WIJC160410復活の主とトマス

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2016 年4月 10 日 聖書:ヨハネ
聖書:ヨハネ 20章 19-29節
29節 タイトル:見ずに信じる者の幸い
タイトル:見ずに信じる者の幸い
序 論
●今日の日曜日は『復活祭』から丸2週間目となる。そもそも、
今日の日曜日は『復活祭』から丸2週間目となる。そもそも、なぜ私たちは、イエスさまの復活を祝
そもそも、なぜ私たちは、イエスさまの復活を祝
うのだろうか? 勿論『イエス様が死んで甦ったからである』とクリスチャンなら答えるであろう。
●しかし、それでは、
しかし、それでは、私たち
、それでは、私たちの答えは
私たちの答えはクリスチャンとして
の答えはクリスチャンとしての単なる『神学的・教義的信仰告白』で
クリスチャンとしての単なる『神学的・教義的信仰告白』で終わ
の単なる『神学的・教義的信仰告白』で終わ
ってしまうことになら
ってしまうことにならないか!?
しまうことにならないか!?
●私たちに取って、イエス様の復活は、『イエス様は今も生きておられる』という『実感』とも言える
もっと『体験的』
もっと『体験的』『具体的』
験的』『具体的』なものであるべきである。
『具体的』なものであるべきである。
●それは丁度「わたしの仕えまつる神は」
それは丁度「わたしの仕えまつる神は」(I
丁度「わたしの仕えまつる神は」(I Serve a Risen Savior)と言う賛美の英語原詩
Savior)と言う賛美の英語原詩 の折り返し
の最後の言葉 You ask me how I know He lives. He lives within my heart.の語る体験である。
語る体験である。
●もしこのような体験に結果していかない復活信仰なら、『君がキリストの復活を信じていることは分
もしこのような体験に結果していかない復活信仰なら、『君がキリストの復活を信じていることは分
かるが、でも、それがどうした
が、でも、それがどうしたって言う
でも、それがどうしたって言うの
って言うの(SO WHAT)
WHAT)?』と言われてしまうであろう。
●『イエス様の復活』、それはあなたにとって、私にとって、
『イエス様の復活』、それはあなたにとって、私にとって、具体的に
それはあなたにとって、私にとって、具体的にどう言う意味があるのか?
具体的にどう言う意味があるのか?
●先週は、ルカ
先週は、ルカ 24 章 13~
13~35 節に記されている二人の弟子たちの経験から、(1)
節に記されている二人の弟子たちの経験から、(1)第一に、復活された
(1)第一に、復活された
イエス様は、あなたが意識しようと、すまいと、あなたの必要のすべてを知っていて、あなたが呼ぶ
前に、
前に、すでにそこに来て私たちを
すでにそこに来て私たちを助けて下さるお方であること、
私たちを助けて下さるお方であること、正に
助けて下さるお方であること、正に「神は我らの避け所、また力、
正に「神は我らの避け所、また力、
苦しむとき、そこにある助け」(
苦しむとき、そこにある助け」(詩篇 46 篇 1 節)である。(2)
である。(2)第二に、
(2)第二に、復活の主は、
第二に、復活の主は、あなたの人生を、
復活の主は、あなたの人生を、
聖書の御言葉を通して、十字架の愛で、内側から熱く燃やしてくださる方であることを学んだ。
聖書の御言葉を通して、十字架の愛で、内側から熱く燃やしてくださる方であることを学んだ。この
ことを学んだ。この
火は、私の心にも、
火は、私の心にも、今も燃えている。
も、今も燃えている。私は、そんなに能力がある人間
今も燃えている。私は、そんなに能力がある人間ではない、特別に成功している
私は、そんなに能力がある人間ではない、特別に成功している
訳でも、お金がある訳でもない、特別に楽しいことをしている訳でもない、しかし、私は楽しい、こ
の年になっても、人生に興奮して生きている。それは復活の主の愛が私の心を燃やしてくれているか
らである。これらのことを学んだ。
らである。これらのことを学んだ。
●私たちは
私たちは、このような
、このような体験をもって復活の主と共に生きているだろうか?
