くらし塾 きんゆう塾 2016年春号

︻連載エッセイ 第4回︼
経済学者
が
くらし をあばく
幸福
松島 斉(まつしま ひとし)
ベンサムのミイラ
また、幸福な国家とはどんな国だろうか。
すべての人びとの限りない欲求を
かなえ続けることではなさそうだ。
人は一人で生きていけない。
たえず価値観の違う誰かとの
関係性を保ちながら、
自分自身の立場を確たるものに…。
最終回は、経済学の視点から
幸福のあり方をあばいてみようと思う。
ベ ン サ ム の 頭 部 だ け は 蝋 で で き て い る。 悪
ガキ学生がベンサムの本物の骸骨でサッカー
し て 損 傷 し た か ら 作 り 物 に 換 え た な ど と、 ど
な た か に お 聞 き し た が、 真 偽 は 定 か で な い。
まあ、もうどうでもいい。
こんなベンサムには有名なキャッチフレー
ズ が あ る。 そ れ は「 最 大 多 数 の 最 大 幸 福 」
だ。 ひ と り ひ と り が 幸 せ に な れ ば、 そ れ は 社
会の福祉向上にとって一番好ましいことだか
ら、 そ う な る よ う な 行 為 や 政 策 を し ま し ょ う。
な ん と も 無 邪 気 な 倫 理 観 を 主 張 さ れ た も の だ。
し か し ベ ン サ ム は、 こ の 主 張 を 大 真 面 目 に 突
き 詰 め て い っ て 、「 パ ノ プ テ ィ コ ン 」 と 呼 ば れ
る刑務所の構想にいたった。
監視なき監視
人は自分の意思では必ずしも上手に幸福を
実 現 で き な い、 不 器 用 な 存 在 だ。 子 ど も、 病
人、 犯 罪 者 に い た っ て は、 と り わ け そ う に 違
い な い の で は な い か。 な ら ば、 国 家 が 個 人 に
干渉してその暮らしぶりを正さないといけな
い 。 こ れ を「 パ タ ー ナ リ ズ ム( 家 長 温 情 主 義 )」
そ こ で、 ベ ン サ ム は 一 望 監 視 シ ス テ ム、 つ
ロンドン市内に University College of London
と い う。 し か し、 個 別 に い ち い ち 干 渉 し て い
ジェレミー・ベンサム( 1748-1832
)の「自己
標 本( オ ー ト・ ア イ コ ン )
」 だ。 ベ ン サ ム ご 本
ま り 、「 パ ノ プ テ ィ コ ン 」 と い う 名 の 監 獄 を
( UCL
)と い う 名 門 大 学 が あ る。 学 内 の ホ ー ル
の通路には「ミイラ」が展示されている。哲人
人の遺言にしたがって、ミイラは教授会にも出
考 案 し て、 国 家 の 意 向 に 従 順 に ふ る ま う 個 人
たのではあまりにコストがかかる。
席されているとのこと。老害もここまでくれば
を 生 産 す る 仕 組 み を 発 明 し た。 建 物 は 円 形 で、
大 勢 の 囚 人 を 収 容 で き る。 囚 人 に は 独 房 が 用
あっぱれ。次ページの写真は、私がベンサムに
初めてお会いした際の記念すべき一枚。
くらし塾 きんゆう塾〈2016年春号〉
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東京大学大学院経済学研究科教授
経済学者。専門はゲーム理論。1960年東
京都生まれ。1983 年東京大学経済学部
卒。1988年東京大学大学院経済学研究科
博士課程修了。経済学博士。筑波大学社
会工学系助教授、東京大学経済学部助教
授などを経て、2002 年より現職。アメリ
カ・エコノメトリック・ソサエティー・フェ
ロー。日本経済学会学会誌(Japanese
Economic Review)編集長。
より良い
暮らしと経済学
あなたにとって幸福とは何か。
されている。円の中央には監視部屋の塔が設置
意されている。独房は円形の壁にぐるりと配置
念な話だ。
生保護を担う事業所は不足していると聞く。残
生保護という考えがあまり根づいておらず、更
るはずだと、大騒ぎしたことがあった。技術が
脳 活 動 を 画 像 化 す る ハ イ テ ク 装 置 「 fMRI
」を
使えば、幸福度の客観的基準がいずれは見つか
つかるはずもなかろうに。
いくら進歩したって、幸福の客観的基準など見
されている。独房のドアは、監視部屋に向かっ
