4 1 王融の政治クーデターの背後原因に関する一考察 独孤 輝覚 はじめに 王融は南斉の文学者である。 南斉寛綾王藷子良に寵愛され た「八友 J の一人 として、斎子良文学集団の中でリーダ一役を果たしていた。 493年、寛陵王藷 子良を皇位に就かせるクーデターに失敗し、牢獄で自殺した。 『南斉書J巻四 十七王融伝は、この謀反の詳細を次のように記録している。 会虜動、寛陵王子良於東府募入、仮融寧朔将軍、軍主。融文静辞捷、 倉卒属綴、有所造作、援筆可待。子良特棺友好、情分殊常。晩節大習騎馬。 才地既輩、兼藷子良之勢、傾 意賓客、労間周款、文武翁習 輯撲之。招集江 西イ倉楚数百人、井有斡用。世槌疾篤暫絶、子良夜殿内、太孫未入、融戎服 緯杉、子中書省関口時!?東宮{丈不得進、欲立子良。上既蘇、太孫入殿、朝事 委高宗。融知子良不得立、乃釈服還省。嘆日「公誤我。」欝林深窓:疾融、即 位十余司、牧下廷尉獄、然后使中丞孔稚珪侍為奏日...(中略)...未己、 詔於獄賜死。時年二十七。融 被枚、原友部出参間北寺、相 継於道。融請救 於子良、子良憂倶而不敢救。 i ここでは、藤井守「六朝文人伝:王融(南斉書)」の訳文を引用する。 凌王子長は、東の司徒の役所で兵士を募り、 たまたま貌虜が動きだし、寛 i 室主にした。融は筆の立つ人で、とりわけ短時間に書き i 融を仮に寧朔将軍 ・ 上げるのを得意としており、何か事があると、(お側の者は)筆を用意して おけばよかった。子長とはこ とに仲が良く、交情は際立っ ていた。晩年に は、大いに騎馬の術を練習し ていた。才能、家柄が一流で ある上に、子良 の威勢をかり、出入りする人 々には、ことさらにていねい にねぎらったの で、文・武それぞれに評判の者が四方から集ってきた。江西の土地の人を数 百人募集したら、どれも有能な人たちであった。世祖は危篤におちいり、 1 。 、 823、824頁 『衛予等書』巻四十七三ξ敵伝、中華書局、 1972年 -69- 1 5 しばし呼吸も止まった。子良は殿中にいたが、太孫(欝林王)はまだ入内 しておらなかった。融は軍織を着て、赤い陣羽織をつけ、中書省の入口で 東宮の儀伎の邪魔をして中に入れないようにし、子良を(天子)に立てよ うとした。しかし、天子は息をふきかえし、太孫は殿中に入り、内政に関 しては高宗(明帝)に委任されることになった。 融は、子良は立つことができないことを覚ると、やおら服を脱ぎ、役所に 帰っていった。そうして fあなた(子良)が私をだめにしたのだ。」とため 患をついた。欝林王は深く融をいかり憎んだ。即位して十余日目、取りお さえて検察の獄に下し、法務次官の孔稚珪に肩入れして告発させた...(中 略)...獄中におことばが結えられ、死を賜った。時に年二十七であった。 融が収監されると、朋友や部下は獄舎へ面会に出かけ、道にずらりと並ぶ ほどであった。融は救いを子良に求めたが、子良は恐れて手を貸そうとは しなかった。 2 吉)1忠夫は f 沈約の縛記とその生活 j の中で、 「寛陵王のまわりに雲集した 「風流名古 j や f学士輩 j 、そのなかの過激派たる王融が、いわゆる思倖者を 中心とする吏事派一一たとえば掛係宗一ーの手中から政治権力をわが手によび もどそうとしたのが j このクーデターの f 真因 J3だと結論をだしたが、筆者は 吉川氏の説と異なり、この謀反は名士派と吏事派との争いではなく、吏事派の 後ろ震の皇帝即ち斉武帝との権力関争ではないかと考えている。これについて、 1、王融の家系、 2、斉武帝の家柄、 3、斉武帝の人材政策、 4、五融伝 l こ見 晩節大習騎馬」の政治的な意味、の題点から考察を進めていきたいと思 える f 。 つ 1、王融の家系 まず王融と斉武帝と二人のそれぞれの家系を見なければならない。王融はか の名家王良邪王氏の出身で、その先祖は、普元帝を助けて、王立馬氏の東晋政権創 立に大いに貢献した、主導である。