のような体験をもって復活の主と共に生きているだろうか?
●今日の聖書箇所
今日の聖書箇所は、
の聖書箇所は、先週に引き続き、
は、先週に引き続き、イエス様が
先週に引き続き、イエス様が、
イエス様が、復活したその日の夜、弟子たちのところに現れた
復活したその日の夜、弟子たちのところに現れた
所から始まる。
所から始まる。
●その日、弟子たち
その日、弟子たち、即ち、
子たち、即ち、イエス様を裏切ったユダを除いた
、即ち、イエス様を裏切ったユダを除いた11使徒たち
使徒たちは、自分たちもイエス様の
ように捕まり、殺されるのではと恐れて、ある人の家の2階座敷に、しっかりと
ように捕まり、殺されるのではと恐れて、ある人の家の2階座敷に、しっかりと戸を閉めて
、しっかりと戸を閉めて隠れてい
戸を閉めて隠れてい
た(19 節「ユダヤ人を恐れて戸を閉めてあった
節「ユダヤ人を恐れて戸を閉めてあった」
戸を閉めてあった」)。
●そこに、突然、復活されたイエス様が現れたのである。当然のことながら、弟子たちは、声も
そこに、突然、復活されたイエス様が現れたのである。当然のことながら、弟子たちは、声も出ない
ほどにビックリした。しかし、それ
クリした。しかし、それ以上に大いに喜んだ。(
んだ。(20 節『弟子たちは、主を見て喜んだ』)
んだ』)
●しかし、そこには、弟子たちが 11 人ではなく、10
人ではなく、10 人しかいなかったのである
人しかいなかったのである。そのいなかった弟
のである。そのいなかった弟
子が『ト
子が『トマス』であった。ここから今日の
』であった。ここから今日のメッセージが始まるのである。
●トマスは、イエス様の
スは、イエス様の12人の使徒たちの中でも、ペテロ、ヨハネらと比べると、どちらかと言うと
目立たない存在である。
である。しかし、そんなト
る。しかし、そんなトマスについてこんなことが言われている。
●聖書の記事ではないので
ではないので絶対にそうだったとは言い切れないが、
にそうだったとは言い切れないが、多くの伝説といくつかの歴史的証拠
から、多数の学者たちはパウロがエルサレムを中心にするヨーロッパ、西方世界に福音を広めたのに
対し、ト
し、トマスはぺルシヤ、インドと言う東方の世界、アジア宣教に大いに貢献した人物であると言う
であると言う。
と言う。
●特に、その
特に、その伝説と歴史的証拠は、インドに多く見られる。インドには、1世紀、2 世紀という早い時
代に、既にキリスト教が繁栄していた
ていたという証拠が沢山ある。
ある。有名な聖トマス教会もその一つである。
●その影響が、ネストリウス派(景教)と呼ばれるグループを産みだし、仏教にまでキリスト教の影響を
与えることにつながって行ったとも言われているほどである。それらが、すべてト
である。それらが、すべてトマスの宣教の結果
ではと言われるのである。このようにトマスは偉大な使徒として活躍したと思われる。
●今日の聖書箇所は、ト
今日の聖書箇所は、トマスをそのような
スをそのような偉大な使徒となるべく、復活されたイ
な使徒となるべく、復活されたイエス様が取り
、復活されたイエス様が取り扱ってお
られる個所である。
本 論
Ⅰ.イエス様は、まず第一に、トマスに『一人でいることではなく、仲間と共にいる』ことの大切さを教えようとされた。
A.そのことをトマスに教えるために、イエス様は、ご自分が復活された晩、わざわざトマスのいないところに現
れたと言える。
1.言うまでもなくイエス様は、あの晩トマスがそこにいないことを知っておられた。
2
2.にもかかわらず、そこにイエス様は復活後の最
にもかかわらず、そこにイエス様は復活後の最初のデビューとして、劇的とも言いたい形で、
突如、ご自身の姿を使徒たちの前に現したのである。即ち、イエス様
を使徒たちの前に現したのである。即ち、イエス様は
即ち、イエス様はトマスが帰るまで
待たれなかったのである
なかったのである。
のである。
3.そのためトマスは復活されたイエス様との最初の感動的出会いのチャンスを逸したのである。
4.トマスが、その損失と失敗を自覚したのは、遅ればせながら、1週間後に復活のイエス様に
