ヴェネツィアにおける 町 ”みの形成過程

、
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
イタリアの街なみ
ヴエネツイアにおける
町並みの形成過程
陣内秀信
法政大学工学部講師
初期形成時代
むすび
前期ゴシック時代
@都市の公共空間の形成
後期ビザンチン時代
前期ビザンチン時代
③②①
水に依存した都市建設
はじめに
1
11
はじめに
ラグーナという浅い海に浮かぶ小島群の上
に大都市国家を築き上げたヴェネツィアは、
変化に富んだ独特の都市構造と、それに結び
ついた生活構造をもっている。そこには困難
な条件を克服しながら長い建設の経験の中で
の町には全く見られない手づくりの秩序が感
培われた町づくりの明確な方法があり、現代
じられる。
ヴェネツィアは興味深い対象である。水都ヴ
﹁町並みの形成﹂という観点から見ても、
ェネッイアの都市の外部空間としては、まず
るが、そればかりか島の内部に形成された道
運河︵リオ︶が特徴的なものとしてあげられ
︵カッレ︶、広揚︵カンポ︶などもこの町なら
ではのユニークな性格をもっている。つまり
この町には、ゴンドラ等の舟のための水路す
なわち運河と、島の中を巡る歩行者用の道と
いう二つの交通路がある。そして道のネット
ワークの中には、必ず大きな節としての穴場
がある。これらがヴェネツィアの都市外部の
くる基本的な要素となっているのである。
空間の代表的なものであり、都市構造を形づ
間として整備され実体をもってくるのは、都
そしてこれらの外部空間が都市の公共的空
市全体の発展過程あるいはコミュニティの形
ヴェネツィアにおいて﹁町並み﹂というテ
成段階と密接に結びついている。
一20一
イタリアの街なみ
の形成を読むには、それを構成する個々の要
はなかなか手掛りが得られない。実は町並み
き明かすのに、それ自体を眺めているだけで
外部空間が問題になるが、その形成過程を解
ーマを考えると、おのずとこういつた都市の
このような水で囲われた教区としての各島
風変わった形で町づくりが始まった︵図1︶。
教会堂を建て、小さな集落を築くという、一
アでは数多くの有力家が島を一つずつ占領し
断した。こうして九世紀初頭からヴェネツィ
グーナに浮かぶ群島の上に移住することを決
た初期形成期には、水の例が各居住地の表玄
橋がなく、舟のみが町の中の移動手段であっ
体、それを暗示している。しかも島相互間に
う言葉がイタリア語で田畑を意味すること自
ない単なる空地にすぎなかった。カンポとい
だ野菜畑や果樹園と一体となった舗装もされ
れたカンポがあった。といっても、それはま
書ぶ.あ
き.
興
素である住宅建築の在り方にも目を向ける必
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には、教会堂や住居群によって何方かを囲ま
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要がある。特にヴェネツィアでは、住宅建築
の形成・発展の軌跡は、そのまま都市の発展
段階とみごとに符合しており、従って町並み
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ル.
