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◆◆序章◆◆
前略 名古屋の冬はこちらより厳しいと思いますが、身体の具合はいかがですか。
「自律神経失調症」という病名は、恥ずかしながらこの歳になって初めて知りまし
た。心因性の病気ということですが、これはきっと頑張り屋の小夜のために神様が与
えてくれた休息期間なのだと思います。 小夜が地元を離れてから一年半と少しが経ちました。僕は、自らを甘やかすことな
く、自分で決めた道をしっかりと歩んでいくわが娘を誇りに思っています。今月いっ
ぱいの療養が必要と診断されたそうですね。肩の力を抜いて、ゆっくり休んでくださ
い。後ろめたさや、焦りを感じる必要はありません。この期間は、これから小夜が更
に成長していくために用意されたものなのです。 不幸中の幸いと言ってはなんですが、このような長期の休養を頂くにあたり失職な
どの心配をせずに済むのは、公務員であるが故のことですね。親としても、その点は
ありがたく思っています。しかし、このように身分が保証されているのは我々(僕も
公務員の端くれですからね)が公共の利益のために働くという責務を負っているから
です。病が完治した暁には、仕事に邁進するように。もちろんこんなことは小夜も
重々承知しているでしょうけれど。 離れて暮らしているのでこんな手紙を書くことしかできませんが、僕はいつでも小
夜の病気が良くなるよう、祈っています。年末に小夜の顔を見られるのを楽しみにし
ています。風邪などひかぬよう気をつけて、静養してください。では。 草々 平成○年12月5日 千田 俊典 千田 小夜 様 ◆◆第一章◆◆
20□□/12/17 19:07 To 副島 照幸 Sub 無題 一月からの復帰に向けて、明日から4日間、慣らしみたいな感じで?出勤することに
なったよ\(^o^)/ 久々の職場だわーww緊張するなあ(>_<) っていうかさ、明日雨予報なんだよね?不吉極まりないww …あ!雨で思い出したわ!! 結構前にさ、会社から帰る時に急に雨が降ってきたこと
があったでしょ?でさ、照くんは普通のと折りたたみと2本傘持ってたから、折りたた
みの方貸してくれて、「もしよかったらやるよ」って、結局私にくれたの覚えてる?
まだ付き合い始める前の話だから忘れてるかもしれないけどwww で、その傘なんだけど10月に来襲した大型台風8号により、見事に骨が折れました(
´△`)………っていう超どーでもいい報告でした。そして壊しちゃってなんかごめんな
さい。今更だけどね(´>A<`;) ―END― 20□□/12/17 19:21 To 千田 小夜 Sub Re: 了解。でも、くれぐれも無理するなよ(´・ω・`) …あー、そういえばそんなこともあったなあ。つうか、実はあの傘父親のおさがりで
さ、早く自分の折り畳み傘買いてーなーって思ってたとこだったんだよww だからそのとき俺はこれ幸いとばかりにその傘を君に押し付けてしまったわ
けだwww そういうわけだから気にすんなよー(`・v­´)b ってか、どっちかつうと俺の方が謝らなきゃなんねえな。すまん!時効成立したこと
にしてくれwwww ―END― 20□□/12/17 20:35 To 副島 照幸 Sub Re2: あのとき傘をくれた貴方を紳士だと勘違いしてました。私の感動を返せ笑(`­皿­´=
)!! ところでさっき課長からメールが来てさ、明日のお昼御馳走してくれるみたいなの。
照くんとお弁当食べようと思ってたんだけど、残念だなあ……(´­ω­`) 「どうしても副島さんとお昼食べたいんですっ」って課長に言ってみようかな笑← ―END― 20□□/12/17 20:44 To 千田 小夜 Sub Re2: Re2: おいおい、そんなことしたら俺らの関係バレまくりじゃねえかwww まあせっかくだから美味いもの食べて来いよ☆ 俺はいつも通り食堂にいるから、時間が余ったら来ればいいし(^^)v 朝寒いから、防寒対策ばっちりしてこいよ(*`・ω・´)ノ!! ―END― 20□□/12/17 20:59 To 副島 照幸 Sub Re2: Re2: Re2: あっはー!冗談に決まってるじゃん(^ε^)/ そうだね、なるべく食堂行くわ。だって照くんの顔見たいし(*´v`*) そのためにすごいスピードで食事済ませたりして笑← 明日に備えて早く寝る!!じゃ、おやすみ(`・▽‐´)b彡☆ ―END― ***
昼休み終了まであと10分というところだった。久々に見るスーツ姿の小夜は、心な
しか以前より萎んで見えた。俺と目が合うと、小夜はにこりと微笑んだ。でもそれが
作り笑いであることは明らかだった。眼の奥に光がない。堆積した疲れが重石となっ
て、彼女にのしかかっている。そして恐らく、彼女自身はそのことに気付いていな
い。真面目であるが故に、身体の上げる悲鳴が聞こえない。彼女はそういう人間だ。
俺たちは付き合いだして3ヶ月も経たない。しかし彼女のそのような性分を、俺は分
かっているつもりだ。何事にも懸命に取り組む彼女の姿には、時にいじらしささえ覚
えてしまう。
「お疲れ。大丈夫か?」
敢えて軽い調子で言う。小夜は、花がしおれていくようにへなへなと俺の正面に腰
を下ろした。眉がハの字を描いている。
「ん……、あんまり、だいじょうぶ、じゃあ、ない」
ついさっきまで彼女は空元気で凌いでいたに違いない。これが今日、職場で初めて
絞り出された本音なのだろう。温かいお茶でも渡そうと、俺は自販機に向かった。
◇
「はい、これ」
知らぬ間に突っ伏していたらしい。気が付くと目の前に、照くんの右手に包まれた
缶入りの緑茶があった。
「……ありがとう」
キャップを開けて一口ごくりと飲み込む。お茶の温もりが喉元からおなかへ、そし
て全身へと、徐々に沁み込んでいく。キャップを閉じて、両手で缶を握りしめる。掌
に伝わった熱は残念ながら、肘より上へは這い上がってこられないようだった。
「大丈夫か?……無理、してないか?」
ただ読み上げられただけの台詞と、本心から生まれ出た言葉では、手触りが全く違
う。ガラス細工に触れるような慎重なやわらかさで、照くんの声が私の胸をそっと撫
でた。顔を上げると、その声と変わらぬ真剣な、そして優しさに溢れた瞳に私が映っ
ていた。
張りつめていた心の糸がふっと緩んだ。肩の力が抜けていくのが分かった。「気
遣ってくれて、ありがとね」。ありきたりな言い回ししか思い浮かばないのが歯痒
い。でもそれを声にしなければ。言葉が喉をせり上がってくる。私は口を開きかけ
た。
その時だった。目一杯膨らんだ風船に針を刺した時のように、私の中ではじけたも
のがあった。それは知らず知らずのうちに溜め込んでいた疲労が、我慢という堤防を
決壊させた瞬間だった。しかしそれは後になって分かったことであって、その時点の
私は、突然鉛のように重くなった身体と、同時に襲ってきた強い眩暈に恐れおののく
ことしかできなかった。
「おい!……!!」
照くんの声が聞こえる。私は声を出そうとする。しかし唇がわなわなと震えるばか
りで、まったく思い通りにならない。言葉は頭の中で反響するばかりだった。
大差をつけて余裕綽々で迎えた9回裏でのサヨナラ負けは、接戦の末に一点差で涙
を呑んだ敗北より辛い。同じ失態でも、直前との落差が大きければ大きいほどその惨
めさは強くなる。私はそれを、身をもって感じていた。
さっきまでこんなことは無かった。単純な仕事ばかりだったけれど、午前中はつつ
がなく過ごすことができた。意外と身体は仕事を覚えているものだなって、自分に
ちょっと感心さえしていた。同じ課の人たちだってこんな私に優しく接してくれた。
それなのに今はこんな有様か。なんて情けないことだろう。湧き上がってきた悔しさ
が、激しく私の胸を揺さぶる。
療養中、上司にも同僚にもそしてもちろん照くんにもたくさんお世話になって、
やっとここまで来ることができた。にもかかわらず、また多くの人の手を煩わせてし
まうのか。申し訳ない。不甲斐ない。私は脆い人間だ。自分を責める言葉がぐいぐい
と私の頭を押さえつけている。自身で身体の制御ができないという事実が更にその圧
力を大きくする。
知らないうちに涙が頬を濡らしていた。周辺の空気に落ち着きがなくなっている。
私の異変に周りの人たちが気付き始めたのだろう。どんどん面倒をかけていってしま
う自分が嫌で嫌で仕方がない。涙腺は壊れた蛇口のようだった。どれほど強く締めよ
うとしても、涙は勝手にこぼれていく。
頬に柔らかい感触を覚えた。いつの間にか私の左隣には照くんが居て、ハンカチで
涙を拭ってくれていた。ハンカチを持っていない方の手は、私の左手と繋がってい
た。時折その手にぎゅっと込められる力は、却って私の涙を誘ってしまっていた。
右隣には課長が居るのが分かった。昼休みはとうに過ぎているはずだった。こんな
できそこないの部下でごめんなさい。私はどれだけ他人の時間を奪えば気が済むのだ
ろう。
眩暈は断続的な頭痛に変わっていた。巾着袋の口の紐を力いっぱい引っ張るよう
に、数秒置きに何者かが私の頭を締め付けている。
「うわあああああぁ……」
その呻き声が実際に自分の口から発せられたものなのか、頭の中で響いた魂のすが
りつくような悲鳴だったのか、それすら私には判別できなかった。
◇
不味い状況だな。痙攣が始まっている。これは俺の知る限り、小夜の症状の中で最
もひどいものだ。しかも今回は時間が長い。普段なら5分程度でおさまるはずなのに、
もう20分は続いている。
「こういう発作はこれまでにもあったの?」
課長の問いに答えようと小夜が懸命に声を絞り出そうとしている。しかしまず無理
だろう。課長とてそれは承知の上に違いない。打開策を見つけようと必死に手探りを
しているのだ。
「こういう痙攣は以前僕が見舞いに行ったときにもありました。医師にもこの症状は
伝えたそうですが、直接的な原因は不明で、だから対処方法も分からないそうで
す」
小夜とは違う課に属する俺が、なぜこれほど詳しい情報を把握しているのか、課長
は訝しんだに違いない。事実、彼の目がほんの一瞬見開かれたのを俺は見逃さなかっ
た。しかし今、そんなことはどうでもいい。目の前で苦しむ小夜を救うのが第一の優
先事項だ。
「休憩室に布団と毛布の準備ができました。暖房も入ってます。千田さん、今動ける
かしら?」
小夜と同じ課の職員だった。その手際の良さに感謝しながら、小夜の顔を覗き込
む。
「聞こえるか?小夜、休憩室に移動しよう。そっちの方が暖かいし、横になれる。そこ
でゆっくり休もう。いいか?YESなら1回、NOなら2回、手を握って」
俺の手に彼女の握力が確かに伝わってきた。思ったよりも力強く、それはまるで何
かを噛み締めているかのようだった。10秒ほど待つ。よし。返答は、「YES」だ。
「小夜、立てるか?」
俺が背中に手を回すと、小夜はよろよろと腰を浮かせた。すかさず彼女の左腕を俺
の肩に掛ける。糸の切れた操り人形のような腕だった。小夜は右手をテーブルについ
たまま、何とか立ち上がった。痙攣はまだ続いている。その姿は俺に今にも折れそう
な枯れ木を連想させた。吹雪にさらされている、独りぼっちの枯れ木だ。そんな想像
が俺の胸をかきむしる。全力で彼女を守らねばならない。俺は小夜をそのまま抱きか
かえようと、右腕を彼女の膝の裏に伸ばした。
「だ、…だいじょ、うぶ、だ、…から。…じ、じぶん、で、ある、…く、から」
か細く、切れ切れではあったが、それは確かに小夜の口から発せられたものだっ
た。彼女は、自分が世話を焼かせてしまっていることが心苦しくてならないのだ。そ
の優しさは、時に彼女自身を痛めつけている。そして残念なことに、小夜にその自覚
はない。
「…分かった。じゃあ俺に寄りかかって。ゆっくり歩くからな。きつくなったら、き
ついって言って」
小夜はこくりと頷くと、右手を俺の腰に当てた。俺が一歩踏み出す度に、一足遅れ
て引きずられるようについてくる。彼女は全体重を俺に預けているはずだが、そんな
実感はほとんど無かった。薄手のコートを羽織っているだけのような感覚なのだ。小
夜の顔を窺い見る。真っ赤に充血した目は、焦点が合っていない。確かに体温は感じ
るけれども、生気が抜け落ちている。こんな言い方をしては小夜に怒られるだろう
が、まるで幽霊を連れているような気分だった。
小夜を布団の上に横たわらせる。震えが彼女を襲う度に、まぶたがぎゅっと閉じら
れ、眉間にしわが寄る。新聞紙か何かをぐしゃぐしゃに丸めては広げ、丸めては広げ
る。繰り返していくうちに、いずれその紙はぼろぼろになる。俺は小夜がそんなふう
にして引き裂かれつつある紙のように見えて仕方なかった。
昼休みはとっくに終わっている。俺はさすがにもう自分の机に戻るべきだ。一職員
としてはそれが常識的な行動だろう。しかし俺個人としては、到底そんな真似はでき
ない。後でどんなお咎めを受けようと構わない。俺は今、彼女の傍に居なくてはなら
ない。枕元に腰を下ろした。もう一度、小夜の手を握る。それはまるで空気を抜かれ
た浮き輪のように弱々しかった。真冬の朝のような張り詰めた冷たさが、俺の指先に
絡み付いた。
◇
休憩室の古ぼけた蛍光灯が、じっと私を見降ろしている。それは時折ぼやけたり、
小刻みに揺れたりした。涙と痙攣がまだおさまっていない証拠だった。
小さく首を傾げると、心配そうな顔つきの課長の姿が目に入った。改めて込み上げ
て来た申し訳なさが、私の胸を容赦なく突き刺す。思わず視線を反対方向に移した。
私の右手が、照くんの掌の中にあった。
病名が分からず不安に支配されていた頃の私に、前向きな言葉をかけ続けてくれ
た。自身の帰りが11時近くになってしまうのも構わず、仕事帰りにわざわざ遠回りを
してお見舞いに来てくれた。毎日毎日、体調を気遣うメールを送ってくれた。不意に
泣きだした私の背中を、優しくさすってくれた。そして今、彼は自分の仕事の時間を
削ってまで、私の傍に居てくれている。彼という存在に、私はどれだけ救われてきた
だろう。
彼のまっすぐで深い深い優しさを思い返し噛み締めるほどに、私の心にたちこめて
いく感情があった。それは瞬く間に私をがんじがらめにし、胸をドライアイスのよう
に凍りつかせた。酷く冷たいのに、それを掌の温もりで融かそうとすると何故か火傷
を負ってしまう。触れてはならない危険な冷気が、徐々に全身を蝕んでいく。新たな
涙の源泉が掘り当てられたらしい。蛍光灯の輪郭が、染みだらけの天井に溶け出して
いく。
罪悪感。それが私の心に深い根を張っていた。
これまで私が彼にかけてきた面倒を思う。よりかかるばかりで何ひとつ彼のために
なれなかった自分を恥じる。彼に甘え続けてきた自らの弱さが憎い。彼は私なんかと
出会うべきではなかったのだ。
ヤドリギという植物を思い出す。他の木に寄生し、栄養を横取りする卑怯者だ。と
きにそれは、自らの寄生元に瘤を巣食わせる。枝を弱らせ、折ることさえある。私
は、彼のヤドリギに他ならない。このままでは、私は彼を壊してしまう。
言わなければいけない。私は今、彼に伝えなければならない。彼のためにも、私自
身のためにも。強烈な義務感が私を支配した。
「…て、てる、く、…ん」
情けないほどに弱々しい声だった。しかし彼はその微かな空気の振動を、素早く丁
寧に拾い上げてくれた。
「うん?小夜、どうした?何かあるなら遠慮なく言って」
私の言葉を一片たりとも聞き逃すまいとしたのだろう。気付いたとき、私の口と彼
の耳の間には、辞書一冊の厚みほどの距離しかなかった。
◇
言葉があと一歩というところで声になり損ね、唇だけが空回りしている。しかし何
かを伝えようとする小夜の気迫だけは、十二分に感じることができた。
「…も、もう……ん…」
だんだんと声が形を成してきた。もう少し、もう少しだ。俺は全神経を耳に集中さ
せた。小夜、君は今、どんな思いを届けようとしている?苦痛に耐え続けながら、何を
考えている?教えてほしい。そして少しでも今の君を楽にしてあげたい。
…とうとう小夜の言葉をすくい取ることができた。しかし俺の頭はそれを受け容れ
ることを拒んでいる。聞き間違いか、言い間違いか。きっとそのどちらかに違いな
い。無意識のうちに、彼女の口元から耳を離している自分がいた。
その時だった。枯れ枝のような腕からは想像もつかないような力強さで、小夜が俺
の肩をがっしりと掴んだ。そして再び俺の耳元に囁いた。声はより明瞭に、そしてよ
り切実になっていた。俺はその腕を払いのけたい衝動に駆られた。しかし、いくらな
んでもそれを実行には移せない。唇を噛む。仕方なく、俺はこう繰り返した。
「そんなこと、…そんなこと言うな!そんなこと……」
それは小夜に向かって発した言葉だったが、小夜のために発した言葉ではなかっ
た。俺自身のための言葉だった。俺はこれ以上、小夜のそんな言葉を聞いていたくな
かった。俺はただ、自分の身を守るのに必死だった。
◇
彼の耳が私の口元から遠ざかった瞬間、自分でも信じられないほどの速さで腕が伸
びた。上半身が彼の肩にぶら下がる。お願い、聞いて。耳を塞がないで。
「…もう、いいから。これまであなたには、いっぱいいっぱいお世話になった。…あ
りがとう、本当にありがとう。でもね、もういいよ。もう充分だよ。こんな私のこ
となんか、放っておいて。…私はあなたを不幸にしてしまいたくない。だから、だ
から、もう……」
何度同じ文句を繰り返しただろう。途中、彼が声を荒らげたような気がした。しか
しそれが幻聴なのか現実なのか判然としない。言葉を重ねるごとに、目頭が熱を帯び
てくる。涙や鼻水が顔にまとわりつく。頭の奥で非常ベルが鳴り響いている。
目に映る景色は飴細工のようだった。次第に歪んでいくそれは、やがてうねりだし
渦となる。視覚も聴覚も触覚も、私には要らなかった。必要なのはこの思いを伝えら
れる声だけだった。だから私はそれにすべての精魂を注ぎこんだ。世界に自分の声し
か存在しないような感覚が私を包んでいく。
動いているのは口だけだが、この声は私の全身から発せられている。届いてくれ。
受け取ってくれ。私は同じ言葉を彼に覆い被せ続ける。それは傍目には壊れたロボッ
トのようにでも見えていたに違いなかった。
いつの間にか意識が飛んでいたらしい。気付いたとき私は、使い古した濡れ雑巾の
ように仰向けに横たわっていた。震えはない。目を強くしばたたくと、微かに乾いた
音がした。涙や鼻水が顔面で固まっているのだと分かった。
視界がぼやけている。しかしこれは涙のせいではないだろう。薄靄が頭全体に漂っ
ている。記憶をまさぐり出し、自分の置かれている状況を思い出す。波が静かに押し
寄せるように、徐々に感覚が戻ってくるのが分かった。
それは私の右耳が捉えた音だった。高低や強弱の不規則な移ろいが私の胸をざわつ
かせ、頭の中に疑問符を浮かび上がらせていく。
自分の予感が外れていることを祈った。しかし頭をその音のする方向へ向けると、
淡い期待は一瞬で崩れ去った。
彼が、照くんが、泣いていた。頬が涙で光って見えた。まぶたがぎゅっと閉じられ
るたびに、新たな涙が絞り出されていく。赤らんだ鼻はハンカチで押さえつけてられ
ていた。喉仏の動きに誘われるように、文字にできない声が震える口元から零れ出
る。肩が小刻みに上下する。傾いた眉と眉の間には、深い皺が刻まれている。充血し
た目は、なみなみと湛えられた涙で厚く覆われていた。
こう言っては失礼だけれども、二十歳を超えた男性が人目も憚らずに泣くのを、私
は初めて見た。きょとんとして、そのまま視線を動かすことができなかった。さっき
まで自分が泣いていたことなど忘れて、私はしばらく呆気にとられていた。
***
20□□/12/18 19:03 To 副島 照幸 Sub 無題 一日お疲れさま。今日は本当にありがとう。あの後課長と話して、明日と明後日は午
前中だけ勤務して、21日は、金曜日ってこともあるから丸一日勤務することになった
よ。…何度も言うけど、本当に本当にありがとね。 ―END― 20□□/12/18 19:26 To 千田 小夜 Sub Re: お疲れ。…そっか、まあ無理しすぎるなよ← また今日みたいに倒れたら大変だ(´△`;) 今の体調は大丈夫(´­ω・`)? …あ、それからさ、もし金曜日小夜が一日勤務できたら、一緒に帰らないか?飯はコン
ビニかどっかで買えばいいし。お泊りさせてもらってもいいかな?? ―END― 20□□/12/18 19:40 To 副島 照幸 Sub Re2: もちろん大歓迎だよー**\(^o^)/**!! 照くんが一緒に帰ってくれると思えば、きっと乗り切れると思うし(*`・∀・´*)b …体調はねえ、痙攣してた時よりはマシ笑← ってまあこれは冗談だけどww 少しだるいけど、頭痛はそれほどない。大丈夫でーす(=^^=)ノ心配してくれ
てありがと☆ 照くんこそ大丈夫?だいぶ時間とらせちゃって申し訳ない!上の人に何か言われた?