『晋書』巻九十八王敦伝に 敦与従弟導等関心翼戴、以隆中輿、時人為之語日「ヨミ与馬、共天下。 J4 (王)敦は従弟の王導らと心を合わせ、共に(晋元帝)を補佐し、中興を 成し遂げた。当時の人々はこの為に f 王(氏)と(司)馬(氏)とは、天 下を共にす j と言った。 とある。元帝は王導を「仲父」、「我が矯何 J5と称し、最大の敬意:を払った。『普 2 3 4 『中箇中世文学研究』第 14号 、 1979年 、 50・52頁 。 『東海大学文学部紀要』第 1 1号 、 1968f j 、 三 37頁 。 『普書』巻九十八王敦伝、中華書局、 1974年 、 2554頁 。 -68- 6 1 書』巻六十五玉導伝に 及帝霊長尊号、百官賠列、命導升御床共坐。 6 元帝が帝{立に登り、百官を陪列させるようになると、 王導に命じて共に玉 に上がり、麗らせようとした。 とある。これは王氏一族の繁栄の頂点であり、皇帝をも凌駕する強大な権力を 手に入れた。王導の従兄王敦も、東晋にとって不可欠な軍事力を握っている。 『晋書』巻九十八王敦伝に (王)敦以元帥進鎮東大将筆、開府儀間三司、加都督江揚荊湘交広六州諸軍 刺史、封漢安侯。 江川1 7 (王)敦は元帥として、鎮東大将軍に進み、開府儀再三司に任命された。都 督江揚荊栴交 広大州諸軍事 を加えられ、 江州刺史とな り、漢安侯に 封じら れた。 とある。 315年、王敦は漠安侯に封じられ、江州、揚州、荊州、湘州、交州、 の軍事都督と もなり、同時 に、江州刺史 を兼任してい る。東晋軍事 の 、l 州 六 、i 州 広 全権を一任されているといえよう。主導、ヨミ敦兄弟は政権、箪権前方を握り、 権力で臣下が君主を凌駕する政烏を形成させた。しかし、『普書』巻九十八五敦 伝によれば、 強い王氏一族 に対し、元帝 も常に警戒心 を抱き、劉陣 、司協とい う腹心を重用し、ひそかに王氏に対抗していた。 (王敦)銑素有重名、又立大功子江在、専任閣外、手控強兵、群従貴顕、 威権莫託、遂 欲専制朝廷、 有問鼎之心。 帝畏而悪之、 遂引劉棟、弓 協等以 為心管。 8 こもとより高い名声を持ち、東晋の建国にも大功があった。その 王敦は既 l ため箪権を与 えられ、強兵 を率いて、貴 族、顕要を数 多く従えた。 当時王 敦の威権に並 ぶ人はなかっ た。彼は朝廷 を専制し、皇 位を狙う心を 抱くよ 塊や弓協らを腹心 うになった。元帝は、王敦を畏れて悪んだ。かくて、劉 i として頼り、王氏に対抗していった。 が、強い亜下に抑圧される状況を変えることは遂にできなかった。 しかし、『普 書』巻五十八周札伝に 札一門五侯、並居列位、呉士責主主、英与為比。 9 (周)札一門には侯爵が五人もあり、並んで要職の位に就いていた。呉士は え υnυ 。 、 1746真 『晋書』巻六十五王導伝、中主義書局、 1974年 巧 d QOQd 、 1749頁o 晋書』巻六十五王導伝、中華害局、 1974年 f 。 、 2554賞 年 4 7 9 1 、 局 書 華 p : r 晋書』巻九十八王敦伝、 f 。 頁 7 5 5 2 、 年 4 7 9 1 、中華書局、 巻九十八王敦伝 J 書 晋 『 。 、 1575真 伝、中華書局、 1974年 『普書』巻五十八周キL 一間一 7 1 盛んになり、彼らに及ぶ者はなかった。 とある。当時、馬氏は次第に台頭してきた「高士 J即ち南方土着の豪族代表で あった。周氏一族の栄華はかえって五敦の恨みを賢った。 王敦は謀反を起し、 会稽に攻め込み、潤札一族を皆殺しにした。これも盛者必 衰の理をあらわすも のであろう。『晋書』巻九十八王敦信に言う。 敦又忌潤札、殺之市尽滅其族。 10 胃札を憎んでいたので、彼を殺し、その一族も皆殺しにした。 (王)敦は、 j 当時、実はもう一つの階方豪族があった。