文革歌曲の分類とその時期 ーーそのー・毛沢東の語録歌について一一 朱 朗 鳥 1 9 6 0 年代から 7 0 年代後半にかけた中国の文化大革命期において,歌曲の 分野は,文学作品,映画,美術など,いわゆる文化・芸術の領域と同じく, いずれも当時の政治的社会環境に影響され,鮮明な時代的特色があった。 それ以降,文革の終結,改革・開放という社会システムの改革にともなっ て,当該分野の価値観も大きく変化し,文革期の作品を否定する意味で 「文化・芸術領域の春を迎えた」といわれたように,文革中のものと一線 を画した。経済発展に力を入れる社会状況下で,文革期の様々な出来事, とくに歌曲というような文化的な分野に対して,どのように理解し,その 後の社会との関連性を考えるとき,どう位置づけるべきかについて,文化 大革命終結後3 5年を経て,そろそろ整理する時期になっているのではない かと考える。本稿は,文革期の歌曲の中,まず毛沢東の語録歌について焦 点を絞って考えたい。 1 . 毛沢東の語録と『毛主席語録』 周知のように,毛沢東の語録とは毛沢東の著述した論文から, 1 9 6 0 年代 の初期,国防部長である林彪が人民解放軍の機関紙である『解放軍報』に 指示し,毛沢東の重要論点を語録という形式で取り出して,当該新聞に毎 日掲載するようになったものである o のちの 1 9 6 4 年,中国人民解放軍総政 治部の編集によって,人民解放軍向けに『毛主席語録』の単行本が刊行さ れ , 1 9 6 6 年文化大革命開始後,一般向けに出版された。『毛主席語録』は, (45) 文化大革命期に「赤い宝典」(紅宝書)と称され,漢字版のほかに,少数 億部が発行されたともい 0 民族語,点字,外国語など各種の版本を含め, 5 われている。毛沢東の語録については,一般的にこの『毛主席語録』のこ 年代初期から,新 0 とを指すことが多いが,実は上述したように,すでに 6 聞紙や雑誌,ラジオなどのあらゆるメディアを通じて,語録の掲載,放送 がなされていた。 この毛沢東の語録に曲をつけ,歌曲として毛沢東の語録を歌うというこ とは,文革期歌曲の特徴の 1つである o 新聞への掲載と比べると,語録歌 年 8月,当時の作曲 6 6 9 の産出は少々遅れを取っているが,文革開始後の 1 6)氏によって端緒 7 9 3∼1 1 9 家,諸陽音楽学院院長である李劫夫(雲龍, 1 年ごろまでの 3年間に一世を風廃して,李劫夫もしばらく 9 6 9 を開いた。 1 は文革中の紅色作曲家として時の風雲児となった。 . 作曲家李劫夫とその音楽 2 年延安の紅軍人民劇社に入社。 7 3 9 李劫夫は中国東北部吉林省の出身で, 1 その後,抗日戦争の展開にともなって創作活動を開始して,「牛飼いの王 さん」(歌唱二小放牛郎),「王禾小曲」(王禾小唱)など,民謡,戯曲の特 年以降,藩陽音楽学院 9 4 9 色を生かして,世に知られる曲を多く残した。 1 の前身である東北音楽専科学校を創立し,校長や院長を勤めながら創作活 動を続け,毛沢東の詩曲「蝶恋花・答李淑ー」,「泌園春・雪」など繊細で ありながら,また雄大なスケールをもっ音楽を作成した。 年に「我々は大道を行こう」(我仰走在大路上)という,全国的に 3 6 9 1 有名な歌を創作し,行進曲のメロディを通して,反右派運動以後,大飢鐘 年 6 6 9 期における民衆の士気高揚に大きな力を発揮した。文革期に入った 1 5月,文化大革命歌曲の幕を引いたシンボルとされ,毛沢東の思想を歌唱 する第 7回「上海の春」大型コンサートに,「毛主席の本は革命の宝物で ある」(毛主席的二日是革命的宝),「毛主席の本は我々の愛読書である」(毛 (46) 主席的有我 1 ']最愛i 実),「肉親もおよばない毛主席の親しさ J(多来娘来不 如毛主席奈),「文化大革命行進曲」(文化大革命遊行曲)と,李劫夫の作 成したものが 4曲ほど登場し,それは文化大革命歌曲創作の先頭にも立っ ていた。 