WIJC160417復活の主と漁に出た弟子たち(Egl)

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2016 年4月 17日 聖書:ヨハネ
聖書:ヨハネ 21章 1-14節
14節 タイトル:復活の主と漁に出る弟子たち
タイトル:復活の主と漁に出る弟子たち
April 17, 2016 Scripture: John 21:121:1-14 Title: The Disciples who Went Out Fishing with
the Risen Lord
序 論 Introduction
●復活された後、
復活された後、イエス様は、どのような
後、イエス様は、どのようなお方として
イエス様は、どのようなお方として弟子たち
お方として弟子たちに現れた
弟子たちに現れたか、どのようなことを弟子たち
に現れたか、どのようなことを弟子たち
に教えられたかについて学び始めて、今日で3回目となる。
This will be the third
third time since I began teaching on how, after rising, Jesus appeared to the disciples and
what sort of things he taught the disciples.
●まず、先々週は、『エマオ途上の弟子たち』を通して、「
まず、先々週は、『エマオ途上の弟子たち』を通して、「復活されたイエス様」は、
復活されたイエス様」は、①
イエス様」は、①私たちが呼ぶ
前に来て下さるお方、呼ぶ前に
前に来て下さるお方、呼ぶ前に既にそこにいて
呼ぶ前に既にそこにいて私たち助けて
既にそこにいて私たち助けて下さるお方であり、
私たち助けて下さるお方であり、②
下さるお方であり、②私たちを、
私たちを、生涯、
生涯、
聖書を通して、十字架への愛とパッションのゆえに『燃やして
聖書を通して、十字架への愛とパッションのゆえに『燃やして』
燃やして』くださるお
くださるお方であることを学んだ
方であることを学んだ。
ことを学んだ。
First of all, the week before last, we learned through the disciples on the road to Emmaus
that the risen Jesus 1) is the One who comes to us before we call him, the One there
before we call him,
him, who rescues
rescues us, and that 2) he is the one who “enflames” us with
life through the Bible, through the love and passion that took him to the cross.
●先週は、『疑い深かったトマス』の問題を通して「
先週は、『疑い深かったトマス』の問題を通して「復活されたイエス様」
復活されたイエス様」は、次の3つのことを大切
は、次の3つのことを大切
なこととして弟子たちに教えられたことを学んだ
なこととして弟子たちに教えられたことを学んだ。第一は、
ことを学んだ。第一は、一人で生きるクリスチャンではなく、信
。第一は、一人で生きるクリスチャンではなく、信
仰の仲間と共に生きるクリスチャンであること、第二は、
仰の仲間と共に生きるクリスチャンであること、第二は、神様は決して私たち
第二は、神様は決して私たちを捨てることはない、
神様は決して私たちを捨てることはない、
むしろ、復活されたイエス
むしろ、復活されたイエス様は、
復活されたイエス様は、信仰の失敗者、信仰に懐疑的な人を
様は、信仰の失敗者、信仰に懐疑的な人を、わざわざ訪ねて声をかけて
信仰の失敗者、信仰に懐疑的な人を、わざわざ訪ねて声をかけて下
、わざわざ訪ねて声をかけて下
さるほど愛していることを忘れない
さるほど愛していることを忘れないこと、
ほど愛していることを忘れないこと、第三は、
こと、第三は、たといどんなに
第三は、たといどんなに理性的に
たといどんなに理性的に信じられないことでも、
理性的に信じられないことでも、
イエス様を人生の『
イエス様を人生の『主
人生の『主』として、見えるどんな
として、見えるどんなこと
どんなこと、もの
こと、ものよりも、主の言葉を信じること
、ものよりも、主の言葉を信じること、即ち
よりも、主の言葉を信じること、即ち見な
、即ち見な
いで信じることの大切さである。
いで信じることの大切さである。
Last week, looking at the issue of doubting Thomas, we learned that the risen Jesus taught as vital the
three following
following things. First was to be not a Christian living alone but a Christian who lives with
with his
companions,
companions, second was not to forget that God never casts us away, but that rather the risen Jesus
loves us enough to come particularly
particularly to speak to those who are failures
failures at faith, to those who are
skeptical about faith, and third was that no matter how impossible it might be rationally speaking
speaking,, to
believe, to know the importance of having Jesus as Lord of your life and believing in the word of God
above anything one
one sees, that is, believing without seeing.
●さて、今日のメッセージの背景を少し説明したい。
さて、今日のメッセージの背景を少し説明したい。イエス様の復活後、弟子たちは、当初
を少し説明したい。イエス様の復活後、弟子たちは、当初エルサレム
イエス様の復活後、弟子たちは、当初エルサレム
付近にいたが、1
付近にいたが、1 週間ほどして、多くの弟子たちの出身地であり、イエス様と多くのときを過ごした
週間ほどして、多くの弟子たちの出身地であり、イエス様と多くのときを過ごした
彼らの活動の本拠地であった
彼らの活動の本拠地であったガリラヤ湖
活動の本拠地であったガリラヤ湖(
ガリラヤ湖(ここではテベリヤの湖と呼ばれている
ここではテベリヤの湖と呼ばれている)
テベリヤの湖と呼ばれている)付近に移動した。
Now I want to give some background for today’s
today’s message. After Jesus’ resurrection,
resurrection,
the disciples initially were in the area around Jerusalem, but after about a week, they
moved to the area around the See of Galilee (called the lake of Tiberias here), which was
activities,
ities, where they
home ground for many of the disciples, and the main area of their activ
had spent much time with Jesus.
