Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 Page 5 Page 6 Page 7 慶草橋出身の

這寿美。シュミットⅢ村木
への
●ベル
謹呈
電
意
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淵
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翰
鐸
零
号
咳
…
卸
』
講談社
目次
はじめに7
ベルッの孫娘ゲルヒルトとのめぐり会い⑲
時代に変えられた﹁ベルッの日記﹂犯ベルッを日本に留めた人、花拓
風のアウグスプルク加消された猿犯中止された東京オリンピック
建ったウタ調形見のドレス蛇ジェノヴァでの告白“
二シュトットガル卜へ〃
ゆかりの人探し州戦時下の東京・演劇仲間鱒
見えてこない花さんの姿闘花さんを探しに日本へ、
三謎の少女師
へルマン・ベルッの孫、ベッケラー夫人銘消えた﹁ベルッの日記﹄の原文弱
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7
豊川西明寺l花のル︲シ
生まれは神田明神様の下?
外人教師館十二番Ⅲ
五ベルッの時代Ⅲ
六トクとウタの誕生
下谷法清寺l花・ベルッの菩提寺“
上野の山下兜鶴巻へ、思い出を聞きに師
時代の概観皿ベルッ来日の理由剛夷秋と洋妾剛壁剛
いてさラシヤメン
ライプッィヒの意外皿謎の子・吉次郎噸根津の夜伽
出会いⅧ結婚川加賀屋敷の隣人シュルッェ博士の孫娘の話伽
四荒井はつとベルッの結婚Ⅲ
8774
ベルッの帰国脳再会皿トクの恋人、ヘレーネ剛慣れない外国生活畑
セドイッに渡った花剛
クライナー・ヤップス︵小さな日本人︶剛
トクの誕生肌娘ウタの誕生剛幸せな日々Ⅲトクの旅立ち噸
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ベルッの死Ⅲ欧州大戦筋トクは、日本刀をさげて西部戦線へ皿
トク・ベルッの結婚鯛くいちがい剛バラの枝朋戦中余話加
ドイツの敗戦狐幻の国は破れて鵬ベルッのドイツ批判川
トク、ルートヴィヒスプルクに会社を創立狐
八花の晩年
あし
ジェノヴァの別れ川告白剛回想”帰国後最初の年鰯
たそがれ
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4
0
プランデンプルクの母醐っつましい生活剛お銭のこと剛
Fイツ
トクの破産剛トクとヘレーネが日本へやってきた剛供養塔
やつと、﹃欧州大戦当時之独逸﹂を出版狐黄昏の武蔵野加
草津のベルッ記念碑除幕郷二人の孫娘剛ベルッ追悼の夕べ
花の死鰯形見噸
九息子トク・ベルッと花の孫たちのこと
トク・ペルッと二つの祖国剛ハイデルベルクの人畑
トクとの決別脳トク破産の日のこと畑ベルリンのトク
こんにちは、お父さんですか?加トルコヘの亡命畑
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3
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花の置いていった物”そしてまた戦争11散っていった花の孫たち
アリフレックスをさげて日本へ棚リリー・マルレーンの作曲家棚
トク・ベルッの最期測滝をのぼる鯉加消えた遺骨剛
ゲルヒルトの戦後加日本の荒鷲洲燃ゆる大空畑
十終わらなくなってしまった﹁花.ベルッヘの旅﹂Ⅷ
黄八丈のベルッ州ロンドンの夕空Ⅷ﹁ママ、いいかげんにしてよ﹂剛
あとがきにかえて剛
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豊川両剛寺l花のルーツ
豊橋出身の知人藤本さんの好意を得て、夜明け前に東京新宿を出発。品川で日の出を見る。足柄
峠を越え、初めて車で行く東海道に、広重の絵が重なった。
第二次大戦中、ひどい空襲を受けた豊川で級友の亡骸を集めたという山本雄次郎先生が土地に詳
しく、郷土史家の松山雅要さん、ベルッ研究家の医師大島信男先生、西明寺の永田住職に連絡して
下さっていた。豊橋市中央図書館の冨安さんも協力してくださった。
やはぎ
﹁私の実家戸田といふのは、寿永の頃︵一一八一一年頃︶、矢矧の長者として世に聞えた兼高から出て
をります。兼高の子が有名な浄瑠璃姫です。﹂︵﹁ベルッ花子刀自回顧談﹂鈴木双川記︶
花は回顧談の中で、自分のルーツをこんなふうに説明している。浄瑠璃姫とのつながりに関して