お会いし、他の弟子たち同様に復活の主との出会いの『喜び』を経験したときであった。
』を経験したときであった。
5.イエス様はこのようにして、トマスに信仰の仲間たちと共にいることの大切さ、神様は私た
切さ、神様は私た
ちが他の信仰の仲間たちと共にいるところに祝福を顕わされることを教えられた
わされることを教えられたのである
ことを教えられたのである。
のである。
B.勿論、それは、決して、私たちが、神様の前に一人になることの大切さを否定しているのではない。
1.私たちは皆、ほかの人がどうであろうと、一人一人が、神様の前に、自分の罪を告白し、自
分の信仰を告白し、自分と神様との個人的信仰を確立しなければならない。
ならない。
2.ビリー・グラハムが良く言ったが、私たちがガレージで生まれたからと言って、自動車にな
るのではないように、クリスチャン・
るのではないように、クリスチャン・ホームに生まれたからと言って、その人がクリスチ
ャンになるのではない。
3.親
3.親がクリスチャンだから、或いは、親と一緒に教会に行っていたからクリスチャンになる訳
っていたからクリスチャンになる訳
ではない。一人一人が
ではない。一人一人が個人的に神様に向かい、神様の所に行かなければならない。
4.正に、ジョン・ウェスレーが強調したように、『
したように、『個人宗教の確立』が重要なのである。
なのである。
C.しかし、同時に、或る意味で、それ以上に、聖書は、『皆と一緒にいる』ことが大切だと強調する。
1.詩篇 133 篇は、この真理の美しい描写である。「・・・・」。
(1)特に、
(1)特に、1
特に、1 節「見よ。兄弟たちが、一つになって共に住むことは、何と言う幸せ、何と言
う楽しさであろう。
う楽しさであろう。
(2)更に、3
に、3 節を見ると「
を見ると「主がそこに、
主がそこに、(即ち、それは、『
即ち、それは、『兄弟たちが一つになって共にいる
ところに』である
ところに』である)
』である)、とこしえの
、とこしえの命の祝福を命じられた」とある。
じられた」とある。
2.イエス様は何と言われたか?
(1)マタイ 18 章 19 節「もし、あなたがたのうち二人が、どんな事でも、地上で心を一つ
にして祈るなら・・・」とある
るなら・・・」とある。
とある。ここでも「一人が」ではなく、「二人が」である。
ここでも「一人が」ではなく、「二人が」である。
(2)更にその後、20
にその後、20 節でも「二人でも、
節でも「二人でも、三人でも私の名において集まるところには、私も、
その中にいるからです」と言われた。ここでも「一人」ではなく、「
にいるからです」と言われた。ここでも「一人」ではなく、「2
と言われた。ここでも「一人」ではなく、「2-3 人」である。
3.そして、「使徒の
そして、「使徒の働き」に記された、あの祝福され、
され、爆発的に成長した「初代教会」の姿で
も、強調されていることは、「信者たちが一
されていることは、「信者たちが一緒にいる時間が多かった」ことである。
(1)使徒の
(1)使徒の働き 2 章 42、
42、44、
44、46 節。「・・・・」
(2)使徒の
(2)使徒の働き 4 章 23 節、12
節、12 章 5 節、12 節。いずれもヨハネとペテロが、或いはペテ
ロだけが、
●命の危険、迫害にあっていたとき、即ちピンチにあったとき、苦しいとき、
●また、そこから解放されて、その喜びを報告して、分かち合いたいとき、
●即ち、人生や生活の様々な局面で、彼らは、仲間として、仲間のために、し
間のために、しばしば集
まっていたことが分かる。
4.最後に、一人でいることよりも、集まることの大切さは、ヘブル書の記者によっても
ル書の記者によっても強調さ
れている。10
れている。10 章 25 節「ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえ
って、励まし合い、かの日が近づいているのを見て、益々そうしようではありませんか」。
んか」。
Ⅱ.次に、復活されたイエス様はご自分の復活を信じなかったトマスを決して見捨てられなかったことを指摘したい。
A,そもそも、トマスは。どんな男だったのか?