3 . 李劫夫の毛沢東語録歌とその特徴 李劫夫の作曲活動は中国の現代史における様々な歴史的時勢に合わせな がら,また民族的な風格のある音楽を誕生させたところに特色がある。語 録歌の作曲も,このような延長線上に生まれたものである。ただ一点だけ 説明しておきたいのは,李劫夫の研究者である霊長和氏の記述によると, 語録歌の作曲は政府,あるいは共産党組織の指示を受けて作成されたので はなく,あくまで偶然の出来事であったということである。霊長和氏の記 述は以下の通りである(抜粋)。 現在の遼寧『音楽生活』雑誌社に欧大権と呼ばれた副編集長がいる。 李劫夫の語録曲を作成するきっかけについて知るために, 1 9 9 8 年 5月に 同氏を訪ねた。歌大権副編集長は幼いころからの音楽愛好家である。渚 陽音楽学院の受験に希望を燃やし,たびたび李劫夫の作品発表会に出席 した。それを機に李劫夫と知り合って,個人的な交流を続けた。 1 9 6 6 年 8月,欧大権は北京師範大学附属中学校紅衛兵発行の新聞を手にしたと き,紅衛兵の歌に「造反有理」という毛沢東の語句が入っていることに 気がついた。それに啓発され,毛沢東の語録に曲をつけることに挑戦し ようと思った。その考えを李劫夫に連絡し,とくに李に作曲を勧め,結 局は李によって 1 7曲が作成された。これらをビラに印刷して,早速紅衛 兵の集会などで撒いた。そして,李劫夫の作曲した毛沢東の語録歌は 1 ヶ月の聞に,藩陽及び遼寧省に広がり,多くの人々に歌われた。その期 間に思いがけないことがあった。これらの歌が中国共産党機関紙である (47) 0日の『人民日報』 年 9月3 6 6 9 『人民日報』の編集者に発見され,突然, 1 に発表された。(霊長和著「“語録歌”風行始末」『紅色音楽家−劫夫』 ) 0頁 9 5頁∼ 2 8 第2 以上は震長和氏の論文から要約したのであるが,秋大権氏が語ったよう に語録歌誕生の経緯は,あくまで李劫夫の個人的な行為を発端にして,そ の後,『人民日報』紙によって発表されたのであった。発表当日『人民日 報』の 6面に詩曲の掲載と同時に,以下のような解説もつけられている (抜粋)。 文化大革命の進展にともなって,毛沢東の著作を学ぶ群衆の熱情が高 まっている O いたるところに毛沢東の語録を朗読する声が聞えることは, 革命の歴史における大きな壮挙であり,また社会主義革命建設の保証で もある o 林彪同志は,毛沢東の基本的な論点については暗唱し, しっか り理解して,日常の生活をそれによって指導しなければならないと指摘 年建国記念日の前日に,李劫夫及び中央楽団の創作 6 6 9 している。この 1 0曲掲載して,群衆たちの毛沢東語録の学習に役立てよう した語録歌を 1 とするものである。 0日付) 年 9月3 6 6 9 (『人民日報』 1 年に成立した中国のトップクラスの国家 6 5 9 中国中央楽団というのは, 1 0曲の中,中央楽団の 2曲以外は,すべて上記の李劫夫 交響楽団である o 1 の作品である。 .的核心力量) ! i 事i ] ①われわれ事業を指導する核心的力」(領専我f ②「政策と策略は党の生命である」(政策和策略是党的生命) 我{口座当相信群余,我(口座当相信党)(中 ③「群衆を信じ,党を信じる JC (48) 央楽団曲) ④「われわれの教育方針JC 我仰的教育方針) ⑤「仕事は戦いである」(工作就是斗争)(中央楽団曲) ⑥「誰が革命派か,誰が反革命派か,誰が口先の革命派か? JC 什ゑ人是 革命派,什仏人是反革命派,什仏人是口共革命派) ⑦「敵が反対するものをわれわれは断固として擁護する o 敵が擁護するも のをわれわれは断固として反対する」(凡是故人反対的我伯就要掬炉, 凡是故人掬炉的我仰就要反対) ⑧「敵と友を区別しよう」(分清故友) ⑨「勝利を勝ち取ろう」(争取腔利) ⑩「希望はあなたたちに託されている」(希望寄托在体的身上) どれも当時の新聞やラジオなどよく登場した毛沢東の語句であるが,李 劫夫の作曲が採用された理由は,まず,歌曲として毛沢東の語録を歌える 形にした最初の創作者だからであると思われる。