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蕃
の形成を読んでいく上で、住宅建築の在り方
を一種の記号として扱うことができるのであ
る。
本稿では、中世のヴェネツィアにおける町
の成熟が進み環境形成において集合的性格が
並みの形成過程を扱うが、特にコミュニティ
を合わせ、水辺の町並み形成から、広場や街
強まるゴシック時代︵一四、五世紀︶に焦点
明らかにする。そのことを通じて、町並みの
路の町並み形成へと比重が移っていく過程を
形成が市民の生活の中でどのように意識され
ていたのかを考察したい。
水に依存した都市建設
① 初 期形成時代
このようなヴェネツィアのユニークな都市
構造を解き明かす鍵は、実はその初期形成時
代の歴史を調べることにある。激動の中世を
生きた人々は、外敵から身を守るために、ラ
一21一
御
点
轟
憤
毒
初期のヴェネッィァの様子を示す
12世紀中頃の古地図
図1
1
関であったから、カンポは共同の裏庭的性格
このような構成を示す複合体の中で、十二世
リオンでは右奥コーナーに十二世紀の大きな
のアーチ、アカンサスのコーニスをもってお
アーチがかかっているばかりか、奥の棟の二
り、明らかにその建物部分が古いことを示し
紀のビザンチン様式のアーチを残すものが二
ンの住宅であり、もう一つはコルチ・ボッテ
ている︵図2・3︶。またコルチ・ボッテラで
階にオリジナルの要素であるずんぐりした窓
② 前期ビザンチン時代
ラの住宅である。いずれも現状では、運河沿
は、正面奥に同じようなアーチをもち、しか
つ見出せる。その一つはコルチ・デルミリオ
約三世紀にわたる初期形成時代に、運河シ
いにも建物が置かれ、水際からはトンネルを
一
が強かったに違いない。
ステムによって島の集合体を結びつける独特
抜けて大きなコルチに出る構成をとるが、復
と思われる外階段が二階へと立ち上がってお
の都市構造を見出し、水の上での町づくりの
り、やはりここでも奥の棟が最も主要な部分
も右奥におそらく当初から同じ位置にあった
とができ、本来は水に面した大きな前庭をも
原的に考察するとこれらの部分はより除くこ
ち、敷地の奥に建物が置かれる形式であった
ン時代に入ると、木造から練瓦造、石造への
づくりに乗り出した。この時代の都市社会で
■■■ u一■7’}「一廟
であることが知られるのである︵図4︶。
切り替えを徐々に実現しながら、本格的な町
基礎固めを終えたヴェネツィアは、ビザンチ
●
と推測される。すなわち、コルチ・デル・ミ
堕半
主導権を握るのは商人貴族であり、彼らは物
とに関心があったから、都市構造はやはり水
為
資の搬入・搬出の便のため水辺に館を置くこ
︵運河︶との結びつきを強くもつものとなっ
た。こうして水辺に新たに開発される住宅地
には、商人貴族である主人の住む主屋、それ
に仕える家族の住居、サービス用の建物がコ
●
71鰍
ーソ].H口
. ,
●一 駆
ルチと呼ばれる中庭を囲んで集合する、複合
的な形式が登場した。広くとられた各コルチ
にはこの数家族専用の井戸︵貯水槽︶も設置
され、快適な居住条件をもつ独立性の強い生
活環境が生み出された。
このような住宅地はまず、水を制御しやす
い内部の小運河に沿って形成された。それは
特に、リアルトとサン・マルコという町の二
つの中心を結ぶ区域に集中しており、初期ビ
のであった。
ザンチン時代の貴族主導型社会を表現するも
リオン 右下に
墜登議「
紀のアーチが見える
コルチ・デル
3
コルチ・デル・ミリオン(*印)とその周辺
図2
一22一
イタリアの街なみ
をつくることは、まだ意識されていなかった
運河に面して建物を並べ華やかな水辺の空間
も、都市化があまり進んでいない段階では、
あったと考えられる。ヴェネツィアにあって
水に面してファサードをもたない前庭形式で
結局これらの二例はいずれも、初期には、
で、裏手にはそれぞれ勝手にコルチや付属の
て、そこにリズミカルな調和が保たれてい
る。それに対し、各建物の奥行はばらばら
しかも、ほぼ揃った間口の繰り返しによっ
なる本格的な町並みが生まれた︵図6・7︶。
アにおいて初めて水辺に壁面が連続的につら
たファサードの華やかさを競い、ヴェネツィ
建物がくっついているため、地区としてのま
のである。
をもつ貴族住宅群に続き、いよいよ大運河に
このような内部の小運河沿いに並ぶコルチ
こうして十二世紀に登場した運河に面するヴ
直接面し裏に庭をもつ商館建築が登場した。
ェネト・ビザンチン様式の商館建築によって
ヴェネツィア住宅の基礎ができ、以後十五世
紀末までの約四世紀間に、この町独特の建築