●そこで、彼らは、イエス様が再び現れ、これからのことを説明し、導いてくださること、相談できる
こで、彼らは、イエス様が再び現れ、これからのことを説明し、導いてくださること、相談できる
ことを期待していたのであろう。
One can assume that they expected Jesus to appear again, that he would explain what would happen
from here on, that he would lead them, that they could consult with him.
●彼らは、
彼らは、いつもイエス様が見える、触れる形でそばにいてくださった今までとは
でそばにいてくださった今までとは違って、新たに甦ら
れたイエス様とこれからどのように生きて行くのか、分からない事、また不安が一杯であった。
Up to that point, Jesus was always next to them in a form they could see and touch, but now with the
newly risen Christ, there were many things they could not understand, and a good deal of unease as to
how to live with Him.
●そんな矢先、食糧が無くなって来たのに気が付いたペテロが、『漁に行くぞ』とそばにいた 6 人ほど
の仲間に声をかけ、漁に出かけた。しかし、その晩は、一匹も獲れなかった。そこに一人の男が現れ、
2
その人の言う通りにしたら、大漁を経験し、その人がイエス様だと分かった。陸に上がると、既にイ
エス様は、朝食を準備して待っておられたという出来事である。
Just at that point, Peter, who noticed that they were all running short on food, said to 6 or so of his
companions that “I’m going fishing,” and they went out to do so. However, that night they were not
able to catch a single fish. It was then that a man appeared, and when they did as he told them,
them, they
had a massive catch, and realized that the man was Jesus. When they got on land, he was waiting for
them and making breakfast – that is the sequence of events.
●イエス様は、ここでも、弟子たちが期待していた通りに、これからの弟子たちの歩みのために、大切
なオブジェクトレッスンをなさったのである。
Here again, Jesus gives a vital object lesson, as the disciples were expecting from him, something for the
the
future walk of these disciples.
本 論 Main Subject
Ⅰ.第一に、ここで、復活されたイエス様は、弟子たちに、イエス様は私たちの『人間としての必要』を満たしてくだ
さるお方であることを体験実習させられた。
Here first of all, the risen Jesus let the disciples learn by experience that Jesus is the One whe fills our
needs as people.
A.これは、弟子たちにとっては、まさに『生活が懸かった』重要な問題であった。
For the disciples, this was truly a vital issue on which their lives depended.
1. これまでは、イエス様が見える形でいつもそばにいて
でいつもそばにいて食べ物を提供してくさった。
してくさった。
Up to this point, Jesus was always there visibly beside them providing them
with food.
2. あるいは、イエス様がそばにいれば、人々が食べ物を運んできてくださった。
Or, with Jesus beside them, other people brought food.
3. でも、これからは
でも、これからは、今までとは、
らは、今までとは、違うことを弟子たちは
うことを弟子たちは感じていた。
But the disciples sensed something different was coming now.
4. イエス様は、弟子たちに、ここで、形は違っても、これまでと同じように、生活の必要は
神様の御手によって満たされることを教えなければならなかった。
たされることを教えなければならなかった。
Jesus had to teach his disciples that even if his form had changed
changed, just as
before the necessities of life would be filled by the hand of God.
A.この点を進める前に、このことに関連して、一つ指摘しておきたいことがある。それは、キリスト教の歴史の
中で、クリスチャンのあるべき姿に関して、聖書的でない間違った概念が生まれてしまったことである。
Before preceding with this point, there is something I wish to point out related to this. That is that in
the history of Christianity, a mistaken, unbiblical idea has arisen related to what a Christian should
be iike.
1. その誤った概念とは、精神的、霊的なことは
的なことは『聖なる世界』であるが
』であるが、
るが、物質的なこと、
肉体的なことは『
なことは『俗世界』と呼ばれ、罪と悪の温床とも言える
とも言える世界で、霊的世界より劣
2.
っている。と言うものである。
re part of the world of
That mistaken idea is that things of the soul or spirit aare
holiness, but that material
material or physical
physical things are called the secular world, a
world which can be called the hotbed of sin and evil, inferior to the spiritual
world.
だから、『聖人』のイメージは、『
だから、『聖人』のイメージは、『あれが食べたい、
たい、これが食べたい』
たい』とか、舌鼓を打
って、目の前の
って、目の前の色々な食べ物
食べ物を夢中で食べる、グルメ好みの人よりも、食べることに極
めて淡白な人のイメージ
な人のイメージが
のイメージが浮んで来る。
んで来る。
Therefore, when envisioning the image of a saint, one envisions not someone
who enjoys gourmet food, who would smack their lips saying “I’d like to eat
this, I’d like to eat that,” all caught up in eating various foods brought
brought
before them, but someone who is quite disinterested in eating.
3
3.
4.
5.
