九八 年の中国怪獣 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要

はじめに
東普・
九八O年の中国怪獣
根
研
るので、女を取って、男は取らないのである。
女性を取れば配偶者とする。ウナを生まないものは
一生帰ることができず、十年経っと姿形もそれ︵強
固︶にそっくりとなり、考えも藤躍となり、再び帰
ろうとは思わなくなる。子を生んだ者は、すぐに抱
きかかえて家まで送り返してくれる。生まれた子は
みな、人間の姿をしている。︵子供を︶育てる者がい
ないと、その母がすぐに死ぬので、それを恐れて育
てないものはないのである。成長すると人間と変わ
ったところはなく、みな揚を姓とする。それで現在
の萄の西南部には楊姓の者が多いが、ほとんどみな
犠溜や馬化の子孫なのである︵ 1
︶
。
i改革開放初期のメディアと怪獣物語
の﹃捜神記﹄に以下のような話がある。
萄の酉南部のい山の中に、得体の知れないもの
がおり、サルに似ている。身長は七尺ほど、人のよ
うに立って歩くことができ、人を追いかけるのがう
まい。名前は毅癌︵かこく︶あるいは馬化︵ばか︶、
または獲援︵かくえん︶と呼ばれている。道を行く
女性をうかがい、美人がいればさらっていき、その
後は人知れない。そのそばを通りすぎようとする人
は、長い縄で引っ張り合うのだが、それでもだめで
ある。こいつは男女の臭いを,幌、ぎ分けることができ
中
−−ゐ
Zu
一九七0年代後半から始まる︿野人﹀騒動と、中国と
いう国家が当時震かれていた時代的背景との関連につい
てはすでに考察しているが︵ 5︶、本稿ではこの一九八O
年という特異な一年に焦点を当て、当時の報道を時系列
に沿って並べることで、今度はそれを受容した人々の視
点 に 立 ち 、 改 め て ご 九 八O年の中国怪獣﹂の問題を克
つめしていくことにする。
ムに、 中 国 人 の ラ イ フ ス タ イ ル の 変 化 を 確 認 し て き た
この短い物語に見られる、﹁女性をさらう﹂﹁子供を生
ませる﹂というモチーフは、後によりプロットを練られ
た形で岩代伝奇小説の﹁補江総白猿伝﹂に受け継がれ、
文学作品として昇華する。
以後も様々な文学作品や民間説話の中で語り継がれて
きた、この日伝統的な﹁女性をさらうサルのような娃物﹂
の物語が、現代中国で新たなアイデンティティを付与さ
れ、未確認動物︿野人﹀騒動として蘇った背景について
は、これまでの拙稿でささやかながら考察を重ねてきた
︵2︶。そこで明らかになってきたのは、神話伝説や古典
文学にルl ツをもっ物語や形象が、時代の政治的︵ある
時は経務的︶要請により、現代的な存在意義を控わされ
た形で再生産されていくという現象であった。また、こ
れら現代中国における︿野人﹀や︿水盛﹀︵湖や川などに
現れる怪獣︶の伝説について、それぞれに文学的背景や
政治的背景を考察し、さらに図像学的アプローチなどを
︿野人﹀誤査報道・一九八O
︿野人﹀とは、一九七0年代半ばから一九八0年代は
じめにかけて、湖北省神農架の原生林地帯で目撃報告が
相次いだ、いわば﹁未確認動物﹂である。一九七六
中国科学院を中心にした調査隊が組織されて以降、
九
。
︶ の 過 程 で 改 め て 感 じ た の は 、 特 に 九 八O年前後の
そ
中国メディア状況と佳獣ブl ムの関係性についての再披
証の必要性である。
中国で最初の︿野人﹀騒動がピ lクを迎える一九八O
年は、吉林省・長白山の天地やチベット等の︿水怪﹀騒
動もかまびすしかった年であり、それ以前・以後と比較
しても慌獣報道が突出していた点で、注自すべき一年で
ある。
︵
4
加えてきた︵
3
︶
最近では、。
近年︵一二世紀以降︶の中国の各種メディ
ア︵商業紙、テレビの科学番組や罷連書籍など︶でノン
フィクションとして発信される怪獣情報や、その延長線
上に誕生した大陸初の珪獣フィクション・ドラマ等を概
観し、娯楽として消費され始めたそれらの怪獣物語ブ l
nhu
唱え
に三回も回出家レベルの調査がおこなわれ
八O年まで、
ている︵日︶。
一九八O年に入ると、それまでの活動内容の紹介も含
め、様々な形で︿野人﹀調査の実態が中国内外に曜伝さ
れていった。たとえば、﹃北京晩報﹄では三月に﹁野人の
謎﹂と題する連載記事︵一一一月九日i十一日︶がスタート。
三月十一日には、同年八月にや国科学院を中心に組織さ
れた一万人規模の大調査球が、神農架で︿野人﹀を捜索
するという記事が掲載され、即座に海外にも配倍されて
いる。︿野人﹀の連載を始めた﹃北京晩報﹄は大人気とな
り、プレミアがついて高値で取引される騒ぎにもなった
ようである︵ 7︶。これなども、当時多くの北京市民が神
農架の︿野人﹀に熱いまなざしを送っていたことを裏づ
けるエピソードのひとつだろう。
この年、実際の調査隊は五月に組織され、メンバーは
精鋭二十八名であった。先の報道にあったご万人﹂と
いう表現は、﹁白髪三千丈﹂式の誇張かもしれないが、現
地での協力者をすべて含めての数字だったのであろう。
以後、向調査の模様は定期的に報道されていく。中国
共産党の中央宣伝部の機関紙である﹃光明日報﹄同年六
月二十七日の紙面には﹁神農架に︿野人﹀はいるのか?