それは、王敦と 共に私営の造幣局 を運営し、小銭を鋳造し莫大な財力を手に入れた、沈充が 代表する呉輿沈氏一 族である。『晋書』巻二十六食貨志に 呉輿沈充又鋳小銭、謂之沈郎銭。銭既不多、由是精貴。 1 1 呉輿の沈充はまた小銭を鋳造し、沈郎銭と謂った。銭は既 に少ないため、 これにより、鞘高くなった。 とある。希少性を利用し銭の価値を増殖させた、金貸し業 者としての沈氏一族 蒋史』巻三十七沈慶之伝に は、より一層強い影響力を持ち始めた。『 i 家素富厚、産業累万金、奴憧千計。 12 家はもとより豊かで、家財は高金をかさね、奴僕は千を数えた。 とある。以上の資料から、宋孝武帝に寵愛された劉宋名将 沈慶之(呉輿沈氏の 一員)の財力を窺える。故に、当時の銭鳳は「周氏、沈氏 の江東の二大豪族よ り強いものなし」 13と感嘆した。のち、 永暁体Jを代表するかの高名な文学者 f 沈約もこの沈弐一族の出身である。 そして、王融の時代においては、名義上、中央の重要な官位は、未だ王良邪王 氏が代表する少数の北方僑居士族の手に握られていた。が 、彼らは、強い経済 力と箪事力を持って繁栄する、沈氏のような南方豪族に譲 歩することを強いら 有朝では宋、 れてし、く。また、東晋の皇族司馬氏は北方豪族の代表であったが、 i 斉、梁、陳西朝に亘って、軍事力を握る寒門出身の皇帝の 政治が続いた。観裕 はその好例であろう。『!卒j史J巻二十三玉誕告では、王誕は劉裕が「起布衣(寒 菊史J巻ー武帝紀によれば、都裕の家は貧しかった。 門の出身) J 14と言う。『 i 若い噴、彼は丹徒県で農地を耕作したこともあった。 15劉裕は当時の有名な強 。 、 2561頁 1974年 。 、 795頁 書J巻二十六食貨志、中薬害局、 1974年 手 苦 『 0 『晋書』巻九十八王敦伝、中華書局、 1 1 1 12 ~南史』巻三十七沈慶之伝、中華書局、 1975 年、 958 3 『苦手書』巻五十八周札伝「今江東之豪莫強問、沈。 j 1 4 ~南史J 巻二十三玉誕伝、中華書局、 1 、 1575頁 中薬害局、 1974年 1975 年、 618 頁 J巻ー武帝紀「微持拐耕於丹徒。 J 中華苦手局、 南史 5『 1 -66- 、 28頁 1975年 8 1 い軍隊「北府兵 J 16を率いて、孫患、反乱を鎮圧したあと、撞玄をどはじめとする 東普の北方名族 を次々と殺して いった。劉裕に 加担したのはま さに前文に触れ 格軍だ た南方豪族の代 表、沈氏一族の 沈林子であった 。孫患討伐箪の 中で、塑j w宋 7 けは規律厳明だ、った。沈林子は劉裕を尊重し、一門を率いて彼に婦順した。 i 書 J巻ー百沈林子低 に次のように記 録している。 室内侍。 18 i : 高祖毎征討、林子職擢鋒岩前、雄有営部、至於宵夕、純井手u 裕)の征討の度 に、林子は瓢ち 先鋒となり、常 に前に居た。自 分 高祖(罫j の軍営と部下と を持つてはいた が、夜になると 、割裕の令に従 い、内侍の 任(劉裕の身辺 を警護すること )に戻った。 この資料から沈 林子は劉裕の側 近であり、彼か ら厚い信頼を得 ていたことが J裕と沈林子との 主 I ' l ¥ 宋書』沈約自序 について j の中で、 1 分かる。 )1合安氏は「f 従関係という末 皇輩劉氏と沈弐 との関わりを詳 細に論じている 。 19彼の論考を 参照されたい。 部裕はこのよう に寵方豪族と連 携して王良邪王 氏をはじめとす る 北方名族を抑圧 し、皇権を拡大 していった。そ して、臣下が君 主を凌駕する政 局を変え、絶対的皇権を見せようとした。 201年武帝の出身も都裕と同じである。 2、斉武噂の家柄 次に、歴史資料 から斉武帝の家 柄を見てみよう 。斉武帝の出身 は『南斉書J 南蘭陵」である 。請託一族は商 晋末の戦乱を逃 れ、南の 高帝紀によれば、 f 晋陵武進将の東 に移った北方僑 岩土族であった 。