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睦大島先生が大変な時間をかけて詳しく調査されたが、実証は不可能だったc
﹁牛若丸が、奥州へ下る途中、兼高の家に宿をとった時、契りを結んだ浄瑠璃姫が父兼高の勘気に
ふれて追放され、仏法に帰して隠れ住むうちに、世を味気なく思って入水してしまった。﹂
とも、花は述べている。
兼高の一人娘浄瑠璃が自殺してしまったのでは、この家は途絶えたはずだと思うのが普通なの
に、このような伝説に自分の身元を見つけようとした花を、私はむしろ痛ましく思い、同時に彼女
の中に物語りの才能を感じたりもした。
外国に出ると、自分のルーツを問うようになる。祖国を外側から眺め、自分をも外側から見るよ
うになる。自分は、どこから来た何者なのだろうと。花も日本に帰国して、一生懸命自分のルーツ
を探したのだ。ベルッという有名な学者の陰で、何者でもない自分。いわれのない中傷や、異文化
間で体験した悔しい思いを、自分のルーツを探ることで癒そうとしたのかもしれない。
彼女は夢を見たのかもしれない。浄瑠璃姫は、夢と現実の間で、花の賢さとロマンが見つけ出し
た所産であり、現実からのちょっぴりした逃避だったのかもしれない。しかし、花さんが自分を伝
説に結びつけてしまったことは、私にとっては、難しいことになりそうに思えた。
豊川。この名から思い起こすのは、まず稲荷だ。この稲荷を過ぎて、山の裾野の方へ向かうと、
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5
西明寺というお寺がある。思いのほか立派なたたずまいで、雰囲気がある。境内に入ると、すぐ左
側にベルッの墓碑が見え、歌碑、供養塔が並んでいる。これは本当のお墓ではない、といぶかって
謎の少女
いると、 住 職 が 、
﹁これは 、 供
供養
養塔
塔一で、花さんのお骨は入っていないのですよ。﹂
と教えてくれた。
lじゃあ、本当のお墓は、どこですか?
﹁東京下谷の法清寺です。つまり、花さんの実家、荒井家の菩提寺だったお寺です。﹂
114束京?でも、じゃあどうして、実家が豊川の戸田家となっているのですか?
ごゆ
実家が豊川だと言われているのは、本人がそう言っているせいもあるが、花の父戸田熊吉の実家
しんしよう
が、豊川の先の御油の宿屋だったからとのこと。この宿屋は、花の祖父戸田太郎太夫という人の代
で破産した。太郎太夫が〃発明〃で身上をつぶしてしまったのだという。飛行機のようなものを作
ったり、自作の〃自転車“を豊川稲荷まで乗って行って、人を驚かせたこともあるという。
発明家太郎太夫に関しては、大島先生がたくさん資料を集めておられる。そのエッセンスは、次
の新聞記事にもうかがえる。
﹁事は百余年前の天明年間にさかのぼるが、宝飯郡御油町に戸田屋といふのれんをかうげた女郎屋
に戸田太郎太夫といふ当時における猟奇好みの楼主があった、非常に研究心の旺盛な人で、意外な
ことには百十余年前当時において現今の飛行機の前身ともいふべき、大鳥に似かよった形の機械を
組立て愛、御油海岸に高い足場を築き上げ、自身それを操縦して足場の頂上から跳び下りると共
に、飛期した事実があり、今でも御油町の老人連中に当時の模様を知ってゐる人もあるほどで、こ
の奇人ともいふべき太郎太夫の実子の養子先豊橋市魚町弘文堂文具店には、十年前物置の中からこ
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上野の山下
とうぶつ
戊辰戦争の頃、一家は上野の山下で唐物屋をしていたと、花は述べている。私は上野の山下なる
所の空気を吸ってみたいと思った。現在のJR上野駅の付近である。
江戸の頃より、上野は、﹁繁盛を極めた遊観地﹂であり、茶店、楊弓場、浄瑠璃芝居、舌講師、
物真似などで賑わった。明治十四年に停車場が開設されると、﹁下谷町、仲御徒町、車坂の辺は、
上野停車場もよりとて旅人宿営業多し..⋮・﹂の所となる。
現在の上野六∼七丁目にあたるこの一帯は、幕末︵嘉永六年、一八五一一一年︶の絵図では、元黒門
町から、下谷一一丁目となっている。
、、、、
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3
明治初期の記録に次のような記載を見つけた。
﹁繁華の地なり、旅舎、飲食、雑貨店多し、旅人宿に、角田、恵比寿屋、山城屋、井筒屋などあり
三謎の少女
O・Coo・◎﹂
恵比寿屋!
