ 前走 唱門 」は $大乗院寺社
を
消した後にも 奈良町に声聞師はいた。
「天
雑事記 寛正 3 年 (1462) 5 同 12 日 条に 「当
国中声聞進発等定時,宮寺門 催 世事, 中ト道
文年中衆中引 村 」天文 17 年は 548)
ヨリ東ヲハ ,河上声聞相 触文, 中ト 通ヨ リ西
鴨川郷は室町期の 興福寺寺門 郷 の一ヵ所であ
ヲハ ,
り, 鴨 川 W のことだが, 五ケ所声聞師の根本
コ
芝辻千声聞相触之」とあるように, 大
10 月 19
日
(421
条にみえる「鴨川棚 唱門 」がその一%であ
る。
和国内の声聞師が 使役される際には 中つ道を
地水 辻 ・京終に隣接し ,
はさんで東が 河上,西が芝辻声聞師の十 座 に
大乗院支配を 抜けだした 五ケ所との関係が想
よっで指示が 伝達されたことがわかる。 大和
定されよう。
また,『多聞院日記山元亀元年は570)
国内に散在する 声聞師は ,五ケ所 -片 座 のよ
・
うに大乗院家による 直接的支配は 受けないが,
十座 をとおして間接的に ,
ゆるやかに統括さ
れていたことが 確かめられる。 先にみた法隆
寺国符後乞食がっとめるという「政所役」は
置かれ
この散在声聞師統括システムのもとに
ていたと考えて 間違いはないだろう。
高 御門町の南にあ る。
9
同 4 日 条 には未進を抱える「半円百姓 唱門
がみえる。 半田とは奈良奉行所東方にあ る町
」
を指していると 思うが,その地には,貞享4
年け 678) に編纂された 地誌「奈良 曝
」
「
諸
師 諸芸」の項に 書きあげられた奈良町陰陽師
31 人の 1 人として陰陽師藤村 弥 左衛門がいた。
右の声聞師以覚に 奈良町には声聞師 集 任地
(5) 五ケ所 ・土座の解体
考えられる町があ った。 奈良磨 が造られた
陰陽灯 であ り,「奈良切目拙解」には陰陽 町
と
横行が史料のなかから 姿を消すころ ,つま
と大乗院との 関係に変化が 現れるようになっ
はついて,「豊町往古 高 御門郷校 郷而適地存
在小路, 通 目高御門西南 各 石田園, 其後陰陽
た。 『大乗院寺社雑事記コ 文明 8 年 (1476)
師四五字佳子 此 ,党友海町家,称 陰陽 町也
5月 6
とする。 高御門町の一部に 陰陽師が住み 始め
り応仁の乱のさなかのことになるが
日
, 五ケ所
条 では尋尊は五 ケ所のなかに徴用に
」
21
て 町家ができ,それが陰陽 町 と称するように
ろう。
なったということであ る。
陰陽町の本郷であ る 高 御門灯 は ,『大乗院
寺社雑事記
ロ
文明 1W 午 (1478) 2 月 21
五ケ 所志内高御門住人」とあ
「
日
条に
るので, 五ケ
また,先にみたように,「奈良媒」の「講
師諸芸」の項には
奈良町の陰陽師組入が 書き
あ げられており ,その居住地は陰陽 町
・
奥芝
辻町 ・内侍原町・ ;lヒ 小路町, 坂 新屋 町 ・南半
所の移住 先 だったことが 確かめられる。 とす
れば,「奈良助 目拙解」が伝える陰陽 町 に住
五ケ前 根本地に隣接し , 奥芝辻町
み着いた陰陽師とは 五ケ所声聞師ということ
内侍原町は -i-座 芝辻に近い。 戦国時代の終わ
になろ
う
。 声聞師以覚に 室町期の奈良町で 陰
う
り
ごろに姿を消した 五ケ所
・
坂 新屋 町は
・
北 小路町・
・
-l,座の声聞師た
ちの,少なくともその 一部がこれら 奈良Ⅵ陰
陽道に従事していた 集団の存在が 確かめられ
ない限りそ
円西町にわたっていた。 陰陽 町
陽師につながったことを 否定することはでき
考えなければならない。
しかし,「奈良媒」には ,陰陽町を世間で
は「 唱門が辻子 」と呼び,声聞師が住むと考
な い。
この内,陰陽町を 除く各町のことはわから
えているようだが ,それは間違いだと 記して
ない。 史料がなく,陰陽師の 数も少ないため ,
いろ。 また,「奈良・
切目 拙解」でも「里俗唱