様式が完成することになる。
ェネツィアの古来の商業の中心、リアルト地
図5 サン・シルヴェストロ地区2階平面図
ビザンチン時代の大規模な商館建築は、ヴ
区に近いカナル・グランデ沿いに集中してい
る。これらは三列構成のシンメトリーな古典
的形態をもち、 ﹁ブロック型﹂の住宅と定義
される。この類型に属する建築の背後には、
大きなコルチを中心に付属建築物が並び、独
立性の高い生活環境が形成されている。
図5は、リアルト橋に近いサン・シルヴエ
一23一
ストロ地区の平面図であり、大運河に面した
この時代の典型的な町並みの様子を示してい
る。運河例では、 ﹁ブロック型﹂の建築類型
をとるパラッツォのそれぞれが趣向をこらし
図4 コルチ・ポッテラ 中央に12世紀のアーチ 右手に外階段が見える
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図6 ヤコポ・デ・バルバリの鳥瞳図(1500年)に描かれた
サン・シルヴェストロ地区周辺の町並み
図7 サン・シルヴェストロ地区の商館群
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一24一
イタリアの街なみ
運河沿いに居を構えることにのみ関心があっ
要するに、ステイタス・シンボルとして大
空間が形成されていったと考えられる。
る住宅建築が建並ぶようになり、水辺の都市
っても、三分割構成のファサードを水に向け
こうして、大運河ばかりか内部の運河に沿
のコーナーに組み入れ、簡潔な敷地利用を実
として不確定要素となっていたコルチを建物
面した前庭として、あるいは建物の背後の庭
ていたといえる。すなわち、それまで運河に
に対応する姿勢を建築的にすでに表現し始め
を示さなかったが、都市化という社会的要請
とまりが著しく悪い。
た商人貴族たちは、裏側のコミュニティのた
ンの後期ビザンチン時代の住宅は、依然水と
また、この二棟に代表される﹁﹂型﹂プラ
現したのである。こうして、高密で有機的な
めの都市計画的配慮を怠ったのである。初期
の結びつきを優先し、島の周縁部にのみ立地
に出来ていた前述の教区教会堂や、それに隣
接するカンポとの結びつきも、この段階では
都市を本格的に形成していくゴシック時代へ
の足がかりがっくられたのである。
して、地区としてのまとまりにはなんら関心
の建設は、まず水に面した場所から始まった
いては、明確な形式をもつ本格的な住宅建築
いずれにしても、水の都ヴェネツィアにお
といえる。このように水の側こそ地区にとっ
﹁﹂型﹂住宅1階平面図
図8 サン・ジョヴ7ン呂・ヌオヴォ地区の
ほとんど考えられていなかったといえよう。
㈲ 後期ビザンチン時代
十三世紀後半の後期ビザンチン時代には、
て、中産階級的社会の様相を少しずつもち始
ヴェネツィアは貴族主導型の社会から抜け出
めた。それを背景として、住宅建築にも大き
のである。
しかし、都市の発展とともに徐々に道、橋
ての正面であるという意識が強く働いていた
続的な都市化を可能とするような、新たな配
まれてくる。それに伴い島の内部にも都市空
が整備され、都市全体としてのまとまりが生
な変化が見られた。大運河に面して商館が並
列・構成を示す建築類型が生み出された。す
ぶばかりか、内部の細い運河に面しても、連
なわち、水際にファサードを向け奥のコーナ
ところで、すでに述べたように、ヴェネツ
物が並び、町並みが整えられるようになる。
ィアの町は元々、カンポと教区教会堂を中心
間が形成され、広場や道に面しても立派な建
上の構成は、水路・歩道・隣接地との関係で
とした数多くの居住地がばらばらに存在する
ーに大きなコルチをとり込んだ﹁﹂型﹂の平
決定されるようになり、敷地−建物の単位が
状態から都市の形成を開始した。従って初期
面構成が登蒸した。こうして住宅内部の配列
してふさわしいものとなったのである。
語っている。
・ロドヴイコの次の一節がその様子をよく物
ろん島と島の間には橋がなかった。歴史家M
には、ラグーナの水面が大きく広がり、もち
明確化して、町並みを形づくるエレメントと
このような後期ビザンチン時代の﹁﹂型﹂
ら少し北東へ奥まったサン・ジョヴァンニ・
の構成をとる典型例は、サン・マルコ広場か
ヌオヴォ島に二棟並んで見られる︵図8︶。
一25一
わなければ自分の家から他人の家へ行くこと
﹁海で囲まれた人々の家がある。小舟を使
ェネツィアの建設期における土地の拡張は、
を組織化することを見込んで岸の縁を空地と
して残しておくことを命じた。このようにヴ
公共通行用のフォ.ンダメンタ︵運河沿いの道︶
範に形成され始めたのもこの時期と見てよか