花の言う唐物屋ではないが、法清寺の過去帳にある恵比寿屋喜助が実在したのなら、なんらかの
かかわりがあるのではないだろうか?
﹁酒屋をやっていた﹂と聞いたが、それは酒も飲ませる宿屋のことだったかもしれない。珍品を売
る唐物︵洋品︶屋を兼業していたかもしれない。そんなにこじつけなくても、上野で宿屋をやって
いたという説もある。こういうとき、最も頼りになる豊川の大島先生と、知恵をしぼった。
唐物、つまり外国のものを売っていたから、夷屋、恵比寿屋という屋号がついたというのは納得
がいく。唐物商の恵比寿屋が戊辰戦争で焼けて、屋号だけ残して旅館に変わったのかもしれないな
どとも推測してみた。
幕末にズボンや靴を売っていたとしたら、珍しいので、何かに記載されていてもよさそうなの
に、表からはわからないような店だったのだろうか。戦争には、新しい物資が要る。武器なども扱
っていたかもしれない。恵比寿屋は、花の回顧談に、﹁会津様のお出入りを許され気に入られて居
りました﹂とあり、徳川方、彰義隊方だ。熊吉が豊川へ逃げた理由もこの辺にあったのかもしれな
い。負傷した彰義隊の侍の手当てをしただけで晒し首になった医者があったというくらいだから、
会津藩に物資を供給していたのでは危ない。
回顧談はさらに、次のように続く。
﹁そのうち上野に戦争があるといふ騒ぎが起りました。顔見知りの侍達︵会津?︶が来て﹃戦争が
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始まった所お前の家は焼かぬから安心しろ﹄と申します。然しそんな都合のいい戦争などとても出
だ
ところ
来るものではありません。戦争になれば敵味方の中に挟まれて仕舞いますのは分りきって居りま
す。それで人間丈けは先もって避難させました。処が母は江戸で生れたものが自分の家を見捨てて
逃るなどといふ意気地無い事は江戸子の面よごしであるから出来ぬと申して何としても動きませ
ぬ。そのうち戦となって鉄砲丸が家の内をぴゆぴゆ飛ぬけるといふ始末、巳むなく長子︵つまり私
の兄︶が母とおはちとを背負ふて逃げたものですが其日は豪雨の事とてあの辺は膝までの出水であ
ったと申します。やうやう浅草の観音さまへ避難しましたが、せっかく背負って来たおはちの飯は
皆他人に食はれて仕舞ったといふ事です。﹂︵﹁ベルッ花子自刀回顧談﹂︶
晩年の花が、四歳の頃を思い出して語ったものだから、記憶も前後するだろうし、思い違いもあ
るだろう。だが、私の目に触れた資料で、母親が登場するのは、この戊辰戦争のときの話だけであ
る。また、ここには、他のどこにも出て来ない﹁兄﹂が登場する。その兄が母を背負って逃げたと
いうのである。もし、この母がそでのことなら、このとき彼女は二十四歳のはず、病人でもなけれ
ば、息子に背負って逃げてもらわねばならない年ではない。それに、一一十四歳のそでにそんな大き
な息子がいるはずもない。ここで母といっているのは、﹁姉﹂ということになっていたそでの母親、
つまり祖母で、兄といっているのは、﹁姉﹂そでの夫︵荒井善蔵?︶のことだったのではないだろう
、、
躯
か?
過去の迷路が深くなり、はっきりわかるのは、少女はつの境遇の複雑さだけである、
謎の少女
幕末の唐物屋恵比寿屋の屋号が、明治初期の旅館に引き継がれたかどうかは定かでないが、旅館
恵比寿屋は、明治中期にも存在していた。しかし、持ち主は、松本市太郎と記されている。さら
に、明治後期になると、同じ位置で松本旅館になり、現在は、ホテル松本になっている。何か、手
がかりがつかめるかもしれないと、ホテル松本を訪ねてみた。だが、結局は何もわからなかった。
文献調査にトクトクとして、荒井はっに出くわすくらいの気持ちで出かけていった私は、すっかり
意気消沈してしまった。彼女のいう﹁上野の山下﹂とは、停車場横ではなくて、原戸籍にある下谷
区御徒町のことだったかもしれないなどと思案しながら、排気ガスにくしゃみ。
ホテルの先に一軒だけ店があって、革製品を売っていた。客の影はない。一度通り過ぎ、また戻
って、入ってみた。商品を見ながら、切り出し方を考えたが、何か買わないと失礼なような気がし
た。無理して予定外の買い物。革のハンドバッグだ。そして、
lあのゥ⋮:角のホテル松本は、昔恵比寿屋といってたんじゃありませんか?