「君は職務専念義務を忘れたのかね?もう一度公務員法読み直してこいっ」…とか何
とか。もしそうなら私、照くんの上司の前で土下座するわwwww ―END― 20□□/12/18 19:47 To 千田 小夜 Sub Re2: Re2: …いや、お咎めは無かったけど「君は千田さんとどういう関係なんだ?」って聞かれた
笑www 『確かに仲は良いですが、別に付き合っているとかそういう訳ではないです(キ
リ
ッ
)』って答えといたが、我ながら相当苦しいな(´A`;) まあ、済んだことは済んだこと。小夜が責任を感じる必要は何もないぜ(`・v­´)b ―END― 20□□/12/18 20:16 To 副島 照幸 Sub Re2: Re2: Re2: 君は何という猛者だwww その開き直りぶり、もはや清々しい笑← …ところでさ、どうしてもひとつ言っておきたいことがあるんだ。別に、大したこと
じゃないんだけど。 ……あのとき、照くん泣いてたよね。それ見て、何か…、その、えっと、…びっくり
しちゃった。ん、ただ、それだけ。 ―END― 20□□/12/18 21:23 To 千田 小夜 Sub Re2: Re2: Re2: Re2: …なんか泣いちゃった てへぺろιι(*´≧ひ・ `*)q ☆★☆ …………んー、午前中だけといっても明日は出勤するわけだろ?あたたかくして早く寝
たほうがいいぞ(´­Д­`=)ノ じゃあ、また明日。 ―END― ***
渡された時から中身の予想はついていた。しかしそこから伝わってくる真剣さは俺
の想像を超えているものだった。彼女が必死に言葉を紡ぎ出していくさまを思う。溢
れ出る思いを取りこぼさぬよう、懸命にペンを走らせる姿が目に浮かぶようだった。
折りたたみ式の小さなテーブルに視線を移す。それにかじりつくようにして彼女は
その作業に没頭していたのだろう。ついさっきテーブルを部屋の隅に移動させたのは
俺だ。その表面に微かに刻まれていた文字列の痕跡が頭によみがえる。
洗濯物を干し終えた小夜がベランダから戻ってきた。不自然なほど慎重な手つきで
カーテンをぴしゃりと閉じる。肩の動きで、彼女が深呼吸をしたのが分かった。
「読み終えた?」
「…うん」
彼女は無言で俺の隣に腰を下ろした。掛け布団にしわが寄る。ほのかに冬の夜の匂
いがした。彼女がまだ冷気を纏っている証拠だった。
「で、どうだった?」
俯いたまま発せられたその声に、不安と緊張が透けて見えた。小夜の性格を考えれ
ば致仕方ないことだ。まずは彼女の肩をほぐしてやるのが一番だろう。
「…うん、やっぱり小夜は、文章が上手いね」
「……そういうことじゃあ、な、く、て!!」
彼女が頭をこちらの方に向けた。いたずらっ子のような目だった。口元はほころび
かけ、声に笑みが滲んでいる。作戦成功。俺は心の中でほくそ笑んだ。
◇
もう、いつもそうやって人を食ったような言い方をする。でもそれが私への心遣い
であることは重々承知の上だ。彼の肩に頭を預け、そっと手を重ね合わせる。彼の体
温が指先から少しずつ伝わる。その感覚を噛みしめるようにじっくりと味わうのが、
私は好きだ。
「小夜の気持ちが分かって嬉しかった。ありがとう」
一語一語が胸に沁み入り、身体を芯から温めていく。その熱を少しでも逃がさぬよ
う、私はまぶたを閉じる。
「俺も薄々気づいてはいたんだ、小夜がこう思ってたんじゃないかって」
勘の鋭い貴方のことだもの、やっぱりそうだったよね。
「でも、それをこうして文字にしてちゃんと伝えてくれて、…良かった。今までの小
夜の気持ちも、今現在の小夜の気持ちも、よく、分かった」
彼が私の頭をくしゃくしゃと撫でた。角張った指が髪に埋もれていく。幸福感が小
さな笑い声となってこぼれ落ちた。薄目を開ける。首元をくすぐられる子猫のような
顔をした照くんが、じっと私を見ていた。
「それにしてもさ…」
私の身体が充分に温まった頃、彼が不意に呟いた。
「恋人に渡す手紙がルーズリーフにシャーペン書きって、どうよ?」
それが冗談であることは口調からすぐに分かった。しかしせっかくの御指摘であ
る。受け流しては失礼だ。
「…経費削減!!私は賢い節約家なのです!」
便箋ではそれこそ十数枚書いても収まり切らないと思ったから。ボールペンでは何
度修整液を使うことになるか分からないと思ったから。そんな本当の理由を、まさか
言えるはずもなかった。
***
豆電球の橙色がうすぼんやりと部屋を照らしている。別々の布団に横になったのも
束の間、私たちは互いに互いを引き寄せていた。彼の胸に耳を当てると、確かな鼓動
が聞こえた。そのリズムに私は安心感を覚える。
私の背を大きな掌が包み込むように撫でていく。どんな上質な毛布も、この心地良
さには敵わないだろう。同じ温もりでも、それがモノから伝わってくるものと人肌か
ら伝わってくるものでは全然違う。後者には生きた血潮が流れている。それが脈打つ
度に、温もりはその優しさを増していく。
「…ひとつだけ、聞いてもいい?」
ちょうど彼の耳が私の目の前にあったからかもしれない。どうしても知りたいこと
が私にはあった。気が付いた時には、その思いが声になっていた。
「答えられなかったり、答えたくなかったら、無理にとは言わない。でも、聞いて。
あのとき照くんが泣いてしまったのは、なんでだったのかな?」
◇
薄闇の中に3日前の情景が浮かぶ。それは遠い昔のことのように思える一方、細部
までやたらと鮮明で不思議な心地がした。休憩室の色褪せた畳や、暖房がききすぎた
せいか淀んでいた空気や、小夜の血の気を失った顔や、涙や鼻水でぐしょぐしょに
なったハンカチなどが次々と甦り、記憶の中に俺を浸していく。あの時間に、あの場
所に、手繰り寄せられていく自分を感じた。
「…あ、ごめん。変なこと聞いちゃったね。今のは忘れて。そうだよね、そりゃ泣く
よね、だって……」
俺が押し黙っているのを、気を悪くしたせいだと勘違いしたらしい。申し訳なさそ
うに早口になるのがいかにも小夜らしく、俺は微笑ましささえ覚えた。
「…『放っておいて』なんて、私が照くんを振るようなひどいこと言っちゃたんだも
んね。泣いちゃうの当たり前だよね。分かりきったこと聞いちゃってごめんね」
落ちた雫は一滴でも、水面に広がる波紋は大きい。小夜の言葉は、俺の心を大きく
波立たせた。
違うよ、小夜。俺はそんな理由で泣いたんじゃない。君が謝る必要なんてまったく
ない。君の言葉が涙の引き金になったのは事実だけれども、君の言葉に俺が傷ついた
なんてことは一切ない。
未だに「ごめんね」を繰り返す小夜の顔を、真正面から見つめた。仄暗い中でも、
彼女の些細な表情の変化を読み取ることができた。大きく見開かれた目に、驚きと怯
えが見て取れた。
俺は両の掌で彼女の頬をそっと包み込んだ。一瞬強張りを感じたが、それはすぐに
吸いつくようなやわらかさに変わった。生まれたばかりのひよこはきっと、こんな感
触なんだろうなと思った。
彼女は魔法にかけられたような目をしていた。俺がこれから発する言葉が、その魔
法を解いてくれることを願った。俺は彼女の瞳に映る自分の顔を見つめながら、ゆっ
くり、はっきり、それを口にした。
「あのとき、俺が、泣いたのは…、俺の、大好きな人が、苦しんでいる、姿を、見る
のが、辛かったから、…だよ」
◇
大量生産品のような薄っぺらい言葉がはびこる一方、たった一言で時間を止めてし
まうほどの力を持った言葉も確かに存在する。私の中で時計の針が止まるのが分かっ
た。口だけがぱくぱくと金魚のように動く。声だけでなく感情までもが、どこかへ身
を隠してしまっていた。
やがて感情がおぼろげに姿を見せ始めた。それは恥ずかしさという形で私の頭を蹴
り飛ばした。自分の浅はかさが、否応なしに身に染みてくる。
照くんは気付いていたのだ。私が涙ながらに口にした言葉たちが、私の真意ではな
いことに。そんな裏腹な言葉を発し続ける私の苦しみに、そう言わざるを得ないほど
追いつめられていた私の心に、彼は涙していたのだ。私自身が気付けなかった隠れた
痛みまでも、彼は見つけ出していた。そして私の代わりに泣いてくれた。これほどま
でに私を大切に思い、心の奥にそっと手を差し伸べてくれる人がいる。その事実は私
の心を強く強く揺さぶった。
彼の愛の尊さに思いをはせるほどに、自分の感性の鈍さが浮き彫りになっていっ
た。私は愚かであるという自覚が、全身に行き渡っていく。言葉たちが殺到して、私
の口を塞いでいる。
それはほんの一瞬の出来事だった。彼の手が頬から離れたかと思うと、両腕が背中
にまわされた。心地よい圧力がぎゅっと私を抱き締める。その力に搾り出されるよう
に、私の口からやっとひとひらの言葉が零れ出た。
「……大好き」
あまりにありふれた台詞しか出せない自分に呆れてしまった。でも、それ以上の言
葉を見つけられないのも事実だった。単純な言葉の方が、えてして事の本質を突くも
のなのかもしれない。
そっと照くんの顔を見上げると、どことなく頬が上気しているように見えた。無論
暗がりの中でのこと、ただの勘違いかもしれなかった。彼はひとつ大きく息をする
と、ぽつりと呟いた。
「月が綺麗ですね、としか、言えないな」
私の観察眼もたいしたものである。彼が恥ずかしがっているのは私の思い込みでは
なかったらしい。まったく、妙なところで照れ隠しをするものだ。
「…君は夏目漱石か!」
なぜか私のつっこみに対する反応は早かった。
「良かった。今の通じたんだね」
さすがにそれくらいの教養は持ち合わせておりますとも。照れていたのか私を弄ん
でいたのか、いったいどちらだったのだ。しかし私は憤慨するでも、彼を詰問するで
もなく、そのまま彼に身を預けた。体温と体温がまじりあうのを感じながら目を閉じ
る。淡い橙色に染まった闇が、レースカーテンのように私たちを包み込んでいた。
***
照くんへ メールでもなく直接話すでもなく、わざわざ手紙なんていう古臭い方法を選んだの
は他でもありません。これが私にとって一番自分の思いを的確に伝えられる方法だと
思ったからです。そして照くんには、今の私の思いをできる限り的確に伝えたい。だ
から読みにくいとは思うけれど、そこは少々我慢のほどをお願いします。 伝えたいことは山ほどあります。今まで照くんが私にしてきてくれたことに対する
感謝の気持ちを言葉にするだけで、恐らく夜が明けてしまうでしょう(笑)。だから
今回は内容をひとつに絞ってペンを進めます(それでもかなりの長さになる予感がす
る。頑張ってついてきて!)。 けいれんに襲われたあのとき、私はその場から消えて無くなりたくて仕方ありませ
んでした。自分の非力さが、不甲斐なさが、情けなさが、嫌で嫌でたまらなかったか
らです。私の頭の中はその思いでいっぱいでした。他の人の気持ちを推し量る余裕な
んて、全くありませんでした。 だから、私は、あなたにあんなひどいことを言ってしまいました。 『もう私なんかのことは放っておいて』、『今までありがとう、でも、もういい
よ』、『私があなたを不幸にしてしたくないから、もう、充分だから』…。私は確
か、こんなことを口走ってしまったと思います。あなたが私の言葉をさえぎろうとす
るのも無視して、私は言い募ってしまいました。 でも、言い訳にしか聞こえないと思うけれど、それはあのときの私の本心でした。
どうにかしてこの思いを伝えなければと、私は必死だったんです。ただやっぱり、今
思い返すと本当にひどいことを言ってしまったんだなと、反省の念ばかり浮かんでき
ます。謝って済むことでないことは分かっているけれど、ごめんなさい。 あなたが泣いているのに気付いたときは驚きました。「え?なんで泣いてるの?」っ
て本気で不思議に思いました。だって、大の大人が、しかも上司のいる前で、顔をぐ
しゃぐしゃにしていたんだもの。でもそう思ったのも一瞬でした。 思い上がりであることを承知で言います。私はあの時が、私なんかのために家族以
外の人が泣いてくれているのを見た初めての瞬間でした。涙の理由の詳細は分からな
い、けれど私のために泣いてくれているということだけは分かりました。そして思っ
たんです。「ああ、この人は本当に心の底から私のことを好いてくれているんだな」
と。 あなたと一緒におしゃべりをしたり、食事をしたり、買い物をしたり、じゃれあっ
たりするのは本当に楽しいことでした(思わず過去形を使っちゃったけど、もちろん
今も楽しいからね!)。好きな人と時間を共有することの幸せをあなたは教えてくれま
した。 あなたは私みたいなつまらない人間を実に大切にしてくれました。私はそれがとて
もうれしかった。いつだったか私が「こんな自分が大嫌いだ」と言って泣いたとき、
あなたは「それでも俺は、そんな小夜が大好きだよ」と言ってくれました。なんてす
ばらしい人だろうと思いました。でも、でも、それほどまでにあなたに大切にされて
いたのに、私の心の片隅には、いつも一抹の不安がありました。 それは、「この人は本当に私のことが好きなのか?」という愚かな疑念でした。ま
あ、そこまではいかずとも、「私は一時期の遊び相手でしかなくて、私が照くんを
想っているほどには、この人は私のことを想ってくれていないんじゃないか」とか、
「私が人とコミュニケーションをとるのが苦手だと分かっているから、その練習台を
かってでてくれているだけなんじゃないか」とか、そんな思いをいつまでも拭いきれ
ずにいました。本当に、私って馬鹿ですね。 前にも話したとおり、私は、見栄っ張りで、意気地なしで、融通が利かなくて、気
まぐれで、高慢で、お調子者で、そんな自分が大嫌いです。そもそも私はこれまでの
人生の中で自分を肯定的にとらえたことなどありません。自分のことを好きだと思っ
たことがないのです。だから私は、私のことを好きだと言ってくれる人(つまり照く
んのこと)の気持ちが、理解できなかったのです。 でも、あなたの涙が、私の目を覚ましてくれました。私が自分のことを嫌いなのは
変わらないけれど、自分のことを好いてくれる人が確かに存在することは、はっきり
理解できました。ありがとう。本当にありがとう。あなたとの出会いに、改めて、心
から感謝します。 そして、感謝と同時にあなたにはお詫びの気持ちを伝えなければなりません。今ま
であなたの好意を疑って、それを素直に受け容れることができずにいて、本当にごめ
んなさい。もちろんこれからは、そんな疑いを持ったりなんかしません。気付くのに
だいぶ時間がかかってしまったけれど、照くんはそんな私を許してくれるかな?
「まったく物分かりの悪い奴だなあ」というくらいの鷹揚さで、受けとめてくれると
嬉しいです。わがままでごめんね。 さて、先日のけいれんからも分かるとおり、私の病気はまだ完治していません。頭
痛はやまないし、ちょっとしたことで倦怠感に襲われるし、いつ治るんだろうという
不安が常につきまとっています。しかもこの病気、傍目には何の異常もないように見
えるから、周囲に理解してもらうのが大変で。怠けているわけじゃないのに怠けてい
るように見えてしまうから、罪悪感や無力感を覚えてしまうこともしばしばです。 でも、私は絶望しているわけではありません。きっと完治する時が来ると固く信じ
ています。なぜなら……、言わずもがなのことですが、私にはあなたという心強い
パートナーがいてくれるからです。あなたと一緒であれば、きっと大丈夫。根拠なん
ていりません。信じることで、きっと道は開けてきます(何かかっこいいこと言っ
ちゃった。恥ずかし!)。 この先何が起こるかは分かりません。私とあなたが仲違いしてしまう可能性だっ
て、もちろんあります(不吉なことを言ってごめん)。でも、仮にそうなってしまっ
たとしても、私があなたを恨むことはないでしょう。人に愛されるとはどういうこと
か、そんなとてもとても大事なことを教えてくれたあなたを恨むことなど、できるわ
けがありません。 もう一度言います。私はあなたに出会えて幸せでした。私はあなたを心から好いて
いるし、尊敬しています。これからもあなたと共に幸せな時間を過ごしていけたらと
思います。…妙に格式ばった書き方をしてしまったけれど、これはあなたとの間に距
離を感じているからではないからね!真剣な思いを伝えようとしたら、自然にこんな
文体になってしまっただけ(笑) こんなに長い手紙を読んでくれてありがとうございました(でもねえ、これだけ長
いと書く方もなかなか骨が折れるのだよwww)。徒然なるままに言葉を並べたので
(吉田兼好か!というツッコミを期待)、だいぶ支離滅裂だったと思います。でも、
少しでも私の思いを伝えることができていたら幸いです。そろそろ私の右手が悲鳴を
上げてきたので、ペンを置くことにします。くどいようだけど、本当に、ありがと
ね。 千田 小夜 P.S. この手紙の取り扱いには充分注意するように!それこそ読み終えたら溶解し
ちゃって構わないから!っていうか、むしろそうして!! 読み返したら赤面必至なこと
うけあいだからwww ◆◆第二章◆◆
診察室に入ってきた彼女は、心なしかやつれて見えました。今日は格別寒いですか
ら、そのせいかもしれません。彼女はマフラーを外して膝の上に置きました。診察票
を手渡す手が微かに震えています。もう片方の手は、マフラーをぎゅっと掴んでいま
した。不自然なほど手の甲に骨が浮き上がっています。彼女は顔を俯けたままでし
た。今日の診察にはだいぶ時間がかかりそうです。私は敢えて平坦な口調で切り出し
ました。
「お待たせしました。今日は今年最初の診察ですね。年末年始は、ご実家で過ごされ
たのですか」
彼女はこくりと頷きました。そして思いだしたように「…はい」と続けました。か
細い声でした。彼女の身に何か良くないことが起きたのは確かなようです。
「ご実家で、ゆっくり休むことはできましたか」
もちろんそんなはずはなかったでしょう。彼女の口から事実を引き出すための、こ
れは言わばおとりです。彼女は唇をひと舐めしました。何かを決意したように見えま
した。
「…地元で、ゆっくりできるはずだったんです。そして症状も改善するはずだったん
です。私自身、年始から職場に復帰するつもりで、そのための英気を養うために、
帰省したんです。でも、事は思うようには運ばなかったんです」
彼女はその若さにしては豊富な語彙を持ち合わせています。また、話を論理的に組
み立てる能力にも長けています。それはこれまでの診察から充分伝わってきていまし
た。ですから、一旦彼女の口を開くことができれば、あとは的確な説明が聞けるはず
です。
「それは、なぜだったのでしょう。理由を聞かせていただけますか」
「かなり長くなってしまうと思いますが、構いませんか」
もちろんです。私は椅子に深く座り直しました。彼女はちらりと私に目をやり、す
ぐにまた視線を落としました。深呼吸をしたのでしょう、胸が動いたのが分かりまし
た。そして彼女は、滔々と語り出しました。
◇
理由はふたつあります。ひとつは体力面、もうひとつは精神面に関することです。
まず、ひとつめの理由からお話しします。
私の父方の祖母は、最近寝たきりの状態になったばかりでした。そのこと自体は私
も、母から電話で教えてもらっていました。私は帰省すると、真っ先に祖母のもとを
訪れました。一秒でも早く様子を見たいと思ったからです。
祖母は力なくベッドに横たわっていました。薬の副作用のせいか、頬が妙に赤らん
でいました。祖母は私の姿をみとめると、上半身を起こそうとしました。しかしそん
なちょっとした動作さえも、祖母にとっては苦行だったようです。祖母の表情が歪ん
だのを見て、私は慌てて「そのままにしてていいよ」と声をあげました。
父方の祖父母の家は小さな卸問屋です。ホテルや旅館に、割箸やタオルなどを卸し
ています。祖父母は第一線から退いてはいるものの、梱包などの内職的な作業につい
てはふたりともまだまだ現役でした。特に祖母は、日頃から健康に気を遣っているこ
ともあって実にかくしゃくとしていました。
祖母の話はいつも含蓄に富んでいました。今の店は祖父母がふたりで立ち上げたも
のです。ここに至るまでに味わってきたであろう苦労が、祖母の話に厚みを持たせて
いました。これまでいくつ祖母に大切なことを教わってきたか分かりません。
祖母はいつも縁の下の力持ちでした。5年くらい前、祖母が入院したことがありまし
た。それは1カ月にも満たない期間でしたが、祖母の存在の重要性を思い知るには充
分すぎる時間でした。
私の実家は祖父母宅と同じ市内にあります。ですからその期間、私は暇を見つけて
は祖父母の家に足を運ぶようにしました。私の父や妹、弟もそうでした。そして仕事
を手伝っていると、実感するのです。祖母がいかに手際よく丁寧に、そして効率的に
日々の作業をこなしていたかということを、です。
作業は単純です。ただ商品を袋に詰めたり、その口を閉じたり、まとめて紐で縛り
上げたりするだけです。誰がやってもそれほど差の生まれるようなことではありませ
ん。でも、明らかに異なるのです。そのスピードも、できばえも、祖母と私たちとで
は段違いなのです。
地味な作業です。でも祖母はそれをひたすら、そう、50年以上続けてきたので
す。祖母の技量はその長年の努力に裏打ちされていました。私たちがいくら束になっ
たところで、その技量に敵うわけがなかったのです。祖母が不在の間、店の奥はおお
わらわだったそうです。祖母ひとり分の穴を塞ぐのがこれほどまでに大変なことだっ
たとは、と叔父が言っていました。店は祖父から叔父へ継がれているのです。
祖母は店にとって不可欠な存在でした。しかし祖母はいつだって控えめでした。積
み重ねてきた努力をおくびにも出しませんでした。その謙虚さに私は感動さえ覚えま
した。祖母は私の理想の人間であり、同時に自慢のおばあちゃんでした。
すみません。つい話が長くなってしまいました。つまり私は、目の前に横たわる祖
母と私の頭の中にある祖母との余りの違いに、大きな衝撃を受けたのです。そしてそ
の衝撃は、強い義務感に変わりました。祖母の為に私ができることがあれば、わたし
はそれを全力でやらなければならない、そう思ったのです。
実家から祖父母の家までは歩いて40分ほどかかります。私は冬休みの間ほぼ毎日、
そこへ通いました。することは山ほどありました。年末は書き入れどきです。次から
次へと注文が舞い込んできます。近所の親戚や祖父母の古くからの知り合いの方も手
伝いに集まっていましたが、それでも作業が追い付くか追いつかないかぎりぎりのと
ころでした。
また、仕事の手伝いと並行して、掃除や洗濯もしなければなりませんでした。祖父
は腰が弱く、雑巾がけをしたり洗濯物を抱えて階段を上り下りしたりすることができ
ないのです。
自分が体力的に無理をしていることは分かっていました。でも、祖父母の家で夢中