或いは、お金のこともそうである。私が
のこともそうである。私がコミュニティーセンターのためのクラスの参加
費を皆の前で受け取ったり、計算したりしている姿を見て、『牧師が、皆の前でそんな
ことをしない方が
ことをしない方が良い』『もっと、私は、
い』『もっと、私は、「
『もっと、私は、「お金とは関係ない」
ない」と言うような
と言うような「
ような「泰然か
つ清らかな」イメージを
らかな」イメージを示した方が良い』と言うようなご意見も頂いた。ここにも物の
世界の代表とも言えるお
とも言えるお金のような俗的なこと
的なことは、
ことは、牧師が関わることではない、
わることではない、と言う
雰囲気がある。
You could say the same about money. When certain people have seen
seen me
receiving or calculating the fees for classes at the community center in front
of everybody,
everybody, they have said “it’s better that the pastor not do such things
in front of everyone”
everyone” or “you
“you should present an unmoved, pure image
regarding money, that you have no relation with it.” The impression here is
that a pastor would not be involved in secular things, in money which
which is the
most representative of things of this earth.
肉体的なこととして、もう一つ
的なこととして、もう一つ『性的』な問題においても
、もう一つ『性的』な問題においても同じである。『性の乱用』、
即ち、「結婚関係以外の性的関係は罪だ」と聖書は明確に告げる。しかし、この誤った
キリスト教の考え方からすると、結婚さえも、結婚における性的関係さえも、所詮は肉
体という霊より低俗な世界の快楽だから、できれば
だから、できれば本当は
できれば本当は避ける方が良い。その方が、
より高い信仰生活の在り方であると言わんばかりに、司祭、牧師は、結婚をしないとい
をしないとい
う考え方である。
Among physical things, you can say the same sort of thing of sexual issues.
The Bible speaks clearly of the misuse of sex, that “sexual relations outside
of marriage are sin.” However, in the mistaken view of Christianity, even
marriage, even sexual relations inside
inside marriage are in the end pleasure which
is physical and thus more vulgar than the spiritual, so you should actually
avoid them if you can. This is the approach where priests or pastors do not
marry, as if to say that that is the higher form of the life of faith.
faith.
これらは、皆間違っている。聖書的ではない。物の世界は、罪と悪、欲望の世界であり、
霊の世界は、より高尚な聖い世界と言う考え方、その二つの
え方、その二つの世界はいつも相い
はいつも相い対立して
いると言う考えは、二元論的なギリシャ文化にあった異教的なものである。
This is all mistaken. It is not biblical. The thinking that the world of things is
the world of sin and evil and of desire, while the world of the spirit is a more
elevated, holy world, the thinking that these two worlds are always in conflict
is a pagan approach from dualistic Greek culture.
B.むしろ、聖書は、物は、良いものであり、見えない神の栄光を、見える形で顕すために、神様が私たち人間
に下さった賜物である。言うまでもなく、人間の肉体はその一部である。その証拠を見ると・・・
Rather, the Bible says that things are good, a gift given by God to man to show the unseen glory of
God in a visible form. It goes without saying that human bodies are part of this. As evidence of this:
1. そもそも、創世記1章が明らかにしていることは、
What is made clear in the very beginning
beginning of Genesis 1 is that
(1) この世界のすべての物、その一部である人間の肉体も含めて、すべては、神様が創造さ
れた物であること
All the things in the world, including
including human bodies among them,
them, are created
by God.
(2) しかも、神様はそれらを『でも失敗だった、できそこないだった』ではなく、『よしと
された・見られた』『非常に良かった』(
かった』(4, 10, 12, 18, 21, 25, 31)と言われた。
Furthermore,
Furthermore, God did not say “but it was a mistake, I botched
botched it”; no, He
saw it was good, or very good.
4
(3) 即ち、神様は、物の世界を肯定しておられるのである。それは、神の作品であり、物の
創造は神様のご計画である。
That is, God has affirmed the world of things. It is God’s
God’s masterpiece, and
this world of things is the very
very plan of God.
2. イエス様も言われた。
Jesus also spoke on this.
(1)『人はパンだけで生きる者ではない。神の
(1)『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉による』(
から出る一つ一つの言葉による』(マタイ4
章4節)と。ここでイエス様は人には神の言葉である『聖書』さえあれば、『
。ここでイエス様は人には神の言葉である『聖書』さえあれば、『パン
は人には神の言葉である『聖書』さえあれば、『パン』はい
パン』はい
らないと言われたのではない
らないと言われたのではない。『パンだけでは
はない。『パンだけではダメだ』と言われたのである。即ち、人
メだ』と言われたのである。即ち、人
間には、パンも聖書も
間には、パンも聖書も必要だと言われ、物質的必要を肯定されたのである。
されたのである。
“Man does not live by bread alone, but by every
every word from the mouth of God”
(Matthew 4:4). Jesus did not say here that if only you have the Bible, the
word of God, then you don’t need bread. He said that bread alone is no
good. That is, he said that both bread and Bible are necessary, and thus
affirmed
affirmed material needs.
(2)もう一つ、マタイ
2)もう一つ、マタイ6章32節で『しかし、あなたがたの天の父は、それが
は、それが(衣食住)みな、
あなたがたに必要であることを知っておられる』と言われた。ここにも、私たち人間の
物質的、肉体的必要を神様が認めておられることが記されている。
Again, in Matthew 6:32 he said “however, your heavenly father knows that
you need all these things [food, clothing and shelter].” Here again, it is
written that God acknowledges the material and physical needs of us
humans.