﹁さあれェ、うちもここへ来たの戦後だからねえ。﹂
おつりをもらって、店を出た。
山の手線に揺られながら、買ったばかりのハンドバッグをなでてみた。花の子供時代を考えてい
るうち、ふと私の子供の頃が思い出された。太平洋戦争が終わったとき、私は三歳だった。あれ
は、その一、二年後のこと、牛込の祖母に上野の動物園へ連れていってもらったのだ。西郷さんの
れも昔の話だ。
銅像の周りの浮浪児や傷夷軍人、ガード下の靴磨きなどの光景が重なってくる。今となっては、そ
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6
しかし、花さんがいた上野は、それよりずっと昔のことなのだ。
電車は五反田から恵比寿を過ぎた。宿は新宿にとってある。法清寺でもらった青山さんの住所と
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7
電話番号を出して見た。鶴巻は新宿から、小田急線だ。どんな方かしら。相手の当惑顔を想像した
りする。
三謎の少女
さらにさかのぼり、﹁明治九年﹂と記された次の手記をどう見るべきであろうか?
もと
とやま
﹁明治九年、ベルッが未だ本郷の加賀屋敷の十二番官舎にをりました頃は、︵辺りは︶大きな原に
なって居て、庭に使っても別に大して草も生えず、至極都合が宜しかった。元十一一番前に外山さん
ことごと
︵大島先生が調査され﹁富山藩﹂と判明︶の御殿跡があり、後に池の上の方に引っ越しまして、見事な
あ
建物でありました。以前何に使ったものか、天井が悉くガラス張りに成って居て、月夜の晩など
には薄明りが挿し込みました。手慰み︵賭事︶をする者が明き︵空︶店と心得、これを幸いにして
盛に入込んできては、丁半を争って居りました。或る月夜の晩、勝負の最中フト上を見ると、自分
達の影がボンャリ天井に写って居たのを、幽霊でも現はれたものと思込み、其所に居た者は残らず
一所︵緒︶に腰をぬかし大騒動でしたが、後になって天井がガラス張りなのに気付き、それから始
終集まって来ては勝負するので、実に迷惑した事がありました。﹂今欧州大戦当時之独逸﹄︶
加賀屋敷内に金沢の支藩富山藩の御殿跡があって、ここに入り込んで賭け事をする連中に迷惑し
たという話だが、私には、単なる伝え聞きならばここまで詳しくは描写できないと思われ、花自身
1
1
1
も実景を見て迷惑を体験したにちがいないと思える。だとすれば、この頃もう、何らかの形でベル
ッの近くにいたことになる。
四荒井はつとペルツの結婚
帰国した花は、自分では気づかなかったが、傍目には目立っていたようだ。この頃、彼女は洋装
が多かった。彦坂氏は親戚だから好意的に書いているが、こういうときに近所の者がヒソヒソ噂す
るあの独特の雰囲気が目に浮かぶ。
花は、すぐに大きな打撃を受ける。ベルッの銀行預金が敵国財産として没収されたのだ。
祖国での生活は、このような歓迎のされ方で始まったのである。
と青山さんは思い出す。ベルッが戦争をしたのでもないし、第一、ドイツに宣戦布告したのは日
﹁奥様は、本当にがっかりなすってました。なんて酷いこと、なんて酷いことって。﹂
本の方ではなかったか。ドイツが日本に攻めてきて悪いことをしたわけではなく、中国での利権の
奪い合いであった。
しかし、どんな理屈にせよ、ベルッは﹁敵国人﹂だった。花がその後どのように生計を立てたか
の詳細は記録されていない。出版物には、﹁ベルッの門弟の奉仕を受けて不自由なく暮らした﹂と
書いてある。しかし、人の奉仕を受けてではやれないこともしているので、おそらくベルッの他の
遺産を処分して暮らしていたのであろう。
たとえば、帰国後、日光、京都、奈良、伊勢などをめぐった花は、帰国の翌年の大正十二年︵一
九一一三︶に、豊橋の岩屋山の上に立つ﹁岩屋観音﹂を参詣する足場の悪いことに気づいて、登りや
すくするために鉄の鎖を寄進し、東京からわざわざ鍛冶屋を連れて来て取り付けさせた。この鎖が
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悪くなったら取替えるように、五十年据え置きの信託預金、金百円を寄進した。また、昭和五年
︵一九三○︶には、豊川の西明寺が、百年後に総改築するときには三十五万円にはなるだろうと言
って、信託銀行に二千五百円の積み立て寄進をしたりしている。似たようなことを、下谷の法清寺
にもしている。このようなことは、ひとの世話で暮らしていたのではできず、また、豊川の親戚の
子供の学費を出してやったり、自分の家にお手伝いさんを置いたりもできなかったはずである。
つ
でだ
だが
が、
、花花
つい
いで
”は、このように人助けをしても、かわいそうな目に遭っていたことが、次の彦坂
発言にうかがえる。
