Page 1 Page 2 て} 川上村公民館発行の 「館報」 の } 部を借用させて

重 仁 親 王 の 流 離
悲 運 の 皇 子
二
う ち ひさ す 都 を 出 で て千 曲 川
年 わ ず か 二十 三歳 で こ の世 を去 り 、 御 霊 神 社 に杞 ら れ た わけ であ
そ れ か ら 数 年 、 応 保 二年 薄 幸 漂 白 の皇 子 は、 再 起 の 日も な く 御
上 つ瀬 遠 く わ れ は来 にけ り
地 と し て居 を 構 えた と 言 わ れ て い るコ こ の時 の御 歌 に、
木 か ら 臨 幸 峠 を 経 て御 所 平 御 殿 窪 (みど のく ぼ ) に至 り 、 安 住 の
雨 海 博 洋
信 濃 川 上 郷 は 八 ツ岳 山 麓 野 辺 山 の裾 を流 れ る千 曲 川 の最 上 流 に沿
か ら は じま って、 原 ・大 深 山 ・居 倉 ・秋 山 ・梓 山 と各 部 落 が千 曲 川
る。 話 は前 後 す る が基 国 のも の を親 王 が辞 す ると き 、 基 国 か ら 進
と 詠 ま れ た。
に接 し て連 って おり 、 そ れら を縫 っ、 秩 父 の 三峰 神 社 へ通ず る古 い
献 さ れ た白 馬 にう ち 跨 り 、 基 国 の士 卒 が こ れ を護 り 千 曲 川 を遡 行
づて点 在 す る村 落 であ る。 そ れ は、 小 海 線 信 濃 川 上 駅 近 く の御 所 平
でも あ る。 こ の御 所 平 に次 の よ うな 王朝 末 の悲 運 の皇 子 の話 が 犬 切
す る此 の時 の親 王 の お姿 が現 在 御 霊 神 社 に伝 る御 神 体 であ る と言
う こ と であ る。 ⋮⋮ こ の御 霊 神 社 の境 内 に ミヅ メ桜 と呼 ば れ る老
.
平 安 朝 後 期 の 久 寿 二年 皇 位 継 承 問 題 か ら 端 を 発 し、 皇 室、 摂 政
の太 さ胸 高直 径 で 一 ・七 〇米 、 樹 齢 七〇 〇年 、 地 上 から 三米 位 の
樹 があ る。 近 在 にあ まり 見 かけ な い樹 木 であ る。 ⋮⋮ こ の木 の幹
これ は、 実 際 土 地 の人 の 文 章 に よ った ほう が 実 感 が あ る と 思 っ
る。 ︿ ﹁館報 か わ か み ﹂ 第 一〇 四号 昭 和 43 年 8 月 30 日V
と ころ に老 樹 特 有 の ウ ロ穴 があ り、 よ く モ モ ソガ ー が 住 ん で い
関 白 、 武 家 等 親 子 兄 弟 が 骨 肉 二分 し て 血 で 血 を 洗 う 悲 劇 を 生 ん だ
に語り伝えられている。
街 道 があ る。 深 い山 々 と清 冽 な 流 れ に覆 わ れ、 抱 か れ た美 し い 秘境
ノ
いわ ゆ る保 元 の 乱 に破 れ た 崇 徳 上 皇 は讃 岐 に遠 流 の身 と な り 、 崇
の がれ 信 濃 路 に入 り 、 保 元 の乱 に上 皇 方 に荷 担 し た更 級 村 上 郷 の
徳 上 皇 の皇 子 重 仁 親 王 は左 大 臣 藤 原 頼 長 の同 門 忠 良 が守 護 、 京 を
村 上 基 国 に 一時 身 を寄 せ、 更 に、 小 室 から 海 瀬 と 千 曲 を遡 り 、 相
一50一
て、 川 上 村 公 民 館 発 行 の ﹁館 報 ﹂ の 一部 を借 用 さ せ ても ら った。
と ころ が 、 佐 藤 春 夫 の ﹃佐 久 内 裏 ﹄ と いう 作 品 にも 、 詩 人 特 有 の
敏 感 な 感 覚 と 内 に秘 めた 旺 盛 な 探 求 心 で、 重 仁 親 王 の流 離 の運 命 を
描 い てあ る。 こ の作 品 の 成 立 の 蔭 に は、 氏 の ﹁良 吉 物﹂ と言 わ れ
た、 佐 藤 春 夫 の佐 久 疎 開 時 期 の作 品 の モデ ルにな った郷 土史 家 棚 沢
竜 吉 氏 の存 在 があ った 。 楜 沢 氏 は ﹃佐 久 内裏 ﹄ に は漆 沢 良 吉 と いう
名 前 で 登 場 し て、 重 仁 親 王 の御 所 平 実 在 説 を成 立 さ せ る重 要 人 物 と
な って いる 。 氏 は 詩 歌 を 解 し、 か つも のす る人 と し て、 佐 久 疎 開 中
の佐 藤 春 夫 の こ よ なき 話 相 手 であ り、 ま た 歴 史 学 専 攻 者 と し て 歴 史
資 料 の提 供 者 で も あ った 。佐 藤 春 夫 は この 史 的 資 料 と 風 土 的考 証 の
両 面 に、 詩 人的 想像 と小 説 家 的 推 理 を加 え て 一篇 の 珠 玉 の よ う な 史
話 をも の し て い る。 史 話 と し た理 由 は ﹃佐 久 の 内裏 ﹄ に ﹁こ れ は保
元 の乱 を 書 いた 歴 史 小 説 で はな い。 わ たく し の疎 開 談 のな か に偶 々