科学調査隊が郡西北山区に入って調査中﹂︵ 8︶と題する
記事が掲載される。そこでは、一九七六年以降、実に約
二百人もの人員を動員して、総行程五千キロあまりを調
査し、︿野人﹀のものと恩われる毛髪・糞便や、多くの謎
の足跡を発見したことや、現地民への聞き取り調査や、
地方誌の記載などから、︿野人﹀のものと思われる伝説が
多数収集できたことなどが成果として挙げられている。
いまだ調査隊員自身が目撃したことはなく、中国の十専門
家の四回でもその存在の可能性について賛否両論あること
も紹介しつつも、現在ニ十人ほどの調査隊が現地で熱心
に調査を続行中であることを伝えて、は終わってい
。
る
︿野人﹀について肯定も否定もせず、淡々と事実を報
しているように思えるが、神秘的な神農架イメiジは、
他の記事からもうかがえる。
同年七月二十四日の﹃光明日報 h では﹁なぜ神農架に
は白色動物が多いのか?科学者たちが原因を究明中﹂
と崩し、同地において︿野人﹀を捜索している科学チー
ムが、自リス・自熊など、いわゆるアルビノの動物をた
くさん発見し、その原因について研究を始めていること
を伝えている。
八月七日の上海﹃文題報﹄では、調査隊が発見した謎
の足跡について報じ、︿野人﹀が存在する可能性は高まっ
たとする都民壮の談話を載せている。
i
ヴ
−i
︿水慌﹀発見報道・一九八O
実はこれら︿野人﹀報道と棺前後して、︿水佳﹀ に関す
る報道もこの時期は盛んにおこなわれていた。
皮切りは一九八O年六月十八日﹃北京晩報﹄で、チベ
ットの文部湖に出没する謎の怪獣について報じている。
秋に入ると今震はニュ i フェイスが登場。中国と北朝
鮮との悶境線上にある長白山のカルデラ湖・天地に、謎
の︿水佳﹀出現のニュースが紙面を賑わすようになって
いったのである。
最初は九月十八日付の現地紙吋延辺日報﹄の記事で、
同年八月二十三日の目撃事件を紹介。その正体として、
プレシオサウルスのような首長竜説まで飛び出している。
その後、﹃北京晩報﹄十月六日の紙面に問事件を伝える記
事が掲載され、さらに十月九日の﹃光明日報﹄では﹁未
解決の科学の謎﹂と題し天池の﹁臣大怪獣﹂事件を特集。
八月二十一 1 二十二日に怪獣を見たという作家・雷加自
身による﹁天地佳獣目撃記﹂も掲載している。ネス槻の
ネツシ lについての紹介記事もあり、あたかもその同類
、が中国に出現したかのような論調になっている。十月十
一日には﹃人民日報﹄にも﹁長白山天地に奇異動物出
現﹂と題する問様の記事が載り、この﹁天池娃獣﹂の存
在は中盟内外に広く知られるようになっていく。
﹃北京晩報﹄の掻獣報道
この時期の報道を見返していくと、﹃人民日報﹄や吋光
明日報﹄といった共産党の機関紙でさえも、怪獣出現の
記事宏大真面目に伝えていたことがわかる。
また、先に見た﹁天地佳獣﹂に関連してネツシーを紹
介した﹃光明日報﹄のように、海外の米確認動物ニュー
スを紹介することさえあった。たとえば一九八O年一月
二十八日﹃人民日報﹄では、﹁ビッグフット猿人北米に
出没﹂と題する記事を揚載し、カナダで開催されたどツ
グフットに関する討論会の席k、謎の足跡が未知の猿人
のものであることを確信したとする人類学者の談話を紹
介しているほか、動くビッグフットの諜影に成功したふ
たりのアメリカ人についても言及している。
テレピの普及率が、まだ都市部でも百世帯当たり五台
ほどだった時代︵立、これらの伝播力の強い新聞メディ
アが、当時においては︿野人﹀等の怪獣の認知度を上げ
ていったのは間違いない。
その中あって、一九八 O K T
に怪獣報道が増えた背景に
は、﹃北京晩報﹄の影響が少なくはなかったと患われる。
一九五八年に創刊した同紙は、文化大革命中の一九六
六年から休刊。そして、まさにこの年、一九八O年の二
月十五日に復刊したばかりであった。護刊直後の三月に
は﹁野人の謎﹂シリiズの連載を開始し、あまりの人気
-18-
ぶりに向紙にプレミア価格がついたことは、先述の通り
である。同年十月には、チベット文部湖や、長白山・天
