長縄光男著『評伝ゲルツェン』成文社、 2012年

【書評〕
長縄光男著『評伝ゲルツェン』成文社、 2012年
大矢温
本書は、ゲルツェンの伝記を軸に、その思想を分析したものである。
ゲルツェンの伝記について、 f
彼についての良い伝記は全く存在しない。それはたぶん、自ら
書いた白叙伝が大変な文学的傑作だからであろう J1 と、およそ半世記前には言われたものだが、
その後、カー著の『浪漫的亡命者たち』が発表され、日本でも龍訳が出版されたし、自叙伝の『過
去と思索Jも最近新たな日本語訳が発表されている 2。伝記的事実に関する研究資料の決定版と
しては 1974年から 90年に F
ゲルツェンの生涯と作品年譜』5巻本がソ連で出版されている 3。また、
最近ではトム・ストッパードの戯曲も翻訳され、研究者のみならず一般読者層の注目も集めてい
るので状況はこの半世紀で大きく変わったと言えよう。
他方、ゲルツェンの思想分析については、伝記研究ほど単純ではない。彼の思想の多面性老
反映してか、様々な論者・陣営が様々な角度から披の患想を分析・評価してきたからである。
以後、長きにわたってソ連閣におけるゲルツェン研究の方針を規定することになったヘと
う意味で一つの酒期となったのは 1912年に発表されたレーニンの f
ゲルツェンの追想」である 50
これはゲルツェンの伝統をリベラルやナロードニキから切り離した上でポリシェピキに至る口シ
アの革命思想、の系譜の中に位置づけようとするものだった。この中でゲルツェンはデカブリスト
の蜂起によって「目覚めj ヘーゲルからフォイエルバッハに従って唯物論へと進んだが、「弁証
法的唯物論の間近に近づき、史的唯物論の室前で停止したj 思想家として、その限りにおいて評
価される。マルクス主義の「直前」まで、やって来たから評価してやる、という視点である。レー
ニンは、ゲルツェンのこの「停止」によって、ゲルツェンの社会主義が「ブルジョア社会主義と
プチブル社会主義の無数の形態の変種の一つ」とならざるをえず、階級的本質を理解で、きなかっ
たゲルツェンは六月事件以降、自由主義へと「動揺」した、とゲルツェンの限界を指摘する。そ
の一方でレーニンは、ゲルツェンがバクーニンと決裂してマルクス派インターナショナルに「そ
の視線を向けたりことを、リベラルと「きっぱり手を切った」こととともに強調し、また、そ
の「偉大な功績Jとしては「圏外で告白なロシア語の新開を創刊したJこと挙げ、改革ではなく
革命を志向した、ナロードニキでもボリシェピキでもない「革命的畏主主義者j としてゲルツェ
ンを位置づ、けたのであった 60
ソ連以外でもレーニンによるこの規定は大きな影響力を持っていた。直接的に「革命的民主
主義者」としての規定を採用しないまでも、「革命家」あるいは「社会主義思想家j としての枠
組みがゲ、ルツェン研究の一つの潮流の基礎となったのである。それに対して、「西側j では別の
角度からの接近が菌られていた。
おそらく実存主義思想家の系図の中にゲルツェンを最初に加えたのは M.メイリアであろう 70
これを受けてか 60年代に特に『向こう岸から』を中心に研究が進みヘ『スラヴィック・レヴ、ュー』
誌の 1981年冬号では実存主義患想とゲルツェンについての特集が組まれるに至った。
これら一連の研究によって、実存主義の立場から理性(歴史的必然)よりも一田限りの「生J
を重視する、というゲルツェンの思想的特質が明らかになる一方、これを自由論と結びつけて
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{書評}
長縄光男『評伝ゲルツェン』
「反権威主義人間主義思想家」「自由思想家Jとしてのゲルツェン論を構築する潮流が形成される。
たとえばパーリンは、「自由J という究極的な目的は共有しながらも、その「自岳」のために具
体的な人聞を犠牲にすることもいとわないパクーニンとの対比において、ゲルツェンの中心的な
思想を「現実の個人の由自は絶対的な髄{重である」という点に求め\彼を初期自由主義者から
功利主義的急進派にいたる西欧的自出意患論の伝統の中に位罷づけている。
以下、本書『評伝ゲルツェン』について評したい。
通常、この手の大部の著作は、過去に発表した論文を寄せ集めて一冊の著作にすることが多
いが、本書の場合には著者によって過去に発表された研究をふまえつつも、かなりの部分が新た
に書き起こされている。おなじく大冊の『過去と思索』 3巻本の訳業を終えた後に『ニコライ堂
違聞Jに続いて患っく暇もなく再び倦むことなくゲルツェンに取り組んだ著者のバイタリティー
に驚かされると開時に研究者としての精進に頭が下がる患いである。本書は著者の長年にわたる
ゲルツェン研究の総決算である。ゲルツェン本人の主観的な立場で書かれた『過渡と思索』と異
なり、本書は「評伝」という性格上、第三者的立場からゲルツェンの人生を跡づけると同時に、
彼の患想を分析しそれを解説している。すでに述べたように、ゲルツェンを見る視角については
大きく 2つの潮流があるが、革命家、社会主義の理論家としてのゲルツェン像というのは、実
は専制による政治的抑圧や抽象的教義による思想の支配と戦った反ディスポテイズムの思想家と
してのゲルツェンの一面を捉えたものにすぎない。自由思想家、反ディスポテイズムの思想家と
してゲルツェンを描こうという本書の企図は、より包括的なゲルツェン像を提示するものである。
本書は 4部構成となっている。ほぼ時代を追って記述が進むが、前半 2部と後半 2部を分か
つのは 1847年の口シア脱出である。
本書の内容に入る。
1
8
1
2年の誕生から 1
8
4
0年の流刑先ウラジーミルからのモスクワに帰還までを扱った第 1部
では、ゲルツェンの初期の思想形成過程が分析されている。ここではルソー (
p
.