3. パウロも、『あなたがたのからだは、・・・神から受けた聖霊の宮であり』(
であり』(Ⅰコリント
6章19節)と言って、私たちの
言って、私たちの肉体を大切にするようにと、積極的、肯定的に表現して
いる。
Paul also says “your bodies are a temple of the Holy Ghost,
Ghost, received from
God” (I Cor 6:19), thus expressing positively and affirmatively that we should
treasure our bodies.
4. これらから言えることは、聖書は物・肉体
物・肉体の世界と霊の世界はどちらかが善で、他方が
悪であるというような相
であるというような相対立・
対立・敵対し、並列する関係ではないことを教えていることで
ではないことを教えていることで
ある。
ある。
What we can say from this is that the Bible teaches that it is not true that
there is a conflict
conflict between the material or physical world and the world of the
spirit such that one is good and one is evil, that these worlds are parallel and
separate from each other.
5. むしろ、直列的に、神の見えない霊的な栄光と祝福を見える形で顕すために、物と肉体
の世界があること
があること、これが聖書のメッセージである。
こと、これが聖書のメッセージである。
Rather, the message of
of the Bible is that the material and physical world is in
line with the spiritual, expressing
pressing in visible form the invisible spiritual glory and
blessings of God.
6. だから、私たちは、人間として物質的な物、肉体に関するものを求めることに、少しも
後めたさを感じるべきでない。むしろ、大切なことは、このことを通して、霊的に神様
の栄光が顕されるようにと積極的に祈るべきである。
Therefore, we as people should not feel any bad conscience over seeking
material things or things of the body. Rather, what is vital is to pray actively
that God’s glory can be shown through this in a spiritual way.
5
7. イエス様の例:ヨハネ 2 章 1-11 節で、水を最高級のぶどう酒に変えられたイエス様。
また、マタイ 11 章 18-19 節での人々のイエス様評から見て、イエス様は、禁欲的で
あるというより、もっと
あるというより、もっと自由に飲み食いしておられたことが
いしておられたことが分かる。
In the case of Jesus: In John 2:12:1-11, Jesus changed water into the top class
of wine. Also, looking at how people considered Jesus in Matthew 11:18-19,
one can see that Jesus was not so ascetic, but was quite free in his eating
and drinking.
C.さて、キリスト教信仰における『物・肉体』の積極的、肯定的位置・役割・大切さが分かったところで、それが、
どのように満たされるべきかを弟子たちに実地訓練として教えられたイエス様について学びたい。
Now that we have understood the positive and affirmative role given to things and to the body in
Christian faith, let us learn about how Jesus taught the disciples through practical means how to
fill such needs.
1. まずここで
まずここで聖書が
聖書が教えていることは、
聖書が教えていることは、私たち
教えていることは、私たち人間の
私たち人間の肉体的、物質的必要が満たされるた
めには
めには、人間の側でもするべきことがあること
きことがあることである
ことである。
である。
First of all, what the Bible teaches is that in order for the physical
physical and
material needs of us humans to be filled, there are things for us to do on the
human side.
side.
(1) 聖書は、神様を信じていれば、祈っていれば、天から食べ物が、お金が降ってくるとは
言っていない。
The Bible does not say that if you believe in God and pray,
pray, food and money
will come raining
raining down from heaven.
(2) 私たちも、動かなければならない、働かなければならないのである。パウロは言う。
『・・・』(Ⅰテサロニケ4章 11 節)、『・・・』Ⅱテサロニケ 3 章 10-
10-11 節)
We too need to move and work. Paul says “Make it your ambition… to work
with your hands, just as we told you,” (I Thess 4:11) and “we gave you this
rule: ‘If a man will not work, he shall not eat.’… “ (II Thess 3:10:10-11)
(3) だからペテロは『私は漁に行く』(
く』(3 節)と言ったのである。彼も
と言ったのである。彼も働こうとしたのである。
This is why Peter said “I’m going fishing” (v. 3). He was going to work as
well.
●どのような仕事をするのか? 皆それぞれ違う。しかし、ペテロの場合、「漁」をす
ることであったように、
ることであったように、多くの
ように、多くの場合:
What work should you do? That’s different
different for each person. However, as in Peter’s case it
was to fish, in many cases God leads you to
① 自分の昔、していたこと、即ち、節理的に
していたこと、即ち、節理的に経験したことのあるもの、或いは、
1) What you did in the past, that is, what providentially you have experience
doing, or
②自分の得意とする分野、持って生まれた賜物に合ったものへと神様は導かれる。
ったものへと神様は導かれる。
2) the areas you are skillful at, or those things which go along with the gifts
with which you were born
born.
orn.
●勿論、あのときそこにいた 7 人のうち、少なくとも、ヤコブとヨハネは、漁師であっ
たことが分かっているが、漁は得意でない人物も入っていたかもしれない。
Of course we know that of the 7 who were there, at least James and John were
were fishermen,
but there may have been some who were not good at fishing.
●人生には,そう言うときもある。共にいる友人のゆえに(
人のゆえに(ここでは、ペテロのゆえに)
のゆえに)暫
時的とは言え、今までしたことのない仕事につくこともある。
There are times like this in life. There are times when you take on a job you have never
done before for a short time because of a friend with you (in
(in this case, because of
Peter).