池の︿水怪﹀についても、司光明日報﹄や﹃人畏日報﹄に
先駆けて、いち早く報じている。
その後も関紙は、たとえば一九八四年八月一二十日から
は、やはりチベットの︿水桂﹀記事の連載をスタートさ
せている。その也、後述するが、日本の新聞などでも
︿野人﹀︿水怪﹀報道の情報源として司北京晩報﹄が引用
されるケi スが、実際に多かった。
同紙が果たした役割については、いずれ詳しく検証し
ていきたいが、文革終了にともなう間紙の復刊と怪獣報
道ブi ムとが、時を同じくしていたという事実はおぼえ
ておきたい。
﹁猿娃﹂報道と二人つ子政策﹂
一九八O年の︿野人﹀報道のさなか、四月十九日の上
海﹃文匿報﹄に﹁四十年前、四川の一農婦が生んだサル
の姿をした子供﹂﹁グ狼娃 H の遺骨、上海に持ち込まれ研
究進める﹂という見出しとともに、一九三九年に田川省
の産山県︵現在は重慶市・湖北省・神農架にも近い︶に
生まれた徐雲宝という、毛深く言葉も話せない﹁猿娃
︵サルの子の意味ごについて紹介している。
彼の出生については、以下の通りだ。
地の民衆の話によれば、﹁狼娃﹂の母は九三八
年夏に、山の中で二十日間あまり失践したことがあ
り、帰ってきた後にすぐ妊娠し、翌年に﹁殺娃﹂を
生んだという。﹁狼娃﹂の出現は純粋な﹁先祖返り現
象﹂なのか、またはほかに原因があるのか、今のと
ころまだ論を定めることはできない。その骨格は上
海に運ばれた後、すでに関係者たちの大きな注目を
集めている。多くの科学技術者たちは、この謎を解
くことは人類学・病理学などの研究にとって非常に
意義のあることであると見なしている︵♂。
また記事によれば、家族の中で彼だけにこのような特
徴が見られ、同じ母親から生まれた他の兄弟一一ひとり
の兄・ふたりの姉・ひとりの弟には何の異常もないと報
じている。皆普通の生活を送っており、人々ではそれぞれ
に子供までいるという。
すでに亡くなっているこの﹁狼娃﹂の遺骨を掘り起こ
し、上海へ運んだのは、誰あろう、現地で活動中だった
︿野人﹀調査隊の都民壮らであった。この記事では明言
されていないが、実際に調査に当たった劉毘壮の著書
︵どによれば、﹁狼娃﹂の母は、﹁一頭の直立歩行でユラ
ユラ揺れる﹁大青猿︵川口チベットモンキー︶﹂に背負われ
-19-
ていき、山の洞窟で二十Bあまり暮らし、一九一一一九三
月にひとりの﹁サルの赤ん坊﹂を生んだ﹂のだという。
﹁猿娃﹂の噂を聞きつけた調査隊は、当然、彼が︿野
人﹀の子であった可能性を疑い、遺骨の分析をおこなっ
たわけだが、もちろん彼は先天性の異常見であり、サル
との浪血克ではない。
れるように報道されたということは注意しておきたい。
そして後に、その一九八O年に起こったとされる、以
下のような事件も報道されている︵﹃チヤイニ iズドラゴ
ン﹄九九八一一月二十四日記事/原文、日本一詩︶。
内陵部・湖北省北西部の秘境として知られる神農
架地区で、計画出産政策に従うことを嫌がり、一九
八O年以来十一一一年間も同区の山中に潜伏していた家
族があったことが、現地紙などの報道で明らかにな
った。
︵中略︶ただし、男児をもうけたいがために山ごも
りをした一家だったが、待望の男児はなかなか誕生
しなかった。妻は山中で次々と出産したが、女児ば
かり。結局九人目の子供までが全員女の子で、一九
九一年秋にようやく初めての男児が誕生したときに
は、妻は男見が産まれない無念さと十年以上の山中
生活の心労で、ノイローゼに陥っていた。
﹁猿娃﹂をめぐる逸話に散見される異類婚姻モチーフ
からは、むしろ本稿の冒頭に挙げた司捜神記﹄﹁額闘﹂の
物語の系譜に連なるものであることが見て取れよう。こ
れについては、すでに何度も論じたのでここでは繰り返
さない。
中間では前年の一九七九年から、﹁計画出産政策﹂いわ
ゆるご人つ子政策﹂が始まっている。増えすぎる人口
を計画的に抑制するため、法によって個人の受胎・出産
その時点で長女はすでに十五歳になっていたが、
学校に行ったこともなく、家族以外の人と話したこ
ともなく、読み書きはおろか、会話力も幼稚園児並
