現代版《謠》−「元宵」の意味するもの(全) 間もなく六月四日を迎える。一九八九年春に始まった中国の民主化運動の終結を意味す る、いわゆる天安門事件のあった日である。世界を震撼させたこの事件も、国際情勢に敏 感で新しい出来事にすぐに飛びつく日本人には、もうすっかり過去の出来事として色あせ てしまったかのように見受けられる。しかし、中国人にとって「六・四」はつい昨日のこ とのように記憶に新しい。かれらには「天安門事件」というよりもこの「リウ・スー」と いう呼び方が一般的である。私はその民主化運動から「リウ・スー」に至る経緯を見るこ とができた者の一人として、また、中国思想史研究に携わる者として、私なりに中国をみ つめてきた。その間、私にとって最も大きな発見のひとつは、中国人が言葉(漢字)に託 す思いの深さであった。それは民主化運動中に生まれた多くの「落書」の類に本領が発揮 されたが、かれらは中国二千年来の伝統的手法を用いて、あるときは詩を、あるときは語 呂の良い標語を作り、自らの心の内を語る。それは、中国の歴史書に記録された「謡(は やり歌)」と同様、無力の民が時の権力者を呪い血祭りにあげる独特の意思表示の方法であ った。それ故、私は「リウ・スー」後も、中国の普通の人々が「リウ・スー」をどのよう に考えているのか、また、これからの中国に何を期待しているのかということを語ってく れる「落書」の類の出現を心待ちにしていた。 「リウ・スー」から二年に垂んとするこの三月末、ようやくそのひとつに巡り会った。 それは三月二十日付の中国共産党機関紙『人民日報』 (海外版)に掲載された「元宵」と題 する七律で、日本の新聞でもその数日後に紹介された。 「東風が顔を撫でるように吹いて桃や李に早く咲けよとせきたてる。鳶(私)は力のほ ども知らずに翼を広げて鵬の飛ぶ道程を飛ぼうとしたができなかった(大志を抱いてアメ リカに来たが、まだ何も果せない) 。(悲観的になって)旅人(私)は高台に登る。すると 月が海を照らしており、見ていると故国を想って涙が流れた。だが、どんな時でも報国の 志に背くようなことはするまい、人民が私を育んでくれたことは万金にも勝ることなのだ から。さあ、奮起して中国の発展に貢献し、中国全土に春が訪れるのをもうしばらく待と う。」 以上が詩の大意で、一見すれば、遠く異郷の地で母国に思いを馳せる詩となっている。 ところが、その裏には「東風」は民主化を、「桃李」は学生や知識人を、「鷂鷹」は民主化 運動に参加した多くの人達を、 「鵬程」は民主主義の実現を隠していると思われる。すなわ ち、「一九八九年春、自由と民主の風が学生たちを喚起し、運動に参加した多くの人達は、 微力ながらもこの運動で民主化を実現できると信じた。だが、それは惨たる結末となった。 祖国を離れている中国人には、春の月を見るにつけても、あの時の天安門《故城》が思い 出されて涙が溢れる。真の意味で報国の志に背くまい、なぜなら人民が我々を育くんでく れたことは万金にも勝ることなのだから。だからこそ奮起して中国を救おう、遠からず中 国も民主化されるはずだ」となり、遠く祖国を離れた同胞から国内にいる心ある学生・知 識人への熱いメッセージとも読めるのである。念のいったことには、すでに指摘されてい るように、「李鵬下台、平民憤(李鵬よ退陣せよ、我々はお前を恨んでいる)」というスロ ーガンを巧みに隠している。更に、これは穿ち過ぎかもしれないが、恐らく偽名であろう 「朱海洪」も、 「六・四」に天安門で流された学生や市民の血の海を想起させるに充分であ る。 ところで、四月二日、シンガポールの新聞『聯合早報』は、ロサンジェルスにおける作 者朱海洪氏との談話を発表した。それによれば、この詩はアメリカ留学中の中国人学生数 名の合作で、詩序に「元宵節(旧暦一月十五日)の夜、格里菲蘇天文台(ロサンジェルス にある)に登って望郷の念に駆られ、詩を賦して自ら励ました」とあるように、遠く離れ て母国の民主化運動に参加できなかった中国人たちが惨憺たる思いで中国を思い涙した果 てに生まれたものである。すなわち、彼らは中国の模範的若者を装いながら、その実、ユ ーモアを込めて民主化弾圧に抗議して詩にしたのである。 * * * * * 今から二千年以上前、漢の高祖劉邦の皇后呂氏は高祖の死後も太后として君臨し、要職 を独占した呂氏一族は、 劉氏を凌ぐ勢力を築いた。呂太后の残虐さはつとに有名であるが、 かろうじて生き延びた劉章(高祖と曹夫人との間に生まれた斉悼恵王の子。