造が生れたのである。都市内の公共道路が広
機的な形態をとるヴェネツィア独特の都市構
布している︵図9︶。こうして、非計画的で有
ができない。﹂
利益を考慮しながら民間人の手で進められた
基本的にはコムーネとの契約のもとに、公的
島の内部における住宅の建設活動はいかなる
それでは、この頃の道路やカンポに面した
くなるのは当然であった。こうして、数多く
際を整備したから、曲がりくねった運河が多
な橋は十二、三世紀にすでに建設された可能
た。とりわけ、交通量の多い中心地区の主要
に、隣の島とを結ぶ橋の建設が必要となっ
同時に島相互間に運河が整備されると、次
さて、こうして各島における開発が進み、
にすぎなかった︵図10︶。ヴェネツィアの水に
場する建築は、いずれも小規模で質素なもの
格的な建築が並んだのに対し、島の内側に登
る運河に沿って早くから明確な形式をもつ本
状態だったのであろうか。都市の表側にあた
ろう。
いまいに広がっていたラグーナの水面を、最
と考えられるのである。
しかし、都市の発展とともに、それまであ
も深い所だけ残して運河とし、両側は木の杭
の島が寄木細工のように集まり、その間を網
性が強い。だが一般の島に亜聖もの橋がかか
や石材でかため、干拓・造成しながら宅地と
して開発していった。自然地形に合わせて水
の目のように運河が巡る、というヴェネツィ
面した大きな住宅と比べると、後の住宅建築
て最も重要な水路の決定、管理は国家の手で
その揚合、ヴェネツィアの都市建設にとっ
紀のゴシック時代と思われる。
は、後の建設の黄金期といわれる十四、五世
り都市全体の歩行システムが形成されるの
れらは島内部の背骨にあたる主要道︵サリッ
質素な機能と容貌しかもっていなかった。そ
構成はいまだにに獲得しておらず、はるかに
の展開に直接つながるような開放的で明快な
アの独特のシステムが形成されたのである。
行われ、専門の官職が早くから設けられてい
ところで、多核都市として出発したヴェネ
一方、土地の造成・拡張は、公共的な行政
部のカンポを結ぶ道の多くも、その島の中で
ばらに地区形成が展開していた。運河際と内
ツィアでは、各島々の内部において個々ばら
上げする便宜をもたないものの、往来に面し
ザーダ︶に面して建つから、舟から物資を荷
た。
官が管理するのであっても、実際にその事業
して有効に利用していた。水際の大きな建物
た一階に賃貸と思える商店を置いて収入源と
のに対し、これらの道に面した建物は住民の
が広域の商業取引を行う商館的役割をもった
完結するネットワークとして考えられてい
いは完教法人といった民間の人々であった。
の間を橋で結ぶことが必要となった際には、
た。従って、都市の統合を目的として島相互
にたずさわるのは私人、市民グループ、ある
コムーネ︵自治体︶当局は、都市の発展を促
が結ばれた。例えば、規則正しい拡張である
じて公共的な環境整備の見地から厳しい契約
に譲渡した。しかしその際、個々の場合に応
かった。このような﹁ポンチ・ストルト︵振
道を付け足してつじつまを合わせることも多
挨って橋がかけられたり、運河沿いに短い歩
対応していない道と道の間に多少強引にでも
㈹ 前期ゴシック時代
進するために、民間人が造成した土地を彼ら
こと、堅固な堤防とすることを義務づけ、ま
れた橋︶﹂がヴェネツィアの町には随所に分
ヴェネツィアの都市形成史上、 最も見こた
@都市の公共空間の形成
日常生活用の店舗を内包していたといえる。
た時には、橋や上陸地点の建設を課したり、
11
一26一
一
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イタリアの街なみ
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での運河に大きく依存した単純な都市構造で
ィアの町は非常な人口の増大を示し、それに
四、五世紀である。十四世紀には、ヴェネツ
えのあるのは、ゴシック時代と呼ばれる十
から周辺へ水際まで伸びる道路網によって島
堂のあるカンポと呼ばれる広場があり、そこ
的な構造をもつことになった。中心に、教会
は、それを母体として、各島がそれぞれ求心
に対応︶を築いていた古くからの中心部で
このカンポを中心に地区としての積極的なま
のすみずみまで組織された。住民の生活も、
伴う広範な中産階級の形成によって、それま
はすまされなくなった。こうして、利用可能
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て、従来の、特に上層市民に見られたような