で動いている間は、何も疲れを感じないのです。祖母や祖父が嬉しそうな顔をしてく
れているのを見ると、頭痛や倦怠感など消えていってしまうのです。
しかし、それがいっときの魔法であることは重々承知していました。家に帰り、こ
たつで横になると、もう動けないのです。隠れていた疲れが一気に私を襲っているの
だと分かりました。食事はほとんど喉を通りませんでした。ヨーグルトやゼリーを食
べるだけで精一杯なのです。栄養が足りていないことは明らかでした。でも、祖母の
ことを思うと身体は勝手に動きました。その動力の源がどこにあるのか、自分でも不
思議なくらいでした。
父や母はそんな私を心配しているようでしたが、私が祖父母の家に行こうとするの
を止めようとはしませんでした。家でずっと寝ているよりは、祖父母とふれあう方が
私の為になると考えてくれていたのかもしれません。
祖父母に笑顔で別れを告げて、私は名古屋へ戻ってきました。祖父母が近くにいな
くなって、頭痛や倦怠感や眩暈が、よりその酷さを増して私を襲いました。自業自得
であることは分かっています。でも、でも、どうしても私は、祖母の為になりたくて
仕方なかったのです。これまで色々なことを学ばせてくれた祖母に、少しでも恩返し
がしたかったのです。
◇
彼女はそこまで一息に話し終えると、深く息を吐きました。唇を噛んでいます。こ
れまでの自分の話をひとつひとつ点検しているように見えました。大丈夫ですよ。あ
なたの言いたいことは充分私に伝わっています。
「すみません、では、理由のふたつ目に移らせていただきます」
先程の話の中で彼女が言い忘れたことはなかったと見えます。彼女の目は私の顔を
しっかりと捉えていました。思いを言葉にしたことで、落ち着いてきたようです。
「どうぞ、先を続けてください」
彼女の口が、再び滑らかに動きだしました。
◇
私は名古屋へ戻る2日前、母とふたりで食事をしました。といっても、ほとんど食
欲がありませんでしたから、私は専らコーヒーを啜っていました。
しばらく他愛もない話をしたあと、母がしみじみとした調子で言いました。『小夜
が帰ってしまったら家が寂しくなってしまうわねえ、それに…』。母はそれきり黙り
込んでしまいました。私は母の言い方がとても気になりました。その表情に陰が差し
ているのが分かったからです。
私は母に話の続きを促しました。母はしばらく眉間にしわを寄せていましたが、や
がて決心したように口を開きました。母の沈痛な面持ちの理由がよく分かる、重苦し
い話でした。
父は2年ほど前、浮気をしていました。私がそれを知らされたのは一昨年の5月、
初めてゴールデンウィークに帰省したときでした。確かにそのときはショックでし
た。母の泣き顔や無言で俯く父の姿が今でも目に浮かんできます。しかしもう、その
件については方がついたと思っていました。私はその直後に父に戒めの手紙を書きま
したし、それ以後、母がその件を話題にすることも無かったからです。
しかしそれは、私の甘い考えに過ぎませんでした。母は言いました。あの人はまだ
私に一言の謝罪の言葉も寄越さない。問い詰めようとしてもだんまりを決め込む。挙
句には『俺のことが信じられないのか』、『同じことを蒸し返すな』と怒鳴り出す。
その声を聞くと身震いがする。だからもう、私は怖くて何も聞き出せない。今、例の
女との関係がどうなっているのか分からない。私はそれが、不安で不安で仕方ない、
と。
そして母は続けました。あの人は小夜が大好きだから、小夜が家にいるうちはとて
も機嫌が良いのだけれど、小夜が帰ってしまったらどうなるか分からない。小夜の代
わりに、なんて言ったら失礼だけど、また例の女に安らぎを求めるのかもしれない。
それにね私、いつだかあの人が例の女に書いた手紙を盗み読みしてしまったの。そこ
にはこう書いてあった。『あなたは私にとって最上の人です。今は周りの目があるか
らなんですが、僕が定年を迎えたら正式に…』。これがほんのいっときの感情による
ものだったらいいわ、でも、それが今でもあの人の本意だとしたら、私はいったい何
なのかしら。何のためにあの人にごはんを作ったり、洗濯をしたりしているのかし
ら。あの人は言うわ、『俺が別に外で何をしてこようと、こうしていつも通り家に
戻って来て、給料を納めていれば、何の問題もないじゃないか。俺のすべてを君が把
握する必要はないだろう』って。でも、そういう問題じゃないでしょう?外面が平和
でも、あの人の心が家に向いていないのだとしたら、そんなの茶番でしかない。私は
真実を知りたいの。いいえ、もう、あの人が謝ってくれさえすればそれでいいわ。で
も、それを求めることも私にはできないのよ。さっきも言ったけど、あの人が怖いか
ら。自分に都合の悪いことになると、口を閉ざしてしまうから。
私は母の一言一言が信じられませんでした。父は私にとって尊敬の的であり、愛す
べき良いお父さんでした。2年前の一件は魔が差したようなものだと思っていまし
た。それが一体どうしたことでしょう。私の知らないところで、父はそんな一面を覗
かせていたのです。母はもう泣きそうでした。「私はね、小夜のことを一番頼りにし
ているの。あなたはしっかり者だし、私なんかよりずっと大人だわ。そんな小夜が
帰ってしまうのはね、やっぱり寂しいし、とても不安なのよ」。母はそう言って洟を
すすりました。
…え?ああ、いや先生、それは違います。だからと言って私は父に幻滅しているわ
けではないんですよ。驚かれるでしょうけれど、それでも私は、父を敬愛しているん
です。もちろんそのすべてを、ということではありません。母への対応については大
変残念に思います。でも、その一点だけを取り上げて、だから私はそんな父のことな
ど大嫌いだとは思えないのです。珍しいとお思いでしょうね。私はもともとお父さん
子で、父のことが大好きなんです。だから総合的には、私は今でも父を嫌ってはいな
いのです。問題はそこではないんです。
すみません、話を続けますね。母は最後にこう言いました。私が言ってもあの人は
聞く耳を持たないだろうから、小夜に頼みたいの。あの人に『お母さんに謝ってあげ
て。そしてもうこんなことはしないって、お母さんに誓って』って、伝えてほしい
の。小夜の言うことならあの人、聞いてくれると思うから、と。
母の声は切実で、顔には悲壮な表情が浮かんでいました。だから頷きました。直接
言うのは難しいかもしれないけれど、手紙という形であれば何とか伝えられると思
う。私はできる限りお母さんの助けになりたい、と。私が名古屋へ戻る日、帰り際に
母は小さい声で言いました。「あっちに行っても、元気でね。…そして、あのこと…
、お願いね」。私は「うん」と言って改札口へ向かいました。母のすがりつくような
目が脳裏に焼き付いて離れませんでした。
でも、こちらに戻って来て、よく考え直して、思ったのです。今私は病を患ってい
るのです。しかも心因性の病気です。そんな私が、これほど心理的な負担のかかる役
割を演じる必要があるのでしょうか。私はそこまで、頑張らなければならないので
しょうか。もちろん母の気持ちも分かります。でも、母にはもう少し、私のことを考
えてもらいたかった。これはわがままでしょうか。私は親不孝者でしょうか。分かり
ません。でも、そのことが今私の中でわだかまりになっていることだけは、事実なの
です。
◇
さすがに話し疲れた。喉が渇いているのが分かる。何か言い忘れたことはないか、
自分のした話をひとつひとつ検めていく。よし。恐らく漏れはないはずだ。
「…これで理由の詳細は以上です。途中いろいろと話が飛んでしまい、すみませんで
した」
電子カルテに私の話を打ち込んでいるのだろう。キーボードを叩くカタカタという
音だけが診察室に響く。
「詳しいお話を聞かせて頂き、ありがとうございました」
医師が私の方に向き直った。思わず背筋が伸びる。
「では、今度は私からお話をさせて頂きます」
一見無表情に見える顔だが、その目の奥に専門家としての確かな光が宿っているの
を感じた。彼は物静かな口調で話し始めた。
◇
まずひとつめの理由についてです。あなたは非常に心優しい人です。弱々しくなっ
てしまったおばあさまの姿を見て、そのような行動をとってしまったことは充分理解
できます。手伝いをしている間、疲れを感じなかったというのも本当でしょう。人は
夢中になると、自分の身体が発する危険信号に気付けなくなるものなのです。特にあ
なたはその傾向が強い。確かにあなたは体力的に無理をしてしまいました。しかしそ
んな自分自身を責める必要はありません。失礼なことを言いますが、これはあなたが
病身であることを知りながら、あなたの負担軽減を図ろうとしなかったご両親の方に
非があります。
さて、続いてふたつめの理由についてです。はっきり申し上げます。あなたはそこ
まで頑張る必要はありません。それはあくまで夫婦間の問題であって、その解決に娘
であるあなたが、しかも病気療養中であるあなたが腐心する必要はまったくありませ
ん。お母様の気持ちも分からないではないですが、お母様は手段を誤っています。繰
り返しますが、あなたが責任を感じることは何もありません。
そしてこれは総合的に言えることですが、どうもあなたのご両親はあなたの病気に
対する理解が足りないようです。…あ、違います違います。あなたが自身の病気につ
いてご両親に上手く説明できなかったとか、そういうわけではありません。あなたの
ことです、実家に戻られて真っ先にご両親に病気の説明をしたのでしょう?…そうで
すよね。あなたに非はありませんよ。それにあなたであれば、相当的確な説明をする
ことができたでしょうから。…謙遜しなくて結構ですよ。とにかくあなたは何も悪く
ありません。
それで、どうでしょう?療養期間は12月いっぱいということで診断書をお出しし
ていましたが、現在の体調を鑑みて、いかがですか。今月から復帰する予定ではあり
ましたけれども…あなた自身の希望を聞かせてください。自分に嘘をつく必要はない
ですよ。万全の状態で復帰しなければ、意味がありませんからね。
…そうですか。分かりました。私もそうすべきだと思います。では療養期間をもう
1カ月延ばしましょう。今月いっぱい、じっくり静養してください。
***
20□△/01/07 20:08 To 副島 照幸 Sub 無題 診断書提出しなきゃいけないから、明日は出勤する― 多分1時間もしないで帰っちゃうだろうけどwww ま、一応報告ってことで(`・v­´)b 復帰が遅れちゃうのは残念だけど、なるようにしかならないし。気分入れ替えて前向
きに行くわ☆ じゃ、また明日(*^o^*)/ ―END― ***
…もしもし、小夜姉ちゃん?私、由衣。朝早くにごめんね。今どこにいるの?バス
停?じゃあ、ちょっと時間いいかな。あのね、ほんとに驚いちゃうと思うんだけど、
今、すっごい重要なこと言うから。ようく聞いてね。昨日の夜ね、千田のおじいちゃ
んが近所のお風呂屋さんで急に倒れて…救急車で運ばれたの。うん、周りにたくさん
人がいたみたいだからすぐに119番してくれたらしいんだけど。…でもね、意識が全然
戻らなくて。それで……、今日の明け方、そう4時くらいに…、おじいちゃんね………
***
診断書を提出してすぐ帰るはずだったのだ、ほんの1時間前までは。
「…それで、お通夜とお葬式はいつの予定?」
それがどうして今、私は課長に祖父の急逝を報告しているのだ。百歩譲って、これ
が祖母についてならまだ分かる。でも、なぜ祖父が?腰を痛めているとは言っても、
ひとりで隣町の大社へ初詣に出かけるくらい元気だった祖父がどうして?
悪い冗談はやめてよ、何度電話越しに妹にそう言おうとしたか分からない。でもそ
の声から伝わってくる真剣味が、私の喉を押さえつけていた。
「通夜は9日で、葬儀は10日です。明日の午前にはここを発って、地元に戻りま
す」
案外普通に喋れるものだな、私って冷たい人間なのかな。
「…辛いと思うけど、どうか気を落とさないで、気をつけてな」
課長の声が長い長い糸電話から伝わってくるように聞こえた。周りの空気と私の間
に見えない膜が張られているような気がする。『現実味がない』というのはこういう
ことを言うのか。私はきっと、祖父の死から目を背けようとしているのだ。もうひと
りの自分が、今の状況を客観的に、奇妙なくらいの冷静さで分析している。
「いろいろとご面倒をおかけして申し訳ないです」
機械的な声を出すことは崩れそうになる自分を保つのに有効だった。しかしその効
果は一時的なものだった。宿舎に戻ったらすぐに荷造りをしないと。そういえば、私
はまだ自分用の喪服を持っていなかったな。やらなければならないことに頭を集中さ
せることで、私は溢れだしそうになる哀しみに必死で蓋をしていた。
***
20□△/01/11 18:41 To 副島 照幸 Sub 無題 仕事お疲れ様m( _ _ )m 通夜も葬儀も無事に終わったよ。これでもかってくらい、涙が止まらなかった。で
も、火葬まで終えるとね、何かもう、ふっきれちゃった。ああ、おじいちゃんはもう
いないんだなって素直に思えた。心配してくれてありがとね。15日の夕方に名古屋に
戻る予定。それまではおばあちゃん家に泊まる。日中は親戚とか知り合いが来てくれ
るけど、夜はおばあちゃんひとりになっちゃうから。それに、実家にいるよりおばあ
ちゃんといた方が心が安まるんだよね。前に話したけどさ、実家にストレスの種があ
るもんで。 風邪とかひかないように気をつけて(´・ω・`=) じゃ、またね(^ ^)/ ―END― ***
新幹線の車内はすいていた。悠々と二人分の席を独占し、窓の外に目をやる。その
瞬間、車両はトンネル内に吸い込まれた。真っ黒になった窓に、私の姿が映る。この1
週間における様々な情景が浮かんでは消え、その時々の感覚や感情が甦る。
祖父の不自然なほどに白い肌の色や、それに触れたときのぞっとするような冷た
さ。多くの参列者と、そのひとりひとりの目に浮かんでいた涙。火葬炉が閉じられた
時の腹に響くような重い音。拾った骨の拍子抜けするくらいの軽さ。ついさっきまで
大きな棺に納められていたはずの身体が、こんなに小さな壺に入り切ってしまうだな
んてという虚しさと驚き。施主として忙しくその役割を全うしていた父。そしてなに
よりも、なによりも私の頭に刻み込まれたのは……
『次の停車駅は、名古屋、名古屋…』
考えごとに耽っていると、時間というものはすぐに過ぎてしまうらしい。私はボス
トンバックを肩に提げ、紙袋の持ち手を掴んで立ち上がった。今日は照くんが仕事帰
りに私のところへ寄ってくれるらしい。ありがたいことだ。それまでに荷物の整理を
終えなければ。コートのポケットに乗車券が入っているのを確認して、私は足を踏み
出した。
***
20□△/01/17 21:49 To 副島 照幸 Sub 無題 いきなりのことで申し訳ないんだけど、私明日実家に戻るわ。今週末お見舞いに来て
くれるの楽しみにしてたんだけど、本当にごめんね(>_<) ―END― ***
その電話がかかってきたのはちょうど洗濯物を干し終わったときだった。ベランダ
から戻ってくるとテーブルの上で携帯電話が震えていた。
「もしもし、小夜か?」
普段より角ばった父の声がした。その声の背後に、なぜか不吉なものを感じた。
「先ほど小夜の上司の立山さんから電話を頂いた。結論から言う。小夜、明日こちら
に戻ってきなさい。いいか?」
頭の中が一瞬にして疑問符でいっぱいになった。つい先日、私は地元から名古屋に
戻ってきたばかりではないか。とんぼ返りする必要がどこにある?それに1週間後には
診察の予約が入っている。仮に帰省したとしてもすぐにまたこちらに来なければなら
ない。それでも私が実家へ行かなければならないほどの切迫した理由など、思い当た
る節はまったくない。
「あの、1週間後に病院に行かなくちゃならないんだけど…」
「なら、その病院に行く日の前日までこちらで過ごせばいい。いずれにせよ明日こっ
ちに来るんだ」
角ばった、というより隙を全く感じさせない堅牢な声だった。NOとは言わせない
ぞ、という内なる声までもが聞こえてくるようだった。
「悪いんだけど、お父さんがその結論を出すに至った経緯を教えてもらっても構わな
いかな?」
さすがにすぐその命令を呑むわけにはいかなかった。何しろ、あまりにも不可解な
点が多すぎる。探りを入れなければならない。しかしそれにあたっては言葉を慎重に
選ぶ必要がある。父の堅い口調が私の本能的な部分にそう訴えかけている。
「君の療養期間は当初より1カ月延びた。立山さんは君が名古屋の宿舎でひとりで療養
を続けることに心配を隠せないと仰っている。急に体調が悪くなったりしたとき、
ひとりでいては危険だからだ。ちなみにこれは立山さん個人の意見ではなく、君の
職場の総意だそうだ。そして立山さんは俺に、君を他の人が傍にいてくれる環境、
つまり実家で療養するようできる限り勧めてくれと言った。経緯は以上だ。何か質
問はあるか?」
なるほど、経緯については理解できた。しかし、まだ釈然としない。父の声が近寄
り難さを増している。あまり間を持たせてはいけないと、私の頭の中で警鐘が鳴る。
「つまりお父さんはその課長の言葉に賛同して、私に実家に戻ってくることを命じて
いる。そういうこと、だね?」
「その通りだ」
即答だった。だから早く首を縦に振れと言わんばかりの険しい口調である。
「とにかく、明日家に帰ってくるんだ。分かったな?」
私が次の言葉を探している数秒間さえも、父には耐えられなかったらしい。責め立
てるように父の声がぐいぐいと私の胸を圧迫する。その力に押し出されるように、私
の口から言葉が漏れ出た。
「…はい。分かりました」
よし、と言って父は電話を切った。その途端、身体が空気の抜けたゴム風船のよう
になっていくのを感じた。どれくらいの時間が経ったか分からない。ただふと我に
返ったとき、私は愕然とした。自分がなぜ本意と正反対の返事をしてしまったのか、
皆目見当がつかなかった。
しかし同時に、諦念が私の心を覆い始めているのも事実だった。瞬く間にそれは驚
愕を呑み込み、私の目を虚ろにさせた。自身の不可解な言動についての思考が凍結し
た。私はただのろのろと携帯電話に手を伸ばすと、照くんへメールを打ち始めた。
***
電話越しに聞こえてくる声は、明らかに不機嫌だった。口を動かすのも億劫だと言
わんばかりの不快感がひしひしと伝わってくる。
「…っていうかさあ、いつも俺がお前のとこに行ってやってるんだから、今日くらい
お前からこっちに来てくれない?正直、俺、わざわざ出掛けんのすげえ面倒臭いん
だよ」
ここから彼の家までは、バスや電車を乗り継いで2時間はかかるはずだった。病院ま
での一キロ弱を歩くのが精一杯の私が、その道程に耐えられるはずがなかった。
ぐっと喉が詰まる。私が来られないことなど重々承知の上で、彼は私を試している
のだ。私の覚悟をじっと見つめる、冷酷な視線を感じる。
「…やっぱ無理?ならいいわ、別に会いたいわけじゃないし」
吐き捨てるような物言いだった。ふっと、鼻で笑う音が聞こえた。焦燥感が一気に
私を駆り立てた。彼の背中がどんどん小さくなっていく。私は慌ててその腕を掴もう
とする。
「私行くから!名古屋駅まで行って、近鉄線に乗り換えればいいんだよね?最寄り駅
は河原町だよね?その後は、えっと、バス?駅に着いたら電話するから、どこ行き
に乗ったらいいかとか、教えてもらえる?」
私の返答が予想外だったのだろう、息を呑む音がした。
「…じゃあ、河原町駅まで来てくれたら車で迎えに行く」
「いいよいいよ、私自分で行く!そこまでしてもらわなくて平気だから!」
どんどん早口に、そしてどんどん泣き声になっていくのが分かった。何とか止まら
せた彼の足を、自分の方へ向かせようと必死だった。
しばし沈黙が続いた。私はその間何度も唾を飲み込んだ。
「…分かったよ。いいよ。俺が行くよ」
「え?どういうこと?私が行くって言ってるじゃん」
「もういいから。俺がお前ん家まで行くから。お前は待ってるだけでいい」
反駁は逆効果のように思われた。ここは彼の言う通りにした方が良いのだろう。
「…分かった。待ってる。いつもいつもわざわざ来てくれて本当にありがとう」
私がそう言い終わるか終わらないかのところで、電話は切れた。苦虫を噛み潰した
ような彼の顔が浮かんでくるようだった。
◇
インターホンを押すと、ややあって小夜が扉を開けた。門限を破ってしまった子供
が恐る恐る親の顔を窺い見るような表情をしていた。
「わざわざありがとう。…あがって」
平静を装うとしているのがありありと分かった。声が細かく震えていることに多分
本人は気付いていないのだろう。一度こちらに向けられた視線がすぐ足元に落ちる。
毛布と掛け布団が中途半端にめくりあげられていた。力なくそこに横たわる彼女の
姿が目に浮かんだ。
「さっきまで横になってたのか?」
「…うん。だるかったから、電話の後、ずっと」
俺はクッションの上に腰をおろした。相変わらず殺風景な部屋だ。家具といえば
テーブルとスチールラックくらいしかない。ふたりで説明書とにらめっこしながらそ
れを組み立てたときのことを思い出す。
「緑茶とコーヒー、どっちがいい?」
わざと明るそうな声を出していることくらい、ばればれだよ。
「じゃあ、緑茶で」
彼女は薬缶に目を落としたまま微動だにしない。俺は人差指でちょんと突けば簡単
に崩れそうな積み木を連想した。
◇
「…まず、君が言うべきことは?」
お茶を一口啜ると、照くんは静かに口を開いた。いきなりこちらを責め立てはしな
いあたりが大人だなと、どうでもいいことを思った。
「ごめんなさい」
彼はゆっくり目を閉じた。私の言葉が今、彼の中で審議されている。言いようのな
い緊張感が私の背筋を走っていく。目の前で自分の答案が採点されているような気分
だった。
「なんで俺が怒ったか、分かるか?」
どうやら一問目はクリアしたらしい。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、返答を
組み立てようと慌てて言葉の引き出しを引っかき回す。
「照くんが週末お見舞いに来てくれることが分かっていたのに、そして実家に帰るこ
とが却って病状を悪化させることが分かっていたのに、私が実家に戻ろうとしたか
ら」
急な帰省を伝える旨のメールをしたあと、その理由を聞いた彼は激怒した。
――お前は本気で自分の病気を治そうとする気があるのか?なぜそんな理不尽な命
令に従うんだ。しかもそう言ってきたのはあの浮気をして謝りもしない最低の父親だ
ろ?小夜は、俺よりもそんな父親の言うことに従うのか……?