1.トマスのことはこの聖書箇所とは別のもう
スのことはこの聖書箇所とは別のもう2
もう2ヶ所に記されている。その一つ一つを
に記されている。その一つ一つを詳しく見
る時間はない。しかし、これらの箇所を通して聖書学者たちがまとめた
間はない。しかし、これらの箇所を通して聖書学者たちがまとめた彼の人物像は、
(1)
(1)基本的には極めて真面目な性格
(2)物事を悲観的に考える人
(3)いったん
(3)いったんこ
いったんこうと思うと、猪突猛進となる、直情型
(4)どちらかと言うと、
(4)どちらかと言うと、空気の読めない、少しずれた反応をするタイプ
3
(5)それでいて、ここにあるように、
(5)それでいて、ここにあるように、信仰者としても、
それでいて、ここにあるように、信仰者としても、霊的リーダーとしても、信じること
としても、信じること
とは正反対と言える、『
と言える、『懐疑的』な性格の人物でもあった。
(6)ここでもそうであったが、いつも
6)ここでもそうであったが、いつも彼はどこか皆と違い、皆から浮いている存在であった。
2.これらの資質は、普通に考えたら、福音を伝える人
える人物としても、霊的リーダーとしても、必
ずしも人
ずしも人々から期待される人物のものではなかった。
B.しかし、イエス様は、『あいつは大した男じゃないから・・・』と、トマスを見捨てるようなことはなさらなかった。
1.復活された日曜日の8日後、即ち、次の日曜日に、イエス様は、もう一度、弟子たちに現れ
た。その時の様子を見ると、イエス様は、弟子たち
の様子を見ると、イエス様は、弟子たち全員を訪ねたというより、正に、ト
たというより、正に、トマ
スに会うことを目的として、わざわざ、次の日曜日にもう一度現れたことが分かる。
2.普通だったら、或いは、私たちだったら、ト
いは、私たちだったら、トマスに対してどうしていただろうか?
(1)「あいつは
(1)「あいつはウスノロで、いつもワンテンポずれていて、鈍いやつだから」とか何とか言
って、余り、その人には期待しなかったり、力を入れようとしない。これが
れようとしない。これが普通である。
(2)同じ期待するなら、彼のように「見なきゃ、信じられない」などとウジウジしている信
仰者でなく、信じることの模範・優等生、信仰者
、信仰者の英雄タイプ、「みんなが信じなくて
も、僕は信じる」というような勇気のある勇ましいタイ
ましいタイプを私たちは求める。だ
める。だから、
。だから、
トマスのような人には、排除はしなくても、余り期待もしない。
3.しかしイエス様は
しかしイエス様は違った。同輩の生徒たちからも、
の生徒たちからも、父兄たちからも嫌われている、先生たち
の間でも問題児として敬遠されている、そんな生徒の所に、わ
されている、そんな生徒の所に、わざわざ家庭訪問する担任教
師のように、イエス様は、あの晩トマスを見捨てるどころか、わ
てるどころか、わざわざを訪ねたのである。
C.これが復活されたイエス様である。即ち、イエス様は、弱い人、信仰の持てない人、信仰者として失敗だら
けの人、どこか、或いは、完全に、ずれている人を、「あいつはダメな奴だ」とレッテルを張って見捨てない。
1.ペテロ
1.ペテロがそうであった。
がそうであった。彼は、「主よ、
は、「主よ、あなたのためなら、たとい火の
主よ、あなたのためなら、たとい火の中でも、水の中で
も・・」と、口では大きなことを言ったが、イエス様を「知らない」と
きなことを言ったが、イエス様を「知らない」と3回まで裏切った。
まで裏切った。
2.しかし、神様はその
しかし、神様はそのペテロを宣教のために大いに用いられ、ローマ教会の創設牧師として多
大な影響を初代キリスト教会に与えた。
3.パウロも同じである。パウロは、ステパノの殉教を目の前で見て、良心が刺され、心砕ける
かと思ったが、かえってその心を頑なにして、更に恐ろしく、激しい方
しい方法でクリスチャン
たちを迫害し、殺して行った。
4.その彼を神様は、天から火を下して焼き殺して
き殺して処分することもできた。しかし、神様は、そ
の反逆する彼を、見捨てることをせず、大使徒になるまで愛をもって追い続けたのである。