門師 与 陰陽師浸食混合 調 噴門 近千 ,全不当説
やがて陰陽職を 離れていったものと 思われる。
しかし,前節でみた よう に陰陽町 には近世を
也 」とする。 陰陽町の陰陽師を 声聞師と混同
通じて陰陽師が 住み,彼等は奈良暦の製作に
するのは誤りだとするものだが
,「奈良曝
あ たっていたのであ る。
」
や「奈良切目 拙解」の主張が仮に 正しいとし
先に引いたように『大乗院寺社雑事記』
ても,実際に陰陽 町 に高御門町に 住む五 ケ所
禄 元年 (1457) 12 月 8
声聞師の系譜を 引くものが存在したことは
が「新暦 井 八卦」を進上したという
否
日
条に ,
長
「徳姉位友幸」
記事があ
定できない。 この " ほついては次節であ らた
るが,「徳姉位友幸」とは 幸徳升 友幸のこと
めて取り上げる。
であ り, これは具注暦であ る。 この具注暦を
3.
近世の横行
もとにした腐草によってと 思われるが, 五ケ
一 陰陽師・神子,万歳一
所 声聞師が 暦 製造にたずさわったのであ
(] ) 奈良町の陰陽師
「奈良切目拙僻
」
る。
「大乗院門跡徳目録」には 五ケ 所の項に「 暦
奥芝社 町の項に, 芝 辻田],
新座,本座」があり,彼らによって 造られた
の東方にあ り,陰陽師・ 梓 神子・雑芸能者・
暦があった。 『多聞院日記 天正12 年 (158㈲
乞食などが集まり
12 月 28
ロ
住んでいると 記されてい
る 。 若造 町は 土座の根本地の 一つだが,先に
日
条の
「
、ソ 、 取之 」, 翌 天正 13 年れ 585)
もみたように ,天文17 年 れ 548) 正月の「天
文年間抜本銀」を 最後に史料のなかからは 姿
戦国別
を消した。 最後の十 座芝辻声聞師と奥
価な暦であ る。
の 陰陽師・雑芸能者たちとの
芝 Wll
丁
間にはおよそ
コョミ 郡山市ニテ
ヒタ 上文
12 月 19 日の
「麟一巻貝之 ,代人文ツ、 」とあるように,
に6
一
7
文の値段で市で 販売される安
この 五ケ 所による暦が ,近世になると 陰陽
10(W
年 あ まりの年月が 経過しているので ,直
ちに両者を結びつけることはできないとして
町を中心にした 奈良暦師たちによって
も,両者は何らかの 関係を持つと 見てよ いだ
された暦本に 幸徳升家が吉凶などの
22
大規模
に製造される。 奈良暦師は幕府天文方で 作成
注を付し
吉田
たものを京都大経師から 渡され,それをもと
師系 に分かれていたこと
に版刻して刷り 出した。 これを奈良 暦と 称し
たが,奈良歴 には土産物として 販売する光庸
すべて声聞師系であ
と
,陰陽師として年末に旦那場を 巡廻する際
,大和在方の暦師は
るのに対し,陰陽町の 暦
師は両系 が混在していたことに 起 因 するもの
だろう。
に㎜償で配布する 賦暦の二極に大別されてい
た。 そして, この別に従って 造 暦師に二種の
(2) 法隆寺の陰陽師
流れがあ ったようであ る。
一種は陰陽師加茂氏の 流れをくむと 自認ず
「国符後/ 乞食」を同じ 集団とし,国符後乞
る暦を売る暦師
(売暦) であ り,陰陽町の 吉
川・山村の 2 家がそれであ る。 他の - 極は暦
「法隆寺別当次第」の 横行と「嘉元
記 」の
食の集落が文禄 4 年 (1595) には「 大ト /
」
「こうのうしろ」と 呼ばれるようになってい
を無償で配布する 暦師 (賦暦) であ り,これ
ることや,その 一部に「まひ まひ」が住んで
は 陰陽 町 以外にも大和国各地に い たが,慶応
いたことを 1. で確かめた。
6
年 (1868) には陰陽Ⅲ],以外に奈良 林小路町,
「まひまひ」が住む「 大ト / 」のその後を
添上郡柴屋 村 ,同部若槻村に 暦師が確認でき
追跡すれば,添上郡田原 郷 に住む藤堂 藩 無足
る 。
人山本字左衛門の 日記の天和
と
2
年 (1682)
3
先にみた よう に,柴屋村は室町 期 に五.