彼の言うことはいちいちもっともだった。私は泣きながらごめんごめんと繰り返
し、夜中に母の携帯電話へ実家には戻らないとのメールを送った。実家にいた方が
却ってストレスが溜まってしまうから、と母の耳には痛いであろう理由もきちんと添
えた。
「それで、父親の件はどうなったんだ」
彼は私に、父親にストレスの原因を詳しく話すべきだと言った。そうしてけじめを
つけなければ、根本的な解決にはならないからだとのことだった。正論だと思った。
私は父に、決死の思いで電話をかけた。わざと敬語を遣い、自身の心が波打つのを少
しでも抑えようとしていた自分を思い出す。
「私は父に、『浮気をしたことについてお母さんに謝ってもらわないと、私の気が安
まらない』と言った。でも…」
父の諭すような口調が耳に甦る。
――「母さんには済まないと思っている。でも、実際に謝れるかどうかと言われた
ら、なんとも答えようがないな。誰にだって、思い出したくない過去のひとつやふ
たつ、あるだろう?残念ながら僕は聖人君子ではないからね。この件が小夜の心の
しこりになっているのであれば…」
「『…忘れてほしい』。父はそう言った。卑怯な言い草だとはじめは思った。でも、
父がどうしても態度を変えないのであれば、忘れてしまうということも、私のスト
レスを無くすひとつの方法かもしれないと思った。正直私、疲れちゃったんだよ。
これ以上がんばれないよ。ずるいと思うかもしれないけど、私は忘れるというやり
方で、この件については解決させたいと思っている」
一息で言い切った。掌に汗が滲んでいた。緑茶を口に含む。その渋みが私の葛藤を
思い起こさせた。父にうまく言いくるめられたような気がまったくしないわけではな
かった。正攻法でないことは承知の上だ。ただ、自分の病気を治すことを第一に考え
ると、それが最善の方法であるというのが私の出した結論だった。
恐る恐る彼の顔を窺い見た。彼はいつの間にか片膝を立て、右肘をその上にのせて
いた。頬はぴくぴく痙攣し始めていた。そして腹の底から絞り出すようにして、言っ
た。
「はあ?何それ?」
その声に嘲笑が潜んでいるのは明らかだった。彼の目は私を軽蔑していた。しまっ
た。三問目で私は、大きなミスを犯してしまったらしい。しかしそのミスが何なの
か、私自身にはまったく分からないのだった。
◇
小夜は勘違いしている。自分自身がすべきことを完全に履き違えている。頭が良い
くせに、どうしてこんな簡単なことに気が付かないのだ。募った苛立ちが俺の表情を
歪ませていく。
「つまり小夜は、父親のしたことをなあなあで済ませるわけ?全然意味ないじゃん、
それ」
小夜の眉がハの字を描いた。何か言い返そうと口元を震わせていたが、結局吐き出
されたのは呻き声だけだった。
彼女自身は最善を尽くしたつもりでいるのだろう。しかしそもそも方向性を誤って
いるのだから、どんな結論に達したところでそれが小夜を救うはずがないのだ。
気が付くと、彼女の目には大粒の涙が溜まっていた。彼女はきっと迷子になってい
るのだろう。自分がどうすべきか見当がつかず、途方に暮れている。そして無力感と
絶望が彼女を食い潰しつつある。
「泣けば済むと思ってんのかよ。甘いんだよ」
無慈悲な言葉が口を衝いた。本当はこんなことを言いたくはない。しかしそうでも
しなければ彼女の目を覚ますことはできないと思った。心を鬼にしなければならな
い。今は荒療治をする必要がある。
「…っていうかさあ、小夜、俺のこと大事に思ってくれてないでしょ。だってあのと
き俺が止めなかったらお前、実家に帰ってただろ?それに俺、冬休み中さんざん電
話でもメールでも言ったよな、絶対無理はするなって。でも小夜はそれを守ってく
れなかった。俺は小夜にとってその程度の存在なの?」
とうとう瞳では抱えきれなくなったのか、涙がつうと彼女の頬を伝った。俺はでき
るだけ彼女から目をそらした。そうでもしなければ俺自身が泣いてしまいそうだっ
た。
「はっきり言わせてもらうけど、俺は今、小夜に対する信頼感がどんどん薄れてきて
る。そりゃあ、いくら好きでもさ、これだけ裏切りを続けられたら心は離れてい
くって」
「ご、ごめんなさい。本当に…ごめん……」
残念ながら俺が求めているのは謝罪の言葉じゃないんだよ。早く気が付いてくれ。
「小夜が父親の浮気についてそういう考え方をしてるってことはさ、じゃあ、俺が浮
気してもお前はなあなあで済ませてくれるわけ?反対に、お前自身だって簡単に浮
気するんじゃない?だってなあなあで済ませてもらえると思ってるんでしょ?そも
そも俺のこと大事に思ってないみたいだし。そんな人間と付き合っていくのはリス
クが大きすぎるんだよ」
詭弁と分かっていながらそれを口にするのは辛い。しかしもっと辛いのはそれを聞
かされている小夜の方だろう。全身がぶるぶると震えている。一瞬、その震動が空気
を伝って俺にまで届いたような錯覚を覚えた。
「なあ、小夜はどう思う?」
彼女は分かってくれただろうか。俺はぎゅっと目を閉じて、彼女の言葉を待つ。
「…私が照くんのことを好きなのは変わらない。でも、照くんの心が私から離れてし
まっているのであれば、それを無理に引きとめようとは思わない。照くんが幸せに
なってくれることが一番だから。私という存在が照くんにとって厄介なものになっ
てしまっているのなら、私は、その……身を引く」
駄目だ。そうじゃないんだよ、俺がしてほしいことは。思ったより小夜は勘が鈍
い。仕方がない。もう直球を放るしか手はないようだ。
「…なあ小夜、お前勘違いしてないか?冷たいことを言うようだけど、小夜の両親の
仲がどうなろうと俺には関係ない。だって俺にとっては所詮他人事だからな。で
も、小夜は他人じゃない。俺が聞きたいのは、お前自身が、父親から謝ってもらっ
たかどうかってことなんだよ」
◇
物心がついて間もない頃の話だ。動物園か遊園地か、とにかく物凄い人混みの中
で、私は父の姿を見失うまいと必死でその背中を追っていた。と、不意にその背中が
振り向いた。愕然とした。私が父だと思い込んでいた人物は、まったくの他人だった
のだ。
私を襲ったのは、そのときと同じ感覚だった。驚きと虚無感と自責の念がいっぺん
に降りかかってくる。
私はずっと思い違いをしていたのだ。父が母に謝ることが、根本的な解決の唯一の
方法だと思っていた。でも違う。私の心の荷を降ろすには、私が父を赦すには、私
が、父に謝ってもらわなければならないのだ。
流れ続けていた涙がぴたりと止まった。目の前の景色が一瞬にして色を変えたよう
だった。
「…あ、ごめん、私間違ってた。父には『お母さんに謝って』としか言ってない。
私、馬鹿だ…」
慌てて視線を部屋中に走らせた。携帯電話はテーブルの下にあった。
「今、父に電話する。私に謝ってもらう。そしてこれから先二度と同じ過ちを繰り返
さないように、誓ってもらう」
「…ああ、そうしろ」
遅れはしたが、自分のすべきことが分かったのは僥倖だった。私は携帯電話を握り
しめながら廊下へ出た。扉の向こうで、彼はやれやれと溜め息をついているに違いな
かった。
◇
小夜が戻ってきた。その口はぎゅっと閉じられていたが、目には安堵の光が灯って
いるように見えた。
「父は謝ってくれたよ。そして誓ってくれた」
彼女はぺたりと座りこみ、湯呑に残っていた緑茶を一気に飲み干した。さすがにこ
の場面で、小夜が嘘をつくような人間でないことくらいは分かっている。俺もつられ
て、思わず湯呑に手を伸ばす。強い渋みが口の中いっぱいに広がった。
「…そうか」
その渋さにやられたわけではなかろうが、なぜか頭が真っ白になった。その一言を
捻り出すと、あとは何を言っていいか分からなくなった。
「でも、これだけじゃ不充分だよね。照くんの心を取り戻すには。信頼は、築きあげ
るのは大変だけれど壊すのは簡単だって、よく言うものね…」
小夜の言い方に悲愴な覚悟が透けて見えた。安堵の光はいつの間にか消え、代わり
に諦めの色が浮かんでいる。小夜はそんな瞳で、空恐ろしさを感じるほど力強く、俺
をただじっと見つめていた。なぜか身震いがして、気付いたときには身体が勝手に動
いていた。
突然の行動に驚いたのだろう、小夜はしばらく俺の膝の上でろう人形のように固
まっていた。こうしていると、初めて彼女を抱き締めたときのことを思い出す。あの
ときも俺は後ろから手を回していた。そのとき感じたあまりのか細さに、思わず抱き
締める腕に力を入れた自分が脳裏に甦る。
長年愛用していくうちに、椅子や机は自分の身体に馴染んでいく。使いこむことで
生まれる安心感、それは多少のブランクになど負けない力強さを持っている。使い主
をいつでも優しく迎え入れる、懐の深さを持っている。やがて彼女の身体がほどけて
きた。腕や胸に柔らかな重みを感じる。慣れ親しんだその感覚は、まさにそのような
安心感を俺に与えてくれていた。
小夜が肩を震わせている。心なしか彼女の体温が高くなったように感じる。やや
あって嗚咽が漏れるのが聞こえた。泣いているのだ。俺はさらに腕に力を込める。そ
の涙は悲しみから生まれ出たものではないだろう。しかし小夜の発した言葉が、その
涙が嬉し涙でもないことを俺に教えた。それは、安らぎ始めていた俺の心に大きなひ
びを入れるのに充分な破壊力を持っていた。
「…照くん、ごめん!私さっき嘘ついた。照くんが来るまで寝てたって言うのは嘘。
ほんとはね、ほんとはね、私……、遺書を書いてた。私、私、今日、この後、照く
んが帰ったら…………死ぬつもりだった!!」
◇
自分に忠実だと思い続けていた愛犬が、そのリードを外された途端、あれよあれよ
という間に私から遠ざかっていく。私はただ、その様子を指をくわえて見ていること
しかできない。まさにそんな状況だった。声帯が私の制御下から抜け出し、勝手気ま
まに振る舞っている。
「私これまで、たくさんの人にいっぱい迷惑をかけた。照くんにも嫌な思いをいっぱ
いさせてしまった。年初めから復帰できると思ってた。でもできなかった。私って
弱いなと思った。それに、もう疲れちゃったんだよ。体力的にもそうだし、いろい
ろなことに気を揉むのがね。それにね、それに…」
頬がひくひくと動いた。一度溢れだした言葉たちはとどまるところを知らなかっ
た。いくら私が胸の中につなぎ止めようとしても、勝手に外へと飛び出していくの
だった。私はただそのさまを呆然と眺めているしかなかった。
「お祖父ちゃんの葬儀のときに思ったんだよ。確かにね、お通夜とかお葬式のときは
皆すっごい泣いてた。でもね、それもほんの三日か四日過ぎるとね、誰も泣かなく
なるの。人の死って、それがとても身近な人のものであったとしても、割と簡単に
受け容れられるものなんだなあって思った。悲しみは長続きしないって身をもって
感じたの。だから、だから、私が死んでしまっても、そりゃあ最初のうちは悲しん
でくれる人もいるだろうけど、そのうちすぐ気にならなくなってしまうんだろうな
あって思ったの。それなら、私ひとりくらい、死んでしまっても構わないんじゃな
いかって…そう思った」
私が祖父の死を通じて最も強く感じたのはそれだった。日が経つごとに、人々の涙
は笑顔に変わっていった。思えば私はその頃から、漠然と自殺願望を抱いていたのか
もしれない。
「私さっき、怖いくらいじいっと照くんのこと凝視してたでしょ。あれはね、自分が
死ぬ直前に、自分の大好きな人の姿を目に焼き付けておこうと思ったからなんだ
よ。私が死ぬ前に最後に会えた人が照くんで良かったなあって、そんなこと考えて
いたんだよ」
ここまで喋ってしまったら、もう後戻りはできなかった。彼の体温が、私が胸の奥
に凍りつかせていた言葉たちを融かしてしまった。彼も罪なことをするものだ。おか
げで私は死に損なってしまったではないか。
「…悪いけど、俺は小夜の考えには賛成できない。お祖父さんが亡くなっても、数日
も経てば皆悲しまなくなったのは、お祖父さんが天寿を全うしたからじゃないか
な。まだまだ若い小夜が、しかも自らの意思で亡くなってしまったら、その悲しみ
はずっとずっと続くよ」
本当にそうかな。口でなら何とでも言える。でも、人は忘れる生き物だよ。照くん
が言っているのはただのきれいごとなんじゃないのかな。
「じゃあ、照くんは私が自殺したら、どう思うの?ちなみに照くん宛ての遺書には
ね、あなたが責任を感じる必要はまったくない、あなたには感謝の気持ちしかな
いって書いてあるんだよ」
彼の掌が私の髪をそっと撫でた。すやすや眠る赤ちゃんの頬に触れるような、慎重
な手つきだった。
「俺はね、たとえ遺書に何と書いてあったとしても、『なんであのとき小夜を支えて
あげることができなかったんだろう』って、後悔するよ。一生、死ぬまで、後悔し
続けるよ」
ホットミルクのような温もりと、ウォッカのような力強さを同時に感じた。その言
葉を反芻しては噛み締める。真実の味がした。胸が揺さぶられるのが分かった。私は
この声を、一生涯忘れないだろうと確信した。
「…私、今胸の奥にしまっていたことを全部言った!だから、だから今度は今あなた
が思っていることを全部言って…!!」
私は首を曲げて彼の顔を見上げた。そのとき初めて、彼が目と鼻を真っ赤にして、
顔中をべとべとに濡らしていることに気が付いた。
◇
同じ行動でも、それが無知ゆえのものであるなら過ちとして許すことができる。し
かし、事情を承知の上でなされたものであるならそれは嫌がらせ以外の何物でもな
い。彼女の底意地の悪さは筋金入りだ。後でたっぷりお仕置きをする必要があるだろ
う。俺が涙もろいことを知っているくせに、なんだってこんな真似をするんだ。
俺は小夜を正面から抱き締めた。細い身体が柳の枝のようにしなった。
「俺は、俺は、こんなにも趣味が合って、価値観が合って、馬鹿な話も真面目な話も
できて、確かに化粧は下手っぴだけど、これほどずっと一緒にいたいと思えるよう
な女性とは、もう二度と出会えないと思ってる。もし君が亡くなってしまったら、
俺が仮に他の女性と付き合って、そして結婚することになったとしても、一生、君
のことを後悔し続ける。俺は、俺は、君とずっと…そう、死ぬまでずっと一緒にい
たい。だから、お願いだ。決して死にたいだなんて思わないでくれ。俺のために…
、俺のために、生きてくれ……!!」
言葉にしたことでよりその強さを増し明確になった思いは、俺の胸を大きく波立た
せた。そしてその揺れは全身へと広がっていく。手足の指先まで波が伝わる頃には、
俺はもう、ただただ小夜を抱き締めることしかできずにいた。
◇
彼が見舞いの際に、手土産にドーナツを持ってきたことがあった。『適当に選んで
きたんだけど』と言いながら彼は袋を開けた。つい先日、私は何とはなしにそのドー
ナツ店の折り込み広告を眺めていた。買いに行く気はなかったが、もし買うならこの
三つだな、などとくだらないことを考えていた。そして、袋の中に並んでいるドーナ
ツはそれとまったく同じ組み合わせだった。偶然の一致にしてはできすぎていた。驚
きと喜びと空恐ろしさが、ないまぜになって湧き上がってくるのを感じた。
そのときと寸分違わぬ感情が、今の私にも芽生えていた。
「……私も、私もだよ。私も、こんなに趣味も価値観も合って、馬鹿な話も真面目な
話もできて、これほどまでにずっと一緒にいたいと思える、大好きな、大好きな人
とは、もう一生巡り会えないと思ってる。だから、私も、あなたと死ぬまで一緒に
いたい。…もう、死のうだなんて思わないよ。『俺のために生きてくれ』なんて素
敵すぎること言われたら、そんなこと、思えるわけがないよ。…ありがとう、思い
を口にしてくれて。ありがとう、私に生きようって思わせてくれて」
私の涙はとうに止んでいた。桜の花がひとつ、またひとつと開いていくように、胸
がぽかぽかと温かくなっていく。ただ彼だけが幼い子供のようにぐずぐずと泣き続け
ていた。そして幾度も幾度も「死なないでくれ、生きてくれ…」と繰り返すのだっ
た。私はそのたびに彼の背中をさすった。彼の震えを私の掌で吸い取りたいと思っ
た。
「大丈夫、もうそんなことは考えないって何度も言ってるでしょ?」
鬼の面か何かに怯える幼子をあやしているような気分だった。つい一時間ほど前ま
で死のうと思っていた私が今、なぜか人を慰めている。そう考えると滑稽だった。思
わず頬が緩んだ。固まっていた涙がパリパリと音を立てた。
やがて彼の涙も涸れたらしい。目は真っ赤なままだが、優しく私を見つめているの
が分かる。口元がふっと綻んだかと思うと、彼の口から笑みを纏った言葉が転がり出
た。
「ふふ…、ひどいかお」
そんなのお互いさまじゃない、何言ってるの。しかしその台詞は喉の奥に吸い込ま
れていった。声に出そうとしたその瞬間、彼の唇が私の口に蓋をしたからである。
それは今までにされたどんなくちづけよりもやさしく、そして甘かった。
◇
洗面所を借りて顔を洗った。涙や鼻水はきれいに落とすことができたが、目が赤い
のだけはどうしようもなかった。家に着く頃までには、元通りになっているだろう
か。
部屋に戻ると、小夜が背を向けてしゃがみこんでいた。微かにびりびりという音が
聞こえたような気がした。小夜は俺の姿をみとめると、つまみ食いを見られてしまっ
た子供のような顔をした。件の遺書を破り捨てていたであろうことは容易に想像がつ
いた。
「もうこんな時間だ。小夜、腹減ってないか?」
ここは気付かないふりをするのが礼儀というものだろう。
「…ん。泣き疲れておなかすいた」
「なんか食いに行くか」
充血した目をごまかすための時間稼ぎもしたいしな、とはさすがに言えなかった。
「ちょっと待ってて。すぐ着替えるから」
「俺は今猛烈に腹が減っている。そして俺は極端に気が短い男だ」
自転車のタイヤがパンクしたとする。自転車の重みに耐えきれずひしゃげたそれ
は、疲れ果て死んでしまったかのように見える。しかし穴を塞いで新たに空気を入れ
直せば、何事もなかったかのように平然な顔をして動き出す。
パンクした彼女の心は、どうやら無事修理されたようだ。
「ちょ!3分!3分だけ時間をください副島どの!!」
俺の冗談におどけながら乗ってきてくれる小夜は、いつもの小夜だった。
「3分経っても支度できなかったらお前の奢りな。ごちそうさまです!」
「ひどい!私は器の小さい男は嫌いだからね!」
その声にいたずらっ子のような笑みが滲んでいる。俺は幸福感という飴玉を口の中
で転がしながら、ダウンジャケットに手を伸ばした。
◆◆第三章◆◆
もしもし、はい、そうです。この度は娘が大変ご迷惑をおかけしまして…いやもう
本当に…。あ、はい、それで面会の件なんですけれど、娘を通じてお伝えしてあると
は思うんですが、やはり私ひとりだけということで…。はい、主人はどうしても仕事
が忙しいものですから時間をとるのが難しくて、申し訳ないとは思っているんですけ
ど。…え?いやそんな、お時間をとらせるわけにはいきません。……はあ、そうです
か。では一度主人にその旨伝えますので、その後こちらからお電話させて頂きます。
はい、できる限りその日だけでも仕事を早く切り上げさせるように致しますので、い
や、とんでもないです。わざわざご足労願ってしまってこの度は本当に…はい、は
い、では失礼いたします。ご連絡ありがとうございました。
◇
20□△/01/25 18:46 To 副島 照幸 Sub 無題 仕事お疲れ―(´・ω­`*) なんか課長がね、わざわざ私の実家まで赴いて病気休暇の制度の説明とかなんとか、
両親に説明しに行くらしいの。そんなこと電話で済ませればいいと思うんだけど、
「やっぱり重大な話だから直接会ってお話させてもらう必要がある」って言われて。
私もそこまで言われたら断りづらくて。 しかしそこまで気を遣ってもらっちゃうと却って心苦しいんだけど
なあ… 愚痴っちゃってごめんね(>_<) ―END― 20□△/01/25 19:08 To 千田 小夜 Sub Re: 俺も上司が一部下の為にそこまでする必要はないと思うけどなあ。上の人の考えるこ
とはよく分かんねえや(´­Α­` ;) まあ、決まったことはしょうがないし、課長に任せるしかないだろ。小夜がそんなに
気を揉む必要はないと思うぜ(`・ω­´)b☆ ―END― 20□△/01/25 19:23 To 副島 照幸 Sub Re2: そうだね、私は療養に専念するわ(=`・ v ・´=) ひたすら楽しいことだけ考えるようにする!色々気にしてたら病気がひどくなっ
ちゃうもんね。 ありがと(*^ ^*) ―END― ◇
忌まわしい記憶ほど粘着力は強い。しかしそれは胸苦しさという分厚い皮を纏って
いるので、詳細を思い出すにはかなりの労力を必要とする。しかし私は今、必死にそ
の皮を剥がなければならない。そして昨晩の出来事をこと細かに説明しなければなら
ない。
宿舎から病院までの道すがらも、待合室でベンチに腰かけている間も、頭の中はそ
のことでいっぱいだった。歯を食いしばりながら記憶を掘り起こす。当時の状況を的
確に示す言葉を探り出す。そして作り上げたひとつひとつのピースを落ち着いて組み
立てる。よし。急ごしらえではあるものの、何とか形にはなった。
「千田さん、どうぞ」
私は深呼吸をして立ち上がった。学芸会の日、舞台袖で出番を待っていた小学生の
頃の気分を思い出した。
◇
彼女は診察室の椅子に腰掛けました。その所作にいつもと変わったところは見られ
ません。しかし何故でしょう。彼女の纏う雰囲気が妙に堅苦しく感じられます。
「この一週間の様子はいかがでしたか」
彼女が顔をあげました。いつも俯いたまま話し出す彼女にしては珍しいことです。
先ほどの違和感のわけが分かりました。目が違います。一見虚ろに見えるその瞳の奥
に、こちらが一瞬息を呑むほどの覚悟が垣間見えます。思わず肩に力が入りました。
「また、長いお話になってしまうと思います。それに、きっと途中で支離滅裂になっ
てしまうと思います。すみませんが、それを承知の上で聞いて頂けますか」
「構いません。どうぞ話して下さい」
彼女がごくりと唾を飲み込むのが、喉の動きで分かりました。
◇
昨晩8時頃、私の携帯に電話が掛かってきました。サブ画面を見ると母からのよう
でした。風呂から上がったばかりだった私は、タオルで髪を拭きながら携帯を開きま
した。その途端、私の耳に「小夜!」と父の怒号が飛び込んできました。首根っこを
思い切り掴まれるような声でした。思わず髪を拭く手が止まりました。しかし私は、
父が急にこれほどの怒りを持つに至った理由がさっぱり分かりませんでした。つい3
日ほど前、父とは他愛もない話を交わしたばかりだったからです。
