︻連載エッセイ 第4回︼ 経済学者 が くらし をあばく 幸福 松島 斉(まつしま ひとし) ベンサムのミイラ また、幸福な国家とはどんな国だろうか。 すべての人びとの限りない欲求を かなえ続けることではなさそうだ。 人は一人で生きていけない。 たえず価値観の違う誰かとの 関係性を保ちながら、 自分自身の立場を確たるものに…。 最終回は、経済学の視点から 幸福のあり方をあばいてみようと思う。 ベ ン サ ム の 頭 部 だ け は 蝋 で で き て い る。 悪 ガキ学生がベンサムの本物の骸骨でサッカー し て 損 傷 し た か ら 作 り 物 に 換 え た な ど と、 ど な た か に お 聞 き し た が、 真 偽 は 定 か で な い。 まあ、もうどうでもいい。 こんなベンサムには有名なキャッチフレー ズ が あ る。 そ れ は「 最 大 多 数 の 最 大 幸 福 」 だ。 ひ と り ひ と り が 幸 せ に な れ ば、 そ れ は 社 会の福祉向上にとって一番好ましいことだか ら、 そ う な る よ う な 行 為 や 政 策 を し ま し ょ う。 な ん と も 無 邪 気 な 倫 理 観 を 主 張 さ れ た も の だ。 し か し ベ ン サ ム は、 こ の 主 張 を 大 真 面 目 に 突 き 詰 め て い っ て 、「 パ ノ プ テ ィ コ ン 」 と 呼 ば れ る刑務所の構想にいたった。 監視なき監視 人は自分の意思では必ずしも上手に幸福を 実 現 で き な い、 不 器 用 な 存 在 だ。 子 ど も、 病 人、 犯 罪 者 に い た っ て は、 と り わ け そ う に 違 い な い の で は な い か。 な ら ば、 国 家 が 個 人 に 干渉してその暮らしぶりを正さないといけな い 。 こ れ を「 パ タ ー ナ リ ズ ム( 家 長 温 情 主 義 )」 そ こ で、 ベ ン サ ム は 一 望 監 視 シ ス テ ム、 つ ロンドン市内に University College of London と い う。 し か し、 個 別 に い ち い ち 干 渉 し て い ジェレミー・ベンサム( 1748-1832 )の「自己 標 本( オ ー ト・ ア イ コ ン ) 」 だ。 ベ ン サ ム ご 本 ま り 、「 パ ノ プ テ ィ コ ン 」 と い う 名 の 監 獄 を ( UCL )と い う 名 門 大 学 が あ る。 学 内 の ホ ー ル の通路には「ミイラ」が展示されている。哲人 人の遺言にしたがって、ミイラは教授会にも出 考 案 し て、 国 家 の 意 向 に 従 順 に ふ る ま う 個 人 たのではあまりにコストがかかる。 席されているとのこと。老害もここまでくれば を 生 産 す る 仕 組 み を 発 明 し た。 建 物 は 円 形 で、 大 勢 の 囚 人 を 収 容 で き る。 囚 人 に は 独 房 が 用 あっぱれ。次ページの写真は、私がベンサムに 初めてお会いした際の記念すべき一枚。 くらし塾 きんゆう塾〈2016年春号〉 11 東京大学大学院経済学研究科教授 経済学者。専門はゲーム理論。1960年東 京都生まれ。1983 年東京大学経済学部 卒。1988年東京大学大学院経済学研究科 博士課程修了。経済学博士。筑波大学社 会工学系助教授、東京大学経済学部助教 授などを経て、2002 年より現職。アメリ カ・エコノメトリック・ソサエティー・フェ ロー。日本経済学会学会誌(Japanese Economic Review)編集長。 より良い 暮らしと経済学 あなたにとって幸福とは何か。 されている。円の中央には監視部屋の塔が設置 意されている。独房は円形の壁にぐるりと配置 念な話だ。 生保護を担う事業所は不足していると聞く。残 生保護という考えがあまり根づいておらず、更 るはずだと、大騒ぎしたことがあった。技術が 脳 活 動 を 画 像 化 す る ハ イ テ ク 装 置 「 fMRI 」を 使えば、幸福度の客観的基準がいずれは見つか つかるはずもなかろうに。 いくら進歩したって、幸福の客観的基準など見 されている。独房のドアは、監視部屋に向かっ て開かれている。