みしかなかった。妻のノイロ iゼも悪化するばかり
で、向さんはついに下山を決意。一九九三年に妻の
実家に一決った。
しかし今一度、この一九八O年という年に注目して、
この報道を眺めてみるとまた重要な点にも気づかされる
のである。
をコントロールしようとするものであり、違反者には厳
しい罰金を課した。しかしこの政策は、戸籍には記され
ない﹁黒抜子﹂の問題や今後の少子高齢化問題等、様々
な弊害も生むことになる。
と も か く 、 新 た に 始 ま る こ の ご 人つ子政策﹂への庶
民の不安が渦巻く中、この﹁椴娃﹂ の物語が掘り起こさ
-20-
十人も子供をもうけたことについて、現地の計直
出産苦痛は、山中生活で政策違反のつぐないは十分
に果たしたと考えたのか、特に処分は下していない。
その後、二家十二人は元気に暮らし、娘たちも学校
に通うようになっているという。ただし主人の向さ
んだけは、山中生活がよほどん気に入ったのか、今で
も基本的には山の中に住んでいて、木を売る時など
ごくたまに家に帰るだけだそうだ。︵傍線筆者︶
これも地元紙の載せるとして報じたものであ
るが、怪物こそ出てこないものの、﹁子︵男克︶が生まれ
なければ帰れない﹂﹁十年経っと女性も考えが膿躍﹂﹁子
!と、や
が生まれると妻の実家で人間と変らぬ生活﹂ 11
はり﹁積鹿﹂の物語がそのベ i スに見え隠れする。
そして、ここに諾られる家族の﹁物語﹂では、より直
接的に﹁計画出産政策への反発﹂が色濃く出ている。記
事によれば家族︵父親以外︶が山を下りたのは一九九三
年だが、このニュ i スが出てきたのは五年後の一九九八
年。﹁改革開放﹂とともにこのご人つ子政策﹂を推進し
た部小平死去の翌年であったのも示唆的である。
日本での中国経獣報道
そして日本でも、一九八O年の正月早々から、 ︿野人﹀
報道が始まる。前年までは皆無だった中国怪獣に関する
記事が、堰を切ったようにあふれ出す。これら一連の情
報流入の背景のひとつには、もちろん同時期に中国で本
格的に始まった対外開放政策 1 ﹁改革開放﹂があるだろ
叶ノ。
w
関一月西日﹃朝日新聞﹄朝刊では﹁人とサルの中
期ワ﹁野人ごと題し、前年の一九七九年五月に中国で
発行された科学雑誌﹃百科知識﹄に掲載された、自撃証
一一諮問をもとに再現したという︿野人﹀イラストのを掲
載している。
同年一二月十日には﹃朝日新開﹄日新聞﹄﹃読売新
開﹄の三紙が朝刊で、それぞれ﹁北京原人そっくりの
グ野人H 8 月生け捕りに 1万人派遣﹂、﹁中間出・秘境の
山岳地帯 H野人 H が 生 む と 人 の い う 一 万 人 を 動 員 今
夏、大調査﹂、﹁野人捕獲の大作戦北京涼人そっくり、
一万人動員﹂との見出しで、大きく報じている﹃読売新
聞﹄朝刊は、翌十二日の紙面でも﹁ミニ清報﹂というコ
ラムで、︿野人﹀についての詳しい解説を載せている。な
お、これらのニュ!スソl スは前出の﹃北京晩報﹄が三
月に連載した﹁野人の謎﹂シリ!ズで、この連載の全訳
はその後、同年の﹃サンデー毎日﹄四月六日号に掲載さ
れている。
13ム
ム
円
五月十三日﹃東京新聞﹄朝刊は﹁パンダが現存する以
十月に入ると、﹃読売新聞﹄十月八日朝刊が﹁牛型の中
国ネッシl﹂と題し、長岳山天地の︿水窪﹀騒動を報道。
記事では﹁今春チベットの崩でグ建獣 H 発見騒ぎのあっ
た中国で、今度は所を東北に移してのお話﹂と書くなど、
中国で潤様の事件が頻発していることを印象づけている
オレたちみな兄弟﹂という記事を載
新聞以外でも、たとえば日本語の中国情報誌﹃人民中
国﹄一九八O年九月号では﹁秦嶺に出没する﹁野生人﹂
の謎を追って﹂という特集記事を九ベ iジにわたって載
せ、古今の目撃報告、調査隊の活動内容やその成果など
を詳細に紹介している。
そして、この日本国内での︿野人﹀熱の高まりを受け
る形で、前年十月にはフジテレビ取材班が、海外メディ
アとしては初めて神農架にカメラを入れ、︿野人﹀諦査を
また、十月二十四日﹃読売新聞﹄朝刊では﹁キヤツ!