Peter).
6
●いずれにせよ、物質的・肉体的必要が満たされるために私たちの
たされるために私たちのするべきことがある。
きことがある。
In any case, there are things we should do in order to fill our material and physical needs.
2. しかし、それは
しかし、それは真理の一
理の一面であって、他のもう一面がある。それは神様の
がある。それは神様の側でなさるこ
とである。
とである。即ち私たちの
ある。即ち私たちの物質的・肉体的必要が満たされるために神様の
たされるために神様の働きが必要なの
である。
However, this is only one side of the truth. There is another side, which is
what God will do on his side.
side. That is to say, in order for our material and
physical needs to be met, the work of God is necessary.
(1) 私たち人間の陥りやすい過ちは、今学んだ、
い過ちは、今学んだ、肉体的。物質的必要が満たされるためには、
私たちが働かなければならないと言う面に捕らわれてしまい、それが
らわれてしまい、それが真理の半分である
ことを忘れ、
ことを忘れ、無視する(頭や口では認めても、事実上の無視である)
である)ことである。
The error which we people are apt to fall into is to get caught up in this
aspect we have just learned -- that we must work for our physical and
material needs
needs to be filled forg—that we forget
forget and ignore (even if we
acknowledge itit in our head or in what we say,
say, we in reality ignore it) that this
is only half of the truth.
(2) 残念なことは、その
なことは、その誤りに陥っている人たちの姿、また心の中は、ノン・クリスチャン
のそれと同じである。
Unfortunately, people who have fallen
fallen into this error, and the content of
their hearts,
hearts, are just the same in the image they present as nonnon-Christians.
●即ち、自分が働かなければ誰が働く、お金は天から降って来ないと心中で思っている。
That is, that they believe in their hearts that if they do not work, who will, that money will
not come
come raining down from heaven.
●言い換えるなら、神様、神様と言っても、結局は自分がやらなきゃと、自分が全部背
負っているのである。即ち
っているのである。即ち満たしてくださる神が、ほとんど意識、体験されていない。
Putting it an other way, even though they say “God, oh God,”
God,” they take everything upon
themselves, saying in the end, you’ve
you’ve got to do it yourself. That
That is, they hardly know or
experience the God who fills us.
●そのような生き方は、いつか、挫折する。疲れ果ててしまう。
This way of living will collapse at some point. You will get completely tired.
(3) それが、あの日
それが、あの日ペテロたちが経験したことであった。それ
したことであった。それは、
であった。それは、自分が、人間的にどんな
に一生懸命やっても、どうにもならないことがあると言う
やっても、どうにもならないことがあると言う事実であった。
That is what Peter and his friends experienced that day, the fact that when
you do all that is humanly possible, there are times when things just don’t
turn out right.
●ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、彼らはベテランの漁
、ヨハネ、彼らはベテランの漁師であった。新米ではなかった。
Peter, James and John – they were veteran fishermen. They were not beginners.
●彼らの幼い時から慣れ親しんだ、漁
しんだ、漁師としても『
としても『勝手知ったる』ガリラヤ湖であった。
ったる』ガリラヤ湖であった。
They were at the Sea of Galilee which they knew from their youth, where they knew all
the ins and outs as fishermen.
●しかも、その彼らが強力して、夜から明け方と言う時間的にも漁には絶好の時に、一
晩中、漁をし続けた。にもかかわらず、一匹も取れなかったと言うのである。
What’s
What’s more,
more, they worked together, fishing throughout the night, which was the very
best time for fish
fishing, from night to the dawn. Even so, we are told, they didn’t catch a
single fish.
●この経験は、人間の力と努力が果たすことのできることの限界を彼らに教えた。
This experience taught them the limits of
of what human efforts could achieve.
7
(4) そこに、復活のイエス様が現れたのである
そこに、復活のイエス様が現れたのである。
現れたのである。そのイエス様の出現こそが、弟子たちの人
そのイエス様の出現こそが、弟子たちの人
間としての肉体的、物質的必要を満たす道を開いたのである。
It was in that circumstance that the risen Jesus appeared. This appearance
of Jesus opened the way for the disciples to have their human physical and
material needs filled.
(5) 彼らが経験したことは、イエス様の言う通りにしたら、大漁の収穫があったことであっ
た。即ち、彼らは、この大漁が、
た。即ち、彼らは、この大漁が、自分たちの力によるものではない。神の力、神様がさ
れたことであることを学んだのである。
What they experienced was that when they did as Jesus said, there was a
great catch of fish. That is, this great catch was not from their efforts. They
learned that it was from God’s power, what God did.
(6) 即ち、必要が満たされるために、私たちは働かなければならない。しかし、その人間の
労働・苦労
働・苦労は、神様がいるときにだけ確実に実を結ぶのである。そうでなければ、一生
ぶのである。そうでなければ、一生
懸命に働いても、様々な事情・状況でその結実はあてにならない。皆無かもしれない。
In other words, for our needs to be filled, we must work. However, the work
and painstaking efforts of a man only truly bear fruit when God is there. If
not,
not, even if you work your hardest, due to various circumstances
circumstances you cannot
rely on a payoff. You may get nothing.