呂太后は劉章 を朱虚侯に封じ、呂禄の娘を妻わせた)は酒宴の席で太后に次のような歌を贈った。 深く耕して く種まき、苗を立てるには疏ならんと欲す。 其の種に非ざる者は、鉏きて之れを去れ。 表面上は単なる農耕の歌なのだが、その意味するところは過激である。 「深く耕して く種 まき」とは劉氏の子孫を多く作ることを、 「苗を立てるには疏ならんと欲す」とはその子孫 を四方に配置すること、 「其の種に非ざる者は、鉏きて之れを去れ」とは劉氏以外の者、す なわち呂氏一族を抹殺せよというにほかならず、劉氏をことごとく抹殺しようとする呂太 后への挑戦であることは明らかである。しかし、この歌のどこにも呂太后を謗る言葉はな く、したがって劉章を幽閉する理由はない。呂太后も下手に騒げば劉章の真意を認めるこ とになり、ただ黙りこむほかなかった(『史記』)。 前漢末、十二代皇帝成帝の時に流行した童謡。 燕よ燕、尾は涎涎たり、張公子、時に相い見る。 木門倉琅の根、燕、飛來して、皇孫を啄む。 皇孫死して、燕、矢を啄む。 この童謡の表の意味は、 「美しい燕が宮殿にやって来た。燕は皇孫をつっついた。皇孫が死 んだ後、その燕も殺された」と、少々不気味であるが、ここにも特定の個人が隠されてい る。成帝が密かにいれあげた踊り子趙飛燕姉妹である。趙飛燕は成帝の皇后許氏を追い出 して自ら皇后となり、その妹は昭儀(女官の最高位)の座を手に入れて皇子を殺害する暴 挙をなし、ついにこの姉妹は処刑されたという事実がある。この童謡は成帝の無能を非難 するだけでなく、宮中の乱れた様相を謗るものでもあった。 * * * * * このように、中国では漢字の特徴を利用して、言葉の裏に真の思いを吐露することで、 体験を同じくする人々の共通理解を求めつつ、何らかの政治的メッセージを発信するので ある。作者がインタビューの中で触れた「清風不識字、何必乱翻書(清風は字を識別でき ないはずなのに、どうして頁を繰るのだろう) 」も、「清風」に「清朝政府」を隠し、異民 族による屈辱的な漢文化の支配、満清政府の暴挙(「文字の獄」や「書厄」)への抗議を込 めて謳ったものであろう(典拠未詳)。このような詩や謡は中国の歴史を繙けば枚挙に暇が ない。 さて、私は「元宵」のような現代版《謠》がそのうち必ず出て来ると思って待ち望んで いた。むしろその出現が遅すぎるようにも思った。しかし、 『聯合早報』によれば、この詩 は一年前の元宵節に寄稿したものであって、当人達が諦めかけていたところ一年後の今に なって掲載されたという。あるいは、これまでにもどこかでこのような現代版《謠》がい くつも作られ、人々の間で謳い語られていたかも知れない。しかし、何と言っても党の機 関紙に掲載されたことの意味は大きいだろう。 思うに、権威ある共産党機関紙『人民日報』に厳しい検閲をパスして掲載されたのは、 編集者がこの種の伝統的技法を知らずに、その裏の意を見抜けなかったからかもしれない。 だが全く反対のことも考えられる。すなわち、昔の歴史家が《謠》を正史に記録すること で密かに自らの批判精神を発揮したように、編集者はこの詩の意図を知った上で素知らぬ 顔で掲載し、そこに自らの希望を託したのかもしれない。過去の人物を非難攻撃するのは ともかく、まだ生きている権力者を非難することは難しい。権力の毒牙にかかった経験の ある司馬遷は、武帝あるいは武帝一族を批判する時、恨みつらみを巧みにこのような《謡》 に託し、痛烈な批判をして鬱憤を晴らしている。 * * * * * 中国では、ひとたび作られた詩は我々が想像する以上に早く広まる。 『聯合早報』の「北 京の消息」を信ずるならば、北京市民はすでに「あの詩を読んだか?」と囁きあい、手に 入れにくい海外版『人民日報』を回し読みしているという。ただ、昔は《謠》の謎解きは 水面下でなされたが、今日では公にして憚らない点で大きな違いがある。また、このよう な「落書」の類いで社会を変革しうると考えるほど中国人も楽観的ではない。だが、それ らによって晴らされる人々の憂さは小さくはないし、また、何らかの政治的メッセージを 発信することによって対象に与える打撃は、過小評価すべきではない。現に『人民日報』 が「元宵」掲載後に何らコメントせず、李鵬が「小さなこと」とひたすら感情を押えてい るのを見ると、呂太后が劉章の「農耕の歌」を聞いても黙りこむほかなかったのを想起せ ずにおれない。
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