ケ所
月 18
久世舞の興行をめぐって 争論した柴屋 声岡
舞を奉納する「法隆寺尾 殿 弥助・九四郎」に
日
条 にみえる,岡原村小脇寺の 逆修 会 に
とだが, この 節 両村は鎌倉一室町 期 に京都に
行き当たる。
「法隆寺尾殿」は同書の別の 箇所では「法
おける 賎祝 される散所の 大和で確かめられる
隆寺大殿 村 」「法隆寺大股唱門師」「法隆寺解
唯一の例であ る。 史料上の初出は 若槻村の文
芦野 唱門 !iT)
」と記されるが ,
禄検地帳 に五筆の屋敷地が 登録される 買善
戸 野 はともに「おどの」が 字訓であ る。 演じ
の 末であ る。 また,若槻村は枝郷算 所相のこ
・
衛門五郎・弥四郎・ ぢ ,五郎の4 名の算所村 住
大 であ る。 貞享 4
年行 687)
の切 文月類族改
Ⅱ長にはⅠ
い んきょ」とし 記され,
は 813)
の宗旨 改帳 には
文イヒ
10 年
と肩書きさ
れている。 「いんきょ」とは 陰陽のことであ
り
,岩槻
村 の筑前住人は 近世では陰陽師とし
て本村から把握されていたことが
明らかにな
る。 柴屋・岩槻 算 所村はいずれも 賦暦 であ
尾殿 ・大股・綿
られた舞の題目は「敦盛」「景清」「高館」「伏
見常磐」だが ,江戸初期に編纂された「舞の
本 」にある 久 ・仕舞 36 種にいずれも 入っている
ので, 十輪寺 における法隆寺「おどの」唱門
師による舞が 久世 舞 だったことが 確かめられ
る 0
法隆寺「おどの」唱門師が 田原 郷 に出向く
㏄の
り
のは山本家との 関係によるものとも 把、 えるが,
奈良暦 の賦暦師は声聞師に 系譜を持っ者と 考
それは「おどの」 村 「まひまひ」が大和各地
えてよいだろう。
に舞場を持っていたことを 否定する材料・には
陰陽 町は ついて,その成り立ちをめぐり 戸
陽師 集 佳調とが近世の 地誌類 に混在している
ならない。
「おとの」村の住人は,元文 2 年 (1737)
正月の「
l]国平群邪法隆寺 ; "指抑 f 」に「陰
ことは先に触れたとおりだが ,その混乱は石
陽師武人」と 記され,文政 9 年は 826)
棚 師集 佳調" と ,それを否定するいわば 正統陰
にみたように ,奈良暦師が声聞師系と非声聞
フてネ
力
㎏ ",,
の 「開帳ニ村請印 帳 」にも「
り
@
陽ラ
ド
3
月
/ 」と
23
中近世大和の被賎視 民の歴史的諸材 :
目
年
末
レし
文め 。
はる
な
に
まて
決っ
業
が
よ
@こ
廃と
結 す
この々
づ
・
小股村 と呼ぶこと,陰陽師を 家業にしてい
を
局る
,
はほぼ
光平が記した「野山のなげき」にも
が絶
た杜
はあ
っ
署名するように ,法隆寺村では陰陽師だと認
識されていたようであ る。 幕末の国学者伴林
たことが記されるが ,同時に伴林が訪れる 30
(4) 大和万歳
横行の系譜を 引く近世の集落に 万歳村があ
年ほど以前に ,理由は明記してないがすでに
る。 大和万歳と呼ばれるが
,集落としての系
消失したことを 記している。
譜を遡及できる 史料はない。
千秋万歳の史料上の 初見は「内山御所毎日
抄」元亨 4 年 (1324) 正月余の U3 日,御後
(3) 永久寺の神子
「
先に近世の守自党 村枝郷鍵 隊付 を ,地名の
- 致と 布留社 ・永久寺 との関係及びその 職能
見千寿万歳入