れしかし、斉 武帝の祖父蒲承 之は南宋時代の 一筆人であり、 当時の北方僑居 士族の中で宝案 内(家格が低い 士 族)に属してい る。『南斉書』 巻一高帝紀には 北府兵、また、北府軍という。東晋謝玄が京口に亡命した北方からの流民会組織し、 創立した箪諒である。劉裕が宋王朝政権を樹立した後、北府兵は南朝の主力部隊とな った。 7 『宋議:』巻…百沈林子伝「時孫盟、援出会稽、諸将東討者相続、劉牢之、高素之放縦其下、 1 6 1 夏、父 虜暴縦横、独高祖軍政厳司丹、無所侵犯。林子乃自帰臼『妖賊援乱、僕一門悉、被駆i E以、仇鶴来復、親者漂寄耳。今日見将軍伐惑旋善、 祖諸叔、同権禍難、猶復倫生天壌者、 l 是有道之師、謹率老弱、帰罪詩命。』J 8 ~宋書i 巻一百沈林子伝、中華苦手局、 1 9 『北海道大学文学部紀要』、第 1 、 2453頁 、1974年 1974 年、 2455 頁 、 1・23頁 、 1999年 47巻、第 4号 コ之命、渇於 『宋書』巻四十二王弘伝 f主威不樹、直道専行、間典人殊、車月綱家異、編1 州各)…高祖一朝倉日義、事属僚流、改苦し章、布平道、尊主 号、王府之蓄、変為私蔵…( c 豪F 、 1324頁 卑直之義、定於烏極之問。 j 中筆書局、 1974年 、 1頁 972年 1 『溺斉書』巻一高子育紀、中華書局、 1 2 20 -65- 1 9 初為建威府参筆、義煎中、寄賊諜縦初平、皇考遷揚武将軍。 22 最初、(薪承之)は建威府の参軍となった。義熊年間、鶴賊の諜縦を初めて 鎮圧したため、揚武将議に拝された。 とある。王融が j 高している譲邪王氏との間に雲泥の差があった。しかし、前に も触れたように東晋の時代、皇権が極端に縮小し、臣下( 浪邪王氏が代表して いる家柄の高い北方豪族)の権力が皇権を凌ぐほどまで拡 大したが、南朝の宋 から軍事力を持つ寒族が代々皇権を握り、皇室に上り詰め た。宋、斉、梁三代 の国を開いた皇帝たち(宋武帝劉裕、斉高帝藤道成、梁武帝薪諮ら)は臼夜、 名門大族を抑え、皇権を拡大することに腐心した。斉武帝 もその中の一人であ る。彼は皇権を拡大するために、様々な敦策を打ち出した。 3、斉武帝の人材政策 特に、斉武帝の人材政策について考えてみたいと思う。彼 は引き続き宋武帝 都裕の政策を採用し、南方土着の豪族(彼らは強い経清力 、軍事力を有してい るが、家柄は依然として低いため、寒門に属している)との連携関係を求め、 王融が代表している従来の北方大族を抑圧してし、く。政治上、実務的才能を持 つ寒族出身の人材を大いに抜擢し、行政実務を彼らに一任 し、政治の実権を与 えた。『南史』巻七十七劉係宗伝によれば、武帝は寒門出身の劉係宗を摩く信頼 し、大いに抜擢した。 劉係宗、丹陽人也…(中路)…以寒官累遵至勤品。元徽初、為泰朝語、兼中 書通事会人、員外郎、封始輿酪亭{笑。 23 劉係宗は丹陽の人である。…(中略)…寒官を以て功績をあげ、動宮まで累 遷した。元徽の初め、奉朝請となり、中毒通事舎人、員外 郎を兼任し、始 輿南亭侯に封じられた。 また、唐宇之皮乱の際に、やむを得ず敵に投降した庶民を 許し、彼らを帰郷 させ、民衆を安撫した。彼のこの包容力の大きさは民衆の心を掴むと問時に、 斉武帝の信頼をも寵ち得たであろう。 24斉武帝は常に「学士輩不堪経由、唯大 読書耳。経国、一劉係宗足長。沈約、王融数百人、於事何用。(学士らは経由に 堪えず、ただ大いに書を読むのみ。経園、一劉係宗にて足 りる。沈約、王融の 数百人、事に於いて何の用あらんや。) J25と雷い、彼を称賛した。劉係宗一人 2 2 f I 南斉書』巻一高帝紀、中華書局、 1972年 、 2頁 2 3 『雨史』巻七十七 ¥ l f i J係宗伝、中薬害局、 1975年 、 1927頁 2 4 『南史』巻七十七;u 係宗伝「白賊唐字之起、宿衛兵東討、遣係宗随軍慰労。