(7) 詩篇 127 篇の作者は、ハッキリとこのことを言っている(
リとこのことを言っている(同 1-2 節)。
The writer of Psalm 127 speaks clearly of this (vv. 11-2)
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは空しい。
あなたがたが、早く起きるのも、遅く休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは空しい。
Unless the Lord builds the house, its builders labor in vain.
Unless the Lord watches over the city, the watchmen stand guard in vain.
In vain you rise early and stay up late, toiling for food to eat
(8) 即ち、建築家、その元で働く労働者たち、また、城を守る見張り人の早朝から夜遅くま
で、時には夜を徹しての労力・
労力・努力も、もし神様がその背後にいて、働いてくださるの
でなければ、結局は空しいものに終わってしまう。と言うのである。
That is, for all the work and labor of the builders, the
the laborers who work
under them, and the watchmen on the fortress who are there from early
morning to late at night and sometimes through the night, if God is not
behind them and working with them, all will end in vain.
3. イエス様は、ここでもう一つのレッスンを弟子たちに与えられた。それは、その神様の
力を引き出す、即ち、神様の力を経験す
経験する道を教えられた。
Jesus gave one more lesson to the disciples here. That is, He taught them the
way to draw forth the power of God, that is, the way to experience the power
of God.
(1) 第一は、自分の無力を神様の前に正直に認め、それを告白することである。
First is to honestly acknowledge one’s lack of strength before God and confess
it.
●そのことが、ヨハネ
そのことが、ヨハネ 21 章 5 節に記されている:
されている:(イエス様)
イエス様)『子どもたちよ、食べる
ものがありませんね』(
んね』(弟子たち)
弟子たち)『はい、ありません』。
ん』。
This is shown in John 21:5: (Jesus) “Children, do you have anything to eat?” (Disciples)
“No, we do not.”
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●これは、ベテランの漁師としては、プライドを傷つける言葉と事実であり、中々認め
たくない、そしてと
たくない、そしてとても
そしてとても簡単には言えない言葉であった。
には言えない言葉であった。(
言えない言葉であった。(素人でも魚釣りに行って何
も釣れなかったと言えなくて、途中の魚屋で買ってごまかす人もいるくらいである)
人もいるくらいである)
These would be words and facts which would wound the pride of veteran fishermen,
something they really wouldn’t
wouldn’t want to acknowledge., and not words they could easily
say (even among amateurs
amateurs you have those who go out fishing who are unable to say
they caught nothing,
nothing, who try to cover it up by buying something at the fishmarket on
the way home).
home).
●しかし、もし復活された主による新しい力を経験しようとするなら、自分の無力さを
ハッキリと神様の前に認め、『私の力ではできません』と告白することである。
However, if you’re
you’re trying to experience new power from the risen Lord, you clearly
acknowledge your lack of ability before
before God, and confess “I can’t do it in my own
power.”
●なぜ、私たちは神様の力を経験できないか? それは、口では神様の助けが必要だと
言っても、心の奥底では、自分の力でできると思っているからである。
Why don’t
don’t we experience the power of God? It’s because even though we say with our
mouths that we need the help of God, in the depth of our hearts we believe we can do
it in our own power.
●しかし、本当に神様の力を経験して生きてきた証人は言う。
—パウロは言う:
は言う:Ⅱコリント 12 章 『私は弱い時にこそ、強い。神の力は私たちの
弱さに顕される』と。
-- Paul says, in II Corinthians 12 “When I am weak, then I am strong.
God’s power shows up in our weakness.
—ジム・シンバラ(ブルックリン・タバナクル教会の牧師:つぶれそうで、閉鎖寸前だ
った同教会を、麻薬常用
麻薬常用者、売春婦たちの人生が次々と変わる教会、数千人の人々
が集まる教会に変えた)
えた)は言う:『神は、弱さを認める人に不思議
不思議なように引き付
けられるお方』
--Jim
--Jim Cymbala (the pastor of Brooklyn Tabernacle church, who took a
However, those witnesses who have lived truly experiencing
experiencing the power
power of God say this:
church on the point of closing and changed it ito a church where the
lives of drug addicts and prostitutes are changed one after another, a
church
church where thousands come together) says “God is the One who
draws together in an amazing way those people who acknowledge their
weakness.”
(2)もう一つは、
(2)もう一つは、イエス様の言われた通りにすること、即ちイエス様と聖書への服従である。
Another element is doing just as Jesus said, that is, submission to Jesus and
and to
the Bible.
●彼らが大漁を経験したのは岸辺に立っていた人物の言葉の通りに従ったからであった。
The reason these men experienced the great catch was because they
followed the words of the man who was standing on the beach.
●勿論、最初彼らは、その人物がイエス様であることを意識していなかった。しかし、
その通りにしたとき、彼らは、『イエス様の言う通りにする』ことが祝福の道である
ことを体験的に学んだのである。
Of course, in the beginning they were not aware that that person was Jesus. However,
when they did as he sayed, they learned by experience that to follow the words of Jesus
was the path to blessing.
●大漁を経験する前、彼らにとって、イエス様の言われたとおりにすることは、
ることは、
Before experiencing the great catch,
catch, for them to do as Jesus said was
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4.