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とまりをもち始めた。各地区の形成におい
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め、稠密な都市空間を築き始めた。
なすべての沼沢地での干拓、建設をおし進
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ラグーナの島の上に分散的な居住核︵教区
図10 島内部に建つ小建築︵13世紀︶
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謬,
ヴェネツィアの振れた橋の例
図9
の空間︵運河︶に対する陸の都市空間︵広
になったのである。そしてこの過程で、水辺
とまろうとする求心性の原理が強く働くよう
え、島の内側のコミュニティの核を中心にま
水に向けて館を構えようとする向水性に加
の都市形成にとって画期的であった。それ
ラッツォが建設されたことは、ヴェネツィア
このように運河側にも道路側にも同格のパ
ることが多いのである︵図11︶。
と格式の住宅を背中合わせに一対として建て
な奥行の敷地をとり、そこに同じような規模
︵サリッザーダ︶ないしカンポとの間に適当
わって、道のもつ価値が徐々に大きくなって
ネッイアの歴史においては、運河にとって代
なったに違いない。そして、これ以降、ヴエ
りながら歩いて動くのも、心地のよいものと
きたこの町の中を、橋を越え、広場や道を辿
この頃から、数多くの島が複雑に集合してで
つ目の顔が誕生したと見ることができよう。
場、道︶の重要性が次第に大きくなっていっ
ない住宅が成立することを意味し、従来のよ
は、島内部の例にはもはや水からの入口をも
ンチアーノ地区の﹁﹂型﹂住宅では、運河側
ところで、ここで問題としてきたサン・カ
いくのである。
このような都市構造の形成は、もちろん新
うな運河に面し、水・陸の二極性をもつとい
たと考えられる。
められた。この時代には、コミュニティの成
たな建築類型の住宅の開発と一体となって進
チを置くため、その部分だけ低い塀が巡るこ
﹁﹂型﹂の住宅は、正面の道路側の角にコル
と道路側に同格の建物が並んだとはいえ、水
四世紀︶になると、中小貴族、中産階級の市
なくなったのである。このゴシック前期︵十
とになり、敷地間口一杯に統一感のあるファ
うヴェネツィア住宅の原則が徐々に崩れてい
民にとって、水に面して居を構えることは必
くことを示していた。向水性が、もはやヴエ
する町づくりが展開したといえるのである。
ずしも彼らの生活にとって必要ではなくなっ
に三分割構成のファサードをもたないばかり
サードをとることができない︵図12︶。道路側
熟が見られ、私的生活の充足と公共生活の確
まず、ゴシック時代前期︵十四世紀︶に登
た。むしろ、広野や道が整備され、コミュニ
か、コルチが大きい場合には、最も装飾的な
み出していたわけではなかった。道路側の
場した住宅は、後期ビザンチンのコーナーの
ティの活動が高まってくるにつれ、こういつ
要素である中央広間の連続アーチ窓が道に開
餅と陸側にいまだ完全に同等の都市景観を生
化が進み、いかにもヴェネツィアらしい連続
た陸の内部の公共空間に面した居を構えるこ
ネッイアの都市形成にとっての絶対条件では
的で高密につまった都市組織の形成が可能に
とも積極的な意味をもつようになったと考え
いる。従って、街路空間として見ると、両側
かれずにコルチに面するという状態を呈して
立という二つの要求を、同時にみごとに解決
なった。特に、高密ながらすぐれた住環境を
られる。
ばしば共通の特徴を見せている。すなわち、
この時期の住宅は、宅地の開発方式にもし
り方にあったとさえいえよう。
非常に大きかった。従って、ヴェネツィア住
かなめ
宅のプランニングの上での要は、コルチのと
れた連続ファサードが並ぶようになったので
空間の側にも、アーチ窓で美しく飾り立てら
のみならず、広場や主要道路などの陸の公共
ーノ地区に見られるようにそれまでの運河側
このような事情のもとに、サン・カンチア
への適合が考えられてはいるものの、建物の
い。敷地割、プランの形式の上で高密な都市
の過渡的段階を示しているといわざるを得な
至っておらず、いまだ都市の公共空間の形成
に連続的な壁面が連なる完成された状態には
プランをとった。こうして敷地と建物の一体
コルチを縮小し、さらに簡潔となった﹁﹂型﹂
保持していくためには、コルチのもつ意味は
サン・カンチアーノ地区の例が示すように、
ある。こうしてヴェネツィアの町並みに、二
配列上いまだに素朴なコルチ型住宅の内部の