こうして、監視人が常に全員 を監視できる態勢が整う。 よって、囚人からは監視人が見えなくなってい よって、国民を規律正しい行動に導くための装 パ ノ プ テ ィ コ ン は、 国 家 が 最 小 限 の 強 制 に 幸福度の低い人と高い人がいたとしよう。そし れたとしよう。この基準に照らして、もともと こう。幸福度の基準をなんとか説得的に決めら 奇妙な結果をもたらす心理実験を紹介してお る。囚人は、姿の見えない監視人にいつも監視 置だ。ならば、なにも刑務所に限ることはない。 て、前者は宝くじに大当たりし、後者は大けが 高度福祉国家 されている気分になる。だから、国家の意向に、 学校、病院、職場、あらゆる「公共の場」すべ をした。ならば二人の間で、幸福度は、もちろ た だ し、 ち ょ っ と し た 光 の 入 り 方 の 工 夫 に いつでも従順でいないといけない。 てに「パノプティコン・パラダイム」はあては ん大逆転だ。しかし、しばらくすると、まだ傷 そのうち意向に沿うことが習慣になる。さら まる。 咎めたくなる。こうして、囚人は更生され、晴 ようになる。自分もまた、他人が規範に背けば ならず、社会の構成員からも非難されると思う と考えるようになる。規範に背くと、国家のみ 学 者 ミ ッ シ ェ ル・フ ー コ ー に よ れ ば 、パ ノ プ テ ィ 「 監 視 な き 監 視 社 会 」 だ。 世紀フランスの哲 れているなど、まるでパノプティコンのような 携帯通信の普及や、町中に監視カメラが設置さ 気づいてみれば、現代は、監視機能の付いた がいかなくなる。 金持ちより幸福ということになり、どうも合点 に戻ってしまった。これでは、けが人のほうが とんど使ってないうちに、二人はもとの幸福度 も癒えないうちに、そして、宝くじの賞金もほ には、習慣は社会規範、つまり倫理的に正しい、 れて娑婆に戻れる。 び に 出 か け て も、 囚 人 に は ば れ な い の だ か ら 勢を更生できる。しかも監視人は、こっそり遊 パノプティコンでは、監視人一人で一度に大 ための一大プログラム、なんだそうだ。 とを目的とする「高度福祉国家」を実現させる される、社会の福祉水準全体を底上げさせるこ コン・パラダイムとは、社会の隅々に張り巡ら い て も 問 題 な し 。強 制 の 弱 い 、「 ソ フ ト な 」パ タ ー ナリズムで十分効果ありなのだ。 パ ノ プ テ ィ コ ン が 最 良 か ど う か は 別 と し て、 本で最初に始めたひとりだ。それまでは、刑期 明治の事業家、金原明善は、更生保護事業を日 するのには、賛成だ。実は、私の先祖にあたる 囚人を社会復帰できるように更生する仕組みと りすることができると考えていたようだ。しか ムは、みんなの幸福を比較したり足し合わせた その答えは、よく分からない、である。ベンサ う「幸福」とはいったい何なのか?残念ながら、 の よ う な も の な の か。 つ ま り、 ベ ン サ ム の い では、国家の意向に沿う幸福の実現とは、ど を終えても、厳しい「村八分」のために、犯罪 世 紀 終 わ り ご ろ、 一 部 の 脳 科 学 者 の 間 で、 し、どこにそんな測定基準があるというのか。 刑 務 所 を、 罰 を 与 え る 場 所 と し て だ け で な く、 幸福を測る ヘッチャラ。囚人に活動の自由を十分与えてお 20 を繰り返すしかなく、挙句は自殺してしまうこ ともあったそうな。また、現在でも日本には更 20 筆者とベンサムのミイラ 12 くらし塾 きんゆう塾〈2016年春号〉 経済学者がくらしをあばく 連載エッセイ 第4回 幸 福 を 測 る こ と に 意 味 が な い わ け で は な い。 幸福とは何かについて、われわれにはコンセン カロリーのものを買ってしまいがちだ。こんな が売られていると、どうしても自分の好きな高 いのに、高カロリーの惣菜と低カロリーの惣菜 例えば、健康管理に気を付けなければならな るまで、さまざまな媒体を利用することによっ 経験から科学者、専門家、有識者の意見にいた られたものでもない。だから、国家は、過去の 祉理念は、自明なものでも、きちんと基礎づけ パノプティコンの主である国家が意図する福 自律的個人 サスがない。