保 元 の 乱 の 事 が 入 って 来 た だ け の こと で、 別 稿 ﹃夏 山 家 ﹄ の姉 妹 篇
とな るも の 。
﹂と い った 意 志 を 重 ん じ た か ら で あ る 。春 夫 は 歴 史 小説
で はな く 、 実 際 にあ った史 的 伝 承 と し て把 え よ う と し た の であ る 。
二
﹃佐 久 内 裏 ﹄ で は、 先 ず 、 ﹁(
八 つが嶽 ) 山 麓 に 一番 近 く 、 駅 から
二 三キ ロも 出 た ば か り の部 落 が御 所 平 と いう 字 で、 土 地 の伝 え で
は、 保 元 の 乱 の 後 に崇 徳 帝 の 皇 子 重 仁 親 王 が こ こ に お住 い にな った
の で この地 名 が でき た と 言 い、 こ の地 で、 な く な り にな った 親 王 を
お杞 し た御 霊神 社 と い う の も あ る ﹂ と御 所 平 の地 名 の起 源 と 現 存 の
御 霊 神 社 と によ って 、 重 仁 親 王 に 関 心 を も た れ て いる 。 次 に 良吉
(即 ち 糊 沢 氏) の 調 べあ げ た ﹁佐 久 川 上村 御所 平 要 図 ﹂ によ って、
重仁 親 王 の御 所 平 定着 を 認 め よ う と さ れ て い る 。御 所 平 の古 名 を あ
げ つら った部 分 を み る と
そ れ に よ ると 男 橋 の向 ふ にあ る竜 昌 寺 のう ら に御 殿 窪 と い ふ の
は、 内 裏 山 の西 端 に接 し て男 山 と 穴 沢 山 と に西 北 を囲 ま れ た 南 受
の山 懐 にあ ってそ の川 向 ひ の現 に住 吉 神 社 のあ るあ た り 御 殿 窪 の
真 向 は 大 門 先 、 そ れ の東 寄 り 黒沢 川 沿 ひ に馬 場 平 、 鷹 揚 場 な ど の
主 の台 、 鷹 放 な ど の地 名 もあ り、 な ほ 余 白 の註 記 に ﹁図 上 、 所 在
地 名が見・
兄て 野 辺山 の山 裾 を 甲州 に 向 ふ小 海 線 の 線 路 に沿 う て 天
不 明 ナ レド兵 部 ト 云 フ地 名 モ ア リ﹂ と 記 入 さ れ て い る。
と 、 御 殿 窪 、 内 裏 山 、 大 門 先 、 馬 場 平 、 鷹 揚 場 、 天 主 の台 、 鷹 放 、
兵 部 な ど の地 名 が並 べら れ て い る。 これ ら を み れ ば 皇 続 を 継 ぐ べき
身 分 であ ら れ た 崇 徳 院 皇 子 重 仁 親 王 が 如 何 にも 住 ま わ れ 、 兵 を 挙 げ
る機 を ね ら つて 調 練 の 跡 が し のば れ、 貴 族 の スポ ー ツ鷹 狩 も行 わ れ
た よ う に想 わ れ る の であ る。 更 に御 所 平 を実 地 踏 査 さ れ て、 ﹁目 測
で は 問 口 三十 間 に奥 行 二十 間 ば かり の長 方 形 の笹 原 で、 こ の屋 敷 址
の殆 ん ど 中央 よ り や や前 方 に 方 二尺 ば か り の 石 で刻 んだ 桐 があ っ
て、 そ の正 面 ど こ やら (
場 所 の記 憶 は明 確 でな い) に刻 ま れ た文 字
に よ ってそ れ が熊 野 神 社 であ る こと を 知 り 、 さ う し てそ れ に よ って
こ の台地 が 正 し く御 殿 窪 であ り 重 仁 親 王 の 謫 居 の址 であ って同 時 に
宮 殿 だ と 確 信 し﹂、 ま た こ の宮 殿 跡 近 く に 湧 れ のあ る のを も ってま
す ま す 御 殿 址 だ と 確 認 さ れ て いる 。
﹁
一51一
次 に、 これ は ま た 楜 沢 氏 が ﹃保 元 物 語 ﹄ そ の他 の文 献 によ って、
保 元 の乱 に出 馬 し た 信 濃 武 士 の家 系 を調 べ あげ ら れ た 綿密 な資 料 を
も と に重 仁 親 王 と 信 濃 と の関 連 性 を説 いて おら れ る。 ご の資 料 は犬
変 貴 重 な も の で、 後 に説 く 重仁 親 王 の 流 離 譚 にも 大 き な 関 係 を も っ
て い る。 こ こに そ の全 員 を あ げ 紹 介 す る余 地 がな い の で、 概 略 を述
べ る。 後 白 河 天 皇 方 に海 野 小 太 郎 幸 親 を は じ め と し て信 州 の武 門 の
多 く が つき 、 そ れ に対 し て崇 徳 上 皇 方 に は信 濃 守行 通、 村 上 判官 代
考 ﹄ の系 図 関 係 にも 示 さ れ 、 ﹃仁 和 寺 諸 院 家 記 ﹄、 ﹃大 日本 史 ﹄ ﹁皇
子 列 伝 ﹂ な ど にも 誌 さ れ て い る。 そ こ で、 こ れら の資 料 を用 い て、