了 」であ る。 また, r経営秘要
砂コ文明 4 年㏄ 472) 正月
5
同条の「布施舞々
から鎌倉期の 彫琢横行の後の 姿だとしたが ,
四人来,千秋万歳後,チ リ振舞 之 」により,
近世の鍵 塚村の実態から 再度確かめておきた
布施の舞々,つまり 声聞師 ( 二 横行) が千秋
V O
万歳を行っていた
ト
残された史料から ,
鍵塚 村は布留 社 宝蔵 の
番,現職,
郷 甲南包夫躍の 警固,社中の目 附
よ
うに,鎌倉一室町期の 千
秋万歳は横行の 行 う 祝福芸能だったことがわ
かる。
大和万歳は近世になると 窪田万歳と 箸 尾方
などをつとめていたことがわかる。 宝蔵番は
他の史料からは 確認できないが ,雨宮人躍の
歳の
際の警固のことは「布留 社 神南条坤 」にみえ
た。 二つの大和万歳 集 囲は由緒伝承を 異にし,
るし,現職は布留社舞太夫であ り,主水2 年
前者は祭文語りの 由緒を伝え,後者は 偉人に
(1705) の舞太夫補任状の 写しから「太夫 成
舞 芝居」の免許だったことがわかる。
補任状
の文言にはそれを「 郷 中今披露」とあ
るので,
2
流に分かれ,あわせて
っ ながる祖神伝承を 持つが, その異同に触れ
る 紙幅は残されていない 0
大和万歳の演者は
おそらく布留 郷 における久世舞の 演舞を認め
町々を
たものだろう。
子・素襖を着し
こうした布留 社 との関係とともに , 鍵塚村
6 村が数えられ
2
人から
正月の言祝ぎに 京都の
3 . 4
人が 1 組を作り, 鳳 @@
員
手に扇を持って 祝言を唱え
ながら,太鼓を 敵いて町 々・村 々を巡回した。
では 巫職 と呼ぶ口寄せも 行っていた。 口寄せ
京都では御所や 所司代を訪れ ,大和国内でも
とは梓の木の 枝で作った目の 弦を竹 棒で 叩い
元田に寺社や 奈良奉行所などに 姿をみせてい
て寄せたい者を 呼び出すという 作法をいうが ,
る 。
死者の場合を「死口」,神仏の 場合を「神口」,
生きた人の場合は「生口」と 呼んだ"
は梓巫女が行う 作法であ
口寄せ
り,土御門家などで
は配下陰陽師がこれにかかわることを
(601
こうした大和万歳の 活動について , 式 千郁
吐 田村の享保 9 年 (1724) の諸色明細 帳 には
「毎年正月朔日より 十五日 進 禁裏 ニ 籠山, 其
禁止し
以後東町方他国共 稼 中條」と書き」r.げられて
ているが, 鍵塚 村正職は土御門家の 免許を ぢ,
い るが,右にあげた正月の御所への 伺候や旦
えられている。
那場廻りのことを 裏 付けている。 具体的には,
鍵隊付では文化
2 年 (1805) から口寄せの
存廃をめぐって 村方騒動が起こり ,純金曲折
24
寛保元年 (1741)の万歳記録にあ
(。 i2l るよ つ@,""
ヰ
大晦日から京都に
出向いて定宿に 居座り ,元
吉田
日から 15 日までの間に 所司代や寺社,公家や
同所志向 巫職ヲ仕 候者多 ,他村ニ面ハ 筋
町衆宅を訪れ 祝銭 をえ ち ものであ り,大正期
目違左横車取沙汰仕儀 故 ,奉公稼 ニ縄 出
まで廻小 すが続いたことは 大正 4 年 (1915) に
候 事も自由 難成 ,
編纂された「風俗 志 」に確かめることができ
(中略 ) 少々 之 普請仕儀二も
大工兵容易
ニ細工不敬具,盲人共祝儀布施物も
る。
5.