大足跡チベットのシシヤパンマ峰野人か、雪男か﹂
と題し、登山家の田部井淳子を隊長とするシシヤパンマ
日本女子登山隊が、十月八日に雪上で発見したという謎
の大きな足跡の写真を掲載した。その記事の中では、現
在中間で話題になっている︿野人﹀についても言及され
ている。
グ野人Nil
−雪男
せている。
H
上
、
野人 H もいるはずだ!﹂と題し、見開きの大きな
特集を組んでいる。五月二十一日吉朝日新開﹄朝刊は
﹁ H野人 μ を生け捕りへ﹂、﹃読売新聞﹄朝刊は、﹁グ野人
H生 け 捕 り 工 作 開 始 中 国 科 学 院 湖 北 省 の 原 始 林 で ﹂
と題し、それぞれ前日二十日から調査隊が活動を開始し
たという第一報を報じている。
いよいよ︿野人﹀調査が本格化する中、今度は新たな
キャラクターがそれに﹂加わる。六月十九日﹃読売新聞﹄
朝刊は﹁チベットにもネツシ!?長い首、イカダや牛
が消えた!﹂との見出しで、文部湖の︿水怪﹀出没騒動
を記事にしている。
その後も、継続的に日本の新聞は︿野人﹀について報
じ続けた。八月一日には、﹃毎日新聞﹄朝刊が﹁これが中
国のグ野人 H 目撃証言からそンタiジユ﹂、﹃産経新
聞﹄朝刊がご﹂れがグ野人 H だ 中 国 で 生 け 捕 り 作 戦 ﹂
と題する記事を想像園付きで掲載している。八月九日
司朝日新聞﹄鞘刊は﹁叩センチの足跡毛髪なども発見
中国野人﹂、﹃読売新聞﹄朝刊は﹁グ野人 H 足跡発見﹂
と報じている︵その足跡の石鷲型の写真は、十一月二十
二日﹃毎日新聞﹄夕刊などが、ご﹂れが ρ野人 H の足跡
引ととの見出しで、掲載している︶。
九月二十七日﹃東京新聞﹄朝刊は ﹁ビッグフット iil
-22-
ワアルタイムで取材することに成功︵口︶。これには、京
都大学霊長類研究所の和田一雄も同行している。その模
様は、同年十二月九日夜七時からのフジテレビの火曜ワ
イドスペシャル﹁猿か人か?生きている中国原人﹂と
いうタイトルで、一時間半にわたって放送され、反響を
呼んだ。
これを見ると、中国での盛り上がりとシンクロするよ
うに、日本でも︿野人﹀︿水怪﹀報道が華やかであったこ
とがわかる。
日本で未確認動物ブi ムが起こったのは、主に一九七
0年代であった︵♂。すでに日本内外の様々な怪獣たち
の情報があふれ、いささか食傷気味になっていたところ
で 一 九 八0年 代 に 入 っ た 途 端 飛 び 込 ん で き た 中 閣 の
︿野人﹀︿水怪﹀といったニューフェイスたちの報道。文
革時期にあっては神秘のベ i ルに包まれていた中国大陸
から続々と届くようになったそれらのニュースは、新鮮
な驚きをもって迎えられたものと患われる。
一方この時期、臼本でブi ムを起こしていた未確認動
物の情報が、中国側に輪入されることは少なかったと見
え、初期の︿野人﹀関連本や、オカルト本の類に、日本
の事例はほとんど引かれていない︵5。日本独自の娃獣
観が、中国の様獣文化に影響を与えるようになるには、
もう少し時代を下らなくてはならない。
北京原人ブlムの中の︿野人﹀報道
さて、以上見てきたような一九八O年の︿野人﹀報道
を考える上で、もうひとつ重要な要素について触れてお
かなくてはならない。
それは一九七九年が、北京原人の頭蓋骨化石が最初に
発掘されてから、ちょうど五十年目の記念の年であった
ということである。同年末の十二月七日には北京で記念
式典が開かれ、さらに発見現場である北京郊外・周口店
の北京原人展覧館も改装オープンし、にわかに北京原人
にスポットライトが当てられていた時期でもあった︵♂。
そのような状況下、一九八O年初頭から始まる︿野人﹀
報道には、決まって﹁北京原人そっくりな﹂という枕請
が付けられていたことを想起されたい。
中閣の科学雑誌司科学生活﹄一九八O年一月号には、
表提新・黄万波による論文﹁我が留に N野人 H はいるの
か?﹂が掲載されたが、その中で、北京自然博物館の北
京原人の像を見た王沢林という人物が、自分がかつて見
た︿野人﹀に似ていると告自したというエピソードが引
かれている。︿野人﹀の正体について実際には諸説あるが
百六このように、一般的には北京原人に引きつけられ