5.神様は、人間的には、「私なんか神様から愛されるはずがない」「私はダメ人間、ダメ信仰
者だと思う人・思われている人」を、
われている人」を、諦めない、見捨てないで、追っかけられるのである。
Ⅲ.最後に、イエス様は、トマスが、偉大な信仰者になるため、偉大な宣教のリーダーになるために、最も大切なレ
ッスンを与えられた。即ち、彼に、『信じる』ことの意味と大切さを教えられたのであった。
A,トマスは、まず、ここで、「信じる」ということを誤解・混同していたことが分かる。
1.トマスは言った。「その
スは言った。「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそ
のわきに差し入れて見なければ、決して信じません」(25)
ん」(25)。
(25)。
(1)この言葉
(1)この言葉は、ト
この言葉は、トマスの時代、即ち、2000
、即ち、2000 年前から、今に至るまで、イエス様の復活に
るまで、イエス様の復活に
対する極めて、一般的、かつ最もポピュラーと言える人々の反応である。
(2)しかし、この
(2)しかし、このト
しかし、このトマスの言葉
スの言葉の
言葉の中に、彼のように考える人々に共通する『信じる』という
に共通する『信じる』という
ことに
ことに関する誤解と混同がある。
(3)ここで
(3)ここで彼が言っていることは、今式に簡単に言うなら、『科学的に証明されるのでなけ
されるのでなけ
れば、私は信じない』という姿勢である。
(4)しかし、ここに
(4)しかし、ここに誤解と混同と矛盾がある。なぜなら
がある。なぜなら或る事が科学的に証明された瞬間に、
それは最
それは最早『信じる』必要はない。なぜなら
『信じる』必要はない。なぜなら理性的・科学的に証明されたからである。
されたからである。
2.『信じる』
信じる』とは、ある
とは、ある事に関して、いまだ
して、いまだ科学的・理性的証明がなされていなくても
がなされていなくても、
されていなくても、即ち、
『見ないで』も、それを
『見ないで』も、それを事実と認め、受け入れることである。
3.だから、ヘブル 11 章 1 節は、『信仰』について
節は、『信仰』についてこのように言う。『信仰は
、『信仰』についてこのように言う。『信仰は望んでいる事
柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです』と。
4
4.だからトマスが、もしその目で見、指や手で触れて、それが確かにイエス様だと実
かにイエス様だと実証的に確
認したとするなら、その
したとするなら、その時点で彼は最早『私は今
『私は今復活を信じます』とは
復活を信じます』とは言え
』とは言えない
言えないのである。
ないのである。
5.なぜなら、彼は『信じた』のではなく、『
『信じた』のではなく、『科学的に
学的に証明した』
した』のである。
である。
6.イエス様は、ここで、トマスにその
スにその違いを教え、『
いを教え、『信じる』
信じる』とは何かを教えられたのである。
7.これが、『信じる』
これが、『信じる』ことの意味
『信じる』ことの意味である。
ことの意味である。
B.次に、イエス様は、トマスに信じることの大切さを教えられた。
1.イエス様は、トマスに彼の要求、願望とおりに、目で見て、指を釘跡に差し込み、更には、
脇腹の傷に手を差し入れることを決して否定されなかった。
(1)即ち、イエス様は、
(1)即ち、イエス様は、決してこの
してこの物質世界における科学的アプローチの必要や価値、位置
を否定されない。
(2)科学は神様からの賜物であり、科学は、神様が作られた天地万
天地万物である物質界の原理で
あり、それを研究し、追及し、使用することは、神様の御心であり、栄光につながる。
2.しかし、イエス様は、ここで、
しかし、イエス様は、ここで、科学の否定ではなく、それ以上に、ト
に、トマスに信仰で生きるこ
との大切さを教えられたのである。だから言われた。『
切さを教えられたのである。だから言われた。『信じない者にならないで、信じる
信じない者にならないで、信じる
者になりなさい』
者になりなさい』と。
なりなさい』と。
3.なぜ、信じることがそんなに大切なのか?