5
2
)やシェリング
(
p
.
5
4
)などのローマン主義思想の影響が指摘されている (
p
.
3
5)。ゲ、ルツェン 1
3歳の時に勃発した
デカブリストの蜂起は「崇高な理念への無私の献身」という生き方を示した (
p
.
4
4
)。ゲルツェン
の「政治的な目覚め」はこのようなローマン的雰囲気の中で引き起こされたのである。ただし、
ローマン主義的な高揚の中にあってもゲルツェンの自然科学的な素養が彼を「地上に引き庚」し
た(
p
.
5
1)、との指摘は重要である。いとこの「科学者」の影響によってゲルツェンは自然科学に
自を啓かされていたのである。このローマン主義と自然科学という 2つの源泉から、入閣を単な
る物質としてみるのではなく、その本質に精神性をも認めるというゲルツェン「二元論」 (
p
.
5
8
)
が生まれたのだ。
となればその「二元論Jをいかに統合するか、結合するか、という所に読者の関心は向かわ
ざるを得ないのだが、ゲルツェン自身の答えは「われわれにはどうでも良いことなのだ」 (
p
.
5
9
)
と素っ気ない。読者としてはゲルツェンにはぐらかされた思いだが、著者はむしろここにゲルツェ
ンの思想の「本質」を見る。それは「「二項対立j を固定化してそのいずれかを究極的原理とす
る見方そのものを人為的な抽象として斥けることの方を「原理」とする視点」 (
p
.
5
9
)、要するに、
原理原則にとらわれないリベラルな思想的立場にゲルツェンの思想の特質を見るのである。ゲル
ツェンの「反ディスポテイズム」とは専制体制のみならず理念や教義による忠考の冨定化も拒絶
するのだ。
やがて大学に入学したゲルツェンは、「シラーとデカブリストへの共感J(
p
.
6
0
)を「入り口 J
37
大矢温
としてフランス「社会主義J
思想へ関心をもっ。具体的にはサンシモン主義である (
p
.
1
0
3)。ただし、
彼がサンシモン主義在社会主義の理論としてではなく、一種の宗教として(新キリスト教)、新
しい生き方の倫理として受け入れたという点 (
p
.
6
667
)は留意しておく必要がある。「科学的社会
幽
主義J の前段階として「空想的社会主義」を取り入れたのではないのだ。ゲルツェンはサンシ
モン主義の中に「女性の解放」と f
肉の護権j の思想を読み取ったので、あった。著者はゲルツェ
ンの小説の中にその反映、『どろぼうかささぎJ(
p
.
6
7)においては女性解放の思想を、そして『リ
p
.
1
0
5)をそれぞれ見ているヘ
キニウス』で「一四限りの生」という思想の「原点J(
サンシモン主義を一種の宗教として取り入れたことにも晃られるように、この時期のゲル
ツェンが神秘主義的、宗教的な雰囲気に包まれていたことは否定できない。著者はその原田と
して流刑先で親交のあった建築家ヴィトベルクの影響を指摘している (
p
.
9
3)。建築家としての
ヴ、ィトベルクの功穣としては、彼のモスクワの救世主ハリストス大聖堂の神秘主義的な建築計
画が現在に伝えられている。
第 1部在通して、ゲルツェンの思想展開に関しては特に新しい指摘や発見があるわけではな
いが、ゲルツェンの伝記について、著者が彼の豊かさや家柄の良さ、特権賠級である点を強調
している点(p
.
4
7
,4
8
,1
2
5)に従来の研究や伝記 L
こない新しさを感じた。また、一般的な読者層も
想定してのことであろう、理解を助けるために要所ごとに解説が入っているのも特徴である。
続く第 2部は、 1840年から国外脱出する 1847年まで、を扱っている。
第 2部の能半は、モスクワを中心としたいわゆる「40年代」の知的生活の解説に割かれてい
る。サロン在中心とした 40年代の知的雰臨気の中でゲルツェンの思想を位置づけようという企
図であろう。特に第 3章から 6章の「ゲルツェンのいないモスクワでJではチャダ…エフ (
p
.
1
3
6
、
)
キレーエアスキー (
p
.
1
4
8
)、スタンケーヴィッチ・パクーニン・ペリンスキー (
p
.