一:⋮・花子は親族の面倒をよくみたが、戦前の日本、殊に田舎では、外人の妻ということは極めて
稀なことで、花子の行為はむしろ有難迷惑のように受けとられていたようだ。﹂
花は、明治の終わりに日本を出て、大正末期に帰ってきた。この間の日本の変わりようは大変な
ものであった。もう、お雇い外国人を使って西洋を熱心に取り入れたときの日本ではない。﹁近代
国家﹂としての自意識も出てきて、学問も、次第に西洋の学術から独立していった。第一次世界大
戦中は、主戦場から離れていたから自国は損害を受けず、軍需最気で東アジアの市場を独占し、敗
戦国ドイツが連合国側の船を大量に撃沈してくれたおかげで、特に海運業は世界的な飛躍を遂げ、
﹁船成金﹂という言葉までできた。
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しかし、にわかに得た富は分配されず、庶民の暮らしは苦しかったので、社会主義運動も起こっ
ていた。同時に、一種のモダニズムやデカダンスも漂っていた。花は、まさに浦島太郎のような気
八花の晩年
がしたのではないだろうか。〃あの日本″はもうないのだということに気がつくまでに、多少の時
問がかかったであろう。
ペルツ
語気強く、次のようなことも書いている。
﹁宅はよく、日本には本来の美しい言葉があるのに、外国の言葉といふと何でも真似ることは愚の
かいぴやく
骨頂だと申して居りましたが、帰国してみますと、パパ、ママといふ言葉をさも誇らかに申して居
りますのを耳にして驚きました。父母といふ日本開闘以来の懐かしい一一一一口葉を惜しげもなく捨てて、
只外国人の使ふ言葉であるから如何にも誇りがあるやうに考えて居るに至っては、卑屈であり奴隷
根性でせう。それも父母といふ言葉が使ひづらく不便といふなら別問題でせうが、パパ、ママより
チ
、ハ
ハ恥
ハがどのくらゐ簡単にして要を得、真情がこもっていることでせう。⋮⋮﹂︵﹁欧州大戦当
チチ、
久しぶりに帰国した花・ベルッの憤慨ぶりが伝わって来る。しかし、これで花が国粋主義者だと
時之独逸﹂︶
思ってはいけない。外国生活の長かった花が大切にしていた祖国を、みんなが平然と捨てていく。
大変な思いをして帰国したばかりの彼女は、それに腹が立って仕方がなかったのだ。
帰国の翌年、関東大震災があったが、彼女自身は関西にいて難を免れている。名古屋の親戚を訪
ねたり、奈良の知人細原ハナ︵シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトの妻︶に会った
り、渡欧の年に訪れた京都の高台寺とか大徳寺などへ足をのばしてベルッを偲んだり、豊川で自分
のルーツを調べたりしていたのだろう。私には、帰国の翌年、奈良や京都を歩き回ったり、自分の
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ルーツを探したりした花の気持ちが実によくわかる。
豊川の大島先生が岡崎公園で見つけられた﹁ベルッ花子﹂の文字が刻まれた浄瑠璃姫の墓碑を建
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てたのもこの頃だろう。遠い国から帰って一人、その存在さえも定かでない浄瑠璃姫の墓を建てた
花の淋しさを思う。
八花の晩年
供養塔
﹁元来ベルッは仏教を尊信いたしまして、仏教の教理を好んで研究してをりました。死後は跡を日
本に遺したいと常に言ふてゐましたので、私の菩提所をこの地に撰み、供養塔をたてることになり
昭和五年︵一九三○︶、花は、豊川の西明寺境内にベルッ博士の供養塔を建てた。これは、ベル
ましたのであります。﹂︵﹁欧州大戦当時之独逸﹂︶
ッに学んだ三浦謹之助や入漂達吉などの協力で実現したものであった。建立式にはこの人たちも参
列した。だが、新聞は、三面の片隅に四∼五行の細字で報道したのみという︵彦坂武治﹁ベルッ博
士夫妻のこと﹂︶。
この地を選んだのは、陰陽占卜に通じた岡山の中山道幽という人だと言う。花が、なぜそのよう
な人に土地を選定してもらったのか?おそらく、自分と豊川のつながりに絶対的根拠がなかった
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からだと、私は解釈する。ベルッの供養塔だけなら、もっとほかにゆかりの地はある。しかし、花
は、余命いくばくもなくなっても自分のルーツに疑問が残っていることに、耐えられなかったの
だ。浄瑠璃姫とのつながりも、最後は占いで決定してもらったのである。
ほうきよう
241
豊川の大島先生の調査では、西明寺の供養塔は、浄瑠璃姫の墓や供養塔として建てられたものと
同じ形の宝医印塔だという。これは、花の思いの具象化ではないだろうか?