なのか?
(1)それは、
1)それは、科学がすべてではないからであり、科学には限界があるからである。
●科学は、私たちに物質界のことを教えることができる。しかし、
のことを教えることができる。しかし、
●イエス様の復活を含めた霊的な世界、神様の事を教えたり、
を教えたり、証明することはできない。
●神様のこと、霊的なことは、科学的に証明したり、作り上げたりできないのである。
(2) 神様が、人間にくださった『信じる』という機能こそが、私たち人間が霊的世界を理
解し、その霊的祝福にあずかる
あずかる道を開くのである。
(3)そもそも
(3)そもそも『信じる』こと
そもそも『信じる』ことの
『信じる』ことの大切さは、
切さは、『信
は、『信じる』ことが、
『信じる』ことが、人間の幸
じる』ことが、人間の幸せの基本であり、究
極だからである。
だからである。
●孔子は言った。『民、信なくば立たず』と。国を治めるために何が必要か?と弟子に
が必要か?と弟子に
尋ねられた。軍事力、食糧、信頼。その中で、最も必要なもの、それが信頼である。
●しばしば引用するが、
するが、政・経学者である
・経学者であるフランシス福山の『TRUST』という本の
邦題がこの『信なくば立たず』である(
たず』である(慶応大学の教授が付けたタイトル)
けたタイトル)が、その主
張の一つは、『信頼関係』の高さが、経済効率に大きく影響していることである。
(4)国を治めるという政治の世界、経済の世界だけではない。どんな小さなコミュ
コミュニティー
のなかでも、家族でも、夫婦でも、その幸せは、『信頼』が基礎であり、信頼から始ま
から始ま
るのである。即ち、信じることなくして、人は幸福になれないのである。
4.しかし、悲しいことは、私たちを囲む世界は、『信頼』とは裏腹の、『不信の世界』『不信
の時代』である。裏切り、偽り、偽善、虚飾、見せかけ、振り、等で溢れている。
5.その中で、私たちは、一体どこに、私たちの必要とする
で、私たちは、一体どこに、私たちの必要とする真の信頼関係を見出すのか? それ
は、神様への信頼、神様の言葉である聖書の言葉への信頼から始まるのである。
(1)だから、先週もルカ
(1)だから、先週もルカ 24 章から学んだように
章から学んだように、
学んだように、イエス様は、ご自分の復活を聖書から、
聖書全巻から熱心に、弟子たちに
から熱心に、弟子たちに説明し、語られたのである。
(2)私たちが
(2)私たちが霊的に成長しない、その信仰が
しない、その信仰が中々伸
中々伸びない一つの
ない一つの大きな理由は、この聖書の
お言葉を熱心に
お言葉を熱心に読むこと、知ることに対する渇きと、信頼の欠如である。
結 論
●ロックビルで木曜日に持たれている聖書研究会
研究会に毎週熱心に出ておられるご婦人が、最近、他の教会
で洗礼を受けられた。その方が、つい先日、こんな風に言われた。「信じること
に言われた。「信じることって、それが、
信じることって、それが、事実
かどうかを
どうかを、知性的に追求し、調べ、納得すること、確かめることでは
かめることではなく、それを『
なく、それを『事実と信じよ
う』と、心で『決断』することだと分かった」と。
』することだと分かった」と。
●それは正に結婚と同じである。結
じである。結婚とは、妻が、夫が、それぞれ相手に対し『この人を、私を幸せに
してくれる人と信じて行こう』と、
こう』と、受け入れ信じて、自分を相手に渡すと『決断』したときに始まる。
●即ち、『信じる』とは、自分と自分の生涯を神様に捧げる、神様へのコミッ
コミットメントへの『決断』か
ら始まるのである。ゆえに彼はイエス様に言った。『我が主よ。わが神よ』と。