① 漁師の常識と経験から言って、無駄なこと、間違いであることは明らかであった。
1) In terms of their common sense and experience as fishermen, clearly
unnecessary and a mistake.
②自分たちの能力と努力を馬鹿にする、プライドを傷つけるものであった。
つけるものであった。
2) something that
that would make a mockery
mockery of their skills and work and
wound their pride.
●しかし、彼らは、それらの
しかし、彼らは、それらの不服従への理由・言い訳を乗り越えて、イエス様の言われ
えて、イエス様の言われ
た通りにしたのである。そして、
通りにしたのである。そして、そのとき、
そして、そのとき、祝福を経験したのである。
However, they got past their reasons to disobey and did as Jesus said. And
then they experienced the blessing.
このポイント、即ち『
イント、即ち『復活されたイエス様は、弟子たちの人間としての肉体的、物質的
必要を必ずケアーし、満たしてくださる』という
たしてくださる』というポイントを締め括るに当たり、もう一
るに当たり、もう一
つ興味深いレッスンを短く付け加えて、今日のメッセージを
えて、今日のメッセージを閉じたい。
たい。
In winding up this point,
point, that the risen Jesus will surely care for and fill the
physical and material needs of his disciples as people, I want to add one more
short, profoundly interesting lesson and close today’s message.
Ⅱ.それは、『使命に生き、使命を果すクリスチャン』と『一人のクリスチャンとして普通に生きるクリスチャン』とは、
同じであると言うメッセージである。
It is the message that the Christian who lives out and fulfills his mission, and the Christian who lives
normally as a Christian are one and the same thing.
A,そもそも、弟子たちの使命は何であったか?
What was the disciple’s mission in the first place?
1. イエス様は、
イエス様は、かつて、
かつて、その多くが漁
かつて、その多くが漁師であった弟子たちに言われた。『あなたがたを、
魚ではなく、人間を獲る漁師にします』(マタイ 4 章 19 節、ルカ 5 章 10 節)と。
Jesus said before to his disciples, many of whom were
were fishermen, that he
would make them fishers, not of fish, but of men. (Matthew 4:19, Luke 5:10)
2. 勿論、『人間を獲る』とは
る』とは言うまでもなく、比ゆ的な表現である。
Of course, it goes without saying that “fishers of men” is a metaphoric
expression.
(1) 即ち、弟子たちの使命とは、人々を
とは、人々をキリストに捕らえる『伝道』である。
That is, the mission of disciples is evangelism, catching people for Christ.
(2) 人々にキリストのことを伝え。キリストの弟子となるように導き、捕らえることである。
It is telling people about Christ, and leading and bringing them in to be
disciples of Christ.
3. そして、これは取りも直さず、私たちの使命でもある。信
でもある。信徒、牧師にかかわらず、私た
にかかわらず、私た
ちはみな、『御子が私たちに永遠の命を与えるために、
えるために、死んで甦られた』
られた』という GOOD
NEWS をすべての人に伝える使命がある。
And this in itself is our mission as well. No matter whether a lay person or
pastor, we each have the mission to tell everyone the Good News that the
Son died and rose again to give us eternal life.
B.今日学んだ、弟子たちの経験で、興味深いことは、
What is interesting in terms of the experience of the disciples of which we learned today is that
1. 弟子たちは、あの日、その日食べる物、言い換えるなら、『日
えるなら、『日用の糧』『毎日の必要』
を求めて漁に行ったのである
ったのである。
のである。それなら
それなら 10-
10-20 匹の魚の収獲で十分であったであろう。
On that day, the disciples went to fish for their food for that day; putting it
another way, they were seeking their daily bread, their daily necessities. If that
were the case, a catch of 10 to 20 fish would probably have been sufficient.
10
2.
しかし、実際には、それを遥かに超えた、奇跡的な大漁を神様は彼らに
的な大漁を神様は彼らに与えられた。
えられた。
『153 匹』の、
』の、しかも一
しかも一匹一匹が『大きな魚』で、網を引き揚げられないほどであった。
られないほどであった。
However, in actuality, God gave them a miraculous great catch that went far
above this. There were 153 fish, and what’s more they were large fish,
fish, so
that they could not pull up the nets.
3. 更に面白いことは、弟子たちが
いことは、弟子たちが陸に上がって来た時に発見したことは、イエス様は、そ
見したことは、イエス様は、そ
の一部を数匹は食べるために持ってきなさいとは言
ってきなさいとは言われたが、
とは言われたが、基本的には、それらの
153 匹とは別に、初めから
に、初めから弟子たち
初めから弟子たちの
弟子たちの朝食用に炭火で焼いた魚とパンを準備しておられ
たのである。
のである。
What else is interesting is that what the disciples found when they got back
on land was that Jesus did say to them to bring some of the fish to eat, but
basically, He prepared from the start
start some
some fish and bread over coals for
breakfast for the disciples, separate from the 153 fish.
4. ここで、この出来事全体を比ゆ的に味わうと、私たちは次のことを学ぶことができる
わうと、私たちは次のことを学ぶことができる:
は次のことを学ぶことができる:。
When we take in this whole event metaphorically, we can learn the following
things:
things:
(1)1
(1)153 匹の大漁は、弟子
の大漁は、弟子たちの
弟子たちの、
たちの、日用の糧、日用の必要の為に与えられるものを
えられるものを表徴して
いるのではない。
いるのではない。
1) The great catch of 153 fish was not a sign signifying their daily bread,
something given for their daily necessities.