1
5
2
)と、個別に
読んでも興味深い、そうそうたる思想家たちの人物像が取り上げられている。
続く第 2部の 7章以降ではヘーゲル哲学の洗礼者受けた後のゲルツェンの著作が分析の対象
となる。
ゲルツェンはへーゲ、ル哲学在知るとまもなく『ジ、レッタンテイズム』を著すが、著者はここ
で、ヘーゲル受容においてゲルツェンの読み方は最初から決まっていた、と指摘している。また、
ゲルツェンはヘーゲル哲学においては避けて通れないはずの「絶対」というターム在使用して
いないが、著者はこの理出を「絶対J という概念が「神」に通じるのでゲルツェンはこの荊語
を避けたものとも解説している (
p
.
1
7
5)。とすると、専制という現実の合理性の当否、および絶
対者(神)の存在証明、という本来なら哲学によって解決すべき問題についてゲルツェンは哲学
以前にアプリオりに結論を先取りしていたことになる。神はおらず、専制は不合理でなければ
ならないのだ。
さて、このように無神論的立場からヘーゲ、ル哲学を解釈したゲルツェンであるので、必然的
に彼は、神無き人間は支えをどこに求めるか、という問題に直面せざるを得ない。神という支
えがないのだから人聞は人鶴自身の中に救いを求めざるを得ない。この時、指針となるのは科
学(ナウカ)である、と、ここまで論を進めた持、ゲルツェンはかつて「どうでもいいことなのだJ
と突き放した普遍(科学)と現実(個別の人間)との接合の問題にはじめて説得的な解を見出し
たのではないだろうか。しかも理性の校知というヘーゲ、ル哲学のロジ、ツクは人間各人のあらゆ
る行動を正当化する。各人は行動することを通して理性の実現へと働きかけるのである(「行動
は個我そのものである Jp
.
1
9
2
)。かくしてゲルツェンはヘーゲ、ル哲学在行動への哲学として、革
命の代数学として、自家薬寵中のものにしたのだった。
3
8
{書評}
長縄光男 IF~.平伝ゲルツェン』
『ジレッタンテイズム』に続くゲルツェンの著作は『自然研究書簡』である。「自然研究J と
題されているがこれは実質的に哲学史の記述である。 f
自然研究」とは人間の世界認識の謂いな
のだ。ここでも歴史の担い手が普遍的なカテゴリーや抽象的規範ではなく、生身の人間(リーチ
ノスチ)である、という『ジレッタンテイズム』の立場が堅持される (
p
.
2
0
9
)。ゲルツェンは、そ
れぞれの時代の教説が、その時代環境においては公理と見なされながらも、絶対的真理ではなく、
歴史的・過渡的なものであることを主張する。著者はここにゲルツェンの「価値多元主義、思想
的基盤の完成」を見る (
p
.
2
0
9
。
)
このように内容的には非常に明解な解説である。しかし、そもそもこれらの著作の動機は何
か、というところに評者は若干の違和感を憶える。著者はゲルツェンの意閣を「自立的{固人たる
ことを呼びかける」こととし、「だが、この時代のロシア社会で誰が答えたであろうかj、と賠う
ことによってゲルツェンの「孤独な戦い」を演出する (
p
.
1
9
5)。しかしこの時期、はたしてゲルツェ
ンは孤独で不幸だったのだろうか。 40年代の哲学は実生活から切り離されたままだったのだろ
うか。一人ゲルツェンのみならず、 40年代のインテリゲンチャたちが哲学の講壇から実生活へ
と志向したからこそ、西欧派とスラヴ派の論争が純粋に学問の鰐題から農奴改革と結びついて実
生活の問題へと震関したのではないだろうか。たしかにゲルツェンをヘーゲ、ル哲学に導いたのは
現状を批判する「具体的実践行動への意欲J(
p
.
1
9
3)であったことは否定できないが、啓蒙の光
も臨として差し窟かない流刑先から帰ってきたゲルツェンである。首都の文化的な雰密気の中で
哲学論を交わすことそれ自体にも魅力を感じ、抽象的な哲学論議とはいえ、自らの「二元論」の
解を求めること自体に興味はなかったのだろうか。ここでは総じて膨大なスケールで撤密に構成
された、非常に真面目で理詰めな「ゲルツェン像」が描かれている。本書後半の「家庭の悲劇」
などで描かれる、苦悩する、生身の人間としてのゲルツェン像とは異なったアプローチである。
本書の後半を構成する第 3部以降は 1847年の国外脱出以後のゲルツェンの、西欧における思
想の展開と人生行路が対象とされている。通常、西欧派左派のゲ、ルツェンが西欧の現実に直面し、
祖国への精神的復帰を経て「ロシア社会主義」理論へ至った、と説明される部分である 110 ゲル
ツェン自身の回想によれば政治的にも家麗的にも「生涯最悪」となった時期である。
周知のごとくゲルツェンが穏健的西歌派と挟を分かつに至る主要な原因となったのは、彼が
ブルジョアジーの麗史的使命否定した点であった (
p
.
2
5
3)。芭欧社会の中にロシアの未来図を思
い描く彼らに対してゲルツェンはブルジョアジーを「俗物J として否定し、「一過的な存在に過
ぎない」と断じたのであった (
p
.
2
5
5)。著者はこのようなゲルツェンの思想的転換の契機をパリ
の劇場の印象に求めている (
p
.