「どうして俺がこれほど怒っているか分かるか!」と父は続けました。しかし皆目
見当がつかないのですから答えようがありません。しばらく押し黙っていると「通話
料が無料だからってなあ、甘えてんじゃねえぞ。ちゃんと考えてんのか!」と凄味を
増した声が私を襲ってきました。これは何か答えなければ更に父の機嫌は悪くなる一
方だと察しました。
私は必死で考えました。ひとつだけ思い当たる節がありました。明日、私の上司が
休暇制度などの説明の為に私の実家まで赴いてくれることになっているのですが、そ
の面会は当初、上司と母だけで行われる予定でした。父は仕事が忙しく、都合をつけ
るのが大変だったからです。しかし上司が『重要な話なので、できる限りご両親とお
話をしたい』と母を説得し、明日だけ父はいつもより仕事を早く切り上げてその面会
に同席することになったのです。それが決まったのが昨日の夜でした。今朝、母から
そう連絡があったのです。
だから私は言いました。「私の上司と面会することになって、この仕事が忙しい時
期に、お父さんの時間を削ってしまうことになったからですか」と。しかしその言葉
はすぐさま「違う!」という怒鳴り声によって一蹴されました。「そんな理由しか考
えられないのか!だからお前はガキなんだよ!」。普段の父の声ではありませんでし
た。何かが取り憑いたようにしか思えませんでした。もうお手上げでした。私は仕方
なく「すみません、私の足りない頭では理由が思いつきません」と正直に言いまし
た。
へっと、人を小馬鹿にしたような笑い声がしました。「明日、末端の一職員に過ぎ
ないお前なんかの為に、わざわざ上司の方がこちらまでお見えになるんだぞ。これま
でただでさえ2ヶ月以上も休みを貰っておいて、更に人の手を煩わせる気か!上司の
方の交通費はどこから出る?彼のポケットマネーか?違うだろう、言ってみろ!」そ
の頃にはもう、私はへたりと床に座り込んでいました。顔面が痙攣しているのが分か
りました。「…税金です」。私は答えました。「そうだその通りだ!」。父の怒声は
一向に収まる気配を見せませんでした。「お前はなあ、働きもしていないくせに税金
を浪費させているんだぞ。公務員としての自覚がお前にあるのか?俺も職種は違えど
公務員のひとりだ。だからなあ、血税を無駄遣いさせてしまっているお前が許せねえ
んだよ!」。
父の言うことは一応筋が通ってはいました。しかし疑問は残ります。それならばな
ぜ、上司が母と面会すると決まった時点で父は電話を寄越さなかったのか。でもそれ
を口にすることは火に油を注ぐようなものです。わたしはただ「はい」としか言えま
せんでした。
父の話はまだまだ続きました。「そもそもお前が病気になったのは自分自身の体調
管理ができなかったのが原因じゃねえか。その時点でお前は公務員以前に、社会人と
してなってねえんだよ。こっちがちょっと甘い顔してやったら図に乗りやがって。人
はなあ、病気になるとそれを言い訳に使うんだよ。実家にいた方がストレスが溜ま
る?祖父の死のショックが追い打ちをかけた?はっ、なに戯言を言ってやがるんだ。
そうやって全部まわりのせいにして、お前は被害者面かよ。そうやって責任を自分以
外のものに押し付ける奴ってのはな、自分が空っぽなんだよ。だからまわりのせいに
するんだよ」。話せば話すほど、父の神経は昂っていくようでした。知らず知らずの
うちに、私は涙を流していました。
「お前が自殺しようとしていた?自殺なんてものはなあ、弱い奴のすることなんだ
よ!俺だって死にたいと思ったことは何度でもあるさ。でも死ねなかった。怖かった
からだ。死にたくても怖くて死ねない弱さが、本当の強さなんだよ。お前が自殺した
として、まわりにどれだけの迷惑がかかるか分かるか?もし誰にも迷惑をかけずに死
ねる方法があるって言うのなら、言ってみろ!」。私に反駁など許されませんでし
た。「…ありません。私は実に愚かなことを考えてしまいました。もう決して、その
ような気を起こしたりはしません」。父の望んでいるであろう言葉を必死で考え、慎
重に口にしました。私の意思は完全に押さえつけられていました。父の意に沿うには
どうすればいいか、それしか考えられませんでした。
「だいたいお前はまだ社会人になって2年も経ってねえ。俺はもう、30年近く社
会人としてやってきてるんだよ。キャリアが違うんだよキャリアが。生意気な口聞い
てんじゃねえぞこのガキが。お前には想像力が足りねえんだよ。こんな説教をお前に
できる奴が他にいるか?いないだろう。だから俺が代わりに言ってやってるんだ。は
はは、親ってすげえよなあ。こういうことを言える権利が俺にはあるんだよ」。詭弁
だと思いました。父の言い方は娘の目を覚まさせようとするものではありませんでし
た。父自身が感情に任せて思いつくままに暴言を吐いているようにしか聞こえません
でした。
「お前はここよりも名古屋で療養した方が良いと言った。じゃあお前は今病気を治
すために何をしている?言ってみろ。自分でこちらの提案を断っておいて、何もして
いないんじゃあ、道理が合わないよなあ?」。父は私に問いました。「医師に処方さ
れた薬をきちんと服用して、バランスのとれた食事を摂るよう心がけ、睡眠もしっか
りとるようにしています。また、体調の良い時は身体を動かしています。あとは本を
読むなどして精神を落ち着かせています」と、私はありのままに答えました。事実、
それがこの病気を治す最善の手立てであるからです。
しかし父は言いました。「なんだ受け身か」と。「そうやって自然に病気がよくな
るのを待っているだけなのか。積極的な行動は何一つ起こしていないんだな。本当に
治す気があるのか、てめえ」。そう言われても困ります。先生には釈迦に説法になっ
てしまいますが、この病気は、これこれこうすれば確実にいついつまでには完治す
る、といった類のものではないからです。ただただ規則正しい生活をし、心の整理が
つくのを待つしかないのです。父は私の病気のことを分かっていないのだなと思いま
した。でもそれを一から説明したところで今の父に理解してもらえるとは到底思えま
せんでした。
だから私は「そのようにしなさいと医師から言われているのです。私はその指示に
忠実に従っているつもりです」と言いました。医師からの指示であるという事が効い
たのでしょう、父はふんと鼻を鳴らすと、それ以上そのことについては触れてきませ
んでした。
そのうち父は話の方向性を変えてきました。無論父にその自覚は無かったでしょう
けれども。「俺は仮にお前が結婚したとしても式には顔を出さねえからな。相手の親
御さんが何と言おうとも絶対だ。それにお前だって子どもが生まれたとしても絶対俺
には抱かせねえんだろうなあ、そうに決まってるよ」。もう社会人としての私に向け
られた言葉ではありませんでした。私というひとりの人間に対して、父の言葉は牙を
剥いていました。父が冷静さを失っているのは明らかでした。
父の興奮は最高潮に達したようでした。「お前、これから実家に戻ってきて週に一
回名古屋の病院とここを行き来する生活をするか?新幹線代が往復でざっと2万かか
るとして、ははは、一カ月だけでえらい出費だなあこれは。…ふふっ、ざまあみ
ろ」。父はそう言って私を嘲笑いました。悪魔の声に聞こえました。「それに、なん
だっけ、もうすぐ病気休暇が一定期間を過ぎて、給料が減らされるんだろ?ははっ、
それこそざまあみろだよ!」。また父は笑いました。私の不幸が嬉しくて嬉しくて仕
方がないといった様子でした。歪んだ笑いでした。「ざまあみろ」。父は私にそう
言ったのです。しかも2度も。自分の耳が信じられませんでした。これは私の知って
いる父ではないと思いました。
言いたいことを言い尽くしたのか、父の口調は若干落ち着いてきました。しかし険
のある物言いであることに変わりはありませんでした。「これからお前はどうするか
言ってみろ」と命じられました。抽象的な言い方で困りましたが、父の求めている答
えを懸命に推察して言いました。「これから、私は、改めて上司に、これまで迷惑を
かけ続けてきたことにお詫びをして、そして…」。声を震わせながら必死で文章を組
み立てる私を父は一喝しました。「一文は短く!」。きっとだらだらとした言い方が
気に入らなかったのでしょう。私は言い直しました。「私は明日、上司に電話をしま
す。これまで自分が掛けてきた迷惑について改めてお詫びするためです」。何とか父
のお眼鏡にかなう返答ができたようでした。「それで?」と父は先を促しました。「
…医師の指示通りに薬を飲み、療養に専念します。そして、病が完治した暁には、公
務員としての自覚を新たにし、職務に邁進します。また、体調管理に充分気を配り、
二度とこのようなことがないようにします」。私が話し終えると父は一言「よし」と
言いました。何とか鎮火に成功したようでした。「じゃあ切るぞ。よく長い電話に付
き合ってくれた」。それでも最後まで父の口調が普段通りに戻ることはありませんで
した。
震える手で携帯を閉じました。時計を見ると、電話が掛かってきてから一時間近く
が過ぎていました。髪は乾き切っていました。私は悪夢でも見ていたような気分にな
りました。しばらくして、携帯にメールの受信表示があることに気付きました。妹か
らでした。『だいじょうぶ?』とだけありました。ちょうど私が父に怒鳴られている
真っ只中に送信されてきたものでした。父の怒号が家中に響き渡っていたに違いない
と思いました。あの声が妹の耳にまで届いていたかと思うと申し訳ない気持ちになり
ました。
それから15分ほど経ったでしょうか、また携帯が震えだしました。母からの着信
でした。私は恐る恐る携帯に手を伸ばしました。聞こえてきたのは今にも泣きそうな
母の声でした。「ごめんね、ごめんね」と母は繰り返しました。「まさかあの人があ
そこまで激昂するとは思わなかったの。気付いたら勝手に私の携帯を開いてて…。止
められなくてごめんなさいね。気にしちゃだめ。聞き流してしまいなさいあんなも
の。本当に辛い思いをさせてしまって、ごめんね」。あの悪魔のような声は母の耳を
もつんざいていたのでしょう。母は恐怖心に晒されながらも私の心配をしてくれまし
た。それだけで充分でした。私は「もう大丈夫だよ。ありがとう。おやすみなさい」
と言って電話を切りました。
精神が全力疾走をした後のように疲れきっていました。私は布団の上に倒れ込みま
した。もう涙は出てきませんでした。電話の最中に涸れてしまったのだと思います。
代わりに「ああああああぁぁ」と雄叫びのようなものが胸の奥から込み上げてきまし
た。自分でも信じられないような大きな声でした。夜中にこんな大きな音を立てては
近所迷惑になってしまうと頭では冷静に考えていました。しかし声は次から次へと私
の口から飛び出していきました。恐らく30分はそうしていたと思います。やがて身
体的にも疲れきってしまったのか、気付かないうちに眠りに落ちていました。
朝になり、昨日のことが夢であってほしいと願いながら携帯を開きました。しかし
着信履歴は私の淡い期待を無慈悲に打ち砕きました。私は今日がちょうど診察日で
あったことに感謝しました。そしてこの出来事をこうして説明する為に頭を整理しま
した。伝わりましたでしょうか。何しろ昨日の今日なので、まだ動揺しているので
す。冗長で分かりづらかったとは思いますが、どうかご容赦ください。
◇
前回の診察のときでした。彼女は、自分が自殺を決意するまでに思い詰めてしまっ
たこと、しかしそれを思いとどまることができたことについて詳しく話してくれまし
た。私はそれを聞いて彼女の病気は峠を越えたと感じました。あとは心の整理がつい
てくるのを待っていれば完治の日はそう遠くない、そう考えていました。しかしそれ
は甘い見通しだったようです。思わず眉間にしわが寄りました。
彼女はさすがに話し疲れたのでしょう。目を瞑って気を落ち着かせているようで
す。その頬にきらりと反射するものをみとめて、私は無言でボックスティッシュを彼
女の前に差し出しました。
彼女が鼻をかむ音を聞きながら、私は彼女の克服すべき一番の課題に気付きつつあ
りました。今後彼女は非常に苛酷な試練を乗り越えなければならないでしょう。それ
に伴うであろう痛みに思いを馳せると、私まで息苦しくなるようでした。
◇
勝手に涙が溢れてくるのを止めることができなかった。私は3枚目のティッシュ
ペーパーに手を伸ばした。しかし泣いてばかりはいられない。私にはまだ言わなけれ
ばならないことがある。目尻を丹念にぬぐって、再び医師の顔を見つめた。彼がどこ
か悲しげに見えたのは、私の目が霞んでいたからだろうか。
「私は、父を敬愛しています。それは以前にも申し上げた通りです。父は私を心底愛
してくれ、様々なことを教えてくれました。それに私はとても感謝しています。そ
して私は父の教養の高さや論理的な思考力に敬意を抱いています。父のような知的
な人間になりたい、そう思ってきました。だから、だから…、昨晩の父の言動が私
には信じられないのです。何が父を豹変させたのか、さっぱり分からず混乱してい
ます」
父の『ざまあみろ』の声が、私を嘲笑う声が、耳の奥で響いた。頭の芯がずきんと
痛んだ。
「もちろんこれまで父に厳しく叱られたことは幾度もありました。しかしそれは私に
非があることが明らかな場合に限られていました。だから私も父の言葉を素直に受
け容れ、自身を改善しようと努力してきました。しかし今回は、今回だけは、確か
に正論だと思う部分もありますが、正直に申し上げて納得しかねるのです。父の
言ったことのすべてが正しいとは、思えないのです」
人は自分の主張に確証がないほど声を荒げ、それを威圧感で補おうとする。私はま
だまだ若僧だけれども、この考えはそれほど的を外してはいないように思う。確かな
論理に裏打ちされた主張は、威圧感などという衣を纏わずとも確かに相手に届く。下
手な広告を打たずとも、確かな腕を持ったシェフがいる料理店には客が集まる。アク
セサリーで飾り立てなくとも、真の美しさを持った女性からは華やかさが滲み出る。
それと同じようなものだ。
昨晩の父は醜いほどに己の威圧力にすがりついていた。それはつまり、父の言い分
が論理的瑕疵を有している可能性が高いことを示している。私の知っている父は、常
に筋道を立てて自らの主張を展開していた。だからこそ私はそんな父をお手本にして
生きてきた。それがどうだ。感情に支配され、あまつさえそんな自分に酔ってさえい
たあの父は、それと対極にある姿ではないか。
私の困惑は表情にもあらわれていたらしい。医師が沈痛な面持ちでこちらを見てい
た。彼はしばらく唇を噛みながら何か考えているようだったが、やがて力強い視線を
私に寄越した。
「私は、あなたのお父様が仰ったことは、まったく正論ではないと思います」
◇
彼女は私の言葉にはっとしたような顔をしました。思った通りです。
「あなたは何も悪くありません。もう一度言います。あなたのお父様が仰ったことは
すべて間違っています」
「すべて、ですか?」
彼女の顔に疑念の色が浮かんでいます。それも無理からぬことでしょう。しかしこ
こははっきり言わねばなりません。
「はい、すべて、です」
彼女は私の返答を頭の中でためつすがめつしているようです。まばたきの度に黒目
の位置が変わっています。ややあって彼女は深く息を吐きました。どうやら咀嚼は完
了したものとみえます。
「私が今、何を思っているか、お分かりですか」
唐突な質問に彼女は一瞬目を見開きました。そして数秒間視線を宙に漂わせたかと
思うと、お伺いを立てるような口調で切り出しました。
「違っていたらすみません。ええと、先生は、私の病気の完治には私の中の罪悪感を
無くすことが必要だけれども、私の性分からしてそれはなかなか難しいことである
とお考えになっている…拙い私の頭ではこれくらいしか考えつきません」
なるほど。彼女の真面目さがよく分かる回答です。しかし私が思っているのは、そ
ういったことではないのです。そして彼女にとってそれを想像することは、非常に困
難だと思います。
私が口を開かないことに不安を覚えたのか、彼女は肩を縮こまらせてこちらを上目
遣いに見ていました。私はなにも、彼女に正解を言い当ててもらいたかったわけでは
ありません。ただ念のため、私の予想が外れていないかどうか確かめたかっただけで
す。そして私は確証を得ました。彼女の病の根を探り当てることができたのです。
私は彼女の怯えたような瞳をじっと見つめて、そして言いました。
「今私の頭の中にあるのは、あなたの父親に対する……怒りです」
◇
見落としていたものが当たり前のものであればあるほど、それを指摘されたときの
驚きは大きい。私はしばし言葉を発することができなかった。
そうだ、普通あれだけの罵詈雑言を浴びせられたら、人はその相手に怒りの念を抱
くだろう。なぜ自分にあんな理不尽な仕打ちをするのか、と。しかし私の中にそう
いった感情はひとかけらも無かった。父が豹変した理由を探ることで手一杯だった。
「私には、怒りや憎しみといった感情が欠如しているのかもしれません。もちろん腹
の立つような事態に遭遇したことは何度もあります。しかしその度に考えるので
す。ここで私が怒ったところで何か事態は進展するだろうかと。結論はいつも同じ
です。怒りは事の解決の邪魔になるだけ。だから私は普通なら怒って当然の事態に
出くわしても、そのような感情を持たないよう自らをいさめてきました。そして次
第に、意識的に感情を抑えようとしなくても、怒りや憎しみは頭をもたげなくなり
ました。…これは私の精神的な欠陥なのでしょうか」
負のエネルギーを有しないようにすることで、人間性は高まるものだと信じてき
た。しかしそれはとんだ思い違いだったようだ。人として持つべき感情の一部を失う
ことで、私の想像力はひどく幼稚なものになってしまっていたらしい。私は却って人
間味を失い、代わりに機械のような整然とした冷酷さを宿すに至ったのだろう。
「あなたはそのような感情を溜め込んでいることに気付いていないだけです。決して
感情そのものが欠如しているわけではありません」
その口調は力強いものであったが、いささか説得力に欠けていた。何を根拠に医師
はそう断言できるのだろう。しかしそれを口にするのは憚られた。時間を無駄にした
くはなかった。ただでさえ欠陥品である私が、この病を克服するにはどうしたらいい
のか。焦燥感が私の胸を駆り立てていた。
「すみません、答えにくい質問であることを承知で伺います。私の病気を治すのに、
一番必要なものは、何なのでしょうか」
医師が眉根を寄せるのが分かった。しばらく宙を睨んでいた目がこちらに向けられ
た。私の心の奥の奥まで見透かすような鋭さに、射すくめられる思いがした。
「一番必要なもの、というのとは少し違いますが、あなたの病の完治の最終到達点に
あるものならば、お教えすることができます」
彼が言葉を区切る度に、そのひとつひとつが、私の胸の中で剥がれかけていた冷静
さという模造紙に画鋲となって刺し込まれた。
「…それで構いません。教えてください」
彼の視線が一瞬足元に落ちた。続いてこめかみがぴくりと動く。試験の合否を伝え
られる直前のような、期待と不安が入り混じった緊張感が私を包み込む。やがておも
むろに開かれた口から発せられた言葉は、激しい電流となって私の身体を貫いた。
「それは、あなたが父親の呪縛から解き放たれること、です」
***
きんぴらごぼう、かぼちゃの煮つけ、そしてサバの味噌煮。いつもながら小夜の料
理の腕には感心する。病院から疲れて帰ってきただろうに、これだけのおかずをこし
らえてくれたとは。嬉しい反面、申し訳ない気持ちになる。健気さと憐れさは紙一重
だ。
今朝のメールを思い出す。『昨晩ちょっと打ちひしがれてしまったから、もし今日
余裕があれば、仕事帰りに顔を見せてくれないかな?夕飯御馳走するから』。詳細を
尋ねて驚いた。控えめな文面からは想像もつかない惨たらしい事情に、思わず携帯を
持つ手が震えた。仕事の合間も頭の中はそのことでいっぱいだった。
「わざわざ来てくれてありがとね」
診察を受けたことで少しは落ち着いたのだろうか、その声は普段と変わらないよう
に聞こえた。しかし目を見ると、疲れが滲んでいるのが分かる。知らず知らずのうち
に無理をしてしまうのは彼女の悪い癖だ。
食事はいつもと変わらずに進んだ。きんぴらごぼうを焦がしてしまったことを小夜
がしきりに恐縮し、俺はそんなこと気にならないから大丈夫だと言い、俺がコピー用
紙を20枚も無駄にしてしまったことを面白おかしく話すと、小夜はくすくす笑いなが
ら私は貴重な複写紙50枚に誤った印刷をした事があるから大丈夫と俺の背中を叩い
た。
やがて双方の食器が空になると、まるでそれが何かの合図であるかのように俺たち
は敷きっ放しの布団の上に横になった。ついさっきまで笑いあっていたのが嘘のよう
に、部屋の空気が張り詰めていた。沈黙を破ったのは小夜の籠った声だった。鶏が卵
を産み落とすように、それは不意に彼女の口から零れ出た。
「昨日の、電話ね…」
身体が勝手に動いていた。彼女の頭を優しく撫でる。小さな肩が小刻みに震えてい
るのが目に入る。もう片方の腕を背中にまわす。やるせなさを帯びた熱が俺の胸に伝
わり、自分の目頭までもが熱くなるのが分かった。
「父は、父は私に……」
途切れ途切れに吐き出される言葉のひとつひとつが、小夜の苦しみを俺に届けてく
る。運び込まれるその苦痛が増えていくのに合わせて、俺の腕に入る力もその強さを
増していく。ただ抱きしめてやることしかできない自分が悔しくてならない。
「小夜は、なんにも、わるくないよ」
そう囁くのが精一杯だった。彼女が泣き腫らした目で俺を見上げた。「ごめんね」
の声は、俺の耳には、「助けて」と聞こえた。
***
やはり実際に会って話すというのは大切だと思う。千田は恐縮気味だったが、面会
を終えた今、確かな手ごたえを感じている。これでこそ足を延ばした甲斐があるとい
うものだ。
昨日彼女から父親に罵声を浴びせられた旨の電話を受けたときは驚いたが、直接顔
を合わせればなんということもない、娘思いの立派な親御さんだった。きっと千田は
父親からの愛の鞭を言葉の暴力と勘違いしてしまっただけなのだろう。彼女が精神的
に不安定な状態にあることを考えると、そう思ってしまったのも無理はない。
しかしきっと彼女は気がつくだろう。父親の言動は娘である自分を思ってこそのも
のであったと。「娘さんの病気は外見からは分かりづらいものです。彼女の病状を把