しかも、幸福がかなり不適切に定 とき、低カロリーの惣菜を目のつきやすい棚に て、 脆 弱 な 理 念 を 裏 書 す る こ と に 余 念 が な い。 ナッジ 義されている場合でも、みんなそれになかなか おいておけば、高カロリーの惣菜に気づきなが こうして、パノプティコンは、国家の意向に即 しかし、幸福を測ることは難しいし、そもそも 気づこうとはしない。 らも、正しく低カロリーのものを購入するよう するも、根拠のあいまいな、社会規範を生成す 選択の科学 に、消費者を誘導できる。 のなら、経済学は幸福を追求する学問、といっ 良い選択ができればより幸せになれると考える をするにはどうしたらいいかを分析する。より ばれている。経済学は、人びとがより良い選択 いるのか。経済学は、別名「選択の科学」と呼 されるのだ。このような工夫のことを、最近の 消費者は、より良い選択へうまくコントロール りはしない。ちょっと肩を一押しされるだけで、 択のメニューを限定したり、消費者を強制した このようなちょっとした工夫は、消費者の選 関係に置かれる。 されそうになる。だから、高度福祉国家と自律 い行いだ、などと他者から非難され、押しつぶ たいとする人は、社会規範に照らして、良くな では、経済学は、幸福をどのようにとらえて てよかろう。 経 済 学 者 は 「 ナ ッ ジ ( nudge,軽 く 肩 を つ く こ と )」 と 呼 ん で い る 。 ナ ッ ジ は 、 ベ ン サ ム 流 の る装置と化す。 こ ん な 経 済 学 の 重 要 な 特 徴 は、 あ な た に と っ ソフトなパターナリズムと、実質的に同じこと 例えば、今年東大を卒業する「私」は、 的個人は、手を取り合うことなく、絶えず緊張 パノプティコンから逃れたい、自律的であり てより良 い 選択と、私にとってより良 い 選択と る。大手に普通に就職すれば、家族から称賛さ ベンチャーに就職したい。しかし、家族は、と では、あなたは、こんなカロリー問題が、上 れ る こ と に な る 。結 局 、優 秀 な 東 大 生 で あ る「 私 」 である。ベンサムのパノプティコンは、現代経 測定基準を、あらかじめ想定していない点にある。 述したようなナッジによって解決されることを、 は屈服し、就職初年度からコピー取りにいそし を 比 べ て、 ど ち ら が よ り 重 要 か、 と い っ た、 個 所得分配の公正さ、望ましい倫理のあり方な 本当に望んでいるのか。本当は、この惣菜は高 むことになる。なんてむなしい。 ある大手企業に「普通に」就職しろ、と反対す どを考えていくと、いずれ個人間で比較するこ カ ロ リ ー だ と い う 情 報 を 教 え て も ら う だ け で、 済学にもしっかり息づいているのだ。 と が 必 要 に な っ て く る。 こ ん な 場 合 に 備 え て、 あとは自分自身の力だけで解決したい、と思っ 人 間 で 比 較 し た り、 足 し た り す る た め の 特 定 の 経済学は、どんな個人間の比較基準を想定して てるんじゃないだろうか。 福祉は大いに結構。だけど、つまらない倫理 も、分け隔てなく分析することができるように、 しい選択をうっかり間違えたり、正しい選択が しかし、実際に経済社会に生きる個人は、正 る限り逃れていたい。他人から干渉されず、自 にソフトであっても、パターナリズムからでき 「 ナ ッ ジ を 好 ま な い 」 と 答 え る そ う だ。 ど ん な だが、みなさんはいかが? とするエンドレス・ファイト、と定義したいの して、幸福の実現とは、自律的であり続けたい から、私は、一市民として、そして経済学者と 感に押しつぶされるのは御免こうむりたい。だ できない状況に追い込まれていたりする。よっ 律的(自立的)でありたい。こんな風に願って このような質問をすると、少なからざる人が、 て、パノプティコンのような、ソフトなパター いるのだ。 うまくしつらえられている学問なのだ。 ナリズムが、経済活動の随所で必要になる。 くらし塾 きんゆう塾〈2016年春号〉 13 I T
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