2
5
4
)。「エルサレムに入城する」かのごとき高揚感を抱いてパリに
入ったゲルツェンではあったが、現実のパリの大衆文化に幻滅し、そこからブルジョアジーに対
する全面的な否定へと転換したのであろう。本書では触れられていないが、観劇に劣らずフレン
チ・カンカンにスラヴ派の説く西欧の「不道徳」を毘たであろうことも想像に難くない。
さて、当面の進むべき方向を見失い、理論的に行き詰まったゲルツェンを「蘇生j させたの
はイタリアにおける「ナロードの発見j であった (
p
.
2
6
1)。ここに f
ロシア社会主義」論に至る
重要な契機がある。当然、ゲルツェンの「ロシア社会主義」を論じたメイリアにも「ゲルツェン
のイタリア発見j への言及があるのだがへゲルツェンの思想発展におけるイタリア体験の意義
を正面に据えて論じたのは、おそらく著者が初めてである九著者はゲ、ルツェンのイタリア体験
の意義として「ナロード」の発見と共に「自治的連邦的共和制の可能性」の発見を指摘している
(
p
.
2
6
5)
。ブPルードンやパクーニンのアナーキズムの影響を下地にして、このイタリア体験を通し
てゲルツェンは 48年の二月革命後に「ロシア社会主義J論へと向かうのである (
p
.
2
7
1
。
)
3
9
大矢温
さて、思い入れが深かっただけに現実のパリに幻滅し一時パリを離れていたゲルツェンだ、っ
たが、フランスにおける二月革命勃発の報を受け、大急ぎで、パりに戻る。「イタリア体験の余韻J
を引きずるゲルツェンは、この「人民の革命」に大きな期待を掛けたのだった (
p
.
2
7
6
)。ところ
が、六月事件に至る実擦の事件の推移はゲルツェンを震曜とさせるものだった。この幻滅から彼
は「ヨーロッパ文明の「死j」を確信し、さらにこの確信は、「ヨーロッパの二元論J というテー
ゼ、へと発展する (
p
.
2
8
5
。
)
この点について、著者は事件の最中に書かれたゲルツェンの手紙と六月事件以後にそれを再
構成して発表された「フランスイタリアの手紙」との描写の違いに着目してヨーロッパ文明に対
するゲルツエンの幻滅過程在生き生きと再構成している(p
.
2
7
5
,
2
7
6
)ヘ六月事件の過程でゲルツェ
ンが見たものは、反革命が圧倒的多数の「人民j の意思として勝利していく様であった。「人民
の革命j として期待した二月革命を摺っていたのは「人民」ではなく烏合の衆の「大衆Jだった。
この省察から自立的な鋼入者基礎とした連合的・自治的・民主的な社会主義のイメージが生まれ
るわけで、その意味で「イタリア体験の意義は大きい」(p
.
3
0
0
)。ところが現実にはイタリアもヨ…
口ッパ全体を覆う反動の構成に巻き込まれていく。ここから西欧文明に毒されていないロシアに、
ロシアの「若さ j と「後進性Jを挺子にした社会主義への移行、という「ロシア社会主義」論が
生まれるのである (
p
.
3
0
2
)。その現実的な基礎としてゲルツェンが着目したのがロシアの農村共
同体で、あった。ただしそこには「個我の欠如」という問題があったのではあるが(p
.
3
0
4
。
)
第 6章に独立した章立てとして「お金の話」が取り上げられている。これも従来余り正面か
ら取り上げられてこなかったテーマである。「革命家ゲ、ルツェンは大富豪でもあったJ (
p
.
3
1
4
)
と
は、けだし名古である。著者はゲルツェンの財産を 30万ルーブル、ホテル 9軒分と見積もって
いるが、この辺はロスチャイルドとの関係を分析したオフォードの最近の研究成果をふまえたも
のであろう。またここでは、財産管理を通してゲルツェンのオガリョーフとの違いも浮き彫りに
されている (
p
.
3
2
0
)。とかくゲルツェンの影に隠れて儒性のはっきりしないオガリョーフである
が、著者はこのように現実家のゲ、ルツェンと対比することで彼の空想的な性格を擦だたせている。
f
お金の話」に関連してブルードンとの関係も述べられている。思想的にゲルツェンはブルー
ドンと認識を共有する点もあったし、影響も受けた。二月革命後の「共和制」に対しては、それ
が本質的には「君主制j である、という政治的認識をブルードンと共有していたし (
p
.
3
2
6)、「占
帯」と「所有」とを区加するブルードンの経済思想はゲルツェンの「ロシア社会主義J理論に大
きな示唆を与えている (
p
.
2
4
9)ヘしかし両者の関係を「お金の話」の中で論じたところに著者の
新しさを感じた。ブルードンに出資したおかげでゲルツェンはヨーロッパの左翼社会にデ、ピ、ュー
できたのだった。ブルードンの f
人民の声』の発禁処分によって保証金として拠出した 2万 4千
フランを没収されたゲルツェンだったが、その代わり「何にも代え難いものを手に入れた J(
p
.
3
3
0
。
)
ブルードンの新聞『人民の声』への資金援助は「決して高い代償ではなかった J(
p
.