重 仁 親 王 の乱 後 の行 動 、 生 き 方 な ど の消 息 を追 求 し て み た い。
三
先 ず 、 ﹃本 朝 皇 胤 紹 運 録﹄ に よ る と 重仁 親 王 は ﹁三 品。 出 家 。 法
名 空 性 ﹂ と あ って、 出 家 し た よ う にな っ て い る。 没 年 は ﹃一代 要
初 メ美 福 門 院 子養 セ ラ レ、 保 元 ノ 乱 後 、 仁 和 寺 花 蔵 院 二居 ラ ル、 空
成 御系 譜 考 ﹄ に は 母 兵 衛 佐 局 、 保 延 六 年 庚 申 誕 生 、 久 安 六 年 三品 、
記 ﹄ に よ れば ﹁応 保 二年 一月 二十 八 日 薨 ﹂ と な って い る。 ま た ﹃集
こ の う ち基 国 だ け は敗 れ て後 信 濃 に逃 げ 戻 り 、 更 級 郡 日 名 (更 級 郡
性 ト 云 、 応 保 二年 正 月
為国 (
父 )、 村 上 判 官 代 基 国 (子)、 片 桐 弥 八 郎為 重 く ら いで あ った 。
日 原 村) の山 中 に隠 れ 、 や が て 親 王 一行 の 信 濃 入 り の大 き な役 割 を
﹁白 峯 ﹂ にも 書 か れ て周 知 の こ と にな って い る が、 皇 子 重 仁 親 王 に
め で たく お は し ま しけ れば 、 昔 の真 如 親 王 も か く や と 見 え さ せ た
暁 と 申 し し に つか せ給 ひ て、 真 言 な どな ら は せ給 ひけ る に、 敏 く
一の御 子 (重 仁 親 王 ) も 、 御 ぐ し お ろ し給 ひ て、 仁 和 寺 大 僧 正 寛
ら れ た こと にな って い る。 し か も ﹃今 鏡 ﹄ に は
日 二十 三歳 薨 ﹂ と 乱 後 、 仁 和 寺 花 蔵 院 に お
果 し た と いう よ う にな って い る。
つい て はあ まり 知 ら れ る こ と な く信 濃 の奥 地 に 秘 め ら れ て いた の を
保 元 の乱 に敗 れ た崇 徳 上 皇 に つい て は歴 史 にも残 り 、 上 田 秋 成 の
取上げ た ﹃
佐 久 の 内裏 ﹄ は 大き な 意 味 を も って い る。 た だ、 ﹁身方
ま ひ け る に、 御足 の や ま ひ お も く な ら せ 給 ひ て、 ひ と と せ う せ さ
と あ り 、 ﹁御 足 のや ま ひ ﹂ 即 ち 脚 気 の た め仁 和 寺 で亡 く な った よう
ら み\ の御 子 ﹂﹀
せ給 ひ に け り。 御 と し 二十 二三 ば か り に や な り 給 ひ け む 。︿ ﹁は
の惨 歇 の後 は 女装 し て出 家 の た め に仁 和 寺 に急 ぐ 途 中 を 敵 に捕 へら
れ た と ほん の 一二句 保 元 物 語 に見 えて ゐ た 外 、 そ の後 はど う な った
の やら 消 息 も 知 ら れ て はゐ な い﹂ と いう 個 所 に は閤 題 があ る。 ﹃保
に書 れ て い る。 こ のよ う に保 元 の乱 後 、 親 王 は仁 和 華 蔵 院 に て出 家
﹁上 巻 に後 白 河 院 御 即 位 の事 ﹂、
﹁新 院 御 謀 叛 思 し 召 し立 た る る事 ﹂ の 二 場 面 に、 中 巻 に は ﹁重仁 親
る。
し 、 後 脚 気 の た め応 保 二年 一月 二十 八 日薨 ぜ ら れ たと いう こと にな
元 物語 ﹄ にも 一、 二句 ど ころ か、
王 御 出 家 の事 ﹂、 下 巻 に は ﹁新 院 讃 州 に 御 遷 幸 の 事﹂、 ﹁新 院御 経 沈
崇 徳 院 も 重 仁 親 王も 、 敗 戦 後 ば ら ば ら に はな り な がら 、 そ れぞ れ
め の 事 付 け た り 崩 御 の事 ﹂ の 二場 面 に 扱 わ れ て いる 。 そ の 他 ﹃今
鏡 ﹄ にも か な り く わ し く書 か れ、 ﹃
本 朝皇 胤紹 運 録 ﹄
、 ﹃集 成御 系 譜
一
一52一
て以 来 歴 代 の皇 族 が 入 室 さ れ た 宮 門 跡 であ った 。 こ の よう な 寺 と の
三 一) 七 月 十 九 日 仁 和 寺 で崩 じ ら れ (
﹃日 本 紀 略 ﹄ ﹃一代 要 記 ﹄ 他 )
創 立 さ れ 、 同 寺 で落 飾 出 家 さ れ 、 寺 内 に御 室 を設 け 、 承 平 元 年 (
九
仁 和 寺 に入 ら れ て出 家 さ れ て い る。 仁 和 寺 は宇 多 天 皇 が仁 和 四年 に
しばしば訪れられ て
も 、 皇 子 重 仁 親 王 を慰 めら (
﹃保 元 物 語 ﹂ で)、 親 王 の 母兵 衛 佐 をも
た (
﹃今 鏡 ﹄ 八重 の汐 路 )。 ま た覚 性 は 崇 徳 院 が讃 岐 に 流 さ れ て後
性 法 親 王) を頼 ら れ讃 岐 に御 遷幸 さ れ る ま で、 この御 室 に 住 せ ら れ
