巻頭言 「ストレスチェック制度」 について思う事 大阪府医師会理事 益田 元子 一昨年6月末に就任以来、産業保健担当理事として、産 業保健三事業一元化、そして改正安衛法、とりわけ新たに 創設されたストレスチェック制度への対応に追われまし た。一次予防を建前としつつも、いずれも近年、軽微なが ら減少に転じたとは言え、高止まりする自殺者数、そし て、それを氷山の一角とする予備軍としての精神的不調者 の急増に対する危機感があり、その打開策が緊喫の課題で あることは間違いありません。私の嘱託先企業の総務部長 室の書棚には、F3の章に付箋が貼られ、下線の引かれた 「DSM分類」や「ICD-10」に関する書籍が並んでいる程 です。 しかし、ストレスチェック制度の運用開始にあたって、 それぞれの企業や事業所において、効率良く実施するため の「マトリックス」 や「フレームワーク」 を、 産業医が 「無批判に受け容れてよいものか?」といった「悩み」を 抱き続けるべきというのが、ここ最近の私が思うことです。 確かに、不調を呈するのは、目の前の「個人」ですが、 雇用形態の変化、格差の拡大といった、マクロな視点や認 識も、心にとどめておくことが、 この制度の「安全な運 用」において重要な責任を担う医師には必要だと思いま す。 さて昨夏のベストセラー、トマ・ピケティ著「21世紀の 資本論」で、著者は資本主義経済圏における経済的不平 等、格差拡大への流れを、 「r(資本収益率)>g(経済成長 率) 」という数式で説明し、その処方箋として「グローバ ル資本課税の導入」をあげました。この大胆に単純化した 提案を、細部にわたり補完するかのように、多面的に格差 分析を行っているのが、ピケティの師であるアンソニー・ B・アトキンソンです。 その近著「21世紀の不平等」において、15+5の合計20 の、具体的な政策提言を行っており、自身が提案する政策 への批判をあらかじめ想定した上で、最新のデータ分析を 駆使した反論付きです。「イノベーションを、労働者の雇 用性を増大させるような方向へ導くことへの奨励」「公的 政策においては、ステークホルダー間の適切な権力バラン スを目指すべき、つまり、多くの人の声を反映するしくみ の必要性」を説き、 「失業者の雇用を政府が保証」「成人し た人全員に定額を支給(資本給付、 1人あたり約100万 円) 」「所得税の累進性を65%まで上げる」「全児童に児童 大阪府医師会報4月号 (vol.390) 手当を支払い、かつ課税所得として扱う」「広義の社会参 加(ボランティアなども含む)に対して参加型所得を導入 し、所得保証する」「社会保障制度を刷新し、給付の水準 を引き上げ、支払範囲を拡大すべき」等々ですが、特に日 本への提言として、「児童手当」と「参加型所得の導入」 を強調しています。この大著においても、かなりのページ 数が社会保障に割かれていますが、「(経済活動を下支え し、活力あるものとする)社会保障が、経済活動の足枷で ある」という認識の逆転が生じたのは、ここ四半世紀と比 較的新しいものであるとのことでした。 労働者にとって「格差」とほぼ同義であるのが非正規雇 用の問題です。非正規雇用は日本独特の雇用形式で、他国 に類を見ず、現在、「労働者の4割が非正規雇用で、その うちの7割強が年収200万円未満。雇用が不安定で、社会 保険の加入率が低く、非正規の男性は未婚が多い」という ことが明らかになっています。1986年に労働者派遣法が施 行され、対象業務が派遣法改正の都度、拡大されていった ことが、不況の長期化と相俟って、多くの非正規労働者を 生むことになりました。因みに、ストレスチェック制度に おいても、派遣元と派遣先の両方での実施が義務付けられ ています。 正社員に関しても、 濱口桂一郎氏が定義した、(欧米 の) 「ジョブ型」雇用と(日本の)「メンバーシップ型」雇 用の、 「経営者にとって都合の良い部分」を折衷した産物 が、所謂ブラック企業であり、新人の若い「正社員」が、 過重労働から自殺した報道は記憶に新しいです。正規・非 正規を問わず、このような事態は、ストレスチェック制度 で改善されるのでしょうか? 最終的には我が国が、人間的な雇用形態を選択し、十分 なセーフティネットを構築することが、自殺対策やメンタ ルヘルス不調対策にとって、最良・最善の処方箋だと、医 師の私は思っています(厚生年金の非正規への適用を拡大 するだけでも、かなり違うと思います)。 メンタル不調者への処方箋は、医療的側面からのみだけ でなく、それ以上に雇用や社会保障といった制度論からも 提案されるべきだと思いますし、いずれにせよ、ストレス チェック制度は運用開始後1∼2年経過したところで、国 は是非、自らPDCAサイクルを回して、この制度の成否を きちんと評価すべきでしょう。
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