且 縁談 之 差文二も 罷成
不愛
ケ
まとめにかえて
lコ 寄せをするため
先に,部落史研究の当面する 課題の- つは
周囲から「筋目違」とみら
れ,そのため奉公・縁談・ 普請に不自由を 託
細工‥河原者・ 槻多以外の被 賎視民研究を部
ち
落史の関心に 沿って読み直すことだとした。
きであ る。
,盲人は祝儀を受け取りにこないという 嘆
小論はその前提の 作業であ り,課題はこの 先
二つの村はその 存在を今確かめられないた
にあ るが,それに関して若干のことを 指摘し
め,個別の問題として 石の関係が残るかどう
てまとめにかえたい。
かは定かではない。 しかしかっての 横行の
伴林光平の「野山のなも ヂき 」を引き,法隆
末商は数多く 残り,彼等は今なお偏見と 不自
寺小股村の幕末をみたが ,伴林は次のように
由さに直面している。 その意味と理由を 彼等
記していた。
の歩んだ歴史の 文脈から読み 取ることがこの
先の課題になる。
大和国平群 郡 法隆寺の西里村の 西 畔に字
みさ
、
ぎといふ小山あ り,其の形相 瓢 の
横 して決 なく帝陵の様なり ,其の傍辺 に
さ、やかなる庵室あ り,そを俗人みさ
、
ぎの庵とぃひ, すめる尼をみ さ、ぎの尼
と
(注]
い)
むろん事あ らためての合意ではなく
,たとえ
ば渡辺広「未解放部落の
成立をめぐる学界の動
呼ぶ , 例の事なりと ぞ, 其の傍に小股
とぃふ 村居あ りて俗に所謂守戸村にて ,
旭旗これと婚せず ,火をもともにせず,
塞 ごとに注連引き 渡して陰陽師を 家の業
にて , 神々しげにすみなし、 を , 今は三
十年ばかり前の 方に其の村居荒れ 果て、
今は唯名のみ残れり ,此は其の陵の守戸
なりけむを,可惜しきことなりなど 里人
のかたるをき、 て
創刊号,1957 仝 -),
林屋辰
三郎『中世芸能史の
研究J ,(
岩波書店,1960 年),
中世賎民と雑芸能の研ヲ信 J (M 丘山 閣 出
核心に位置づけられる
版, 1974 年) などは合意の
だろう"
(2@
同和問題関係史料センター
$研究紀要J
9号
佗 003 年 3 月 ) に「救癩施設・ 北リ l- 片八間 戸移転
論の腕路をめぐって」をまとめている。
(3)
大木
n に限定しただけでも
, 声岡は耐@lJ@究の圧倒
小股村は伴林が 聞いた限り「 他族 これと婚せ
的な研究蓄積は
承知している。
京都にまで広げれ
ず,火をもともにせず」という 村 だったので
ばさらにその
量はさらに数倍しよう。
小論で以下
あ る。
また, 鍵塚村の近世の職能をみる 際に使っ
に云々することはすでに
研究史では解決済みのこ
た文化 3 年は 806) の口寄せ廃業騒動に 関す
現存する声聞師 (横行) への偏見と関係の
不正常
る
史料,には,廃業を
1641
求める人々がなぜ 廃業な
のかを説明した 一文があ る。
とも多いとは
思うが,部落
史研究の関心に
沿い,
さに触れるためあ
えてあらためての作業とした。
したがって,喜田貞吉以来の
声聞師研究史には言