と称 せ ら れ た。 そ の よ う な 関係 で 、 崇 徳 院 は 御 弟 の仁 和 寺 の宮 (覚
ー 重 仁親 王
ー僧 (
仁和寺)
元 性
ニ
(﹃紹 運 録 ﹄)、 覚 性 の下 にあ
精 進 さ れ、 ま た叔 父 の覚 性 か ら も いた わ ら れ て生 活 し た こと が わ か
れ ら れ剃 髪 し て 空 性 と 号 し て 、 弟 の元 性 と 慰 めあ って は 真 言 の法 に
こ のよ う に重 仁 親 王 は 大 叔 父 寛 暁 の仁 和 寺 華 蔵 院 に傷 心 の身 を 入
名 空 性 と 五 、 六 年 生 活 を 共 にさ れ た で あ ろ う 。
ニ
院 家 記 ﹄ に ﹁元 性 改 覚 恵 号 宮 法 師 ﹂ と あ る。 華 蔵 院 で兄 重 仁 親 王 法
程 早 く か ら 入 室 さ れ て い たと 思 わ れ る。 紹 運 録 の頭 注 の ﹃仁 和 寺 諸
朝 皇 胤 紹 運 録 ﹄ に親 王 名 がな く 法 名 だけ 記 さ れ て い る の を み る と 余
み \ の御 子 ) と あ る。 華 蔵 院 に 入ら れ た 年月 は不 明 であ る が、 ﹃本
そ れも 真 言 を よ く習 は せ給 ひ て、 勤 め行 は せ 給 へり とそ 。
﹂ (は ら
の宮 に お は し ます な る、 法 印 に な ら せ 給 へる とそ 聞 え さ せ た ま ふ。
った よ う で あ る 。 ﹃今鏡 ﹄ に も ﹁又 讃 岐 院 の皇 子 は 、 そ れ も 仁 和 寺
元 性は法印で仁和寺華蔵院に入られ
の御 子 ) 兄 崇 徳 院 一家 の よ
関 係 から お 二方 は敗 北 者 の た ど る出 家 の場所 を仁 和 寺 と し た の であ
き 同 情 者 で あ った 。
1崇徳院1
(仁和寺)
覚 性法親 王
(
﹃今 鏡 ﹄ はら ぐ
ろ う。 し か し、 単 に 歴史 的 関連 だ け で な く、 他 に 人 間的 深 い関 係 が
鳥羽院ー
・
あ った の であ る。 そ の関 係 を系 図 に よ って 示 せぱ 次 の よ ら に な る。
堀河院i
僧(
仁和寺)
ー寛 暁
(﹃仁 和 寺 諸 院 家
先 ず 、 寛 暁 から 調 ぺて い く と、 寛 暁 は 堀 河 院 の 御 子 で、 大 僧 正 、
保 元 四 年 正 月 八 日 五十 七 歴 で 仁 和 寺 に 滅 せ ら れ た
記 ﹄ 華 蔵 院 の条 )。 ま た華 蔵 院 の 大僧 正 (﹃
本 朝 皇 胤紹 運 録 ﹄)であ っ
た の で、 重 仁 親 王 は寛 暁 の弟 子 と なり 華 蔵 院 に 入 ら れ た の で あ る。
が 、 宣 旨 が重 か った の で力 な く 剃 落 さ れ た の であ った (
﹃保 元 物 語﹄
る。
朝 廷 の命 に よ って、 親 王 の 髪 を 剃 ら れ る時 、 再 三辞 退申 し上 げ た
中 )。 坪 ち 親 王 は 大 叔 父 寛 暁 の仁 和 寺 華 蔵 院 に弟 子 入 り し、 そ の手
覚 牲 誠槻 正 嫁 保 元 の 乱 (保 元 元 年 七 月 十 一日 ) の年 の 三月 仁 和 寺
った 点 であ る。 即 ち 崇 徳 院 が讃 岐 に流 さ れ る折 、 ﹃保 元 物 語 ﹄ 下 に
で右 和 寺 に入 ら れ た はず な の に、 こ の 間 の 消 息 を お 互 いに 知 ら な か
た だ 、 こ ご で不 思 議 な こと は、 崇 徳 上 皇 、 重 仁 親 王 と 父 子 相 継 い
入 り 法 名 な信 琺 と称 し、 後 覚 性 と 改 め ら れ、 紫 金 台 寺 御 室 と 申 さ れ
は、
で出 家 の儀 式 を し て も ら ゆた の であ る。
た 吃
(
﹃仁 和 寿 係 譜 ﹄、 ﹃紹 運 録﹄)。 崇 徳院 ど 同 母 弟出 家 前 は本 仁 親 王
一 一53-一
第 二
あ る 極 限 情 況 に生 ぎ る こと 。
第 一 天 皇 と 血 縁 関係 を も つ貴 人 の運命 の 逆転 と 失 脚 と 死。
種 流離 譚 に は 次 の 三 つの 条件 を 持 って いる と述 べら れ て いた。 即 ち
煙 の 中 を かき 分 け て迷 出 し女 房 達、 志賀 め 山 越 、 三 井寺 な ど こ そ
神 追 ひ、 罪 に よ る 流 刊 、 迫 害 によ る彷 徨 と い った 風 に、 安
况 一宮 重 仁 親 王 の御 行 末 も 覚 束 な く 、 一日白 河 殿 の合 戦 の庭 より
と 思 召 さ れ し か ど も、 其 音 信 も な し 。今 は 此 世 にて は 二度 と 思 ひ
第三
定 と か 幸 福 か ら 見 放 さ れ た 存 在 であ る。
合 ま じ く け れ ば 、 只 生 を 隔 た る が 如 にぞ 思 召 れ け る 。