握するには、例えば、実際にお会いになってみるというのも一つの方法だと思いま
す。そして彼女の病気を理解してあげることが、今、彼女にとって一番必要なことだ
と感じています」。僕の言葉に御両親は深く頷かれていた。
「自分のすべきことが分かりました」。お父様の最後の言葉は静かな力強さに溢れ
ていた。娘のことを真剣に考えているのが切々と伝わってきた。実に有意義な時間で
あったと思う。これが少しでも千田の為になってくれることを願う。いや、自分で言
うのもなんだが、きっとなってくれるだろう。
新幹線が真夜中の名古屋駅に入り込んでいく。かなりの距離を移動したのでもちろ
ん疲労感はあったが、満足感がそれを癒してくれていた。納得のいく結果を得ること
は、たとえそれが本業に関わりのないことであっても気分のいいものだ。プラット
ホームに降り立つと、自然と笑みがこぼれるのが分かった。
***
もしもし、小夜?うん、メールはさっき読んだよ。とりあえずは落ち着こうか。そ
うそう、深呼吸。…大丈夫かな?じゃあ、確認させてもらうよ。課長と御両親の面会
があったのは今日の夕方だよね?うん。それでさっき妹さんから電話がきた、と。
で、妹さんは小夜に、父親が今週末いきなり小夜のところに行くと言い出したって、
伝えた。ここまで間違いはない?…よし。それで小夜は、妹さんを介して父親になぜ
急にそんな気になったのかを尋ねた。でも明確な理由は教えてくれなかった。うん、
そうだね、途中で父親が妹さんの携帯を取り上げて無理矢理電話を替わったんだった
ね。で、そのときの話し方が…うん、うん、落ち着いて。先日の電話の時と変わらな
い声だったんだね。面会の結果自分の行いを反省して、だから来る気になったわけ
じゃないことは確かだね。そして…、そうか、最後は怒鳴って電話を切られたんだ
ね。また怖い思いをしてしまったね。でも安心して。俺がついてるから。ううん、と
んでもない。当然のことだよ。もちろん小夜は今あの人の顔なんか見たくもないだ
ろ?うん、うん。そうだね、病気が悪化するのは目に見えてるものね。でも父親は絶
対来ると言い張ってる、と。よし、とにかく対策を考えよう。課長を介して止めても
らうっていう方法がまずひとつ。うん?今は迷惑をかける云々言ってる場合じゃない
よ。それにあくまでこれは案のひとつに過ぎないからね。もうひとつが、小夜のお母
さんに何とか説得してもらうってところかな。お母さんは前の電話のときも小夜のこ
とをすごく心配してくれていたんだろ?なら、引き受けてくれるとは思うよ。…そ
りゃあ、結果がどうなるかは分からないけどね。ほらほら、慌てないで、落ち着い
て。それで、もしそれだけの手を尽くしても父親が小夜の元に来てしまった場合なん
だけど…。え?そんなこと言うなって。諦めるなよ。大丈夫、大丈夫だから。で、も
し来てしまったらね、その時は隠れよう。部屋を留守にして、日中はショッピング
モールでも図書館でも、とにかく身を隠しておくんだ。その場合は俺がずっと傍につ
いているから。そして、夜になったらそっと部屋に戻ればいい。…うん、そりゃ確か
にあとでどうなるか分からないっていう難点はあるけど、でも、仕方ないよ。あの人
と顔を合わせることになるよりはずっと良いはずだよ。…そう、最終手段だからね、
これは。もちろんこっちに来るのを諦めてもらうのが一番に決まってるさ。ただ、あ
らゆる事態を想定しておく必要はあると思うよ。大丈夫大丈夫、もう泣かないで。こ
れ以上小夜の泣き声を聞きたくはないな。…うん?ああ、そうか、なるほど。それは
良いね。でも予約は?ああ、予約なしでも大丈夫なんだ。ああ、診察券か。そうだ
ね、それを早く取らないといけないね。病院、いつも混んでるんだろ?大丈夫?朝、
起きられる?…そう、じゃあそういうことにしよう。何しろさ、俺は医者でもカウン
セラーでも何でもないから、これまでの提案はあくまで参考ってことね。これらを医
師にも話して相談した上で今後の行動を決める、と。うん、これが今考えられる最善
策じゃないかな。少しは落ち着いた?そう、それは良かった。…だから俺は当たり前
のことをしてるだけだから。うん、うん。分かった分かった。じゃあ、ゆっくり睡眠
をとって心を落ち着かせて、明日に備えてね。うん、また連絡待ってるから。それ
じゃあ、おやすみ。
***
もしもし、おはよう。小夜、大丈夫?うん?お父さんならもう仕事に行ったわよ。
昨日小夜の上司の方と面会したわ。とても良い方ね。本気で小夜のことを心配してく
ださっているのがよく分かったわ。え?お父さん?…そうよ、昨日の電話で分かった
でしょ、あの人は小夜のことなんか全然考えてないのよ。面会の時こそしおらしくし
ていたけどね。いきなり小夜のところに行くって言い出したのだって…、そう、あち
らの方がわざわざこっちまで来て下さったのだから、こっちもすぐに行動を起こさな
いと誠意を示せないとかなんとか…。誠意を示すって言えば聞こえはいいけど、要は
自分の体面を保ちたいだけなのよ。本当に自分のことしか考えていないんだから…、
小夜の心配なんて全然していないの。だってあの人電話口以外のところでこう言って
たもの。「俺は別に小夜の様子が見たいわけでも何でもない」って。挙句には「せい
ぜい名古屋観光でも楽しんでくるかな」…って。え?週末?もちろん私も一緒に行く
わよ。あの人と一対一で会うのなんて、小夜、とてもじゃないけど耐えられないで
しょ?もちろん行くのを諦めてくれるのが一番なんだけど…。いや、そんな、上司の
方の手を煩わせてまでそんなこと…。分かった、ここは私が頑張って説得するから。
いいの、いいの、小夜は何も気にしないで。私、あの人に怒られるのは慣れてるから
大丈夫よ。…うん?そう、もし来たとしても会わない…そうよね。もちろん会いたく
なんかないわよね。うん、うん、だから私がそこはうまく言ってあげるから。え?今
から病院?…そう、お医者様とお話しして少しでも心が楽になったらいいわね。そん
な何度も謝らないでよ。小夜は何も悪くないんだから。病院が開くのは何時?…そ
う、じゃあそろそろ出掛けるのね。気をつけていってらっしゃい。うん、電話、あり
がとうね。ちゃんとごはん食べるのよ。うん、それじゃあね。
***
20□△/01/31 21:08 To 副島 照幸 Sub 無題 お母さんが必死に説得してくれたお陰で、父親は来ないことになったよ!!代わりにお母
さんだけが来る。わざわざ高い交通費を払ってまでお母さんに来てもらうのは心苦し
いんだけど、「せめてお前だけは行け!」って父が言ってきかないんだって。 父は自分のことしか考えてなかった。私のことなんかこれっぽっちも心配してくれて
なかった。ほんと、信じられないくらい自分勝手でさ… ごめん、こんなことばかり言っても仕方ないね。あのときは電話してくれて本当にあ
りがとう。お陰で冷静になることができたし、事態も丸くおさまった。ほんと、全
部、照くんがいてくれたからこそだよ(=´・ω・`=)ノ** これまで何度、貴方に助けられてきただろうね。いつかたっぷり恩返ししなきゃ!!手料
理で良かったらいつでも提供するよ。味は保証できないけどね笑 とにかく、ありがと。報告は以上です副島殿っ(*`・ v ・´*)ゞ ―END― ***
バスから降りてきた母は、精一杯の笑顔で私に手を振ってみせた。片手に提げてい
る大きな袋は、きっとお菓子や果物でいっぱいなのだろう。思いやりは時に相手へ切
なさを与えてしまう。私は口角こそ上げていたものの、目は笑っていないに違いな
かった。
宿舎までの道すがら、母は不自然なくらい明るい声で他愛もない話を繰り返した。
私を少しでも元気づけようとしているのがありありと分かった。私は大げさに相槌を
打つ。双方が必死に猿芝居を演じているさまは、哀しいくらい滑稽だった。
私の部屋に到着するや否や、母は土産物をひとつひとつ取り出しては、立て板に水
の勢いでそれらの説明をし始めた。私はいちいち頷いては「ありがとう」を繰り返し
た。土産物たちが、そしてそれらについての説明が積み重ねられていくほどに、「こ
んなことしかできない情けない親でごめんね」という無言のメッセージが私の胸を締
めつけていく。
しかし母とて辛かったに違いない。徐々に早口に、そして大きくなる声がそれを如
実に表していた。虚しさに押し潰されそうになるのを凌ごうと喘ぐその姿は、私の涙
を誘うのに充分だった。だから私はできるだけ母の顔を見ないようにして、土産物の
整理に神経を集中させていた。
「…これ、お父さんから」
母が最後に差し出してきたのは一枚の封筒だった。無言で受け取り、中の便箋を取
り出す。見慣れた筆跡だった。これまでは尊敬の対象だった端正な文字も、今の私に
はその整然さが却って嫌味のように感じられた。
高ぶる感情を何とかなだめながら、ざっと文章に目を通す。父が真に反省してくれ
ていることを、心の片隅で期待していた自分が情けなくなった。母が泣きそうな目で
こちらを見ている。私は便箋を元に戻すと、まぶたを閉じて深いため息をついた。
「私、これまで父親のことを尊敬してた。でも、この歳になってやっと、あの人の本
性に気が付いたよ。お母さん、本当に大変だっただろうね。今までその苦労に気付
いてあげられなくて、ごめんね」
いくつか貰ったプレゼントの中に、とりわけ洒落たラッピングを施された箱があ
る。きっと素敵な物が入っているに違いない。そう思って、最後に開けようと取って
おく。そして期待に胸を膨らませながらリボンを解く。箱の中を覗いてぎょっとす
る。プレゼントの中身は、カッターの刃だったのだ。
そんな気分だった。驚愕と、落胆と、恐怖と、惨めさと、虚無感と、自責の念を
いっぺんにミキサーにかけたような感情だ。それが胸の底から湧き出ては、全身に染
み渡っていく。
最初から洒落たラッピングに胡散臭さを感じ取り、早々に包装紙を破った者は賢
い。しかし最後にそのプレゼントを開けようとする者は、それを愚かな行為と勘違い
するだろう。
私は何も分かっていなかった。ラッピングの華麗さに騙され続けていた。母は慈し
むような目で私を見た。やさしい眼差しだった。母の掌が私の心をそっと包みこむ。
母は雨樋から水滴が落ちるように、ぽつりぽつりと話しだした。
◇
まだあなたたちが生まれる前の話よ。あの人は外で何か嫌なことがある度に、理不
尽な理由をつけては私を怒鳴ったわ。それこそ、ドアの開け閉めの仕方が気に入らな
いとか、勝手にテーブルの角度を変えたのはなぜだとか言ってね。そんな理由、でっ
ち上げに決まってた。あの人は私を怒鳴る口実が欲しかっただけなんだもの。
私、最初のうちは反論したわ。でもそれは無駄骨でしかないことにやがて気付い
た。あの人、頭の回転だけは速くて、口が達者なものだから、わたしがどれだけ歯向
かっても絶対に勝てないのよ。それに私が反論することであの人はさらに機嫌を悪く
して、手を出すの。いきなり首根っこを掴まれたときの恐怖ったらなかったわ。あの
人に柔道の心得があることは知っていたから、手を出されるのだけは何とかして避け
たかった。
…そのためにはね、何の反抗も示さずに怒鳴り声を聞いているしかないのよ。あの
人はストレスを発散できると、ついさっきまで私を怒鳴っていたことなんかけろりと
忘れたように、「俺のジャージはどこだったっけ?」とか普通に聞いてくるの。信じら
れないでしょ。でも私は何とか機嫌を直してくれたことだけでもありがたいと思っ
て、差し障りの無いように対応したわ。
もちろんストレスは溜まったわよ。私の場合、実家が近くにあったのが幸いした
わ。外出する度に実家に寄っては、母さんや父さんに愚痴を聞いてもらってた。…
え?なんで別れなかったかって?そうねえ、なんでかしら。私が別れたいなんて言い
出したらあの人は激昂するに決まってる、そう思っていたからかもしれない。それ
に、あの人自身はどうしようもない人だったけれど、お義母さんやお義父さんはとっ
てもいい方たちだった。普通、姑さんって嫁に厳しいものでしょ。でもお義母さんは
全然そんなことなくて、あの子みたいに偏屈な人間のお嫁さんになってくれて本当に
ありがとねって、同情さえしてくれたわ。そうね、そんな優しいお義母さんを悲しま
せたくなかったからって言うのも、あったかもしれないわね。
それにね、あなたが2歳くらいになったあたりからあの人が私を怒鳴ることは滅多
に無くなったの。そう、あの人は小夜のことが大好きだからね。小夜がいさえすれば
あの人は機嫌が良かった。小夜のためにたくさん絵本を買いこんできては読み聞かせ
て、小夜が笑うとそれはそれは楽しそうに微笑んで。私にはそんな表情、一切見せて
くれたことなんかなかったのにね。
あの人は、そうね、客観的に見たら良い子育ての仕方をしてくれたと思うわ。あの
人のお陰で小夜は、もちろん由衣もだけど、真面目な良い子に育ってくれた。私は頭
が良くないから、あの人がいなかったらあなたたちをこんな風に育てることはできな
かったと思うわ。うん、そう、私は伴侶には恵まれなかったけど、子どもにはとって
もとっても恵まれていると思ってる。その点だけはあの人に感謝しないといけないわ
ね、皮肉なことだけど。
あの人はもちろん小夜のことも由衣のことも大事にしていたけれど、一番のお気に
入りはやっぱり小夜だったわ。あなたは初めての子どもだったってこともあるし、あ
の人に似て頭が良かったから。……自分の娘にお世辞を言ってどうするのよ。小夜は
私なんかよりずっと賢い子よ。
あなたもお父さん子だったし、反抗期ってものがなかったでしょ。中学生になって
も高校生になってもあの人と仲良く出掛けたり、お喋りしたり。こんな幸せな父親ほ
かにいないわよ。由衣は中学2年になったあたりからあの人とは距離を置くように
なったけど、それが普通よね。
小夜が地元を離れてからは、小夜との電話があの人にとっての何よりの楽しみだっ
たみたい。ほら、あの人、新書をよく読むし、歴史とか政治とか小難しいことが好き
じゃない。私や由衣はそういう話についていけないから、喋り相手がいなくなっ
ちゃって寂しかったんでしょうね。そりゃあ土日の夜はにこにこしながら話してたわ
よ。「家族内通話が無料ってのは素晴らしいなあ」ってよく言ってた。
小夜が帰省する日が近づいてくるとね、目に見えてあの人の機嫌が良くなってくる
の。あと何日で小夜が帰ってくるなあって、一週間くらい前から言い始めるんだか
ら。それで小夜のためにおすすめの本なんかもばっちり準備して。小夜が実家にいる
間、あの人はずっとご機嫌なの。まあ、見ていれば分かったと思うけど。
…そんなに小夜のことを溺愛していたあの人が、人が変わったようにあなたを怒鳴
りつけるんだもの、びっくりしたわ。うん、そう、確かに驚いたけどその理由はすぐ
に分かったわ。
◇
小夜の表情に差す陰が、どんどん濃くなってくる。きっと小夜もあの人が豹変した
理由の見当はついているに違いない。この子は利口だもの、それくらいちょっと考え
たら察しがつくわよね。そして、あまりに身勝手なその理由に胸を痛めているので
しょうね。実際何度もあの人に怒鳴られてきたから、小夜の気持ちは手に取るように
分かる。でも、そんな小夜の力になってあげられない自分が情けないわ。
「お母さん、話を遮ってしまって悪いけど、その理由、私に説明させてくれないか
な?…答え合わせの意味も含めて」
小夜は俯いていた顔をまっすぐ前に向けた。辛いでしょう。目を見たらすぐに分か
る。今にも溢れだしそうなほどに満々と涙を湛えているんだもの。心臓をぎゅっと握
りつぶされるような心地って、こういうことを言うのかしら。
「…いいわよ。話してみて」
おそらく自分の気持ちを鎮めるためなのでしょうね、小夜は敢えて淡々と話しだし
た。一文一文が私の思いと次々重なっていく。気がつくと、小夜は目を瞑っていた。
ええ、きっとあなたは自分が口にしている言葉を本当は信じたくないのよね。その苦
痛に必死で耐えているのよね。そこまで分かっているのに、頷くことしかできないの
がもどかしい。肝心な時に支えになってやれない母親で、ごめんなさいね。
◇
「…そうね、まったく小夜の言う通りだと思うわ」
初めのうちは、それでも父を信じていたいという浅はかな期待が私の思考を妨げて
いた。しかしその壁を取り払うと、答えへの道筋が実に明瞭に見えてくるのだった。
数学の応用問題において、根本的な見方を変えた途端、面白いくらいスムーズに解答
に辿り着けることがある。それと似た感覚だった。しかしその答えは、これまで見え
ていなかった苛酷な事実を私に突きつけてくるものでもあった。
いくらなんでも考えすぎだよ、という人もいるだろう。しかし私はそれ以上に説得
力を持つ答えを見つけ出すことができなかった。自分は真実に限りなく近づいている
という確信を持つ一方、やはりこれは詭弁なのではないかという不安が雨雲のように
たちこめているのも確かだった。
他の人も自分と同じ考えを持っているという事実は、人を安心させる。それによっ
て得られる安心感が、自信のなさの裏返しに過ぎない薄っぺらなものだと分かってい
ても他人に承認を求めてしまう弱さが、私にはある。
だから母のその一言が、私の心の揺らぎを止めた。母は私の言葉を反芻しているの
か、何度も何度も頷いている。やがてその口から深いため息が漏れた。今にも泣きそ
うな目をしているくせに、口元だけは確かに笑っていた。
「だから私、今ならお母さんの気持ちがようく分かる。何度も言うけど、これまで気
付いてあげられなくて、本当にすまないと思う」
「いいの、いいの。分かってくれただけで充分よ」
母はそう言ってかぶりを振った。そして申し訳なさそうな口調で続けた。顔こそ歪
んでいたものの、その口は淀みなく動いていた。今まで溜め込んできた忌まわしい出
来事の数々を吐き捨て、少しでも心を軽くしようとしているようだった。
◇
小夜を嫌な気分にさせてしまうかもしれないけれど、言っていいかしら?…ありが
とう。そう、あの人はそういう人間なのよ。気分屋で、自分勝手で、人の気持ちなん
か一切考えないんだから。
あの人、車の免許持ってないでしょ。だから私が時折迎えに行くわけじゃない。そ
う、遅い時は11時近くになることもある。私だって、一日中家事をして、疲れて、
お風呂に入って、洗濯物を干し終わって、くたくたよ。でも、あの人から連絡を受け
たらちゃんと迎えに行くわ。だっていくらなんでも駅から家まで、あの距離を歩かせ
るのはかわいそうだもの。
それでね、私に「こんな遅くに迎えに来てくれてありがとう」とかなんとか、一言
でも言ってくれたら、私も疲れてる中頑張ってきた甲斐があるってものだけど、あの
人は絶対そんなこと言わないの。そりゃあ、あの人が一生懸命働いてるのは承知して
るわよ。でも、少しくらい私の労をねぎらってくれたっていいじゃない。それが、
むっつり黙りこんでいるか、機嫌のいい時は鼻歌を歌ってたりするのよ。
私は、あの人にとって家政婦でしかないのね。自分のために働いてくれさえすれば
いい、そしてそうしてもらうのが当たり前だと思ってる。…ふう、改めて考えると私
の人生って一体何だったのかって考えちゃうわ。今更こんなこと言っても仕方ないの
は分かっているんだけどね。
由衣が生まれたときのこと、知ってる?陣痛が始まったのは夜の8時過ぎだった
わ。あの人はまだ職場にいたから、電話を掛けたの。そしたら普通、駆けつけてくる
のが夫ってものでしょう?それが違ったのよ。あの人は自分の仕事を優先して、何も
してくれなかった。仕方ないから兄さんに頼んで病院に送ってもらったわ。そう、そ
のときまだ1歳ちょっとだったあなたを預かってくれていたのはお義母さんとお義父
さんだった。
結局無事出産が済んだのが夜中の12時を少し回ったあたりだったかしら。他の妊
婦さんには旦那さんが寄り添っているのに、私はひとりで由衣を産んだのよ。寂し
いっていうより、もう諦めたって感じだったけど。病室に戻ってから家に電話をかけ
たわ。無事生まれたわよって。でもあの人は喜ぶでも私をねぎらうでもなく、ただ
「そうか」って言うだけで。お義母さんたちに連絡さえせずに、そのまま寝ちゃった
のよ。確かに仕事が立て込んでいてご機嫌斜めだったのは分かるけど、だからって冷
たいにもほどがあるでしょ?さすがに翌日は病室に顔を見せに来たけど、「仕事があ
るから」ってさっさと帰っちゃうし。信じられないわよね。でも、そういう人なの。
仕方ないの。
これだけ長く一緒にいるとね、すぐ分かるのよ、あ、今日は機嫌が良いな、今日は
機嫌が悪いなっていうのがね。でも、何をきっかけに急に機嫌が悪くなるかってこと
は分からないのよ。いつ地雷を踏んでしまうか分からない、だから私はあの人の顔色
ばかり気にしてこれまで過ごしてきたわ。毎日が冷や冷やものなの。だって下手なこ
とをしてあんな怒声を浴びるのは勘弁だもの。
…ああ、ごめんなさいね。こんな話ばかりして。せっかく小夜の顔を見ることがで
きたっていうのに。嫌なことばかり聞かせてしまったわね。…ありがとう。うん、う
ん、そうね。前向きに考えなきゃね。
そろそろお昼を食べに行かない?この前小夜が連れて行ってくれたレストラン、今
日もやってるかしら?あのお店の味が忘れられなくて。ごめんなさい、わがまま言っ
てしまって。うん、じゃあ、美味しいもの食べて気分転換しましょう。ごはんはちゃ
んと食べてるのよね?そう、それなら良かった。じゃあ、行きましょ。長い話に付き
合わせてしまって、悪かったわね。
***
今回は和江だけが名古屋に赴くことになった。よって、私が君に伝えたいことはこ
うして文章として表わすことにする。 病気療養中の君に対して厳しい言葉を突き付けるなど、非常識であるというのが大
方の意見であろう。しかし私があれだけ感情を昂ぶらせることがあるということは
知っておいてほしい。それだけ君に社会の厳しさというものを伝えたかったのだ。 君の態度には甘えがある。責任をまわりに押し付けて、他人の迷惑を考えない器の
小ささを感じる。最初のうちは病気なのだから仕方がないと鷹揚に接していたが、さ
すがに堪忍袋の緒が切れた。たとえ病気療養中であるとしても、君の言動には目に余
るものがあった。それが何であるかは敢えてここでは記さない。自分の胸に手をあて
て、よく考えてみることだ。君ならきっと分かることだろう。 僕は何よりも君の早期復帰を願っている。しかし事がうまく運ばない可能性もある
だろう。そうなってしまった時、それを親のせいにしてはいけない。自分で選んだ道
だ、責任は君自身がとるべきである。たとえ今の職場を離れることになっても、君な