て語られることが多かった。
そしてそれは日本でも同様であった。一九八O年七月
五日から八月三十一日まで︵ちょうど夏休み期間︶、上野
-23-
の国立科学博物館で、﹁北京原人展﹂が大々的に開催され、
実に五十万人以上の来場者数を記録している︵♂。当時、
中国大陸以外で北京原人関連の化石の実物や復元品が公
開されるのは、世界初のことであった。その後も同展は、
名古屋・北九州などを巡回し、翌年一月に閉幕している。
この﹁北京原人展﹂については日本の各種メディアも
大きく敦り上げたが、特に開展を主催していたヨ嗣売新
聞﹄は、開幕の数カ月前から連日のように北京原人の特
集記事を掲載。同年だけでも﹁北京原人﹂関連の記事は
五十以上に上る︵広告除く︶。六月三十日朝刊からは﹁証
言・北京原人のナゾついと題するシリーズを実に二十二
回にわたって連載しているほか、八月九日朝刊からは
﹁北京原人なに?なぜ?﹂と題するシリーズを、八回連
載している。
また、これらの記事にはよく﹁日本人のルl ツは北京
原人にあり﹂といった文言も騒っていた︵♂。当時の日
本人が北京原人に注ぐまなざしの中には、自分たちの視
先を見つけようとする一種の郷愁のようなものもあった
と思われる。
そして、このような北京原人報道の洪水の合間在縫う
ように、神農架︿野人﹀調査隊のニュースが差し挟まれ
ていたのである。たとえば先述した﹃読売新開﹄八月九
日の連載﹁北京原人なに?なぜ?﹂シリーズの第一回目
﹁洞穴生活叩万年﹂という記事のすぐ燐には、﹁グ野人 H
足跡発見﹂の記事が並んでいる。奇しくもそこには、調
査隊が﹁グ野人 μ が生活していたと見られる穴居﹂を発
見したという文言まである。一九八O年の日本では、こ
のような北京原人ブi ムにあやかるような形で、︿野人﹀
報道が存在していたという側面がある。
当時の中国にとって︿野人﹀調査は、かつての北京原
人化石発掘と同様、科学的 111
あるいは政治的に意義を
見いだせる事業であったと考えられるが︵型、奇しくも
一九八O年が北京原人化石発見五十周年という節罰の年
と重なったことにより、広く中国内外の一般市民にとっ
ても関心を持たれやすい状況が生まれていたと言えよう。 4
円
ム
北京原人について、いまひとつ付け加えておくと、香
港では一九七七年に映画﹃北京原人の逆襲︵原題・狸渥
王/英題・4Z5my
ミ F主Z 沼恒三﹄を公開している
︵臼本では翌一九七八年公隣︶。しかし、これはアメリカ
で一九七六年にリメイクされた映画﹃キングコング﹄に
便乗した作品であり、形象もストーリーも酷似している。
登場するのも北京原人ではなく、身長二十五メートルの
ゴリラ然とした臣大猿人。中国語版では劇中も一貫して
﹁狸狸王﹂と呼称されている。﹁北京原人﹂という名前は、
梅外公開にあたりネームバリューのある文字をタイトル
に入れたものであろう。
原題の﹁狸狸王﹂とは、現代中国語でゴリラを表す
﹁大狸狸﹂の﹁王様﹂ということになるが、そもそも
しよ︾じ之つ
﹁狸狸︵または牲姓ごとは、伝説上のサルのような姿
をした慢物を指す一一言葉であり、現代︿野人﹀の形象のル
ーツのひとつでもある。また、劇中、理狸王が人間の女
性を澗窟にさらっていくなどのモチーフは、もちろん本
家キングコングの探る舞いをなぞったものだが、額園の
エピソードの現代的な表現を見るかのようでもある。初
期の段措では、狸狸王はゴリラではなく、より人間に近
いデザイン 111
全身自い毛を生やした罪人タイプが予定
されていたようである五︶。そのまま実現していれば、
﹃補江総白猿伝﹄の現代的﹁翻案作品﹂となっていたか
もしれない。
一九七六 j七七年といえば、神農架での︿野人﹀塁撃
報告が相次ぎ、国家レベルの調査隊が現地へ送り込まれ
た時期である。このように、大器においてはノンフィク
ションの︿野人﹀騒動という形で蘇った物語が、同じ時
期、香港ではフィクションの慌獣映画として復活したと
いうのは興味深い。
おわりに
以上、一九八O年の中国における怪獣報道ブl ムと、
それを取り巻く当時の状、況とを振り返ってきた。そこか
ら見えてきたのは、改革開放政策によって新聞等の国内