と 白 河 殿 の合 戦 の折 、 離 れ 離 れ にな って、 崇 徳 院 が 流 さ れ るま で、
位 の事 ) と い った 身 分 であ ら れ た の に、 保 元 の乱 の敗 北 に よ って、
のが れ さ せ給 は じと 万 人 おも ひあ へり ﹂ (
﹃保 元 物 語 ﹄ 上 後 白 河 院 即
身 を 寄 せ る所 な く 、 仁 和 寺 で出 家 し、 幽 閉 に近 い生 活 を送 ら れ 、 二
と い った も の であ る。 崇 徳 院 の第 一皇 子 と し て、 当 然 皇 位 は ﹁よ も
寺 御 室 に身 を寄 せ、 重 仁 親 王 は仁 和 寺 の大 僧 正 大 叔 父 寛 暁 の華 蔵 院
同 じ仁 和 寺 に い る重 仁 親 王 の こと を知 ら ず 、 三井 寺 辺 に逃 れ た る か
にあ った ま ま 、 幽 閉 さ れ 、 監 視 さ れ 、 両 者 の連 絡 も 厳 しく 禁 止 さ れ
三条 件 に適 う と 言 え る であ ろ う 。 特 に ﹁日来 は此 君 こそ 、 御 位 に は
十 三歳 の若 さ で薨 じ ると い った生 涯 と運 命 は正 に右 の貴 種 流 離 譚 の
と 思 わ れ て い た よう だ 。 これ は崇 徳 院 が弟 の仁 和 寺 宮 覚 性 の紫 金 台
て い たも のと 思 わ れ る。 ま た、 同 じく ﹃保 元 物語 ﹄ 中 ﹁重 仁 親 王 御
x、 子細 有 って、 中 の御 門東 洞 院 な る御 所 へぞ う つし奉 け る﹂ (﹃古
を実 俊 が奏 問 す る と、 朝 廷 から ﹁花 山 院 の僧 正定 堯 、 参 って 申 さ る
乗 って仁 和 寺 へ赴 か れ る途 次 、 平 判 官 実 俊 に尋 問 さ れ、 更 に事 の由
て、 内 々涙 を な が し け り﹂ (
前 同書 、 同 章) と 父 忠 盛 の養 君 に せ よ 、
見 放 奉 ま じ か り け れ 共、 世 に 随 ふ習 こそ 悲 し け れ。 さ れば 伝承 っ
で さ え ﹁此 親 王 と申 は、 故 刊 部 卿 忠 盛 の養 君 に し奉 り け れば 、 清 盛
さ れ、 同 情 さ れ て い た。 い や、 親 王 の敵 方 後 白河 天 皇 側 の将 平 清 盛
も を う かな り ﹂ (
﹃保 元 物 語﹄ 中 重 仁 親 王御 出 家 の事 ) と 万人 に期 待
と 万 人 想 ひあ へり し に、 か やう にな ら せ給 け れば 、 あ さ ま しな ん ど
出 家 の事 ﹂ にも ﹁又 重 仁 親 王 ﹂ をぱ 、 日来 尋 ま いら せけ れど も 、 御
行 末 を しり た て ま つら ざ り け る﹂ と あ る。
活 字 本 保 元 物 語﹂) と いう こと に な る 。一時 何 か の 理由 が あ って ﹁中
親 王 の出 家 に 涙 し て い る の で あ る 。 こ のよ う な 人 々 の同 情 と 哀惜 の
ま た 一方 で は次 の よ うな 話 が誌 さ れ てあ る。 重 仁 親 王 が女 房 車 に
の御 門東 洞院 な る御 所 ﹂ に閉 じ 込 め ら れ た よ う で あ る 。恐 ら く、 先
情 が、 親 王 の幸 福 な 再 生 を 祈 って 流 離 譚 を 生 ま せ た も の であ ろ う 。
み た い。
川 上 に定 着 し た の であ ろ う か。 こ れ から こ の問 題 に つい て考 富 し て
重 仁 親 王 の流 離 譚 が、 な ぜ は るば ると 信 濃 国 、 そ れも 最 奥 の信 濃
四
に 仁 和 寺 に 入 ら れ た 父 崇 徳 院 と 合 せ る こと を 避 け た 仕 打 ち と 判 定 さ
れ る。
こ のよ う に、 合 戦 直 後 の重 仁 親 王 の動 静 に明 確 さ を 欠 く こと が、
や が て重 仁 親 王 の信 濃 国 への流 離 譚 を 生 む 一つの要 因 と な って い る
か って亀 井 勝 一郎 は、 そ の著 ﹃王 朝 の色 好 み と求 道 ﹄ の中 に、 貴
と 思 わ れ る の であ る。
一54-一
先 ず 、 冒 頭 の信 濃 川上 に 伝 わ る 重仁 親 王 の 話 の中 に出 て く る 村上
基 国 に着 目 す る 必要 があ る。 基 国 は親 王 の 一行 を信 濃 に迎 え入 れ、
更 に安 全 圏 の信 濃 川 上 に向 わ れ る時 、 白 馬 を奉 った るあ る よう に、
親 王 の信 濃 入 り に犬 き な 力 と な ったと あ る。 基 国 は楜 沢 氏 の調 査 に
よ れ ば 、 信 濃 武 士 団 のう ち 崇 徳 上 皇 方 に ついた 総 将 格 で、 そ の父 為
.