ター『研究紀要
J 7 号, 2000)
(13)
人「出産の情景一巫女・
ウフスナ・後ろ抱き」㏍
中
次のとおりであ
る。
@
八幡伏拝以南路次不浄柳箸百滴目沙汰土山,
・
同
世の愛と従属一絵巻の中野肉体Ⅲ所収,平凡
社,
北山井九二下知了,
使戸上脂手
-
がある。
中世における
砂の持つ呪力に
言及した供血道
西僻事,同下知了,
使同前
1986), 近世では久留俺浩 盛砂 ・蒔砂・飾
「
り手桶・
竿一近世における「馳走」の
- つとして
一」㏄史学雑誌
B 95 編 8 号, 1986)
れ 4)
ナシ
奈良市史0 通史21
91 一 93 ぺー ジ "
1970), 「非人・河原者・
散所」㈱披講座『日本
コ
などをふまえて
,興福寺の
「金剛仏子叡尊
感易学正記」
け 990 西大寺判,
興尚菩薩七百年御遠忌記念
本) 文永 6 年 け 269)
% 竹筏/ 乞食ニカケ
サセテニケ同朋守堆
」
(1引
「法隆寺祈雨旧記」
は 部落史 に関する総合的
(16@ 「克元紀」。 関係箇所は「国符後乞食南部
両御
所様確執二 政所役ニ 不随,六方立
使中綱十人,
仕
「姉月五日。
点当寺西南野。
北ぶ。 ぬ 0 為施物。課
の
側
研究0 史料剃 lLln
り刊め
柑除役として
設定されたものと
考えておく。
(7@
5 所Ⅱ x"
セヒ野/ 七郎坊之,細分町人存亡,酒肴維那
師之
沙汰,銭一典文賜睾, 頸ヲハ
「散所発生の
歴史的意義」け 日本歴史』
268 号,
通史 第 8 巻, 1994)
「嘉元 記」は州法隆寺史料・
集成J
係箇所は「同六日夕切石八郎・
於極楽寺頸坊了,;
京都の散所研究の
成果,たとえば
丹生得哲-
(6)
などがある。
-円卜人,台十余人当寺ニ
合下向テ 直二罪科ヲ 付加
之山中生,有三
% 集会直井料考無先規之」 こ者 ,雛
(8@
勝田主「中世
触機思想再考」は 日本史研究
A
356,199
初には,当該期の京都では近体を
埋葬し
H「rf慨
ないで放脱する辿棄葬が行われていたことが
キ
されている。
(9)
「雑々利付」
十三日,
「
(内閣文庫蔵) の次の記事「七月
i@列ダ立,般若寺/
Ⅰ 7@
l司 じく「辮元紀」で「於盗人者可溺出立山,
国符後惣中腰
之
」
(18)
法隆寺蔵 「大和国平群邪法隆寺村
御検地帳
れ 9)
内閣文雄蔵。 棋係御所は「白土者
形塚之横行
」
向西煩案者
住宅へ舌
これについても
[email protected]
村
Ⅱ仕
l
落之,焼失了 ,仲家へ宿非人等将之,
之,典故非人手横行伍合戦
地」による。
「東大寺文世」第
1 部第
(10@
1,
(20)
104
北,¥,
(l1@ 内閣文庫蔵
「法隆寺別当次第」は法隆寺史料集成J
白 2)
丁
3
所収。関係箇所は「後嵯峨大政天皇当寺御幸征志,
( l ll@
各 ) 楠始伸之,次中門前
芝,東西郷民コレラ
「
「
ハク, 束空前束ヲハ
Ⅲ
4, 2001)
(21
角川吉店本によった。
(22@
「奉行列 付」は内閣文庫蔵。 関係箇所は「幸