遍至遭賊郡 県、百姓被駆逼者、悉無所問、選復人伝。 J中筆書局、 1975年 、 1927資 f I 南史』巻七十七劉係宗伝、中華蓄局、 1975年 、 1927貰 25 -64- 0 2 の価値は数百の王融 を遥かに超えると、 武帝は王融のような 北方名族の文士を 、史に出身した茄法亮は斉武帝の寵愛を得て、 軽蔑した。また、南朝宋の時代、;J 一中書通事舎人から望葉県男まで上り詰めた。『南史』巻七十七茄法亮伝に 革法亮、呉輿武康人也。宋大明中,出身為小史…(中略)…武帝即位、イ乃為 中書通事舎人,除員外部、帯構済陰太守…(中路)…永明二年,封望葉県男。 26 茄法亮、呉輿武康の人。宋大明年間、小史に出身した…(中略)…武帝は郎 位しでも、なお中書 通事会人であり、員 外部に除され、南済 陰太守を兼任 した…(中略)…永明二年、望葉県男に封じられた。 とある。また、『南史J巻七十七茄法亮伝に次のような資料も記録されている。 法亮、文度並勢傾天下、太樹王{食常詰人日「我雄有大位、権寄量及蔀公。 J27 (茄)法亮、呂文度の権勢は天下を傾けるほどであった。太尉王倹は常に わしは高位に居るけ れども、実際に握っ ている権力はどうし て詰公 こf 人i に及ぼうか。 j と言った。 『南斉書』巻二十三玉倹イ云に 倹常謂入日斤工左風流宰相、唯有謝安。 j 蓋自主七也。 28 (王)倹は常に人に「江左 29の風流な宰相は謝安 だけだ」と言って、 自分 を謝安と並べ比べた。 「風流宰相 j と自負している王融の叔父王検でさえ、よく自分は太尉の高い 官位に就いていても 、持っている実権は 諸法亮に及ばないと 嘆いた。当時、武 帝に厚遇された紀僧真ももとより寒士であった。『南斉書』巻五十六紀僧真伝に 紀僧真、丹陽建康人也…(中略)…自寒官歴歪太祖冠軍府参軍、さ三簿。 30 紀僧真は丹陽建療の人で、ある。…(中路)…寒官から太祖(高帝斎道成)の 冠軍府参軍、主簿まで昇進した。 とある。彼は高帝の捜心となり、宋王朝を転覆し、斉政権を樹立す ることに大いに貢献した。武帝却位の後、紀僧真は引き続き中書舎 人 を 兼 官 し 、 武 帝 の 厚 い 信 頼 を 得 た 。 『 南 斉 書 J巻 五 十 六 紀 僧 真 伝 に よれば、彼は蓉姿、話しぶりともに鑑雅で土愚があり、武帝は嘗て まないな J と 称 賛 し た 。 当 時 彼を回送しながら「黄族も常に彼に及 l 、 1928、1929頁 1975年 、 1929頁 1975年 、 444頁 972年 28 『南斉著書』巻二十三玉倹伝、中薬害局、 1 6 2 南史J巻七十七茄法亮伝、中華護局、 I f 7 『南史』巻七十七茄法亮伝、中薬害局、 2 29 長江下流の東部。ここでは、東管王朝が本拠とした江南地区を指す。 30 南斉警i巻五十六紀僧真伝、中華警局、 I f 、 972、973頁 1972年 -63- 1 2 の権貴の中で、紀僧真は最も糞遇された。 31 また、『南史J巻 七 十 七 呂 文 顕 伝 に 呂文顕、臨海人也…(中略)…永明元年為中書通事舎人…(中略)… コ 年 、 帯 南 清 河 太 守 、 与 茄 法 亮 等 迭 出 入 為 舎 人 、 並 見 親 幸 。 32 呂文顕は臨海の人である。…(中略)…永明元年、中書通事舎人と 青河太守を兼官しながら、茄法 なり…(中略)…(永明)三年、南 j 亮らと交替で舎人の任にあたり、ともに武帝に親しまれ、寵愛 された。 ここまで調べてきた斉武帝の側近間人一一劉係宗、茄法 亮、紀僧真、呂文 顕の共通点はこ点ある。一つ、四人は皆南方寒門の出であ る。もう一つ、皆中 通事舎人を兼官した。実は、斉武常は南方寒河土人を起用 し、そのうち、 四人の腹心を中書通事舎人として任命し、皇帝の専属政治機関を作っ た 。 そ の 名 は f四 戸 」 と い う 。 