らば他に活躍の場を見つけられるであろうと信じている。 何度も言う。社会をなめてはいけない。何かに寄りかからなければ立っていられな
い人間を受け入れてくれるほど、世の中は甘くない。社会人として君が真の自立を果
たせることを、心から願う。 千田俊典 千田小夜様 ***
「はじめは、父に返事を書こうと思いました。あなたはそう思っているかもしれない
けれど、残念ながら私はこう考えている、と。でも、ちょっと考えてみたんです。
私が自分の思いを必死に文字にしたところで、私の本意が父に届くのか、と」
ええ、それは非常に冷静な判断だと思います。彼女はこれまで、長年持ち続けてき
た良き父親像と、今回の父親の身勝手な振る舞いとの乖離に混乱していました。しか
しどうやら、彼女の心の中で何らかの決着がついたようです。
先程彼女は言いました。『私は以前指摘されたように怒りという感情をほとんど
持っていなかったけれども、今回初めて、これが怒りというものか、と実感しまし
た』と。
ここまで頭の整理をつけるのはそれはそれは大変だったことでしょう。多くの苦し
みや虚しさが彼女を襲ったに違いありません。そしてそれは、これからしばらく止む
ことがないでしょう。ただし彼女は進む方向を間違えてはいません。惨い現実から目
を背けなかった彼女に、私は拍手を送ります。
「それで、どういう結論に達したのですか」
「…恐らく届かないであろう、そう思いました」
その通りです。彼女が渾身の力を振り絞って文章を練り上げたところで、それは彼
女の父親にはまったく意味不明のものとしか映らないでしょう。そのようなタイプの
人間は、自分が正しいと信じたこと以外、理解することができないのです。
「ひとつ提案があります」
「…はい、どういったものでしょう?」
私がそれを口にすると、彼女はぱあっと目を見開きました。桜の開花シーンを早送
りするかのようでした。どうやら気に入ってもらえたようです。彼女の頬が緩むのを
久々に見ました。私としても、喜ばしい限りです。
「心の整理が完全につくまで、また、体調が万全になるまでにはまだまだ時間が必要
です。しかし大きな山は乗り越えました。あとは焦らず、回復を待つことにしま
しょう」
彼女は大きく頷きました。時間はかかるにしろ、この様子ならきっと大丈夫でしょ
う。
「ありがとうございました。…失礼します」
いつものように一礼して、彼女は診察室を後にしました。大きな音を立てないよ
う、慎重にドアを閉めるしぐさも普段どおりです。これから先彼女が幸せな人生を送
れることを、私は心から願いました。
***
いつもはしっかり者のくせに、彼は時折思い出したように粗忽な一面を見せる。も
ちろん、そういう隙が茶目っ気という良いアクセントになっていることは否定しな
い。というより、それも彼の美点の一つであると私は思っている。完璧さが時に嫌味
や抑圧感を醸し出してしまうのは世の習いである。
しかし「じゃあまたね!」と手を振ってここを出ていったのはわずか3分前だ。再
び呼び鈴を鳴らすには、少しばかりインターバルが短すぎはしないか。『また』とい
うのが3分後を指すのが一般的だとする。ならばこの語句を用いることができる人間
は現在地から最長でも片道1分半の所に自宅がなければならない。言葉の汎用性をみ
だりに制限するのは、言語に対する冒瀆ではなかろうか。
とにかく、ドアスコープの向こうに見えるのが照くんであることに変わりはない。
早く開けてくれと言わんばかりにしきりと足踏みを繰り返している。外は寒い。日本
語を粗末に扱った罰として、しばらくそのままにしておくのも一興かもしれない。
そんなことを考えているとドアががしゃがしゃと不吉な音を立てた。どうやら力任
せにドアノブを捻っているらしい。このまま破損されてはかなわない。余計な出費は
私の意に反する。
「忘れ物しちゃってさあ、いや、早く気付いて良かった」
私としては良くも悪くもないのだが。とりあえず、早くその忘れ物とやらを取りに
靴を脱いではどうか。言ってすぐ分かるものであれば私が探して持ってきても構わな
いけれども。
しかし彼は靴紐をほどくでもなく、忘れ物の正体を口にするでもなく、肩に提げた
キャンバス地のトートバッグをまさぐっている。着替えやらDVDやら文庫本やらが
雑然と放り込まれたそれは、いつも妙な形に膨らんでいる。
「これこれ!これを渡すの忘れてたんだよ!」
忘れ物って、そういう意味の忘れ物か。…と、呆れている場合ではない。彼の掲げ
るそれは、某有名デパートの紙袋ではないか?もちろん紙袋だけが力なく垂れ下がっ
ているのではなく、中に何かが入っているのは明らかである。
「じゃあ、今度こそ本当に、またね!」
彼は半ば乱暴にその紙袋を私に押し付けると、逃げるように去って行ってしまっ
た。これは、もしかして。期待感が私の胸をくすぐる。抱きかかえるようにして部屋
に戻り、クッションの上に腰を下ろす。トートバッグの中でもみくちゃにされたので
あろう、紙袋には多少のしわが見てとれた。しかしあのデパートの紙袋であることに
間違いはない。
「もう、無駄に遊び心に富んでるんだから…」
込み上げてくる笑いを隠しきれない。独りごつことで必死に照れ隠しをしている自
分がまた恥ずかしい。見ている人など誰もいないのに。
紙袋の口を閉じているテープを慎重に剥がす。よし、成功。思わずごくりと唾を呑
み込んだ。はてさて、中身は何であろう。それなりに重量感があったから、マフラー
や手袋などの衣料品ではなさそうだ。香水か?ジュエリーボックスか?ざわつく心を
必死で制しながら、私はゆっくり口を開け、中を覗き込んだ。
変に期待してしまうから人は落胆する。未来を控えめに見積もれば、受けるショッ
クは小さくなる。リスクヘッジの観点からすれば、常に最悪の場合を想定することが
賢い生き方だ。そう言ったのは誰だったか。そうだ、照くんだ。なるほど、その通り
だ。しかしそれを実践に移してまで私に叩き込んでほしいと頼んだ覚えはない。
「あああ、もう、奴め……、人を弄びやがって!!」
紙袋の中では私が彼に貸していた文庫本が3冊、行儀良く並んでいた。
◇
ジーンズの右ポケットに震動を感じた。小夜からのメールだ。思ったより早いな、
そう思いながら受信ボックスを開いた。
20□△/02/17 19:37 From 千田 小夜 Sub 副島氏Σ(`­皿­´=)!!! ちょっと照くん!なかなかふざけた真似してくれるじゃん!! 遊び心満載にも程があるわwwww 無駄に凝りやがって(`>Д<´;)!! 泣いていいんだか笑っていいんだか分かんないしwww …でも、まあ、ありがとね。 あなたらしさが存分に発揮されておりましたわ(´・
v・`*)/ いつか仕返ししてやるから笑← ―END― 良かった、ちゃんと気付いたみたいだ。困ったように笑う小夜の顔が目に浮かぶ。
地下鉄の窓に、にやけた自分の顔が映っていた。
しかし小夜、なめてもらっては困るな。俺は惰眠を貪ることの次に人を驚かすのが
好きな人間なんだぜ。返信メールを打ち始める。口角がさらに上がってしまう。まわ
りの訝しむような視線を感じる。しかし俺の表情筋は、そんなものなど意に介さない
だけの図太さを有していた。
◇
奴はいったい何重の罠を仕掛ければ気が済むのだろう。文庫本のうち一冊だけが妙
な厚みを持っているなと開いてみて驚いたのも束の間、次はこう来たか。今度顔を合
わせたときは脚本家にでも転職することを本気で勧めてやろう。私は藍色の可愛らし
い小箱と、それに似合うだけの風格を纏ったその中身を目の前にして決意した。
◇
20□△/02/17 19:43 To 千田 小夜 Sub ふふふふふ(`­ω­´)b☆★☆ 何を隠そう、俺は幼稚園児の時分から『悪戯の天才』の名をほしいままにしてきたん
だよ?あれれ、いつだったか言わなかったっけー?? そうだ、お節介をひとつだけ。クローゼットの中をそろそろ整理した方がいいぜ?う
ん、それこそ今すぐにでもやったほうがいいな。そんな予感がする。俺は勘が良い男
だからな、素直に聞き入れた方が身の為だと思うなあ… ま、面倒だったらしなくてもいいけどねー(´­∀­`)ノ ―END―
◇
小夜へ とりあえずこの紙を発見してくれてありがとな!まあ、小夜の観察眼をもってすれ
ば、これくらい大したことではなかったと思うけどな笑 そして誕生日おめでと!いよいよ二十歳だな。ぜひぜひ盃を交わそうではないか! もしかして俺が小夜の誕生日を忘れていたとでも思ったか?もしそうなら見くびら
れたものだなあ。いくらなんでも彼女の誕生日を忘れるほど無粋な男じゃないぜ。小
夜は遠慮がちなところがあるからな、自分からは何も言いださなかった。ま、これを
書いている時点での話だけど。 それにしてもこの数カ月間は目まぐるしかったな。何だか10年間に起きるべき厄
災や幸い(こんな風に言ったらまだ病気の治っていない小夜は怒るかもしれないけど
さ)がいっぺんに訪れてきた感じだ。ちょっと神様が手違いを起こしたとしか思えな
いレベルだわwww でも俺は、この数カ月間が俺の人生の中ですごく重要な意味を
持つことになると確信してる。結果オーライってわけじゃないけどさ、今、俺はとて
も幸せだ。理由は言うまでもないよな、小夜に出会えたからだよ(文字にするとやっ
ぱり恥ずかしいものだな)。 もしかしたら俺は小夜にとって厄病神なのかもしれない。なにしろ俺らが付きあい
始めてから、怒涛の勢いで色んな出来事が小夜に降りかかってきたんだからなwww
でもさ、ちょっと見方を変えたら俺は厄病神じゃなくて救世主ってことになるぜ?
傲慢に過ぎる言い方だけどな。小夜にたくさんの厄介事が降りかかってくるのを察知
した誰かさんが、俺を小夜のところに寄越したって考えたらどうだ?ほら、何事もプ
ラス思考って大事だからさ。ちょっとカッコつけた言い方になっちゃうけど、俺は小
夜の窮地を救うために、そしてその先もずっと君と一緒にいるために、このタイミン
グで小夜と出会ったと思ってる。神様もなかなか粋な計らいをしてくれるじゃんか。
さっき手違いを起こしたとか書いちゃったけど、結局はバランスをとってくれたん
じゃないかな。 二十歳っていうのは、良い節目だと思う。小夜の第二の人生のスタート地点として
は最適なんじゃないかな。そしてその人生には俺という伴走者がいる。というか、い
させてくれ。この誕生日はさ、ただ二十歳を迎えたってだけではなくて、同時に新し
い小夜が生まれた日でもあるんじゃないかな。スタートラインは引き直せるものだと
俺は思ってるぜ。 なんか偉そうなことばっか書き連ねちまったな。まあいいや、書き直すの面倒だ
し。…ってのは冗談だけど、ここまで書いてきたのは全部本音だから。確かに俺の一
番好きな諺は「嘘も方便」だけど(笑)、こういう大事な場面で嘘をつけるほど心臓
に毛が生えた人間じゃないもんでね。 ええと、まあ、とにかく、俺が言いたいことはこのふたつだ。一つ目は「誕生日お
めでとう」。二つ目は「小夜の第二の人生のはじまりを心から祝福します」。​
…​
あ!
やべ!もうひとつ大事なこと忘れてた!!てかこれが一番言いたいことだった! 「これからもずっとずっと、いっしょにいよう」。 …ぎりぎりで思い出せて良かったわ。ほら、灯台もと暗しっていうじゃん?身近な
ことほど見落としがちなんだよな。いつもいつも自然に思ってたことだから逆に忘れ
かけてた。ん?諺の意味とちょっとずれてるか?まあ、小さいことは気にしないこと
にしよう。 思いつくままに書いていったら滅茶苦茶な手紙になっちまったな。しかし小夜なら
俺の本意を汲み取ってくれると固く信じてるぜ!…こんないい加減な俺だけど、これ
からもよろしくな。 副島 照幸 ◇
ネックレスを人から贈られたのはこれが初めてだった。誕生石であるアメジストが
中央に鎮座している。左右それぞれにピンクゴールドとピンクダイヤを従えること
で、その奥ゆかしい輝きは一層深みを増している。脇役たちはどちらも、桜の花に模
されることで独特の色合いを存分に活かしていた。
アメジストは私、そしてピンクゴールドとピンクダイヤは、新たな人生の門出を祝
福する桜。こんな想像はロマンチシズムが過ぎるだろうか。
彼がどこまで思いを巡らせてこのプレゼントを選んだかは分からない。しかしこの
想像が当たっていようといまいと、彼はきっとこう答えるだろう。
「さすがの想像力だ!やっぱり俺が見込んだだけのことはあるな!!」
そして『本当に―?』と大袈裟に訝しんでみせる私に、彼はやさしい抱擁で無言の
返事をするだろう。
ネックレスひとつでここまで恍惚となれる私は、きっと、幸せ者に違いない。
◇
20□△/02/17 20:09 To 千田 小夜 Sub 無題 そういえばひとつ謝らなきゃな(´・ω・`;) 小夜が寝てる間に勝手にクローゼットを開けちまってすまんかったm(_ _)m 他にいい隠し場所が見つからなくてさあ… ……大丈夫!クローゼットの片隅に、だいぶ前に俺があげて、でも台風のとき折れ
ちゃって使い物にならんはずの例の折り畳み傘が大事そうにしまわれていることなん
て全然知らないから!ぷふふ(^3^)=☆ ―END― ***
前略 私は今から、とてもとても長い手紙を書きます。自分の胸の奥に手を突っ込ん
で、その中身を必死に文字にしようと思います。ただ、非常に残念なことに、私がど
れだけ腐心しても、私の思いはあなたには届かないでしょう。ですから、この手紙は
確かにあなたに宛てて書くものですが、あなたの為に書くものではないことをはじめ
に断っておきます。この手紙にあなたが目を通す日は恐らく訪れないでしょう。手紙
が本来の役割を果たせないと思うと虚しいですが、それでもペンを進めます。なぜな
らこれは、私自身の為に、私がこれから生きていくために、書くものだからです。 私はこれまで、あなたのことを心から尊敬し、愛し、慕ってきました。あなたの教
養の高さ、一社会人としての生き様、なにより父親としての私に対する愛情の深さに
感服していたからです。 あなたは私に様々なことを教えてくれました。それは読書の楽しみであったり、学
ぶことの面白さであったり、自然と触れ合うことで感じられる新鮮さであったりしま
した。今の私があるのはあなたのおかげです。その点については、心から感謝しなけ
ればなりません。 しかし私が病を患ってからの一連のできごとが、私の心境を大きく変えました。 単刀直入に言います。今、私は、あなたのことをまったく信頼していません。これ
まで抱いてきた敬愛の念は、消え去ってしまいました。私がこのような思いを持つに
至った経緯を説明します。 私の上司との面会が決まった日、あなたは私に電話を掛けてきました。あなたは激
昂していました。私ははっきり言って、あなたの言動の理由がさっぱり分かりません
でした。また、話の内容も滅茶苦茶で、ただ感情に任せて思いつくままに罵声を浴び
せているようにしか思えませんでした。 面会を終えたあとのあなたの行動も不可解極まりないものでした。あなたはあなた
自身の体面を保つためだけに行動を起こそうとしたのです。私のことなどあなたの眼
中にはなかったのです。信じられませんでした。一体何があなたを豹変させたのか、
皆目見当がつきませんでした。 私は考えました。嫌な記憶を何度も何度も掘り起こしては、原因を探ろうとしまし
た。そして私は、ある結論に達したのです。それは今までの私の認識を180度変えるも
のでした。また、それはこれまでの私の人生の意味を問い直すものでもありました。
順序立てて、説明します。 まず第一に、あなたは非常に自分勝手な人間で、自分の仕事や体面のためなら家族
のことなど省みない冷酷な人間です。これが大前提です。 だからあなたは自分が溜め込んだストレスを発散するためには手段を選びませんで
した。私が生まれる前、あなたは母を罵ることで自分のストレスを発散させていまし
た。あなたはなまじ頭が良いだけに、一見正論に見える屁理屈を練り上げることなど
造作もないことだったのでしょう。それに加えてあなたには威圧的な声という武器が
あった。母はただ、あなたの理不尽な怒声に耐え続けるしかなかったのです。 しかし、ストレスを発散するために人に当たるという方法はしばしば虚しさを残す
ものです。どうしても完璧にストレスを拭い取ることはできない。そこであなたはも
うひとつのストレス発散の方法を思いついたのです。 愛玩動物は、飼い主の心を癒してくれるものです。あなたは、自分の娘、つまり私
を自分好みの従順なペットに育て上げることで、ストレスのはけ口としました。あな
たは知的で、教養があり、また自分と同じ趣味を持つ娘を欲しました。そして何より
も重要なのは、その娘があなたに帰依することでした。 あなたは私をそれはそれは大切に育て上げました。そのこと自体はなんら責められ
るものではありません。自分好みの子供に育て上げるということは、よく言えば明確
な教育方針を持って子育てをする、ということですからね。しかしそのふたつは根本
的な部分を異にしています。それは子供に注がれた愛情が、子ども自身のためのもの
なのかどうかということです。確かにあなたは私に惜しみなく愛情を注いでくれまし
た。しかしそれは、私をあなた好みのペットに仕立てるための歪んだ自己愛でしかな
かったのです。 あなたは私が傍にいる限りご機嫌でした。ご自慢のペットがそれはそれは誇らし
かったでしょうね。しかし私があなた好みのペットでなくなる時がやってきました。 私はあなたにふたつの反抗をしました。 ひとつめは実家に戻ってくるよう促されたとき、一度は了解しながらも後になって
それを撤回したこと。 ふたつめは「忘れてくれ」と言っていたあなたの女性問題について、私自身に対す
る謝罪を求めたことです。 これらの出来事を通じて、あなたは私がもう従順なペットではないことを悟りまし
た。私があなたの理想の娘でなくなった途端、私はあなたにとってモノ同然になりま
した。そんなモノ同然の私などのために、私の上司との面会という形であなたの貴重
な時間が削られることになりました。あなたのプライドは傷ついたことでしょう。そ
れに加えて、そのときあなたは仕事が立て込んでいる状態でした。そのために、ただ
でさえ募りに募っていたあなたの苛々が爆発したのです。 その結果が例の私を罵る電話であり、面会後の信じられないような対応です。 説明は以上です。もちろんあなたは反論するでしょう。今まで大事に育ててもらっ
た恩を仇で返すつもりかと。一度怒鳴られたくらいでへそを曲げて詭弁を振るうとは
何事かと。しかし私はあなたに何と言われようとこの考えを改めるつもりはありませ
ん。 今まで私はあなたの言うことはすべて正しいと思いこんできました。女性問題が発
覚したときでさえ、あなたへの敬愛の念は消えませんでした。しかし私は気が付いた
のです。私はあなたにとってストレス発散のための道具でしかなかったことに。私は
ずっとあなたを妄信し続けていたということに。 知らぬが仏とは言いますが、私は今回あなたの本性を知ることができて良かったと
思っています。確かにこの事実に気が付かなければ、私とあなたの良好な関係は続い
ていたことでしょう。しかしそこにあるのはかりそめの幸せです。根底にあるのは欺
瞞に満ちた腐った愛情です。それを真の愛情と誤解し続けるのは苦痛でしかありませ
ん。 今までの私の人生はいったい何だったのだろうという思いに駆られることもありま
す。私はあなたの掌で転がされていることに気付かずに、ここまでやって来てしまっ
たのです。しかし、過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。私の真の人生はここか
ら始まるのです。私はたった今から、あなたのためにではなく、自分のために生きて
いくのです。私はそういう宿命を背負っていた、今ではそう感じています。 あなたは私を身勝手な娘だと思うことでしょう。しかしこれは当然の帰結なので
す。なぜか。あなたが私に求めたものの中には知性と教養がありました。私があなた
の望みどおりにこれらを身に付けていけばいくほどに、私はあなたの本性に近づくこ
とになるのです。そしてあなたの本性に気が付いたが最後、私はあなたに従順な娘で
はなくなるでしょう。お分かりでしょうか。つまり、「知性と教養を備えた娘」と
「自分に従順な娘」は両立しえないのです。あなたの願いは最初から、そのような自
己矛盾をはらんでいたのです。 私は新たな人生を歩み出しますが、皮肉なことにその土壌となる知性や教養はあな
たに育んでもらったものです。これらがなければ私は立ち上がることすらできなかっ
たかもしれません。何度も言いますが本当に皮肉です。でも、だからこそ思うので
す。私は20年間美しい誤解をし続け、人間としての素地を養われてから本当の人生に
踏み出していく運命にあったのだと。これもまた、人生の形のひとつなのだろうと。 これまで長いことお世話になりました。これから先あなたと顔を合わせることはほ
とんどなくなるでしょうが、これもさだめのうちです。誤解のないように言っておき
ますが、私はもうあなたを怨んでなどいません。恨みや憎しみはこれからの私にとっ
て足かせにしかなりませんから。 いつかあなたを赦せる日が来るかもしれません、しかしそれは父親としてのあなた
を赦すという意味ではありません。あなたのような人間が世の中に存在するという事
実を受け容れるということです。 いずれにせよ、まだまだ時間が必要です。頭痛などの症状を無くすだけでも多くの
時間を要します。私は今さなぎの状態なのだと思うことにしています。焦らずに心身
の回復を待ち、慎重に羽化したいです。 読まれることのない手紙であると分かっていても、あまりに長文になると申し訳な
さを感じてしまいますね。このあたりでペンを置くこととします。私自身の心もだい
ぶ整理がついてきましたし。 最後に一言だけ。今までどうもありがとうございました。そして、さようなら。
草々 平成□年 2月 15日 千田 小夜 千田 俊典 様 ◆◆終章◆◆
立山課長には、本当にお世話になりました。末端の一職員である私のために手を尽
くして下さって心から感謝しています。受けたご恩を忘れずに、これからは少しずつ
仕事に体を慣らしながら、一生懸命職務を執行していきたいです。もちろん、二度と
こんなことが起こらないように体調管理を万全にすることも忘れません。本当にあり
がとうございました。そしてこんな私をこれからもよろしくお願いします。 ◇
山下先生の的確な診療のおかげで、とうとうここまで漕ぎつけることができまし