メディアが佳獣惜報を発信しやすい状況が整っていたこ
と、加えて、特に︿野人﹀に関しては、前年末から盛り
上がりを見せていた北京原人との相乗効果でブ!ムを生
んでいたことであった。また、前年から始まった計画出
産政策への漠然とした不安は、﹁強固﹂をベ l スにした
﹁狼娃﹂の物語の形を借りて表出し、同時代の人々に共
有されることになった。
国を、挙げての調査隊はこの年を最後にストップし、海
外への報道も尻すぼみになっていく。一見、その後︿野
人﹀︿水佳﹀ブiムは下火になったように見えるが、一般
には多くのマニアを生んでいた。翠年の一九八一年には
学者を含むアマチュアの団体﹁中国︿野人﹀調査研究
会﹂が発足。また各ジャンルの作家たちは、︿野人﹀をテ
ーマにした数々の創作文学を生むことになる︵主。一方、
︿水怪﹀である﹁天地佳獣﹂も、地元の有志らの地道な
暁究活動によってそのキャラクタiは生き延び、︿野人﹀
両様、一九九0年代半ばからは現地の観光資源として再
び脚光を浴びることになる。
現在に続く︿野人﹀や︿水怪﹀といった中国様、獣の原
型は、古よりの伝統的形象やストーリーをベ i スにしな
がらも、当時のメディアの影響下、まさにこの一九八O
年に﹁新たなキャラクター﹂として留められたものであ
つω
o
r
類似性については、中野美代子﹃中関の妖怪﹄︵岩波新
H
書、一九八三年︶において早くも指摘されているところ
佳江第一四一号、一一O O九年九月︶。
前掲の捌稿﹁怪獣とプロパガンダ|中国
ぐる一言説に潜む政治と科学i 勺
科学考察臥逃入郡西北山区考察﹂。
見出し原文は以下の通り。﹁神衣架有
を伝えている。
野人
μをめ
H
野人 H m吋
?
の陪紙、か、一一一1八分といった高値で売資されている実態
ぶワ﹂と題する記事が掲載され、定価二分︵一一了二円︶
開恒一九八O年三月十三日朝刊に﹁﹁野人﹂が高値呼
中田の報道では確認できなかったが、日本の﹃読売新
じあブックス、一一O O二年︶等参照。
九九一二年︶、拙著﹃中国﹁野人い綴動記﹄︵大修館書店あ
騒動の顛末は、劉民壮吋中国神農架﹄︵文陵出版社、一
H
増殖する異形の動物たち﹂︵﹃北海学問回大学学開設嗣
拙稿﹁中国﹁怪獣文化﹂の研究|現代メディアの中で
九月︶。
形態学﹂︵吋繋箆﹄第十郎号、中国人文学会、二O O六年
学会、一一O O四年九月︶、拙稿﹁長白山﹁天池怪獣﹂の
の造像留を検証するi ﹂奇襲婆﹄第十二号、中田人文
H
野人
った。メディアが多様化︵複雑化︶した一二世紀に入っ
主
;
j
拙稿﹁姿なき怪獣たちの山内像|儲かれた中国
ても、これら世獣の物語はフィクション・ノンフィクシ
︶
である。
︵
7
︵
ら
︵
4
ョンを問わず、様々な形で再生産され続けている。今後
とも、その行方を見守っていきたい。
原文は以下の通り。﹁鵠中関南高山之上,有物,出出ハ狼相
類,長七尺,能作人行,益百走逐人。名目綴闘,一−名馬化,
或臼獲猿。伺道行婦女有美者,相肌次血去将去,人不得知。
若有行人経過其努,皆以長織相引,猶故不免。此物能町
男女気奥,故取女,田力不取也。若取得人女,山知為家室。
其無子者,終身不待選,十年之後,形皆類之,意亦迷惑,
不復思蹄。務有子者,級抱送還其家。産ウナ皆如人形。有
具,皆以楊為姓,故今萄中間荷多諸楊,引問中比白田疋殺醤馬化
不養︵者,其母線死。故畑出伯之,無常不養。及長,鼠︵人不
r
野人。イメiジ 間 口 撃 報 告 と 文 学 作
H
之子孫山 。また、閉じ内容の話は西普・張華の﹃博物
志﹄にも見える。
品に現われた現代の妖怪﹂︵﹃繋髪﹄第九号、中富人文学
拙稿﹁中国人の
をめぐる一言説に潜む政治と科学i ﹂︵﹃繋
会、二O O一年十一月︶、拙稿﹁怪獣とプロパガンダi
H
繋﹄第十五万、中国人文学会、二O O三年十月︶。なお、
中国グ野人
現代の︿野人﹀目撃談と、中閣の伝説上の妖怪たちとの
支
3
6
8
1
2
む
P
ム
の
︶
﹃中間関統計年鑑﹄一九八一年版︵中器国家統計局︶によ
H
狭娃
H
H 的母阜市在
的出現,是純粋的
︶
凶
︵
中国最後の秘境より﹄︵サンケイ出版、
に詳しい。
九八一年︶
たとえば国内では屈斜路湖のクツシiが話題になったの