ま た、 基 国 が 重仁 親 王 を い た だ く こ と に よ って自 身 と家 門 の格 付
であ る。
け は、 敵 方 後 白河 天 皇 に つい た信 濃 出 身 の武 将 団 の総 帥 海 野小 太 郎
幸 親 に対 抗 し て 必要 であ ったと 思 わ れ る節 があ る。 楜 沢 氏 の調 査 に
よ れ ば 、 海 野 家 は清 和 天 皇 の皇 子 貞 保 親 王 が湯 治 の た あ信 濃 国 に下
名 (日 原 村 ) の山 中 に隠 れ 、 後 源 頼 朝 に仕 え て 功 が あ った 。 頼 朝 の
大 豪 族 に な った と いう 。 と ころ が 、 ﹃
皇 胤 紹 運 録 ﹄ によ って調 べて
海 野 、 禰 津 、 望 月 の 三氏 に分 れ 、 滋 野 三家 と 称 し 、 東 信 に繁 栄 し て
り 、 小 懸 の滋 野 に土 着 し て滋 野 氏 の祖 と な った 。 更 に こ の子 孫 が、
浅 間 の巻 狩 り には、 北 佐 久 郡 小 田 井 の皎 月 が 原 で犬 追 物 を行 う栄 に
み る と貞 保 親 王 は ﹁母 二条后 、 貞観 十 二年 誕 生、 元 慶 六 年陽 成 天 皇
国 は保 元 の乱 で戦 死 し た が、 基 国 は信 濃 国 に逃 れ 帰 えり 、 更 級 郡 日
浴 し た り し て、 弓 馬 の名 誉 も 高 か った ら し く、 頼 朝 の 子頼 家 の師 範
ト 同 ジ ク禁 中 二冠 セ ラ ル、 三 晶 上 野 太 守 中 務 卿 二品 式部 卿延 長 二年
く
こ
親 王 を祖 先 神 ど崇 敬 し て い る が、 村 井 康 彦 氏 の ﹃日本 文 化 小 史 ﹄ に
部 落 な るも の の大 半 も こ れ に類 す るも の であ る。 ま た木 地 師 は惟 喬
僻 地 に 多 く み ら れ る現 象 でも あ る。 全 国諸 地 方 に点 在 す る平 家 落 人
も 競 って尊 貴 と の 関係 付 け を し よ う と す る 傾 向 が あ る。 そ れ は山 間
こ の現 象 は 単 に家 門 の み な ら ず 、 大き く そ の地 方 、 部 落 集 合 体 で
た め の話 に 過 ぎ な い。
し た と す る のは 事 実 に反 し 、 た だ 滋 野 三家 の大 豪 族 が 家 門 格 付 け の
中 央 官 の道 を歩 ん で い る。 こ の よう な こと か ら 貞 保 親 王 が信 濃 土 着
五位下内蔵頭、源国珍 (
次 子 ) は従 四 位 上 春 宮 大 進 と い った よう に
信 濃 国 土 着 の気 配 はな い。 親 王 の御 子 た ちも 、 源 国 忠 (
長 子 ) は従
六 月 五 十 五 歳 薨 南 宮 又 桂 親 王 と 云﹂ とあ り 、 極 官 は中 務 卿 であ り 、
を勤 め た ほ ど であ った と か。 敗 残 の 身 か ら栄 光 の座 に復 し た 基 国 並
び に、 彼 の 子孫 た ち は、 欺 残 者 の汚 名 雪 辱 、 あ る い は名 誉 挽 回 の た
め に、
重 仁 親 王 の信 濃 落 ち の話 の基 を作 った の で はな い か と考 えら れ
る。 い や、 実 際 に基 国 に は重 仁 親 王 を奉 って機 会 あ れば 再 挙 を計 ろ
う と す る意 図 があ った の で はな いか 。 楜 沢 氏 の地 名 考 証 に よ ると 、
御 所 平 近 辺 の馬 場 平 、 天 主 台 、 現 在 地 不 明 で はあ る が遠 く はな いと
思 わ れ る兵 部 、 これ ら は親 王 が天 主 台 にあ って馬 場 平 の調 練 を 観 閲
し た と 言 わ れ 、 兵 部 は 名 の示 す 通 り 兵 事 を 司 る役 所 、 ま た は 軍 隊 の
駐 電所 と み ら れ る。 そ の上 、 こ の辺 はか って 良 馬 を 産 し 、 梓山 部落
に は 弓 に 用 いる 梓 の 木 が 多 く あ った な ど 重 仁 親 王 の 再 挙 の意 志 を 物
語 って い る と い う 。 こ の蔭 の 力 に な った の が 基 国 で あ る こと は 親 王
の信 濃 落 ち の 伝承 の いき さ つを思 えば 合点 でぎ よ う。 実 は、 蔭 の力
人 とか 座 衆 が しば しば 皇 族 や公 家 を本 所 と 仰 ぎ 、 そ の権 威 を排 他 的
にん
は、 ﹁木 地 師 が親 王 を か つぎ 出 し た理 由 の 一つと し て、 中 世 、 供 御
う 。 そ れ に皇 続 を継 ぐ べき 皇 子 であ ら れ た重 仁 親 王 を い た だく こ と
な 独 占 権 の根 拠 と した のと 同 様 の計 算 が、 働 い て いた だろ う ﹂ と あ
ど ご ろ で は な く、 再挙 計 画 は 野 心 家 基 国 自 身 の考 え であ った と思
矇 . 敷 残 者 と し て信 濃 に引 ぎ 籠 った身 を正 義 付 け る こ と にも な る の
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あ った の で、 そ の身分 を か く す た め に由 井 と音 を な ま った と いう こ