中国の文学史を見れば, 孔子,朱子の語句類や仏教禅宗の言行録などをまとめる語録類は決して稀 なものではないが,しかし,語録に曲をつけて歌いやすいようにするのは 確かに珍しいことである o 李劫夫の発明といわざるを得ない。これによっ て同年 1 0月 1日の国慶節,つまり毛沢東の 4回目紅衛兵接見の日に,ラジ オ放送で新鮮な語録歌が流され,世を驚かしたという。それ以後,ラジオ をはじめ,紅衛兵の演出団体,街頭高音スピーカ,民衆生活のいたるとこ ろに語録の歌があちらこちらで聞えた。語録歌の誕生は林彪の主導する毛 沢東著作の学習運動に合わせた形で,通俗な方法を用いて運動を大きく推 進するものであった。 一般的に,中国語の歌は音楽と合わせやすくするために,作詞のとき, 一定程度の平灰音律が求められる。そのような視点から見ると,語録の歌 は先に語録があり,その語録にあわせて音楽をつくることになる o とくに (49) 文化大革命期における特有な政治環境に合致するメロデ、ィを作成しなけれ ばならないのだから,決して簡単なことではない。こうした李の曲は,い ずれも直線的表現で,旋律が明確であることが特徴である o 政治的な色彩 の強い音楽には,穏やかなメロディ,または言い回しのような曲線的表現 年 8月毛沢東が紅衛兵たちへの「造反精 6 6 9 は誤解を招きやすく,とくに 1 神」に賛意を示しながら,共産党内に明確に劉少奇,部小平と鋭く対決し ようとする意志を表した段階では,なおさら慎重にしなければならなかっ たのである。李の作品は,当時の政治的時勢に強く迎合したものと感じら れる。ただ,のちの他のものと比べると,李の作品は,まだそれほど単万 直入のものではなく,どちらかというと,作曲家の作品として文化的な要 2日付け 0月 1 6年 1 6 9 素を多く取り入れたものであった。それに対して, 1 『人民日報』に掲載された 2回目の語録歌は,きわめて強烈なものがあっ こo f . 語録歌「造反に理あり」について 4 2回目発表の語録歌は 4曲しかなし、。その標題は以下のものになる。 ①「造反に理あり」(造反有理) ②「革命は客を招待する温情のようなものではない」(革命不是清客吃仮) ③「戦わなければ敵は倒れない」(体不打官就不倒) 決不能注官官]自由乏濫) ④「決して自由に氾濫させない JC 年延安で聞かれたスター 9 3 9 「造反に理あり」という語録は,毛沢東が 1 周年祝賀大会での発言「マルクスの道理は入り組んでいるがつ 0 リン生誕9 年 8月 1日,毛 6 6 9 まるところ一言に尽きる O 造反有理だ」に由来する O 1 沢東が清華大学 附属中学校の紅 衛兵に書いた手 紙の中,紅衛兵 の行動に 「造反に理あり」だと熱烈な支持を示したことによって,全国的な紅衛兵 (50) 運動が展開された。「造反に理あり」という言葉の真意は民衆の思想改革, つまり新しい社会体制の中,知何に旧来の観念を捨てるかにあると思われ るが, しかし,実際には,このスローガンのもとで若い紅衛兵たちが社会 秩序を乱し,歴史文化などには大きな損害が与えられた。いわゆる中国文 化大革命という社会的深刻な歴史ドラマが展開していったということであ る 。 