鵠垣内横行阿正法師父子,
板行殺害之罪科了 ,沖
崎) 同横行虎熊口ロ八町令殺害之故地」
% 人コレラハク,スナコハ勢
野坂戸ニケロ 持之,中門前ヲハ郷民間人特立,聖
算
吉田Ⅰ近世大和の
神子付とロ 寄の作法」け 東
院前ヲハ横行持之,商大円山前/ 芝ヲハ切々ニ
ケツル」。 なお,この分析については
山村雅史「・ 地
域の声冊師研究- 試論」
@
和問題棚 保史料・セン
った。
(25)
関係箇所は「奈良小哨刑事
ハ ,七脚成
-
乗院
領 ・東大寺領以下在々所々二府立,北里
分考号-l座,南里外考
号五ケ所, 各出門跡自専之一類也,
吉田
此内腔-l-座者,衆中年門跡
共以召仕,
於五ケ功者
原少々 来而,柴屋声聞
ト
相論出訴申文」とあ
り,
咄門跡計石化之」
奈良市春日野町大宮守人民
蔵。
(26)
「
追両下知」
以下は次のとおりであ
る。
ぐる争いだったことがわかる。
造面下知
(38@
官符衆徒沙汰
衆
r滑稽雑談ョは国吉刊行会本。
「古老伝て
来て,毘沙門経の
文句を訓読に
唱
令補考随順,敢 自他争論定
儀不可存立,時々
致強
剛之闘争事,石国内盆々 之基条, 被加厳綱所也,
,祝する儀を
「
於十座者当国中数十ケ 所定唱門之座頭也,
岡 l「下知悉 以白 土座柑触之
」とある。
「
ト
(27@ 「横行雄 2% 者,五人分覚者北八姓,今度床
㏄ 0@
関係御所は「
五ケ折中波榊原文内所々在所ニ
下者数輩出郷
之座敬之山 ,五人錐欺中立岡,百行
五尾,門跡公事不可沙汰
之ヰ l,
合札明了」とあり,郷人の数が
問題になったこと
子細也 ,
がわかるが,F大乗院寺社雄ヰ・
記コ
て
なせり」とあ
る。
㏄ 9@
末代此旨不可余烈緒,防御" "知所也,
同年 5 月 2
日
にこの宇件に閃する記事があり,それは「久世雄
人数申」だとある。 「横行 舞」は久世雄のことだ
人夫役に従わない「河上声
囲 」の謎貢に関す
る箇所。「幽門跡寄人小座法師原名,根本志住所
両所也, 芝辻子郷士脚立円,少々一乗院御伽
l, ぬ ,
河上東大寺東商院殿御側
l。
且如何-云々,以外
就法師原 所役也,不可有在所志仏領,天
l-座式正ケ所不能左右之由御丁」
(41@ 「悲泣 自唱門戸上,鵬子方へ逆上物無沙汰条,
厳正町預御成敗
山致披露冊,地下知之
事」とある。
「天文作中出
l 引 N. 」は天理大学附風天理図
㈹ 2@
とわかる。
(2③
云,
往昔は元朝の
寅の時に,犬神人禁裏
日華円の外に
ィ Ⅱ
古館藏。 閲係箇所は「去地鳴川棚哨円於彦二郎家
博英宿ニテ今暁花囲,役家今日放火
/ 事」
関係箇所は「
半lⅢ百九 H;ll
ん @l
Ⅲ
(43@
/ 助三郎毛見事Ⅱ
@
川 ,未進百八文,反米一升
済テ五升ノメント」
」
(29@ これは大来院
領外に移り住んで
人夫役を拒否
(44@
頁 "4
年 (1687) 刊,天理大学附属天理
図吉
町名と入数は
,野田山上1
館蔵。 31 人の陰陽師の
l@@
@@力
力
貝塚・
1
鳩垣内,以五ケ所為根本,在々研ニ
居