皇 帝 の す べ て の 詔 、 勅 は 全 部 f四 戸 j から出されている。宰相主倹すら m戸 」 を 干 渉 す る 権 践 を 持 っ て r1 い な い 。 『 南 史 』 巻 七 十 七 呂 文 顕 低 に よ れ ば 、 当 時 の f四 戸 J の権勢は 天下を傾けるほどであった。 33前文にも触れたように東晋の司馬容からすでに 腹心劉院、弓協を重用し、王良邪王氏をはじめとする北方大族に対抗している。 のちの宋、斉、梁、陳歴代の皇帝は薦方寒土を利用し、皇 権を拡大し続けてき た。宋明帝都議の寵臣玩佃夫、前述の斉武帝側近の四人、 梁武帝の腹心朱異、 陳後主陳叔宝が信頼した沈客卿は、皆好例である。清の超 翼『二十二史街記』 を得 巻八−高朝多以寒人掌機要が指摘するように、南轄の君主らは皆東晋の教訓i て、南方寒人の腹心に実政を握らせ、側近政治を発達させ 、北方名門出身の大 旺らに政権を奪う隙間さえ与えなかった。 34それに対し、北方豪族の代表譲邪 王氏は勿論塵視するができなかった。前文にも触れた王融 の叔父王倹(彼は自 まないと不平をこぼした)は斉武常の側近 分の権力が斉武帝の寵毘茄法亮に及 i 政治「四戸」を痛烈に批判し、北方豪族の利益を守ろうとしていた。席知 の通り、中国の皇帝は天子を自称している。『白虎通 J爵に 31 南斉書J巻五十六紀僧真伝、 u '曽真容貌言校、雅有ゴ二風。 f r 祖嘗毘送之、笑臼『人何必 t ! t 、 981頁 t筆書局、 1972年 : J : 言十門戸、紀僧真常資入所不及。』諾権要中、最被時遇。 J i 、 1932頁 『南史』巻七十七呂文顕伝、中華書局、 1975年 33 『高史』巻七十七呂文顕伝「時中芸会人四人各住一省,世 謂之四戸。既総震 、 1932頁 t筆書局、 1975年 : J : 権、勢傾天下。 J i 苓戟多以寒人掌機要「至宋、手年、梁、陳諸君、則無論賢否、皆威 二十二史街記2巻八 i 4u 3 福自己、不背綴権於大臣…(中絡)…於是不得不用寒人…(中略)…此当時朝局相沿、イ立尊望 、 171頁 重者、其任転車王、市機要多任用比護也。 j 翠役出紋社、 1977年 32 -62- 2 2 天子者、爵称、品。爵所以称天子{可。王者父天母地、為天之子也。 35 天子なる者は 、爵称なり。 爵の天子と称 する所以は何 ぞや。王者は 天を父 とし地を母とし、天の子たればなり。 とある。また、天について、『白虎通 J天地は以下のように定義している。 天者、何世。天之為言鎮品。居高理下、為人鎮品。 36 天なる者は、 何ぞや。天の 吉たるや鎮な り。高きに居 りて下を理め 、人の 鎮たればなり。 天は下界の人 関を管理する 主人である。 皇帝はこのよ うな最高の主 宰者の予で あるため、天 を代表し、庶 民に対する生 殺与奪の絶対 的権力を握っ ている。し かも、天は有徳な天子の崇高な??いを感ずる時、瑞祥は現れる。『白虎通』封禅 天下太平、符 瑞所以来至者 、以為、王者 承天統理、調 和陰陽、絵揚 和、万 物序、休気充塞、故符瑞並接、皆応徳荷至。徳至天、期斗揮明、日月光、 甘露持。 37 太平にして、 符瑞の来り至 る所以の者は 、以為へらく 、王者は天の 統理を承け 、陰陽を調 和す、強陽 和して、万 物序あり、 休気充塞す 、 lち 斗 極 明 故に符瑞並 びに藤る、 皆徳に応じ て至る。徳 天に至れば 、異j 天下 らかに、日月 光り、甘露 降る。 とある。臣民 のために尽力 し、自分の欲 望を抑え、高 徳な君主にな るように皇 天人相感」と いう説の本来 の目的である 。しかし、地 震、洪 帝を導くこと は f 水といった自 然災害や惑星 の反則的運行 などが発生す ると、これは 徳に欠ける 皇帝への怒り、戒めと見なされる。『太平御覧』巻二百二十二−職官部ニ十には 「『芥二p~ 』臼『永明元年,焚惑入紫微』(永明元年、火星は紫微阜の領域に入る)」 という記録がある。