運河とそれに平行な島のメイン・ストリート
一28一
イタリアの街なみ
論理から発想するという側面を残しており、
ら成る地区でありながら、一歩都市化の進展
基本的に同じ﹁﹂型﹂の前期ゴシック住宅か
それに対し、サン・アゴスティン地区は、
性の小さい路地に向けてコルチをとっている
る①、②のような建物の場合には、その公共
ここでは、運河に面し裏で狭い路地に接す
3と﹂ ト﹂し監
.9ヒ戯
f,
小広場に面する﹁﹂型﹂住宅
図12 サン・カンチアーノ地区の
増し、それを立派に造形しようとする意識が
陸の側のコミュニティの公共空間が重要性を
なのである。明らかに、広揚や街路といった
物の外壁は完成度が高く、連続的かつ統一的
つまり、都市の公共の外部空間を形づくる建
の建物も全くコルチの存在を見せていない。
が、人通りの多い広場や街路に面しては、ど
1£
した在り方を示す興味深い例である︵図13︶。
グ上の解決を得るには至っていないのであ
@ 住宅−都市が完全に一体となったプランニン
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一29一
る。
図11サン・カンチアーノ地区の14世紀ゴシック住宅群
生まれたことをこのことからも読み取れよ
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特に、先に見たサン・カンチアーノ地区の
例と同様、背中合わせに一対として並ぶ﹁﹂
型﹂の住宅が注目される。ここでは道路側の
建物は︵図13の③︶、コルチをコンパクトに切
りつめて背後に回し、ファサードの例では、
内部の三列構成をそのまま外観に表現し、統
一のあるシンメトリーな三分割構成を実現し
ているのである︵図14︶。こうして、運河ばか
りか、広揚や道路の側でも、高くて立派なフ
ァサードが連続的につらなる町並みが実現
し、都市の公共的な外部空間として魅力を高
めていった。
ゴシック時代こそ、ヴェネツィアの都市形
成高上の黄金期である。すでに見た一四世紀
から、さらに次の一五世紀にかけて、建設活
動の熱気は町中にみなぎり、住宅建築の形式
の完成に依拠しながら、都市の基本構造が決
定されていた。そして材質感を感じさせぬほ
どに軽やかで繊細に昇華された装飾的窓をも
つゴシック様式のパラッツォは、小運河や広
場に面して町中に分布し、ヴェネツィアの町
並みの雰囲気をつくり出す上で最大の建築要
卜
蕩
φえ
項ゑ
一鰭
篇
’
齋
コ旺コ丞
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斎
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訴 二
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‘
ーン」
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蔭、.、一_
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淑、
素となっている︵図15︶。
とりわけ一五世紀にあたるゴシック時代後
期には、高密度都市を構成する住宅として、
理想的な﹁C型﹂プランの建築類型が完成し
コ
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図14 サン・アゴスチン地区の14世紀ゴシック佳宅
図15陶華麗な装飾を誇る力・ドロ
31一
との一体化を実現したのである︵図16︶。同時
た。コルチを完全に建築の内に統合し、敷地
し、そこに豪華な七連アーチ窓をとり、しかも
がむしろ並日通になった。
合さえも現われたのである。とりわけ、陸側
︵図17・18︶。中央広間の間口を広塾側で拡大都市空間として重要なものとして扱われる場
の空間が広いカンポである場合には、その方
にビザンチン建築がもっていた統一性を復活
各主階にバルコニーを二つずつ配して堂々と
した外観を実現しているのに対して、運河側
すでに述べた通り、ゴシック時代に入って
ものも多いが、その揚合にはほとんどすべ
にはバルコニーさえ付いていないのである。
るコルチとにその著しい特徴がある。三列構
から、水辺の空間に対する陸の公共空間の重
て、カンポの方を正面として意識している。
た内部の空間構成︵三列構成︶と外階段のあ
させることもできた。そこでは、三分割され
成は中央に住宅の軸としての大広間が表から
要性が次第に大きくなってきていたが、ここ
例えば、カンポ・サン・アンッォロイ西面に