3
2
5)のである。
第 7章「家族の悲劇の物語j は一転して家庭内の物語である。『過去と思紫J
I
,u
浪漫的亡命者』
にも陪じ名前の章立てで、扱われているテーマであり、 48年からナタリアが病死する 52年までの
ナタリアとヘルヴ、ェークをめぐる出来事である。ゲルツェンの立場からは f
過去と思紫J でも著
されているが、そこではヘルヴ、ヱーク夫婦に対する人格攻撃が前面に出ており、額語通りに受け
取りがたい。そもそも妻の浮気の当事者に客観的な記述を望む方が無理である。これに対して第
三者的立場から当のゲ、ルツェンも知り得ない部分を補強して、より客観的に叙述したのがカーの
『浪漫的亡命者J である。これらの先行業績をふまえつつ、本書において著者はサンドの信奉者
でありながら「新しく Jなりきれなかった女性としてナタリアを描く一方、ゲルツェンについて
は教説に義理立てして自らの感情を抑えてしまった結果、人格の独立という告分の道徳律を犯し
4
0
{書評]
長縄光男『評伝ゲルツェン』
ていると指摘している (
p
.
3
5
0
)。しかしこれも第 l部で指摘したように、理論中心のゲルツェン
解釈であるとの感を禁じ得ない。カーもまた、サンドの教説の影響を指摘はするが 16、こちらは
f
結局ナタリヤを引きつけていたヘルヴ、ェークの力は、主として肉体的なものであった J17、「彼
と共に、彼女はあらゆる禁制を犯し、はじめて恥も遠慮もない肉体的快楽の神秘を味わった J18
ときわめて車裁的な解釈をしている。
第 4部は自由ロシア E
r
J
制所をめぐるゲルツェンの活動者取り扱っている。
ヨーロッパの左翼社会の中で一定の地歩を確保したゲルツェンは 1853年から「亡命者のメッ
カ、ロンドンJで活動を開始する。しかしながら、「ユーリーの臼 Jに見られるようにロシア側
からの反応は冷たかった。地主貴族に向かつて自発的な農奴解放を呼びかけたものの、当の「君
たち j はすでに「穏健化していた」のだ (
p
.
3
6
5
。
)
やがて勃発したクリミア戦争は、このような状況を打破するかのように思われた。ゲルツェ
ンは「古い世界」の「共倒れ」を望み、そこから「新しい世界」、つまり「社会主義ロシア」在
中核とする「スラヴ連合Jを展望する伊.
3
8
2
)。しかし、これもまた、西欧の左翼には「パンスラヴ、イ
ズムJ と批判され、ロシア圏内のリベラルからも彼のスラヴ、派的な論調は理解されなかった。
このような孤立状態を打破したのは 1855年、クリミア戦争末期における皇者ニコライの死と
新帝アレクサンドルの即位で、あった。ゲルツェンはニコライの死を契機に文集 f
北極星』発行す
る。しかしこの刊行事業も当初はマッツィーニ、ブルードンといったヨーロッパの左翼からは歓
迎されたものの、ロシア園内の皮応は栢変わらず、鈍かった。戦争はまだ続いており、冨内の情勢
はそう急には変わらなかったからである。
著者はこの不人気の原因を、広範な「世論Jに支えられた「民主主義」というシステムがよ
く機能しているという前提が必要だった、と説明している (
p
.
3
8
9)。実際ゲルツェンは新聞が世
論の形成に大きな力を持っていることをヨーロッパの経験から学び、それをロシアに持ち込もう
としたのだが、肝心の可仁極星』は内答的にも未成熟であった。デカブリストの衣鉢を継ぐこと
を宣言した「趣意書」につづいて言論の自曲と農奴の解放の下賜を願い出る「皐帝アレクサンド
ルへの手紙」という「ちぐはぐな感じが否めないこつの文書Jが併存していたのだ (
p
.
3
8
9
。
)
ともあれ、 56年にクリミア戦争が終了すると共に園内の皮応が変わる。著者は「戦争が終わっ
たという需放感j を反映した「潮自の変化Jで説明しているが (
p
.
3
9
1)、敗戦によって露呈した
口シアの後進性に対する危機感、および改革を視野に入れた政府の慨からの一連の緩和策も少な
からずこの「潮目の変化」に影響を与えたはずだ。すでにクリミア戦争末期から新帝のもとで検
閲が緩和されていたし、海外渡航も緩和された。クリミア戦争後に、ロンドンに送られる国内の
』情報や実擦にゲルツェンの元を訪れるロシア人が急増したのもそれを可能にした制度的な裏付け
があったからではないか。
因果関係はともあれ、この「潮屈の変化j によってゲルツェンはその「絶頂期Jを迎えるこ
とになる (
p
.
3
9
4
)。圏内から送られる情報が急増したのにともなって、ゲルツェンは 1856年には
文集『口シアからの声』を発刊している (
p
.