て開かれている。こうして、監視人が常に全員
を監視できる態勢が整う。
よって、囚人からは監視人が見えなくなってい
よって、国民を規律正しい行動に導くための装
パ ノ プ テ ィ コ ン は、 国 家 が 最 小 限 の 強 制 に
幸福度の低い人と高い人がいたとしよう。そし
れたとしよう。この基準に照らして、もともと
こう。幸福度の基準をなんとか説得的に決めら
奇妙な結果をもたらす心理実験を紹介してお
る。囚人は、姿の見えない監視人にいつも監視
置だ。ならば、なにも刑務所に限ることはない。
て、前者は宝くじに大当たりし、後者は大けが
高度福祉国家
されている気分になる。だから、国家の意向に、
学校、病院、職場、あらゆる「公共の場」すべ
をした。ならば二人の間で、幸福度は、もちろ
た だ し、 ち ょ っ と し た 光 の 入 り 方 の 工 夫 に
いつでも従順でいないといけない。
てに「パノプティコン・パラダイム」はあては
ん大逆転だ。しかし、しばらくすると、まだ傷
そのうち意向に沿うことが習慣になる。さら
まる。
咎めたくなる。こうして、囚人は更生され、晴
ようになる。自分もまた、他人が規範に背けば
ならず、社会の構成員からも非難されると思う
と考えるようになる。規範に背くと、国家のみ
学 者 ミ ッ シ ェ ル・フ ー コ ー に よ れ ば 、パ ノ プ テ ィ
「 監 視 な き 監 視 社 会 」 だ。
世紀フランスの哲
れているなど、まるでパノプティコンのような
携帯通信の普及や、町中に監視カメラが設置さ
気づいてみれば、現代は、監視機能の付いた
がいかなくなる。
金持ちより幸福ということになり、どうも合点
に戻ってしまった。これでは、けが人のほうが
とんど使ってないうちに、二人はもとの幸福度
も癒えないうちに、そして、宝くじの賞金もほ
には、習慣は社会規範、つまり倫理的に正しい、
れて娑婆に戻れる。
び に 出 か け て も、 囚 人 に は ば れ な い の だ か ら
勢を更生できる。しかも監視人は、こっそり遊
パノプティコンでは、監視人一人で一度に大
ための一大プログラム、なんだそうだ。
とを目的とする「高度福祉国家」を実現させる
される、社会の福祉水準全体を底上げさせるこ
コン・パラダイムとは、社会の隅々に張り巡ら
い て も 問 題 な し 。強 制 の 弱 い 、「 ソ フ ト な 」パ タ ー
ナリズムで十分効果ありなのだ。
パ ノ プ テ ィ コ ン が 最 良 か ど う か は 別 と し て、
本で最初に始めたひとりだ。それまでは、刑期
明治の事業家、金原明善は、更生保護事業を日
するのには、賛成だ。実は、私の先祖にあたる
囚人を社会復帰できるように更生する仕組みと
りすることができると考えていたようだ。しか
ムは、みんなの幸福を比較したり足し合わせた
その答えは、よく分からない、である。ベンサ
う「幸福」とはいったい何なのか?残念ながら、
の よ う な も の な の か。 つ ま り、 ベ ン サ ム の い
では、国家の意向に沿う幸福の実現とは、ど
を終えても、厳しい「村八分」のために、犯罪
世 紀 終 わ り ご ろ、 一 部 の 脳 科 学 者 の 間 で、
し、どこにそんな測定基準があるというのか。
刑 務 所 を、 罰 を 与 え る 場 所 と し て だ け で な く、
幸福を測る
ヘッチャラ。囚人に活動の自由を十分与えてお
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を繰り返すしかなく、挙句は自殺してしまうこ
ともあったそうな。また、現在でも日本には更
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筆者とベンサムのミイラ
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くらし塾 きんゆう塾〈2016年春号〉
経済学者がくらしをあばく
連載エッセイ 第4回
幸 福 を 測 る こ と に 意 味 が な い わ け で は な い。
幸福とは何かについて、われわれにはコンセン
カロリーのものを買ってしまいがちだ。こんな
が売られていると、どうしても自分の好きな高
いのに、高カロリーの惣菜と低カロリーの惣菜
例えば、健康管理に気を付けなければならな
るまで、さまざまな媒体を利用することによっ
経験から科学者、専門家、有識者の意見にいた