吉 った と 伝 え ら れ て い る。 楜 沢 氏 に よ れば 、 忠 良 の 子 忠 親 が 靱 負 で
る 藤原 忠 実 の 子忠 良 ら 藤 原 一門 が 御所 平 に 住 み つ いて、 由 井 姓 を 名
る 。 村 上 家 、 滋 野家 にも あ て は ま る問 題 であ る。
、
信 濃 川 上 にも 、 ま た 重仁 親 王 を密 か に守 護 し てき た と言 わ れ て い
ば 重 仁 親 王 はれ っき と し た 実 在 の人 物 であ った 。 そ れ に対 し て、 里
年 以 上 も さ か のぼ って 対 抗 し た と み る べぎ であ ろ う 。 史 実 に照 ら せ
そ の ま ま に し て は お け な い。 ﹁重 仁 ﹂ を ﹁里 仁 ﹂ に、 年 代 も 更 に百
か も隣 村 川上 に は 輝 し い語 り 伝 え が あ る。 と す れ ば 、 相 木 村 と て も
る。 相 木 も 川 上 と 同 じ く 信 濃 の 最 果 て の 地 と いわ れ る所 であ る。 し
そ れ に し ても ﹁里 仁﹂、 ﹁重 仁 ﹂ の名 の類 似 性 が 気 にな る と ころ で あ
さ れ て し ま った の で は あ る ま いか 。﹂ と 作 家 的 推 量 を 下 さ れ て いる 。
と で あ る 。 ま た 御所 平 の隣 部 落 の ﹁原 ﹂ も 藤 原 の ﹁藤 ﹂ を と った と
敬 を集 め て い た そ う であ る。 平 安末 期 院政 時 代 に は 皇 室 の 熊 野 詣 が
れ、 熊 野神 社 は そ れ よ り 古 く か らあ った も の と さ れ 、村 人 た ち の尊
い る。 寺 は上 流 の部 落 か ら この 御 所 平 の御 殿 窪 に 移 転 し た と言 わ
所 に現 在 竜 昌 寺 と い う寺 が建 ち、 そ の寺 の 上 に熊 野神 社 が桐 ら れ て
性 に熊 野 信 仰 の問 題 があ げ ら れ る。 も と 御 所 平 があ った と思 わ れ る
重 仁 親 王 の流 離 譚 が信 濃 川 上 の御 所 平 に定 着 し たも う 一つの可 能
説 を 基 に し成 った 派 生 伝 説 と み る べぎ であ ろ う 。
仁 親 王 はそ の実 在 を 何 一つ裏 付 け るも の がな く 、 却 って重 仁 親 王 伝
言 わ れ て いる 。
更 に面 白 い こと に、 川 上 村 に山 を 挾 ん で隣 接 し て い る相 木 村 にも
御 所 平 が あ り 、 後 一条 天 皇 の長 元 年 間 (一〇 二八 ∼ 一〇 三六 ) に 里
仁 親 王 が こ の地 に配 流 にな ら れ たと いう 伝 え を持 って い る。 ﹃佐 久
内 裏 ﹄ の中 に相 木 に伝 わ る里 仁 親 王 にま つわ る伝 説 と名 称 が次 のご
と く 紹 介 さ れ て い る。
地 主 の相 木 信 国 と い ふ の が仮 の御 所 を修 理 し て迎 へ奉 った場 所
が御 所 平 で、 村 内 に は、 そ の他 ﹃御 所 の向 ﹄ ま た親 王 が好 ん で水
頻 繁 であ った こと は よ く知 ら れ て いる と ころ で あ る 。 ち な み に 各 上
浴 さ れ た ﹃池 の上 ﹄ ﹃衣 掛 石 ﹄ ﹃臨 幸 坂 ﹄ な ど の地 名 の ゆ か に、
お ん輿 を か い た仕 丁 (よぼ う)の住 ん だ と い ふ場 所 が ﹃宮 丁 ﹄ (み
一度 、 後 白 河上 皇 三 十 四 度、 崇徳 上 皇 九 度 に及 ん で い る。 重 仁 親 王
の父 帝崇 徳 院 も 熊 野 と浅 か ら ぬ 縁 が あ る こと にな る 。 そ の上 、 保 元
皇 方 の熊 野参 詣 回数 を 調 べ て み る と、 白 河上 皇 九 度 、 羽 鳥 上 皇 二十
の 乱 に於 いて、 崇 徳 上皇 方 の将 源 為 義 は ﹃熊 野 別 当 、 住 吉 の神 主 も
やぶ う ﹄ の地 名 で残 って い る し、 ﹃御 墓山 ﹄ と名 づ け て 里 仁親 王
後 一条 天 皇 の頃 とす れば 、 重仁 親 王 の 頃 よ り 百 二十 年 も 前 の こと に
墳 墓 の地 と称 す るも のも あ る。
な る。 と こ ろ が 里仁 親 王 な る方 は ﹃
皇 胤紹 運 録﹄ は じ め諸書 に 全 然
婿 と し て い る (﹃参 考 保 元 物 語 ﹄)。 従 って上 皇 方 の敗 戦 に及 ん で、
聟 に取 ﹄ (保 元 物 語 ﹄中) と あ るよ う に、 熊 野 三社 の別 当 行 範 を女
いた 重 仁 親 王 が出 家 さ れ 、 や が て 二十 三歳 のう ら 若 い身 で薨 じら れ
特 に こ の乱 の原 因 と な り 、 か つ万 人 が皇 続 を継 ぐ べき 皇 子 と信 じ て
見当 ら な い。 佐 藤春 夫 は この現 象 に 対 し て、 ﹁里 仁 親 王 の 配 流 と い
の機 会 に大 黒 柱 を 失 った 藤 原 氏 の打 倒 を 謀 って 成 ら ず 、 か へ って藤