人,陰陽町17 人,内侍原町4 人,百冊旭町2 人,
北小路町 1 人, 奥芝辻町3 人, 坂新屋町
Ⅲ 田 西山
とあ る。
2 人,南
1 人 となっている。
なお,小頭として
@
ミ子 tl} ヨ
リ
奈良・大利/ 人夫他志時モ, 於五ケ所者不召仕
之,
を
持っていたことを
予想させる。
(45)
238
ぺージ。
村井古道者。
享保2(W午 (1735) に完成。天理
大学附属天理国吉
館蔵"
(46)
「
北町の南側ニ -l,人陰陽師有,北出小頭姉人,
(3%
関係箇所は「T 三位友幸暦非人劃 ‥進之」
北側二七人有,いにしへより
陰陽師住するがゆ
へ
(35@
同じく「布施曲舞
来, 然耐寒風概述刑平臥武
かく町の名とす
,世の人唱門が辻子と
云,
唱門と
五八円にてとなふるとかきて
,人の@"J
に 立て
そ
呪文をとなへ
,兵家の祈祷をなす
人を哨円師と云,
(37@
『
経光弘要砂』には8 月
6
口
条に 十座法nlti
「
北陰陽師等ハ さにあらず,然れども
系図あしき 考
27
中
近世大和の被媛視民の歴史的諸相
の 様にいひ なす事,中北身上うすき
陰陽師八勝手
のためによしとて
梓神子と夫婦になり
,両人して
こことが関係しているかもしれない。
(55)
『斑鳩町定田紘史料
編 341
世を渡るわさをなしける
ゆ へに,皆人のめしきも
の、様ニ
%
も
ひ なしいひ なせり」といい
,陰陽町
の陰陽師の非声聞師説を
唱えている。
(47)
「
376
(57)
く
(48) 吉田「近世大和の
陰陽師と奈良
暦」げ陰陽道
@@"灘
‥壮",lり
3 近世所り R,
コ
(51
,
9 月に作成された「梓
ン
く
ー
架蔵マイクロフィルム
) によっている。
59) (注1 (20) 論文と同じ
(60@ 山村雅史「大和万歳に
関する研究ノート」
(県
号, 1996), 吉田「大和万歳祖神
考
」
(県立同和問
題関係史料センター 研究紀要Ⅰ第8 号, 2002)
197 め所収
肝
(61@ 「大和郡山離郷
鑑j (奈良県同和問題関係史料・
(.注l (48) と同じ
(52@ 『大和国無足人口言色
58) 主に文化2 年行 805)
立同和問題関係史料センター㌃
研究紀要0 第 3
1992)
(49), (50@ 「大和国若槻
庄史料 第 3 巻 (吉川腔
コニ 套官
伴林光平全集木
人
師之徒, 或梓神子,猿引,
塊規師,乞食,非人頭
凡海於南京之遊所也」とある。
一77 ぺージ。
女巫井陰陽万尋一件」(県立同和問題関係
史M. セ
当町適地而不有理工商常例町家,
多以陰陽
等居住之町屋而,
一56 ぺージ。
J (清友愛刊, 1988)
第六集,2000) の 式下部吐田村の項
(5の
近代日本文学大系本
(62)
天理大学
:W. 属国書館蔵 「万歳旧記」
⑮ 4)
山本家と同じ
藤堂藩無足人である田原郷此瀬
(6%
県立奈良図書館
蔵
(64)
ド注
の
吉田家が法隆寺中院の
寺元だったこと,その
縁
で山本手左衛門忠成の
弟覚勝が当時中院の
住職だ
28
Ⅰ㏄8) と同じ