●自分たちの必要の為だけなら、そんなにいらない。せいぜい数十匹で十分である。
If it was only for their necessities, they wouldn’t
wouldn’t need so much. A few dozen would have
have
been sufficient.
●第一彼らの必要のためには、イエス様は、ちゃんと別に炭火の上に備えておられた。
In the first place, Jesus had already prepared separately on the coals what was necessary
for them.
them.
(2)ゆえに
(2)ゆえに 153 匹の大漁は、むしろ、『
大漁は、むしろ、『人間を獲る漁師』としての弟子たちに与えられた
伝道の実、伝道の結果を表徴している。しかし、ある人は言うであろう。
している。しかし、ある人は言うであろう。
Thus, the great catch
catch of 153 fish rather signifies the fruit of evangelism, the
results from evangelism that were given to the disciples.
disciples. However, someone
will probably say this:
(3)『彼らは伝道していた
していた訳ではない。単に生活の
に生活の必要のために漁をしていただけだ』
のために漁をしていただけだ』と。
“They were not evangelizing. They were only fishing
fishing for their needs.”
●そこがポイントである。自分の必要のため、自分のするべき普通の仕事をして生きて
いる、その生きざま
いる、その生きざま自体を通して、私たちは伝道できるのである。生活伝道である。
But that’s
that’s the point. When one lives toward one’s necessities, when one is doing the
normal job they’re supposed to, then through
through that very way of life, they
they can evangelize.
It’s lifestyle evangelism.
●そして、自分の人間としての必要を満たすために働く、生活のど真ん中で、私たちが
神の前に忠実に誠実に、そして、神様を信頼し、服従して生きるなら、キリストと共
に生きることの証人として、それ自体が伝道となり、使命の遂行になるのである。
And in the
the very middle of our lives when we work to fill our needs as people, if we trust in
and live obediently to God, faithfully and sincerely before God, all of this will be our
evangelism as witnesses
witnesses living together with Christ; it’s
it’s the fulfilling of our mission.
●その結果、153 匹にも匹敵する数の、教会に来る人、信仰に入る人が起こるのであ
る。
As a result, you will have people coming
coming to church and joining the faith, which will rank
with those 153 fish.
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●また、使命に忠実に生きるなら、日用の糧も必ずイエス様によって、あの炭火の上の
パンと魚のように与えられるのである。
Also, if you live faithfully toward
toward this mission, your daily needs will surely be provided by
Jesus just like that bread and fish
fish on the coals.
●これが、『クリスチャンが一人の人間として神の前に普通の人生を生きることと、キ
リストの証人として伝道の使命を果たして、多くの人々をキリストの元に導く人生と
は同じである』と言う意味である。
This means that a Christian living a normal life before God as a human being, and a life as
a witness to Christ where you fulfill the mission of evangelism and bring many people
to Christ,
Christ, are the same thing.
結
論 Conclusion
●私たちクリスチャン
私たちクリスチャンすべての使命は、この弟子たちと同様に、『人間を獲る漁師となる』こと、人々
となる』こと、人々
に『伝道』することである。
The mission of all of us Christians, just like these disciples, is to become fishers of men, to
evangelize people.
●しかし、それは、決して、
しかし、それは、決して、専門の伝道者、牧師、宣教師になることを意味しない。
However, this does not by any means mean becoming a professional evangelist, pastor or missionary.
●むしろ、生活
むしろ、生活伝道である。人間としての生活の必要のために自分のするべき仕事を忠実に、また懸命
にする中で、決して自分の力に依り頼まない。むしろ、
まない。むしろ、自分の無力さを神様の前に謙虚に認め、復活
め、復活
された主
された主の力を信じて生きる生き様を
信じて生きる生き様を示すことが伝道である。
である。
Rather this is lifestyle evangelism. As you do your work toward the needs of human life faithfully and fullfullheartedly, you by no means rely only on your own power. Rather, you humbly acknowledge before God
your powerlessness, and show
show the life that comes
comes by believing
believing in the power of the risen Lord – that is
evangelism.
●なぜなら、そこに私たちは、今も生きておられる復活されたイエス様を体験し、また証人として指さ
すことができるからである。
I can say this because it is there that we experience the risen Jesus who is even now alive, and point to
him as witnesses.
●あの朝、弟子たちは、そこに復活の主がいたのに、中々それがイエス様であることに気が付かなった。
私たちも生活の中にいつの間にか現れているイエス様を見逃すことが、また、
ことが、また、その声を
また、その声を聞き逃すこと
がないようにしたい。イエス様を
がないようにしたい。イエス様を生活の
イエス様を生活の中で、認め、信じ、従がって、多くの伝道の実を生活の中で
結びたい。
On that morning, even though
though the risen Lord was there, the disciples had a hard time recognizing him as
Jesus. We want
want to be sure not to miss seeing Jesus showing up at some point in
in our lives, that we not
miss his voice. We want acknowledge and believe in Jesus in the midst of our lives and bear lots of
evangelistic fruit.