3
9
6
)。これは急進的な F
北極星』とは別の雑誌がほ
しいという fロシアリベラル」からの要望に応えたものだった。さらに 1857年からは『北極星』
の付録という形で『コロコル』の発行が始まる。以後、口ンドンの「自由ロシア印刷所」は、自
由な言論の場として改革期を迎えた口シア園内世論に大きな影響を及ぼすことになる。
このようにロシア国内での改革が現実味を帯び具体化するなかで、それまでは漠然とした一
体感を持っていた改革勢力の中においても思瀬の違いが顕荘化してくる。ゲルツェンの出版活動
は
、 58年にはチェーリンから『コロコル』の急進性が故の批判を受け、翌、 59年にはチェルヌィシェ
4
1
大矢混
フスキーら f
現代人』誌から優柔不断が故の批判を受ける。このチチェーリンとの「告発状論争」、
および若い世代の急進派との「VeryDangerous!!!」をめぐる確執についてはすでにソ連史学にお
いても「民主主義の自由主義からの境界画定J としてテーマ設定されていたし、日本においても
盛んに論じられたテーマであり、本書もそれをふまえた記述になっている。
さて、最初に『コ口コルJ の編集方針に意見したのは「口シアリベラル」を探梼するチチェー
リンで、あった。論争の内容に入る前に用語の問題に言及するなら、従来、この「ロシアリベラリ
ズムj という思潮は、研究者をf
出ませてきた用語であった。彼らは「リベラルJを名乗りつつも
憲法など専制権力の制限には反対したからである。著者も過去において「その概念規定の難しさ J
を指摘しているヘしかし本書において、著者は「口シアリベラル」について、最近の研究をふ
まえて 20、専制を保持しながら改革を行おうという「ドイツ帝国成立痕前のプロイセンの自由主
義者Jに相通じる「リベラル」として性格付けをしている。
このような性格を持つ以上、ロシアリベラルは戦術面においても、封建的領主権力を放棄し
ながら資本主義化の中で地主的権力を保持する、という後進国リベラル型の路線を採るわけであ
る。この点について著者は、この封建領主から近代農業資本家への転身という「リベラルJの戦
術について、 fここでチチェーリンの実家がウオツカ製造に従事する農村の産業者であったこと
を改めて懇起しておくことは、きわめて重要である」としている (
p
.
4
0
3)。しかし、ウオツカの
噂売は国家から告立した「近代的な」農村資本主義と言うよりは悶家に寄生した特権と見なすべ
きではないか。むしろここではウオツカ製造業を政府の専売制度に寄生しながら地域の産業を興
す、「後進的なJ産業と位置づけた方が、政府の介入による産業昂進という、ドイツリベラルと
の共通牲が浮かび上がると思われる。
チチェーリンに続いてロシアのゲルツェンの元を訪れたのはチェルヌィシェフスキーだった。
ゲルツェンの『コロコルJ紙上の論文「VeryDangerous!!!
J の中に f
現代人J に対するただなら
ぬ非難の調子を読み取った f
現代人』縞集部が説明を求めてロンドンのゲルツェンの元にチェル
ヌィシェアスキーを派遺したのだった。この会見については「革命的民主主義J陣営の一体性に
関わる問題なので、過去にソ連史学内でも激しい論戦が展開されたテーマであるが、それにもか
かわらず会見の詳しい内容は解明されないまま現在に至っている 210
いずれにしろ、左右両派からの批判は、左右両派に広く紙面を提供するというゲルツェンの
編集方針に向けられたものだった。リベラルはゲルツェンが急進派にも紙面を提供していると非
難し、他方、急進派は穏健派を切り捨てて急進的な紙面作りをするよう要求した。この問題は、
左右の間で動揺するゲルツェン(右か左か)、と捉えることも可能であるし、また、一定のドグ
マに照らし紙面を制限するのか法く議論のために紙面を開くのか(狭いか広いか)、と見ること
も可能である。しかし、本書の意鴎からすれば、「右か左かj ではなく、「狭いか広いかJを軸に
して、ここにゲルツェンの自由出板思想の特徴を見るべきである。著者もこれをゲルツェンの「相
対主義」的な考え方のスタイルに由来する、として「ここには思想の質としての「リベラリズムJ
がある」としている (
p
.
4
3
0
)。この論争の中にゲルツェンの自由思想の特葉を解明しよう、とい
う視鹿である。
とするなら、『現代人』との間のこの論争を路線の左右の問題を軸にして分析するべきではな
かろう。たしかにゲルツェンは「VeryDangerous!!!」冒頭で「検閲の三位一体J(御用新開設立によっ
て世論を政府側に導こうとする Bureaud
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eを構成する三人委員会)と『現代人』の関係
をほのめかしているが、これを f
現代人』の急進性が政府に利するから「大変危険Jだ、という
戦術的な批判だとか、いわんや『現代人』が政府側に買叙された、という当てこすりではなく
(
p
.
4
4
4
・4
45)、自分流の正義に照らして的人を「指示しお説教を垂れ」ょうとする、と言う点に「三
42
{書評〕
長縄光男『評伝ゲルツェン』
人委員会J と『現代人』の共通点をゲルツェンは晃たのではないだろうか。「VeryDangerous!!!
J
の題名の由来についても、これをロンドン動物闘の「噛みつきますから j に由来するという説
(
p
.
4
4
2
)は新説だが、これを強調すると「右か左か」の議論に流れてしまうように思われる。
さて、このように『コロコル』は、改革と前後した自由な雷論を求める世論に後押しされ活
躍するが、 63年のワルシャワ蜂起に際してポーランド側に立ったことがロシア圏内の反発を買
い、権威が失墜する。以後、『コロコルJは衰退の一途をたどり、一時フランス語で発行されるが、
結昂、廃刊の運命に至る。「この小さな新聞の命運には、大改革期のロシアの言論界に対するゲ
ルツェンの影響力の盛衰が、的確に反映されていたのである」 (
p
.