八花の晩年
御協力いただきました以下の方々と諸機関に感謝し、
厚く御礼申し上げます。
〈日本>
青山芳子、池田耕平、岩立エミー、大島信雄、岡並木、小田桐睦雄、
小暮金太夫、鈴木明、田中康義、塚本哲也、戸田実夫妻、鳥山拡、
中沢晃三、永田恵照、永田釣山、奈良康明、沼田仁太郎、樋口由紀
雄、彦坂善之、平井光江、藤本泰孝、松山雅要、三浦康太郎、緑川
富美雄・孝子夫妻、森まゆみ、安井広(故)、山内利行、山本雄次郎、
和田頴太(故)(以上、五十音順・敬称略)
国立国会図書館、千代田区立図審館、台東区立図評館、豊川市立図
書館、台東区役所、文京区役所、千代田区役所、新宿区役所、葉山
町役場、草津町役場、豊川西明寺、下谷法清寺、草津ベルツ・協会、
ドイツ語福音協会、中京テレビ
〈ドイツ>
GerhildThoma,PfarrerUrlichThoma,Prof、Dr.U、B副Z,
GertrudB6ckeler,IrmgartlIeckersdorf,Dr、ToskaHesekiel,
RHolzapfel,PlofDr,S6hne,D1..KlausBrand,Prof、Dr・Schauer‘
ProfDr・Schwendler,ElkeFr6hlich,C・Friese,Kunikolsaka,
LorenaRiistowgeb.Gr証inv、Vitztum,NobertSchultze,
ConelliaFreidank,ConstantinvonB1・andenstein-Zeppelin
Bundesal・chivKoblenz
BundesarchivPotzdam
DefaStudioPot鰯dam-Babelsberg
FilmmusGumMiinChen
339
く著者紹介>
貝寿美・シュミットニ村木
1942年東京生まれ。早稲田大学大学院(美学専攻)修了後、ス
トックホルム大学に留学。1968年、ミュンヘンに渡り、ミュ
ンヘン大学、ミュンヘン・カソリック社会福祉大学を経てソー
シャル・ワーカーの国家試験に合格。1982年ドイツ国籍を取
得。夫はミュンヘンエ科大学医学部教授。3人の子供の母親。
主な著書「ヒコーキはミュンヘンへ着陸します」(新香館)、
「ふるさとドイツ」(三修社)、「ヒットラーをめぐる女性達」
(翻訳、三修社)など。
花・ベルッヘの旅
一九九三年八月二十日第一刷発行
避雷l慎寿美・シュミット︲村木
弱奉理調溺謂己念︲塞匡3重一①①。.
発行者l野間佐和子
発行所l株式会社講談社
東京都文京区音羽一一’一二’二一郵便番号一一一一’○一
皿話娼集部○三’三九四四’一二九一︵総合網墓局︶
販売部○三’五三九五’三六二四
製作部○三1五三九五’三六一五
印閏所l凸版印刷株式会社
鯉本蔚l黒柳製本株式会社
定価はカバーに表示してあります。
落丁本・乱丁本は小社凹霜製作部あてにお送りください。
送料小社負担にてお取り替えいたします。なお、この本に
ついてのお問い合わせは総合網慕局あてにお願いいたします。
本簡の無断複写︵コピー︶は蕃作桶法上での例外を除き、
無じられています。
(総B)
1SBN4-06-206508-8
卿