は一九七三年、池田湖のイツシl騒動は一九七八年。全
たのも一九七0年代はじめであった。この時期のオカル
国のツチノコや広島のヒパゴンがマスコミを賑わせ始め
トブi ム・未確認動物ブームでは、世界各地の怪獣・た
詳しい。
認動物の精神史﹂︵﹃新潮付﹄二O O八年九月号所収︶に
︵
9
れば、一九八一年の百世帯当たりのテレビ所有率は五・
H
府批娃
六台︵中間全体ではわずか一・六台︶に過ぎない。
原文は以下の通り。﹁据当地群公滋,
H
猿 娃 μ。
一九三八年夏天ハ世田中位山製失掠了二十多天,回来后就杯了
苧,次年生下了
とえばネス湖のネツシーやビマラヤの雪崩刀に関する情報
H
反祖 μ 現象,迩是男有原因,至今迩不能定治。法制骨
架一辺到上海以后,巴引起了有美方面的重視。許多科技人
にもあふれでいた。このあたりの事情は、原問実﹁米確
文的﹂。
の領有権を既成事実化しようとしているのではないかと、
けに、中屋が怪獣騒動にかこつけて調査隊を送り、問地
の呼称。中国と北朝鮮の国境の走るデリケートな地帯だ
議﹂で﹁ H’店頭山ネツシ l H忍わぬ領有権論議﹂なる記
事を掲載している。﹁︷口頭山﹂とは、一口氏自山の朝鮮側で
例︶をわずかに紹介しているのみである。一方、一九九
践記
二年後の一九八三年発行の江廷安・云中瀧﹃
れほど盛んだった日本からの事例は収録されていない。
大侵﹄︵天津科学技術出版社︶では、役界の︿野人﹀や
H
尋
な調査を続け、︿野人﹀に関する論文・著作の多い劉渓
たとえば一九七0年代の騒動当初より、神農架での地道
﹃人民日報﹄一九七九年十二月八日記事参照。
0年代以降に発行された同様のオカルト本の類には、日
︶
凶
︵
境のような境界線地帯、民族問題のある地域に多く見ら
︶
打
︵
本からの情報を多く載せている。
のがあるが、このテ!?については今後の課題とする。
夫、放送作家の南川泰一二による著書記狩人は生きている
この時の経緯は当時の番組プロデュi サ ! の 字 留 出 俊
れる世界各地の未確認動物の問題については興味深いも
h では、広島のヒパゴン目撃談︵一九八三年の事
ρ
野人
︿水怪﹀、 U F O等 の 情 報 を 広 く 載 せ て い る が 、 当 時 あ
﹁韓国側﹂が懸念を表現していることを報じている。国
たとえば一九八一年に発行された黄万波等編著司世界回
関紙はまた、同年十月二十八日朝刊のコラム﹁世界の論
前掲、吋中間衿農相米同
民汰方,解芥い込
謎,対研究人炎学、病理学等是彼有意
A1
︶
日
︵
︶
ロ
︵
︶
日
︵
︶
日
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却
︵
︶
泣
︵
︵劉民壮、前掲﹃中国神農架﹄ほか参照︶。また、神農
壮は、その正体としてラマ・ピテクスを想定していた
架で長年調査を続けていた生物学者の胡披林は、筆者の
取材に対し、︿野人﹀はギガントピテクスの可能性が高
いという自説を語った︵前掲拙著﹃中間﹁野人﹂騒動
記知参照︶。
﹃読売新聞﹄一九八O年八月三十一日記事﹁﹁北京原人
間服﹂叩万人自の来場者千葉市の小 6﹂参照。
人特集記事には﹁北京原人は日本人の源流!﹂といった
たとえば一九八O年三月二日﹃読売新開﹄朝刊の北京際
小見出しが躍っている。また、同年六月十六日の﹃読売
る﹂、間七月四日の広告には﹁日本人のルl ツをさぐる
新聞巴の北京原人展の広告には﹁日本人のルi ツをさぐ
展覧会です﹂との極い文句がそれぞれ添えられている。
このことについては前出拙稿﹁怪獣とプロパガンダi
野人 ρをめぐる一言説に潜む政治と科学i ﹂で考
H
察を試みた。
出
日
中
特撮狭間研究会編明日陰獣とヒーローを作った閉刀たち﹄
︵タツミムツク、二O O二年︶に収録された、陪作の造
その中には、後に︵ニ000年︶中国出身者としては初
裂担当了村瀬継蔵へのインタビュー記事参照。
のノiベル文学賞を受賞することになる高行健の、舞台
劇脚本﹁野人﹂︵雑誌﹃十月﹄、一九八五年第二期所収︶
などもあった。
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