た。診察中に泣き崩れることも多かった私ですが、そんな私の話に熱心に耳を傾けて
くれ、いつも心強いお言葉をくださいました。私自身、こんなに長い期間一つの病を
患うというのは初めての経験で不安だらけでした。しかし、山下先生のおかげで多く
の山を乗り越えることができました。これまでの療養期間は、きっと後になって振り
返ったときに私の人生において重要な時間であったと感じられると思います。長い
間、お世話になりました。心より感謝いたします。ありがとうございました。 ◇
野木さんは患者のひとりに過ぎない私のことをいつもいつも気遣ってくださいまし
た。毎週薬を頂くたびに私の体調や心境について尋ねてくださって、本当にありがた
いことだったと感じています。野木さんの笑顔を見ると安心できました。きっと完治
する時が来ると強く信じることができました。これからは薬局に足を運ぶことはほと
んどなくなると思いますが(逆にそうでないと困りますね)、野木さんの優しさは決
して忘れません。長い間お世話になりました。ありがとうございました。 ***
小夜へ あれからもう一年が経ちました。月日が過ぎるのは早いものですね。大変な出来事
が立て続けに起こって、それはそれは目が回るようでした、 小夜に近況報告をしたいと思います。私は今、あの人とは離れて暮らしています。
といっても同じ市内ですけどね。由衣と二人での生活にも慣れてきました。由衣はデ
イサービスのヘルパーさんとして立派に働いていますよ。最近車の免許を取得したの
で行動範囲も一気に広がりました。母親としては少し心配な部分もありますが、あれ
だけ内気だった由衣が明るい顔で出かけていくのを見ると、こちらまで元気になりま
す。ただ、由衣にはもう少し料理の腕を上げてもらいたいなと思っているところで
す。あの子、どうしても卵焼きが作れなくて、いつも途中で炒り卵にしてしまうんで
す。 おばあちゃんも元気にしていますよ。時々はベッドから降りて、自分の足で歩ける
くらいですから。きっとおじいちゃんがおばあちゃんの病気をいっしょに天国に持っ
て行ってくれたんですね。確かにあの人とは別居状態ですけれど、おばあちゃんには
少なくとも週3回は顔を見せるようにしています。由衣も仕事のない日はおばあちゃ
んのところへ行って色々な話をしているようです。 そうそう、小夜はびっくりするかもしれないけれど、私は今、市が主催している手
芸サークルの講師をしているんですよ。若いころ習っていた洋裁が50歳を過ぎてか
ら役立つとは思いませんでした。いろいろな方とお話ししながら刺繍をしたり、パッ
チワークをしたりするのはとても楽しいです。次はぬいぐるみにチャレンジする予定
です。小夜にプレゼントしたいけれど、そんな子供っぽいものいらないって、言われ
ちゃうかもしれないわね。 それから、たびたび副島さんから私宛に手紙が送られてくるんです。律儀な方ね。
それを読んでは、本当に小夜はいい出会いをしたのだなあとうらやましくさえ思って
しまいます。由衣にもそんな素敵な人が現れるといいんですけどね。色々あったけれ
ど、やっぱり小夜は幸せ者だったと思います。こんな風に思えるまでにはやっぱり時
間が掛かりましたけどね。 返す返すも小夜の振り袖姿を見られなかったのが残念です。今年は由衣が成人式を
迎えました。ばっちりお化粧を決めて、髪をアップにして、おしゃれな髪飾りをつけ
て、そして私が約30年前に着た​
、​
黒地に牡丹の振袖を着つけてもらって。とっても
素敵でしたよ。小夜の分まで華やいでいるように見えました。 最後に。どれだけ離れていようと、私はいつでも小夜のことを大事に大事に思って
いますからね。 平成△年3月20日 母より ***
小夜、もうあれから一年が経つんだぜ。早いよなあ。いやあ、それにしても色々な
ことがあったよな。手の指と足の指を総動員しても数えきれないくらいだよ。半年に
も満たない期間だったけど、まるでジェットコースターにでも乗ってるような気分
だったよ。
でもその期間で俺はさ、本当にたくさんのことを小夜から学ぶことができたと思っ
ているよ。小夜は、確かに俺の前ではよく泣いてたけどさ、やっぱり強い人間だよ。
あんなに次々と大変な出来事に襲われたっていうのにさ、お前は自分を見失っていな
かった。なかなかできることじゃないぜ?普通あれだけのことに見舞われたらさ、自
暴自棄になっちゃうもんだろ。でも小夜は周囲に礼を尽くすのを忘れなかったし、何
かに八つ当たりするってことも無かった。本当に、大人だと思った。
小夜は療養中で自分のことでいっぱいいっぱいだっていうのに、周りの人たちに感
謝することを忘れなかった。自分自身は何の見返りも求めないけれども、受けた恩は
必ず返す。そんな小夜の姿は眩しいくらいだった。
俺は、ほら、面倒臭いことが嫌いだからさ、最低限のことだけしたら、あとは自分
の時間を貪っちゃうわけ。これほど他人に尽くせる人間を俺は小夜以外に知らない
な。
…小夜はいつも自分自身を過小評価してるよ。まあそれが謙虚っていう小夜の美点
のひとつにも繋がってるわけだけどね。もう少し自信を持ったって良かったんじゃな
いかなあ。
俺、小夜に出会ってから何度も新鮮な気分を味わってきたよ。こんなに素直で、真
面目で、優しくて、賢い人間がいるんだって、純粋に驚いた。小夜はいつも俺に新し
い視点をもたらしてくれた。お前に出会えたことで俺は人間としての奥行きをぐっと
増すことができたと思ってるよ。
…嘘じゃないぜ。いつも言ってるだろ、俺はお世辞を言えるほど器用な人間じゃな
いから。人生において運命的な出会いってやっぱりあるものだろ?それは親友だった
り、恩師だったり、人によって様々だけどさ。俺は小夜との出会いが運命的なもの
だったと信じてる。出会うべくして俺たちは出会ったんだよ。
…へへっ、なんかカッコつけた言い方しちまったな。まあ、ついでだからもっと
カッコつけてみよう。俺にとって小夜との出会いは神様からのプレゼントだったと
思ってるよ。俺の人生の中で最大のプレゼントだ。ふふふ、俺はきっと、…そうきっ
と、幸せ者なんだよ。ありがとうな、小夜。
***
【一年前】
約1か月半ぶりの名古屋は、ジャンパーが要らないほどにぽかぽかしていた。前回
はあの人の話ばっかりでなんだか辛気臭くなってしまったけれど、今日、それは最初
のうちだけで、あとは小夜と楽しいお喋りにふけることができた。小夜も始終にこに
ことしていて、恋人の話を楽しげに語っていた。小夜の頬が桜色に染まるのを見るの
はとても幸せだったわ。
「それにしてもやっぱり都会のレストランは違うわねえ」
小夜の暮らす宿舎からほど近いところにある洋食店で食事をするのは、名古屋を訪
れる際の私のひそかな楽しみだった。今日も例によってそこでランチを頂いた。訪れ
るたびに新しいメニューが加わっている、何度でも行きたいと思わせてくれるお気に
入りのお店。地元では決して見つけられない素敵な場所。
「お母さんが毎回そんなふうに満足してくれているのを見ると私も嬉しい」
私はこのあと地下鉄に乗って名古屋駅に行く。そして新幹線に乗って帰路につく。
短い時間ではあったけれど、小夜の元気な顔を見ることができて私は満足だった。も
う地下鉄の駅までの道は承知していたけど、小夜はそこまでは一緒に行くからとわざ
わざついて来てくれている。少しでも私といる時間を延ばそうとしているのね。その
優しさが胸にじんわりと沁み入ってくる。
「チキンのハーブ焼きは特に美味しかったわねえ。それにデザートのチーズケーキも
絶品だったわあ」
料理を思い浮かべるだけで、さっきの幸福感と高揚感が甦ってくる。完全におのぼ
りさんねえ、私。
「うん、それに前菜も凝ってたしね」
しかし小夜は、そんな私に嫌な顔一つせず相槌を打ってくれていた。まだ療養には
時間がかかるらしいけど、この子はきっと病を克服できるに違いないわ。小夜のまっ
すぐで丁寧な心遣いは、めぐりめぐってあの子自身に戻ってくるはず。それが小夜に
とって何よりの薬になる。そう。小夜、あなたは焦らなくて大丈夫よ。
◇
初めて動物園に連れて行ってもらったときのことを思い出す。確か私は幼稚園に上
がったばかりだった。園内を回っているときは言うも及ばず、帰りの電車内でも私の
興奮は収まるところを知らなかった。「ゾウさんはとってもおおきかったね」、「ウ
サギさんってあんなにふわふわしてるんだね」、「ライオンさんはおひるねしていた
のかな」、「キリンさんのしたべろ、すっごくながかった!」…何度も同じ話を繰り
返してはその時その時の胸の高鳴りを思い出して味わっていた。
私の一歩前を行く母を見て思う。今の彼女はあの頃の私とそっくりだ。充実感あふ
れる出来事は、勝手に人の口を動かす。そしてその出来事を言葉にすることで、思い
出の輪郭を縁取る。万全な記憶となったそれは、満足感とともに心にしまい込まれ
る。母は私とレストランで過ごしたあの時間を反芻することで、記憶を熟成させてい
るのだろう。
私はしばらく地元に戻るつもりはない。父の顔を見たくないからというのも勿論だ
が、新しい人生を踏み出すにあたり、今までよりかかっていたものから身を離して覚
悟を決める必要があると思うからだ。だから別に、母や妹が私に会いに来ることを拒
んだりはしない。それどころか大歓迎である。私が彼女たちをもてなす側として、で
きる限り楽しい時間を過ごせるよう思いを巡らすのは、とても楽しいし有意義なこと
だ。誰かの笑顔をつくり出すことで人の心は満たされ、自分自身もまた、笑顔にな
る。
父はこのところ、私を怒鳴ったことも、私の上司と面会したこともけろりと忘れた
ような顔をしているらしい。時々思い出したように「そういえば小夜はいつ頃を目処
にして病気を治すつもりなのかなあ」と呟くそうだ。母曰くそれは『まるで他人事の
ようにしか思ってないみたいな口調』であるらしい。私のことを勘当したくらいの気
でいてくれるのなら、こちらとしても願ったりかなったりだ。但し、心の奥底で私へ
の憎悪を密かに募らせている可能性も捨てきれない。何かのきっかけでまた爆発する
恐れもある。
しかし、あれこれ気を揉んでいても埒が明かない。私は今、目の前のことだけに集
中すべきだ。私の脳裏にふたつの場面が甦った。
祖父の葬儀から一週間が過ぎ、ベッドに横たわる祖母に別れと感謝の言葉を述べた
ときのことだ。『こちらこそ、小夜がいてくれて心強かったわ。ありがとうね』。祖
母は私の手を握った。想像以上の熱と力が伝わってきて、私は思わず目を見開いた。
そんな私をじっと見つめて、祖母はこう続けた。『あなたはもう、名古屋に戻ったら
自分のことだけ考えていればいいんだからね』。握力を上回る力強さで、その言葉は
私の胸をぎゅっと掴んだ。
父に電話で怒鳴られた翌日のことだ。夕飯を食べ終わり、私は照くんにすがりつく
ようにして泣いていた。どれだけ優しく背中を撫でられても、「大丈夫だよ」と繰り
返されても、肩の震えは止まらなかった。『あの人に言われたことなんか気にしちゃ
いけない、私は療養に専念すれば良いって、それは分かってる。でも、でも、じゃあ
私は何をすればいいの?どうすることが療養になるの?それが、全然、分からないん
だよ…』。苦しみの強さに比例して頭の芯が熱くなり、頬が強張ってくる。しかし彼
の一言が、私の身体から余計な力を抜き去ってくれた。波が静かに引いていくよう
だった。彼はその瞳にやさしい光を灯して、微笑みながらこう言ったのだ。『…何も
しなくていいんだよ。楽しいことだけ、考えていればいい』。
一瞬、酔いが回ったような感覚が私を襲った。はっと我に返る。私は恵まれた人間
に違いない、そんな幸福感が束の間アルコールの役割を果たしたのだろう。
前に目を向ける。母は依然として楽しげにレストランの話を続けていた。道路は緩
やかな左カーブに差し掛かったところだった。
◇
その自動車の運転手は、どうやら運転中に心筋梗塞を起こしていたらしかった。ア
クセルを踏む足が上げられることはなく、ぐんぐんスピードを増した車体はカーブを
曲がりきれず塀に激突した、ということらしい。
目の前で金属の塊がぐしゃぐしゃになっていくのを、私はただ呆然と見ていること
しかできなかった。知らないうちに唇がわなわなと震えていた。文字では表せないよ
うな叫び声をあげたところまでは覚えている。でもその後、私の記憶は一気に病室の
真っ白な天井まで飛ぶ。医師の沈痛な面持ちは覚えている。ただ、またしてもそこで
私の記憶は途切れる。
はっきりと思い出せるのは、不意に腕を掴まれたときの驚きと、そのまま後方へ投
げ出されるように引っ張られ、尻もちをついたときの衝撃と、小夜の小さな身体がブ
ロック塀へめり込まれていく地獄図。それだけ。
生活感がありありと残っている小夜の部屋へ足を踏み入れるのは勇気のいること
だったわ。小夜の持ち物に触れるたび、あの子がそれを使う様子が嫌でも目に浮かん
で私の胸を締めつけた。あの子の温もりや匂いを感じ取るほどに、悪い夢を見ている
だけのような気分になった。
便箋、一筆箋、封筒、そして切手。これらはまとめて紙袋に入れられていた。筆ま
めな小夜にとっては必需品だったのでしょうね。封筒と一筆箋は2種類、便箋に至っ
ては3種類もあったわ。それらはすべて使いかけだった。相手に応じて使い分けてい
たからなのでしょう。切手もただの普通切手ではなくて、記念切手が種類ごとに分け
て薄い袋に入れられていた。コンビニで切手が買えるご時世に、わざわざ郵便局まで
足を運んだ証拠だった。ありきたりな切手ではつまらない、せっかく送るのであれば
珍しい切手を使いたい。あの子はそう考えたのでしょう。こだわりにこだわって、あ
の子は懸命にペンを動かしていたのでしょうね。何よりも、相手に喜んでもらうため
に。
それは、どこかの書店名が印刷された厚手のビニール袋に入っていた。最初はもう
一種類封筒の束が出てきただけだと思った。でも違った。それらにはすべて宛名が書
かれ、封も済んだ状態だった。その中に私宛てのものを見つけて、思わずその場で封
を切った。そしてその手紙が意味するところを知るなり、涙が溢れて止まらなくなっ
た。
あの子はきっとこれらを書くことで完治した自分をイメージしていたのでしょう。
それが少しでも早い復帰に繋がると考えていたのかもしれない。もちろんそれが本来
の目的という訳ではなかったでしょうけど。小夜は何よりも伝えたくて堪らなかった
のでしょうね、お世話になった方々への感謝の気持ちを。
手紙は全部で5通あった。残り4通をそれぞれの方にお渡しすることが、私が小夜
のためにできる唯一のことだと思った。
***
仏間から聞こえる副島さんの声は、まだ続いていた。声が返ってこないと承知して
いながら遺影に向かって話しかけ続ける彼のことを思うと、胸が張り裂けそうだっ
た。
ネックレスのことを思い出す。あの日小夜が身に付けていたそれは、奇跡的にまっ
たく破損することなく、私の手元にやって来た。
「…あの日娘はレストランでこれを自慢げに見せてくれました。本当に本当に、幸せ
そうでした」
初めて彼と実際に顔を合わせたとき、私は手も声も震わせながらそのネックレスを
差し出した。彼はしばらく瞬きもせずに無表情で突っ立っていたが、その膝がかくん
と折れたかと思うと、部屋中の空気を震わせるほどの絶叫が私の耳をつんざいた。
その素敵な贈り物を首にさげて、頬をうっすら染めながらも誇らしげに微笑む小夜
の姿が、彼の脳裏に浮かんだに違いなかった。
気がつくと、私の頬まで濡れていた。彼の小夜に対する愛情の深さに、そしてそん
な彼を襲っているであろう大いなる悲しみに、私の涙腺はほどけてしまったらしかっ
た。
襖の向こうの声は、だんだん涙声に変わってきていた。思わず耳を塞いでしまいた
くなった。でもそれは小夜に失礼な気がして、私はただ目を瞑って震える心を何とか
落ち着かせようとした。
***
…なあ、そう言えば俺、お前に「俺のために生きてくれ!」って言ったことがあっ
たよな。ふう、今考えるとさ、なかなか傲慢な台詞だよな。ごめんな。でもあの時俺
は本気でそう思ってた。別にカッコつけようとしてあんなこと言ったわけじゃないか
ら。それくらい小夜は俺にとって大切な存在だったってことだよ。まあ、小夜ならこ
んなこといちいち説明しなくたって分かってるだろうけどさ。なあ、その罪滅ぼしっ
てわけじゃないけど、言わせてもらっていいかな。
…これからは、俺が、小夜のために生きるよ。
あの数カ月間で小夜が俺に教えてくれた沢山のことを忘れずに、俺は生きるよ。
「誰それの分まで生きる」っていう言い方、俺は好きじゃないんだ。何だかその人の
人生を自分が横取りしているような気になってしまうからさ。俺はあくまで、小夜の
ために生きる。小夜が俺に残してくれたものを失わずに生きていくことが、天国にい
るお前を悲しませない方法だと思ってるから。違ってたらごめんな。でも俺にはこれ
しか思いつかないんだ。ただの自己満足なのかもしれない。それでもいい。お前のた
めに俺は、できる限りのことをし続けるから。
何度も言うけど、俺は本当に小夜に会うことができて良かったと思ってる。そして
この思いは一生変わらない。心の底から、君に感謝している。
あ、もうひとつ、一生変わらないものがあったな。ほら、当たり前すぎることを俺
が忘れがちだってことは、よく知ってるだろ?また忘れるところだった。でもちゃん
と思い出したぜ。
…俺は、小夜のことをずっとずっと、愛してるよ。
***
この数カ月間を通して、私はお母さんのこれまでの苦しみをやっと理解することが
できました。時間がかかり過ぎてしまったことを謝ります。そして私のことを本当に
心の底から心配して、少しでも私の力になろうとしてくれたお母さんに、言葉では言
い表せないほど、感謝しています。私はお母さんの娘でよかった、そう思います。 これまでたくさん迷惑をかけてきてしまいました。しかしなんとか病を克服するこ
とができました。だからこれからはお母さんにいっぱい恩返しをしたいと思います。
大したことなどできないのは承知しています。でも、ほんの少しでもお母さんの力に
なりたいという気持ちは決して揺るぎません。 私は当分の間実家に戻りません。その点については非常に心苦しく思います。親不
孝者ですみません。でも、電話をかけたり手紙を書いたりはするつもりです。ただ、
実際に顔を合わせる機会は滅多に無くなるでしょう。お母さんが都会の空気を吸いた
くなったとき、こちらに来てくれたら幸いです。お母さん好みのレストランやカ
フェ、ケーキ屋さんを選んでおきますね。こちらまで来る手間と比べたら割に合わな
いのは承知ですが、少しでもお母さんをもてなしたいです。 お母さんの幸せを、私はいつも願っています。お母さんは今まで頑張りすぎていま
した。これからはお母さんはお母さん自身のために生きてください。生意気な言い方
かもしれないけれど、これは私の本心です。 私はお母さんのことが大好きです。本当に本当に、ありがとう。 ◇
あなたという存在がなければ、私は絶対にここまでたどり着けませんでした。あな
たがこれまで私に注いできてくれた愛情に、心から感謝します。ありがとう。 私はいったい何度あなたに窮地を救ってもらったことでしょう。会社でけいれんを
起こしたとき、父の言いなりになって地元に帰ろうとしてしまったとき、私が死のう
と思ってしまったとき、私が父から罵声を浴びせられて泣いてしまったとき、父が急
にこちらへ来ると言い出したことでパニックに陥ってしまったとき……たくさんの壁
を乗り越えることができたのは、あなたがいてくれたからこそでした。 あなたは私の誕生日にくれた手紙の中でこう言っていましたね。「俺は小夜の窮地
を救うために、そしてその先もずっと君と一緒にいるために、このタイミングで小夜
と出会ったと思っている」と。私も全く同じ意見です。私はこの窮地を乗り越えるた
めに、そしてこの先もあなたとずっと一緒にいるために、このタイミングであなたに
会ったのだと思っています。あなたが私と同じ気持ちでいてくれているのが分かっ
て、あの手紙を読んだときは小躍りしたいくらい嬉しかったです。 あなたにこれまで助けてもらってきた分、これからは私があなたのためにできる最
大限のことをしていきたいと思います。私なんかにできることは本当に限られている
けれど、少しでもあなたの幸せを増やしてあげられたら、と思います。 ここに至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。でも、だからこそ、
私はあなたの愛を知ることができたし、真の人生を踏み出すことができたのだと思い
ます。この期間は私の人生において一二を争うほどわたしにとって重要な時間だった
のだと思います。 これまで、私は真っ暗闇の中にいました。頭上に月はあったのでしょうが、それは
いつだって新月でした。だから私はその存在に気付くことができずにいました。で
も、あなたとの出会いがそれを変えました。あなたは、私にとっての太陽です。あな
たがいたから、私は月を見ることができました。そしてそれは形を変えながらも、決
して消えてしまうことはないと知りました。加えて、なによりも、あなたは私に朝と
いうものの存在を教えてくれました。今、私はまさに夜明けを迎えているのです。 …ここまで書いてきて初めて気が付きました。あなたからの誕生日プレゼントのこ
とです。ピンクゴールドとピンクダイヤは、私の新たな人生の門出を祝う桜を意味し
ていたのだと勝手に思っていましたが、一部訂正しなければならないようです。ピン
クダイヤの方には、私が初めて迎える日の出の意味も込められていたんですね。水平
線に顔をのぞかせた太陽の光が海に反射するさまが思い浮かびます。もちろんすべて
私の思い込みですが。考えすぎるのが私の悪い癖であることはあなたも重々承知の上
だと思います。でも、こんな想像を楽しむための思考であれば、それが少々行き過ぎ
たものであっても許されるような気がします。 話が飛んでしまい申し訳ないです。本題に戻りましょう。 あなたに出会えたことは、私にとって一生の財産です。何物にも代えがたい、尊い
尊い財産です。決してお金では手に入れることができない貴重な宝物です。私はそれ
を、一生大事にして歩み続けようと思います。 またしてもあなたの言葉を借りてしまって申し訳ないですが、本当に同じ気持ちな
のだから仕方ありません。最後に言わせて下さい。 「これからもずっとずっと、いっしょにいようね」。 私はあなたのことを心から愛し続けます。私を照らしてくれて、ありがとう。 ―完―