中国古代の天文学では、天を三垣ニ入信に分けた、そのー は紫微垣である。北極星を中心とした、小熊鹿・大熊患などの星座群にあたり、 天帝の住む場 所と見なされ た。転じて、 人間世界の天 子の宮廷を示 す。火星が 紫微星の領域に入ることを人間世界では、小人が宮廷で、乱を起こすことの象徴 とした。王倹はこの天文現象を口実にし、武帝に親しまれた由人の側近が権力 を濫用し私利 を会り、君主 を惑わし、政 治を乱したこ とに手厳しい 批判を下し た。『南史』巻七十七・呂文顕伝で王倹は斉武帝に「天文言~杵,比禍由 12:9 戸 。 ( 天 文 現 象 の 君 件 と い う 禍 を も た ら し た の は 四 戸 だ J 38と 言 っ て 、 127頁 及古書院、 2005年 波溢義治『 問漢の儒教 と政治権力 JJ 、 127頁 渡漆義浩『 同漢の儒教 と政治権力 J汲古書説、 2005年 、 129頁 005年 7 波浪義浩『両漢の{需教と政治権力』汲古書院、 2 3 、 1932頁 975年 8 『南史』巻七十七呂文顕伝、中華書局、 1 3 5 3 6 3 -61- 23 いる。しかし、武帝は王倹の進言を開き入れなかった。この事件も 南朝北方豪族の権勢の衰退の象徴の一つであろう。王倹の死後、現 邪玉氏一族は衰退の一途をたどった。血気盛んな青年王融は叔父王倹 の実現できなかった志を引き継ぎ、ま良邪王氏一族の類勢を挽回しよ うとしていた。 4、王融伝に見える f晩節大習欝馬 j の政治的な意味 最後に、晩年の王融 が大いに騎馬の術を 習ったと言われる、 歴史書の記述に ついても触れておきたい。王良邪王氏は代々高官の位に就き、爵位を授かる。沈 約は王氏を東晋南朝の第一の名門と称賛した。 39しかし、『南斉書J巻田十七王 融伝に 王融字元長、浪邪臨折人也。祖{望遠、中書令、曾高並台輔…(中略)…父道 攻、麗陵内史。 40 王融は字は元長、王良邪の臨折の人である。祖父王僧達は中書令となり、 天子を補佐する三公の高位に就いた…(中略)…父の王道改は麗 陵内史。 とある。中書令とな った王融の祖父王僧 達に及ばず、王融の 父親の王道改はた だ臆稜内史という低 い官位にとどまった 。王融は若い頃から 家業を再輿しよう と決意し、文才をもって、武帝に自薦した。『南斉書』巻四十七王融伝に 融 以 父 宮 不 通 、 弱 年 便 欲 紹 興 家 業 、 啓 世 祖 求 自 試 。 41 王融は父親の官位が 抵かったので、若い 頃から家業の再興を はかり、世 祖(斉武帝)に自分 を試しに使うようと 上表した。 とある。彼は非常に功名心に逸る人物である。 W i 事斉書J巻四十七王融伝に 融自侍人地、三十内望為公輔。 42 王融は自ら家柄と才 能とを頼りとし、三 十代の中に三公の地 位に就くこと を望んでいた。 とある。北方を征伐 することを何度も武 帝に促し、その先頭 に立って、手柄 を立て、王氏一族を 再び繁栄させようと した。が、武帝は彼 の情熱に応じなか った。武帝に重舟さ れなかった王融は失 望したが、間もなく 、武帝の次男寛陵 王子良を見込み、彼の幕策となった。前文にも触れたように、 f 南斉書J春田十 w 南史』巻二十二王鋳伝 f沈少侍約常語人云『吾少好百家之言、身為泊代之史。自関 隣以来、未有爵位蜂聯、文二件目継如王氏之皇室J 由 。 J I J 中薬害局、 1975年 、 611主 40 w 街斉警』券四十七王融伝、中華書局、 1972年 、 817賞 4 1 『南斉書』券四十七王融伝、中筆書局、 1 972年 、 817頁 42 『南斉誉』巻四十七王融伝、中華書局、 1 972年 、 822頁 3 9 -60- 4 2 七王融伝によれば、晩年の王融は大いに騎馬のや|すを練習し、江西の土地の有能 な兵士を数百人募集した。