「造反に理あり」と肩を並べたのは「革命は客を招待する温情のような ものではない」という語録である o これは毛沢東の 1 9 2 7 年 3月に発表され た,有名な「湖南農民運動考察報告』のなかの一文である o 書き抜いてみ ると,「革命は客を招待するようなものではなく,文章を書くようなもの でもない。また絵描きや刺繍のような上品な,ゆっくりしたものでもない。 礼儀正しく穏やかにしてはいけない。革命は暴動だ。 1つの階級がもう 1 つの階級をひっくり返そうとする猛烈な行動だ」と,当時湖南農会の革命 運動の不足を指摘する際に使われた文言である o 文革の初期では「造反に 理あり」と同じように,紅衛兵たちの過激な行動の理論的支えとなった。 ところで今日から振り返れば,紅衛兵運動の熱狂を押し進めたものの中, lつ無視できなかった存在は,これらの語録に曲をつけた語録歌である。 『人民日報』の標記によると,②③④ 3曲の作曲者は李劫夫だが,「造反に 理あり」の曲は中国中央楽団によって作成された。文化大革命という政治 的思想対決,さらにそれによってもたらされた社会的混乱の中,このよう な曲は,行進曲的なスタイルを持ちながら,とくにその直線的,戦闘的な 雰囲気を臭わせるメロディは,つねに紅衛兵の武力闘争,社会破壊の勢い を助長する役割を果たしていた。文化大革命の混乱は,政権担当者の政治 的判断の間違いにあることは確かだが,これらの歌曲もそれに甚大な影響 を及ぼした。「造反に理あり」歌の影響によって同じ時期に北京大学附属 中学校の紅衛兵により「革命造反歌」が発表され,社会はますます混乱に 陥った。 (51) .おわりに 5 5日に発表された。 3回目は『人民日報』によって同月 2 ①「いつまでも『定番の三篇』を学ぼう」(永退学巧“老三篇づ(林彪作, 李劫夫曲) ②「誠心誠意人民のために」(完全御底方人民)(唐詞) ③「すべて他人に奉仕する」(事不利己寺|寸利人)(李偉) ④「われわれは人民のために奉仕するものである」(因方我的是方人民服 多的)(董雨森) ⑤「ベチューンを記念する」(記念白求恩)(李偉) ⑥「われわれの勇気を高めよう」(要提高我伯的勇汽)(鉄道兵政治部文工 囲曲) ⑦「われわれは津々浦々より来たものである」(我伯都是来自五湖四海) (彦克) ⑧「彼を学ばなければならない」(我的大家要学羽他)(楊平) ⑨「人民のために死ぬことこそまことの死」(方人民而死,就是死得其所) (胡士平) 2回目の発表もそうであったが,ここでも,李劫夫のほかに他の団体と 個人の作曲も参入した。全体的に,文革期間中の語録歌は百数十曲あると 推測されて,そのなかには李劫夫によって制作された曲がきわめて多かっ たといわれている。 ところで,文革期の歌曲を考えるとき,語録の歌は文革歌曲の主流であ 9年の中国共産党第 9回大会の 6 9 るかといわれると,当然そうではない。 1 0月からおよそ 3 年の 1 6 前後,語録の歌は徐々に聞かれなくなり,それは 6 年近く流行しただけであった。その理由は様々に考えられるが,語録歌の 創作は,とりわけ李劫夫の個人的行動から始まったものなので,決して文 (52) 化大革命の文芸改革リーダーである,毛沢東の夫人江青の意図したものと は一致せず,文革期の音楽,歌曲改革の主たる手がかりはむしろ別なとこ ろにあると考えられる。 参考文献 霊長和著『紅色音楽家一劫夫』人民出版社, 2 0 0 3 年1 2月 。 梁茂春「論“文革”時期的芸術歌曲」李曙明主編『中園芸術歌曲論』上海音楽 出版社, 2 0 0 9 年 3月 。 『人民日報』 1 9 6 6年 。 人民日報図書館編『人民日報索引』 1 9 6 6 年 , 1 9 6 7 年 。 陳東林他主編,加々美光行監修『中国文化大革命辞典』中国書店, 1 9 9 6 年1 2月 。 (53)
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