を見ると、その背後ですぐ運河に面している
裏まで貫かれ、その左右に小さな居室群が並
に至ってついに、陸の側の方が水の側よりも
実際、ヴェネツィアのカンポを囲む住宅群
ぶものである。ヴェネツィアの住宅が本来水
側と陸側の双方に入口を置く二極構造をもつ
まれたのである。
建築であったことから、この独特の構成が生
この類型の大きな特徴は、コルチを内部に
とにより、前後の両面に三分割の正式なファ
組み込み、敷地と建物の輪郭を一致させたこ
サードをとることが可能となった点にある。
水・陸を結ぶ二極性から生まれた中央広間を
軸とする三列構成の形式がここで純粋な形で
確立し、完全な二正面性を獲得して、水・陸
に対して建築が対等の関係で置かれることが
初めて可能となったのである。こうして、水
かは、都市的立地の条件によって、場合に応
と陸のどちら側にメイン・ファサードを置く
左:1階,右:2階
じて適宜選択できることになる。
実際、例えば、サン・ベネットのカンポに
面し背後で運河に接する大規模な一五世紀の
ゴシック住宅、カ・ペーザロは、明らかにメ
イン・ファサードをカンポ側に向けている
図16 「C型」平面をもつパラッツォ・ピサ一二
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図17 力・ペーザロ2階平面図
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は四棟のパラッツォが並んでいるが、北端の
一五世紀の﹁C型﹂のゴシック建築をはじめ
すべてカンポの側にメイン・ファサードを向
けている︵図 1 9 ︶ 。
また、カンポ・サン・ボーロの東と面につ
いても同様のことがいえる。この湾曲した壁
面の前には本来運河が流れており、それが一
九世紀に埋立てられたものであるが、やはり
ここでも背後の運河に面した壁面を華やかに
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︵東側︶の壁面は質素に扱っているのに対
し、広蓋側では三列構成を崩して中央広間を
広げ、大きな連続アーチ窓をファサードに堂
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々と開けている。こうしてカンポ側の湾曲し
の大広間である生揚を囲うのにふさわしく、
た連続壁面は、コミュニティにとっての共有
開口部の大きい華麗なものとなっている︵図
2 0 ・ 2 1 ︶。
の島から橋を越えて広広に流れ込む道もトン
また、広場の集中感を高めるために、東隣
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プランの住宅は、あらゆる立地条件にも柔軟
に適応し、町中至る所に現われたが、なんと
いっても、カンポを本格的な総揚にしていく
図19 カンポ・サン・アンツォ回2階平面図
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イタリアの街なみ
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上で最大の貞献をしたといえる。この町の代
表的なカンポは、いずれもこの類型のゴシッ
ク建築によって、みごとに囲いこまれている
のである。この建築類型の普及とともに、ヴ
ェネツィアの広揚はどれも完成された形態を
とったとみてよい。
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展開、成熟に応じて、共同生活に不可欠な公
は、庶民から貴族まで含めた島の住人達によ
共空間の広場として整備されてきたカンポ
って支えられ、息吹を与えられてきた。今で
もマーケットが立ち、子供の遊び場であり、
普段着姿の主婦達の社交場でもあるカンポ
は、多様なヴェネツィアの町並みの中でも、
最も重要な核を成している。
むすび
以上見てきたように、ヴェネツィアの人々
は、都市の成長・発展とともに、運河を中心
ミュニティを支えるカンポを中心とした都市
とした初期の都市構造を抜け出、高密度なコ
構造を築き上げてきた。その軌跡の中には、
多くの住民が、自己の私的生活と地区の公的
生活を巧みに調整しながら、共同で住環境を
きる。そしてヴェネツィアのすぐれた町並み
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形成してきた努力のあとを見てとることがで
は、まさにそのような集合的英知が形となっ
て表現されたものといえるのである。
図20 カンポ・サン・ボーロ2階平面