4
1
1
。
)
改革事業が本格化する中で「「リベラルJが「解放」後の経済発展に明るい展望を抱いて「上
げ潮」気分を味わい、他方、これを不満とする人々もまた農民の反政府的機運の高揚に「上げ潮」
気分を味わう中で、ゲルツェンだけがやがて「孤立」という「引き潮j 気分を味わうことになる」
(
p
.
4
5
9
)と著者も指捕しているが、上述 2つの論争を通したゲルツェンの思想的位相を「右か左か」
ではなく、「異体論か、一般論か(あるいは狭いか広いか)」と言う座標軸で見るなら、この「ヲ|
き瀬」は当然の結果だったと言えよう。
従来、このゲルツェンの月|き潮」の原因としては、主に次の 3点が指摘されてきた 0
.ゲルツェンがポーランドを支持した(著者もポーランド支持説を採る p.491,486
。
)
・検部政策の改革によって「自由口シア印刷所」が唯一の情報源ではなくなった。
・上記 2点と並行して、読者属の大衆化(娯楽やクワス愛国主義)とカトコフの成功。
評者は、本書の分析視康を鑑みて、上記 3点に加えて、ゲルツェンの患想的特質からこの「ヲ i
き瀬Jの原因を見ることを提案する。左右の匹別無く焦買の現実的な課題が山積しているロシア
国内から見れば、亡命先のロンドンからの異体性に乏しい一般的な議論が支持を失うことは当然
だった。ポーランド開題への対応についても、ゲルツェンがクリミア戦争敗戦後のパリ条約に縛
られた「臥薪嘗胆」的な国際的立場に陥った口シア国内のナショナリズムの高まりを無視し得た
のは、ロシアの国益の立場からではなく全人類的な視点、からアプローチしたそのコスモポリタン
的な高踏性が故た、ったと説明できる。おそらく円 j
き潮」の原国をこのように見ることによって、
「自由思想家」としてのゲルツェンの思想的特震がより鮮明になるのではないだろうか。
このような独自の立場に立つゲルツェンの孤立は、盟友(というか腐れ縁)のパクーニン、
そして「若い亡命者J との亀裂を決定的なものにする。
第 8章のテーマはバクーニンとの関係である。
著者はゲルツェンとパクーニンとの関係について、「ゲルツェンはパクーニンのことが好き
だったJ としながらも「実のところ、ゲルツェンはパクーニンのエネルギッシュな行動力には醇
易としていた J(
p
.
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7
2
4
7
3)と評している。ここでは前後の見境もなく行動に飛び込むパクーニン
と、少しヲ i
いて全体を見渡そうとするゲルツェンの思想的、というよりは性格的な違いが鮮やか
に浮き立たされているヘゲルツヱンは「右か左か」という座標軸で晃るならポーランド支持と
いう点で一致するはず、のパクーニンとも、「真理への信停」という点で「孤立j するのである。
ここから本書は「若い亡命者たち j との亀裂を扱った第 9章「最後の戦い」へと流れるよう
に進む。ここでは 65年にロンドンを引き払った晩年のゲ、ルツェンの「失意の時代」が対象にさ
れている。 65年以降、『コロコル』の編集権とパフメーチェフ資金をめぐって若い世代の革命家
と対立する一方、ツチコヴ、ア・オガリョヴァをめぐ、つては家庭内の不和が表面化する時期である
(
p
.
4
9
3)。さらに 6
7年に『コロコル』を休刊して活動の第一線を退くと、「古い河志」たるパクー
ニンとも路線の違いが明らかになる(この亀裂は、ネチャーエフの登場で修復不能なところまで
来る)。まさに「孤立無援」 (
p
.
5
0
4
)の状態である。「老いた向志への手紙」はこのような「手痛
4
3
大矢温
い挫折の年」 (p.506)に書かれた。ここで「行動Jに突進するパクーニンに対してゲルツェンは「言
葉」に期待をつなぐ(p.512)。国家についても、それが「過渡的形式である」ことを一般論とし
ては認めながらも、それを即座に廃絶することには反対だった (
p
.
5
1
3)。あくまでも「真理」で
はなく、その具体的な適用を、「真理」の達成よりはその過程での人賠の運命を、重視する立場
である。
この辺の所はバクーニンへの反論も含めて、ゲルツェン自身には自らの思想の総括という意
味でも、もう少し突っ込んで、論じてほしかった点であるが、残念ながらゲルツェンのこの f
手紙j
は彼の「遺言J となってしまった (
p
.
5
1
4
。
)
ゲルツェンの死後、彼の人民に対する「負債」というイ合理観、人間の道徳性に歴史の動因を
求める主意主義は、ラヴロフなどナロードニキに、特に彼らのマルクス主義批判に於いて受け継
がれる。しかし革命理論という点に銀るなら、すでに資本主義化が進行しつつあるロシアにおい
てその資本主義への歩みを押し止め、農畏社会主義を直接呂指したナロードニキは「当初から敗
北を運命づけられた悲劇的な戦いであったJ(
p
.