表面上、これは北方を証伐する準舗と言いながら、 裏では、子良 を皇位に就か せるクーデタ ーのために工 作している。 実は、同じ 手口はすで、に歴史上の他の人物に使われた。それは貌文帝曹三五である。『三国志J 競書巻二・文帝紀によれば、禅譲を受ける誼前、彼は南方を征伐するためと言い ながら、東郊に兵を治めた。 43受禅の際、皮乱が起こることを予想し、主主隊を 整え、東郊に 待機させたこ とこそは曹主 の虞の意図で あろう。王融 が騎馬の術 を練習するこ とも同じ政治 的意味合いを 持っと思われ る。王融は寛 陵王子良を 利用しながら 、北方大族を 抑正した斉武 帝が代表する 皇権に挑み、 王氏一族の 権力を奪回し ようとしてい るのである。 しかし、軍事 的才能乏しい 一介の文人 にすぎない王 融は血気の勇 にはやり、起 こしたクーデ ターは必然的 に失敗に帰 する。廃帝薪 昭業に死を賜 わり、悲惨な 最期を遂げた 。それは名門 王氏が完全 に衰退する寸 前の最後の田 光返照であろ う。南朝梁の 時代になると 、豪族の子 弟達は騎馬するどころか、馬とは何であるかすら分からなくなった。『顔氏家訓』 巻第四渉務第 十ーによれば 、梁の建安令 王護は馬の噺 き声を聴き、 驚きのあま 正是虎、何故名為馬乎。(これは正に虎だ、どうして潟と名付けられ り、人に f るか。)と言った。 44その時の豪族 も完全に抵抗 力を失い、滅 びる運命を待 つし かなかった。梁の滅亡には、{員長の乱はただのきっかけに過ぎず、根本の原閣 は門閥政治の衰退にあろう。 おわりに 以上、歴史資 料に基づき、 南斉王融の政 治クーデター の背後原因を 探ってき た。王融が挑んだのは斉武帝の恩倖者を中心とする吏事派の権力だ、けで、なかっ た。斉武帝が代表している皇権こそ、彼の本当の目標であった。 43 『三国 ii\}~ 貌書巻二文帝記 f 六月半亥、治兵子東郊、庚午、遂南征。 j 、 59頁 1974年 中華書局、 建康令王復性既儒雅、来嘗乗騎、見馬噺噴臨梁、 『顔氏家訓』巻第四渉務第十− r 集解』、上海古籍出版社、 I 英不震髄、乃謂入国『亙是虎、何故名為馬乎。』J『顔氏家司I 44 n3 FD 、 297頁 1982年 2 5 参考文献 陳寿『三国志J中華書局 1974 玄齢『晋書』中華書局 沈約『宋書J中華書局 1 9 7 4年 1974年 篇子顕『南斉書』中葉書局 李延寿『南史』中華書局 1 9 7 2年 1 9 7 5 渡遺義浩『両漢の{需教と政治権力』浪古書院 薮内清『中匿の科学』 中央公論社 2005年 1 9 9 5年 劉躍進『門関土族与永暁文学』三三聯書店 1996年 薪芸者栄『管出嬰世家一六朝王既日 : : E氏家伝』三聯書店 玉利器『顔氏家言,,集:解』上海古籍出版社 1 9 9 5 1 9 8 2年 周一員『競晋南北朝札記J中華書局 2010年 論文 中国中世文学研究』第 1 4号 藤井守「六朝文人伝:王融(南斉書) Jw 1 9 7 9 4 2 5 6 吉 ), ,忠夫「沈約の侍記とその生活」『東梅大学文学部紀要』第 il号 1 9 6 8年 5 30・4 ) , ,合安「『宋書』沈約自序について J口ヒ権道大学文学部紀要』第 47巻 第 4号 1 9 9 9年 1 ・ 2 3頁 藤井守 f六朝文人伝: 1984年 『南斉書J王倹伝 Jw 中国中世文学研究』第 1 7号 4 2 4 8頁 佐藤佑治「南朝における寒門豪族の進出 J『一橋論叢J第 7 3巻 第 5号 9 7 5年 456-46真 1 呂春盛 r w寒人掌機要J的実情与南朝政治的特質一以中書舎人為中心之考察j 『台湾師大壁史学報』第 44号 2010年 1 ・ 36 RU 口 口
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