られたものでもない。だから、国家は、過去の
祉理念は、自明なものでも、きちんと基礎づけ
パノプティコンの主である国家が意図する福
自律的個人
サスがない。しかも、幸福がかなり不適切に定
とき、低カロリーの惣菜を目のつきやすい棚に
て、 脆 弱 な 理 念 を 裏 書 す る こ と に 余 念 が な い。
ナッジ
義されている場合でも、みんなそれになかなか
おいておけば、高カロリーの惣菜に気づきなが
こうして、パノプティコンは、国家の意向に即
しかし、幸福を測ることは難しいし、そもそも
気づこうとはしない。
らも、正しく低カロリーのものを購入するよう
するも、根拠のあいまいな、社会規範を生成す
選択の科学
に、消費者を誘導できる。
のなら、経済学は幸福を追求する学問、といっ
良い選択ができればより幸せになれると考える
をするにはどうしたらいいかを分析する。より
ばれている。経済学は、人びとがより良い選択
いるのか。経済学は、別名「選択の科学」と呼
されるのだ。このような工夫のことを、最近の
消費者は、より良い選択へうまくコントロール
りはしない。ちょっと肩を一押しされるだけで、
択のメニューを限定したり、消費者を強制した
このようなちょっとした工夫は、消費者の選
関係に置かれる。
されそうになる。だから、高度福祉国家と自律
い行いだ、などと他者から非難され、押しつぶ
たいとする人は、社会規範に照らして、良くな
では、経済学は、幸福をどのようにとらえて
てよかろう。
経 済 学 者 は 「 ナ ッ ジ ( nudge,軽 く 肩 を つ く こ
と )」 と 呼 ん で い る 。 ナ ッ ジ は 、 ベ ン サ ム 流 の
る装置と化す。
こ ん な 経 済 学 の 重 要 な 特 徴 は、 あ な た に と っ
ソフトなパターナリズムと、実質的に同じこと
例えば、今年東大を卒業する「私」は、
的個人は、手を取り合うことなく、絶えず緊張
パノプティコンから逃れたい、自律的であり
てより良 い 選択と、私にとってより良 い 選択と
る。大手に普通に就職すれば、家族から称賛さ
ベンチャーに就職したい。しかし、家族は、と
では、あなたは、こんなカロリー問題が、上
れ る こ と に な る 。結 局 、優 秀 な 東 大 生 で あ る「 私 」
である。ベンサムのパノプティコンは、現代経
測定基準を、あらかじめ想定していない点にある。
述したようなナッジによって解決されることを、
は屈服し、就職初年度からコピー取りにいそし
を 比 べ て、 ど ち ら が よ り 重 要 か、 と い っ た、 個
所得分配の公正さ、望ましい倫理のあり方な
本当に望んでいるのか。本当は、この惣菜は高
むことになる。なんてむなしい。
ある大手企業に「普通に」就職しろ、と反対す
どを考えていくと、いずれ個人間で比較するこ
カ ロ リ ー だ と い う 情 報 を 教 え て も ら う だ け で、
済学にもしっかり息づいているのだ。
と が 必 要 に な っ て く る。 こ ん な 場 合 に 備 え て、
あとは自分自身の力だけで解決したい、と思っ
人 間 で 比 較 し た り、 足 し た り す る た め の 特 定 の
経済学は、どんな個人間の比較基準を想定して
てるんじゃないだろうか。
福祉は大いに結構。だけど、つまらない倫理
も、分け隔てなく分析することができるように、
しい選択をうっかり間違えたり、正しい選択が
しかし、実際に経済社会に生きる個人は、正
る限り逃れていたい。他人から干渉されず、自
にソフトであっても、パターナリズムからでき
「 ナ ッ ジ を 好 ま な い 」 と 答 え る そ う だ。 ど ん な
だが、みなさんはいかが?
とするエンドレス・ファイト、と定義したいの
して、幸福の実現とは、自律的であり続けたい
から、私は、一市民として、そして経済学者と
感に押しつぶされるのは御免こうむりたい。だ
できない状況に追い込まれていたりする。よっ
律的(自立的)でありたい。こんな風に願って
このような質問をすると、少なからざる人が、
て、パノプティコンのような、ソフトなパター
いるのだ。
うまくしつらえられている学問なのだ。
ナリズムが、経済活動の随所で必要になる。
くらし塾 きんゆう塾〈2016年春号〉
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