5
1
6
。
)
他方、ゲルツェンの自由恕想はカデット系のリベラルに受け継がれたと著者は論じ、ここで
ロジ、チェアというトヴ、ェーリのゼムストヴォ活動家を紹介する。口ジ、チェフは(ゲルツェンには
希薄な思想である)法による自由の擁護という課題を掲げて活動する。後にロジ、チェフは 1921
年にベルリンで『過去と思索』を出版することになるのだが、その際口ジ、チェフは、「ゲルツェ
ンはいかなるファナチズムとも、いかなるドグマとも、いかなる拘束とも無縁で、あったj として
ゲルツェンの醒めた自由思想在高く評価している。おそらくここで述べられている「自出」とは、
著者が「ゲルツェンの思想的自由主義J と言っているものであろうし、ゲルツェン自身、かつて
『過去と患索Jのなかで、チチェーリンの「フランス的な民主主義」に対比した「イギリス的な自
曲
」 23 なのかも知れない。パーリンが評制するのもユートピア社会主義の一変種たる「ロシア社
会主義Jの考案者としてのゲルツェンではなく、 1
9世紀口シアにおいてこの「イギリス的自由J
を説き続けた思想家、活動家としてのゲルツェンだ、った。それ故パーリンは上述の「老いた同志
への手紙」を、「 19世紀に書かれた、おそらく最も有益で予言的で罷めており、かつ感動的な、
人聞の自由に関するエッセ− J24 と高く評鏑するのだ。
特に口ジチェフ研究の部分は、ソ連時代のゲ、ルツェン研究の水準を趨えるのみならず、ゲル
ツェン患想の意義者現代の我々へと架矯する貴震な「環」として重視すべきである。
我々が思想史研究を始めた 20世紀後半に比べると現在、思想史研究が全般的に短調であるこ
とは否めない。特に 119世紀J I
ロシア」思想史研究は否定的な状況にある。編年体的な区分か
らすれば 19世紀は現在我々が生きる 21世犯と寵接的な結びつきを失ったし、ソ連崩壊以後、ロ
シアは「普通の患」になった。逆に雷えばそれだけ意識的な研究が必要である、と言う意味で敷
居が高くなったとも言える。本書が「闇夜に饗く銃声j となって、あえて 1
9世紀ロシア思想史
研究に取り組もうという若手の導きの星となることを顕わずにはいられない。本格的なゲルツェ
ン論としてはカーの『浪漫的亡命者ムメイリアの fアレクサンドル・ゲルツェンとロシア社会
主義の誕生L といった古典的著作が知られているが、本書もまた少なくとも今後半世紀は「古
典的j ゲルツェン論として読み継がれることは間違いない。
註
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4
{書評]
長縄光男 f
評伝ゲルツェン』
2
.
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.カー(酒井唯夫訳)『浪漫的亡命者』筑摩叢書、 1970年、アレクサンドル・ゲルツェン(金子
幸彦、長縄光男訳)『過去と思索 l∼ 3
j
] 筑摩書房、 1
9
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8∼ 1999年
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.
4
.このようなソ連時代のゲルツェン研究は日本の研究者を満足させるものではなく「研究の量的な豊
富さが質的にすぐれた内容を伴うとは必ずしもいいがたい」と総括された。松原広志「ゲルツェン問
題の問題点J F
西洋史学]
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、 60寅
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6
.「革命的民主主義者」という用語が一人歩きする過程については、竹中浩「ソ連邦の鹿史学におけ
る革命的民主主義者の概念」、渓内謙 fソヴ、イエト政治秩序の形成過程』岩波書菌、 1984年、を参照。
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1
0
.いずれも著者が過去に発表した業績のテーゼである。長縄光男「ゲルツェンの短縮「どろぼうか
ささぎ」における女擾の形象についてj f一橋研究J 1968年第 15号、間「「嵐の前j と「リシニウスJ
『一橋論議』 1969年第 62号第 2号、参照。
1
1
.この点についてはたとえば、勝田吉太郎『近代ロシヤ政治思想史』創文社、昭和 36年
、 387-468頁参照。
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.
1
3
.長縄光男 f
イタリアのゲルツェン」『思想J、1973年 6月号。
1
4
.長縄光男「ゲルツェンの二月革命観J 『思想J、 1
9
7
8年 3月号。
1
5
.長縄光男「ゲルツェンとブルードンの交友の軌跡J F
I
横浜国大人文紀要』、 1981年第 1
1号
。
1
6
.カ一、『浪漫的亡命者』、 6
1寅
。
1
7
.同書、 76頁
。
1
8
.同書、 77頁
。
1
9
.長縄光男「杉浦秀一著『ロシア自由主義の政治思想記、『ロシア語ロシア文学研究』 2000年、第 32
2
0
.「ロシアリベラルj の性格規定については、杉浦秀一「カヴ、ェーリンとロシア的福祉国家」『ロシ
ア思想史研究』 2004年、第 l号を参照。
2
1
.論争史については、 Y
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,TheLondonMeetingofHerzenandChemyshevskiyi
nJ
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”,『工学院
大学研究論叢』 1970年、第 8号を参照。
2
2
.バーリンは抽象的理念に熱中し、そこに飛び込むパクーニンに理念の専制を見、ゲルツェンの「二
元論」批判と対比している。 I
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)
.
2
3
.ゲルツェン『過去と思索』第 2巻
、 167頁。おそらくこれはパーリンの「二つの自由概念jにおける「消
極的自由」と「積極的自由」の議論にも通じる陪題である。 C
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1
3
.
(本研究は、科研費(基盤研究(B)21330030)の助成を受けたものである。)
45