ふ長 元 元 年 (一〇 二八) は道 長 の薨 じ た 翌 年 に 当 って ゐ る か ら、 そ
原 氏 のた め に中 流 の刑 を 課 せら れ 、 果 て は皇 室 の系 図 か ら さ へ抹 殺
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信 濃 川 上 の人 々 の愛 し誇 り に し てき た重 仁 親 王 の話 を貴 種 流 離 譚
か。
と し て 結 論 づ け る こと はあ ると ま ど い を感 じ る が、 や はり 事 実 は事
た こと への同 情 が、 熊 野 関 係 の人 々、 熊 野 修 験 者 ら の 口 に よ って語
よう にな った とも 考 えら れ る。 しか も 、 川 上 郷 は熊 野 と同 じく 三山
り 伝 えら れ、 保 元 の乱 と 縁 の深 い将 兵 を多 く 出 し た信 濃 に定 着 す る
(﹃一代 要 記﹄) で あ った。 し か る に 用上 で は親 王 の命 日 を中 秋 の名
重 仁 親 王 の薨 ぜ ら れ た の は既 述 の よ う に 応 保 二年 一月 二十 八 日
る。 雨 と暑 さ の中 熱 心 に 調査 に従 事 し てく れ た 学生 に は よ い記 念
三名 と実 地 調 査 し資 料 を集 め たも の を 基 に し て ま と め た も の で あ
こ の論 は 昭 和 四十 四 年 夏 の 雨 海 ゼ ミ の 合宿 の際 、 ゼ ミ の学 生 十
後記
か れ て 永 遠 に伝 承 の世 界 に生 き て おら れ る の であ る。
抜 け 出 し て、 深 い山 々 と 清 澄 な 流 れ に包 ま れ 、 素 朴 で温 い人 情 に抱
実 と し て認 めな け れ ば な るま い。 し か し 、 親 王 は、 事 実 の世 界 か ら
ま た 附 言 す れ ば 、 重 仁 親 王 の伝 説 に は名 月 伝 説 の要 素 が加 って い
信 仰 の 三峯 詣 の街 道 筋 に当 って い た。
ると 思 わ れ る。 信 濃 は古 来 、 名 月 の地 と し て名 高 く 、 月 に関 す る多
月 の 八 月十 五 日 と し て い る。 ま た前 述 し た村 上 基 国 は後 に頼 朝 に仕
く の話 を 持 って い る。
え、 浅 間 の巻 狩 の折 に犬 追 物 の腕 前 を 示 し た皎 月 が 原 (
御 代 田村 小
こ の調 査 の緒 を作 って下 さ った の は、 二松 学舎 大学 の卒 業 生 で
と な ると 思 う 。
田井 分 ) にも 月 に関 す る伝 説 があ る。 ﹃佐 久 内裏 ﹄ 並び に楜 沢 氏 の
話 に よ れば 、 用 明 天皇 の 元 年 (五 八六 )、 皎 月 と い う 官 女 が勅 勘 を蒙
が って皎 月 が原 の馬 場 を乗 り ま わ し て い た が、 八 月十 五夜 、 且明 に
仁 親 王 の川 上 を 案 内 し て いだ た い た。 先 生 の学 恩 な し に こ の論 及
ぐ こと でき た 。 先 生 に は期 末 試 験 のご 多 忙 な 中 、 一日 を さ い て重
で佐 久 高 校 社 会 敏 諭 で、 郷 土 史 の権 威 楜 沢 竜 吉 先 生 の ご指 導 を仰
現 佐 久 高 校 国 語 科 敏 諭 の佐 藤 悦 子 さ ん であ った。 佐 藤 さ ん の紹 介
乗 じ て 白馬 の背 に乗 った ま ま昇 天 し た と い う。 ﹁皎 月﹂ は ﹁好 月﹂
び ゼ・
・
、の合 宿 の成 果 はあ り 得 な か った ろう 。 ま た こ の蔭 に は佐 久
って御 代 田村 小 田井 分 に流 さ れ てき た。 そ の官 女 は 常 に 白馬 に ま た
とも 書 か れ る。 こ れ は名 月 の こ と で、 ﹃竹 取 物 語﹂ の か ぐ や姫 同様
高 校 長 中 山 政 市 先 生 のご 理 解 あ るご 協 力 があ った。 そ し て信 濃 川
・
き い。 こ こ に厚 く 感 謝 の意 を 表 し ま す 。
上 の方 々 、 特 に公 民 館 長 、 役 場 の係 り の方 の資 料 面 のご 援 助 も 大
月 世 界 の人 間 で 八月 十 五 日 の中 秋 の名 月 の夜 昇 天す る説 話 の系 列 に
属 す るも の であ る。 重 仁 親 王 の話 も 、 基 国 から 贈 ら れ た 白馬 に ま た
がり 臨 幸 峠 を越 え て来 、 白 馬 を愛 し、 御 霊 神 社 のご 神 体 も 白 馬 に乗
った 皇 子 の姿 であ ったと 言 わ れ て い る。 しか も 重 仁 親 王 の命 日も 八
肩 十 五 日 であ る。 貴 種 流 離 譚 の中 の親 王 は保 元 の乱 後 、 基 国 を頼 っ
て都 を遠 く 離 れ た信 濃 川 上 の御 所 平 に定 住 さ れ 、 や が て永 遠 の天 上
・の 月 世 界 に昇 ら れ た と でも 往 昔 、 川 上 の人 々 は信 じ て い た のだ ろ う
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